『新世紀エヴァンゲリオン』〜 longing for different future 〜

〜第2章〜『家族の輪郭』 第15話 『間者か刺客か(後編)』



雨――それは命を紡ぐ生命の水。
恵みの雨は再び、雲になり、天より新たなる恵みをもたらせる。
大地はその水を吸って、新たな命を育んでいく。
だが、新たな命は水の恩恵のみでは育まない。
日が昇り、また沈む。
太陽の熱は人間の生にとって無くてはならないものだった。
太陽光が降り注ぐ中、大地が育んだ命は風によって地球全体へと送られる。
そして、それこそが地球が生きている示し、地球が命の箱舟である証拠であった。
が――
生きている人間は、その環境を当然のように受け止め、感謝の気持ちを忘れていた。
ようやく人間が、地球の恩恵は無くてはならない物であるという事に気付いたのは、セカンドインパクトという大災害の後だった。
セカンドインパクト――地球全土を襲った災害の極致。
これにより地球の環境は劇的な変化をみせた。
人々が生きていく事が非常に困難であることを如実に示す出来事であった。
だが、どんな状況下においても、人々は生きることをやめることは無い。
四季が無くなり、毎日が真夏の猛暑となった日本。
その中心地である第2東京市の南東に位置する第3新東京市――使徒迎撃都市であるこの町も例外ではない。人々の日々の生活は変わることはなかった。

コインランドリー前の自販機からジュースの缶が落ちる。
背中にギターが入ったケースを背負ったロン毛の男――青葉シゲルはそれを手に取ると、冷えた缶からひんやりとした感触が伝わってきた。
その冷気で周囲の温度が幾分か下がったようにすら感じていた。
年中が真夏日で高温多湿。
短時間でも屋外にいると、体内の水分はいっせいに汗という形で、体外へと脱出を謀る。
このような状況下において、手軽に不足がちな水分を提供してくれる自動販売機はその重要性を増していた。
プルタブを上げ、缶の中身であるアイスコーヒーを一気に飲み干す。

「生き返るぅ〜」

青葉はようやく一息つけたという表情を浮かべる。
手近なプラスチックのゴミ箱に缶を放り込むと、自販機の隣の建物に入っていった。

室内はクーラーが効いていて、適度な温度が保たれている。
そこはクリーニング店であった。
先客は2人いる。
同じ職場――ネルフの同僚である息吹マヤと上司である赤木リツコであった。
リツコの目の前に据えてある機械が甲高い音を立て、中からビニールに包まった衣類を吐き出した。

「これじゃあ、毎日のクリーニング代もばかにならないわね」

洗濯物を手にするリツコにマヤが同意の声をあげる。
その手にはすでに大量の洗濯物が抱えられていた。

「そうですね。せめて、自分でお洗濯できる時間くらい欲しいですね」

「家に帰れるだけ、まだマシっすよ」

「ま、そう考えるほうが建設的ね」

リツコの言葉にオペレーター二人が揃って頷いた。

駅にリニアが停車する。
リニアの扉が開くと、3人はそろって両手に洗濯物を抱え、車内に移動していった。
車内には一人しか座っていなかった。
リツコは新聞を読んでいた白髪の老人に声をかける。

「あら、副司令」

その声に反応し、冬月が新聞から目を上げる。

「おはようございます」

リツコの言葉に続き、声を揃えてマヤと青葉が挨拶をする。

「「おはようございます!!」」

相手が普段雑談も交わせないような副司令とあってか、その声は敬礼をしていないだけで、軍人のようなビシッとした声だった。
まあ、ネルフを軍隊という枠に入れてしまえば、二人とも軍人なのだが...。

「ああ、おはよう」

冬月は気にもしていない風でそう答えると、再び視線を新聞に戻した。

「今日はお早いんですね」

リツコが冬月の隣に腰掛けながら声をかける。
オペレーターの2人は、車内はガラガラに空いているにもかかわらず、緊張と畏怖が入り混じったような表情を浮かべ、つり革につかまりながら通路に立っていた。
上官と同席していいか気にしているのだろう。
無論、冬月はそんな些細な事など気になどしないのだろうが。

「碇の代わりに上の町だよ」

「ああ、今日は評議会の定例でしたね」

「下らん仕事だ。碇め、昔から雑務はみんな私に押し付けおって...MAGIが居なかったらお手上げだよ」

「そう言えば上は市議選が近いですよね」

「市議選は形骸に過ぎんよ。事実上、此処の管理はMAGIがやっとるんだからな」

冬月の言葉にマヤが反応する。

「MAGI!? 3台のスーパーコンピューターがですか?」

「3系統のコンピューターに多数決...きちんと民主主義の基本に則った仕組みだよ」

「議会はその決定に従うだけですか...」

「最も無駄の少ない効率的な政治だな」

「さすがは科学の町、まさに科学万能の時代ですね」

マヤが目をキラキラとさせながら呟く。

「古っ臭いセリフ...」

青葉は呆れ顔で冬月たちに聞こえないようにぼそっと呟いた。

「そっちは零号機の実験だったかな?」

「ええ、1030より機体連動試験ですわ。特に問題は起こらないと思います」

「ふむ、ならいいが...。最近のレイは...」

「副司令!」

冬月が何かを呟きかけるが、リツコが鋭い視線でその先を制す。

「う、うむ、そうだな...」

冬月も自分が何を言おうとしていたのか気付いたのか、返事を返した後は沈黙する。
リツコもそれ以上、冬月に声をかけようとはしなかった。
オペレーターの2人は頭に?マークが浮かんでいたが、余計なことは言わず、重く苦しい沈黙に耐えていた。



「起立、礼」

ヒカリの声で今日の授業も終了となった。
クラスがいつものように喧騒に包まれる。
ヒカリもやっと肩の荷が下りたように背伸びを1つすると、アスカに向って声をかける。

「ねえ、アスカ。今日はどうするの?」

「ごっめーん、ヒカリ! 今日はネルフなのよね」

「そうなんだ。じゃ、碇君といっしょに行くんだ」

「さあ、バカシンジは勝手に行くんじゃない?」

ヒカリの『碇君と』の言葉に、アスカは眉をピクリとさせると、さっさとカバンを持って教室から出て行った。
それを確認してから、ヒカリは溜め息を1つ吐いた。

今日は朝からレイはネルフに行っていた。もちろん機体連動試験の為だ。
そして、夕方からシンジとアスカも加えてのシンクロテストが行われる事になっていた。
通常はアスカとレイ、シンジは揃ってネルフへと向うのだが、数日前の一件がいまだに尾を引き、シンジは2人とほとんど言葉を交わしてなかった。
正確には言葉を掛けても、アスカからは怒鳴られるだけだったし、レイはいつもに輪をかけて反応が希薄になっていたからだった。
あの放課後の出会い以来、マナは暇を見つけてはシンジのクラスを訪ねてくるようになった。そして、シンジの隣を自分の定位置としているかのように、常にシンジについて廻っていた。
それが、アスカやレイの態度を硬化させるとも知らず、シンジはそんなマナと笑顔で会話を繰り返していた。
ゆえに、シンジはここ数日ほとんどレイとアスカと会話らしい会話をしていなかったのだ。

「なんや、センセ。まだケンカしたままかいな」

アスカが教室を後にした丁度そこに、トウジ達も帰宅の準備を終えて通りかかる。

「う、うん...」

「そういや、綾波とも喋ってなさそうだな」

「うん...まあ...」

2人の言葉にシンジは複雑な表情を浮かべた。
そんなシンジの表情に、ヒカリも心配げに声を掛けてくる。

「ねえ、碇君。アスカやレイさんにきちんと説明したの?」

「マナの事? 一応は言ったんだけど、2人とも聞く耳持ってくれないんだ。別に悪い事をしていた訳じゃないんだから、なにもそこまで怒る事ないと思うんだけどさ...」

シンジのセリフにケンスケとヒカリが深い溜め息を吐く。

「やっぱシンジってさ、お子様だな」

「...そうね」

「そうや! 何が原因かは知らんが、いつまでもウジウジせんと、悪い事をしたんやったら、早よ謝っといた方がええで!」

トウジのセリフに、再びケンスケとヒカリが深い溜め息を吐く。

「トウジィ〜〜」

「ハァ〜。鈴原も少しは考えたほうが良いわよ」

2人の言葉にトウジが不機嫌そうに呟く。

「なんで、ワイが言われなならんのや? シンジが2人を怒らせただけやろ?」

「何言ってんだよ、トウジだって一緒にいただろ!」

「は?」

「いっしょにゲーセンに行ったじゃない!!」

「?? ...お、おお、行ったで。で、それが何なんや?」

「「ハァァーー」」

再び深い溜め息を漏らす二人だった。

「と、とにかく碇君も早く謝っといたほうがいいわよ」

「そうだな。俺達もフォローするからさ」

「ようわからんけど、ワイもフォローするで」

三者三様に想いは違うのだが、皆心配している事に変わりはなかった。

「うん、ありがとう」

シンジにもその思いは伝わっている。素直にお礼を言う。

「とりあえず、アスカを追いかけて、碇君」

「わかった」

シンジはカバンを持ち直すと、アスカを追って教室を出て行った。
その姿を見送りながら、3人は視線を交わす。

「碇君って鈍感ね」

鈴原もだけどね...。

「まあね。でも、そんな女の子がいるだけでもうらやましいよ」

あーあ、俺も彼女つくろうかな〜。

「まあ、せやな〜」

今晩の晩飯はなんやろか?

相変わらず、トウジだけがピントがずれていた。
3人は窓際に移動すると校庭に視線を送る。
そこには、ようやくアスカに追いついたシンジの姿が見えていた。
必死にアスカを呼び止めようとしているようだが、聞こえていないのか、聞く気がないのかまったく相手にされていないようだ。
と――
不意にアスカは立ち止まると、振り返りンジを張り飛ばす。
その光景をみながら、ケンスケがポツリと漏らした。

「シンジも、大変だな......」

その言葉は3人の意見を明確に表現していた。

そんな2人を隣のクラスの窓から眺めている一人の少女の姿があった。
少女――マナは薄く笑うと窓際から姿を消した。



「おーい、ちょいと待ってくれ〜〜!」

扉が閉まりそうなエレベータに向け、加持はダッシュしていた。
エレベーターのドアは無常にも閉じていく。

「おっと...」

間一髪、扉の隙間に腕を差し込む。エレベーターは人間に反応して、その重い扉を再度開いていった。

「チッ!」

エレベーターを閉めようとした張本人であるミサトは、苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちした。
2人を飲み込んだエレベーターがゆっくりと下降していく。

「いやぁー走った走った」

息を切らせながら、加持は呟くとミサトに視線を向け声をかける。

「こんちまた、お姫様はご機嫌斜めだねぇ...」

「来た早々、アンタの顔を見たからよ」

ミサトはあさっての方向を向いて、苦々しく言葉を返したのだった。



「だから、あれは...ただ一緒にゲーセンに行っただけで...その......」

「......」

「べ、別に何でもないんだってば」

シンジとアスカはネルフへの道を歩いていた。
シンジは懸命にアスカにマナの事を説明している。
だが根本的に、アスカが何に対して怒っているのかに気付いていない為、なんとも要領の得ない説明になっていた。
言っている内容はあながち見当はずれではないのだが、傍から聞いていれば浮気がばれた夫の言い訳に聞こえる。

「...で、それが私に何の関係があるっての?」

アスカの反応はにべもない。

「えっ!? あ、あの...アスカが怒ってるんで...」

「......」

「そ、その...じ、実際には、何に対して怒っているか...わかって...ないんだけど...」

「......」

「なんと...なく...悪かったって言うか...謝っておきたいって...その...」

シンジは泣きたい気分だった。

ハァ...。
アスカが何に怒っているのか、さっぱり分からないよ。
いったい、どうすれば機嫌が直るんだろう。
綾波に聞きたいけど、綾波も何か機嫌悪いし...。
いったい、僕が何をしたって言うんだよ!?
ハァ〜、もう泣きたいよ...。

そんな気持ちが表情に出たのだろう。
密かにシンジの様子を窺っていたアスカは、ようやく立ち止まると、ギン!とシンジを睨みつける。
アスカのその表情にシンジは思わず一歩後退さると、意を決して、徐に頭を下げた。

「と、とにかく...ゴメン!!」

「...全く、アンタって奴は......」

アスカは溜め息を吐くと、情けないシンジに哀れむような、呆れたような表情を浮かべる。
そして最後に困ったような顔でクスリと笑うと、シンジに声を掛けながら再びネルフに向け歩き始めた。

「ほら、バカシンジ! いつまでボーっと突っ立ってんのよ! さっさとネルフに行くわよ!」

徐に頭を上げたシンジが急いでアスカを追う。

そんな2人の姿を通りの向うから、またもやマナが窺っている。
マナの目的はいったいなんなのだろうか――



低い音と共にモーター音が止まり、階数を刻む擬似アナログの表示モニターの表示が消える。エレベーターは静かに停止していた。

「あら?」

ミサトが不思議そうな表情を浮かべる。

「ん? 停電か?」

「まっさかぁ〜。ありえないわ」

ミサトがそう呟いたと同時に、エレベーターの電灯が消灯する。

「へんねぇ...事故かしら?」

「ははっ、赤木が実験でもミスったのかな?」



突如、零号機の神経接続を表示していたモニターの電源が落ちる。

「電圧ゼロです...」

マヤが機械的に現状を報告する。
リツコの手は何かのボタンに触れていた。
リツコは身体を硬直させたまま、視線だけで周囲を見回す。
マヤをはじめ、試験に携わっていた全職員の視線がリツコに注がれている。

「わ、私じゃないわよ」



「どうだろうな...」

加持が含みを持った言葉を発する。
ミサトはネルフの科学を信じているのか、現状の異常事態にも平然としていた。

「でも、ま、すぐに予備電源に切り替わるわよ」



「ダメです、予備回線に繋がりません」

青葉の報告に、まともに表情を変える冬月。

「ば、馬鹿な...。生き残っている回線は?」

階下より職員の一人が冬月の質問に答えた。

「全部で1.2%...2567番からの9回線だけです」

「生き残っている電源はMAGIとセントラルドグマの維持に回せ!」

焦り顔で指示を飛ばす冬月に青葉が即座に返答する。

「ですが、そうなれば全館の生命維持に支障が生じますが?」

「構わん! 最優先だ!」



電源が落ちたのはネルフだけではなかった。
第3新東京市の街中のいたるところで同じような現象が多発していた。
交差点で信号が変わるのを待っていた日向も例外ではなく、その現象に遭遇する。
日向は両手に大量の洗濯物を持っていた。今朝のリツコたちと同様に、クリーニングショップからの帰りだろう。
不思議なのは、手に持っている洗濯物が女物である事だったが――

まったく、葛城さんもズボラだよな...。自分の洗濯物くらい自分で取りに行けばいいのに...

心の中で密かに愚痴を漏らしていた日向だった。
と――目の前で赤を示していた信号が不意に消灯する。
同時に、周囲から聞こえていた音が途切れ、代わりに、真夏の風物詩である蝉の大合唱が、耳に今まで以上に大きく響いてくる。
未だに聞こえてくる造られた音は、遠くを走る選挙カーからの当選を訴える叫びのみだった。

「あれ?」

日向は不思議そうに目を瞬かせた。

ネルフのゲートに辿り着いたシンジ達も同様の現象に遭遇していた。
ゲートのロックを解除する為にカードをスロットへと通していたが、機械が全く反応しないのだ。

「ちょっとぉ! 壊れてんじゃないの、コレ!!」

苛立ちを隠さず、ゲートを蹴りながら叫ぶアスカの隣で、シンジは何かが頭の中で警笛を鳴らしているのを感じていた。

なんだこれは...。
...もしかして、ネルフの電源が落ちている?
こんな事が起こったのは、あの目玉の使徒――マトリエルが来た時位だと思ったけど......。

不意にイメージが鮮明と頭に浮かんでくる。

し、しまった...。
また、時間がずれているんだ!!
と、すると...今日、使徒が来る可能性もゼロじゃない。
今回は都合よく綾波がテストでネルフにいるけど、使徒の攻撃方法がどう変化しているかもわからない。

次第に焦りが湧き上がってくる。
シンジは懸命に気持ちを落ち着かせようとするが、そこはシンジである。そうそう上手くいく訳が無かった。

おちつけ、おちつけ...。

とにかく、ネルフに行く事が先決である事は間違いない。
シンジは記憶を頼りに、非常通路に向け走りながら、未だにゲートを蹴とばしているアスカに叫ぶ。

「アスカ、急いで! ネルフで何かが起きている気がするんだ」

「ちょ、ちょっとシンジ、どうしたのよ」

シンジの叫びでようやく蹴るのをやめたアスカだったが、突然のシンジの行動に驚きを隠せないでいた。

「とにかく急いで! 僕についてきてくれ」

アスカは振り向いたシンジの表情に違和感を感じた。その瞳に戦いの色を感じたのだ。
訳がわからないままだったが、とりあえず緊急事態だろうと、シンジに向って走りながら叫び返した。

「ちょっと...何がどうなってるのか説明しなさいよ! もう、待ちなさいってば!!」



その状況を観察していた人物がいた。言うまでも無くマナである。
2人が駆けて行ったのを確認しつつ、懐からトランシーバーのような物を取り出すと徐に現状を報告する。

「現在、チルドレン2名がネルフに到着。ゲートを避け、非常口に向って進行中。再び追跡します」

そう告げるが早いか、シンジ達を追って駆け出していった。



その頃、ネルフ本部内では突然の異常事態に騒然としていた。
それは制御室のリツコも同じだった。

「まったく、7分経っても復旧しないなんて...」

そう呟きながらも、キーボードを叩く指は動きを止めていない。
マヤと共に手近にあるハンディPCをメインコンピューターに繋ぎ、コンソールを操作して原因を確認しようとしているのだ。
だが、現実として詳しい事は未だ分からないでいた。
リツコの頭に1つの仮説が立てられえる。

内部にスパイでも居たって言うわけ?
まさか...加持君?
......。
いえ、それは考えにくいわね。
彼はいろいろと知ってはいるけど、目立ってゲンドウさんに反目するような事はしないはず...。
と、すれば...誰が...?

エレベーター内部では、ようやくミサトが異常事態を認識していた。

「ただ事じゃないわ...」

加持も珍しくも真面目な表情を浮かべている。

「ここの電源は?」

「正、副、予備の三系統。それが同時に落ちるなんて...」

「と、なると...考えられるのは...」

2人もリツコと同じ仮説に至る。

発令所に姿を見せたゲンドウも同じ結論を弾き出していた。
暗闇に覆われた発令所で、仄かな明かりに照らされたゲンドウが、いつもの指を組み合わせたポーズでボソリと呟く。

「やはり、ブレーカーは落ちたと言うより落とされたという事か...」

冬月が蝋燭に火を点しながらゲンドウに答えた。

「ま、原因はともかくだ、こんな時に使徒が現れでもしたら大変だぞ」



「た、大変だぁー」

日向が思わず眼鏡をずり落としながら叫んだ。
遠目に見えている巨大な物体は、明らかに異形な姿をしていた。
胴体と思われる部分の中央に大きな単眼、その周囲に複数の複眼を備え、4対の歩脚を用いて歩を進めるその物体は――無論、第9使徒マトリエルだった。
日向はこの距離まで使徒が接近しているにもかかわらず、避難勧告すら発令されていない事態に違和感を覚えた。
そこから導き出された結論は1つ――ネルフで何かが起きているという事だった。

「と、とにかくネルフに急がなくっちゃ...」

と言っても、ネルフまで走っていける距離ではない。
リニアを使おうにも周りがこの有様では、駅の電源もどうなっているかわかったものじゃない。
ましてや、両手には山のような洗濯物を抱えている。
放り出していけば良いと思うのだが、ミサトからの頼まれものだ、日向にそれを望むのは酷というものだろう。

「ど、どうしろって言うんだ〜〜!!」



「まったくぅ〜、どこも閉まってて入れないじゃないのよ!!」

ドゲシと扉を蹴飛ばしながらアスカが叫ぶ。
2人はジオフロントに入る為の通路を探していた。
シンジも後ろで叫んでいるアスカ同様、苛立ちを隠せないでいたが、その意味合いは全く違っている。

こんなことだったら、綾波に非常口の事もっと聞いておくんだった。
くそっ! 僕は何て要領が悪いんだろう...。

アスカが只扉が開かない事に苛立っているのと違って、シンジのそれはこれから起きる(と思われる)使徒の再来に危機感を感じての苛立ちだった。
2人とも手には過去でも使用した緊急マニュアルを持っている。
だが当然のように、普段は緊急マニュアルなど使用しないものである。外部からの侵入を防ぐ意味もあり、記載されている場所が容易な所にあるわけもない。と同時に、ジオフロントまで直線的に入っていたシンジ達には、侵入場所が分かっても記載通りの場所に簡単に辿り着けるわけがなかった。

シンジが普段とは違い、余裕など感じさせず手早く非常口を探していくのと違い、アスカには若干の余裕がある。
無論、アスカが使徒再来を知らないのでしょうがないと言えばそうなのだが、シンジとしてもアスカに直接伝える事は出来ない。伝えれば、「なんでアンタがそんな事知ってんのよ!」という事になるだけだ。

「もう、シンジが走って行くから、もっと訳わかんなくなったじゃない! ...ったく、ココどこよ!!」

扉が開かない事でストレスを抱えたアスカが、前方を行くシンジに八つ当たりするのは仕方のない事だった。

「ちょ、シンジ! 早すぎるわよ!」

「......」

「シンジ、そんなに急がなくても良いでしょ。携帯でミサトに連絡とって見るから...って、ちょっと待ちなさいよ!」

「......」

アスカの問いかけにもシンジは反応を見せず、黙々と出非常口を探していく。
そのシンジの態度が癪に障ったのだろう、アスカはシンジの前に回りこむ。

「何とか言いなさいよ!」

叫びつつ、シンジの瞳に視線を向け――恐怖が混じった驚きの表情を浮かべる。

「なっ...ど、どうしたのよシンジ...」

そこには予想と違うシンジの瞳があった。
アスカはシンジがいつもみたいに焦る事を予想していた。
いつものシンジだったら、アスカが凄んで見せると目を逸らせるか怯えた視線を返してくる。
だがら、余計にからかいたくなるのだが、今のシンジは違っていた。
瞳をそらせる事もなく、どちらかと言えば怒りすら感じさせる瞳の色を見せている。

「......アスカ、時間がないんだ。手伝わないなら、邪魔しないでくれる?」

そう言うと硬直するアスカを押しのけ、再び作業に没頭する。

な、なんなのよ...アイツ......。
いつもと全然違うじゃない......。
今日、何があるって言うのよ

ようやく、再起動を果たしたアスカがシンジを視線で追う。
シンジの姿はずいぶん先に見える。立ち止まって、力ずくで何かを回しているようだ。
アスカは思わず駆け出していく。
アスカがシンジの傍に辿り着いた時には、横に人が一人通れるくらいの扉が開いており、その先に通路が見えている。

「アスカ、見つけたよ。さあ早く!」

「や、やるじゃないシンジ。いつもこれくらい出来たらねぇ」

無理やり、強がってみせるがシンジは平然としている。いや、焦りさえ見えている。

「と、とにかく此処から先はリーダーを決めておく必要があるわね...って、ちょ、ちょっとぉ!」

シンジはアスカの言葉に反応すら見せず、先に通路へと入っていく。

「ちょ、シンジ!」

「...リーダーはアスカがやれば良いよ。とにかく急いで!」

シンジの瞳は笑っていない。
シンジに気圧される格好ながら、むりやりシンジの前に出ると暗闇に包まれている通路を歩み始める。

「わ、分かってれば良いのよ...。さ、行くわよ!!」

「うん!」

返事を残して、2人の姿は暗闇へと消えていった。
その後ろ――少し距離を置いて、足音を忍ばせながらマナが通路入り口に現れる。

「ハイ...分かりました」

手に持っているトランシーバーを通して何か指示が出たのだろう。相手に小声で返事を返すと2人との距離を詰めるべく、マナも早足に暗闇へと姿を消していくのだった。



エレベーター内は非常灯の薄明かりに覆われていた。

「それにつけても暑いわねぇ〜」

ミサトはジャケットを床に放り出し、シャツと手をパタパタと動かしながら、懸命に空気を取り込もうとしていた。

「ま、空調も止まっているからな」

加持は額に薄く汗を浮かべてはいるものの、結構余裕がありそうだ。

「ハァ〜〜」

それに引き換え、ミサトは暑さでへばっている犬のように舌すら出して暑さに呻いている。
妙齢の美女のやる事ではない。この姿を見たら、さすがに百年の恋も冷めるだろう――加持以外は。

「おい葛城、暑けりゃシャツくらい脱いだらどうだ?」

「あゥ...」

加持の言葉に、ミサトは胸元をダラリとさせていたシャツを両手で押さえつける。

「おいおい、今さら恥ずかしがる仲でもないだろう?」

クスリと笑う加持をよそに、この暑い中でジャケットを再度羽織りなおすと、加持を睨みつける。

「こ、こういう状況下だからって、変な事考えないでよ」

「ハイ、ハイ」

まったく...といった表情を浮かべつつも、どこか嬉しそうにしている加持だった。



第3新東京市内上空を戦自の航空機が飛んでいる。
拡声器を使って、使徒接近を訴えている。

『こちらは第3管区航空自衛隊です。只今正体不明の物体が本地点に向け移動中です。住民の皆様は速やかに指定のシェルターへ避難してください。繰り返します......』

それを聞きながら、日向は一人毒づいた。

「もう、知ってるよ...。ったく、戦自の奴らももっと早く教えてくれればよかったのに」

すでに日向は戦自が放送するより先に、車に揺られながら本部に向かっていた。
選挙の宣伝カーをネルフ権限で拿捕し、本部へと急いでいたのだ。

そうすれば...こんな目に遭わなくてもすんだんだよぉ〜〜。

日向は口には出さないが、猛烈に後悔していた。
現在、車の時速は170kmを超えている。
よくも事故らないで此処まで来れたものだと思う。
すでに、数度すっぱい物を飲み込んだ気もする。

『当管区内、非常事態宣言発令に伴い緊急車両が通ります! 車線をあけてくださ〜〜い!!』

ウグイス嬢が拡声器で声も高らかに叫ぶ。
結構ノリの良いウグイス嬢だ。

「へい、ダンナ。もっとスピードを出してもいいんですね?」

いや、ノリの良いのはこの運転手も一緒だった。

「あ、ああ...。死なない程度に急いでくれ」

日向は引き攣った笑顔を浮かべながらもOKを出す。いや、出さざる得なかった。

「がってんでさぁ!! へへへっ...腕が鳴るぜぃ!!!」

運転手の目は既に血走っている。
日向は冷たい汗を掻きながら、隣でのびている男を羨ましそうに眺めた。

ああっ、俺もこんな風に気絶出来たら、さぞ、幸せだろうに......。

余談だが、気絶しているスーツ姿の男――立候補者、高橋覗――は、この後、今回の功労により当選を果たすが、当人は任期の間中病院のベッドで魘され続けたという――

『緊急車両で〜〜す!! 車は飛び出ないでくださ〜〜い!!』

この選挙カーの暴走はネルフ本部に到着するまでの10分間続くのだった。
日向は後にこの事をこう語った。

「あの運転に比べたら、葛城さんの運転なんてまだ軽いもんだよ」

それを聞いたミサトが200kmOVERで日向の言葉を訂正させたのは別のお話である。



発令所は相変わらず、電源の復旧に至っておらず、暗闇に包まれていた。
その頂上部に位置する司令席のみが蝋燭の明かりで照らし出されている。

「このジオフロントは、外部から隔離されても自給自足できるコロニーとして作られている。その全ての電源が落ちるというのは理論上ありえない」

「恐らく、此処の調査が目的で故意に電源を落としたというところだろう」

冬月の呟きをゲンドウが後を次いで補った。

「復旧ルートから本部の構造を推測するわけですか...」

いつの間にか発令所に戻っていたリツコも話に参加する。
調査しても埒があかなかったので、発令所に戻ってきたのだ。

現在は侵入者の追跡と電源の復旧にネルフは全力を注いでいた。
レイは未だプラグの中に閉じ込められたままだった。
起動実験も兼ねていた為、擬似プラグではなく正式なプラグにレイが乗っている事も幸いした。
LCLの循環も内部電源によって確保されている。
プラグスーツには排泄の対応処置も施されている為、フル充電されていない今でも、半日は生命活動に支障が起きる事はない。つまり、チルドレンにとっては、エヴァの中が一番安全なのだ。
無論、手動で脱出させる事も可能だったが、侵入者の正確な目的が分からない以上、チルドレンの生命を狙っての犯行という可能性も捨てきれない。
よって、レイはプラグの中で現状の復帰を待つ事になっていた。だが、それは安全の為には仕方のない処置であろう。

「では、MAGIにダミープログラムを走らせましょう。全体の構造の把握は困難になると思いますから...」

リツコが科学者の瞳でゲンドウに進言する。

「ああ...。頼む」

「...はい」

リツコは作業を行うべく、マヤ達のいるオペレーター席に移動していった。
司令席には冬月とゲンドウの2人が残された。

「本部初の被害が同じ人間にやられたものとはな......やはりやりきれんな」

「フン。所詮、人間の敵は同じ人間だよ。だからこそ、計画を実行に移す必要があるのだ」

「だがそれは、今までの歴史を無に帰す行為かも知れん...」

「歴史はまた築けば良い。行き過ぎた人類はすでに神の加護を失っているのだ」

「そうだな...我々は未来を作らねばならんのだからな...たとえ神に仇なしてもな」



「シンジ。そろそろ何で急いでいるのか話してくれても良いんじゃない?」

暗闇の中、慎重に歩を進めながらアスカが訊ねる。

「......ねえ、アスカ。なんで使徒はここを攻めてくると思う?」

「はぁ? ア、アンタこんな時に何言ってんのよ」

会話が噛み合っていない。
アスカは質問を無視してシンジが問いかけてきた事よりも、普段と違うシンジの雰囲気に圧倒され、いつもの強気にでる事が出来ないでいた。
そんなアスカに構わず、シンジは言葉を続ける。

「使徒...神の使い。天使の名を持つ僕らの敵......何故、戦わなくちゃいけない?」

「アンタバカァ? 訳分かんないのが攻めてきているのよ。降りかかる火の粉は払いのけるのがあったりまえでしょ!」

「じゃ、その訳分かんない敵の目的は? 此処を滅ぼして何になるんだろうね...」

「そ、そんなの知らないわよ!」

「......そうだね」

会話が途切れ、2人の間に沈黙が降りる。
数秒後、ようやく話を誤魔化された事に気付いたアスカは、頭から湯気を立てながらシンジに詰め寄る。

「シンジっっーー!! 誤魔化さないでよ!! 何で急いで...」

「黙って、アスカ!!」

アスカの声を遮り、シンジが上方を見上げながら耳を澄ます。
つられて同じ動作をするアスカの瞳に、右から動く光が映った。
同時に何か声が聞こえて来る。聞き覚えのある声だった。

「えっ、日向さん!?」

「あ、ああ、そうだね...」

反射的に答えるが、シンジは焦りに焦っている。

やっぱり、使徒だ。
時間がずれたんだ。
やばい! 急がなきゃ...
綾波...無事でいて。

「なに、ぼけっとしてんのよ! おお〜い、日向さーーん!!」

アスカが叫ぶが、シンジは何とかしてアスカに危機感を覚えさせる必要を感じていた。

時間がない。
とにかく、日向さんの声をアスカに聞かせなきゃ...。

「アスカ、黙って。日向さんが何か言ってる」

「何よ、今はそれより気付いてもらうのが先決で...ムグムグ」

非常手段とばかりに、シンジはアスカの口を両手で覆う。
突然のシンジの行動に驚くも、すぐさま抵抗しようとするアスカをシンジは怒鳴りつける。

「静かにしろ!!」

初めて聞いたシンジの怒声に、思わず黙り込んだアスカの耳に日向の声が聞こえてくる。

『...使徒接近中! 繰り返す、現在使徒接近中! 繰り返す・・・』

既に、シンジは手を離していたが、アスカは呆然としていた。

「アスカ、急ごう!」

シンジの声にようやく我を取り戻す。

「なっ...アンタ知ってたの?」

「何言ってんだよ、最初に言っただろ。何か嫌な予感がしたんだ。それよりもアスカ、急ごう」

「そ、そうね」

2人は互いに頷くと駆け出して行った。

2人が走っていった後には、マナがボーゼンと立ち尽くしていた。
何故かマナの頬は紅色に染まっている。

「シンジって...怒った顔もカッコイイんだぁ〜」

何を考えているのか、キャイキャイと一人で悦に浸っている。
とそこに、イヤホンを通して何か指示が入る。
先程の14歳らしい雰囲気から一変して、大人の表情を浮かべる。

「はい...分かりました。撤収を開始します」

何が目的だったのかは定かではないが、用件は済んだという事だろう。
通信を切るとシンジ達の走っていった方角に視線を送る。

「シンジ...もう少しで会えるね」

そう呟くと、身を翻して通路を来た方向に向けて走り始めた。



壁をぶち壊しながら、発令所に一台の車が飛び込んで来たかと思うと、ドリフトしながら急停車する。その車の上部には大きく『たかはし』の文字が写真つきで描かれていた。
言うまでも無く、日向であった。
日向は即座に窓から身体を乗り出すようにすると、拡声器のマイクを使って呼びかける。

「現在使徒接近中! 直ちにエヴァ発進の要ありと見込む!!」

「た、大変!」

マヤが背後のリツコに視線を向ける。

「冬月、後を頼む」

ゲンドウはそう言うと司令席から腰を上げる。

「碇!?」

「私はケイジでエヴァの発進の準備を進めておく」

「まさか...」

さすがの冬月も驚きの表情を浮かべている。

「...手動でか?」

「緊急用のディーゼルがある」

タラップに手を掛けながら答えるゲンドウ。

「後、赤木博士に零号機の緊急発進を要請してくれ」

冬月はようやく副司令の表情に戻ると頷きながら呟いた。

「うむ、わかった」



「レイ、聞こえているわね」

『...はい』

「非常用バッテリーを搭載したら、自力で地上へ出撃」

『...はい』

「その後、独自の判断で使徒を殲滅...良いわね」

『...はい』

「今、碇司令がケイジで準備をしているから、すぐにケイジに移動を開始して頂戴」

『...了解』



その頃、エレベーターの中はパニック状態にあった。
ダンダンと壁を叩く音が聞こえる。

「もぅ〜!! 緊急事態なんだってばぁ!!」

加持に肩車されたミサトが天井の非常口を叩いているのだ。
その顔は青ざめている。

「葛城ぃ〜、焦ったらもっと開かないと思うぞぉ」

ミサトを見上げながら加持が呟く。

「うっさいわねぇ!! それどころじゃないのよぉ〜〜っっ! って、見るなぁっっ!!」

加持の顔面にミサトの膝がめり込む。

「ぐぉぉっっ!!」

加持は両手を離すと、思わず俯き顔を両手で覆う。
肩車状態でそんな事をすればどうなるか――当然、肩車を維持出来るわけがない。

「きゃぁぁぁ!!」

バランスを崩したミサトは、加持を潰しながら地面へとダイブする。
丁度上下逆さまに、加持の上を跨ぐような形で着地する。
今の衝撃か、ミサトの顔は真っ青だ。

「もうだめ、我慢の限界ぃぃ〜〜」

加持の目の前にはミサトの黒いショーツが見えている。
この状態で仮に限界が来たら――

「なっ、や、やめろ葛城! 我慢だ、我慢しろぉ!」

いつもの惚けた調子は何処へやら、真っ青な顔で鼻血を出しながら懇願する加持。

「無理ぃぃ!」

「無理じゃなぁ〜い!」

...結構というか、やはりお似合いのカップルの2人であった



整備員がトランシーバーで何やらやり取りをしている。他の整備員と同じ服を着ているが、階級章は一尉を示す物が付いている。どうやら、整備班の班長らしい。
その前にはゲンドウとリツコが状況を確認していた。
整備員達は一生懸命に幾つもの一握りもあるチェーンを引いている。チェーンの先はエヴァの背後の何かの部品に繋がっているようだ。
と――
ようやく、ひとつの部品が初号機から取り外された。時を同じくして、弐号機も同様の作業が終了する。
ゲンドウの背後にいた一人の班長がゲンドウに報告する。

「停止信号プラグ排出終了」

「よし、初号機と弐号機のエントリープラグ挿入準備」

ゲンドウの言葉に班長は驚きの表情を見せた。

「し、しかし、未だにパイロットが」

「大丈夫よ、あの子達は必ず来るわ」

リツコは自信に満ちた表情で班長に答えた。
当然普通なら辿り着く事など出来はしない。
チルドレンといえど子供である。子供に侵入されるような組織であれば、戦自達はいつでもネルフの調査を行えるという事になる。無論、そんな訳がない。が、今はネルフの頭脳とも言うべきMAGIの大半の機能は現状維持で精一杯の状況である。
緊急ゲートを知っているチルドレンならば、ジオフロントに侵入する事だけならば可能だろう。
だが、そこから本部へ――しかもケイジと限定しては、来れる訳がないと考えるのが普通だ。
しかし、何故かリツコは子供達は来る――いや、シンジは来ると確信していた。
不意に、背後から地響きが聞こえてくる。
青い巨人がその姿を見せた。
リツコは即座に拡声器を使い指示を飛ばす。
『レイ、内部電源が切れる前に非常用バッテリーを装備して!』
零号機は無言のままだったが、リツコの指示に答えるかのように用意されていた非常用バッテリーをその背に背負う。
ゲンドウは既にエントリープラグ挿入の準備に手を貸している為、これ以上の指示は出せない。
ミサトが居ない今、指示を出すのはリツコの役目だった。
リツコは拡声器に向って、声を大にして叫んだ。

『零号機、発進!』



その頃、シンジ達はパイプの中を進んでいた。ここはかつてレイと通った排気ダクトの中だった。
先頭をシンジが進み、後ろをアスカが続く。

「ねえ、シンジ。まだ着かないの?」

「うん、もうそろそろだと思うんだけど...僕も詳しい道は知らないからさ...」

何せ、この道は本来レイが知っているのであって、シンジの知らない道だ。
見よう見まねでここまで来たが、自信などあろうはずも無かった。

「知らないったって、ここに入ったのはシンジでしょうが! 今更間違えたじゃすまないのよ! 使徒だって攻めてきているんだから!」

「そんな事分かってるよ。だから急いでるんじゃないか!」

「そう思うなら、さっさと出口に着きなさいよ! もう、情けないわね」

「そんなにポンポン言われても、こう暗くっちゃ簡単には進めないよ」

「何よ! さっきは強気だったくせに...見直して損したわよ」

「えっ?」

最後の方をアスカが小声で言った為、良く聞き取れなかったシンジが聞き返す。

「う、うるさいわねぇ! ちょっとだけよ、ちょっとだけ!」

「だから、何の事さ?」

「と、とにかくさっさと行けぇ!」

アスカは照れ隠しの為か、後ろからぐいぐいとシンジを押す。

「うわ、急に押さないでよ...って、わぁっっ!」

「なに...きゃぁぁ!!」

急にアスカに押されて、躓いたシンジが床を踏み抜く。と、同時にアスカの服を掴む。
ここはダクトである。技術の粋を極めたネルフの中である。
踏み抜くなんて出来るわけがない。という事は――ダクトの一部分が外れたのである。
すると、どうなるか――そう、結論はダクトから落ちるという事だった。

「あ、あんた達...」

リツコは思わず、微笑を浮かべてしまう。
それは己の予想が当たった喜びではなかった。
リツコ自身にも分からなかったが、何か心に響く物があった。
だが、それも一瞬だった。

「いっったぁ〜い! 何すんのよ、バカシンジ!!」

「しょ、しょうがないだろ! 急に落ちたんだから...」

「分かったから、早く退いてぇ〜〜」

「だぁから、押さないでぇ〜」

2人を見ている視線が冷たくなっていく。

「はぁ。まったく、あなた達は...」

未だに2人は縺れるようにして倒れている。
マヤがポツリと漏らす。

「不潔...」



エントリープラグに続くタラップの上でも2人の様子に作業が止まっていた。

「あ、あの...碇司令?」

「あ、ああ、各機エントリー準備!」

「「「う、うぉぉっす」」」

どこか、間の抜けた光景だった。

ようやく、立ち上がったシンジがリツコに詰め寄る。

「エヴァの準備は? 綾波は大丈夫ですか? 現在の状況は?」

矢つぎ早に質問するシンジに思わず戸惑いつつも、リツコは言葉を返す。

「ちょ、いっぺんには答えられないわよ。とりあえず、エヴァは用意できてるわ」

後ろからアスカも話しに参加する

「ねえ、何も動かないのに、どうやったの?」

「ふふっ...人の手でね」

リツコは再び笑顔に戻ると視線を上方に向ける。その瞳は優しくそして誇らしいような色が浮かんでいた。

「司令のアイデアよ...」

「......」

「う、うそぉ...」

シンジは無言で、アスカは驚きでリツコに答える。
タラップでゲンドウが他の作業員に紛れて、懸命にチェーンを引いている。

「碇司令はね...あなた達が来る事を信じていたのよ...」

リツコはそう呟くと、再びシンジ達に視線を戻す。
その表情は穏やかで、いつか見たミサトのような、聖母の笑顔を連想させた。

リツコさん...。
父さんの事...やっぱり...。

シンジも思わず笑顔を浮かべる。

「さ、あなた達も急いで着替えるのよ。今、上ではレイが戦ってるから、すぐに救援に向ってもらうわ」

「「はい!」」



綾波...無事でいて...。

「行くよ、アスカ!」

「分かってるわよ! レイに良い格好させてたまるもんですか!」

シンジたちがロッカールームへと駆け出そうとしたその時、日向の声が聞こえてきた。

『使徒、殲滅!』

「「「えっ?」」」

思わず声をはもらせるシンジ達3人だった。

タラップ上でも、再び作業が止まる。
既に、エントリープラグの挿入準備は調い、今まさにディーゼルに火が入ろうとしていた所だった。
整備班の班長がゲンドウに呟いた。

「い、碇司令...」

「......言うな」

「ごめん、遅れたわ! で、現在の状況は?」

ミサトが遅ればせながら駆けつける。
リツコはそれを白い眼差しで受け止めた。

「もう、終わったわよ」

「へ?」

ミサトが呆然とした表情を浮かべる。

「で、ミサトは何処にいたわけよ」

アスカも白い眼差しをミサトに送る。

「い、いや、その...エレベーターに閉じ込められてさ...アハハ......」

乾いた笑いを浮かべるミサトに、尚も冷めた眼差しで追い詰めるアスカ。

「ホントかしら...どうせ、加持さんとイチャイチャしてたんじゃないの?」

「な、何で加持がそこで出てくんのよ!」

「あ〜あ〜、どもっちゃってさ!」

「いや、加持も居たけど、二人で閉じ込められてただけだって」

「ふーん。ま、良いけどね...」

加持と居たと言っても怒り狂わないアスカに戸惑いつつも、ミサトはシンジとレイの姿がない事に気付き、リツコに問いかける。

「で、シンちゃんとレイが殲滅したの?」

「いえ、レイだけよ」

「えっ、でもシンちゃん居ないじゃない」

キョロキョロと辺りを見回す。

「ああ、シンジ君なら...レイを迎えに行ったわよ」

「あ、そう...」

ふと、ミサトはアスカに視線を移す。
思ったとおり、アスカの眉はピクピクしていた。

「あれぇ〜アスカ、シンちゃんいなくて寂しいの?」

「...ミサト...後で、エレベーターでの事詳しく聞かせてもらうから...覚悟しときなさいよ!!」

アスカの怒りのこもった視線を受けて、ミサトが鼻白む。
藪をつついて蛇を出したといったところだろう。
リツコは2人を見て溜め息を1つ吐くとポツリと呟いた。

「無様ね...」



1つの影が、ネルフから走り去ろうとしていた。

「よっ」

不意に暗闇から加持がその人影に声をかける。
人影は瞬時に距離を取ると、腰を落とし、いつでも対応できるように身構える。

「おいおい、別に殺し合いをしようって訳じゃない」

加持は降参を示すように両手を挙げる。
数瞬の後、ようやく影が構えを解く。

「やあ、始めまして、お嬢さん」

「......」

「そう、邪険にするなよ。俺の名は加持...加持リョウジだ」

「あなたが...」

ようやく言葉を発する影。その声はまだ少女の域を出ていない女性の声だった。

「ようやく、喋ってくれたね...霧島マナちゃん」

「エリスから聞いてます...で、何か用ですか?」

「いや、少し話をしようと思ってね。シンジ君の事で...」

マナがピクリと反応する。

「ちょっと、場所を変えないか?」

加持は一歩マナに近づく。
マナはそれに反応して、一歩退く。

「......良いですけど、それ以上は近づかないで下さい」

「おいおい、敵じゃないだろ俺は」

「分かってますが...臭いんです」

そう言うとマナは眉間にしわを寄せる。

「そ、そうか...」

加持は愛想笑いを浮かべるしかなかった。

怨むぞ、葛城。



零号機のエントリープラグからレイが姿を見せる。
LCLに濡れた髪から、一滴の水滴が零れ落ちる。

「綾波...」

レイが降りてきた頃を見計らって、シンジが声をかける。
だが、その声に力は込められていない。

「碇くん...」

「あ、あの...お疲れ様...綾波」

「......」

2人はどちらからともいう事無く、近くの草原に座り込む。
電気が落ちたドグマ内は静かだった。
光のない世界を二人で眺める。
遠くから蝉の声が聞こえていた。
レイとほとんど口を聞いていなかったシンジは、その雰囲気に戸惑いつつも素直に謝った。

「ごめん」

「なぜ、謝るの...」

「い、いや...」

「......」

「......」

2人の間に沈黙が流れる。

「「あの...」」

2人の声が重なる。

「碇くんから...」

「いや、綾波から...」

再び沈黙。

しばらくすると、どちらからともなく笑いが生まれる。

「はははっ...」

「ふふっ...」

「ゴメンね、綾波...。マナとは何にも無かったんだ。だから...」

レイはゆっくりとLCLで濡れた指先をシンジの口にあてがう。

「ううん...もういいの」

再び沈黙が2人の間に流れたが、シンジにとって――いや、2人にとっては先程までの沈黙とは全く違った感じを受けていた。

「電気...人工の光がないと星がこんなにきれいだなんて......」

「人は闇を恐れ、火を使い、闇を削って生きてきた...。でも、闇はこんなに美しい物を輝かせる事ができる」

「...うん」

照明が戻る。眼下に広がるジオフロントは闇夜に人工の光を溢れさせる。

「綾波...闇の中に光があるからこそ、その光は輝いて見えるんだと思う」

「...そうね」

「闇が有るからこそ、人は生きていけるのかもしれない...。でも、人は1人じゃないから...」

シンジはゆっくりとレイの手を握る。
レイもシンジの手を優しく握り返してくる。

「1人では闇は怖くても、2人なら恐怖を乗り越えられるかもしれない...」

シンジはレイに微笑みを送る。

「そうね...今は、私もそう思う...いえ、そう思える」

レイもシンジに微笑み返す。
2人は再び視線を夜空へと向けた。

「綾波...ごめんね」

「いいの...碇くんは碇くんだから......」

2人は互いに視線を交わす。
そして、どちらともなく笑いあった。
漆黒の闇から光溢れる世界に戻った二人は時間を忘れて、いつまでも笑いあっていた。



<お詫び>

今回は大変に間が空いてしまって、読んで頂いている読者様に申し訳のない事をしました。
深く反省しております。

一応、数話分をまとめて掲載する形を取らせて頂こうかと思っているのですが、1話ずつの掲載のほうが間が空かないので良いということでしたら、自作が出来次第送る形を取らせて頂きます。
また、今回から文章の書き方も変えてみました。
もし、お気に召さない場合は以前の書き方に戻します。

ご意見、ご感想があればメールにてお知らせください。
必ず、ご返事はお返しします。
もし今までに送られて、まだ届いていないという方が居られましたら、お手数ですが再度メールにてお知らせください。

では、次回まで...。

葵 薫


Please Mail to 葵 薫
( aokao_sec@yahoo.co.jp )

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