EVA -- Frame by Frame --

 

「奇跡は起こせるんですね」

「いえ、奇跡は用意されていたのよ」

−−そして、数日が過ぎた。

 

<第7話 神の作りしもの>

 

「をををっ!遠足や!待ちに待ったバ、バ、バ、バーベキューやあっ!」

 鈴原トウジの雄叫びが二年A組の教室にこだまする。頭の中では、炭火にあおられる焼き肉のバチバチいう音と、「あの」香りがモクモクと渦巻いている。それなりに精悍なところもあるはずの少年の両頬に、酒池肉林の桃源郷が(<マジかよ)貼りついて離れない。そう、もうすぐ遠足。二年生には修学旅行も予定されているが、それとは別に、自然に親しむための課外活動も組まれているのである。

 いっぽう、食気より色気のクラスメートもいるわけで−−

「ね、委員長、安藤君と同じ班に入れるかなあ?」

「え...だって今度は番号順にするって先生が...」

 そう言ってから、「洞木」と「鈴原」では同じ班にならないとヒカリは気づく。

「後で、みんなで考えようね!」

 夢見る少女は、現実も見えているのだ。

(そうだ、何を着ていこうかしら...)

 学校で渡された「手引き」には、男子、女子ともに「動きやすい服装で」とある。「学校指定のジャージ」などを着る者はだれもいない。

(自分指定のジャージを着る人はいてもね)

 このところ、雨が多い。色鮮やかなパーカーも悪くない、とヒカリは想像した。

 そして、相田ケンスケは、当然のごとく、携行する武装について綿密な計画を立てていた。「一、本作戦のこれまでの経過および準備状況。二、本作戦の期間内に何をどこまで露呈しようとするのか、その方法論および戦略的背景。三、本作戦の特色・独創的な点および予想される対投資効果と社会的意義」など、ほとんど予算の申請書のような文書を練り上げていた。ビジュアル効果を高めるギミックやトラップの準備も万全だ。作戦の展開をシミュレーションしつつ、ケンスケの内には魔王のごとき全能感がむくむくと湧き上がってくるのであった。

「見よ!我が作戦は完璧だっ!」

 クラスの別の一角では、またまた別の盛り上がりが展開している−−

 

「一晩中、語り明かそうな!」

「をを!」

「土屋君をゲット...土屋君をゲット...」

「選曲はやっぱ渋めにいこうぜ」

「ああっ、虫除け買わないと!」

 

 そして碇シンジは、そんな騒ぎをよそに、ひとりボーゼンとしていた。本来ならばトウジやケンスケの後に続いて話題に入っていけるのだろうが、今回ばかりは、二人とも自分の世界に没入している。

(ま、行けないかもしれないし)

 そう、使徒でも来れば、いや、またどこかのロボットが暴走でもすれば、エヴァの出動はありえるのだ。そういえば、今日は綾波レイは学校に来ていない。自分の知らないところで実験があるのかもしれない。

 そんなシンジの肩をポン、とたたく者がいる。

「おい、碇、チヒロが一緒の班になりたいってさ」

 振り向くと、にま〜っと笑いながら、長身&長髪の岸田シュウが一人の少女を指さしていた。

「山岡...さん?」

 シンジはまだクラスメート全員のフルネームを覚えているわけではない。山岡さんがチヒロという名なのは、今、初めて知った。

「うっ、うん。僕なんかでよかったら」

 ぴと。

 突然、クラスが水を打ったように静まった。こんな同時発生のざわめき状態で、なんだって僕の声がみんなに聞こえたんだろう、そう不思議に思っても、もう遅い。

「え〜〜〜っ!!」

「うおぉぉぉっ!!」

「ばけら〜った!!」

「やだぁぁぁ!!」

「ぐわし!!」

「どっぴゅん!!」

「なうまんぞうがすきぃ!!」

「ち、違うってばあ〜!」

 あわあわと打ち消すチヒロは小柄でベリーショートのカットとて、耳まで真っ赤になっているのが分かる。

(「碇シンジと山岡チヒロのツーショット」...っと)

 ケンスケは作戦計画に新たな一項目をつけ加えた。ちょうどそこに、バーベキューの白昼夢から半分だけ現世編にもどってきたトウジが話しかける。

「なんや、えらい盛り上がりやなあ」

「あいつ、自分の言ったことがぜんぜん分かってないみたいだぜ」

 その時、ベルが鳴って、間もなく担任が入ってきた。今日のホームルームは、当然のごとく、遠足のだんどりである。

「それでは、班分けをしましょう」

「先生!」

「何だ」

「今度の遠足は、<好きな人どうし>がいいと思いますぅ」

「フッ、問題ない」

 どこかで聞いたようなセリフを−−ただしニンマリとした笑いを浮かべて−−先生が言うと、再び教室は阿鼻叫喚の修羅場と化していった。

 

***

 

「るん、るん、る〜ん」

 目のやり場に困りまくる姿で、ネルフ作戦部長・葛城ミサト一尉は冷蔵庫の中を物色していた。食器棚の上には、色鮮やかにドイツビールの空き缶コレクションが並ぶ。

 

beer

 

「残念だわぁ、この間のごほうびにお弁当を作ってあげようと思ったのに」

 ぷるるん、とたわわな胸が揺れる。

「僕だって、まだ死にたくないですから」

「あらあら、無敵のシンちゃんがな〜にを言うのかしらん」

「予見しうるリスクは回避すべし、って日向さんが訓練の時に教えてくれました」

「可愛げな〜い!(でもって日向君は洗濯番に決定ね!)」

 

***

 

 そして今日は、遠足だ。昨晩は大降りだったが、幸いピタリと上がり、射し込む朝の光が樹の葉をつややかに輝かせていた。

 バスに乗り込むと、一同、駒ヶ岳に向けて出発した。近場で一泊の遠足にはほどよい距離であった。ド派手な身なりの生徒はさすがにいなかったが、私服が可ということもあり、みんな思い思いのおしゃれをしていた。それは委員長のヒカリとて例外ではなく−−

「イ、イインチョ...」

「おはよ、鈴原」

 何のことはない。ふだんはひっつめて束ねている黒髪を、今日はほどいてきただけのことだ。だが、明るいオレンジのパーカーもよく似合い、その可愛らしさはトウジに強烈なインパクトを与えるに充分だった。珍しく悪戯っ気を起こしたヒカリは、わずかに目を伏せて、小指でうなじにかかる髪をかきあげて見せる。

 今回の班編制は、碇シンジ、鈴原トウジ、相田ケンスケに加え、レトロ趣味をケンスケと共有する岸田シュウ、対する女子は洞木ヒカリ、山岡チヒロ、榎本ミヲ、それに綾波レイであった。ヒカリにしてみれば、男子がそんな組み合わせになることはまず想像できた。あとは、たまたま冗談でシンジとリンクが貼られたチヒロを先頭に押し立て、仲良しグループとして自分やミヲが合体すればよいのだった。

(そうだ、綾波さん...)

 班決めの日は学校を休んでいたレイだった。そこで当然のごとく、委員長が一緒の班になることを申し出たという次第。

(碇君と、一緒ならいいよね)

 一人だけ、制服で今日の遠足に参加したレイを見て、ヒカリは思案した。今もバスの中、窓際に座り、無言で流れる景色を見ている。カップル、などという次元ではない。しかし、ネルフで重要な任務にあたっている二人というだけでなく、レイとシンジが一緒のグループになるのは自然なことに思われた。

(それにしても...)

 ときどきチヒロが、おしゃべりに興じながらも、シンジのいる辺りをちらちらと見るのに気づきながら、ヒカリは思案した。

(ほんとに、冗談だよね)

 

***

 

「JAは出せんな」

「反応炉は水浸し、か」

「この際です。ネルフに出てもらいましょう」

 

***

 

 フィル・コリンズのメドレーが終わった。バスガイドもなく、担任の先生がときどき目についた風景に説明を加えている。とはいえ、彼の関心は、バスの中でかける、この日のために選りすぐったオールディーズ・ナンバーが意図した通りの効果をあげているかどうかであった。

(ふふふ。まずはハードな曲でつかみはOK。次にスタンダード路線で、ひとしきり落ち着いたところで、スローバラード。完璧だっ)

 ちなみに、同行の美人副担任などいない。自作自演の盛り上がりであった。

 生徒たちはといえば、ひたすらお菓子とおしゃべりだ。もちろん、ノリのいい曲では、知らずのうちに足でリズムをとったりしているのであるが。少しだけ耳を傾けてみると−−

 

「そんなこと言って、ミヲはどうなのよ!」

 チヒロの強力なツッコミが入る。

「うん、好きな人はいるけど、だめなの」

 ミヲはといえば、内気でおっとりタイプながら、ボブヘアに切れ長の瞳が将来を期待させる少女であった。キャラクターグッズを愛するミヲは、今日もミッフィーちゃんのシャツで決めていた。

「どうしてよ。応援するわっ」

「だってこの間、街ですごいきれいな人と腕組んで歩いてたのぉ。きっと、年上のキャピキャピ女と、あんなことや、こんなことを...いやあああああっ!」

「いけないわ、それって。だから、誰なの?」

「えぐえぐ。教えない」

 片耳しなだれて落ち込むミッフィーちゃんであった。

 

 ふたたびハードなナンバーに変わった。もちろん、彼らの知らぬ、その親の世代が若かった頃の歌だ。

 

 If I had silvern wings and fly through the azure

 I'd hold you close and leave for a far-away land

 

 流れゆく緑をながめていたレイの耳を、力強いシャウトが打った。

(銀の翼...わたしにないもの。遠い国って、どこ...?)

 かすかに翳りをおびたレイの表情に、先生はふと気づいた。彼もこの無口な少女のことはよく把握していない。それでも、レイが胸のうちに芽生えた新しい揺らぎと向かい合おうとしていることは確信できた。

(うんうん。若い子はいーねー)

 次にかけられたのも、いにしえのハード・ナンバーだった−−

 

 This is not where I should belong

 That's the way I've felt so long

 

(なんだか、僕のことみたいだ)

 繊細なハイトーンの歌声に、仲間たちの話しに聞き入っていたシンジの心が揺れた。隣に座るシュウが首をかしげ、(おいおい、今からたそがれるなよ)と内心ではやす。

 

 I know words of love will only betray

 Now it's time to seek a forlorn way

 

(あの時...)

 前にいた学校での出来事を、シンジは突然思い出す。転校していくクラスメートの少女から、好きだと言われた。他の学校に行ってからも、電話をかけてもいいかと聞かれた。だが、彼は何も答えられなかった。(よく分からない)そんな返事を繰り返すだけで。少ししか時が経っていないのに、今思い出せるのは、寂しそうな後ろ姿−−セーラー服の華奢な肩にかかる後ろ髪だけだった。

(言葉にしたなら、うそになる)

 

***

 

 眠れない。

 不機嫌に男は目を開いた。規則的な睡眠をとることが不可能な立場の彼にとって、執務室の薄明はそれなりの効果をあげていたが、今ばかりは、体が外の世界とシンクロしているらしい。

 ゲンドウは毛布を独占せぬよう、いくばくかの注意を払いつつ寝返りをうった。

 

***

 

 それはバスが山道に入り、目的地まであと30分ぐらいになった時だった。

 二人のチルドレンの携帯が同時に緊急信号を受信した。

(使徒...?!)

 こわばった表情になって、シンジはネルフ仕様の携帯を取り出し、メッセージを見る。レイも同じくメッセージを確認してから、シンジの方を振り向いた。目と目が合う。

 使徒出現、という語句はない。だが、エヴァの緊急出動を告げるミサトからの連絡なのは確かだった。

(携帯の回線だと、機密事項は言わないのかな?)

 それにしては、エヴァの出動とちゃんと言っている。

 バスが止まった。担任の先生にも通信が入ったとみえる。するべき対応はちゃんと心得ているのだった。

「何だろう?」

 取るものもとりあえず、シンジはバスを下りながらレイにたずねる。こうして素直に言葉がかわせることに驚きながら。

「わからない」

 

***

 

 激しく巻く風で髪が乱れる。

 降下するヘリを迎えながら、シンジは初めて第三新東京市に来た時のことを思い出した。仰ぎ見れば、朝の天気が嘘のように、黒い雲が密集を始めていた。雨が、一粒、また一粒と降り出す。

 そして、あの時と同じく、ドアの向こうにはミサトがいる。

「早く。レイも乗って」

 

 レシーバ越しに、ミサトの説明が入る。

「先に言っておくけど...相手は使徒じゃないわ」

(それじゃ?)

 JAはあれ一機しかなかったはずだ。

(どんな任務だっていうんだ...)

 上空から火山性の地形を見ながら、シンジは不安な気持ちになった。

 

 再び下降を始めたヘリの下には、零号機と初号機がエントリープラグを開口したまま待機していた。野戦用の管制車両のそばには、日向マコトが控えていた。リツコはもちろん、青葉シゲルや伊吹マヤもいない。そのことからも、これが本格的な戦闘でないことは想像できた。よく見ると、管制車両の中では潮マドカが不安げにコンソールを点検している。

 零号機はオレンジから、青いカラリングに変更されていた。その新たな威容を見るのは、シンジには初めてだった。

 

***

 

「それじゃ、お願い。時間がないの」

 ミサトの表情は真剣だ。だが、戦闘の時とはどこか違う。事態が危機的なことは間違いない。それでも、殺気、というべきものとは異なる力強さがあるのをシンジは感じた。初号機を駆って現場に向かいながら、シンジは思う。

(確かに、エヴァでなくちゃ無理だ)

 地形が複雑に入り組み、ヘリすらも墜落の危険を冒さなくてはたどりつけない場所に、かれらはいた。激しくなった雨で視界がけぶる。エヴァの機体を打つ雨の感覚は、LCLに身をひたしたパイロット達にもフィードバックされた。

「目標確認」

 レイの声がシンジとミサトに伝わる。

 

***

 

 それは攻撃目標ではなかった。幼い子供たちの集団。切り立った断崖の手前に体を寄せ合うようにして、震えている。吊り橋が切れたのだろうか。戻ろうにも、土砂崩れで背後にも絶壁が新しくできた−−そんな様子に見えた。今また、新たな傷跡がこの大地に生まれようとしている。

 映像をズームする。震えているのは恐怖のせいばかりではなかった。おそらくは昨晩からそうしているのだろう。濡れた服は体温を奪う。中にはぐったりしてほとんど動かない者もいる。泥まみれのまま、子供たちはひたすら助けを待ちわびていた。そして近づきつつある二体の巨人を見て、年少の一人が激しく泣き出す。その声は子供たちに伝染し、寄せ合う体がいっそう小さくなった。一昼夜にわたり、文字通り絶望の淵に立たされてきたかれらにとって、迫りくるエヴァの姿は、悪鬼であり、ネメシスであり、羅刹であった。

「聞こえる...かな?」

 おずおずとシンジが外部スピーカーから声を発した。しかし、巨人の音声はどこか不自然さを残し、子供たちをいっそう不安にさせた。

「聞いて」

 レイの静かな声が響いた。それと同時に、零号機の背からゆっくりと、輝くオーロラが立ち上がった。その光はやがて上空に伸び広がって、小さな生き物たちの周りをいたわるように覆っていく。雨は広がった光の天幕に弾かれ、その様子に子供たちは驚きをかくせない。

「あなたたちは助かるわ」

 その言葉は、子供たちの怯えを取り除くのに成功した。

「助かる...」

「本当、おねえちゃん?!」

「おねえちゃんとおにいちゃんが乗ってるの、これ?」

「そうよ」

「そうだよ」

 レイの展開した淡いATフィールドを感じながら、シンジは不思議な感覚を覚えていた。エヴァを駆りながら、いま自分が行っているのは、強大な敵を滅ぼすことではない。この小さな弱い生き物たち−−使徒と対極の群体。だが、かれらは死ぬべき存在ではない。それだけは強く信じられた。そしてセンサーは心音の弱まった存在をとらえる。

「ミサトさん!」

「何、シンジ君?」

「医療班はいますか?」

「え...救急用の薬品しかないけど」

「だめです!重病人がいるんです。すぐ本部に言って下さい!」

(碇君...)

 レイもまた不思議な感覚を覚えていた。この少年がさきの使徒戦で、初号機を暴走させることもなく、その膨大なパワーを引き出したことを思い出す。だが今はそれとは違う、シンジ自身の中に芽生えた強さを感じる。

 そっと、二人は子供たちに向けて掌を伸ばす。

「じゃあ、一人ずつ、乗り移って」

 シンジがさらに掌を前に出し、位置の調節をしようとした時−−

「来る...」

 レイが声を上げた。

 地鳴りがする。

 重く低く、鳴動はすぐに激しい揺れとなり、物量となった。

 土石流だった。セカンドインパクト以来、それまでは考えられなかったような規模で、また予測もつかない地域で地盤が崩壊し、多くの犠牲者を出してきたことは、この日本に住む者ならば、みな知っている。今また、地盤がゆるんだせいで、新たな悲劇が起ころうとしていた。

「あああっ...」

 痩せこけた子供の一人が自失する。虚ろなまなざし。また別の者たちはぺたんと座りこんだまま、涙を流し続ける。

 黒い奔流は木々を薙ぎ、山肌を破砕しながら、すさまじい勢いで迫って来た。その巨大な物量は、具象化された滅びの使者。

「「ATフィールド全開!」」

 瞬時に最大出力で展開されたフィールドは、朱金の聖なる絶対領域となり、使徒の圧力にも匹敵する大自然の荒れ狂う暴力を受け止める。固有波形パターンの近似した二機のエヴァのフィールドは、しだいに共鳴を始め、いっそう強力なものとなっていく。

(と、ま、れぇっ!)

 怒濤のごとく押し寄せる土石流を必死で受け止めながら、シンジは歯を食いしばる。腕先の感覚がだんだん失われていく。

「碇君」

 レイから通信が入る。プラグの壁面には地形図が映し出される。

「了解!」

(せ〜〜〜〜〜〜のっ!)

 二機のエヴァはATフィールドを維持したまま、慎重にその形状を変え、土石流の誘導にかかった。上体を乗り出し、子供たちを護ったまま、土石流をくい止めるため宙にかざした両の掌にいっそう力をこめる。

(まだなのか?!)

 エヴァの壁に護られて、子供たちは信じられないものを見ていた。刹那で自分たちの取るに足らぬ生命を抹消し去るに違いない、獰猛な自然。幼い心に予感された無慈悲な死。野の中をさ迷い、けっきょくは土に還る−−そんな予感と隣り合わせに生きてきた子供たちだった。だが、この恐るべき巨人たちは今、力の限りかれらの死を遠ざけている。輝く壁の向こうでは、流れを変えた土石流が、八方にうねる蛇体となって、新たに山野に放たれていった。

(ぐっ...)

 その両肩から背中にさらに凄まじい重圧がかかる。使徒戦と違い、持続的に大出力のATフィールドを同じ姿勢で発生し続けるのは、ひどくシンジとレイの心身を消耗させた。

「がんばって、おにいちゃん!」

「がんばって!」

「がんばって、おねえちゃん!」

「がんばれ!」

「がんばれ!」

 いつしか泣き、怯えることを止めた子供たちの声援が続く。

 

(はあっ...はあっ...はあっ...)

 ついに、あれほど凶暴だった土砂のうねりも、弱まり、止まっていた。

(助かった...)

 シンジはATフィールドをドーム状に展開しながら、これまで感じたことのない気持ちを味わっていた。それは尊い安堵。守りおおせたことの安堵。

(この気持ちは、何?)

 ATフィールドを共鳴させた時、レイにもシンジの心が伝わってきた。それは言葉の形をとらなかったにせよ。

 掌に、乗り移る子供が、また一人。

 

***

 

 優しく、こわれものを抱くように。泥と涙でくしゃくしゃの子供たちを掌に乗せ、エヴァ零号機と初号機が山間をゆるりと進む。

 青梅雨、という言葉がある。もはや梅雨の存在しない時代とはなっていたが、小降りとなった雨空の下、むせるような濃い緑をしたがえつつ、ATフィールドの輝きに包まれてしずしず歩む二体の巨人は、生命をヒトの世界へと運び届ける天からの使いを思わせた。

 

「ありがとう、二人とも」

 穏やかな笑顔でミサトが二人を迎えた。そっと子供たちを大地に下ろし、エヴァのクールダウンを始めたところで、作戦部長として宣言する。

「これにてエヴァの作戦行動は終了とします。下りて来てね、二人とも」

 管制車両の中では日向マコトと潮マドカがデータのチェックをしている。

「それにしても...」

 マコトがデータを本部へと転送しながら、感心する。

「センサーの反応によれば、野生動物の営巣ポイントをきれいに回避しています。こんな形に、土石流を誘導するなんて...」

 データを改めて見ながら、マドカも頷く。うっすらと目が潤んでいる。

 優しい子たちね、という言葉をミサトは飲み込んだ。その思いは誰しも同じだと分かっていたから。周りでは、駆けつけた医療スタッフや、地元の消防団の人たちが、子供たちの介護に奔走中だ。

 後に、この時出来た新たな奇景を、世人は「エヴァ押し出し」と呼びならわすことになる。

 

***

 

 チルドレン二人は、再びネルフスタッフと共に、遠足に向かう2年A組一行のもとに合流した。

「こんな時だからこそ、ね」

 ミサトの粋なはからいであった。保護者として、担任への挨拶もしておきたい気持ちもあった。後ろに立つ二人のオペレータたちも、先生に向けて軽く会釈をした。

「どうも。担任の敷島といいます」

「あら...ひょっとして、あの敷島家の?」

 ミサトは高名なロボット工学者を祖とする科学者一家を思い出す。

「よして下さいよ。私は不肖の末裔ですから」

 いっぽう、クラスの仲間は無事帰って来た二人をむかえる。

「よっ、ご苦労さん」

 トウジがぐいと手を伸ばす。最初、シンジは反応できないが、すぐに「握手」を求められているのだと悟る。力強い、思いのこもった握手だった。

 けれども、次に一瞬固まったのは、トウジであった。差し出されたレイの繊細な手。

「ナハ...」

 トウジの頭の中で、怪しげな演算が始まる。

(あの、綾波が...ま、碇のセンセに合わせてるだけやろけど...んでも、誰かの目線が...うぐ、わての背中を鋭く抉っているのを感じる...けど、ここで手を握らんのは、かえってヘンやろし...)

 ままよ、とばかりにトウジはレイの手を握った。ガラにもなく赤面しつつ。

 ほのぼのとした空気が−−ヒカリの周囲に立ち上がったオーラを別として−−漂っている。チヒロもまた、無事帰ってきたシンジとレイを見て、満面に笑みをうかべて喜んだ。

「よかった!」

「ん、よかったな」

 そばに立つシュウがフォローする。目線が、合う。背丈のだいぶ違う二人であった。だが、その隣では、なぜかミヲが髪を逆立てて、口をあぐあぐと開いている。その理由はやがて明かされることであろう。

 不意に、ヒカリが歓声をあげた。

「わっ、見て!」

「あ...」

 暗灰色の雲間が開く。中天に達しようとする太陽の光が射し込み、それは透明な光のカーテンとなった。柔らかな光は山肌を包み、濃緑の上を銀の粒子が跳梁する。

「きれい...」

 ミサトたちも光彩の饗宴に息をのむ。やがて雲が退くと陽光は天空に散乱し、造化の妙はきわみに達した。

「虹!」

 どこからか声があがる。生徒たちばかりではない。マドカまでも、うわっ、虹ですぅ!と髪を結い上げる前の童女のように、大きい目をまたも潤ませてはしゃいでいる。マコトも、とうに封印したはずの少年の心が甦ってくるのを感じ、この時ばかりは今までの過酷な戦いを忘れていった。

「神の作りしもの...か」

 ミサトの唇から言葉がこぼれる。人の作りしものとの、遙かなる距離を思いながら。

(エヴァは、どっちだというの?)

 そんな思いを秘めつつ、今ばかりは、彼女も眼前の奇跡を胸に刻むことにした。


 

Episode 07: A Divine Work

 


「ユイ」

 男は手を伸ばす。目の前に立つ、少女の面影をなお残した妻の姿は、白く朧につつまれたように儚い。そして暗鬱な音をたてて、女の片腕が剥がれるように落ちる。血の飛沫もなく、硬い床の上に投げ出されたその腕は、どこまでも美しかった。

 言葉は、ない。男は焦りを隠しながら、全裸の妻の乳房に右手をやる。やや力を加えて押しあてると、その手は白い陶磁器のような肌に吸い込まれるごとく融合し、沈んでいった。じっと男をみつめていた女は、小さな喘ぎ声をこぼすと、薄く目をつむった。唇を結ぼうとするが、微かに吐息がもれる。

 男の手はなおも妻の体内をまさぐるように、静かに鳩尾からすべらかな下腹部へと下がっていった。だが、それと同時に、女のもう片方の腕が力なく崩落する。男は手をのばし、両腕を失くした妻を抱きかかえようとするが、砂上の楼閣のようにその骨肉は形態をなくし、男が力をこめるほどに、細い両肩、華奢な、しかし挑発的な腰、瑞々しい大腿部と次々に崩れ去っていく。その身体と融合していた右手にも、もはや肉の感触はなく、虚しく空をつかむだけだった。そして腕の中に唯一残った妻の頭部に男は口づけようとするが、その刹那、ばさりと栗色の髪が四散し、男は薄闇の中、独りになる。永遠に。

 物憂げに身を起こすと、碇ゲンドウは時計を見た。コンソールに目をやり、メッセージの内容を順に確認する。日本政府から二通。これは副指令によって処理済みだった。そして国連艦隊が既にネルフ本部管制下の海域内に入ったこと伝えるメッセージ。シナリオがまた一つ、進んだことを確認すると、ゲンドウは執務室に向かった。

 

***

 

「さ〜んはい!」

 レトロだ。あまりにレトロだ。ケンスケとシュウはそれだけで感涙にむせんでいた。キャンプファイヤーはうつろう魔法の時間。宵闇に舞う金色の火の粉に、心は少しだけのびやかに。思いはいっそう切なく。また一曲終わったところで、シュウが叫ぶ。

「先生!<あの素晴らしい愛をもう一度>いきましょう!」

 がしがしとパワーアップしていくシュウであった。

「ホントに、シュウってば」

 ぽろりとチヒロがこぼす。その時、(あ...そうなんだ!)とヒカリの中にひらめくものがあった。そう、バスの中でじっと彼女が見ていたのは、シンジではなく、隣のシュウだったのだ。シンジとレイを迎えたときにかわした、チヒロとシュウの自然な笑顔が、あらためて強く思い出される。そこで、ヒカリは一計を案じることにした。

(えっと、手伝ってくれる人は...)

 焼き肉を喉につまらせかけて、ひーふー呻いているトウジを横目で追いながら、まずは同じ班の恋する少女、ミヲにささやきかけた。

 いっぽう、ケンスケは爆発物系の新たなセットに向かっていた。花火のブランドも「すぺしうむこうせん」や「かめはめは」は序の口、今、カスタムメイドの「だいやもんどあい」に点火したところだ。やがて虹色の火花が螺旋を巻くように上がるが、それだけではなかった。不意にきらびやかな正義の閃光がシンジを照らし出した。

「どうだっ!」

 あ然としながらも、シンジはすぐに目くらましから立ち直る。

「どうって...?」

「むっ。この光線を浴びれば、好きな相手を告白をするしかないという、<外道照身モード>を跳ね返すとは、エヴァパイロットの実力はダテではないな」

 ケンスケがくせっ毛の髪をかきあげながら大げさにぼやく。

「何を言っているのか、分からないよ」

 

***

 

 シンジの演奏が終わった。キャンプファイヤーも宴たけなわ、今は個人芸の披露となっていた。クラスの男子がもってきたギターをきりきりと調律しなおして、バッハをさわりだけ、演奏したのであった。

「すご〜い、碇君。ずっとやってたの?」

「そんなことないよ。けっこう外しちゃったし」

 チェロなら出来るなどと、よけいな事を言わないのが彼のいいところである。

「次は誰だあ?」

 先生がクラスを見渡す。焚き火にあおられ、上気した中学生たちの顔が映る。年齢なりの不安や悩みはかかえていても、彼が同じ年頃だった時に過ごした殺伐としたキャンプを思えば、その表情はずっと満ち足りたものだった。

「...綾波...」

 ぽつり、とどこかから声があがる。とたんにクラスの視線がレイに向けられる。誰が言い出したのかは分からねど。

(綾波さんが...芸?)

 それは信じがたい可能性、いやほとんどエヴァの起動確率にも匹敵するほどの。こんな場では、無口な美少女は泣かされるのが世の常、いったいどうなるのか。

(いざとなったら、一緒に何かやらなくちゃ)

 気配り上手の委員長・ヒカリであった。敷島先生も(まずっ)と思うが、気をとりなおして、いざとなったらフォローに転じるべく心を決めた。

「...暗唱、します...」

 一同が静まった。透き通った夜気の中を、レイの声が渡る。

(暗唱って...)

 まさかネルフの軍律でも始めるのではないかとシンジは思ったが、少女の口元から紡がれ始めた韻律に、すぐに心を奪われていった。

 

 流れよわが涙 悲劇の泉より溢れ出よ

 流亡の果て 尽きぬ哀しみにくれ

 漆黒の夜の鳥が 静かに凶事を歌うところ

 わたしは独り住まうのだ

 失せよ虚飾の光 星の輝きも消えうせよ

 八重の夜さえも 暗きに過ぎることはない

 絶望の彼方 おのが運命を嘆くところ

 光は悔いを露わにするばかり

 夢の浮き橋は朽ち 寂しさもまた幻

 虚ろな日々の 翳りは深まりゆく

 あらゆる運命が果て 黄昏に立ち枯れるとき

 ああ 幸いは根の国のみにある

 いとしい人よだから わたしと一つになって

 名も無き夜を手枕に 永遠の孤独を生きるため

 

 そよそよと、高原の風が吹き抜ける。

 ほおっ、というため息のままに、クラス一同、深く感動。続いて沁みるような、長い拍手。

「すごくよかったわ、綾波さん」

 ヒカリが声をかけた。

「ありがとう...綾波」

 シンジも声をかける。それは素直にこぼれた、感謝の言葉。

 だが、レイは紅い瞳で、怪訝な顔をしてシンジを見つめ返す。

「ごめんなさい...こういう時どんな顔すればいいのか、分からないの」

 くすっ、とシンジは破顔した。そう、こんな時は−−

「笑えばいいと思うよ」

 そして、はにかみながら、シンジを見つめてこころもち朱のさした頬に、レイのぎこちない微笑みがひろがってゆく。

(あ...)

 シンジの世界から、周囲のざわめきが消えていった。焚き火の音だけがぱちん、と爆ぜる。穏やかな空気。柔らかな空間。沁みいる夜気はどこまでも優しく。

(綾波が、好きだ)

 どうしようもないほどに。

(なんだ、この気持ち...息がつまって...ずっと傍にいたくて)

 敷島先生は、恋に落ちゆく若人を見つめながら、遠いものを見る眼差しになった。

(それが青春なのだよ、少年)

 

***

 

 リツコは転送されたデータをブラウズしながら、かつてゲンドウと交わした言葉を思い出していた。

 

「つらいでしょうね、あの子たち」

「エヴァを動かせる人間は、他にいない。生きているかぎり、そうしてもらう」

「子供達の意志に関係なく、ですか」

 

 対使徒戦でないにもかかわらず、得られたデータは貴重なものだった。二機のエヴァが同位相のATフィールドを生成した時、共振効果によって桁違いのエネルギーが生じること。そして、これまでレイだけに可能と思われていた高精度の可塑性ATフィールドが、あの少年によっても生成可能だと新たに分かったこと。

(要するに、心を一つにすればどんな困難も乗り越えられる−−ミサトならそう言うでしょうね)

 ふっ、とリツコはため息をつく。

(あの子たち...)

 あるいは、つらいだろうと思うこと自体、自分たちの傲慢なのかもしれない。

 

***

 

 宿舎にて。

 中学生の団体旅行、となれば夜中にすることはただ一つ、好きな相手の暴露ごっこである。それぞれの部屋で、にぎやかに宴が繰り広げられていた。同時に、ヒカリの発案によるカップル急造作戦も発動している。

「ちょっと、おにーさん」

 トウジがシュウに小声でささやく。肩を組み、ヒカリの作戦通りのセリフを親友の耳に注ぎ入れながら。

(まー、あのイインチョの頼みごとやし、しゃあない)

 

***

 

 いっぽう、少女たちは−−

「あの、山岡さん...」

 ヒカリが切り出す。

「何?」

「バスの中で、ずっと誰を見てたの?碇君?」

 これは伏線。

「えっ、そんな、違うよぉ」

「じゃあ、岸田君?」

「だ、誰がシュウなんか!」

 真っ赤になってチヒロがふくれる。その横で、レイはといえば、相変わらず黙って文庫本を読んでいる。「碇君」という言葉が出た時だけ、本から目を離したのではあるが。

「だけど、岸田君て、けっこう人気あるでしょ?警戒されてるんだよ、山岡さん」

「け、けーかいなんて、勝手にさせとけばいいのよ!」

 くすっ、とヒカリが笑う。

「でも、岸田君も、同じこと言ってるの、知ってた?」

「うわっ、うらやまし過ぎぃ!」

 作戦と知りつつ、ミヲもまた力一杯、同調して見せた。まだ小さな胸を痛めつつも、いつになくお茶目なヒカリの様子につられ、人の恋路くらいはガンガン進んでほしいと開き直ったミヲだった。

 

***

 

(まったく、雑用ばかり押しつけおって)

 ネルフ副指令・冬月はすすまぬ食欲をなだめすかし、膳をかたづけた。あの地獄をくぐってきた者にとっては、このような接待の席であっても、ものを残すのは許し難いことだった。

(今でも、餓えた者の数は減っていまい)

 まだ若い中央官僚が、乱雑に箸を運ぶのを、冬月は苦々しく見やった。第五使徒戦では、未発に終わったとはいえ、日本全国の電力をネルフ本部が徴発する挙に出ようとしたことで、中央政府との間に軋轢が生じていた。ある意味、それは望んだことでもあった。これからの使徒戦を考えれば、国民の資産凍結も含めた措置を発動する必要も出るだろう。事前に圧力をかけておくのも、戦術の一つだ。政権中枢に蒔いた毒草の種は、特別監査部の男が育てることだろう。

「その件は−−」

 中央官僚はくい、と杯を干した。

「ご要望として承ることにします」

「協力に感謝するよ」

「それでは、堅い話はこのくらいにして」

 ややあって、若い女たちが座敷に入ってきた。着飾ってはいるが、趣味は良い。

「日本の官僚はまだこんなことをしているのかね?」

 冬月は不愉快さをあらわにし、席から立ち上がった。

「まあ、今日は特別です。ネルフの副指令殿との知己を得た記念ということで」

「エリカです」

 物腰の柔らかい、黒髪豊かな女がしなを作る。

「ユイです」

 短い髪の、理知的な美女が微笑みかける。

「ユイ君か...」

 面影があるわけでは、ない。だが、長らく肉声に出したことのなかったその名前は、冬月の脳裏で幾度も反復され、過ぎた日々を呼び起こした。そんな自分を冷笑しつつ、彼は身につけた紳士の仮面を盾に、おもむろに宴席を辞した。その遠い名前をささやき、生身の女を腕に抱くようすを想像しながら。

(ユイ君か...)

 

***

 

「...かしら」

「うんうん」

「幼な馴染みだと、かえって難しいのかな」

「うんうん」

「チヒロの気持ち、岸田君も分かってあげればいいのに」

「うんうん」

 ヒカリとミヲの問答はなおも続く。カサ、と物音がするが、聞き耳を立てるだれかさんには、気づかぬふりをして。

「何かきっかけ、ないかなあ(<キメの一言、よろしくね!)」

「でも、男の子から言ってくれないとだめだよ、きっと(<これでいいかな?)」

 よしっ、と少女たちは目線を会わせた。

「ミヲだったら、どうする?」

「あたしは...」

 打ち合わせにないセリフにミヲは慌てたが、星の見え始めた夜空を見上げ、素直に自身の思いを解放した。

「あたしはね、ずっと自分から打ち明けられないままで、気がついたら一人ぼっちになってて、それでおばあさんになっても、この人だけを好きだったんだって思えたら、それでいいの」

(げっ)

 岸田シュウは、物陰から二人の少女の会話を聞きながら、ついつい独身のまま寂しく老婆となったチヒロの姿を思い描いた。

(あいつ、今でも小さいし、しぼんで婆さんになったら...)

 一人じゃ可哀相だろうな、と妄想がトップスピードで走り出す。

「でも、チヒロったら、遅いね」

「一人で散歩してるのかもよ。いったん部屋に帰ろうよ、イインチョ」

 ここでヒカリとミヲは退場。二人の「立ち話を偶然にも聞かれてしまいました作戦」は成功したようだった。あとはチヒロが時間通りに通りすがるのを待つばかり。

 少し間をおいて、かがんでいたシュウは立ち上がった。伸びた夏草の中にいても、その長身は目立った。そしてヒカリたちが去ったのと別の方向から、弾むように歩いて来る小柄な少女。

「お、何だ、チヒロじゃん」

「シュウ...」

 

***

 

 再び宿舎にて。

 ヒカリのカップル急造作戦は予想外の成功をおさめた。いや、「急造」でなかったからこその、成功だとも言える。

 半分ポーッとしたまま、部屋に戻ったシュウの、よく見れば多感さを感じさせる横顔に、「外道照身!」と気合いを入れてケンスケがファインダーを向ける。

「何だよ」

「いや、いい顔してたからさ」

 そういうケンスケも、こういう時は実にいい顔である。

 まだ惚けたままのシュウだが、ふと思い出したように、シンジに顔を向ける。

「あのな」

「何?」

「チヒロのこと、本当はどうなんだよ?」

「どうって...」

 いきなり振られて慌てたシンジだったが、いくら「お子様」と呼ばれていても、ここまで来ればさすがにシュウの気持ちは読めた。

「見かけより、ずっと優しい子だと思うけど、好きとかじゃないよ。みんなも同じように思ってるんじゃない?」

「じゃ、誰か好きな相手、いるのか?」

「いや...いないよ...」

 シンジはあいまいに笑って口をつぐむ。

(綾波が、好きだ)

 だけど−−

(言葉にしたなら、うそになる)

 

***

 

 いっぽう、少女たちは−−

 半分ポーッとしたまま、部屋に戻ったチヒロだったが、すぐにいつもの活気を取り戻し、小気味よい調子で会話に加わっていた。話題はいつの間にかあらぬ方向へ進んでいる。

「え、えっちをするのはまだ早いわ」

 これはミヲ。

「じゃあ何才になればいいの?」

 とチヒロ。このテの話題になると、ヒカリは聞き役に回ってしまう。

「えっと...18?」

「そんなのババアじゃない」

「じゃあ17?」

「いっそ16!」

 だんだんカウントダウンしていく。

「やっぱり、いけないわ」

(コダマお姉ちゃん、どうしてるのかしら?)

 二人の漫才を聞きながら、現実的なことを思い浮かべて一人悶えるヒカリであった。

 

***

 

 燈火の下、敷島先生は今日の日誌を書き込んでいた。長い一日を終え、わずかにヒゲの出た頬を左手に預けながら、ペンを走らせる。仕事で決められた日誌は、もう入力・転送を済ませていた。だが、それとは別に、もっと人間味の加わった記録をとどめるために、こうしてノートを記しているのだった。

「ネルフの指揮官、美人なり」

 確かに、人間味の溢れまくった記録である。そう記して、先生はなぜかケンスケが差し入れた自衛隊謹製<尚武>の酒瓶をまた傾けた。

 

***

 

「それじゃ、ミヲは?」

 チヒロが昼間の話題を持ち出した。

「えっ、もういいよ」

「よくないでしょ。あたしも心を決めたんだから、告白しなさい!」

 開き直って、こわいもの無しのチヒロとなっていた。

「そうよ。きっと力になるわ」

 ヒカリも加勢する。

「だって...」

 再びミヲは内気モードに戻ってしまう。それでも、特別な夜に、勇気を出して小声で思いを打ち明ける。

「B組の、う・し・おくん」

「「え〜〜〜〜〜〜っ!」」

「それで、えっく...街で一緒に見たキャピキャピ女が...さっきの...」

「潮マドカ。ネルフ出向の技官。技術部配属サブ・オペレータ」

 レイが本から目を上げ、いつものささやくような声で話した。

「「「へっ?」」」

 一同、唖然。レイは自分の発言のインパクトを理解したようすは見せずに、再び本にもどった。

「潮...って?じゃあ...」

 チヒロがいち早く事情を理解した。つまり、B組の潮少年にはマドカという姉がおり、二人で仲むつまじく街を歩いているところを、ミヲは偶然目撃してショックを受けたというわけだった。さきほどは、ネルフ勤務のマドカお姉さんが緊急出動でやって来て、それを見かけたミヲは、あぐあぐと逆上していたという次第。

「ちょっと、それじゃ何歳なの?」

「...22、3歳...」

 今度は、レイは本を見たまま、あまり興味なさそうに答えた。ゲンドウが引き抜くほどの人材なら、大学院は出ているが、どこかで飛び級しているので、大学卒と同じくらいだろうという判断だった。

「ええっ!あ〜のショタおんなぁ〜〜〜!若作りしやがっててぇ〜〜〜〜〜〜!」

 18歳くらいの女子大生かと思っていたミヲであったが、レイの情報にマジギレするのだった。ミッフィーちゃんも憤怒の形相である。

「でも、榎本さん、その人が潮君のお姉さんなら...いいじゃない、って...そんな怖い顔しないでよ」

「委員長、これは正義の怒りよっ!」

 わけのわからんフォローを入れるチヒロであった。

 

***

 

 少年たちは寝静まっている。鈴原トウジは真っ先に。碇シンジは二番手。相田ケンスケと岸田シュウはしばらく今宵のイベントの合評会をしていたが、夜の白むまでもう少し、というところで同時に眠りについた。ところが−−

 ごそごそ。

 細心の注意を払いつつ、ケンスケは布団から這いずり出し、用意してあった赤外線暗視スコープを装着すると、部屋のドアを物音を立てぬよう開けたのだが−−

「トイレかぁ?」

「ああ」

「チヒロの寝姿、撮ったら殺すぞ」

 

***

 

 少女たちは眠らない。

 なぜかヒカリに矛先は向かないのだが、それは、彼女がちょっと部屋を外した時、チヒロとミヲが顔を見合わせ、口パクで(す・ず・は・ら!)と合唱して勝手に−−とはいえ正しく−−了解してしまったからであった。

 そして当然、少女たちの関心はレイにも向けられる。心晴れたミヲが悪戯っぽく言う。

「綾波さんは好きな人いるの?」

「碇くん」

 即答。

 一同、石化。

「ええええええっっっ!!」

 ここで、単文節変換によるリプレイ。

「綾波・さん・は・好きな・人・いる・の?」

「碇・くん」

 やっぱ即答。

 一同、石化。これまた変わらず。

「ええええええっっっ!!」

(う、嘘よ、嘘よっ、綾波さんが☆♀♪♂だなんて!)

(裏切ったのね、わたしの気持ちを裏切ったのね!)

(事実よ、受け入れなさい−−というか、「とりあえず、いないふりをする」という受け答えのお約束を知らないのね)

 委員長の的確な判断であった。「好き」という言葉が、この少女にとってどんな意味をもつかまでは、思い至らなかったにせよ。

「そ、それで、告白はしたの?」

 チヒロが真っ赤に燃えて詰め寄る。

「どうして?」

「どうして、って、好きだったら気持ちを伝えて当然じゃない」

「そうなの?」

 あうっ、とチヒロは言葉につまるが、なおもたたみかける。

「そ、そうよっ!気持ちが通じてこそラブラブになれるのよっ!」

「それに、碇君って、誰か好きな人いるんじゃないの?」

 こちらも詰め寄るミヲである。

「わからない」

「だめだめ。他に決まった人がいたら、困るでしょっ!」

 ミヲの言葉にレイはきょとん、とした。

「決まった人がいる人を好きになってはいけないの?」

 レイの爆弾発言が飛び出す。

「だめよっ!略奪愛はいけないわ、綾波さん」

 ヒカリの断言。

(((でも、この人だったら、楽勝でやりそう...)))

 それぞれの思い人を心中に浮かべ、警戒レベルをあげる少女たちだった。

 

***

 

 高原の早朝は涼しい。早くに目が覚めたシンジは、宿舎を出た。特に目指すところがあるでもなく、もやの中をシンジは歩いていった。夏草が朝の光を反射していた。歩きながら、すうっ、と深呼吸をする。

 昨晩のにぎわいの昂揚からはさすがに醒めていた。しかし、更けゆく夜の中で、難しげな詩の暗唱をしたレイの姿は、一夜明けても彼の心の中に確たる位置を占めていた。

(どうしたらいいんだろう)

 それは答えを求める問いかけではなかった。ずっと、彼女を見ていたい。その一方で、いったい自分に何が出来るのか、という無力感はまだ残ったままだ。ゆっくりと小径を歩きながら、シンジはふと昨日のエヴァの出動の時のハプニングを思い出し、独り顔を赤らめる。あの時、管制車両内の急造の更衣室で、レイはいきなり服を脱ぎ始め、シンジは慌てふためいたマドカに車両から追い出されたのだった。はだけた制服から一瞬見えた白い胸元が、今また思い出される。

「綾波...」

 ぽつん、と小さくその名を声に出す。

「何?」

 少女はそこにいた。長く伸びた夏草の向こう、はすかいに交わる小径の上に立って。

 それは二人のための、慈悲に満ちた偶然。

 長い、沈黙が続いた。シンジはいっそう顔を赤くして、うつむきがちに、レイはじっと少年を包み込むように見つめつつ。朝露が、二粒、三粒と、木立の葉からレイの髪の上にこぼれる。その露は青みがかった銀髪から跳ね、光に弾けた。

「あ...歩こうか」

 レイはこくりと小さくうなずいた。

 再び、沈黙。互いに時おりその横顔を見るのだが、何度もすれ違い、だいぶ歩いたところで、二人の視線はついに絡み合った。

「初めて触れたときは、何も感じなかった」

「え?」

「碇君の手...」

 レイの唇が動く。

「二度目は...」

 シンジは息を詰まらせる。

「少し気持ち悪かった...かな?」

「あ、あの時は、ごめん」

「三度目は、暖かかった...スーツを通して碇くんの体温が伝わって来た」

 その思いはシンジにとっても同じだった。

「もう...一度、触れてもいい?」

「...いいよ」

 朝の穏やかな空気の中、二人の手は重なった。どちらからともなく、強く握り返しながら。

「生きていて...」

「えっ?」

 急なレイの言葉に、シンジはとまどった。これまでの使徒戦を思い出すまでもなく、もっと自分をいたわるべきは、レイではないか。

「碇君は一人しかいないもの」

「そんな...綾波だって...」

 シンジの胸を不安がかすめる。こうして触れあっているのに、二度と会えない時がくるかも知れない−−シンジはその思いに不意に涙がこぼれそうになるのを感じて、思わずレイの紅い瞳から顔をそらした。

 

***

 

 帰りのバスの中。あんがいと車内は静かだ。徹夜組の多くは寝込んでいるからであった。座席も思い思いに移動し、チヒロはシュウと仲良く−−といっても意識しまくりで−−隣どうしに、すやすや安眠のレイの隣にはこれまた瞼の重そうなシンジが座っていた。ヒカリはジャージの少年を意識しつつも、ミヲと一緒におしゃべりに興じている。そんなヒカリの気持ちなど知らず、トウジはといえば、(これやから、女っちゅーのは)と、そのかしましさに唖然とするばかりであった。また別の座席では−−

「ねえ、<第三新東京ラブストーリー>見てる?」

「えー、見てるよ」

 少女たちの会話ははずむ。テレビドラマを見て恋愛のイメージを膨らませる年頃なのである。

 その時、レイがまどろみから醒めかけた。周りの会話が聞こえる。それまで、人間界についての知識といえば、ランダムに選んできた本から得るばかりだったレイだったが、テレビというものを部屋に置こうと、そのとき初めて思った。

 

***

 

 ちなみに、女子生徒諸君による、雨夜ならぬ白昼の「品定め」は延々と続くのである−−

「天本君って、カッコよくない?背が高くて」

「え、でもちょっと変わってるよ。だって、理科室でエリマキトカゲ飼ってるんだもん」

「うそ、可愛いじゃない。こんど見たい」

「そのトカゲねえ、<じらーす>っていうんだって」

 

<つづく>

2002.7.25(2007.10.10オーバーホール)

Hoffnung

<補 記>

 今回、バスの中でかかる曲は、スターレス「銀の翼」(同名アルバム収録、作詞大久保じゅたろう)、ノヴェラ「出発〜Dream Trip〜」(「最終戦争伝説」収録、作詞山田ミネコ、補作平山照継)を元にオマージュをこめてアレンジしたものです。ここからの二次引用はお避けください。なお、レイの暗唱する詩は、イギリスの古謡を参考にしています。

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