リニューアル --Goodbye, blue sky--

 

零式)

 梅雨時でも、晴れるときは晴れるものだ。「あの夏」を思い出し、おれは額の汗をぬぐった。昼飯時、行き詰まりの群体が街中をうねり進む。

 渋谷駅前。あの少女はいない。

 初夏の日射しはやけに鋭く、空は切ないほどに青かった。

 

壱式)

 おれはパソコンをシャットダウンした。HDがデカくなり過ぎたせいで、延々とディスクのスキャンが続いている。チッ、とアスカ様のような舌打ちをして、おれはモニタの電源だけ先に落としてオフィスを後にした。

 時計を見る。まだ間に合う。今日はリニューアルDVDの発売日だ。いちおう健全なリーマンを演じている(はずの)おれだが、先行予約もした手前、初日にゲットしたいのだよ。

 日が長くなった。まだいくらか明るさが残る。

 オフィス街を足早に歩く。生暖かい風が首筋に絡みついていた。雨でもくるか?そう思ったとたん−−

 弾雨が降ってきた。

 ぎゃっ、とわめいておれは尻もちをついた。見れば、薄闇を切り裂くような強烈なサーチライトが何本も交差している。上空では、おれが実家にいた頃にしか聞いたことのない、戦闘機の衝撃波が走っていった。

 それだけではなかった。

 ♪ビっルぅの街ぃにガオー...だった。

 ここ渋谷の宮益坂を、青山方面にむけて歩む巨大な黒い存在は、間違いなく第三使徒・サキエルだった。

 マジっすか。

 呆けたような独り言が、おれの唇からこぼれた。誘導ミサイルが次々と使徒に命中する。だが、それが何の効果もないことをおれは知っていた。ATフィールド。なんで現実世界でそんなものを目視確認せにゃならんのだ。

 どうもこれはシャレではなさそうだった。強襲ヘリが「壁」に激突して墜ちてゆく。いや、兵器には詳しくないが、あれはこの世界には存在しないVTOLだ。たしか、この展開だと−−

 来たっ!

 目標を外れて着弾した巡航ミサイルが爆発し、おれは爆風に吹き飛ばされる、はずだった。だが、すぐ脇にゴムの焼ける臭いとともに急停止したルノーによって、その危機は回避された。

「ミサト、さん?」

「よくわかったわね、碇シンジ君」

 げろげろ。思いっきり信じ難い状況だったが、実写版の葛城ミサトならばかくあらん、というセクシー系美女を前に、おれはエヴァ世界にトリップしたことを知った。自分の服装を見ると、さっきまでのスーツ姿ではない。直観だが、体も小さくなってしまったようだ。

 これって、逆行物?いや、今は2003年だったはずだし、未来にトリップしたとか?ていうか、そもそも世界観が違うだろ。

 茫然としたまま、ミサトさんの−−彼女の設定年齢よりも、おれの方がだいぶ年上だったが−−車の助手席に乗り、おれは一つの重大なイベントをミスしたことに気づいた。

 綾波の幻影と、逢えなかった。

 くそっ、だがいいのだ。これからエヴァ初号機のケージに連れていかれて、おれは綾波と劇的な出会いを果たすのだ。ヒゲオヤジからいたいけな少女を奪ってやるのだ。ふっふっふ。アンタは用済み。そしておれは綾波を引き取り、愛欲の限りを尽くすのだよ。それが人間として一番リアルなのだよ。

 本編どおり、エヴァのケージには碇ゲンドウが立っていた。ちなみに言うと、実写版の赤木リツコ博士も、マジ美形だ。アニメ世界にトリップしながら、実写版できれいなおねーさんと共演できるとは眼福至極だぞ。

 ヒゲオヤジの恫喝など、ぜんぜん迫力はなかった。交換条件を山ほどつけてエヴァへの搭乗を了承してもよかったのだが、おれの心中は綾波に逢いたい一念だった。

「乗るなら乗れ。でなければ帰れ!」

 うるさいオヤジだな。ここは、とりあえず拗ねてみせて、「レイを呼べ」と言わせよう。そして傷だらけの彼女を優しく抱きかかえてやるのだ。初めて触れたときから、何かを感じさせてしまうのだ。実写版の綾波は、どんな感じだろうか。まさか広○だったらプププだぞ。

 だが、どんなに子供っぽく拗ねてみせても、ヒゲオヤジは綾波を呼ぼうとしなかった。ヲイヲイ、そんなに可愛いのかよ。おれはしびれを切らせて、言ってやった。

「父さん(おえっ!)には、綾波がいるじゃないか」

 そうおれが言い放つと、ヒゲオヤジはうっ、とつまった。目の表情までは見えない。

 だが、それだけではなかった。ミサトさんも、リツコさんも、まわりの空気が微妙に固まった。

「ちょっと...何を言っているの、シンジ君?」

 リツコさんが本気の心配顔でおれをのぞきこんだ。悔しいが、背はおれより高い。

「そんな人はどこにもいないわ」

「だって...零号機が綾波、初号機が僕で、弐号機は...」

「エヴァはここにある機体だけよ。ナンバーだってないの。あなたの他には、本当に誰もいないのよ」

 こんどはミサトさんが怖い顔になった。

「いないって、エヴァのパイロットは、チルドレンは?」

「チルドレンは複数形よ。でも、エヴァのパイロットは世界であなただけ、だからあなたは地球上で一機しかないエヴァのために選ばれしチャイルド。人類の命運はあなたの肩にかかっているの」

「アスカは?カヲル君は?」

「あなたの言っていることがわからないわ。さあ、早く搭乗準備をしなさい」

 そんな...これは...綾波がいないエヴァ世界?!そんな、バカな...おれの華奢な肩に、リツコさんの指が食い込んでくる。鬼気迫る顔は、実写版でも十二分に怖かった。

「うそだ−−−っ!」

 

弐式)

 目が覚めると、おれはベッドの上だった。

 夜中だろうか、あたりは暗いが、部屋がホコリっぽい。そればかりではない。空気がひどく重い。消毒液の臭い?小さな呻き声が、壁を隔てて聞こえる。

 その時、部屋に明かりがともった。天井では、大きな扇風機がゆっくりと回転し、暑苦しい部屋の空気をかきまぜている。おれは体を起こそうと思ったが、自由がきなかかった。鎮静剤のせいだろうか。

 冗談ぬきで、見知らぬ天井だった。

 だが、そうするうち、部屋に入ってきた人影は、おれの枕元に寄り、椅子に座った。

 綾波だった。

 ぼんやりとした意識の中で、おれは前の日からの−−と言っていいのだろうか−−出来事を思い出した。

 やっと会えたね、綾波。

 その言葉は声にならなかった。随意筋への意思伝達が、まだうまくいかない。

 薄暗い燈火の下で見る綾波は、この世のものとも思えなかった。正しく、月の処女神アルテミス。白く細い手。逆光で眼の色はわからない。髪は...?

 綾波の周囲の映像も眼がひろい始めて、おれは奇妙なことに気づいた。

 防空頭巾の綾波。

 エトセトラ、エトセトラ。

 どう見ても、この部屋は旧式の木造だ。遠い昔、田舎の小学校で、見覚えがあるような。今、おれの鼻腔を突いているのは、ワックスのしみた床の臭いでなく、消毒液臭だったが。

 病院?いや、そういうには、あまりに前時代的すぎる。だが、それより確認したいことがある。おれは、おそるおそる目の前にいる少女に聞いてみた。

「あの...使徒は?」

 やっと、声が出た。

「目標は現在、本部施設に向けて侵攻中。120分以内に接触の計算よ」

 おおっ!林原ヴォイスだ!やっぱり、綾波は綾波だ。おれはガラにもなく涙目になった。だが、それと同時に冷たい現実にも気づく。ここは、やはり使徒のいる世界だった。

「テレビジョン放送をつけてもいいかしら?」

 こくりとうなずいてはみたが、「テレビジョン放送」とはまた旧式な...

 だが、それは「テレビジョン放送」以外の何物でもなかった。

 盟聯際國?

 何だそれ?

 混乱した意識の底で、突如としておれには状況が飲み込めた。国際連盟だ!これは...おれは...

 正真正銘、時間を逆行していたのだ。

 きめの粗い白黒画面では、零戦部隊に守られながら、どこかで見覚えのある胴長の飛行機が、焼夷弾を目標に落とし続けていた。

 これは、B29?

 あのハーケンクロイツは?

 目標の巨大な正八面体はびくともしない。白黒画面だが、その色は青いに違いない。

 相手は、ラミエルだ。

 何と...この世界では、人類の存亡を賭けて、わが帝国陸海軍が、鬼畜米英が、そして友邦ナチス・ドイツが、使徒との戦いに全軍を挙げて臨んでいるのだ!!

 それじゃ、決戦兵器って...

 かすれた声で、おれは約束された問いを投げかける。

「綾波は、あれに乗るの?」

「そうよ」

 ぽつりと綾波が言った。もの凄く、イヤな予感がした。

「あなたは死なないわ。わたしが守るもの」

 違うんだ、綾波。そんなんじゃないんだ。おれは起きあがろうとしたが、身体の芯がしびれてできなかった。満足に動けないことを、おれは心の底から呪った。

「あ、あ・や・な・み...」

「心配しないで...フェルミ博士やオッペンハイマー博士からも、<秋津島作戦> には激励の電文を頂いているわ」

 そんな。

「さよなら」

 小さく敬礼する綾波。白く細い手。

 去ってゆく少女は、ヤシマ作戦の時に救出された綾波が見せたのと、寸分たがわぬ微笑みをおれに返した。

「うそだ−−−っ!」

 

参式)

 目が覚めると、おれはベッドの上だった。

 いや、違う。目線を横に流すと、畳の上にいることに気がついた。布団に、寝ている?

「をを、お目覚めか、碇の若?」

 すげーイヤな予感がした。

「どうじゃった、白子の娘の味は?初物はひと味違うといいますぞ」

 状況確認をする以前に、ケンスケが間違って風俗店のボーイになったようなやーらしー声を聞いて、おれは「うそだ−−−っ!」と絶叫したくなった。

 案の定、着ているものは和服だった。絹らしいことは、おれでもわかった。ベッドと間違えるほどの柔らかい布団。部屋の片隅には紅い淫靡な行燈がひとつ。そしてもう一方の隅には...

 こちらに背中を向け、うずくまって肩を震わせる少女がいた。おれは身を起こし、少女ににじり寄った。

「おお、さすが碇の若、またまた催してござるか。血は争えませんなあ」

「来ないで!」

 振り向いた少女は、綾波だった。髪が少し乱れ、真っ白な着物の胸ははだけて、雪ん子レイちゃんのエロスのきわみ...じゃなくて。

 綾波は、眼にいっぱい涙を浮かべ、それでもおれへの憎しみと蔑みをこれでもかとばかりに放射していた。

 この状況って...「碇の若」?...居並ぶニヤけた面々の顔を見れば、おれの頭にもチョンマゲがついていることは間違いなかった。おぬしも悪よのお、ってか?

「それまでじゃ」

 タン、とフスマが開き、入ってきたのは冬月先生だった。先生、それハマリ過ぎっすよ。

「老中筆頭、冬月伊賀守である」

 それから、くどくどと冬月先生の説教が始まった。太平の世をいいことに、遊興三昧、まことにもって不届き、なんたら、かんたら。

 で、使徒は?

 なんて聞く気も、もうおれの中からは失せていた。

 これは <大江戸学園エヴァ> だ。間違いない。ちょっとばかし、エロっぽいが。どうせ、時代考証もいいかげんで、「エド・シティ」なんぞが舞台になっているのだろう。

 だが、そんなおれの感慨も、次の瞬間に飛び込んできた異人風の娘によって木っ端ミジンコに爆砕された。

「バ〜カシンジ〜!!」

「ア、アスカ?!」

 ついつい条件反射的に、情けない声を返してしまう。

「ちょっと目を離したすきに、この許嫁のアスカ様がありながら、こんなケチくさい小娘とヤッちゃって...たかが下僕の分際で!ま、まさか中出しなんてしてないでしょうねっ!」

 何とお下品な...じゃなくて、忘れていた。エヴァ世界にトリップすれば、とうぜんアスカだっていることに。確かに、文句のつけどころのない美少女だ。<大江戸学園エヴァ> なんて安直な世界観だと、南蛮人との混血にでもなっているのだろう。しかし...

 顔を鋭利なツメで引っかかれ、ボコボコにされたあげく、チョークスリーパーで絞め落とされながら、おれはこの世界観から脱出するための呪文を、口から泡を吹きつつ死に物狂いで吐き出していた。

「うそだ−−−っ!」

 

四式)

 目が覚めると、おれはベッドの上だった。

 蒸し暑い。

 目の焦点が定まらない。身体も痺れている。天井もよく見えなかった。

 浅い眠りの後、再び目が覚めるとセミの声がかすかに聞こえた。横になったままだと、窓の向こうには空だけが見えた。

 小さくノックをする音に続き、おれが返事をする間もなく、ドアが開いた。

 入ってきたのは、中学の制服を着た、本物の綾波だった。理想的な造形だ。

「気分はどう?」

 それだけ言うと、少女は備え付けのパイプ椅子に座った。白い部屋。射し込む朝の光。静かな時が流れる。このうえなく満ち足りた沈黙の時。おれが望んでいた、エヴァ世界だ。

「何を見ているの?」

 おれは物言わずに、小さく微笑んだ。君がまぶしくて...なんて気恥ずかしい言葉はさすがに口にできなかったけど。

 遠いセミの声。またしばらくの沈黙。

 沈黙を破ったのは、病室に入ってきた新たな来客たちだった。

 ミサトさん...トウジにケンスケ、それに委員長も...みんな笑顔だ。

「早く会いたいって言うから、連れてきちゃった」

 ああ。このエヴァ世界では、使徒戦はどこまで進んでいるんだろう。それとも、使徒の来ない、平和な世界?

 その時、強烈な地響きが起きた。病室の窓が衝撃波で割れた。ミサトさんの顔が歪み、綾波は椅子から転げて床にうずくまっている。緊急連絡が入ったのだろう、電子音がミサトさんをせき立てている。

 ジオフロントに直接侵攻?...ならば、ゼルエル!

 おれは思わず起きあがった。綾波を抱きかかえ、ミサトさんの方を見る。この世界のエヴァがどんなモノかは知らないが、目の前の少女を守りたい気持ちは、真実だった。

 だが。

 あれ?

 クラスメート達は、床に崩れ、不自然な方向に手足をねじ曲げながらも、へらへらと変わらぬ笑みを浮かべていた。

 ミサトさんの顔がなおも歪む。てゆーか人間、ふつうそんな歪み方しないぞ。

「ばれてしまったようね」

 おれの顔も、人間離れした歪み方をしていたに違いない。

 ずるり、とミサトさんの顔から皮が剥がれ落ちた。音声ユニットも一緒に外れて落ちたのだろう、調子外れの声で「エヴァに乗れるのは、あなたしかいないの」と言う台詞は、床の上から聞こえてきた。

 ミサトさんであったモノは、セミ人間だった。いや、かろうじて人型と認識される、大型昆虫だった。窓ごしにずっと聞こえていたセミの鳴き声は、この街の喧噪そのものだったのだ。

「...あなたが...最後の...人類だから」

 綾波−−

 さっきの爆発で、両腕が吹き飛んでいた。いや、あれは義手だったのだ。白い中学の制服のブラウスははだけて、毒々しい黄色と黒の「本体」がかいま見えていた。キチン質の外骨格は何か所も破損し、体液が漏れだしていた。体節の間の剛毛がときどき痙攣するようにはね上がる。

 水色の髪は、本物だったらしい。目も鼻も口も、まったく別の箇所についているのがすぐに分かったが。

 おれは不思議に平静だった。たぶん、これは最悪の世界ではない。たとえ一瞬でも、おれの心を満たしてくれた哀れな昆虫のために、エヴァと称されるモノに乗ってもいいとすら思った。

 だが。

 おれには確信があった。

 夢の出口はもうすぐ。だから−−

「うそだ−−−っ!」

 

伍式)

 目が覚めても、おれはベッドの上にはいなかった。そしておれは、14歳の少年ではなく、おれ自身だった。

 空が、紅い。終着の浜辺。

 おれは屍だった。

 荒ぶる原初の地球。嫌酸素性生命すらも、まだ存在しない。逆行すれば即死するしかない世界。

 遠い少女の幻影が浮かぶ。君は、リリス?

 噴き上げる溶岩は夏の終わりの花火。降り注ぐ隕石は劫火の流れ星。

「何を願うの?」

 浮遊するおれの意識の中に、ささやく声があった。やがておれの屍は分解し、高分子の有機物質をこの世界に遺すだろう。<奇跡の一撃> があれば、生命がそこから始まるはずだ。それが、ファースト・インパクト。

「それで、いいのね?」

 ああ。

 消えていく意識の中で、リリスが優しくおれの頬を撫でたような錯覚がした。

 

 

--August 23, 2003 試作版 
March 8, 2004 完成版 


<あとがき>

このお話は、プレリリース版を限定公開し、「綾波展」BBS上で批評・感想をいただいた後、微修正して完成版を作りました。ご意見をいただいた皆さまに感謝申し上げます。もちろん、残る不備は全て私の責任です。


■By Hoffnung

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