タマちゃん・使徒になる
夕暮れは、とくべつだ。
降り注ぐ、終わらぬ夏の夕陽は、空き地に投げ出された土管の落書きさえも怪獣に変えてしまう。
「タマちゃ〜ん!」
けっして澄んだとはいえない、町中を流れる川にも、子供たちの顔が反射している。一頭のアザラシが、のんきに川面から顔を出す。
タマちゃんは、今では日本中の人気者である。
最初に目撃されたのは、いつかわからない。だが、それ以来マスコミのアイドルとなり、今はここ地元の第三新東京市民だけでなく、日本のあちこちからタマちゃんを一目見に人々がやってくる。
「タマちゃん、小さいね」
母親に手を引かれた小さな女の子がいう。どんな姿を想像して来たのだろうか。少なくとも、タマちゃんはゾウアザラシでもなければ、セイウチでもない。
「呼んでごらんなさい、手をふってくれるわよ」
母親がうながす。
「タマちゃ〜ん!」
女の子は声をかぎりに叫んだ。すると、そのアザラシはくるりと水中で一回転して、ヒレ−−つまりは前足をひるがえした。
「うわ〜っ!」
歓喜の声を女の子はあげる。こたえてくれたのだ。幼い心にしるされた喜びは、ずっと消えないだろう。
「可愛いわね」
葛城家である。惣流・アスカ・ラングレーがお菓子を頬ばりながらいう。
「でも、ちょっと可哀相だな。あの川じゃ」
碇シンジがもっともな感想をのべる。
「あの子、帰るところないもの」
いきなり本質を綾波レイがついた。 そのひざの上には、新種の温泉ペンギンが座っている。この子とは、たしかに境遇が違う。
だから、今はタマちゃんにとって一時のラッキータイム。みんなが見てくれる。エサだって、たまに投げてくれる。
ネルフは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
米国の第二支部が、まるごと消滅したのだ。S2機関の実験中に、四号機とともに、支部がもろとも消えた。赤木リツコはディラックの海にのみこまれたのではないかという。真相はわからない。
結局、開発をほぼ終えたエヴァ参号機は、日本が引き取ることになった。それにともなって、フォースチルドレンの選定も進められる。
タマちゃんは夜どうしているのか。
まさかテレビを見て寝そべっているわけではない。いや、立った姿は想像できないので、寝そべってはいるかもしれないが、それ以外は想像の外にある。
今日のタマちゃんは、川の土手で涼をとっていた。水草が茂り、夜ということもあって、人目にはつかない。
「たまや〜、かぎや〜」
これは、自分のことではなさそうだ。アザラシの視力のほどは定かではないが(しかし魚眼ではないだろう)、夜空を突いて打ち上げられる色とりどりの花火は、タマちゃんにとって不思議中の不思議だった。
きっと、タマちゃんもいっしょに空に舞いたいにちがいない。
「初期コンタクト問題なし」
「絶対境界線、突破します」
その時、非常事態を告げるブザーが鳴った。
「パイロットの心理グラフに異常発生。シンクロ率、20... 15... 12... 10... 起動限界を切りました」
禍々しい光を帯びていた参号機の両眼は、ふたたび暗くうつろになると、スタ ッフがいかに設定を変更してみても、起動することはなかった。
酔っぱらいが一人。夜道をふらふら歩いている。
「かわちのぉ、タマちゃんのうたぁ〜」
おっさんと一緒にしてくれるな、とみんなのアイドルからいわれそうだが、酔漢は上機嫌だった。
「ほうちょうい〜っぽん、さらしにまいて〜」
こんどは何なんだ。
「まってて、タマちゃん」
第三新東京市に法善寺横町はないのだが。
そんな酔っぱらいのおっさんが、いきなり柔らかな壁のようなものに当たって、ぼよよんとはねかえされた。尻もちをついて、おっさんは前を見る。
暗い。
目をこらす。闇の中、黒っぽい壁。目線を動かす。右を見ても、左を見ても、どぶ臭いプニプニの壁。そこで、上を見る−−
「うわ。タマちゃん!」
そこには、巨大化し、体長40メーターはあろうかというタマちゃんがいた。
と、ここで本来ならば、巨大化タマちゃんの咆吼が入るのであるが、残念ながらアザラシの鳴き声を描く擬態語を知らない。
「ある〜ひ、まちのなか、タマちゃんに、であった!ぎゃおう」
酔漢は、なおも脳天気に歌い踊りながら、いちおう逃げ去る努力をしたが、腰がぬけてその場にへたりこんでしまった。しかしあっぱれ、彼は懐中からケータイを取り出すと、写真をとりまくり、あちこちに転送し始めた。
巨大化タマちゃんは、そんな酔漢のおっさんには目もくれず、「ぱお〜っ」と(とりあえず、これでいこう)さけぶと、あたりの古びた建物をもっそりと破壊しはじめた。
「うわあ、タマちゃん怪獣あらわる!」
「名前なんていうの?」
「タマちゃんだから、タマゴン!」
「シュミわる〜」
そういうあいだにも、タマちゃんは町の破壊に余念がない。
「光線は吐かないの?」
「どんな光線かな」
「ヘドロ光線!」
「シュミわる〜」
このようすは、さすがに報道管制のため、全国放送されることはなかったが、昨夜の酔漢のとった写真は、日本中の話題となっていた。
「入れてくださいってば」
ネルフ保安部との間に、こぜりあいが生じている。幹線道路を封鎖され、取材のできないワイドショークルーが、あせっているのだ。今しもお昼過ぎの、ワイドショータイムである。
「ぱお〜っ!ぱおぱおっ!」
「おお、タマちゃんがほえています。視聴者のみなさん、あれがタマちゃんのメッセージです。それでは、ここでおしらせを...」
保安部の者も、困り果てていた。道の封鎖はしてあるが、タマちゃんの上半身は、ビルの谷間からかいま見えるのだ。そして、航空管制もしてはみたが、報道関係者の飛ばす無人偵察機までは、すぐには止めようがなかった。
「ちっ」
いらいらしながら空を見上げた保安部員だったが、タマちゃんに接近した無人偵察機が一瞬で砕け散ったのを見て、顔色が変わった。
ほのかに見えた、オレンジ色の半透明な壁−−ATフィールド。保安部員は、簡易目標探知機の反応をあわてて確認した。
「使徒ですっ!」
Neon Genesis Evangelion
Extra episode: No angel, nocry
「シンジ君?今すぐレイとアスカと一緒に本部に戻って」
タマちゃんさわぎで学校が休みになったため、葛城家で夕食の準備をしていたチルドレンであった。そんなかれらに、伊吹マヤからの緊急連絡が入った。
「大変なことが起こったの!」
エヴァに搭乗し、武装して繰り出したシンジたちであったが、前線に出るや、脱力感にうたれた。
「目標って...目標ってこれなのか?」
目の前には、巨大化したとはいえ、愛くるしいアザラシがいねむりをしている。
「だってこれは...タマちゃんじゃないか...!」
レイやアスカも、無言だ。そこに、総司令・碇ゲンドウからの指令がとぶ。
「シンジ、これはもうタマちゃんではない、使徒だ」
そんなこといっても...シンジは動き出すことができない。
陽が、傾いている。
レイはパレットガンをタマちゃんに向け、照準を合わせた。
「泣いているわ...」
使徒が攻撃するときの「間合い」のようなものを、レイは感知する能力を身につけていた。 今は、その気配はない。
何やら戦闘意欲はわかないが、アスカはお約束通り、華麗に舞い上がると、鋭利なキックを放った。
タマちゃんのまわりに、目視可能なATフィールドがキラリと発生する。しかし、アスカの強烈な蹴りはそれを突き破って、タマちゃんの脇腹にヒットした。
「ぱおぱお〜ん」
タマちゃんがのたうちまわる。動きも鈍く、反撃の気配はない。
「何してんのよ、バカシンジ、ファーストも。とどめよっ!」
アスカはプログナイフを抜き、タマちゃんに迫る。シンジもパレットガンを構えてその後を追った。
「やめろ〜っ!」
「タマちゃんを殺さないでぇ!」
「ネルフには、血も涙もないのかよ!」
子供たちばかりではない。市民たちが、口々にネルフを、そしてエヴァを責めた。これまでのように、使徒の襲来が確認されてから、市民をシェルターに向かわせる、というだんどりが今回はなかったのが失敗だった。
「カ・エ・レ!カ・エ・レ!カ・エ・レ!」
いまや群衆の大合唱である。中には、届かぬとはいえ、エヴァに物を投げる者まで出るしまつだ。
(あの子、帰るところないもの)
レイのことばをシンジは思い返していた。それは、真実だ。使徒は、葬られるためにのみあらわれる。さもなくば、人類の滅亡。
(帰るところ...)
注意がそれたところで、いきなりシンジの頭を殴りつける鈍い衝撃があった。半立ちになったタマちゃんが、そのヒレで初号機を張り倒したのだった。
「くっ...」
仕方ない、とばかりにシンジはパレットガンを構え直し、アスカの弐号機と一緒にタマちゃんへの距離をつめる。しかし−−
「綾波?」
シンジとアスカの前には、レイの操縦する零号機が立ちはだかっていた。
「何すんのよ、ファースト!」
「レイ!命令違反よ!目標を攻撃しなさい」
ミサトが叫ぶ。しかし、零号機は腰を低く落とし、シンジとアスカを迎えうつ態勢をとった。
「いいぞぅ、青いの!」
「やっちゃえ!」
「ぼくのタマちゃんを守ってぇ!」
二対一のエヴァどうしのにらみ合いは、なおも続いた。
「回路をダミーシステムに切り換えろ」
発令所では、ゲンドウが業を煮やして無謀ともいえる指令をだす。
それはアスカが絶妙のフェイントでレイの防御を崩し、一気に目標にプログナイフを突き立てようとしたときだった。
「ぱお〜っ。ぐるぐるぐる...ぱふ、ぱふ」
タマちゃんの声が、変わった。
警戒したアスカの出足がわずかに鈍った。レイはタマちゃんとの間に身を投げ 出す。
「くうっ...」
アスカの繰り出したプログナイフは、レイの乗る零号機の腕をざっくりと切り裂いていた。タマちゃんを刺激しないよう、ATフィールドをおさえていたのが裏目に出た。
さすがにアスカは戦闘訓練をうけただけのことはある。レイの状態が致命傷ではないことを見ると、二の矢をつぐべく、ふりかぶった。
アザラシの心臓がどこにあるか、実はアスカも知らない。そもそもコアの所在も、わかってはいない。だが、およその解剖学的知識から、心肺系の部位を憶測し、アスカは必殺の一撃をタマちゃんに加えた。
しかし、その攻撃は空を切った。
タマちゃんは、崩壊を始めていた。
「寄生タイプの使徒...やはり生身の動物には限界があった」
リツコは、いっそう虚無的な表情になって画面に見入った。
「だめなのね、もう...」
レイは崩れゆくタマちゃんをただ見るしかできなかった。ATフィールドが失われれば、その巨体は維持できず、自重で潰される。
「何よ、これ...」
アスカももう手出しはできない。茫然と、自壊する使徒を見つめた。
その中から、線虫のようなモノが這いずり出る。
「これかっ!」
シンジはそのモノを追った。それは初号機の腕に絡みつき、新たな寄生のための宿主をもとめようとするが、憎しみに燃えた初号機の放つ強大なATフィールドによって封じられた。シンジがその「場」を力いっぱい圧縮すると、中に封じられた使徒は抵抗もできずに内破し、ぼろぼろに分解していった。
「目標の反応、消滅...」
日向マコトが告げた。その表情は苦い。
レイは瀕死のタマちゃんにそっと手をさしのべた。
「おいで...」
しかしタマちゃんは、もう動けない。レイは残ったタマちゃんの構成物質を手ですくいあげ、さきほどシンジがしたのと同じ方法で、しかしずっと内圧の低いATフィールドの球体を発生させた。
中には、タマちゃんのたましいが入っている。
レイはその球体をふわりとほうり上げた。たそがれの中、夕陽と同じオレンジ色の輝きをもった球体は、ゆっくりと天に昇っていった。それは異類の少女のせいいっぱいの精霊流し。
夕暮れは、とくべつだ。
降り注ぐ、終わらぬ夏の夕陽は、空き地に投げ出された土管の落書きさえも怪獣に変えてしまう。
「タマちゃ〜ん!」
けっして澄んだとはいえない、町中を流れる川にも、子供たちの顔が反射している。 もう暗くなった空に、いつもと違う一番星が顔を出す。
タマちゃんは、今でも日本中の人気者である。
--December 7, 2002
■By Hoffnung