Eva -- Frame by Frame --

 

<第18話 朝露を朱に染めて 後編>

 

 5日目−−

 シンジの酷い混乱は続いていた。昨日の深夜、半狂乱のシンジにミサトは言った。

「レイがロストしたという情報は入っていないわ。本部施設内に入った記録があるし、連絡がとれないのは、実験か何かでシールドされたエリアにいるからだと思う。なに取り乱してるのよ、シンジ君。これまでだって、レイ一人が実験に呼ばれることはあったでしょ?そんな、一日じゅうレイを探し回っていたなんて。さ、今日はもう寝なさい」

 ミサトの言うことは確かにそうだった。それから無言でシンジは浴室に向かった。だが、熱い湯を浴び続けても、やはり流すことのできない不安があった。

 そして、今朝。

「じゃあ、行ってくるから。レイのことは、一応、加持にも言っておいたわ。何かあったら、彼に連絡してみて」

「...はい...」

「それから、参号機パイロットのことだけど」

 ミサトは口ごもった。だが、その間は、意外なシンジの言葉によって埋められた。

「トウジ、ですか?...それとも、洞木さん?」

 うつむいたまま、力なくシンジは言う。

「あなた、どうしてそれを?」

「土曜日、チルドレン襲撃計画の情報が入って青葉さんが...僕たちだけじゃなくて、あの二人もガードしてたから、ひょっとしたらって...」

 何かが、起きようとしている。今までよりもはるかに大きなスケールで、自分たちの運命を変えてしまう何かが。シンジの不安はさらに強まる。

「あの、父さんは?」

「本部よ。松代に行くのは、あたしと技術部のスタッフだけだけど?」

 

***

 

 加持リョウジは今日もスイカに水をやっていた。光ファイバーが送る陽射しが、ジョウロから注がれる水に乱反射する。「外」は抜けるような青空だろうな、と加持は思った。

(四号機はネルフ第二支部と共に消滅、か)

 ゼーレの狼狽ぶりは明らかだった。混乱に乗じて得た情報もあった。「黒き月」というキーワード、そして最後の使徒は18番目の使徒であるという「文書」の記述。だが、それらを結ぶ糸が、まだ見えてこない。

 無言の警告も届いていた。それが赤木リツコによって周到に計算されたものであろうことは想像できたが、探索をやめるつもりは加持には全くなかった。まだいける、そう自分に言い聞かせて。

「さて、と...」

 水やりを終えたところで、携帯が鳴った。シンジからだった。今日になっても、レイが見つからないという。加持は待ち合わせの約束だけして、電話を切った。

 土に滲みていく水を名残り惜しげに見送って、加持は「持ち場」へと向かった。

 

***

 

(上海経由の情報で...)

 日向は昨日、そう言った。量産型エヴァンゲリオンの建造が最終段階に入っているだけでも、ミサトは驚きをおぼえたが、13号機までの計画が変更されて10号機で打ち切りが決定したという情報は、不審を増大させるものだった。

 残る使徒の数がわずかであることは、これまで必死に集めた情報の断片から知っていた。だが、それが真の理由なのか?ネルフの上部組織は、いったい量産機をどうやって運用するつもりなのか?

 そして、綾波レイ。彼女の忌むべきクローンたちは破壊された。ダミープラグ計画も座礁したはずだ。

(まさか?!)

 碇司令とその上部組織は、再びレイを使ってダミーを作ろうとしている?

「どうしたの?」

 リツコが気のない声できいた。眼前では、実験のための準備が急ピッチで進められている。

「ちょっち、ビールが切れたかな」

 

***

 

 ケンスケは、この少年には珍しく鬱だった。

 エヴァパイロット三人はそろいもそろって休みだ。トウジまで学校に来ていない。パイロット登用を直訴すべく葛城邸を訪ねてはみたが、時遅く誰もいなかった。父親のパスワードでは、参号機パイロットのことは知ることはできなかった。

 そればかりか、委員長・洞木ヒカリまでが、ひどくふさぎこんでいる。そんな彼女は、初めて見る。

「おい、トウジは?」

 ぽん、とシュウがケンスケの肩をたたいた。ケンスケは大げさに手を広げ、首をふって見せた。

 青き空に雲が流れる−−ケンスケにはそれがうらめしい。平穏な時間がどれほど尊いかを少年が知るには、まだ成長が必要だった。

 

***

 

「遅れること2時間か。あたしをここまで待たせた男は初めてね」

 ミサトが搬入される参号機を睨みながらこぼす。

「埋め合わせはたっぷりさせるんでしょ?」

 それは私も同じだけど、とリツコは内心でつぶやいた。

 

***

 

 部屋は射し込む月光でむせかえるようだった。男は高層ビルの最上階にあるガラス張りのオフィスから天空を見上げた。

 「書物」は何も語らない。それは約束の時が近いせいなのか、それとも自身の変化のせいなのか、知るすべもない。

 あの国では、惨劇の幕がまもなく開くだろう。

 男はフィラデルフィアで最高の仕立屋に作らせたフラショナールのスーツから、彫銀仕上げのケースを取り出す。そしてハッシュを一本くわえて火をつけると、軽く煙を吸い込んだ。

 Komm, suesser Tod.

 いや。

 男は違和感を強める−−おれが望むものは、ソロモンの力。何人たりとも達したことのない領域、すなわち世界の王。

 議長、あなたは長生きしすぎたようだ。

 

***

 

 参号機テストパイロットとして鈴原トウジが松代の実験場に着いてから、はや数時間が経過していた。

「鈴原君、何も心配はいらないから、頑張ってね(はーと)」

 そうミサトが語りかけてからも、かなりの時間が経っていた。

(はぁ〜っ)

 ミサトの励ましに、萌えなかったと言えばウソになる。だが、今のトウジの心を占めているのは、ひっつめたお下げ髪のソバカス少女だった。固形物の食事は3時間前からストップされていた。思い出すのはあの時の、冷めてはいても美味なる弁当の味。

 司令部つきのオペレーターたちは同行していなかったが、彼らと同等の技術者たちが、実験場でリツコの指揮のもとにキビキビと動いていた。

 

「参号機起動実験まで、マイナス300分です」

「主電源、問題なし」

 

 リツコのもとに、次々と報告が上がる。実験場は、ジオフロントのような大規模地下施設ではなく、遠目にはビルの建築現場のように見える。

 モニタには、松代のマギサブセットから送られてくる情報が表示されていた。リツコは情報の洪水を素速くさばきながら、必要な微修正を加えていった。

 

「第二アポトーシス異常なし」

「各部冷却システム順調なり」

「左腕圧着ロック、固定終了」

「了解、Bチーム作業開始」

「エヴァ初号機とのデータリンク問題なし」

 

 リツコは小さくため息をつき、コーヒーをすする。

「これだと即、実戦も可能だわ」

 立って腕組みをしたまま漆黒の魔神を見つめるミサトに、独り言のように告げる。

「そう、よかったわね」

「気のない返事ね。この機体も納品されれば、あなたの直轄部隊に配属されるのよ」

「エヴァを4機も独占か...その気になれば世界を滅ぼせるわね」

 リツコは答えない。答えがイエスなのは言うまでもなかった。ミサトは軍の人間として、通常の部隊編成にエヴァを組み入れれば、最強の軍団となることは理解していた。だが、彼女の言わんとするところは、もちろん別にあった。

 エヴァの素体は第一使徒のコピーだ。

 パイロットとのシンクロによってのみ動くよう設計されてはいるが、何かの理由で使徒としてのフルパワーが解放されて、セカンド・インパクト級の惨事が、現有のエヴァの数だけ引き起こされれば、今度こそ人類の文明は滅びるだろう。

 これまで指揮してきた弐号機までのエヴァとはどこか違う、異質な雰囲気をたたえた参号機を前に、ミサトはかくも忌むべき存在に自分たちの生存を託していることをあらためて認め、眉間を険しくした。

「参号機パイロットが到着。第2班は速やかにエントリー準備に入ってください」

 エントリープラグに入り、操縦席についたトウジは、そわそわしていた。黒いボディースーツは落ち着かない。プラグが挿入され、薄闇の中に一人でいると、しだいに圧迫感を覚えた。

(LCL注入します)

 事前に説明されてはいたが、肺がその液体に満たされるプロセスは、かなり気味悪いものだった。体温とほぼ同じぬくもりをもった琥珀色の液体。粘性があるように思えて、じっさいには意外にサラサラした感触だった。過呼吸ぎみの状態がすぎると、LCLに加えられた微弱な圧力で、自然に酸素が肺に送り込まれていることに気づく。

 液体の中に封じられた状態は、奇妙に懐かしい感覚を少年によびさました。だがすぐに、自分の身体が別物になったような感じが強まって、これから起きることへの不安がまさっていった。

 

***

 

 機関室の一角。

 硬質な重低音の中、大型の排気ファンがゆっくりと回転していた。薄く射し込む光に、舞い上がった埃が攪拌されるのが見える。

 少年の気配を感じると、逆光の中の男は声を発した。

「よっ、遅かったじゃないか」

「加持さん...」

 シンジには、目の前に立つ男の姿はこれまでとはひどく違って見えた。一瞬、彼は銃口を喉元に突き付けられたような剣呑な空気を感じたが、すぐに加持の周囲からは殺気が消えていった。

 合言葉...とは違うのだろう、自分が発する言葉が決まっていたわけではないのだから。諜報活動の世界というものをシンジは知らない。だが、その筋の人間ならば今の自分みたいに簡単に呼びかけたりはしないだろうし、敵とみれば何のためらいもなく加持は相手を撃つはずだ。

「あ...綾波が...」

「葛城から話は聞いている。オレも探りをあちこち入れてみたが、手がかりがない。レイの参加した実験が行われたという痕跡もなかった」

「そんな...」

 シンジは加持に詰め寄る。

「だが、憶測はできる。レイが本当にロストしたとすれば、痕跡を残さずそんなことができるのは...」

「それじゃ、父さんなんですか?!」

「あるいは」

 加持はシンジの覚悟を確かめるようにその顔をのぞき込み、言った。

「ゼーレ」

 

***

 

 実験場−−

 エヴァ参号機はケージの中で沈黙を保っている。

 

「エントリープラグ固定完了」

「第一次接続開始」

「パルス送信」

「グラフ正常位置」

「リスト、1350までクリア」

「初期コンタクト問題なし」

 

 リツコはわずかに眉をもち上げた。参号機のコアには少年の肉親の「魂」はエンコードされていない。ライブラリから選んだ人格テンプレートを、ここ松代のマギサブセットによってリアルタイムで最適化処理しているだけだ。にもかかわらず、この少年は第一フェイズを問題なくクリアしている。

(仮想の母親でも、シンクロできるのね)

 だが今は虚無的になっている余裕はない。リツコは指示を続ける。

「了解、作業をフェイズ・ツーへ移行」

 

 少年は軽い浮遊感を感じた。レバーを握る手に力を入れる。

 

「オールナーブリンク、問題なし」

 

 プラグ内部の映像が変化する。光と闇の交錯。

 

「リスト2550までクリア」

 

 ...感じる。開かれる意識...

 

「ハーモニクス、すべて正常位置」

 

 ...命、ミチル時...

 ...心、カヨウ時...

 

「絶対境界線、突破します」

 

 ...チカラ、アレ...

 

 少年の意識の大部分は、その瞬間に吹き飛んだ。

 緊急警報を告げるアラームが鳴り響く。

 最後に少年が見たのは半透明のオレンジ色の結晶体だったろうか。その神経系に発現した使徒は、全ての神経細胞をむさぼり尽くすと、シンクロを開始しつつあった巨人の肉体へと侵攻していった。

「何が起こったの?!」

 パイロットの生命指標がありえない値を示し、シンクロ率がめまぐるしく上下している。起動指数ぎりぎりを予測していたはずなのに、瞬間的には100をも超える数値を、この漆黒のエヴァ参号機は叩き出している。

 ギシッ、とケージの軋む音が戦慄とともに実験場に広がった。

「制御不能...拘束具が、もちません...」

 ケージの近くにいるスタッフが悲鳴をあげた。

 

 使徒は無明の中にいた。

 ...何処?...

 エヴァ参号機の中に、使徒は爆発的な勢いで浸透していった。つい先ほど、おのれがそこから発現した自律生体組織は、今は巨人の中の小さな異物にすぎない。だが、わずかな残存意識が、その「異物」から滲みだし、偽りの肉に干渉する。

 ...同胞?...

 形骸となった「異物」から間欠泉のように吹き上がる意識の欠片に、使徒は混乱をおぼえる。

 ...イインチョ...

 あの日と同じ夕暮れ。そして二人は歩き出す。黄昏の中、言葉はとぎれがちになる。ヒカリの口元から、小声のハミングで歌声が流れてきた。素朴なメロディーだった。

 ...ゴチソウサン...

 逆行した使徒は、「前世」よりもずっとヒトに近い位置にいた。絆を求める心は、単体生物である使徒には理解の外にあったが、自己の存在に本来的に埋め込まれた欠落感は、使徒の中に共鳴を起こしていった。だが、使徒はその現実を受け入れることができない。

 ...コレハ、何ダ?...

 この小さな群体の欠片は、決して相容れることのない生命形態。滲みわたる残存意識が作り出すパターンは、使徒の原始的な意識の中に根源的な違和感をもたらした。やがて使徒が、エヴァ参号機に埋め込まれた幾多の制御モジュールを走査し、コアを掌握すると、魂の奥底から、破壊と殺戮の衝動が起動する。そこにあるのは、絶対の拒絶。

 ...化ケ物!!...

 

 エヴァ参号機が咆吼する。

「実験中止!回路切断」

 リツコが叫ぶ。

「だめです。体内に高エネルギー反応」

 オペレーターの悲鳴。

 大型モニタには参号機の背中が大映しになる。エントリープラグの強制排除は失敗に終わった。半ば浮き上がったプラグの挿入部分には、蜘蛛の巣のように粘膜がびっしりと張っている。魔獣が、その本能を解き放とうとしていた。

「まさか...使徒?!」

 リツコがそう言ったのと、参号機を中心に大爆発が起きたのは同時だった。


 

Episode 18: The Night that the Stars Didn't Show

 


「報告はまだか!」

 官房長官の怒号が飛んだ。官邸からも異変は直に感じられた。第二新東京壊滅の悪夢がよみがえり、悪寒が脊髄をかけぬける。急遽、官邸は戦略自衛隊の出動を発令した。

「ネルフは何をやろうとしている?」

 

***

 

 洞木ヒカリは最後の水切りをすると、ていねいに研いだ米を炊飯器にかけた。

(明日は、どんな顔して食べてくれるだろ)

 手を拭き、総菜の下ごしらえにかかる。流しに弾ける水滴さえも、恋する少女には輝いて見えた。

 

***

 

 同時に鳴った携帯端末が、シンジと加持の二人を濃密な沈黙の呪縛から解いた。

「シンジ君?今すぐ本部に戻って!」

 知らせを聞きながら、シンジの手が小刻みに震えた。加持もまた自分の端末からメッセージを読み取り、事態を了解する。

「ミサトさん、あ、あ...綾波は?!」

 その叫びの半ばで、加持はシンジの携帯を取り上げた。シンジは、当惑と憤りの混在した顔で加持を見上げる。加持は何も言わずスイッチを切ると、携帯を返した。これまで見たことのない、無機的な表情。父と同じ長い影。

 シンジは言葉なく踵を返すと、エヴァのケージへと走り出した。

 

***

 

「エヴァンゲリオン参号機は現時刻をもって廃棄。目標を第13使徒と識別する」

 墨染めの夜が訪れる。谷間の爆心地に立つエヴァ参号機は、そこが闇が滲み出す中心であるかのように、黙して屹立していた。

 やがて、漆黒の魔神はずしり、と一歩を踏み出すと、死の行進を開始した。

 

***

 

 父の帰りが遅いのはいつものことだったが、今日は何の連絡もない。ケンスケは異変が起きたことを直感した。まさか−−

 エヴァ参号機の実験場で何かがあった?「現場」に対する強烈な好奇心がケンスケを突き動かした。盗んだパスワードは生きていた。松代の混乱は酷いものだったが、少しずつ報告が流れ始めていた。

 

死傷者多数。

実験施設は中心部が全壊。

原因は起動試験の失敗。

参号機の暴走。

パイロットの生死は不明。

 

 しばらく経って、粗い画質ながら、遠距離からの光学映像がとぎれがちに入る。明らかに、ヒトが操縦しているとは思えない異常な機動を見せるエヴァ参号機。瞬時に、ケンスケの脳裏に恐るべき可能性が点滅する。

 エヴァ対エヴァ。

 少年はディスクの残量を確認すると、画像のセーブを開始した。

 

***

 

 シンジは走り続けた。

 身のうちに高揚を感じる。「エヴァ全機発進」、確かにそう言った。零号機も、出る。

 綾波に、会える。きっと、会える。

 

***

 

 三機のエヴァが待ち受ける。すでに夜の帳が降りていた。目標は第三新東京を目指すかに見えるが、軌跡は定まらない。前衛に零号機と初号機。後方に弐号機が狙撃体勢で控える。

「ダミーをいきなり実戦投入とは、性急すぎんか」

 冬月が小声で言う。

「問題ない。こちらにも時間がないのだ」

 ゲンドウは無表情のまま答えた。

 

 初号機の中で、シンジは焦燥感を増大させていた。緊急の招集だったため、出撃は同時ではなかった。その結果、レイの姿を見とめる機会を失したのだった。

「綾波、僕だよ。答えてよ。ずっと、心配してたんだ...」

 零号機からの応答はない。パイロット同士を映すモニタは、全て<SOUND ONLY>の表示。

「綾波!」

 シンジのすがるような呼びかけを、ゲンドウの無慈悲な声がさえぎった。

「今は戦闘中だ。無駄口を叩くな」

「戦闘って...これはエヴァじゃないか!トウジが乗っているんだろ?」

「これはエヴァではない。使徒だ。われわれの敵だ」

 

 その時、アスカはプラグの中で瞑目していた。身体は本来とても動ける状態ではないが、エヴァの中でシンクロしていると、感覚が研ぎすまされていくのがわかる。現状況を計算し、アスカを必殺の狙撃手に決めたマギのフォーメーションは的確だった。

(浸食タイプの使徒...)

 ならば、身体的な接触は危険だ。アスカの中に、さきの使徒戦が頭をよぎる。ロンギヌスの槍をつたって流れ込む無数の意識の断片によって、狂気の淵に追い込まれた。その精神的ダメージから、自我境界を回復するラインまでは戻ったが、まだ酷い状態にあることはわかっている。今の自分に必要なのは、エヴァパイロットとしての任務を果たし、存在理由を回復することだ。

 一撃で、仕留める。参号機のテストパイロットも、助けてみせる。

 

***

 

 参号機が展開する三機のエヴァと対峙する。扇の要には陽電子ライフルを構えた弐号機。

 ...ソウリュウ?...

 その少女の名が参号機の意識の中に浮かぶが、すぐに消える。次の瞬間、漆黒の魔神は低く姿勢をかがめ、獣じみた殺気を放つと、闇の中に跳躍した。

 アスカは瞬時に赤外線モニタを広角スキャンモードに切り替える。前衛の二機から放たれた白い火線が上空で交差した。

 だが、遅かった。参号機は瞬間移動でもしたかのごとく、弐号機の背後に立った。

 弐号機は一撃のもとに無力化された。

 

***

 

「了解しました」

 ここは戦自の作戦部。受話器を切ると、将官の階級章をつけた男は口を真一文字に引き結んだ。握りしめた拳を、抑えきれずにテーブルに叩きつける。

「くっ...」

 マグカップに注がれたまま、冷めたコーヒーがこぼれ、テーブルの上に広がった。

 戦略自衛隊は、保有する衛星兵器「ほむら」の出動を上申した。目標は容易にロックオン可能、なおかつネルフの機先を制するには申し分のない機会だった。だが、それは政治的圧力によって却下された。

 いや。

 その圧力は、この国をも越えたところに発するものだろう。あれほど慌てて戦自の出動を要請しながら、切り札の投入に待ったをかける日本政府のちぐはぐさが、それを物語っている。ネルフさえも手駒の一部でしかない、某組織−−その存在のみは知っていたが、今は政府命令にしたがうしかない。

 男は再び受話器を取り上げ、いまやネルフ担当と化した一人の尉官の名を告げた。

 

***

 

 何が起きたのか、シンジにはわからなかった。振り向くと、目標−−鈴原トウジの乗ったエヴァ参号機−−は後方で硬直したように立ったまま、動きを止めている。

「弐号機、沈黙」

 状況をシンジが理解したと同時に、零号機は猛然と参号機に向かって単騎突撃を開始した。パレットガンは正確に目標に着弾するが、何のダメージも与えない。モニタは全てのエヴァが<SOUND ONLY>を表示したまま。

「綾波!聞こえるなら答えてよ!」

 シンジも駆け出す。迫り来る二機のエヴァに背を向けていた参号機は、突然のけぞるように背を曲げた。シンジは一瞬立ちすくむが、零号機はなお目標に肉薄し、パレットガンを撃ち尽くすと、プログナイフを腰だめに握って突進する。

 次の瞬間、参号機の姿がまた闇に消えた。目標を見失って動きを止めたシンジの直上から、その頭頂めがけて打撃が鉈のごとく振り下ろされる。それは重く、速く、シンジにかわすすべはなかった。

 

***

 

「初号機も一撃で...」

 青葉は息をのんだ。エヴァ同士の白兵戦はシミュレーションデータがあった。だが、シンクロ率の壁をもたず、ヒトとしてありえない機動をするエヴァがいかに恐るべき敵かを、オペレーターたちは見せつけられていた。

 参号機は立ち尽くし、上半身を痙攣させる。その姿は身体感覚のフィードバックがきかず、苦悶しているように思えた。同時に、その顎が大きく開かれ、地獄の底から聞こえてくるような長く深い呪詛の叫びが放たれる。その声は意味をなす言語とは思われなかったが、マギサブセットは自動的に解析を行い、既知の有意なパターンとの一致を見出した。ヘッドセットからその声を聞いたマヤは、肌を粟立たせて凍りつく。

 飛びかけた意識をつなぎとめられたのは、日向がむしり取るようにヘッドセットを外したからだった。

「目標の音声をサブスピーカに回します」

 次の瞬間、発令所のスタッフは、マヤと同じ戦慄をおぼえることになる。ヒトの可聴域へと帯域変換された目標の声−−

「...タ...ス...ケ...テ...」

 その時、誰もが直感した。これはパイロットの叫びだ。参号機の素体はパイロットとの融合を果たした。それは、鈴原トウジ本人を「目標」として殲滅することを意味した。

 マヤが呻いて顔を手で覆った。日向と青葉は、必死で初号機を再起動させる方法を探索していた。だがゲンドウのみは、常と変わらぬ口調で命令を下した。

「初号機の制御をダミーシステムに切り替えろ」

「しかし...」

 蒼白な顔でマヤが訴える。

「ダミーシステムには問題も多く、パイロット搭乗時の干渉が...」

 そのためらいを、ゲンドウは「構わん」の一言で切って捨てた。

 

***

 

 エントリープラグの中、重く淀んだシンジの意識の奥底に干渉する波動があった。

(何だ、これ...)

 エヴァとの一体感が薄れていく。大きな物をつり下げたたくさんのロープが、一本、また一本と切られて不安定になっていく感じ。その感覚の向こうから、ほとんど聞き取れないほどの小さな声がもれてくる。

(...碇くん...)

 

***

 

 プログナイフを握った零号機は、接近戦で参号機に幾太刀かを浴びせることに成功していた。だが、それは攻撃が成果をあげたというよりは、目標の行動が不安定で、防御をしないだけという方が正確だった。激しく上下する参号機のATフィールドの計測値を見ながら、青葉は目標の次なる動きを必死に予測しようとした。

 残る零号機で、何をする?

 そう思ったとき、参号機の腕が不意に長々と伸びた。その腕はプログナイフを持った零号機の右腕にツタのように、あるいは蛇のようにからみつくと、恐るべき力で締め上げた。不気味な音とともに、零号機の骨格の構成材が砕けた。装甲が割れ、剥き出しになった素体部分は肉が裂けて体液が滴り落ちる。

 零号機は残る左腕で反撃を試みた。参号機のウェポンラックを叩き壊すと、プログナイフを引き出し、黒い魔神の胸部装甲を切り裂く。参号機は身をよじり、強烈な蹴りを続けざまに放つ。幾度目かの打撃で、零号機の右腕は引きちぎられ、巨体が弾け飛んだ。

「零号機、右腕切断」

 

***

 

(...碇くん...碇くん...碇くん...)

「綾波!そこにいるの!」

 混濁した意識の中でシンジは叫んだ。だが、応える声はなく、かわりにシンジを激しい頭痛が襲った。意識が再び薄れる。

「だめです。ダミーシステム起動しません!エヴァとの神経接続、作動不良」

(やはり、だめか)

 冬月は暗澹たる事実を内心で認識した。

 

***

 

 それからの状況は、戦闘と呼ぶにはあまりに一方的な虐殺行為だった。

「零号機、シンクロ率が激しく上下しています。疑似辺縁系素子の94%が作動不良」

 黒い魔神は零号機の胸部を乱打する。特殊装甲に亀裂が入り、剥き出しになった肉に参号機は歯を立ててむさぼり喰らう。零号機はなお抗おうとするが、パワーの低下は明らかだった。

「零号機、制御不能」

 なおも参号機は動かぬ零号機に喰らいつき、腹部装甲をむしり取ると、獣の咆吼をあげて肉を食いちぎり、腹腔から生体パーツを次々に引きずり出した。零号機は二度、三度と激しく痙攣する。そして残った左腕で、参号機の喉元を締め上げようとするが、その腕はすぐに振りほどかれた。跳ね上がるように立ち上がった参号機は、零号機の頭部に踵を振り下ろす。単眼のカメラアイを備えた零号機の頭部は一撃で砕け、脳漿と大量の部品が飛び出した。

 うっ、と呻いてマヤが口元をおさえた。

 

***

 

(...碇くん...)

 シンジの脳内に、再びレイの細い声が響いた。少年はそれがどこから発せられるのか知らぬまま、ただその声を追い求め続けた。

 

***

 

 破壊の行為はなおも続くかと思われたが、突如、参号機は動きを止めた。苦悶するように頭部をかかえ、上体には小刻みに震えが走る。

 その時、零号機が立ち上がった。巨大な血だまりの中、右腕をもがれ、頭部を砕かれ、腹部から生体パーツを散乱させながら起きあがる姿は、死霊以外の何物でもなかった。

「零号機のATフィールド反転!」

「まさか...自爆か?!」

 冬月が声を荒げた。傍らでは口元で手を組んだゲンドウの唇が小さく動き、湿った舌先が「レイ」という音韻をなぞる。

「プラグ停止信号を受けつけません」

 零号機はよろめきながらも目標に身体をあずけ、残った左腕をからめる。同時に、零号機に接続されたモニタの全てに、一人の少年−−碇シンジ−−の微笑みが、次々と映し出されていった。発令所にあった幾人かは、零号機のエントリープラグからの声を確かに聞いた。

「...サ・ヨ・ナ・ラ...」

 轟音と火柱。

 

***

 

 ケンスケはごくりと息を飲んだ。両の目は開ききっている。

 あまりの状況に、頭が爆発しそうだった。

 不意に画面がブラックアウトした。ケンスケはあわてて機器をいじるが、映像が復活することはなかった。セキュリティがはたらき、回線が切られたらしい。

 何も映さぬ画面を、少年はなおも見据えていた。するうち、彼は異臭と下半身のじめじめした感覚に気づく。

 ケンスケは射精していた。

 

***

 

「零号機、沈黙...」

 回復した光学映像は、立ったまま動かぬ参号機と、もはや原形をとどめなくなった零号機の残骸を映していた。

「初号機、および弐号機の状況は?」

「両機のパイロットは共に、意識不明。弐号機は脊髄ユニットの損傷が激しく、現場での修復は不能。運用可能な機体は初号機のみです」

(やはり、初号機だのみか)

 冬月はリツコから受け取ったダミープラグの技術仕様を読み返す。参号機はなお立ち尽くしていた。胸の装甲は焼け落ち、赤い光球が剥き出しになっていた。瀕死の零号機の自爆が不完全なものだったとはいえ、使徒に対しては限られたダメージしか与えることはできなかった。

「初号機のダミーシステム起動プロセスを、もう一度108からやり直せ...使徒の活動再開まで、どれだけある?」

「現在、マギが計算中...」

 青葉が答えた。そのそばでは、マヤが吐瀉物を制服からぬぐっている。見かねた日向は、自分の上着を脱いでマヤに渡した。

「大丈夫か?」

 少し休めば、という言葉が口から出かかるが、戦闘中にそんなことが言えるはずもない。日向はちらりと総司令の座を見上げる。ゲンドウは一顧だにくれず、スクリーンを凝視していた。

「いい。まだやれます」

 マヤは制服の上着を脱ぐと、丸めて足下に投げ出した。ウェットティッシュで汚れた手先を何度もきつく拭いて、日向の制服を肩からはおる。

 赤木リツコ以下、現場指揮者の生死は依然として不明。モニタは死の沈黙を伝えている。マヤは涙目を見開いて、現場からの情報のチェックを続けた。

 

***

 

 宮里ナオト戦自一尉は数人の部下を選んで、エヴァどうしの戦闘の偵察行動に入っていた。

 悪鬼たちの共食い。そんな言葉が男の脳裏に浮かんだ。辺りを満たす濃密な死臭は、セカンドインパクト後の混乱を救うべく出向した先で見た地獄を思い出させた。その記憶が、軍人らしからぬ自問を宮里に強いた。

 いったい、何のために?

 

***

 

 重苦しい不快感とともに、シンジに意識が戻ってきた。

 参号機から受けた打撃は、シンジの全身に苦痛を与えるものだったが、決定的に機動を不可能にするものではなかった。

(まだ、動ける?)

 どれだけ長く気を失っていたのか、わからない。外部モニタを見る。

 その時、シンジは何が起こったのを知った。とうに活動を止めた零号機−−いや、かつて零号機であった巨人の焼け焦げた残骸が、あたり一面に散乱していた。現場を照らすサーチライトが交錯する中、参号機は固まったように動きを止めていた。

「あ、綾波!」

 目標を囲むように、照明弾がたて続けに打ち上げられた。ゆっくりと落下する白い光は、惨劇の現場をいやがおうにも鮮烈に照らし出した。零号機パイロットの状態は不明。

(...碇くん...碇くん...碇くん...)

 シンジを求めて何度もループするレイの声が脳裏にこだまする。やがてその残響は激しい耳鳴りとなって少年の頭の中に響き続けた。

(助けなくちゃ...早く)

 シンジは操縦レバーを握りしめ、シンクロを再開する。

「初号機パイロットの意識が回復しました!」

「聞こえるか。もう残っているのはお前だけだ」

 その言葉が届くよりも早く、彼はありったけの気力をふりしぼって立ち上がろうとする。ほとんど同時に、参号機は沈黙を破り、再び動き出していた。漆黒の魔神は一瞬だけ伸び上がるような姿勢をとると、逆に激しい勢いで体をたたみこみ、足元の死せる巨人の骸に腕を伸ばした。

 その先には、零号機の胸部の残骸があった。参号機はその中に腕をこじ入れ、赤黒い脊髄の中に見えるエントリープラグを引きずり出そうとしていた。

「だめだ!」

 シンジは全力で飛びかかった。参号機はその当たりを受けて姿勢を崩す。二機のエヴァは倒れながらもみ合いを続けた。だが、初号機はアンビリカルケーブルが絡まって、動きが不自由になった。そのスキに参号機の攻撃が浴びせられ、シンジは防戦一方になった。

 体勢を立て直そうと、一瞬シンジは背を向ける。その時、参号機はケーブルを握って初号機を引きずり倒し、強烈な蹴りを見舞った。ケーブルの接合部分がきしみ、青白い火花とともにケーブル接続部のユニットが破壊された。ひるんだシンジを、参号機はなおも蹴り上げ、初号機の巨体は轟音とともに山肌に叩きつけられた。

 活動限界まで、5分。

 参号機は重く低く呻りをあげると、再び零号機のエントリープラグに手をかけた。

「綾波!」

 シンジの頭の中が真っ白になり、心の中で何かが弾ける。刹那、初号機から闇を切り裂くATフィールドの刃が放たれていた。

 何かが巨大な音をたてて落下した。

(はあっ、はあっ...)

 

「あれは...?」

 参号機の右手は、プラグを持ったまま切り落とされていた。漆黒の巨人の腕先からは、決壊したダムのように体液が噴出している。守りたい、その一心からシンジが起こした奇跡だった。

 だが、同時にサブモニタに切れ切れに映った参号機プラグ内の画像に、日向は絶句する。

 パイロットの右手は、何かを握りしめた形のまま切り落とされていた。すでに汚濁の始まっているLCLに血が混じる。

 

「トウジ!」

 シンジがパレットガンを持って一歩踏み出した時、何かが高速で誘導兵器のように初号機めがけて飛んできた。それは参号機の左腕だった。さらに続いて、瞬時に再生された右腕が初号機を襲う。ありえない距離からムチのように伸ばされた腕先は、初号機の首を鷲づかみにし、万力のように締め上げる。のけぞるシンジに対し、さらに参号機の両腕はぐいと突き出され、初号機は背中から大地に叩きつけられた。

 

***

 

 薄闇の中、少女は寝返りをうった。細く軽いその身体は、ベッドにくぼみを作ることもなく反転した。まどろみの中で、一瞬、薄く目を開くが、すぐにまた眠りに落ちていった。消え入るような声で、少年の名を呼びながら。

「鈴原...」

 

***

 

 最後の照明弾が、ゆっくりと落ちてゆく。

 参号機、いや第13使徒は、初号機にのしかかってその喉元を圧すると、頸骨を砕こうと力をこめた。

「ト、ウ、ジ...」

 応える声はない。シンジは使徒の重圧に負け、はね返すことができない。その右手首を切り落としたATフィールドは、偶発的なものでしかなかった。二度目ができたとしても、制御ができなければ、エントリープラグ内のトウジをも害することになる。

 活動限界まで、2分。

 呼吸が、止まりかける。消えかかる意識の中で、シンジは最後の可能性に思い当たった。

 頭部を破壊すれば、エヴァは停止する?

 エヴァの設計については、限られた知識しかなかった。知っているのは、頭部に制御系が集中しているということくらいだった。だが、この体勢ではそれしか状況を切り抜ける方法がなかった。

 活動限界まで、1分。

 少年は知らない。偽りの肉は鈴原トウジそのものであることを。

「止まれぇ!」

 シンジは死力をふりしぼってパレットガンを持ち上げた。不自然な体勢からその銃口を使徒の頭部に向けると、ほとんどゼロ距離で連射した。闇を破って、銃口から放たれる青白い火線が虚空を照らした。

 再び、静寂。

 使徒の頭には下顎部だけが残っていた。

 初号機の首を締めつける力が、潮の引くように弱くなっていった。シンジは呼吸をやっと取り戻すが、その指先は固まったままだった。

「目標の反応、消滅」

 モニタから、日向の声が響いた。シンジの喉仏がゆっくりと上下する。

 剥き出しのコアからは光が失われていた。初号機は覆いかぶさった使徒をのけ、切り落とした右手の中のエントリープラグを、レイがいるはずのエントリープラグを救い出そうと身を起こした。直後、シンジは信じがたいものを見る。

 漆黒の魔神の手首が、動いている。

「やめろ!」

 シンジが叫んで飛びかかったのと、切断された手首が掌中のプラグを破壊したのは、ほとんど同時だった。

 

***

 

 サーチライトが交錯する。闇から血の澱が滲み出し、鬼哭啾々たる大気を染める。散乱する零号機の屍体の破片、砕け散った参号機の頭蓋、そして握り潰されたエントリープラグ−−全てが、あまりに鮮やかな死の表象だった。

 操縦席の中で、シンジは膝をかかえ、うずくまっていた。エヴァ初号機の内蔵電源はほどなく切れようとしている。その両眼は大きく見開かれたまま凝固し、外部カメラに接続されたモニタのただ一点に向けて固定されていた。

「あ、綾波...」

 救助班が、レーザーカッターで零号機の歪んだエントリープラグを開ける。シンジは身体をこわばらせ、モニタを見つめる。だが直後、シンジは形容しがたい感覚におそわれた。

 零号機のプラグ内に、綾波レイはいなかった。原形をとどめぬほどに破壊されているが、そこに垣間見えたのは少女の身体ではなく、無機的な機械群の残骸だった。

 綾波?

 それは心の隅に必死で封じた最悪の事態とは違った。しかし、シンジはどうしようもない喪失感に飲み込まれる。救助班の狼狽も、もう目に入らなかった。

 綾波?

 耳鳴りが再び大きくなる。頭の中が真っ白になり、思考が緩慢に停止していく。シンジの心に、死と同義の絶望が訪れようとしていた。

 だが、閉ざされゆく意識の中、少年を真の絶望が待っていた。その目はもはや焦点が定まっていなかったが、救助班からの引きつった叫び声が、辛うじてその耳に入ってきた。

 その映像は、鈍麻したシンジの心から最後の命を搾り取るものだった。プラグの中、参号機パイロットの頭蓋は砕け散って、その頭には下顎部だけが残っていた。救助班の者がトウジの動かぬ身体を抱え上げると、脳漿と骨肉の欠片がLCLの溜まりに落ちていった。使徒と一体化したパイロットに、全てのダメージがそのまま物理的にフィードバックされた結果だった。

 不意に山鳥が鋭い鳴き声をあげた。草木の葉におりる露は朱をたたえ、その滴に神が宿ることはなかった。

 初号機の内蔵電源は、ほどなくして切れ、プラグ内に暗闇が降りていった。

 

***

 

 6日目−−

 少女の朝は早い。軽やかな鼻歌まじりに、指先が踊る。

「これにしよっと。コダマお姉ちゃんと、ノゾミとあたし。4人分かあ...今日は一緒に食べられるかな」

 彼女の望む「今日」が来ることはなかった。

 

<つづく>

2006.3.25(2008.3.15オーバーホール)

Hoffnung

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