Eva -- Frame by Frame --

 

<第11話 閉ざされた心の中で>

 

 ドグマの事後処理は思ったより手間どった。

 それだけのことだった。

 

***

 

 青葉シゲルは、何日も端末の前から離れようとせず、苛立ちをぶつけるように作戦シミュレーションを繰り返していた。仮想の使徒がエヴァ全機を倒し、人類の破滅が決定的となるケースが生じても、彼はギラついた目でキーボードを打ち続けた。

 そんなようすを見かねた副指令・冬月コウゾウは、強制的に休暇を与え、自宅で静養することを命じた。

 することのない青葉は、執拗にギターを弾いていた。自慢のマーシャルを部屋でドライブするわけにはいかない。ヘッドフォンから漏れる音と、針金をかきむしる機械的な音だけが部屋を満たす。そんな日がしばし続いた。

 今日からまた、出勤だ。少し頬骨の浮き出た顔。無精髭をさっぱりと落として、青葉は宿舎を出た。背中のフェンダーは精神安定剤だった。

 

***

 

 どんな顔をすればいいのか、わからない。

 伊吹マヤは、この日は珍しく遅出だった。そんな折り、休暇を終えて復帰した青葉と、クリーニングでばったり出会った。今日はベージュのタンクトップ、身体の線の目立つスリムのジーンズ、そしてトルコブルーのペディキュア。たがいの私服姿はこれまでも見たことがあったが、今この姿で同僚の前に立つことは、場違いな恥じらいを彼女に感じさせた。青葉は目をそらして、残った缶コーヒーを飲み干している。

 あるいは、それは罪悪感。あのとき、自分は同僚たちと同じ驚愕を演じることができただろうか。だから、今はムリにでも言葉をつむぐ。

「せめて、自分でお洗濯できる時間くらいほしいですね」

 

***

 

 綾波レイは、初めて夢を見た−−少なくともそう理解した。LCLを出て生き始めてから、夢と呼ばれるものは見たことがなかった。非覚醒時に経験する擬似的な現実のイメージ、それが夢ならば、あれはまさに夢だったのだ。

 第八使徒殲滅後、零号機は活動停止、結局はレーザーカッターでプラグを開口するしかなかった。フィジカルチェック後、レイはシンジの無事を確認すると、黙って独り本部を去った。それ以来、あらゆる接触を拒み、マンションから一歩も外に出ていない。

 その後、何度も同じ夢を見た。それはしだいに明瞭な形をとり、ついにこの日、目覚めた後もはっきり記憶に残るものとなった。夢の中では、身体を半ば羊水に浸し、シンジが仰向けになっている。レイはその上にまたがる形で、下半身が融合し、二人の継ぎ目はなくなっていた。突きだしたレイの両腕は、シンジの胸に溶け込んでいる。満たされた感覚。脆弱な自我が溶け合い、暖かな原初の海の中をいつまでもたゆたう感覚。

 夢に残り香はない。だがレイは目覚めてもなお、あるはずのない残り香をむさぼるようにベッドに身を沈めた。

 

***

 

「ねえ、アスカ」

 洞木ヒカリが、まわりに誰もいないのを確かめて洗面所で声をかける。背後の気配には敏感な惣流アスカだったが、ヒカリの優しい気配は好きだった。

「なに?」

 よく見ると、ヒカリはよく日焼けして、鼻の頭などうっすら皮がむけている。夏休み中の登校日だが、髪はいつもどおり、ひっつめスタイルだ。

「何か心配ごとがあるんなら、話してみない?ひさしぶりに会ったら、感じが違うし。ううん、何でもかんでも、っていうんじゃなくて、ちょっとでもアスカの荷が軽くなるんなら、って思うの」

 今日は休みのシンジとレイが夏カゼなどではないことは、アスカの様子から察することができた。だが、それだけではない−−気配り上手の委員長はそう直観した。アスカ自身にも激しい動揺がある。それは友として、放っておけないものだった。

 

***

 

 朝の紅茶も、悪くない。手製のスコーンをつまみながら、赤木リツコは思った。

(いったい何なのよ?説明しなさいよ!)

 最高機密へのアクセス権を旧友に与える時かもしれない−−口紅を軽く引き直しながら、リツコは思う。

 自分が処理される前に。

 

***

 

 とぎれがちな会話を続けながら、私服姿の二人は地下へと降りる車両に乗った。

「「副指令...」」

 形式上とはいえ軍籍をもつ彼らは、上官の前では立っていることを選んだ。

「上に、行かれてたんですか?」

「評議会の定例でな。下らん仕事だ。市議会といっても、形骸にすぎんよ。ここの市議会は、事実上マギがやっとるんだからな」

「マギ−−三台のスーパーコンピュータがですか?」

 冬月は小さくうなずいた。

「さすがは科学の街、まさに科学万能の時代ですね!」

 上滑りしてるな、あたし−−そう自覚しながらも、マヤはしゃべり続けた。青葉はその痛みを感じつつ、小さく苦笑するしかできなかった。

 

***

 

 エレベーターに、飛び込んで来た男が一人。

「や〜、走った走った...こんちまた、ご機嫌斜めだね」

「来た早々、あんたの顔、見たからよ」

 葛城ミサトは、あいかわらず飄々としたその男−−加持リョウジに苦々しい視線をくれると、エレベーターのドアがギロチンのように閉まって、こいつの首でも刎ねてくれたらよかったのに、と朝からアブナイことを考えた。

 

***

 

「もう一回、起動シークエンスをモニタしてみて」

 リツコが技術部スタッフに命ずる。隣りではマヤが零号機の制御系の過負荷部分を洗い出している。昨日いっしょに点検をしたドイツ人の同僚は、今日は青葉と入れ代わりに非番だ。

「零号機のミラーニューロンの損傷は、修復の限界を越えています」

 それはつまり、他者の行動意図をトレースできない、無感情な殺戮マシンとして運用するほかないということだ。

(それが、レイ本来の姿だったのだけれど)

 

***

 

 起き出した後も、レイはドグマのかつての居所でそうしていたように、ベッドの上で膝をかかえ、うずくまっていた。

 会いたい。

 でも、碇君は、そう思っているだろうか。

 その思いは、少女を不安にした。

 テレビをつける。次々に映し出される、空疎な喜怒哀楽を演じるヒトの姿は、レイには耐え難いものだった。そうするうち、彼女はあるチャンネルに至った。

 何も、映っていない。砂色のざらついた横縞がノイズとともに画面を満たす。それだけだった。

 レイは虚ろなまなざしで、その画像をずっと見続けた。

 

***

 

 ぽつりぽつりと、やっかいな機密にはふれぬよう注意しつつ、最近の出来事をアスカは語っていった。ヒカリたちが修学旅行に行っている間、浅間山に現れて第二新東京市の中心部を壊滅させた使徒は、最後はジオフロント内で殲滅したこと。だがその時の精神的ショックで−−それが何かはもちろん伏せた−−シンジとレイが引きこもってしまったこと。アスカにも、レイのクローンが大量に作られていたことなど、理解の外だった。

 パフェはとっくに空になっている。アスカは日本の職人芸が作る、この小宇宙がお気に入りだった。もっとも、今日は鑑賞する気分にはなれない。

 あたし一人で、使徒なんてお茶の子さいさいよ−−そうアスカは胸を張った。それはそうかもしれないけど、とヒカリは案じる。やはり、鈴原トウジや相田ケンスケと語らって、見舞いに行こう。

 その時、カフェの照明が落ちた。真っ昼間なので困ることはなかったが、アスカは外の街並みを鋭いまなざしで一瞥すると、親友に告げた。

「ヒカリ、すぐに家に帰って。家族を集めて、シェルターに入るのよ。手動で入れる所から。あたしが知ってる場所はいま書いてあげるけど、他に知りたければ、たぶん相田が教えてくれる。鈴原にも、できるだけ沢山の仲間に伝えて」

「どうしたの?停電なのは分かるけど」

 これがリツコの実験ミスなどでなければ−−アスカは冷ややかな現実を告げる。

「使徒が来るわ。さもなければ、もっと非道いヤツらが」

 

***

 

「主電源ストップ。電圧ゼロです」

「あ、わたしじゃないわよ」

 零号機のエラーなどではなさそうだ。不意に降りた闇の中、リツコは非常灯の位置を頭に描きながら、そろりと足を踏み出した。

 今はとにかく、発令所に急ぐこと。

 

***

 

 レイはなおも肌理の粗い砂嵐のような画面を見つめていた。

 あれは希望だったのだと思う。あるいは夢。一方的に求められるだけでなく、触れあい、互いの温もりを感じる夢。それはあの日、手のひらを通り抜けて、空に消えてしまった。

 わたしは血を流さない女。わたしは涙を流さない女。

 あのとき感じた、シンジの心から激しく弾き出される感覚がレイを苛む。閉じた扉。暗転した世界。また、ヒトでないものに戻ってしまった。

 最後に会ったのは、弐号機とともに出撃する直前だったろうか。からみ合ったまなざしを、解きたくなかった。

(碇君...)

 変わることなくざらついた縞模様とノイズを発しつづけていたテレビが、レイの消え入るような声とともに、不意にブラックアウトした。

 

***

 

「ばかな。生き残っている回線は?」

 発令所の冬月は声を張り上げた。本部施設だけではない、停電はこの第三新東京市全体におよんでいた。

「全部で1.2%」

 返ってくる声は小さく、ところどころ聞き取れない。

「生き残っている電源は、全てマギとセントラルドグマの維持に回せ!」

「全館の生命維持に支障が生じますが−−」

 復帰後いきなりの危機に、青葉は心身ともに一気に戦闘態勢に戻っていった。

「構わん。最優先だ」

 

***

 

「そんな...ありえないわ」

 エレベーターの中で囚われの身となったミサトがつぶやく。加持がつけたライターの火が、唯一の光源だ。

「ここの電源は?」

 加持が確認する。

「正・副・予備の三系統。それが同時に落ちるなんて...」

 ミサトは言葉を切った。直後、ホルスターから銃を抜きはなつ。

「壁を向いて、手を挙げなさい!そのまま正座...動いたら殺すわ」

 正座とはまた、悪戯っ子を仕置きするみたいだな、と加持は思ったが、考えてみれば、それはそのまま、事実だった。

 

***

 

「やはりブレーカーは落ちたと言うより、落とされたと考えるべきだな」

 いつもの口調で、発令所のゲンドウが冬月に告げる。状況を即座に読みとりながら。

「あの男か?...ちょっと悪戯が過ぎるようだな」

 原因はどうであれ、こんな時に使徒でも現れたら大変だぞ−−冬月はにじみ始めた額の汗をぬぐいながらつぶやいた。

 

***

 

「索敵レーダーに正体不明の反応あり。予想上陸地点は、旧熱海方面」

 戦略自衛隊の総合警戒管制室に情報が入る。

「また、敵サンか」

「一応、警報シフトにしておけ。決まりだからな」

 将官の一人が苦々しげな顔をする。だが、第三新東京市で迎撃態勢をとるべきネルフには、何の動きもない。

「いったいネルフの連中は何をやっとるんだ」

 

***

 

「タラップなんて...」

 リツコは愚痴をこぼしながら発令所への道を自らの手足で上っていった。超法規機関のネルフであるが、第三新東京市の防災条例をわざわざ律儀に守っておいたのは、何ともラッキーだった。

 

***

 

 ゆるゆると、使徒が進む。しいてたとえれば蜘蛛型だろうか。しかし、中心部あるいは本体は円盤状で、体節などはない。脚も四本だ。その鉄鋼のような長く黒々とした脚を使徒が一歩踏み出すごと、大地が揺れた。やがて使徒が市街にはいると、動線上の建築物は次々に倒壊していった。

 

***

 

 アスカは疾走する。途中、放置された自転車をみかけたが、コンフォート17マンションへはあいにく上り坂だ。

 さすがに息が切れ始めた。そんなアスカの前に、脳天気にするすると走って来るバイクがあった。チャ〜ンス!内心で気合いを入れて−−

「待ちなさあい!」

「はあ?」

 バイクを止めた小太りの青年は不信感をあらわにしたが、アスカの鬼の形相にたじたじとなった。彼はネルフ庶務係の連絡先をなぐり書きした紙切れを押しつけられて(7には横棒がしっかり入っている)、フルスロットルで駆け去る少女の後ろ姿をぽかんと見送った。

 その頭上にも、蝉たちはわれ関せずと、盛大な鳴き声を降らせ続けた。

 

***

 

「統幕会議め、こんな時だけ現場に頼りおって!」

 司令部は焦りをつのらせていった。松代に樹立された臨時政府は、まともな指示の出せる状態ではない。その上、さきの使徒戦で帝都を蹂躙されて以来、一部では「ネルフ討つべし」の声が挙がっていた。だが、使徒殲滅のみを任務とする国連の特務機関にとって、帝都の防衛など関心外なのは当然だ。つまるところ、幾度の厄災に見舞われながらも、旧態然とした防衛意識しかなかった政府首脳の失態にすぎない。

 それに−−と司令部スタッフの一人は思う。ネルフが六度まであの化け物を倒したのは動かしようのない事実だ。

 ならば、七度目に賭けるしかあるまい。

「しかし、どうやって連絡を?」

「直接行くんだよ」

 

***

 

「葛城に殺されるなら、本望だ」

「あいにく愁嘆場にはノー興味なの」

「本音なんだがな、これでも」

「この破壊工作の目的は?即答で!」

「そのくらい、司令やリッちゃんは今ごろ見抜いてるさ。マギによる対抗措置も、発動済みだろう。そんなことより、葛城、もっと大事な話をしないか」

「何よ」

 昔のことなど蒸し返したら、即刻射殺よ、と内心でミサトはいきり立つ。

「エヴァの本質、そして委員会の目的について」

「で?」

「オレも知らなかったことが明るみに出てくるんでね。今は監視システムも落ちているはずだ。話しをするには、いいチャンスだ」

 加持の言い出したことを信じたわけではなかったが、ミサトもチャンスは最大限に生かす主義だった。

「話しなさい」

「そうだな...エヴァにも、使徒と同じコアがある。自らの意志をもたないエヴァを動かすためには、シンジ君たちパイロットとシンクロすることが必要だ。だが、シンクロの成功率の天文学的な低さを考えた場合、エヴァのコアは初めから、パイロットに特化されて設計されたものと考えた方がいい」

「シンクロは偶然の成功ではない、ってことね」

「そう。シンジ君も、アスカも、母親はエヴァの開発計画の中心人物だった。アスカの母親のことは、ドイツにいた時に聞いただろう?コアの中枢部分にあるデータは、おそらく彼女たちの人格のコピーだ。だから、A−10神経を認証用のキーインターフェイスとした<絆>によってエヴァは動いている」

「それじゃ、レイは?」

「わからない。コード204は、たぶん零号機のコアに関する情報だと思う。それにしても−−」

 加持は言葉を切った。

「ドグマの奥にあんな設備があるとは、さすがに予想外だったよ。碇司令も、色々と隠し事をしてるってことさ。使徒と同化して判別がつかなくなった個体も多かったが、あれは間違いなくレイのクローンだ」

「でも、何のために、そんなことを」

「葛城はどう思う?」

 思い当たる可能性は、ない。移植用臓器の「農場」としてのクローン技術は聞いたことがあるが、そうとも思えない。

「答えるのはあなたでしょ」

 

***

 

 アスカはなおも疾走する。全速でバイクを駆る真紅のプラグスーツ姿は、いにしえの変身ヒーローそのままだった。肩に吊すのはミサトの部屋から持ち出した小型のウージー。ネルフ本部へと向けて走るアスカの胸中は、やり場のない憤怒に燃えたぎっていた。

(アンタ、ファーストが好きなら、なんで会いに行かないのよ!)

(僕に、何もできるわけないじゃないか)

(この、バカ)

 思わずアスカはシンジを本気で張り倒していた。少年は力なく椅子から転げ落ちた。

(もう、アンタを見てるとイライラすんのよ。自分が可愛いだけで、好きな相手の気持ちも分かってやろうとしない、もうサイテー!)

 これまで、決してレイのことを好ましいと思っていたわけではなかった。変化のない表情、ソツのない行動、どれをとっても「優等生」という形容がぴったりだった。しかし、あれは次元の違う問題だ。誰かが、支えてやらねば。

(だって、怖いんだ)

(そんなのアンタの勝手でしょうが!ファーストだって、怖いの。不安なの。寂しいのよ。誰かにそばにいてほしいの、そんなことも分からないの?!)

(でも、僕なんかじゃ...)

 その時、アスカはシンジがある人物を思い描いていることに気づいた。それは彼女の怒りをさらに爆発させた。

(聞きなさい、バカシンジ!)

 床の上でうずくまったままのシンジの胸ぐらを引っつかみ、強引に起きあがらせる。

(あの司令が、知らなかったと思う?このジオフロントを統括して、色んな計画を進めてきたのは、碇司令自身。あんな酷いことをした本人に、ファーストが頼りたいなんて思うはずないっての。アンタが会いたいのなら、アイツも会いたいはず。いつ、世界が終わるかって時に、ウジウジするのもいい加減にしなさいよ!)

 アスカはうなだれて唇を噛むだけだったシンジを思い返し、ムキになってバイクを吹かした。

(それでもぐずぐずしてんなら、使徒に食われて死になさい!)

 

***

 

 何かがおかしい。日向マコトは思った。信号機は消えたままだ。ビル街の大型モニタや電光掲示板も切れている。携帯は圏外の表示−−市内では、ありえないこと。その不安は、上空遠くから聞こえてきた警報によって、現実となった。

「...ただ今、正体不明の物体が、本地点に向かって移動中です...」

 自衛隊のヘリだ。思わず駆け出そうとする日向の前に、市議会選挙をひかえて活動中の宣伝カーが通った。これだ、彼は即断し、その車をつかまえる。

(ありがとう、高橋ノゾミ!)

 生き延びたら、清き一票を投じてやるぜ、そう思った日向だったが、まだ住民票をこっちに移してないことを、彼は忘れていた。


 

Episode 11: How I Wish, How I Wish You Were Here.

 


 かかえた膝に顔をうずめながら、レイは発生した状況をほぼ正しく理解していた。

 使徒がまたここに向かっている。都市全体が停電しているということは、使徒迎撃はきわめて困難なミッションになったということだ。緊急指令を告げるはずの携帯電話も、沈黙したまま。

 このまま無に還る...一人きりで、心を閉ざしたまま。

 サビシカッタンデショ

 ドグマの底、あの存在は、わたしの声でそう言った。

 寂しいという感情を、レイは知らなかった。他の多くの感情とともに。だが、終わらぬ夏の熱気とはうらはらに、自分の周囲が底冷えするような感覚、心がヒトとの触れあいを求めてうずくような感覚を少女はおぼえる。

 これが、寂しいということかもしれない。

 あの時、求め合う気持ちののままに浸透していった思いは、少年の心の壁によって分断された。レイは失われた半身を追い求めながら、凍りついた心の白い傷跡をなぞる。虚空の中で、最後に聞いたシンジの叫びが、幾度もこだまする。細く尖った肩が小さく震えるのを、レイは止めることができない。

 あなたがここにいてほしい...

 どれだけの時が過ぎたのか。レイは心の中にうずきを感じる。それは少年が残した刻印−−わたしを求める思い。初めての気持ち。心を閉ざし、絆を見失った後も、わたしの中には少年の思いの欠片が生きている。今のレイには、それがわかる。この思いは大切なもの。失くしてはいけないもの。

 もう一度、あの手に触れたい。

 それは、きっと二人の思い。

 壊れた扉に、指がかかる。

 そう。今のわたしは、寂しさを終わらせることができる−−どんな形であっても。

 人形でないとは、そういうことだ。

 

***

 

「ダミープラグ」

 ぼそりと加持がつぶやいた。

「何よ、それ?」

「さて...どう言うべきか。探りを入れてたところに、あれだったからな。もう完全にお手上げさ。ドイツにいた頃、計画の存在だけは知っていたんだが。レイと結びついた何かということしか、わからない」

 その時、ミサトの中で一つのリンクが点滅した。自らが指揮した、第五使徒戦だ。

「加持が来る前、エヴァの模擬体を使った作戦をやったことがあるわ。システム部分は技術部に任せたけど、レイが模擬体を遠隔操作していたの。どうやら、模擬体を動かすためにダミープラグとやらの技術の一部が転用されていたようね」

「そうか...実は、量産機の建造計画の予算の一部が、ここの本部に流れていたんだ。これは監査部の仕事でわかったことでね。すると、量産タイプのエヴァを、パイロットなしで運用する手段、それがダミープラグということになる。しかし、それは真実の一面でしかない」

 加持は言葉を切った。闇の中、濃度を増した空気は、じっとりにじみ出した汗のせいばかりでないのは明らかだった。銃口を向ける女と、向けられた男は、同時に一つの暗澹たる可能性に思いあたっていた。

 先に口を開いたのは、ミサトだった。

「ダミープラグには、クローンが入る」

「らしいな...だが、それがなぜレイだったのか、今となっては、闇の中だ」

 ミサトの胸に重苦しい感覚が走る。ならば、あの時エヴァフェイクを起動するために、<依代>として搭載された綾波レイたちを見殺しにしたのは、自分だ。

「一つだけ、正直に答えて」

「オレはいつでも正直だよ」

「茶化さないで、このことだけは!レイとシンジ君、ひかれ合ってるわ。見ていて怖いくらいに。だから、今はあんなになって、何もしてやれない...あたしたちが知っている綾波レイは、一人の人間だと思っていいのね」

 ミサトは最後に見た、二人の切なくからみ合ったまなざしを思い出す。

「こりゃまた、哲学的な質問だな」

「で、答えは?」

「真実は人それぞれの中にある。そして−−」

 

***

 

 少女の去った部屋。

 クロゼットのそばの床には、砕けた男物の眼鏡が散乱していた。

 

***

 

 使徒はついに第三新東京市に侵入した。動きは遅いが、歩幅が異様に長い。市内に入ると、あっという間にネルフ本部の上に陣取った。

 本体は妖しげな目玉模様。その下部から、大量の溶解液が放出される。

 ひどく限定的なエネルギー反応しか感じない。そんな使徒にとって、わずかに稼動している電源設備を当面の侵入目標と定めたのは、必然だった。

 

***

 

 日向のハイジャックした選挙カーは、使徒襲来をがなり散らしながら、ネルフ本部へと爆走していった。ついに、入り口が見える。

 おや、と汗まみれのマイクを握り直しつつ日向は思う。警備の姿が見えない。それどころか、あの迷彩服たちは、どこから来たのだ?

 確かめる間もなく、車はその者たちを蹴散らし、地下へのルートに突入した。べこ、と選挙カーの装甲、いやフロントの鋼板がへこむのが分かる。

 あれは、何だったんだ。

 

***

 

 バイクを乗り棄てるか、一瞬アスカは迷ったが、行けるところまで行くことに決心した。だが、進入路には、見慣れぬ迷彩服が二人。プラグスーツ姿の少女を認めると、ぴたりと銃口を向ける。

「何なの、アンタたち」

 言い終えて、チッ、とアスカは歯がみした。今は、問答無用で押し入るべきだったか。この態勢で、銃に手はかけられない。それに、こいつら...

「手を挙げろ」

 だが、彼らが言葉を継ごうとした時、タタタン、という乾いた音が二度、三度と聞こえた。アスカの目の前で、男たちは二人とも倒れ伏した。

 目線の先には、細身には不似合いな機関銃をもったユリア・ハンナヴァルトがいた。彼女は足早に倒れた迷彩服に歩み寄ると、その頭蓋を慎重に撃ち抜いていった。

「Geh weiter!(先に行って)」

 アスカはヤーとだけ言うと、急勾配をバイクで駆け下りていった。

 

***

 

 遠くから、声が聞こえる。それは誰かの叫び声。

 レイはネルフ本部へと駆けていた。

 都市機能は、麻痺を始めていた。交通機関は、どれも止まっている。道をゆく自動車は、見あたらない。革の靴は、走り続けるにはひどく不向きだった。足首に鈍い痛みが走る。

 息が苦しい。でも−−

 会いたい。

 

***

 

 カートレインの終点のシャッターは、固く閉じられたままだった。アスカは不確かな記憶を頼りに、エヴァのケージへと迂回路をとる。

 暗い通路を進んでいると、封じていた不安が再び姿をあらわし始める。

 チルドレンには皆クローンが用意されている?

 そう考えるだけで、自分の存在が根底から覆されるような感覚を覚える。そんなはずはない。自分はそれを知らない。だが、彼女はそれを知っていたか?

 また、シャッターだ。今度は、いける。アスカは銃を抜いた。一瞬だけ、さきほどのユリアの行為が思い返されるが、ぐいと引き金を絞り、ロックを破壊した。

 自分は、自分だ。

 

***

 

 遠くから、声が聞こえる。それはわたしを呼ぶ声。

 幾度も倒れた。身体は、もう限界だ。

 シンジの叫び声は、まだ遠い。しかしレイは信じた。そう、必ず−−

 会える。

 

***

 

 こっちだ−−

 バイクは既に放棄した。アスカは力いっぱいハッチを開いた。荒い息づかいが、絶句に変わる。

 目の前には、使徒以外の何物でもないモノがいた。アスカは立ちすくむが、すぐに死力をふりしぼって駆け出す。

 

***

 

 あなたの呼び声が聞こえる。

 何もいらない。もう一度だけ...

 レイは手動で開く本部施設のハッチに手をかけた。膝の関節が震える。細い身体をあずけるようにレバーを回す。

 扉の向こう、あなたはきっといる。

 

***

 

 使徒襲来−−日向の通報によって、本部は何かが弾けたように異様な熱気に包まれていった。

「使徒の位置は?」

「J−27ユニットの直上です!」

 ドグマの光景を目のあたりにして、ずっとバラバラになっていた皆の心が、この一瞬に重なっていく。日向マコトが、青葉シゲルが、そして伊吹マヤが、奇跡のような速さで状況への対応を進めていった。

 ケージでは、技術部スタッフがパイロットの到着を信じ、エヴァの出撃準備にかかる。ディーゼルが古めかしい機械音を上げ始める。

 あとは、あの子達を信じるだけ。

 

***

 

 力強い足音。リズミカルに、速度を上げながら、ケージへと駆け上がる。

「エヴァはどこ?!」

 発令所の誰かがライトを向ける。この声は−−

「アスカ!」

「来てくれたのね」

 マヤは半分涙声だった。

 ゲンドウは自らケージで、ワイヤーの引き上げに加わっている。整備員たちは「非常用」と書かれたケースを叩き割り、中から大きな斧を取り出す。

「「「せ〜のっ!」」」

 かけ声とともに油圧パイプが断ち切られ、弐号機のロックボルトへの圧力が一気に下がる。

「弐号機は実力で拘束具を強制排除。出撃しろ」

「非常用バッテリー、搭載完了」

「聞こえる、アスカ?」

 リツコが拡声器ごしに必死の指示を出す。

「使徒はJ−27ユニット近辺にいるわ。マギの維持システムのすぐ近くだから、爆発物は使えないの。格闘戦もムリ。パレットガンで一気にコアを撃ち抜いて」

 了解、たぶんそう言ったのだろう。リツコの耳には届かなかったが、起動手順に入った弐号機の勇姿が何よりの答えだった。

 

***

 

 補助バッテリーは機動性をそこなう。だが、今はそれが命綱だ。アスカは暗闇の中を進んでいった。恐怖はない。

(ひとりじゃないから、ね。ママ)

 それに−−

 あたしが倒れても、あいつらは必ず来る。

 

***

 

 静止した闇の中、近づく足音。一瞬の逡巡。

 やがて、二つの吐息は重なり、少年と少女は震える声でいとおしむように名を呼びあう−−幾度も。

 

***

 

 アスカが出た通路の先には、上下に通じる大きなダクトがあった。その上の方に、使徒がいる。かなりの距離だ。ダクトを伝い、マギの維持システムに侵入するつもりに違いない。

 弐号機はタテ穴のダクトに上半身を出し、狙撃姿勢をとった。その時、上方からキラキラ光る液状ものが射出された。

「うわっ」

 アスカは反射的に身を翻した。強化鋼でできたはずのパレットガンの銃身が切断され、破片がダクトの底に落ちていった。はね散った飛沫が弐号機のボディーにかかり、身体に焼けるような痛みをおぼえる。使徒の体から吐き出されたのは、ハイドロカッターなみの高圧で射出された溶解液らしかった。第二波をもろにくらってはたまらない。アスカはパレットガンを棄て、もとの通路に戻った。

(ったく、武器がないじゃないのよぉ!)

 手元の武装はプログナイフだけだ。弐号機のもつナイフは斬撃には有利だが、投擲しても貫通力は期待できない。ダクトを自力で登るのは論外だ。エヴァのケージに戻っている時間など、あるはずもない。

 いや。

 来る途中、標示を見た。武器庫の標示を。

 遠くは、ない。

 アスカは通路を転がるように逆走した。これだ。隔壁をこじあけ、中を見る。闇の中、弐号機の四つの眼が光る。

 迫撃砲...機雷...水雷...

(爆発物ばっかじゃないのよぉ!)

 レーザー...陽電子砲のパーツ...

(そんな電源ないんだってばぁ!)

 パレットガンはない。この武器庫に銃火器はないのか。

(これ...!)

 アスカの目を引いたのは、ニードルガンだった。リニアレールと同じ電磁誘導タイプ。試作品だったが、使徒のコアを爆発なしに撃ち抜くには、これしかない。銃をとり、急いでダクトに戻る。

 弾体装着。

 再び狙撃態勢に。

 しかし、銃は何の反応も返さない。なぜ?アスカは焦る。よく見ると、開封したばかりのパワーユニットは未充電の状態だった。

(これじゃ撃てないじゃないのよぉ!)

 しかし、得物はこれだけだ。その時、アスカの頭に閃くものがあった。それは弐号機にのみ可能な方法だった。減り続けるバッテリー残量カウンタをにらみつける。

(ぎりぎり、か)

 特殊戦用アタッチメント端子オープン。

 弐号機の右肩に電源端子を接続。

 どのみち、一撃の勝負。

 アスカはダクトの反対側に思いっきり蹴りを入れた。壁が陥没する。

 足場の確保。三点固定。

 投げ上げたプログナイフは目くらまし。

 ATフィールド中和。

 溶解液が降り注ぐ。

 補助バッテリーを盾に。

 装甲にざっくりと亀裂が入る。

(チッ!)

 次の攻撃をくらえば、胴斬りは確実。

(なむ−−)

 照準完了。

(−−さん!)

 鈍い光を放ち、タングステン合金ニードルの群れが暗闇を切り裂いた。

 全弾、目標を貫通。

 

***

 

 三分余りを残していた弐号機のバッテリー残量は、ニードルガンへの電力供給で、一気にゼロになっていた。エントリープラグの中も、薄暗くなり、ほとんどの計器は反応を止めた。身体の自由がきかなくなった弐号機は、バランスを失い、奈落の底に落ちかかる。

(いやだな、こんなの)

 使徒を倒した...らしい...というのに、このまま落ちたら、かなりの機体の破損を覚悟しなくてはいけない。活動は停止していても、弐号機の機体を離れる気持ちはアスカにはなかった。

 その時、アスカの頭上で使徒がわずかに動いた。

(何っ?)

 どうやら、瞬殺とはいかなかったようだ。しかし、続いて真上から降ってきた激しい射撃音、そして飛び散る使徒の肉片はアスカを驚かせた。それだけではない。シンクロは止んでいるが、使徒を貫通したパレットガンの弾丸は、間違いなく弐号機に命中している。その衝撃で、ついに弐号機は足場からずり落ちていった。

(何すんのよ!やめなさいよ!)

 そこに、弐号機の腕をぐいと掴む、もう一つの力。

(シンジ...)

 初号機に引き上げられ、通路に戻りながら、ちらとモニタを見ると、零号機はなおもパレットガンを乱射し続けていた。使徒はもう完全に死んでいるはずだ。なのに...

 零号機は、残弾ゼロになるまで、射撃をやめなかった。もはや使徒の本体は跡形もなく砕け散り、残っているのは四本の脚部だけだった。

(やっぱり、気持ち悪い女)

 アスカには零号機の単眼が、レイの瞳と同じルビー色に冷たく輝いているのが見えたような気がした。

 

***

 

「そろそろ、停電も終わりだ」

 だが、ミサトはまだ警戒を解かない。

「さっき言ってた、委員会の目的って何なの?」

 加持は答えない。その時、明かりが戻り、エレベーターも動き始めた。ややあって、ミサトの殺気は消え、銃も彼女の内懐に戻された。

「お仕置きは終わりってことか?」

 相変わらず、緊張感のない口調だった。そして加持はすい、と立ち上がりミサトの方を向く。エレベーターが減速し、停止するのを見はからって、加持は逃げ場のない美しい獲物に迫った。不意をつかれたミサトは彼を突き飛ばそうとするが、もつれ合い、バランスを失って一緒に倒れ込む。同時に、エレベーターの扉が開く。

「フ・ケ・ツ」

 計算通り。呆れた顔のリツコとマヤを前に、ミサトが大げさなしかめ面をわざわざ作ったのは、加持には予想外の幸運だった。あるいは、彼が最後に耳元でささやいた、(...アダム...)という台詞が、共犯関係を確かなものにしたのかもしれない。

 

***

 

 気がつけば、夜になっていた。

 本部を出て、三人のチルドレンは市内を見渡せる小高い丘の上に立っていた。夕陽が山の端に沈んで、しばらく経っていた。緋色の王が隠れ、やがて再誕するまで、月が世界を支配する。

 それだけではなかった。これほどの星空を、覆された宝石のような夜を見るのは、誰にとっても初めてだった。しかし、送電系統の点検がすんだのだろう、市内にも電気が送られると、闇の底にあった街は光彩をとりもどし、かわって清らな夜空の輝きは薄れていった。

 シンジとレイは言葉なくたたずんだまま。身体を寄せ合い、指先をからめてじっと街を見つめている。

 

(あなたが守った街よ)

 いつだったろう、ミサトに言われた言葉がシンジの中によみがえる。しかし、今の彼は別のことを思っていた。

(綾波を、守りたい)

 それがたぶん、ここにいてもいい理由。

 

「お取り込み中、恐縮なんですけどぉ」

 アスカが二人きりの世界に割って入る。

「良い子はお家に帰る時間よ」

 

 シンジとレイは互いを見た。

「そ、そうだね。もう行かないと...」

 だが、レイは小声で言う。

「帰りたくない...」

 

<つづく>

2003.2.22(同5.18改訂;2008.2.12オーバーホール)

Hoffnung

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