赤木ナオコに何が起きたか

間部瀬博士

 

2010年11月21日

 

 翌日からまた勤めが始まる日曜の夜は、どこかわびしさがつきまとう。警察官の鮎川マサシもその例に洩れず、翌朝の出勤をうっとおしく思いながら歯磨きをしていた。時計を見ると11時半だ。細君はもうネグリジェに着替えてベッドに入った。幼い一人娘は10時に寝たので、すでに熟睡しているはずだ。明日はどの仕事から手をつけようか。そんなことを考えながら寝室に向かう彼の足を、鳴り響く電話の音が止めた。ちっ、と舌打ちをして受話器を取る。内容はおおよそ想像していた。

 受話器から聞こえる当直の声をうらめしく思いながら聞いた。分かったすぐ行くと答え、電話を切る。久々の事件らしい事件だ。気力を奮い起こして、着たばかりのパジャマを着替えるために寝室に向かった。細君が戸口に立って待っていた。

「事件なの?」

「ああ。ゲヒルンで転落死が起きた。行かなきゃならない」

「ゲヒルンってジオフロントの?」

「そうさ。どんな場所か、ちょっと興味あるな」

「怖いわね。事故?自殺?」

「まだ判らないね。しかしついてないや」

 ぐちをこぼした鮎川はさっさとパジャマを脱ぎ、ワイシャツに袖を通した。ネクタイを選びながら考えた。死者は赤木ナオコ博士と言う女性で、技術開発部長だと言う。こんな夜中まで仕事をしていたのだろうか。自殺だとすると、わざわざ職場を死に場所に選ぶとは、よほど根深い事情でもあるのか。ともあれ、形はどうあろうともすんなり片付いてもらいたい。

 鮎川はすっかり背広を着込んで、足早に玄関へ足を運んだ。こうしたことには慣れっこになっている細君は、その背中を眠たげに見送った。

 

 神奈川県警察本部に勤める横溝テツヤ警部は、警備員に付き添われながら、ゲヒルン本部の薄暗い廊下を現場へ向けて歩いた。彼のこの組織の第一印象は極めて悪かった。さんざん官僚的な応対をされ、入っていいのはここからここまでなどと、秘密臭がぷんぷんとする指示をされた。まるで歓迎されざる客のようだ。それに暑い。深夜だというのに妙にむし暑く、体重80kgに達する彼は汗をびっしょりかいている。

 長いこと歩かされ、ようやく現場である発令所バルタザール室が見えた。直方体の機械の傍に警官たちが集まっている。

 あとはご自由にとばかりに離れていく警備員に礼を言った彼は、警官たちに合流すべく足を速めた。その足音に気づいた私服警官がこちらを振り向いた。ずんずんと歩く横溝の方へ小走りにやって来る。

「ご苦労様です。横溝警部ですね。僕は箱根警察署の鮎川です」

 ぺこりとおじぎをした鮎川は『捜査課長 警部補 鮎川マサシ』と書かれた名刺を、白い手袋をした手で差し出した。横溝も名刺を渡し、一通りの挨拶をした。

「応援に来ていただいて助かります。箱根は人が足りなくて」

「お互い様だよ。仏さんはそこだね」

 横溝よりずっと若く、上背のある鮎川は横溝と並んでコンピューター・バルタザールの方へ向かった。歩きながら横溝のいかつい容貌を見て、噂通りの『鬼瓦』だなと思った。数々の難事件を解決に導いたその手腕は、県警全体に知れ渡っていた。

「遺体の発見は?」

「昨日午後11時12分。警備員の西村シゲオさんが警ら中に発見しました」

「日曜だってのに出勤してたのかい」

「このところ休みなしだそうです。突貫工事でMAGIってコンピューター製作に当たってたそうで」

 横溝は腕時計をちらりと見た。「今、午前0時59分か。現場保全は万全だね」

「ええ、西村さんも元警官だそうで、その辺は問題ないです。夜中ですしね」

「正直、眠くてたまらん」

「私も。宮仕えはつらいですね」

 制服の警官がフラッシュを焚いた。白衣の医師が聴診器を鞄にしまい込んでいる。その横では鑑識係が、手に持った刷毛でバルタザールを盛んに撫でている。コンピューター本体も床も、飛び散った血が広範囲に付着していて、あまり見かけない凄惨な現場であった。横溝は職業的な冷静さで女の傍らに立ち、白手袋を着けた。眠気はたちまち吹っ飛んだ。

「赤木ナオコさん。ゲヒルン技術開発部長46才、独身です。今のところ外傷は見つかっていません。見たところ、この上の中央指令室から落下しています。コンピューター上面の端に、ひどく血が付いているのがそれを示しています。つまり、一度コンピューターに頭をぶつけ、それからここに転がり落ちた、そういう風に見えます。先生の見立てでは死んで5時間と経っていないようで。首の骨折が死因のようです。所持品は小銭入れと鍵束だけ」

 横溝は、はるか上にある軍艦風の張り出しを伴ったバルコニーを見上げた。確かにそこから落ちれば、命が助かる見込みは少ない。鮎川の意見に頷き、一つ合掌して、赤木ナオコの遺体をじっくりと観察した。

 遺体は頭をバルタザールに向けてうつ伏せに横たわっていた。鶯色をしたタートルネックのセーター、朱色のスカート、どれにも血が付いている。左足は折れたのか、奇妙な角度に曲がっている。全体が血塗れの頭部は、頭蓋がおかしな形に歪み、薄く口を開けた顔はしっかりと目を閉じている。

 横溝は手帳を広げて要点を書き込んでいった。頭の先から足の方へ仔細に吟味していく。と、彼の視線は靴に止まった。瞬きもせず見つめる彼を訝しく思った鮎川が声を掛けた。

「何か妙な点でも?」

「靴だ。実に安物の靴じゃないか」

 それは踵の平たい室内履だった。実用一辺倒の飾り気のないものだ。 

「いわゆる上履きでしょう。それが何か?」

「どうもバランスが悪いと思わないか?この姿は一見外出時のものだ。帰りがけだったんじゃないかな」

「ありえます」

「いや、確かだ。今、もう一つ気づいた」

「何ですか、一体!?」と、鮎川は勢い込んで尋ねた。

「この服装だ。君はここに来る途中、何人か研究者を見なかったかい?」

 鮎川は一箇所に固められた数人の夜勤の研究者に会っていた。指示があるまで動くなと伝えるためだった。

「ええ、見ました」

「みんな何を着ていた?」

「白衣。そうか、仏さん、白衣を着てない!」

 鮎川は横溝の鋭さに感心を覚えた。この人はただ者じゃない。

「白衣を脱いで帰宅しようとしていたんじゃないか?この人の自宅はどこだ?」

 手帳を広げた鮎川は早速答えた。「箱根市仙石原2丁目。ジオフロントから出て10分も歩けば着く所です。娘のリツコさんと同居しています。実はこのリツコさんもゲヒルンの職員でして。母娘で同じ職場に勤めているわけです」

「ほう、珍しい。今ここに来ているな?」

「ええ、まだ別室に待機してもらってます。所長の碇ゲンドウ氏、それから副所長の冬月コウゾウ氏にも集まってもらっています」

 横溝の表情に暗い翳がさした。「母親が突然こんなになるとはな。気の毒なことだ。見ない方がいいかもな」

「同感です」

 鮎川は職業柄こういう場合の愁嘆場に何度も遭遇していた。いつも気分が暗くなった。警官という職業の辛さを感じる瞬間であった。

「そろそろ運び出しても?」と制服の警官が尋ねた。奥にはストレッチャーが置いてある。

 二人はいいよと言って数歩後退した。白いテープを持った警官が割って入り、床に遺体に沿ってテープを貼り始めた。

「上に行きませんか。落ちた場所を見ましょう」と鮎川は横溝に言った。

 

 二人はエレベーターに乗って中央指令室のある階に上がった。鮎川は先に調べていたので勝手を知っていた。

「ここです」自動ドアが開いて二人は中央指令室に入った。二人の警官が証拠採取を行っている。横溝は真っ直ぐ突き当たりまで行って、全体を見渡した。前方の大空間は、彼の目を引きつけるに十分なスケールを持っていた。横に立った鮎川が言った。「すごい施設ですね。どのぐらい金が掛かってるんだか。しかも地下800mだって言うんですから」「ああ、まったく」横溝は感嘆した口調で言い、浅く角度のついた長さ60cmほどの金属板を施した手すりから身を乗り出した。腹の肉に板が喰い込んだ。はるか下に血に汚れたバルタザールと、同じように血に染まった床が見える。赤木ナオコの死体は既に運び去られ、人の型をしたテープが名残りをとどめている。

「ここから落ちたらまずアウトだな」

「ええ、20mあるそうですから」

「縁までこれだけ幅がある。事故とは考えにくい」

「同感です。証言によると、第一発見者の西村さんは11時14分、ここに来ました。誰もいませんでした。ついでに下の様子も見るためにここから見下ろしたそうです。懐中電灯を使って。するとコンピューターに真っ赤なものがついている。さらによく見ると赤木ナオコさんが横たわっていたという訳です。すぐさま詰め所に戻り、119番通報や上司への報告をしたそうです」

 ひとまず覗き込みを終えた横溝は、振り返ってフロアの端にあるヘッドレストがついた椅子を見た。

「それは最初からそこに?」

 鮎川はすかさず答えた。「いいえ、最初この手すりの真ん中にありました。大丈夫、写真は撮ってあります。証拠収集の邪魔になるんで、ずらしました」

「ならいいが。ちょっと元の状態に戻して見て」

 鮎川は鑑識係に声を掛け場所を変えてもらい、椅子を最初の位置に持ってきた。それは奈落の手前、机を兼ねた手すりの中央に位置している。「背もたれの位置はこう」と言って、背もたれを少し時計回りに回した。それで横から見て、座る部分と手すりとの間に隙間ができた。

 横溝はそれを見て満足そうに微笑した。「うん、いかにも机に上がるための踏み台にしたって感じだ」

「そうですね。辻褄が合う、しかも」と言っって鮎川は黒いレザーの一部を指した。横溝の野太い眉毛がぴくりと動いた。尻を乗せる部分に灰色の靴跡が一つ、はっきりと残っているのだ。

「ほほう、こりゃ自殺が濃厚になってきたな」

「確かに。この椅子を踏み台にして机兼用の手すりに上がり、20m下へ真っ逆さまに飛び込んだ。そう考えるのが自然でしょう。まだ正確に合わせたわけじゃありませんが、仏さんが今履いている靴底のパターンと同じです」と賛成した鮎川だったが、顔を引き締めて続けた。「しかしまだ断定はできません」

「どうしてだい?」

「何かでき過ぎという感じがするんです。それに見てください」鮎川は幅のある灰色の手すり兼机を示した。「ここに靴の跡が見当たらない。変じゃないですか?」

 横溝は近寄ってじっくりと観察してみた。確かに靴跡らしきものはない。と、彼の視線が一点に釘付けになった。代わりに別のものを見つけたのだ。彼はそれを見つめながら言った。「もっともだ。よく気づいたね。ではこれはなんだろう?」

 虚を突かれた鮎川は急いで横溝の横に来た。横溝が指差す場所を注意深く見つめる。手すりのまさに縁の部分に、ほんの数ミリほどの糸くずが付着している。ルーペで拡大して見ると、微小な突起に鶯色の繊維がからまっているのが判る。

 鮎川は内心忸怩たる思いで呟いた。「気づかなかった」

「光の加減だろう。これがいつ付いたものか。何よりこの色だ。仏さんのセーターの色と同じじゃないか」

「写真と採取!」鮎川は興奮を隠さず鑑識係を呼んだ。一人の警官が早速駆けつけ、鮎川の指差す場所を見て声を上げた。カメラを数センチ前まで近づけ、フラッシュを焚いた。そして慎重の上にも慎重を期してピンセットを操る。離れて見守る鮎川は、事件が単なる自殺ではないと確信した。

「これはもう、殺しと見ていいんじゃないですか。一旦あそこに横たえられ、それから落とされた。そのために尖がりに擦られた繊維が残ったと考えられる」

 興奮ぎみの鮎川に対し、横溝は冷静であった。「君の意見はよく分かる。だが、あの繊維がいつ付着したのかはっきりしないし、その特定も困難だぞ。靴跡がないのも別の説明があるかも知れんのだ。」

 冷や水を浴びせられた鮎川は、まずは落ち着いて考えてみた。「そうですね。予断は禁物」

「あの、いいですか」さっきまで床に這いつくばっていた鑑識係が声を掛けた。どうしたという鮎川に、彼はビニール袋を一つ掲げて見せた。「ちょっと興味深いものが見つかりました」

 両刑事は目を細めて袋の底に積み重なった、3本のか細いものを見つめた。

「髪の毛ですね。しかし色がおかしい。青いですよ、これ」

「ああ、青いな。で、どの辺にあったんだね」と横溝は鑑識係に尋ねた。

「入り口の近く、2,3歩入った場所です。ほぼ同じ位置にまとまって落ちてました」

 二人はしばし物も言わずこの奇矯な物体を見続けた。一番長いもので20cmほどもある。鮎川の脳裏に派手ななりをした若い女の像が浮かんだ。横溝が目を離さず声を出した。「鮎川君、誰かにここを清掃した時間を調べさせてくれないか。いつこれが落ちたのか、少しでも範囲を縮めたい」

「了解」鮎川は機敏に動き、部屋を出て行った。

 

 中央指令室を離れた横溝、鮎川の両刑事は次に赤木ナオコの執務室に向かった。歩いてほんの少しの場所である。中井巡査長がこの場の捜索を任されていた。

「どう中井君、何か見つかった?」鮎川が彼に声を掛けながら入り込む。途端に驚いて目を瞠った。床に背の高いスタンドが転がり、電球が割れてガラス片が散らばっている。丸い笠はかなり離れた壁まで転がっている。その近くにはハードカバーの洋書が何冊もばらまかれている。

「大荒れってとこだな」と後ろの横溝が呟いた。鮎川は中井に訊いた。「最初からこの状態だった?」

「もちろん、手を付けてません。仏さん、大層暴れたようですね」

 横溝の丸い目が輝いていた。「ここで格闘があったかも知れないな。面白くなってきた」

「鍵はかかっていたのかい?」と鮎川。

「ええ、西村さんに開けてもらいました」

 腰を屈めて、穴の開くような目で床を見回した鮎川が言った。「特に引きずったような跡はないですね」

 磨かれたタイルの床にはこれといった痕跡を見つけられなかった。蹲踞の姿勢になり動き回った横溝も同感だった。「そうだな。ううん、自分でやったのか。なんとも言えんな」

「意識のなくなった人間を動かすなら、多少とも引きずらないと無理でしょうからね」と鮎川が述べた。

 中井が机の向こうから口を挟んだ。「女のヒステリーってやつかもしれないですよ。むしゃくしゃして物をぶち壊したくなるってこと、たまにあるでしょう」

 鮎川は自分の経験に照らし合わせて、彼の言も的外れではないと思う。

 立ち上がった横溝は中井に尋ねた。「それで、有力な遺品とかはなかった?」

 中井は疲れの滲む表情で答えた。「遺書はないです。あとこれといったものもありません。メモにしたって、訳の分からない数式とか、外国語とかで理解すらできません」

「バッグとかはないの?」と抜け目なく横溝が尋ねた。中井は首を振り、「いいえ、そうした物は見当たりません」と答えた。

 中井はベテランの捜査官なので、鮎川は信用を置いていた。「そうかい。じゃ、ここはもういいんで他を手伝って。あとそうだ、鑑識係を呼んできて」

 頷いた中井はあくびをかみ殺しながら部屋を出ていった。残った横溝と鮎川はざっと室内を見回した。8畳ほどの部屋には机とパソコン、びっしりと本の詰まった書棚、応接セットがある。良く整理整頓された部屋で、故人の性格が窺えた。床に散乱した品々が異質であった。机には今は亡き彼女の夫の写真が、額に入れられて飾られている。だが、彼らの関心を引いたのはそんな物ではなかった。

「ありましたね」「うん」

 入り口のすぐ傍のフックにハンガーがいくつか下がっている。その一つに白衣が掛けられていたのだ。

 

 もう一箇所是非見ておきたい場所があった。女子更衣室だ。赤木ナオコのロッカーを覗くためである。女の聖域に踏み込んだ鮎川は、妙に落ち着かないものを感じた。赤木ナオコと書いた名札のあるロッカーはすぐに見つかった。拝借してきた彼女のポケットにあった鍵束から、それらしい鍵を入れて回すとすんなり開いた。

 その中に衣服は掛かっていない。下側の靴置きの上、金網の棚に品のいい茶皮のハンドバッグが乗っていた。表面はLVのロゴで埋められている。鮎川もそれがルイ・ヴィトンというブランド物であることは知っていた。彼は一時期、贋物の摘発に関与していたのでブランドには詳しかった。その下に光沢のあるハイヒールがある。これが外で履く靴だろう。

 横溝はバッグを取り出し、興味津々といった様で口を開けた。途端におおっ、と大声を上げる。

「どうしました!?」

 驚く鮎川に、横溝は黙ってバッグの口を広げ、傾けて見せた。化粧道具や札入れ、携帯電話などに混じって禍々しい物が横たわっている。

「これは驚いた」

 鮎川はペンを取り、慎重にバッグの中に入れた。やがて出てきたペンの先に、銀色に光るオートマチックの拳銃がついていた。女性にも扱いやすい小型のものだが、殺傷力は十分にありそうだ。

「物騒なものを持ってますね。ベレッタですよ。意外だ。科学者で、しかも女性がこんなのを持つのか」

「護身に神経質なのかも知れないな。所持許可証を持ってるか確認しないと。それより、また疑問が増えた」

「自殺なら、なぜこっちを使わなかったのか、ですね?」

「そうだ。弾が入ってないのかな。まずは指紋を採取してからだ」

 鮎川は銃をビニール袋の中に落とし、封をした。横溝はバッグを携え、部屋を出ようとした。

「机のある場所で中身を吟味しよう」

 手近な場所にある休憩室で二人はバッグの中身を空けた。特に目を引くのはピンクの表紙を持つ手帳であった。鮎川がざっと目を通すと、所々に予定らしきものが書き込んである。これは何かの手がかりになるかもしれない。

 横溝はまず携帯電話を開いた。電源は入っていない。これは想定の範囲内だ。次に小物を仕分けて口紅やティッシュなどを順番に並べていった。中の一つを摘んでほーっと声を上げ、手帳に見入っていた鮎川は顔を上げた。横溝はにやりと笑い、摘んだものを掲げて見せた。

「世事に縁遠い科学者。俺たちはそういうイメージを捨てなきゃならないかもしれないな」

 横溝が見せているのは、四角いビニールのパッケージに入った薄物であった。男女の愛を育むもの、コンドームである。

 

 時刻は2時を回った。警察の捜査はなお続いている。中央指令室で話し合いをしている鮎川の下に一人の警官がやって来た。

「あの、残業してた人たちから、まだ帰してくれないのかと抗議が出てますが」

「自殺、他殺、どっちかに心当たりのある人はいなかったかい?」と横溝。彼は警官にごく簡単な質問を任せていた。

「いいえ、赤木ナオコ博士は普段と変わらない様子だったという意見ばかりでした」

 二人の刑事は顔を見合わせた。横溝が告げた。「赤木リツコさん、碇所長、冬月副所長の他は帰ってもらっていい。ただし全員名前と住所を控えておけ。それから三人に会うための部屋を用意して。三人は一つの部屋に入れて見張りを立てろ。準備ができたら呼んで。で、注意してもらいたいのは聴取が終わった後、部屋に戻さないことだ。口裏合わせができないようにだ。分かるね」

「了解しました」

 警官は踵を返して出て行った。鮎川と横溝は向かいあって話の続きを始めた。

「それで、現時点でのご意見は?」

「自殺の可能性は低いと言わざるを得ない。机に足跡がないのが大きい。白衣のこと、手すりの縁についた糸、これらも気になる。だがもっと情報がいるよ。大事なのは娘の証言だろう。最も身近にいた人物だからな」

 

 それから5分後、二人はなんの変哲もない会議室にいた。10人ほどが入る小部屋で、机がロの字型に並んでいる。二人はその中央に並んで座り、聴取すべき相手を待っている。鮎川は難しい顔で大学ノートをペンの尻で叩いていたが、横溝は余裕の表情で腕を組んでいた。

 こつこつとドアが鳴った。どうぞ、と声を掛け、入って来たのは娘の赤木リツコである。二人はさっと立ち上がった。この度はとんだことになりまして、お悔やみ申し上げます。折り目正しく挨拶をして名刺を交換した。その間も横溝は油断なくリツコを観察していた。落ち着いた物腰は実年齢よりずっと大人びたものを感じさせる。白い襟元に緑色のブローチと赤いネッカチーフをあしらった青のスーツ姿は贅肉がなく、すらりとして美しい。眼差しや態度のあちこちに、悲嘆と衝撃の大きさを感じさせる。鮎川はリツコの金色に染めた髪を残念に思ったが、整った容貌には魅力を感じた。左目の下の泣きぼくろが、チャームポイントになっている。彼は懐から手の平大のボイスレコーダーを取り出し、テーブルに置いた。「正確を期するため録音をします。構いませんね」「ええ、どうぞ」

 横溝が口火を切った。「ええ、お母様が亡くなられたばかりで色々お聞きするのは心苦しいのですが、これはこういう事件の場合、必要不可欠な手続きでして、どうかご理解下さい。まず最後にお母様と別れたのは、いつどこででしょうか?」

「はい」赤木リツコは唾を呑みこみ、俯き加減に話を始めた。「今日、いえもう昨日ですわね、午後7時頃に発令所の中央指令室で会ったのが最後です。私はその後自宅に帰りました」

「その時どんな話をしましたか?」

「MAGIのことです。あのコンピューターのこと、ご存知ですね?」

「大雑把にですが」

「初めての人格移植コンピューターですの。画期的な発明ですわ。3台の高性能人工知能が常に合議しながら、最適解を導き出す仕組みです」

 鮎川が口を挟んだ。「その人格ってのはどういうことですか?」

「擬似的性格とでも言いましょうか。メルキオールには科学者、バルタザールには母、カスパーには女としての赤木ナオコがインストールされていると考えてください」

「性格がインストールできる?」

「行動様式を数千通りのアルゴリズムを通しサンプリング、32ビットのC言語にモディファイして‥‥ちょっと難しいかしら」

 ぽかんと口を開けていた鮎川は苦笑して言った。「念仏と一緒ですね」

 リツコは微かに笑った。鮎川は頭を掻いて言った。「どうも話の腰を折ってしまいまして。続けて下さい」

 うん、と咳払いをしてリツコは証言を再開した。「そのMAGIが明日運用開始なのです。私はお祝いを言いました。それと今夜は遅くなるということ」

「何か用事があった?」と横溝。

「はい。葛城ミサト。ゲヒルンドイツ支部の職員で、親友なんですが、今回帰国したので飲みに行く約束がありました。そのことを言いたくて」

「約束があった。で、行ったんですか?」

「いいえ、帰りのモノレールで、急にお腹が痛くなりまして。仕方なく取りやめにしましたわ。彼女、今日松代へ発つので、会っておきたかったんですが。当分再会は無理ですから」

「それは残念でした。で、それから?」

「家に帰りしばらく休んでいました。1時間ほどで具合が良くなったので、あり合わせのもので夕飯を作りました」

「家に着いたのは何時頃?」

「7時40分。それからずっと家にいました」

「お母様の帰りを待っていたんですね?心配じゃなかったですか?」

「ええ、でも母は仕事熱心ですから、夜明けまで仕事をすることも珍しくないんです」

「帰り際、お母様の様子はどうでしたか?つまり仕事が残っていそうでしたか?」

「いいえ、そうは見えませんでした。暇そうでしたわ。でも研究者は気まぐれですから。思いついたらすぐ考え込んだり、実験したりですんで、印象は当てになりません」

「お母様が亡くなった知らせはいつ、誰から聞きましたか?」

「11時半頃、碇所長から電話をもらいました」

「すぐに家を出て、こちらに向かったんですね」

「はい、モノレールでは碇所長や伊勢管理部長も一緒でした」

「お母様に悩み事などはありませんでしたか?」

「何一つ聞いておりません」

「落ち込んだ様子とかを見せたことは?」

「それはまあ、ごくたまに。でもご承知の通り研究者ですから、うまくいかないことも多いです。そんな時は声をかけず、そっとしておいてやりました」

「お母様との関係はうまくいってましたか?」

「もちろんですわ」リツコの表情にかすかな怒気が浮かんだ。「周りの人に訊いてみて下さい」

 横溝はどこ吹く風の表情で続けた。「では、お母様に恨みを持つ人物など心当たりはありませんか?」

「いいえ、ありません。母は誰とでもうまくつきあっていける人でした」

「ええ、では」横溝は一呼吸置いて微妙な質問を投げかけた。「お母様が付き合っている人物はいませんでしたか。はやい話、男関係ですが」

 リツコは一瞬間を空けたが、はっきりとした口調で答えた。「知りません。私の前ではそんな素振りも見せませんでした。ですから多分ないと思います」

 二人の刑事の鋭い視線の中、赤木リツコは毅然として回答をした。大学ノートにメモを取る鮎川の手は高速で動いていた。

 横溝の質問は続く。「お父様が亡くなったのはいつでした?」

「1986年。私がたった1才の時です」

「それはお気の毒でした。ということは、お母様がずっと女手一つで育ててこられた」

「いえ、家がまあ裕福なので、お手伝いさんや子守が付いていましたから。母は二十代の頃から科学者として活躍していて、私を出産した直後もそれは続いていました。なので、私は親にほったらかされて育ったようなものなのです」

「寂しい思いをされましたね」

「それはなかったと言ったら嘘になりますわね。でも私は科学者としての母を強く尊敬していました。みなのために私は我慢しなくちゃならない、そう思って育ってきました」

「お母様は24年間、ずっと独身を通してこられたわけですね。それだけ自分の研究に打ち込んでおられたのかな。あるいは余程お父様を愛しておられたのか」

「その両方じゃないでしょうか」

「率直に見て、自殺、他殺、あるいは事故、どれだと思いますか?」

「まったくなんとも言いようがありません」

「お母様は銃を持っていたことを、ご存知でしたか?」

「銃ですか」リツコは少し驚いた表情を見せた。「確かにありました。護身用に、許可をもらったと言ってました。一度見せてもらったこともあります。今日、持ってきていたんですか?」

「はい。こちらで保管しています。あのバッグ、ええと、何といったかな。有名なブランドで」

「ヴィトンですわ」

「そう、それです。その中に入ってました。身の危険を感じてらしたんじゃないですかねえ。常時携帯してたかどうかは?」

「聞いてません。その辺の話はあまりしたことがなくて。参考にならなくてすみません」

 横溝は伸びて目立ち始めた無精髭を撫でて考え、質問の方向を変えた。

「ありがとうございます。もう少しで終わりにしますので。最近、青い髪の人物を見ませんでしたか?」

「青い髪?」リツコはそう言いながら、椅子の肘掛を強く握り締めた。

「はい、短めの青い髪です」

「ああ、それなら」リツコは固い表情で答えた。「今日の午前中、人工天蓋部で会いました。下層第2直援エリア。綾波レイと言う女の子です。」

 二人の刑事は揃って驚きを露わにした。「女の子!?」

「ええ、碇所長が連れて歩いてたんです。確か、知人の子を預かることになったと言ってました。その時は母も一緒でした」

「年格好は?」

「5才ぐらいに見えました。赤いスカートを穿いて。そうそう、もう一つ特徴がありましたわ。目が赤いんです」

 横溝と鮎川は共に目を剥いた。「それは変わってますなあ」

「そうですね。一目見たら忘れられない顔立ちです」

「会ったのはその時だけ?」

「ええ、碇所長がどこかへ連れて行きました。その後のことは知りません」

「何か話をしましたか?」

「いいえ。私、今日はと声を掛けたんですが、その子、一言も喋らないんです」

「そうですか、大変参考になりました」

「あの、その子が何か関係があるんでしょうか?」

 横溝はすまなそうに答えた。「すいません。遺族と言えども、捜査のことを全部明かすという訳にはいかないんです。ご理解下さい。いずれ段階を踏めば、お教えできると思います」

「そうですの。いえ、別によろしいんですが」

 横溝が巨体を立ち上がらせた。鮎川もそれに続けて立った。

「いや、赤木さん、どうも長時間ありがとうございました。お引取りになって、ゆっくり休んでください」

 さすがにリツコはほっとした表情を見せた。「どうも。どうか一日も早く真実を見つけてください」

 リツコが寂しげな後姿を見せて去ると同時に、横溝は鮎川に囁いた。「さてさて、これでまた他殺の線が濃くなったぞ」 

「どうして?」

「考えてみろ。明日は長年の苦労が報われるコンピューターの初稼動だ。責任者として最高の瞬間じゃないか。それに何か事故がありはしないか、失敗しはしないかと不安も湧いてくるってもんだろ。そんな日にだ。たとえどんなショッキングな出来事があったとしても、すぐに自殺をするだろうか?俺なら成功を見極めてから、ゆっくり首でも縊るね」

 鮎川は無言になって考え、大きく頷いた。「警部のおっしゃる通りだと思います」

 二度ドアを叩く音が響いた。二人の刑事は姿勢を正し、次の証人を迎えた。「どうぞ」

 現れたのは副所長の冬月コウゾウであった。この組織で会った人物では最も年長になる。鮎川の第一印象は校長先生というものだったが、その印象は間違っていなかった。簡単な挨拶をして聴取が始まった。ここでも主導したのは横溝だった。

「本当にとんだことですなあ。技術開発部長といえばナンバー3でしょう?」

「まったくです。突然こんなことになるとは。今は混乱していて、対策を考える余裕もありません」

「故人とのお付き合いは長いんですか?」

「そうですねえ。彼女も一時京大で助教授をしていたので、私が教授を勤めていたころから面識はありました。ただ、専門分野が違うので、それほど親しかったというわけではありません。7年前、碇に連れられここに来て、再会した時は驚きました」

「あなたから見て赤木博士はどういう人物でしたか?」

「まさに天才、その一言ですな。人格移植OSは彼女なしではあり得なかった。人間的に見ても非の打ち所のない人でしたよ。温厚、誠実。科学者の鑑だった」

「敵はいなかったと思いますか?」

「そうですな」

「最近様子がおかしかったとかは?」

「ないです」

「自殺について思い当たるふしはないと?」

 冬月は肩をすくめた。「まったく」

「急に激情に駆られるようなところは?」

「うん、まあたまに怒鳴り散らしたことはありましたよ。たまにね」

「さっき、温厚、誠実、科学者の鑑とおっしゃった。矛盾していませんか」

「それは」冬月はむっとした口調で答えた。「確かに聖人君子ではなかった。だが全体的に見て、善良な人だったことは間違いない」

「全体的にね。分かりました。昨日あなたが最後に彼女に会ったのは?」

「1時頃だった。食堂で一緒に昼食を取った。リツコ君も同席してたよ」

「NO2のあなたが、NO3の故人とそれきり会わなかった。あなたは何をなさってたんですか?」

「私とて管理ばかりしているわけにはいかない。現役の研究者ですからね。人工進化研究所で仕事をしていました」

「人工進化、ですか?」

「うん、この施設の深地下にある。簡単に言えば遺伝子の変異を研究する所です」

「生命操作?」

「そう言い換えてもいいでしょう」

「例えばどんな成果を挙げているんですか?」

「それは申し上げられない」

 横溝は眉根を寄せた。「機密ですか。世間に公表できない研究をしているということですな」

 冬月は落ち着き払って答えを返した。「よろしいか、警部。我々は近い将来の使徒襲来に備えて軍事技術を研究している。とてつもなく高度なね。この技術が各国に分散してしまっては、ミリタリーバランスが崩れかねんのです。将来に禍根を残すことになりますよ。この技術は永久に封じ込め、我らの代で消滅させてしまうのが一番良いのです」

 横溝は黙り込み、視線を落として考えた。隣りでメモを取っていた鮎川は手を休め、両者の間に視線を往復させた。おもむろに横溝は言った。「いいでしょう。我々にそこまでの権限はない。気を悪くしないで下さい」

「いや、こちらこそ」

「質問を続けます。では、あなたはずっとそこにいたとおっしゃるんですね?赤木さんの訃報が届くまで」

「いや、もちろん一歩も足を踏み出さなかったとは言いませんよ。色々足さなきゃならない用事がありますから。長いものでは、そう、夕食のために20分ほど外に出ました」

「それは何時から何時まで?」

「7時20分頃から40分頃まで」

「その他はずっと研究所にいた」

「そうです」

「家に帰るつもりはなかったんですか?」

「今日は泊り込みだったんです。実験に立ち会わねばならなかったので」

「証人はいますね?」

「もちろん。他に3人のスタッフがいます。今も一人残ってますよ」

「碇所長に連絡をしたのは、あなたですか?」

「そうです。あの時、一番上の立場だったので。死亡の事実を確認してすぐ電話しました。リツコさんには碇から連絡することになりました」

「何時のことですか?」

「11時20分頃」

「自宅?それとも携帯?」

「自宅でした」

「結構」横溝は間合いを計るように、一度手帳に視線を落としてから質問を投げた。「綾波レイについて、どこまでご存知ですか?」

 冬月は特に動揺した風も見せず、淡々と答えた。「碇が連れて来た子ですね。私も今日会ったばかりなんですよ。知人の子だと言っていました」

「何時頃のことですか?」

「朝の9時半頃だったね」

「場所はどこで?」

「セントラルドグマのエレベーター前で。碇は人工天蓋部を見せると言ってました」

「碇所長の他にお付きは?」

「いませんな。二人だけだった」

「何か会話をしましたか?」

「挨拶だけですね。無口な子だった」

「会ったのはその1回だけ?」

「そうです。後のことは知りません」

「しかし、不思議ですね」横溝は冬月に顔を近づけて言った。「このような研究施設には似つかわしくない訪問だ。私らなんかの職場じゃ考えられない。ここではしょっちゅう子供が来るんですか?」

「それはまあ」遂に冬月は口ごもった。「‥‥今回のことは例外と言えるでしょう。理由は碇に聞いてくれませんか。私は知らない」

「そうですか。ではそうしましょう」

 横溝は意味ありげに鮎川に視線を送った。鮎川は無言で頷き、横溝は聴取の終わりを告げた。「さて、副所長、どうもありがとうございました。今日はこれで結構です。ゆっくりお休みになって下さい」

「いやなに。お役に立てたかどうか」と言いつつ、冬月は立ち上がった。

「色々参考になりました。すいませんが、碇所長を呼んで下さい」

 いいですともと答えて、冬月は室外に消えた。横溝は首を回し、肩を揉みながら鮎川に言った。「さあ、次が本番だ」鮎川も、今のところ最も聴取しがいのありそうな大物の到来を控えて、緊張が高まりつつあった。

 間もなく現れた碇ゲンドウが思ったよりも若いので、二人の刑事は驚いた。鮎川が強く印象を持ったのはその目であった。眼鏡の奥にあるその眼差しは、何か言い知れぬ迫力を持っている。型通りの挨拶を経て彼らは向かいあった。ボイスレコーダーが音もなく動き出した。開口一番、横溝から発せられた質問は鮎川を驚かせた。

「綾波レイは今、どこにおりますか」

 碇の眉毛が一瞬跳ね上がった。彼は机の上に両肘を置き、手を口の前で組んだ。

「なぜそんなことをお聞きになるのか分かりませんな」そう低い声で答える彼の声は、あくまで冷静なものであった。

「事件の参考人になる可能性があるからです。昨日、あなたがここに連れて来た女の子です」

「確かに施設の見学をさせました。しかし、あんな小さな子が事件に関係するでしょうか」

「その可能性は高いんです。綾波レイの髪の毛は青い。間違いないですね?」

「確かです」

「その青い毛が中央指令室に落ちていたんです」

 碇はせせら笑った。「あそこにも連れて行きましたからね。毛が落ちることもあるでしょう。しかし、それは午後2時半頃のことで、事件よりかなり前だ」

「そうですか。ただ妙なことにですね、あの場所は6時に清掃が入ってるんです。隅々まで、丁寧に」

 三者の視線がぶつかり合った。数瞬、部屋を沈黙が支配した。碇の方が先に口を開いた。

「なるほど、赤木博士と会った可能性があると言いたいんですね」

「そうです。その子の昨日から今日までの行動について、教えていただけますか」

「いいですよ。なに、別に隠すつもりはないんです。無駄を避けたかっただけでね。あの子をここに連れて来たのは午前8時40分。私の出勤と同時だ」

「待ってください。あなたの家はどこに?」

「仙石原3丁目。社宅ですよ」

「そこから連れて来た」

「ええ。まずセントラルドグマ、それから人工天蓋部へ行き、ジオフロントを上から眺めさせてやりました。そこに昼までいて、食堂で昼食を取り、次に地底湖まで下りて、辺りを散歩しました。それが2時頃まで。後は発令所を見せ、私の執務室に置きました。私も仕事があるので、そこで本を読ませたんです。ところが仕事が長引いてしまい、戻れたのは7時近くだった。すると驚いたことにいなくなっているんです。退屈を持て余して、部屋を出たんですね。ちょっと慌てましたが、すぐに戻って来てくれました。かなり長い間迷子になってたようです。ここは通路が複雑ですから。私は遅くなったことを謝り、家に連れて帰ろうとしました。ですが、どうも様子がおかしい。すっかり元気がなくなっているんです。額に触ると明らかに熱があるので、急いで医務室へ連れて行きました。ですんで、今はそこで寝ています」

「それは大変でした。ところで、知人の子とおっしゃってたようですね。知人とはどなたのことですか?」

「いやまあ」合わさった手の陰で、碇は苦笑した。「知人というのは方便でしてね。実際は施設にいた子を引き取ったんです」

「そうなんですか!」

「はい。可哀想な子供なんです。三月、南足柄市のスラム街を一人彷徨っているところを、警察が保護しました。それがなんと記憶を失った状態でね。余程のショックを受けたんでしょうな。以来、身元を捜しましたが遂に判明せず、第二新東京市の児童擁護施設に引き取られていたのです」

「どういう名の施設ですか」

「第二新東京市立麦の子学園」

「それで不憫に思われたあなたが引き取ったと。いつですか?」

「つい一昨日のことですよ」

「それにしても、こういう職場へ連れてくるとは珍しい」

「サービスが過ぎましたかな。ここは色々と見所が多いですから、せめてもの慰めにと思いまして。まあ、所長の特権と言えなくもないですな」

「あなたには確かお子さんがおありになる」

 碇の眉がぴくりと動いた。鮎川はそこに僅かな動揺を読み取りながら、自分も知らない情報を横溝が持っていることに驚いた。

「はい。息子が一人。シンジです」

「その子はどうしています?」

 碇は体勢こそ崩さぬものの、明らかに戸惑っていることが、その目つきから察せられた。

「私の元にはいません」

「おや、なぜですか?」

「あれの母は6年前に消失しました。私は仕事が忙しく、また育児能力もない。そこである施設に養育を委ねたのです」

「あなたは変わった方ですな」

 組み合わされた碇の両手が震えた。「と言うと?」

「実の子は放り出したまま、代わりに見ず知らずの子供を引き取る。普通の親はこんなことをしません」横溝は碇を凝視しながら首を横に振った。

「あの子とは折り合いが悪いのです。私を憎んでいる。無理もありませんがね。幼い自分を放り出したことを恨んでいるようだ」

「ひどすぎる!」今まで口を噤んで記録を取っていた鮎川が突如叫んだ。碇の鋭い視線が鮎川を貫く。鮎川は怯まず、怒りに任せて続けた。「まるで他人事みたいだ!人の親のすることじゃないです。引き取るんなら、まず自分の子でしょう。それからじっくり関係を修復していけばいいんだ」

「あなたに何が解る」

 碇はぷいと横を向き、黙り込んでしまった。室内は重い沈黙の中に入った。鮎川は肩を小刻みに上下させている。その空気を払うように横溝が言った。「まあ、いいでしょう。あなたの私生活は事件に直接関係がない。もっと建設的な話し合いにしましょう。質問の方向を変えます。どうですか?」

「どうぞ。構いませんよ」と言って碇は向きを変え、再び刑事たちと相対した。鮎川は憤りをむき出しにしたまま書記に戻った。

「最後にナオコさんを見たのは?」

「さっき言った人工天蓋部で。リツコ君もいました。あれは確か10時過ぎだったと思います」

「それっきり姿を見なかったというんですね。どこで何をしていたか、ご存知ないですか?」

「午後、部下から第三研究室で、一人で何かしていると聞きました。詳細は分かりません」

「差し支えない範囲で構いませんが、そこは何をする場所なのですか」

「汎用コンピューターがあります。計算用のセクションですね」

「ナオコさんの最近の様子はどうでしたか。悩みを抱えていたようなところはありませんでしたか?」

「気になるところはありましたね」

「ほう、どんな?」

「ときどき放心状態になっていることがありました。仕事の能率も落ちてきていた。どうしたと尋ねると曖昧な返答しかしない。確実に何か悩みを抱えていたと思います」

「敵はいませんでしたか」

「それはないでしょう」碇は結んでいた手をほどき、指先で眼鏡を押し上げて言った。「一つ、有力な情報を差し上げましょうか」

「おお、是非」横溝は興味を抱き、目を見開く。

「彼女、今夜私に電話を掛けてきたんです」

 横溝は耳をそばだてた。下を向いて速記していた鮎川も顔を上げた。

「何時のことですか?」

「あれは9時45分ぐらいでしたか。私の自宅へです」

「あなたは家に帰っていたんだ。着いたのは何時?」

「7時40分頃です。レイは医師に任せました」

「話の内容は?」

「それがもう一つ要領を得なくてね。泣き声でしたね。もう駄目だとか言って。私は何度も冷静になるように言いました。今からそちらに行くとも言ったんですが、それは嫌だと。そのうちにいくらか落ち着きが見えてきたんで、今日話し合う約束をして切りました」

「家では何をしていました?」

「ピザハットから出前を取り、後は書斎で、論文を書いたり音楽を聴いたり。ああ、コンビニで買い物もしました」

「家にはお一人で?」

「ええ、やもめ暮らしです」

 横溝はじっと碇を見ながら、ざらざらした顎を撫でて考えた。碇は元のように手を口の前で組んでいる。おもむろに横溝は言った。「あなたはナオコさんと特別な関係だったのではありませんか?」

 さしもの碇も、この問いには表情を変えた。「何を根拠に」

「いえね、あなたは娘のリツコさんも知らなかったことを答えられた。悩みがありそうだったと。リツコさんはそこまで言っていません。それに、最後に電話をしたのが、あなただった。実の娘を差し置いてです。あなたは娘以上の存在だったように思える」

「確かに」上ずった声を出した碇は、一呼吸置いた。「確かに私とナオコさんは長い付き合いだ。そういう意味では親しいと言ってもいい。だがあくまで仕事上の関係です。根拠のない憶測はやめていただきたい」

 横溝を見据える碇の視線にはただならぬ迫力があった。が、鮎川はやくざの恫喝を何度も経験していたので、落ち着いて見ていることができた。横溝もその点では同様だ。

「大変失礼。あまり気にしないでください」と、横溝はまるで冗談事のように、手を振って言った。

 碇も冷静さを取り戻した。「はっ、まあ向こうが私をどう思っていたか、そこまでは知りませんがね」

「そうですか。ところで、レイちゃんの具合はどうですか」

「さあ、その後会っていないので」

「明日にも面会したいんですが、よろしいですね」

「それは約束できない」

「なんですと」意外な答えを聞いた横溝は、不快感を露わにした。「二三、簡単な質問をするだけです。面会謝絶というわけでもないでしょう」

「あいにく、今レイがいるのは立入禁止区域だ。どんな部外者も侵入されては困る」

「捜査に協力できないと言うんですか?」

「いや、永久にとは言いません。いずれ機会が来れば会わせることもできる」

「そちらの都合に合わせろということですか」

「端的に言えばそうですな」

 鮎川はじっと横溝と碇の視殺戦を見守っていた。いつの間にか手に汗を握っていた。

 結局、横溝の方が折れた。「分かりました。いずれ聴取の機会を頂くと約束してもらいましょう」

「結構」

 横溝は疲れの見え始めた目を腕時計に向けた。「さて、夜も更けた。これで今日は終わりにしましょう。どうも長時間ありがとうございました」碇は無言のまま立ち上がり、部屋を出ようとする。そこへ横溝の声が掛かった。「明日以降もちょくちょくお邪魔しますから」

「お好きにどうぞ」

 ぼそっと言うなり、碇は音高くドアを閉め部屋から出た。ボイスレコーダーを止めた鮎川は、椅子に背中を預け、ため息まじりに言った。「いやな男だ。なんて態度をしやがる」

 横溝の方は机に肘をついて難しい顔をしていた。「あの男が何か隠していることは間違いない。綾波レイも一枚噛んでいる。しかしあの男、固いアリバイを匂わせたな。相当自信ありげだった。こりゃ容易な事件じゃないぞ」

「それにしても、あいつに息子がいることを良く知ってましたね」

「なに、何年か前、碇ユイ消滅事件の後、週刊誌に出てたのさ。そうだ、あの事件のことも調べておく必要がある。関連があるかも知れんよ」

 時計はすでに3時を回っていた。二人の刑事は疲れた体を起こし、帰り仕度を始めた。鮎川の脳内は、事件の様々な謎が駆け巡り、一種の興奮状態にあった。少しでも眠らないと明日がきついと思いながら、案内を呼ぶために廊下へ出た。

 

 その日の午前11時、横溝と鮎川は箱根警察署の刑事部屋で、事件についての話し合いをしていた。遅く出勤した鮎川だったが、いささか眠たげな様子でいた。対する横溝は普段と変わらぬ精力を見せている。鮎川の向かいに座った横溝は、ナオコの携帯電話を手にしていた。送信の履歴を見ていたのだ。

「9時45分5秒から9時48分45秒まで。この番号は確かに碇ゲンドウの自宅だ。奴さんの証言の裏が取れたな」

 画面を見た鮎川は渋い顔で頷いた。横溝はさらにボタンを操作して、登録番号を調べた。

「出た。GI。なんだこりゃ」

 興味を引かれた鮎川は、横溝が差し出した画面に注目した。一番上にGIの名で携帯電話の番号が登録されている。その下がゲヒルン、さらに下がリツコだ。

「職場や娘を差し置いてトップに来るとは、余程の人物ですね。番号を調べてみましょう」

「そんな必要ないさ」言うなり、横溝は傍らの電話機を取り、その番号に繋いだので鮎川は呆気に取られた。「もしもーし。あれ?あ、間違えました。すいませーん」受話器を置いた横溝はにやりと笑った。「碇ゲンドウ氏がお出になったよ」

 鮎川は感心しながら笑みを浮かべた。「大胆ですね。さすがです」

「手間が省けたろ。さてGI、すなわち碇ゲンドウ氏は故人にとって大層重要な人間のようだ。ますます怪しくなったな。彼が嘘を言っているとしたら何故だ。調べ上げる必要がある。ともかく、自殺とは断定できない。執務室にあった争いの跡、そして手すりになぜか足跡がないこと。この2点を解決しなくちゃならない。まず聞き込み捜査で赤木ナオコの背後関係、当日の行動を洗い出そう」

「そうですね。それと綾波レイだ。碇所長の言い分は信用できない。そちらも調べる必要がある」

 横溝は吐き捨てるように言った。「胡散臭さはあの組織全体に感じるよ。秘密のベールが多すぎるな。母胎となったゼーレにしてからが謎だらけだ。第一、本当に使徒とやらが襲って来るのか」

 ドアをノックする音が響き、私服の警官が入って来た。鑑識課の江戸川である。「課長、報告がまとまりましたんで」鮎川は江戸川に席を勧め、横溝と共に江戸川の話を聞く態勢に入った。江戸川は机の上に報告書を広げていく。

「まず、医師の夢野先生の診断ですが、死亡推定時刻は午後7時から午後11時まで。死因は頭部を強打したことによる頚骨の骨折。他に内臓破裂や打撲・骨折多数が認められます。胃の中は空。毒物、薬物も検出されませんでした。次に椅子にあった靴跡ですが、これは故人の左足の靴と完全に一致しました。それと手すりにあった繊維。これも仏さんのセーターのものと同一で間違いありません。ただし、仏さんはあの場所が根城のようなものですから、いつ付着したかなんとも言えず、証拠としては価値が低いです。最後に銃。最近発射された形跡はありません。衣服に硝煙反応もなし。弾倉には弾が10発装填されていました」

「グリップの掌紋は?」

「赤木ナオコのものがくっきり残ってました。あと指紋も本人のだけです」

「予想通りでしたか」と鮎川は諦めを滲ませて呟いた。他には、と横溝が続きを促した。ここで江戸川は、ぐっと顔を近づけた。

「左手の爪から指紋が検出されました」

「爪から!?」と叫んだ鮎川は、自慢げな江戸川の顔をちらりと見て報告書の該当箇所を凝視した。横溝も丸い目で報告書を睨んだ。そこには写真が添付されていて、爪に乗った渦巻き状の模様が映し出されている。

「人差し指です。彼女、手の爪にエナメルを塗ってました。艶出しですね。そのためくっきり指紋が残ったんです」

「5才ぐらいの幼児だと!」と報告書を読み取った鮎川は叫んだ。

「ええ、残った指紋の大きさから判定できます。それだけじゃありません」手を伸ばした江戸川は、下になっていた紙を抜き、横溝と鮎川に示した。「手の甲に引っ掻いた跡がありました。両方にです。1センチほどの間隔を置いて3本。抵抗の跡に思われます」

「なんだって」今度は横溝が叫び、両手の甲を映した拡大写真を見た。右も左も、甲に3本の赤い筋が横切っている。

「血を拭い取って、これを発見したときは驚きました」と、江戸川が感想を述べた。

 一通り目を通した両刑事は、驚愕の展開によって言葉を失くしていた。この新事実によって、事件は全く異なる様相を呈したのだ。

 江戸川はさらなる爆弾を用意していた。反応を期待しつつ、告げた。「まだ発見はあります。見てください」もう1枚の紙を差し出した。両刑事の目が集中した。「爪と指先の間に、別人と思われる皮膚が挟まっていました」

「本当かよ、おい」もう一枚の報告書を読んだ鮎川は呟いた。拡大写真では、右手の人差し指にある爪に、垢のようにも見える白いものが付着している。鑑定の結果、それは他人の皮膚と断定された。横溝は腕組みをして天井を向き、思考に沈んだ。

 しばしの沈黙を破って江戸川は言った。「どうです。意外な結果だったでしょ」

 腕組みを解いた横溝は重々しく言った。「情報を総合すると一つの絵が見えてくるな」

 鮎川が答えた。「ええ、綾波レイはやはり赤木ナオコに接触していた。そこで暴力を受けた」

 横溝は真顔で続けた。「首を締められ、殺されたんだ」

 

 午後のゲヒルン捜索は、前日より人数を増やして実施される。横溝率いる警官の一団が、地上にあるゲヒルン正門前にやって来た。鮎川とは別行動となった。彼は単独で碇ゲンドウ宅周辺の聞き込みを担うことになったのだ。

 勢い込んで警備員に捜索を告げた横溝だったが、思わぬ足止めを喰らった。モノレールは10分待たないとやって来ないと言うのだ。

「やけに時間がかかるねえ」と横溝は嘆いた。

 警備員は涼しい顔でいた。「単線ですからね。底まで片道20分もかかるもんで」

「最大40分待ちかい。市営バスなみの運行だな。他にルートはないの?」

「もちろんありますよ。自動車道路が一本と、非常用通路が2本。このうち自動車道は通常封鎖され、二十四時間警備が付いています。非常用通路は芦ノ湖近くに1本、あとはこの先、あの丘の向こうです。」と言って警備員は、雑木林になっている小高い場所を指した。そこでこの場所から伸びる2車線の道路が隠れている。

「ここからの距離は?」

「150m程度でしょうね」

「どんな構造?」

「高速エレベーターで地下800mまで一気に降下、あとは本部まで地下道を歩きです。モノレールより時間がかかりますよ。片道30分は必要です」

 横溝は強い興味を持った。「そこは誰が開けられるの」

「上級職員なら常時鍵を持ってますよ」

「セキュリティシステムは?」

「感圧式の超優秀な警報機があります。100グラム以上のものが床に乗ると、たちまち警報が鳴ります」

「じゃあ、おちおち使えんな」

「いや、下から上へ出る場合は、まず警報を解除してから入り込むんです。逆に上から下へ下りる場合は、一旦警報を鳴らします。気づいた警備が誰何しますから、カメラの前に立ち身分を告げ、IDカードを機械に通すという段取りです」

「ふうん。外に出るのは容易だが、中に侵入するのは困難てことだ」

「そうなりますね」 

 そこへ係官が人数分の臨時IDカードを持って来た。警官たちはそれぞれ受け取って機械に通し、正門をくぐっていった。すぐ目の前が階段状のモノレール乗り場になっている。

 内部に入った横溝は、注意深く周囲を見回した。監視カメラを探したのだ。角度を変えて4台まで確認できた。付き添ってきたさきほどの警備員に尋ねた。「カメラは24時間運用だね?」

「ええ、片時も休まず記録しています」

「昨日の分と今日の分を、DVDに焼いて提出してもらいたい。できますね」

「そりゃまあ。しかし上の許可をもらわないと」

「もらってください。どうしても駄目と言うなら、令状を執行してでも手に入れます」

 横溝の固い表情を見た警備員は、唾を呑んで頷いた。

 

 横溝ら一行は、昨夜は暗くて見えなかったジオフロントの風景に圧倒されながら、モノレールの終点に近づいた。乗り場を見た横溝は、そこに碇ゲンドウがいるのに気づいた。彼が歓迎しているのではないことは、しぶい表情から明らかだった。

 モノレールから降りた横溝は早速碇の前に出た。「また来ました。お邪魔でしょうが、昨日の続きをさせていただきます」

 碇は不快さを滲ませて言った。「存分になさってください。しかし、成果は上がりますかな」

「いや、それが徐々に出てきてるんですよ。丁度いい、今お話ししましょう。中井君、先に行ってくれないか」と、中井巡査長に声をかけ、「よろしいですね」と言った。碇は鷹揚に頷く。中井は部下を引き連れ、内部に繋がる階段へ移動して行った。

「で、成果とは?」

「綾波レイのことです。赤木ナオコさんと接触したことが判明しましてね」

 碇の表情が変わった。

「しかも暴行を受けた可能性が高い」

「暴行とはね」と碇は抑揚のない調子で言った。

「そんな様子はありませんでしたか?」

「いえ、何も言ってませんでしたよ。外見も異常はなかった」

「綾波レイとの面接がますます重要になりました。面会させていただけませんか」

「断る」碇の拒絶は断固たるものだった。これにはさすがの横溝も腹を立てた。

「あなたは警察に協力しないのか!」

「警部、あなたはトゥールーズ条約をご存知ないか。ゲヒルン設立に関する。我々の自治権はそれによって保障されているのだ。どうしても秘密地区に踏み込みたいなら、内務大臣の許可を得てください」

 横溝と碇は、しばし無言のまま睨み合った。モノレール発着場は人もなく、静寂に包まれている。

 巨体の横溝の方が沈黙を破った。妥協案を思いついたのだ。「よろしい。ではレイさんを診ている医者に会わせて頂きたい。これならできるでしょう」

「あいにく、それもいたしかねる」

「なに!」

「医師は技術開発部の技師を兼ねている。現在連続した実験の最中でね。時間を取れない」

 横溝は怒鳴り散らす衝動をかろうじて抑え、紳士的に言った。「それもゼロ回答ですか。結構。では、どれほど時間がかかろうと、内務大臣の許可を得るとします」

 ここで碇は不気味に笑った。「時間の無駄ですよ、警部。まあ落ち着いて。昨日も言いましたが、レイに会わせる用意はあります。なに、そう時間はかかりません」

「それはいつのことですか」

「さあ。病気の経過次第ですな。しかし、約束は必ず守ります」

「その言葉を忘れないで頂きたい」

「忘れませんとも。さ、どうぞ捜査を始められたらいかがです?」

 促された横溝は、挨拶もせず入り口へ大股で進んだ。胸の裡に怒りが渦巻いていた。一方で碇の態度に気味の悪さを感じてもいた。あの自信は、一体どこから出てきているのか。

 

 同じ頃、鮎川警部補は碇ゲンドウ邸の前にいた。閑静な住宅街の角地に建つ、二階建ての一軒家である。いずれ世界の危機を救う役目を担う人物にふさわしく、建材はどれも高価な物を用いて、豪邸のたたずまいである。全体はブロックの塀に囲まれ、玄関は錬鉄製の格子戸の向こう、松が植えられた庭の奥にあった。鮎川は家の正面から移動して西側に回ってみた。そこでは塀の一部が格子状のシャッターになっていて、奥は駐車スペースだ。今そこにランドクルーザーと呼ばれる、大型の車高の高い車が鎮座していて、窓の上部が少しだけ見えている。他は松の木の繁みに隠れて、建物の内部を窺い知ることはできない。北側と東側は別の家が建っているので、観察のし様がなかった。

 鮎川は手帳に概略を筆記し、正門の前に立った。門柱に設置されたインターホンのボタンを押す。だが予想通り反応はなかった。格子戸に手を掛けると、鍵はかかっておらず、簡単に動く。彼は中に入り込み、庭と玄関を一通り見渡した。敷石の汚れ方や雑草の生え方から、さほど手を入れていないことは明らかだ。独身男には過ぎた家だと思った。そして辺りを見回しながら玄関前に立った。新聞や郵便の類は見当たらない。右手によく育ったゴムの木の重そうな鉢がある。そして目の前に、黒っぽいアルミ製の重厚なドアが立ち塞がっている。ハンドルを回してみたが、やはりびくともしない。そこで彼は、ゴムの木の鉢を力を込めてずらした。鮎川の口に笑みが広がる。その跡に一本の鍵が落ちているのだ。それを拾った彼は、もう一度周囲を確認して鍵穴にそっと挿し込む。かちゃりと錠の外れる音がした。彼はほくそ笑んでハンドルを回し、ドアを薄く開けて中を覗いた。

 靴は一足も見当たらない。広々とした玄関ホールは、予想を上回る豪華さだ。二階まで吹き抜けになっていて、明かり取りから入る光で照らされている。天井のシャンデリアは、夜になれば一層眩い輝きを放つだろう。正面には、二階に上がる広い階段があり、中央で二手に分かれて左右の廊下に繋がっている。彫刻が施され、高級感に溢れた木製の手すりが、柱で支えられた2階部分からは廊下の欄干になっている。一階の右手にあるドアはおそらく居間であろう。二階正面の欄干の向こうにもドアが一つある。

 鮎川の立ち位置から見えたのはそれだけだったが、内部に入り込むのはさすがにまずいので、観察をほどほどに切り上げた。錠を掛け直し、鍵と鉢植えを慎重に元の位置に戻した。そして足早にその場から離れ、通りに出た。聞き込みの開始である。

 東隣りは二階建て八室のアパートになっている。半分は空室だった。残る部屋も、独身者向けなのか、不在が続く。やっと最後に最も西側、つまり碇邸よりの部屋で、箱根学院大学の学生だという若者に会えた。ジャージ姿の髪をぼさぼさにしたその男は、真面目な青年らしく、鮎川の質問に丁寧に答えた。

「隣りの碇さん?昨夜はいましたよ。なんでかって言うと、音が聞こえましたから」

「何時頃?」

「ええと、9時半から10時の間だったな。音楽が聞こえてきたんです。オペラでしたね。『トリスタンとイゾルデ』」

「詳しいんですね」

「僕、ドイツ文学専攻してるもんで」

「他に物音は?」

「いやあ、それが9時前まで、ヘッドホンでロックを聴いてましたから。あとはずっとテレビゲームをやってました」

「うるさく感じた?」

「ちょっと気になる程度ですかね。文句を言いに行く気にもなれないんで我慢しました。おっかないおっさんだから」

「会ったことあるんだね?」

「ええ。朝、ごみを出す時、ちゃんと分別しないで出したことがあるんです。そしたら、あのおっさんが後ろに立ってて。無茶苦茶言われちゃいましたよ。睨みつける目線が恐かったなあ。以来、苦手なんですわ」

「他に気づいたことない?」

「特にないなあ。僕、2時近くまでゲームにのめりこんでましたからね。救急車が近づいても気づいたかどうか。すいません」

「碇さんは、よく夜中に音楽をかけるのかい?」

「いいえ、昨夜が初めてですね。僕、ここに1年住んでますが、そんなことあったためしがない」

「ありがとう。参考になったよ」

 アパートを出た鮎川は、並びの家を一軒ずつ片付けていった。手がかりになりそうな証言は得られなかった。ただし碇ゲンドウの人物像は固まっていった。一口に言えば評判の芳しくない人物ということだ。いわく人付き合いが悪い。いわく目つきが怪しい。ある家庭の主婦は、6年前まではそうでもなかったと言った。つまり碇ユイ消失事件を機に人が変わったというのだ。一人息子が不憫でならないとも。その主婦はユイとシンジの母子に好感を抱いていた。

 通りの一並びを終えた鮎川は幹線道路に出た。そこで道路の向こうに、青地に白の看板を見つけた。コンビニエンスストアのローソンだ。碇の言っていたコンビニとはあれのことではないか。鮎川は予定を変え、道路を横断し、店の中に入った。すぐレジの女性店員に店長への面会を申し入れた。

 奥から出てきた中年の店長に警察手帳を見せると、即座に話に応じて店の奥へ通された。コンビニは強盗事件が多いので、総じて警察には協力的である。簡素な事務机を挟んで二人は話を始めた。

「この人たちに見覚えは?」鮎川は机に碇ゲンドウと赤木ナオコの写真を並べた。

 高木というその店長は、すぐに碇の写真を指して答えた。「碇さんでしょ。うちにはときどき買い物に来ます。もう一人は判らないなあ」

「昨夜、ここに来ませんでしたか?」

「来ました。碇さんが」鮎川の期待に反し、高木は即答した。

「何時頃のことですか」

「10時50分ぐらいです。ビールの6缶パックとつまみを少々買っていきましたね」

「店には長くいましたか」

「いいえ、せいぜい1、2分でしょう」

「ふむ、そうですか。何か話は?」

「いや、終始無言でしたね。あの人の声は聞いたことない」

「店長、真に申し訳ないが、防犯ビデオを提出してもらえませんか」

「いいですよお。警察にはいつも世話になってますからね。で、どうなんです?死んだ赤木さんてこの人?」と言って高木はナオコの写真を指した。鮎川は意味ありげに頷いた。「情報が早いね」

「こういう商売だから、噂話をよく聞くんですよ」高木は目を輝かせ、「で、殺人事件?犯人は碇さん?」と訊いてくる。鮎川は今のところなんとも言えない、くれぐれも他言無用と、言葉を重ねて秘密を守るように頼んだ。高木は口をチャックする真似をして、口外しないように誓った。

 それからしばらく高木に聞き取りをしているうちに、バイトの若者がDVDを持って来た。彼から受け取ったDVDをショルダーバッグに納めて、鮎川はローソンを出た。彼の気分は暗くなっていた。これまで碇に有利な材料ばかりが出てきている。彼の直感は碇が犯人であると言っている。しかしそれは根本的な誤りではないのか。

 また道路を渡った鮎川は、先程の通りに戻った。一軒一軒訪ね歩いて目撃情報を拾っていくのだ。若い鮎川だったが、体力的にきつい仕事であった。成果もなかなか上がらない。事件のあった時間帯が夜なので、人通り自体が少なかったのだ。

 この家で今日は終了というところで、ようやく目撃情報に当たった。看護婦をしているという妙齢の女性だ。

「昨夜帰る途中、見るとはなしにあの家を見てました。そしたら明かりがついてて、カーテンに人影が動くのが見えました」

「一階ですか?」

「はい、西向きの。珍しいので印象に残ったんです。普段は真っ暗のことが多いんで」

「何時頃のことですか?」

「あれは9時10分ぐらいですね。間違いないです」

 手帳に書き取った鮎川は、住所氏名を控えて礼を言い、その家を出た。時刻は4時を回った。彼は近くにある公園のベンチに腰を下ろし、手帳をめくって今日の成果に目を通した。整理のために、碇の行動について判明していることを時系列に並べてみた。

1.7時40分 帰宅。ピザの注文。

2.8時05分 ピザハットからピザの出前が届く。碇本人が受け取る。

 鮎川は外回りの前に、市内に一軒しかないピザハットに電話をして配達人に直接話を聞いた。その男は間違いなく碇本人が受け取ったと証言した。大きさは普通の一人前であった。

3.9時10分 家の明かりが点いている。カーテンに人影。

4.9時半〜10時 音楽をかけ、隣家の住人に聞かれる。

5.9時45分〜48分 赤木ナオコの携帯電話より自宅に通話。

6.10時50分 コンビニで買い物。

7.11時14分 警備員により赤木ナオコの遺体発見。

8.11時20分 冬月より自宅へ一報が入る。

 見れば見るほど頭の痛くなる内容だ。自宅とジオフロントの距離を鑑みれば、犯行は到底不可能に思える。他殺の確信がぐらつき始めていた。横溝ならこれをどう見るだろうか。鮎川の脳裏に様々な憶測が飛び交い、混乱をきたしそうになる。彼はふっとため息をつき、ひとまず考え事をやめ立ち上がった。今日訪問する予定の家はまだ残っている。

 

 ジオフロントの捜査は、捜査員が陣取る部屋で職員が一人ずつ聴取を受ける形式で行われていた。横溝は矢継ぎ早に面接をこなしていた。綾波レイの目撃者は5人見つかった。4人は一言も声を聞いていない。残る一人も聞いたのは『そう』という一声だけだった。横溝の脳裏には綾波レイのイメージが出来上がっていた。寡黙な謎めいた美少女だ。色はあくまで白い、儚げな立ち姿。しかしその目は燃えるように赤い。その子に対する興味はますます大きくなっていた。

 碇ゲンドウと帰りのモノレールで一緒だったという職員もいた。彼の帰宅時刻はほぼ裏付けられた。ナオコの執務室の異変については、一人として覚えのある者はいなかった。あれだけの狼藉が起これば相当な物音がしたはずだが、あいにく誰もそういう音を聞いていなかった。

 ノックの音がする。どうぞの声に応えて入って来たのは、今年入所した新人の伊吹マヤだった。まだ初々しさを漂わせる伊吹は、ぎこちなく横溝の向かい側に座った。

 横溝は柔らかく笑いながら言った。「固くならなくてもいいです。形式的に話を聞くだけですから」

「そうなんですか。私、こんなこと初めてなんで」

「こんなのがしょっちゅうあったら、たまったもんじゃありません」

 軽快に言う横溝の態度に、伊吹の固さがほぐれてきた。「あは。ほんとですね」

「さて。あなたは技術開発部所属ですね。昨日、赤木ナオコさんの様子はどうでした」

 伊吹は遠い目をして答えた。「特に普段と変わらなかったと思います」

「昼過ぎから夜まで何をしていたか、ご存知ないですか」

「いいえ。ちょっと第三研究室で調べものをすると言うのは聞きましたが、中身については何も」

「最後に見たのは何時頃ですか?」

「6時過ぎです。私、仕事が片付いたんで、帰りの挨拶をしに行きました」

「どこへ?」

「執務室です。一応、許可をもらわないといけないんで」

「その時ナオコさんは何をしてました?」

「えっと、何かの書類を熱心に見てましたね」

「帰っていいと言ったわけですね」

「はい。私、同期のみんなと飲み会に行く約束をしてたんで助かりました」

「部屋の様子に変わったところは?」

「別に。いつもと同じでしたけど」

「そうですか。よく分かりました。リツコさんの方はどんな様子でした?」

「ううん。普段通り、て言うか、ちょっと上機嫌だったかな。そうそ、葛城さんと飲みに行くって聞きました」

「それ、あなたにも言ってたんだ」

「ええ、『私、今夜飲み会なんですよ。先輩も付き合いませんか』って言ったら、先約があるって。軽く『あ、彼氏とデートですかあ』って言ったら、そんなんじゃなく葛城さんと飲むって答えました。私、ほっと、いやなんでもないです」

 手を振って俯いた伊吹を怪訝に思いながら、横溝は手帳にさらさらと記録をしていった。

「昨日は、冬月さんを見ましたか?」

「いいえ、殆ど見なかったです。セントラルドグマにいたんじゃないかしら。私、そっちの方は詳しくないんで」

 伊吹の証言には他にこれといったものはなかった。彼女に代わって入室したのは冬月である。温厚で誠実そうな外見の冬月だが、横溝はどこか油断のならない相手という感触を持っていた。

「昨夜のことをもう少し詳しくお聞きしたい。人工進化研究所には、他に3人いましたね。大下さん、小酒井さん、甲賀さんです」

「そうですな」

「お三方には既に話を聞きました」と言って横溝は手帳のあるページを開いて見た。「大下さんは1時10分から5時まで、あなたと一緒に仕事をされたと言っています。小酒井さんも同じです。そこで二人は帰宅。交代したのが甲賀さんだ。昨夜、実際はあなたと甲賀さんだけが残っていた。間違いないですね?」

「そういうことです」

「その甲賀さんの証言です。5時から6時半まで、あなたと共に仕事。それから7時20分まで、夕食のため本部の食堂に上がった。あなたはそこで彼に代わり夕食を取り、7時40分に戻った。それから彼は、しばらくあなたの間近で仕事をしている。そして9時30分、彼はあなたに指示され、別の部屋で作業をすることになりました。それが終わったのが10時15分頃。結構大変だったと言ってましたよ。その間、あなたの姿を見ていないそうです。さて、副所長、この45分間、あなたは何をしてたんですか?」

「別に。通常の作業です。ただし、詳細は申しかねる」

「機密の壁ですか。結構。それを証明できる人物はおりますか?」

 冬月の表情に苦渋の影が差した。「いや、誰もいない」

 横溝は鋭い視線を冬月に送っていた。「そうですか。残念でしたな」

 額に汗を浮かべた冬月は、語気を強めた。「警部さん、碇から聞きましたが、どうも今回の事件を殺人と見ているようですな。私を疑っているんですか?」

「いや、まだそこまでは」と、横溝は冷静に答えた。「冬月さん、昨夜このジオフロントには33人の人間がいました。その全員を調べ上げたわけじゃありませんのでね。まだまだ雲を掴むようなものなんですよ」

「いずれにせよ、マークされているのに違いはないんでしょう」

「特に話を聞きたい相手なことは確かですな」

「私はナオコさんと長い付き合いだからね。しかし動機がないでしょう」

「今のところね」

 冬月は唇を噛んで黙り込み、視線をそらした。その様を横溝はじっと観察している。間を置いて横溝は尋ねた。「ナオコさんに暴力的なところはありませんでしたか」

「少なくとも私は知らない」冬月は毅然として答えを返した。

 綾波レイに関する質問では、昨日の聴取以上の情報は得られなかった。彼はすべて碇が知っているの一点張りで通した。最後に横溝は訊いた。「あなたは非常用通路の鍵を持っていますね?」

「ああ。部長職以上は皆持っている」

 冬月は固い表情を残して部屋から出て行った。横溝は机の上の物を整理し、部屋を出た。夕刻が近づいたので、本日のここでの事情聴取は終了だ。彼は職員にトイレの場所を聞き、折れ曲がった廊下を歩いてトイレに入った。個室の中に閉じこもり、洋式便座に腰を下ろして一息つく。そこで扉の向こうに人の気配がした。二人の男が用を足しに来たのだ。彼らの話し声が聞こえてくる。横溝は耳をそばだてた。

「で、侵入者は分かったのかい」

「まだ。だが、このゲヒルン内部の者だということは確かだ」

 それは、この日横溝が会った甲賀の声に間違いなかった。

「身内の情報を盗もうなんておだやかじゃないな」

「あるいはスパイがいるのかもな。相当腕の立つハッカーだよ。保安部も動いてる」

「おたくの所は機密情報だらけだからな。気をつけてくれよ」

 手を洗った男たちが出て行った。気配を殺していた横溝は、今聞いた話の内容を、早速手帳に書き込んで吟味した。甲賀が別の部屋でしていた仕事とは、コンピューターへの侵入工作を調査することだったのではないか。事件と関係があるのかないのか何とも言えないが、妙に引っかかるものを感じる。赤木ナオコは昨日の午後、コンピュータールームに篭って何をしていたのか。綾波レイとの関連は。

 兎に角手がかりに違いない。長年の経験によって培われた横溝の勘はそう告げていた。

 

 赤木リツコは鮎川に憔悴した顔を見せていた。腫れぼったい眉は美貌を大きく損ねている。鮎川は赤木邸の玄関前で深く頭を下げた。「こんな時に真に申し訳ありません。さぞご迷惑と思いますが、ナオコさんの遺品など、見せていただくわけにいかないでしょうか」

 一瞬眉を顰めたリツコであったが、諦めた顔をして道を開けた。「どうぞ。でもなるべく早めに切り上げていただけますか。私、とても疲れてますので」

「それはもう極力配慮しますんで。お手を煩わせないようにします」

 礼を言いつつ、鮎川は赤木邸に入り込んだ。碇邸に負けない豪勢な造りである。二階の二部屋がナオコの書斎と寝室だと言う。鮎川は即座に階段を上がった。リツコは捜索の間、居間で待機していることになった。

 先に入った部屋は寝室であった。窓から夕日が斜めに射し込んできている。上等なベッドが隅に置かれ、斜めになった枕や、毛布の乱れた様は故人の起きだした時のままのようだ。中央のテーブルには灰皿があり、吸殻が溜まったままになっている。生々しい生活感の溢れる部屋である。しかし、部屋の主はもうこの世の人ではない。

 手がついていないのは好都合であった。鮎川はまずベッド横の書き物机に当たった。引き出しを開け、中身を検める。高級万年筆などの筆記用具や便箋がある。だが、遺書はもちろん、書き残したものさえなかった。

 ごみ箱は調べるまでもなかった。何も入っていなかったのだ。ごみ収集に出してしまったのだろう。

 次に彼は化粧台を調べた。男には判らないクリームの類や、マスカラ、口紅などが山ほどある。彼は一度好奇心に駆られて、女房の化粧台を覗いたことがあるが、これほどの数ではなかった。赤木ナオコは、並々ならぬ化粧好きな女性だったようだ。

 それから洋服箪笥に移った。引き出しを引くと、下着が丁寧に並んで置かれている。やはり白が多いが、中には派手な赤い色をしたのや、婀娜っぽい黒もあるので意外に思った。化粧品の多さも考え合わせると、故人はまだまだ枯れる気はなかったらしい。重なったセーター類は、丁寧に持ち上げて見ては元に戻した。

 クローゼットにはやはり値の張りそうな洋服が下がっている。上着は全部のポケットを探った。くしゃくしゃになったメモを見つけたときは胸が高鳴ったが、数ヶ月前の飲み会の予定を記したもので、なんの価値もなかった。床にはバッグがずらりと一列に並べられている。シャネル、エルメス、グッチ、ブラダ、ブルガリ、カルティエ、ブランド物の勢ぞろいだ。ナオコの性格がかなり読めたような気がした。一個一個取り上げて中を調べる。黒いブラダにだけは中身が入っていた。万年筆が一本と、英文の原稿の束だ。鮎川は乏しい英語力でそれを読んでみた。なんとなく判ったのは、学術論文くさいということだけだった。早々に切り上げて入れ直し、バッグを戻した。

 ここまで成果はない。彼は書斎に移るためにドアに向かった。

 

 横溝はジオフロントの一角にある非常用通路の前にいた。EMERGENCYと書かれた重そうな金属製のドアが、鈍い光を反射している。説明しているのは遺体の第一発見者である西村だ。

「非常時には責任者の誰かが、ここに鍵を入れます」と言って、鍵穴を指した。「これで警報機が解除されます。そしてここにIDカードを通し」下側にカードリーダーとテンキーがある。「暗証番号を入れてロックを外します。あとは開けるだけです」

「解除した警報を元に戻すには?」

「出口はオートロックでして。鍵が掛かると、警報機が有効になるシステムです」

 一つ頷いた横溝がまた尋ねた。「通路を使った記録は残ってますか?」

 西村は残念そうにかぶりを振った。「あいにくそういう仕様じゃないんです。稀に使うことしか想定してないんで」

 横溝は渋い顔をした。この通路には大きな関心を持っていたからだ。なければ仕方がない。彼は西村に礼を言い、その場を離れようとした。

 その彼の腕を西村が掴んだ。「警部さん、ちょっとお話が」辺りを窺う西村の目が、ただ事でないことを物語っている。横溝は驚きつつ、小さく「いいですよ。どこか静かな場所に行きましょう」と答えた。

 西村の案内で、二人はそこから遠くない会議室に入った。無論誰もいない。二人はそこで膝の接する距離で向かいあった。横溝は意欲旺盛に訊いた。「西村さん、情報があるんですね」

「ええ。実は昨日のことなんです。昨日はてっきり自殺と見てたんで、関係ないと思って言いませんでした。でも今日になって、他殺の疑いがあるというので気になりだしたんです」

「無理もないことです」

「死体を発見する前です。私はさっきいた非常用通路前の廊下を警らしていました。静かなもので、誰とも会いませんでした。すると、女子用ロッカールームの手前で、変わったものを見たんです」

「なんですか?」

「台車に乗った段ボール箱です。かなり大きな」

 横溝の目が丸くなった。興奮を隠さず尋ねた。「どのぐらいのものですか!?」

「ええと、高さは80センチ、長さは90センチぐらいかな。幅は台車とほぼ同じ」

 横溝は頭の中に西村の言う箱を思い描いた。人一人、十分入る大きさではないか。

「あなたはどのぐらい近づきましたか」

「数十センチ前ですね。蓋は粘着テープで塞がれてました」

「なんと書かれてましたか」

「小型冷蔵庫の絵がありました。トウシバ製でした。あとは天地無用とかいろいろ。あいにく型番までは覚えてません」

「そういうことはよくあるんですか。夜、廊下に台車が放置されているという」

「まずなかったですね。変だなぁと思いましたが、多分どこかの部署で買ったのを、明日片付けるつもりで置いてあるんだろうと思い、触りもしませんでした」

「ロッカールームの中は見ましたか?」

「もちろんです。真っ暗で誰もいませんでした」

「時刻をなるべく正確に教えてください」

「10時5分頃。ほぼ合ってるはずです」

「その箱がどうなったか知っていますか」

「いいえ。それがね、警部さん」西村は前のめりになり、横溝に言った。「遺体発見の後、同じ廊下を戻りました。その時には台車ごと消えてなくなっていたんですよ!」

 横溝は膝をぽんと叩き、背筋を伸ばした。手掛かりを得た満足感が顔に出ていた。

「ありがとう、西村さん。これで捜査は進展するかも知れません」

 にこにこと笑う西村は何気なく言った。「それで私の話は終わりじゃないんですよ」

「まだあるんですか」期待が高まった横溝は西村に顔を近づけた。

「警部さん、碇所長と赤木博士の関係に興味があるんでしょ」

 すっかり噂になっていると思いながら答えた。「その通りです」

「へへ。実は私、知ってるんですよ。だって見ちゃったんだ」

「何を?」

「碇所長と赤木博士のラブシーン」

 これまた驚きの情報だった。横溝は望外の展開を喜び、ほほうと声を上げた。

「と言っても2年前ですがね」

 横溝の高揚に少し水が差される。しかし、貴重な情報であることには変わりない。

「いやいや、十分参考になります。で、どんな状況だったんですか」

「今回と同じように警ら中でした。私、今はカスパーのある場所に出たんです。ふと下を見ると、びっくりしたなぁ、赤木さんと碇所長が熱い抱擁をなさってた。赤木さんが積極的でしたねえ。左手がなにやら下のほうで動いてましたっけ」

「あなたはずっとそこに?」

「いやまさか」西村は大きく手を振った。「こっちを見られたらどんな目に遭うか分からない。早々に引き返すことにしました。念のため他に人がいないか見回しました」そこで言葉を切り、「娘さんはそのことで何か言ってませんでしたか?」と尋ねた。

「いいえ、リツコさんは何も知らないと」

「そうですか。じゃあ、言ってもいいのかなぁ」

 西村は困ったような顔で、スタンロッドという電撃を発する警棒をひねり回した。横溝は強く迫った。「西村さん。ここまできてそれはないでしょう。この際、全部言ってください」

「‥‥仕方ないか。言いましょう。上の中央指令室ね、あそこに人がいたんですよ。頭が見えただけですが。しかしね、それが金髪だったんですから!赤木リツコさんです」

 横溝はまたも予想外の話を聞いて、声を失い、手帳に記録する手も止まった。まじまじと西村を見つめながら訊いた。「髪だけで赤木リツコさんだと断言できるんですね?」

「ええ、実はね、その直前に彼女と会ってるんですよ。彼女、道に迷ってた。発令所を見に行くつもりでね。そこで方向を教えてやった。所長とお母さんがいることも教えてやりました。だからあの時、あそこにいたのはリツコさんに間違いないです」

 

 鮎川は赤木ナオコの書斎検分をほぼ終えていた。特にこれといったものは見つかっていない。銃の所持許可証があったが、どうということのないものだ。他殺はおろか自殺に結びつくものもない。そろそろ切り上げて帰ろうかと思ったところへ携帯電話が鳴った。

「はい、鮎川。警部、ご苦労さまです。構いませんよ。‥‥‥‥」

 

 リツコはソファに座り、ぼんやりと膝に乗せた猫の喉を撫でてやっていた。白黒ぶちのその猫は、主人の憂愁も知らぬげに、目を細めて喉を鳴らしている。すっかり夜になったというのに、室内はフロアスタンドの灯りが一つ点いているだけで薄暗い。そんな中でリツコはひたすら物思いに耽っている。

 階段を下りてくる足音が聞こえてきた。刑事の捜索はようやく終わったのだろう。リツコは猫を床に置いて立ち上がり、天井の灯りを点けた。

 鮎川がドアを開けて入って来た。「どうも長いことお邪魔しまして」

「お疲れ様です。何か手がかりは見つかりましたか」

「残念ながら、これといったものは」

「そうですか。今日はこれでお帰りですか?」

「いえ、お話ししたいことがあります。なに、お時間はとらせません」

 リツコは口を一文字に結んで数瞬間を空けた。

「分かりました。少しお待ちになって」と言って、机の上にある皿や湯飲みを片付け、キッチンに運んだ。「葛城ミサトが来て、慰めていってくれたんです。お座りくださいな。コーヒーはいかが?」

「結構。すぐ終わりますので」

 二人は応接セットで、机を間に挟み向かい合った。

「それでお話とはなんですか」

「お母様と碇ゲンドウ氏のことです。あなたは我々に嘘を言いましたね」

「どういうことでしょう」と応じるリツコの声には警戒感があった。

「あなたは2年前、お母様と碇氏が抱き合う姿を目撃しましたね」

 リツコの視線が宙を彷徨った。鮎川は表情の変化を一瞬も見逃すまいと、鋭い視線を送り続ける。リツコは上目遣いに鮎川を見た。

「見た者がいるというんですか」

「そうです。信頼のおける目撃情報です。どうでしょう。この辺で真実を言ってくれませんか」

 リツコは長くため息をつき、手を両膝に置いた。「仕方ないですね。すいませんでした。つまらない嘘を申し上げて」

 頭を下げるリツコに、鮎川は頷き、柔らかく言った。「いや、これから協力してくれればいいんです。どうして正直に言わなかったんですか」

「事情聴取の前に所長と会ったんです。そこで、頼みこまれました。自分と母の関係については黙っていてくれと」

「所長もあなたが知っていることを知っていた?」

「そうです。母は気づいてなかったでしょうが。あの時からしばらく経って、二人きりの時に所長と話したことがあるんです。母をどうするつもりなのかと。あの人、最初はとぼけていましたが直に認めて、『どうするかはまだ分からない。とりあえず様子を見ていてほしい』と答えました」

「なるほど。しかしなぜ、そんな圧力をかけたんでしょうか」

「煩わしいのが嫌いなんです。『あれは自殺で間違いない。なのに痛くもない腹をさぐられるのは迷惑だ。だから、私とお母さんの関係は黙っていてほしい』と。いい年をした母が、職場恋愛に熱を上げていたことなんか、言いたくなかったのも事実ですわ」

「いずれにせよ、いいことじゃありません。まあいいでしょう。2年前から後、二人の様子はどうでしたか?」

「私は母にも所長にも、そのことで話をしませんでした。見守っていただけです。ただ、この半年ぐらいは母の機嫌が悪いことが多かったので、うまくいってないんじゃないかと思っていました」

「そうでしたか。非常に参考になりました」

 鮎川は書き付けた手帳をしまい、礼を言って立ち上がった。後は署に戻り報告をまとめる。リツコは玄関までついてきた。

「それで、母の遺体はいつ渡していただけますの?」

「おそらく明日には」

 革靴を履く鮎川に、リツコは声を潜めて訊いた。「母は殺されたんでしょうか?」

 振り返った鮎川は真剣な面持ちで答えた。「現段階では、なんとも申し上げられません。申し訳ありません」

 

 一日の捜査を終え、箱根警察署に戻った鮎川と横溝は、刑事部屋で互いの収穫を披露しあった。横溝の報告は鮎川を喜ばせたが、鮎川の報告は横溝を困惑させた。

「鉄壁のアリバイか。だが、俺の勘では、奴が犯人だ。何かしらのトリックを使ったに違いない。それを見つけるんだ」

「賛成です。むしろアリバイが完璧すぎて不自然なくらいですよ」

 時刻は既に9時を回っている。両刑事はネクタイを緩め、くだけた格好で話し合いをしていた。

 横溝がナオコのバッグからでてきた手帳を見ながら言った。「これに書かれてたのは、やはり碇邸の鍵のありかだったか。いつでもどうぞって間柄だったわけだ」 

 手帳のあるページに『ゴムの木の下』と、太い文字で書かれていたのである。鮎川が碇邸の玄関前でやった動作は、この意味を確かめるためのものだった。

「これだけでも碇とナオコさんの関係は確実なものでした。西村さんの証言が決定打だった」と鮎川。

「証拠がこれだけ揃えば、奴の嘘を木っ端微塵にできる。認めざるを得なくなるだろう。明日からの尋問が楽しみだ」

「冬月はどうでしょう。彼は知らなかったのかな」

「俺は知っていたんじゃないかと思っている。彼ら三人の結びつきは強いよ。碇ユイも含めた四人と言ってもいい」

「ユイさんも京大時代からの付き合いでしたね。ナオコさん、いつから碇に惚れてたのか。ユイさんが消えた後か、その前からか」

「うん。まだ推測の域を出ないが、今回の事件は四人の人間関係が原因なんじゃないだろうか。そんな気がしてならない」

 鮎川も同じ想いを抱いていた。人類を救うための崇高なプロジェクトの裏側で、どろどろした愛憎劇が繰り広げられていたのではないのか。そして何より不気味なのは、得体の知れない兵器を開発しているゲヒルンという組織そのものであった。

「今のところ、明らかに嘘をついているのは碇です。同時にアリバイが強固なのも彼だ。これをどう解釈すべきでしょうか」

 横溝は難しい顔をしながら言った。「そうだな。この壁は大きい。しかし、まんざら破れないでもなさそうだ。一つ、思いつきを言おうか」

 鮎川は軽い興奮を覚えた。「何ですか、それは」

「非常用通路だ。あれは一見強固に見えて、通過するのは簡単だよ。内応者がいればいいんだ」

「具体的には?」

「前もって打ち合わせておくか、電話でもいい。内部から警報機の解除だけをしてもらう。ドアを開けるがこの時、完全に閉まらないように何かを隙間に挟んでおく。そうやって入り込み、事を成して帰る。最後に挟んでおいた物を取り去り、ドアを閉めるんだ。こうすればその間は警報機を鳴らさず往復できるって訳さ」

「成程ねえ」鮎川は、またしても横溝の優れた発想力に驚かされた。「つまり共犯者がいるということですね」

「そうさ。その線では冬月氏が大いに怪しまれることになるな」

 ふうむと唸り、鮎川は冬月との事情聴取を思い出した。実直そうな、人殺しなどに手を出しそうもない人物だった。しかし共犯となればどうか。

「あり得ますね。重点的に取り調べましょう」

「そうだな。しかしまだ碇を犯人にするのは困難だ。時間の壁が立ちはだかっている。動機がはっきりしていない。綾波レイとの関連も不明だ。分からないことが多すぎるよ。何とかしないとな」

 鮎川も見通しの暗さは分かっていた。碇邸とゲヒルン本部を往復する時間と犯行に必要な時間を足すと、1時間どころではすまないはずだ。しかし碇のアリバイはその隙を見せていないのである。そしてナオコがレイに手を掛けたと仮定して、そのナオコを碇が殺す動機とはなんだろうか。

 横溝は汗ばんだ顔を上げて掛時計を見上げた。もう8時30分だ。いい加減疲労を覚えた彼は、引き上げ時と考えた。

「今日はもう帰ろう。最後に一つ。君、明日は第二に出張してくれないか」

「第二に?」

「市立麦の子学園。そこに行って綾波レイの事を調べてほしい。特に写真がほしいな。ゲヒルンの方は俺が引き受けるから。彼らがあれほど隠したがっている綾波レイとは何者なのか。手がかりがきっとある」

 鮎川は得心のいった顔で頷いた。その少女こそこの事件の鍵を握っているのに違いないのだ。

「了解しました」と力強く言った鮎川は、すっくと立ち上がった。横溝も重い体を持ち上げる。そこへ鮎川が声を掛けた。「どうです。晩飯がてら、軽く一杯」

「いいね」そう言って横溝はにんまりと笑った。

 

 内陸の高所にある第二新東京市は、箱根と比べればずっと涼しかった。鮎川はこの国に四季があった頃のことを思い出した。電車を降りて駅前に出た彼は、タクシーを拾って、運転手に麦の子学園の住所を告げた。タクシーはすみやかに動き出す。10時すぎとあって道は空いていた。運転手は話好きな男である。

「お客さん、箱根?いい所から来ましたね」

「どうして」

「あそこは建設ブームでしょ。首都機能の移転で、来年の今頃は第三新東京市だそうな。さぞ景気がいいんでしょうよ」

「いや、地元にはあまり金は落ちてないみたいだよ」

「ジオフロントって洞窟があるんでしょ。すごいところみたいだ。湖もあるって本当ですか」

「ああ、本当だよ」

「一度見に行ってみたいなあ」

「それは無理だね。ゲヒルンって所が独占使用してる」

 運転手は不愉快そうに顔を歪めた。「あいつらねえ。なんか胡散臭い連中ですよねぇ」

「同感」

 そうこうしているちに目的地に着いた。タクシーを降りた鮎川の前に、保育所風に切り紙で窓を飾った施設がある。正面玄関を開けた途端、奥から子供たちの甲高い声が聞こえてきた。彼は横手にある事務室の小窓を開け、事務員風の女性に来意を告げた。

 四畳半ほどの応接室に通された。床や壁は真新しいものらしく、染み一つない。ソファなどの調度品も新品のようだ。これは通ってきた事務室全体にも言えることだった。違和感が湧き上がってきた。建物そのものの外観はかなり古いものだったからだ。ここだけが妙に新しいのはなぜだろうか。

 そんなことを思っているうちに、園長と名乗る初老の人物がやって来た。丁寧に挨拶をして名刺を交換する。それを見て鮎川はおや、と思った。事前に名鑑で調べておいた名前とは違っていたのだ。ソファに腰を下ろし、森村という園長に尋ねた。「園長さんは最近こちらに?」

「ええ、3ヶ月前です」

「珍しい時期の異動ですね」

「前任の久生さんが体調を崩されましてね」

 その話題は切り上げて早速本題に入った。

「電話で少しお話しましたが、今日伺いましたのは、綾波レイについてです」

「碇さんに引き取られた子ですね。なにかありましたんでしょうか」

「ある人物から暴行を受けた疑いがあるんですが、事情がありまして本人とまだ接触できていないんです」

「暴行とはおだやかじゃありませんね」と言った森村であったが、表情に変化はなかった。

「私たちが調べた限りでは、その子は髪が青く、瞳が赤い、5才ぐらいの少女だそうです。それで間違いありませんか」

「そうです。大人しい子でね。ただし年齢はもっと上のようです。年の割りに背が低いというか」

「三月、南足柄のスラム街で、記憶喪失の状態で保護されたということですが」

「そう聞いてますよ」

「記憶は回復しなかったんですか」

「残念ながら、全く」

 鮎川の目からは、森村は少しも残念そうに見えなかった。

「写真などお借りすることはできませんか」

 森村は首を横に振った。「それができないんです」

「できない!?」意外な言葉だった。鮎川には理解できない反応だ。「どういうことですか」

「困ったことにねえ」森村は本当に困った顔を見せた。「無くなったんですよ。刑事さん、この部屋、随分新しいとは思いませんか?」

 それはここに来たときから感じていたことだった。「確かにそう思います」

「ぼや騒ぎがあったんですよ。煙草の不始末が原因らしいのですが。施設の半分が燃えました。子供たちも大騒ぎです。大変な思いをしました。で、その時にパソコンや資料は全て燃えてしまったんです。きれいさっぱり」

 鮎川は絶句してしまった。なんたる運の悪さ。しばし考え、ようやく訊いた。「それはいつのことですか」

「9月10日です。市には臨時に予算を組んでもらい、早々に復旧できたのは幸いでした」

「当然名簿があったんですよね。観察記録や内申書もだ。それらがみんな?」

「はい。一つ残らず」

 残らずに力を込めて言う森村に違和感を抱いた。どこか出来過ぎの感がある。事が碇の側に都合よく進みすぎてはいないだろうか。そう考えると、この森村が不気味に思えてきた。

「ですから申し訳ないが、私たちはあなたに協力できそうもないんです」

 鮎川は食い下がった。「それにしても何かあるでしょう。今あるものでいいから見せてください」

「いいですよ。量は少ないですが」

 応接室を出た森村は1分もしない内に戻ってきた。「これだけです」森村が差し出したのは、黒皮の表紙がついた日誌とファイルが一つだけである。鮎川はまず日誌を広げた。日付は9月11日からだ。最初のページは名簿で、綾波レイの名は確かに載っている。日誌には子供らが熱を出しただの、喧嘩をしただのといった細かい動向が記されているが、レイの名は一つも出てこない。それほど平凡な子供だったということなのか。

 ファイルにはマジックで綾波レイ扶養関係と書かれていて、開けてみると、碇ゲンドウの署名捺印のある扶養申込書と誓約書、そして市が申請人となって作った戸籍の謄本だけがあった。生年月日は意外にも2001年3月30日となっている。今年9才ということだ。証言ではもっと幼く見られていたのだが、発育が悪かったのだろうか。詳細に読むと、生年は推定で、誕生日は保護された日にしてある。何を手がかりに生年を割り出したのかまでは記載されていない。本籍地はこの施設の所在地であり、父母の欄が空白になっているのが哀れみを誘う。鮎川は日誌は役に立たないと見て、ファイルのコピーだけを貰うことにした。

 森村自らコピーを取りに行き、残った鮎川は先程見た戸籍謄本のことを考えてみた。市の戸籍課が編製したのは10月1日だ。これも火事の後にあった事である。

 数枚のコピーを持って森村が戻って来た。疑念を抱いた鮎川は乾いた喉から声を絞り出した。「ありがとうございました。では、すいませんが、担任の方とお話させていただけませんか」

「構いませんよ。丁度休み時間だ」

 森村はまた席を立ち、部屋を出た。しばらくしてそこへ、地味な色のスーツを着た40台前半と思われる女性が入って来た。細く吊りあがった目の、眼鏡をした謹厳そうな顔立ちだ。途端に鮎川は、こういう女の生徒になりたくないと思った。

「松本と申します。綾波レイのことで聞きたいとか」

「はい。綾波レイはどういう子供だったでしょうか」

 松本は眼鏡を押し上げて答えた。「一口に言って感情を表に出さない子でした。扱いやすかったですよ。無口で。やれと言ったことはやり、やるなと言ったことは絶対にしませんでした」

「いじめられたりはしませんでしたか」

「私の知る限りではなかったですね。あったとしても言ったかどうか。ただ気持ち悪いとは言われてましたよ。はっきり言って、敬遠されてましたね。いつも一人でした」

 松本の言い分は鮎川が想像していた通りだった。特殊な色の髪や目をした子が、子供社会の中で受ける仕打ちは厳しい。間もなく休み時間終了の鐘が聞こえてきた。松本は鮎川を残し、そそくさと立ち去った。一刻も早く切り上げてしまいたいという態度だった。入れ替わりに森村が来た。

「どうですか。有益な話は聞けましたか」

「いえ、何も」と鮎川は答えた。彼女の話は大雑把で、どこか紋切り型の匂いがした。事前に情報があれば簡単に作れそうな話だけだ。彼は諦めて腰を上げた。ここにそう時間を割くことはできない。そこでふと思いついた彼は森村に訊いた。「松本先生はいつからここに?」

「9月初めでした」

「じゃあ、火事の少し前ですね」

「そうなりますね」

 彼の勘は的中していた。どうということもない風を装い、さりげなく別れの挨拶をした。事務室を出るとすぐそばが玄関だ。森村が見送りのためについて来た。そこへ左手の廊下から、半ズボンを履いた10才ぐらいの男の子が歩いてきた。教室に向かうところらしい。

「君!」と叫んで鮎川は男の子に駆け寄った。森村は呆気に取られている。鮎川は驚く男の子の肩を掴み、早口で訊いた。「僕は警察の者だ。綾波レイという女の子を知ってるかい?」

 男の子は一瞬戸惑い、さらに表情を変えた。顔から血の気が失せたのだ。この子は明らかに恐怖を感じている。ごくりと唾を呑み込み、鮎川から視線を逸らしながら、ゆっくりと首を縦に振った。

「困りますな、刑事さん!」森村が鮎川のすぐ後ろに立っていた。額には大粒の汗が浮かんでいる。「授業を妨害しないでください!」

 鮎川は振り返り、何度も頭を下げて謝った。森村はくどくどと文句を言い続ける。靴を履きながら鮎川は、腹の中で舌を出していた。

 

 一方、こちらは横溝。ばかげた広さを持つ所長室で、彼は碇と対面していた。椅子も与えられず、立ち通しで話をさせられている。着席した碇は両手を口の前で組み、鋭い視線を横溝に送っている。

 横溝は回りを見ながら、まずは皮肉を飛ばした。「いやはや、この広さは尋常じゃありませんな。テニスでもやるんですか」

「予算が余りましたのでね。特に意味はありません。ところで今日はどんな用件で?」

「あなたと赤木ナオコさんの関係についてです。ねえ碇さん、あんまり警察に嘘をつくもんじゃありませんよ」

「私が嘘を言った?」

「ええ。碇さん、あなたナオコさんとは深い付き合いだったでしょう。証拠は挙がってるんですよ。この辺で認めちゃどうですか」

「どんな証拠か、参考までにお聞きしたいですな」

「見た人がいるんですよ。どこで誰が、とは差し支えがあるんで言えませんがね。それだけじゃない。ナオコさん、携帯電話の最初にあなたの番号を登録してたんです。ゲヒルンや娘さんを差し置いてだ。さらに鍵です。あの人の手帳に、あなたの家の合鍵がある位置がばっちり書いてあったんです。失礼ながら、昨日うちのもんが、その通りの場所に鍵があるのを確認しました。ゴムの木の下に」

 熱弁を振るった横溝に対し、碇は腕を下ろして不敵な冷笑をして見せた。 

「そうですか。わずかな日数でよく突き止めましたね。脱帽ですな」

 横溝は腹を机に押し付け、碇に迫った。「真実を話していただけますな」

「確かに私と赤木ナオコさんは男女の関係にありました。だがもう過去のことです」

「別れたと言うんですか」

「正式な別れ話をしたわけではないです。半年前ごろから、私の方が彼女を避けるようにしてました。自然に解消するのを期待してたんですが、彼女は不満のようでしたな。私の熱はとっくに冷めたというのに」

「我々に黙っていたわけは?」

「前にあった事件の時、マスコミに散々書き立てられましたからね。面倒なんですよ、警部さん」

 横溝は机をどん、と叩いた。「これは人の死に関わることだ。あんたに誠意はないのか!」

「そう興奮しないで、警部さん」碇はあくまで冷ややかな口調で言った。「自殺以外に考えられないでしょう。私に捨てられたことに絶望して高い場所から飛び降りた。それが一番自然だ」

「綾波レイに暴行してですか。その子のことをどう説明します?」

「はは。レイは暴行されてなどいません」

「ナオコさんの爪には皮膚と指紋が残っていた。手の甲には傷があった。これをどう解釈すれば?」

「それはあなたがたの仕事でしょう。警部さん、いくら私をつついても無駄です。何も出て来はしませんよ」

「それはどうかな。信用させたければ私の前にレイを連れて来てください。拒むならこちらにも考えがある」

「ほう。どんな考えですか?」

「人権擁護委員会に訴えます。綾波レイという女の子が虐待を受けていると。正当な理由もなく、暴行された疑いのある少女を隠し続けているとね。児童保護令状を取るんですよ。碇さん、こいつはあの条約に拘束されませんぞ。刑事手続きではないからだ」

 汗っかきの横溝は、額に汗を滲ませ碇に詰め寄った。碇はまた口の前で手を組み、顔を半分隠した。その目はじっと横溝を睨んでいた。

「法の抜け穴を突いてくるとは。あなた、さすがだ。しかし、それをなさるなら早くした方がいい。現在政府と国連はレイキャビクで各国と交渉中でね」

「なんのことだ?」

「近い内に新しい条約が結ばれる。ゲヒルンの発展的解消、特務機関ネルフの誕生です」

「ネルフだと?」

「ええ。そうなればネルフは超法規的組織となります。いかなる国家機関も我々に干渉できなくなる。警察だろうと、人権擁護委員だろうと、我々の許可がなければ一歩も敷地に入り込めなくなる」

 横溝は丸い目で碇を睨むだけで、言葉を継げなくなった。組んだ手の下で、碇は笑っているに違いない。数瞬間を置いて、ようやく横溝は言葉を搾り出した。「アドバイスをどうも。ではこちらも早急に手続きを進めましょう」

「いや、多分そうするまでもない」碇の言葉は意外だった。横溝は耳をそばだてた。「レイの具合はかなり良くなっています。おそらく三日以内には面会がかなうでしょう」

 話は横溝の予想しなかった方向に進んだ。半信半疑で碇に言った。「それならそうしてもらいましょう。決まり次第連絡をください」

「速やかに警部へお知らせしますよ」

 碇は眼鏡を押し上げ、人を小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。横溝はすぐにこの場を去りたくなり、では、とだけ言って大股で出口に向かって歩いた。

 

 箱根警察署に戻った鮎川は、刑事部屋で電話をしていた。横溝らゲヒルン捜査のメンバーはまだ戻っていないので、ここにいるのは彼一人だ。

「ご協力ありがとうございます。ではお待ちしてます」受話器を置いた彼は、電話機を睨みながら返信を待った。

 彼が最前話していたのは、第二新東京市の、ある養護学校事務員である。目的は前麦の子学園の園長・久生氏と話すことだった。何本も電話を掛けて久生氏の現在の職場を調べ、そこへ電話をしたのだった。間もなく折り返しの電話が来ることになっている。

 電話機が鳴り、彼は受話器をひっ掴んだ。交換が久生氏からの着信を告げた。

 年配の男の声が聞こえた。『もしもし、久生ですが』

「お電話おそれ入ります。捜査課の鮎川と申します」

『どんなご用件でしょうか』

「先生が以前いらした麦の子学園の児童で綾波レイという子がおりましたが、その子のことでお聞きしたいことがあります」

『綾波レイ?はて‥‥、覚えてませんなあ』

 鮎川の中で花火が上がった。

「そうですか。よく思い出してください。髪が青く、目が赤い女の子です」

『いや、そんな子はいませんでした』

 勢い込んで念を押した。「間違いないですか?」

『いくら年を取っても、それだけ特徴があれば覚えてますよ。しかし、なぜ私に訊くんですか?向こうに直接問い合わせればいいでしょう』

 鮎川は用意しておいた嘘を述べた。「いや、なぜか電話が繋がらないんです。原因はよく分からないんですが」

『セカンドインパクト以来、インフラはがたがたですからねぇ』

 丁重に礼を言って、鮎川は電話を切った。騙された怒りと、気味の悪さが同時に湧き上がってきた。ただの子供に過ぎない綾波レイの、身元を作り上げようとする勢力がある。何のために?二人も息のかかった人間を送り込み、あまつさえぼや騒ぎまで惹き起こして証拠を消しにかかった訳は?そんな手間のいる工作が可能な組織とはなんだろうか。市の中枢にメンバーがいなければ不可能だ。彼らはどこまで行政組織の中に根を張っているのか。

 ゼーレの名が思い浮かんでくる。一説には数兆ドルの資産を保有しているという秘密結社だ。仮に彼らだとして、幼い一人の女の子の来歴を偽装することにどんな意味がある?考えれば考えるほど背筋が寒くなってくる。自分たちは虎の尾を踏みかけているのではないかと思えてきた。

 鮎川は難しい顔のまま席を立って喫煙室に入り、マイルドセブンに火を点けた。紫煙が空気清浄機に吸い込まれていく。その様を見るとはなしに見ながら、綾波レイというまだ見ぬ少女のことを考えた。生まれも育ちも、生きているのかもはっきりしない少女。多くの大人たちが彼女を操ろうとしている。

 許せない、と鮎川は思った。一人の人間を好き勝手にしようとする者たちに鉄槌を加えてやりたい。たとえ相手が謎の巨大組織であろうともだ。煙草を消し、仕事部屋に戻ろうとする。この時、鮎川は綾波レイの味方になった。まずは調査を続行することだ。

 

 夜の7時になり、横溝が戻って来た。疲れを滲ませた横溝は、暗い顔で迎えた鮎川を不審に思った。

「どうした。随分しけた顔してるじゃないか」

「警部、僕らはえらいヤマを掴んだのかもしれません」

「おい、脅かす気かい」

「そちらは成果がありましたか?」

「今日は進展なしだ。ただ監視カメラのDVDはもらえた。後で見よう。先に君が拾ったネタを聞こう」

 鮎川は資料を取り、横溝の向かいに座り込み、話を始めた。最初は麦の子学園で得た情報を、次にそれを覆す久生氏の爆弾証言を聞かせた。横溝は目まぐるしく表情を変え、鮎川の報告を聞いた。そうするうちに彼も鮎川の怒りを共有していった。横溝にも鮎川に匹敵する正義感があった。

「とんでもない奴らだ。人をなんだと思ってるんだろう。こうなったら徹底的に調べてやろうじゃないか」

 横溝の同調が鮎川には頼もしかった。千人力を得た思いだ。先行きに希望が見えてきた。

「それにしても奇妙だ。動機がさっぱり分からない。あと、この戸籍謄本だが、どうも本物に見える。これをでっちあげるのは容易じゃないぞ」

「そこなんです」鮎川はウーロン茶で喉を潤し、報告を続けた。「次に僕は南足柄警察署の住民課に問いあわせました。3月30日に記憶喪失の少女を保護したかどうか。答えはそんな事実は一切なし。これで碇の説明は崩れた」

「やはりな。しかし碇の説明は伝聞だ。奴を追い詰める材料にはならないぞ」

「確かに。それから家庭裁判所の審判です。ここを見てください」鮎川は戸籍謄本の最初の部分を示した。『弐千拾年八月拾壱日南足柄家庭裁判所審判により弐千拾年拾月壱日職権編製』とある。「南足柄家庭裁判所。これが問題だ」

 横溝は目を瞠り、胴間声を張り上げた。「なくなった家裁じゃないか!」

 南足柄家庭裁判所は8月28日、近くのダム決壊に伴う大土石流により消滅した。

 セカンドインパクト時の大地震によって多数のひび割れができていたところへ集中豪雨が襲い、頑丈なはずだったダムはあっけなく崩れた。数万トンに上る土砂と水が下流地域に殺到した。死傷者1218人を数える大災害である。悪夢のような奔流に巻き込まれた建物の中に家庭裁判所もあった。建物の主な部分は実に500メートルも流されたのだ。もちろん内部にあった貴重な記録は、殆どが散逸してしまったのである。

 唖然としている横溝に、鮎川は一枚の用紙を示した。「見てください。市役所に頼み込んで送ってもらった、審判書のファックスです」

 横溝は難しい顔でファックスに目を通した。中身は簡潔なもので、『下記の者、特段の事情あり、戸籍法第45条により戸籍を編製するものとす』という文言の下に綾波レイの本籍、氏名があり、日付、番号、裁判官と書記官の名前、印鑑などがある。

「その裁判官と書記官は鉄砲水の犠牲者です。ということは警部、この審判書が本物かどうか確かめようがないんですよ。印鑑の偽造なんかはその道のプロなら簡単にできます」無言のまま考え込む横溝に、鮎川は自分なりの推論を述べた。「審判が出てから1ヶ月以上間があるのも不自然ですよ。何をのんびりしてたんだか。しかも間にあの水害が挟まっている。警部、意図的なものを感じませんか?結局、綾波レイの確かな記録は9月11日以後からしかない。写真にいたっては皆無です」

「とうことはつまり?」と横溝はあらたまって訊いた。

「綾波レイは今年の9月頃、忽然とこの世に現れた」

 横溝は重々しく頷いた。鮎川はさらに推理を推し進めた。「綾波レイという女の子を知る人物は、今のところ碇ゲンドウを除いて三人。森村氏、松本氏に学園の男の子だ。全員学園に関わる人間で、うち二人は8月以降に突然登場している。男の子は彼らの支配下にあると思われる。彼らと背後にある組織は、理由は分からないが綾波レイという存在を作り上げたんだ。警部、僕らが今血眼になって面会しようとしている少女は、実のところ、全く別の名を持つ人間なんです」

「うん、面白い」横溝は戸籍謄本に視線を落としながら言った。「しかし動機はなんだ?倒壊した家裁に目を付け、養護施設に人を送り込み、書類を偽造して戸籍を作ったあげくぼやを起こし、証拠を隠滅する。こんな気の遠くなるような手間を掛けて何がしたい?」

 鮎川はかぶりを振り、ため息まじりに言った。「それがいくら考えても解りません」

「俺もね。ただ、そのレイとの面会は直に叶うかも知れん」

 意外な横溝の言葉に鮎川はびくりと反応する。「碇がそう言ったんですか!?」

 横溝は午後の碇の話をかいつまんで話した。鮎川は急展開の予感がして、また深く考え込まざるを得なかった。ネルフへの改組も捜査に影響を及ぼしそうな気がする。そんな鮎川に横溝は声を張って言った。「ま、そう悩むなって。なるようになるさ。それよりもうこんな時間だ」時刻は既に8時を回っていた。「画像の鑑賞は明日にしようや。朝からここに篭って、じっくりDVDを見ようじゃないか。俺はこいつにちょっと期待をしてるんだ」と言いながら、虹色の光を反射するディスクをもてあそんだ。

 

 鮎川が公宅である我が家に帰りついたのは9時過ぎであった。同い年の細君は、このぐらいの帰宅はいつものこととて、淡々と夫を迎え、夕食の準備をした。背広から私服に着替えた鮎川は、食卓の椅子に重い体を預けた。手料理が食卓に並べられていくのをぼんやりと見る。その時居間のテレビはニュースを流していて、アナウンサーがこう告げた。『外務省の発表によりますと、調査研究機関ゲヒルンは近く特務機関ネルフへ改組することになりました。これは現在レイキャビクで行われている、各国首脳と国連の交渉が大筋で合意に達したことによるもので、一両日中にも笠井首相が条約に署名する見込みとなりました』

 碇の話は真実だったのだ。彼は眉を顰めながら焼き魚に箸を付けた。まさか来週から変わるということはないだろうから、すぐに影響はないが、早く片付けるに越したことはない。考え事のために箸の動きは鈍い。そこへ後ろから声が掛かった。

「お帰り、お父さん」

 5才になる一人娘が、円らな瞳を彼に向けて立っていた。もうパジャマに着替えている。歯磨きをして寝るところなのだ。

「ただいま」

「今日も遅いね」

「ごめんな。仕事が忙しくて。悪い人がたくさんいるもんだから」

「日曜日はひま?」

「ああ、たぶんな」

「今度こそ遊園地に連れてって」

「分かった。まあ、お天気次第だけど」

 わあい、と歓声を上げた娘はポニーテールをなびかせて洗面所に駆け込んだ。鮎川はその後ろ姿を目を細めて眺め、ふと思った。話に聞く綾波レイはこの子ぐらいの大きさなのだろうか。それにしても平凡だがそれなりの幸福を満喫するわが子と、おそらく悲惨な経験をし、これからも苦労の多い人生を歩むだろう綾波レイにされてしまった少女との落差はどうだ。

 鮎川は気分が憂鬱になってきたので、物思いをやめた。きちんとした家庭を持つ幸せを噛みしめるように食事を味わう。「ん、うまい!」と細君に向かって肉じゃがの味付けを褒めた。

 

 翌朝、鮎川と横溝は刑事部屋の装置で早速DVDを再生した。席を並べてテレビに見入っている。画面上は四方向からの映像が、分割されて同時に映し出されている。冒頭は当然のように無人のプラットフォームで、軌道車があるだけの静止画だ。鮎川はリモコンを使って早送りにした。最初に現れた人物は警備員で、発着場をぐるっと一周し、すぐにいなくなる。その後しばらく無人が続き、画面右上隅の時刻表示が7時50分になったところで、数人の男女がぞろぞろと入り込んできたので通常モードに戻した。二人の刑事は目を皿のようにして画面を見つめる。

「来た!」

 突然鮎川が叫んで画面を静止させた。左下側に二人の女の背中が映っている。別角度の映像には手前に近づく二人の全身像があった。髪の色から赤木親子だということはすぐ判る。鮎川はリモコンを操ってその映像を選び、画面一杯に表示した上で再生した。

 ナオコが着るタートルネックのセーターやスカートは現場で見た通りのものだ。黒いバッグを一つ手にぶら下げただけの軽装のナオコの横に、鮎川らに見覚えのある、赤いネッカチーフが映える青色のスーツを着たリツコがいて何かを話しかけ、ナオコは笑顔でそれに答えている。二人は階段を下りて、まずナオコが赤く塗られた軌道車に乗り込み、リツコが後に続いた。ナオコにその夜の惨劇を窺わせる様子は何一つない。

 その後も乗車する人の列は絶えず、ほぼ満員になったところで軌道車が動き出した。プラットフォームが空になり、また早送りにした。そこへ眼鏡を掛け、後頭部を刈り上げた若者が駆け込んで来た。トンネルの奥を見ながら呆然として突っ立っている。どうやら遅刻してしまったらしい。横溝はその青年の名が日向だということを思い出した。簡単だが話を聞いていたのだ。彼がうろうろするだけの映像が数分続いた後、数人の男たちが来た。ここで鮎川は通常再生にする。日向は中の一人に深くおじぎをした。相手は碇ゲンドウであった。

「やっと主役のおでましだ」横溝がぼそっと呟いた。

 碇は若者にちらりと目をやっただけで、横にいる長身の男と話を始める。冬月であった。ダークスーツの男が三人、二人の回りに散らばる。鮎川は身のこなしから、ボディガードに違いないと思った。他にも軌道車を待つ者が入り込んで来たが、前回ほどではない。鮎川と横溝はずっと画面の中にある人物を探していた。軌道車が来た。プラットフォームの職員たちは、三々五々車体の中に吸い込まれていく。そして軌道車はドアを閉じて、ゆっくりとレールの上をすべり出した。

 画面に動くものがなくなったところで横溝が言った。「また奴さんの嘘がばれたな」

 鮎川は画面を見据えながら応じた。「ええ。女の子なんか一人もいなかった」

 それから後しばらくはこれといった場面はなかった。画面上の時間が夜になり、午後7時30分になって、二人の刑事は通常モードの画面を注視した。碇とリツコが同時に軌道車から降り立ったのである。出勤時と変わらぬ服装の二人は、何事か話しながら出口に向かって行く。鮎川は会話の内容が分からないのをもどかしく思った。

「これで二人の帰宅時間は裏付けられたな」と横溝がメモを取りながら言った。鮎川も同意した。

 その後の動きは少ない。1時間後に数人の職員が帰宅しただけだ。さらに時計が進んだ11時32分、また碇とリツコの二人が揃って画面内に入った。プラットフォームを歩むリツコの表情は遠目に見ても固く、動揺の激しさを表している。傍から碇が一言二言声を掛けている。その碇も深刻な顔だ。わずかの間に二人は車内に入り、それきり見えなくなった。他に乗り込んだのは一人だけで、軌道車は地下へ下っていく。

「もう止めよう」

 横溝が長時間見続けて疲れた目をこすりながら鮎川に言った。鮎川は早速機械を停止した。

 もう時刻は正午に近い。立ち上がった横溝は、窓から射す日の光を浴びながらまとめをした。「最大の収穫は、あの日綾波レイを連れて来たとする碇の主張を崩せたことだ。一人として入り込んだ幼児はいなかった。下手な嘘をついたものだな。しかしレイはいつからあそこにいるんだろうな」

「そこが問題ですね。追求しなくては。場合によっては重大な人権無視ですよ。戸籍によれば9才になる子供を就学させていなかったことになる」

「そういうことだ。俺たちがその子に救済の手を差し伸べなきゃならないかもな。鮎川君、午後は一緒にゲヒルンに行こう。二人してあの男をとっちめてやるんだ」

「行きましょう」鮎川は意欲を漲らせて立ち上がった。「奴を震えあがらせてやりましょうよ。散々嘘を言いやがって。警察を舐めるとどうなるか、思い知らせてやるんだ」

 

 午後2時、横溝と鮎川は広大な所長室で碇と対峙した。まず鮎川が綾波レイを引き取った前後の事情について質問攻めにした。しかし碇の回答は知らぬ存ぜぬ記憶にないの一点張りで、有益な証言は得られなかった。

 憤る鮎川に代わって横溝が尋問の口火を切った。「碇所長、あなた我々に嘘を言いましたね」

 碇は例の口の前で手を組むポーズで応じた。「嘘とは?」

「あなたは21日、8時40分に綾波レイをここへ連れて来たといいました。訂正するつもりはありませんか」

「そのことですか」碇はさして動揺した風も見せず、体を起こしさらりと言った。「申し訳ありませんでしたな。うっかり間違った説明をしてしまいました。レイを連れて来たのは20日の朝のことです」

「なにぃ」鮎川が額に青筋を立てて一歩近づいた。横溝は咄嗟に腕を伸ばし、鮎川を抑えて言った。「あっさり変更ですか。そんなのが通用すると思いますか」

「あの時は気が動転していましてね。日付を間違えてしまいました。正しくは事件の一日前です」

「碇さん、大概にしてもらえませんか。あの時、あんたははっきり8時40分、出勤と同時に連れて来たと回答しているんだ」横溝の言葉にも怒りが篭っていた。

 碇は大胆にも薄笑いを浮かべた。「警部さん、実はあの時、曜日の感覚が狂っていたんです。あなたはレイの『昨日から今日までの行動』とおっしゃった。あの時、21日が今日で20日が昨日だと錯覚したんです。12時を回っていた自覚がなかったんですな」

 とうとう横溝は机を拳で叩いて叫んだ。「そんな言い訳が通じるもんか!なら、あの時の答えは違っていたはずだ。20日の行動から喋ってなきゃおかしいじゃないか!」

「あの時は疲れていましてね。つい省略してしまったんですよ。関係ないと思って」

「あんたは実に不誠実な人間だな」横溝は抑えた口調で言った。が、碇に注がれる視線は憤りで煮えたぎっていた。

「どういう意味でしょうか」碇の両手がまた顔の前で組み合わされた。

「あんたは我々が監視カメラを確認した途端、証言を翻した。故人との関係も黙っていた。綾波レイについても理不尽な対応をした。あんたの発言は何一つ信じられない。一体何を隠してるんだ!」

「別に。やましいことは一切していない。真実を言わなかったことは素直に謝りますよ」

「よろしい。では20日、綾波レイは何をしていた」

「8時40分、私と一緒にここに着きました。ただしモノレールは使わなかった。自家用車を使ったんだ」

「なんだって!馬鹿な。自動車道は閉鎖されてるはずだ!」

「例外はあるんですよ、警部さん。その日は大型クレーンが搬入される日でね。一時開けてあったんだ。便乗させてもらったんですよ。その方が快適なのでね。警備に確認してごらんなさい」

「その後は」

「内部を多少見学させました。ところが10時になって私の方に急な用事が入ったので、人工進化研究所においておくことになりました。一日ずっと」

「ここに一泊させたと言うのか」

「そういうことですな」

「馬鹿馬鹿しい」と、黙ってメモを取っていた鮎川が、我慢できずに口を突っ込んだ。「裏づけ捜査をすればすぐにばれますよ。関係者全員から証言を取る。監視カメラの記録も見せてもらう。どこかで綻びが出るはずだ」

「残念ながら自動車道にカメラはない。皆さん、それよりもレイ本人に話を聞いたらどうです?」

 横溝にとっては意外な言葉だった。前日の碇の話に信用を置いていなかった。レイに会えるとしても、体の傷が完全に消える四五日後と考えていたのだ。鮎川も同じ見解だったので、碇の言葉が俄かに信じられなかった。

「それはいつですか?」と横溝が尋ねた。

「明日の午後2時。下の会議室で」

「今からじゃだめですか?」

「警部、レイの熱は下がったばかりです。まだ無理をさせたくありません。ご理解いただきたい」

「まあいいでしょう」横溝は不承不承頷いた。とりあえず最大の懸案が片付く目途が立った。この場でこれ以上追求しても進展は望めないので、鮎川に告げた。「鮎川君、そろそろおいとまするとしようか」

 鮎川は碇を睨みながら少し考え、頷いた。碇は無表情であらぬ方向に視線を向けている。この男の胆力には侮れないものがあると感じた。横溝が腕に触って退出を促したので、彼は思いを残しながらも踵を返した。

 その後、警備員たちに20日の碇の行動について裏を取った。碇の証言は正確だった。彼は確かに20日の朝は自動車道を通って出勤したのだ。ただ、その車に綾波レイが乗車しているのを見た者はいない。車窓に貼られたフィルムが内部を見にくくしていた。冬月や人工進化研究所の所員たちには面会が叶わなかった。重要な実験があるという話だ。ここでも機密のベールが捜査を阻んだ。

 

 翌日午後、横溝と鮎川はまたしてもゲヒルン本部内に立った。二人だけではない。今回は特別に一人の婦人警官を同伴していた。大坪サツキというその警官は、初めて見たジオフロントの奇観に圧倒されていた。

 彼ら一行は最初の日にリツコらを聴取した会議室に通された。2時までには15分近く余裕がある。手持ち無沙汰で待つより他になかった。捜査に関する話はあえてしなかった。部屋に入る前に、横溝が盗聴の可能性を口にしたのである。

 横溝が大坪を相手に当たり障りのない世間話を始めた。彼女は時折横溝のジョークに声を上げて笑った。鮎川も気分を和ませて会話に加わった。

 そうこうしているうちに2時を回った。ところが、待ち構える横溝たちの期待に反し、誰も姿を現さない。こちらは準備万端整えて面会の体勢に入っているのだが、むなしく時が過ぎていく。15分経過したところで、とうとうしびれを切らした鮎川が立ち上がった。

「何してるんだ。呼んできます」

 ドアを開け放った瞬間、鮎川は驚きの声を上げそうになった。碇が目の前に立っていたのだ。

「お待たせして申し訳ない。用事が長引きましてね」

 鮎川は表情を引き締めて言った。「綾波レイはいるんですね」

「連れて来ています」と答えたのは意外にも冬月であった。彼は碇の後ろにいた。鮎川の位置から少女の姿は見えない。

 鮎川は後ずさりして道を開け、席に戻った。隣の横溝と大坪は立ち上がり挨拶をした。

 冬月は大坪を見咎めて言った。「婦人警官が来るとは聞いてなかったが」

「そうですか。碇所長には電話でお知らせしましたが」と横溝。

「冬月、いいんだよ」と碇が冬月を制し、横溝の前に座った。「警部、私たちも同席してよろしいですな」

「それは困る」横溝はきっぱりと言った。「通常、事情聴取は他人を入れません。弁護士でもない限りね。証人に圧力を掛ける惧れがあるからです」

「レイはまだ体調が十分じゃないんだが」

「証人の容態が悪くなったら、すぐ中断して誰かを呼びます。こればかりは譲れない」

「仕方ない」碇はあっさり諦めて背後の冬月に言った。「レイを呼んでください」

 冬月はドアを開けて廊下に向かい声を掛けた。「レイ、ここへ来なさい」

 こつこつと小さな足音が聞こえてくる。警官たちに期待と緊張が走った。待ちに待った邂逅がようやく実現するのだ。

 綾波レイは冬月の前を通り、ひっそりと鮎川らの前に現れた。愛らしい赤いジャンバースカートを着た少女であった。身長は低く、5才ぐらいという証言に合致している。透き通るような蒼い髪と紅い瞳が強烈な印象を放った。3人の警官はしばらく声を忘れて、その謎を秘めた少女に見入った。

「レイ、ここに座りなさい」と碇が言って横の椅子を示した。レイは何も言わずその椅子に座った。「これからあの人たちがお前にいろいろと話を聞く。ちゃんと答えてやりなさい。いいね」

「分かりました」

 ささやくようにレイは答えた。どこか触ると壊れてしまいそうなたたずまいだ。

「私は行かねばならない。一人でしっかり受け答えするんだよ」

 碇はレイの肩に手を置く。レイは一瞬心細そうな視線を碇に向ける。その時、鮎川は碇の意外な一面を見た。碇がレイを見る目には何とも言えない優しさが漂っていたのだ。そして碇らはドアの向こうに消えた。残されたレイはぴんと背筋を伸ばし、三人の大人たちを見据えた。

 大坪がつと立ち上がり、バッグからペットボトル型のジュースを蓋の部分を摘んで出し、レイの前に置いた。「どうぞ。美味しいわよ」レイはそれにちらりと目をやっただけであった。

 鮎川はレイの顔を正面に捉えた瞬間、忽然とある考えがひらめいた。しかしそれはあまりにも大胆で、すぐには確信を持てない仮説であった。

 無言のまま穴の開くほどレイを見つめる鮎川に横溝が促した。「鮎川君」事前の打ち合わせで聴取は主に鮎川が担当することになっていた。いかつい容貌の横溝よりも二枚目の鮎川の方が、子供が話しやすいだろうという思惑があった。鮎川は事前に質問項目を列記しておいた大学ノートを広げ、一つ咳払いをして口火を切った。

「今日は。僕は鮎川っていう警官だ。よろしくね」

「今日は」

 鮎川は懐からボイスレコーダーを取り出し、机に置いた。

「録音させてもらうよ。これは規則なんだ。それと写真も。構わないね」

「どうぞ」

「ちょっと立ってくれる?」とカメラを持った大坪が、机を回り込んでにこやかにレイに言った。レイは言われた通りに気をつけをする。すぐに二度三度とフラッシュが焚かれた。

 撮影が終わり、鮎川の尋問が始まった。「体の調子はどう?」

「別に。なんともないわ」

「君のことでいろいろ話が聞きたいんだ。答えてくれるね?ただし、言いたくないことは無理に言わなくてもいいんだよ」

「答えるわ。命令だから」

 鮎川は命令という言葉に奇異の念を抱いた。9才の子供には似つかわしくない言い回しだ。

「頼んだよ。さて、僕は君のことは沢山調べたんだ。それによると君は今年の3月30日、南足柄のスラム街を彷徨っていたところを警察に保護された。間違いないかい?」

「その通りよ」

「それ以前のことは記憶がないとか。そうなのかい?」

「そうなの。何も分からない」

「今もずっとかい?少しは思い出したことはないかい?」

「全然ないの」

「可哀想に。早く戻るといいね。僕は陰ながら祈ってるよ」

 ここまで全くの無表情だったレイに、なぜか戸惑いの表情がかすめた。返事は返らず、鮎川が続けた。

「その、保護された時のお巡りさんの名前は覚えてる?」

「知らな‥‥忘れた」

「どんな状況だったの?」

「真夜中、通りを一人で歩いてたの。そこへお巡りさんが来た」

「そして交番へ連れて行かれた」

「そうよ」

「どんな服を着てた?」

「ズボンと花柄のTシャツ」

「何か持ってなかった?」

「鞄を持ってたの。小学校3年生の教科書と筆入れが入ってた」

 綾波レイの生まれた年が2001年になったのは、これが根拠ということなのか。

「名前は書いてなかったのかい?」

 レイはこくりと頷いて答えた。「新品同様だったの。お巡りさんは新学期用じゃないかって言ってた」

「その近くの学校に通ってたのかも知れないね。お父さんやお母さんに会いたくないかい」

「‥‥お父さんやお母さんてどんなものか分からない」

 鮎川をぞくりとさせる言葉だった。横溝と大坪も衝撃を受けてこの陽炎のような少女を見つめた。

 数瞬絶句した鮎川は、ただなぐさめを口にするしかなかった。

「いや、その内にきっと記憶が回復して両親のことを思い出すよ。自分の本当の名前もね」

 この時、レイの口元に微妙な笑みが浮かんだ。鮎川はレイが心を開きかけたものと受け取った。が、実際はそうではなかった。

「えーと、それから君は第二新東京市に移り、麦の子学園に収容された。あそこの暮らしはどうだった?」

「‥‥どんなことを言えばいいの?」

「そう、楽しかったとか、辛かったとか」

「楽しかったわ」

「友達は出来た?」

 レイは口を噤み視線を落とした。重苦しい沈黙が部屋を支配する。数秒経ったところで鮎川は手を挙げた。

「いや、別にいいよ。次にいこう。あ、そうそう。実は僕、麦の子学園に行ってきたんだ。久生先生、君のことを気にかけていたよ」

 紅い瞳が鮎川を捉えた。「間違ってるわ」

「え?」

「久生先生は8月に転勤になった。会ったのなら森村先生のはず」

「あれ?おかしいな」鮎川はノートをめくり、調べるふりをした。「あ、そうか。森村先生だ。訂正してくれてありがとう。先生、君によろしくと言ってたから。次にと。8月ごろ、裁判所に行ったことがあるね」

「うん。松本先生と一緒に」

「どんな話をした?」

「裁判官って人から、今みたいにいろんな事を訊かれた」

「名前は覚えてる?」

「もう忘れたわ」

「そうかい。別にいいんだけどね。じゃ、最近のことを訊くよ。君が碇さんと初めて会ったのはいつ?」

「11月3日」

「碇さんをどう思った?」

「優しそうな人だと思った」

「その日はどのぐらいの時間、会った?」

「30分ぐらいだった」

「ここに来る前に会ったのは、その1回だけかい?」

「そうよ。ねえ、おじさん」

 質問に答えるだけだったレイが、急に呼びかけてきた。

「なんだい」

「どうして赤木博士のことを訊かないの?そっちの方を訊きたいんでしょ。早くしてもらいたいの」

「ああ、そうだね。じゃあそろそろそっちの話を聞こう」鮎川は大学ノートのページを繰る。その間にレイはジュースを取り、蓋を開けた。横溝の視線はその白く細い指先に注がれていた。

「君がここにやって来たのはいつ?」

「20日の朝よ」

「その日は何を?」

「中を見学したわ」

「どの辺りを?」

「人工進化研究所」

「どんなものがあった?」

「内緒よ。秘密だってこと知ってるでしょ」

「そこで付き添ってたのは?」

「戸板さん」

 初めて耳にする名前だ。裏を取る手間がまた一つ増えた。

「夜はどうした?」

「そこに泊まったわ」

「食事はどうやって?」

「お弁当をもらった」

「宿泊できる設備があるんだね?」

「そう。いつも宿直の人がいるから」

 鮎川はノートに目を通し、「そろそろ次の日のことにいこうか」と言った。レイは一見落ち着き払って見える。

「碇さんの証言によると、君は21日の7時頃、一人で行動していたそうだ。何をしていたの?」

 ジュースで喉を潤したレイは、短く答えた。「散歩」

「何時頃から?」

「たぶん6時20分頃から」

「どの辺を歩いたの?」

「発令所の辺りよ」

「中央指令室には行った?」

「行ったわ」

「誰かと会ったね?」

「赤木博士がいたわ」

「博士とどんな話をした?」

「博士、一緒に帰ろうと言った。わたし、自分で帰れるからいいって答えた」

「他には?」

「ないわ。それだけよ。わたし、すぐそこを離れて所長室に向かったから」

「赤木博士の体に触ったかい?」

「知らない。いえ、もう覚えてないわ」

 レイははっきりと答えた。また『知らない』という言葉が出たのが横溝の注意を惹いた。この娘の癖なのだろうか。

「それは大体何時頃だった?」

「7時頃だと思う」

「その頃、君の体調はどうだった?」

「なんだかだるくて頭が痛くなってた」

「赤木博士の様子に変わったところはなかったかい?」

「分からない」

「散歩している間に、誰か他の人に会わなかった?」

「知らない。いいえ、たぶん誰とも会わなかった」

 三度目の『知らない』だ。鮎川も違和感を持った。この不自然な発言はどこから来るのか、疑問の答えは簡単に見つかりそうもない。鮎川はひとまず措いて次の質問に移った。

「碇所長の所に戻ったのは何時頃?」

「7時5分頃。所長、私の具合が悪いのに気づいて、お医者さんを呼んでくれたわ。それからすぐにずっと下の階まで行って、ベッドに寝かされた」

「お医者さんの名は?」

「夏樹先生」

「下の名前は知らない?」

「聞いてないわ」

「それからずっとそこに?」

「そうなの。なかなか熱が引かなくて」

「気の毒に。日の当たらない部屋に5日もい続けたわけか。早く地上に出たかっただろ」

「よく分からない」

 またも奇妙な発言である。よく分からないとはどういう意味なのか。

「分からないって?普通、太陽の光を浴びてる方が気持ちいいだろ?」

 レイの顔は明らかにこわばった。強いストレスが掛かっている。数瞬間を置いてやっと答えた。「そうだわ。早く病室から出たかった」

 鮎川は目の前にいる少女が並みの人間ではないことに確信を持った。この子はおそろしく底の深い秘密を隠し持っている。自分の想像が次第に怖くなってきた。

 一つ咳払いをした鮎川は、真剣な眼差しでレイに言った。「レイちゃん。一人の優秀な科学者が死んだ。もしかしたらとても良くないことをされたのかも知れないんだ。これまでの質問は全部その真相を突き止めるためのものだ。他でもない、赤木博士のためにやってることなんだよ。亡くなった博士が浮かばれるようにね。レイちゃん、だから真剣に答えてほしい。決して君の悪いようにしない。僕らは君の言葉を信じていいのかい?」

「わたし、嘘はついてないもの」

 あくまで冷ややかにレイは答えた。両の瞳に強固な意志が宿っている。梃子でも動じないという風情であった。鮎川はため息をつき、これ以上の追求をやめた。

「大分時間が経ったね。もう少しで終わるよ」鮎川は殊更優しい調子で言った。レイはボトルを取り、ごくごくとジュースを飲み干した。「顎を上げて、首をよく見せてくれないか」

 レイは直ちに天井を向いて、白く細い首筋を披露した。簡単に折れてしまいそうな、雪を思わせる色の細頸。そこには生まれてきたばかりのように一切傷がなかった。

「ありがとう。もういいよ」鮎川の言葉によって、レイは顎を元に戻した。その顔には能面のように表情が現れていなかった。

「僕からの質問はこれで終わるよ。君、碇所長は好きかい?」

「好きだわ」はっきりとレイは答えた。

 ノートの上にペンを横たえた鮎川は、目で横溝に促した。ここまで無言でレイを観察していた横溝は、おもむろに言った。「レイちゃん、誰かに似ていると言われたことはないかい?」

「変なこと聞くのね。ないわ」

「碇所長と、今日の聴取について打ち合わせをしたね」

「したわ」

「何時間ぐらい?」

 レイは一瞬答えかけ、口を噤み、鋭い目で横溝を睨んだ。「せいぜい5分程度よ」

「そうかい。そんなもんだよね。ところで君、第二新東京市にいたんだね。地震の時は怖かっただろ」

「地震?」

「ほら6月の大地震さ。何人も人が死んだ。君んとこもさぞ大揺れだったんだろうね」

「え、ええ。凄い揺れだったわ。とても怖かった」

「可哀想に。碇さんに優しくしてもらうといい。さてと、最後のお願いだ。君の体を見せてほしい」

「体を?」

「そうなんだ。実は君が虐待されてるって言う人がいてね」

「虐待なんかされてない。傷もついてない」

「それを一応確かめたいんだよ」

「構わないわ」

 言うなり、レイは襟元の紐を解き始めた。すぐにも体を見せようという姿勢である。捜査官たちはうろたえた。「ちょっと待って」と鮎川が手を伸ばして制した。レイはきょとんとした顔をする。

「どうしたの。まずいことでも?」

 鮎川はあわて気味に言った。「僕らの前では困るよ」

「どうして?」

「大人の都合ってやつだよ。ここに大坪さんがいる。この人に見せて。僕らはその間、外に出てるから」

 レイは納得のいかぬ顔で頷いた。大坪がにこにこしながら傍に近づく。男たちはばたばたと部屋の外に出た。

 ドアを閉めた鮎川は、廊下に誰もいないのを確かめて横溝に囁いた。「驚いた。僕は未だに信じられない」

 横溝は固い顔で諭した。「ここではやめとけ。壁に耳ありだ。後でゆっくり話そう」

 5分ほど経ってドアが開き、大坪が顔を見せた。黙って首を横に振る。鮎川と横溝は失望を滲ませて頷き、部屋に入った。レイは元通りの姿で立っていた。机の上に空になったジュースのボトルがある。横溝は何気なくその蓋の部分を摘まみ、大坪持参のバッグに入れた。

 鮎川はレイに着席を促し、横溝に質問のないことを確かめて隅にある内線電話を取った。綾波レイに対する聴取は終わった。鮎川は呼び出し音を聞きながら、聴取の礼を言う横溝の前で空ろに視線を落とすレイの横顔を見守った。

 帰り際、印象的な出来事があった。廊下でこちらに向かって来る碇を見つけたレイは、一目散に駆けて行き、碇の腰にしがみついたのである。

 

 帰りのモノレールでは、三人とも殆ど口を開かなかった。駅出口で待ち構えていたパトカーに乗ってからも同様だった。署の刑事部屋に帰り着き、二人だけになった途端、鮎川は堰を切ったように喋りだした。

「なんてこった。僕はどうしても信じられない。でも他に答えはないんだ」

「あらゆる可能性を検討し、一つだけ答えが残ったんなら、どんなに突飛でもそれは真実だ。君の考えを聞こう」

「いや、警部からどうぞ」

「じゃあ、一二の三で同時に言おう」鮎川は頷いた。「一二の三!」

「「綾波レイは碇ユイのクローンだ」」

 二人の声がきれいに重なった。横溝は機嫌よく笑い、鮎川の肩を叩いた。この男も笑うとそれなりの愛嬌を見せる。鮎川もにこにこ顔だった。彼らは小部屋に入り込み、じっくりと話すために席についた。

 横溝の方から言った。「どうしてそう思った?」

「あの顔ですよ。少なくとも碇ユイの血を引いているように見える。しかし碇ユイの子はシンジ君一人。印象として本人の幼年時代というのが一番合っている。そして綾波レイが外部からあそこに入った証拠がないこと。尋問から推し量れるのは、あの子が一度として地上に出たことがないということだ」

「だけど一生懸命生い立ちを語っていたじゃないか」

「碇が必死に考えたストーリーですよ。覚えこむのも大変だったはずだ。それに冬月も一枚噛んでいる」

 横溝は楽しくて仕方がないという風情でいる。「しかしボロが出たな」

 鮎川も快活に言った。「地震の話は傑作でした。ありもしない地震にあって怖かったとはね」

「あれであの子が地上のニュースとは無縁でいたことがはっきりしたな」

 横溝がレイにした地震の話は、彼が即興ででっち上げた作り話だったのだ。

「それにしても」鮎川は一転して真面目な表情になった。「哀れな子だ。いつ生まれたかは分からない。けどかなりの長期間、あそこに幽閉されて生きてきたはずです。まともな生活とは一切無縁で」

「まったくだな」横溝も暗い顔をした。「想像を絶する生き方じゃないか。あいつらは人権てものを無視してるよ。あの色の白さは地下生活の現われだ。しかし胎を貸した母親はどこにいるんだろう」

「それも謎ですね。年齢も不思議だ。なぜ9才にしなければならなかったのか」

「9才ならユイさんが存命中の子でなくちゃならない。ユイさん自らクローンを作り出そうとした?だとしたら相当の変わり者だ」

「ゲヒルンもない頃にそれをやるというのは考えにくいですよ。僕が思うに、碇がユイさん消滅後、恋女房を復活させようとして企んだことじゃないだろうか」

「それなら碇がレイに見せた愛情も説明がつく。なぜ9才なのかは分からないが」

「もっと深い謎があります。レイの体に傷がなかったこと」

 横溝は深くため息をついた。「あれで我々が考えていた事件の構図は崩れ去った。赤木ナオコが綾波レイに傷をつけ、激怒した碇がナオコさんを突き落としたってな」

「いや、マイナスばかりじゃありませんよ。かえって動機が明瞭になってきました。ナオコさんは綾波レイを見て、僕らのように正体を見破った。ユイさんを恋がたきのように見ていたんでしょう。亡霊が現れたようなものだ。そこで何かを起こした。何かの拍子にそれを知った碇は、愛するレイのために復讐を果たした」

「しかし碇にはアリバイがある」

 鮎川は身を乗り出し、弱気の横溝に迫った。「そいつを崩すんです。警部、あの時間帯、彼を直接見たのはコンビニの主人だけだ。きっと何かのトリックを使っている。警部、レイちゃんは碇に好意を持っているようですが、奴のやり方は間違っている。僕らがそれを正してやるんです」

「うん、その通りだ」

 横溝は大きく頷き、今日のまとめに移った。「ジュースのボトルを回収できたのは収穫だった。あれについた指紋と、ナオコさんの爪にあった指紋が一致すれば一歩前進だ。それから爪の間に残った皮膚と髪の毛をDNA鑑定に出そう」

「それが一致すれば、また暴行説が息を吹き返しますね!」

「そうだ。それと俺は京都に出張しようと思う」

「京都へ?またなぜ?」

「碇ユイの実家を訪ねる。そこで髪の毛とか、へその緒とか、ユイさんの細胞が残っていないか調べてくる」

「それもDNA鑑定ですね」

「うん。もしもそのDNAが我々の握る証拠と一致すれば、仮説を証明できる。鮎川君、俺はヒトのクローン造りなんぞ間違っていると思うし、立派な法律もある。碇の不行跡を暴いて、倫理を取り戻してやるんだ」

「そうですよ、警部!正義のために頑張ろうじゃないですか!」

 にっと笑った横溝は、鮎川に右手を差し出した。鮎川は元気良くそれを握った。

 

 次の日は捜査にこれといった進展はなかった。若いキャリア官僚で署長を勤める坂口は、鮎川の報告を半信半疑で聞き取った。見かねた横溝が加わって説得に当たり、ようやく坂口を得心させた。

 28日の日曜日はよく晴れ上がり、鮎川は娘との約束を果たして一家で遊園地に行った。久々の家族サービスで、娘は殊の外喜び、鮎川も満足であった。

 週明けの29日、出張の許可を得た横溝は京都へ旅立った。残された鮎川を始めとする箱根警察署は、捜査員を動員して碇邸付近の聞き込み捜査を強めた。しかし情報の集まり方は芳しくなかった。あせりの色を強める鮎川に衝撃を与えたのは夕刻に流れたニュースであった。

 ゲヒルンは明年1月1日を期して特務機関ネルフに移行するというのである。これで年内が事件解決の期限となった。年が明ければ碇ゲンドウは超法規措置の壁に守られることになる。残された時間はそう多くない。

 翌30日、鮎川は捜査員からちょっとした情報を聞いた。綾波レイが小学校へ通い始めたというのだ。仙石原小学校3年2組の生徒だそうだ。碇と黒服のボディガードに伴われ、黒いリムジンで校門前に乗り付けたらしい。悪ガキ共には十分な示威行動になっただろう。鮎川はあの特異な環境で育ち、特殊な相貌をした少女が子供社会に溶け込んでいけるのか気がかりに思った。

 夜になって横溝から連絡があった。『ユイさんの実家とコンタクトが取れた。凄い資産家だったよ。明日会ってくれることになった』

「そりゃ良かった。うまくいけばいいですね」

『なんとかしてみせる。交渉事には自信があるんだ』

「説明に納得してくれるでしょうか」

『体当たりでいくしかないけど、俺は楽観してるよ。また明日連絡する』

「どこにいるんですか」

『河原町のホテルだ。じゃあな、期待しててくれ』

 横溝の張りのある声を聞いた鮎川は力づけられた感じがした。たとえ赤木ナオコの事件が迷宮入りになったとしても、違法なクローン人間の創出で碇を起訴できる。そんな見通しがでてきた。

 月が替わって12月1日夜、署で疲れた体を鞭打って報告書をまとめる鮎川に電話がきた。待ち望んだ横溝からだった。

「警部、どうでした?成果はありましたか?」

『喜べ鮎川君。へその緒が見つかったよ』

 鮎川の疲れが一気に吹き飛んだ。

「おお、やった!!」

『頑固なばあさんだったけどな、写真が決め手になったよ。アルバムを出してもらって、幼いユイさんの写真と比べてみたら、まさに瓜二つだった。さすがの俺もぞくっとしたね。で、へその緒を渡してくれることになったんだが、これを探し出すのがまた一苦労だった』

「それにしても良かった。いつ帰ってこれます?」

『今夜は同じホテルにもう一泊する。明日一番の新幹線で戻るよ』

「気をつけて帰ってきてください。いや、本当に良かった。やりましたね、警部」

『まだ鑑定が残ってるよ。じゃあな。碇の泣きっ面が夢に出てきそうだ』

 鮎川は満面の笑みを浮かべながら電話を切った。これで鑑定結果さえ出れば碇を逮捕に持ち込めるはずだ。拘置中に赤木博士の事件も取り調べができる。密室で追求すればあの碇も音を上げるかも知れない。前途は明るいと思い、報告書の作成にも勢いがついた。

 

 9時すぎ、鮎川は意気揚々と家に帰った。着くなり、細君の愁い顔が彼の上機嫌に水を差した。

「どうした。うかない顔だな」

「ええ、ちょっと気味の悪いことがあって」

「何があった?」

「2度も無言電話があったの」

 鮎川の顔が即座に引き締まった。「何時と何時?」

「8時すぎと8時半ごろ」

「向こうは何も言わなかったのか」

「なんにも。1分ぐらい呼びかけたんだけど、全然反応がないの」

 鮎川は着替えもせず口を一文字に結んで考えた。我が家と特定して電話をしてきたのか。だとすると非公開の番号を探り出したことになる。職業柄、恨みを持っていそうな者の覚えはある。しかし電話番号を知る能力のある者はいない。考えた末に告げた。「次に電話が来たら俺が出る」

 言った途端、電話機が鳴った。夫婦はどきりとして立ち竦む。細君の顔は恐怖によって歪んだ。鮎川は思い切って受話器を取り、乾いた声で言った。「はい、鮎川ですが」

 応答はない。聞こえてくるのはごくわずかなノイズだけだ。鮎川はもしもし、と大声で呼ぶ。辛抱強く何度も声を掛けたが、未知の相手は死者のように沈黙を守っている。 

「誰だ、てめえ」とうとう鮎川はドスの効いた低音ですごんだ。「俺を誰だと思ってる。おいこら、聞いてんのか!!」

 かちりと音がして通話が切れた。ツーと単調な音だけが鮎川の耳元で鳴っている。

 鮎川は乱暴に受話器を置いた。猛烈に腹が立っていた。平穏な生活に土足で踏み込まれたようなものだ。卑怯千万な犯人をげんこつでぶん殴ってやりたいと思う。後ろでは細君が、そんな鮎川の様をおろおろしながら見守っていた。

 怒声が効いたのか、その日はもう怪電話は来なかった。まずは様子を見て、また来たらその時は逆探知などの手段を取ることにし、細君を落ち着かせた。

 一抹の不安を感じながら遅い夕食に箸を付けた。綾波レイの核心に迫った時に合わせたような無言電話の襲来だ。ゲヒルンと背後にいるゼーレという組織の不気味さは肌で感じている。ならば最も危険な立場にあるのは、決定的な証拠を握ったはずの横溝ではないか。

 遠い京都にいる横溝の身が心配になる。食事もそこそこに、横溝の携帯に電話をしてみた。呼び出し音が鳴り続ける。だが彼は出なかった。鮎川の額からどっと汗が吹き出る。

 いても立ってもいられない気分になった。しかし、実際はどうだろうか。心を落ち着けて考えてみる。横溝は風呂にでも入っているだけかもしれないのだ。明日、元気に姿を見せた横溝にこのことを話したら、豪快に笑い飛ばすのではないか。迷っていても今この場でできることはない、と鮎川は思った。その夜は募る不安に耐え、横溝の安全を祈りながらながらベッドに潜り込んだ。

 翌日、鮎川の不安は現実のものとなる。

 

 朝8時40分、出署した鮎川はすぐさま横溝の携帯に電話を入れた。だが事態は一層悪化する。携帯の電源が切れているのである。最早ただ事とは思えなくなり、宿泊先のホテルを調べ、電話を掛けた。

 フロントの女性が答えた。『横溝様ならまだお出かけになっていません』 

 おかしい。朝一番の新幹線に乗るならば、とっくに出発していなければならない時間だ。不安がいよいよ大きくなる。

「部屋に繋いでみてください」

『少々お待ちください』

 通話が保留中の音楽に切り替わる。鮎川は切迫した状況とは裏腹の、のんびりした旋律を長々と聞いた。焦れが頂点に達したころ、やっと通話に戻った。が、出たのは横溝ではなく先程の女性だ。

『どなたもお出になりませんが』

 鮎川の心臓が跳ね上がった。横溝の身に何かが起きたことは間違いない。受話器を持つ手が震える。

「真に申し訳ないですが、誰か部屋に遣って、様子を見てきてもらえませんか」やっとのことで鮎川は頼んだ。

 快く承諾した女性は一旦電話を切り、折り返し結果を報告することにしてくれた。鮎川は仕事が手につかず、額の前で両拳を握り合わせながら返信を待った。

 長い10分が過ぎた。鮎川は目の前の電話機が鳴るやいなや、受話器を取った。出たのは客室係を勤める中年の男性であった。

『横溝様のお部屋を見てまいりました』

「で、彼はいましたか?」

『いいえ、どなたもいらっしゃいませんでした』

 鮎川は脳天をハンマーで砕かれたような衝撃を受けた。こめかみから汗が流れ落ちる。数瞬絶句した後、ようやく声を絞り出した。

「荷物はありましたか?」

『いいえ、何も残っていません』

「書き置きなどは」

『ありませんでした』

「ベッドを使用した跡は?」

『それが奇妙なことに使っていないようなんです』

「昨夜、外出していたでしょうか?」

『私は存じませんね』

 鮎川は意を固め、係に申し渡した。「事件の疑いが出てきました。部屋に一切手をつけないでください。後刻、警官が調べに行きます」

 係の男はあからさまに動揺して、鮎川の指示に従うことを明言した。電話を切った鮎川は、鉛を飲みこんだような気分で署長室に向かった。横溝の失踪を報告するためだ。

 

 午後には神奈川県警警部・横溝テツヤの失踪は正式な事件になった。彼はついにどこにも姿を現さなかったのだ。家族の誰にも連絡を入れていなかった。京都市警が捜査を担うことになった。鮎川は坂口署長に京都出張を申し入れたが、すげなく断られた。鮎川さんまあ落ち着いて、と頭の切れだけはよさそうな坂口は冷静にたしなめた。これ以上人を割く余裕はないのだと。

 翌日になって京都市警からの報告が届き始めた。

1.横溝警部は12月1日午後7時23分、河原町の都ホテルにチェックインした。部屋は505号室。

2.7時30分頃、ホテル内のレストランで夕食を取った。8時頃部屋に戻る。以後、目撃した者なし。

3.8時50分、二個の大型トランクを運ぶ作業服姿の三人組がロビーで目撃されている。エレベーターで上に向かうところまで確認。9時10分、この三人組が再び姿を現し、何事もなかったように外に出て行った。台車に乗せた大型トランク二個はそのまま持ち帰った。

4.今の所、この三人組と会ったホテル客は見つかっていない。ホテル関係者は誰も三人組の心当たりはない。

5.滞在していた505号室には特に争った形跡はなし。荷物は全て持ち去られている。採取した指紋はデータベースと照合中。

6.不審な三人組については、目撃者の証言に基づき似顔絵を作成するべく手配中。

 明らかにプロの犯行だ。三人組の容疑は誰の目にも明らかだろう。鮎川はゲヒルンとゼーレという組織に恐れを抱いた。無言電話は警告の意味だったのではないか。そして彼があの夜掛けた電話の呼び出し音は、大型トランクの中で誰にも聞かれず鳴ったのではないか。そんな想像が彼を慄然とさせた。

 赤木ナオコ怪死事件の捜査は行き詰まりの様相を呈した。11月21日の夜、小型冷蔵庫の段ボール箱を見た者は、西村の他に現れなかった。碇邸周辺の聞き込みも成果が上がらなかった。前進と言っていいのは、レイの指紋がナオコの爪に残ったものと同一だったこと、蒼い髪と皮膚のDNAが一致したということだけだ。レイはナオコに接触したかどうか、曖昧にしていた。指に触れたことは確実になったが、手を繋いだだけと考えることもできる。皮膚の件は謎のままだ。直接レイの体を見た大坪は、まるで生まれたての赤ん坊のようだったと言った。ではなぜ皮膚が他人の爪の間に入り込んだのか。鮎川はその件を頭を振り絞って考えたが、答えは見つからなかった。

 8日になっても横溝は発見されなかった。鮎川は新横浜まで出向いて横溝夫人と会った。憔悴した夫人は頬のこけた顔で不眠を訴え、途中涙を流して鮎川をうろたえさせた。彼は慰めと、全力の捜索の約束を繰り返すことしかできなかった。実際、彼は横溝の生存については希望を持っていなかった。むしろ彼を突き動かしていたのは、尊敬する先輩を奪った者への復讐の念であった。

 

 事件解決へのタイムリミットがいよいよ迫った12月15日、全体の構図をひっくり返す一大転機が訪れた。

 午後、聞き込みを終えて署に戻った鮎川に中井が告げた。「西村さんが来てます。課長に会いたいと言って」

「西村って、警備員の?今頃なにかな」

「さあねえ」

 簡素な応接室で西村が待っていた。鮎川は期待半分で彼の前に腰掛けた。

「どうも。何か新しい情報ですか?」

 固い顔の西村は言った。「実は今日は謝りに来まして」

「謝るって何を?」

「申し訳ありませんっ」叫ぶなり、西村は机に手をつき、深々と頭を下げた。鮎川は意表を突かれた。

「ちょっと待って。一体どうしたんですか?」

 西村は頭を下げたまま答えた。「あの机、ほんとは足跡があったかも知れないんです」

「なんだって!」鮎川は強い衝撃を受けた。「どういうことですか。どうしてそんな事を言うんだ!」

 体を起こした西村は情けない顔で訴えた。「あの時、中央指令室から下を覗きました。あの後、ようく考えてみれば肘をついていたような気がするんです。そこで下のひどい有様を見た拍子に肘をずらしたような、そんな気がするんです」

「それで足跡が消えたかもしれないと言うのか」

「はい、申し訳ありません」

「西村さん、あんたねえ」鮎川はぐい、と西村ににじり寄った。「あの時なんて言った。『僕は元警官だから、こういう時の対応は分かっています。現場には全く手を触れていません』と言ったんだ。今頃証言を翻すなんておかしいじゃないか!」

「ええ。それが思い出したのは25日のことで。あんなこと言った手前、言い出しにくくなったんです。それ以後も捜査が終わりそうな様子がないんで、今日やっとこうしてお詫びに来たわけで」

「俺らはあんたのおかげで、何日も不毛な捜査をやらされたと言うのか!」

「申し訳ありません」

 平伏する西村を尻目に鮎川は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。

「他に証言を変更することは?」

「後はとくにありません」

 鮎川は窓から外を眺めて冷静になろうと努めた。横溝警部ならこんな時どうする?そんな思いがかすめる。そして現場を思い描くうちに疑いがこみあげてきた。

 西村の前に立った鮎川は強く言った。「西村さん。あんたの話は信じられんな。あの手すり兼机だが、これぐらいの高さだ」鮎川は腰の前に手を出した。「下を覗くのに普通肘をつくか?背伸びしなきゃならないんだぞ。手をつくのはあり得る。現にあんたの指紋は縁にあった。どうしてそんな嘘をつくんだ!」

「ごもっともですが、私にもいろいろ癖がありまして」

「肘をつくのが癖だってのか」

 西村は無言で頭を下げた。鮎川は満面に朱を注ぎながらこの男の背中を見据えた。やり場のない怒りが鮎川の裡で燃えていた。

 しかし、これが鮎川の敗北を決定づける一撃となったのである。

 

 翌16日、赤木ナオコの変死は自殺と断定され、事件は終息した。綾波レイのクローン疑惑もうやむやになった。鮎川も抵抗しなかったわけではない。しかし箱根警察署の足場自体がなくなってしまった。彼は1月から新横浜の県警本部に、警部として栄転することになったのだ。年末は挫折感を噛みしめながら荷造りをしなければならなかった。

 正月休みが終わった1月6日、彼は家族と共に自家用車で社宅前から出発した。思い残すことが多すぎる、苦渋の旅立ちであった。街には『祝・ネルフ発足』の幟が目立つ。彼はハンドルを握りながら、それを暗い目で眺めた。

 ふと小さな綾波レイのことが頭に甦った。あの子はこれからどうやって生きていくのだろうか。ささやかでもいいから幸福を掴んでほしいと願った。後部座席ではしゃぐ娘と、妻の胎の中で息づく二人目の子供と同じように。

 

 4年後、鮎川は新横浜で久しぶりに、驚きと共に綾波レイの消息を知る。正体不明の敵・使徒と戦うエヴァンゲリオン零号機のパイロットとしてだ。彼は心からレイの無事を祈った。

 特務機関ネルフは度重なる使徒の襲来を跳ね返し続けた。しかしながらサードインパクトは起こり、綾波レイは碇ユイと同様にこの世から消失した。

 

2017年5月9日

 

 夜8時、新横浜市の市街地にある大衆食堂・京極屋は夕飯時も過ぎて3人の客がいるだけだ。ビールを飲みながら談笑する労務者風の二人組と、奥でひっそりと定食を口に運ぶサラリーマン風の男である。カウンターの向こうにいる亭主が暇そうに新聞を読み、高い場所にあるテレビがBGMを提供している、どこにでもありそうな光景である。

「で、うっとこのガキがよう、ちっとも勉強しねえでゲームばっかりしてやがるんだ。俺は二言目には勉強せいって言ってるんだけどな」

「へっ、サブちゃん。そりゃあ、いくら言っても無理だよう。はやい話、お前さんだって、親に勉強しろって散々言われただろ。そんで勉強やったかよ」

「馬鹿言え。勉強してりゃ、今頃こんな仕事してるわけねえや」

「ちげえねえ」

 二人の賑やかな笑い声が響く。もう一人は黙々と箸を進めている。その時、テレビの歌謡番組が突然中断し、スタジオから真面目そうなアナウンサーが告げた。

『番組の途中ですが、官邸から小栗特別検察官によるサードインパクト調査に関する記者会見の模様を中継します。繰り返します。これよりサードインパクトに関する政府発表を中継します』

 食堂にいる全員が黙ってテレビに見入った。画面には小栗特別検察官の座った姿が大写しになっている。フラッシュの光が検察官を照らす。

『それでは発表いたします』小栗は甲高い声を張り上げ、驚くべき事実を述べ始めた。

 小栗はそれから1時間、図表や写真を示しながら延々と喋り続けた。労務者たちは口々に驚きや怒りの声を上げた。サラリーマンは相変わらず何も言わずに画面に集中していた。

 特別番組が終わると労務者二人はさっさと勘定を済ませて店を出た。サラリーマンもレジの前に立った。亭主が札を受け取り、つり銭を数えながら言った。「今日も遅いですね、警部さん」

 つりを受け取った男は「まあね」とだけ言い、そそくさと店を出た。

 この男、7年前に赤木ナオコの事件を追った鮎川マサシその人である。彼は先程の政府発表にショックを受けていた。ネルフの驚くべき実態が明らかにされたのだ。とりわけ彼の関心を引いたのは、ファーストチルドレンこと綾波レイに関する部分であった。興奮した彼は足早に歩き、駅を目指した。

 

 翌日一番に鮎川は新聞社に頼んで通称『小栗レポート』を手に入れた。300ページになんなんとする大部の報告書である。自宅に持ち帰った彼は深夜までかけてそれを熟読した。普段なら熟睡する時刻にもかかわらず、彼の目は冴え切っていた。かつて希望を寄せたネルフという組織の裏側で進められていた恐るべき陰謀『人類補完計画』。その実態を知るにつれ、鮎川は怒りと同時に思想が暴走した場合の怖さを感じた。かつてナチは嬉々としてユダヤ人虐殺を行ったが、これは規模を人類全体に広げたものに等しい。人の心の奥に潜む狂気は絶えることなく、これから後も理性を破壊し、暴虐の荒野に人を追い込むのではないか。キールや碇夫妻の行動は、時に思想というものがどれほどの災厄を招き寄せるかを人々に示したのである。

 彼らに利用されたチルドレンと呼ばれるパイロットには深い同情の念を抱いた。最大の驚きは綾波レイの正体だった。碇ユイのクローンであったことは鮎川らの推測が正しかったことを証明したが、なんと人間ですらなかったのである。人類は倫理を切り捨てることによって、使徒との戦いに勝利したのだ。

 わずかに40分程の邂逅ではあったが、綾波レイは鮎川の心に強い印象を植え付けていた。使徒との戦いが続く間、彼は彼女への感謝の念と憐憫の情を抱き続けた。その正体が公になった今も、彼の綾波レイに対する感情は変化しなかった。

 そして鮎川の心を揺さぶったのは、綾波レイが複数いたとの一文である。レイは少なくとも二度死んでいるというのだ。

 これで7年前の事件は全面的に見直ししなければならなくなった。最早記憶する者も少なくなっているが、鮎川だけは片時も忘れたことはなかった。レポートを閉じた彼は、職をなげうってでも事件の再調査をする決意を固めた。

 翌日鮎川は上司に直談判に及んだ。当然いい顔はしない。手持ちの事件が山積みになっているからだ。しかし、鮎川の長時間かけた説得と情熱が、結局上司の首を縦に振らせた。ただしその間は有休扱いとされた。鮎川に文句はなかった。

 

 7年ぶりに訪れた土地は、名前を第三新東京市に変えていた。そこは7年前と同じ場所とは思えないほど荒廃していた。多くの建物が崩され、あちこちに爆発の跡が残り、真新しい湖まである。警察署の建物が残っていたのは奇跡と言ってよかった。鮎川はその正面に立ったとき、昔とそう変わらない姿を見て懐旧の念を抱いた。

 捜査課長の内田警部補が鮎川を快く迎えてくれた。ある小部屋を自由に使ってくれて良いと言う。鮎川がそこで待機していると、内田が大きな段ボール箱を運んできて、よいしょという掛け声と共に机に置いた。

「当時の捜査資料は全部この中です。丸々見るには何日もかかりそうですね」

「そうだね。しかしまずそこから始めなくちゃ。記憶を甦らせるためにもね」

「なんせ7年前ですからね。ともかく成功をお祈りします」

 内田が去り、鮎川は一人残って箱の中身を取り出していった。懐かしい自分の大学ノートを見つけた。ぱらぱらとめくってみると、意味が分からない文句が多数でてくる。人の記憶とはそんなものなのだ。彼はそれを脇に置いて、ボイスレコーダーのテープを取った。まずは証言者の肉声を聞いてみることだ。

 その日、鮎川は夕方まで署から一歩も出ずに記録の再生と読み取りに没頭した。近くの旅館に泊まった鮎川は、翌日も朝から同じ作業に浸った。内田ら警察署の面々は、そんな鮎川に干渉することなく、したいようにさせていた。

 日が傾いた午後5時、内田は突然鮎川に用を頼まれた。ある連絡先を調べてほしいと言う。内田は30分と経たぬうちに伝手を辿って調べ上げ、鮎川に教えた。鮎川は西日が斜めに射し込む小部屋で、部屋の隅にある電話機を使った。

「もしもし。ああ、すいません。私、警察の者で鮎川と申しますが、葛城ミサトさんはいらっしゃいますでしょうか」

 

6月27日

 

 第二新東京市は雲ひとつない好天にも関わらず、鮎川が前回来た時よりも涼しかった。日本にも四季が戻りつつあるというニュースは喜ばしいものであった。鮎川はその郊外にある高級住宅街を、地図を見ながら歩いている。ある角を曲がると異様な光景が目に飛び込んできた。装甲車がある家の前に横付けされ、ライフルを背負った兵士がその傍に佇んでいる。鮎川はそれだけで目的地が判った。あのものものしい兵に守られているのが、彼の目指す家だ。

 中の将校に名を名乗って来意を告げた。将校は手帳をちらりと見て塀の中に通してくれた。玄関前にいた兵士が扉を開ける。鮎川は自分には縁遠い豪勢な家の中に踏み込んだ。奥のドアが開いて、玄関ホールにこの家の主人が姿を見せた。

「お待ちしてましたわ。鮎川警部」

 赤木リツコは、鮎川に向かいにっこりと微笑んだ。鮎川は一瞬、別人と見間違えた。印象がまったく異なっていたからだ。彼女の最大の特徴だった金髪が、ただの黒い髪に変わっていたのだ。

「あ、どうもお久しぶりです」と鮎川はあわて気味に言って頭を下げた。

 客間に招き入れられた鮎川は、高級感溢れるソファに座った。リツコは窓際で丸くなっている猫を担ぎ上げ、今コーヒーを淹れると言って部屋の外に出た。鮎川は肩から提げていたバッグを開け、資料やノートパソコンを取り出し、机の上に置いた。それから間もなく、カップが載った盆を持ってリツコが戻って来た。

 赤木リツコは生きていた。

 サードインパクトから2週間後、戦略自衛隊の一大隊が壊滅したジオフロントに乗りこんだ。ネルフの設備を鹵獲することが第一の目的であり、第二が生存者の救出であった。深い縦穴を下り、ターミナルドグマと呼ばれた洞穴で隊員が最初に見たものは、主を失った巨大な十字架であった。そしてそれに近づくと、手前に白い横たわるものがある。それは全裸の赤木リツコであった。虫の息であったが確かに生きていた。それから直ちに地上へ搬出され、こうして命を繋いだのである。

 ちなみに葛城ミサトはジオフロント前の瓦礫の中から、やはり全裸で発見されていた。ネルフの主要メンバーで生存が確認されたのはこの二人だけであった。

 鮎川の前にコーヒーが出された。彼はそれを一口飲み、向かい側に座ったリツコに言った。「あれから7年経ちましたね」

「そうですね。月日の流れるのは速いですこと。あなたもすっかり白髪が増えて」

 彼の髪はもう半分がた白くなっていた。

「あなたこそ、すごく印象が変わりました」

「この髪ですね」リツコは自嘲気味に黒髪を撫でた。「気分を変えたくなりましたの。新しい自分になりたいって感じで」

「良くお似合いです。しかし、こちらにもこんなに立派な家があるとは思いませんでした」

「母が買っておいたんですわ。第三はいずれ住めなくなると見越していたんじゃないかしら」

「兵隊はいつから来てるんですか?」

「小栗レポートの発表直後です。暴徒から身を守るというのがその理由。実際は私をどうしても法廷に立たせるため」

「話は聞いています。人類補完計画の共同謀議の容疑とか」

「そうね。実際、一歩も外出できないんです。自宅軟禁というのが正確ですわね」

「お気の毒です」

「それで、今日はなんの話を?」

「お分かりでしょう。僕が来た以上、話題は一つしかありえない」

 リツコは鼻で笑った。「母の件ね。なんとなくあなたが来るような予感がしてましたわ」

「小栗レポートが転機になりました。新事実が明らかになった」

「綾波レイは人間ではなく、しかも二度以上死んだ」

「そうです。一度目は7年前、ゲヒルン本部の発令所で。あなた方は嘘をついた」

「今さら否定しません。将来のファーストチルドレンを守るため、止むを得なかったんです」

「あなたのお母様がレイを殺したんです。亡き碇ユイさんの面影があったからだ。碇の寵愛に嫉妬して首を締めた。僕らの前に現れたのは二人目のレイだ。どうりで体は無垢だった」

「その通りです。でも私が知ったのは後からですよ。事件の後、ゲンドウさんから聞かされたんです。愕然としましたわ。黙っていたのはすまないと思います。でも組織の方が大事でしたから。人類のために戦うという大義もありましたし」

 鮎川は声音を低くした。「そしてお母様も殺された」

 コーヒーを口に運ぶ動作を止めたリツコは、じっと鮎川を見つめた。「母は自殺ということになったんでは?」

 鮎川は冷徹にリツコを観察しながらかぶりを振った。「残念ながらそうじゃありません。自殺説の決め手は西村シゲオの証言でした。足跡を消したかも知れないというあれです。僕は小栗レポートが出てから、彼の身辺を調査しました。今はこの第二に住んでいます。これがまた結構な家でね。殆ど借金なしで建てた家です。銀行口座も過去に遡って調べました。不審な入金が見つかりました。なんと総額五千万円!警備員の給料で稼げる金じゃない。早速彼を別件で引っ張って追求したら、まんまと自供しましたよ。謎の男から偽証の依頼を受けて貰った金だと」

 リツコは鮎川の話を微動だにせず聞き入っていた。

「それで他殺説が息を吹き返したというわけですね」

「ええ。犯人の目星はついています」

「ああ、ゲンドウさん」リツコは悩ましげに額に手を当てて目を瞑った。「あの人、母を殺したなんて。酷すぎる。私をとことん騙していたんだ」

「お芝居はやめなさい」

 強く冷ややかに鮎川は言った。その目は鷹のように鋭かった。リツコは顔から手を離し、大きく開いた目で鮎川を見つめた。「え?」

「あなたが犯人だ。いや正確には、あなたと碇がお母様を殺したんだ」

 人形のように固まって鮎川を見ていたリツコはやっと口を開いた。「どうしてそんなことが言えますの?」

「百聞は一見に如かず。このビデオを見てください」

 鮎川はノートパソコンの画面をリツコに向け、DVDをセットした。鮎川が何度かマウスをいじると、ほどなく動画が再生された。2010年11月21日、朝のモノレール駅の情景だ。赤木ナオコとリツコの母娘が軌道車に乗り込もうとしている。「ここでストップ」動画が一時停止になった。

「見てください。ここにいるのはナオコさん、隣りにいるのはあなただ。間違いないですか?」

「その通りですわね」

「ナオコさん、バッグを持っていますね。何色か言ってみてください」

「黒ですね」

「次は音声です。これを聞いてください。事件当夜、あなたが僕と横溝警部に話した内容です」

 DVDが入れ替えされ、マウスのワンクリックで音声が流れてきた。リツコ自身の声だ。

『確かにありました。護身用に、許可をもらったと言ってました。一度見せてもらったこともあります。今日、持ってきていたんですか?』

『はい。こちらで保管しています。あのバッグ、ええと、何といったかな。有名なブランドで』

『ヴィトンですわ』

 鮎川はそこで再生を止めた。リツコは顔面から血の気が引き、氷のような表情をしていた。

「お分かりですか。横溝警部はバッグの色も、形も言わなかった。なのにあなたは即座にヴィトンだと言い当てた!朝、ナオコさんが持っていたのは黒いブラダだ!どう見てもヴィトンじゃない。赤木さん、あなた、バッグが途中で変わったことを知ってたんだ!」

 それまで能面のような顔だったリツコが微笑を浮かべた。鮎川は悪魔が顔を覗かせたような気がしてぞくりとした。

「さすがですわね、鮎川警部。私、あなたの才能を買っていましたのよ。さあ、もっと聞かせてくださいな」

 鮎川はコーヒーを啜って気分を落ち着かせ、事件の全体像を語りだした。「僕らは犯行はゲヒルン本部の中で行われていたと考えていた。一番怪しい碇ゲンドウ、彼がどうやってレイの死を知り、本部に取って返してナオコさんを突き落としたのか。ゲンドウに連絡したのはナオコさん以外に考えられない。携帯電話を使った証拠もある。しかしそうすると時間の矛盾が出てくる。どうやってもあの短時間で犯行ができるわけがないんだ。そこが悩みの種だった。何度も当時の会話を聞きなおした。そこでやっと見つけたのがバッグの食い違いだったんだ。なぜ当時気づかなかったんだろう!僕は自分を責めてますよ。黒いブラダをあなたの家で、実際に見たというのに!分かりますか、リツコさん、ナオコさんは一旦家に帰ったんですよ!非常用通路を使ってね。彼女はそれができる部長職だった。出口には物を挟んで閉まらないようにし、後でまた使えるようにしておいたんだ。ではなぜ家に帰ったか?銃を持つためだった」

 一旦間を置いた鮎川は乾いた喉をコーヒーで潤した。リツコは肘掛に肘をつき、楽しそうに鮎川の推理を聞いていた。

「ここからは推測が混じります。綾波レイを殺したナオコさんはひどくまずい状況に陥った。公になれば、相手が人間でなくともただではすまない。ヒステリーに陥った彼女は執務室を散々荒らした。だがしかしだ、ナオコさん、知ってたんです。綾波レイには代わりがいる。死体を処理し、二人目を出現させれば万事片が付く。だが自分一人でできる話じゃない。どうしても碇の協力がいる。そこでおそらく碇に電話をしたことでしょう。ところが出なかった。おそらく出られない事情があった」

 ここでリツコは忍び笑いを洩らした。怪訝そうな顔をする鮎川に失礼、と言って先を促した。

「やむなくナオコさんは碇邸に出向くことにした。途中、自宅に立ち寄った。拳銃を取るためにね。脅してでもやらせるつもりで。突きつけて怨みつらみをぶちまける気持ちもあっただろう。幸いなことにあなたはいないと思っている。飲みに行ってるはずだった。ここでバッグを取り替えたんです。さあ、リツコさん、あなたのもう一つの嘘だ。あなた、本当は家にいなかった」

「素敵」リツコは感心しきったように言った。「どうしてそれが分かりました?」

「簡単なことです。葛城ミサトさんに確かめるだけでよかった。7年前の事件当日、リツコさんと飲みに行く約束があったかどうか。葛城さん、言下に否定しましたよ。ただ、どうしてそんな危うい嘘を我々に言ったのか疑問が残りましたが、当時の証言を読み返してそれも解決しました。あなた、伊吹さんにも同じ話をしましたね。賢いあなたはどうせ同僚も尋問され、この話が出るだろうと思った。だから、同じ嘘を我々にも言うしかなかったんだ」

「マヤやあなたがただけじゃありません。母にもそう言ったんです。これは本当ですよ」

「なるほど。前もって用意しておいた嘘だったんですね。さあて赤木リツコさん、ここからいよいよ耳の痛い話になりますよ。では、あなたはどこにいたのか。もう言うまでもない。碇ゲンドウの屋敷です」

「ブラボー」リツコは清々した顔で鮎川に賛辞を送った。鮎川は反応せず、推理を続けた。

「あなたは碇と愛人関係にあったと発表がありましたね。しかし、いつからかは曖昧だった。リツコさん、僕はね、葛城さんから面白い話を聞きましたよ。いつだったかあなた、『女としての母さんを憎んでいた』と葛城さんに言いましたね」

「確かにそんなことがありましたわ」

「あなたが碇に接近したのは、お母様が死んだ後じゃありませんね。関係はその前からあったんだ。あなたは碇をお母さんから奪い取った。様子見だって?冗談じゃない。あなた、若さを武器にして、あいつに迫ったんでしょう」

「いいえ、言い寄ってきたのはあの人の方ですよ。私は待っているだけでよかった」

「どっちでもいい。とにかく碇はお母さんからあなたに乗り換えた。リツコさん、事件のあった11月21日、この日付にも意味がありましたね」

 リツコは快活に人差し指を鮎川に向けた。「そう、私の誕生日!」

「碇はささやかに誕生パーティーを催してくれたんでしょう?目的はもちろん飲み食いだけじゃなかったはずだ」

 遠い目をしたリツコは往時を回想した。「母は私の誕生日なんか眼中になかった」

「ピザをつまみながらの楽しい時間は、ナオコさんの侵入で破られましたね。ナオコさんはあの家の鍵のありかを知っていました。多分、断りなしにずかずかと入り込んだんだ。さあ、いきなりの修羅場だ。まさか娘が愛人と一緒にいるとは。どんな諍いがあったかまでは分かりません。ただ、これだけは言える。事が起きたのは二階だと」

「どうしてですの」

「首の骨が折れたからです。僕は碇の屋敷を覗いて、知っているんですよ。あの家の構造。玄関ホールが二階まで吹き抜けになっている。ナオコさんは欄干を突き破って下に落ち、その拍子に首の骨を折ったんだ。それ以外に考えられない。それで僕はひどく後悔してるんです。あの時、もう一歩踏み込んで全体を見ていたら、壊れた欄干を目撃できたのにってね。それを見ていたら7年前に真相を掴めたかも知れない。そしてナオコさんに直接手をかけたのはあなたです」

「あら、どうしてでしょう」

「想像力ですよ。仮に碇がナオコさんに手を下した場合、あなたと彼との関係はどうなるか。尊敬する自分の母親を殺した男に愛情を注げるだろうか。僕は微妙だと思う。逆にあなたがお母さんを殺したのなら、あなたは彼に負い目を持つことになる。愛人関係もずるずると続けていかざるを得ない」

「素晴らしい。あなたに心から敬意を表しますわ。さ、もっと聞かせてください」

 コーヒーを一気に飲み干した鮎川は、目を輝かせるリツコを気味悪く思いながら続きを述べた。

「ナオコさんはおそらくあなたの存在をすぐには気づかなかった。自分の犯行と計画を碇に聞かせた後だ。悲劇が起こり、碇は対処を迫られた。スキャンダルは絶対に避けなければならない。綾波レイの秘密を守り通す必要もある。目の前にある死体と本部にある死体の両方を始末しなきゃならない。そこで考えた。綾波レイはどこかで死体を処分し、二人目を登場させれば済む。しかしナオコさんはそうはいかない。どうする?自殺に見せかけることだ。同じように高い所から落とす。中央指令室がぴったりの場所だ。まず家のどこかにあった段ボール箱にナオコさんの死体を入れた。リツコさん、あなたも手伝ったんですか?」

「いいえ、彼が一人でやりました。私は怖くて触ることも見ることもできなかった」

「碇はあれこれあなたに指示をし、台車を使い車に運び込んで非常用通路近くまで来た。その頃、目撃者がいました。西側の窓に人影を見たとね。これはあなただった」

「どうして断言できるんですか?」

「西側の窓はね、リツコさん、普段碇のでかい車が停まっていてよく見えないんですよ。僕は現地を確かめている。他の窓は木に遮られて全然見えないんだ。なのに目撃者は人影を確認している。つまり、その時間、車は出ていたんです。僕が馬鹿だった。どうして捜査の最中に気づかず、こんな7年も経ってから気づいたのか。もしあの時気づいていたらと思うと、胸が張り裂けそうになる」

 鮎川の額に苦渋の皺が刻まれた。彼はこのところずっと自責の念に苦しめられていたのである。それほど横溝の失踪は彼の重石となっていた。

「あなたの責任じゃありませんわ」リツコは心からの慰めの言葉を言った。

「どうも。ステレオを点けたのも碇の指示ですね。隣人に聞かせて、本人はここにいると見せかけるためだ」

「私が点けました」

「彼は密かに本部に戻った。途中、女子更衣室に寄り、脱がせたハイヒールをロッカーに置き、上履きを取った。白衣がなかったのは計算外だったでしょう。探す手間をかけるわけにもいかず、そのままにした。それから中央指令室に着いた彼は、上履きを椅子の面に押し付け、踏み台にしたように見せかけた。それから段ボール箱から重い死体を担ぎ上げ机の乗せ、靴を履かせて一気に押し出した。この時、彼は致命的なミスを犯しました。机に靴跡を残さなかったんです」

「いいえ、そうじゃないんです」とリツコは落ち着き払って言った。

「どういうことですか」

「机にも靴跡を付けたんです。でも、重いぐったりした体を乗せた時、バランスを崩して手をついてしまった。それも付けたばかりの靴跡の上にね。気が付いたのは死体を落としたあと。手の跡がある靴跡なんてなんの役にも立ちません。かと言って下まで靴を取りに行くわけにもいかない。辺りが血だらけですものね。仕方なく靴跡を全て拭き取りました。かなり経ってから、彼にそう教えてもらったんです」

 鮎川は深く頷いて納得した様子を表した。「なるほど。先に行きましょう。死体を落とした後、碇は手元に残しておいたバッグを開きました。アリバイ工作のため、ナオコさん本人の携帯電話を使ったんです。自宅に掛けることでね。出たのは他でもないあなただ。どんなことを話したんですか」

「別に。優しく慰めてくれましたわ。僕がついてるとか、必ずうまくいくとか。あの人、そういうところはそつがないんです。思わずうっとりとするようなことを言う人なんです」

「見かけによりませんな。さてと。その後、碇は段ボール箱を運んでまた女子更衣室によりました。バッグをロッカーに置くためにです。その時、危険なことに警備員の西村に見られるところだった。うまく隠れおおせて西村はまきましたが、段ボール箱は見られている。僕はその箱には綾波レイの死体が入っていたと睨んでいる。その辺、どうなんですか?レイの死体をどう始末したか聞いていませんか?」

「あの子の死体は指令室傍の物置に隠したと母は言ってました。彼、その後一時的に所長室に移したそうです。本格的に死体を処分したのは次の日だったと聞きました。どうやったかまでは。大体想像はつきますけれどね」

「そうですか。協力的で助かります。僕の長広舌ももう少しで終わりますから。さて、また非常用通路を使って地上に脱出した碇は、アリバイ工作の仕上げに、わざとコンビニに寄りました。ああいうところは必ず防犯カメラがありますから、その時刻、外部にいたことを記録させるためでした。警備員が中央指令室に回る時間を計算に入れていたんです。それから自宅に戻り、あなたと共に訃報が届くのを待った。11時20分、一報がやって来ました。その時、碇はあなたへの連絡は自分がすると言いましたね。これには理由があった。まず、自宅に電話でもされて、あなたの不在がばれてはまずいということ。それから動揺したあなたの演技力が不安だったことだ」

 鮎川はじっとリツコの顔を覗き込んだ。リツコは犯罪を暴かれたばかりとは思えない、さばさばした表情で鮎川を見返した。

「それで終わりですの」

「はい。言いたいことは全て言いました。今度はあなたが僕に教えてくれる番です」

「何を?」

「あの夜、碇邸で何が起きたのか。これは是非とも聞き取らなきゃならない」

「まったく、足跡さえちゃんとしてればねぇ。いいですよ。すっかりお話ししますわ」

 リツコは足を組み、細いメンソールの香りがする煙草に火を点けた。白い煙が二人の中間に漂う。ある種の風格さえ漂わせながら、赤木リツコは告白を始めた。

「私がゲンドウさんを異性として意識したのは、まだ高校生の頃でした。当時からゲヒルンには出入りさせてもらってたんです。碇ユイさんも元気でした。一目惚れでしたわ。深い知性と情熱に満ちたあの眼差し。男の人には分からないでしょうね。奥さんがいることなんか関係なかった。恋愛はロジックじゃありませんもの。大学を卒業してゲヒルンを志望したのも、母を追いたいというのが半分、ゲンドウさんに近づきたいのが半分でした。あの人、独身になっていましたから。入所が決まった日、私は明るい未来を思い描く乙女だった。ですが、皮肉にも初めてゲヒルン本部に入った日、もうその日から悲劇は始まったんです。母がゲンドウさんと!」

 感情がこみ上げたリツコは、煙草の灰を激しく灰皿に落とした。

「母への憎しみの始まりでした。私は嫉妬の苦しみから逃れるために研究に没頭しました。でも彼のことを諦めたわけじゃなかった。だって私の方が若かったし。いつかこっちを見てくれると信じていた。そしてある日、彼が私に声を掛けてくれました。その時の幸せといったら。‥‥ごめんなさい、のろけ話をしてる場合じゃありませんよね」

「いえ、ご自由にどうぞ」

「母には内緒で何度も密会しましたわ。母は別の女ができたことに気づいていたようです。母とゲンドウさんの間には隙間風が吹いていました」

 リツコは一呼吸置いて深く煙草の煙を吸い込んだ。表情に憂愁の色が濃くなった。

「事件の数日前、彼、私の誕生祝いをするって言ってくれて。私は喜んで招待を受けた。彼の家に行くのは初めてでした。7時に母にはミサトと飲みに行くと嘘を言って、セーターからおしゃれなスーツに着替え、彼と揃ってゲヒルンを出ました。ゲンドウさん、ああ見えて料理が上手なんですよ。楽しかった。母が突然来るまではね。

 8時20分頃でしたわ。私たち、二階の寝室にいたんです。突然下の方から『あなたどこ』と叫ぶ母の声が聞こえました。わめき声の怖ろしかったこと。彼は私を残して下に降りました。母を居間に連れて行き、話し合いを始めました。私は気になって仕方なくなり、そっと部屋を出て、居間のドアの前で盗み聞きをしました。『綾波レイに関する全ファイル抹消済みですって。私を甘く見ないで。ハッカーとしての腕は確かなんだから。知ってるのよ。レイには代わりが何人もいるんでしょ。わたしと一緒だわね。さあ、今からあそこに行って死体の始末を手伝って』死体という言葉に愕然としましたわ。その朝、会ったばかりのレイという子が死んだ?頭が混乱しました。丁度その時です。運命の音が響きました。ヴェルディの『勝ちて帰れ』。私の携帯の着信メロディです!」

 感極まったリツコの両目から涙が零れた。鮎川は黙って静かにリツコの様子を見つめ、袖で涙を拭うリツコが落ち着くのを待った。

 涙が枯れ、洟をすすり上げるようになって声を掛けた。「大丈夫ですか?まだ話せますか?」

「ええ、平気です。ごめんなさい、見苦しいところをお見せして」

「構いません。よかったら続けてください」

「はい。携帯はバッグの中、居間に置いてあったんです。彼はそれを見えないように隠したんですが、音がすべてを台無しにしました。当然母は気づいた。しばらく言い争う声が聞こえました。私は二階にとって返し、ベッドで毛布をかぶりました。足音が近づいてきます。私はただ祈った。ドアが開き、毛布が強い力で引っ張られました。さらけ出された私は仁王立ちの母を見た!それは普段の母ではありませんでした。あれこそ夜叉です。怒り狂った母は私を叩いた。私は何も言わずうずくまり、耐えているだけでした。ゲンドウさんが駆けつけ、母を引き離しました。すると、なんてこと、母はバッグからピストルを出し、彼に突きつけたんです!彼はあとずさりして部屋を出ました。母はあとを追います。『私と一緒に死んでちょうだい』と言いながら。母は欄干の前に立ちました。ものすごい目つきです。本気で殺すんだと思いました。私は無我夢中で母に飛びかかり、体当たりをしました。その時、欄干はもろくも折れた!母は下に頭から落ちました。嫌な音がしました。私ももう少しで落ちるところだった。私は『母さん、母さん』と泣き叫び、見下ろしているだけでした。ゲンドウさんが母に近寄り、観察して脈を取りました。彼、私を見上げ、首を横に振りました。母は死んだんです。

 その後、彼は警察を呼ぼうとする私を止め、叱りました。赤木家の名誉がどうなってもいいのか、自分がなんとかするから寝ていろと言われました。私はそうするしかなかった。あの時のゲンドウさんは絶対的支配者でした。10分ぐらいしてから、泣きながら横になっていた私のところに戻ってきて言いました。『私はこれからナオコさんをゲヒルンに運ぶ』。自殺に見せかけるんだそうです。私に細々と指示をしていきました。その時の彼の頼もしさと言ったら!私は子供のようにうんうんと頷きました。一生この人についていくと思った」

 ここでリツコは凄まじく笑みを浮かべた。鮎川は背筋が寒くなった。

「ハハ、でも結局私は捨てられた。レイ、いえあの女に勝てなかった。親子揃って馬鹿だったんですわ!」ちらりと時計に目をやり、火の消えた煙草を灰皿の中に押しやった。「随分喋りましたね。この辺でどうでしょう」

「もう結構です」

 赤木リツコは長い告白を終えた。身じろぎもしなかった鮎川は緊張をほぐし、姿勢を楽にした。リツコの表情には長年の憑き物が落ちたような静けさがあった。

 鮎川は親密な物腰で言った。「ありがとうございます。さぞ苦しまれたことでしょうね。同情いたします」

 リツコはこくりと頭を下げ、ひっそりと言った。「私はこれからどうなりますの」

「明日、供述調書の下書きを作って持って来ます。それにサインをいただければ僕の仕事は終わります。後は検事が判断します」

「どう予想しますか?」

「死体遺棄だけは免れないかと思います。他の罪名は微妙なところです」

「そうですか」

「目撃者はいない。碇邸もなくなってしまった。あなたの供述だけですからね。でも不思議です。あなた、割とあっさり罪を認めましたね。僕はもっと頑強に抵抗されるものだと思ってました」

 赤木リツコは謎めいた微笑を浮かべた。

「どうでもいいと思ったんですわ」

「どうでも?」

「ええ。あなたに特別にお話ししますわ。私、実は一度死んだ身なんです」

「死んだ?」鮎川はわけが判らなかった。

「サードインパクトの直前、ターミナルドグマで。他ならぬゲンドウさんに撃たれたんです。あの人の計画を阻止しようとして。胸を撃たれ、LCLに沈もうとした時、綾波レイが目の前にいるのを見ました。で、気がつくと病院のベッドの上にいたんです。傷一つない体でね。分かりますか?レイに選ばれ、復活させられたんですよ。私に断りもなくね」

 信じられない言葉を聞いた鮎川は、大きく目を見開いてリツコを見つめた。

 リツコは続けた。「そう、私は二人目の赤木リツコなんです。あの子、私から死の安息を奪ったんです。生きて、真実を伝えろとでもいう気かしら。それとも、お前も二人目の人間として生きる感覚を味わえということかしら。まるで生きているという実感がない。どうでもいいとはそういうことなんですよ。だって死んだ人間だもの。おまけの人生に意味はあるでしょうか?多分これは、レイの私に対する復讐なんだと思いますわ」

 

 赤木邸を辞去した鮎川は、赤木リツコの自白を反芻しながら帰り道を歩いた。サードインパクトの時の摩訶不思議な体験が甦った。そして不気味な思いが閃いた。俺も実はあの時死に、今こうして歩いているのは二人目の俺なんじゃないか。そう考えると、回りにある店の看板や白く輝く石畳が、実のない書割のように思えてきた。木々の緑、花の赤、あれは全部塗料を塗ったものだ。道行く人々はゾンビだ。彼らは自分が死んでいることに気がついていないのだ。

 彼は立ち止まって目を瞑り、狂気に犯されそうになった頭を冷やした。妻と二人の娘のことを考えた。彼らは確かにこの世にいて、彼の帰りを待っている。優しく愛しい、確かに生きている家族だ。生の実感が戻って来た。もうこんなことは二度と考えるまいと思った。兎にも角にも生きていくこと。そして、必ず横溝警部を拉致した三人組を見つけ出し、彼の妻子のために正義を実行するのだ。

 鮎川マサシは力強く大地を踏みしめ歩いた。交差点に差し掛かった。信号は赤だ。行儀良く青に変わるのを待つ。通りの向こうにも信号待ちの少女がいる。青い学生服を着た中学生だ。その髪は青く、紅い目が鮎川を直視している。

 綾波レイ。鮎川は衝撃を覚え、身震いした。何かの見間違いだ。彼は激しく目をしばたたいた。

 向こうの通りには誰もいない。ただアスファルトが日の光を強く反射しているだけであった。

 

 

 

 

 

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