EVA -- Frame by Frame --

 

<第8話 アスカ、襲来>

 

 男は星を見ていた。

 季節というものを故郷の地が失ってはいても、天上にあるのは夏の星空だった。そんな男の視界を、闇を通してもそうと分かる、美しい姿形の少女がふさいだ。

「あたしが好きなのは加持さんだけよ。子供じゃないんだから。全部あげていい」

「大人はそういうことは言わないんだよ」

 

***

 

 凪の潮風が切りそろえたプラチナブロンドの髪をなびかせる。ユリア・ハンナヴァルトはしかし、久しぶりの陸地の感触を味わう余裕もなく、ネルフの車に乗り込んだ。硬質な表情は車中でも変わらず、迎えのスタッフの挨拶にも「Danke」と一言答えただけだった。いずまいを正したまま、ひざの上のファイルケースを握りしめている。その視線は、時折「Mama」とつぶやきながら、隣に力なく座る少女−−鎮静剤のために浅い眠りに入ろうとしている−−をずっと見つめ続ける。時折、車がカーブを切るたび、ユリアは少女の体を支えてやった。初めて見る日本という国の風景も、彼女にとってはまだ明瞭な意味をなさなかった。

 やがて、車は第三新東京市に入り、ジオフロントへ、ネルフ本部へと向かう。ユリアの緊張が解ける気配はない。ジオフロントの構造は、あらかじめ得てあった資料とほぼ同じだった。ところどころ異なる点があるのは、これまでの使徒戦で受けた損害を補修した結果にちがいない。

 リフトに乗って地下に向かっていた車が停止した。デッキにはスタッフが集まっている。ユリアはまどろみの中にいる少女を注意深く車から下ろして移動式ベッドの上にのせると、二言、三言、同行してきた医療班に指示を与えた。そしてスタッフの中から、日本人らしからぬ金髪の女性が歩み出る。

「Lieutenant Hannawald, I am Ritsuko Akagi. We'd been all looking forward to seeing you. If you're not terribly exhausted, we wish to share some information concerning the deployment of EVA-02...(ハンナヴァルト中尉、私が赤木リツコです。到着を待っていました。ひどくお疲れでなければ、エヴァ弐号機の運用について、情報を共有したいと思います)」

 完璧なブリティッシュ・イングリッシュでリツコが告げた。

「問題ありません」

 ユリアはやや固いが正確な日本語で答えた。

「あら」

 リツコは意外そうな顔をする。

「Fine...それでは、15分後に第三会議室で」

「了解しました。それから、これは私から尊敬する赤木博士への贈り物です。お気に召して頂けると幸いです」

 そう言ってユリアはファイルケースから、小さな包みを取り出した。リツコは中をあらため、古風な銀の装飾に見入りながら礼を言う。

「ありがとう。年代物のファーバー・カステルね。いいものだわ」

 少女を乗せたベッドに寄り添ってユリアが去るのを見送るリツコの背中に、遅れて着いたミサトが声をかける。

「ただいま」

「おかえりなさい。豪華なクルージングだったわね」

「もうサイテー」

 

***

 

 同日、早朝−−

 新横須賀港の埠頭から一機のヘリが飛び立った。搭乗するのは葛城ミサト、鈴原トウジ、相田ケンスケ、そして綾波レイ。

「あれ、碇のセンセは?」

「ちょっち、カゼひいちゃったみたい。大事をとって今日はお休みよ」

 どうやら、先日のキャンプファイヤーの時らしい。トウジとケンスケは、帰り際のシンジのようすを思い出し、やっぱりな、としたり顔でうなづく。メランコリックな微熱は、実はカゼの初期症状というだけではないのであったが、まだ二人はそこまで思いつかない。

 綺麗なおねーさん萌えの少年は、ここでしっかりアピール−−

「ミサトさん、この帽子、今日のこの日のために買うたんですぅ」

 ケンスケはといえば、横須賀沖をゆく大艦隊に随喜の涙を流していた。

「おおっ、空母が五、戦艦四、大艦隊だっ!海の上をゆく<オーヴァー・ザ・レインボウ>に邂逅できるとは!」

「しっかし、よくこんな老朽艦が浮いていられるものね」

 レイは相変わらずの無表情で朝のひねもす海原を眺めていた。光の彩なす小波、そして海鳥たち。微かにカーブを描いた水平線というものを見るのは初めてだった。遠く広く、濃紺の海面が返す輝きを、レイは方向感覚が失われるまでじっと見つめていた。

 

***

 

「凄い!凄い!凄い!凄すぎるぅ!」

 もはや夢心地のケンスケである。交代時間だろうか、甲板を兵士たちがせわしなく動き回る中を、一行はブリッジへと歩んでいった。その時、トウジの自慢の帽子を吹き飛ばす一陣の風。あわてて追いかけた先には、赤い靴、すらりと伸びた二本の足、そして風にふわりと舞い上がる黄色のワンピース−−

 べち。

 べち。

 さらに手を挙げかけたところで、さすがに黄色いワンピースの少女は動きを止める。目の前には、何事もなかったかのように佇む、色白の物静かな少女。仕方ない、という様子で黄色いワンピースの少女は手を腰にあて、引率のおねーさんに向き直る。

「Hallo、ミサト。元気してた?」

「まあまあ、ってとこかしらね。紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、惣流・アスカ・ラングレーよ」

「で、うわさのサードとやらはどれ?まさか、こいつじゃ...」

 アスカと呼ばれた少女は、ジャージ姿の少年を指さす。

「今日はおやすみよ。この二人はオブザーバーってとこかしら」

「それじゃ...」

 そう言いながら、アスカは目の前の少女をしげしげと見つめ、記憶を反復した。

(エヴァンゲリオン試作零号機、専属操縦者。過去の経歴は白紙。全て抹消済み...)

「あなたが綾波レイね」

「ええ」

「ふ〜ん、さえないわね」

 

***

 

「Your signature please, Admiral(サインをお願いします、提督)」

 ミサトが迫る。

「Hey, our fleet is no baby-sitter for these kids. When did we become like this?(まったく、わが艦隊は子守りではないぞ。いつからこんなことになったのだ?)」

 艦長は嫌みたっぷりに話題をそらした。

「And your signature?(サインですけど?)」

 ミサトがなおも迫る。

「I recall, Admiral, it was when the U.N. forces became subordinated to a certain organization(たしか、国連軍が某組織の支配下に入ってからかと記憶します)」

 副官が気のなさそうな調子で答えた。「某組織」のところで若干、力をこめて。

「おおっ、ミサトさんエイゴをしゃべってはるぅ!」

 トウジの萌えがグレードアップした。中二の彼には何を言っているか分からなくても、この船の艦長がかれらを歓迎しているようすではないこと、そしてミサトの機嫌が目に見えて悪くなっていることはさすがに分かった。

 にらみ合いになったところで、別の声−−

「葛城一尉」

 一同が振り返る。そこには、ネルフの制服に細身をつつんだプラチナブロンドの女性が立っていた。北欧系の秀麗な顔立ち。形のよい唇から、正確な言葉が紡ぎ出される。

「ネルフドイツ支部、技術部上級研究員、ユリア・ハンナヴァルトです。現時刻をもって、エヴァンゲリオン弐号機の管理・運用の権限を葛城一尉に委譲します」

「よろしく」

 二人の女性尉官は握手を交わした。

(ふつうは、こうやって簡単に済むのにね...)

 内心でぼやきながら、ミサトは書類に目を通す。

「そういえば、弐号機の模擬体だけど、潰しちゃったわ」

「聞いています」

 ユリアは顔色ひとつ変えずに答えた。分厚い書類と一緒に、見るからに重装備のラップトップをかかえている。

「お困りのようですね」

「ただの嫌がらせよ。まったく、通常兵器では相変わらず世界で突出した戦力なのにね、合衆国も」

「しかし、使徒戦で全く役に立たないのは明らかです」

 言葉が通じないのをいいことに、ミサトとユリアは旧世紀のプライドをひきずって生きる軍人たちをこき下ろし始めた。ケンスケはわれ関せずとビデオを回し続け、トウジはやり場なくジャージのポケットに手を突っ込んで海の向こうを見ている。アスカはといえば、腕を組んで大人たちのやり合いを苦々しげに観察中。そしてレイは携帯を取り出し、慣れぬ手つきで何やら打ち込んでいる。気になったアスカがちらりとのぞき見ると、画面には−−

「碇くんへ」

−−とだけ文字が表示され、続く文面は何もない。何度か眉間に小さなしわを寄せながら、文字を打ち込んではみるが、すぐにリセットボタンを押してしまう。

(何やってんだろ)

 アスカは不思議がった。そのいっぽうで、ミサトと艦長の低次元のバトルは、また再開しようとしていた。

 混み合いぎみの司令室に、また一人−−

「相変わらず凛々しいなあ」

 聞き慣れた、ミサトにとっては懐かしい声。

「か、加持?!」

 同時に胸の奥に時間差で痛みが走る。もちろん、今はエライところでエライ相手に出くわした、という動転の方が大きい。そんな感情がより合わさって、ミサトは声高になる。その展開を横目で見ていたアスカは、ここは愉快でないことになりそうだと、敏感に察知した。一瞬の思案ののち、彼女はこの騒がしさから脱出することを優先した。

「ファースト、ちょっとつき合いなさい」

 

***

 

「しかし、プロトタイプと模擬体を七機までも潰すとは」

「この修正は容易ではないぞ」

「いかに<ラミエル>相手とはいえ」

 薄闇に増幅された虚空の中、ある者はモノリス形態からの不鮮明な音声で、ある者はホログラフィの形で、口々に「計画」の総司令を指弾した。

「6号機の予算を理事国に承認させた直後にこれではな」

「S2機関の実装化を延ばすわけにはゆかんのだ」

 そしてまた会議はホログラフィの老人たちの視線が虚空で交わる場と化していく。

「諸君」

 議長の老人が沈毅な声で座を沈めた。

「救済すべき魂を失うことは、我々の望みではない。民草の犠牲を増やしてはならぬ」

 虚像たちはいかにも、という表情をする。

「予算については再考しよう。会議は、これまでだ」

 

***

 

 艦上でのガンのとばし合いは、なお延々と続いていた。このまま目的地までなだれ込むのか、と周囲が思い始めた頃−−

「Whaaaaaat?!(何だっ?!)」

 船体に尋常ではない揺れが走った。一同、姿勢を崩す。見ると、右前方に水柱が上がっている。

「What the hell is up?Report the situation!(何が起きたのだ?状況を報告しろ!)」

「No, we can't confirm the object yet(だめです、目標の確認できません)」

「Didn't <Silver Moutain> catch that?!(<シルヴァー・マウンテン>は察知しなかったのか?)」

 艦長が叫ぶ。イージス艦の索敵能力にもかからずに突如出現した目標、そしてこの物量−−

「葛城一尉...」

 ユリアが乱れた髪をかき上げ、ミサトをうながした。

(もうっ、敵ったって...)

 ミサトは最悪の事態が発生したことを知った。

「使徒に決まってるでしょうが!」

 

***

 

「水中衝撃波?」

 アスカの表情が一瞬にして変貌する。弐号機の仕様を自慢げに話していた余裕は消し飛んでいた。

「使徒...」

 神経を集中し、レイは出現の方向を探った。

「...プラグスーツを出して」

 レイが言う。

「えっ?」

 一拍おいて、アスカはレイの言葉の意図を理解した。

「アンタバカぁ?試作品のテストパイロットがあたしの弐号機に乗れるわけないでしょ!」

 レイは無言でなお気配をさぐっている。

「だいいちその胸じゃ、あたしのスーツに合わないのよっ!」

 言うなりワンピースをはらりと脱ぎ、続いて下着も脱ぎ捨てるアスカを見ながら、レイは不思議なものを見る思いがした。

(わたしと同じなのに...服を着ると違って見えるのは、どうして?)

 レイがそのわけを知るのはもう少し後のことである。

「アスカ、行くわよ」

 シュッ!という鋭い音とともに、真紅のプラグスーツが少女の身体にフィットする。強烈な意志を秘めた青い瞳−−そこにはゲルマン神話に謡われた、猛き戦乙女の姿があった。

 

***

 

 司令室での混乱を後に、加持は甲板に出た。海上に部分的に姿を見せるその敵性体は、なみの戦艦を凌駕する大きさと思われた。そして−−

(その力は戦艦の比ではない...当然か)

 誘導兵器はたとえ命中しても何のダメージも与えられず、そのほとんどは使徒の異様な速度に負けて無為な水柱をあげるばかりだった。

(この程度じゃ、ATフィールドは破れないか)

 また一度、使徒は海面からその巨体を跳ね上げた。接近してミサイルを撃ち込もうとした旧型のミラージュがその尾部に激突し、黒い爆炎をあげる。何かを探すような使徒の動きを認めると、加持は脱出を決めた−−「届け物」に感づかれる前に。

 

***

 

「L.C.L Fuellung. Anfang der Bewegung. Anfang des Nerven Anschlusses...(LCL充填。作動開始。神経接続開始...)」

 LCLがプラグを満たしていく。わずかに血の臭いのする液体がやがて肺にゆきわたる。幾度も繰り返した順序だ。だが、これは訓練ではない。

「...Synchro-Start(シンクロ、スタート)」

「ナイス、アスカ!」

 モニタ越しに、弐号機のエントリープラグに入ったアスカの姿をみとめると、ミサトは艦長らをジロリと一瞥してから声高らかに発令した。

「ただ今より、エヴァによる対使徒戦の緊急指揮権を発動します」

「葛城一尉」

 ユリアが重装備ラップトップを開き、準備を完了すると、厳しい表情で向き直る。

「エヴァ弐号機の自律制御は完全ではありません。支援システムを始動させます」

「お願い」

「現在、ドイツ語をベーシックに起動プロトコルが作動中...自動翻訳によるリソースのロスは戦闘に障害となります。Sie muessen auf Deutsch kommandiern...(命令はドイツ語でお願いします...)」

「Verstand!(了解!)」

 

...

...

「...Hauptstrom-quelle angeschlossen...」

(...主電源、開け...)

...

「...A10-Nerven Verbindung in Ordnung...」

(...A-10神経接続異常なし...)

...

「...Die Synchrofehler liegen unter 0.3%...」

(...シンクロ誤差、0.3%以内...)

...

...

「EVA-02 aktiviert!」

(エヴァ弐号機起動!)

 

 いま、幾波濤を越えてやってきた真紅の巨人が目覚めようとしている。四つの眼に猛々しい光がやどり、巨人は立ち上がる。

 壮麗にして強靱。

 太平洋艦隊を文字通り足下に従え、巨人は跳躍する。一艘、また一艘と、大きなストライドで船の甲板を踏み砕きながら、アスカは降り注ぐ太陽の黄金の輝きを全身で感じていた。

 

***

 

(嗚呼...<レディー・オヴ・ザ・レイク>が...)

 かつて七つの海に覇を唱えた大英帝国最後の戦艦が、使徒の攻撃に遭い、その威容を東の果てに沈めていく。ケンスケはビデオを回す手を一瞬止めると、優美をきわめた貴婦人の逝く姿を最敬礼で見送った。

 

***

 

 使徒は潜行態勢に入った。白鯨を思わせる巨体が、海底に広がる都市の残骸に衝突する。海水に浸されて脆くなっていたコンクリート群は、使徒の衝撃で緩慢に崩れ去っていった。

 一つ、二つ、と爆発が起きる。ヒトがそれを水雷と呼ぶことを、使徒は知るよしもない。ただ、高速で水中を奔る衝撃波は不快なものだった。

 使徒はATフィールドの出力を引き上げた。身を翻し、何人も侵すことの出来ぬ広大な「壁」を進行方向に展開すると、急速上昇をはかる。その圧力は海底火山の噴火にも似て、直上の艦艇は空高く跳ね上げられた後、海面に叩きつけられて粉砕した。他の艦艇群も、膨大な重さの海水に直撃されて、戦闘能力を奪われていった。

 どこだ。

 使徒は再び探索する。終局の扉を開く鍵−−あの存在は、どこにいる。

 やがて使徒は察知する。求める波動を送る存在は三つ。

 三つ?

 「前」とは違う。

 この不協和は、何だ。

 

***

 

「こんなところで使徒襲来とは、ちょっと話しが違いませんか」

「そのための弐号機だ。囮くらいにはなる。最悪の場合、君だけでも脱出したまえ」

「わかっています」

 戦闘偵察機のコクピット横には、<スターゲイザー>というニックネームがペイントされていた。星を見上げることを愛する、この男らしい命名であった。

 

***

 

 遠ざかる波動。静かな波動。そして、強まりゆく波動。完成体は、ない。

 使徒は彷徨いを止める。空へと去っていったモノと同質の存在。同じ波動を送る、強力な生体エネルギー。その居場所に向けて、使徒は一直線に突進した。およそ人間の作り出した兵器には不可能なスピードで水中を進み、起動した真紅の巨人が立つ空母の甲板へと−−

 噛み砕け。

 

***

 

 海原を割って超弩級の巨体を跳ね上げた使徒は、艦上に仁王立ちする弐号機へと襲いかかった。不規則に並んだ牙が剥き出しになる。

「Verdammt!(こんちくしょう!)」

 開いた口の奥にかいま見えた光球−−それが使徒のコアであることは、これまでの記録から知っていた−−に正確に狙いをつけ、アスカは逆手に握ったプログナイフを突き立てる。

(もらった!)

 そうミサトが思った瞬間、使徒の圧力を受け止めた弐号機の足場が崩れた。リフトか?いや、そんなことより−−

 使徒はそのままエヴァ弐号機を飲み込み、再び身をひるがえして海中に飛び込んだ。ケーブルが猛烈な勢いで引っ張られていく。

「アスカ!」

 水底深く、弐号機は使徒に飲み込まれたまま、沈降していった。水中戦闘用の装備のないエヴァは、水圧のため制御系にも異常をきたそうとしていた。

(これじゃ...)

 ミサトは歯がみする。ヨナの伝説が一瞬、頭をかすめる。

「これって食われたんとちゃうか。こらまるで、釣りみたいやなあ」

「釣り?そう釣りだわ!」

 ミサトの動物的なカンは、このクジラの化け物のごとき使徒を撃退する作戦に思い至った。だが、それと同時に、ガクンと船に衝撃が走る。甲板にいた者たちは、反動でバランスを失ってあるいは倒れ、あるいは近くのものに取りすがった。

 使徒は弐号機を飲み込んだまま、ケーブルを引きちぎっていた。


 

Episode 08: Asuka -- A Light in the Black

 


 映像を見ながら、シンジは戦慄をおぼえた。尾を引いていたカゼも、この事態の展開をまのあたりにして、一気に消し飛んでいた。戦闘後のデブリーフィングでエヴァの戦う姿を見たことはあったが、あるていど客観的な目でエヴァの戦闘を見るのは、これが初めてだ。巨大な海棲の使徒の口に飲み込まれたまま、海底に引きずり込まれた弐号機。そして、今、命綱たるアンビリカル・ケーブルは使徒によって切断された。この絶望的な状況から、弐号機が使徒を殲滅して帰投したことは聞かされている。だが、いったいどうやってそんなことができたのか。

「よく見ておいて。これもエヴァの姿」

 リツコが言う。レイはいつもと同じく無言だ。だが、続く映像を追いつつ、シンジにはほんの僅かだがレイの表情に変化が起きたことに気づく。

 戦闘記録は遭遇戦であったため、必ずしも全部のデータが記録されているわけではなかった。空母内に造られたエヴァ管制システムの限界もある。弐号機パイロット−−惣流・アスカ・ラングレーという名であることをシンジは聞かされていた−−の声、オペレーターであるユリアの声、そして臨時の作戦指揮にあたるミサトの声が、時に異国の言葉で交わされながら飛び交っていた。画面下には時おり、その内容のテロップが入る。

 弐号機はなすすべなく、使徒の顎にくわえられたままだった。全力でその口をこじあけようとするが、B装備のままでは力が発揮できない。いたずらにエネルギーを消耗するばかりだった。

 画面には、活動限界までの残り時間が表示されていた。その数字は、1分を切っていた。パイロットにもそのことは理解されているはずだ。弐号機は力をふりしぼって使徒の顎をわずかにこじ開け、使徒は抵抗して身を激しく震わせる。

「活動限界まで20秒」

 マヤが手元のデータに目を落としながら告げる。いくぶん落ち着いてはいるが、来るべき事態を前に、緊張をかくせない。

「活動限界まで10秒」

 せめぎ合いは、使徒が制した。弐号機は再びがっちりとその顎に捕らえられ、身動きを封じられていた。牙が装甲に食い込んでいる。

「活動限界です」

 

***

 

 自失した少女は言葉なく、虚ろに残存時間00:00を表示したままのパネルを見やる。プラグ内は暗く、計器類と生命維持システムのための補助電源が生きているだけだ。

 シンクロは止んでいても、身体がきしむ感覚が伝わってくる。12000枚の特殊装甲をもってしても、ATフィールドを失くせば、使徒の顎に捉えられた弐号機のボディーが砕け散るのは時間の問題だった。

(Nein!)(いやっ!)

 LCLの中、その言葉は声にならない。

(Nein!)(いやっ!)

 だが少女は訴え続ける。反応のなくなったレバーを引きしぼり、そうすればこの暗い世界から脱出できるかのように。

 

「Was passiert, Juia?!(どうなってるの、ユリア)」

「Der Monitor reagiert nicht(モニタ反応なし)」

(くっ...)

 

 アンビリカルケーブルが断線したため、弐号機からのモニタは無線に切り替わり、周囲の艦船からのノイズも入って、通信に障害が生じている。海上からは、無人の探査ポッドが次々と投げ込まれていった。

 

「In Eva-02...herrscht totale Stille(弐号機、完全に沈黙)」

「Was ist mit Asuka?(アスカはどうなの)」

「Ich weiss es nicht(分かりません)」

 

 いっそう深く潜行するにつれて、寒気が少女の全身を襲う。出口は、ない。このまま、海底で死ぬのか。両腕で自らの肩を抱きかかえながら、少女はつぶやいた。

(Mama...)

 

***

 

 シンジにもレイにも、途切れながら飛び交う言葉はよく理解できない。だが、ただならぬ事態が起きていることだけは確かだった。

 

「Operation abbrechen! Der Schutz der Pilotin hat Vorrang!(作戦中止、パイロットの保護を最優先して)」

「Unmoeglich! Er ist voellig ausserkontrolle!(だめです、完全に制御不能です)」

 

「以後の事象は私たちの想定を越えるものです」

 クリップボードに目を落としながら、画面の中とはうって変わって落ち着いた声でユリアが告げた。その時、彼女の徽章の微妙な変化にミサトは気づいた。

(新規配属、か...すぐ帰るわけじゃないってことね)

 

***

 

(Mama...)

 

(サビシイノ)

 

 母の言葉。初めてのニホンゴ。

 

(サビシイノ)

 

 退行が始まっていた。少女にとっての原風景がよみがえる。

 

(フアンナノ)

 

 どこにも行かないで。一人は嫌い。

 

(Mama...)

 

 だから、あたしを見て。

 

 いつも一緒にいましょうね、アスカちゃん

 

 そう言って粗末な作りの人形を抱きしめた母。

 

 あたしを見て。

 

 こころが壊れた母。

 

 たかーい...ところで...ゆらゆら...してた...ママ

 

(Ich will nicht sterben...)(死ぬのはいや...)

 

 少女はなお強く肩を抱きしめる。新しい「母」を名乗った女性の腕を拒否して以来、彼女を抱いたのは、自身の両腕だけだった。

 

(Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...Ich will nicht sterben...)(死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...死ぬのはいや...)

 

 呪文のように、震える小声で少女はつぶやき続ける。エヴァのパイロットではない、脆い14歳の少女の心の声。

 

 

 

 サビシイノ...

 フアンナノ...

 ドコニモイカナイデ...

 

 

 

 そして、重なるもう一つの声。

 

 

 

(Du stirbst nicht, Asuka)(あなたは死なないわ、アスカ)

 

 

 

 闇の中を、優しい慈光が照らした。いま、閉ざされた少女の心の扉が開かれる。

 

 

 

(Mama!)

 

 

 

 流れ込んでくる思い。暖かい乳と蜜の香り。

 

 

 

 閃光。

 

***

 

 艦上で状況をさぐるミサトの背中を、悪寒が駆け抜けた。目の前に突如として天をめがけて伸びた光の柱。何か、とてつもないものが動き出す感覚。記憶の底に閉ざした「あの時」の感覚が再現されようとする。透き通ったオレンジ色の燐光を放つ羽根が二枚、四枚と、今しも海中から姿を現すかのような幻覚をミサトはおぼえた。

「Eva-02 ist reaktiviert!(エヴァ弐号機再起動!)」

「何ですって?!」

 

***

 

 紺碧の空へと、戦乙女が舞い上がる。青い飛沫を跳ね上げ、どこまでも、高く、美しく。

 アスカは感じていた。母の温もりを。一人ではなかったことを。

「Mama! Nun ist es mir klar, was AT-Field wirklich ist. Du beschuetzt mich!Du schauest mich immer. Du bist immer bei mir gewesen!Mama!(ママ!分かったわ、ATフィールドの意味が。あたしを守ってくれてる!あたしを見てくれてる。ずっと、そばにいたのね!ママ!)」

 弐号機は宙空で身をひるがえすと、海の中へと再び飛び込んでいった。

 

***

 

「What? Is she on drug?(どうした?ドラッグでも投与したのか?)」

「This is no Vietnam. You shut up!(ここはベトナムじゃないのよ。黙ってなさい!)」

 

***

 

 それはシンジたちには、驚愕すべき映像であったが、完全に想定外の状況ではなかった。第四使徒戦で暴走した初号機、たとえそのデータは封印されたにせよ、歯止めがかかっていなかったら、どうなっていたか分からない。

「エヴァのシンクロ率は?」

「計測不能でした。100を越える数値には、システムが対応していなかったのです」

 画面では、コバルトブルーの海面が朱に染まっていく。水中深くで何が起きているのか、正確に知ることはできない。だが、やがて現場にたどりついた探査ポッドからの映像は、使徒の巨体を引き裂く弐号機の姿を映し出した。

 使徒が身を震わせる。弐号機は、猛獣が獲物の腹を食い破るように、ATフィールドをその体躯に浸食させて、肉質を剥ぎ取っていった。噴き出す使徒の血で視界がけぶり、時おり何が起きているのか判別できなくなるが、弐号機の四つの眼だけは、その中にあっても魔性の光を放っていた。

 弐号機はおのれの何倍もある使徒の体につかみかかり、なおも容赦なく解体を続けていった。やがて、その顎部を強引にねじ曲げると、一瞬のATフィールド展開で使徒の牙を薙ぎはらい、砕いた開口部を踏み台にして、さらに奥へと侵入した。弐号機の装甲はところどころ弾け、壊れた顎部装甲の下からは、猛々しく並んだ歯が剥き出しになっていた。視界が低下する中、弐号機は生体反応を手がかりに、使徒のコアをまさぐった。そしてついにその腕はコアをわしづかみにする。フルパワーを発揮した弐号機にとっては、使徒のコアさえも、ぐいと強く力をこめるだけで、やすやすと砕くことができた。赤い光球は輝きを失い、血潮の中にうずもれていった。それと前後して、使徒の構成物質は急速に崩壊を始めた。巨体は内部から粘性の高い泡のようになり、しだいに膨れ上がっていった。そのモノは弐号機をからめとり、崩れながらも海面へと浮上を始める。

「この時点で、使徒の反応は消滅しています」

 ユリアが言った。

 戦闘記録のクライマックスは、屍体と化した使徒の肉質の中に埋もれた弐号機が、ATフィールドを展開しながら海面上に姿を見せた時だった。弾け飛んだ装甲の下の地肌を垣間見せながら、中天に上った真夏の陽光を浴びて低く長く咆吼する四つ目の巨人は、一同を戦慄させるに充分だった。

 その姿は、血の泡から再誕する真紅のヴィーナス。

「僕は、こんなのに乗ってるんだ」

 シンジは小さくつぶやいた。

「パイロットの状態は?」

 冬月が尋ねる。

「エヴァとの高次の一体化が起きているため、モニタ不能でした」

「現在は?」

「加持中尉が一緒にいます。精神汚染の徴候はありません」

 言い終わってから、(日本では、二尉だったわね)とユリアは思い直した。ゆっくりと、彼女の中にも、日常の感覚が戻ろうとしていた。

 

***

 

 技術部の間で交わされる専門的な質問をうわの空で聞きながら、シンジは少し前のリツコとの問答を思い返していた。

「南極大陸が蒸発したセカンドインパクトって?」

「そう、歴史の教科書では、大質量隕石の落下による大惨事となっているけど、事実は往々にして隠蔽されるものなのよ。15年前、人類は最初の<使徒>と呼称される人型の物体を南極で発見したの。でもその調査中に原因不明の大爆発を起こしたの。これがセカンドインパクトの正体」

「それじゃ、ぼくらのやっていることは−−」

「予想されうるサードインパクトを未然に防ぐ。そのためのネルフとエヴァンゲリオンなのよ」

(じゃあ、エヴァって何なんだろう)

 暴走した弐号機。その姿は使徒よりも恐るべきものだった。その時、シンジは直観した。ATフィールド...最初の使徒...人型の物体...

 それがエヴァのオリジナルなのだ。

(でも、使徒は...?サードインパクトって...?)

 

***

 

 研究室に向かいながら、リツコはマヤに尋ねる。

「その後、弐号機の状態は?」

「クールダウンを終え、小破部位の補修を行っています」

「暴走時に、S2機関を摂取した可能性は?」

「不明です。これから組織検査とCTスキャンを実施しますが」

「ハンナヴァルト二尉には、偽装した資料を渡しておいて」

 リツコが小声で告げた。

「分かっています」

 去っていくリツコの背中を、マヤはこの日も追い続けた。

 

***

 

 会議室を出て、シンジはジオフロント直行のエレベータへと向かった。帰り際に、レイと言葉を交わす。使徒の出現するすぐ前にレイから受け取ったメッセージは、素っ気ないものだったが、シンジにはうれしかった。明日は、ちょっとまわり道をして一緒に登校する予定だ。そんな彼の背中から、声をかける者がいた。

「碇シンジ君」

 さきほどまで、映像の中に何度か現れた男性。伸ばした髪をラフに後ろで束ねている。よれたシャツに、ゆるめたネクタイ。つかみどころのない微笑み。

「あれ、どうして僕の名前を?」

「そりゃあ知ってるさ...っと、オレは加持リョウジ。よろしく。君はこの世界じゃ、有名だからね。何の訓練もなしにエヴァを実戦で動かしたチルドレンは君だけさ」

「そんな、偶然ですよ」

 加持はするすると歩み寄り、シンジに向き合った。不安そうにしているシンジの表情を、すぐに読みとる。

「ああ、アスカなら心配ない。すぐ元気になって君とも話しができる」

 そして加持は長身を少しかがめて、小声になった。

「それに、アスカは初号機パイロットには興味をもっていたぞ。ああ見えて、ボーイフレンドはまだいないからな」

 軽くウインクしてみせる加持である。

「そんな、僕には関係ないです」

 おや、という顔で加持はシンジの言葉を聞いた。このかたくなさは−−

「先約あり、かな?」

 加持は、今さっき自分が声をかける前に、シンジと話しを交わしていたもう一人のエヴァパイロットを思い出す。

「レイちゃんが好きなのか?」

 初対面の人物からのぶしつけな質問に、シンジは沈黙をもって答えたが、答えがイエスであることは、加持にはバレバレだった。

「何も、伝えてないのかい?」

 やすやすと人の心を読んでくる加持に、シンジは少し不快感をおぼえた。いや、正確には、思いをちゃんと伝えられない自分自身へのいらだちだったのかもしれない。

「自分一人、何を思っても自由じゃないですか」

 加持はフッと、遠いものを見る顔つきになった。

「それは違うな。一人で見る夢が人を壊すこともある。周りを見れば分かるんじゃないのかな?」

「それって...?」

「いや、話しはここまで。あとは君自身の問題だ」

 

***

 

 司令室−−

「いやはや、波乱に満ちた船旅でしたよ。やはり、これのせいですか?」

 男は軽口をたたくと、机上の耐爆スーツケースを慎重にアンロックした。

「すでにここまで復元されています。硬化ベークライトで固めてありますが、生きてます、間違いなく。人類補完計画の要ですね?」

「そうだ。最初の人間、アダムだよ」

 

<つづく>

2002.9.16(同10.20字幕版完成;2007.10.12オーバーホール)

Hoffnung

BACK INDEX NEXT
inserted by FC2 system