Eva -- Frame by Frame --

 

<第10話 ドグマダイバー>

 

 夕暮れの帰り道。幼な子がたわむれている。碇シンジは立ち止まった。やがてかれらも、琥珀色に染まった時の中、親たちに手をひかれ、一人、また一人と家路につくのだ。うらやむ気持ちは、今のシンジにはない。多くのひとびととの関わり合いを通して、モノトーンだった世界に光彩が与えられたから。そして−−新たな痛みとともに−−ヒトを思う気持ちを知ったから。

 

***

 

「自分一人、何を思っても自由じゃないですか」

「それは違うな。一人で見る夢が人を壊すこともある。周りを見れば分かるんじゃないのかな?」

 シンジは、少し前に加持リョウジに言われた言葉を反復していた。そして少年は独り、思いに沈んでゆく。更けゆく夜は、ためらいの心を包む。だがそれは、偽りの優しさかもしれない。

 綾波が、好きだ。だけど−−

 言葉にしたなら嘘になる。

 そのことばかり考えている。

(周りを見ればって、父さんのことなのか?)

 おそらく、そうだ。僕を捨てた父さん。綾波をそばに置いた父さん。あの人にとって、綾波は?

「この頃、あなたをいつも見ているわ」

 赤木リツコから聞かされた言葉。あの人...怖いと思うときもある。でも、ミサトさんや加持さんと冗談を飛ばしていると、ときどき優しそうな笑顔を見せる。

「前は司令としか言葉も交わさなかったのだけど」

 綾波...僕の手に触れたいと言った。温もりを感じたとも言った。

(考えるほど、遠くなる)

 確かめたい。

 夜は更けた。また、もうすぐ満月だ。

 

***

 

 ヒトには心がある。

 綾波レイは、この命題に考えをめぐらせていた。

 それまでは、なすべきことがあれば行動するだけだった。だが、相手の心を知らなければ、無意味な行動があることに少女は気づく。

(碇君に、触れていたい)

 シンジの手は、暖かかった。葛城家でのユニゾン訓練の時、折り重なって倒れた。離れたくなかった。

 心を、確かめなければ、またあのように触れあうことはできない。レイは論理的にそう思考した。

 確かめたい。

 夜は更けた。また、もうすぐ満月だ。

 

***

 

 電話を取る。パスワードを打ち込み、若干のラグがあって、コール音がした。

「あ、綾波?」

「誰だ?」

 聞こえてきたのは、予想外の声。聞き慣れた...とはとうてい言い難い、威圧感をもった父・ゲンドウの声。

「あ...あの...」

「用があるなら言え。ないなら切る」

 茫然としている間に、電話はプチ、と無情な電子音をたてて切れた。

「ただのかけ違いだ」

「そう...」

 ゲンドウは、わずかに表情の翳ったレイをいぶかる。ドアを開けた時、少女は一瞬、微笑みを見せた。それはレイをよく知るものでなければ決して気づかないほどの変化だった。その直後の、シンジからの電話。

「レイ」

「はい...」

「来い」

 

***

 

 翌日。

「どうしちゃったの?腐った魚の目、してるわよ(もごもご)」

 歯磨きをしながら、惣流アスカがからかう。朝の日射しが、確かな一日の始まりを告げる。テレビはつけっぱなしだが、どう見ても、シンジはニュースの内容も何も追っていないようすだ。画面は単なる色彩の退屈な変化。

「ごめん...」

(情けないヤツ)

 おおかた、あの少女と何かすれ違いでもあったのだろう。アスカは明察した。荷物の片づけも終え、爽やかな気分で目ざめたのであるが、シンジのしょぼくれた表情に、新たな疲れのタネが出現する。

(あなた、碇司令のお気に入りなんですってね?)

 こんど、学校で会ったら、そう言って冷やかしてやろうかと思っていたが、シンジの思い詰めぶりを見ると、ヘタに口出しできそうにない。

「麦茶、冷やしてあるから」

 寂しげな上目遣いのシンジと、目が合う。まだ線は細いが、きれいな顔立ちである。

「あ、ありがと」

(これで、加持さんみたいに、頼りがいがあればね)

 今は、無い物ねだりのアスカであった。

 

***

 

 街中のショッピングモールにて−−

「これ、修学旅行で着るのかよ?」

「そうだよ」

 岸田シュウは、山岡チヒロが手にとった水着をしげしげと眺めつつ、萌えと羞恥のいりまじった顔をした。

(ケンスケの格好のターゲットじゃんか)

 親友といえども、この時ばかりは、最強の仮想敵となっていた。

 

***

 

「ええっ!修学旅行に行っちゃだめ!?」

「そ、戦闘待機だもの」

 あっけらかんとネルフ作戦部長・葛城ミサトが言ってのける。リビングの隅には、「惣流」と名札のつけられたスーツケースと紙袋、それから日本で買った新品のポーチ。

「そんなの聞いてないわよ」

 アスカは怒髪天を突かんばかりだ。

「今言ったわ」

「誰が決めたのよ?」

「作戦担当のあたしが決めたの」

 なおもアスカは食い下がるが、けっきょくは折れるしかなかった。隣ではシンジが行儀よくお茶を飲んでいる。そのようすに、アスカは思いっきりドツキを入れたくなった。

 

***

 

 レイはタオルをとろうと手を伸ばした。

 自分の裸体が鏡に映る。濡れてはね上がった蒼い髪。白い肌は少し上気しているが、常人に比べれば透き通るほどだ。

 鏡というものは、これまでほとんど見たことがなかった。このマンションはいつ作られたのか、わからない。セカンド・インパクト前だとも聞いている。ひび割れてこそいないが、湯気にけむった鏡はレイの姿をおぼろに映すだけ。

(これが、わたし?)

 レイは自問する。あいまいなわたしの輪郭−−わたし自身。鏡の面に手を滑らせる。湯気のぬぐい去られた部分に、白い胸と、ほとんど色素のない乳首が浮かびあがる。

 左の手首には、うっすらと青みがかった跡が残っている。

 それはなぜだったのか、レイにもわからない。昨日の夜、ゲンドウの手を振り払った。つい最近まで、あの人のために存在していると思っていた。零号機の起動実験が失敗に終わったとき、抱き上げてくれたあの人...その手が髪に触れるだけで、背筋がざわめいた。

 今では、あの人の声も虚ろに響く。欲しいのは、わたしの向こう側の誰かを追うまなざしでなく...そうではなく...少年のぎこちない温もり。

 レイは制服を身につけ、部屋を出た。今日は学校はない。レイはネルフ本部にそのまま直行し、今このときの思いを保存しておくべく、ドグマへと下りていった。

 

***

 

 ネルフ本部にて−−

(は、離しなさいよ)

 加持におさえつけられ、唇を奪われるミサトであった。はじめはミサトの戦闘力を計算しながらのラブシーンであったが、やがてその必要もなくなるほどに、彼女の体から力が抜けていった。

 エレベーターの扉が開く。べちん、とミサトは昔の男の横っ面を張り倒すと、わけの分からぬ口吻とともにのっしのっしと大股で歩き去った。最後にかわした会話を思い出しながら。

(ねえ、エヴァって何なの?)

(リッちゃんから資料を受け取っただろう)

(あれが全て、なんて言わないでよね)

(こりゃ失礼)

 コード204。加持はそう言った。それが零号機の初起動実験に関する極秘ファイルへのリンクであることに思い当たり、ミサトは眉をひそめた。

(レイの秘密、か)

 

***

 

 技術部ラボにて−−

 伊吹マヤは、テーブルの上にある黒い小さな人形を見た。ずんぐりしているが、ネコの形に見えなくもない。潮マドカの置きみやげだった。マヤとしては、配属されてからというもの、スキを狙ってはリツコにすりすりと甘えるマドカに、密かなライバル意識を燃やしていたのだが、それも今日で終わりだ。

 その人形は起動すると、極微ユニットからなる流体に変わった。それは思いがけぬ速さでテーブルを滑っていき、誘導材として置いてあった特殊ポリマーを分解し始める。初めて見るナノマシンの現物に、マヤは少しだけ感心した。

(実行速度はいくらでも上げられるんですよ。でも、排熱の問題が未解決で...この特殊ポリマーだって、本当は瞬時に分解できるのにぃ)

 マドカはそう言っていた。制御の研究の副産物だったという。何か改良できたら知らせてあげる、そう答えたものの、すぐにアイデアが出るわけでもない。いちおうマギに基礎データを入れただけだ。それでも、小さな小さなネコ型のナノマシンが、掌の上で戯れるようすを思い浮かべ、マヤはくすりと笑った。

 

***

 

 カフェにて−−

 青葉シゲルは、マドカから渡された、可愛らしいキャンディーの袋に添えられたカードを開けて読んだ。

 

 尊敬する青葉センパイへ。

 ネルフでは、素晴らしい経験をさせていただきました。こんど、先端研に戻ることが決まりました。来年の春には、一足お先に幸せになります。

 迷惑ばかりかけたマドカですが、どうか忘れないで下さい。

 センパイも、すぐに素敵な人がみつかるように遠くからお祈りしています。ささやかですけど、お礼の気持ちです。

 潮マドカ(はーと)

 

「は、あはははは」

 乾ききった笑いが青葉の口元から虚しく響き渡った。たしかに、ドイツから転任のキレモノ銀猫令嬢に比べれば、ドジなところもあるマドカであったが...青葉は始まってもいない淡い恋の終わりが訪れたことを認めた。

 そんな青葉の感慨を断ち切るように、発令所への召集がかかる。

 

***

 

 ヒルデガルドという中世の修道女が霊感した静謐な調べが流れている。

 

 −−空の空 空の空なる哉 都(すべ)て空なり

 

 ふと、ユリア・ハンナヴァルトの薄い唇から、<書物>の一節がこぼれた。音楽はやがて終わり、彼女は取り出したディスクの屈折光をしばし見つめた。

 そして、新たな天からの使いがあらわれる−−第8使徒、サンダルフォン。

 

***

 

 パシャ、と水を打つ音が響く。

 プールサイドには微風。光ファイバーを通した柔らかい明かりが降り注ぎ、リラックスするには理想的な環境となっていた。もっとも、シンジはわざわざプールサイドまで来て、ミサトに言われた補習に取り組んでいるところだ。

「どうしてこんな難しいのができて、学校のテストがだめなの?」

「問題に何が書いてあるのか、わかんなかったのよ」

「それって、日本語の設問が読めなかったってこと?」

「まだ漢字、全部おぼえていないのよね...」

 アスカの素肌に水滴が弾けている。彼女の濡れた髪や露出した肌は、初めて見るわけではない。しかし、プールサイドで見るその姿は、シンジをどきりとさせた。その向こう、プールの中では、白い水着のレイが、まったくムダのない動きで水の中を泳いでいる。人魚のような、という形容をシンジは思いついたが、すぐにレイをどこか人間離れしたものにたとえた自分を責めた。

「そういえば、ミサトさんは?」

「さっき、慌てて出ていったわ。また、来るのかもね」

「来るって、使徒が?」

「そっ。だから、今のうちにせいぜい羽根を伸ばさなくちゃ」

 言うなりプールに飛び込む姿勢をとりかけたアスカに、シンジが質問を浴びせる。

「ねえ、使徒って何なのかな?...なんで闘うんだろう」

「アンタバカァ?わけわかんない連中が攻めてきてんのよ。降りかかる火の粉は−−」

 みなまで言わず、アスカはプールに豪快にダイブした。

 

***

 

 リツコはキーボードを打つ手を休めた。小指に痛みが走る。

 ティーカップを割ってしまった。

 それはペアのマイセンだった。情事のあとでだけ、喫する紅茶。カップを割っても、あの人は何とも言わなかった。

 絆が、また一つ消えていった。

 

***

 

「もう限界です」

「いえ、あと500お願いします」

 探査機がマグマの中を下りていく。圧壊が目の前に迫っている。浅間山火口で検出された未確認物体の正体を確かめるべく、ミサトが日向マコトをしたがえてやって来たのだった。

「葛城さん!」

 地震研究所のスタッフには、最小限の情報しか与えられていない。解析システムもネルフから搬入し、データを直結して処理している。観測スタッフは、探査機の操作を任されているにすぎない。そんな立場であれば、貴重な観測機器の命運を案じるのは当然といえた。

 だが、ミサトはそんなことには構わない。探査機の圧壊を平然と見送った。システムを操作する日向の背中ごしに、解析結果をのぞきこむ。

 パターン青。使徒だ。

「これより当研究所は、完全閉鎖。ネルフの管轄下となります。一切の入室を禁じたうえ、過去6時間以内の事象は、すべて部外秘とします」

 

***

 

 部屋に射し込む残照が消えた。老城主は書物を元の位置にもどした。

 その薄闇の中を、影のように一人の男が入ってきた。古風な黒の服に身をつつみ、鷲鼻の上に縁なしの眼鏡を乗せている。男は優雅な身のこなしで部屋の燭光を次々に灯していった。わずかに青みがかった大理石に光が冷たく映える。

「ヨアヒム」

 ふたたび光の中に立った老城主は、男に背を向けたままその名を呼んだ。男は恭しく礼をする。

「その後、何か?」

「委員会は予定通りに。ただ...」

 老城主は生得の威厳をもって先をうながした。

「ハイファはいかがしましょう?」

「今は動くなと伝えよ」

 過ぎこし神への長い道のりを思いつつ、燭光の下、老城主はまた書物を手にとった。

 

***

 

 青葉への電話を切ってから、現場の指揮を日向にいったん任せると、ミサトは思考回路を切り換えた。

 自分は、何をすべきか。

 使徒を倒すことは、自分の使命。だが、最初の闘いから、常にこちらの作戦を打ち破る戦法をとってくる使徒に、ミサトは内心で戦慄していた。これからも、かれらには苦戦を強いられるだろう。

 使徒を知りたい。エヴァを知りたい。そして、ネルフとその上部組織である「委員会」の目的を知りたい。

 自分は、何をすべきか。答えは、その先にある。

 綾波レイの初起動実験−−ミサトも立ち会ってはいたが、データの詳細は封印されている。証拠を残さずにクラックするのは無理だ。だが、加持がポインタを振った、その事実を今は重く見なければならない。そこから、推論するのだ。

 エヴァは最初の使徒のコピーだ。

 だがエヴァは自力では動かない。外部電源による駆動は、S2機関をもたないエヴァにとっては必然だ。

 しかし、現在開発中だというS2機関は、参号機もしくは四号機以降への実装を予定しているという。なぜ、それを現有のエヴァに載せないのか?パイロットも決まっていない、建造中のエヴァへの実装計画は、どこか矛盾していないか?

 疑問はそれだけではない。エヴァを動かすには、パイロットとのシンクロが必要だ−−ならば、パイロットの何が、エヴァの何とシンクロするのか?

 疑問は次から次へと出てきた。どうしても絞りきれない。どこかに不可視の霧がかかっている。

 そして、綾波レイ。冷静で、シンジと出会うまでは感情の変化というものを見せたことのなかった彼女が、零号機の起動実験のときに、あれほど乱れた。その時、レイは恐怖を感じたのか?−−いや、むしろあれは激しい拒絶だったように思う。

 高すぎるシンクロ率は、暴走を起こす。第四使徒戦で、シンクロ率が200を突破した初号機。第六使徒戦で、セカンド・インパクトのフラッシュバックすら感じさせた弐号機−−エヴァも使徒も、天からの破壊と殺戮の使者だ。その本来の獣性が解放された時、かくもおぞましい姿となる。

 本来の姿?

 ならば使徒戦を生き抜いた時、エヴァはどうなる?

 もつれた糸の解け口が、一瞬見えかけたところで、ミサトの思考は日向からの状況報告によって停止した。

 

***

 

「A−17?」

「こちらから打って出るのか?」

「だめだ。危険すぎる。15年前を忘れたとは言わさんぞ」

 <委員会>のメンバーたちが口々に異議をとなえた。ホログラフィが、わずかに揺れる。

「死海文書の活動が再び活発化しているのだぞ」

「文書が動くとは初耳です」

 ゲンドウは口元で手を組んだまま、こもった声で言った。

「とぼけることはない。現在解析中だ」

 いかつい白髪の人物がいら立った声を上げた。

「あるいは−−」

 委員長であるローレンツのバイザーが、薄闇の中で一瞬だけ鈍い光を放った。

「この探索がその原因かもしれぬ。失敗は許さん」

 消え去る虚像たちを見送りながら、副官である冬月コウゾウは皮肉な薄笑いを浮かべた。

「失敗か...その時は人類そのものが消えてしまうよ」

 

***

 

 足元の大型スクリーンに、使徒の映像が映されている。おそらくは、サナギのような状態なのだろう、卵形の外殻に包まれ、骨格らしいものが折り畳まれている。

 スクリーンをはさむ形で、技術部スタッフとチルドレンが対面している。

「今回の作戦は、使徒の捕獲を最優先とします」

 リツコが告げる。

「できうる限り原型をとどめ、生きたまま回収すること」

「できなかった時は?」

 アスカが尋ねる。

「即時殲滅。いいわね。作戦担当者は−−」

「はいは〜い!あたしが潜る」

(でも、また僕なんだろうな)とシンジが想像するそばで、アスカが手を挙げた。

「アスカ。弐号機で担当して」

 おや、とシンジは思う。これまでの戦闘を思えば、危険な作業は自分にまわってくるという予感はつねにあった。それに反しての、アスカの指名。

「プロトタイプの零号機には、特殊装備は規格外なのよ」

 マヤが事情を説明する。レイは零号機とともに本部待機だ。

「それに、特殊戦のための、外部アタッチメント端子は、弐号機にしかないの」

「まっ、パイロットの実力に合わせて設計したってことよね」

 アスカが胸を張る。作業補助には初号機があたることになった。すぐさまチルドレンは技術部スタッフにしたがって部屋を出ていった。

 

***

 

「入間からも回せ。ある限りだ」

 そう言って宮里一尉は無線を切った。浅間山におけるネルフおよびUNの作戦行動を戦略自衛隊が「支援」することが決まった。時間内に入手可能な全てのN2兵器を調達することが、彼の当面の任務だった。

「さて、今度はどう出るか...」

 それは、使徒に向けられたものとも、エヴァに向けられたものとも受けとれた。自らが発したコトバの曖昧さに気づくと、一尉はおのれの武骨な両頬を叩いて、気合いを入れ直し、次の作業に移った。

 

***

 

 何度かの呼び出し音の後、電話は何も信号を返さなくなった。

「不通になりよった」

 鈴原トウジがけげんな表情をする。エメラルドグリーンの沖縄の海には、さすがに黒のジャージ姿は似合わない。早くもほどよく日焼けしていた。そんなお楽しみのようすを、留守番中の親友に知らせてやろうとしたトウジたちだったが...

「まさか」

 相田ケンスケは携帯端末を取り出し、せわしなげに状況をチェックする。しかし、シンジたちが残った第三新東京市内は、警戒レベルが上がったという気配はない。何通りか、非合法なルートにもチェックを入れたが、マギによって「平穏」が偽装されていると憶測する材料もなかった。

 市内が平穏なのに、パイロットであるシンジと連絡がとれない。ケンスケはさらに日本各地からの情報を吟味していった。

「これだ!」

 入ってきた情報は、浅間山一帯の完全封鎖。

「無念だあっ!何としても無念だあっ!」

 惣流・アスカ・ラングレーの華麗なるプラグスーツ姿、エヴァ三機のスナップショット、などなど...貴重な映像をゲットするチャンスを逃しつつあることに、ケンスケはビーチサンダルで地団駄をふんだ。

 

***

 

「右のスイッチを押してみて」

 プラグスーツが突如として膨らみ、ダルマ状態になったのはまだ手始め。愛機のエヴァ弐号機はといえば、かつて流行した、テディベア型のペットロボットが巨大化したような装備に包まれている。

「いや〜〜〜〜〜〜あっ!!」

 アスカの絶叫がこだまする。

「こういうのはシンジの方がお似合いよ!」

「あの...」

 シンジがおずおずと手を上げかけた。レイも、(わたしが弐号機で出るわ)と言おうとしたが、けっきょく冷静に見送った。「愛機」を他人に駆らせるアスカではない−−そのような心情を理解することは、まだレイにはできなかったが、確実に直観できることがあった。

 エヴァ弐号機は、もはや惣流・アスカ・ラングレー以外は絶対に受け入れない。

 

***

 

 作戦現場からは少し離れたところ、最後のケーブルカーが停車場に着こうとする。

「彼らはそこまで傲慢ではありませんよ」

 ネルフ特別監査部の男は、わずかに緊張した声で語った。狭い車両の向かい側には、生活に疲れたようすの中年女性。だがその目線は、上空を飛んでいる機体を狡猾に値踏みしている。

「あれは?支援の部隊か?」

 女が尋ねる。

「支援...そう。作戦が失敗したときのためにね。N2爆雷で現場スタッフもろとも、処理するそうです。これも、碇司令の命令です」

「わかった」

 女はそれだけ言うと、膝の上の買い物バッグからカメラを取り出し、眼下に展開する部隊の写真をとりつづけた。

 

***

 

「見て見てシンジ!」

 モニタに移る弐号機の姿を見ながら、アスカのお調子ぶりにシンジはあきれた。だが、それが緊張を解くための行動だとすぐに察し、気合いを入れ直した。

 火口の下は、灼熱の地獄だ。

 特殊装備の中は、冷却液の循環パイプが何本も通っている。体表温度のフィードバックにはフィルタがかけられ、シンクロ中のパイロットの負担をおさえるようになっているが、そんなことはお構いなしに、圧倒的な熱量そのものが、生身のアスカをじりじりと追いつめる。

「深度1300。目標予測地点です」

 すでにD型装備の設計上の安全深度は超えていた。対流速度の変化によって、当初の読みどおりのランデヴーはできそうにない。

 冷却パイプには、すでに異常が発生している。唯一の武器であるプログナイフも、装甲から外れ、マグマの深淵に消えていった。

 

***

 

「深度1780。目標予測修正地点です」

「いた!」

 その瞬間、電磁柵によって強力な磁場が作られる。アスカの慎重をきわめた操作の後、使徒の卵は柵の中にがっちりと捉えられた。

「ナイス、アスカ」

 もちろん、使徒の姿は目視できない。ここは視界ゼロの世界だ。CT画像によって、かろうじて目標の影が映し出される。使徒を刺激しないため、ATフィールドは可能な限り抑えていた。

 ワイヤーを巻き上げる動きが、アスカの全身に感じられる。そのほかに伝わってくるのは、特殊装備をも押し潰そうとするマグマの重圧のみ。

 だが、電磁柵の中では異変が生じていた。

「何が起きてるの?!」

 とらわれの使徒が、急激に羽化を始める。急造の発令所には警報ブザーが響く。

 ミサトが捕獲作戦の破棄を決断するのと同時に、使徒は柵を食い破った。

 

***

 

 モニタは異変が起きたことを知らせている。地上に残った初号機の中で、シンジは状況を必死に理解しようとした。

(惣流...!)

 心の中で叫びながら、シンジはすっ、と初号機の肩のラックからプログナイフを抜き出した。それは無意識の動きだったが、続いて出てきた思考は、意志的なものだった。

(飛び込むのか、この中に...)

 シンジには、それが必然に思えた。

 

***

 

「アスカ、今のうちに初号機のナイフを落とすわ。受け取って」

(それまでどうしろってのよ?!)

 アスカは小さく毒づくと、弐号機のATフィールドの出力を一気に引き上げた。この態勢では、使徒を攻撃するのは難しい。プログナイフがくるまで、防御を続けるしかない。

 突如として羽化した使徒は、弐号機を知覚する。

 この存在−−ATフィールドを放つもの。

 電磁柵を破り、初めてまみえた存在を、使徒は還るべき母胎として認知した。互いの生命は溶け合い、やがて共振する魂はアンチ・ATフィールドとなって、この世の終末をもたらすはずだった。再び甦ったのは、ただひたすらそのためだった。

 だが、使徒は惑乱する。母胎と思われた存在のATフィールドは、位相を変えることなく、そのまま恐るべき力となって、発現したばかりの使徒を圧迫していた。

 記憶の中の存在は、これほどの威圧感はなかった。

 溶岩の中を、使徒は信じがたいスピードで泳ぎ、何度も母胎を食い破ろうとするが、強大な「壁」に拒絶されてしまう。

 だめだ。

 

***

 

「どういうことだ?」

 UN部隊の支援にあたっていた、戦略自衛隊の佐官は眉をひそめた。ぬけるような空を旋回する偵察機からの情報は、作戦行動にあたっているネルフの混乱を伝えている。

「ネルフ作戦部から通信です」

「回線を開け」

「了解」

 相互認証を終え、コードの指定が済むと、やや雑音混じりに、何度か聞いたネルフの女性指揮官の声が入ってきた。

「本部隊は目標をロスト。現在探索中。戦自部隊の介入は回避されたし。繰り返します。本部隊は目標をロスト...」

 通信をいったん切って、戦自の指揮官は思案する。

「作戦は失敗、ということか?」

 その時、別チャンネルからの通信が入った。

「内閣官房より入電です。偵察行動は現状でホールド、本隊は急ぎ首都の防衛に向かえ、とのことです」

「何だ、それは?」

 ちぐはぐな命令に思えたが、未知の敵性体に対する政府首脳の恐怖も、理解できなくはない。指揮官は戦闘機の爆装を解き、可及的かつ速やかに第二新東京市周辺へと部隊を展開するよう指示した。

 

***

 

「深度をもっと下げて!」

 アスカの声が伝わる。

「もう、これ以上は...」

 日向はミサトに向き直った。きりきりと唇を噛み、腕組みして立ちつくすミサトだったが、ついに決断を下した。

「作戦中止。弐号機は撤収。初号機は現行のまま、地上戦に備えるように。本部待機中の零号機は、完全武装でジオフロントの警護にあたるように伝えて...聞こえた、アスカ?撤収よ。使徒の反応が完全に消えたの。状況からいって、それより深いところに目標がいる可能性は低いわ」

 わずかに間をおいて、弐号機から了解、という返答があった。同時に、火口付近に配置された初号機からも返事がある。

「地上戦、って...ミサトさん、使徒が今度は地上に出るんですか?」

 ランチャーを手にしながら、シンジが言う。

「ん、女のカンってやつかしら。それより、戦自が変な動きをしたら、ためらわず応戦して」

「そんな、同じ人間相手にどうして?」

「向こうは人間だなんて、思っちゃいないわ」

 だが、次々にきらめく翼を傾け、姿を消していく戦闘機の群れを見て、今回は衝突が回避されたことをミサトは知った。

(あんな男でも、役には立つか)

 

***

 

「どうする、碇?」

 冬月は沈痛な口調で言った。A−17は失敗に終わった。

「マギの解析は?」

 副官の質問には答えず、ゲンドウはぼそりと問いかけた。

「解答不能だ。一つだけ確かなことは−−」

 冬月は言葉を切る。

「おれの仕事が一つ減りそうなことくらいだ」

 使徒の生きたサンプルが回収されれば、<委員会>への報告は極めてデリケートなものになる。冬月はそのことを言っていた。

「使徒は、必ずアダムのもとに来る」

「今度は、籠城戦というわけか」

 冬月は言うより早く、各部署への指示を次々と出していった。

 

***

 

 薄闇の中を、二機のエヴァが全翼機に吊られて本部へと向かう。寄り添うように飛行するV−TOLの中では、ミサトとリツコの問答が続いていた。

「消えた、ってどういうこと?」

「瞬間移動、と言うべきかしら」

「ATフィールドにそんな効果があるの?」

「いえ、時空間を歪めるほどのATフィールドがあれば、大陸一つを吹き飛ばすくらい簡単にできるわ。セカンド・インパクトの時のように」

「じゃあ...?」

「使徒は波と粒子の性質をもっている−−極小レベルで存在形態を変えることが可能だった、てことね。いったん発現したら消えたりしないと思っていたのが間違いだったのよ」

「やっかいな敵が現れたものね」

「けど、作戦がないわけではないわ。使徒は必ずネルフ本部にやってくる。気休めかもしれないけど、三機のエヴァがあれば倒せない相手ではない」

「ありがと」

 旧友の意外な言葉に感謝のミサトであったが、この際、と思いビンガーを打つ。

「それも、死海文書のご宣託?」

「何のことかしら?」

 返答しながらも、(あたしも嘘がヘタね)とリツコは思い、暗闇と化しつつある外の景色を見やった。

「ひさしぶりの温泉旅行もパーか」

 ミサトがぼやいた。

「楽しみは、後にとっておくものよ」

「はいはい」

 

***

 

 使徒はとまどっていた。

 ここは、どこだ。

 羽化した直後に、姿を消滅させた。灼熱のマグマの世界への適応は、ひどく不全なものだった。

 何も、見えない。

 <外界>は熱量の変動パターンとして知覚されている。

 ここは、どこだ。

 突如として沸き上がった激しい不安に、使徒は応対するすべを知らず、力の限り咆吼する。

 次の瞬間、山間の小さな温泉町が、火柱とともに燃え上がり、黒い炭と化していた。


 

Episode 10: The Dogma Diver

 


 半鐘が狂ったように打ち鳴らされる。

 村人たちが、逃げまどう。山火事はすぐそこまで迫っていた。見上げる業火のかなたには、硫黄を降り注がせる黙示録の使者。灼熱の光線によって、変電施設の鉄塔さえもが、アメのように折れ曲がり、崩れ去っていった。山鳥たちは乱気流にあおられ、逃げおくれたものは炎の舌先にからめ取られて、刹那の火の鳥となる。

 この山間では、老人が多い。身の回りの貴重品だけを両手にかかえて、ころびながら、一歩でも遠くに行こうとしていた。ある者は、位牌だけをいくつも節くれ立った手の中にかかえ、ある者は、バックパックが破れているのも知らず、中身をぼろぼろとまき散らしながら、ただひたすら進む。

 突然の異変でもぬけの空となった家の中では、テレビの中で昔のメロドラマがまだ映っている。だが、制服姿の少女が愛の告白をしようとしたところで、不意に全ての電源が落ち、その言葉は発せられぬままに終わった。農家の広い庭先では、鶏小屋の中で、取り残された鶏たちが激しく羽根を打ち鳴らす。

 腰が抜けた老婆は、へたりこんだ姿勢のままで、なむあみだぶつを唱えつづける。だが自警団の者がすぐに駆け寄り、老婆を背負って山道を再び猛然と駆け下りていった。老婆はその背中でなおも、なむあみだぶつを一心に唱えた。

 

***

 

「怪獣だと?!冗談を言うな」

「いえ、いずれにせよ未知の敵性体が首都を目がけて侵攻中であるとのことです。さきに浅間山火口で消息を絶った、<使徒>と呼ばれる存在が現れたのではないかと」

「ネルフは何をしている。怪獣退治は彼らの仕事だろう」

「現在、出撃準備とのことですが、域外戦闘となるため、特例措置の発令を求めています。ご決断を、総理」

「むう」

 総理と呼ばれた男は、いくつもの複雑な政治的計算を瞬時に行った。

「閣僚全員に避難命令とヘリの手配を。戦自の北部方面軍を迎撃に回せ。ネルフには、エヴァンゲリオン運用のための電気設備の提供を認めることにする」

 

***

 

 硫黄の使徒が咆吼する。ある種の深海魚を思わせる、いくつも突起のあるその姿は、高温のために、時として輪郭がさだかでなくなるようだ。業火のただ中で、使徒は体のわきのエラのような開口部から灼熱の溶岩を滴らせ、金属音に似た叫びをあげていた。

 ネルフ技術部の一角では、送られてきた映像を解析しながら、押し殺したつぶやきが漏れた。

「まさに、地獄の使いか」

 形而上学とは関係なく、マグマと同じ組成をもった使徒の肉体は、地の底からの使者そのものだった。

 

***

 

 リツコは部屋の照明を落とし、研究室のソファに座るマヤの隣りに腰をおろした。長い指でマヤの頬を軽く撫でると、リツコは手慣れたしぐさで彼女の制服のファスナーを下ろしていった。

 リツコはマヤの耳元に唇を寄せる。メンソールの残り香に、マヤは体中の力が抜けて、目をつむる。はだけた胸元から尊敬するひとの冷たい手が入ってきた時、一瞬だけマヤはぴくりと反応するが、あとは体の奥から広がる熱さに身を委ねるしかなかった。リツコの指先は、マヤの脇腹をゆっくりと滑り、正確なタッチで信号を送る。

(ふうっ)

 頭の中が空白になりそうなのを必死でこらえて、マヤはリツコの白衣の中に手を差し入れ、背中に手を回した。リツコは無表情のまま、マヤの反応をうかがっている。

 トン・ツー トン・ツー・ツー ...

 研究室の中とて、情報漏れを完全に防ぐことは出来ない。モールス信号によるボディ・ランゲージ−−それが、リツコの採用したマヤの操縦方法だった。

 リツコがマヤの胸を強く揉み、乳首につん、と刺激を与えると、マヤは軽く体をのけぞらせた。通信は、終わりだ。

 弐号機は、やはりS2機関を摂取していた。それが定着するかは、予断を許さないにせよ。

 虚無的な表情で煙草に火をつけるリツコの横顔をうるんだ瞳で見入りながら、マヤは手早く服の乱れを直した。

 

***

 

 ネルフを去ったマドカは、奈良へと疾走する近鉄特急の中で、ひさびさの<赤福>をつつきながら、ひとごこちついていた。

 ラップトップを開く。「るん・るん・るん」と相変わらず天然な愛嬌をふりまきながら、ポーチから取り出したディスクを差し込み、ディスプレイに見入る。生体素子のDNA暗証は、クラック済みだ。

 しかし、彼女の思惑とはうらはらに、画面には戯画化された黒ネコと白ネコが登場し、輪になってぴょこぴょこと盆踊りをおどるばかり。

「うふ」

 マドカは童顔に微笑を貼りつけたまま、あの女狐が、と内心で毒づいた。

 

***

 

 盲目の使徒は、いまだ幼生のままだった。

 ATフィールドすらも、おのれの能力として認識してはいない。ただ無目的に放つのみ。そして不意に、使徒はその角ばった背中に刺すような飛沫を感じた。その刺激に、かれはびくり、と体を震わせる。伸びた触手がはね上がる。

 何だ。

 使徒の体の一部が、生気を失い、表面が崩落する。同時に、周囲に猛然と上がったガスで、使徒の方向感覚は再び失われる。

 消え失せろ。

 

***

 

「...応答せよ、応答せよ...」

 幾度目かのコールにも反応はなく、通信兵は頭を振った。

「SDF−SATからの情報は?」

「入りました−−」

 状況は最悪だった。

「−−北部方面軍正面部隊、全滅」

「冷却剤の大量投下は有効ではなかったというのか?」

「はっ、戦果は認められたようですが...上空からの映像です。サーモデータも表示します」

 視認性の悪いディスプレイ越しに見たその映像は、後方支援部隊の隊長を絶句させた。冷却剤投下の時刻、その直後、確かに目標の位置の温度は急激に下がっていった。望遠の映像では、上空が大量のガスに包まれる直前、目標の体の一部が崩れていく様子さえとらえられていた。

 だが、続く映像に部隊長は暗然たる表情になり、唇を歪める。

「何だ、これは」

 何が起きているのか、正確に知ることはできない。だが、彼らが支援していた部隊が、突然の想像を絶する狂風と氷の暴力によって、ほとんど瞬時といってよいほどの時間に戦力を奪われていったであろうことは想像された。急激な温度低下によって脆くなっていた金属は砕けて危険なスクラップとなり、車両や移動式兵器も吹き飛ばされて、兵士はほとんどが即死だったにちがいない。映像に見入る間にも、壊滅的な状況報告は、次々に入ってきた。

「相討ち、ということか?」

 しかし、と部隊長は黙考する。冷却剤の投下範囲は目標の直上だけに限定したはずだ。彼はサーモデータのカウンタを戻し、時刻表示に沿って再チェックする。

「これは...」

 データは、戦自による冷却剤の投下の後に、目標自体から第二波の温度低下が、さらに広範囲にわたって発生したことを示していた。部隊長は、その事実を説明すべき仮説の探索に向かおうとする心理を断ち切り、作戦を続行することを優先した。

「目標の表面が、崩れ始めています!」

 光学映像からの報告が入る。部隊長はそのようすを確かめると、決然と言った。

「戦自の本営へつなげ。<ほむら>の出動を進言しよう。目標の動きは止まっている。衛星軌道からのレーザー攻撃で、とどめを刺す!」

 通信兵は即座にGPSデータを衛星兵器の操作室へと転送した。

「わが方面軍の犠牲は、ムダではなかった」

 

***

 

「どうして出さないの!」

 赤いプラグスーツ姿の少女は、燃え上がる髪を振り乱して、技術部の整備官にくってかかった。

「め、命令が出るまでは...」

「アンタバカァ?こうしている間にも、人がたくさん死んで、村や街が燃やされてるんでしょ?!どうしてよ!こんな時にネルフがみんなを守らなくて、どうすんのよっ!」

 続々と入ってくる民間人の被害状況を聞くにおよんで、アスカがエヴァに乗ろうとする目的はただ一つ−−ヒトの悲しみをこれ以上ふやしてはならない。

「お願いします!僕だけでも出して下さい!」

 シンジも懇願する。

「ア、アンタ何言ってんのよ。アンタみたいなへっぽこパイロットはお呼びじゃないのよっ!」

 事態の打開できぬことにいらだったアスカは、矛先を思わずシンジに向けてしまう。だが、この危急の時を何とかしたいという気持ちは、二人に共通のものだった。

「ちょっと待つんだ、お二人さん」

 アスカの射すくめるようなまなざしと、シンジの必死に訴えるまなざしを前に、整備官が硬直しているところに、意外な助け船があらわれた。

「「加持さん!」」

 相変わらずのよれたシャツに無精髭の加持だったが、子供の目にも、憔悴の色がうかがえわれる表情だった。見ると、その後ろには制服姿のレイがいる。緊急の出動に備え、チルドレンは今、本部に常駐していた。まもなく、シンジに代わってレイがスタンバイの時間だ。

「使徒がまた、消えたわ」

 加持はそう言ったレイの言葉をつぐこともなく、くわえかけた煙草を、ケージが禁煙なのに思いあたって所在なげにポケットに戻した。

 

***

 

 使徒は自失していた。

 瞬間移動の可能な使徒にとって、空間的な距離は意味をなさなかった。しかし、感覚器官が未成熟のまま羽化してしまった。使徒にとって、ヒトと同次元の「自我」はなかったが、生体としての身体感覚はあった。いま、その身体は崩壊を始めている。膨大な熱量の放射と、瞬間的な冷却によって、身体の輪郭が、削りとられ、剥がれ落ちていく。なのに、おのが眷属のいる場所はまだとらえられない。

 その時、わずかながら、求める存在の波動を使徒は感じた。

 これではないかも知れない。

 だが、使徒は再出現する。

 それはもう一つの悲劇の始まりだった。

 

***

 

「目標、消失!」

「何だ?!」

 目の前で本隊を屠られた部隊長は、またしても絶句するしかない。戦自の衛星兵器の照準計算が完了した瞬間に、目標が姿を消した。

 しばしの後、彼は灼熱の敵性体が、第二新東京市の真ん中に現れたことを知る。

 

***

 

 使徒が、泣いている。弦楽器の不協和音を電子処理したような咆吼が、都市の中枢部を満たす。あるいは、それは生まれてきたことを呪ってかもしれない。

 盲目の使徒は、還るべきところを知らぬままだった。今またかれは、その灼熱地獄をもって、徹底した破壊を続けていた。その慟哭の叫びはしかし、ヒトたちにとっては恐怖の声でしなかった。

 なぜ、生まれてきたのか。

 なぜ、彷徨わなければならないのか。

 なぜ、この身体は崩れていくのか。

 使徒は泣き叫ぶ。第二新東京市は使徒迎撃要塞都市ではない。焦土作戦はとれないはずだった。しかし、そんな思惑などお構いなしに、焦土は使徒が自力で作り上げていった。

 

「松代へお送りしろ!全軍が盾となるのだっ!」

 かけつけた戦自部隊の指揮官が、声を限りに叫ぶ。その時、指揮官には、眼前の怪獣の姿が揺れ、輪郭がぼやけたように思えた。

 次の瞬間、使徒はきわめて短距離の瞬間移動を行い、指揮官と、彼が護持しようとした存在の真上に出現した。地上に残された、聖性のわずかな欠片を求めて。

 いま、帝都の空白の中心が、天使の久遠の呪詛とともに、焼け焦げ、爛れていく。幾多の難局をこえ、千年の楽土を約束された新たな都が燃え上がる。硫黄の使徒が放つ業火の炎は、周囲の存在のすべてを、その骨髄まで焼き尽くしていった。

 

 雨が、降る。黒煙上る天空から、涙の雨が。

 使徒は自暴的な破壊をふと止め、身体をよじる。降り注ぐ雨は、止むことなく使徒の体表を打ちすえる。爆発的に水蒸気があがり、その下ではまたしても使徒の構成物質がぼろぼろと剥がれ落ちていった。

 各部隊はその連携を寸断されていたが、残された火砲をもって絶望的な攻撃を試みた。そのうちの何発かが命中し、もろくなっていた使徒の身体は、あっけなく吹き飛んだ。

 使徒は、恐慌したように、全身をぶるりと揺すった。体がさらに崩れ、また一回り小型になったように見える。黒ずんだ表面はヒビ割れ、その間からぶすぶすと黄色い炎が噴き出している。

 だめだ。

 瀑布のように注ぐ雨の中、残された力をもってなしえたのは、いまひとたびの瞬間移動だけだった。

 

***

 

 瓦礫の中から、身を起こす姿があった。

「みんな、いるか?」

 それは奇跡といってよかった。本隊から離れて行動していた一隊−−宮里一尉率いる小部隊は、降りしきる雨の中、焼き尽くされた帝都の中心部を前に打ちひしがれていた。あの破壊の使者は、もういない。残存部隊もなすすべなく、街には叩きつける黒い雨だけがあった。

 雨音の他に、一尉の耳に聞こえるのは、部下たちの呻きとすすり泣きだった。生ける者は、誰もが肩を激しく震わせ、慟哭していた。

「泣くな、金本、萱野、...みんな」

「宮里一尉...我々は、これから何を守っていけばよいのでありますか」

 兵士の一人が、言葉を吐き出す。口元からは血が泥のようにこぼれるが、それも雨が洗い流していった。足元では、顔の半面を削りとられた兵士が、痙攣しつつも僚友にすがって立ち上がろうとする。

 一尉は、ふだんはめったに見せぬ優しげな目線で部下たちを見やると、万感の思いをこめて答えた。

「国民だよ。今までと変わらんさ」

 

***

 

 ネルフ本部。

 冬月が複雑な表情で報告に耳を傾けている。ミサトは黙りきり、殺気をみなぎらせている。加持は日本政府への工作のために不在だ。総司令・ゲンドウはこの時におよんでも無表情のまま。

「今回の使徒には、自己修復機能はないと判断します」

 リツコがファイルを見ながら告げた。

「原理は不明ですが、超高温と超低温の放射を繰り返した結果、構成物質の80%以上がすでに崩れて脱落したと思われます。ATフィールドも不安定であるため、これを中和のうえ、撃破することは、現有のどのエヴァをもってしても容易なレベルです」

「それで、どうやって使徒を追いつめるのよ。これだけ犠牲を出しておいて」

 刃のごとき鋭さで、ミサトが言い放った。

「使徒は必ず、ここに来る」

 ゲンドウがぼそりと言った。第二新東京市の壊滅をも平然と見送ったこの人物が言うからには、確かなのだ。

「作戦部は技術部と協議の上、ジオフロント内部での戦闘を想定した指揮の態勢をとれ。以上だ」

 

***

 

 ドグマ最深部−−綾波レイたちのゆりかご。LCLの中、少女たちは永遠に微笑み続ける。告げられた「思い」を共にいだきながら。深まりゆく思慕に、ふくらみ始めた胸をふるわせながら。

 

***

 

「ジオフロントの司令部付近にエヴァを配置、ATフィールドを展開して使徒をひきつけます」

 ゲンドウと冬月が去った後を、リツコが仕切る。

「エヴァのフォーメーションは、前衛に弐号機と零号機を配置し、後衛に初号機をあてます」

 マヤが大型ディスプレイに模式図を示しながら告げた。

「その根拠は?」

 ユリアが冷徹な口調でたずねる。

「これはパイロットの練度にしたがっての決定です。ジオフロントに現れた使徒を、出現した瞬間に仕留める射撃精度が必要である、というのが根拠です。初号機はバックアップとなります」

「了解しました」

「それではお願いするわ、葛城一尉」

 

***

 

「いいのか、使徒をここまで引きつけて?」

「完成体は存在しない。使徒に融合はできんよ」

 

***

 

 ジオフロントに、使徒が現れる。

 くすんだ灰色の微粒子が、凝集を始める。やがてそれは赤黒い塊となり、しだいに高熱を放射する。だが、明らかにそのサイズは縮小していた。周囲の空気が熱して、構造物なども可燃性の部分はくすぶり始めるが、一瞬にして全てを焼き尽くす熱線は、もはや使徒には発することができない。

 目の前に形をとりつつある使徒に照準を合わせながら、零号機と弐号機に乗った二人の美しき処刑人は、その瞬間を待っていた。

 崩れかけた深海魚の姿をとりかけた使徒は、軋むような呻き声を放つ。

 一つになりたい。

 不意に、使徒はおのれのただ一つの願いが、蒼く静かな波動をおくる、一方の処刑人がいだく願いと同じものであることを知る。

 盲目の使徒は、祈りのままに、最後の瞬間移動を行った。

 

***

 

「ドグマ付近に使徒の反応!」

 日向が叫ぶ。

「何だと?!」

 冬月が発令所の大型スクリーンを仰いだ。

「初号機に追撃させろ。隔壁を解放、追撃ルートを確保する」

 ゲンドウは口元で手を組んだまま、命令を発した。

「シンジ君、お願い!」

「了解!」

 初号機はメインシャフトから、一気にドグマへと降下する。自由落下というものが、これほどもどかしいとは、シンジは知らなかった。ATフィールドを推進力に使うだけの技術は、彼にはない。だが、途中にあった障害物は、エヴァの破壊力で次々に打ち破っていった。

 

(呼んでる...)

 レイは身体の奥でざわめくものを感じていた。ついさっきの、使徒との一瞬の共感。

 一つになりたい。

(碇君...)

 

「こっちか!」

 シンジは深く狭く入り組んだ、迷路のようなドグマの中を強引に進んでいった。

「ミサトさん、アンビリカルケーブルをパージします。電源ユニットを指示して下さい」

 了解、と言おうとしたミサトだったが、使徒の反応が確認された地点は、保全のおよばぬ廃棄エリアであることに気づき、可搬式ユニットの手配をする。

 身体を折り、不自然な姿勢で初号機は薄い闇の中を前進していった。シンジの網膜には、足元に散乱する物体−−かなり以前に廃棄されたエヴァらしき部品の残骸−−が映し出されるが、いまはその映像に意味を見出している余裕などなかった。闇の中には、灰色のブリッジが一筋、細くのびている。

 使徒はあの先にいる。

 そこは隔離された実験場のように思えた。ドアを破り、隔壁をむしり取った向こう側に、ぼろぼろの使徒は、うずくまっていた。黄昏を思わせる、うすい寂光。ユニット全体に広がった、巨大な水槽−−

「綾波...?」

 

 最期のとき−−使徒はついに母胎にめぐりあった。紫の処刑人を前に、使徒はさきほど感じた共感を、ゆっくりと、なぞるように確かめる。

 黄昏の色に染まったLCLの中の綾波レイたちは、いっせいにシンジの方を向いて、空虚な笑い顔を見せた。

 イカリクン

 ワタシトヒトツニナラナイ

 ソレハトテモトテモキモチノイイコトダカラ

 入れ物にすぎない存在たちに、使徒は同化を始めた。水槽の中の無垢なる少女たちは、次々に使徒の寂しい魂をうけいれ、覚醒していく。そして、これまでただLCLの中を漂うだけだった存在たちは、明確な意志をもって動き出す。

 

(だめ...これは...わたしの...)

 零号機の中の少女は、なすすべなく凍りつく。

 

 同化は完全ではなかった。あるものは、ほぼ完全に使徒と同じ姿となり、あるものは、半身がか細い少女のまま、残る半身を奇怪な深海魚の形へと変えていた。やがてクローンたちはいっせいに蠢き始める。その放熱により、LCLは沸き立ち、つづいて硫黄の人魚たちは、水槽を破壊してついに外界に出る。

 求めるものは、ただ一つ。

 

***

 

 ゲンドウは椅子から立ち上がっていた。喉仏がわずかに上下する。

 冬月もまた、沈黙したまま、事象の推移を見とどけるしかできなかった。

 

***

 

 使徒が同胞たちと共に初号機に迫る。

 イカリクン

 ワタシトヒトツニナラナイ

 ソレハトテモトテモキモチノイイコトダカラ

 初号機のATフィールドが激しく揺らぐ。この思いはレイの思い。シンジにはそれがわかった。心の壁を解き放とうとする衝動と、自分の中に入ってこようとする<他者>への拒絶がねじり合わされて、初号機は立ち尽くした。

 綾波が、好きだ。だけど−−

 

「パイロットの心理グラフに異常発生」

「シンジ君!」

 

 無数の綾波レイが初号機にすがりつき、その体を食い破る。裂けた肉の間からは、血と体液が流れ出す。少女たちはそのままシンジに熱い抱擁を捧げ、傷口にそっと唇をあてる。満たされなかった思いが、置き去りにした悲しみが、嚥下するしかなかった叫びが、いま、渦を巻いて解放される。

 

     イタイデショ ココ

サビシカッタンデショ     

 

綾波

 

ワタシガナグサメテアゲル

コレガ アナタ

      ホシイノ

ハイッテキテ       

        カエッテキテ

 

   綾波

 

ヒトリニシナイデ

ハナサナイデ

 

綾波    

 

 シンジは使徒とクローンたちから注ぎ込まれる情念に翻弄されていった。意識が薄れていく。自我の皮膜が、使徒の情欲によって溶け出そうとしている。だが同時に、心の奥底で、全てを解放することへの恐れが走る。

 なおもおおいかぶさるように、使徒は初号機に迫る。熱い舌先が這いずるような感覚が全身を包む。喘ぎながら、シンジは心の壁にとりすがろうとする。

(来ちゃ...だめだ)

 ぬめる指先が、パレットガンの引き金を絞りあげた。

 

***

 

 天使を見た者はいない。

 ヒトが見ることができるのは、地上に堕ちて、砕け散った天使の残骸だけ。

 わずかに残っていたその反応も、細り、消失していった。

 

***

 

 シンジはLCLの溜まりに崩れ落ちていった。

 そこにあるのは、使徒と...綾波レイとよばれる存在たちの残骸だった。殺したばかりの使徒の残り火で、その周囲の液体が沸騰し、ドグマの底に琥珀色に染まった瘴気が広がっていく。

 その時、シンジの首筋に、弱々しくすがりつく手があった。

 見ると、半身が使徒と融合し、崩れかけたレイの腕先が、初号機のボディーに触れていた。モニタ越しに少女は、薄い微笑みを浮かべると、やがてぐずぐずと崩壊していった。

「あ・や・な・み...」

 血を吐く叫びとともに、少年の世界が暗転した。

 

<つづく>

2003.2.7(2008.2.12オーバーホール)

Hoffnung

BACK INDEX NEXT
inserted by FC2 system