『新世紀エヴァンゲリオン』〜 longing for different future 〜
〜第2章〜『家族の輪郭』 第12話 『マグマの海を越えて』
ミサト邸のリビングに絶叫が迸った。
「えー! 修学旅行に行っちゃダメェェェェ!」
テーブルを掌で叩きアスカが叫ぶ。
その顔色は朱に染まり、驚きと怒りが入り混じったような、そんな表情をしていた。
「そ!」
鼻息の荒いアスカを横目に、美味しそうにビールを飲み下しながら、ミサトが平然と答える。
「何で、どうしてよ! 水着だっておニューにしたし、スキューバーダイビングだって...」
「何を言っても、ダメなものはダメェ〜」
「横暴よ! 何の権限があって、そんなこというのよ!」
腰に手を当て、ビシッ!とミサトに指を突きつけながら、アスカが叫ぶ。
「作戦司令部、作戦本部長の権限よん」
缶ビールを弄びながら、ニッコリと笑顔で答えるミサトに、プイっと横を向きながら、言葉を続ける。
「私の人権はどーなるのよ! 修学旅行も授業の一環。やってる事はいつもと同じじゃない!」
「却下。距離が違いすぎます」
「ヘリでも飛ばせば沖縄なんてあっという間よ!」
「却下。時間の無駄でしょ。本部で待機していたほうが早いわよ」
「こうなったら、ストライキよ、ストライキ!!」
「それも、却下。その間に使徒が現れたらどうするの」
アスカが反論するもミサトは相手にしない。
切り札とも言うべき『使徒襲来』を持ち出されては、アスカも続ける言葉が思い浮かばず、ムゥ〜と唸り声を上げるだけだった。
その隣では、真横の喧騒をよそに、シンジとレイが無表情にお茶を啜っている。
アスカにチラチラと見られているのが分かっていても、口を挟む気はなさそうだ。
「ムゥ〜〜」
再び唸り声を上げ、ミサトにジト目を送るが、当のミサトはカラカラとビール缶をゆすりながら、笑顔でアスカの視線を受け流している。
普通はここであきらめるのだが、まだ諦めないのがアスカである。再び、ミサトを陥落させるべく策を練るアスカだった。
全ての事の始まりは、リビングで四人揃って夕食を取っていた時のミサトの一言――『あっ、チルドレンは本部待機だから、修学旅行は行っちゃダメよん』が原因だった。
楽しい団欒の一時に、この降って沸いたような喧騒――数日前から、アスカが修学旅行の話を楽しそうに喋っていたのを、ミサトが知っていた事から、確信的にアスカが反発するのを分かっていて言ったのは間違いなかった。実際問題、チルドレンが揃っているのは、夕食時か授業中、もしくはネルフ本部の訓練中しかないのだから、仕方ないと言えばそれまでなのだが。
「ちょっと、アンタ達も何とか言ってやりなさいよ」
考えても答えが導き出せなかったのか、アスカは、のほほんとお茶を啜っているシンジに話を振る。
「...しょうがないんじゃないかな」
視線だけをアスカに向けると、シンジはポツリと呟く。
そのあまりの一言に、あっけに取られたように呆れ顔を見せるアスカ。
「じゃ、じゃあ、レイはどうなのよ」
そう言うと、視線をレイに向ける。
アスカとレイは、先のイスラフェル戦のユニゾン特訓以降、互いに名前で呼び合うようになっていた。
シンジにしてみると驚きだったが、2人が仲良くすることに全く依存は無い。いや、それどころか、自分のことのように嬉しかった。
「......命令には従うわ...」
再び呆れた表情を浮かべるが、何とか二人を説得し、協力を得なければ、ミサトを陥落させるのは難しいと判断したアスカはさらに食い下がる。
「あっきれた! 大体、いっつも命令、命令って、来るかどうかも判らない使徒の為に、貴重な青春の1ページを邪魔されて、アンタら何とも思わない訳?」
無表情で答える二人に、アスカが両手を左右に広げて力説する。本音を言えば『アンタらさっさと手伝いなさいよ』ってところだろう。
「だったらさ...アスカだけでも修学旅行に入ってきたら?」
「......私も別にかまわないわ」
「そんな事を言ってるんじゃないわよ!」
ダン! とテーブルを叩きながら叫ぶ。
「まぁまぁ、アスカも目くじら立てて怒んないでも...」
ミサトがビールの缶を手で弄びながらフォローを入れる。
「元はと言えばミサトのせいじゃない!」
ジト目でミサトを睨み付けるアスカ。
「あ...あははははは.........ハァ......」
乾いた笑いを上げ、密かに溜息を吐くミサト。が、すぐさま悪戯っぽい笑顔をアスカに向ける。
「まぁ、いい機会だからこの間に勉学に勤しんだらどう...アスカ♪」
「な、何のことかなぁ〜〜」
何の事を言われているかすぐに気付いたアスカは、思わず肩を震わせ、ミサトから視線を逸らしながら惚ける。
ミサトが空き缶をテーブルに置きながらアスカを軽く睨む。
「見せなきゃバレないなんて大間違いよ。あなた達の成績くらい筒抜けなんだから」
「ハ、ハン! 学校の試験が何よ。だいたい何で私にだけ言うのよ! バカレイやバカシンジに言うのが普通でしょ〜〜」
言いつつ、ジト目でシンジとレイを見る。
「あら、シンちゃんはそこそこやってるわよ。レイに関しては学年トップクラス...文句の付けようが無いわね」
ミサトは3人にそれぞれの名前が書かれたディスクを見せる。
アスカが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「さて、アスカはどうだったっけ?」
ミサトはニマー! と勝ち誇った笑みをアスカに見せた。
「くっ...」
言葉を詰まらせながらも、アスカが反論しようとしたその時、バンっと扉が開き、バスタオルを被ったペンペンがトコトコとリビングに入ってくる。
「クァァ?」
みんなに視線を集められ、ペンペンは不思議そうに首をかしげるのだった。
ドボンと水に何かを落とすような音が響いた。
ここはネルフ職員専用のプール。アスカ、レイ、シンジの三人の姿がそこにあった。先程の音はレイがプールに飛び込んだ音だ。
なぜ、三人がここに居るかと言うと、修学旅行にいけない事で、機嫌の悪かったアスカをなだめる為、ミサトが貸切りにしてくれたのである。
『アスカ、レイさん! お土産買って来るわね』
『みんな残念だったな〜』
『お前らの分も楽しんで来たるわ......ダハハハハハ......』
「...なんて言いながら楽しそうに行っちゃってさ...あ〜あ、ホントもうサイテーー」
クラスメイトの顔を思い浮かべ、水面に浮かびながらアスカが愚痴る。
「ま、今さら言ってもしょうがないんだけどさ......」
呟きつつアスカは残る二人を目で追いかける。
レイは隣のレーンで泳いでいる。
シンジはというと......プールサイドでSDATを聞きながら何かをしている。
アスカはザバッという音と共にプールから上がるとシンジに近づき声をかけた。
「なぁーにしてんのよ?」
SDATのイヤホンを外し、アスカを見るシンジ。
「......理科」
「ハァ? アンタは勉強しろなんて言われてないじゃない?」
「アスカは一人だと勉強なんかしないだろ...付き合いだよ」
「フ、フン! バッカじゃないの!」
そう言いつつも何故か嬉しそうに微笑んでいる。
「で、どんな問題?」
「今やってるのは......『熱膨張』......の問題だよ」
シンジがワザとらしく熱膨張を強調する。
「フーン。詰まるところ、物ってのは暖めれば膨らみ、冷やせば縮んで小さくなるってことじゃない」
「......へぇ、そうなんだ。すごいね、アスカ」
「はぁ? まったく、このくらい解りなさいよ!」
ジト目でシンジを見ていたアスカだったが、何かを思いついたのか顔を悪戯っぽくニヤけさせる。
「私の場合は胸だけ暖めれば少しは大きくなるのかな?」
水着の上から胸を触りながらシンジの顔を覘き見る。
「...そうかもね......試してみれば?」
既に同じことを何度も繰り返してきたシンジにとって、アスカが悪戯をしてくるくらいの事は予測済みであった。素知らぬ顔で、アスカを見ながら答えるのだった。
「...バ、バッカじゃないの? ほーんと、つまんないの...」
アスカは心を見透かされたようで、バツが悪そうに慌てて横を向く。
そのまま、プール際まで小走りに駆け寄る。
「ふぅぅぅぅ...」
アスカが走っていった事で、漸くシンジの表情が変わった。実は心臓がバクバクいっていて、いつアスカにばれるかとハラハラしていたのだった。
例え未来を知っていても、アスカが何を言ってくるのか分かっていても、びっくりするものはするのだ。どんなに繰り返しても、シンジはやはりシンジだった。
「シンジー見て見て! バックロールエントリー!」
シンジにそう叫ぶと、プールへダイブする。
「ハァ......」
アスカを見ながら、シンジは静かに溜息をついた。
浅間山火口上空でヘリがホバリングしている。
ヘリの下――火口直上ではクレーンが伸びており、そこから火口内に向けワイヤーを垂らしている。ワイヤーの先には四角い機械が取り付けられており、大きく平仮名で『はなみずき』とペイントされたその機械は、マグマの中にその身を浸すと、徐々に火山の体内へ侵入を開始していった。
「後、500降ろして......」
浅間山観測所で、その様子をモニターで見ながら、ミサトが言葉を発した。
元々、ここは地震等の予測を行われる為の観測所だったが、なぜ、この場所にネルフの、それもミサトのような幹部が着ているかと言うと、第7使徒らしき影が観測されたという情報を得たからであった。
「ほ、本当に、大丈夫なのかね...神谷君」
観測所の所長と思しき中年の男が、傍らの青年に恐る恐る尋ねている。
このような状況は観測所始まって以来の出来事であり、もともと、穏便に観測所所長の椅子におさまった身としては、このような状況など、思いがけない天災以外の何者でもなかったのだ。
「わが社が開発した耐熱板は、深度1500mには耐えられます。まだ大丈夫です」
神谷と呼ばれた若い男は、余裕の笑顔を浮かべ、この日本のサラリーマンを髣髴とさせ、ビクビクと怯える所長を宥めていた。
『深度1200m突破』
アナウンスが室内に響き渡る。
「2000m...絶えられますか?」
ミサトは神谷に振り向き尋ねる。
浅間山観測所に出向している「新東京鐵工」社員、神谷コウスケは、落ち着いた態度のまま、少し首を傾げて考える素振りを見せる。
「試したわけではないですが、まあ、問題ないと思いますよ」
新東京鐵工とは数年前に発表された新耐熱材の開発で、最近大きくなってきた会社だ。現在、各地の火山観測所等、様々な分野でその耐熱材が利用されていた。神谷はその分野のエキスパートだった。
「分かりました。日向君、あと300降ろして......」
「了解」
そう答えると、日向はミサトの指示をキビキビとこなしていく。
「神谷君...ホントに大丈夫なんだろうね」
オロオロという表現がピッタリ当てはまるような狼狽振りで所長が尋ねる。
『深度1500m突破』
「壊れたらウチで弁償します...あと200降ろして」
内心であまりに小心者の所長に呆れながらも、ミサトはそう答え、次の指示を飛ばす。
観測機はミサトの指示を受け更に潜航していった。神谷が自身を持っている最新鋭の断熱板を使ってるだけあり、このはなみずき――正式名称『花みずき2号』と呼ばれる観測機は、高熱高圧にもびくともしなかった。
「モニターに反応!」
日向の声にミサトは頷くと次なる指示を発する。
「......解析開始」
モニターに映る物体に神谷の顔が歪んだ。
モニターにはCTで妊婦の身体を投射した時のヒトの幼児――いや、何かの幼虫に似た影が映っている。
「......解析は?」
「パターン青です。間違い...ありません」
「間違いなく......使徒ね...」
日向が頷く。
ミサトが周囲を見回すと、更に軍人の表情を強め、観測室にいる全ての者に畏怖を感じさせる声音で命令を発した。
「これより当研究所は完全閉鎖、NERVの管轄下に入ります。一切の入室を禁じた上、過去6時間以内の事象は全て部外秘。これに従わなかった場合は、それなりの処罰が下される事を肝に銘じるよう...」
職員達の間に緊張が走る。
神谷は見たことも無い情景に興奮していた。
神谷の傍にミサトが寄ってきて、笑顔を浮かべながら右手を差し出す。
「神谷さん、ご協力感謝します。申し訳ないですが、もう少しお力をお借りできないでしょうか?」
「...ええ、よろこんで」
笑顔と共に差し出されたミサトの手を神谷は握り返すと、微笑みながら答えるのだった。
「A−17だと!?」
戸惑いを含んだ声が暗闇から発せられた。
そこは闇だった。漆黒の闇に包まれた空間に数人の姿が浮かんでいた。
中心にバイザーをかけた老人が座っている。人類補完委員会の面々である。
その面々を前にゲンドウが座り背後に冬月が立っている。今回の浅間山に関する伺い立てである。
「こちらから打って出るというのか!」
「そうです」
驚きの叫びが上がる中、ゲンドウだけが淡々を言葉を発する。
「だめだ、危険すぎる。15年前を忘れたとは言わせんぞ!」
どの顔からも懸念が伺え、威圧感すら感じられる空気が辺りに漂っていた。
その懸念をものともせず、ゲンドウが再び淡々と言葉を返す。
「これはチャンスなのです。今まで防戦一方だった我々が、初めて攻勢に出る為の...」
「リスクが大きすぎるな」
「しかし、生きた使徒のサンプル...その重要性は既に承知のことでしょう」
しばし沈黙が流れる。
バイザーの老人が皆を代表するように言葉を発した。
「......失敗は許さん」
了承の言葉だ。が、無論それには別の意味も込められている。
人影は消え、ゲンドウと冬月だけが残された。
冬月の顔にはありありと嫌悪の表情が浮かんでいた。
「失敗すると人類そのものが消えてしまうよ」
ポツリと漏らした言葉からもそれが窺える。
沈黙が闇を覆った。
その沈黙を破るように、隣のゲンドウに視線だけを送ると、最終確認とばかりに冬月が問う。
「本当にいいんだな?」
ゲンドウが顔の前に指を組み合わせたいつものポーズで、唇だけを歪ませて笑っていた。
「今回の作戦は使徒の捕獲を最優先とします」
リツコから指示が下される。今回はミサトが現地に赴いている為、技術部ではあるが、臨時で、リツコが現場までの作戦指示を行う事となっていた。
今回の作戦は捕獲を前提とし、不可能であれば即時殲滅するというものである。
出撃は、過去と同じようにアスカの弐号機が火口に潜り、零号機は本部待機、初号機は現地でのバックアップとなった。
傷が癒えたとはいえ、本調子ではないシンジを作戦に参加させるのはどうかという意見が出ていたが、リツコの指名とシンジ自身の立候補により出撃が決定した。
それには、2人の思惑が隠されていた。
リツコの場合は、アスカ来日前のシンジの異常なまでの力。その力の解明が今回の指名の理由である。
先のイスラフェルの戦闘では、シンジの怪我を負い、詳しい調査が出来なかったので、リツコにしてみれば待ちに待った機会であった。
肉体を調査しても、何の異常も見られないシンジに、焦っているのかもしれない。何の為に焦っているのかは、もちろん、人類補完計画の障害かなるか否かである。全てはゲンドウの為であった。
直接戦闘するわけではないので、それほど期待はしていないが、何がキーになってあの力が発動するかは分からないのだ。どんな状況であれ、出撃させ、様子を見たいと言うのが本音であった。
シンジの場合は、もちろんアスカの心配である。
アスカを信じていない訳ではない。だが、過去において、幾度も同じ状況は起こった。その度に、シンジのアドバイスで危機を打開してきたのだ。今回も同じ状況が起こる可能性は非常に高い。いや、間違いなく起きるだろう。ならば、シンジ自身が火口へ潜行すれば一番いいと思うのだが、何せ、D型装備の企画が合わないのである。まして、ゲンドウがそれを許すとも思えなかった。
ならばアスカを守るしかない。そのためには、出撃して、いつでも助けられる状況にいる必要がある。故にシンジは、立候補したのだった。
「じゃ、30分後にここに集合。各自その間に準備を済ませておいて。それと、アスカは耐熱スーツを渡すから、一緒に来て頂戴」
リツコの説明が終わる。
シンジはロッカールームへ向かう為、ケイジを歩き始めた。
アスカは耐熱仕様のプラグスーツを受け取るためにリツコについて行った。
「碇くん......」
ロッカールームの前で、後ろから追いついてきたレイがシンジに声をかけてきた。
シンジに瞳にはレイの心配そうな顔が映っている。
その瞳に、シンジは過去のレイを思い出していた。
初めての生――あの頃のレイは感情がなかった。いや、感情はあったのだが、それを表現するすべを持っていなかった。それでも、シンジはレイに好意を持った。
だが、レイが『造られた存在』だと分かった時、シンジはレイをまともに見ることは出来なかった。
そして、サードインパクトが起きた。
深く後悔した。だが、既に終わった事。やり直しは聞かない。
その時、再びチャンスが与えられた。シンジは喜びに打ち震えた。そして思った。再び過ちを犯さないように――レイを守ろうとした。
だが、レイは変わらなかった。
『あなた司令の息子でしょ』――それは創造主に絶対服従の人形。
改めてレイが造られた存在であるという事実を、突きつけられたに過ぎなかった。
それでも、徐々に変わっていくレイを黙って見守り続けた。今度は戸惑わない――その気持ちだけで。だが、結果はどうだ。救えなかった。再び無に帰すレイを見つめるしかなかった。
そして、サードインパクト――また繰り返す。
幾度と無く繰り返すうち、漸くレイは『自分』というものを持つに至った。だが、それは依存している対象がゲンドウからシンジに変わったに過ぎなかった。
『私は碇くんが好き』――そう言われた時も、素直に受け止める事は出来なかった。
その結果、レイは再びシンジを守る為、簡単に自分の命を犠牲にした。
そして、サードインパクト――また繰り返す。
リセットがかかる――レイとはいつもゲンドウの人形として出会う。
それが、シンジには悲しかった。救いたいと思った。しかし、結果はどうだ――
ボクは綾波を救う事が出来ない。
その思いが深まっていくだけ――そう思っていた。いや、現実そうだった。
だが、今のレイは違う。その頃の自分に依存していたレイとも、人形のように無感情だった頃のレイとも違った。
今回、シンジに他人を構う余裕はなかった――自分自身すら保てなかったのだ。
それでも、レイは出会った時から違っていた。まだアスカやヒカリほど感情の表現は見られないが明らかに違うことだけは分かる。
自分で考え、自分で判断し、自分の意思で行動する『ヒト』としての心――感情をレイがすでに持っているように思えた。そう、これこそが、今生で初めて出会った時からずっと感じていた――違和感の正体。
何がレイを変えたのかは分からない。だがそれは、シンジにとってうれしい違和感。
今度こそレイを救ってみせる。その思いが今のシンジの中にはっきりとあった。
そのレイが自分の身を案じているのだ。
これはレイの意思だ。他の誰でもないレイの意思――
「綾波......大丈夫だよ。無茶はしないから」
シンジはレイを見つめながら安心させるように微笑む。
「...わかったわ」
レイの瞳に安堵が浮かぶのを確認してからロッカールームに移動した。
ロッカーの前にある長椅子に座ると溜息をついた。
さっきのレイの表情が頭から離れない。
どんなに自分ががんばったって世界は変わりゃしない。
だから、他人や世界の事なんかどうでも良いと思っていた――。
だが、今までの過去とは明らかに違う今生。
最近、だんだんと無気力でなくなっていく自分。
そんな自分に驚きや戸惑いもあるが、それでも『これでいいんだ』と納得しようとしている自分に満足を覚える。
だったら、もう一度...もう一度だけ......レイやアスカ――瞳に映る人たちだけでも守りたいと思っても良いかもしれない。
だが、もう一人の自分がそれを否定する。
また繰り返すつもりか? 何度試せば理解するのか? 今までそう思っても何も変えられなかったくせに――。
でも、今回は変えられるかもしれない――。
いや、力のない自分では変えることは出来ない――。
―――
―――
――答えは出ない。
シンジは再び溜息を吐いた。
その頃、ケイジでは――
「いやぁぁぁぁーーー! 何よこれーーーーーー!」
ケイジで、ボールのような格好になった自分と、ずんぐりとした宇宙服のような耐熱装備の弐号機に、アスカが悲鳴を上げていた。
浅間山山頂に輸送ヘリが降り立つ。その隣にはウイングキャリアーの姿も見える。
シンジたちが到着したのだ。
すぐさま、観測所内のミサトに現状が報告された。
『EVA初号機、及び弐号機、到着しました』
「両機はその場で待機、データの打ち込みとクレーンの準備を急いで!」
ミサトが指示を出す。その顔はいつものおちゃらけ顔ではなく指揮官としてのそれになっている。
「神谷さん、EVAに先行して観測機『花みずき2号』での観測......準備よろしいですか?」
「はい、耐熱板の張替え作業も終了しています。これで深度2000mまで、大丈夫だと思います。」
ミサトは頷くと観測所職員に指示を出す。
「では観測機『花みづき2号』、先行して......投下!」
観測機が火口内にダイブし、マグマの海を潜航していった。
その頃上空では戦闘機が舞っていた。
「何よ、あの戦闘機」
エントリープラグの中から空を見上げながらアスカが問う。
「UNの戦闘爆撃機よ」
データの打ち込み作業を続けながら、空を見もせずにリツコが答える。
「何、手伝いに来たっての?」
「その逆よ」
「逆?」
怪訝そうに問うアスカ。
「私達が失敗した時の後始末......N2爆雷で私達ごと使徒を殲滅するの」
「......何よ...それ......そんな、ふざけた命令出すなんて何処のバカよ!」
「.........碇指令よ」
「......」
アスカは呆然とリツコが映っているモニターを凝視する。
シンジは無言のまま二人のやり取りを聞いていた。
使徒を殲滅すればN2爆雷は問題ない――殲滅さえすれば。
そう思う。使徒は今までも捕獲しようとしたが、一度として成功した試しが無い。出来れば最初から捕獲ではなく殲滅とすればこの戦いも楽になるとおもうのだが、大人の都合もあるし、一パイロットに過ぎない自分の意見を受け入れるとは到底思えなかった。
だとすると、穏便に事が運ぶのを期待するだけだ。そう思っていても不安は残る。今生、今までの戦闘も過去とは明らかに違っているのだ。
火口に飛び込む前に羽化しないとも限らないよな......。
いやな予感がシンジに襲い掛かる。
ふと、過去を思い出してシンジがモニターのアスカに声を掛ける。
「アスカ」
「ん、何? バカシンジ」
「いや、あのさ。プログナイフの事なんだけど...」
「はぁ? プログナイフがどうしたのよ」
ハッキリしないシンジの態度に、徐々に機嫌を悪くしていくアスカ。
それを感じ取ってはいても、事が事だけにシンジは慎重にならざる得なかった。
「その...できれば、潜った後、プログナイフを装備しておいて欲しいんだけど...」
「アンタバカァ! なんでそんな事しなきゃいけないのよ! だいたい、両手は捕獲用のケージを握ってるじゃないの」
怒りではなく呆れた表情を浮かべるアスカだったが、シンジは尚も食いさがる。
「でも...」
「うるさいわね! なんで、そんなにこだわるのよ!」
「アスカが心配なんだ!...あっ、いや...その......」
つい気持ちが言葉になって出る。
「バ、バカじゃないの...」
顔を朱に染めながら横を向くアスカ。
「た、頼むよ...アスカ」
「わ、分かったわよ...まったく...」
アスカがブツブツと言いながらあさっての方を向く。どうやら、表情をシンジに見られたくないらしい。
シンジはそれに気付かず、何とかアスカに注意を促がせた事に満足していた。
これで、プログナイフの事はなんとかなると思うけど...
後は、現実の問題だ。今どうこう言っても仕方ない。
このまま使徒に変化がなければいいのだが――
「アスカ...準備が出来たわ。分ってると思うけど、今回は捕獲が第一よ」
リツコがアスカの映るモニターに振り返りながら、そう告げた。
「分かってるって。様は成功させればいいって事でしょ...やってやろうじゃない」
余裕の笑みを浮かべながらアスカは答えるのだった。
そうこうしているうちに、クレーンにぶら下げられた弐号機が火口直上に辿り着く。
その手には使徒捕獲用のケージが握られていた。
弐号機のモニターにキリッとしたミサトの顔が映る。
「準備はいい? アスカ!」
「OKよ、ミサト」
「弐号機、降下......開始!」
徐々に弐号機の姿が、真っ赤に煮えたぎったマグマの海へと消えていく。
シンジは黙ってそれを見ているだけだった。
不意に観測所から通信が入る。
『深度1800m付近で使徒を確認』
リツコが驚愕の叫びを上げる。
「そんな......装備の耐久深度を超えているわ...」
そんなリツコに向けて、アスカから自信に満ちた声が返ってくる。
「大丈夫よ、リツコ。それに今更やり直しは利かないでしょ」
「そうね...アスカ! 行けるところまで行ってみて...でも、無理だと思ったら無理せずにすぐに言いなさい」
ミサトの口からそう言葉が発せられる。その顔は作戦部長のそれだったが、どこか緊張しているのが伺える。
「了解」
話している間も弐号機の潜航は続いていた。
弐号機から軋みに似た音が聞こえてくる。言葉では強気な発言をしていたアスカだったが、弐号機からの音が聞こえてくるその度に顔が歪む。内心は穏やかでいられる訳もなかった。
今のアスカを支えているのはエヴァパイロットとしてのプライドであった。
モニターでその様子を見ているシンジには、その事が分かっているだけに、不安げな表情を浮かべるしかなかった。
「アスカ...」
つい言葉を掛けてしまう。
「何、辛気臭い顔してんのよ。このアスカ様に任せておきなさい」
シンジの悲愴の表情に、汗ばんだ顔に笑顔を浮かべてみせる。
そういえば、シンジがプログナイフの事を言ってたわね。
アスカが視線を腰のプログナイフに向ける。
今回はD型装備の為、肩からプログナイフを吊るしているのだ。
よく見ると、プログナイフを固定している紐が切れ掛かっていた。
シンジの言った通りじゃない...リツコももっとしっかりして欲しいわね。
心の中でシンジに感謝しつつ、弐号機のバランスを調整し、何とか左手にプログナイフを掴む。
これでいいんでしょ...シンジ。
モニターのシンジに視線を移すと、そこには相変わらず、心配そうな表情を浮かべるシンジの顔が映っていた。
ホントに...
「バカなんだから...」
口に出して言ってみる。
そう言いつつも、その表情は優しかった。
『EVA2号機、深度1500を越えます』
「大丈夫、アスカ?」
「あっつーい! 早く帰ってシャワー浴びたい」
余裕と言った風にアスカがおどけて見せるが、それが恐怖を紛らわせているのは誰の目にもあきらかだった。D型装備の耐久深度をすでに超えているのだ。いつ、機体がへしゃげてもおかしくない深度。恐怖しない訳が無いのだ。
「近くにいい温泉があるわ。終わったら行きましょ」
言葉とは裏腹に、ミサトからもいつもの余裕が感じられない。お互いに恐怖を騙し騙しに会話を交わしているのだ。
「りょーかい」
アスカが微笑んで言った。
突如、モニター内で変化が起こった。
「大変です! 使徒の羽化が始まりました!」
マヤの絶叫が響く。
「なんですって!」
ミサトの顔が驚愕に歪む。
『花みづき2号』の映像の中で急激に羽化する使徒サンダルフォン。
「弐号機、急いで浮上開始! アスカは周囲に注意して!」
矢継ぎ早に指示を飛ばすミサト。
「りょ、了解」
日向がクレーン担当者に指示を飛ばす。
「周囲に敵影なし」
アスカは捕獲ケージを破棄しプログナイフを構える。
周りに注意を払いつつ、浮上を続ける弐号機。機体への重圧は減ってきたが、緊張度は先にまして高まっている。
『EVA2号機深度1000を切ります』
「...来た!」
弐号機直下から急速に接近するサンダルフォン。
「こんのぉーーーー!」
使徒に向かってプログナイフを突き出すアスカ。
だが、使徒はナイフを気にせず体当たりをしてくる。
弐号機とサンダルフォンが交差する。ナイフが身体に当たっているにもかかわらず、力押しに押して来る使徒に、弐号機が自身を支えきれなくなっていた。このままでは弾き飛ばされるだろう。ケーブルでも断線しようものなら、そのままマグマに溶けていく事になる。
「くっ! バラスト放出!」
アスカも、それは分かっているので無理はしない。
重りを外し、機体が軽くなった勢いで使徒の特攻を捌く。が、体制を崩し、一瞬サンダルフォンを見失う。
「チッ! ......何処?」
マグマという視界の悪い中で敵を探すのは困難を極めるが、そうも言ってられない。
アスカは弐号機を操作して懸命に周りを見回す。視界の端に、高速で近づいてくる物体に気付く。
「...左!?」
再び、特攻してきた使徒が大きく口を開ける。
「この状況下で口を開くなんて......」
リツコの驚愕の声が聞こえて来るが、アスカにはそれを聞いている余裕はなかった。
サンダルフォンを避けられず、そのまま組み付かれる弐号機。
「こんちくしょぉぉぉぉぉぉーーーーー!!」
何度もプログナイフを突き立てるも外装に弾かれ決定的なダメージが与えられない。
「高温高圧、この極限状態に耐えられるんですもの、プログナイフじゃダメだわ」
リツコが呟く。
「じゃあ、どうすればいいんですか!?」
日向が叫ぶが、リツコには返答できなかった。
弐号機の外装に牙が突き立てられ装甲がへこんでいく。
「クッ!」
何とか使徒を引き離そうとするが、サンダルフォンの強烈な力の前に効果が上がらない。
不意に、横合いから人影が現れた。その人影は使徒に強烈な一撃を与えると、弐号機から使徒を無理やり引き離した。なんとか、その隙に弐号機が抜け出す事に成功する。
「シ、シンジ!?」
アスカの顔に驚きが浮かぶ。
体当たりを仕掛けたのは初号機だった。
「シ、シンジ君!?」
ミサトも驚きの声を上げる。
それもそのはずだった。初号機はB型装備――つまり耐熱装備をしていない。ダイレクトに高熱を操縦者が感じるのだ。深度はそれ程でもないとはいえ、ここは灼熱の溶岩の中――マグマの海である。その熱さは語る必要もあるまい。
「あ、アンタ何やってんのよ! バカシンジ!!」
「...そ...それよりも早...く...使徒を......」
苦痛に顔を歪ませながらもアスカに声を返す。
その間に体勢を立て直したサンダルフォンが、再び弐号機に狙いを定めると襲い掛かってきた。
「そんな急に言われても......」
「...ア...スカ...プールの...時の...」
「!」
アスカの脳に閃くものがあった。すぐさま行動を起こす。
使徒の突撃を受け止め、再び組み付かれるのもかまわず、腕の冷却パイプをナイフで切断する。途端に、切れたパイプから冷却液が漏れ出す。
「これでも、くらえぇぇっっ!!」
切れたパイプを使途の口に突っ込む。
「...なるほど、熱膨張!」
リツコが喚起の声を上げる
アスカが叫ぶ。
「冷却剤の圧力を全て3番に廻して、早く!!」
「マヤ!」
リツコの一言にマヤは即座に反応する。冷却剤の出力が急激に上がり、使徒の身体を膨張させていく。
それに合わせて、アスカが使徒を引き離すようにナイフを力いっぱい叩き付ける。
膨張に耐え切れず、サンダルフォンは絶叫を上げ、身体を崩れさせながら火口内に沈下していった。
安堵のため息を漏らしシートに倒れこむアスカ。
その耳にミサトの叫び声が聞こえてくる。
「シンジ君!」
シンジからの返事はない。
ミサトの気転ですぐに神経接続は切られたものの、シンジはすでに気を失っていた。
いくら神経接続を切ったとしても、そこはマグマの中だ。
LCLは液体である。
釜茹でになるのは時間の問題だった。
ミサトの声で我に返ったアスカは、即座に周囲を見回した。視界の端で海流に流されていく初号機を発見する。急いで漂う初号機に近寄ると、その腕をがっしりと掴む。
「早く、上げてよ!」
アスカの叫びに反応するかのように、急速にケーブルが巻き上げられていく。
クレーンによって浮上しながら、アスカはホッと息を吐くと目を瞑る。
だが、初号機――シンジを掴んだ腕からは決して力を抜こうとはしない。
アスカの瞼に、先の苦痛に顔を歪ませつつも、助けに飛び込んできたシンジが浮かぶ。
通常、海で溺れている人を見つけて、もし自分がカナヅチと分かっていて飛び込んで助ける事ができるだろうか。たとえ感情で分かっていても、その状況になれば、他人の為にそうは飛び込めまい。飛び込むとすれば、子供を思う親の愛か、大切な人への想い――。それも、死ぬと分かっていて超高温のマグマに海に飛び込むことは満に1つの可能性だろう。
アスカは心の中で湧き上がってくる思いを感じていた。
またシンジに助けられた――前回も今回も命がけで自分を救ってくれたシンジ。
「碇...シンジ...」
ポツリと名を呟いてみる。
「......バカ...」
口に出した言葉とは裏腹に、アスカの顔には潤んだ瞳と微笑みが浮かんでいた。
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