いつか、果てしない空へ

平八郎

第二章 閉じられた窓

 碇ゲンドウ。

 その名称を最後に思い起こしたのは、もう4年も前のことだ。記憶の封印を解いて、その名称を再び脳裏に蘇らせるのは非常に苦痛だったけど、しかし、入社時の 提出書類に両親の名前を記入する欄があったので、やむをえず、僕は、その名称を記憶の底から掘り起こした。あの物体の名称を「父親」欄に書くことに激しい 抵抗を感じたけど、生物学的に僕はあの物体の遺伝子を受け継いていることは逃れられない事実であり、いや「業」とでも呼ばれるような宿縁なのだ。いかに僕 が、あの物体を忌み嫌ったからといって、その「業」から逃れられる術はない。

 おそらく次にその名称と対面するのは、その物体が生命を終えて、その知らせが僕のところに届くときだろう、と思っていたのに、予想外に早くその名称を耳にす ることになった。過去のいろいろな場面が、まるでコマ送りの画像のように、僕の脳裏に次々とフラッシュバックしていくのを、僕はまるで客観的に認識してい た。そして、条件反射的な嘔吐感に襲われた。

 幸いコーヒーの量が少なく、しかも、キーボードのほうには少量しか流れ込まなかったので、パソコンはなんとかダウンしないで済んだ。ただ、30分くらいは、 カーソルが勝手にあちこちに飛んでしまう現象が続き、このまま駄目か、とも思ったが、僕と同様に、パソコンも多少の「悪運」があったようだった。

 同僚たちは、昼休みを終えて、もう忙しそうに端末で作業したり、どこかに電話をかけたりしている。上司は、ついさっき、どこかから電話を受けて話していたけ ど、途中で急に表情が険しくなって、電話を切ると慌ててどこかへ出て行った。これまでの先例から推測すると、おそらく取引先からのクレームの電話だったに 違いない。トラブルの規模が大きいので、たぶん、部長のところに報告に行ったんだろう。日頃、お気楽そうに振る舞ってみせている彼女も、中間管理職の端くれとして、それなりに苦労しているんだろう。でも、その対価として、僕たちよりも高い給料を貰っているんだろうから、まあ仕方ないだろう。

 そんなことを思いながら、ようやく正常に動き出した端末で取引先からのメールを読み始めたとき、オフィスのドアが開く音が聞こえた。誰かがひっきりなしに出入りするオフィスなので、僕はまったく気にせずにメールを読んでいた。

「久しぶりだな、シンジ」

 聞き覚えのある声だ。あの物体が発している声だ。振り向いて、その現実と向き合うのが激しく嫌だった。

「あのー、碇君……碇ゲンドウさんのご子息、だったのね。ついさっき、秘書室から呼ばれて飛んで行ったら、お父様が碇君に会いたいとおっしゃっておられて……それでご案内したんだけどね……」

 明らかに上ずった上司の声を聴いて、彼女の驚愕ぶりと緊張の度合いが手に取るようにわかった。そして、急に上司が気の毒になった。それはそうだろう。一夜に して自分の会社の大株主に浮上した男が、こともあろうに自分の会社に乗り込んできて、あまつさえ、自分の出来の悪い部下が、実はその大株主の息子だったな んて、それこそ視聴率の上がらない2時間物のサスペンスドラマみたいな展開なのだから。でも、彼女にとって不幸だったのは、これが架空のドラマではなく、 目の前で繰り広げられている現実だったことだ。

 仕方なく、僕はゆっくりと椅子を回して振り返り、上司の隣に立っている物体を見上げた。

「8年ぶり、かな。それにしても、投資ファンドの社長とは、随分と畑違いのところへ来たんだね。大学をクビにでもなった?」

 僕は、何の感情も込めない声で、そして、自制しているのに、どうしても憎悪の色が滲み出してしまう眼差しで、その物体と相対した。

「相変わらず、時世の流れに疎いな。金融工学の世界では、リスク分析や投資判断にために、極めて高度な数学的知識が必要とされているのだ。時代が私を呼び出したのだ、あの薄暗い研究室の奥から、な」

 両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、ぞんざいな態度で薄笑いを浮かべて、その物体は僕を見下ろし続けている。あの薄笑いを、僕は過去に何度も見てい る。そして、その都度、そこらにある物を振り上げて殴りつけたい衝動に駆られて、必死でそれを抑えてきた。あの衝動が、いま、また、心の底で急速に沸騰し ようとしているのを感じて、僕は急いで視線をそらした。

「……で、今日は何の用?」

 いささか、つっけんどんに答えながら、ふと視線を上げると、少し口を開き加減にしたまま表情をこわばらせて事態の推移を凝視している同僚たちの顔が見えた。 上司はここに来る前にきっと同じような表情をしたに違いないが、今は多少は事態を把握しているので、まだ冷静さを保っているけど、同僚たちは、いま、この 瞬間に事実を突き付けられたのだ。彼らの驚愕ぶりを推察して、僕は、ちょっと彼らが気の毒になった。

「社長と会って、その帰りだ。これから、ここに来る機会が増えるだろう」

「ここに来る機会が増えようが減ろうが、僕には関係ないことだ。あなたとは、戸籍上は、親では子でもないんですから」

 冷静でいようと努めてきたのに、やはり、つい言葉の端が荒くなってしまった。ついでに、奥歯も堅く噛みしめて、僕は、眉間にしわを寄せて、その物体を睨みつけていた。

「親権は放棄したが、な。それでも、お前は、私の血を半分受け継いでいることに、何ら変わりはない……いつまでも、そうやって、駄々をこねているがいい。少しは成長したかと思ったが、お前にはまた失望した」

「失望したからこそ、僕や母さんを捨てたんだろ!? 14年前に!」

 あの物体の挑発に引っ掛かって、僕は思わず声を荒げて、椅子から立ち上がってしまった。勢いよく立ちあがったので、その反動で椅子の脚が、ガッタンと派手な音を響かせた。

「……お前は、何もわかっていない。いや、知ろうとしていない。知ることを恐れる者に進歩はない」

 その物体は、顔色一つ変えず、僕の眼を正面から睨み返してきた。あたかも、僕の眼を通して、僕の心の奥底までを凝視しようとしているかのように。

「知りたくもないよ、昔のことなんか! どう言い繕おうとしても、父さんが僕たちを捨てたことに変わりはないじゃないか!」

 もう言うまいと思っていた単語が、つい口から出てしまった。あの物体のことを「父さん」なんて呼んではいけないのに。

「相変わらず、状況判断のできない奴だ。ここでそんなことを話して何になる。そんなこともわからんのか……そのうち、ゆっくり話す機会ができる。それまでに考えをきちんと整理しておくことだ」

 その物体の言葉を聞いて、ぼくは、はっと我に返った。上司や同僚たちは、聞いてはならないことを聞いてしまったかのように非常に当惑した表情で、僕たちを見 つめていた。これで、また、上司や同僚たちとの溝が確実に深まるな。まあ、これまでも溝を埋めようと努力したことは一度もないけれど。でも、あの物体の言 うとおり、こんな内輪の話は、この場でするべきじゃなかった。

 それでも、まだ反駁しようとして口を開きかけたとき、その物体は僕に背を向けてオフィスから出て行こうとしていた。僕たちの様子を呆然と眺めていた上司が、 慌てて我に返って、あの物体の後を追っていく。そんな二人を、僕は、ただ、両手を固く握り締めて、立ちすくんだまま見送るしかなかった。

 ドアが閉まり、そして数秒間の静寂の後、まるで魔法でも解けたかのように、同僚たちがざわつき始めた。おそらく、一斉に僕に視線を合わせながら、先ほどの光 景について話しているに違いない。そのときになって、ようやく、僕は、全世界に人間が僕ひとりしかいないような、そんな気持ちにさいなまれていた。

 周囲のざわめきを少しでも耳に入れまいとして必死に仕事をしているうちに、上司がオフィスに戻ってきたが、僕の脇を通ったのに、彼女は僕に何も言葉をかけな かった。「深い事情のありそうな親子には関わり合いにならないでおこう」と彼女が考えたとしても、それはむしろ正しい判断だと思う。あくまで彼女にとっ て、僕は職場の部下に過ぎないし、下手に関係すれば、会社の大株主の機嫌を損ねて、自分の地位も危なくなる。触らぬ神に祟りなし、と彼女が考えるのは、至 極、妥当な判断だろう。僕も、この満座の中で先ほどの話を蒸し返されたくなかったので、少なからず、ほっとした。

 オフィスのざわめきは、30分もすると消えてしまった。きっとみんな、先ほどの光景について、会社中の同僚にメールで話しているに違いない。1時間前までは ドジで出来の悪い無名の社員の一人にすぎなかった僕が、夕方にはいきなり有名人というわけか。これから先、いろんなこと、あること無いこと、取り沙汰され るんだろうな。そう考えると、この会社に通うことがたまらなく嫌になった。屈辱に満ちたハノイでの生活が終わり、ようやく日本で安泰な毎日が過ごせそうに なってきたのに、それももうおしまいだ。それもこれも、あの物体のせいだ。僕は、端末の画面を見ているのに、心の中はあの物体への憎しみで目が眩みそう だった。

 夕方の退社時刻になり、同僚たちが三々五々、「失礼しまーす」と周囲に声をかけて立ち去っていく中で、僕は黙って仕事をしている「振り」を続けていた。僕の 今日の仕事も、実はもう終わっているけど、僕が立ち上がれば、必ず周囲からまた凝視されるに違いない。それが嫌だったので、今日は残業して、最後にオフィ スを出ることにしよう、と思っていた。

 オフィスの窓から見える空が、だんだんと赤銅色から薄墨色に変わるのを横目で見ながら、僕はオフィスの全員が退社するのを待ち続けていた。いつもは大声で 「今日は帰りに飲んでくか!?」とか話している鈴原も、今日は心なしかおとなしいようだ。鈴原だけではない。相田も、そして、上司までもが、なんだか妙に 静かで、よそよそしい感じがする。腫れ物に触る、という表現がびったり当てはまるような感じだ。それはそうだろうな。あんな光景をみせられちゃったら、誰 しもそんな態度になってしまうに違いない。

 3時間後、明日処理すればよい仕事の半分くらいまで終えてしまった頃、オフィスには、僕のほか、上司が残るだけとなった。その上司も、いま、まさに帰り支度 を終えて、席を立ったところだ。僕の後ろを少し硬めのヒールの音がゆっくりと通り過ぎて、ドアのほうに向かっていく。が、急に、ヒールの音が途絶えた。こ れでやっと帰れる、と思って少し気が緩んでいた僕は、どうしたのかと思って、つい、顔を上げてドアのほうを向いてしまった。その視線の先には、今までに見 たことがないような、複雑な、そして僅かに悲しみすら窺われる表情で、僕を見つめている上司の姿があった。

「……碇君……」

「あ、はい」

「……あの、その……明日は、ちゃんと早く来るのよ。きっと、ね」

「あー、はい。今朝はご迷惑、おかけしちゃいましたからね。明日は少し早く来るようにしますよ」

「早く来れば、余裕持ってミーティングに臨めるからね。それから……・」

「はい?」

「……あ、いや……うん、それじゃ、また明日。お疲れさま」

 上司は、明らかに何かを言いかけて、それを呑み込んで帰って行った。何で、あんな眼差しで、数秒間、僕を眺めていたのか、僕にはまったく理由がわからなかっ たが、もしかすると、家庭環境が複雑な部下に対する哀れみの視線なのかもしれない。そう思われても仕方ないな。今日の、あの物体とのやり取りは、完全に失 敗だったから。

 窓辺を覆い尽くしている漆黒の闇を見詰めながら、僕は、少し背伸びをしてから、「はぁーっ」と深い溜め息をついた。窓に映った自分の姿は、なんだか小さく、そして、ひどく醜悪なもののように見えた。

(つづく)

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