<綾波展スタッフから>
これは「05年回顧企画」に紹介されたジュンさんの「EXPO'70」(トップページは下記URL)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mixed_up/index.htmのレイバージョン・完全版です。ジュンさんにはお忙しい中、本作の完成をお心にかけていただき、本当にありがとうございました。ここに謹んで公開します。
なお、原作の方の「EXPO'70」は、作品属性としては確かにLASに分類されるものですが、昭和40年前後に郷愁を憶える人は属性抜きで一読をお勧めです。「あの時代を題材にした小説」とした作品として読む価値は大。もちろん、チルドレンのピュアな成長と追憶の物語としても。
制服の少女はじっとその顔を見つめていた。
あれは怒っているのだろうか。
それともふて腐れているのか。
少なくとも機嫌が良さそうには見えない。
少女の周りは人で溢れている。
30段ばかりの階段を上がってくる、その場所に少女は佇んでいた。
ほとんどの者はその大きな顔を見上げ、しばらくしてからあれこれと喋り始める。
日本全国、いや世界各地から入場者が来ているから、その言語は様々。
しかし、喋っている内容は大抵が「変な顔」というものである。
数百人の人間の視線の先にあるのは“現在の顔”だ。
直径12mの巨大な顔。
瞳のない大きな目を見開いて、拗ねたように唇を歪ませている。
とてもではないが美しいものと見えはしない。
しかし、何故か惹きつけられる。
それはここが日本中の人々が注目している場所の、しかも中心に位置するシンボル的な建造物だからか。
それとも日本を代表する天才画家だけに、見るものに訴えてくるものがあるのか。
おそらくその相乗効果なのだろう。
だが他の者が数分を経ずに別のものに目を移すのとは異なり、彼女は飽きもせずにじっと見上げていた。
自分は何のためにここに来たのか。
そして、ここからどこへ行くべきなのか。
求める答えをこの“太陽の塔”がすべて承知しているかの如く、少女はその顔を見つめ続けていたのである。
「どうしよう、困っちゃったなぁ…」
ふと口から出てしまった言葉が近くの人に聞かれたのではないかと、
碇シンジは少しばかり慌て気味に周りを見渡した。
だが誰も彼も万博というハレの日に舞い上がり気味で、少年が漏らした言葉などに耳を貸していない。
それが嬉しいのか、寂しいのか。
彼は複雑な笑みを漏らした。
そして彼の耳に甦ってくるのは、あの騒々しい幼馴染の声だ。
“ははっ、アンタ、迷子ワッペン付けといた方がいいんじゃない?何ならアタシが片っぽ持っといてあげよぉ〜か”
入場直前にそう言われたシンジは当然の如く言い返す。
彼にとってこの幼馴染は遠慮なく何でも言える存在だった。
“何言ってんだよ。もう中2だよ、僕は…”
“アタシだって同じじゃない。まっ、もうすぐアンタの方が歳は上になるけどさ。
ね、14歳になるとこの馬鹿シンジ君っ”
にこやかに笑う、明らかに人種が違うが日本国籍の金髪碧眼の幼馴染にシンジは苦笑するほかなかった。
惣流・アスカ・ラングレーという、ドイツ人の血が3/4のこの少女は、
思春期になっても周りの目を気にすることなく隣家の少年にまるでまとわりつく様にして接してくる。
当然学校ではからかわれる対象とはなっているが、彼はそれをどちらかと言えば迷惑に思っていた。
性的に目覚めてきた年頃なので、すぐ近くにいる幼馴染が眩しく、そして何故か煩わしい。
そのあたりの心の振幅具合は得てして本人ほど理解できないものだ。
どちらかと言えば、後者の方に傾きがちになるからだ。
そして、それはこの時も発露された。
少しでも長い間この万博会場にいたい。ひとつでも多くのパビリオンを見物したい。
それは誰しも思うことだった。
何しろ一日で会場のすべてを踏破できるわけがない。
大阪万博の会場は330万m2という途方もない広さ(甲子園球場83個分)の上に、パビリオンの総数が76。
さらにエキスポランドという遊園地もあれば、迎賓館を伴った巨大な日本庭園がある。
“月の石”が目玉のアメリカ館を筆頭に、見物するためにかなりの時間行列に並ばないといけないパビリオンも多い。
それはここを訪れるみんなが了解していたことだ。
したがって、何回か訪問できる幸運な人間はスケジュールを組み、訪れるパビリオンを選ぶ。
しかし1回のみの来場が運命付けられている者は、
目当てのパビリオンを中心にして広大な会場内を歩き回るしかない。
そこで彼らは出来るだけ早く入場し、時間の限界まで退出しないようにしたのだ。
もっとも時間の限界が来る前に体力の限界の方が先に訪れ、泣く泣く会場を後にするのが大抵のパターンだった。
だが、彼らはチャレンジャーだ。
とにかく早く中に入ることは最優先事項だったのだ。
というわけで、惣流家ご一行様と同行者の碇シンジ君は開場前のごったがえす入場門にいたのである。
開場時間は9時。パビリオンの開場はそれに遅れること30分。
30分の時間差の余裕など来場者の心理では皆無に等しい。
だから彼らは走ったのだ。係員、警備員の制止も聞かずに。
そういった、一種の興奮したその場で、彼は幼馴染の少女に耳が痛くなるほど話しかけられていたのだ。
彼女としてもこんな国を挙げての日本万国博覧会に興奮しきりで、
開場前だけにやはり居ても立ってもいられないところだった。
そこで身近な彼に話しかけ続けていたというわけだ。
開場待ちの人の並みの中にいるだけに迷子の心配をするのは当然だが、
上ずっていて大きめの声の上に、白人の容姿を持っているのだ。
少なくとも周囲3mほどの範囲内では目立つことこの上ない。
いくらこの万博に外国人が多数参加や来場をしているとはいえ、絶対数は明らかに日本人の方が多い。
したがって日本語(しかもべらんめぇ調がいささか見受けられる)を喋る彼女はどうしても目を惹く。
だからこそ、シンジとしても面映ゆく、つい彼女から身を離し気味となっていたわけだ。
彼女の方は両親はともかくとして、シンジとは絶対に離れたくないと思っている。
こんな一生に一度のイベントは彼と一緒の思い出にしたかったからだ。
しかしながらそんな殊勝な言葉は彼女の口からは絶対に出てこない。
そこでまたいつものようにからかい口調で言ったものだから、シンジもまたいつものように膨れてしまった。
“そぉ〜だ、いいこと考えた。アンタが迷子にならないように手を繋いでてあげよっか。うん、これっていい考えよね”
精一杯の誘いだったのだが、彼にはまったく届かなかった。
シンジは鼻から大きく息を吸い、頬を少し膨らませる。
馬鹿にするなと言いたげに。
しまったと彼女が思ったときはもう遅い。
彼が言葉にしてしまった。
“そんなこと絶対にいやだ。冗談でも繋いできたら怒るよ”
本人として冗談含みで言ったつもりだが、この言葉は少女の胸にグサリと突き刺さる。
致命傷に近い痛みを負いながらも、彼女は健気に言い返す。
“ばっかじゃない。誰が本気で…”
その後は沈黙だった。
近くで二人を見守っていた惣流家の夫婦は顔を見合わせ苦笑い。
またも娘が失敗したか、と。
隣家の一人息子にアプローチを繰り返すが、見事に不発の連続なのだ。
しかも拒否されるのではなく、感づいてくれないときているから始末に悪い。
そんな二人が微笑ましくもあり、娘がやはり可哀相でもあり。
だから親としては娘のことを後押ししてあげるという結果となる。
何しろこの少年に取り立てて文句がないからだ。
寧ろ生来の鈍感さで娘のアプローチに気づかないことといい、不埒な真似をしそうもない純真なところが気に入っている。
それだから家族の万博旅行に隣家の少年も強制的に参加させたのだ。
娘が心の中で大感謝していることも知っての上で。
当然彼女は“どうして馬鹿シンジも一緒なのよぉ!”と精一杯のポーズで不満を示したのだが。
そんな彼女だったが、この場のアプローチは見事にいなされてしまった。
しかしこのまま放置しておけば、あまりに娘がかわいそうだと
親馬鹿のハインツはシンジの持っていたカメラをひょいと取り上げた。
そして、開場を待つ二人を撮ってやろうとペアショットを娘にプレゼントした。
今日の天気予報は曇りのち晴。
愛娘の表情もあっという間に晴れ、少しばかり引きつった笑顔と晴れやかな笑顔が並んだ。
さて、このまま彼女が内心望んでいた展開ならば、巻頭の少女の一生は大きく変わったものになっていただろう。
この時点で制服を着た少女は未だ千里の地には到着していない。
生まれて初めての新幹線に驚きながら、大阪へと向っているところだ。
みなが待ちに待った開場時間になり、その一分後、碇シンジはひとりぼっちになっていた。
その時彼はようやく手を繋いでおくべきだったことを痛感したのだ。
ただし幼馴染の少女の責任もあったかもしれない。
彼女は叫んでしまったのだ。
“走れ!馬鹿シンジ!みんなに負けんじゃないわよ!”
うん、とばかりに彼は走った。
振り返りもせずに。
すぐ後ろにいる筈の少女に背中を突つかれでもしているかのように、一目散に彼は走った。
よもや、彼女が渡した入場券を係員が落としてしまい、
その時点で15秒の遅れが出たことなど少しも知らずに。
そして、その遅れを取り戻そうと駆け出した彼女がおばあさんとぶつかりそうになり、
咄嗟に身体を捻って転倒したことなどまったく知らずに。
ようやくその時点で彼女はシンジに向かって叫んだが、もう声は少年には届かない。
彼の姿はあっという間に群衆の中に消えてしまった。
その後は、明らかにシンジの判断ミスだった。
自分の後に少女の姿がないことに気がついたのは、太陽の塔の目前まで達した時だ。
誰よりも早くというわけにはいかなかったが、それでもかなり早く彼はそこにたどり着いていた。
そして、金髪の少女の姿が見えないことに慌てふためいたのだ。
そこで彼は動いてしまった。
そのままそこに立っていれば、膝小僧をすりむき、蒼い瞳を涙に潤ませた少女が現れただろう。
事実、彼女は足を引きずりながら精一杯の速さで太陽の塔を目指していたのだから。
ところが、シンジは気を回しすぎた。
幼馴染が急いでいたのは、アメリカ館の月の石を見るために早く並ぼうとしていたのだと思い出したのだ。
そのため、彼は駆け出した。
すでに彼女がそこで待っているに違いないと思い込んで。
太陽の塔があるお祭り広場からアメリカ館まで500m余。
しかしその500mの間にどれだけの人間が動いていたことか。
仮にどちらかが探している相手の姿を見つけたとしても、そこへ辿りつくまでにかなりの時間がかかる。
明らかにどこかで張り込んでいるのが最良の策なのだが、二人ともじっとしていられなかったのだ。
それが事態をさらに悪化させたわけである。
二人は完全にはぐれてしまった。
そして、冒頭のぼやきと相成ったのだ。
彼は何度目かの太陽の塔とのご対面をした。
もちろんその間どこのパビリオンにも入っていない。
それどころではなかったわけだが、彼は既に疲れてしまっている。
時間はもう10時30分だ。
来場者はどんどん増えるばかりだ。
正直シンジは自分もその一人だというのに呆れてしまっていた。
平日だというのにどこからこれだけたくさんの人間が来るのだろうか、と。
そんなぼやきが出てくるということは、彼はもう幼馴染を自力で探すことをあきらめてしまったようだ。
彼の性格では身体を動かしている間はぼやけないのだ。
シンジは階段の近くまで行き周囲を見渡した。
中央ゲートが見えるが、そこからはどんどん人が入ってくる。
まだまだ人が増えるのかと、そのイメージだけでシンジは完全にくじけてしまった。
絶対に幼馴染の少女はおろか、その両親ともこの会場で再会できることはないだろう。
彼は溜息を吐いた。
これは、迷子だ。
実家が大阪にあり春休みに帰省した(当然目的は万博だ)友人にからかわれたことを思い出す。
“センセはぼんやりしとるから迷子にならんように気ぃつけや”
子供じゃないと言い返したら、彼は腕組みをして言ったものだ。
“甘い甘い。あのすさまじさは想像できるもんとちゃうで。わしかて妹のせいで手ぇつないどったんやで”
実は彼の家族はその帰省中に2度万博へ足を運んだのだが、初回はその妹が見事に迷子となってしまった。
怒られたのは監督を命じられていた彼で、2回目の時は両親命令で手を繋がされたのだ。
結局そのオチまで話した彼は聞いていた皆を笑わせたのだが、
あんなに笑ったシンジはまさか自分自身が迷子になるとは考えもしなかったのだ。
「はぁ…」
彼の溜息など誰も耳に留めてくれない。
シンジは未練がましく、中央ゲートからアメリカ館の方に目を移すが、
いつもはあんなに目につく幼馴染やその両親の金髪がまるで目立たない。
あちこちに金髪の人がいる上に、白い肌や黒い肌、こんなにたくさんの外国人を目にしたのは生まれて初めてだ。
毎日幼馴染を目にしていたから、外国人に対する慣れはあると思っていたのに、これはとんでもない話だ。
しかし、いくら白人の女の子がたくさんいたとしても、彼女ならば見ればすぐにわかるような気がする。
いや、気がしていた。
その自信は今はない。
「どうしよう…」
誰かに方向性を決めて欲しい。
いつもは金髪の少女が彼の意向にはかまわず方向性を決定していた。
だが今は、自分が決めないといけない。
このまま、ここかどこかで待ち続けるか?
それとも行き当たりばったりに歩き回って探すか?
いや、思い切って探すのをやめようか。
幸い今日も昨日と同じ宝塚ホテルに泊まる事になっている。
その都度誰かに尋ねまわれば、何とかホテルには帰りつけるように思った。
そう思うと、ここで万博見物を一人ですればいいという気分になってきたシンジである。
どうせ、アスカのことだから僕のことなんか探しもしないで、好き勝手にあちこちのパビリオンを回っているよ。
自分勝手な思い込みでシンジは幼馴染の行動を決め付けた。
そんな風に考えると、胸の重苦しさが嘘のように消えた。
さっきまでとは見違えるような気軽な表情で、彼はもう一度周りを見渡す。
そして自分の持ち物を点検した。
財布の中には3000円という大金がある。
父親が黙って渡してくれたものだ。
これはシンジはきちんと折り畳んで、財布の中の別の場所に隔離していた。
何故かこのお金から使うのは躊躇われたからである。
自分の小遣いは1150円。
シンジはこのうち500円札も隔離スペースへ移動させた。
帰りの電車賃を考えておくなんて僕も冷静だなぁと自画自賛。
お金以外で主な持ち物はカメラだけだ。
後はハンカチやちり紙程度。
スタンプ帖は会場内で買おうと思っていたから、それも持っていない。
実に身軽なものである。
こうやって自分の持ち物を検分することが、彼はどういうわけか誇らしかったのである。
誰かに褒めて欲しいくらいに。
その誰かというのは誰を意味しているかということに、シンジは気づかなかった。
ただ漠然とした誰かではなく、特定な誰かであることを。
それは幼馴染の少女であり、無口な父であり、そしてもはや記憶も薄れつつある亡き母であることを。
シンジは太陽の塔の前からお祭り広場(太陽の塔の背中側)へとぐるりと回り、
きょろきょろと周りを眺めながらまた太陽の塔に戻ってきた。
まだどこを目指すか決まらないのである。
まずは独りでうろうろすることに彼は決めた。
せっかく万博へやってきたのに見物しないで帰るわけにはいかないからだ。
それでもどこからパビリオンを巡るかが決まらない。
駄菓子屋でくじを引くとき、いつも短気な幼馴染を怒らせるくらいに、
それが楽しいものであればあるほど、彼は迷う性格なのだ。
“月の石”はやはり見ておかないといけないだろう。
しかしあの長蛇の列を実際に見た今となってはそれも躊躇われる。
おそらく待っている間に何箇所もパビリオンを回れるからだ。
彼はまずガイドマップを買おうとした。
事前に持っていたガイドブックの方は幼馴染が握り締めていたから手元にないのだ。
太陽の塔の前に、黄色い小さなビニールシート屋根の販売コーナーがあちこちにある。
そこで公式ガイドブックと公式マップを売っていた。
ガイドブックはずっと二人で見ていたから、今回は買わなくてもいい。
シンジは一番近くにある販売コーナーへ歩み寄ろうとした。
その時である。
彼女をしっかりと見たのは。
その10分くらい前に、彼はその制服の少女と出会っていた。
いや出会うというよりも、きょろきょろしながら歩いていたので、立っていた彼女にぶつかりそうになったのだ。
「ごめんなさい」と軽く会釈すると、彼女はシンジに見向きもせずに「大丈夫」とだけ答えた。
出会いはそれだけのことで、シンジはすぐに少女のことを忘れたのである。
贅沢にも(と、シンジは感じた)遠足か修学旅行かで、制服姿の少年少女がグループで行動しているのを見かけた。
だから、その少女が制服を着ていたことに彼は違和感を覚えていない。
しかし2度目に目を留めた時に一瞬変だなぁと思ったのは、
彼女が同じ場所に立ったまま動いていなかったことである。
決められた時間内に少しでも多くのパビリオンを回りたい。
それは子供たちだけではなく、大の大人たちもそう思っていたのだ。
したがって同じ場所に数十分も立っているというのは明らかに変だ。
シンジはそんな風に思って、その少女のことをしっかりと見たのである。
彼女との距離はほんの1mくらいだった。
その横顔はなんとも懐かしく、さらに胸の奥がじんわりと熱くなるような気持ちも覚えた。
親しみの持てる表情を彼女はしていない。
寧ろ無表情だ。
ただその目だけは鋭く、太陽の塔を見つめていた。
何故自分はそんな気持ちになったのかと、シンジは考える。
その答が浮かび、そして、シンジは驚いた。
亡き母に、似ているのだ。
1970年6月3日、水曜日午前11時15分。
碇シンジはその少女と出逢った。
少女、綾波レイはその目の端に少年の姿を認めた。
あれは確か自分にぶつかってきた男の子だ。
どうして自分を見ているのだろうか。
レイは少年に向き直った。
ジーパンにTシャツ。
自分と同じくらいの年恰好の少年は不躾なほどこちらを見つめてきている。
それは何故かと考えてみたが、おそらく自分がずっとこの場にいることを不審に思ったからだと決め付けた。
手を伸ばしあえば届く距離。
レイは彼に興味を失い、再び太陽の塔の顔を見つめた。
何故こんなにあの顔に惹かれるのか、まったくわからない。
あの“現在の顔”は何を訴えかけているのか。
特にどこのパビリオンを見たいという目的はない。
だからこそ興味を惹かれたこの顔を眺めているだけだ。
元より、閉園時間が来たとき、自分はどうすればいいのかも決めていない。
東京への、帰りの電車賃は充分残っている。
だが、帰るのか?
あの病院に。あそこが自分の帰るべき場所なのか。
このまま病院に帰らず、どこかを彷徨うか?
季節柄、雪も降らないから野宿しても天に召されることもなかろう。
別に召してくれてもかまわないが…。
その時、少女は苦笑した。
ほんの僅かだが、ようやく表情が崩れたのだ。
「あ…」
小さな響きだったが、明らかに自分が笑った瞬間にその声がした。
ざわつく周囲の中でそんな声が届くのはすぐ近くしかない。
レイが声の方向を向くと、そこには先ほどの少年の顔がある。
そして、目が合うと彼は真っ赤に頬を染めた。
「あ、ご、ごめん」
「なに?」
「え、えっと、好きなの?太陽の塔が」
もし幼馴染の少女や学校の友達がこの場にいれば、みな一様に驚いたことだろう。
あのシャイな碇シンジが見ず知らずの女の子に自分から声をかけた。
それが大事件であることは、何よりもシンジ本人がよく知っている。
「別に」
レイは短く答える。
「えっ、で、でも、ずっと見ていただろ、あの顔」
「そうね。でも好きじゃない」
「そうなの?そういや、睨めっこしてたみたいに見えた」
シンジは慌て気味に言う。
自分でも不思議だった。
どうして必死に会話をしようとしているのだろうか。
母を思い出すからか?
「してない。睨めっこなんか」
レイは会話を切ろうと考えたが、結局喋ってしまっている。
いつものように黙って知らぬ顔をすればいいだけではないか。
何故相手をしてしまうのだろうか?
彼女もまた自分の行動が不思議だった。
「あ、そうなの?えっと、修学旅行?」
「…」
一瞬、レイは躊躇った。
本当のことを話すべきかどうか。
しかし、この時彼女は気がつかなかった。
無視するという選択肢は忘れられてしまっていることを。
「脱走、したの」
「へぇ、えっ、だ、脱走?」
レイは表情を動かさず、顎を下げた。
しっかりと頷いたのだ。
「け、刑務所を?」
予想外の場所を彼は提示してきた。
レイは唇の端だけで笑った。
随分と惚けた少年だ。
「病院」
話好きの人間ならば、未成年者は刑務所に行かないとか、彼をからかうとかするものだが、
元々無口なレイはそこまで話題を広げようとはしない。
そこまで考えるものの、すべてを自分の頭の中で収めてしまうからだ。
「病院?だ、大丈夫?」
「感染する病気じゃないわ」
「そういう意味じゃなくてっ。君の身体は大丈夫なの?」
シンジの態度が心からのものだという事はレイにも伝わる。
真剣に心配してくれているかどうかは、長い入院生活で彼女に培われた。
「ありがとう。大丈夫」
「でも脱走って…、抜け出したの?許可も貰わないで」
レイはこくんと頷いてしまった。
もうこの会話から抜け出せない。
しかし、不快じゃない。
この見ず知らずの少年と話すことは彼女にとってまったく不快ではなかった。
だからこそレイは会話を続けてしまったのだろう。
「いいの。最後の思い出が欲しいから。たぶん」
そう、“たぶん”としかレイは言えなかった。
実は彼女自身にも理由がよくわからなかったのだ。
「最後…?ええっ、それって、あの、その、つまり…まさか」
「死ぬの。私」
あっさりと言われ、シンジは声を失う。
これで微笑みでも浮かべてくれていれば“冗談だろう”と切り返せるのだが、真剣な表情の彼女には何も言えない。
冗談ではない。
彼女は本当のことを言っている。
シンジはそう直感した。
その彼の考えはレイにも伝わる。
「でも今すぐじゃない。だから、大丈夫」
「だけど…。大丈夫って、パビリオンをまわるのがって意味だよね?それとも…」
「人はいつか死ぬの。それだけのこと」
「あ、そ、そうか。うん、そうだよね」
シンジの悪い癖が出た。
話の核心にまで会話を進めず、いい加減なところで話を済ませてしまう癖だ。
人の生き死にという重い話題から逃げてしまった。
彼はそこで話題を変える為に、願望をつい口にした。
「じゃ、えっと、一緒に回る?パビリオンを」
最後の部分はいささか小さな声になってしまう。
一緒に万博見物に誘っておきながら、そのことの重大さに自分で驚いた。
しかしその誘いにいともあっさりとレイは乗った。
「いいわ。どこから?」
「えっ、い、いいのっ?」
棚から牡丹餅。
その牡丹餅のためにバームクーヘンのことは忘れられた。
しかし、次の瞬間、思い出させられる羽目となる。
「でも、あなた、ひとり、なの?」
「えっ!あ、そ、そうだった」
彼女に言われて、シンジは慌てて周りを見渡した。
もちろん、捜し求めていた者の姿は見えない。
「ひとりじゃ、ないのね」
「う、うん。だけどね…」
シンジは開場前から今までの経緯を説明した。
アスカのこともごく自然に話す。
彼にとって彼女の存在は別に隠し立てするようなものではないからだ。
「アスカはね…、あ、アスカって名前だけど、全然日本人には見えないんだよ。
白人そのものでさ、3/4がドイツ人の血なんだよ。でも、生まれてからずっと日本に住んでて、国籍も日本で。
すごくお喋りで、すっごく乱暴でさ、まあ、悪いヤツじゃないんだけど」
レイは目を丸くした。
まるで堰を切ったかのように、彼は喋りだしたのだ。
中学校に一度も行ったことのない彼女だったが、
映画もテレビもほとんど見たことのない彼女だったが、
恋愛感情というものは小説を通して、かろうじての知識はある。
但し、この時そういう知識は不要だった。
その乱暴な彼女に彼は好意を持っている。
自分自身は恋愛感情を抱いた経験などないが、おそらくその判断に間違いはないと思う。
幼馴染のことを話す、彼の目が輝いている。
愚痴のようなことを喋っているのだけど、その言葉からは温かみすら感じられる。
しかし彼はその幼馴染とは交際していないようだ。
彼が喋り捲っている内容を聞いていると、かなりの愛情が篭っている。
どうやら本人は自覚していないらしい。
それがレイにはおかしかった。
そして笑った。
だが、その含み笑いには彼は気がつかず、未だ幼馴染への罵詈雑言を並べ立てている。
愛情がしっかり篭った、彼としては精一杯の罵詈雑言を。
実はシンジも自分でびっくりしていた。
まず、幼馴染のことを“アスカ”と名前で紹介したことだ。
普通ならば初対面の人間には“惣流さん”と呼称していたのに、何故かレイには呼び慣れた名前の方で紹介した。
そのことに彼は一瞬途惑ったが、すぐに話を続ける。
会話が途切れることを恐れるように。
「だから、アイツが手を繋ごうなんて言わなかったら…、あ、違った。
走れ!って言われたから僕は走っただけなんだ、うん。するとアスカがいなかったんだ、後ろに」
長い長いアスカの話が終わった。
レイはそれをただじっと聞いていただけだった。
彼女はその話を聞いたからには確かめずにはいられない。
そんな絆の深い人間と一緒に来ているのに、どうして自分と会場を回ろうと言うのか。
しかし、できれば一緒に行動したい。
そんな期待感も持っていることを自覚しているレイだった。
「いいの?私と一緒で」
「うん。だって、この歳で迷子センターなんて恥ずかしくて行けっこないだろ」
色白の少女は微かに笑った。
「かといって、この人ごみの中をアスカを探して回るなんて無理だよ」
「でも、彼女の方は探してるかも、知れないわ」
「まさか!アスカがそんな真似をするわけないよ。
きっと今頃ダイダラザウルスに乗ってきゃあきゃあはしゃいでるに決まってるよ」
「そう、かしら?」
直感的にレイは違うと断定した。
おそらくその女の子は涙を堪えながら彼を探し回っているはずだ。
彼が迷子になったのは全部自分の責任だと決め付けて。
しかし、目の前の少年はそんな想像など全然できないようだ。
どちらかといえばおどけた調子で彼は会話を継いだ。
「うん。僕のことなんか馬鹿シンジ扱いだし」
「馬鹿…シンジ?」
「そう、馬鹿シンジ。幼稚園くらいからそう呼ばれてるんだ。アスカにはね」
「その子、失礼ね」
「はは、周りにはそう見えるみたいだね」
「あなたは?腹が立たないの?」
「僕が?うぅ〜ん、よくそう言われるけど。よくわかんないや」
シンジは頭をかいた。
中学校でも彼女の僕(しもべ)とか奴隷とか陰口を叩かれているのは知っている。
面と向って言われないのは親友である鈴原トウジの威光か。
トウジに力で勝てる同級生はいない。
もしくはその彼相手に口で勝つことができるアスカが、
「私がいつどこでそんな扱いをしたのか言ってみろ!」と怒り狂って詰め寄る所為か。
どちらにせよ、そういう揉め事は彼としては勘弁して欲しい。
事なかれ主義の彼は、だから陰口を柳に風といった按配で受け流している。
そんな風に自分のことを考えていた。
しかし、今この初対面の少女にそこまで話すのは何となく憚られる。
彼にだって面子というものがあるのだ。
少なくともそんな男らしくないことを自供する必要はなかろう。
「きっとあなたは…」
そう言いかけて、レイは口をつぐんだ。
その女の子のことを好きなのね。
彼女が言おうとしたのはそのことだ。
だが、何故か言葉にするのを止めた。
長年入院暮らしで本ばかり読んできた彼女だったが、自分のことはよくわからない。
何しろこの少年と話をしていること自体も不思議なのだ。
無愛想で可愛げのない患者だと、看護婦たちの間で言われていることも承知している。
ただ面白くもないのに笑えない。
本の中に面白い箇所が出てきても微かに笑うだけだ。
虚無的…とでもいうのだろうか。
一度も行っていないが中学生になってから読んだ、欧米の本でそんな言葉を覚えた。
いずれ死ぬことはわかっている。
だから今を楽しむ。
そんな考え方すら彼女にはできなかった。
死んでしまうのに楽しい思いをしてどうなるというのだ。
そんなことを覚えれば、死ぬことが怖くなる。
手術が成功すればもっともっと生きていることができると、お医者様は言うけれど…。
きっと、嘘。
あの人たちは珍しい手術がしたいだけ。
私の命は二の次。
私は人間。
モルモットじゃない。
せめて人間らしく、死にたい。
でも、人間らしくってどういうこと?
わからない。
いくら本を読んでもわからない。
逆に読めば読むほど迷宮に入り込んでしまうかのような気になる。
レイは病院から大阪に向う途中でも内心苦笑していた。
超特急ひかり号に乗るのはどうだろうかとは思った。
元より、乗り方や切符の買い方もわからない。
とはいえ、東京から大阪までは電車を使わざるを得ない。
しかも病院から失踪した事が露見すれば大事だ。
もしかすると目的地に着くまでにその身を押さえられてしまうかもしれない。
もっともどこに行くかは誰も知らないはずだが。
いずれにせよ、行動は迅速にする方がいい。
早暁に病院を抜け出したレイは7時前に東京駅へ到着している。
通勤ラッシュに巻き込まれなかったのは病身の彼女には幸いだっただろう。
もし1時間脱走が遅れていれば、彼女は満員の山手線の電車の中で昏倒しただろうから。
結局、彼女は新幹線という噂の超特急を利用することにした。
この場合、大阪万博という国家的イベントは彼女にとって好都合だった。
万博のために大阪の親戚の家に行くという見え見えの嘘を出札の係員は簡単に信じたのである。
家出に学校の制服は着て行かないだろうと考えてしまったこともある。
逆に一人旅は危ないから気をつけるようにと助言すらしてくれた。
もっともこの時期に若者の家出、つまり万博見物が多かったのも事実だ。
レイは運がよかったのかもしれない。
表情に乏しかったのでおどおどして見えないところも幸いしたのだろう。
さて、東京駅で購入した駅弁はできるだけ彼女が食べられそうな内容のものを選んだ。
お茶も買った。
だが、初めて食べる駅弁だったから、他の席の人が食べているのをじっくりと観察した彼女である。
おかげでこれなら大丈夫と駅弁の蓋をようやく開いたのは名古屋を過ぎたあたり。
肉類は嫌いだったが、なんとか中に入っていたシューマイも食べることができた。
意外と美味しいように感じたのは秘密の一人旅という高揚感のためか。
京都のお寺が車窓に見えた頃、彼女は行きつ戻りつしていた思考を止めた。
何のために病院を抜け出したのか。
何のために大阪万博へ向っているのか。
答はひとつしかなかったから。
凄い凄いと騒がれているものをその目で見たい。
結局、ただの好奇心なのだ。
手術を拒否する以上、彼女の死はいずれ近い将来に訪れる。
そのことを恐れはしない。
ただ従容として死を待つのは何故か躊躇われた。
まるでお伊勢詣でかメッカへの巡礼か。
日本中から老いも若きも大阪は千里の万博会場を目指している。
無論、それはマスコミの誇大的な表現であろうとレイも思っていた。
だが、それに自分も踊らされているのだ。
もし、自分の行動をマスコミの人間が見ればこう表現するだろう。
『死を目前にした少女までが万博を訪問した。
彼女は人類の進歩と調和に未来を託したのか』
それとも、美少女って書いてくれるかしら?
レイは笑ったつもりだった。
だが、車窓に写った彼女の顔は笑っていなかった。
今は?
シンジを前にした自分はどんな表情をしているんだろう。
「あっ!ごめん!自己紹介してなかった」
彼は突然思い出した。
幼馴染のことはフルネームで紹介していたのに自分のことは話していない。
「シンジ…君、ね。さっき馬鹿シンジと」
「そう。僕は、碇シンジ。碇っていう感じは石編に定めるって書くんだ。難しい字だよ、まったく」
「そうね、珍しい名前」
「えっと、君は?」
レイは微かに笑った。
自分も名前を言ってなかったではないか。
「私は、綾波、レイ…。綾は糸偏に土を書いて…わかる?」
「えっと、たぶん」
宙で字を書いて見せるが、なにぶん自信が伴っていないので見ているレイにもよくわからない。
おそらく大丈夫だろうと、波は海の波だと続けた。
さすがにそちらはシンジも大きく頷いた。
「じゃ、綾波さん、でいいよね」
「あ…」
レイは小さく異議を唱えてしまった。
それでいいと答えるつもりだったのに、つい夢に描いていた願望が彼女の口を動かせたのだろう。
「え?駄目なの?他のがいいの?」
会話慣れしていないレイは困ってしまった。
巧く誤魔化すことができずに、彼女は本音を喋ってしまう。
病院生活が長いので看護婦や医師から“レイちゃん”“綾波さん”と呼ばれていて、
誰も名前を呼び捨てにしてくれない。
小説などであるように“綾波”か“レイ”と誰かに呼んで欲しかったわけだ。
「そうかぁ。じゃ、えっと、綾波…でいい?」
レイはこくんと頷いた。
「あなたは、碇君」
シンジはぽりぽりと頬を掻き、照れ笑いをする。
“碇君”などは普通の呼び方なのだが、何故か彼女に言われると照れてしまうのだ。
だから、話題を変えようとした。
「あ、そうだ。…綾波?」
初めて彼女を名前で呼んだ。
彼は少し照れ、彼女は大いに喜んだ。
しかしレイはほとんど表情は崩さず、微かに言葉を上ずらせて応対した。
「何?」
「写真撮ろうよ。ほら、太陽の塔を前にして」
自分たちだけではない。
その場所で写真を撮っているのは。
太陽の塔を背景にしたポートレート。
みんな入れ替わり立ち代り、万博を訪れた記念をフィルムに残している。
レイは断ろうとしたが文字通り流された。
順序良く写真を撮らないと間違いなく周囲の人間に迷惑だ。
「笑って」
笑えない。
笑い方はどうすればいいの?
みんなどうしてそう簡単に笑えるの?
「えっと、じゃ、撮るよ。チィ〜ズ」
撮られた。
どんな顔で写っているのだろうか。
自分のお葬式の時にはこの写真を使ってもらえれば…。
そう思った時、レイは溜息を吐いた。
このカメラは彼のもの。
でもそれでいい。
この少年は自分の写真を捨てはしないだろう。
大阪万博の思い出として一枚くらいは残してくれるに違いない。
私の生きた証がそこにある。
その時、レイの心がふっと軽くなったような気がした。
「じゃ、行こうか。何を見たい?月の石?
あ、それとも、どこか行きたいパビリオンがあるの?」
レイはゆっくりと首を振った。
病院で何度も万博の特集記事や雑誌を読んでいる。
だから、世間並みの知識は持っていた。
太陽の塔、月の石、エキスポランド、エキスポタワー、お祭り広場、ダイダラザウルス……。
しかし目当てはない。
大人気の月の石も取り立てて見たいとも思わない。
彼女の目的はここに来ることだったのだから。
その目的は果たした。
「あなたの行きたいところで、いい」
「でも、病気なんだろ。君は」
こくんと頷く。
「だったら、あまり並んだり、ジェットコースターみたいなのはよくないよね」
「いいわ。別に。あなたが行きたいなら」
「ああっ、考えてても時間がもったいないや。とにかく行こうよ。えっと、まず最初は…」
わくわくした表情を隠しもせずに、シンジは周囲を見渡した。
ドームが4つ集まっているフランス館。
円柱が並んでいる大韓民国館。
鏡の壁の建物のカナダ館。
逆サイドには三菱未来館やIBM館がある。
その中でどんな展示がしているのか彼は熟知している。
彼も楽しみにしていたのだ。
昨日の夜もアスカと頭をつき合わす様にして、どこへ行くか検討していたのである。
いつものように彼女はシンジの意見など殆ど聞かずにあそこがいいここがいいと自己主張していただけだったが。
その時、彼は少しだけアスカに悪いことをしたなと後悔した。
しかしそれは一瞬だけ。
すぐにシンジは彼女のことを忘れ、目の前の万博見物に意識を戻してしまった。
「外国の方からにしようよ。フランス館、そんなに並んでなければいいけど…」
任せるといった風に頷くレイ。
「あ、ガイドマップ買おうか。君、持ってないよね」
ガイドマップどころかスタンプ帖もない。
万博見物には極めて非常識な手ぶら状態なのだ。
シンジは近くにあった販売コーナーに駆けていき、100円玉2枚を係りのお姉さんに手渡す。
二人は太陽の塔を背にして、西に向かって歩き出した。
こうして、二人の万博見物が始まったのである。
フランス館に行く前に、シンジはまず売店に行き、スタンプノートを入手した。
彼はレイにも買えばいいと勧めたのだが、彼女は首を横に振った。
その返事にシンジは首を傾げたが、何故かとまでは訊かない。
スタンプノートをあの世にまで持っていけないからいらないという意味で、
レイがいらないと言っているとシンジには推察することができない。
よくわからないままに、彼は自分の分だけスタンプノートを買い、そして売店のある火曜広場を出た。
そこからフランス館まで100mもない。
運良く行列もなく入場でき、最初のスタンプを押す。
多分人間なのだろう、3人の人型を中心としたスタンプを最初のページに押す。
綺麗に押せたとレイに見せびらかすシンジの姿はまだまだ子供だ。
次は隣に並んでいるドイツ館だった。
「アスカ、いないかなぁ」
そんなことをのたまう彼に、隣を歩くレイは苦笑した。
3/4のドイツ人の血だから、ドイツ館は絶対に行くはずだと言うのだ。
もし、今ここで彼女と出くわせばどうなるだろう。
明らかに言えるのは、自分の万博見物はそれで終わりということ。
ただシンジが能天気にそんなことを呟いているということは、彼はそうならないと決め付けているわけだ。
アスカにレイを紹介して、そして3人で見物する。
それだけのことだと彼は高をくくっていた。
ところがこの場合、シンジの方が正しいのである。
確かにアスカは嫉妬にかられシンジに怒るだろう。
しかし結局は仕方なしにレイも一緒に行動を共にすることを許すしかない。
それはシンジが主張したことだからか、彼女の内なる優しさからか。
いずれにしてもその後、シンジはアスカの猛烈な攻撃(口撃)を受けることだろうが、
幸か不幸かここには彼女の姿は見えない。
シンジは苦笑しながら、ドイツ館のスタンプを押した。
真上から見たパビリオンのデザインのスタンプだった。
ここにアスカがいなかったということに、レイはほっとしていた。
つまり彼との道行きを楽しんでいるわけだ。
そんな自分を発見し、何故か嬉しくなる。
外に出ると太陽が眩しい。
レイは一瞬瞼を閉じ、細目になり光を調節した。
曇りがちの空だったが、どうやら天候は晴に向っていくようだ。
「天気予報通りだね。曇りのち晴。よかった」
「そう。よかったわね」
天気予報などレイは知らない。
もし雨であっても彼女はかまわなかった。
さすがに傘だけは購入しただろうが。
オーストラリア館を後にすると、凄まじい行列のアメリカ館を横目に二人は水曜広場に向った。
スタンプを押している時に、シンジの腹の虫が鳴いたのだ。
胸がいっぱいで食欲には気がつかなかったレイだったが、罰の悪そうな彼の顔を見ては食堂に行こうと言うしかない。
朝は何を食べたかと訊かれ、レイは新幹線でシューマイ弁当を食べたと答える。
シンジは朝早くホテルを出たので、サンドイッチだけしか口にしていなかったのだと弁解がましく言った。
水曜広場で一番大きなレストランはサントリーレストランで、そこには和洋中の料理が揃っている。
レイはきつねうどん、シンジはエキスポランチを選んだ。
僕だけ豪勢なものでごめんね、と彼は詫びながらも旺盛な食欲を満たしていく。
その姿を見ているだけで満腹感を得られそうな気がしたが、彼に心配をかけさせたくないとレイは麺を啜った。
「ソ連館をバックに撮ろうよ、ねっ」
「あなたも撮らないと」
「僕はいいよ。ほら、そこに立って」
何故だろうか、レイは彼に逆らえなかった。
そんな自分に困り果て、それでも彼女は素直にシンジの言うとおりに動いた。
「さあ、笑ってよ」
無理だ。
シャッターを押すたびに彼はそう要求するが、やはりレイの表情は硬いままだった。
混雑するソ連館から早々に退避して、二人はチェコスロバキア館に入った。
ここは意外と穴場だったようで行列は殆どなかった。
思わずレイは大きく息を吐いた。
思ってもいなかった道行きで疲れを感じていなかったのだが、
少し休むとやはり胸が苦しい。
「あ、ごめん。疲れたんだね。どこか座れるところ…」
日頃鈍感だとアスカに揶揄されているシンジだったが、この時はレイの様子に敏感だった。
木陰になっているところに腰をかけたレイは疑問に思っていたことを質問する。
「教えて。どうしてこんなに親切にしてくれるの?」
「え…。あ、うん、笑われちゃうかもしれないけど…」
笑いはしない。
レイは思った。
笑えるものならこれまでに何度も笑っているだろう。
こんなに楽しいのに、表情は緩んでくれない。
だが、シンジはそんなレイの感情を気にとめる事はなかった。
彼はジーパンのお尻のポケットから財布を出す。
その中に入っていた小さな手札サイズの白黒写真をそっと差し出す。
まるで世界一の宝物のように。
「これは、あなたのお母さん?」
小さな男の子を抱いて、にこやかに笑っている母親。
見ているだけで幸せになれそうな写真である。
大事にしているのだろうが、持ち歩いているために写真の縁のところどころは痛んでいる。
「うん、母さん。言ったよね、僕が幼稚園の頃に死んじゃったって」
レイは頷いた。
そのために彼は隣家の幼馴染の一家によく世話になっているのだとも聞いた。
「綾波がさ、母さんに似てるなって。あ、ごめん。怒った?」
「似てない」
彼女は即座に反応した。
彼はからかっているのだろうか。
こんなに笑顔の素晴らしい女性と、この私が似ているはずがない。
そうか、これは冗談。
少なくとも当てこすりではないだろう。
彼はそんな嫌味な感じじゃないから。
「そうかなぁ。似てると思うんだけどなぁ」
首を捻る少年に他意はない。
まさしく言葉通りに思っているのである。
レイは再び掌の写真を眺めた。
母親に抱かれた男の子は嬉しげに笑い、そしてその笑顔以上の明るさで彼女は我が子に笑みを返している。
どこかの公園だろうか。
背景にブランコが見える。
「これ。撮ったのは碇君のお父さん?」
「うん、あたり。時々、酔っ払った時に話してくれるんだ。この当時のこととか。
皇太子殿下の結婚パレードを3人で見に行ったとか…。
まだ2歳くらいだから僕はほとんど覚えてないんだけどね。」
「そう。素敵ね」
「あ…」
ぼそりと呟いた彼女の言葉の陰に潜んでいたものにシンジは気がついた。
「ごめん。もしかして、綾波って…」
「生きているのか死んでいるのか。両親の顔も知らない。捨て子だったから」
「ごめん!」
「いいの。事実だし、気にしてないもの」
嘘はなかった。
周囲に気遣われる方がかえって気になる。
物心ついたときには施設にいて、さらに小学生3年からはずっと入院している。
彼女はまだ運がよかったのだ。
入院費も出ない状況なのに、その症例が珍しいものだったことから、その病院が特例でレイを入院し治療しているのであった。
寧ろこれは悪運というものではないか。
もしそんなことがなければ、とっくの昔にレイはこの世の人ではなかっただろう。
その方がよかったのかも。
本当にそう?
こうして、彼と二人で万博見物することもなかったのよ。
少なくとも、今は、楽しい。
生きていてよかった。
「で、でもさ。やっぱり似てると思うよ、君は…綾波は母さんに」
シンジはしつこく話題をぶり返した。
もっとも、彼女が感じる以上の罪悪感を覚えてしまった彼が別の話題にすり替えようとしたためでもあったのだが。
完全に別の話題を持ち出せるほど、シンジは世慣れてはいない。
いきおい直前の話に戻してしまったわけだ。
「違う。だって…」
「じゃ、笑ってみてよ。笑えばそっくりだと思うんだ、うん、きっと」
「無理。笑えないから」
「そりゃあ、無理に笑うことはないけど…。ねえ、本当に笑えないの?」
レイはこくんと頷く。
「コント55号とかでもダメ?テレビ漫画とか見ても?」
「面白くないから見ない」
「ええっ、そうなんだ。じゃ、腋とかこそばされても?」
腋をくすぐる?
誰が?
「試したことない。してみる?」
「えっ!だ、だ、だめだよ!そんなことできるわけないよ!君は女の子なのに」
シンジは周りの人が何事かと見やるくらいに慌てふためいた。
レイの顔を見ることができず、顔を真っ赤にして不自然な格好で空を仰いだ。
その時である。
無意識にレイの頬が緩んだ。
「くすっ」
「あっ、笑った!」
「え…」
左手で唇を押さえる。
もちろん、生まれてこの方一度も笑ったことがないというのは誇張だ。
もともと快活な性格ではなかったが、小学生のうちは今ほどではなかった。
中学生になり、一度も登校しないまま、それなのに生理を迎えた頃からか。
彼女がめっきり笑わなくなったのは。
この世の事象をおかしいと思わなくなったのは。
読んでいる本に読者を笑わせようという部分があってもくだらないとしか思えない。
謂わば、醒めてしまったのだ。
自分の命に限界を見たからだろう。
未来が見えずに、だから現在もわずらわしい。
生きていく力をくれる親もいなければ兄弟もいない。
入院生活も5年となれば、施設で仲良くなった連中も誰一人顔を見せなくなっている。
世間話をする相手もいなくなると表情はどんどん乏しくなってしまう。
医師や看護婦たちもそれはわかっているのだが、
なかなか彼女のメンタル面にまでかまってはいられない。
元より彼女自身が他人を求めていないのだから。
「もう一度笑ってよ。今度はちゃんと写真撮るから」
「笑った?私が?」
「うん、くすって笑った。僕、見たよ」
「……」
レイは途惑った。
確かに少し笑ったような感じがする。
それは久しぶりの感覚だった。
「笑えばいいのに…」
その方が可愛いよ。
さすがにそこまでは言えなかった。
その時、彼の脳裏に幼馴染の騒々しい声が聞こえたような気がした。
『だから、アンタは馬鹿シンジなのよ。言う時には言わなきゃ!』
シンジは苦笑した。
確かに言うべきなのだろうが、女の子に面と向って可愛いなど言えるわけがない。
しかしその後、シンジがカメラを構えてもレイは笑わなかった。
いや、本人は笑おうと思ったのだ。
だが、笑えない。
笑わずに済ませる習慣が身体に染み付いてしまっているのか。
それが悔しくて、彼女は珍しく不満を漏らしてしまった。
ここ数年、そんなことを言ったことはなかったのに。
自然に笑顔が出る人はきっとずっと幸せに暮らしてきたのだから、だと。
「あ、ごめん。それは違うと思うよ。だって、アスカは…」
その時はイギリス館の中を歩きながら話していた。
シンジは幼馴染の話を聞かせた。
彼女は幼稚園に入園した頃はその容姿のせいでいじめられていた。
金髪で眼も蒼い幼馴染をシンジは何の違和感もなく受け入れていたのだが、
幼稚園ではじめて違う人種を目の当たりにした子供の何人かはアスカを虐めたのである。
そのことを別の組にいたシンジは最初は知らなかった。
母を亡くしたばかりの彼は人のことを顧みる余裕がまだなかったのだ。
だが、そのいじめの現場を目にしたとき、彼は怒った。
年少の園児が全員で行った遠足でアスカが髪を引っ張られたり肩を小突かれたりしているのを見たのだ。
その場は大騒ぎになった。
幼児に手加減はない。
シンジは全力でいじめっ子数人に飛び掛っていった。
彼らも黙っているわけがない。
瞬く間にシンジは鼻血塗れとなり、それでも必死で戦った。
それまでは虐められても我慢していたアスカが泣き出したのはその時だった。
彼女は大声で泣きながらシンジを助けるために、手を振り回しながら喧嘩の輪の中に飛び込んでいく。
アスカは強かった。
実は首半分以上周りの園児よりも大きかったので、目立っていたこともいじめの原因のひとつだったのだ。
先生たちがおっとり刀で駆けつけた時は、彼女は得意満面でシンジの鼻血をちり紙で拭いてあげていたという。
「それ、惚気?」
「え?惚気……。はは、まさか。あ、つまりね」
アスカが笑ったのはその時が久しぶりだったのだという。
自分で手一杯だったシンジは幼馴染がずっと笑顔を見せないことに違和感を感じていなかった。
ずっと自分も笑っていなかったのだから。
その日、怒られると観念して帰宅したシンジはアスカの母親に抱きしめられて感謝された。
娘の様子がおかしいのは幼稚園のことだと察しがついていたのだが、
この頃の日本では親が幼稚園に乗り込むということは殆どない。
母親としては幼馴染であるシンジに守ってもらいたかったのだが、彼の境遇は百も承知だ。
思い悩みながら一ヶ月ほどが過ぎてしまっていたのである。
「そう。彼女が笑ったのはあなたを助けることができた所為ね」
「違うよ。いじめっ子に勝ったからだよ」
「ふふ、碇君って鈍感なのね」
「あ…」
また、笑った。
少しずつ。
少しずつだが、自分が変わっていっているような気がする。
レイは不思議だった。
それにこんなに喋るのは何年ぶりだろう。
無口で取り扱いし辛いクランケとして有名な彼女であったはずなのに。
「あ、そうだ。ちょっと待っててくれる?」
「うん、ちゃんと待ってる。ここで」
レイの返事を聞いて、シンジはにこりと笑った。
彼はイギリス館の出口のあたりにレイを待たせて、ブースの一角に駆け出していった。
彼の動きを目で追っていると、どうやら記念メダルを買いに行ったようだ。
そんな彼の姿を見ていると、どこか心の奥の方が温かくなってくる。
これは…恋?
一瞬頭に浮かんだ言葉をレイは簡単に消去した。
そういうものではない。
何故なら彼の幼馴染に対して嫉妬や羨望などの感情がまるで起こらないからだ。
寧ろその二人が並んでいるところを見てみたいくらいなのである。
きっと仲良く喧嘩をするだろうと思えば、ほのぼのしてくるのだ。
まして幼馴染の金髪少女の方は顔も見た事がないのに、彼の言葉だけで充分想像できた。
喜怒哀楽の感情が激しく、表情も豊かで、溌剌としている。
自分とは大違いだ。
しかし羨ましさはない。
自分の性格は自分が一番よくわかっている。
レイはシンジの後姿をずっと追っていた。
少しばかり頼りなげな雰囲気をその背中は見せている。
思い出の品、なのね。
レイは彼の背中を見つめながらそのように思った。
どうして人は記念品を欲しがるのだろうか。
ほとんど私物のない彼女でさえ、少しばかりの記念品はある。
最初の施設にいた時に、デモンストレーションで訪れた政治家が配った舶来のキャンデーの包み紙。
水色があまりに綺麗で、四隅を延ばしずっと手元に置いている。
その包み紙が挟まれているのが子供向けの本である。
入院する前に施設の園長からプレゼントされたものだ。
彼女が愛読していた『あしながおじさん』(当然子ども向け仕様だ)を書店で買ってきて渡した。
おそらくレイが二度と帰ることはないという思いからだったが、もちろん彼女はそんなことを知らない。
いや、知らなかった。
今はおそらくそうだったのだろうと推察している。
もうお見舞にも来てくれなくなった施設の関係者だが、レイは憎んだり恨んだりはしていない。
そういう一種超然とした態度は物心がついたときから暮らしてきた環境によるものだろう。
あるがままに受け入れる。
だから“死”もそうしようと思っていたのだが…。
レイは思い始めていた。
シンジと、そして顔も知らない彼の幼馴染。
その二人のことを考えると、生きているということは素晴らしいことだと思えてきた。
無論、死にたくないという気持ちは本能的なものは根底にあったはずだが、
少なくとも表立っては意識をしていないレイだった。
しばらく並んでからシンジは彼女の元に帰ってきた。
そして剥き出しのメダルをレイの掌へ置く。
鈍く銀色に光る、そのメダルにはイギリス館の建物が描かれている。
裏返すと、“EXPO’70 OSAKA”と刻まれていた。
「観光地のメダルだったら名前とか彫られるんだけどね、まあ万博だから仕方がないか」
「そうね。あんなに人が多いんだもの」
「はは、じゃ、それ綾波にあげる」
「え…」
「じゃあ、次に行こうか。はは…」
照れ隠しも手伝ってか、シンジは努めて明るく、そして頬をぽりぽり掻きながら歩いていく。
しかしレイは立ちすくんだままだった。
まるで宝物を捧げ持ってる巫女のように。
私の、記念品…。
目頭が熱くなってきて、涙がポロリと掌上のメダルに落ちた。
メダルの上に3粒の水滴がふんわりと盛り上がっている。
それ以上の雫はもう落ちてこなかった。
レイは軽く鼻を啜ると、指で静かに瞼の下を拭う。
ほんの僅かに湿り気が指先へと移った。
久しぶりの涙である。
もう何年も流したことがなかったのだ。
彼女は苦笑した。
自分もまだ涙など流すことができたのだ、と。
生きたい。
この時、彼女ははっきり自覚した。
死にたくない。もっと生きたい。
そのために受けないといけない手術ならば、いくらでも受けてやろう。
綾波レイは決意した。
楽しい時間が過ぎるのが早い。
結局二人は会場の西側には足を踏み入れなかった。
つまりエキスポランドや日本館、日本庭園のあるエリアには行かなかったのだ。
レイの身体のことを考えて、シンジは無理をしなかったのである。
午後5時過ぎになり、二人は千里橋通り広場に姿を現した。
カメラのフィルムがなくなったのだ。
趣味でカメラをしている者ならともかく、この当時湯水のごとくフィルムを消費する人はいない。
36枚取りフィルムをようやくこの時間になって使い切ったのだ。
「どうして千里橋なんだろ。橋なんてどこにもないのに」
新しいフィルムを買ってきたシンジは広場のネーミングに文句をつける。
椅子に座って待っていたレイは手にしたガイドマップをしげしげと眺めて、あっと小さく声を上げた。
「ここにある。千里橋」
彼女の白く細い指が差す場所を見れば、確かに千里橋と書かれている場所がある。
会場の南、北大阪急行線の線路を跨いでいる橋の名前が千里橋だ。
橋を渡ると警備本部や消防本部や電話局があった。
「えっ、こんな橋、普通の人使わないんじゃないの?」
「ふふ、そうね。不思議」
レイは自然に笑った。
おかしいから笑うのではなく、楽しいから勝手に笑みがこぼれてくる。
さすがにカメラを構えられると笑顔にはなれないが、それでも話をしているとこれが自分かと思うくらいに微笑んでいるはずだ。
「まあいいや、あ、フィルムを巻き取らないと…」
シンジのカメラには自動巻きなどという洒落た機能はついていない。
ロックを外して小さなレバーをくるくると回す。
父親のカメラのお下がりなのだ。
その動作をレイは興味深げに眺めていた。
無論、こういうものは初めて見るのである。
カメラのシャッターすら押したことはない。
シンジにカメラを使いなよと言われたが、その都度首を横に振っていたのだ。
フィルムがもったいない、と。
「はい、これ持っていて」
「うん」
何としおらしい返事だろうか、と自分で思う。
使い切ったフィルムが入ったケースを両手で温めるようにレイは受け取った。
そしてシンジは新しいフィルムをカメラに装着したのだ。
その時である。
シンジが急に顔を上げた。
「どうしたの?」
「アスカ、だ」
シンジは椅子から立って、周囲を見渡す。
その動きを見て、この二人は超能力者なのかとレイは驚いてしまった。
しかしテレパシーの類ではない。
シンジは幼馴染の聞き慣れた叫び声を耳にしただけなのだ。
そして、彼は見つけた。
広場のすぐ近くにあるスイス館の“キラキラツリー”のところで仁王立ちしているアスカを。
彼女はこっちを睨みつけて、指をさし、何かしら叫んでいる。
「わっ、いたっ!アスカぁっ!」
実に能天気な男だ。
彼女と再会できたことを素直に喜び、手を振っている。
アスカと会った事のないレイでさえ、修羅場の予感がしているというのに。
「やっと、見つけたわよ!馬鹿シンジっ!」
レイの耳にもアスカの咆哮が届いた。
なるほど、馬鹿シンジ、だ。
確かにそう叫んでいる。
しかし恥ずかしくないのだろうか。
あんなところで大声を出して。
レイは微笑む。
そうか、好きな人をやっと見つけられたから、周りが見えないのだ。
それは“碇君”も同じではないか。
彼はもう私のことが見えていない。
すぐに思い出すだろうけど、今は彼女と再会できたことで頭の中が一杯になっている。
「そこを動いたらコロスわよっ!」
物騒なことを大声で叫び、何事かと周りの人が驚いている中を金髪を靡かせてアスカはスイス館から駆け下りてくる。
これは拙い。
超然とした(自覚もある)レイでさえ、そう思ったほどである。
なのに何を思うか、当のシンジはふらふらとアスカの駆け寄ってくる方へ歩み出していた。
それを見てレイは呆れ、そして笑ってしまった。
失笑や嘲笑の類ではない。
寧ろ温かいものを感じて微笑ましく思ったのだ。
例えるならば、公園で勢いよく駆けていた子供がこけてしまい半泣きの表情でいるところを見た母親の如く。
まるで地獄からの使者を歓迎するように、シンジはこっちだと手を振っている。
ここまで、ね。
レイは椅子から立ち上がった。
彼女はシンジに礼を言い、そして東京へ、病院へ帰ろうと決意したのである。
何のために帰るのか。
それはもう決まっている。
生きるために。
「アスカぁ!こっちだよ!」
「あんた、何してたのよっ!」
疾風の如く駆け込んできた金髪の少女は、文字通り彼の胸倉を掴んでいた。
前後に揺さぶられているシンジは周りのものがよく見えない。
アスカが泣いていることも、そしてレイが立ち上がっていることも。
「く、苦しい」
「はんっ!」
ぽんと彼を突き放したアスカは、シンジが尻餅をついているうちに背中を向けた。
そして拳で目をこする。
再会できた喜びで泣いていたなど、絶対にシンジに見られたくはない。
シンジはジーパンのお尻をはたきながら、よたよたと立ち上がる。
「酷いなぁ、アスカは」
「はっ、ぶん殴られなかっただけでもよかったと思いなさいよ!」
振り返りずんずんと詰め寄ってくる彼女に、シンジは思わず二歩三歩と後退する。
そして空席だった椅子にまるで尻餅をつくかのように座り込んでしまった。
レイは思った。
初めがあれば終わりも必ずある。
こんなに楽しかった記憶は今までの生涯であっただろうか。
でも、ちゃんとシンジにお礼を言って、そして手の中にあるスタンプノートとフィルムを返さなければ。
あの金髪の少女に何を言われるかわからないが不思議に怖くない。
レイは歩み寄ろうとした。
その時である。
「探してたわけじゃないのよ!はっ、誰が探してたもんですか。アンタみたいな迷子を!」
最初に「やっと、見つけた!」と叫んだことは何だったのだろう。
レイは思わず笑ってしまった。
「だいたい中学生にもなって迷子になる?でもって、一日中迷子のままってどういうことよ」
「ま、迷子、迷子って言うなよ。そりゃ確かに最初は迷ったんだけど、その後は二人でさ」
「二人?どこの誰と、二人なのよ!」
「え?それはここにいる…」
シンジはまたもやアスカに胸倉を掴まれ、椅子に押し付けられたので振り返ることができない。
「あ、綾波と、だよ」
「あやなみ?誰よ、それ」
「えっと、家出…じゃないや、病院を脱走してきた女の子だよ、うん」
「はぁ?女の子ですってぇ!アンタ、女と二人で万博見物してたって言うのぉ?このオタンコナスの癖にっ」
レイはアスカに話しかけようとした。
ほんの3mほどしか離れていないのだ。
だが、彼女はそれ以上歩み寄れなかった。
その一番大きな理由は、金髪の少女の燃えるような蒼い瞳だった。
彼女の目は明らかに物語っている。
アンタ、コロスわよと言わんばかりに、レイを睨みつけているのだ。
そう。目は口ほどにものを言う。
アスカは明らかにレイの存在を知っていた。
シンジがレイに使ったフィルムを渡した時に、スイス館から彼を見つけたのである。
当然、シンジに連れがいることに驚いたが、その前に思わず叫んでしまった。
その見知らぬ少女にも絶対に喧嘩を売ろうと、駈けながら思っていたのだが、
のほほんとしたシンジの顔を見た瞬間に彼に飛びかかってしまったのだ。
その時、アスカは子供じみた策略を思いついた。
「はは〜ん、わかった。アンタ、幽霊とでもデ…じゃない、歩いてたんじゃないの?
だって、どこにもいないんだもん、そんな女の子はっ」
突然、奇妙なことを言い出したアスカに、シンジもレイも驚いてしまった。
シンジの方はまた馬鹿なことを言い出すと思っただけだが、
もうすぐ死ぬと意識していたレイは一足先に幽霊とされてしまい、驚いた後はどういうわけか楽しくなってきた。
自分は幽霊で、シンジはその幽霊と万博見物をしていた。
そういう趣向も面白いではないか。
それにもしちゃんと挨拶すれば、彼らが病院に見舞いに来るとかそういうことも考えられる。
彼らは横浜の方に住んでいると聞いていたからだ。
それにあの金髪の少女は、彼の尻を叩いてでもレイのところへ来そうな直感がした。
それはいやだ。
死ぬとしても…、いや、そんなことをされれば未練が残る。
難しい手術を受け、失敗すれば私は死ぬのだから。
実際に手術を受けなければいずれ死ぬのだ。
となれば、本物の幽霊になるのもそう遠くないかもしれない。
そんな自分が生きている間に幽霊になるなど、面白い趣向だ。
でも…。
でも、今、死にたくないという気持ちが彼女にはっきりと生じている。
レイはそんな心情の変化を素直に受け入れていた。
しかし何はともあれ、今はこの場から消えよう。
あの少女が咄嗟に吐いた法螺話を本当の話にしてみせるのだ。
せっかく一緒に楽しい時間を過ごしてくれた彼には悪いが、自分が幽霊というのも面白いではないか。
レイはフィルムケースを制服のポケットに入れた。
そして、テーブルの上のスタンプノートも手にしっかりと握った。
「い、いるってば。そこのテーブルにいるだろ、綾波は」
「はぁっ?そんなのどこにもいないわよ」
アスカとしては嫉妬交じりのちょっとした嘘に過ぎなかった。
どうやらシンジが声をかけてデートしたとかそういう雰囲気ではなさそうだ。
それに彼女には見知らぬ少女の顔に記憶があった。
いや、記憶というよりも思い出である。
かつて幼馴染の少年が深い哀しみに陥った原因。
彼の家の仏間に飾られた写真の主。
彼の財布にそっとしまわれている写真の主。
お見舞に行った病院でアスカの小さな手を優しく握って、シンジのことをお願いねと微笑んだ人。
その人に彼女は似ているのだ。
アスカはシンジを押さえつけながらも、不可思議な想いを抱いて少女を見つめた。
するとどうだろう。
彼女はアスカの嘘を現実化しようというのか、テーブルから立ち去ろうとしている。
思わずアスカは声をかけようとした。
しかし、少女はそっと人差し指を唇のところへ持っていった。
黙ってとゼスチャーされ、アスカは喉元まで出かかった言葉を止める。
すると、見知らぬ少女は微笑んで、ぺこりと頭を下げたのだ。
「そ、そんなことないよ!どいてよ、アスカ。苦しいってば」
「う、うっさいわね!」
アスカはさらに身体ごと彼を押さえつけた。
するとシンジは黙ってしまった。
身動きもやめた。
それはそうだろう。
彼も健康な男子なのだから。
まだ彼女への恋愛感情に目覚めてはいないが、
アスカの胸元で顔を抑えられれば、苦しむよりもその感触に酔ってしまうのは仕方がないことだ。
彼女は自分がそんな大胆の行動をしていることよりも、少女がこの場を立ち去ろうとしていることに気をとられていた。
アスカに一礼した少女は背を向けて、スイス館の裏手の方へ歩いていった。
幽霊にしてはしっかり過ぎる足取りで。
想定外の出来事にアスカは声も出せず、ただ見送ることしかできなかったのである。
そして少女の姿が視界から消えてしばらくした時、彼女は胸元が異様に熱くなっていることに気がついた。
それが何故かも同時に。
「くわっ、スケベ!エッチ!」
慌てて身体を起こしたが、鎖骨の辺りに彼の熱い息がまだ残っている。
恥ずかしいやら何やらで、アスカは彼に背を向けた。
桃源郷から戻ってきたシンジは、照れ隠しもあった所為かことさらに明るい様子でレイの姿を捜し求めた。
しかし既に姿を消してしまった彼女を見つけることなどできるわけがない。
「あれ?あ、そうか。アスカが怖くて隠れちゃったんだ」
「なんですってぇ!」
彼の思い付きが当たっているかもしれないので、アスカは恥ずかしがっていたのもひと時でシンジをヘッドロックする。
ぐいぐいと首を締め付けられ彼は情けなくも悲鳴を上げる。
「た、助けてよ、アスカ」
「うっさい!散々心配させて!」
本音を漏らしながら、アスカはどうしてくれようかと考えていた。
あの少女は何を思って消えたのだろう。
本物の幽霊とも思えない。
ただ何となくだが、彼女は自分の法螺に乗ってくれたように感じる。
詳しいことはわからないが、それはシンジの幽霊話(にしてしまおうと決めた)を聞けば判断できるだろう。
そして、アスカは決意していた。
もういい加減なアプローチはやめよう、と。
そんなことをして他の女にシンジをとられてしまっては、後悔だけでは済まなくなる。
絶対にシンジは断りはしない。
いや、もし万が一、断りなどすれば、あそこの水すましの池(アスカはマップを暗記している)へ入水してやる。
もちろんその前にシンジの首をへし折ってからだが。
大いなる決断をしたアスカは腕の力を緩めた。
ようやくその腕から抜け出したシンジは、首の周りをさすりながら恨めしげにアスカを見た。
「酷いよ、アスカ。思い切り締めただろ、ああ、気持ち悪い」
「ふん、幽霊なんかとデー…じゃない、うろうろしたなんて抜かしてるから気合を入れてあげたのよ。
ほら、目が覚めた?」
「幽霊じゃないってば。綾波レイって名前で、ずっと一緒にパビリオンを回ってたんだよ。本当だって。信じてよ」
信じない。
本当だと知っているからこそ、アスカは絶対に信じてないという態度を貫こうとした。
彼女は何を馬鹿な事をと言わんばかりに肩をすくめた。
「証拠は?何かある?」
「写真!あ、そうだ。前のフィルムを持っててもらって…、ないよっ、フィルムがない!」
「あ、そ。ないんじゃ証拠にはならないわね。あっ、こら馬鹿シンジ!カメラ置きっぱなしにしたら駄目じゃない!」
「わわっ、よかった。盗まれなくて」
シンジは慌ててテーブルの上のカメラを手にする。
そして一緒に置いてあった筈のスタンプノートを彼は探し回った。
どうやら彼女が持ち去ったのはすべて証拠の品になるはずのものだったようだ。
間違いなくあの少女は自分の法螺に乗ったのだ、とアスカは思い定めた。
「スタンプノートもないよ。おかしいなぁ…」
「はっ、落としたんでしょ。アンタらしいわ、まったく」
「ああ、信じてよ、アスカ。本当にいたんだってばぁ」
「はいはい。でも、アタシは見なかったわよ。
ここにいたのはアンタ一人。ま、ゆっくり聞いてあげるわ。
ちょっと時期の早い怪談話をね。あとで、じっくりね」
あの少女が何者かは今晩ホテルでじっくりと問いつめてやろう。
そして二人で何をしたのか。
どのパビリオンに入って、何を食べたのかも。
そう決意するアスカだった。
その上で何が何でも幽霊だという事にしてやる。
アスカはシンジの腕を掴んだ。
「さ、行くわよ。パパとママが待ってんだから」
「あっ、みんな…探してたんだよね。ごめん」
「よぉっく謝んのよ。それに二人に怪談話をしちゃダメよ。余計に怒られちゃうから。
迷子センターで昼寝してたとかでもいいんじゃない?」
「ええっ、なんだよ、それっ。幼稚園児じゃあるまいし」
「アンタらしくていいわよ。ほら、急ぎなさいよ。中央口で1時間おきに待ち合わせしてるんだからねっ」
「わっ、そ、そうだったんだ。ごめん!」
「ああ、もう!電気通信館の夢の電話があったら、簡単なのにっ」
「あ、あれはダメだよ。携帯無線電話機だろ。
あんなの大きくて、まるでトランシーバーみたいなの何年経っても実用化するわけない…」
「へぇ、見てきたんだ。ふぅ〜〜〜ん」
「違うよ、あっちの方には全然行ってないよ。
行ったのはフランス、ドイツ、ソ連、イギリス、ガスパビリオン、サンヨーにそれから…」
「ああっそうっ!よかったわねっ!
アタシはパビリオンなんて全然入って無いし、とぉ〜ぜんスタンプだってひとつも押してないのよ!
どうしてくれんのよ!楽しみにしてたのにっ!」
本音が出た。
「えっ、じゃ探してたの、僕を?」
「そ、そ、それは当たり前じゃない。アンタはアタシの…。つまり、その、あれよ」
まだ言えない。
もう少しで告白できるところだったが、またいつもの照れが出てしまう。
「はい?」
「つまり、明日も万博見物するって決まったの」
「えっ、本当!」
「パパとママはもう人ごみはうんざりだから、京都見物なんだって。
アタシたちは、ほら、どうせ来年は修学旅行で京都奈良じゃない?
だから、アンタとアタシはもう一度、ここ。文句ある?」
「ないない!あるわけないよ。だって、月の石も見てないし。他にも…」
「ああ〜ら、よかったわね。アタシは何も見て無いって言ったわよね」
「わっ、ごめん。じ、じゃ、明日はアスカの行きたいところ中心でいいから」
「却下」
「ええっ」
「中心じゃなくて、アタシの行きたいところにしか行かないの!アンタは道案内と荷物持ちと…それと…」
やはり最後の部分は言葉にできなかった。
アスカは唇を噛んだ。
言ってよ、シンジ。それと、何かって。そう問い返してくれれば、アタシは言う。絶対に言う。お願いだから、言って!
「もう…。アスカったら」
彼は溜息を吐いた。
「それと、何?」
お昼を奢れとか、カメラマンだとかそういう答を想像した。
まさかこんな答が返ってくるとは想像もしていない。
アスカはさっと頬に朱を走らせ、しかし心に決めた言葉をしっかりと口にした。
「アンタは、アタシの、初めてのデートの相手っ」
この日、碇シンジは幼馴染の想いを知り、そしてそれを受け入れたのである。
レイが言っていたのはこういうことかと思い知りながら。
検討するとか、断るとか、幼馴染のままでいいとか、そういう返事は全然浮かばなかったのだ。
ごく自然に、ありがとうと答えてしまった。
そして、その意味を了解し大いに照れたわけだ。
千里橋通り広場にて、幼馴染の少年と少女は互いの顔を見ることもできず、ただ頬を染めしばらくの間俯いていた。
この時から、二人は彼氏彼女の関係となったのである。
さて、そのきっかけとなった少女はどうしたのだろうか。
本物の幽霊ではない綾波レイは忽然と姿を消すことなどできるわけがない。
東京へ、病院へ帰るためには、まず会場を出て梅田か新大阪まで行かないといけない。
肉体的にはかなり疲れているはずなのに、レイは気持ちの上では足取りも軽く、しかし実際はゆっくりと歩いていった。
その頃ちょうど、彼女は中央ゲート付近でアスカの両親の前を通り過ぎている。
万博会場に外国人の姿は珍しくもない。
彼らはミュンヘン市館でしこたまドイツビールを飲み、かなりいい気分で寄り添って立っていた。
シンジは行方不明になってもそれほど心配ではなかった。
迷子になったまま一人で見物しているのだろうとたかをくくっていたのだ。
何しろこの人ごみでは探しようもない上に放送など聞くこともできない。
のほほんとした少年だし、今日を逃すともうこの大イベントに来ることはないだろう。
だから一人で見物していてもおかしくはない。
ホテルの場所もわかっているのだから、夜になればそこで会えると二人は娘を説得した。
だが目を血走らせ、涙目のアスカは聞く耳を持たずに場内を駆けずり回っていたのだ。
もちろん、彼女の両親は娘の潜在意識下の恋心に気づいている。
だから明日も万博見物に二人きりで行けばいいとアスカに告げたのだ。
逆にこれがいいきっかけになればいいなと、のんびりと話していたくらいである。
その二人の前をレイは微笑みながら歩いていった。
「ごらんよ、キョウコ。いい笑顔してるな、あの娘さん」
「あなたね、娘くらいの子供に鼻の下伸ばすんじゃないわ。でも、確かにそうね」
「どこかで見たような顔だなぁ」
「私もそう思ったの。あれは…、ああそうだ。ユイさんよ、うん」
「そうか、そうだなぁ。よし、明日は湯豆腐を食べよう。本場京都の」
「ちょっと、どうしてユイさんから湯豆腐に話が飛ぶのよ、この酔っ払い」
「酔ってなぞいないぞ。何ならダンスでも踊ってしんぜましょうか?」
「やっぱり酔ってるじゃない。あ、湯豆腐の後、あそこでぜんざい食べましょう。高台寺の参堂にあるあそこで」
「おうおう、あそこだな。で、どこのあそこだ?」
そんな惚けた会話を耳にも入れず、レイは万博会場を後にした。
このゲートを入ってきた時と、今退場する時のレイの表情は一変している。
彼女は生きようとしていた。
おそらく手術は失敗するだろう。
しかし、それまでの間、精一杯生きる。
死神に抵抗してやる。
綾波レイはそう決意していたのだ。
国鉄大阪駅まで戻り、彼女は意を決して公衆電話の前に立った。
東京までの電話代はどのくらいになるだろう。
見当もつかないのでレイは売店で10円玉を30枚用意した。
そして病院の電話番号をダイヤルした。
最後の数字がじじじと戻っていくとき、レイは大きく息を吸った。
大変な騒ぎになっているはずだ。
一生懸命に謝らないと。
電話が繋がった。
女性の声。
病院の名前が告げられる。
レイは唇を開いた。
「ごめんなさい。315号室の…綾波レイです。本当にごめんなさい」
電話の向こうでざわめきが起こった。
新しい世紀が来た。
人類は進歩と調和を遂げたのか。
その答えはまだわからない。
しかし、あの碇シンジは大きな進歩を遂げていた。
心臓外科医として日本でも有数だと言われる立場になっていたのだ。
無論その傍らで金髪碧眼の妻がしっかりと支えていたのはご想像の通りである。
早くに生まれた彼らの息子と娘はすっかり大人で、
この様子では50前にじいさんばあさんになってしまいそうだと友人たちに冗談を言っている二人だった。
彼が医者になろうと考えたのはレイとの出逢いだったのだろうか。
根本的には若くして死んだ母の影響だと彼は言っている。
レイのことは幼馴染で恋人で妻である女性によってすっかり幽霊扱いされていた。
証拠となるはずの写真はレイが持って行ってしまったのだから仕方がないだろう。
しかも当の本人が彼女のことを殆ど忘れていたのである。
その名前でさえも。
あれから30年以上も過ぎたのだから。
心臓外科医としての腕を買われた彼は、東京のある大きな総合病院に勤めることになった。
そこは心臓手術の分野では40年ほど前から有名な病院だった。
その病院から副部長という実質上の責任者として誘われたのだから否応はない。
今日はその会長の家に妻ともども挨拶に赴いたわけだ。
駅から2kmの距離を二人は歩いた。
健康のためというよりも、会話を楽しむためという理由だ。
なだらかな坂を下り、神社の森の向こうに総合病院の白亜の建物が見えてくる。
そこで二人は足を止めた。
疲れたからではなく、周りの景色に見惚れたからだ。
古い家が立ち並び、鬱蒼とした森が周囲の喧騒を吸収しているかのように静かな佇まいである。
「東京にもまだこういう場所があったのね」
「越してくるかい?」
「そうね。泊り込みが多いようなら考えておくわ」
「おいおい、本気か?」
「私はいつでも本気よ。看護婦と浮気したらコロしますから」
50歳前というのに、中学生の頃と少しも変わらない妻の言葉に碇氏は苦笑した。
今は看護師というのだと言えば、男にも興味があるのかと難癖をつけてくることは明らかである。
10年ほど前ならばそうした会話にわざと足を踏み入れたものだが、今は彼も落ち着いたものだ。
妻に比べて精神的に歳をとったかと苦笑することもある。
もっともその妻をわずらわしいとは少しも思ったことはない。
内弁慶の彼女が会長の家でどんなにしおらしく振舞うかが楽しみでもある碇氏だった。
会長の家は病院からほんの近くにあった。
元来その会長も元は日本で一二と言われた心臓外科医である。
当然、碇氏も彼のことはよく知っていて、これまでも面識があったのだ。
「いやはや、驚きましたな。碇君の愛妻振りは学界でも有名でして」
「先生…、いや会長。勘弁してください」
「いやいや、まあ惚気ること、惚気ること。いい年をしてどういうことだと馬鹿にして…いや、これは失礼」
応接間での形式ばった挨拶が終わり、
こちらの方がゆったりと話ができるからと二人はリビングの方に招かれた。
年齢の割りにしっかりとしている会長は多弁だった。
碇夫人のことを気に入ったのか、碇氏の行状を暴露していったのである。
「でもその理由がわかりました。こんなに美しい奥方がいれば、惚気るのも当然。ははははは」
昔ならそこで胸を張ってしまう彼女だったが、もちろん今は伏し目がちに会釈するのみだ。
しかしながら帰宅すれば、ことさら機嫌がよくなっているだろうと、碇氏は妻の横顔を見る。
「コーヒーでよろしいかな?今日は嫁がいないのでな、愚妻のコーヒーになるがすまん。嫁のは絶品だが…」
そこまで言って、会長は慌てて口を閉ざした。
盆を持った奥方が扉を開けたからだ。
すかさず立った碇夫人が手伝う。
「こういう人ですの。でも確かに嫁のコーヒーは美味しくて。
また、お出でになった時にそれはご賞味いただくとして、今日は私ので我慢してくださいね」
どうやら会長の家庭も夫婦仲は円満のようだ。
嫌味が嫌味に感じられない。
いただきますと碇夫婦はコーヒーを飲み始めた。
するとそこに会長の懐で携帯電話のコール音がする。
取り出した携帯電話のディスプレィを見て、会長は困ったものだとばかりに首を振った。
「もしもし私だ。事務長に任せて…、ううむ不在か。アイツは海外だし、仕方ないな。ちょっと待ってくれ」
会長は碇夫妻に「すまん」と中座を詫びた。
息子である病院長が海外旅行中なので自分が決裁しないといけないとこぼしながら、彼は部屋を出て行く。
「いい方ね。気さくで」
「ああ、そうだな」
「あらっ、見て、あなた」
リビングを見渡していた碇夫人はあるものを目に留め、主人の袖を引いた。
「こら、よそのお宅をじろじろ見るんじゃ…」
「ほら、太陽の塔。他にも何かあるみたいですよ」
夫人はソファーから腰を上げる。
いくつになっても好奇心旺盛なやつだと苦笑しながらも、碇氏も腰を上げた。
20cmほどの太陽の塔の模型が飾り棚の中に鎮座している。
それが目を引いたのだが、確かにその周りにもいろいろと飾ってあるようだ。
「まあ、これはソ連館に、ええっとこの蚊取り線香みたいなのは何でしたっけ」
「ガスパビリオン。ああ、こっちは日立館だね。こんなものがあるのか…」
ミニチュアモデルに彼らは夢中になった。
「あら、これはもしかして三波春夫?」
「ふふ、世界の国からこんにちは、か。いや面白いな」
国民的歌手までがモデル化されている。
「誰の趣味かしら。会長さんでしょうかねぇ」
「さあね…。ああ、写真が飾って…」
碇氏の言葉が止まった。
そして、彼は飾り窓越しに一枚の写真を指差したのだ。
「どうしたんですか?まあっ!」
夫人も言葉を失った。
それはそうだろう。
そこにあるはずもない写真が飾ってあるのだから。
その時、会長が戻ってきた。
勝手に飾り棚を見ていた非礼を詫びる前に、会長の方がにこにこ笑いながら彼らに近づいてくる。
「やあ、万博でしょう?ある年齢以上のお客さんは必ずそれを見るんですよ。
碇さんたちも行きましたのかな?私は忙しくて結局一度も行けませんでしたが」
楽しげに笑う会長に、碇氏はかすかに震える指で例の写真を指差した。
「失礼ですが、これは…?」
「何ですかな。ああ、それはいい写真でしょう。万博会場での初々しいカップルですな。
外国人の娘さんはにこやかに笑っているのに、日本人の男の子は固くなって…」
「これ、私たちです!」
碇夫人は堪えきれずに声を上げた。
「何と…」
「妻の言うとおりです。確かにこれはあの時の私と妻です。どうして…」
会長は写真を棚から取り出し、写っている二人とこの場にいる初老の夫婦を見比べた。
「ううむ、なるほど。碇さんはともかく、奥さんにはよく面影が残っておりますな」
碇氏はその感想にはいささか不満だったが、それよりも何故この写真がここにあるのかという方が気になった。
しかも初デートのとき、ホステスさんに撮ってもらったカップルの写真は何枚かあったが、
その中にこんな構図のものは一枚もなかったからだ。
明らかにポーズをとっているので隠し撮りの類ではない。
「これは驚きましたな。どうしてここにあるのか。さてさて」
「あの、どなたが撮られたものでしょうか」
「いや、多分、嫁が知っているはずですが、息子と海外に遊びに行ってましてな、今。
このコレクションはみな嫁が集めたものでして、ああ、その写真がその当時の…」
二人の写真から離れたところに、もう一枚の写真が飾られていた。
太陽の塔を前にして立っている、制服の少女。
その顔を見たとたん、二人の記憶はあの時に遡った。
碇氏は声を失い、夫人は声を上げた。
「まあ、この子が!」
彼女はあの日のことを少しも忘れていなかった。
あの日の夜、宝塚のホテルで少年からすべてを聞きだしたのである。
その幽霊とどういう風に出逢って、どのように会場を回ったのか。
幽霊の名前やその素性も。
もうすぐ死ぬと言っていたと教えられ、その時はさすがに彼女は後悔した。
実は本当の人間だったと彼に謝ろうとしたのだが、言い出すきっかけをつかめないままになってしまったのだ。
何しろ彼の方があれは幽霊だったんだと、素直に納得してしまったのだから。
そういう経緯があったので、彼女はあの事件をずっと覚えていたのである。
片や、碇氏の方は声も上げることができなかった。
一気に当時の記憶が甦ってきたのである。
あの日、一日だけ知り合った制服の少女。
太陽の塔を背景にした、その写真は確かに自分がシャッターを押したものだ。
あの時の少女の表情、言葉、動き。
まるで昨日のことのように思い出した。
確かにこの制服だった。
この服を着て、彼女はそこにいた。
名前も思い出した。
綾波。
…レイ。綾波レイ、だ。
「確か綾波レイという名前だったと思うのですけど…」
会長に語りかけたのは、碇氏ではない。
夫人の方だ。
あんなに昔のことを妻が覚えていることに、傍らの碇氏は心底驚いた。
「ええ、確かにレイですが。何故うちの嫁を」
「話せば長いんですよ。お聞きになります?」
「あの、もしかすると、先生のクランケだったのでは」
ニコニコ笑って会長に話を始めようとした妻を遮って、碇氏は口を挟んだ。
すると夫人は微かに肩をすくめた。
これが十代の頃ならば、大仰に身体を動かし嫌味の3連発くらいは軽く飛ばしていたところだ。
しかしもうこの歳ともなれば落ち着いたものだ。
いつ頃からか碇氏の母親であるかのような感覚も持ち始めている。
「あなた、いきなりそんな質問すると、会長さんが困りますわ。順を追って話をしないと」
「あ、ああ、そうだな。まあ、よかった。とにかくあの子は生きてるんだ」
まるで大きな手術を終えた時のように、碇氏は大きく息を吐いた。
そんな彼の姿を見て会長は目を瞬かせる。
その後、夫人が中心になってあの時の話を会長とその奥さんに聞かせた。
時々碇氏も話を補足し、舅と姑は少女の時から付き合いのある娘の知られざる話に何度も頷いたのである。
そして二人が話を終えると、会長はこう言った。
「君たちに礼を言う前に、まず私の話を聞いてくれんか。こちらも少し長くなるかもしれんが」
そんな前置きで、会長は語りだした。
奥さんは座を外し、2杯目のコーヒーを準備に行く。
それはあの頃の綾波レイの話だった。
「随分と手こずらせてくれたよ、あの子は」
会長はその頃を懐かしむような表情だった。
しかし、話の内容は温かなものではない。
同じ仕事をしている碇氏ならばそれはよくわかる。
「実際メスを執ったのはこの私だ。術部にたどり着く前に血圧が下がってね。手術は中止さ。
失敗とわかったときは正直に言って身体の血が冷えたよ。
これでもうこの子は助からない。彼女には二度目はないと思っていたからね」
会長は表情が変わっていた。
碇夫人はその顔つきに夫と同じものを感じる。
ああ、医師の顔だ、と。
「だがね。驚いたよ。彼女は再手術を希望したんだ。
次の手術まで必ず生き延びてみせる。手術に耐えられる体力をつけると、そうきっぱりと言ったのだよ」
そして、二度目の手術は成功した。
現在、彼女が生きていることがわかっているのに、やはりそのことを聞くとほっとしてしまう。
碇氏は何かしら専門的なことを会長に尋ねると、これもまた碇夫人には理解不能な返事が戻ってくる。
しばしそういうやり取りをしている間に、彼女は会長の奥さんと顔を見合わせ苦笑した。
そのあと、話は綾波レイの生い立ちや入院してきてからのことになった。
無気力無感動。生きていく力などまったく見受けられなかった彼女が脱走したその日から見違えるように変わった。
どこに行ったのかと問われ、彼女は素直に万博に行ってきたと答えたのだ。
あの日本万国博覧会に生きる力を与えるようなものが展示されているのか。
しばし、医局やナースセンターはそれが話題になったという。
太陽の塔に違いない。月の石に決まっている。いや、会場全体に溢れる人類の未来に触発されたのだ。
レイはそれには答えなかった。
ただ看護婦に頼んで焼付けしてもらった、あのフィルムの写真を見て彼女は物凄く喜んだという。
素晴らしい写真が紛れ込んでいた、と。
彼女はその写真をベッドサイドに飾り、飽きもせずずっと眺めていた。
手術室に行く前もその写真に「いってきます」と言い残していったらしい。
「それがなんと君たちの写真なんだよ」
レイはその二人は何者かと尋ねられると、数秒考えてからこう答えたという。
“私の、子供なの。ううん、子供たち”
それ以上は何も言わずに、彼女はニコニコしているだけだった。
「子供っ、ですか」
「そうだ。そして、彼女は、嫁は、どうやらそれを実現してしまったらしい」
会長は奥さんと顔を見合わせて笑った。
奥さんは席を立つと、リビングボードの一番いい場所に飾られている写真のスタンドをふたつ持ってくる。
「こっちは初孫のシンジ。そして、こちらが二人目のアスカなの」
えっ!と年甲斐もなく碇夫婦は声に出して驚いた。
ラグビーボールを脇に抱え豪快に笑っている青年のユニフォームは有名な大学のものだ。
そして娘の方はおそらく成人式なのだろう、しとやかな晴れ着を着て恥ずかしげに微笑んでいる。
碇夫妻は顔を見合し、そして思わず笑ってしまった。
自分たちとキャラクターが正反対ではないか。
碇氏は昔からの癖でぽりぽりと頬を掻いた。
会長は話を続けた。
手術後のレイは着実に回復していった。
そして退院が視野に入ってきた頃、大きな問題が勃発したのだ。
レイはどこに退院すればいいのか。
いずれかの施設に声をかけないといけない。または役所に相談するか。
しかし担当医であった当時の病院長(今の会長)は考えた末にレイに訊ねた。
うちに来るか?と。
“うち”というのが病院長の自宅だとわかり、驚いたレイは返事を保留した。
そこまで人の好意に甘えてよいものか。
入院費用に手術費用、その他諸々。行政からの援助などですべては賄われるはずはない。
難しい手術の成功例としての、モルモットとしての、広告塔としての、
彼女の存在はここまで回復すればもう終わっていると言ってもいい。
だが、彼女を待つ者は病院の外には一人もいない。
そのことはレイもよくわかっていた。
そこで病院長の家に赴き、恩返しとして女中となり働こうかと真剣に考えたのだが、
その計画には大きな問題があったのだ。
自分には家事の知識も能力もまるでないことをレイは自覚していた。
そこで彼女は素直に打ち明けた。
病院長の家で働きたいのだが、能力不足で困っていると。
彼にはレイを働かそうとなど思ってもいなかったので、この申し出には大いに途惑った。
そして妻に相談したのだ。
すると奥方はいとも容易く言ってのけたのだ。
その子の希望通りに来てもらいましょう、私が家事を仕込みます。
それだけを言うのですよ、そうしないとその子は来ませんから。
なに、本人が女中になるつもりで家事を勉強しようが、いい花嫁修業になるだけでしょう?
にっこりと微笑む妻を見て、病院長は大笑いした。
なるほどそうか、騙せばいいのかと。
そして、綾波レイは見事に騙されたのだ。
彼女は申し分のない女中になるため、一生懸命に家事を習った。
さらに学問のない者はこの家には置いておけませんと言われ、必死になって勉強もした。
中学は卒業していることにはなっているが、終ぞ一度も学校には足を踏み入れることはなかったレイである。
制服も結局あの万博見物のその日しか着ることがなかったのだ。
さて、勉強の方だ。
病院での自主学習は大きく文系に傾いていた。
したがって、数学、理科、そして英語についての学力不足は否めない。
そこで白羽の矢が立ったのは、医者などなるもんかとヒッピーに憧れていた高校3年になる病院長の長男だった。
一歳年上の彼は家庭教師をするうちにレイに感化され、結局医師を目指すことになる。
スタートが遅れた分だけ一年浪人したが医大に合格したのだ。
いつの頃か病院長夫妻に騙されていることには気がついたが、彼女はもうこの家を去ることができなくなっていた。
そして、かの長男とレイはその後の人生もともに歩むことになったのである。
すでに時計の針は午後5時過ぎである。
すっかり話し込んでしまったと、4人は笑い合った。
海外旅行から帰ってくる息子夫婦にこの事を教えるのが楽しみだと会長夫婦は語った。
その後の再訪問を固く約束した玄関先で、思い出したかのように会長が問いかけてきた。
「万博のメダルですが、碇さんはご存じないですか?」
「メダル…ですか?」
「ええ、嫁が肌身離さず持っているもので、今も旅行に持って行っている筈です。
手術の時には私に託されましてな。
成功したら返してくださいと言われ、これは責任重大だと困ってしまったものですよ」
彼は首を傾げ、そして思い出した。
どうやらイギリス館でレイにプレゼントしたメダルに違いない。
そのことを話すと、会長は得心いったように頷いた。
玄関先で再度深々と会長夫婦に頭を下げられ、碇氏は恐縮したのである。
「どうやらあのメダルが彼女に生きる力を与えてくれたようですな。いや、本当にありがとう」
夕暮れにはまだ早い。
太陽はまだはっきりと顔を見せていて、影が幾分長めになっているだけだ。
だらだら坂を碇夫妻はゆっくりと歩を進めていく。
1970年以前なら間違いなく夫人が先をさっさと歩き、碇氏がふぅふぅ言いながらついていく図式だった。
その後はまるでダッコちゃんだと噂されたように、碇氏の腕にすがりつくようにして夫人は歩くようになった。
碇氏のタフさはその時に培われたものだと、友人たちの間では定説だ。
そして今は、寄り添うようにしてふたり並んで歩いている。
「びっくりしたね」
「そうね。でも、生きていてくれてよかった」
「アスカ…?」
足を止めた夫にあわせて、夫人は立ち止まった。
そして横目でちらりと夫の表情を窺うと、軽く溜息を吐く。
「悪かったわ。幽霊にしてしまって」
三十数年振りの謝罪は素っ気無い言葉だったが、心からのものだった。
しかし、碇氏はぽりぽりと頬をかいてこう言ったのだ。
「いや、わかってたよ。さすがに幽霊とデートしたなんて、あまりにね」
「間違えないで下さい。デートじゃないわ、あれは」
「ああ、すまない。初めてのデートは君とだったね」
「そうよ。歴史を捻じ曲げてもらったら困るわ」
捻じ曲げたのは君の方じゃないか。
碇氏は口にはせずに、青みを増している空を見上げた。
30年以上忘れていたことが、まるで昨日のことのように思い出せる。
『死ぬの。私』『私は、綾波、レイ…』『いいの?私と一緒で』
『いいの?私と一緒で』『これは、あなたのお母さん?』『そう、素敵ね』
『無理。笑えないから』『あなたって鈍感なのね』『ふふ、そうね。不思議』
彼女が持ち去ったスタンプノートもリビングボードの中に飾ってあった。
30年以上前に自分が押したスタンプを見て、碇氏は感慨にふける。
そしてリビングボードの別の場所に目を移すと、そこに見えたスタンドは、写真を2枚並べるタイプのものだった。
1枚は現在の太陽の塔を前にして、初々しい母親が赤ちゃんを抱いている姿。
もう1枚は同じ構図でやはり母親が赤ちゃんを抱いているが、
すっかり落ち着いたような雰囲気を見せ、その母子の傍らに満面笑顔の幼い男の子が立っている。
その男の子の名前がシンジで、赤ん坊がアスカなのだろう。
「いい笑顔だったわね。あなたのお母さんに似ていた」
妻の言葉に碇氏は答えなかった。
何故なら彼にはわかっていたからだ。
あれは亡き母の顔に似ているのではなく、母親という存在に共通する微笑だと知っているから。
それは産婦人科で妻が初めて赤ちゃんを抱いた時にわかった。
母親が我が子に注ぐ愛情。
父親のそれとはかなり違うのかもしれない。
彼はその話題には触れずに、写真が撮られた背景のことへ話を振った。
「彼女、何度も行ってるんだね。万博の跡地に」
「この歳になってもね。今度の休みに行ってみましょうか。私たちも」
「いいね。しかし、太陽の塔くらいしかないんだろう?あそこには」
「いいじゃない。雰囲気ですよ、雰囲気。それに日本庭園には行ってないわ。確かあそこは今もあるでしょう?」
「ああ、そうだね。あの時はトウジたちもあそこには行ってなかったようだし」
「若者向きの場所じゃありませんもの。でも、今の私たちにはお似合いよ、きっと」
やや色が薄くなり始めた金髪を右手で梳き、夫人は傍らの夫に微笑みかける。
「ねぇ、あなた。私、欲しいものがあるの」
「当ててみようか」
「いや。どうせ当てられるんだし、癪だもの」
夫人は少女のように拗ねてみせる。
いつからだろうか。
考えていることをすぐに見抜かれてしまうようになったのは。
「あのグリコのおまけ」
「やっぱり。あんなものが売られていたのは知らなかったよ」
「私、蚊取り線香が欲しい。ソ連館もね」
「ガスパビリオンだよ」
碇氏は笑って補足し、自己主張も付け加えた。
「私は日立館がいいね。サンダーバードの基地みたいで格好いい」
「あなたも相変わらずね。三波春夫大先生のもいいと思わない?月の石は要らないけど」
あの時、結局見逃してしまった月の石だったが、今となってはそれほどの魅力を覚えない。
やはり“人類月に立つ”の興奮の最中にあった所為なのだろう。
あの当時は今と違って、未来への憧れに子供だけでなく大人たちもが目を輝かせていたような気がする。
今はどうなのだろう。
過去を懐かしむ気持ちの方が強くなっているのは、果たして自分が歳をとった所為なのかどうだか。
碇氏はそんなことを感じながらも、妻と同様にあのフィギュアが欲しくなってきている気持ちを抑えられない。
「今も売っているのかなぁ」
「帰ったらインターネットで調べましょう。また子供たちに馬鹿にされるかもしれないけど」
「特にユイにはね。鼻で笑われるよ、きっと」
「ふん。あの頃の思い出のない人間に何を言われても平気」
嘘つき。
そう、碇氏は妻に声なき声で語りかけた。
きっとまた母と娘が言い争いをすることだろう。
しかしそれももうしばらくで再々見られなくなる。
早ければ来年にはついにじいさんか…。
「じゃ、行こうか、アスカばあさん」
「なんですって」
「ははは、孫の顔を見たくないのかい」
「結婚してもすぐにつくるなって、ユイには口を酸っぱくして言ってます」
また、嘘をついた。
子供は早くつくりなさいと長女に言っているのを聞いた覚えがある。
もっとも、それとおばあさん呼ばわりされることとは別物だろうが。
碇氏は妻に微笑んだ。
行こうかと右手の肘を突き出す。
ごく自然な感じで、夫人はその腕に手をまわした。
そして二人はまただらだら坂を歩き始めた。
その足取りはゆったりとしていても、しっかりとしたものだ。
「なあ、彼女は僕たちのことを知っているのだろうか」
「さあ、どうでしょう。ご主人に聞いてなければ、あなたを見て驚くでしょうね」
「見てもわからないのじゃないか。すっかり中年だからね」
「そうかしら。たぶん、すぐにわかると思うわ。それに珍しい名前だしね」
「なるほど“碇”でわかるか。では顔を合わせた時には何と言えばいいのかな」
「馬鹿ね、簡単じゃない。愛する妻がお礼を言ってました、と言えばいいのよ」
「何だ、それは。意味がわからないぞ」
「わかるわよ、きっと。彼女ならね」
いくつになっても妻は時々わけのわからないことを言う。
もっともそれが的を射ていることが多いのも事実だ。
もし彼女と言葉を交わすことになれば、まず妻の言うとおりに言ってみよう。
何故だか、それで彼女の笑顔が見られるような気がする。
「ねぇ、大昔の碇馬鹿シンジさん?」
「なんだい、かつての惣流・アスカ・ラングレーさん?」
「私に買ってくれたメダルは覚えてくれてる?」
どんな難問が飛びかかってくるのかと思えば、意外に簡単な問題で碇氏はほっとする。
「覚えてるよ。3つも買わされたからね」
「3個で我慢してあげたのよ。10倍返しが基本でしょう?」
「それはどうもありがとう。ドイツ館にソ連館にガスパビリオンだろ」
「それでは問題よ。その3つの中で私が肌身離さず持っているのは?」
連れ添って何年という計算は彼らにはない。
恋人になって何年なのである。
その長い時間を共有しているにもかかわらず、碇氏はその事実をまったく知らなかったのである。
「まあ、あなたは人のバッグの中まで覗くような人じゃないということですよ」
満足げに身体を預けてきた夫人は、上目遣いに夫を仰ぎ見る。
「で、答えは?三択だから簡単でしょう?」
「三択の女王は竹下景子だったね」
「話を逸らさないでさっさと答えなさい」
「うむ、蚊取り線香だろう。どうせ君のことだから」
「あら、つまらない」
言葉とは裏腹に、夫人は嬉しげにバックから小銭入れを取り出してきた。
片手だけの動きで、なかなか器用なものである。
そこから500円玉より少し大きな銀色のメダルをつまみ上げ夫に見せた。
「おやおや、ずいぶんと磨り減っちゃっているね」
「仕方ないでしょう。ずっと財布に入れっ放しだったのですから。
この幸せがいつまでも続きますようにと、14歳の可憐な少女は祈りを込めたのです」
あの頃を懐かしむように、夫人は芝居っ気たっぷりに喋る。
「どうしてガスパビリオンだったんだね?ドイツ館やソ連館のメダルではなくて」
「さあ?忘れました。きっとご利益がありそうに思ったんじゃないかしら」
「なるほどね。まあ、その3つの中なら私もあれを選んだかもしれないなぁ」
「でしょう?これからもよろしくね。蚊取り線香さん」
夫人はメダルに軽く一礼し、再び小銭入れの中に戻した。
なるほど、それが我が奥方様の記念品だったわけか。
微笑む碇氏は自分の記念品をポケットから出すつもりはなかった。
何故ならそれは交際直後から夫人に露見してしまっているからだ。
彼の財布の中にある3枚の写真。
財布は姿形を変えても、その写真は変わらない。
あのレイに見せた母親の写真。
この15年前に撮影した家族4人での写真。
そしてやはりあの万博の時の写真の3枚。
もちろん最後の一枚がその記念品である。
なりたてのほやほやの恋人がガスパビリオンをバックに並んで写っていた。
その写真の碇氏は強張った表情もなく、素直な笑顔である。
夫人の方は言うまでもなかろう。
そして彼の肩越しにガスパビリオンの一種間の抜けた顔が見えているのが可笑しい。
シャッターを押してくれたホステスさんが、絶対にいい写真に仕上がっているわよと太鼓判を押してくれたほどだ。
永遠なる幸福を願った記念のメダルが、彼女曰くの“蚊取り線香”になったのは当然の経緯だ。
その写真から連想して、碇氏は先ほどの写真を思い返していた。
すっかり母親の顔となったレイが、二人の子供と写っている写真を。
母子の背後で、白く巨大で、摩訶不思議な塔が緑の中にそびえ立っている。
今もきっと、太陽の塔はそのままの姿で立っているのだろう。
そして、あの奇妙な顔が虚空をひしと睨みつけているに違いない。
母に叱られた幼子の、そんな拗ねたような顔つきで。
<おわり>
最後までお読みいただきありがとうございました。
また、あのようなダイジェスト版のままで一年間放置してしまったことを綾波展の皆様にお詫び申し上げます。
ようやく完全版を書き上げることができました。
これでもかなり削除した部分があったりします。
病床のレイの宝物入れの中に“壊れためがね”も入っていたりとか。これは書いてしまうと、エヴァ的には面白いかもしれませんが、話が縁起的なものになってしまう恐れもありましたので唯一ゲンドウが登場できそうな回想シーンはオミットされました。
お読みいただく上で、参考資料になりそうな画像は本文中に挿入することは(容量の問題で)躊躇われましたので、私のサイトに資料用のページを作成しておきます。(http://www5d.biglobe.ne.jp/~mixed_up/expo_2007.htm)興味のある方はそちらもごらんくださいませ。
2007.06.16 ジュン
jun_sri@msh.biglobe.ne.jp