Eva -- Frame by Frame --

 

<第15話 名もなき夜の標べに>

 

「山...重い山...時間をかけて変わるもの」

 レイは独りつぶやいた。夕暮れのベランダ。朱に染まった西の空に、薄墨がつづれに織り込まれていく。

 太陽...一つしかないもの。

 碇くん。

 一人だけのあなた。

 時...うつろい、やがて終わるもの。

 これは誰?...これはわたし...わたしは誰?...わたしは何?

 たなごころを、鏡でも見るようにレイはのぞき込む。

 わたしは自分。この物体が自分。自分を作っている形。

 本当に?

 夜が訪れる。世界が眠りにつく。わたしがかすむ。わたしの形が消えていく。ただ約束の時を、無に帰ることを望んでいたはずなのに。

 今は怖いの。

 

***

 

 ライトの落ちた薄闇を、男が一人歩いていく。

 機器類のメータやランプが放つ光は、広大な空間を照らし上げるにはあまりに弱く、エヴァのケージへのブリッジが平坦な直線でなければ、碇ゲンドウにとってすらいささか困難な路であったろう。

 ゲンドウの見つめる先では、エヴァ初号機が胸から上を冷却液の中からのぞかせていた。虚ろな闇の中にあってすら禍々しさを放射し続ける魔神にむかって、ゲンドウは声をかけた。

「明日、会いにいく。これが最後の墓参だ」

 

***

 

「−−てことは明日ひまなのね?」

 掃除の手を休め、ヒカリが目を輝かせた。悪気はないが、企みの気配。好天の約束された週末を前に、浮かれ気分の生徒たちが、じゃれ合いながら下校中だ。

「残念ながらそういうこと」

 あこがれの加持サンはいずこやら。バカシンジはあてにはならぬ。アスカはふくれた顔を作った。

 教室の隅では、綾波レイがひざを折って雑巾をしぼっている。少しだけ、クラスの人間とも会話が成り立つようになってはきたが、周りも積極的に話しかけるまでにはなっていない。そこだけ一人、浮かび上がるように、場違いな真剣さで細い指先に力をこめる。

 こぼれる水滴にレイはじっと見入っている。

 葛城家では当番制で掃除をしているので、レイが掃除をするのは初めて見た。案外、エプロン姿も似あうかもね−−アスカは思う。

 しかし、そのレイをぼーっと見つめているシンジに気づくと、突如としていらだたしさが込み上げてくる。ホウキを持つ手も休め、鈴原トウジに面を一本とられても、ぼんやり顔は相変わらずだ。

(こ〜の〜お子様があ!)

 会ったこともない男の子とのデートにOKと言ってしまったのは、ヒカリの懇願のせいだけではなかったかもしれない。

 

***

 

 遠くで、昼下がりの鐘楼が響きわたる。

 京都郊外。廃棄された工場跡。シミの浮いた壁ごしに、対峙する二人。

「マルドゥック機関...エヴァンゲリオン操縦者選出のために設けられた人類補完委員会直属の諮問機関...」

 いつになく真剣な加持の口調だった。今度も、収穫はなかった。ダミー会社がまた一つ、確認されただけ。マルドゥック機関に実体がないことは、もはや疑いのない事実だった。

「貴様の仕事はネルフの内偵だ。マルドゥックに顔を出すのはまずいぞ」

 そうは言っても、チルドレンこそが「謎」の核心にいたる道に思えてならないんでね、と加持は思う。額の汗を軽くぬぐうと、いつもの調子にもどって毒づいた。

「ま、何事もね、自分の目で確かめないと気がすまないタチだから。そりゃそうと、ネコにえびせんはヤバいんじゃないか?クセになっても困るだろ」

「余計なお世話だ」

 そう言い捨てて、女は買い物袋を手に歩き去っていった。

 

***

 

「確かに、制御技術の未熟さが問題ね」

 ディスプレイを見て、リツコが言った。

 技術部では、先の使徒戦−−まだ不明の部分は多かったが−−で、ミクロレベルの使徒が侵入したと思われることをふまえ、ナノマシンの兵器への転用を新たに検討しているところだ。ネルフを去った潮マドカが置いていったモデルを原型に、マギのサポートを得て新たな設計を模索中だった。

 示されたプランの一つ−−ナノテクによって、劇症型のレトロウイルスとしてはたらく擬似生命体を作り、目標を殲滅。マギはこれまでの使徒のサンプルにも対応できるような組成を、何通りかあげていた。

「陰湿な兵器ですね」

 マヤが重苦しい声で言った。生体組織に対しての予測される効果を確認しながら、軽い吐き気をおぼえる。

「陰湿じゃない兵器なんてないわよ。核兵器が<爽やか>ってわけでもないでしょ?さ、今日はここまで。明日は半日、マギのお世話をお願いするわ」

 披露宴...何を着ていこうか?鯨飲を生き甲斐とする旧友・ミサトに比べれば、体型の維持は完璧の域にあるリツコだったが、毎度同じドレスを着ていくわけにもいかない。

(こうたて続けだと、祝儀もばかにならないしね)

 虚礼をただ虚礼というだけの理由で拒みたくなる年頃は、彼女もとうに過ぎていた。とはいえ、まさか祝儀を研究予算で落とすわけにもいかない。物いりに悩むのは、科学の申し子とて変わらないのであった。

 

***

 

 その数日前−−

 第一回機体互換試験。被験者は碇シンジ。

 

「精神汚染が始まっています!」

「まさか。このプラグ深度ではありえないわ!」

「プラグではありません...エヴァからの侵食です!」

 零号機が苦悶する。パイロットの状態はモニタ不能。

(エヴァが、シンジ君の人格を消去しようとしている?)

 リツコは戦慄をおぼえる。補助電源のカウンタはゼロに近づこうとしているが、暴走したエヴァが止まる保証はなかった。

 

(だめなのね、もう...)

 突き出された零号機の巨大な拳を前に、レイの小さくかすれた声を聞く者はなかった。

 

(零号機が殺したかったのは、私ね...間違いなく)

 リツコはエヴァが放射する強烈な「殺意」を肌で感じとった。一瞬の回想。

 

たくさんの零号機たち

廃棄された欠片

嫉妬のおぼえようもない、「彼女」

発現した、魂

形質の固定

少女の形をした容器

 

なぜ、生まれてきたのか

 

 零号機のコアには、人格は封じられていない。そこにあるのは、リリスの心の欠片。レイとのシンクロは、正確には不完全な心どうしの相互補完といえた。そして零号機とシンクロするためには、パイロットの「自我」は欠落の多いほうが望ましい。初めての起動実験で暴走が起きたのは、マギによる補正システム上の問題だと思っていた。

(けれど今、パイロットたちは、空虚とはほど遠い心を持とうとしている)

 零号機にレイが乗れなくなる時も、遠くはないだろう。

 どのようなシナリオをとるにしても。

 

***

 

 宮里ナオト・戦自一尉は私用の携帯を出し、たった一つ登録してある短縮番号を押した。

「ああ、ミチルか?おれだ。明日帰る。チビたちは?」

 受話器の向こうのたくさんの声を確かめながら、宮里は何度もうなずいた。

「メシはありあわせでいい。むだ遣いはするなよ」

 

***

 

「ちょっと止めてくれないか」

 エンジンは切らせずに、初老の男は車から降りた。護衛が一人、つかず離れずの位置で立っている。

 寂れた、ほとんど廃墟といってよい区画だった。空き地だが、区画整理もされず、雑草が高くのびている。空き瓶だろうか、草の間からときおり鈍い光が放たれる。

 こんなに狭かったかな−−冬月は空き地をながめながら、思案した。見ると、奥の方に、古井戸が残っていた。ポンプは錆びつき、水を汲み上げることができるかどうかわからなかったが、その周囲だけ雑草が抜かれ、粗末ながらも花壇が作られていた。だれかが慰みに作ったものだろう。

 もうこの辺にも、知った者はいない。セカンド・インパクトの後、みな移転したはずだ。

 隣の、廃屋となった家の門口には、夾竹桃が育ち放題になっていた。花の盛りは過ぎていたが、まだ残る濃い桃色の花は、ともすればホワイトアウトしそうになる風景の中で、そこだけ目に鮮やかだった。

 その周りを、まだ色づくまえのトンボが、陽光に溶けそうになりながら舞っている。茜色に染まるには、まだ少しの時が必要だろう。

 時は、過ぎる。命は、繋がれる。だが、ヒトという生き物は、その連鎖から外れてしまった。個体レベルでは、こうして生家の跡にしばし佇むことで、いくばくかの癒しを感じることもできる。しかし種の発展というレベルでは、もう行き場がない。

 それゆえ、ゼーレは全人類の融合を計画している。

 おれはそれを望まない。しかし、打てる手には限りがある。これまでのイレギュラーからすれば、碇ゲンドウはシナリオを繰り上げようとするだろう。そして、ゼーレも。思いに沈みながら、冬月は自分の体もまた、昼下がりの日射しの中でホワイトアウトして消えてゆくのではないかという幻想にとらわれた。

 お時間が、と促されて、冬月はわれに返った。

 去り際に、肩越しに見た夾竹桃は最後まで鮮やかだった。

 

***

 

 少女はただひたすらに、空を見つめていた。

 どこまでも青い空は、眺めていると心を連れていかれそうになる。レイはただ空の青へと身をゆだね、ベランダに細い身体を軽くあずけていた。おのが身を遠い空の彼方へと溶かし、拡散させるかのように。

 シンジはその背中から声をかけようとして、不安に襲われる。ほんとうに、彼女がこのまま光の粒となって消えていってしまうのではないかと。

「あ、綾波...」

 少女は答えない。ただ、その背に想う人がいることを感じて、こころもち体の線をやわらげる。シンジはこころもち距離をおいて、レイの後ろに立った。蒼い銀の髪と、白いニットのサマーセーターに包まれた、あまりに華奢な両肩。

「綾波?」

 レイは振り向かず、なおも顔を上にむけて、深みをたたえた青一色の空を見つめている。

 シンジもまた、何も言わずいっしょに空を見つめた。

 

 この街に来たとき、陽炎の中に浮かんでいた少女。幻だったといえばそれまでだけど...他の誰でもなく、あれは綾波の幻だった。

(絆だから...)

 第5使徒との決戦のとき、彼女はそう言った。

 どうして僕はエヴァに乗るんだろう。

(よくやったな、シンジ)

 第10使徒を殲滅したとき、父はそう言った。

 違う。

 僕がエヴァに乗るのも、絆だから。綾波がそこにいるから。

 今でも、あの映像が不意によみがえることがある−−ドグマの底、崩れていく幾多の綾波レイ。

 あの「もの」たちは自らの意志をもたない存在だった。人形...いつかアスカが冗談まじりに言って、異常なまでの反発をレイがしたことがあった。だが、使徒と融合して崩れていったあの「もの」たちは、まぎれもなく人形だった。

 彼女は、違う。

 綾波は、一人だけだ。触れあい、温もりを感じ、微笑みをかわし、死力を尽くして戦い、日々の小さなことを重ねながら、共に生きていけるのは、ここにいる彼女だけだ。

 ならば、ドグマの底に造られていた「もの」たちは?綾波になれなかったもの、自分の意志とは無関係に、彼女がそうであったかもしれないもの?

 悲しすぎる。

 いったい、何をしていたっていうんだ−−父さん。

 

 ようやく陽が落ちかけようとしている。少し、日が短くなったのかな、そうシンジが思った時、不意にレイの背中が揺れた。え?とシンジが言う間もなく、レイは体の力をふっと抜いて、後ろに立つシンジにその細身をあずけた。

 シンジは反射的に少女の体を受け止める。レイはシンジが受け止めてくれると信じて、ごく自然に身をまかせたのだった。シンジはそのまま、レイの両肩に手を置いて後ろから抱きかかえる形になった。

 レイはなお朱のさし始めた空を見上げながら、肩を支えるシンジの手に自分の指先を重ねた。少年の存在を確かめるように、レイは指先に軽く力を加える。

 時が、止まったように、二人は寄り添った。

 やがて、レイの唇から言葉がこぼれる。

「空って...きれいだったのね」

 

 人の気配の消えたリビングでは、一部始終の唯一の目撃者たるペンペンが、腕組みをしながら、クウ〜ッ?と哲学をしていた。


 

Episode 15: Because the Night Belongs to Lovers, Because the Night Belongs to Us.

 


 翌日−−

 今日も晴れそうだな−−それも強烈に。ダイニングテーブルに頬杖をつきながら、一日の予定を頭の中で確認した。

 ポットのお湯がぐつぐつ沸き立っている。

 訓練はオフだ。僕だけ午前はメディカルチェック。

 お昼は、綾波が留守番の間に準備してくれる。できれば、宿題を進めて。

 そこまで思って、気が重くなる。

 一年に一回の、特別な日。虚しさを、確かめる日。

 と、背後に少女の気配がした。

「綾波、おはよう」

 振り向き、いま、紅茶入れるから、と言って立ち上がりかけたところで、レイの後ろのもう一人の人影に気がついた。

「あ、アスカ、おはよう...」

「Guten Morgen、Baka-Shinji!」

 胸を張り、誇張した発音でそう言うと、少女はずいと前に歩み出て、ダイニングの椅子にあぐらをかいた。シンジはあわてて立ち上がる。

「こ、紅茶でいいかな?」

「Nein!」

 かなり機嫌が悪そうだ。

「Milchkafee!Ima-sugu!」

 ううっ、それって、カフェオレだよな...けど、アスカのことだから、豆もいつものブレンドじゃだめとか言いそうだし...などと思いを巡らせてキッチンで棒立ちになるシンジをよそに、レイはすいと紅茶ポットを取った。きっちり定量の茶葉を入れると、しゅん、という音とともに沸いたお湯を注ぐ。

「あ、ごめん」

 シンジは手をかそうとするが、彼女は小さく首をふり、ポットの湯が紅く染まっていくのを静かに見守っている。その横顔にシンジはカフェオレの準備をする手を止めて、控えめに微笑んだ。

 このごろ、ほとんど日課と化した「二人きりの世界」を前に、アスカがまたしても拳をぐぐっと握りしめたのは、言うまでもない。

 

***

 

「じゃあ、行って来るわね」

 淡い緑のワンピースに麦藁ふうの帽子。アスカといえば、真紅のプラグスーツとエヴァ弐号機があまりに鮮烈に印象に残っているので、最初は意外だった。しかし、あらためて見れば、ライトブラウンの髪が服地に映えて、おとなしい色合いの服には、すらりと伸びた肢体がかえって引き立って見えた。文字通り、「最強の」美少女がそこにいた。

 見ると、アスカの足首にはブレスレットのような金色の鎖が巻かれている。シンジは不思議に思って、ついついたずねた。

「アスカ、それ、手にするんじゃないの?」

 ブチ、と血管のキレる音を、シンジは確かに聞いた。

「あああんたぁ、バカぁ?!これはねえ!」

 アンクレット、と教えてやる気にもなれず、バタム、という効果音とともにアスカは家を出た。その姿を、シンジはぽかんとした顔で見送った。キレる前には、ねえ見て見て、と言ってはしゃいでいた姿を思いだしつつ。

(アスカって、怒ってなければ、ほんとに綺麗なんだな)

 

***

 

 しばしの後−−

「じゃあ、すぐ帰るから、レイのお昼ご飯、楽しみにしてるわぁ」

 今日の献立は、冷麺風スープパスタ。トッピングを肴にビールをぐびりと飲み干す瞬間を想像して、へらへらと笑いながらミサトは軽く手を振った。

「行ってらっしゃい」

 レイは相変わらず、言葉少なげに見送るだけだったが、シンジとミサトを見送る表情は柔らかい。

 

 ミサトのルノーに乗り込む。エアコンが悲鳴をあげる中、車が出た。へらっとした笑い顔は、もうない。

「シンちゃん、あなた−−」

 公道に出て、直線に入ったところでアクセルを踏み込む。

「レイとキスくらいしたの?」

 どひゃっ、と助手席のシンジは態勢を崩す。飲み物でも飲んでいれば、吹き出していただろう。

「な、何を言うんですか、ミサトさん!」

「レイは、オッケーよ。あなたが望むなら、最後までいくでしょうね」

 からかう調子は、みじんもない。シンジはそんなミサトを訝った。

「でも...」

「時間がないのよ」

「え?」

 車がトンネルに入った。ミサトの横顔がLCLの色にたそがれる。

「使徒が−−」

 シンジも「使徒」という言葉に真剣さを取り戻した。

「また、いつ来るかわからない、ってことですか?」

「違うの!」

 そう言ったミサトの声は、シンジが初めて聞く、陰惨なトーンを帯びていた。

「あなたは、使徒がこれから永久に襲来し続けると思ってる?」

 ミサトが切ったカーブは、キレが良すぎてシンジの体はドア側に一瞬、押しつけられた。

「いえ、そうならないことを願ってますけど」

「使徒の数はねぇ...有限なのよ。それもどうやら、あと数体。けれど、使徒退治が終わっても、あたしたちは解放されないらしいわ。だから−−」

 ミサトは言葉を切った。効きすぎのエアコンのせいだけではない。シンジはなぜか冷え冷えとした感覚をおぼえた。

「−−時間がないのよ、シンジ君。その時、あなたたちがどうなるか、あたしにも予想がつかない。そして、あなたがどんなに頑張っても、レイやアスカを守り切れる保証はない。もしかしたら、二度と会えなくなるかもしれない。わかるわね?自分の気持ちに正直になりなさい。後悔するようなことはだめ。思い出に、肉体はないのよ」

「...はい...」

 そう、思い出に、肉体はない−−ミサトは自分の言葉を頭の中で繰り返した。確かに、そうだ。父の暖かい胸に顔をうずめることも、もう決してできない。

 ドグマ最深部の白い巨人。それは第一使徒アダムですらなかった。ユリア・ハンナヴァルトは確かに、リリスと呼んだのだ。そしてレイのクローンが大量に造られていた事実。「槍」の回収を終えたネルフ総司令・碇ゲンドウ、さらにはその上位組織である「委員会」が、使徒殲滅すらその一部でしかないような大いなる計画を進めていることはほぼ間違いない。

 シンジもまた、なにげない日常の真ん中に、不意に口を広げる深い闇を痛いほど、いやまさに自分自身の痛みでもって、思い知らされてきた。

 時間がない。

 時間がない。

 綾波と、会えなくなる時がくる?いったい、なぜ?

 シンジはうつむくしかない。

 「だから、ね?」

 車はトンネルを出ていた。いつもの口調にもどって、ミサトが軽く言う。

「こういうことは、男の子からリードしてあげないとねぇ、シンちゃん(ぐふっ)」

 

***

 

「しかし、新欧州連邦からわが国に戦自の増強を要請してくるとは」

「合衆国に貸しを作るつもりでは?彼らは駆け引き上手ですから」

 官房長官は外務官僚上がりらしい見解を述べると、本題はこちらとばかりに、ぶ厚いファイルを首相の前に置いた。

「ネルフに送り込んだ調査員からの報告書です。ジオフロント及び大深度施設の見取り図が主な内容です」

 首相は憮然とした表情で資料に目を通した。瓦解前の政府内では、情報公開を迫るべく、法的整備を進めていたそうだが、頓挫していたことは最近になって知った。

「結局、その内調の者に頼るよりほか、なさそうだな」

 日本政府は知らない。切り札たる加持リョウジが、第8使途による首都破壊の混乱にまぎれて他の密偵を「排除」していたことを。上がってくる情報は、彼が独自の活動を続ける妨げとならない限りにおいてのみ事実であることを。

 

***

 

(ったく、三十路前だからって、どいつもこいつも焦りやがって)

 衣装を選びながら、ミサトは内心で毒づいた。昼食のビールもシャワーで抜けていた。披露宴は3時から。近場とはいえ、ギリギリになりそうだ。

 きりりと白一色の下着で身を引き締めるのは、武人のたしなみ。

 と思ってはみるが、今日はネルフ作戦部としての公式の外出ではない。勝負下着、というもはや死語となった言い方を思い出しながら、ミサトは少し前に通販で買った輸入ものを取り出した。

 それから少し思案して、長い間しまってあったラヴェンダーの香水に手を伸ばす。

(焦るのは、トシのせいだけじゃないのかもね)

 

***

 

 列。果てなくつづく、墓標の列。

 夕暮れというには、まだ少し早い昼下がり、苛烈な日射しが見渡すかぎりの広大な共同墓地をなぶっていた。墓標はみな一様なデザインで、均等な間隔で立てられている。彼方までつづく、白茶けた土地に落ちる墓標の影は、どこまでも等しい角度、等しい間隔だった。それは巨大な幾何学模様を思わせた。

 <IKARI YUI 1977-2004> と刻まれた墓標には、小さな花束が捧げられていた。

「三年ぶりだな。二人でここに来るのは」

「僕は...あの時、逃げ出して...その後は来てない。ここに母さんが眠ってるって...ピンとこないんだ。顔も覚えてないのに」

「人は思い出を忘れることで生きていける。だが−−」

 そう言うと、ゲンドウは言葉を切った。シンジにも今はわかる。人には決して忘れてはならないこともあることを。僕にも、かけがえのない存在がある。

 父の表情は、よくわからない。ただ、単に追憶をなぞるだけでなく、何か強い意志を秘めた沈黙であることは、シンジにも感じられた。ゲンドウへの不信−−あるいは反発−−は消えたわけではなかったが、シンジは今の自分の気持ちを精一杯に言葉にしたいと感じた。あるいは、決別のために。

「あの...今日は、父さんと話ができてよかった...僕もエヴァに乗って、すごく辛い時もあったけど、少しだけ変われたと思う。今は自分のすることに、意味があるって思えるような気がする」

 父の答えはなかった。砂塵が二人の間を通り過ぎる。やがてゲンドウが低い、こもった声で言った。

「人生に意味はない。ヒトは意味もなく生まれ、意味もなく死んでいく」

 それは彼にとっての真実だった。シンジは何かを言いかけたが、陽光の中を自らも墓標のように立ち尽くす父の姿を前に、口をつぐんだ。

(だから、意味を創り出すのでしょう?)

 そう言って微笑んだユイの面影がゲンドウの脳裏をよぎる。君がいる間は、確かにそれができた。だが、あの時から、それは不可能になったのだ。

 そのための、補完計画。

「シンジ」

「え?」

「私にはなすべきことがある。そのために生きている」

「う、うん」

「だから、お前も−−」

 シンジはゲンドウを見上げる。逆光で眼鏡の向こうの表情はうかがえない。

「−−自分の足で立って歩け。もう私の背中を追うな」

「父さん?」

「時間だ。先に帰るぞ」

 

***

 

 「でんでん虫のルンバ」の斉唱が終わった。披露宴の2次会となれば、しだいに無礼講と化すのは世の常、赤木リツコに迫る命知らずの男まで出てくる。

「あ、あ、赤木さん!」

「何?」

「お、お、お、覚えてますか、ボクのこと?」

「知らないわ」

 本来ならここで氷の一瞥とともに、たいがいの男ならば震え上がって後ずさりするのだが、この男は違った。とはいえ、同学年なのにタメ口がきけないのは、リツコの発するオーラのゆえであろう。

「あ、あの、学園祭の時、サークルの出し物を土壇場で手伝ってくれたじゃないですか」

 自然科学系サークルの幽霊部員だったリツコだが、そういえばそんなこともあったかしらん、と思い出す。

「すっごい、綺麗でした。赤木さんの溶接面!」

 聞けば、その後、製鋼会社に入ったのだそうだ。男の讃辞はなおも続いた。下らない口説き文句でも並べようものなら、立ち上がれないくらい叩きのめしてくれようと思っていたリツコだったが、ひたすら工学的な賛美を投げかける「鉄の男」を前に、やがて彼女にしては珍しい、脱力気味の笑顔に変わっていった。

 

 宴もたけなわとなったころ、酔いのまわった女性がマイクを握る。フリル豊かなアイドル風ドレスをまとった彼女を見て、なぜか新婦の眉が片方だけピクリと動いた。

「えっと〜。あたしはリエコと高校と大学でいっしょでしたぁ。高校のころから文芸サークルやったりしてて〜、そんで今日は新郎さんが知らないリエコということでぇ、昔の<ポエム>が載った同人誌をもってきましたぁ!ちゃん!」

「げろっ!」

 新婦リエコの手からグラスがずり落ちた。

「ユ、ユミ、や、やめなさいってば!」

 彼女は元サークル仲間に脱兎のごとく迫った。

 

「マイナス・ゼロの夜明け あなたは振り向かない

 これは愛の終わり? 時を遡ることはできないの?...」

 

 おおおっ、とあまりのクサさに新郎新婦の友人一同が声をあげる。

「いやあああっ!!」

 半狂乱のリエコ。旧友は子鬼のようにぴょんぴょん跳ねて逃げ回りつつ、続きを読み上げる。

「んなこと言って、昔の男関係をバラされるよりかいいでしょ?」

「そっちの方がよっぽどましよっ!」

 ここでまた、おおおっというお約束の囃し声。だが、掟破りはユミだけではなかった。酔ってつぶれかけた男がふらふらと立ち上がって叫ぶ。

「ぼ、ぼくぅ、学園祭の打ち上げの晩に、リエコさんとえっちしましたぁ!」

 あちゃあ...とポエムの朗読が途切れるユミ。新婦リエコはしかしそのスキを突いて、ついに昔の恥かき同人誌の奪取に成功した。テーブルごしに、にらみ合う旧友二人。

「ゼィゼィ...覚えてなさいよ!」

「ハァハァ...ユミたん健忘症なのん」

 さらなる成り行きを怖れた司会がとにもかくにも、ここは場を取り繕う。もっとも、ほとんどの者は酔いもまわり、何が起きても気にとめない。ネルフ三人衆も、それぞれの思いをかかえてグラスを傾けていた。

「ええ(汗)、宴もたけなわではございますが(ため息)、ここはそろそろ(ゼィゼィ)、新郎新婦には初夜が待っておりますれば(ハァハァ)...」

 堅気のリーマンとおぼしき新郎を取り囲んでいた友人たちは、さっきから茫然自失状態だったが、ここでいっせいに顔を見合わせる。

「初夜...」

「初夜..?」

「初夜..!」

「ぐはははははははははははははははははは」

「ぐはははははははははははははははははは」

「ぐはははははははははははははははははは」

「「「それ行け!かそくそーーーーーーーーーうち!」」」

 

***

 

 シンジが帰ってきた時は、ちょうど夕暮れ時だった。

「ただいま」

 そう言って足元を見る。レイの靴が隅にきれいにそろえて置かれていた。だが、彼女の声がしない。そっとリビングに入ってみると、レイはソファにもたれてまどろんでいた。

 レイはこころもち体を傾けてうつむいたまま、寝息をたてている。傍らには読みかけの文庫本。大人が見れば、あどけない童女のような、という形容をしたかもしれない。だが、その姿を、シンジは心底美しいと思った。

 透き通るような白い肌に、射し込む夕陽が映えている。じっと見ていなければわからないほどに、肩が小さく上下する。そして、レイの呼吸は思いのほか小さく、浅かった。

 儚い、とシンジは思った。こんな少女に、人類の命運を押しつけるなんて。それを言うならアスカだって、万能の天才だけど、一人の人間だ。そして自分が非力であることも、よくわかっている。

 何かが、狂っているのかもしれない。いざ使途戦となれば、勝って生き延びることだけを考えてきたが、ネルフという組織が、ひいては自分たちが今置かれている世界が異常なものではないかという思いにとらわれる。使徒戦という究極の異常事態のただ中にあって、シンジはそのことに直感的に気づき始めていた。

(時間がないのよ、シンジ君)

(私にはなすべきことがある)

 僕だって、やることがある。

 シンジは大人たちの交錯する思惑を頭の隅に押しやりながら、レイにかけてやろうとタオルケットを取りにいく。ここにいる綾波を大切にしたい。翳りゆく部屋で一人まどろむ少女の安らぎを、壊したくない。

 レイが目覚めるまで、宿題でもしようかとシンジは思ったが、薄闇の迫ってきたリビングで灯りをつけずにものを読むのは、ちょっと難しかった。それに、彼女の寝顔を見ずに本を読むなど、ムリだ。

 シンジは台所に行こうと、そっと立ち上がった。そのとき、レイの足元に鈍く光るものがあるのに気づく。

 かがんで見ると、粗末な作りのぬいぐるみだった。モコモコしてるけど、クマかな?シンジは思案する。片方の目玉がほつれて落ちかかっているので、ちゃんとついている方だけが光を反射したのだった。どこからやって来たのだろう、シンジはくすっと笑った。

「いま、ご飯作るからね」

 

***

 

 ざっと下ごしらえを済ませて、リビングに戻る。すっかり暗くなった部屋の中で、レイはぬいぐるみを膝にのせてじっと見つめていた。

「綾波?」

「...おかえりなさい、碇くん」

「ごはんの準備したから。それは、どうしたの?」

 レイはわずかに間をおいて小声で答えた。

「落ちてたの」

 近くに買い物にでも出たときに、見つけたのかな、そうシンジは合点した。古びたようすからして、たまたま落としたというよりは、捨てられていたのかもしれない。

「可愛がってあげようね」

「え?」

 レイは反応のしようがないかのように聞き返した。

「うん、うまく言えないけど、何かかわいそうだよね。いらないから棄てるのって」

(僕は、いらない子だったから)

 その思いを、シンジは胸の奥に封じた。少し前までなら、声に出していたかもしれない。けれど今は、違う。

 レイはぬいぐるみを胸にかかえたまま、無言でこくりとうなずいた。

 

***

 

 いつも通りの献立。日々の忙しさで、こいつも料理の腕などみがいているヒマはないだろう−−宮里一尉は思う。だが、どっちにせよ、「家」で食うメシは格別だ。

「チビたちは寝たのか?」

「うん。ビール、もう一本出そうか?」

「ああ、もういい。お前も先に風呂に入って寝ろ」

 娘は満面に笑みをうかべて、宮里にいたずらっぽく迫る。

「一緒に入ろうか?」

「ばか!いくつだと思ってるんだ」

「うふ、25才になりましたぁ。四捨五入したら30よん」

 ギロリ、と娘をにらむと男は「父親」の威厳をもって言った。

「ここの子供たちの母親がわりを良くやってくれてるのは分かる。だけどな、ミチルよ、お前もそろそろ自分の幸せを考えてもいいだろ」

 セカンドインパクトの時、任官して間もなかった宮里は、あの地獄を現場で経験し尽くした。国連部隊への出向を終えて帰ってきた故郷の町も、荒廃していた。微々たる規模だったが、空き家となった実家に孤児たちを引き取り、10数年が過ぎた。

 うちに来たころは、いつも眉をしかめて、びくびくしながら人のようすをうかがっている子供だったな、とミチルの横顔を見ながら男は思う。だが、これなら、どこに持っていっても、そこそこ美人で通るだろう。

 パジャマ越しでも、張りのある胸や、安産型の腰つきは、隠しようがなかった。いい年の娘が、クマのプーさんのプリントのパジャマというのは、いかがなものかとは思ったが。

 そういえば、ネルフはうちの年長組の子供たちみたいのを、エヴァンゲリオンに乗せているんだったな−−宮里の表情が曇る。

「ねえ?」

 ミチルが甘えた声を出した。

「ねえ...お父さんは、奥さんもらわないの?」

 何をきくかと思えば。宮里は苦笑した。年も年だが、昇進も頭打ち、その上ずらりとコブつきだ。

「オレの所になんて、来る女はいないさ」

「それじゃ」

 ミチルは急に思いつめた声になって、「父」の背中に抱きついた。

「あたしをお嫁さんにして!」

 

***

 

 二次会からは、おのずとメンバーが分かれる。けっきょく、葛城ミサト、赤木リツコ、加持リョウジの三人で、流れのままに三次会となった。

 和風パブ、「軽灰戸」。第三新東京市のランドマークビルの上層にある、落ち着いた造作の店だ。

「ちょっち、お手洗い」

 ミサトが立ち上がった。少しよろめくが、加持もリツコも気にかけない。ミサトが姿を消したのを確認して、加持は悪戯っぽく誇張した口調で言う。

「はい、お土産」

 加持は「ワイングロッサリー」という名前の入った手提げを渡した。

「あら有り難う。マメねえ」

「女性にはね。仕事はズボラさ」

「どうだか」

 見ると、「京都市下京区四条堀川西入ル」と店の名が書かれていた。松代の土産でも持参するかと思えば...ウソをついてもしようがない、ってことかしら?リツコはクールに判断した。

 BGMが変わった。アコースティックギターのコード進行を追いながら、加持は詞の内容を思い返す。やがて心持ちしわがれた声のボーカルが入る。

 加持はその曲の歌詞をなぞっていった−−おれは自分に言い聞かせた。これは天国、さもなければ地獄−−他人事じゃないな、本当に。

 2015年になっても、こうして酒のグラスを傾けられるのは、幸いだが。魂を失くしたのは、いつからか。不審顔のリツコをちらりと見やり、加持は曖昧な笑いを返す。

「お熱いわねぇ!」

 ミサトが背後霊状態となって加持に毒づいた。

「なんなら花火でも買ってきましょうか?」

「おかえり」

「変わんないわね、そのお軽いとこ」

「いやあ、変わってるさ。生きるってことは、変わるってことさ」

 自分たちの作り出した仕掛けに囚われて、か−−BGMが諭す。加持は口元を小さく歪めた。

「ホメオスタシスとトランススタシスね」

 リツコがこぼした。何を語ろうとするでもなく。

「おいとまする前に、カクテルでもいこうかしら...モロトフをちょうだい。ダブルで」

「じゃ、おれはシメイの青」

 まぁた気取って、という顔でミサトが加持をにらんだ。

 やがてリツコが去ると、二人だけで何も語らず、過ぎた日々をかみしめるように、加持とミサトはグラスを傾けた。

 第三新東京の夜景が、目にしみる。

 チェックアウトは出来ても、去ることは不可能−−ちょうど、おれたちみたいだな、葛城?

 

***

 

 無伴奏チェロ曲、「名もなき夜のために」。

 ルネサンス期に流布した歌曲のモチーフを、後代の作曲家がアレンジしたものだという。憂愁に満ちた調べだったが、シンジはむしろ透明感ある音色で奏でていった。

 聴衆はレイただ一人。

 少し前に、シンジのチェロが聴きたいと言ったレイの願いが実現したのだった。二人だけの夕食をすませ、手持ちぶさたにしているところに突然、レイからリクエストがあった。最初はとまどったシンジだったが、まっすぐに見つめる紅い瞳を前に、そんな心の壁はすぐに消え去った。

 心を落ち着け、思いを託しながら、音を出す。

 レイはもの静かに聴き入っている。音楽というものに触れたことも、これまで彼女にはほとんどなかった。シンジと出会ってから、よく彼がヘッドフォンで聴いていたのを見て、何だろうと思った。いま、こうして奏でられるチェロの音色は、レイにはシンジ自身の言葉のように思えた。

 思いを、感じる。包み込むような調べ。

 演奏が、終わった。レイはしばらくじっとしていたが、やがて「演奏の後には拍手をする」という慣習を思い出し、ぎこちなく手をたたいた。シンジは微笑み、はにかみがちに小さく礼をした。

 

***

 

 シンジはチェロをしまうと、リビングのソファに一人座って、何とはなしにさっきの楽譜をさらっていた。譜面にあるメモ書きは、たぶん中学に入る頃のものだ。なのに、それはずいぶんと昔のような気がする。この街に来てからの出来事が大きすぎて、それまでのことが薄らいでいるのがわかる。

 ミサトさん...アスカ...トウジにケンスケ...クラスのみんな。

 そして、綾波。

「碇くん...?」

「え?」

 考えこんでいたせいか、気がつかなかった。すぐそばにレイが立っていた。

「ごめん、何?」

 レイはもう着替えもすませ、寝につく前というようすだ。ミサトからもらったルースフィットのTシャツを寝間着がわりにしている。Tシャツからいきなり伸びた白い両脚がまぶしい。

 シンジはレイを見つめた。

 レイは無言でシンジのとなりに腰を下ろす。軽く腕が触れあい、突然のゼロ距離状態にシンジはとまどった。うっすらと洗い髪の残り香が漂う。少しくせのある、青みがかった銀髪。小さく整った顔立ち。深く紅い色の瞳がじっとシンジを見ている。

 レイとの距離がさらに縮まる。

 吐息を、感じる。

 シンジはためらいがちに手を伸ばし、やがてレイの骨張った肩に手を置く。拍動がヒートアップし、頭に血がのぼり、もうレイの瞳しか目に入らない。それはいつになく、思いつめたような瞳。

 レイは決心していた。

「碇くん...」

「な、何?」

 レイは一拍おいて、ついに告白する。

「...好き...」

 そして潤んだ紅い瞳がそっと閉じられる。

 胸がつまる。想いが、止まらない。

「あ、綾波!」

 レイが何か言おうとする間もなく、シンジはレイを抱きしめていた。計算された愛撫もなく、ただ赤子が親にすがるのと変わらぬように。不意におさえきれなくなった想いのままに。

 少女の瞳は閉じられたまま。

 シンジも目を閉じて、レイの唇を求めた。

 好きだよ、綾波...そうつぶやいた声は、レイの耳に入ったかどうか。

 

 ぱしゃっ。

 その音が何を意味するのか、二人にはわからなかったが、続いて響いた声は静寂を破るにじゅうぶんだった。

「も 〜〜〜っ!アンタたちそんなとこで何やってんのよっ!!」

 そこには両手を腰に当て、仁王立ち状態で派手に殺気を放つアスカがいた。髪が紅蓮の炎のごとく逆立っている。にんまりと口元だけは笑っているが、目が怖い。手にはカメラがしっかりと握られていた。現場は押さえたわよ、と言わんばかり。

「そんなにやりたきゃ、誰も止めやしないから、自分の部屋でやりなさい!!このバカカップルが!!」

 吼えるだけ吼えると、アスカは自分の部屋に戻っていった。シンジはぎこちなく腕をほどくと、バツ悪そうに言葉をかける。

「ご、ごめん。綾波も、そろそろ寝たほうがいいよ。」

 レイは薄目のまま無言で小さくうなずく。シンジは立ち上がろうとするが、シャツのすそをレイが握ったままなのに気づく。うつむいたまま、レイは言葉を絞り出す。

「...ありがとう...」

 

***

 

 ちなみにアスカはというと、ヒカリから紹介された少年とのデートは早々にブッチしてしまったのであるが、家に戻ったところで墓参帰りのシンジの辛気くさい顔を見るのもカンベンだ、ということで結局ネルフのジムでリフレッシュしていたのだった。

(バカシンジのくせに、うだうだ悩むなっての)

 でもまあ、うだうだ悩むからバカシンジってことかしら?そう思って帰宅してみたら、とんだシーンに出くわしたという次第。ちらりと部屋を出てリビングをのぞけば、いまなお石化の解けきらぬシンジがいた。アスカは当然のごとく、あの写真をネタに当番を何回替わらせようかと、策謀を練り始めたのだった。

 

***

 

 そして、深夜。

「ほら、着いたぞ。しっかりしろ」

 玄関が開き、加持の声が聞こえた。勝手に上がりこむと、酔いつぶれたミサトを寝室に連れていった。それとすれ違いに、アスカがスキップで駆け寄る。

「あ〜っ、加持さん!」

 いっぽうシンジは、遅れて起き出すと、眠りこけたミサトにとりあえず毛布をかけてやった。ごめんね加持くん、という甘え声は十分に刺激的だったが、とりあえず聞こえないことにする。

 部屋を出たところで、シンジとアスカはちあわせになった。加持に軽くあしらわれたのか、今日は最後までアスカは不機嫌だった。

「さっ、子供は寝る時間よ!」

 

***

 

 明かりを消した部屋の中で、レイは自分に語りかけていた。

(ありがとう...感謝の言葉)

 そして、想いを伝える言葉。

 言えた。シンジは受け止めてくれた。

 初めての言葉。わたしがわたしでない感じ。でも、この気持ちはイヤじゃない。

 レイはそうして幾度も、今夜のことを思い返しながら眠りに落ちていった。満たされない思いの痛みが、ゆるやかに去っていくのを感じながら−−満たされた思いのさらなる痛みを、少女はいまだ知らぬにせよ。そして刻印されたばかりの唇が、消え入るような声で絶えることなき想いをかたどる。

「...好き...」

 

<つづく>

2005.1.25(2008.2.29オーバーホール)

Hoffnung

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