まどろむ綾波さん − Golden slumber −

 

 

綾波レイは、夢を見た。

 

 

身体の輪郭がさだかでない。

暗闇では、ない。そうであれば五感が閉ざされ、何も感じないで済む。薄い、ごく微かの光を感じる。光源も、さだかでない。いたずらに分散し、自分をぼんやりと照らしだす。

自分?わたしがわたしでなくなる感じ。透き通った身体の肌理を透過して、わたしが流れ込んでくる。

 

「わたし、生きてる」

 

流れ込むのはわたしの心?わからない。嬉しいの?わからない。

思いはおぼろなままに。本当に生きているの?よく、わからない。偽りの包帯。偽りのわたし。

記憶が混乱する。

周りは廃墟だった。いや、時を経て摩耗し、風化した廃墟ではない。たった今、激烈なエネルギーの解放によって荒々しく破壊された都市のむくろ。そしてオレンジ色に染まった終着の浜辺。

わたし、なぜここにいるの?いても、いいの?

流れ込んできた思い。綾波レイという存在が、特定の時空間において経験した事象のデータ。

それだけ?

違う、と思う。

再び、記憶が混乱する。

身体が、重い。それは当然のこと。LCLの中をたゆたうだけの、時が存在しないわたしから、ヒトとして時を刻んで間もないのだから。

わたし、なぜここにいるの?いても、いいの?

あの人は、いない。床に落ちた眼鏡を拾い上げたことは憶えている。何も感じなかった。わたしを呼ぶ声は何の意味もなかった。

他人を求めることをおぼえたのは、「この」自分ではない。だが、気がつくとレイは少年のそばにいることを選んでいた。

寂しいの?きっと。何を望むの?共に生きること。

レイは少年を抱きしめていた。こころの欠片を手に入れた彼女が、うつむき、少年の髪をそっと撫でる様子は、慈母を思わせた。少年はものを言わない。

これがわたしの望み?違うかもしれない。でも、これでいい。暖かいのだから。

腕の中にいるのは、赤子。「世界」に帰ってきた少年の生命は、ひどくはかないものだった。ダミーシステムの残骸と残されたデータからできることは、これだけだった。少女には、乳をやることもかなわない。

−−綾波が、よければ。

記憶はどうしよう。あのこと全てを、再びこの寝息をたてている赤子に刷り込むのだろうか。それとも、形態が安定するまで?わからない。少年を形作ってきた人とのふれあい、その多くは彼の自我を不安定なままにしたことを知っている。やがて、クラスメートとの出会い。葛城三佐との出会い。弐号機パイロットとの出会い。そして...

わたしとの、出会い。満ち足りたものではなかった。あなたが思ってくれたことを、わたしは知っている。そのことを、あなたに知ってほしい。そしてそのことを知っているあなたを、知っていたい。

ループしそうになった思いを、レイは必死におさえる。だが、何も記憶を与えずに育てた時、この子はわたしを見てくれるだろうか。あの時のように、微笑んでくれるだろうか。

−−お母さん、て感じがする。

成長を物理的に促進することはできても、多くは期待できない。本当にこの子はわたしを受け容れるだろうか。

レイは不安になる。だが、今はこの、小さく暖かい命を腕に抱くだけで、満たされる。生きているとは、そういうことかもしれない。赤子は目を閉じ、まだ眠ったままだ。黄金のまどろみ。

小さな手を、握る。そして何を思ったか、レイはその手を自分の胸に押しあてる。目覚めていたら、赤子はその小さなふくらみに自ら手を押しあてたかもしれない。

思い出すのは、あの時のことだった。

−−ずっと、そうしていいから。

また、髪を撫でる。繊細な指が、赤子の綿のような髪にからんだ。

レイは知っている。突然激しく泣き出し、自分を当惑させる赤子を。ミルクを飲む先からおむつを汚していく赤子を。わたしにはそんなことはなかった、そう思う。生まれ落ちてからの絆が、欠落していたのだと知る。

−−あなたは、わたしが守るもの。

赤子は、半眼のまなざしのまま、微笑んだ。夢を見ているのだろうか。つられてレイも微笑む。14才の慈母は片手で自分の髪をかき上げ、半眼の赤子をのぞき込むと、目を合わせようとした。

−−何を見てるのかな。

周りは、黄昏ようとしていた。ぬくもりに包まれた二人は、天使の微笑みをたたえたまま、じっとお互いを見つめ合っていた。

 

 

綾波レイは、夢からさめた。

 

 

満ち足りたような、だがどこか哀しい夢だった。 

うっすらと戻る意識の中、間近で寝息を立てる、少年から青年へと変わろうとする横顔が見える。何もまとわぬ胸のふくらみに押しあてられた掌に顔を赤らめながら、日射しに反射する髪を、白い繊細な指が撫でた。

 

「わたし達、生きてる」

 

 

 

 

 

 

 

-- Oktober 22, 2000


■By Hoffnung

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