綾波レイを愛した私

私の部屋には一枚のポスターがある。 等身大の女の子のポスターだ。 私は世間では「もういい年」と見られている。 実際結婚して、子供が居てもいい年だと自分でも思うし、そういう同級生も居る。 だから、お気に入りの女の子のポスターやカレンダーが部屋に飾ってあったり、アイドルの写真集やビデオだって持っていても、少しもおかしくはないはずだ。 でも、私の部屋には、その女の子のポスターが一枚、飾ってあるだけなのだ。 しかもその女の子は実在しない。 綾波レイ―――彼女である。 私はそのポスターに話し掛ける。 「おはよう」 「じゃ、いってくるよ」 「ただいま」 「おやすみ」 他愛もない日常の挨拶に過ぎない。だがやはり「変」だということは理解している。 だから自分の部屋で、他に誰も聞いている者も居るわけもないのに、口に出しては言わない。―――やはり変だ。 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼女はいつも無表情だ。いや、知ってるわけは無いのだが。 「無表情」というのも表情の一つのはずだ。とすると「無表情」というのはおかしいということになる。 顔があるのだから表情が無いということは無いだろう。 「無感情」と言う方が正しいのか? 否、本当に彼女には感情が無いのか? あの表情の奥には、深い深い哀しみが隠されているのではないのだろうか。 上も下も分からない暗い深淵。自分が落ちていっているのか、上がっているのか、ただ浮いているだけなのかも分からない。 自分が自分の中で次第に小さくなっていく。暗闇の中で、やがて自分の存在が消えていく。 暗闇だけが残される。どれだけ広いのか、どれだけ深いのかも分からない。 そんな哀しみが隠されているような、そんな気がするのだ。 だからこそ、時々彼女は感情を見せる。笑ったり、戸惑ったり、泣いたり。 いいや、本当は私がそう思いたいだけなのかもしれない。 彼女の心は深い哀しみに包まれているのだと。 だから私は、………………………… こんな取り止めの無いことを考えてみたりしている。―――やはり変だ。 ある日彼女が笑っていた。 眼の錯覚だと思った。 いや、笑っている。 そう見えるだけかもしれない。 いいや、確かに笑っている。 その日私は特別に何かいいことがあった訳でもない。気分が晴れていた訳でもない。いつもと変わらない。 しかし彼女は笑っている。私はそう確信した。 とうとう私は本当におかしくなったのか? しばらく悩んだあと、私は自分が正常であるための防御手段をとった。 「やっぱり君の笑顔は最高だ」そう言って気にしないことにした。 その日から、彼女の表情が毎日少しずつ違って見えた。 嬉しそうだったり、楽しそうだったり、機嫌が悪そうだったり、今にも泣きそうだったり。 そのうち、私の帰りが遅かったときには決まって怒っているように見えた。 逆に帰りが早いときや、休みの日には笑って見えた。休みの日に出かけようとすると悲しそうだ。 いやいや、やっぱりそれは勝手な解釈と言うものだろう。 ある時私は、嬉しそうに見える彼女の顔の写真を撮った。他の時の顔と比べてみようと思ったのだ。 さすがに現像に出すのは恥ずかしいのでデジタルカメラだ。 しかし、カメラに写った彼女の顔は無表情だ。眼の前の彼女は笑っているのに。 何度やっても結果は同じ。 カメラの中の彼女と、目の前の彼女が違って見える。 眼の大きさ、見詰める方向、眉の形、唇の線、一つ一つは同じなのだが、表情は違って見える。 私はあきらめた。 幸いにも外で人から怪訝な目で見られる事も無いし、仕事で失敗をしたわけでもない。 仮に私が少々変になっていたとしても、実害は無いのだ。 私が気にしなければそれでいい。 だが、やがて妙なことが起こるようになった。 朝出かけるときと、帰ってきたときでは、部屋の様子が少し違うのだ。なんとなく違和感がある。 はじめはそれが何か気が付かなかったが、どうやら置いてある物の位置が少し変わっているようなのだ。 取られた物は無い。泥棒ではないらしい。 出かける前の戸締りを厳重にし、部屋の配置を頭に叩き込んで出かけてみる。 帰ってくると微妙に物の位置が違う。 彼女は楽しそうだった。 そしてそれは起こった。 朝起きると私のメガネが無い。 確かに昨日寝る前、机の上に置いたはずなのに。そのあたりを探しても見当たらない。 困った、あれが無いと車の運転が出来ない。ということは仕事に行けないということだ。 ふと、胸騒ぎがして彼女を見た。 ! ―――眼鏡を持っている。 これはそんなポスターではなかったはずだ。しかもあれは私のメガネだ。間違いない。 私のメガネを両手で抱えて笑っている。 見間違えでも気のせいでもない。嬉しそうに笑っている。 そのとき私は混乱していたに違いない。 ぐるぐる回る頭の中で、真剣に考えた末に私が取った行動は電話をかけることだった。 「すいません、今日は休ませてください。」 『問.次の中から正しいと思うものを選びなさい。』  ゼ造呂海譴鰐瓦任△襦 ◆セ笋了廚げ瓩瓦靴如△發箸發箸海離櫂好拭爾世辰拭 .誰かが夕べ私が寝ている隙にポスターを張り替えた。 ぁセ笋砲呂海凌日間の記憶がなくなっている。 ァセ笋亙未亮仝気北造すんでいる。 ……………だめだ、もう思いつかない。 思いつかない以上、答はθ屬澄 『答:Αト狃がポスターから出てきて私のメガネを奪った。』―――理解できない。 とにかく外へ出て少し頭を冷やそうと思った。 そう、やっぱりこれは何かの見間違いで、帰ってきたらメガネが見つかるに違いない。 部屋を出るとき、馬鹿げているとは思ったが、念のためと言ってみた。 「頼むよ、それが無いと仕事にも行けないんだ。」 一時間ほど近くの喫茶店で紅茶を飲んで時間を潰した。 少し緊張しながら部屋に戻ったが、結局メガネは彼女が持ったままだ。 私はこの事態を、喫茶店で考えた科学的な方法で検証しようとした。 本当に彼女がこのポスターから出てきたのかどうか確かめようというのだ。 そのためにはおびき出すものがいる。 私はコンビニで材料を買い、ニンニクラーメンを作った。もちろんチャーシュー抜きである。 ニンニクラーメンチャーシュー抜きを部屋のテーブルの上に置いて、フタ代わりに皿をかぶせた。 もし何事も無ければ自分で食べるつもりだ。 そうしてラーメンを入れた丼と、ポスターが写るようにビデオカメラをセットして再び部屋を出た。 一時間ぐらいでいいだろう。さっきの喫茶店には行かずに、今度は公園で暇を潰した。 出来るだけ人のいるところに行きたくなかったからだ。 だんだん自分がおかしくなっていっているような気がする。何か妙なことをしてしまうのではないかと不安だった。 もちろん、自分では全く正常なつもりだ。しかし妙なことをする人の大半は、自分は正常だと思っているものではないのか? 部屋に戻ってカメラを止めた。 部屋の様子は出て行くときと変わらない。丼の上にフタ代わりの皿が乗っている。 何事も無かったかと皿を取った。 …………………………無くなってる。 さっと振り返って彼女を見る。満足げに見えるのは気のせいか? 私は震える手でカメラを再生した。 出かけるときに念入りに戸締りをした。人はおろか犬猫たりとも入ってこれないはずだ。 何か写っていたらどうしよう? 私は小さいときから幽霊の類が大嫌いだった。夜一人でトイレに行けなかったクチである。 祖母に『死んでも絶対にバケて出ないでね。』などと言っていた。 やさしい祖母は笑ってハイハイと言って、その約束を守ってくれたが、子供とは残酷なものである。 不安2割、期待3割、そして5割の理性を保つように努力しながら、画面を見詰めた。 ………何も写っていない。 いや、皿を載せた丼は写っているのだ。 しかし、私がビデオのスイッチを入れて部屋を出てから、帰ってきて切るまで、期待していたようなものは何も写っていなかった。 でも丼の中身はなくなっている。 3回見直した。眩暈がした。 彼女が…………… 私はポスターの前に立ち、ジッと彼女を見詰める。 ぐっと顔を近づけてみる。 あと、5cm、………3cm、………1cm、…………… バカバカしい! 私は理性を保つための最後の抵抗を試みた。 「全く君は僕を悩ませるよ。」そう言って寝た。 結局新しいメガネを買わされる羽目になった。 あれ以来ちょくちょく何か無くなるようになった。どうやら彼女は大変ないたずら好きのようだ。 不思議なもので一週間もすると慣れてしまった。なあに、実害は無いさ。 大半のものはすぐに返してくれる。でもメガネだけはしっかり両手で抱えたままだ。どうやらお気に入りらしい。 そのうち私はあることを期待するようになった。 『いつか私の見ている前で出てきてくれるんじゃないだろうか?』 しかしその期待は裏切られた。 その日は休日だった。 目が覚めると彼女が消えていた。 彼女のいない背景だけのポスターが掛かっている。 出て行ってしまったのだろうか?背景だけのポスターを見ながら、私はギリシャ神話のある話を思い出していた。 ―――ピグマリオンは優れた彫刻家でした。 彼が造る彫刻は、まるで生きているようでした。 彼は女嫌いでしたが、とうとう自分で造った象牙の乙女の像に恋をしてしまいました。 宝石の贈り物をし、綺麗な服を着せ、布団に寝かせたりしました。 あるとき、彼は神にお願いをしました。―――「どうか彼女を私の妻に」 神は彼の願いを聞き届け、乙女の像に命を授けたのです。――― どうもこれは、美の女神アフロディーテが、乙女の像が自分に似ていたので、『憂いヤツ』と思って願いを聞き届けたものらしい。 彼女も神に命を授かったのだろうか? 彼女も女神に似ていたのか? しかし彼女にアフロディーテというイメージは湧かない。 アフロディーテは眩く輝く天真爛漫な美女というイメージがある。 どちらかというとあちらの彼女の方か。………少し意地悪なところもあるようだし。 彼女にはやはり月のイメージだ。 そうするとやはりアルテミスか? 神話ではピグマリオンは、その乙女と幸せになったようだが、私はそうはいかないらしい。 もっとも、神話の結末に、私は少しく疑問を抱いていたのだが。 ともかく、その日私は寂しい休日を過ごした。 次の日、仕事から帰ると、彼女が戻っていた。 出て行く前と同じ、私のメガネを両手で抱えている。 私はホッとして彼女の顔を見た。 何故か彼女は、何となく戸惑ったようなそんな顔をしていた。 正に『どんな顔をしたらいいのか分からない』というやつだ。 ほうっとため息を一つついて、私は彼女の悩みを解決してやることにした。 だが、私のセリフは『笑えばいいと思うよ』ではない。 「バカだなあ、帰って来なくってもよかったのに。」 次の日の朝、彼女はまたいなくなっていた。 机の上のパソコンに電源が入っている。 ワープロで書かれていた言葉―――『ありがとう』 はじめての言葉、か。 もう彼女は戻ってこないだろう。 その証拠に、彼女のお気に入りの私のメガネが、机の上に返してあった。 仕事に向かう道すがら、車の中で私は考えていた。 今彼女はどんなカタチでこの世界にいるのだろう? あのままの姿なのだろうか? まさか。蒼い髪に、赤い眼なんて、……… いや、少し変な目で見られるかも知れないが、そんな女の子が現実に居ても、見てみぬふりをするのが今の時代だろう。 しかしそれはあんまりというものだ。それにどうやって生活していくというのか? 家族も居ないし、食べていく当ても無い。 帰ってこなくていいと言ったのは失敗だったか? でも彼女は明らかに外の世界が気に入ったようだった。 ひょっとしたら、魂だけで存在しているのかも。………幽霊じゃあるまいし。 だが、以前撮ったビデオには何も写らなかったぞ。 魂だけというのは可哀相すぎる。 そうだ、現実に存在している女の子の体に転移した、というのはどうだろう。 うん、これが一番現実的だ。 その際記憶がどうなっているかという問題は残るが、何せ神様だからな、何でもアリなのだ。 ここまで考えて納得し、ようやく私は自分がバカだということに気がついた。 それから一週間後、私は新しいポスターを部屋に飾った。 二人目の綾波レイ、―――彼女はまだ、「無表情」だ。

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