円い湖の畔にシンジは座っていた。

爆心地を中心に大きな円を描いて広がる湖。

荒涼とした、凄惨な光景。

蝉の声さえ聞こえなくなった日中の山間。

ただ沈黙だけが周囲を充たしていた。

そんな景色の中で、少年は一心不乱に文字を書き綴っていた。

爆風にえぐられて盛り上がった土。

その上に倒れ込んだコンクリートのブロック。

辺りには見るべき物など何一つ残っていなかったが、

少年が腰掛ける場所は小高く見晴らしの良い場所だった。

冷たいブロックの上に雑然と広げられた荷物。

山のように積まれた白い便箋、一枚の封筒、魔法瓶、それと花束。

少年は溜息をついた。

そして、手に持ったペンを休め、顔を上げて、遠くを見つめるかのように目を細めた。

膝の上に置かれた下敷き代わりの厚手の本。

しばしの黙考の後、少年は下敷きの上に置かれた便箋を手に取った。

眼下の湖に向けて、ただそっと便箋を持った手を放した。

ひらひらと、暗雲が立ちこめる第三新東京市の空を、便箋は舞った。

少年は紙の行方を黙って見つめた。

動くことを止めてしまった街。

静止した舞台の上で、一瞬の間、動きが生まれた。

やがて、ひっそりと便箋は着水した。

暗い湖面に浮かぶ白い便箋。

辺りには、既に何枚もの紙が湖上を漂っていた。

しばしの間、少年は湖に浮かぶ便箋達の白い背中を見つめていた。

手紙

かぽて

思えば、
ボクはキミに問いかけてばかりいたね、『どうして』って言って。

キミの答えはいつだってとても寂しげで、僕は何て言っていいのか分からなくなった。

『なんで』とか、『どうして』って、便利な言葉だと思うんだ。

あるいは、それは便利すぎる言葉なのかもしれない。

でも、

今、もう一度だけ、
キミに問いかけてもいいかな?

どうして?って。

どうして?

ひらひらと、もう一枚、便箋が舞い降りていき、やがて静かに水面に辿り着いた。

ただ黙って、少年は一枚の紙がもたらした波紋の広がりを見つめていた。

湖面に再び平穏が訪れた後、

少年がゆっくりと身を捩ると、シャツのたてる衣擦れの音が辺りに大きく響いた。

そこで、今更ながらに、少年は辺りの静けさに気付いた。

静かだった。

僕は、、、

僕にはよく分からないんだ。

僕が何をすべきなのか、

僕が何を求めるべきなのか。

ただ、

たったひとつだけ分かる事は、

今、

この胸に、

自分が二人の人間に引き裂かれてしまったかのような感覚があって、

そして、

心がとても痛いんだ。

少年は何度も目を凝らして湖の中心を見やった。

円い湖。

その中心が爆心地の筈だった。

水色の陽炎。

眩い白い閃光。

穏やかな湖面上にゆらゆらと揺れる影が見えるような気がした。

衝動を感じた。

震えが止まらない胸。

迸り出そうになる叫びが自分の薄い胸を震わせているのを、少年ははっきりと感じとった。

緩やかな風が少年の前髪を揺らした。

結局、少年の叫びが辺りの空気を震わすことはなかった。

変わりに、少年はペンを手に取った。

君はとても静かな人だったと思うんだ。

勿論、君は寡黙な人だったけど、そういう意味じゃなくて、、、、、、

んて言えばいいのかな。

いつだったか、二子山に設置されたブリッジの上で話したことがあったよね。

『時間よ』

そう言って立ち上がった君の姿をよく覚えている。

闇空には月が浮かんでいて、

君と月と闇夜、

まるで一枚の絵みたいだった。

綺麗だった。

そして、辺りの世界が消えた。

僕と君の距離は果てしなくなって、

さっきまで、僕の直ぐ隣りで聞こえていた君の吐息が、とても懐かしいものに思えた。

何もかもが動かない。

僕は手を伸ばしたかった。

誰も月に触れることなんてできっこないのに。

とても静かだったんだ。

僕の小さな世界。

その全ての音を止めてしまう人。

君はとても静かな人だったと思う。

ひらひらと便箋が舞った。

少年は便箋の最後を見届けてから、膝の上の本をどけて、脇に置いてあった銀色の魔法瓶を手に取った。

蓋を外して、中に入っていたプラスチックのコップを取り出すと、

そのコップに温かい紅茶を慎重に注いでいった。

立ち上る湯気。

コップを手に、少年は立ち上がった。

少年はその手を伸ばした。

湖の上へ。

やがて、ゆっくりとコップを傾けていった。

湯気を放ちながらするすると滑り落ちていく紅茶色の液体。

少しずつその手を傾けていく少年。

水音をたてながら、紅茶色の糸が湖に飲み込まれていった。

やがて、コップが空になってしまっても、少年は湖を見つめ続けた。

まるで飲み干した紅茶を味わうかのようにのたうつ水面。

歪んだ鏡が少しずつ矯正されていった。

ふと、少年は湖面に映る人影に気付いた。

最初それは自分の影かと思ったが、どうやらそうではなかった。

少年の左手、少し離れた湖の淵に、制服を着た一人の少女が佇んでいた。

少年は、手に持ったコップを、思いっ切り遠くへ放り投げた。

誰かを好きになんてなれそうにない。

僕は人がコワイ。

僕は自分が嫌いで、

そして、僕には世界が見えない。

僕は人間を信じてなんていないんだと、そう思う。

でも、

不思議なんだ。

今、

どうしようもないほどに、

君と話したいよ。

膝を抱え込んでから、少年はじっと湖上を見つめた。

吹く風に、ゆらゆらと、ゆっくり変化させられていく、暗い湖面に描き出されれた白い模様。

一瞬、少年は視界の外にいる少女の事を思った。

どこからか向けられる視線。

彼には少女の意識が自分に向けられている事を感じ取る事が出来た。

珈琲に入れられた牛乳のように、便箋が描く模様は変化していった。

のんびりと時間をかけて、連れ添い、離れ、群れて、また離れ、、、、、。

少年は嘔吐感を感じた。

目眩。

また、遠くに陽炎が見えたような気がして、少年はそっと目を閉じた。

閃光。

閉じた瞼の上、眩い光が意識を白濁させた。

焼き付いたフィルム。

目を閉じる事も出来ず、意識を閉ざすことも出来ずに、

ふらふらとした意識のバランスが崩れかけていった。

不意に、靴底が砂を噛みしめる音がした。

少年のすぐ後ろ。

振り返らずとも、先程の少女がそこに来たのだと分かった。

遠い、遠い、幻聴が少年の耳を拍った。

笑い声の輪唱。

鋭敏な線となって張りつめた意識の糸。

その糸を指先で弾くような心持ちで、便箋に向かった。

湖面の模様は静かに変化し続けていた。

両手を広げて、

僕はバランスをとっている。

涙が流れない。

心が壊れない。

僕の精神は微妙なバランスを保ってる。

狂った現実の平均台。

その上で、僕はまだ踊り続けなくちゃいけないのだろうか?

ボクハ、サイテイダ、、、、

あとどれくらい僕の心は保つのだろう。

僕はまだ危ういキンコウを保っている。

コンナセカイハ、コワレテシマエバイイノニ、、、、、

君を失ってしまったというのに、

僕の心は壊れない。

僕は、僕の心は、本当に僕のモノなのだろうか?

時は過ぎて、

少年はペンを置いた。

彼は便箋を手に取ると、綺麗に折り畳んで、脇に置いてあった封筒に仕舞った。

それから、その封筒を胸のポケットに差し入れて、そっと立ち上がった。

もう一度、少年は湖の中心を眺めた。

もう陽炎は見えなかった。

後ろに立つ少女と向き合う為に、少年はゆっくりと振り返った。

真っ直ぐに少年を見つめる赤い瞳。

彼にはその視線の言葉を聞き取る事が出来た。

だから、その質問に答えた。

「、、、、、、、お葬式をしてたんだ、、、、、、、、、」

そう言ってから、少年は足下に置かれた花束を手に取った。

十数本の手折られた野の花。

少年はその花の名前を知らなかった。

朝から探して、ようやくこれだけの数を見つけだした、ひっそりと咲いていた白い花。

茎を束ねておいた紐を外してから、少年は反転して、湖の淵まで歩み寄った。

空に向かって、少年は花束を投げた。

曇り空一杯に広がる白い花。

少年は幻を見た。

いつだったか、焼けたアスファルトの彼方、陽炎の向こうに佇んでいた人。

彼の人の儚い笑顔。

白い儚さが零れ落ちる笑顔。

綾波の笑顔が見えた。

そして、

その一瞬、

少年は完璧な静寂の中にいた。

そっと微笑みを返した。

もう居ない、あの人。

もう会えないのだと、、、、解ったから。

ゆっくりと舞い落ちていく花。

時が、再び動き始めた。

少年は眼下の湖を見つめることはせずに、振り向いて少女に言った。

「、、、、、、、これを、、、、、届けてくれないかな、彼女に、、、、、、、、、」

胸に仕舞っておいた手紙を、少女に差し出した。

しばらくの間、少女はじっとその手紙を見つめていた。

少年は唯じっと、少女の様子を見守っていた。

そろそろと、少女の手が差し伸べられて、

その白い手で封筒をそっと受け取った。

「、、、、、、、、ありがとう、、、、、、、、、」

少年の言葉に、少女が顔を上げた。

少年は微かに笑っていたかもしれない。

少年は歩み去っていった。

山のように積まれた便箋と、蓋の開いた魔法瓶を残して。

厚い雲に覆われた夕方の空。

知らぬ間に訪れていた闇が少しずつ辺りを浸していた。

少年の背中。

白いシャツを着た背中が、ゆっくりと闇に溶け込んでいった。

少女は手元の封筒を見つめていた。

暗い中、目を凝らして、丁寧に封筒を確かめていた。

白い簡素な封筒。

表には、細い、丁寧な文字で、

『綾波レイ様』、

と書いてあった。

少女は裏返してみた。

そこには、

『碇シンジ』、

とだけ書いてあった。

少し強い風が吹いた。

ぱらぱらと音を立てて、何枚も何枚も、積み置かれた便箋が空に舞い上がった。

少女が空を仰ぎ見ると、白い便箋が空一杯に広がって、

まるで先程少年が手向けた花のように、曇り空にくっきりと白く浮かび上がっていた。

綾波

長い夏だったね。

じりじりと照りつける夏の熱気。

むせ返るような夏草の香り。

蝉の声、突然の夕立、真っ白な大きな雲。

そんな日々の中、束の間、僕は何かに触れた気がする。

いつだったか、学校からの帰り道、ばったり会ったのを覚えてる?

『一緒に帰ろうか?』

思い切って誘ったのは良いけれど、話が続かなくて、ちょっと困ったよ。

だから、目に留まったかき氷屋の看板に、僕は一も二もなく飛びついた。

君はあずき白玉。

僕は宇治金時。

おでこを押さえて、しかめっつらをしていた君。

『いそいで食べちゃダメだよ』

そう言って笑う僕を見て、君は困った顔をして、

それから、薄暗い氷屋の庇の下で、君はそっと微笑んでるようにも見えたんだ。

いつか見た笑顔を思い出してしまって、なんだかとても切なかった。

長い夏だったね。

でも、僕は失ってしまった。

もう、どれだけ形容詞を並べてみても、どれだけ君の姿を思い浮かべてみても、僕は君に近づけはしない。

免罪符を振り回してばかりの僕は、

何も聞かず、何も見ず、何も知らず、、、、、

そして、君を失ってしまった僕は、もう君に近づくことはできない。

僕は最低だけど、、、、でも、、、

きっと、

僕は謝るべきじゃないね。

悲しすぎるよね。

僕が謝ったりしたら、綾波に失礼だよね。

だから、もう何も言わないことにするよ。

チクショウ、、、、、ボクハ、サイテイダ、、、、、

キミヲ、ウシナッテシマッテモ、、、、マダ、イキテル、、、、、

ウットウシイホドタシカニ、、、、、コノシンゾウハ、、、、ミャクウッテル、、、、、、、、

オゾマシイセカイニ、、、ミットモナク、、、、シガミツイテイル、、、、、、

そろそろ行くね。

全ては手遅れだけど、

君の笑顔を失ってしまっては全ては無意味だけど、

だけど、

少しだけでも、僕はあがいてみなくちゃいけないと思うんだ。

ああ、君を失ってしまった世界に、一体どんな価値があるというのだろう。

でも、僕は行かないといけない。

君の笑顔と比べられるものなんてないけど、

それでも、僕の命と引き替えに、君の笑顔は失われてしまったのだから、

だから、

僕のちっぽけな存在を賭けて、僕はあがいてみなくちゃいけないと思うんだ。

みすぼらしい僕のありったけで、あがいてみなくちゃいけないんだ。

だから、そろそろ行かないと。

ねえ、

やるべきことを全て果たしたら、

もう一度、君の笑顔を夢で見れるだろうか?

せめて夢で会えるだろうか?

どこに行こうか?

夢で会えたら、どこか君の好きな場所に行こう。

どこに行こうか?

次に会う日までに、考えておいて下さい。

それじゃあね。

碇シンジ

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