いつか、果てしない空へ

平八郎

第一章 終わる「世界」

 僕は、いつものようにパソコンを起動させて、昨晩帰宅した後にメールが届いていないか確認している。いつものように沢山届いているのは、ベトナムのハノイ支社やインドのボンベイ駐在員事務所からのメールばかりだ。一通ずつゆっくり読んでいる暇はない。なにしろ、僕はいつも始業ぎりぎりにオフィスに来るので、朝のミーティングまでに慌ててミーティングで話す内容を考えないといけないのだ。

 周りでは、もう同僚たちはメールの処理をあらかた終えて、ディスプレイに自分が担当している商品の市況グラフなどを呼び出して、数字を更新している。

 それに引き替え、僕は海外支社からのメールを大慌てで斜め読みしている最中だ。こんなときに限って、パソコンの調子が悪く、画面がフリーズする。いらいらして、マウスを人差し指でトントンと叩きながら、画面が動き出すのを待っていると、不意にラベンダーの香りに包まれた。

「なに、まだメールの処理が終わってないの? ねー、碇君、もうちょっと早く来るようにしようよ。そうじゃないと、ミーティングまでに市況の把握、終わらないよ」

 ぎくっ、として、横を向くと、上司がとても困った顔で、僕とパソコンの画面を見比べていた。

「あ、すみません……。今日は、なんだかパソコンの調子が悪くって……。いつもなら、もうこの時間には市況のグラフを伸ばしているんですけど……」

 愛想笑いをしながら首を少しすくめて見せると、上司は「はぁ……」と軽く溜め息をついた。

「そういう、予期せぬ事態が起こるリスクも見込んで、少し早く出社するぐらいの気持ちの余裕を持ってね。あなたも、もう4年生なんだから」

 いつもの台詞だ。この決め台詞が出ると、上司のお説教は終わりに近づくので、僕は内心、ほっとしながら、「でも、早く出社したって、別に時間外手当がつくわけじゃないですよね。ただ働きの時間なんか、少しでも減らしたいですよ、僕は……」と心の中で呟いた。

「はい。申し訳ありません……。明日からもう少し早く来るようにします」

 口調と表情だけは神妙にして、僕は、このオフィスに配属になってから、何十回目かの同じ言葉を繰り返した。毎日、というほどではないが、僕と上司のこんなやり取りが繰り返されているので、同僚たちも殆ど関心を寄せず、忙しそうに自分の端末の画面を眺めている。ようやく上司が傍から離れてくれたので、「やれやれ……」と思って、僕も端末の画面に視線を移すと、「予期せぬエラーが起こりましたので、OSを終了します」というポップアップのメッセージが表示されていた。悪いことは重なるものなんだな、と実感しながら、観念して端末をシャットダウンすると、真っ黒になった画面に、少し離れた席から僕を見つめている女性の視線が映った。

「あいつ、また見てるよ。そんなに僕がヘマしている姿が面白いのかな。ま、誰になんと思われようと、僕は構わないね。あいつにはあいつの人生、僕には僕の人生があるんだから。それに、洞木はお気楽な一般職じゃないか。総合職の苦労なんて、わかるはずもないさ」

 さりとて振り返って視線を合わせて睨み返すのも、なんだか馬鹿らしく思えて、端末が再起動して画面が明るくなるのを、僕はひたすら待ち続けた。

 3時間後、僕は通勤途中にコンビニで買ってきた調理パンを食べながら、様々な高さのビルの群れが延々と続く景色を眺めていた。昼休みのオフィスには全く人の気配がなく、僕はようやくリラックスして、窓の外を眺めながら昼食を食べているはずだった。しかし、さすがに今日は、あまり晴れ晴れした気分にはなれそうもない。

「なんで今日に限って、ブラックタイガーとバナメイの価格を間違えて報告ちゃったんだろう……いったい、エビの担当になってから何年、経つんだよ……」

 今朝のミーティングで、僕は自分でも恥ずかしくなるような初歩的なミスを犯した。インド産のブラックタイガー(高級品の黒いクルマエビ)の価格と、ベトナム産のバナメイ(中級品の黄色いクルマエビ)の価格を間違えて入力してしまい、昨日と比べてブラックタイガーの価格が大幅に下がったグラフになってしまった。

 上司からは、「それ、データおかしいわよ。ちょっと見せてごらんなさい。あー、これ、バナメイと逆になっちゃってるじゃないの。ちょっと、しっかりしてよね。のどかなハノイから慌ただしい第三新東京市に転勤してきて、すっかり環境が変わっちゃったから、仕方がないかもしれないけれど、そろそろ新しい環境に慣れてね。もう3か月も経つんだから」と言われて、僕は同僚たちの視線の中で、ただただ赤面してうなだれるしかなかった。これは、さすがに効いた。上司は、今まで僕が失敗しても、同僚がいる前でここまで厳しく叱責することはなかったのに、今日は、今朝の一件もあったので、よほど腹に据えかねたんだろう。

「僕だって、好きでハノイになんか行ったんじゃない……それは、ミサトさんだって、よくわかってるはずじゃないか。それなのに、なんであんなこと、言うんだよ……」

 ハノイの話は、僕にとっては辛い記憶だけを呼び覚ます古傷以外の何物でもない。それをよく知っているはずの上司が、ついハノイの名を口に出してしまったのは、それだけ彼女の苛立ちが激しかったことを示していると思う。

 彼女はなぜだか知らないけれど、こんな僕によく言葉をかけて構ってくれる。おそらく部下の精神状態がメンタルダウンを起こさないように、仕事の一部として僕に声をかけているのかもしれない。最近は、欝病で会社を長期欠勤する社員も増えているから、それへの対策として、上層部あたりから「メンタルヘルス・マニュアル」でも配布されて、そのマニュアルどおりに、僕に声をかけるようにしているんだと思う。彼女は僕の上司で管理職なんだから、それは当然の義務なんだろう。

「……あー、日本になんか戻ってこなきゃよかった……」

 僕は無意識に呟いて、すぐに自分が声を出していたことに気付いて、慌てて辺りを見回したが、同僚たちは、みんな連れだって社員食堂に行ったり、屋上で弁当を食べているので、昼休みのオフィスには誰もいない。

 安堵して頬杖をついた瞬間、オフィスのドアが開く音がした。昼休みから誰かが戻ってきたようだけど、僕には何ら関係はないはずだ。いつものように、すぐに足音は複数になり、しかし、いつもと違う会話が僕の耳に飛び込んできた。

「おい、トウジ、昼のニュース見た?」

「ああ、蕎麦屋のテレビで見て、思わず吹いてしもたわ。うちの会社、合併するんやてなぁ。本当かいな?」

「国営テレビのニュースだから、ガセじゃないだろ。しっかし、まさか、相手が三井綿業とはね……」

「岩友物産とミツメンは、ずっとライバル会社として闘こうてきたさかいなぁ。いきなり、ハイ、昨日の敵は今日の友、とは、気持ちが切り替えられんで……どや、ケンスケは?」

「まあね。でも、会社の規模が大きくなれば、それだけ競争上、有利になるじゃないか。俺の担当してる穀物なんて、資金力勝負だからね。これで、よそと張り合っても買い負けなくなるかもしれないな」

「そらそやけどな……。せやかて、ウチよりミツメンのほうが強い部門は統廃合されて、ウチの社員ら、よそに配置転換になるんちゃう?」

「ああ、その可能性はあるね。でも、トウジの担当してる肉類なんかは、ミツメンが弱いから、大丈夫なんじゃないか。それよりも、だ。もっとも危ないのは……」

 不意に同僚たちの声が小さくなった。

 彼らが何を言おうとしていたかは、この僕にもよくわかる。おそらく、彼らは、僕の背中を見つめているに違いない。

 ウチの会社のライバルの三井綿業、つまりミツメンは、海産物の分野では、業界でも絶大なノウハウと人脈を持つ総合商社だ。おそらくミツメンと合併することになれば、新会社の海産物担当者は、ウチではなくミツメンから来ることになるだろう。そうなれば、僕は、まず間違いなく、お払い箱だ。

「いまさら、どうなったって、もう驚くもんか。どうせ、どこの部署に行ったって、何も変わりはしないんだから。どうにでもなればいいんだ……・クビにさえならなきゃ、御の字さ」

 僕は捨て鉢な気分で、パンをぐしゃぐしゃと噛むと、思いきり飲み込んだ。石鹸みたいで、なんの味もしなかった。

「今度の合併、うちの会社にとっては、そんなに悪い話じゃないらしいわよ」

「おおっ、洞木、ほんまか、それ? そら、また、なんでや?」

「ミツメンの筆頭株主に、突然、投資ファンドが浮上したんだって。どうやら、ミツメンの創業家から、株を譲り受けたらしいの。それで、その投資ファンドが、今度はうちの親会社、岩友ホールディングスにそのミツメン株を引き取らないかって打診してきたらしいわよ。テレビで言ってたけど」

「ああ、俺も聞いたよ、そのニュース。投資ファンドは、うちの会社の株とミツメン株の交換を持ちかけてきたらしいね。それで、うちの会社は取引銀行と相談して、銀行の持っていた岩友物産株を投資ファンドに渡したってわけさ」

「ほな、新会社では、その投資ファンドが大株主っちゅうことか?」

「そういうことだね。しかし、聞いたことないファンドだよな。ヘルシュタット・キャピタルなんて……」

「名前からして、ドイツ系なんやろなぁ」

 そんな同僚たちの会話をいつにも増して遠くに聞きながら、僕は、どこかの小さな漁港の市場で、薄汚れたジャンパーを着て、魚の買い付けに走り回っている自分の姿を想像して微笑えんだ。ほんとに追いつめられると、人間は涙を流すのではなく、むしろ笑ってしまうものらしい。ただ、喉は張り付いたようにカラカラに乾いてしまっているので、僕は、コーヒーの入った紙コップに手を伸ばした。紙コップは、もはや熱くない。中のコーヒーも、もう冷めて生温くなってしまったに違いない。

 そのとき、廊下を走る甲高いヒールの音とともに、上司がオフィスに駆け込んできた。

「投資ファンドの社長が、いま、うちの会社の正面玄関に車で乗り付けたみたいよ! 私、ちょうどランチから帰ってくるとこで、そいつらしい奴、見ちゃったのよ! 碇ゲンドウってやつ? なんか、えらい人相悪かったわよー」

 僕は、紙コップを握りかけていた手を条件反射的に引っ込めてしまい、ノートパソコンのうえに、派手にコーヒーをぶちまけてしまった。慌ててハンカチでパソコンをあちこち拭っている僕を、同僚たちは「また、こいつは……」という呆れた眼で眺めていた。

(つづく)

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