ライフサイエンス課オフィスの自動ドアが開くと、そこには書類を山と抱えた女性が立っていた。
入り口近くのラックにファイルを仕舞っていた日向マコトはその手を休め、
その女性を手伝おうと歩みよった。

「あの、よろしかったら持ちましょうか?」

そう言ってから、その女性が研究開発局の赤木リツコだと知ると、
マコトは自分の身体が緊張感に包まれるのが分かった。

「ありがとう。助かるわ。ミサトのオフィスまでお願いね」

リツコは抱えていた書類を全てマコトに渡すと、
悠然とオフィスを横切り、奥にある部屋へ入っていった。
 

「ちょっとミサト!
私はあなたの秘書じゃないのよ。プリントアウトくらいあなたの部下にやらせなさいよ。
そもそもなんでわざわざ印刷しなきゃならないのよ、まったく」

リツコは部屋に入るなり、ミサトに猛然と言葉を叩きつけた。
書類の束が積み重なった雑然としたデスク。
その書類の山から目を輝かせたミサトが顔をのぞかせた。

「あーん、リツコ。
私はデータをこう、ずらーっと並べて考えないと、アイデアが浮かんでこないの知ってるでしょ?
それより、持ってきてくれた?」

「ちょっと待ってなさいよ。
今、そこにいた彼に運んでもらってるから」
 

二人が部屋の入り口を見やりながらしばし待つと、
やがてよたよたと落ち着かない足取りでマコトが部屋に入ってきた。

「日向君悪いわねー。それここに置いてくれる」

ミサトは表面の見えない机の上を叩きながら言った。

『こ、これの一体どこに置けと言うんですか、、、、、、、』

それでも混沌としたデスクの上に書類を積み重ねようと努力するマコトを見かねて、
リツコは手際よく空いたスペースを作ってあげた。

「す、すみません。ありがとうございます」

これ以上余計な仕事を仰せつかっては困るとばかりに、
マコトはすばやく荷物を置くと、リツコにもう一度礼を言ってから、ミサトのオフィスを離れた。
 

「ううー、本当にありがとねー、リツコ」

「まったく、調子いいんだから。
それよりちょっとは片づけたらどうなのよ。ひどいわよこの部屋」

「それがおかしいのよねー。気がつくといつもこうなっちゃってるのよ。なんでなのかしら?」

デザインにも、機能にも十分気を配られたはずの専用オフィス。
その部屋はいたる所に積み置かれた書類の山に権威を奪われていた。
そんな自分の仕事場を見回しながら、ミサトは少し肩をすくめながらとぼけてみせた。
 

「、、、、、、もういいわ。アナタへの小言はこの十年で言い飽きたから、、」

リツコはため息を吐きながらそう言うと、
そこだけはかろうじて被害を免れているソファに静かに腰掛けた。

「それで、どうだったのこの週末は?」

「、、、、、、、、、うーーーん?、、、、」

リツコの持ち込んだ書類に早速目を通しながら、ミサトはぞんざいな相づちを返した。

「だからシンジ君とレイよ。どうなの、うまくいきそう?」

「どうかなー。まだまだ時間がかかるんじゃないの。
だって十二年よ。十二年。三日やそこらで埋まるはずがないでしょ」

「まあそれはそうね。
でも、驚いたわ。あのレイが同居を素直に認めるなんて」

「なんでー、実の兄妹なんだし当たり前なんじゃないの?
まあ私はレイの事あんまり知らなかったから、よくは分からないけど」

そう言ってミサトが書類から目を上げると、リツコは複雑な顔をして何事かに思いを馳せていた。
左手を口に添えて微かに目を細めるリツコのその仕草は、
二人が大学生の時からミサトが何度も目にしてきた、リツコが熟考する時の癖だった。

「、、、、、なあに?レイに何か心配な事でもあるの?」

「え?、、、、、そういうわけじゃないの、、、、、。
、、、、、ただ今まで一人で暮らしてたのに、どうして急にと思ってね、、、」

「だーかーらー、それが異常だったんじゃない。十二の娘を一人暮らしさせないわよ、普通は」

「、、、、、、、そ、そうね、、、、、、、、、、。
、、、、、それで、シンジ君の方は?どう?日本でうまくやっていけそう?」

「、、、、、、ん〜、どうかな。
随分と気を使う性格みたいだから、日本での暮らしに向いてるとは思うけど、、、」

「、、、、、けど、何?」

「けど、他人へのアプローチが苦手なんじゃないかな。
昨日なんかもレイに話しかける機会が上手くつかめないみたいで弱ってたわ。
かわいそうな子。人の顔色を窺うことしか教えられてなくて」

「、、、、、、、、、、、、、、、そう」

「、、、、、、うん」

「、、、、、、それで、理由は一体何なの?アナタが保護者役を買って出るなんて」

「んーーーーーー。
それはまあ、ユイさんには随分お世話になったし。
恩返し、って言ったらなんだか違うような気もするけど。
、、、、、、、、それに保護者役じゃないわよ。
法的には副所長がシンジ君の後見人になってるんだし、、、、。
私は近所の優しいおねーさん、ってところじゃないかしら」

「優しいお姉さんね、、、、、、、、、、、、、、」

「、、、、、、何?何だか随分と棘のある言い方じゃない」

変化したリツコの声音にむくれながら、ミサトが言い返した。

「別に、、、、。ただ中途半端に顔を突っ込むつもりなら止めておきなさい。
あの二人がどうやって育ったか知らない訳じゃないんでしょ?
、、、、、、、、、、、、、お互い傷つくだけよ」

「、、、、、、、知ってるわ。
、、、、、、、知ってるからこそ、放っておけないんじゃない」

「、、、、、、変わらないわね、あなたは、、、、、」

そう言うリツコの顔はどこか悲しそうで、ミサトはかける言葉を見つけられなかった。
 

オフィスに沈黙が流れた。
互いが背負う過去。
思いがけず触れてしまったそれは、いまだに二人の心を波立たせた。
 
 
 

トゥルルルル

まるで救いのベルのようにオフィスの電話が突然鳴り響いた。
それを潮にと、リツコは席を立った。
ミサトもどことなくほっとした様子で受話器を取った。

「はい、葛城です、、、、、、、、、、、、、、、、。え、シンジ君?
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ちょっ、ちょっと落ち着いて」

唯ならぬミサトの様子に、リツコは踏み出した足を止めて、ミサトの様子を見守った。
ミサトは受話器をきつく握りしめると、一言も聞き漏らすまいと真剣な表情で耳を澄ませた。

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。
、、、、、分かったわ。救急車はこっちで手配するから。
、、、、、、、、シンジ君はとにかく落ち着いて、、、、、、」

救急車という言葉にリツコの顔が険しく歪められた。
 
 
 
 
 
 


She`s so lovely

第三話



 
 
 
 
 
 

初登校の朝。
秋晴れの早朝、シンジはメモ用紙に書き留めた地図を片手に、通学路を一人歩いていた。
コンフォート17から徒歩十五分。
シンジが新たに通う事となった市立第壱中学校は第三新東京市の郊外にあった。

見慣れぬ街路をとぼとぼと歩くシンジ。
まだどことなく幼く中性的な少年の顔には憂いの影が浮かんでいた。

新しい環境への移り変わりにともなう不安感。
確かにそれも少年の心を重くさせている要因の一つだった。
クラス替え、席替え、学校のイベント。
日常の変化はいつだってシンジの心を落ち着かなくさせた。

ただ、他の何にも増してシンジの心を捉えている悩み。
それは妹の、綾波レイの事だった。
 
 

引っ越しの翌日の土曜日、そして次の日曜日は様々な雑務に追われて過ぎていった。
買い揃える物、覚える事、済ます事。
用事は幾らでもあって、体は一つだった。
環境の著しい変化と慣れない仕事はシンジの神経をひどく疲れさせた。

その一方で、レイは淡々と自分のノルマを片づけていた。
愚痴もこぼさない代わりに、殆ど言葉も発しない。
苦労を共有しているはずの少女。
彼女が何を考え、何を感じているのか、シンジにはまったく想像もつかなかった。
 

そもそもの初めから、シンジはレイに対して過度の期待を抱いていたわけではない。
いきなり「兄です」と現れて、それで急速に仲が良くなるはずもない事は分かっていた。
ただ、これだけ取っ掛かりが無いだろうとも思わなかった。

『そういえばこの三日間で、綾波から話しかけてくれた事ってあったっけ?』

思い出そうとして、止めた。
考えてみるまでもなく、彼女は常に答える側だった。
今朝もろくに話せないまま、随分と早く家を出るレイを見送る事しか出来なかった。
 

『、、、、、やっぱり、、、、、嫌われてるんだろうか、、、、、、』
 

その考えがちらりと浮かび上がるだけで、シンジの心臓はまるで掴まれたかのように悲鳴をあげた。
 

『のんびりとがんばんなさい、か、、、、、、、、』
 

休日にもかかわらず、なにくれとなく面倒をみてくれたミサトがくれたアドバイス。
不思議な魔力でシンジの背中を押してくれたその言葉も、
シンジの疲れが溜まってくるにつれて、その効力を少しずつ失っていくようだった。
 
 

のんびりと歩んでいったところで、辿り着いた先に何も無かったら、、、、
その時はどうすればいいんだろう
 
 
 

後ろ向きな思考がシンジの聴覚を鈍らせたのだろうか、
奇妙な時間の重なり合いの中で、シンジは低く鈍い衝撃音を耳にしたように感じた。
そして続けて、今度ははっきりと聞こえる重い着地音。

少年がはっとして道路の先に目を凝らすと、
数十メートル先の交差点をグレーの乗用車が走り抜けていくのが見えた。
一瞬緩めたスピードを、今度は逆に速めて過ぎ去った車。
嫌な予感に全身を貫かれたシンジは勢い良く全力で駆けだした。

数瞬のタイムラグの後、何が起きたのか朧気ながら理解した。
 

『999番だ!』
 

交差点に辿り着く前に、少年は真新しい自分の携帯電話を取り出した。
通話ボタンを押そうとしてから、ようやくここが日本である事を思い出した。
きつく眉をよせると、記憶の中から日本の救急番号を思い出そうとした。

『、、、、駄目だ、、、、。、、、、聞いた覚えがない、、、、』
 

そこで、シンジはようやく曲がり角を曲がった。

「、、、、!!」

横断歩道の真ん中で一人の少女が仰向けに倒れていた。
歩道の青信号はようやく点滅しているところだった。
シンジは辺りを見回した。
朝早い時刻だからだろうか、信じられない事に見渡す限りで動いている物は何も無かった。
 

次の瞬間、頭に浮かんだ幾つもの選択肢の中から、シンジはミサトのオフィスに電話する事を選んだ。
 

『、、、確か、今日は早くに出勤するって言ってた、、、、、』
 

震える指先で携帯電話を操作しながら、シンジは少女の元に駆け寄った。
まだ小学生なのだろうか。少女は制服ではなく私服を着ていた。
赤いスカートに、白いブラウス。
数メートル離れた路上には赤い学生鞄が落ちていた。
どうやら意識を失っているのだろう、少女の目は閉じられている。
痛々しいくらい静かに横たわる少女。
幸い、出血は見あたらなかった。

加速していく意識の中、ゆっくりと流れる時間。
否応なしに自分を飲み込んでいく言いしれぬ不気味な流れ。
その流れがシンジの全身を急速に冷やしていった。
 
 

「はい、葛城です」

「ミ、ミサトさんですか?」
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 

「なんだか妙に病院に縁があるな。こっちに来てからというもの」

シンジは待合室のベンチに腰掛けながら、蛍光灯の連なる天井を見上げて呟いた。
「精密検査をしてみないと分からないが、どうやら足に怪我を負っただけのようだ」
という医師の言葉で、シンジの張りつめた意識はようやく緩められていた。
壁に掛けられた時計に目をやると、十一時をすこし過ぎたところだった。
人気のない待合室にはシンジ唯一人しかいず、
耳を澄ませば壁時計の時を刻む音が聞こえてきそうな程静かだった。
 

「大丈夫、シンジ君?なんだか随分と疲れてるみたいだけど」

待合室に戻ってきたミサトが言った。

「あ、、、ミサトさん。いえ、、あの、、、安心したら気が抜けちゃって」

「本当に良かったわね、、、、、、、、、、。
まあ詳しい検査の結果を見てからでないと何とも言えないだろうけど」

シンジの隣りに腰掛けて、ミサトが静かに言った。

「、、、、そうですね」

「、、、、お医者さん誉めてたわよ、シンジ君の事。
落ち着いて応急処置してた。中学生にしてはすごい、って」

「そんな。僕は全部ミサトさんの指示通りにしただけですから。
あの女の子が応急処置で助かったんだとしたら、それはミサトさんのおかげですよ。
僕は、、、、、すごく慌てちゃって、救急車も呼べないくらいでしたから」

実際のところ、時間を圧縮したような息苦しい圧力の中で、
自分の気持を落ち着かせる事さえ満足に出来なかった自分の狼狽ぶりが思い出されて、
シンジはいたたまれなかった。

「、、、、、、、ミサトさんはどこかで習ったんですか?ああいう時の対処の仕方って」

「まあ医療関係の仕事をしている以上、最低限の心得としてね」

「、、、、、ネルフですか、、、、、、、」

「そう。シンジくんはお父さんの仕事の事、何か聞いてる?」

「、、、、父さんと母さんは人類を救った偉大な研究をしてた、って。
、、、、、、、、、、、、叔父さんはそう言ってました」

「そうよー。特にあなたのお母さんは近代医学界のスーパースターと言っても過言じゃないわ。
まあ一般には公表されてないから、あまり知られていないけど」

そう言うミサトの顔は誇らしそうに輝やいていた。
 

父母の仕事について、シンジは幼い頃から散々聞かされてきた。
少年にとっては責め苦のような話。
その話を聞く度に、仕事と少年自身がまるで天秤にかけられているかのような気分にさせられた。
目盛りを覗くまでもなく、どちらに傾いているかはシンジ自身が一番よく分かっていた。
そして、そんな自分の胸の内を打ち明ける事の愚かさも身にしみて分かっていた。
本当は自分が両親の仕事についてどう思っているのか、
今となっては胸の奥が掠れてしまってよく見えない。
 

『病院は好きじゃないんだ。何故だか胸が痛むから、、、、、、、』
 

そんな自分の本心をミサトに打ち明けるわけにもいかず、シンジはただ黙って座り続けた。
場つなぎの言葉さえうまく紡げない自分。
心の波を安定させる力が欲しいと、シンジは願った。
 

どこか冴えないシンジの顔色。
そんなシンジを見やってから、ミサトはベンチからさっと立ち上がって言った。

「さってと、それじゃ学校まで送ってくわ。
随分と遅くなっちゃったけど、初日から欠席じゃまずいもんねー。
一応学校にも連絡入れておいたけど」

「あ、、、はい。あの、ありがとうございます。
でも、ここからなら一人でも大丈夫ですから。
ミサトさんは仕事に戻って下さい。、、、すいません、忙しい時に」

本当にすまなそうにして俯くシンジの姿を見て、
ミサトはこの少年が年相応の無邪気さを磨り減らしていった過程を思い、一人胸をつまらせた。

「なあ〜に遠慮してるの。
ネルフに戻るついでなんだから気にしないの。
それとも、何?こんな美人からのドライブのお誘いを断る気なのかしら〜?」

「そ、そんなつもりじゃ、、、、」

顔を上げたシンジはミサトの顔が少し意地悪そうに、明るく微笑んでいるのを見た。
ミサトの天真爛漫な気質が少年にはとても眩しかった。

「あの、それじゃあ、、、お願いしてもいいですか?」

「ほいほい。じゃあ行きましょうか」

そう言うと、ミサトは後ろ姿も颯爽と軽やかに歩き出した。
 
 

そう、この人を見ていると安心する。
 
 

同時に、すぐ何かに縋ろうとする自分の甘えた心を叱咤する内なる声が少年の耳に響いた。

シンジはベンチから立ち上がり、ミサトの後を追いかけながら、
ミサトの持つ不思議と憎めない強引さは彼女生来のものなのか、
それとも自分に合わせて引き出した大人の気配りなのか、と思いを巡らせた。
 
 
 
 

と、突然、ミサトに並ぼうと足を早めたシンジの肩を何者かがもの凄い力で掴んだ。
その手はそのまま強引にシンジを振り向かせた。

そこには、シンジよりやや背が高い、体格のいい少年が立っていた。
上下揃いの黒いジャージ、短く揃えられた髪。
そのいかにもスポーツ少年という風貌からシンジの肩を掴んだ力強さの訳が窺えた。
 

「碇シンジか?」

どことなく高圧的に言う少年の声はシンジが初めて聞くイントネーションで発せられた。

「、、、、、そうだけど」

シンジを見下ろす少年の顔にははっきりと怒りの感情が見て取れた。
不穏な雰囲気に突然放り込まれた気がして、シンジは不条理な不安を感じずにはいられなかった。
 

唐突にシンジの視界が激しく動いた。
何の断りもなしに、少年はシンジの左頬を殴りつけた。
不意にもたらされた衝撃にシンジは半回転して、その場に崩れ落ちた。
頬に何かが張り付いているような感覚。
呆然とする意識の中、自分の頬が熱い熱を発しているのをシンジは感じた。
何が起きたのか理解できずに唖然として、シンジは振り向いて少年を再び見上げた。

「ワレ。
二度とワシの妹に近づくんやないで。
ワシは絶対許さへんからな。また今度、そのツラ、ワシの前に見せてみい。
あと何発でもパチキかましたるからな」

少年はものすごい形相でシンジにまくし立てた。

『妹?妹って、さっきの女の子の事かな?
な、なんで僕がこんなに怒鳴られなきゃいけないんだ?』

シンジには何がなにやらさっぱり分からなかった。

確かに、自分は慌てていたが、救急車を呼ぶのが数秒遅れたのがそんなにいけなかったのだろうか。
あるいは、少女の口を勝手にこじ開けて、舌を掴んだのがいけなかったのだろうか。

シンジの脳裏に様々な憶測が飛び交った。
 

「何や?もう一発殴られんと分からんか?」

少年が屈み込んで、シンジの胸倉を掴もうとした時、ミサトが二人の間に割って入ってきた。

「ちょっと、何してるのあなた達。
、、、、、、、シ、シンジ君大丈夫?血が出てるじゃない」

シンジの唇の端からは赤い血が滲み出ていた。
ミサトはシンジの側に屈み込んで、傷口を見ようと手を頬に添えた。

「分かったら、さっさと行けや」

自分の顔を調べるミサトの肩越しに、シンジは少年の怒りの形相を眺めた。
段々と落ち着きを取り戻していく意識の中で、もう一度少年の表情を観察してみた。
すると、今度はなんだか痛々しいような悲しみが少年の瞳の奥に見て取れるような気がした。
次の瞬間、シンジには何となく少年が猛り狂う理由が分かるように思えた。
 

もう一度シンジを睨み据えてから、少年はきびすを返し、待合室を出ていこうとした。

「ちょ、ちょっと待ちなさい」

少年の背中に向けて、振り向いたミサトが怒鳴りつけた。

立ち上がろうとするミサトの腕をシンジは軽く押さえた。

「いいんですよ。ミサトさん」

喋ると頬がひきつり、顎の骨が鈍く痛みを訴えた。
シンジは思わず頬に掌をあてがった。

「いいんですよ、って。
あの子、女の子のお兄さんでしょ?完全にいいがかりじゃない。
シンジ君がいなかったら窒息死してた可能性だってあるのよ。
それを何、あの態度は」

「確かに何か勘違いされてるみたいですけど、本当に気にしてないですから」

シンジは立ち上がりながら言った。
少年はもう待合室を出ていったのだろう、既に辺りには見えなかった。

「でも、、、、」

「、、、、、、、きっと仲の良い兄妹なんですね。
すごく、、心配してるんだと思います、、、、、、、、」

「え?そ、そう。そうかもしれないけど、、、、」
 

ミサトはまだ何か言いたげだったが、シンジはもう殴られた事は気にならなかった。
横断歩道に倒れていた少女の姿。
あの少年がその姿を見ずに済んで良かった、とシンジは思った。
他人のシンジが見ても、あまりにも痛々しい光景だったから。

「さあ、行きましょうミサトさん」

シンジは多少白々しい程に元気を見せて、ミサトに言った。

「う、うん。そうね」
 
 

シンジの胸には少年の熱の籠もった眼差しが印象深く漂っていた。
怒りと、やるせなさと、悲しみと、困惑。
込められた熱量があの兄妹の絆の太さを表しているように、そうシンジには思えた。
血の通った、温かい絆。

何故か切なくなる胸の内。
その気持の輪郭はぼんやりとしたまま、しばらくシンジの胸の内から消えなかった。
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 

初登校の帰り道。
秋晴れの夕日が、憂いの影を浮かべるシンジの顔を照らしていた。
すれ違う道行く人がシンジの顔に視線を送った。
シンジの白い頬には青い痣が浮かび、唇の端は少し腫れて血がにじんでいた。
中性的な少年と頬の傷。
ひどくアンバランスだった。
 

転校早々、頬の傷のせいもあって、クラスでひどく浮いた存在になってしまった事。
思ったよりも授業についていくのが大変そうだった事。

シンジは転校する事に関して甘い期待をしていた訳ではないが、
それでも悪い想像だけがこうも当たるとも思っていなかった。

『やっぱりガラが悪く見えたんだろうな、、、、、、
転校早々、遅刻するは、ケンカ傷をこさえてるわじゃ、まあ仕方ないけど、、、、』

教室で過ごした午後の数時間はシンジにとってひどく長く感じられた。
どことなく仕方なさそうに話しかけてくるクラスメート。
おざなりにお決まりの質問をされて、自分がぎこちなく答える時の気まずさ。
周囲の空気が白々としてくるにつれて、どんどん舌がこわばっていくのがもどかしかった。
そんな中、すぐに煮たってしまう思考。
 

『、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、』

様々な不安の泡がシンジの中ではじけていった。
平坦な日常で塗りつぶすことさえ出来そうにない。
将来の事を思うだけで、不安が頭をもたげるのが分かる。

進学、テスト、学校生活、将来の事。

今更ながらに、いざという時確固たる自信を持てない、そんな自分自身をシンジは思い知った。
 

『、、、、しょうがないじゃないか、ずっと息を潜めて、自分を殺して暮らしてきたんだ、、、』

誰にともなく言い訳が浮かぶ。
二度だけ見た、黒い背中。
自分がふがいないのは全てその男の仕業だと、そう叫びたかった。
 

『、、、、、何を、、、、、何を考えてるんだ、僕は、、、、、、』

シンジはどうしようない事を考えてる自分に気付くと、
自分の無責任さを振り切ろうと道を行く足を速めた。
 

流れ行くシンジの視界の中に、一軒の食堂が映った。
 

『、、、、、、、、そっか、晩ご飯の材料買って帰らなきゃ、、、、、』
 

どんな一日を過ごそうとも、自分にはやるべき事があるのだと、シンジは気付いた。
二人きりの家族。
一日三食の心配をしてくれる人は他にいない。
だから、妹の健康を守るのも兄である自分の務めだと、シンジはそう思った。
当面の問題から逃げようとする自分の弱腰を承知の上で、少年は晩の献立を考えた。
 

『、、、、、、、、、、、、、、』

ない。

唯一作れそうな料理といえば、昔課外授業で習ったアウトドア料理だけ、、、、、。
まさか「今日は外でバーベキューだ!」とも言えないし、、、、、。
それに買ってきたお弁当ばかりじゃ体に良くないよな、、、、、、綾波は退院したばかりなんだし。
、、、、、、、栄養つけてもらわなきゃ、、、、、、、、。
 
 

とことん自分のスキルが不足している事を思い知らされる日。
歩いては躓き、又歩きだしては躓く。
今日という日をシンジは無かった事にしたくなってきた。

はあ、、、

ため息を吐いても夕食は出てこない。
マッチを擦っても夕食が出てこないのと一緒だ。

何も知らないのであれば、憶えるしか手だてはない。
先ずは書店を探すべきだと、シンジは商店街を目指した。
 
 

『、、、、、確かこの辺りに。あったはずだけど、、、、、、」
 

今朝、登校中に見つけた商店街をシンジは探していた。
書店で初心者向けの料理の本を買って、それからスーパーに行く。
それだけのアイデアを出すのに、
いちいちぐるぐると思考の輪廻を辿らなければならないのは、
いかにもシンジらしかった。

だんだんと見覚えのある風景になっていく。
今朝の道順の逆回し。
ようやくそこを曲がれば商店街という通りまで来て、
道の少し先を歩く女の子の頭にシンジの目がとまった。
 

『、、、あ、綾波?、、、、だよ、、ね、、、、、、、』
 

その特徴的な白い頭髪を見間違えるはずもない。
同じ第壱中学校の制服。
考えてみれば、同じ中学に同じ家から通っているのだから、
通学路で会う事なんて別に不思議でもなんでもない。

一瞬、声をかけるべきかシンジは迷った。

ここで声をかけずに過ごしてしまえば、彼女との隔たりがますます大きくなるような気がして、
シンジは右手を握りしめて、なけなしの勇気を振り絞った。
 
 

「綾波。今、帰り?」

当たり前の言葉しか浮かばなかったが、シンジはレイに並ぶと、そう声をかけた。
少女の右肩がぴくりと跳ねた。
さして表情も変えずにレイは歩きながら、右隣りに立つシンジに視線を向けた。

『、、、あ、、、、今日は眼鏡、、、かけてるんだ、、、、』

コンタクトと眼鏡をどう使い分けているのかシンジには解らなかったが、今日のレイは眼鏡をかけていた。

「、、、、、偶然だね」

レイは何とも答えずに前を向きなおした。
だが、その小さい顎が微かに肯いたのをシンジは見て取った。
 

ぴんと伸びた背筋、きりっとした表情。
まだ幼さの残る顔立ちと、透き通る白い肌。
二つの印象の取り合わせがかわいらしくて、シンジの胸に温かいものが流れた。

大人びた雰囲気と、どこか無邪気な仕草。
それまでは近寄りがたく感じていたはずなのに、
今日のレイはとても親しみやすい存在に感じられた。
 

何故だろう?
やっぱり今日、いろいろあったせいかな、、、、、、

と、シンジが考えを彷徨わせていると、

「、、、、、、、、、どうしたの?」

レイの声がシンジの耳をうった。

「えっ!?」

シンジが振り向くと少女は足取りを緩め、シンジの頬に視線を送っていた。

「、、、、、、、、、えっ、あっ、これ?これは今朝ちょっと、、、いろいろあって、、、、、」
 

『えっ?え?え?あれ、、、、』

シンジは狼狽えた。
レイから話しかけてきたように聞こえたから。
 

「、、、、、、、そう、、、、」
 

『え?あれ?気のせいじゃないよね、、、、、』

驚きが収まると、ようやくシンジはレイが話しかけてきてくれた事を認める事ができた。
 

レイが話しかけてきた事。
 

シンジにとっては一大事件だった。

すると、シンジの内気な背中を押す感情がひょっこりと生まれた。
少年にしては珍しく、想いの流れのままに少女に話しかけた。

「これから晩の買い物に商店街に寄ろうと思ってるんだけど、よかったら付き合ってくれないかな?
、、、、、、、その、ほら、食べ物の好みとか聞かせて欲しいし、、、、、、」

勢いは尻窄みになってしまったけれど、シンジは自分でも驚きながら一気に言ってのけた。
レイの反応が恐くて、心臓がばくばくと大きな音をたてた。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、うん、、、、、、、、、」
 

ジーグでも聞こえてきそうだと、シンジは思った。
 
 
 

商店街の入り口に立つと、シンジはまず本屋はどこかと目を凝らしてみた。
全長二百メートル程のありふれた商店街。
シンジが書店を見つけだす前に、レイは無言で商店街に足を踏み入れていった。

迷いのない足取りでどんどん歩くレイ。
その背中を追ってシンジが早足で追いかけると、
レイはほどなくして一軒の店の前で立ち止まった。
ドラッグストアだった。

「何か買う物でもあるの?」

看板とレイの横顔を見比べながら、シンジが尋ねた。
 

一瞬の沈黙の後、レイが答えた。

「、、、、、、絆創膏、、、、無いから、、、、、。
、、、、、、、、それと消毒液も、、、、、」

そう言うなり、レイは店の中に入っていった。
 

『、、、、、、、、、、、絆創膏って、、、、、、、
、、、、、え?、、、、、え、も、もしかして、、、、、、、』
 

「、、、、、、、、、、、入らないの?」

呆然と店の前に立ったままのシンジにレイが問いかけた。
レイの声にシンジはどうにか返事した。

「、、、、、、、、う、うん。、、、、、あ、あの、、、、」

胸がいっぱいで、それ以上、シンジは何も言えなかった。
何故だかジャージを着た少年と彼の妹の姿が思い浮かんだ。

出てこない言葉の代わりにシンジはそっと微笑んだ。
 

そんなシンジの姿を見て、レイはきょとんと首をかしげた。
 
 
 
 
 
 

 


 

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