Eva -- Frame by Frame --

 

<第14話 夢の王錫・魂の玉座>

 

「委員会への報告は誤報。使徒侵入の事実はありませんが、何か?」

「気を付けてしゃべりたまえ、碇君。この席での偽証は、死に値するぞ」

 詐術をつくした会議に、偽証とは笑わせる。碇ゲンドウは口元で組んだ拳の向こうで、唇の両端を歪めた。

「君が新たなシナリオを作る必要はない」

 ローレンツという名辞によって識別される影の一人が言った。

「分かっております。全てはゼーレのシナリオ通りに」

 暗転。

 

***

 

 人類補完委員会の特別召集会議を終え、冬月コウゾウは執務室に戻った。書類の整理をしていると、旧知の者から届いた封書があった。中からは外国雑誌の論文のコピー。

 論文には、「冬月先生 最近出たものです。ご高覧いただければ幸いです。ナラヤナン拝」という付箋がついていた。昔の教え子からのものだった。母国に帰ってかなりの時が経っていた。博士号の授与式にはサーリ姿で出席していたのを思い出す。

(冬月先生、か)

 かつての学究活動は、遠い、霞のかかった向こうの出来事のように思えた。

 

***

 

 ゼーレと呼ばれる組織がいつ生まれたのは、定かではない。もちろん、その主要メンバーの中には、ケルトの薄明の時代から祭祀を司る者として隠然たる力をふるってきた家柄の者もいただろう。しかし、その組織が世界の経済や政治に大きな影響力をもつようになったのは、中世の拡張期を経て、欧州が世界の物質文明の中心となった近世以降である。いくつかの秘密結社、とりわけドイツやスイスという地域性を考えれば、薔薇十字団の有力メンバーがゼーレに合流した可能性は大である。以後、かれらは「魂の玉座」として、富と権力の分配を、時に戦争、革命、暴政を演出するマスターマインドとなってきたのだった。

 その間、ゼーレの指導原理となったのは、単に「文書」あるいは「書物」と呼びならわされた聖典だった。それは「遍在者」たちの残した道標の一つだった。この地上に散逸した「文書」は、闇の中でくぐもった光を放ち、つねに暗闘の曖昧な対象となってきた。あまたの文明の曙光の源に「文書」が介在していたことは確かである。

 ゆえに、欧州による狂気のごとき植民地建設の途上、闇の中で行われたのが、「文書」の収奪もしくは破壊だった。それを所有することは、賢者の石に手をかけることに限りなく近く、階梯を上る「夢の王錫」の所有者は少ないほどよいからだった。「シオンの議定書」と呼ばれた記録もまた、「文書」の一形態であったろう。そして、20世紀が経験した幾多の惨禍も、その応用編というべきである。中でも、「文書」の一つが第三帝国の指導者のもとに渡ったことは余りにも不運だった。彼の偏執によって誤読された情報がもたらした惨禍は、史書の記すとおりである。

 

***

 

 1945年7月、中国大陸−−

(希望とは敗残者の阿片だな)

 男は鋭角的な顎を撫でてため息をついた。最後に飛行機が使えたのは僥倖だった。八路軍の対空砲火などものの数ではない。

(御前はご無事か...)

 その手には、陥落寸前のベルリンから託された、黙示録の世界を地上に現出させる巨人たちを記した「文書」があった。血路を切り開いてここまで辿り着いたが、降伏がすでに決定済みとなった今、さすがに焦りを隠せなかった。

(瀬島ごとき、あてにはできぬ)

 偽装の報告を関東軍宛てに打電すると、男は「多謝」と言い残して、黄色い土埃を巻き上げつつ港へと馬を駆った。それが、近衛情報将校・六分儀少佐としての中国大陸での最後の姿だった。

 

***

 

 そして、70年後−−

「爆心地付近に、高エネルギー反応!」

「ばかな!」

「われわれの切り札が」

 第三新東京市。

 少年は運命の出会いへと向かっていた。

 劫火のさ中にあって、なお屹立する第三使徒・サキエル。

「エヴァ初号機、発進!」

 第一次直上会戦。女は復讐劇の始まりを宣言した。だが−−

「初号機、活動停止」

 作動不安定なまま、零号機の逐次投入。目標のATフィールド中和。殲滅。

 その作動ログの一部は空白。

 零号機を端末として、レイ自身のATフィールド展開によって使徒を封じ込めたことに気づいたのは、司令部の他にはリツコただ一人だった。

「そういうことだったの、レイ」

 月光は夜を貫いて、倒れ伏した零号機を照らすばかりだった。

 

***

 

(けったくそ悪い...)

 ジャージ姿の少年は、憤懣やるかたない思いで校門をくぐった。1時間目はとうに終わり、2時間目の最中だった。

 妹の無事は確かめたが、かなりのケガを負ったことは事実だ。拳をにぎりしめ、怒りをたぎらせる。

「おーい、ボール!」

 遠くから声がした。見ると、すぐ向こうからサッカーボールが転がって来る。

「あん?」

 わかった、という顔をしてトウジはボールを勢いよく蹴った...つもりだったが、微妙にタイミングが狂い、ボールは力なくバウンドしていった。少年はバツ悪そうにプイと横を向くと、教室へと歩を進めた。

 

***

 

 今にして思えば、「文書」とは世界の多元性へのインターフェイスとしての機能をもつといえる。それは石板状の形態をしており、半透明の硬質な材質からなっている。屈折率が可変的なのか、時にエメラルド色の板にも見え、錬金術師たちの命名もあながち誤謬でないことが知れる。

 その石板は、触れる者の意志を受け、世界のあり方について洞察をもたらす。「文書」は人智を超えた情報の貯蔵庫というよりは、それに触れる者の経験の眼界を拡張するはたらきをもつ−−宗教者には黙示録のイメージを、為政者には支配のありようを、科学者には理論上のブレークスルーを。「文書」が予言者の書として畏怖の対象となったのは、われわれにとっての「現在」と「未来」との距離は誤差の範囲内であるからにすぎない。ヒトの紡ぎ出す歴史は、地球規模で見れば刹那の出来事であり、「現在」についての洞察が、「未来」の啓示と見なされて奇跡の源泉とされたのも当然のことである。

 本来、「文書」は固定した内容から構成されるものではない。歴史の中で選ばれた時間線の上で、世界のあり方は動的に更新され、新たな幻視を与えていく。ヒトの究極の姿もまた、文明の発展によって異なった形で思い描かれたのである。

 

***

 

 碇ユイが家の蔵を整理して−−正確には、いささかの悪戯心とともに学園祭の「鑑定大会」に出せそうなものを物色して−−いた時に出会った石板は、「文書」の中でも最高の機能をもったものだった。添え書きの号が祖父のものであることに惹かれ、ふと手にしたことがきっかけだった。

 1991年、秋。ユイ14歳。

 その少女らしさはこの世を去るまで変わることがなかったが、この時、ユイはようやっとサナギから抜け出した蝶が、まだ陽光をうけて飛翔する前の、瑞々しく透き通ったようすを思わせるような娘だった。

 だが、「文書」に触れた時の衝撃は、その後のユイの生き方を決定づけた。

 最初に意識に流れ込んできたのは、過去の映像だった。それはユイを激しく動揺させた。同時に、碇家の血筋が、自分の中でふつふつと沸き立つように目覚めていくのを彼女は感じた。

 闇の祭祀。「呪」の語られざる宗家。そんなコトバが消えては結び、流れ去る。

 意識がオーバーフローする寸前で、ユイは緑水晶の石板から手を離した。開いたその瞳孔に、外界は紅く滲んで見えた。

 秋の陽が、庭の竹林を射抜き、障子を朱に染め上げている。

 突然、ユイはあることに思い当たった。この石板は、子供の頃、父が奥の間で幾日もの潔斎の後に触れていたものとそっくりだ。幼な心に、見てはいけないものを見てしまった気がして、口にすることもできなかったが。碇家の力というものが、世俗的な財力ばかりでなく、象徴的な影響力の上に立つものであることは、ユイもすでに理解していた。父が触れていた石板は、恐らくその力の源泉だ。

 ユイは意を決して奥の間へと足を運ぶ。碇家の当主となることを運命づけられた娘には、そうする使命があった。

 

***

 

 あくまでも優雅に、天使は滑空する。

 第四使徒・シャムシエル。

 使徒の体内で、一つの映像が鮮やかに甦る。爆煙の向こうに立つ紫蘭のネメシス。遙けき記憶は命じる。このネメシスの力が尽きるまで距離をとって攻撃せよ。しかる後、滅殺。

(動け...動け...動け...動け...)

「初号機、再起動」

 暴走。

 上昇し続ける初号機のシンクロ率。パイロット、および「異物」の少年二名の心理状態のモニタは不能。

「零号機、出ます!」

 陽電子ライフルによるコアへの攻撃で、目標沈黙。

 昼下がりの虚空を、再び蝉の声が満たしていった。

(あの子供たちには、感謝せねばならんな)

 冬月は寒々とした思いで、唇をすぼめた。いま、初号機が覚醒してしまっては、シナリオに修正不可能な狂いが生じることになる。

 使徒の屍体から採取されたサンプルの一部は、ドイツへと送られた。だが、S2機関の再構築には、データの欠落がいまだ多しとの報告がされたにとどまった。

 

***

 

 少女はLCLの中、半眼のまま記憶をたどる。

 辛かった。なぜかは分からない。

 あの少年がわれを忘れ、無防備に使徒に突撃していった時、いやそれ以前に、使徒の光の鞭になぶられ、傷だらけになっていくのをモニタごしに見た時−−

 できるなら、代わりたいと思った。

「レイ」

 造物主の声で、少女はまどろみから醒めた。あの少年とどこか似た、しかし感情というものを削ぎ落とした男の顔が、眼鏡ごしに彼女を見つめていた。

 少女は無意識に腕を折り、胸の前を覆った。一瞬、その表情に紅がさしたが、琥珀色のLCLごしに、その変化はかき消された。

 

***

 

 奥の間で触れた碇家伝来の石板は、怖れていたほどの衝撃をもたらすことはなかった。

 祖父の遺品のほうが、圧倒的な幻視を与える。

 その感触を再び確かめるべく、ユイは祖父の遺品のもとへと戻った。

 足どりがおぼつかない。

 いつしか陽はすっかり落ちて、薄墨のように広がる闇が、おののく娘の後を追いかける。

 物の輪郭が溶け、判然としなくなった和室で、ユイは仄かな微光を放つ石板と再び向き合った。

 感じる。確かに、ヒトの来し方行く末のイメージを。

 それから、ユイは「文書」との交感を続けていった。書物などを通して新たな知識を得るたび、あるいはささやかな人生経験を経るたび、「文書」はそれまでと違う世界観を開示した。

 第七の封印−−

 黙示録の巨人。黒き卵。天使たちの覚醒。

 人類のあるべき終局の姿。上るべき階梯。

 −−第七の福音。

 もちろん、いかに早熟で常ならぬ洞察力をもった娘であったとはいえ、ユイにその全てが理解できたわけではない。だが、究極の答えは、時とともにホログラムのように像を結ぶんでいった。家伝のものをはるかに超える力をもった石板が死蔵されてきた理由は、ユイには分からなかったが。

 その理由は、多分に偶然によるものだった。敗戦の直前、六分儀機関の長から「文書」を渡されて後、碇家の当主はこれに全霊をかけて向かい合った。対連合軍工作の一翼に加わり、魂魄も果てようとしていた当主が「文書」の奥に見たのは、驚愕すべき未来だった。だが彼は、日本という国の荒廃を目の当たりにして、新たにもたらされた「文書」の啓示する幻視を得た時、その石板を封印することを選んだ。それは「呪」の宗家としての本能的な懼れでもあったろう。

 ユイが成長し、ゼーレとの接触−−あるいは約束された結盟−−を果たした時、問われるままに差し出した「文書」が、碇家伝来のものの方だったことは言うまでもない。

 

***

 

 1999年−−

 女は男と語らっていた。

「夜の9時でこの明るさじゃ、ロマンスにもなりませんわね」

 盛夏のストックホルム。黒ビールを傾けながら、女は軽くしなを作る。石畳の照り返しは眩さをなくしていたが、宵闇の訪れにはまだしばしの間があった。

「もう少し北に行けば、本当の白夜が見られる。うちの助手はこの後、フィンランドまで足を伸ばすそうだ」

 男はライ麦パンにオイル漬けのニシンがのったオードブルに手を伸ばした。軽くワインで口元を潤す。あまり飲めるほうではない。

「京大は、お忙しいんですの?」

「組織替えの検討委員とやらが回ってきてな。下らん仕事だ。ますます研究時間がなくなるよ。文部省の役人は人をふりまわすのがよほど楽しいらしい」

 さきほどまで、国際会議のレセプションが行われていた典雅な旧市庁舎、そしてログハウスを思わせる白木造りの講義室を思い出し、男は日本にある自分の研究室の貧相さに苦笑した。

「それなら、イギリスに移られればいいのに。うちのコレッジで進化生物学のポジションが今度あきますわ」

 そう言って女は黒ビールを飲み干した。目尻に小ジワがあるが、悪戯っぽい笑顔にうっすら朱がさし、ノースリーブのワンピースから出た白く丸い肩を男に寄せてみる。そのしぐさは、年の割には白髪の目立つ助教授を、大学院生が誘惑しているという構図に見えなくもない。現実には二人ともほぼ同年代なのだが。

「それはそうと、お子さんはどうかね?」

「もう中学ですわ。わたしが仕事ばかりだから、女子寮のある学校を選びましたの」

「リツコちゃん、といったな」

 

***

 

 同刻、ドレスデン−−

「意識工学ラボ設立を祝って、プロスト(乾杯)!」

 惣流キョウコは深夜、ドレスデン工科大学の研究室で一人祝杯をあげた。日本人の少ないこの街では、日本語を使う機会はほとんどなかった。音楽学校に留学している人はけっこういると思うんだけど、とキョウコは思う。出かける場所が違うんでしょうね。それに、向こうはハーフのあたしを見ても日本人だとは思わないだろうし。

 夜の窓に映りこむ顔を見る。キョウコは自分の顔が好きではなかった。奥二重の目。緑がかったグレーの瞳。鼻梁は高いが、鼻先は小ぶりにまとまっている。クセのあるブラウンの髪は、手入れがたいへんだった。

(一度、ハンガリー系とか言われたこともあったっけ)

 唯一、線の細い頬は、母親からの大切なゆずりもの。

 東西ドイツ統一後、多くの面で遅れをとっていた旧東側に対し、政府・民間を問わず、さまざまな形で資本の投下が行われた。その中で、優れた若手研究者に与えられる基金があった。今日の朝、e-メールで採用の通知があったときの喜びは、キョウコをひさびさに晴れ晴れした気持ちにした。昼下がりに散策したエルベの流れは、いつになく優しげだった。

 キ・ボ・ウ

 ヒトだけが持てるもの。神経回路にも宿らないもの。そのための、意識工学。

 

***

 

 目ですがったが、振り切られた。マヤは苦しげに顔を伏せる。

 リツコは独りドグマ最深部へと降りていった。

 第5使徒・ラミエル−−青い空中要塞−−を撃滅すべく立てられた作戦は、技術部に過重な負担を要求するものだった。

 物量的にも、精神的にも。

「ウチのは精度が違うんだよ、精度が!」

「技術開発部総員の意地にかけても、あと3時間で形にして見せますよ」

 ソロモン作戦−−7機のエヴァフェイクが発するATフィールドを囮に、初号機による目標直下からの直接攻撃。

 ダミープラグ計画の全貌をマヤは知らされているわけではなかった。だが、その真の目的がチルドレンの危険を減らすためのオートパイロット技術の外にあることは、彼女にも理解できた。同時に、零号機パイロットがその核となることも。

 接続された少女−−

(シンジ君、頑張って)

 しかし、エヴァフェイクは地上に出撃直後に、全機破壊。

(綾波の欠片が、消えていく...)

 使徒に肉薄する初号機を追うように、零号機も急速発進。

「いかん、レイ!」

 再び過大なATフィールド展開を行えば、少女は自らの形態を維持できない。

 

...今次使徒戦においては、戦略自衛隊の保有する衛星兵器「ほむら」からの援護射撃が決定的な役割を果たした。この攻撃によって生じた、使徒の攻撃間隔の遅延に乗じ、初号機は当初の作戦とほぼ同じ条件下で目標に必殺の打撃を与え得たのである。尚、「ほむら」はスペクトル解析からプルートー級のMIRACL方式レーザーと推測されるが、その詳細は開示されていない... (葛城一尉の報告書より)

 

 シンジは激烈をきわめた戦闘の後、レイと再会した時のことを思い出す。

(もう、自分には、他に何もないって、そんなこと言うなよ...)

 レイはシンジのもとに歩み寄り、そっと頬に手をあてた。見上げたシンジと、目が合う。少しかがみ込み、レイは紅く深い色の瞳でシンジを見つめる。その表情には、ほころび始めた朝の微光のような笑みがひろがる。

 シンジは思い返す。あの瞬間、僕は新たな生を受けたのだと。この少女の微笑みと共に、生きてゆくのだと。

 

***

 

(優しさ...これでいいの?)

 レイの細く硬い肩胛骨のあたりに、シンジの頬がこつりとあたる。豊かな沈黙の時。

(碇くんの温もり...ずっとこうしていたい)

 わたしが、わたしである限り。

 

***

 

 再び、1999年。蝉時雨。そして粘り着くような残暑。

 その「残暑」という言葉がじきに死語になるなど、誰が予想できただろう。

 京都大学、「形而上生物学」研究室−−

 イギリスから届いた赤木ナオコのメールは淡々としたものだった。学者の世界とは無縁だった彼女の元夫は、親友たちに看取られる中、静かに自らの命を絶ったのだそうだ。もちろん、冬月にとって赤木シゲルという男は一面識もない存在だった。稀代の雀士とうたわれ、その筋では畏怖をもって語られる男とナオコの人生がどこで交差したのかは、全くの謎だった。ただ、ナオコが素っ気ない物言いをしても、奥深いところでは確かな絆があったのだろうという想像はできた。

「家族はいずとも、俺に友はいたのだ」

 赤木シゲルは最期にそう言ったという。ならば、ナオコもそうした友の一人であったのだろう。淡々としたようすと、冷たさとは別のものだ。今度、墓参のために東京を訪れる、そう彼女からのメールには書いてあった。

 過去を語るナオコのメールの中のエピソードの一つに、冬月は注意をひかれた。かつてナオコがドーキンスの「利己的な遺伝子」の話を赤木シゲルに話したとき、彼は小さく皮肉な笑いを浮かべて、人の一生というスケールで見れば、DNAとて「俺」の乗り物にすぎない、という見事な逆説を展開してのけたとのことだ。そのエピソード一つをとっても、尋常なスケールで測ることの出来ない男であったことは、間違いない。

(それにしても、吉祥寺とは懐かしい地名だな)

 ほんの短い間、ナオコがシゲルと同居していた街だという。その街もまた、一年余りの後に「放置地区」という名の廃墟となることは、誰も知らない。

 ノックの音で、冬月はわれに返った。机の上には一編のレポート。居酒屋で教授から話を受けた時も、それほど乗り気ではなかった。だが、渡されたレポートを読みながら、冬月はしだいに引き込まれていった。

 大胆過ぎる。しかし、学界の最先端で提唱されている幾つかの仮説を補助線として考えると、ヒトの進化の新たな解釈が開けるのがわかった。同時に、学界の一部をにぎわしているS2理論も、これなら不条理なものではなくなる。

「失礼します」

 最初の印象は、清楚さだった。

「これ、読ませてもらったよ。二、三疑問が残るが、刺激のあるレポートだね」

 第二印象は、育ちの良さから来るのであろう、てらいの無さ。狭苦しい研究室で、上品な微笑みをまとった女の顔に魅入られながら、冬月は思う。

(そして、まれに見る刺激的な学生でもあるな)

「この先、どうするつもりかね?就職か、それともここの研究室に入るつもりかね?」

「まだそこまで考えていません。それに第三の選択もあるんじゃありません?」

 冬月はその返答をいぶかったが、「碇」の名を脳裏で検索して考えこんだ。詳しいことは知るよしもないとはいえ、京の町に古くから残る名家の一つであることは聞き及んでいた。ならば、「第三の選択」があるのも道理か。

「老舗でも継ぐのかね?」

 ユイは悪戯っぽく笑って、小首をかしげた。

 

***

 

 それは第五使徒戦を戦い抜いてすぐ後のこと。

 鬼の形相でロッカールームを破壊する美女が一人。葛城ミサトであった。

「な〜にがJAよ。あんなガラクタで使徒に太刀打ちできるわけないでしょーが!」

 リツコもひとしきり、貧困な設計思想で作られたロボットに対して毒づいてから、ぽつりとつぶやく。

「仕方ないわよ。日本人は、白いお米と妬みを食べて生きているってこと」

 「希望」なんて、あんな連中には似合わない。書き換えたパスワードを思い返し、リツコは薄く笑った。

 

***

 

 秋の京都といっても、大路には古都の風情はない。

「ある人物からあなたの噂を聞きましてね」

 男は口元の傷を手の甲でぬぐうようなしぐさをしつつ、上目遣いに言った。イヤな感じの男。冬月は即座に思った。

「人に好かれるのは苦手ですが、疎まれるのは慣れています」

 気持ちは分からんでもないが、こんな男と関わりになりたくはない。そう思って、冬月は歩き出した。

 六分儀ゲンドウ。口をきくのは初めてだったが、珍しい苗字なので、覚えていた。研究室で教授と衝突を繰り返し、大学院も中退したという話だ。その後は、さる外資系企業でバイオ関連の嘱託研究員となって、非合法すれすれの実験に関わったりと、とかく良からぬ噂ばかりを聞いていた。

 その後、ゲンドウとユイの接触を知ったとき、冬月の不審は深まった。京雀の噂では、碇の家は元来、六分儀の主筋にあたるという。大戦末期に郎党のほとんどを失い、潰えたかに見えた六分儀一族の末裔が、かつての主家の一人娘に近づいた−−思えばキナ臭い話だ。その渦中に自分が巻き込まれつつあるという認識は、入れあげるほどに正体の見えなくなる教え子の魅力と合わさって、冬月の心中に複雑な影を落としていった。

 思えば、冬月が激情にかられて掴んだ手を優雅にほどいたユイの肩越しに、小さくそよいでいた嵯峨の紅葉は、鮮血のようだった。

 その一切が仕組まれた接触だったのか否かは、ついぞ知るに至ることはなかった。

 

***

 

 明けて、西暦2000年。二十世紀最後の年。

「魚座の二千年期が終わる」

「ナザレの預言者の封印が解ける」

「光と闇の合一。天国と地獄の結婚の時」

 

 男は女の手をとった。空港のゲートへと向かいながら、肩越しにちらと後ろを振り返る。目線の先には、南極の地下施設からずっと一緒だったドイツ人親子が行き先を分かち、ニューデリー経由でかれらの母国へと向かう便のゲートに去っていくのが見えた。

「これでよかったのか?」

 男の顔色にわずかなためらいが浮かんだ。

「わからない...<文書>のシナリオ通りなら、間もなく破局が訪れる...後は葛城先生の調査チームに希望を託すしかないわ」

 女の面立ちはまだ少女らしさを残していたが、思い詰めたようすは常にない憂いを漂わせていた。男は握った手に力をこめた。

「君が望む未来が、私の未来だ」

 思わぬ男の言葉。女は微かに表情を和らげると、内心で(...可愛い人...)とつぶやいた。

 

 9月13日。グリニッジ時間、正午。

「表面の発光を止めろ!」

「限界予定数値を超えている!」

「総員防御体制!」

 南極の冬が終わる。本来ならば零下何十度の下、ブリザードが吹き荒れていただろう。

「ATフィールドが、全て解放されていきます!」

「わずかでもいい、被害を最小限に食い止めろ!」

 オレンジ色の燐光を放つ半透明の翼が、二枚、四枚、六枚と広げられていく。

 光の巨人は、浮かび上がるように、地上へと姿をあらわした。局所的だが、重力場をも歪めるほどのエネルギーは氷の大陸を溶融させ、あらゆる生命体を消滅させていった。

 これが世にいう、セカンド・インパクトの始まりだった。

 

 見上げる者のない空。欧州大陸の黒い森の上を浮遊する飛行船があった。

 宵闇が黄昏を背に広がっている。昏い死のエーテルが、ゆるりと空を行く飛行船のキャビンを満たしていた。それは古城の大広間ほどの奥行きがあり、壁は代々伝わる貴重書で埋め尽くされている。老人は重苦しい吐息をつくと、堅牢な造りのテーブルから立ち上がった。その白蝋のような頬は、黄昏よりもなお濃く死の影を宿していた。

 下界では、地獄絵図が繰り広げられていよう。

 これは終わりの始まりだ。

 箱船は手に入れた。だが、神への道となる人類補完計画を完遂するには、終末の天使たちに抗い、かれらを撃破するための備えがなくてはならない。それを建造するには、まだしばしの時が必要だろう。

 されど、と老人は思う。もはや後戻りはできぬ。

 

 虚ろきカフェに佇みて、君を偲ぶ

 思い出すはただ、眩きかの日々

 絶えて還らず

 

 地鳴り...洪水...劫火。そして断末魔。この飛行船の高度では見通すことはできないが、わがドナウは荒れ狂い、ノートル・ダムは瓦解するだろう。フランドルは水没し、バルカンは再び死臭漂う火薬庫と化すに相違ない。奈落の舞踏会が、幕を上げたのだ。

 黒い森が、慟哭に揺らめいている。

 これは哀歌だ。奪い合い、殺戮し合う煉獄へと墜ちゆく文明しか生み出せなかった、わが欧州のための哀歌だ。未来も、現在も、幻影に過ぎぬ。おまえと分かち合えるのは、ただ追憶あるのみ。

「フリデリーケ...」

「猊下?」

 呟いたその名は、薄闇の奥から現れた男に聞こえただろうか。

 構いはしない。今だけは、失われた時を求め、妄執に身をゆだねることとて許されよう。半世紀以上も前に、骨までも焼き尽くされた最愛の妹と、再会を果たすためならば。

 おれにとって、ゼーレはそのためにのみ存在するのだから。


 

Episode 14: Episode 14: Untying the Plot

 


 スティーヴン・J・グールドによれば、地球という星の上で、人類という生命体が「かくある」姿で意識をもって存在するのは、奇跡ともいうべき偶然性の帰結だという。

 これには反論もある。20世紀の末には、地球と比較的似通った物理的特性をもった星は、これまで考えられてきたよりずっと多く宇宙に散らばっていることが知られていた。そのような環境下では、物質の交換を行い、遺伝子の交配によって複雑化する運命のルートに乗れるのは、ほぼ間違いなく炭素系の生命である。そしていったん生命の種子が蒔かれたならば、高度に発達した脳中枢をもつことが意識の発生の前提となる。結果として、地球型の天体では、設計上は現在の動物に近い存在が生まれる可能性が高い。

 一方で、グールドの主張にも理はある。生物の適応が追いつかぬほどの環境の激変は、星の歴史ではむしろ常態である。ホモ・サピエンスへと進化することになる猿人の一群が疫病にかかったり、食物を得られずに全滅していたなら、人類の誕生は不可能だったろう。自然選択という計算の最適解を得るよりも前に、計算そのものが途絶する可能性が、常につきまとうのだ。

 だが、真の奇跡は、もっと根元的なところにある。なにゆえに、自己複製機能をもった有機物質がその後の爆発的な進化のルートにのったのか。原始地球の単細胞生物にとって、生活圏は無限であり、生存競争のための淘汰は必要なかったはずだ。進化を始動しなければならない理由は、そこには見出せない。ここにダーウィン理論の盲点がある。

 グールド自身、このような点への言及はしていない(彼は忠実なダーウィン主義者である)。しかし、原始地球において、生命を進化のルートへと突き動かした奇跡の一撃を想定することは、不条理ではない−−それを企図した者が神の名に値するか否かは、このさい脇におくとしても。それが物理的にいかなるものであったかもまた、想像の範囲外である。あるいは、生化学的構造における対称性の破綻のようなものだったのかもしれない。いずれにせよ、ヒトへの長い道のりはこうして拓かれた。

 奇跡の一撃−−幾十億年か前に起きた特異事象−−それこそが、全ての始まりたるファースト・インパクトだったのだ。

 

***

 

 そして、進化の一大パノラマが展開された。

 何者の意志でもなく、生命の実験が繰り返された。その道すじで、宇宙の「遍在者」たちは、地球という星に興味を抱いた。かれらは進化に干渉することはなかったが、幾度となくこの地を訪れては、去っていった。

 やがて自然は多様なデザインを試行しては消去し、残された少数の系統樹は高度に複雑化した生命を生み出していった。

 その間も、「遍在者」たちは地球に訪れた。来るべきシナリオを計算すると、かれらは幾つかの布石を打った。この星に知性体が生まれ、それが幼年期の終わりを迎える時、新たな階梯に進むための道標を。

 加速した進化は、ついに意識をもった存在を生み、やがて物質世界から隔離された、内なる王国=象徴世界を築く知的生物、すなわちヒトを生むにいたった。物質世界と象徴世界との「ずれ」は、脆弱な自我を生み出す苗床でもあったが、同時に道具使用を飛躍的に発達させ、社会組織を生み、象徴言語を複雑化させていった。

 だが、ヒトは病むことを宿命づけられた存在だった。

 個々がかかえこんだ「ずれ」あるいは「過剰」は、ヒトどうしの結びつきによっても消えることなく、むしろ拡大する一方だった。

 地球上の進化のゲーム自体は、ヒトの存在のあるなしに関係なく続いていく。太陽の終焉まで、それは続くだろう。

 しかしヒトは、生物学的な進化のルートから離脱することを夢見た唯一の生き物だった。歴史時代に入ると、人類という不完全な群体が、すでに袋小路に入り込もうとしていることに気づく者があらわれた。かれらはそれぞれの方法で神への道を希求した。しかし「遍在者」たちの残した道標を完全に読み解く者はなく、神になろうとする者たちは、寄せては返す波のように、幾度となくあらわれ、影の中に消えていった。

 

***

 

 20世紀最後の年に起きた、セカンド・インパクトと称される事象の真相は、不明の部分があまりにも多い。マスコミによる命名は、おそらく恐竜の滅亡につながった隕石の衝突に次ぐ厄災という意図だったのだろう。

 公式発表では、「大質量の隕石の落下によるもの」とされたが、それが欺瞞であることは、当時の先端科学に何らかの形で関わっていた者にとっては、明らかだった。冬月もまた、その一人だった。

 冬月自身、その一年ほど前に南極で発見されたという太古の大型生命体の痕跡には関心をひかれていた。日本からの調査チームは、東大閥で固められていたため、冬月は派遣されなかったが、S2理論の提唱者である葛城博士が数少ない理論畑の研究者として参加したことは耳に届いていた。研究室の助手がこの新理論に熱をあげるのを、冬月は多少苦々しい思いをもって見ていたが、その可能性に期待していたのも確かだった。

 だが、その研究室もセカンド・インパクトによる「有事宣言」の下、閉鎖を余儀なくされた。他の多くの者と同じく、冬月も厄災の直後のことは、語ろうとしない。真の地獄を語るコトバを持つ人間は、どこにもいないのだ。

 

***

 

「なぜ光の巨人の存在を隠す?セカンドインパクト、知っていたんじゃないかね、君らは?その日、あれが起こる事を」

「光の巨人?」

 2003年、箱根。人工進化研究所。

 ゲンドウの反応をうかがうこともせず、冬月はアタッシュケースを開き、書類を突きつけた。ついさっき再会を果たした、碇ユイはいつしか席をはずしていた。

「事件の前日に引き上げたのが幸運で済むなら、全ての資料を一緒に引き上げたのも幸運か?!」

「こんなものが処分されずに残っていたとは意外です」

 ゲンドウはそう言うと、言葉を切って眼鏡を軽く押し上げた。どんな返答がされようと、一歩も引かぬ覚悟で、冬月もまた緊張に満ちた沈黙を守った。

「あの物体を、われわれゲヒルンではアダムと呼んでいます。最初の人間、そして同時に最後の人間、アダムですよ」

「ならば、なぜそのアダムを使ってあの厄災を引き起こした?」

「望んで引き起こしたのではありません。科学者というものは、どうも自分の考えを信じすぎる。独善的ですな。そういう人種が真実を求めている。皮肉なものです」

 ゲンドウは値踏みするように冬月を眼鏡の向こう側から見上げた。

「あの時、覚醒しつつあったアダムを<槍>によって封じ、終局のシナリオを一時停止させたのです。葛城博士が命と引き替えにね−−」

 そう言って、ゲンドウは机の上に広げられたデータの一角をペンで叩いた。タイムラインに沿って、セカンドインパクト前後の諸事象の観測値がプロットされている。

「−−わかりますか、冬月教授?天使たちの来臨は不可避なのですよ。あの時、何もしなければ、一斉に解き放たれた天使たちが人類を滅ぼしていたでしょう、ヨハネの黙示録のようにね。南極の地下施設に最後まで残って、覚醒を始めたアダムに絶望的な対処を試みた葛城調査隊、かれらこそは人類を滅亡の淵から救った功労者なのですよ」

 必死の思いで集めた資料に、ゲンドウから示された資料を重ね合わせると、冬月にはセカンド・インパクトの全体像が見えてきた。

 だが、葛城君は、どこまでゼーレの思惑を知っていたのか?冬月には知るすべももなかったし、目の前にいる男が真相をすべて語っているとも思えなかった。

 

***

 

「元はきれいな球状の地底空間か?」

 ゲンドウにうながされ、地下の大深度施設へと降下しながら、冬月は用心深くたずねた。見渡せば、ここが単なる研究施設でないことは明らかだった。

 人類のもてる全てを費やしている施設。六分儀、いや碇ゲンドウはそう言った。そのこと自体は、偽りではあるまい。その先に何があるかは、沈黙するしかないとしても。

「あら、冬月先生」

「赤木君...君もかね?」

 見るからに最新鋭の設備をそなえたラボ。4年ぶりの再会だったが、赤木ナオコは以前とほとんど変わっていなかった。

(これが、リツコちゃんか?)

 ナオコが作業するそばで、制服姿の少女がお辞儀をした。一度だけ会ったのが、ナオコがイギリスに発つ前だから、その時は小学校に入る前後だったろう。小ぶりの顔に、切れ長の目。高校生とは思えぬ冷たい感じの美形だった。

(父親似?)

 冬月は張り巡らされた人間関係を探索しながら、この組織の目的を推測し始めていた。

 

***

 

(接触実験、か)

 惣流キョウコはガラスばりのテラスの向こうに目をやった。「あの時」以来、中央ヨーロッパは雨期と乾期とに塗り分けられた、亜熱帯の気候となってしまったようだ。

 春の燃え上がる緑のハイデも、もう見ることはできない。

 日本の研究所では、エヴァ零号機の建造に着手したという。セカンド・インパクト前にキョウコの立ち上げた意識工学ラボは、新EU−−Nの文字を加えたため、ドイツではノイと称されていた−−の連合プロジェクトの一部として拡大され、さらに国連直轄の新組織へと統合された。そうした動乱の中で、キョウコは新しい命を産み、かつまた汚れることも知った。

(やるしかない、ってことね)

 テラスの向こうは雨だ。長く、暗い雨期が来る。髪でも切ろうか?研究しづめで、枝毛の出た毛先をつまみながら、キョウコは軽く舌打ちをした。

 生体コンピュータ用のOSが赤木ナオコによって開発中とはいっても、部分の総和が全体ではないことは、ナオコ自身が一番知っているだろう。神経回路は意識によって統合されて初めて人格となる。そのためのコアテクノロジーが、キョウコの専門分野だった。だが、基礎データの不足は明らかだった。

 その間にも、使徒の再来は近づいている。

 アダムの素体復元はドイツでは中断されているとはいえ、いやいまだ幼体だからこそ、接触実験による一次データの収集は不可欠といえた。

(アスカのためにも、ね)

 

***

 

「これは?」

 悪趣味でないと言ったら、ウソになる。

 巨大な人型の頭部とそこから伸びた脊髄、そしてうらめしげに、と言うには圧倒的な量感をもった両手がワイヤーで吊り下げられている。それぞれのパーツからはいく筋ものケーブルが伸び、束ねられて闇の奥へと消えていた。まだ不安定な生体組織を固定するための矯正具だろうか、生身の部分を硬質な装甲が覆っている。

「そうです。アダムより人の造りしもの、エヴァです」

 ナオコが誇らしげに語った。ゲンドウに寄り添いながら、その口調にはむしろ自分の価値をゲンドウに知らしめるかのような気配がただよっていた。

 「文書」を手中に収めた者たち−−ゼーレの老人たち−−は、南半球をほぼ壊滅させ、北半球にも甚大な損害を与えながらも、アダムを封印することによって人類の延命に成功した。だが、「文書」に記されたシナリオによれば、滅びの天使たちは10余年ののちに再び発現し、アダムを目指して襲来を重ねるという。

 ならば、あの時、ロンギヌスの退魔針によって還元したというアダムを、そのまま封じておくならば?...あるいは、いっそ再生不能なほどに破壊すれば?

 それを許すゼーレではない。彼らはサード・インパクトを起こす。

「われわれのアダム再生計画。通称E計画のひな型たる、エヴァ零号機だよ」

 セカンド・インパクトの真相が、ヒト以外の存在−−それはハルマゲドンに勝利したいずれかの天使ということだろう−−がアダムと合一するのを阻むことにあったのなら、サード・インパクトとは、ヒトが襲い来るすべての天使にうち克ち、ついに黒き卵の扉を開く法悦の刻をさす。それが、神への階梯をヒトが登りつめるための、唯一の方法なのだ。

「神のプロトタイプか」

 この施設で進められているE計画とは、アダムの復元と共に、滅びの天使たち−−「使徒」と呼ばれる存在−−を迎え撃つ魔獣=人造堕天使の開発に他ならない。

「冬月、おれと一緒に人類の新たな歴史を作らないか」

 冬月は逡巡する。大きな船の−−それが方舟である場合にはなおさらのこと−−針路に細工をするには、その機関室に入り込むことが不可欠なのは確かだ。あの「文書」にかかわる情報も、かかえ込むか、無意味に公開するかの二者択一では、威力を失ってしまうだろう。

 まずは機関室に入り込むこと。

 そこには彼女もいる。

 

***

 

(ユイ君か...)

 2015年。JA暴走事故−−あるいは仕組まれた奇跡−−の直後。

 宴席を辞し、ネルフ本部の上級士官用宿舎へと走る車の後部座席で、冬月はその名前を反復した。自分はその時に、彼女の名前を呼ぶだろうか。初号機の中に封じられたかつての教え子−−そして補完計画の要となる存在−−を思い、男は思案する。

 来るべきサード・インパクトの衝撃を最小限に抑えること。同時に、ヒトが進化の階梯を登りつめるのを見届けること。その二つを同時に果たすべく、最後の一瞬で老人たちのシナリオといかに決別するか?だが、今はまだ、地道に布石を打つより他はない−−多大な犠牲を払いながらも。

 無明。

 今日とは違う明日を切り拓く信念はもはや、おれにはない。

 もはや?

 いや、と冬月は思う。セカンド・インパクト、ゲヒルンへの参画、そして人類補完計画の推進−−

 どのみち、おれのしてきたことは、退却戦の連続だったのだ。

 

***

 

 キャンプファイヤーの残り火も消えた、朝。少女は思いつめたように問う。

「もう...一度、触れてもいい?」

「...いいよ」

 穏やかな空気の中、二人の手は重なった。どちらからともなく、強く握り返しながら。

 

***

 

 第6使徒・ガギエル。国連艦隊をものともせぬ圧倒的な攻撃力。

 初の水中戦闘。

 だが、アンビリカルケーブルは切断、弐号機パイロット、惣流・アスカ・ラングレーからの生命徴候はモニタ不能。

 暴走。

(あの時と、同じ感じがした)

 戦闘後、新横須賀港から戻って作業をしていたオフィスで、ミサトは胸の内の感触をなぞる。かつて南極大陸の洋上で見た、最初の使徒の放つ燐光が脳裏をよぎった。ディスプレイはだいぶ前からスリープモードに入っていた。

(エヴァは最初の使徒のコピー。それがフルパワーを解放すれば、同じことが起きて当然...か)

 同刻、司令室−−

「これでまた、シナリオが進んだな」

 副官の言葉には答えず、ゲンドウはドイツからの運搬人を執務室に通した。

 

***

 

 ユリア・ハンナヴァルトは機内食を断ると、目を閉じてシートを倒した。ヘッドセットは髪どめ代わり。

 来日する時は、国連艦隊をしたがえての豪華クルーズだったが、単身帰国となれば、一介の技術将校にはファーストクラスさえ期待できない。

 もう、日本の土を踏むこともないだろう。最後に京都を訪れる機会を作ってくれた赤木博士には感謝しないと。第二次大戦でも無傷で、セカンド・インパクトをも生き延びた千年の古都は、私のような異邦人にもアルカイック・スマイルを投げかけた。

 15年前、南極で拾った神の欠片−−私の父が持ち帰ったサンプルと、碇夫妻が持ち帰ったサンプルは、同じものだった。最初の使徒であったアダムの波動は、南極での接触実験で人類最初の被験者となった自分にとっては、忘れようもない。だが、本部施設の地下で磔刑になっていた巨人は、違う波動を送ってきた。箱根の施設が発見された時、中に何もなかったことは確認済みだ。「文書」 の記述する属性には不可解な箇所もあったが、ユリアは自分の直観を信じた。あれは、リリスだ。

 第一使徒は、アダムとリリス。第二使徒は存在せず。

 つまり−−日本に運ばれたサンプルは、復元過程でリリスへと遷移したのだ。アダムとリリスの属性は、可変的だと判断するしかない。思えば、神の形象が潜在的な両性具有であるというのは、当然のことだった。

 セカンド・インパクト後、ドイツではサンプルの分析と理論化が主に行われ、S2機関の基礎設計がそれに続いた。ユリアが携わってきたのは、まさにそうした作業だった。他方、日本に委託されたのは、第一使徒の素体復元だった。それはやがて来る使徒戦がもたらす破壊の舞台をゼーレの膝元から遠ざけようという意図がはたらいたと共に、碇ゲンドウの手腕を見込んでのことなのだろう。

 だが、日本のネルフ本部で復元したものがリリスとなったのは、偶然なのか?

 碇、ユイ。

 ユリアの唇がその名をなぞる。突然の失踪、いや消滅。アダムは彼女を取り込んだことで、リリスへと属性を変えた。

 おそらく、それだけではないのだろう−−私にはわからないけれど。碇ゲンドウが見せた、初号機への異常ともいえるこだわり、そして綾波レイという存在。そこからは、さまざまの憶測が可能だが、確証はどこにもない。補完委員会への報告は行うにせよ、自分の理解不足を、あえて知らせることはするまい。

 思考の無作為なつらなりを絶とうとして、ユリアはヘッドセットのスイッチを入れた。聞き慣れたドイツ語のDJが耳に入ってきたところでセレクタを止めかけたが、しばしの後、チャンネルを懐かしさすら覚え始めた日本語放送にセットした。

 その昔、日本を訪れた宣教師は、あの美しい言葉を、バスク語にも匹敵する「悪魔の言語」と呼ばわったという。

 タブリスがこの話を聞いたら、何と言うかしら?

 

***

 

 第7使徒・イスラフェル。

 秘められた天使の名を、ユリアはこともなげに口にした。

「私が持って来ることの出来た情報は、そこまでです。水際作戦の様子からして、分裂・合体以外に、特殊能力はないと思われますが」

 ミサトの号令一下、初号機と弐号機はリニアレールを疾走していく。減速されぬまま、アンビリカルケーブルをパージすると、永遠の夏空の中に二体のエヴァは吸い込まれていった。

 だが−−

 使徒はハーフコアをもって四分裂。さらにエヴァ二体のユニゾン攻撃を受け、八分裂を果たした。

「傷つけられたプライドは〜っ!!」

 アスカが吼える。シンジも絶妙のタイミングで宙に舞った。

 使徒迎撃要塞はその機能をフルに発揮、マギシステムの支援によって分裂・合体のパターンを予測し、使徒を地雷原に誘導した。

 乾・坤・一擲。

 太陽は太陰へ。

 それは後にして思えば、誰もが心を重ね、晴れやかに勝利することのできた、最初で最後の使徒戦だった。

 

***

 

 空の空 空の空なる哉 都(すべ)て空なり。

 そうであっても、この世の命は虚ろさを埋め合おうとする。

 地の底、灼熱のマグマの中に、かれはいた。

 初のA−17発令−−原形をとどめたまま、使徒の生け捕り作戦。だが、作戦は失敗に終わった。電磁柵を破り、羽化した使徒に対し、即時殲滅の命令が出されるが、目標は消滅。

 第8使徒・サンダルフォン。硫黄の使徒。

「使徒は波と粒子の性質をもっている−−極小レベルで存在形態を変えることが可能だった、てことね。いったん発現したら消えたりしないと思っていたのが間違いだったのよ」

 再び現れた使徒は、第二新東京を壊滅に追いやった。

 使徒は自失していた。

 なぜ、生まれてきたのか。

 なぜ、彷徨わなければならないのか。

 なぜ、この身体は崩れていくのか。

 ドグマ最深部−−綾波レイたちのゆりかご。LCLの中、少女たちは永遠に微笑み続ける。告げられた「思い」を共にいだきながら。深まりゆく思慕に、ふくらみ始めた胸をふるわせながら。

 かれらはそれを見た。硫黄の使徒と融合し、水槽を破壊して初号機に迫る綾波レイたちを。

「パイロットの心理グラフに異常発生!」

 いつパレットガンを撃ったのか、覚えていない。ただ、溶け合う心が、怖かった。

 第八使徒殲滅後、零号機は活動停止、結局はレーザーカッターでプラグを開口するしかなかった。零号機、初号機ともにパイロットは重度の心神喪失と報告された。

 

***

 

 第九使徒・マトリエル。第三新東京が停電によって機能停止した中での戦闘。

 作戦指揮にあたるべき葛城ミサトは、エレベータに閉じこめられていたことが後日判明。サボタージュの犯人は不明。

「完成体は存在しない、そう碇司令は言った」

「何よ、それ?使徒とアダムが接触すれば、サード・インパクトが起きる−−それも欺瞞だというの?それじゃ、サード・インパクトの発動条件って?」

 闇の中、ミサトは銃口を加持に向けたまま詰問した。

 

 その時、少年は時計の停止した街を、必死の思いで駆けていた。

(会いたいんだ)

 今、レイの心が全力で走り続けているのを感じる。

(ただ、それだけなんだ)

 少年と少女は幾度も倒れた。それでも、互いを激しく求めて駆けていった。

 きっと会える。レイは願い続けた。

(あなたを、抱きしめたくて)

 今、シンジの心が全力で走り続けているのを感じる。

(肌を重ねたくて)

 静止した闇の中、近づく足音。一瞬の逡巡。

 やがて、二つの吐息は重なり、少年と少女は震える声でいとおしむように名を呼びあう−−幾度も。

(綾波!)

(碇くん!)

 シンジは暗闇の中でレイの手をとり、崩れるように抱き合った。空調システムが切れて、走りづめだった少年は汗まみれだったが、抱き寄せた少女はひんやり冷たかった。とても哀しくて、声が震えて、涙がとまらなかった。

 

 先行して出撃したのは、アスカだった。

 マギの維持システム付近での大爆発を避けるため、ニードルガンを使用するも、弐号機本体から電力供給を行ったため、発射後エヴァ本体は沈黙を余儀なくされた。遅れて現場にたどりついた零号機は、瀕死の使徒の自爆を未然に防ぐため、使徒本体を原形をとどめなくなるまで破壊。

(何すんのよ!やめなさいよ!)

 流れ弾による弐号機の損傷は軽微だったが、パイロット間の意志疎通には問題を若干残した。

 

***

 

 定例のミーティング。伊吹マヤがエヴァの運用に関する技術情報を説明していた。

「何か質問はある?」

 シンジがおずおずと手を挙げる。これまで、有無を言わさずエヴァに乗せられてから、言われることに従うことが多かったシンジだったが、ここの環境にも慣れたようだった。あるいは、それは自分の置かれた状況と積極的にかかわり、未来を切り開こうという気持ちの表れなのかもしれない。レイは黙って資料を読んでいる。アスカは弐号機の補修作業を自らの目で確かめるのだと言って、早退してしまった。

「エヴァは、生命体なのに電気で動くんですか?」

「うん...ちょっと説明が難しいんだけど、シンジ君たちパイロットがいないと、エヴァは動くことはできない。その意味では、完全な生命体とはいえないの。それと、エヴァにとって、電気は動力そのものというより、一種の発振装置を動かすためのものなのよ。心臓のペースメーカーってあるでしょ?確かに、コンピュータの回路や補助動力もたくさんエヴァの中には埋め込まれているけど、エヴァ本来の力を引き出すためには−−」

 コア、と言いかけてマヤは言葉を選びなおした。

「−−中枢部分に高出力の振動を与えてやる必要があるのよ」

 レイがふと顔を上げ、シンジの方を見た。その時、一瞬だけ、これも書類から目を離したリツコと、視線がぶつかる。マヤがそれに気づき、言葉を切りかけたが、リツコは何事もなかったように再び書類にもどっていった。

 

***

 

「...次は、第二新東京交響楽団の解散のニュースです...」

 葛城家のリビング。何気なく見ていたテレビに、シンジは思わず息を止めた。

「どうしたの?」

 レイが小首をかしげた。

「うん...先生の家にいたころ、何度か聴きに行ったことがあるんだ。小さい頃に、チェロを始めたって、前に言ったっけ?」

 レイは首を振った。青みがかった銀髪が揺れた。

「何となく、言われて練習してただけだったけど...僕も、ああいうところで弾けたらいいな、って思ったこともあったんだ...おかしいよね」

 レイはじっと伏し目がちなシンジの表情を見つめた。

「寂しい?」

 レイの言葉は、微妙なイントネーションだった。問いかけなのか、あるいは何かを確認しようとしたのか、シンジはとまどった。けれども、こうして言葉をかわすことは、とても貴重な時間に思えたので、シンジは言葉を繋いでいった。

「そうだね。楽団の人が文化祭に話しに来てくれたこともあったし...身近な感じがしてたんだ」

「消えてしまうのは、寂しいことなのね」

 シンジははっとして顔を上げ、レイを見つめた。恋する思いが、また新たに激しく湧きあがり、のど元につかえて言葉をふさぐ。

 そうだよ...だから、自分には何もないなんて...「さよなら」なんて...もうどこにも行かないで...綾波...

「聴きたい...」

「えっ?」

「碇くんの、チェロ」

 

***

 

 少女は疾走していた。

(ママ!)

 わき目もふらず。

(ママ!あたし、選ばれたの!人類を守るエリートパイロットなのよ!)

 きっと、あたしを見てくれる、そう信じて。

(ママ!だから、寂しくなんかないの!)

 一直線に、希望にむけて駆け抜けた先にあったもの。開いた扉の向こうで揺れていた白い影。

 寝汗をシーツが吸って、悪寒がする。指の爪が、手のひらに食い込んでいた−−それなら、叫び声はあげなかったってことね、そう思ってアスカは鉛のようなため息をついた。全身の筋肉が硬くひきつっているようだ。半身を起こしてはみたが、顔の前に幾房も垂れている乱れ髪をかき上げるまでは、もう少し時間が必要だった。

 第10使徒・サハクイエル。

 疾走するエヴァ三機。とどめはアスカの攻撃。

 完勝だった。なのに、どうして今になって思い出すの?

 

***

 

「おかしな話ね?」

 リツコは眼鏡を外してテーブルの上に置くと、ぼそりと言った。

「センパイがマギの中枢部分をリプログラムしたのは事実です。ですが、これが<使徒戦>と呼びうるものなのかは、判断できません」

 並行世界...その言葉をリツコは飲み下した。認識不能なことは語り得ないものだ。

「チルドレンを含む皆の記憶に不整合が見られる上、ATフィールドを含む諸事象の記録にも矛盾がところどころあります。カスパーのみ使徒侵入の記録を残していますが、他の二体は回答不能です」

「委員会がうるさく言いそうね」

 あの人なら、どうとでも切り抜けるだろうけど−−リツコはマギのメインユニットを見上げると、続いて視線を下に落とした。

 ここから、母さんは身を投げたんだっけ?

(赤木君、私には君が必要だ)

 そう言われてあの人に体を委ねたとき、墜落した母さんの輪郭を示した検死の白いペイントが、なぜか頭をよぎっていった。

 今でも、それだけは頭を離れない。

 

***

 

 補完委員会の会議は終わり、碇ゲンドウのホログラムが消えた。薄闇の中で、老人たちの毒気を含んだ声が絞り出される。

「使徒の襲来に関しては<判断留保>...それが、監査役からの報告だ」

 粘つく舌先が絡んだような音声を老人の一人が発した。

「困るのだよ、それでは。シナリオにこれ以上の修正は許されんのだ」

 そして生身の人間が発しているとは思われぬ、平板な声。

「ならば、儀式を−−」

「命名を−−」

「第11使徒・イロウル。神の御名のもとに遣わされ、青き土より出ずる堕天使の手によりてここに滅ぶ」

 続いて老人たちの会合は、今は知る者とてない古代語の呪符の織り重なる唱和と化していった。

 

***

 

 影たちが去った後、ただ一人残った老人はバイザー越しに聖なる石板を凝視する。「神狩り」を極限まで試みた哲学者の言葉を繰り返しながら。

「福音は世界を満たす。世界の限界は福音の限界でもある」

「神学とは、世界記述に必要とされる真なる命題の全てを、一つの計画に従って構成しようとする試みである」

「生の問題の解決を、ヒトは問題の消滅によって気づく」

 死海文書が、また活動を始めていた。緑水晶のタブレットは淡い光を放ち、老人の眉間に開いた第三眼に、新たなグノーシスを送り届ける。

「何を考えている、碇?」

 

<つづく>

2004.6.7(同6.12改訂;2005.1.11改訂;2008.2.29オーバーホール)

Hoffnung

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