EVA -- Frame by Frame --

 

<第4話 雨、泣き出した後>

 

「零号機、出ます!」

「陽電子砲の充電完了。誤差修正プログラム、最終段階に入ります」

 リツコの手元には全てのデータが集められている。細く長い指が、波濤のごとくよせる情報を処理していった。キーボードに両手を踊らせる神速の技は、電脳界のキース・エマーソン。叩き出す調べは加速装置つきのトッカータ。

(初号機のシンクロ率は?)

 リツコが闘っているのはもはや使徒ではなかった。上昇を続ける初号機のシンクロ率、それが臨界値に達するより前に鬼子母神の暴走を鎮めねばならぬ。

 傍らでは、少し距離を置いてミサトが口元を厳しく引き締めながら、リツコの手元を見まもっている。今また、事態は作戦部を離れた。あとは旧友とチルドレンに託すばかり。

(2秒、稼げる)

 リツコはエンターキーをタンッ、と叩くやミサトに告げる。

「お願い」

「発射!」

 間髪入れずにミサトの号令が響く。陽電子砲の長大な砲身を肩にした零号機が引き金にあたる部分をリリースし、膨大な指向性エネルギーの奔流が放たれる。

 使徒は立ち尽くす。その触手は再起動した初号機によって握り潰され、動きを封殺されていた。零号機が干渉するまでもなく、使徒のATフィールドは初号機の爆発的な力によって霧散していた。

 瀬を速み、大気に爆ぜる反物質の−−

 

 陽電子砲の一撃は、使徒のコアを正確に射抜いた。

 

 −−対消滅の果て、逢わんとぞ思ふ。

 レイはいつもと変わらぬ、晩秋の湖のような表情のまま。地上に出るとき、垣間見せた不安げな翳りはうかがえない。

 使徒は立ったまま、活動を停止していた。体の上部、コアの部分には虚ろな空洞。使徒が沈黙すると同時に、初号機の方も全身から急激に力が抜け、双眼の光も消えていった。やがてモニタが拾うのは、遠く声明のごとく響き渡る蝉のざわめきのみ。それは夏草に沁み入り、やがて静けさへと窯変する。青い山腹を背に天を仰いで倒れた初号機の胸に、二羽、三羽、と山鳥が舞い降りる。紫蘭のもののふの夢の跡。

「使徒の反応、消失しました」

 声にならぬため息が発令所に広がった。一角を除いて。

「初号機の状態は?」

 リツコがなおも張りつめた声で問う。

「はい...シンクロ率がゼロに戻っています。エネルギー反応も消失...」

「プラグ内モニタ、回復します」

 メインスクリーンには何が起こったか分からず、茫然とした三人の少年が映し出された。シンジ、トウジ、そしてケンスケ。だがその表情は苦悶に満ちたものというよりは、うっすらと安堵の色すら浮かべていた。

 ふうっ、とリツコは時間差のため息をこぼす。間に合った。

(皮肉なものね...)

 同じ思いの人物が、もう一人。

「第一種戦闘配置を解除。エヴァおよびパイロットの回収、戦闘現場の事後処理を急げ。使徒の周囲の区画は最優先で固めろ。なお、民間人の搭乗以後の初号機の活動データは封印」

「済ませてあります、副指令。一切のトレースは不可能です」

「ご苦労だ、赤木君」

 

***

 

 20分にも満たぬ戦闘は、永遠とも思えた。中天に上った太陽は終わらぬ夏の日射しを山肌に浴びせている。それからの数時間に及ぶ作業は、平素の時間感覚を取り戻すための厳粛な儀式といえた。

「太陽の塔、か」

 使徒の周囲に手際よく張り巡らされるフェンスと仮設の調査施設の準備を見ながら、ミサトはこの屹立する塔のような死せるオブジェを、「人類の進歩と調和」のシンボルとなぜか重ね合わせてしまう。現物を見たことはないが、幼い頃に、テレビか本の写真で見た記憶が残っていた。

(あれが立っていたのは、大阪の丘陵地帯だっけ)

 ならば、今でも水没をまぬがれているかもしれない。

(どこにも連れて行ってくれなかったものね)

 見上げると、山の端に沈む夕陽を受け、真珠色だった使徒の遺骸が滴るような朱に染め上げられていた。

 

***

 

「あの子供たちには、感謝せねばいかんな」

 副指令・冬月が無感情な声で言う。

「感謝されても不思議に思うだけでしょうが」

 ファイルに目を落としたまま、リツコが静かに答える。

「記録はざっと見たよ」

「シンクロ率が200を過ぎたところで鈍っています」

「ああ。シンジ君一人だったら、そのまま覚醒して彼を取り込んでいただろう」

「しかし同時に、そのレベルに達するまで、際立った負の干渉がなかったという事実にも注目してよいかもしれません。救出された時の心理グラフから、A−10神経が無意識のうちに何を感じていたかは明らかです」

「候補者だからな、あの二人も。手荒なマネはせぬよう指示しておいた。何にせよ、まだ早すぎる。委員会に介入の口実を与えてはならない」

「分かっています」

 リツコはうなずくと、手元の受話器をとった。

「マヤ?...あ、潮技官。もう休んで結構です。伊吹二尉にも伝えて、明日は仕事が増えるから、今日は帰るように」

「潮君か...彼女は先端研からの出向だったな。仕事の方は?」

「よくついて来ています。発令所のバックアップとしては適任です」

「君は休まないのかね?」

「もうしばらくは。それから、一つ気になったことがあります」

「何か」

「使徒の戦術能力の高さです。確かに、使徒は永久戦闘デバイスと呼んでよい存在ですが...」

「続けたまえ」

「エヴァの能力を知り、こちらの戦法を予測しているような行動が見られます」

「元は同類ということか」

 冬月は寒々とした表情になった。

「ええ。もとより、これは憶測の域を出ません。ただ、作戦部には何らかの形で伝えるべきかと思います」

「その件は任せよう」

 

***

 

 「異物」の二少年は、プラグから救出後、しばらく放心状態だったが、全身を洗浄の後、着替えを渡されると病室のような無機的な部屋に移された。

「どこも具合悪うないんやけどな」

「よく見ろよ。これ、監禁室だぜ」

「んな、殺生な。わてら、監禁されるようなこと...」

 してるよな、やっぱ。回転し始めた頭で状況を把握し、二人は首をすぼめて肯き合った。

 その後、保安部の怖い怖いおじさんに小一時間ド突き回されて、もう二度としませんと固い固い約束をして解放された時には、すっかり夜が更けていた。家まで帰って、普段はめったに顔を会わせることのない父親からも、苦い苦い説教を延々と頂戴したのであった。

 

***

 

 今度はすぐに意識が戻った。

 幻をほんの一瞬、見たような気がする。

 フィードバックされた体の痛みは残っている。はっきり言って酷い。でも、なぜか気持ちが暖かい。ずっと忘れていた気持ち。椅子に座り、立てた片膝を体を折るようにして抱えながら、目を閉じ、シンジは思う。

(母さん...?)

 うっすらと目を開ける。少し離れたところに、母というにはあまりに幼い、しかし凛とした白い人影。

「どうして?」

 小声でそれだけ言うと、レイは黙った。逆光に、LCLに濡れそぼった髪から光の粒が弾かれるように見える。

「僕は...」

 という言葉は声にならない。

「話しできるわね、シンジ君?」

 レイの後ろからミサトが姿を見せた。すれ違いに、レイはもの言わず部屋を出る。

「着替えてからでいいわ」

 

***

 

 エヴァ二機が冷却中のドックを、リツコは独りで歩いていた。損傷の状況をいま一度、自分の目で確かめておきたい。カツン、カツン、とヒールの踵が半ば金属的な音をたてる。

 どこからか、口笛が聞こえてきた。哀調をおびたバラードだ。音の出所を認知したとたん、音色は止まった。

「申し訳ありません、赤木博士」

 技術部の若者だった。名前は知らないが、何度か顔を会わせたことはある。下を向いて、顔を赤らめているようだ。

「構わないわ。きれいなメロディーね。シフトはこれから?」

「いえ、もう上がりです。ですが、補修のスケジュールをチェックしておこうと思いまして」

「それなら、このファイルに目を通しておいて。でも今日は休みなさい」

 意外にもリツコは淡く微笑んだ。

「はっ!」

 こうしてまた、リツコの隠れファンが一人増えていったのだった。本人は(ちょっと怖かったかしら?)と思案してしまったのであるが。


 

Episode 04: Whistling on the Dock of the Bay

 


「何でも適当にハイハイ言ってりゃあいいってもんじゃないわよ!」

「どうせ、僕なんかいなくたっていいんでしょう」

 エヴァに乗ることが、自分の存在理由になるかもしれないと一瞬だけ思った。けれども、結局何もできずに、命令を破ってしまった。自分の居場所は、見つからなかった。

「何拗ねてんの。レイの状態、知ってるでしょ?それでよくそんなことが言えるわね。あなたのお父さんも、リツコも、レイも、ネルフみんな、人類を守ることに、命をかけているの!」

「そうですか」

「あんたねえ」

「僕には人類なんてわかりません。守れと言われたって...」

 そう言うシンジに、ミサトは虚を突かれた。

(本当に、人類のため?)

 自分はエヴァの秘密を知りうる立場にある。しかし、渡された資料が全てでないことは、明らかだった。兵器としての運用はできる。だがそれ以上の何かが匿秘されている。活動限界をとうに過ぎているのに再起動した初号機が、そのことを物語っていた。

「ふざけないで!」

 そんな迷いをかき消そうと、叱責は怒鳴り声になる。

「とにかく!今回は厳重戒告処分とします。自分の立場をよく考えなさい!」

 

***

 

 3日後−−

 シンジと共に母の幻影を見た少年達が、学校帰りにぼやき合う。

「今日で、もう3日かぁ」

 鈴原トウジの元気のない声は、こってり絞られた後遺症のせいばかりでもなかった。

「心配なの?」

 相田ケンスケとて、思いは似たようなものだ。

「ふっ、別に心配っちゅうわけやあ...」

「トウジは不器用なくせに、強情だからね。ま、それなりの事情があるんだろ。ほら、転校生の住所。これから行ってみようぜ」

 だが、コンフォート17マンションの玄関に立っても、ドアは閉じたまま。呼び鈴は寂しく鳴るだけだった。しかも表札には「葛城」の二文字。

「家にもおれへん」

「何があったのやら」

 

***

 

「で、シンジ君から連絡は?」

「...」

「ないの?」

「ないわ。彼、もう戻らないかもしれない」

 

***

 

 乳色の風景。行き場なく。

(なんでここにいるんだろう)

 あてもなく電車に乗り、街を出た。そして廃線となったバス停の中で、雨宿り。今、どこにいるかも分からない。霧の中、何もかもが溶暗していく。

(寒い...)

 体表温度が下がり、一つくしゃみをする。そしてまた一つ。

 雨はすでに上がっていたが、霧が冷やりと素肌にまといつく。

 寂れた道を外れ、木立の中を歩く。森というほどの深さはないのだろう。だが、わずかの夜光では物の輪郭もおぼつかず、シンジは何度も転びそうになった。思い出すのは幼い日のこと。誰もが、他人であり続けるための笑みをまとっていた。道に迷った自分を見つけてくれたのは、養父母ではなかった。

 

 雨。霧。森。

 

 難解な単語にはうといシンジだったが、ふと心象風景という言葉が浮かんだ。

(心の風景...か)

 いつしかシンジは木立を過ぎ、草むらに足を踏み入れていた。同時に、緊張がとけたか、きゅる、と腹が鳴る。

(朝から何も食べてないや)

 そういえば、途中、駅の自販機で缶コーヒーを飲んだだけだ。そんなこんなで、ふと開けた窪地の真ん中に、無人の飯盒が焚き火にあおられて白い湯気をあげているのを見つけて、ゆらゆらと引きつけられていったのは、無理からぬことだった。

 

***

 

 さっきから、同じ行を繰り返し読んでいる。

 レイは本のページから目を離した。枕元に本を置き、うつ伏せになって目を閉じる。

(どうして?)

 再び、この問いに戻る。胸の中に、小さな波紋が広がっていった。それは少年と初めて出会った時と同様に。

 レイは起きあがり、殺風景としか言いようのない部屋で唯一家具といえる小さなクロゼットの上に手を伸ばした。そこにはフレームの歪んだ眼鏡があった。レイは壊れた眼鏡を胸元に抱き寄せ、胸のざわめきを静めようとする。

(全てはこれからだ)

 ゲンドウの言葉が反響する。

(本当に?)

 交換可能なわたし。まだ何も、始まっていないのかも知れない。

 雨音は途切れていた。レイはベッドから起き上がり、着慣れた第一中学の制服に着替えた。まだ一部は包帯に覆われているが、陶器のような素肌が、真白い木綿のブラウスにおおわれる。そして彼女は何かを決心したかのように、部屋を出る。深夜の街路は人もなく、霧の中にその姿は溶けていった。さきの使徒戦から少女が感じていた感情の揺れは、不快ではなかった。むしろ、それは貴重なものに思われた。

(残しておきたい)

 少女はドグマへと向かう。全ての始まりの場所。

(この気持ちが、消えてしまう前に)

 いえ、とレイは思い直す。

(今の、わたしが...)

 

***

 

 チャッ。

 銃を足元に置いて、ケンスケが悪戯っぽい顔で言う。

「いきなり誰何されて、驚いたろ?」

「ス、スイカ?」

「いや...まぁ、いいさ...」

(メロンじゃないことだけは確かだけどな)と内心でごちるケンスケであった。

「こんなところで、ゲリラ戦にでもなった時の訓練?」

「まさか、遊びだよ」

 聡明なるケンスケには、おおよその事情は飲み込めていた。

(プチ家出、ってヤツか...)

 そしてポケットにそっと手を入れ、ブラインドタッチも軽やかに、勝手知ったる登録番号宛てにメールを送る。見ると、焚き火に照らされるシンジの顔は青白い。

「もっと近くで暖まれよ。大事な体なんだから」

 ケンスケは「大事な」というところに少しだけ力をこめた。その気持ちはシンジに伝わるものの、励ましにはならない。

「う、うん。でも、もういいんだ」

 シンジの表情が翳った。ケンスケは、この繊細なる友人には、今は聞き上手に徹するのが男の友情と決心した。

「この街にいる理由なんて、僕にはないのかも知れない」

「オレはそうは思わないけどな」

「でも...僕は、エヴァに乗っても使徒を倒せなかった。ミサトさんにも、もうダメだって思われた...そう思う」

「ミサトさん?」

「うん、葛城ミサトさん、作戦部長なんだ」

 葛城、という名を聞き、シンジの家を見舞おうとした時のことをケンスケは思い出す。その時、ポケットの携帯が鳴った。シンジは聞いたこともない、旧世紀の某国軍の式典音楽であった。

「トウジが来るってさ」

「僕なんかより、トウジがエヴァに乗ればいいのに」

 シンジがぽつりと言う。否、ぜひともこのオレが!とのど元まで出かかったのを、今晩だけは(男の友情!)と悶絶しながら抑えつつ、ケンスケは言った。新たに火にくべた小枝が反り返っていく。

「どうかな。あいつ、前はいじめられてたんだ」

「えっ?」

「トウジって、ちょっと変な関西弁だろ?中学入ってすぐの時、エセ関西人、てバカにされてさ、元が素直なヤツだけに、酷かったぜ」

 今度はシンジが黙りこむ番だった。

「けっきょく、オレもトウジも父親がネルフ勤務だったから、一緒に帰宅部なんかしているうちに、話をよくするようになったってわけさ。今の学校ができてからは、毎日委員長と一緒に漫才やってるけどな」

「今の学校...?」

「うちは、新設なんだよ。この街が本格的に稼働して、ネルフ関係者が集中することを見越して作られたんだ。中一の夏休みが終わった頃に、あちこちから生徒が移って来て、今みたいになったんだ」

 カサリ、と背中で草をかきわける音がした。一人?二人?ケンスケは注意しながら、音の主をさがした。

「こんなところにいたの、シンジ君」

 

***

 

 気まずい沈黙は長くは続かない。だが、そんな沈黙を上手に破るすべをシンジは知らなかった。

「これも、仕事ですか?」

 シンジのセリフに、大喝せんと息を荒げるミサトだったが、ケンスケの一声が先んじた。

「バカ、指揮官が直接迎えに来るなんて、ないことだぞ」

 ミサトの襟章を目ざとくチェックし、この妙齢のおねーさんこそシンジの上官に違いないと踏んだのであった。

「パイロットが、必要だからじゃないんですか?」

 その声は、抵抗というよりも、不安の色が強い。ミサトはふっ、とため息をこぼした。

「違うわ...ただ、大事な家族を失いたくないの。だから、ずっと探してたのよ」

 見ると、草木にひっかけた傷だけでなく、ミサトの手足には何か所かアザができていた。車の通れぬところを、必死に駆け回ってここまできたのは間違いなかった。

「人はエヴァのみに生きるにあらず、ってリツコが言ってたわ。誰でも、自分の本当の居場所なんてないのかも知れない。でも、あなたはこの街に来た、そしてみんなと出会った。その意味を考えてみて。あなたのことを大事に思っている人たちがいる。そうした人たちの中で、生きていくことを知ってほしいの」

 そんな人、いるわけない、と訴えようとしたシンジだったが、その時また、ガサゴソと草むらをかきわける音がした。

「おお、ここにおったんか。難儀なやっちゃな」

「トウジ」

 その陽気な笑顔はいつもと同じに。しかし−−

(どうかな。あいつ、前はいじめられてたんだ)

 さきほどのケンスケの言葉が反響する。ふだんは悪ガキ然として、委員長と漫才をしているトウジが、いじめに遭ってあっていたなんて。そんな仲間たちの顔を見て、かたくなな気持ちはやがて消えていく。そして、ミサトにしても−−

「セカンドインパクトの時、私は14才だった。そしてあの地獄を目の前で見た。同じ年の子供達に、もうあんな経験をしてほしくないの。確かに、あなた達に押しつけて、人類の未来を守れ、なんておかしいかも知れない...矛盾してるわよね。でも、それが現実。だからせめて、無謀なことはしないで。必ず、生きて。あなた達には、未来が必要だから」

「僕達...」

「こうして友達がいるでしょ?だから、帰りましょう、シンジ君」

 ミサトの思いは、確かにシンジにも伝わっていた。だが、人から大切にされる嬉しさを表すことが、彼にはまだできない。自分でももどかしいほどに。のど元に、熱いものがこみあげる。

「ほら、帰る場所があって、誰かが待ってるっていいもんだぞ」

 ケンスケが促す。

「帰る場所...」

 トウジも腕組みをし、芝居がかった調子で首をクイクイと縦に振っている。

「いい友達をもったわね」

 はい、とシンジは言おうとするが、出かかった声は涙声になる。

(お子様なヤツ)

 そう内心で思ったケンスケだったが−−

「むぎゅ」

 豊満なミサトの胸に顔をうずめて、ついに泣き出したシンジを見て、(やはり男の友情の大盤振る舞いなどするのではなかった!)と唇をぐぐっと噛むのであった。

 

***

 

 本部に戻ったシンジはリツコの研究室で簡単なメディカルチェックを受けた。ミサトは残務処理でオフィス。チェックが済めば一緒にわが家に帰る手はずだ。

 リツコはデータをブラウズしている。彼女は何も聞かずシンジにコーヒーをすすめると、無言でまたキーボードに向き合った。部屋の照明を落としてあるせいか、頬のラインが少しだけ、鋭角的になったようにも見える。

(僕のせいかな...)

 そう思うほどにシンジは大人ではない。ただ、ディスプレイの映像が眼鏡にカラフルに反射するのを見ながら、この人はいつ家に帰っているのだろうかとシンジは思った。

 ふと沈黙の中から、ハミングがこぼれ出す。哀調をおびたバラードだ。

「あ...?」

「何?」

「きれいなメロディーですね」

「うん、でも本当は口笛なのよ」

 リツコは少しはにかみながら答えた。

 

<つづく>

2001.11.24(2008.1.6オーバーホール)

Hoffnung

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