EVA -- Frame by Frame --
<第5話 レイ、瞳の向こうに>
無言の食卓。食器の当たる音だけが切れ切れに。物を噛みしめる音さえ聞こえない、大きなテーブルに二人きりの食卓。男の隣のイスには無造作に濃紺の士官服が掛けられ、その上には白い手袋が乗っている。
「もういいのか」
少女は小さくうなずく。柔らかな間接照明の下で、ショートカットの髪が揺れた。
男は立ち上がり、席をはずした。少したってから、彼はティーカップを二つのせた盆を持ってテーブルに戻ってきた。アールグレーの芳香が部屋を満たす。そしてカップを手にした少女の可憐な唇から、ふと言葉がこぼれる。
「きれいな色」
ゲンドウは色眼鏡を外してテーブルの上に置くと、自分のカップに口をつけた。彼にとって、紅い色はそれ以上でも以下でもない。
「レイ」
「はい」
「今夜は泊まっていけ」
「はい」
Episode 05: Rei I--Woran Purpuraugen glauben
使徒の解体現場は熱気とエアコンの冷気が乱気流を作っていた。急造の施設にセットされたマギシステムの端末−−東方の三賢者の名を冠した三体のサブシステムからなるスーパーコンピュータ−−に白衣の女性が向かう。傍らではもう一人の女性がディスプレイをのぞき込んでいる。
「わがネルフの切り札、地上最高のコンピュータをもってしても、解析不能か」
「マギは最高であっても、全能ではない、それだけのことね。とかくこの世は謎だらけよ。例えば、ほら、この使徒独自の固有波形パターン」
ディスプレイには解析結果と共に、99.89%という数字が表示される。
「これって!」
「そう、構成素材の違いはあっても、信号の配置と座標は、人間の遺伝子と酷似しているわ」
「でも、まるっきり使徒の形はあたしたち人間と違うじゃない。いったいどういうこと?」
「憶測でものは言えないわ」
「ケチケチしないでよ、赤木博士。少しでも知りたいの、あたしたちの敵のことを」
(たち、が余計じゃないかしら?)
リツコはまぜっ返したくなる誘惑を振り切って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「そうね...この数字は、遺伝子配列そのものの一致率ではないの。セカンド・インパクトの頃、ヒトゲノムのラフな解読が終わってたけど、生物の存在にとって遺伝子が全てではないことが解析の完了によって皮肉にもわかったのよ。ATフィールドによって生命の<かたち>を構成する係数のようなものの存在が予測され、理論化されたってわけ。そのパイオニアがあそこにいるわ」
リツコの指さす先には、ネルフの上級士官にはおよそ似合わぬ工事現場用ヘルメットをかぶった冬月の痩躯があった。
「それでも、使徒がどんな形態や能力をもって発現するかは、全く予測不可能なんだけど」
「ま、あんな化け物の属性を予測できるわけ、ないか」
「そう、それに−−」
「あら、シンジ君?」
ひょっこり現れた同居人に、ミサトは相好をくずした。
「お昼、もって来ました。多めに作ってありますから」
シンジも規則なので、これまた似合わぬヘルメットをかぶっているが、ミサトの目からはタマゴの殻をかぶったカリメロ状態に見えなくもない。まだ、距離の取り方を測りかねているように見える時があるものの、素直に自分を出すようになりつつあるシンジを、ミサトは好ましく思っていた。
だが、そんなシンジの表情がふと固くなる。視線を追えば、第三新東京市にやって来て、エヴァのケージで会ってから、一度も言葉を交わしていない父・ゲンドウの姿があった。彼一人、ヘルメットをかぶることもなく、クレーンの作業の真下に立っていた。誰かが言っても、「必要ない」の一言で済ませてしまったことだろう。
クレーンは、暗赤色の見るからに硬質な塊を司令部の男達の足元に下ろした。
「あれは?」
シンジが聞く。
「使徒のコアよ。死んであんな色になっているし、中心部が砕かれてるけど」
ミサトが厳しい表情になって答えた。
(エヴァにも同じコアがあった...それに、あの99.89%の波形パターン一致率。機密が多すぎるのよね)
思考に沈んでいくミサトの隣で、シンジがぽつりと小声で言う。
「父さんの、手...」
***
「S2機関のサンプルは採取可能か?」
冬月が低い声で言った。
「しょせん、不完全なものしか手に入らんよ。使徒を生け捕りにでもすれば別だが」
醒めた調子でゲンドウは答えた。
「それで、委員会には何と?」
「事実を伝えるまでだ。量産機の建造スケジュールを変える老人たちではない」
***
部屋に戻ると、シンジはヘッドフォンを耳にあて、SDATのスイッチを入れた。心がざわざわする。どこか落ち着かない感覚。音量を上げても、固く閉じた眼の裏側に、父の火傷した掌が映し出される。
(あの火傷...)
そしてその思いは、いやおうなしに、白い透き通るような素肌をもった少女のことを思い出させる。ミサトとリツコから聞かされた話−−自分がこの街に来る前、零号機の起動実験中に暴走事故が起きたこと、強制排出されたエントリープラグに父が自ら駆けつけハッチを開いたこと、そして重傷を負った少女を抱き上げ、救い出したこと。綾波レイという少女を救出するために父がとった行動は、シンジにはおよそ受け入れがたいことだった。
(父さんが、そんなことをするなんて...)
自分を置き去りにした父。擦り切れたモノクロームの映像がよみがえる。
だが、幾度となく繰り返された、閉じてゆく心の動きの中に、どこか引っかかりがあることにシンジは気づく。
羨ましい?綾波が?
幼い日から、シンジは自分の心の内を見つめることを無意識に避けてきた。しかし、今はこの違和感の正体を突き止めねばならない、そんな気がする。あらためて、レイのことを思い返す。第三新東京市に着いて、エヴァのケージで出会った傷だらけの姿、いやその前に一瞬だけ見た幻影の少女、それから...それから...シンジは不意にSDATを切り、ヘッドフォンを乱暴に外す。
羨ましい?綾波が?
違う。ぜんぜん違う。
それはシンジにとって、衝撃的な発見だった。
父が、あの少女を守った。
それは自分が果たせなかったこと。エヴァを駆りながらも、流されるだけの自分には、果たせなかったこと。この、心がざわざわする感覚は、無力感...いや、焦りだ。自分にあの少女を守る力がないことへの焦燥だ。
思いはふと、声になる。
「綾波...」
少年はやっと気づく。揺りかごの時代はとうに過ぎていたことに−−遠い追憶よりも、いま、この世界と向き合う時なのだと。
***
「潮技官−−」
「マドカと呼んで下さい!」
(なんで私のところには、こういう子ばかり来るのかしら)
メタルフレームの眼鏡の向こうで、つぶらな瞳をうるうると輝かせながら訴える潮マドカに若干引きながら、リツコは思案した。エヴァの運用の本格化に備え、ゲンドウがあちこちの機関から引き抜いたスタッフの一人であった。出向の技官ゆえ、軍籍はない。有能なのは間違いないのだが、丸顔で、伸ばした髪のせいか、伊吹マヤ以上に夢見る少女っぽさがある。
「わ、わかったわ。複数のエヴァの同時運用はこれから常態になるから、サブ端末での支援システムをマスターしておいて」
「はいっ!(はあと)」
スキップも軽やかに退出したマドカと入れ替わりに、ミサトが入って来た。
「リツコ?」
「いいわよ」
「また若い子をたぶらかしたみたいね」
「人聞きの悪い。そんなこと言いに来たんじゃないでしょ」
「そうね。昼間のことだけど、シンジ君が来たとき、使徒の属性について、何かまだ話すことがありそうだったじゃない。あれって、何だったの?」
「些細なことよ」
彼女がこう言う時は、決して些細でないことを、経験上ミサトは知っていた。黙って後を促す。
「自己完結した種では、属性の予測なんてできない、とでも言えばいいかしら」
「使徒が自己完結した種って、どういうこと?」
「どういうことって、そういうことよ」
「ちょっと、それはないでしょ」
そういう性格と知ってはいても、初歩的な説明を無視する旧友のリアクションには、つい声が荒くなる。
「永遠の生命を得た代わりに、進化もしない。遺伝子の交配を必要としない、一個体で一つの完結した種ということ。進化の系統樹の上に置くことのできない存在について、類推による属性の予測は不可能よ」
「ということは、繁殖もしない?」
「でしょうね。雌雄同体とも考えられるけど。第三、第四の使徒を倒したということは、私達が二つの稀少種を絶滅させたともいえるわね」
「使徒に同情する気?」
「別に。事実を述べただけよ」
(ったく、もう)
ミサトは内心でブチブチと不満をもらした。
「すると、使徒の間での連絡の可能性は?」
「ない、と考えるのが妥当だわ。使徒が知識を共有したら、私たちはひとたまりもないでしょう。寂しい存在ね、かれらも」
「あんたねえ!」
さすがにブチ切れたミサトであった。
(人間だけが寂しいと感じるなんて、傲慢ではなくて?)
そろそろ仕事に戻りたくなったリツコは、論争はムダと割り切って、沈黙を決め込む。同時にミサトも自分の思考に没入していった。使徒が自己完結した種であるなら、その存在意義は?何のために、ヒトに滅びをもたらそうとするのか?
「コーヒー、もらうわよ」
***
薄明の執務室。それは中世の城塞を思わせた。頬づえをついて書類を斜め読みする総司令・碇ゲンドウに、詰め将棋の駒を弄びながら冬月コウゾウが話しかける。
「レイのことだが」
(零号機を起動させる)
「ああ」
(レイ、ATフィールドを使って目標を封じろ)
「次はないぞ」
(零号機も、ATフィールドを展開?!)
「分かっている」
(エヴァが、使徒のATフィールドを浸食している...)
「赤木君には、もう分かっているはずだ」
(そういうことなの、レイ)
「分かったのなら、あらためて伝えるまでもない」
お前らしい、と言おうとした冬月だったが、それも言い尽くしたことに気づき、開きかけた唇をすぼめる。第三使徒戦でとった作戦−−エヴァを端末としたレイ自身のATフィールドの展開−−はこれ以上使えない。補完委員会に不審をいだかれる懸念以上に、過大なフィールド展開をすれば、レイの個体としての形態が保てなくなることは確実だった。
それは一人の少女の消滅を意味する。
「バックアップは?」
「問題ないが...」
ゲンドウは一瞬、口ごもる。この男にしては珍しい、と冬月は観察した。
(今のレイを失いたくはないか)
ゲンドウを見上げる時だけ見せる、レイの微笑みを思い起し、冬月の胸に苦いものが広がった。そしてやや間をおいて、気になっていたことを問いかける。禁じ手を最初の使徒戦で投入せざるを得なかったのも、彼らの誤算からだった。
「それで、初号機の件だが」
「構わんよ。覚醒の時が早まっても」
「あまりシンジ君を危険な目に遭わせるのも感心せんぞ」
将棋盤を凝視しながらも、冬月にはゲンドウの不敵な表情がありありと察知できた。
***
葛城家の食卓に、ゲストが一人。赤木リツコである。すでにテーブルの上にはカラになった缶ビールがずらりと並んでいる。殺傷力抜群のミサトの手料理は、その実力を遺憾なく発揮していた。
「グエェェェェェェッ!」
特製の冷蔵庫からまろび出ると、ペンペンはリビングを右へ左へと駆けずりまわり、涙をうかべつつシンジにぐわしっ、と抱きついた。パニックはシンジやリツコも同じだ。
(無理もないわ。みんな人を殺すことに慣れていないもの)
内心でなぜか納得する葛城家の主であった。破壊的な味覚の嵐が去ると、リツコが思い出したようにシンジに言う。
「シンジ君、頼みがあるの。綾波レイの更新カード。渡しそびれたままになってて、悪いんだけど。本部に行く前に、彼女のところへ、届けてもらえないかしら」
「あ、はい」
「どうしちゃったの?レイの写真をじーっと見ちゃったりして」
「あ、いや...」
シンジには、感情の波というものを見せたことのないこの少女が、エヴァとのシンクロによって心理的なパニックをきたしたことが信じられなかった。
「ひょっとして、シンちゃん!まったまた照れちゃったりしてさ(くいくい)。レイの家に行く、オフィシャルな口実ができて、チャンスじゃない(うりうり)!」
***
街はずれの、廃墟とさえ呼びうるような一角に、綾波レイの住む団地はあった。あるいは、それはセカンド・インパクト後の原風景ともいえた。バス路線も一本しかない。その利用者も、レイ一人だけではないかと思われるほどだった。
重機の軋む音が絶えない。解体しているのか、建築しているのかさえ、分からない。だが、物憂げに天に向けて突き出した幾つものクレーンは、中生代に沼地から長い首を出したまま滅びの時をただ待つ恐竜たちと似ていた。太陽は相変わらず力強い光を送っていたが、その団地のある場所だけは、全体が陰っているかのように感じられた。
(これが、綾波の家?)
綾波レイ。14歳、ファーストチルドレン。エヴァンゲリオン試作零号機、専属操縦者。過去の経歴は白紙。全て抹消済み。
部屋番号を確かめながら、シンジは不安な気持ちになる。あの少女は、本当に実在するのだろうか。人が生活している気配のない団地の廊下を進みながら、綾波レイという存在そのものが、朧のように思われる。
やがて「綾波」と書かれた玄関の前に立ち、インタフォンを押すが、答えはない。DM類が郵便受けからはみ出している。やむをえず、声をかけてからドアを開き、中に入るが、やはり生活の感触はなかった。だが、埃っぽい床の上には人の歩いた跡が残っており、ベッドの上に乱雑に投げ出された衣類、そしてゴミ入れに投げ込まれた使用済みの包帯の赤茶けた血痕が、かろうじて現実とのつながりを保証していた。
(ここに、綾波が住んでいる...)
殺風景な部屋の隅には、古びた小さなクロゼット。その上に、少女に似つかわしくないものが置かれているのにシンジは気づく。明らかに男物の、レンズにひびが入った眼鏡。
何気なくシンジはその眼鏡をとり、自分でかけてみた。視野がぼやける。その時、背後で物音がした。振り向いた彼は、硬直する。
(あ、綾波...)
そう、少女は実在した。バスタオルを無造作に首からかけて、その他には一糸まとわぬ姿で。
だが同時に、レイもまた、そこにいる少年を認めて、硬直する。眼鏡の向こうから、まっすぐに自分を見つめる瞳。その面影が、信頼をよせるただ一人の男性と重なる。実はシンジとしては単に固まってしまっただけだったのだが、そんなことはレイには分からない。
レイは一歩、二歩とシンジに近寄った。シンジの視野はレイの全身、上半身、濡れた髪に縁取られた顔、そして紅い瞳と、一歩近づくごとにクローズアップされていく。
「いやっ、あの、僕は別に...」
シンジは身を翻そうと慌てふためき、絵に描いたように盛大にクロゼットから白一色の下着類をばらまきながら、レイに覆い被さって倒れた。
あとは、沈黙。
なおも、沈黙。
「どいてくれる?」
そう言おうとしたレイだったが、不可思議なためらいをおぼえる。体を重ね、自分を見つめる少年の温もりが少しずつ伝わってくる。そしてレイは手を伸ばし、少年のシャツの裾をためらいがちに握った。
時が、再び動き出す。
レイの仕草が、自分を引き離そうとする合図だと思いこんだシンジは、とにかくも我に返って、身を起こした。一瞬だけレイがシャツの裾を握る手に力をこめたことに彼は気づかない。彼女に背を向けながら、混線し、統合機能をなくした脳内では、レイのうなじ、レイの胸、レイのふくらはぎ、エトセトラ、の映像が飛び交っていた。
「ご、ごめん...眼鏡、ここに置くよ...」
レイが立ち上がった気配を察して、シンジはとにかくこの状況から脱することだけを考えた。だが、玄関口に向かいかけた彼を制するように、レイがぽつりと言う。
「今、着替えるから」
その意図をシンジははかりかね、またも石化してしまった。再び入ったシャワールームから聞こえる飛沫の音が頭の中で増幅される。だがそれはすぐに止み、乾いたスリッパの音に続いて、背後では小さな衣擦れが聞こえ始めた。いや、素肌と下着との接触を衣擦れというのなら、であるが。どんな仕草をレイがしているのか、思い浮かべる余裕もあらばこそ、レイは服を着終わった。やがて少しの間があって、レイはシンジの傍らを抜けて部屋を出ていった。シンジはおずおずと後を追い、表の通りに出る。その後ろ姿を見ながら、シンジにはいつもの制服姿が、今日は全く違うもののように見えた。
「あ、綾波...」
「何?」
振り返った、透明な朝の彫像のようなレイの表情に、シンジは息をのむ。考えてみれば、包帯も何もしていない彼女をこうして見るのは、初めてだった。
「これ...カード...新しくなったから」
「そう」
それだけ言うと、レイはまた歩き出した。シンジも無言で、うつむきながら少し離れて歩く。ほのかに赤らんだレイの顔色に気づくこともなく。
***
神経回路のレイヤー補強工程を済ませると、技術部の作業員たちは零号機を見上げた。パイロットの体調の回復に合わせて、チューンアップを行ってきた。今回の整備で、機動性は14%の向上が見込まれるはずだ。
(暴走しなければ、だけど)
技術部の若者は思う。しかし、最初の起動実験の時の事故を除けば、綾波レイは理想的なテストパイロットといえた。神経接続のノイズも少なく、エヴァ稼動時の揺れも容易に制御可能な範囲に、常におさまっている。そして、今も−−
零号機のシンクロ率は50%前後で安定している。パラメータをさまざまに変えて作戦行動をシミュレーションしても、その数値は変わることはなかった。作業が無事完了したことを確認すると、若者は控え室にささやかな満足感とともに向かった。そして彼は、お気に入りのメロディーを口ずさみながら、汚れの目立つようになった作業服を脱ぐと、シャワーを浴び、今風の私服に着替えてネルフの官舎へと向かう。
道すがら、彼は気づく。そういえば、零号機パイロットの少女は、制服姿しか、見たことがない。
(あんな可愛い子なのに)
若者は彼女に似合いそうな服をあれこれ想像して、小さく微笑んだ。
***
「お願い、私を連れて逃げて!」
「だめだ。僕には人類のために戦う使命がある!」
「いやあああっ!行かないで!」
火の加減に注意しながら、洞木ヒカリは茶の間から流れてくる大げさなセリフを聞き流していた。夕食を作るのは、彼女の日課の一つだ。和食が好きなせいもあったが、保存もできるので煮物をよく作るヒカリであった。
(人類のため、ねえ)
クラスでは几帳面さと思いやりの深さから委員長などという役目をまかされているが、彼女が実感をもって思いやれるのは、家族のみんな、クラスのみんな、これまで出会ったみんな、がせいぜいだった。
(あの熱血バカだったら、何て言うだろ...「僕」はないだろうけど)
「お姉ちゃん、ごはんまだぁ?」
一番下の妹・ノゾミが声をかける。もう番組は終わったと見える。
「もう少しだってば。いったん火を止めて、味が落ち着いてからね。その前に、今日の宿題でもしておきなさい」
言ってしまった後で、(中二の時からオバサンやってどーすんの!)という長姉・コダマのおしかりをヒカリは思い起こした。いつぞやも、八百屋で買い物をしていたら、(奥さん、今日はホウレンソウが安いよ!)と言われたことがある。
(わたしって、家庭的すぎるのかしら)
***
レイは薄暗くなった道を一人で部屋へと向かった。チューンアップ後の起動実験は、問題なく終わった。団地の周囲では、重機の軋む音が相変わらず続いている。鍵もかけていないドアを押して、レイは中へと入る。いつもと変わらぬ、殺風景な空間。灯りをつけると、床には少年と二人して倒れた時の痕跡が埃の層の上に残っている。住み慣れた部屋は、今こうして見ると、やけに広く虚しいものに見えた。
ヒトがそれを「寂しさ」と呼ぶことを少女は未だ知らない。
***
かつてスイスと呼ばれた土地。その深奥に「魂の座」を称する結社の領袖の別邸があった。季節が狂ってしまう前から、ローレンツと呼ばれる老人の体内時計の周期は、人工的なものとなっていた。
光が薄い。細いバイザー型の視力補助機器をはたらかせても、壁に掛けられた絵画は明瞭な像を結ぼうとしなかった。聴覚も衰えていたが、大音響でかかるレクイエムは老人の全身を、そして魂を震わせていた。
Sanctus, sanctus...
神の薔薇園には、ヒトの姿をしたモノはふさわしくない。そのための、補完計画。
視野の片隅で、光が点滅した。バイザーに投影されたメッセージアイコンだった。老人は手元のスイッチを操作し、音楽を切った。耳元に埋め込まれた補助チップがメッセージを伝えた。
(第五の使徒が降り立ったか)
老人は聖なる石版の予言を暗唱した−−斯くて天にある神の聖所ひらけ、聖所のうちに契約の櫃見えれば、出て来たる御使、數多の雷光と聲と雷霆降らせ給いき。御使の隠れ給いて後、白き衣を著たる乙女あり、其の頭上に月あり、視よ、乙女の大いなる蒼き巨人駆れるを。
***
「まずは様子を見るしかないわね。零号機、初号機ともに距離を十分にとって使徒のデータ収集から始めるわ。西の22から出して」
「了解」
第三新東京市に侵入してきた新たな使徒は、青い八面体の幾何学的形態をしていた。およそ生命体とはかけはなれた姿の使徒には、感覚器官や移動のための手足のようなものはなかった。ビルほどもある巨大な青い宝石が浮遊している、としか言いようがない。攻撃の手段、ましてや弱点など見当のつけようがなかった。
***
使徒は地の奥底から近づいて来るモノの波動を感じていた。
違う。
時を逆行したのはこのためではない。このモノたちは、偽りの母胎。どれほど近しくても。一つになるには、より強くあらねばならない。
強く。より強く。
母胎への接触を果たせぬまま、コアを撃ち抜かれて死んでいった、あの時。
今度は、違う。
***
高速で二機のエヴァが地上に射出される。二機同時の展開は今回が初めてだ。
その時、目標のデータ解析を進めていた青葉が叫びをあげる。
「目標内部に高エネルギー反応!」
「何ですって?!」
「円周部を加速、収束していきます」
「まさか!」
<つづく>
2001.11.25(2007.10.9オーバーホール)
Hoffnung
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