Eva -- Frame by Frame --

 

<第17話 朝露を朱に染めて・前編>

 

 少女は薄目を開けた。脳神経の過剰な発火はまだ収まりをみせていなかった。それは彼女のこころに侵入した幾千の意識が亡霊となってひしめいていることを意味した。

 昼の食事は薄い雑炊だった。それも、すぐに吐き出した。

 片目を閉じる。世界は半分になってはくれない。

(あの、スプーン...)

 あれがあれば、目を抉り出せるかもしれない。そうすれば、もう何も見なくて済むだろう。少女はかなりの時間をかけて顔を枕元に向けた。だが、そこに食器は残っていなかった。

 そして、手足が固定されていることに気づく。その時、やっと自分をとりまく出来事が時系列にそってまとまり始めた。割れた食器を看護の者から奪い取り、手首に押し当てたことを思い出す。切れたのは皮膚と、細い血管だけだった。

 何かを、考えようとしていたのだ。だが、惣流アスカという一人の少女の思考は幾千の他者の残像によって寸断され、形をなそうとしなかった。

 息が苦しい。必死の思いで呼吸をする。

 過呼吸の処置のために看護スタッフがかけつけたのは、その2分後だった。

 

***

 

 1日目−−

 

「今回の事件の唯一の当事者である、弐号機パイロットの直接尋問を拒否したそうだな、葛城三佐」

 そんなの当たり前でしょう、ミサトは内心でつぶやいた。人を道具としてしか思わない老人たちへの嫌悪を必死で押しつぶす。だが同時に、自分とてチルドレンを使徒への復讐の道具にしているというジレンマもあった。ミサトは直立不動のまま、口元を固く引き結んだ。

「では聞こう、代理人、葛城三佐」

「先の事件、使徒がわれわれ人類にコンタクトを試みたのではないかね?」

 時として不可解な問いかけを交えながら、査問はつづいた。ミサトに質問は許されない。必要最小限の明確な言語で返答を続ける。だが、向けられる言葉には、その端々に明らかに焦燥が感じられた。

「使徒は人間の精神、心に興味をもったのかね?」

「その返答はできかねます。使徒において<興味>という心的態度がどのようなものかこちらに理解できない以上、弐号機パイロットの精神に侵入したという事実のみをもって、そのような判断をすることはできないと考えます」

 ややあって、鈍い機械音とともに映像機器がオフになった。目を射る照明が落ち、冷却ファンの音だけがブース内に聞こえる。ミサトはひたいの汗をぬぐった。

 

 別室では、モノリス状の端末による会議がなおも続いていた。

「これが予測される第拾参使徒以降とリンクする可能性は?」

「使徒は知恵を身につけ始めています」

 碇ゲンドウは問いには直接答えず、暗示的な言葉を返した。

「あとわずか、ということか」

「それよりも」

 議長席の老人は本題に移った。空気が澱み、凝固する。

「ロンギヌスの槍、なぜ使用した?」

「回収は我らの手では不可能だよ」

「エヴァシリーズ、まだ予定には揃っていないのだぞ」

 歪められた声が口々に責め立てる。

「使徒殲滅を優先させました。やむをえない事情です。通常兵器はもとより、エヴァ全機の能力をもってしても、ディラックの海を展開した使徒を無力化することは不可能、違いますか?」

 ゲンドウは微動だにせずに答えた。

「やむをえないか?言い訳にはもっと説得力を持たせたまえ」

 その時、ゲンドウの手元の通話機がコールを発した。指令部中枢でしか使われぬ緊急のコールであり、ゲンドウはわずかに苛立たしげなようすで通話機を取る。

「冬月、審議中だぞ」

 そのまま切ろうとしたゲンドウだが、報告を聞くと居並ぶモノリスたちを一瞥して告げた。

「米国支部で異変が発生したとのことです。続きはまたのちほど」

 同じ情報はかれらのもとにも上がってきたのだろう。モジュレータごしにも、狼狽する気配がいくつかのモノリスからうかがわれた。ゲンドウはわずかに口元を歪めたが、それを見る者はなかった。

「その時、君の席が残っていたらな」

 おそらくは北米大陸にいる補完委員会のメンバーだろう、捨て台詞を言ってモノリスの一つが闇に溶けた。続いて影たちは次々に姿を消していった。ややあって、最後に残った議長席の端末が自問するような言葉とともに消えた。

「碇、ゼーレを裏切る気か」

 

***

 

 朝の予鈴が鳴っても、教室には空席が目立った。

 洞木ヒカリは今日も少しだけユウウツだった。昨晩、ちょっと気になっていた前髪を自分でそろえてみたのだが、少しだけそろえるつもりが、ハサミのあて方を間違い、ヘンになってしまった。しくじった、と少女は思った。つい、下を向いてしまう。

「なんや、今日は元気ないなぁ、イインチョ。下痢でもしとるんか?」

「す、鈴原!」

 条件反射でヒカリは顔を上げ、トウジにくってかかる。

「あん?」

 トウジはちょっと不思議そうな顔をし、どことなく間延びした調子で続けた。

「イインチョ、髪切ったんか?...ま、ブサイクはいつまでたっても変わらんけどな」

 ヒカリの出足が、つっ、と止まった。その頬に朱みがさし、また顔は下を向く。

 いつもなら、こんな時に援軍に来るはずのアスカはいない。シンジもレイもいない。相田ケンスケは新横須賀に出撃中だった。

「じゅ、授業よ、みんな着席!」

 強烈なカウンターがくると思っていたトウジも、手持ちぶさたのまま、席に着いた。

 席に着いた少女は、胸の高鳴りをおさえることができない。本人の心配とはうらはらに、髪型の変化に気づいた者はいなかったのだ。ただ一人をのぞいて。

(鈴原が、気づいてくれた...)

 

***

 

 授業の準備をしていた老教師は手帳を開いた。定年を間近に控え、進学指導などの役目からは免除されているため、用務も今は少ない。ふと、年号の対応表に目をとめる。

(そういえば、あの学校も創立100年だったのう)

 老教師は、今日も根府川の思い出話をしに教室に向かった。

 

***

 

 アスカの見舞いに行こうと言い出したのはシンジだったが、足取りはしだいに重くなった。病棟へ向かう通路で、急に立ち止まる。一緒に歩いていたレイも、何も言わず歩を止めた。

 シンジは無意識に右手を開いて閉じる動作を繰り返したが、そのことに気づくと、自分をいましめるように強く拳を握り、脚をたたいた。レイはじっとその様子を見つめていたが、一人で先に歩を進めた。少し遅れて、シンジも続いた。

 弐号機パイロット−−いや、同居するようになってからは、レイにとって「アスカ」と呼ぶことすら不自然ではなくなっていた−−に会って、何と言ったらいいのか、それはわからなかった。ただ、アスカを見舞いに行くことは、今の彼女にとって自然なことに思えた。

 閉鎖病棟に入るセキュリティチェックで、二人は伊吹マヤが出てくるところにぶつかった。照明のせいだけではないのだろう、青白い表情の若き技術士官は、とうぶん面会は無理、といった意味のことを小声で伝えると、小走りで本部に戻っていった。

(使徒?)

 いや、もしそうなら自分たちにも招集がかかるだろう。しかし、緊急事態が起きたのは確かに思えた。

 

***

 

 ネルフは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 米国の第二支部が、まるごと消滅したのだ。S2機関の実験中に、四号機とともに、支部がもろとも消えた。赤木リツコはディラックの海にのみこまれたのではないかという。真相はわからない。再建には膨大な手間が必要だろう。

「これでうちの防衛システムの予算が削られなきゃいいけどな」

 青葉シゲルは隣の日向にささやいた。確かに、という表情で日向も応えた。

 結局、開発をほぼ終えたエヴァ参号機は、日本が引き取ることになった。

「で、起動試験はどうすんの?レイのダミーとやらを使うのかしら?」

「これから決めるわ」

 ディラックの海と聞いて、ミサトは第12使徒の襲来を瞬時に連想した。まさか、「あれ」が再びあらわれたのか?ロンギヌスの槍は使徒を倒したのではなく、一時的にこの時空から排除しただけだった?だとすれば、打つ手はあるのか。ミサトは確かめずにはいられない。

「これが使徒襲来による異変である可能性は、赤木博士?」

「ゼロではないけど、当面私たちが対応する必要はなさそうね。今までのところ、事故のあった場所の周囲でATフィールドがセンサーにかかったという情報はないわ」

 ミサトは米国支部消失の衛星画像を凝視した。

「どっちにしても」

 腕を組むミサトの指先に力がかかる。

「来るわね」

「そうね」

 リツコのカンもまた、異様に冴えたものになっていた。「文書」の情報がそれを補強する。

 第13使徒、バルディエル。

 いかなる敵かは、彼女にもわからない。偽りの肉。裏切りの使徒。それが、「文書」の記述だった。

 

***

 

 少年たちはおざなりの掃除を済まし、めいめい帰り支度を始めた。教室の明かりを消すと、斜めに差し込む光がまぶしい。

「鈴原、これ...」

 委員長・ヒカリが呼び止めて、週番日誌を手渡そうとする。だが、トウジはあとは任せた、とばかり大げさな表情を見せて、岸田シュウと一緒に帰宅の途についた。ヒカリが一瞬見せた寂しそうな表情には気づくこともなく。

 高台にある中学校から西側を仰ぐと、青紫の帯をまとって夕日が沈もうとしていた。終わらない夏に生きる少年たちにとっても、その異様な美しさは、何かの終わりを告げるように思えた。

「あのさあ」

 シュウが口を開く。幼馴染みのチヒロより一足遅れて、彼もまたこの街を去ることが決まっていた。さきの使徒戦では、彼らが避難したシェルターすぐ隣りの区画が使徒の侵入をうけた。シュウと共に避難していたチヒロは、目の前の施設がすっぽりと暗闇の中に消滅したのを目の前で見て自失し、狂ったように泣きじゃくったという。そんな彼女を抱きかかえながら、シュウは共に転校することを心に決めたのだった。

「委員長、トウジと一緒に帰りたかったんじゃないかな」

 そんなん、よう知らんわ、と言ってトウジはごまかすが、シュウは突っ込みをやめない。

「オレら、いつどうなるかわからないだろ。オレもさ、チヒロとつき合い始めて、つまんない意地を張るのはやめよう、って思ったんだ。トウジも、もっとフツーに委員長を相手にすればいいと思うぜ」

 トウジは何も応えず、暮れ始めた空をじっと見つめたまま歩を進めている。シュウは少し低い声でぼそっと言った。

「それに、突然、誰かがいなくなるのって、イヤじゃん」

 この前の使徒の襲来で行方不明になった生徒は、同学年だけでも複数名いた。次元断層、という言葉は知らなかったが、もはやケンスケが喜ぶような、巨人どうしの肉弾戦ではすまない段階に来ているのかもしれない。そうでなくても、クラスの誰かが急に転校するなど、いつあっても不思議ではない。

 洞木ヒカリという少女が自分の前からいなくなる−−その思いにトウジの気持ちは激しくざわめいた。

「そら、そうやな」

 トウジはちらりとシュウの横顔を見た。こいつ、妙に大人っぽくなりよった。確かに、意地を張ってもしゃーない。

(とはいえ、問題はきっかけなんやが)

 まだまだ修行の足りない鈴原トウジであった。

 

***

 

 その、少年の姿をした存在はLCL槽から出ると、わずかによろめいたかに見えた。

 ユリア・ハンナヴァルトは支えようと手を伸ばすが、その必要はなかった。彼女と同じ白銀の髪の少年は、優雅に歩を進め、彼女の前で立ち止まる。

「もう、行くのね?」

「そう...終わりの7日間が始まる」

 約束の時、ということか。私のタブリスが、去ってしまう。ユリアは長い睫毛を伏せると、少年の頬に軽くキスした。

「行ってらっしゃい」

 

***

 

 シンクロテストを終えて家に帰っても、誰もいない。シンジとレイ、二人だけの空間だった。

 夕闇が迫っていた。リビングは家具の輪郭だけが暗い稜線のように浮かんでいた。明かりをつけようと、シンジとレイは、同時に壁のスイッチに手をのばす。

 二人の手が、思わず重なった。

 暗がりのリビングで、時がぴんと張りつめる。

「あ、綾波...」

 それだけ言うと、シンジは不器用にレイを抱き寄せた。思わぬ力強さに、レイは小さく声をあげる。

 シンジは走り出す心を止めることができない。背中に回した手は、レイの肩へと移り、制服の胸にシンジは頬をうずめた。

「碇くん...」

「恐いんだ、綾波。離れたくないんだ」

 レイの息遣いは不連続になり、その細身から力がぬけていった。だが、シンジが制服のブラウスのボタンをぎこちなく外し、純白の胸に唇を重ねようとした時、レイはシンジを突き放した。

「...だめ...」

「綾波!」

 それは愛情のあらわれというよりも、不安から逃げ出そうとする衝動だった。そのことに、少女は直観的に気づいていた。

「ごめんなさい。わたしも...碇くんと」

 続く言葉をレイはのみこんだ。声にしなくても、互いに分かっていたから。

「でも、今は怖いの...」

 レイはシンジから目をそらし、うつむいた。少女にも、不安があった。シンジはレイを抱く腕をそっとほどき、やり場のない自己嫌悪をかかえて部屋へと向かった。しばしの後、少年は自らの手のひらに精を放つことになる。

 独り残されたリビングで、明かりもつけず、レイは哀しげに自身の両肩をぎゅっと抱きしめた。

 

***

 

 薄闇の底、長身の男と白衣の女が、ワイヤーに吊るされたエントリープラグを見つめていた。

「試作されたダミープラグです。レイのパーソナルが移植されています。ただ、人の心、魂のデジタル化はできません。あくまでフェイク、疑似的なものです。パイロットの思考のまねをする、ただの機械です」

 リツコの声がわずかにこわばる。不可能をまた一つ可能にしたという自負はそこにはなかった。

「起動の確率は?」

 抑揚のない声でゲンドウが尋ねる。

「補正回路の調整が完了すれば、20%台のシンクロ率までもち上げることができます。ただし、データ不足からくるパーソナル解像度の粗さは解決できません。起動後はコントロールの不安定さが解消できないと思われます」

「構わん。エヴァが動けばいい。参号機の起動試験は?」

「松代で行います。テストパイロットは、現候補者の中から−−」

「4人目を選ぶか」

「はい。コアの準備がすぐに可能な子供は見当たりませんが、ダミープラグの技術を転用すれば、リバースエンジニアリングによってパイロットの心理プロファイルに合わせたコア情報を構成することが可能です」

「任せる」

 ゲンドウは視線をプラグから外した。薄闇の中、かつて最初の適格者のために作られた水槽には、今は誰もいない。これまでの使徒戦の展開は、多くの者にとってシナリオの修正を余儀なくさせていた。

「レイを呼び戻しますか?」

「いや」

 ゲンドウはリツコにしかわからぬほどの、酷薄な笑みを一瞬だけ浮かべた。

「もうすぐ、帰って来る」

 

***

 

 2日目−−

 

 携帯端末を切ると、リツコは煙草に火をつけた。待ち受け画面には猫の映像。白地で小さな額と足下にダークグレーが入った老猫だった。

 ほどなくミサトがドアをノックした。松代での参号機起動試験の打ち合わせだ。リツコが口を開く。

「四人目のパイロットだけど」

「どうするの?」

「二人ほど、候補が見つかったわ。昨日ね」

 そう、とミサトは鼻白んだように答えた。初めから信用する気がなければ、どんな欺瞞もやり過ごすことができる。チルドレンを選抜するという、マルドゥック機関自体、もはや現実感のひどく欠けた存在に思えた。

「で、その選ばれた子って、だれ?」

 リツコが示したファイルのプリントアウトを見て、ミサトは重苦しいため息をついた。想像どおり、どちらもシンジと同じ2年A組だった。

「よりにもよって、この子たちか。二人とも声をかけるわけ?」

「ベーシックな適性はほぼ同レベルね」

 ちら、とミサトは二人の「家族欄」を見た。どちらも片親だが、生前にE計画と関わっていたという記録はない。いっぽうの少年には、妹が第三使徒戦で怪我を負ったという記録がある。ミサトはシンジと同居を始めたころの出来事を思い出した。しかし、今はほぼ全快しており、今回の決定に影響するとは思えない。

 ミサトは二人の顔写真を比べた。リツコが説明を続ける。

「すぐにエヴァを起動させるのは無理ね。こんどの場合は、コアの基礎データだけ組んで、あとは訓練を通じてデータを補正しながら、パイロット自身の能力を同時に高めていくことになるでしょうね」

「気の長い話ね」

「レイやアスカも、訓練期間という点では同じようなものよ。シンジ君が特別なだけ。それより、現場指揮官からみて、どっちの候補者がうまくやれそうかしら?参号機の受け入れ態勢ができたら、週明けには召集するつもりだけど」

「どっちも優しそうな子ね。気が重いわ。いいことないもの、あたしたちとエヴァに関わったって。それを一番よく知っているのがシンジ君だものね」

「でもわたしたちには、そういう子供たちが必要なのよ」

 わかっている。みなが生き残るためには。きれいごとが無意味なことは、ミサトとてじゅうぶんに承知していた。

「この子から当たってみて。期待しすぎかもしれないけど」

 

***

 

 終業のチャイムが鳴った。今日は土曜日。トウジの唯一の楽しみたる昼飯時もなく、生徒たちが帰っていく。いつもならケンスケはトウジと連れ立って帰るのだが、シュウの思わせぶりな耳打ちに、その眼鏡がひさしぶりにキラリと輝いた。

「あ、オレ今日は<演習>があるから。先に帰る。またな」

 そう言って、ケンスケはシュウとともにさっと姿を消す。シュウにしてみれば、企みは別にしても、引っ越しを控えて慌ただしい毎日であった。

 

「帰ろうか...」

 シンジがぽつんと言った。昨日の出来事がまだ微妙に尾をひいて、ためらいがちの声だったが、レイは無言でうなずく。生徒たちが散っていく中、トウジとヒカリも合流し、4人の集団下校となった。

 しばらくして、トウジが言った。

「んで、どうなんや、惣流は?」

「うん...意識は戻ったって聞いたけど、面会はだめだった」

「エヴァのパイロット、やめることはできないの?」

 ヒカリがおずおずと尋ねた。

「たぶん、だめだと思う。僕もやめたいと思ったことがあるけど、でも、仕方ないんだ。それに、アスカは僕よりずっと強いから」

 弱気に微笑むシンジ。ヒカリは小さく首を振った。何か言いかけようとするが、意外にもレイが言葉を投げる。

「碇くんは、自分が弱いと思っているの?」

 えっ、とシンジは言葉につまる。それは答えようのない問いだった。そういえば、僕はアスカの何を知っているだろう。ただふだんの様子から、そう思い込んでいるだけなのかもしれない。

 僕は、綾波の何を知っているだろう。

 その自問は、シンジの中で何度も反響をくり返した。今の自分を、そして今の彼女を受け入れようとしてきた。けれど、もっと大切な何かを見落としているのかもしれない。

 シンジはまた考えに沈んでいった。寄り添い歩くレイのまなざしに答えるすべもなく。

 

「おーい!」

 不意に呼び掛ける声がした。4人は声の方角を振り返った。ラフな私服姿の青葉シゲルが走りよって来る。

「何も変わったことはないか?」

「いえ、特に...ありませんけど」

 シンジは答えた。聞けば、本部の警戒網に、チルドレンの襲撃を思わせる情報がかかったのだという。今のところ目立った動きは捕捉されておらず、誤報の可能性も高いが、マギが調査を進めているとのことだった。そこで、今日は早上がりでチルドレンと同じルート上にいた青葉に、保安部の増員があるまで連絡係をするよう指示が入ったという次第。

「葛城さん、二人に合流しました。ガードの手配、よろしくお願いします」

 青葉はトウジとヒカリの事も伝え、指示を受けると電話を切った。

「保安部には連絡した。とりあえず、ここから鈴原君の家まで行って、安全が確認されるのを待つようにとのことだ。鈴原君、すまないがやっかいになる」

 シンジは青葉のようすをうかがう。電話の感じからすると、それほど切迫したようすでもなかった。本当に危険ならば、ネルフは対処に手段を選ばない。

 誰かのいやがらせだろうか?ちょっと前にも、似たようなことがあった。動機のない悪意というものが、この世には確実に存在することをシンジは知っていた。


 

Episode 17: Follow You, Follow Me.

 


 列車の中は静かだった。

「第三新東京市、ネルフの偽装迎撃要塞都市。遅れに遅れていた第七次建設も終わる。いよいよ完成だな」

 白髪の男はそっけない口調で言った。昼下がりの日射しが車内にさしこむ。逆光の中、向いの座席の男は、無言で眼下の「未来都市」を見下ろしていた。

「四号機の事故、委員会にどう報告するつもりだ?」

「事実の通り、原因不明さ」

 それで納得する老人たちとも思えんが、と冬月は思案する。そして、ディラックの海に失われたロンギヌスの槍。

「ゼーレもあわてて行動表を修正しているだろう」

「死海文書にない事件も起こる。老人にはいい薬だよ」

 そう言った碇ゲンドウの表情は読み取れない。だが、となおも冬月は思う。目の前の男が密かに進めているはずの補完計画とて、修正を余儀なくされているのは確かだ。

「しかし、よくここまで持ちこたえたものだな」

 列車が地下に入る。

「老人たちはシナリオを繰り上げる気だ」

 ゲンドウは冬月の感慨には応えず、独り言のようにそう告げた。

 ならば問題は、終局の扉を開くのは誰かということか−−冬月は思う。終わりの時に向けて、誰もが最後の疾走を始めたのだ。

 軌道修正もままならぬほどの速度で。

 

***

 

「あの、わたしも行くんですか?」

 ヒカリがおずおずと尋ねた。青葉は無言でうなずいた。電話ごしにミサトから聞いた「候補者」という言葉に彼はとまどったが、参号機の件を思い出して、事態をすぐに推察した。だが、今は子供たちにそのことは伝えるべきではない。

 トウジの家は、ネルフ本部に近い集合住宅の中にあった。チルドレンの住むマンションほどではないが、ネルフ職員の住宅とあって、基本的なセキュリティは整っている。

 一行はすぐに家に着いた。ただいま、とぶっきらぼうに言ってトウジは靴を脱ぐ。レイは無言で、シンジは小さく頭を下げて挨拶をし、後に続いた。ただ一人ヒカリはとまどい立ち止まるが、やがて大きく息を吸い込むと、委員長のオーラを復活させて礼儀正しく挨拶した。

 家の中は殺風景な男所帯だった。旧式の扇風機がテーブルの上に置かれた新聞をはためかせている。トウジは留守をしていた祖父に、あやふやながら事情の説明を始めた。トウジが話し終わるやいなや、妙にテンションの上がったヒカリが言う。

「そうだ、もし準備してなければ、晩ご飯作るの、お手伝いしてもいい?」

 

***

 

 夕食は、けっきょくみなで協力してカレーを作ることになった。鈴原家の小さな台所で、それぞれに準備をしていたが、ふとレイの米をとぐ手が止まった。

「どうしたの、綾波さん?」

 そばに立つヒカリが小声で尋ねた。

「なんでもない」

 それだけ言うと、レイはまた手を動かし始めた。流れ出す水をじっと見ながら、レイは思い返していた。少し前のリツコとの会話。イヤな感じのにおいがするあの部屋...いつ来ても慣れない部屋。

 

(いつもの通り腕を出して) 

(はい)

(あなた最近変わったわね) 

(いけない事ですか?)

(今まで碇司令しか眼中になかったみたいなのに) 

(...)

(ただの人形かと思っていたら) 

 

 わたしはわたし。もう、人形だなんて言わせない。

  

***

 

 ヒカリたちが料理をする間、青葉はラップトップを開いて、チルドレン襲撃情報のソースの解析をしていた。そこへ、することのなくなったトウジが青葉のそばに寄ってきて、遠慮がちにきいた。

「何や、高級そうなギターでんな」

 音楽にくわしくないトウジでも、ギターケースを大事そうに青葉が扱うのを見ていれば、そのくらいのことは想像できた。当面の手配を終えた青葉は、ディスプレイから顔を上げるとクールに微笑んだ。

「そうだ、いいものを見せよう」

 青葉はディスプレイに秘蔵の映像を呼び出す。彼の言葉は、台所に立つシンジの耳にも入った。

(いいもの、か)

 

***

 

「スイカ...ですか?」

「ああ、可愛いだろう。オレの趣味さ。みんなには内緒だけどな」

 つい最近、ジオフロントの一角で、加持とかわした会話をシンジは思い出した。スイカをあんなところで育てていたなんて。

「何かを作る、何かを育てるのはいいぞ。色んなことが見えるし、わかってくる。楽しいこととかな」

 

***

 

(つらいこともでしょ)

 なぜかそんな言葉を返してしまった。加持は苦笑して、何も言わずに水やりを続けた。

 加持さんは、強い人なんだろうか。

 どうせなら、聞いてみるんだった。強さ...優しさ...そのような言葉が、シンジは実感として理解できない。エヴァを動かす自分は、強いのだろうか。綾波を守りたい気持ちは、今も変わらない、いや、アスカがああなってしまったのを見て、その気持ちはずっと強くなったと思う。けれど、綾波にすがりたい自分がいる。彼女を失ったら、生きていけない。欲望の対象として彼女を見る気持ちは必死におさえようとしてきたが、その白く小さな胸によりかかりたいという思いは強まるいっぽうだった。

 

「ちゃう!カレーちゅうもんは、おまんまの上に均等にまぶすもんや」

「邪道よ、それは。こうやってきれいにご飯を寄せて、カレーをかけながら食べていくのよっ!」

 鈴原家の台所では、いつのまにか原始的なバトルが展開していた。シンジもここは傍観するしかない。レイもまた、おたまを握ったまま、きょとんとしてトウジとヒカリの言い合いをながめていた。

 

 再び青葉の携帯が鳴った。

「はい。了解しました」

 青葉のまなざしから、鋭利さが消えていった。

「警報が解除された。やはり、誤報だったようだ。晩メシが済んだら、用心のため、シンジ君とレイは保安部が送っていく。君たちは...」

 さて何と言ったものか、と青葉は考える。

「トウジ君が、彼女を送ってあげたらどうかな?」

「「だ、誰がこんなの!」」

 互いを指さす委員長とジャージ少年。あまりにベタな展開に青葉はひさびさに笑いこけた。

 

***

 

 3日目−−

 

 朝の雨もとうに上がり、ふだんより蒸し暑い昼下がりだった。ミサトはけっきょく本部に泊まった。

 前の晩は、遅くまでシンジもレイもほとんど言葉もかわさずリビングで過ごした。漠たる不安を感じながら、何を言葉にすればよいのか、互いにわからぬまま。日が替わっても、それは同じだった。

「行ってくる」

 二人でとった遅い昼食の後、レイはそれだけ言うと、メディカルチェックのため本部に向かった。一緒に行こうというシンジの言葉に、レイは首を振った。どこか思いつめているような感じがしたが、その時はただ、自分の考え過ごしだとシンジは思っていた。

 他にだれもいない、独りきりのリビングは、ふだんにもまして虚ろな感じがした。音楽をきく気分にすらならない。

 見ると、レイが拾ってきたクマのぬいぐるみの目がまたとれかかっていた。今朝もレイは先に起きて、シャワーの後のまだ湿り気の残る水色の髪のまま、一人ソファに座ってぬいぐるみを抱えていたのを思い出す。

(あとで、また縫いつけておかないと)

 シンジはのろのろと昼食の後片づけを始めた。

 だが、それきり、二度とレイは帰ってこなかった。

 

***

 

 4日目−−

 

 今日も鈴原トウジはギリギリに登校した。洞木ヒカリの姿が見えないことにふと気づくが、カバンが座席に置いてあるのを見て、担任にでも呼ばれているのだろうと勝手に想像した。

 そう思ったと同時に、ヒカリが教室に戻ってきた。彼女は一直線にトウジのもとに歩み寄る。そのシリアスきわまる表情に、何かヤバイことしたやろか、と思い返すが、心当たりがない。

「ちょっと」

 ヒカリはそれだけ言うと、トウジのジャージを引っ張って教室の外に連れ出した。背後では、「また何かやったのか」という笑い声が響いた。

「な、何やイインチョ、どうしたっちゅうねん」

「いいから、来て」

 ヒカリはなおも切迫した表情で歩を速めた。そして急ぎ足で階段を降りると、通用口へと向かう。

 ほとんど小走りになりながら、ヒカリは振り向いて、トウジにすがるように言った。

「鈴原、あたしと逃げて!」

 二人が学校の外に出た時、トウジを呼び出す校内放送が背後に響いた。

 

***

 

「しかし、トウジのやつ遅いなあ」

 休み時間、ケンスケは独り滲みわたるような青空を見上げてつぶやいた。この間の土曜には、トウジとヒカリが一緒に下校するよう仕向けたわけだが、今日はなぜか二人して姿を消してしまった。その後の進展をさぐるには、あまりにデータ不足であった。

 シンジはまたも休みだ。第二支部が四号機もろとも吹っ飛んだことを知ってから、その真相を確かめたくてやきもきしていたのだが、いまだチャンスがない。

(エヴァ参号機パイロット、やはりオレしかいないっ!)

 シンジが登校していたら、パイロットへの登用を直訴するはずだった。そして自分が駆るエヴァのボディーカラーはもとより、標準武装から果ては決め技のネーミングまで、妄想はとめどなく暴走していった。

(あ、キルマークのデザイン考えとかないとな)

 

***

 

「いったい、どうしたっちゅうねん?」

 わけもわからず、ジャージの袖を引っ張られて、そのまま二人で学校をエスケープ。トウジには、カバンも持たず、思い詰めた表情でずんずん進むヒカリが、まるで別人に見えた。

 息を切らせたヒカリを見て、さすがに少しは休もうと、トウジは立ち止まった。だが、少女はほつれた髪を直そうともせぬまま、泣きそうな顔でうったえる。

「止まっちゃだめ!鈴原、誰にも見つからない場所まで、一緒に逃げて。あたし、何でもするから!」

 それ以上、ヒカリは何も言えなかった。

 学校の応接室で、赤木リツコから、エヴァの新たなパイロット候補者だと言われた。その言葉に返答しかねて応接室を出るとき、もう一人の候補者の書類が見えたのだった。そこには、鈴原トウジのプロファイルがあった。

 アテがあっての逃避行ではなかった。だが、どこか遠くに逃げれば、きっと見つからない、そんな思い込みがヒカリにはあった。

 トウジには事情はわからない。しかし、ただごとではない少女のようすに、よっしゃと言ってうなづくと、そのか細い手を力強く引いて駆け出した。

 

***

 

 少年の不安は無限大にふくれ上がっていった。

 彼女が、いない。どこにも。朝になっても、帰った形跡はない。部屋はそのままだった。

 誰もいないリビングは、荒涼としていた。

 携帯は通じない。学校にきいても来ていない。ミサトは参号機の起動試験の打ち合わせのため、ネルフ本部に行ったきり。必死に訴えかけても、心配ないの一言だけだった。

 違う。

 シンジは自分の直感を信じた。このままだったら、二度と会えなくなってしまいそうな予感がする。

 レイを求め、たまらずマンションを駆け出す。だが、彼女があらわれる可能性のある場所をぜんぶ巡っても、行方はわからなかった。先週、青葉が言った「チルドレン襲撃計画」が突然、現実味をおびる。いや、あれは誤報だったはずだ、シンジは必死に自分に言い聞かせる。

 第三新東京の雑踏の中、少年はすがるようにその名を呼ぶ。

「綾波!」

 誰も答えてくれない。コンピュータも助けにはならない。ハッキング技術なんて自分にはない。少しぐらいあったって、マギに太刀打ちできるわけない。

 かつてレイが独り住んでいた旧式のマンションへも駆けつけた。廃虚化はさらに進み、足場が危ないところもあった。すがるように開いた扉の向こうには、埃が積もり、剥がれかけた旧式のリノリウム製の床だけがあった。

 シンジは土足で上がり込み、洗面からクロゼットまで、全ての扉を開け放った。だが、少女の痕跡を物語るものは何もなかった。

「どうして...」

 少年は幾度も自問する。

 自分の存在が、足元から崩れていく感覚。立ち止まったら、泣き出してしまう。

 転げ落ちるようにマンションの階段をおりると、強引にタクシーを止める。あからさまに嫌な顔をする運転手に、シンジはネルフのIDを見せて、再び本部へと急がせた。

 途中、わずかでも似た背格好の少女を見かけるたび、シンジは車を止めさせた。ふだんは誰に対しても控えめなシンジでも、今は激情をおさえることができない。

 どこに行ったんだ、綾波。

 

***

 

 下校時間はとうに過ぎた。長過ぎた一日が終わろうとしている。

「ごめんね、鈴原」

 ヒカリが蚊の鳴くような声で言う。オレンジ色の夕暮れ。トウジはもの言わず、空を見上げて大きくため息をついた。

 けっきょく、市街地を出ることすらかなわず、二人は「保護」された。戻る道すがら、ヒカリから事情を聞かされたトウジは、学校でリツコの説明を受けると、エヴァ参号機のテストパイロットとなることを即断で受け入れた。

 今は、昼間の逃避行がうそのように静かだった。もちろん、ネルフ保安部の者たちが張り付き、籠の鳥となっていることは子供でもわかったが、今はどうやって互いを思いやるかだけが、二人の心を占めていた。

「あたしのせいで...」

「ハラへったな、イインチョ」

 呆けたようにトウジが言った。そういえば、今日はずっと何も食べていなかったことにヒカリも気づく。

「あ、お弁当!」

 ヒカリは立ち止まり、小ぶりの弁当箱をあわててカバンから出した。周りを見渡し、バス停のベンチに歩を進める。

「冷たくなっちゃったけど、食べて」

「ええんか?」

「あたしは家に帰れば、すぐに晩ご飯のしたくだから。鈴原はいつもお腹すかしてるでしょ、食べたい人が食べればいいのよ」

 ほな、と言ってトウジは短い箸を多少使いずらそうにしながらも、むしゃむしゃとヒカリの弁当を食べはじめた。

「あの、あたし、姉と妹がいてね、名前はコダマとノゾミ...知ってたっけ?いつもお弁当あたしが作ってるんだけど」

「そら難儀やなぁ」

「だから、こう見えても、あたし意外と料理うまかったりするんだけどね...だから、あたし、いつもお弁当の材料いつも余っちゃうの」

「そらもったいないな」

「え?」

「残飯処理ならいくらでも手伝うで」

 トウジにとっては、残飯どころではない。男所帯で、購買のパンがこの上ないごちそうとなっているこの少年にとって、ヒカリの申し出は、この世の楽園のような話しであった。

 ヒカリはトウジにどこか儚さのある微笑みを投げかける。

「でも、今日はちょっとだけ楽しかった」

 悪者から逃げる恋人たちみたいで、とは口に出せないが、ヒカリにとって、息切れした時に手を引いてくれたトウジは、どんなドラマのヒーローよりも男らしかった。

「こんど二人でどこか行けるといいね」

「そうやな。ワイら、鼻突き合わすとケンカばっかやったけど」

 トウジがはにかみながら言葉を切った。

「起動試験とやらが終わって帰って来たら、もう少し仲良うしようや」

「あ、ありがとう鈴原」

 ヒカリは泣き出したい気持ちをこらえて微笑んだ。

「ごちそうさん」

 そして二人は歩き出す。黄昏の中、言葉はとぎれがちになる。ヒカリの口元から、小声のハミングで歌声が流れてきた。素朴なメロディーだった。

「ええ曲やな」

「えっ?」

 ハミングが止まる。

「何ちゅう題名やねん?」

 ヒカリは答えられない。それは即興の歌だったから。夕日が赤面した顔をカモフラージュする。

「知らない」

 

***

 

 加持リョウジはじっとアスカの寝顔を見つめていた。意識の混乱はまだ一部分で残るが、じゅうぶんに静養すれば心身の回復は問題ない、そう医師は言った。

 わずかだが、久しぶりに流動食がのどを通った。だが、静養などという贅沢が、今のチルドレンに許されるとは思えなかった。

(シンジ君とレイだけで次の使徒戦をしのげるか)

 参号機が戦力になるかは、未知数だ。物思いにふけっていると、アスカの目がゆっくりと開いた。

「加持さん...」

 か細い声。その瞳にみるみる涙があふれ、かすかな嗚咽が続いた。力なく伸ばされた手を、加持はそっと握った。

「何も言うな」

 加持はブランケットを掛け直してやった。アスカは彼の手を握り返しながら、声をたてずに泣き続けた。

 

***

 

 男は手袋をはずし、少女の水色の髪をそっと梳いてやると、小声で語りかけた。

「あと、少しだ」

 無垢な紅い瞳が男を見上げた。

「レイは何歳になった?」

 少女はわずかに首をかしげ、両手の指を広げた。

「そうか」

 男は満足げにうなずいた。

 

***

 

 トウジはヒカリと肩を並べて歩きながら、この少女が、これまでとは違う存在になったような感じをおぼえた。何かが、自分の中に新たに育ちつつある感覚だった。

「ほな」

 家への分かれ道。トウジは他に言葉もなく、ヒカリに告げた。少女の大きな瞳が揺れる。

「じゃあ、明日は気をつけてね」

 そう言って、ヒカリは手を振った。

 その直後、二人は立ちすくむ。

 道に飛び出す子供。

 急ハンドルを切った車が、突っ込んでくる。

 物陰から駆け出す保安部員。

 全てが、コマ落としのフィルムのようだった。その時、トウジの脊髄を異様な力が走り抜けた。次の瞬間、突っ込んで来た車は、見えない壁に激突したかのように車体を歪め、停止した。

 ヒカリの目には一瞬だけ、オレンジ色の「壁」が眼前に展開されたように映ったが、もう何も見えない。

 気がつくと、ヒカリはトウジにしがみついていた。保安部の黒服が歩み寄り、後の処置はする、という意味のことを告げた。ヒカリは名残惜しげにトウジから離れ、独り家路についた。トウジは黒服に護られながら、視界から消えていった。

 宵闇は、たちまち少年と少女を包んでいった。

 

***

 

 同刻−−

 すっかり暮れた厚木上空を、漆黒のエヴァンゲリオン参号機を載せた、巨大な全翼機が飛んでいた。初号機のもつ一角獣のような装甲パーツがないことを除けば、ほぼ同型だった。だが、その姿は迫り始めた闇よりもなお暗く、禍々しさを放射していた。

 雁行する護衛機のパイロットは、一瞬だけ漆黒の魔神の双眼が光を放ったのを見たように思った。しかし輸送機に乗る技術スタッフに確認をとっても、何の異変も報告されなかった。

 惨劇は目前に迫っていた。

 

<つづく>

2005.12.30(2008.3.5オーバーホール)

Hoffnung

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