ディストピアの風景

金物屋忘八(69式)

 

 二

 

「知らない天井だ」

 

 シンジは、NERV施設内を赤木博士に案内され、ここが医学や生化学、遺伝子工学といった、ただひたすらに生物としての人間を原子レベルまで徹底的に調べ上げるための機関である事を理解させられてから、私室へと案内された。

 彼女は、シンジを実験用ネズミの様には扱わない、とは言っていたが、どうやらそれも怪しいとしか彼には思えなかった。父碇ゲンドウの言うとおり近代科学理論の外にある存在をその認識の内側に取り込むのが目的の組織であるならば、この施設に集められた機材と人材は、あまりにも大掛かりで大人数の高度な教育と訓練を受けてきた研究者達を集めたものである。それに対して検体である「異能者」は、紹介されなかったのかもしれないが今は自分一人しかいない。

 

「なんで僕はここにいるんだろう?」

 

 答えは判っていた。元いたところ、父ゲンドウの恩師でありシンジが「先生」と呼ぶ老人との生活は、静謐ではあったがひたひたと忍び寄る絶望の中に沈んでいくしかなかったらだ。母が他界し、父から捨てられて三年。その間過ごした信州地方は、日々絶望に顔色が暗くなっていく老人らの姿ばかりが目につく終焉を迎えつつある世界でもあったのだった。

 

 いい加減に思考が滅入ってきたシンジは、S-DATから流れる音楽のしらべに精神を委ね、そのまま意識を手放そうとした。

 その時であった。内線電話の電子音がシンジの耳を刺し、たゆとう始めた意識を現実世界に刺し留める。

 シンジは眠りに入ろうとしていた身体を無理矢理起こすと、重く鈍くなった頭のまま、枕元の内線電話を取った。

 

「シンジ君、赤木です。これからもう一人の「同僚」に会わせるわ。迎えに行くから準備しておきなさい」

「……はい」

 

 僕はただの中学生で、夜ゆっくりと眠る権利くらいは持っているはずなんじゃなかったんだろうか?

 そろそろ日付も変わろうかという時計の表示を見て、シンジは、大きく溜息をついた。

 

 

 目の下に隈というよりしわとたるみを作って現れた赤木リツコは、眠そうにはれぼったいまぶたを何度もしばたかせながら、シンジを連れ出した。

 

「寝ているところを起こしてしまって悪かったわね」

「……赤木博士は、お休みになっていないんですよね?」

 

 リツコは、左手首を返して時計を見、眉根を寄せて大きく溜息をつくと疲れた声で呟いた。

 

「二時には寝るわ。明日も早いし」

「……お仕事、お疲れ様です」

 

 シンジにしてみれば、本当に他に言い様が無かった。

 そのまま二人は、黙ったまま常夜灯が点いているだけの薄暗い廊下を足早に歩いてゆき、エレベーターに乗り、そしてまた歩いてゆく。途中、何度もリツコがIDカードで扉を解錠しては別のフロアの廊下に入るあたり、この建物を設計した誰かは絶対にヲタクで偏執狂だとシンジは確信した。いくら政府直属の非公開組織だからといって、建物のフロアごと区画化してIDカードを要求するというのは、絶対にアニメや漫画の読みすぎだとしか思えなかったのだ。

 

「間にあったわね」

 

 リツコが最後に開けた扉の向こう側は、燃料油とグリースの臭いが充満し、こうこうと明かりが点され、十数人もの人間がヘリに取り付いて仕事にいそしんでいる光景があった。

 シンジは、ぽかんと口をあけたままその状景を見続け、そしてリツコに促されて初めて自分が多数のヘリが並ぶ格納庫の中にいる事に気がついた。

 

「それで、もう一人って?」

「すぐ会えるわ。マヤ!、レイの状態は?」

 

 リツコが、格納庫内の喧騒を上回る大きな声で誰かを呼ぶ。シンジは、彼女の視線の先になんとはなしに目を向けた。

 そこには、ブルーグレーの機体に真っ赤なイチジクの葉をモチーフにしたマークと、大きくNERVの文字が描かれたヘリから、一人の少女が多数の白衣の医療関係者の手でストレッチャーに乗せられていた。シンジは、その場で応急措置が始まったのを見て、自分がここに居ていいのだろうかと、本気で疑問に思った。

 

「先輩!? レイちゃん重傷です! 意識はしっかりしてて、精神汚染もありませんけど、内臓損傷に加えて左腕の骨にひびが入っていて!!」

「また独断で降下したの?」

「はい! 今度は「本物の使徒だから確保支援に当たります」って! もう、特機隊員だって負傷者が出ているのに、防護服も何も無しで!!」

 

 リツコがマヤと呼んだ女性は、ヘリから飛び出すように降りてくると、赤木博士の元に駆け寄ってきて半ば泣き声で叫んでいる。

 

「マヤ、落ち着きなさい。レイは医療班に任せなさい。意識がはっきりしているなら、大丈夫だから」

「でも!」

「いいから、皆が見ているわよ」

 

 完全にパニックを起こしてしまっている女性とそれをなだめているリツコの横を通り過ぎ、シンジは、救護班の隊員らの間からストレッチャーの上を覗き込んだ。

 そこにには、血に染まった衣服を切り剥がされて全身にこびりついた血を拭い取られつつ、腹部を中心としたあちこちの裂傷への応急処置を無表情のまま受けている少女が居た。

 シンジは、その少女の真紅の瞳と、月色に輝く銀髪に、日中に見た池の対岸に立っていた少女の事を思い出し、それが彼女である事に気がついた。

 

「あの、すいません」

「邪魔だ! どいて!」

 

 救護班員がシンジを退けようとするのを人ごみをかきわけ無理矢理少女に近づき、シンジは、少女の傷に手をかざした。

 シンジの身体の芯で何かが脈動を始め、意識がそこからあふれ出す何かに集中する。全身の細胞がその脈動と調和して躍動し始め、少女の細胞の脈動と同期し始める。互いの生命のうねりがまるで演奏の様に新しいハーモニーを奏でる感覚に、彼は陶然としてその調べに身をゆだね続けた。

 ふとシンジが我に返ると、自分と少女を中心として人の輪ができている。

 

「……それが、貴方の「力」なの?」

 

 喜悦にそれまでの倦怠も眠気も消え去った表情をしたリツコが、人々の輪の中からシンジに近づいた。

 

「あ、いえ、その、内臓に傷がついているって聞きましたから……」

「素晴らしいわ! まさに貴方は現代医学ではなしえない奇跡を起こしたのよ!!」

 

 人間の内臓が損傷した場合、現代医学では治療法は一つしかない。

 抗生物質の投与によって雑菌による二次感染を防ぎつつ、出血を可能な限り止め、内蔵自体の自己修復を待つ。傷ついた内臓自体を治療する技術は、未だに開発されていないのだ。

 そしてシンジは、まるで無造作に「痛いの痛いのとんでけ〜」で少女の内臓の損壊を治療してしまったのであった。

 気がつけば周囲の全ての人間がシンジを賞賛の目で見ており、それこそ拍手でもしかねないくらいの様子である。そんな場の雰囲気がこそばゆくて、彼はもう一度少女の方に視線を戻した。

 

「あなたは?」

 

 少女は、何も無かったかのような冷たい無表情さを保ったまま、まっすぐにシンジを見つめていた。

 

「碇シンジ」

「そう」

「君は?」

「綾波レイ」

 

 少しの間、二人の間に沈黙がおり、視線が絡みある。

 

「あなたが三人目なのね」

「そうなんだ」

「ええ」

 

 

 二人きりの時間は、長くは続かなかった。

 格納庫の扉が開くと同時に、靴音も高く一人の少女が足早に入ってきたのだ。

 

「日向二尉、状況は?」

 

 その少女は、紺色の空自の制服を身にまとい、ウイングマークと一等空尉の階級章をつけている。外見と声からするならば、歳の頃はシンジとそう変わらないであろう。しかし、その眼鏡の下で見開かれ常人とは違う輝きを持った瞳は、この少女もまた、シンジやレイ同様に特殊な存在である事を周囲に印象付けていた。

 ヘリからレイを降ろしていた人々の中にいた青年の一人が、一歩前に出ると淡々を報告を行う。

 

「はい。2335、負傷したファーストチルドレンを回収、本部に帰還。2412到着と同時に応急処置を開始。サードチルドレンの協力を得て、内臓部分の損傷を治療に成功、現在止血作業と骨折部分の治療中です」

「了解。ファーストチルドレンを集中治療室に移動させ、治療を続行させる様に。以上」

 

 眼鏡の少女は、眼鏡の下の瞳が瞬きもせず、日向と呼ばれた眼鏡の青年の事を見つめている。

 日向二尉は、少々鼻白んだ様子で、応急治療班に指示を下し、レイの乗せられたストレッチャーを格納庫から運び出していった。

 

「碇シンジ」

「あ、はい」

 

 少女は、左足のかかとを軸にくるりと回ると、シンジに向き直り、何が起きたのか判らない表情でいる彼の瞳を見つめた。

 シンジは、この少女がこれから自分にあれこれと命令を下す事になる直属上官で、そして、クサナギスイトと名乗ったのを思い出した。

 

「首都警特機隊より応援要請が来ている。これから私の指揮の下、「使徒」回収の支援作業に入る。質問は?」

「……あの、僕は何をすればいいんですか?」

「詳しくはヘリで現場に到着するまでに説明する。基本的には使徒を発見し、追尾し、その情報を特機隊に送り続ける作業だ」

 

 シンジは、淡々と語り続ける少女の口調とぎらつく瞳の輝きに気圧され、思わず「はい」とうなずいてしまっていた。

 

「お待ちなさい、草薙一尉! 彼はまだ何の基礎訓練も受けていない上、そもそも今日着いたばかりなのよ!? 故障したセンサーの交換部品扱いはやめなさい!」

 

 一方的に指示を下した後、ヘリ整備員らに稼動機の確認に行こうとした草薙一尉を、リツコが叫ぶようにして止めようとする。

 だが草薙は、視線すら向けずにリツコの抗議を却下した。

 

「首都警への支援活動はNERVの基本任務の一つであり、サードトチルドレンの支援作業への投入は当直司令の許可も受けています。現地の状況は混乱が拡大中であり、早急にその収束が必要と結論が下されました。以後ファーストチルドレンへの指揮権は、警備部の管轄となります」

「当直司令は誰!?」

「私です、赤木博士。ただし今は後藤警視正がその任に当たっておられます」

「……くっ!」

 

 シンジは、電動牽引車がヘリを発着場まで牽引していくのを見ながら、ここもお役所なんだな、と、何か脱力するような気持ちで眠い目をこすった。

 

 

 「NERV-EVA001」とナンバーの振られたUH-60JAに乗せられたシンジは、キャビンの中央に据えられた座席に文字通り押し込められた状態で夜の東京上空を飛ぶ羽目になった。

 座席自体はシンジの体格に合わせたのか、座り心地は悪くは無かったが、ハーネスでがっちりと座席に固定され、頭部にかぶせられたHMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)に視界をさえぎられ、イヤープロテクターで外部の音と遮断され、左右両手にトラックボールを握らされた状態というのは、非常に不安感をあおるものがあったのだ。

 

「操作方法は理解した?」

 

 ひざ下まであるタイトスカートの空自の制服のまま、UH-60JAに同乗している草薙一尉が、シンジが押し込められた座席の機器の使用法について一通り説明したあと確認をとる。彼女はシンジの向かいに二つ並んでいるコンソールの一つに陣取り、ヘッドフォンと喉当て式マイクを装着して、彼とコミニュケートしている。

 

「はい。右側が自分を中心とした周囲の3D地図の操作、左側が本部から送られてくる情報ウィンドウの操作、ですね」

「そう。では「視界」を3Dマップと同期させて」

 

 シンジは、一度ゆっくりと息を吸うと、眼球から入ってくるものと別のもう一つの「視界」の「眼」を開いた。そして、自分を中心にそれを広げ、目前の液晶ディスプレイに映されるテクスチャで構成される三次元地図に重ね合わせようと努力する。だが、100ノットを超える巡航速度で飛行するヘリの速度と同期して後方へと流れていく3Dマップと、「視界」が認識する夜の東京の街並みとを上手く併せる事ができない。

 

「シンジ君、無理して同期させようとしなくていいから、落ち着いて。まずは「視界」の方に集中して」

 

 草薙一尉の隣のコンソールに座っているリツコが、難しい表情で目前のモニターに映るシンジの身体状況のグラフの変動を見ながらアドバイスを出す。

 シンジは、乗り物酔いに近い気持ち悪さをなんとか抑えつつ、目前の3Dマップではなく、自身の「眼」の方に集中する事にした。

 

「草薙一尉、三半規管の狂いが許容値を超えるわよ。一旦ヘリをホバリングさせて、眼球と「遠視」の知覚のズレを戻さないと、乗り物酔いで役に立たなくなるわ」

「いざとなったら鎮静剤と覚醒剤を投薬します。今はわずかでも時間が惜しい」

「だから! シンジ君をセンサーのパーツ扱いするのは止めなさい!!」

「今、我々を含めたこのヘリに載っているもの全てが、一つのシステムを構成するパーツです。それは私達も同じです。赤木博士」

 

 モニターの照り返しに眼鏡の下の瞳をぎらつかせながら、しかし淡々とした語り口調で草薙一尉はリツコの進言を却下する。

 

「シンジ。広げた「視界」の中から、個々の人間を識別する事はできる?」

「……やってみます」

 

 身体の五感の認識と「視界」の認識のズレに胃が痙攣する感覚に脂汗がにじんでくるのを我慢しつつ、シンジは漠然と広げた「視界」の中から、多くの人々をそれぞれ個々の存在として知覚しようとした。

 途端、それらの人々の発する行動、思考、感情といった情報が一気に押し寄せ、シンジは反射的に「眼」を閉じた。だが、一度「知覚」してしまったその膨大な情報量に、既にかなりの負荷のかかっていた脳の処理が追いつかず拒絶反応を起こし、めまいとともに胃の内容物を吐しゃしてしまう。

 

「赤木博士、鎮静剤投与」

 

 だが草薙一尉は、シンジの吐いた代物のすえた臭いを完璧に無視して、感情の全くこもっていない声で指示を下す。

 もっともリツコは、草薙一尉の指示よりも早く鎮静剤を投与している。

 

「神経パルスの全数値がマイナスに転換。脳波波形も微弱化しているわ。これ以上彼の身体に負担をかけるのは無理よ」

「シンジ、もう一度「視界」を広げられる?」

「……何を見つけるのか、教えて下さい。でないと、気持ち悪くて、何がなんだか」

 

 怒りのこもったリツコの声を完全に無視し、草薙一尉はシンジに指示を下す。

 シンジは、半ば自棄になりつつも、それでも薬の作用で随分と身体が楽になったこともあって、右手で3Dマップを操作しながら精神を集中させ始めた。と、彼の目前の3Dマップ上に、緑色の三角形やひし形が多数投影される。それらの図形は、何がしかの意思を持つかのように、統制の取れた動きで何かを追跡している様に見えた。

 

「今映したのが、特機隊の状況。二等辺三角形がヘリ、正方形が車両、ひし形が特機隊員。彼らは「人間ではない暴力衝動を発散している存在」を追跡している。それを見つけてマップ上にポインティングし続けるのが、君の役割」

「…・・・判りました、やってみます」

「期待している」

 

 まったく感情のこもっていない一言ではあったが、彼女なりの激励なのであろう。

 シンジはそう思うことにして、普通の人間の情報をできるだけ脳内に入れないようにしつつ、草薙一尉の言うところの「人間ではない暴力衝動を発散している存在」を見つけだそうとした。だが、この夜の東京に充満する多くの人間の暴力衝動がノイズとなって、彼の知覚を妨害する。元々がそうした他人の生の感情に触れるのが嫌で、普段から出来る限り「異能」を使わないできた彼にとって、それは直接脳髄を殴りつけられるような苦痛であった。

 

「草薙一尉、精神汚染が始まっています。ただちに中止命令を出しなさい。これ以上は、技術部から警備部に正式に文章で碇指令経由で抗議書を出すわよ」

 

 低くどすの利いた声でリツコが草薙一尉に警告を告げる。その面には、強い憎しみにも似た怒りが浮かんでいる。

 

「シンジ、限界?」

 

 だがシンジは、草薙一尉の質問に答える余裕は無かった。ひたすら心の中で「逃げちゃ駄目だ」と繰り返しつつ、「視界」を絞って捜索を続けている。

 そして彼の努力は、報われた。

 特機隊がやり過ごした場所の一隅に、どう感じても人間とは思えない感触の存在を捕らえたのだ。

 だが、すでに限界まで負荷のかかっていた彼の脳は、その不気味かつ異様な存在を許容できず、意識を放棄することで自身を護ることを選択したのであった。最後の最後に、シンジがその「異物」の存在するポイントをポインティングデバイスでクリックできたのは、本当に僥倖であったとしか言いようが無い。

 シンジは、自分の努力が無駄になりませんように、と、それだけを思って暗い闇の中に意識を沈めていった。

 

 

 フェイト・テスタロッサは、目前に広がる焼け焦げた建物の残骸の山を呆然と見つめていた。

 バチカンから何の特徴も無い白人のCIAマン二人に引き渡され、そのまま手荷物すら持たずにビチェンツァの米軍基地から輸送機でアメリカ本土まで連れていかれたあげく、ヴァージニア州の一角にあるこの敷地までヘリで途中ろくに休憩も取らずに運ばれてきたのだ。なのに目的地が実質的に消失してしまっていては、これから自分がどうなるのか全く判らなくなってしまって、思考が停止してしまうのもいたしかたないといえる。

 フェイトは、自分の両脇に立っているCIAマン二人も自分と同じく呆然としている事に気がつき、どうしたものかと考えた。

 

 逃げるか、留まるか、積極的に協力するか。

 

 だがフェイトは、そうした思考をあっさりと放棄した。いずれにせよ自分の居場所はこの世界にはなく、逃げるとすれば自分自身で命を絶つしかない。そして理由は判らないが、それだけはどうしてもできなかったのだ。死ぬのが怖いわけではない。ただ、自分で命を絶とうとすると、どうしてもその手が止まってしまうのである。

 そうして呆然としている三人のところに、スーツをだらしなく着崩した赤ら顔の中年の白人男性と、きっちりとスーツのボタンを留め、胸にきちんと折りたたまれたハンカチを差した若い黒人男性の二人組が近づいてきた。フェイトは、両脇のCIAマン二人が、同時に左手でスーツのボタンいじり始め、右手をぶらぶらさせ始めたのに気がついた。

 

「FBIのハバード捜査官です。お二人の所属と名前を確認させて頂きたいのですが」

 

 最初に口を開いたのは、若い黒人男性の方であった。フェイトは何故か、彼の発音が東部エスタブリッシュメントのものである事が理解できた。

 

「……CIAのベニング調査員です」

「……同じくCIAのクラフト調査員です」

 

 CIAの二人は、ハバード捜査官が見せたFBIのバッジに降参するかのように、言葉少なく答えた。

 

「よう兄ちゃんがた。ちょいと聞きたいんだがね、お前さんがたは、この建物の関係者だな?」

「……………」

 

 赤ら顔の白人男性が、くっちゃくっちゃとガムを噛みつつ、横から口を差し挟む。

 それに対してCIAの二人は、無表情のまま黙って黒人男性を見つめている。

 そんな二人をじっと見つめていたハバード捜査官は、すっとフェイトの目の前に立つと、腰をかがめて自身の顔をフェイトの顔と同じ高さに下げ、穏やかな微笑みを浮かべる。

 

「お嬢さん、お名前を教えて頂けますか?」

 

 フェイトは、両脇のCIAマンを交互に見つめた。彼女は自分が彼らCIAの「所有物」であると知らされていたわけであり、また「魔女」としての本能から、自分の名前を明かしてしまう事が許されるのかどうか判らなかったのだ。

 そして彼女のそんな動作と表情を視界の端で観察していた白人男性が、にたりと嫌らし気な笑みを浮かべて、二人のCIAマンに宣告する。

 

「そこのお嬢さんは、どう見たって十三、四だよなあ。こりゃ連邦法の児童保護法の規定に確実にひっかかるぜ、兄ちゃんがた」

 

 くるくると自分のFBIバッジのケースをもてあそぶ白人男性に向かって視線を向けたハバード捜査官は、腰を伸ばすと二人のCIAマンに向かって、あくまで穏やかに話しかける。

 

「もう一度確認させて頂きます。お二人はこの敷地の施設の関係者ですね?」

「……はい」

 

 観念したかのように、CIAマンの一人が質問に同意する。

 

「ありがとうございます。それではお三方には、この令状に従い、我々に同行して頂きます。詳しくは支局でお話をうかがいましょう」

 

 あくまで穏やかな表情と口調は崩さず、ハバード捜査官は胸ポケットから連邦判事のサイン入りの捜査令状を片手で取り出して提示すると、もう片方の手をネクタイにやった。同時に、あたりの残骸の物陰に隠れていたらしい男達が数名、ボタンを外したスーツのジャケットの裾を左手でいじりながら現れる。

 フェイトは、CIAマン二人が両手を上げて大人しくFBIの捜査官達に連行されるのを、黙って見つめていた。

 

 世の中は広くて、自分には理解できない法で動く世界がある。

 

 母親とその使い魔くらいとしか接触の無かった彼女にとって、世界とは書物と教育でしか知らない存在であり、紙切れ一枚で自分を所有しているはずの組織の人間が降参する姿は、あまりにも驚きであったのだ。そして、表情にこそ出さないものの、呆然として成り行きを見ているしかできないでいるフェイトに向かって、ハバード捜査官は穏やかに微笑むと右手を差し出した。

 

「お嬢さん、お願いなのですが、お名前を教えて頂けますか?」

「フェイト。フェイト・テスタロッサといいます」

「ありがとうございます。自分はデンゼル・ハバードと申します。ではミス・テスタロッサ、アメリカ合衆国連邦法の規定に従い、貴女を連邦司法省が保護します。何か希望があれば、出来る限りの事をいたしましょう」

「ありがとうございます、セニョール・ハバード」

 

 フェイトは、自分の新しい所有者が誰になるのか、それが切実に知りたくなった。だが、今は大人しくこのハバード捜査官について行かねばならず、数多くの質問に答えさせられるであろう事も理解していた。

 

 何故あの時、アンデルセン神父は自分を殺してくれなかったのだろう?

 

 フェイトは無表情なまま、不安に押しつぶされそうな心の中で、母親を護って戦っていた時に死に損なった事を心から後悔していた。

 

 

「知らない天井だ」

 

 ヘリの中で気を失ったシンジが目覚めたのは、見覚えの無い病室のベッドの上であった。

 気分は爽快とは完全に反対の脳の芯が重く暗くどんよりとしていたが、それでもなんとか上半身だけ起こす。そして身体が切実に水分を欲している事に気がつき、何か飲み物はないかとあたりを見回した。

 そして、ベッドの横のサイドテーブルの上に水差しとコップを見つけたシンジは、重い身体をなんとか動かしてコップに水を一杯にそそぎ、それを一気に飲み干した。口中から喉を経て胃へと流れていく水の感触があまりにも心地よく、次の一杯もそのまま一気に飲み干す。

 ようやく人心地ついたシンジは、昨晩の自分がどういう目に遭ったのか、ようやく思い出した。

 その時であった。病室の扉をノックする音がし、リツコの「入るわよ」という声がする。

 シンジは、コップをサイドテーブルに戻すと、もう一度身体をベッドに横たえた。

 

「昨日はご苦労様。気分はどう? シンジ君」

「昨晩はうちの草薙が随分と無茶をさせたそうだね、済まなかった。警備部を代表してこの通り謝らさせてもらうよ」

 

 入ってきたのは、リツコと、がっちりとした固太りで四角い顔に眼鏡をかけた、カーキ色の制服を着た人のよさそうな中年男性であった。男の肩の階級章と胸のバッジから、シンジは彼も自衛官であろうと推測した。

 

「僕は富竹ジロウ。戦自の二佐でNERVの警備部長を担当している。昨晩は本当にご苦労様だったね。君のおかげで「使徒」の肉体を確保する事ができたよ。ありがとう」

 

 人懐っこい笑顔でそう言われれば、シンジとしても悪い気はしない。

 

「いえ、僕は「使徒」の居場所を見つけただけですから。それで、……その「使徒」というのは何なんでしょう? なんていうか、感触がすごく違和感があって、それで、……気持ち悪かったんです」

 

 富竹二佐の笑顔につられて、思わず感じた疑問を口にしてしまったシンジであったが、すぐにそれを聞くのはまだ早かった事に気がつかされた。リツコは無表情のまま黙り、富竹二佐も困ったように頭をかいている。

 

「すいません、変な質問をして」

「いや、君の疑問はもっともなんだ。けれども、実は我々も「使徒」が何であるのかさっぱり判らないんだ。だから、君のおかげでようやく「使徒」のサンプルが入手できて、皆本当に君に感謝しているんだ。とにかく、何がなんだか判らない未知の存在から、少なくとも理解するための取っ掛かりが出来たわけだからね」

 

 なるほど、シンジは、昨晩の綾波レイや草薙一尉の無理無茶無謀ぶりにようやく納得がいった。

 おかげでシンジは、やっと精神的に一息つけた心持ちになれた。確かにあんな「異物」が、全く理解できないまま存在し、人間社会の中で活動しているとなると、それは脅威であろう。日本政府がNERVなどという胡散臭い組織を秘密裏に立ち上げたのも、なんとなく納得がいく話ではある。

 

「あの……、それで綾波さんの怪我は大丈夫でしたか?」

 

 シンジは、もう一つの懸念について今度はリツコに視線を向けて質問した。

 

「ええ、おかげさまでそう遠くないうちに全快できそうよ。レイに代わってお礼を言うわ。ありがとう」

「よかったです。その……、やっぱり、痛いのや怖いのはつらいですから」

 

 今までの無表情が嘘のように微笑んで、リツコはそう言って頭を下げた。そんな彼女の表情にシンジは、これで全て肩の荷が降りたような表情をすると、全身の力を抜いた。

 そんなシンジの姿を見て、二人はこれ以上は彼を疲れさせるだけだと判断したのであろう、もう一度礼を述べてから病室を退室した。

 シンジは、あの「使徒」は結局殺されて標本にされたんだな、と、そうなんとはなしに理解し、そして大きく溜息をついた。どれほど感触の不気味な異物であっても、それが生きている限り自分のせいで殺されてしまったというのは、まだ十四歳の彼の心にとってはあまりに心に重く淀む事実であったのだ。

 

「困ったな。どうしたらいいんだろう?」

 

 シンジの呟きは、むなしく誰もいない室内にこぼれただけであった。

 

 

「とりあえずこれからも彼の協力は得られそうだよ」

「そりゃ良かった。ま、着いた当日からあの騒動じゃあ、普通は逃げ出してもおかしくはないからねい」

 

 草薙一尉は、目の前で延々と交わされる警備部長と調査部長の二人の嫌味の応酬に付き合わされて、心底辟易していた。そして、この場にずっと立ち会う事こそが、警備部長である富竹二佐と、調査部長である後藤警視正の自分への罰である事も理解していた。

 

「ま、肉塊でも手に入らないのと、手に入るのでは大違いなわけでさ。皆の献身的な努力で一歩進めたというのは喜ばしい事だと思うよ、俺は」

「はは、それについては同意するしかないなあ。僕としては、できれば生きたサンプルを確保して貰いたかったのだけれどもね」

「いやいや、強化装甲服(プロテクトギア)を着用した特機隊員を負傷させる相手だからねい。自営業さんは要求レベルが高いから」

「ああ、僕は精強無比なる特機隊員諸君の努力を否定はしないよ。だからこそ次回はがんばって欲しいなあ、と、それだけだから」

 

 草薙スイトは、必死になって無表情を維持し、癇癪を起こしそうになるのを我慢していた。

 確かに昨晩の自分が、功を焦ったのは事実であり、当直司令としての職務を待機中の後藤調査部長に押し付けて現場指揮のためにヘリに乗り込み、あげく碇シンジに無理無茶無謀な難題を押し付けた自覚はある。むしろこの程度の罰で済んでいる事自体が、両者の温情でさえあると理解もしている。

 二人がにこやかに嫌味の応酬をしているのも、結局は、防衛庁指揮下の陸海空自衛隊、内務省指揮下の戦略自衛隊、警察庁、公安調査庁、首都圏治安警察機構、各自治体警察、そして厚生省、法務省、その他の役所から出向してきた官僚達の寄り合い所帯でしかないNERVという組織の歪みが顕わになっているだけの事であり、NERVがそういう組織なのだ、と、二人が自分に理解させようとしているだけのことなのだ。

 

 スイトは、心の底から、かつて自分の居場所であり心の拠り所であった蒼空へと戻りたいと願った。

 

 ここ(NERV)は自分の居場所ではない。

 

 飢え渇く様な気持ちが、自在に空を舞っていたかつての自分を思い出させるばかりであった。

 

 

 そこは深い森の奥にある洋風の屋敷であった。

 割烹着のメイドが深々とお辞儀をして自分を送り出すのを尻目に、半袖のセーラー服を着た少女は、その黒く直ぐの長髪を不機嫌そうにいじりながら縦目のメルツェデスの後席に座ると、先に隣に座って彼女を待っていた細目の巨漢の報告に耳を傾けていた。

 

「それで、「彼」を回収するのは無理だ、と、そう「中佐」は言ってきたのね? 久我峰」

「はい、秋葉お嬢様。現時点でNERV本部を強襲するのは、そのコストとリスクに見合わない、と、はっきり宣告されました。少なくとも、各官庁のこちら側の味方の離反を招くだけである、と」

 

 くっ。

 不愉快極まりない、という表情で少女は右手を額に当てた。

 

「遠野一門に繋がる者なのよ、彼は! 宗主としての義務を果たせないなんて、なんて無様」

「致し方ありませぬ。あくまで我々はこの国の裏側でのみ存在を許されてきた一門なのですから」

「今の政府とマスコミが、天皇家の霊力を弱め、この国を守護してきた力を薄れさせた今こそ、我々が表側へと復権できる機会だというのに!」

「焦ってはいけません。幸いにして我々には、人材と、技術と、資金が豊富にあります。そして皆を団結させられる大義名分も。秋葉様はお若いですから、一気に事を運びたいとお考えになるのは理解できますが、今は一つづつ蒔いた種の実りを回収していく時期です。くれぐれもそれをお忘れなきよう」

 

 判っているわ。

 少女は真紅の視線だけ巨漢に向けると、インターホンのスイッチを入れて運転手に車を出すように命じた。

 

「久我峰。私達がこの十年という時間を失ったのか、準備期間として活用できたのか、その答えがもうすぐ出るわ。NERVなんてぽっと出の組織に邪魔なんてさせはしない」

「了解しております、秋葉様」

 

 メルツェデスは、低い唸り声の様なエンジン音を響かせつつ、深い森の中を走っていった。

 

 

TO BE CONTINUED

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