EVA -- Frame by Frame --

 

<第20話 使徒の形・心の形>

 

おまえは死の舟を造ったか? 

おお 死の舟を造れ おまえの方舟を 

おまえは永遠の旅に出る 忘却への旅へ 

港はない 行き場はない 

あるのは深まる闇だけだ 静寂の暗い流れがあるだけだ 

それは終局 それは忘却 虚無への回帰 

 

 力天使は青天を睥睨した。

 第14使徒は頭部をもたなかったが、そのボディーの中央にある外殻は一対のくぼみを持っており、そこからは絶対的な力の放射が感じられた。

 エヴァシリーズが上空から投擲した6本の槍は、直線的な軌道を描いて目標に吸い込まれていった。すべての槍が、ほぼ同時に使徒を刺し貫く。

「...!!...」

 アスカは姿勢を低くして身構えた。その時、ミサトから通信が入った。

「聞こえる?アスカ。委員会はここでサードインパクトを起こすつもりだわ−−エヴァシリーズを使って。必ず殲滅するのよ。がんばって!」

「とーーーぜん!」

 純白の人造天使たちが最後の羽ばたきと共に地上に降り立った。アスカは量産機に暫定の識別ナンバーをあてる。5号機から10号機まで−−どうする?

 使徒は長大な槍を全身に突き立てたまま、動きを止めていた。その姿は、遠い昔、北の王国で果てた荒法師の立ち往生そのままだった。ロンギヌスの槍による集中攻撃の結果は、確かめるまでもなかった。最強の使徒といえども、爆縮するように形を失い、滅ぼされる−−はずだった。

 その光景を前に、アスカは全身の肌が粟立つのを感じた。

 力天使がわずかに身体を揺すると、突き刺さった6本の槍は、バラバラに砕け散った。その破片の一つが、弐号機をかすめて飛んだ。アスカは弾かれたように身を反らし、槍の破片をよけた。

 死の輪舞の中心にあって、なお状況を支配しているのは使徒だった。そして使徒のボディー中央に光が集中する。

(来る?!)

 次の瞬間、使徒から強力なATフィールドの「壁」が放たれた。それに激突した量産機−−アスカは6号機と識別した−−の機体がぐにゃりと異様な形に曲がった。間髪をおかず、業火の炎がその機体を襲った。

 天をつく火柱があがり、視界がもどると、6号機の機体があった場所には、炭化した肉がわずかにはりついた人工骨格の残骸があった。

 

***

 

 入ってくる情報は錯綜していた。意図的な偽情報も混ぜられているだろう。だが、今が人類の歴史のターニング・ポイントであることは、あまりにも明らかだ。米国大統領は「アタッシュケース」を前に、最後の決断をしていた。

 これはあってはいけない。あっていいはずがない。

 ゼーレという存在は耳にしたことはあった。いや、おそらく自分のこれまでの行動も、ゼーレのシナリオに沿ったものだったのだ。ホワイトハウスにも、細胞は間違いなくいるだろう。急がなければ、オーヴァルの制圧、そして大統領の排除に出る可能性すらある。

(神よ...)

 大統領は十字を切ると、横須賀沖の原潜部隊に特別回線で指令を下した。人類補完計画−−人間全てを消し去るサード・インパクトの誘発−−を阻止するには、これしかなかった。それがどれほどの犠牲を強いることになろうとも。

 目標は、第三新東京市。

 

***

 

 暗い抜け道の中をシンジは保安部の者に連れられるまま下りていった。下は、深い闇だった。下へ、闇の奥へ。

 シンジの目には何も映っていなかった。それが明るい通路であっても、変わらなかっただろう。途中の回廊で一度、シンジは座り込み、抵抗しようとしたが、護衛に無言で引きずり起こされた。あとは、ただ連れられるままに歩くだけだった。

 もう、何もしたくない。

 トウジを殺した。これまでも、きっと大勢のヒトを殺した。アスカは使徒と戦い、深手を負ってしまった。僕は何もできなかった。

 綾波も、いない。どこにも。

 シンジは一瞬、立ち止まりかける。胸に鈍い痛みが走る感覚。

 レイが失踪してから、壊れそうな心で彼女を求め、探し回った。使徒が現れることを望みすらした。出撃のコールがあったとき、きっと会えると思った。そして使徒化した参号機から、死に物狂いでレイを救い出した−−そう思った。

 だが、夜の底に散乱する零号機の残骸の中、エントリープラグの内にあったのは、「綾波レイ」という記号を付された、無機的なダミー回路だけだった。シンジを呼び求める声は、合成された信号にすぎなかった。

 そのとき、少年は「現実」から切断された。心の病の中には、親しんだ家族やペットが、命のない機械やただの縫いぐるみに変わってしまう幻覚に襲われることがあるという。今のシンジは、まさしくその状態にあった。別の状況下ならば、父・ゲンドウに詰め寄ってレイの行方を問いただしもしただろう。だが、もはやシンジにそれはできなかった。彼の心には、擦り切れた感情と、壊疽した意志だけが残された。

 自分なんていらない。消えてしまいたい。

 その思いは少年の自らへの呪符。今はただ、無気力な歩みを再び始める。下へ、闇の奥へ。

 それは地下通路のタラップの下、小さく張り出した足場が視界に入った時だった。

 轟音と衝撃。

 彼方の壁の一角が崩れ、まばゆい光が幾筋も闇を侵す。

 交錯するサーチライトが、やがて一カ所に集約し、ほぼ時を同じく火線が闇を裂いて走る。保安部の護衛はシンジに向けて怒鳴った。

「跳べ!」

 シンジは身をすくめ、護衛に虚ろな目線を返す。

「あの足場から横に入って下りていけ。そこから初号機のケージまで行ける通路がある」

 だが、シンジは体をこわばらせたまま、動こうとしなかった。護衛は舌打ちしながらシンジに覆い被さり、タラップを握った指をむりやり引き剥がすと、いっしょに足場まで跳んだ。同時に巨大な空間の中を、ヒュッと音をたてて照明弾が上がる。

「急げ!早く死角に入れ!」

 

***

 

「これで少しはもつでしょう...」

 ミサトのその言葉から、しばしの時が経っていた。ネルフ本部施設は第3層まで破棄された。ベークライト注入とともに、ネルフ局員の遺体が押し流され、埋もれていく。侵入した戦自の後発隊もまた、退却を余儀なくされた。だが、いくつかの小隊は退路を断たれ、彼らもまた緩慢な死の物量に飲み込まれていく。

「シンジ君はまだ?!」

 ミサトが叫ぶ。日向は機能不全になりかけているモニタシステムを必死に操作し、シンジの現在位置をスキャンした。

「現在、R62区画の廃材搬送路です!一人でケージへの迂回路を移動中。複数のルートから同区画に戦自が侵入しています...このままでは、シンジ君が...」

 画面には粗い画像ながら、おぼつかない足取りで通路をゆくシンジの華奢な後ろ姿が映った。画面に護衛の姿はなかった。いたとしても、シンジを守りきることはできないだろう。

「ごめん、後よろしく」

 ミサトは銃のマガジンを確認すると、日向の肩越しに小声で言う。

「あと、ドグマの処理も...悪いわね」

「わかってます。これで最後ですからね」

 みなまで聞かず、ミサトは全速で駆け出した。日向は(いいですよ、あなたと一緒なら)という言葉を飲み込みつつ、弐号機のサポートに再び没入していった。

 発令所スタッフは、なおも状況への対応を続けるが、ついにその時がきた。

 爆発音。続いて、発令所の扉が破壊される。

 破った扉からは、戦自部隊が陸続と侵入した。ドア近くにいたネルフ局員たちは、身を隠す間もなく、次々に斃れていった。マギ直属のオペレーターたちはコントロールをサブのラップトップに切り替え、身を伏せる。だが、激しい銃火の中、跳弾の一つがマヤのすぐ側を襲い、ネルフのロゴが入ったマグカップが砕けてはじけた。

「ねえ、どうしてそんなにエヴァがほしいの?!」

 マヤが血の叫び声をあげる。青葉はパニックを起こしかける彼女を抱きかかえた。

 また一つ、跳弾が間近ではじけた。眼下では、発令所のネルフ局員たちが絶望的な抵抗を試みるが、戦自の銃撃の前に次々と倒されている。

 青葉と日向は小銃の安全装置を外した。拳銃をマヤに渡すが、彼女は全身が震え、受け取れない。

「...ろしてやる」

「何?」

「殺してやる...殺してやる...殺してやる...殺してやる...」

 童顔の技術士官は、ディスプレイにウィンドウを開くと、いくつかの解析システムを走らせた。その瞳孔は開き、狂気をたたえ始めていた。

「...ェルティ・システム、起動...」

 震える細指で、マヤがエンターキーを叩いた。画面には戯画化された黒ネコと白ネコが登場し、輪になってぴょこぴょこと踊り戯れていた。

 

***

 

「...」

 総理、という秘書官の呼びかけにも、返事はなかった。米国大統領からの電話はとうに切れていた。

 ヘリがスタンバイしている。だが、総理と呼ばれた男はなお黙していた。人としての原初的な感情が内破し、胸中は慟哭していた。

 被爆都市が、また一つ増えるとは。

 

***

 

 ドアはびくともしなかった。

 マギシステムの中枢に666プロテクトをかけ、移動する途中で、戦自部隊の急襲に巻き込まれた。追撃は振りきったはずだ。

 だが、リツコは深いため息をつく。

 戦闘による建造物の損傷はいたるところにあった。彼女だけが知る通路に飛び込んで、ここまで来たが、もう先には進めない。おそらくは爆発でハッチや隔壁のフレーム自体が歪んだのだろう。ここは鋼鉄の檻となってしまった。

 戻ることもできない。少なくとも今は。

 そして、「今」でなければだめなのだ。

 リツコはフッ、とため息をついて暗がりの中に座りこんだ。携帯端末を操作し、今なお稼働中のネルフ施設のシステム全てが自分の手の中にあることを確かめると、煙草に火をつけた。メンソールの香りが立ち上る。

 あの人は、ドグマに向かっているだろう。綾波レイをつれて。一緒に死ぬ、ということが、体を寄せ合って共に最期をむかえることであるならば、それはかなわぬ夢となったのだ。

 煙が目にしみる。

 ならば、あの人が全てを注ぎ込んだ計画が完成しようとする、その直前に、全施設を「処理」すること。

 リツコはドグマに生体反応が検出されたと同時に、マギの自爆装置のロックが解除されるようセットした。残ったわずかの手札では、これが限界だ。とても寂しいことだけれど。

 あと何本、煙草は残っているかしら。

 

***

 

 残るエヴァシリーズが使徒との距離を詰める。その輪の内側に立つ弐号機は、じりじりと後退し、結果的に自らも使徒ににじり寄る形になった。おそらく、ロンギヌスの槍は不完全なコピーだったのだろう。この使徒には通用しなかった。そして使徒の攻撃で、エヴァシリーズの一機は瞬殺された。残る奴らは、どれから倒す?

 いや。アスカは予測が正しかったことを知る。このエヴァシリーズはアンビリカルケーブルを持っていない。電源供給なしに動き続けるエヴァ−−すなわち、S2機関搭載型。不死の存在。倒されたエヴァ6号機の炭化したボディーの中には、赤黒い光球が見える。いま、その周囲から肉芽が急速に伸び、人工骨格の継ぎ目に新たな組織が再生を始めている。

 アスカは言語にならぬ咆吼をあげ、長い直刀型のブレードを握ると目の前の一機に突進していった。

「どいつもこいつもーーーーーーっ!!」

 ATフィールド中和。

 ブレードに高周波発生。

 真っ向からブレードを振り下ろし、正面に立つ量産機−−10号機と識別−−を頭から唐竹割にする。

 こんなことでくたばるヤツらじゃない。アスカは倒れかかった機体をひらりと飛び越えると、その向こうで再生を始めた6号機の骨格の上に降り立った。

「EEEEEEEErrrrste!!」

 渾身の力をこめてブレードを剥き出しのコアめがけて突き刺す。

 赤黒いコアは明滅しつつ、まばゆい火花を飛ばす。

「このーーーーーーっ!」

 なおもアスカは力をこめ、絞るようにブレードをこじ入れた。やがて、コアは光を失い、ついに燃え尽きた炭のように崩れていった。

 

 6号機、殲滅。

 

***

 

 加持リョウジは水やりの手を止めた。

 人喰い鬼たちの戦いは激烈をきわめていた。戦自部隊がネルフ本部を制圧するのは、時間の問題だ。そして、碇指令とゼーレは、それぞれ独自のシナリオで補完計画を発動しようとしている。

 日本政府との連絡は途絶えた。ゼーレももはや諜報員になど構ってはいない。どうやら、求める「真実」にたどり着く前に、事態は一気に終局へと向かったようだった。こんなことなら、冬月副指令を拉致してでも補完計画の真実を聞き出すべきだったな−−加持は内心でグチをこぼす。

「すまんが、もう来てやれない。達者でな」

 加持はスイカ畑にいつもよりもたっぷりと水をやった。全てを知ることがかなわないのなら、核心を見届けよう。何が「あるべき世界」なのかという問いの答えに、少しでも近づくために。

 ドグマへ。

 

***

 

 侵攻を続ける部隊の後を追いながら、宮里一尉は自問を繰り返した。

 何かが、違う。もちろん、本来なら前線を行く自分にそんな疑問は許されない。だが、情報収集を任務とする立場上、戦況の立体的な把握のための感覚を高めていると、ある種の違和感が離れなかった。

 それは同僚の亡骸を泣きながら引きずる、非戦闘員の女を射殺する行為に対してではなかった。それが命令であるならば、宮里も黙々と殲滅戦を実行するだろう。だが、セカンドインパクト後の戦場を生き延びた者がもつ皮膚感覚のレベルで、宮里はズレを感じていた。

 倒れた友軍の兵士を見る。軍装にどこか統一感がない。宮里はその兵士のゴーグルをむしり取った。

「!?」

 違和感は不意に解消した。すでに死んでいたが、兵士は日本人ではなかった。むろん、国連の派遣軍が戦略自衛隊のプロトコルで戦闘行為をすることはありえない。答えはただ一つ。偽装した勢力による侵攻、そして混戦に乗じた介入。

「どうする?」

 宮里は即決した。直属の上官への秘匿回線による連絡...ネルフ内部に送り込まれた内閣調査室の情報員とのコンタクト...そして...ネルフ最高機密の先行確保。

 硬質な決意とともに、宮里は識別信号の発振機をベストから外して棄てた。部下の兵士たちも黙って従う。

 ドグマへ。

 

***

 

 無傷の量産機は4機。かれらは二手に分かれ、弐号機と使徒に攻撃をかける。アスカは向かい来る量産機−−5号機と9号機−−の後者に目標を定めると、ブレードを下段に構え直し、一気に跳躍して間合いをつめた。その向こうでは、二体の量産機が使徒を挟んで猛然と突進を始めた。

 だが、アスカと対峙する9号機は攻勢に転じる。両肩の接合部パーツがフラップのように開くと、そこからニードルが発射された。アスカは身を沈めるが、その何弾かは弐号機の装甲を突き破った。直後、眼前の9号機は弐号機に襲いかかり、背後に回りこむと上からのしかかる。

(ぐっ...)

 

 一瞬、動きの止まった弐号機を見て、戦自の指揮官が号令した。

「ケーブルだ!ヤツの電源ケーブル、そこに集中すればいい!」

 誘導ミサイルが、弐号機のアンビリカルケーブルを襲った。ケーブルは断線し、アスカはプラグをパージする。

「チッ!」

 

 一方、使徒は鉄壁のATフィールドを操って、飛翔せんとする2体の量産機を地面に叩き伏せていた。白いエヴァの四肢はねじれ、折れた人工骨が装甲を突き破った。

 インジケータが残り時間5:00に変わった。出力だけならば量産機に分がある。アスカは渾身の力で振りほどこうとするが、絡みついた腕を外すことができない。バッテリーの残り時間を見切ったかのように、9号機は弐号機の首を締め上げていった。同時に、アスカと対峙していたもう一体のエヴァは、兵装ビルを破壊し、パレットガンを取り出した。そしてその照準を弐号機に合わせた時−−

 何かが高速で空を切り、弐号機に迫った。

 次の瞬間、9号機の首は刎ね飛ばされ、遠く高く舞い上がっていた。

 それは使徒の「腕」だった。この使徒に四肢はないと思われたが、肩にあたる部分の隆起から、折りたたんだ帯が垂れ下がるように、腕が伸ばされたのだった。その腕はムチのように振り出され、白く輝く「刃」が伸びると、弐号機を組み伏せた9号機の首を、一刀のもとに切断していた。

 アスカは身を返し、パワーの落ちた背後の9号機をはね上げた。そして足元のブレードを再び手にすると、パレットガンを乱射するもう一体の量産機に下から体当たりした。目標の体勢が崩れ、すかさずアスカはブレードでその足元を薙ぎ払った。下肢が斬り飛ばされ、鮮血が激流となってほとばしる。

 アスカは跳ね起き、血笑を浮かべつつ第14使徒の背後におのれの背中をあずけた。

「Danke!!」

 活動限界まで、4:20

 

***

 

 少女はLCL槽の前に立っていた。

 存在の不安を感じたとき、琥珀色の液体はいつでも優しく少女を迎えてくれた。そして、今もまた。約束の時が来たことに悦びをおぼえながら、不安が消えないことに、少女はとまどっていた。

 その視界の中、LCL槽ごしに長身の人影が映る。少女はわずかにうつむいた。

「やはりここにいたか」

 濃紺の士官服を着て立つ男は、色眼鏡ごしに少女に語りかけた。

「約束の時だ。さあ、行こう」

 

***

 

 サードの姿を確認されただろうか。護衛は銃を取り出す。この状況では、支えるも何もない。エヴァパイロットがいるとわかれば、見境いなく攻撃を仕掛けてくるはずだ。

 シンジが緩慢な歩みで狭い通路を下りていくのを見て、護衛は思わず足元に銃弾を一発くれてやりたくなるが、その衝動を抑えて、シンジに言葉を放つ。漠然と、人と口をきくのはこれが最後になるだろうと感じながら。

「急げと言った!オレはエヴァに乗って世界を守れとは命令しないし、そんな身分じゃない。だがな、大切に思う相手がいるなら−−」

 シンジはびくりとして立ち止まる。

「−−絶対にあきらめるな。奪え。背負え。二人でどこまでも行け!さぁ、走れ!」

 少年の命の枯れた目に、一瞬だけ光がもどったように見えた。だが、護衛はすぐに戦自の侵攻部隊に向き直った。

 とりあえず、二、三発、挨拶代わりに撃ち込んでみるか、そう思って引き金を絞りかけた時だった。

 護衛のすぐ足元に、ロケット砲が着弾した。半身を吹き飛ばされながら、護衛はこれで少しは場所塞ぎになるだろうかと、消え去る意識の中で思った。

 

***

 

 発令所を侵した特殊部隊は、不可解なものを見た。

 それは視界を遮る茶色の霧のようなものだった。対BC防御の指令に即座に反応するが、その影は彼らの胸元に吸い寄せられるように移動した。

 直後、先頭にいた何人かの胸元から白い閃光が発した。

 戦自の隊員たちはのけぞりながら次々とその場に崩れていった。倒れたあとも、防弾ベストの一部は、ブスブスと小さな炎をあげていた。倒れた隊員たちは動かない。即死だった。さらに茶色の影は広がり、獲物を探すように発令所の中を流れていった。隊員たちは次々に襲われ、倒れていった。何が起きたのかわからぬまま、本能的な危機感からベストを脱ぎ、かろうじて生き残った者たちも、ネルフ局員の逆襲の標的となった。

「これは...?」

 狙撃態勢を止めて、日向はマヤを見た。

「単機能のナノマシンです。戦自の戦闘服の発信機にロックして発火するようプログラムしたの」

(実行速度はいくらでも上げられるんですよ。でも、排熱の問題が未解決で...この特殊ポリマーだって、本当は瞬時に分解できるのにぃ)

 マヤが作動させたシステムは、かつてサブ・オペレーターとしてネルフに配属されていた潮マドカが去り際に置いていったサンプルを、洗練したものだった。実行速度を極限まで上げ、高性能の焼夷物質として応用したのだ。

(胸元でマイクロ・テルミットを燃やされるようなものだな)

 日向は死神が半歩だけ引き下がる衣擦れの音を聞いたような気がした。

「でも...」

 マヤはぞっとするような狂笑を返した。

「プログラムが未完成だから、終了条件がないの。これ...動き出したら止まらないのよ(はぁと)」

 

***

 

(奪え。背負え。二人でどこまでも行け!)

 シンジの頭の中で、保安部の男の声が響き続けていた。

 位置感覚の麻痺するようなネルフ施設の廃棄エリアの中、シンジは下に降りているのか、上に登っているのか、わからなくなっていた。どちらも、暗い。あるいは、上に行く道も、下に行く道も、行く手には同じものが待っているのかもしれない。

 第三新東京市が停電し、互いを求め合って命の限りに走り続けたとき...確かに彼女の声を聞いた。でも今は、聞こえない。

「どこにいるんだ...綾波...応えてよ」

 

***

 

 アスカは奇妙な共感を感じていた。この使徒は敵だ。だが、そこには何の思念もない。あるのは純粋な力と、無垢なる破壊の意志だ。これまで自分を攻撃してこないのは、こちらからアクションを起こしていないためと、おそらく量産機のパワーをより大なる脅威と認知しているためだろう。いつ何時、あの「刃」によって弐号機が輪切りになっても、不思議ではない。

 だから、今は刹那のハッピータイム。使徒を楯に、ヤツらを叩き潰す。

 活動限界まで、4:00

 背中合わせに立つ、第14使徒と弐号機に向けて、2体の量産機が再び突撃を開始した。さらに、その後方では二つに割れた頭部から新たに頭部の生えた奇怪な姿の10号機がむくりと起きあがる。

 生き残ったネルフの迎撃システムを確認する。コントロールは弐号機の知能回路に連結され、セミオートで発射可能だ。

「アンビリカルケーブルがなくたって!」

 突撃する2体の片方−−7号機−−が羽ばたきとともに弐号機の頭上に舞い上がった。

「こちとらには1万2000枚の特殊装甲とぉ!ATフィールドがあるんだからぁ!」

 アスカはブレードを投擲し、地上のエヴァシリーズの動きをけん制すると、高々と跳躍する。そして中空で7号機に肉薄し、痛烈な手刀を頸部に見舞った。人工骨格の砕ける手応え。動きの止まった機体に組みつくと、その関節を極め、地上に向けて急降下する。同時に、ネルフの迎撃システムをフル稼働させて、使徒と量産機の動きを攪乱する。

「負けてらんないのよ。あんた達に!」

 地上では、第14使徒が爆煙をつらぬいて一対の「刃」を再び閃かせた。それはプログナイフを握って迫る一体の両腕を切り落とした。間髪を入れず、「刃」は立ち上がった10号機へと放たれ、そのボディーの中心で水平に交差しつつ、そのまま突き抜けた。10号機の機体はコアごと真っ二つに分断され、輝く切断面を見せながら崩れ落ちる。

 

 10号機、殲滅。

 

 同時に、弐号機が組み伏せた7号機も地面に突っ込んだ。手足がねじ曲がり、頭部を潰されて、醜怪さを増した機体は起きあがろうとするが、バランスを失って倒れる。

「アスカ、後ろ!」

 発令所からの悲鳴が聞こえたその時、背後から首を落とされたままの9号機がいつの間にか弐号機に迫り、強烈な打撃を加えた。補助センサーで動いているためか、動きは鈍かったが、打撃は弐号機の右肩に命中した。イヤな音がし、アスカの腕に激痛が走った。直後、ほとんどゼロ距離で9号機からニードルが放たれた。弐号機の右腕はズタズタに裂ける。

「Verdammt!!(こんちくしょう)」

 活動限界まで、3:20

 アスカは左腕を思い切り振った。バックブローが命中し、背後の9号機が吹っ飛んだ。だが、それはすぐに身を起こすと、再びニードルガンを放つ態勢をとる。

「遅い!!」

 アスカはとっさに組み伏せていた7号機の機体を楯にした。ニードルが命中し、砕けた肉質が飛散する。真紅の弐号機、半壊の7号機、そして首を切り落とされてなお攻撃する9号機の三者が織りなす光景は、まさに地獄絵図だった。

 その地獄をさらにパレットガンの射撃が襲った。まだ脚部の再生途中の5号機からの攻撃だった。アスカの戦闘本能がさらに開放される。弾着の爆煙で視界が不明になった瞬間、再び高く跳躍する一つの影があった。ニードルとパレットガンの火線が天を向く。

「チャーーーーーーンス!!」

 投げ上げられたのは、もやはATフィールドも発生不能となった7号機だった。その機体は地上からの攻撃によって、ほとんど原形をとどめぬほどに破壊された。さらにボディーを使徒の「刃」が貫くと、小爆発が起こり、残った肉片は地上に降り注いだ。

 

 7号機、殲滅。

 

 アスカは7号機の最期には目もくれずに、低い姿勢でその場を脱した。間近の兵装をチェックし、瞬時に連射のきくN2弾頭のランチャーを手にする。そしてATフィールドを中和しつつ、至近距離から9号機のコア部分にありったけの弾頭を撃ち込んだ。それは目標の装甲をすぐに粉砕し、銃撃はコアをたて続けに直撃する。

 弐号機も無事ではなかった。9号機もまた、身もだえしながら残るニードルを弐号機に向けて射出する。割れた弐号機の装甲部分からは、青い体液がほとばしった。アスカはさらに距離をつめて、ランチャーの残弾をすべて目標のコアに叩き込んだ。

「死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ!!」

 ガチリ、という重い金属音とともに、ランチャーの残弾が切れた。爆煙のむこうには、砕けたコアがかいま見えた。コアを粉砕された9号機は、首の切り口から断末魔のように血を吹き上げ、短く痙攣すると活動停止した。

 

 9号機、殲滅。

 

「あと二つ!」

 活動限界まで、1:45

 戦自部隊の戦闘力はいちじるしく低下していたが、弐号機が射撃姿勢に入って動きが止まったのを測ったように、トマホーク型ミサイルが弐号機に向けて放たれた。それは弐号機めがけて飛んでゆくが、アスカがくり出した拳に激突し、砕けてその場に散らばった。ミサイルは使徒に向けてもたて続けに放たれるが、ATフィールドに阻まれて爆発した。その直後、使徒のボディー中央が光った。巨大な十字架型の火柱がたて続けに立ち上がり、地上部隊を一斉になぎ払う。

 爆煙と粉塵が薄れた後は、もはやジオフロント上に残る戦闘勢力は、同じ一つのもの=アダムから生まれ出た異形の存在だけとなっていた。

 活動限界まで、1:05

 

***

 

 発令所からは銃声が消え、冬月の下、指揮体勢の再構築を進めていた。だが、そこにさらなる衝撃が走る。

「横須賀沖の米潜水艦から、ミサイルの発射を複数確認。目標は第三新東京市。弾頭はN2兵器...いや、核です!」

 青葉が報告した。

「あと22秒でネルフ本部上空に到達します!」

(ゼーレめ、血迷ったか?)

 「黒き月」の耐爆強度を心中で確認しつつ、冬月は内心で毒づいた。

 

***

 

 天空に投げ上げられた7号機の爆発があった位置では、一瞬だけ白いものがきらめいた。それはすぐに消え、白い影はネルフ本部施設のピラミッド型建築の頂点に浮かぶように再び現れた。

 ATフィールドも展開せぬまま、中空に浮かんだ少年はささやくように愛しむ者の名を呼ぶ。

「遅いなあ、シンジ君」

 だがそれは同時に、奇妙な既視感を少年にもたらした。

 僕はどうして彼をこんなに知っているのだろう。ユリアは彼のことを話してくれた...だが、この気持ちは何だ?

(好きってことさ)

(カヲル君!)

「そうか、そういうことか」


 

Episode 20: Two Minutes to Midnight

 


 なおもネルフ本部直上の一点に浮遊しながら、白銀の髪の少年はわずかに目を細めて天空を凝視した。高速で迫る、ヒトの造りし殺戮の具を感知しつつ。

「そうまでして自らの存在に固執するリリン...どうしてわかろうとしないのだろう...他者を拒絶することはかくも虚しいことなのだと」

 心を閉じるとは、かくも痛ましいことなのだと。

 少年は長い睫毛を伏せた。ほんの一瞬、老成した深い苦しみがその横顔を翳らせた。

「ヒトの心は、悲しみに満ちている」

 瞬間、これまでに観測されたことがない強大なATフィールドがジオフロントのはるか上空まで広域で展開された。いかなる粒子も波動も通過することを拒絶した絶対領域は、少年の心の闇そのものだった。

 

***

 

 天空で何が起きたのか、発令所スタッフには理解できなかった。電磁波、重力波、その他あらゆる物理現象のセンシングが遮断されていた。

(まさに結界か!)

 もはや日向は発語できなかった。だが数秒後、ありえない強度を示したATフィールドは消失した。

 同時に、ネルフ本部に放たれた核は上空で起爆することなく全て破砕し、無力化されていたことを知る。それが14使徒の力なのか、それとも他の何物かが起こした現象なのかは不明。どちらにせよ、戦闘は続く−−命を削る苛烈さで。

 日向はパネルに眼を走らせ、現下の状況を再確認する。

 ネルフ本部、第3層まで破棄。発令所への侵攻部隊はかろうじて排除。

 エヴァ弐号機は活動限界まで40秒を切った。綾波レイはロスト。碇シンジは単身ケージへ移動中。

 戦略自衛隊三個大隊、火力支援部隊は戦闘不能もネルフ本部内の特殊部隊は健在。

 第14使徒、なお活動中。その戦闘力はこれまでの使徒の比ではない。

 エヴァシリーズ、残る5号機と8号機は自己修復中。

 それは正に乱戦だった。メインモニタの弐号機は、阿修羅のごとく戦場に立ち尽くしていた。アスカのシンクロ率は上がり続け、すでに100%を越えていた。ダメージも尋常ではないはずだ。

「シナリオもここまで狂うと見事だな」

 だが、冬月とても事態の展開を読み切っているわけではなかった。彼は死海文書の異伝を思い起こす。ある異伝によれば、第14使徒こそが最後の使徒だという。それが正しいとするなら、ゼーレの布石も違った読み方をせねばならない。

 冬月には戦況を注視するしかなかった。

 

***

 

 R62区画が終わる。保安部の男が指示したルートを守ってはいるはずだった。だが、硝煙の臭いが漏れてくるたびに、シンジは身を硬くした。このルートも、決して無事ではないことは、明らかだった。

 迷路そのもののような廃材搬送路に、一筋の光が射し込む一角があった。シンジは本能的に脇道に身体を隠す。重い軍靴の響きが、迫ってきた。2人?...3人?

 シンジの入った脇道を、強烈なライトが照らした。思わず顔を覆い、さらに奥へとシンジは駆け出した。後を追う戦自隊員の一人が、通信機のピンマイクに告げる。

「サードを発見、これより排除する」

 

***

 

「あたし、バカなことやってる...」

 携帯端末を操作しながら、リツコは独語した。本部施設を侵され、機関部や通信系統を破壊された今では、指令はすべて実行されまい。

 彼女にしてみれば、それは全てに幕を引くまでの余興だった。これだけのハンディキャップで、戦略自衛隊の侵攻をどこまで食い止められるか。特に、マギシステムに迫ろうとする部隊への報復は執拗だった。マヤが未完成のナノシステムを投入した時は、冷ややかな笑みが浮かぶほどだった。

 ふと端末を見ると、メール受信の知らせが点滅していた。こんな時に、ノーマルエンコードのメールなんて...リツコは訝しむが、送信者を見て、フッ、とため息をつき、文面を開いた。

「そう...あの子が死んだの」

 老齢のためだろう、そう返事してなぐさめようとしたが、縁側で日がな一日寝そべっていた猫の姿を思い出し、胸がつまった。もっと写真をとっておくのだった。もう一度ひざの上に乗ってほしかった。もう一度毛をすいてやるのだった。

 天才科学者の頬を、一筋の涙がつたった。

 

***

 

「悪く思うな、ボウズ」

 そう兵士がシンジに告げた時だった。立て続けに、後方から銃声が響いた。兵士は顔面を撃ち抜かれ、のけぞるように倒れた。飛び散った血がシンジのシャツを染める。

 咆吼とともに迫る人影が、一気に距離をつめる。残った二人の兵士はあわてて応戦するが、一人は銃撃に倒され、残る一人も体勢を立て直そうとする間もなく、目標からの強烈な蹴りをくらい、壁に叩きつけられる。

「ミサト...さん」

 シンジには答えず、ミサトは兵士の喉元に銃をあてる。

「悪く思わないでね」

 そう言って、ミサトは銃を連射した。言葉を終えると同時に、兵士は崩れ落ちた。彼女はシンジに向き直り、語る。命令口調とは遠く、むしろ淡々と事実を伝えるように。

「イヤなもの見せちゃったわね。でも、これが現実。あたしがこのヒトたちを殺さなければ、シンジ君が殺されていた。べつに正当化するつもりはないわ。自分には関係ない、そう思って結構よ。だけどね−−」

 ミサトは銃のマガジンを交換した。注意深く、兵士の死体から使える武装を取り外す。

「地上の全ての人間を無に還す、サードインパクト、そんなものが許されていいはずはない。ゼーレの名前は加持から聞いたかしら?それがネルフの陰の上部組織」

 シンジはうつむき、ミサトから目をそらしたままだった。

「そして今、ジオフロントには14使徒がいる。アスカはたった一人で使徒と6体のエヴァシリーズと戦っているわ。あの使徒が勝っても、ゼーレのエヴァシリーズが勝っても、地下のアダム、いえリリスと接触すれば全てが終わる。いい?シンジ君。エヴァシリーズと14使徒、全て消滅させるのよ。生き残る手段はそれしかないわ。さあ、立ちなさい!行くのよ、初号機へ」

 シンジは首を振る。ロジックではなかった。折れた心が、再びエヴァとともに戦場に帰ることを拒んでいた。

 ミサトは強引にシンジを引きずり上げ、歩き出した。弐号機の活動限界が迫っている。彼女にとっても、自らの行動はロジックではなかった。不条理な死をもたらすモノは、全存在をかけて排除する。それが一握りの老人たちの歪んだ信念に拠るものであるならば、なおさらだった。

 

 だが、脱出行は続かなかった。

 別の区画にミサトが飛び込むと同時に、背後から火線が襲った。

 戦自の精鋭部隊は施設の奥まで侵入していた。ミサトはシンジに覆いかぶさって倒れ伏す。次の瞬間、ミサトは反転して、さっきの兵士から奪った機関銃を乱射した。そして起きあがりかけたシンジを突き飛ばして、角を曲がらせる。

 ミサトも続いて角へと飛び込んだ。置き土産とばかりに投げた手榴弾が、ランチャーを構えた戦自部隊の一人の正面に転がっていった。直後、轟音とともに部隊のほとんどは戦闘能力を奪われた。

 

 シンジはよろめきながら歩を進めていた。彼の手を引くミサトの腕力が急に弱くなったことに気づきながら。

「大丈夫...大したこと、ないわ...」

 ミサトは苦しげに呼吸すると、シンジにさとすように語った。

「いい?シンジ君...ここから先はもうあなた一人よ。すべて一人で決めなさい。誰の助けもなく」

「でも...僕は...」

「あなたの気持ちがわかる、なんて言うつもりはない。もう、あたしにできることもないわ。死にたいのなら、そうすればいい...だけどね...」

 ミサトはそっとシンジを抱いた。シンジは一瞬びくりとするが、おそるおそる彼女の背に手を回す。服の濡れた感触。それが何を意味するか、シンジはすぐに悟った。

「あなたには、あなたの命を全うしてほしいの。これも、勝手な言い分だけどね...シンジ君には、あなたにしかできない、あなたならできることがあるはずよ。誰も強要はしない...できないものね。今は、何をすべきなのか...自分で考え、自分で決めるのよ」

 ミサトは十字架のペンダントを外し、シンジに渡した。そこには側面を一周するように、文字が刻まれていた。いつかシンジはその意味をきいたことがある。その時ミサトは話を流そうとしたが、アスカからすぐに答えが返ってきた。ドイツにいた時に、見ておぼえていたのだという。

 WENN ICH WÜSSTE, DASS MORGEN DIE WELT UNTERGINGE, WÜRDE ICH HEUTE EIN APFELBÄUMCHEN PFLANZEN!(もしも明日が世界の終わりだと知っていても、私は今日リンゴの苗木を植えるだろう)

「いってらっしゃい」

 それだけ言うと、ミサトはシンジの背中を押した。そしてもはやシンジを振り返らず、残る武装をチェックした。シンジの走り去る気配を確かめると、ミサトは肩で息をしながら壁に背をあずけた。腰から下の感覚がなくなろうとしていた。他人のコトバなんて、たかが知れてる。あとは、あなたの気持ちしだい。もう立ち止まらないで。

 目がかすむ。ミサトは壁にもたれたまま、崩れるように座り込んだ。

(あ...大人のキスをしておくんだった)

 

***

 

 男は扉をアンロックした。これが最後の扉だった。距離感を失わせるような巨大な空間が広がる。深奥には白い巨人がなお磔刑となったまま、解放の時を待っていた。

 共鳴が始まっていた。男の右手に生体融合したアダムの幼生は、白い巨人との結合を求め、周囲の空間を歪めるかのように震えていた。

「レイ」

 男は後ろについてドグマ最深部まで下りてきた、第一中学校の制服姿の少女に、背中を見せたままくぐもった声で告げた。遠くからの衝撃が断続的に伝わる。戦自部隊の一部はほどなく最下層まで突破してくるだろう−−あるいはゼーレの直属部隊か。その前に、補完を遂行する。

「ユイと再び逢うには、これしかない。アダムとリリスの、禁じられた融合だけだ」

 男は立ち止まり、少女を振りかえる。

「始めるぞ、レイ。ATフィールドを、心の壁を解き放て」

 レイと呼ばれた少女は、無言で男を見上げた。ドグマの寂光の中、少女の輪郭がかすむ。

「欠けた心の補完。不要な身体を捨て、魂を今一つに。そして、ユイのもとへ行こう」

 そう告げると男は右の掌を差し出した。

 その時、それまで無表情だった少女の紅い瞳に、小さな感情のゆらぎが生まれた−−何かを、封印された何かをかきわけ探し出そうとするように。

 男の右手が、少女の頬に触れようとした。

 少女は男の顔を見つめる。間近にいるにもかかわらず、その顔は遠く感じる。少女の中で、いつか頬に触れた繊細な手、背中に回された腕、絡み合った指が断片的な残像となってよみがえる。だが、その映像は記憶に霞がかかったように、おぼろなままだった。

 そっと少女は手を伸ばし、何かを探すように、男の手に指を重ねそうとする。だが、男は手を引き離した。そんな所作は不要といわんばかりに。

 心が、苦しい。大切な何かが、こぼれ出してゆくようなもどかしさに、少女の顔がわずかに歪んだ。男は構わず、少女の胸に手をのばす。

 

 あなたがここにいてほしい。

 

 少女の中で、封印された思いがさらにこみ上げ、内圧となって胸をふさぐ。こみあげる声が、喉元でつかえて苦しい。「あなた」が誰なのか、認識できぬままに、ただ純粋な願いだけが、心に満ちる。

 

 あなたがここにいてほしい。

 あなたがここにいてほしい。

 

***

 

 シンジはなおも闇の中をさまよっていた。銃声と爆発音が、遠のいていく。アスカが、たった一人で使徒と6体のエヴァ量産機と戦っている−−ミサトはそう言った。いま、ここでサードインパクトを阻止しなければ、全ての戦いはムダになると。

「でも...ここがどこなのかもわからない...エヴァに乗れない」

 小さくシンジは独りつぶやいた。護衛の男の死が、そしてミサトの討ち死にが、少年を暴力的に突き動かしていた。だが、戦闘を回避するうち、ルートを見失っていた。押しつぶされるような無力感が再び少年を押しつつむ。

 気がつくと、ブロック間の段差やダクトの類もなくなっていた。最小限の照明しかないが、細い通路がほとんど真っ直ぐに伸びている区画に出たことにシンジは気づいた。

 奥の方に、かすかな光がさしている。これまでの移動から、ネルフ施設の最奥に近づいていることは感じていた。そこに何があるのかはわからない。しかしシンジは進もうと決めていた。歩き続ける意志こそが、この閉塞を破るただ一つの可能性と信じて。

「綾波...」

 

***

 

 夢?...ミサトは薄闇の底で思った。

「加持君...?」

 身体の感覚はほとんどなくなっていたが、抱きかかえられていることは辛うじて感じられた。焦点を合わせた先には、かつて愛した男の顔があった。

「何も言うな。ここまでよくやった」

 見ると、加持の後ろには何人かの兵士たちがいた。戦自と加持が?だが、薄れる意識の中、その疑念もすぐに注意の外に去った。加持のまなざしは、シンジの無事を告げていた。

「さむい...」

「葛城!」

 加持はミサトを抱く腕に力をこめた。

「8年前、言えなかった言葉だ...聞いてくれ...」

 だが、ミサトにはもう聞こえない。色の失せた唇が小さく動いた。聞かなくてもわかっている、と言うように。

「うそつき...」

 

***

 

「で、戦自の侵攻ルートは?」

 宮里と名乗った男の説明を聞きながら、加持は表情を曇らせた。これでは侵攻を遮断することはムリだ。ゼーレ直属の偽装部隊が送り込まれているという情報を戦自に伝えても、すぐに上層部が動くとは思えなかった。

「現在地点、R60ナンバーの区画は、ドグマ中枢への隘路になっている...偽装部隊の主力はここを抜きにくるはずだ。よって、本区画を支えつつ、アンタがネルフ残存部隊の再結集を呼びかける。これでいいか?」

「了解だ」

「ウチの武器は使えるか?」

「あいにく、箸より重いものは持ったことがないんでね」

 だが、軽口は叩くなと言わんばかりに、宮里は機関銃のマガジンを投げてよこした。ミサトが持っていた銃をアゴで指すと、すぐに加持からの目線を切り、部下にキビキビと指示を出す。

 一人で迷子を捜しに出ようと思った加持だったが、今はムリと知り、小さく肩をすくめると陣形に加わっていった。

 

***

 

 時間は少しさかのぼる。

 最後の時が来た−−リツコはそう思った。端末の画面がアラームとともに切り替わった。ドグマ最深部、リリスのもとについに到達した、二つの人影があった。

 ためらいはなかった。それは愛人への報復というより、自分自身の存在の清算だったから。

「さよなら」

 小さくつぶやくと、リツコは瞑目して自爆スイッチを押した。母さん、一緒に死んでちょうだい、と心の中で続けながら。

 だが、すぐに彼女は異常に気づく。何も起こらない。とうにネルフ本部の大深度施設を焼き尽くすだけのN2爆弾の爆発が起きているはずだった。

「作動しない...なぜ?」

 端末を見る。鳴り続けるアラーム音とともに、画面には「否決」のエラーメッセージが表示されていた。

「バルサザールが裏切った...母さん、どうして...」

 リツコはしばし放心して、「否決」を告げる画面を見続けた。マギ三体の中、母親としての人格を移植したのが、バルサザールだった。それは「女」でもなく、「科学者」でもなく、「母親」からの答えだった。

「今さら、こんな...」

 震える指先で端末を切り替えると、そこには碇ゲンドウと綾波レイの姿があった。さらに、複数経路からドグマをめざす人影が検知される。

 状況の切迫は、極まりつつあった。その輪の中に自分の居場所がないことを知り、リツコは肩を震わせた。

 

***

 

(いよいよ、アンタとの決着ね)

 14使徒は巨躯を浮遊させたまま、ついに弐号機に向き合い、ゆるりと距離を詰めてきた。残る二体の量産機は動きを止めたままだった。邪魔者ぬきで使徒と対決するには、今しかない。

 アスカは運用可能な武装をチェックした。搬送システムの多くは使用不能になっていた。ATフィールドを中和したところで、あの使徒の装甲を貫通する兵器は、ない。

 遠距離からの陽電子ライフルによる射撃が、ほとんど唯一の攻撃法だが、出すのはムリだ。出せないということは、存在しないのと同義だった。

(マジ勝てる相手じゃない、ってことか)

 活動限界まで35秒。

 アスカは何のためらいもなく禁断のボタンを押す。いくつかの複雑なアクションを組み合わせると、コクピット内に円筒状のユニットが姿を現した。

 コアの臨界までには、この時間で十分ね−−アスカは確認する。

 あたし一人で、ぜんぶ片づけてやる。

 最後まで見守ってね、ママ。

 

***

 

 少年は扉をアンロックした。これが最後の扉だった。距離感を失わせるような巨大な空間が広がる。エヴァ初号機のケージを見失い、闇の中をさ迷い、ここまで降りてきてしまった。

(これは...?)

 力ない足取りで少年は中に歩を進める。見ると、深奥には白い巨人がなお磔刑となったまま、解放の時を待っていた。そして、その足元には−−

 一人の少女がいた。たった一人の少女が。

 広大な空間が、急速にブラックアウトしていった。呼吸が止まり、少年は立ちすくむ。膝が小刻みに震え、固く握りしめた拳がそれに続く。断続的な息づかいはしだいに激しさを増し、瞳孔が大きく開く。ある種の浮遊感をおぼえながら、少年は「あ...あ...」と言葉にならないうめき声を上げた。

 声はやがて、心の底からの絶叫となり、ドグマの底に木霊する。

「綾波!」

 少年は駆け出していた。もはや彼の目には、少女のそばに立つ長身の男すらも目に入っていなかった。ただひたすらに、愛しい少女の名を叫びながら、昏い空間を疾走した。

 

 綾波が、ここにいる。

 綾波が、ここにいる。

 

 少年の目に涙はなかった。奪うためには涙は邪魔だったから。背負うためには涙は不要だったから。二人でどこまでも行くには涙で目が曇っていてはいけないから。たくさんの死を、たくさんの無残を、たくさんの消尽を、すべて受け入れることで生があるから。

 長身の男が銃口を向けるが、少年には見えない。威嚇の言葉も、ぼやけたノイズにすぎない。ただひたすらに、少年は少女をめざした。

「綾波!」

 そして少女は理解する。封印された記憶の底にあったものが、胸の奥に宿った遠い願いが、自分が自分である限り決して抹消できない希望が、何であったかを。

 

 わたしは、わたし。

 

 慈雨が野の草花にしみわたるように、縛られた少女の心に少年の感触がよみがえっていった。仮死することを強いられていた想いがいま、弾ける。

 少女の口元が、その名を象ろうとする。

 い・か・り

 目の前に立つ男は、長く影を落とす虚像にすぎない。

「碇...くん...」

 

***

 

「アスカ!」

 マヤが絶叫した。

「シンクロの強制カットは?!」

 日向が詰め寄る。

「だめです。ロックされています...コントロール不能...弐号機の自爆装置、あと12秒で発動します」

 発令所のオペレーターたちは、力天使めがけて特攻する弐号機を、言葉を失ったまま見つめるしかなかった。

 

***

 

「弐号機、ATフィールド反転。コア臨界まであと6、5、4、3...」

 疾走する深紅の巨人をオーラが包む。力天使の強大なATフィールドが弐号機と交感し、白光がジオフロントに満ちようとしていた。

 突進する弐号機を迎えるように、使徒は帯状になった両方の「刃」を繰り出した。それは弐号機の肩口を貫くが、両腕は切断されず、弐号機のボディーに吸い込まれるように融合していった。反転したATフィールドの効果だった。

「弐号機、コア臨界まであと1...ゼロ!」

 

死んではだめ 

 

 アスカは確かにその声を聞いた。

 

死んではだめ 

 

 不意にがくん、と衝撃が走り、弐号機の動きが止まった。

 活動限界まで10秒。

 円筒形のユニットが収納され、自爆モードの解除がモニタに表示される。

「ママ?!」

 アスカの中で、母の声が木霊する。一瞬だけ聞こえた、優しい声。求め続けた声。弐号機の中にいるとき、アスカはいつもその存在を感じていた。だが、いま少女の母親は、彼女を守ろうとさらに強く覚醒していた。

 母の思いを感じる。強いが、包み込むような優しさだった。死んではだめ。

 ありがとう...だけど、どうすれば?

 何の衝撃もなく、使徒の「刃」が弐号機の肩口からすっと引き抜かれ、両者は格闘戦の距離をとったまま立ち止まった。アスカは自由のきく左手で残った最後の武装、プログナイフをウェポンラックから出して構え、使徒に跳びかかろうとする。だが、そこまでだった。真紅の巨人からは力が失われ、ナイフを構えた姿勢のまま停止する。

 弐号機、活動限界。

 ジオフロント上は時が氷結したかのようだった。弐号機と対峙したまま14使徒も動きを止め、両者はなおも一点にとどまっていた。

 

***

 

 シンジの足元を狙った初弾ははずれた。ゲンドウが再び引き金を絞り上げようとした時だった。

 爆発とともに隔壁が破壊され、シンジのすぐ後ろから戦自部隊がなだれこんできた。シンジはその衝撃で体勢を崩し、膝を突いた。

 一瞬、ゲンドウは応戦すべきかためらい、シンジから銃口をそらした。侵入した部隊は小さく散開すると間髪を入れず、白い巨人へと連なる線上にいる3人に向けて、一斉射撃を行った。

 銃撃はシンジの薄い背中を貫き、同時にレイとゲンドウをも射殺する−−そう思われた。

 

 だが、戦自の隊員たちは信じ難い状況を経験することになる。

 それは瞬間のことだった。目の前にオレンジ色に輝く半透明の「壁」が展開されたように見えた。

 放たれた弾丸は全てはじき返されていた。ATフィールド?そう判断する猶予もなく、「壁」はさらに爆発するように戦自部隊に迫った。

 「壁」の位相は不確定だった。結果、戦自部隊は面による圧力ではなく、空間の歪みによってねじられるように圧殺される。苦悶の声を出す猶予もなく、ただ武装の誘爆する乾いた音だけが、断続的に伝わった。そのまま「壁」は、何の動きもできない隊員たちを無慈悲にすり潰しながら膨張し、ドグマの内壁にぶつかると、やがて消えた。

 最後のオレンジ色の煌めきが失われた。壁面には、いくつもの赤黒いシミと戦闘服の端切れがはりついていた。他には何もなかった。再び、ドグマを沈黙が支配する。

 

 シンジは再び立ち上がり、駆け出そうとした。だが、その必要はなかった。レイが、小走りにシンジをめざして駆けていた。シンジも二歩、三歩と踏み出す。二人の距離が、フレーム・バイ・フレームで縮まる。

 指が触れる。

 身体が重なる。軽い衝撃。

 蒼みがかった銀髪が、シンジの頬をかすめる。

 確かめ合う抱擁。そして、想いを注ぎ合う抱擁。

 言葉はいらなかった。シンジはレイの手をとり、ドグマから脱出する。遠い伝説の中で、楽園から放逐された恋人たちのように。荒野に新たな世界を二人で開くために。

「レイ!」

 後ろでは、ゲンドウが膝をつき、、右腕をかかえ込むようにして背を丸めていた。銃は足元に落ちたままだった。走り去るシンジとレイの後ろ姿を追い求めながら、ゲンドウは身体を震わせ、うめき声を発していた。断続的に言葉がこぼれ、ドグマに虚しく響く。

「頼む...待ってくれ...レイ!」

 ゲンドウは鳴動がさらに大きくなるのを聞いた。遠い鳴動と身体の内奥からの鳴動。両者はしだいに重なり合い、唱和し、無限に大きくなっていく。

 

 ...をををををを...

 

 アダムの幼生の鳴動が、ついに物理的干渉となり、ゲンドウの右手が白い光を放ち始めていた。同時に、リリスの白い巨体にも、小さな痙攣が走っていた。

 ゲンドウは床に崩れ落ちた。眼鏡が外れて弾む。右手のアダムの鳴動と、絶望の苦悶がシンクロしていた。ユイ...幾度もその名を呼ぶが、組織が崩壊を始めた喉元から吐き出された息づかいは、もはやヒトの声ではなかった。

 このままでは、ゼーレのシナリオ通りになる。おのれの補完が無に終わったことをさとり、ゲンドウはなおもうめく。

 

 ...をををををを...

 

 鳴動はいやましにドグマの底に響いていった。

(わたしはあなたの人形じゃない)

 少女の形をした存在は、無言で走り去っていった。だが、ゲンドウはレイがそう告げる声を、確かに聞いたような気がした。

 

***

 

 薄闇の中を、少年と少女は手を取り合って疾走した。遠い呼び声を、一瞬レイは聞いたように思ったが、それはもはや彼女の足を止めるものではなかった。

 ドグマから初号機ケージまでの直通ルートは、レイが知っていた。シンジはショートカットを進みながら、ミサトが残した言葉と端末から入る途切れがちな情報をもとに、現下の状況を把握していった。そして不意に、シンジはドグマでの夢幻のような事象の意味をさとる。

 あれは、ATフィールドだ...いったい何をしたんだ、父さん。

 そして同時に、シンジは事象のさらに深い意味を知る。

 あの時、自分は父と戦自部隊の間にいた。

 背後からの射撃を受け、あのままだったら瞬時に射殺されていたはずだ。だが、ATフィールドは自分の背後に発生した。シンジは知っている。ATフィールドは攻撃に対して本能的に展開されることを。それは他者を拒む絶対領域だ。そして自分は、その「内側」にいた。

 父さんが、守ってくれた。

 僕は拒絶されていなかった。僕はいらない子供じゃなかった。

 シンジの目から、涙がぼろぼろとこぼれた。泣かないって決めたのに、二人でどこまでも行くために、涙で道を曇らせてはいけないのに。それでも、止まらなかった。

「初号機へはここから非常用ルートで行けるわ」

 レイはそう言って、シンジの手を引いた。ダクトを通る経路も、そろそろ終わる。シンジはなおも流れ続ける涙をぬぐい、身構える。

 ダクトを、出た。周囲を確かめ、ケージへ通じるエレベータにとりつく。

 事実上の廃棄区画となっていた非常ルートは、薄暗く、埃の臭いがした。侵入者の姿は、ない。電源は生きていた。少年は上方を仰ぐ。

「行こう、綾波!」

 初号機へ。

 

<つづく>

2007.9.16(2008.3.15改訂&オーバーホール)

Hoffnung

<補 記>

 冒頭の詩篇は、D.H. Lawrence "The ship of death"からランダムに抜粋・意訳したものです。こんなところで使ってしまってすみません>文学者の皆様。

<幕間 ごあいさつ2>

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