リリスの子ら

間部瀬博士

プロローグ

AD.2032

 相応の地位にある人間が見ず知らずの人間から手紙を受取り、発信者の自宅を訪問することなど滅多にあることではない。

 しかし、それが学界でも特別な名声を保ち、碩学として世間でも通用している人物となれば重い腰も動くというものである。

 国連災害復興委員会常任理事ロバート・ウィルキンスは、曇天の下セダンの後部座席に体を埋め、ロンドン近郊ののどかな田園風景に目をやりつつ5日前に届いた手紙のことを思い返した。

 朝の10時、オフィスでいつものように秘書から受取った手紙類の中にそれは混じっていた。ごく普通の封書である。差出人の名を読んで目を丸くした。アンソニー・キーン。歴史学の大家にして哲学者。夫人は情報工学の権威。彼はキーンの著書を何冊か保有しており、その学識に感銘を受けていたし、夫婦で出演したテレビ番組を見たこともある。同姓同名の別人かと思いつつ封書を開け、手紙の冒頭を読んで当の本人であることが分かり、仰天した。

 彼にはキーンとの接点はまるでなく、手紙をもらう覚えはまったくなかった。首を傾げつつ読み進むと、その内容はさらに驚くべきものだった。

 −−見ず知らずの他人から突然手紙を送られ、驚かれたことと思います。しかしながら、これはやむにやまれずしたことで、他に取るべき方策がなかったのであります。このこと良くご理解頂き、寛恕いただければ幸いと存じます。この手紙を書いたのは、あなたにお会いし、私が解明したあることがらについてお話ししたいと思ったからなのです。それは電話や手紙でお話できる内容ではありません。国連災害復興委員会の中枢におられるあなたにならお話できる重大な事項なのです。どのぐらい重大かと言うと、今は人類の存亡に関わる、としか申せません。

 私は冗談が好きな人間ではありません。むしろこれが冗談であったらどれだけ良いことか!

 あれの解明以来、眠れぬ夜が続いています。家内も同様です。どうかこの老人を憐れみ、願いを聞き入れ、私が見出した恐るべき真実について説明する機会をお与えください。そうしてこの苦痛を分かち合っていただきたい。云々。

 読了後、彼は直ちにキーン家に電話を入れた。相手はひとかどの人物であるし、手紙の切迫した調子には、とてもただごとと思えないものがあったからである。電話に出たのはキーン本人であった。電話から聞こえる本人の声は予想に反して穏やかなものであったが、かすかに神経質な響きも感じ取られた。その時は社交辞令と簡単な打ち合わせで話を終えた。盗聴の危険性を考慮すれば突っ込んだ話はできなかった。

 その時決まった約束で、彼は今こうしてキーン邸へ向かっている。

 ウィルキンスの乗ったセダンはキーン邸の門の前に止まった。ヴィクトリア朝風の瀟洒な佇まいの家で、庭には程よく草花が植え込まれている。運転手を残して車を降りたウィルキンスはダークスーツの前ボタンを留め、一人ドアの前に立ち、ノッカーを鳴らした。

 迎え入れたのはエリザベス・キーン夫人であった。70は下るまいと思われる老婦人である。柔らかく微笑するその顔には、若いころは相当な美人であったろうと思わせるものがあった。だが、その目の下には隈があり、手紙にあった通り睡眠不足なのに違いない、とウィルキンスは思った。

 続いてアンソニー・キーン本人が奥の間から現れた。ごく少ない白髪を頭に乗せ、分厚い眼鏡をかけた小柄な老人である。ウィルキンスが本のカバーで見た当人の写真そのままであった。ウィルキンスは自分をねぎらう彼の物腰に、やはり疲れがにじみ出ていることを見て取った。

 三人は応接間に入り、趣味のよいソファに並んで座る夫妻の前にウィルキンスは陣取った。固唾を飲んでキーンの言葉を待った。

 キーンは重々しく口を開いた。「本日あなたをお招きしたのは、私が解明した事柄があまりに重大であるからです。いきなり結論から話しては理解できるものも理解できなくなります。迂遠ですが、事の発端からお話ししましょう。まず、あなたはロジャー・ベーコンをご存知でしょうか?」

「ロジャー・ベーコン?」意外な問いにウィルキンスの声はやや高くなった。「それはまあ、歴史の授業で習いますからね。13世紀の学者で当時としては革新的な考えを持った人だった。錬金術師でもありましたね」

「そうです。では今から33年前、1999年に彼が住んでいたと言われる僧房から発見された文書については?」

「ああ、そうそう」当年取って52歳のウィルキンスは若い頃世間を賑わせたニュースを懐かしく思い出した。「ありました。当時はかなり話題になりましたね。僧房の壁の裏側に隠されていた謎の古文書ということで。確か暗号で書かれていたんですよね?」

「その通りです。世間では『ベーコン文書』で通っている」

「物凄く難解な暗号で、解読に成功した者はいないと聞いています」ここでウィルキンスは目を大きく見開いてキーンを見つめた。「ひょっとして、あなたが?」

 この時ばかりはキーンも満足げに微笑を浮かべた。「ええ、解読しました」

「そりゃ凄い!」ウィルキンスは嬉しそうにに椅子から身を乗り出した。「いやあ、おめでとうございます。そうですか、さすがは先生だ。是非解読の過程を聞かせてください!私はそういう話が好きな性質でして」

「勿論話します。例によって順を追ってね」

 キーンはソファに深く体を沈め、天井を見上げてゆっくりと話しを始めた。エリザベス夫人は夫を黙って見つめていた。

「私が暗号に興味を持つきっかけになったのは、この分野の学徒となり、数々の古文書を閲覧する機会を得られたことでした。その中には少数ですが、暗号文があったのです。暗号の歴史は古く、紀元前5世紀まで遡ることができます。私が初めて見たものは15世紀のものですが、それはもう実に奇妙なものでね、数多くの記号がびっしりと書き込まれていました。先輩に聞くと、その内容はとっくに解明されていてこれこれこういうものだということ、さらにその解読の仕方まで解説してくれました。それが実に興味深かったのです。それ以来私は暗号解読の魅力にのめり込み、様々なテクニックを覚え、自分で作ったり、未解読の文書に挑戦したりしました。

 その分野の業績では、実に150年もの間、専門家を悩ませ続けたある書簡の謎を解いたことがあります。以来、暗号解読者としても少々名を知られるようになりました。この話も面白いと思いますが、時間がないので今はやめておきます。

 さて、そんな私ですから『ベーコン文書』に興味を抱くのは当然のことでした。早い段階でコピーを入手して、解読に取り掛かりました。ところが例のセカンドインパクトが起きてしまった。研究どころではなくなりました。私も一時は食うや食わずの生活を送ったのですよ。ようやく落ち着いたと思ったらサードインパクトだ。私たちは最悪の時代を生き抜いてきました」

 応接間に重い空気が立ち込めた。二つのインパクトを潜りぬけてきた彼らには、いずれも胸の奥に重い労苦の翳が澱のように溜まっていた。

「何はともあれ私たちは生き延びました。サードインパクトから17年、ようやく環境が落ち着き、生活も安定しました。私も大学教授の職を辞して余暇がたっぷりできた。そこで机の奥に放り込んでおいたまま忘れていた文書のことを思い出したのです。私は再び謎の解明に乗り出しました」

 キーンは横を向いて夫人に目で合図をした。夫人は傍らにあった大判の封筒から数枚の紙を取り出し、机の上に置いてウィルキンスに示した。

「これがそのうちの一部ですの。文書全体ではこれと同じようなのが202ページあります」

 ウィルキンスは紙を手に取って興味深く眺めた。それは幾多の数字が書かれたもので、方眼紙に書かれたように等間隔で整然と並んでいる。ざっと見たところ、最も小さい数字が3、大きいものが524だった。紙の上部、左端に1.5センチ程の絵が描きこまれているのが際立っている。それらは人物や植物、動物の絵で、ウィルキンスはそれらの図像を昔錬金術関係の本で見たように思った。

「ほお、これは難しそうですなあ」ウィルキンスは顎に手を当てて感心したように呟いた。「どんなところが?」と、夫人が訊いた。

「まず、数字の種類の多さですね。良く使われるのはアルファベットを他の記号に置き換えるというやつでしょう。それならこんなに数字の種類は多くならない」

 キーンが話を引き取った。「その通りです。そういう単純な暗号ではない。その手のものなら頻度分析で簡単に解読できてしまいますよ」

「英語ではeが最も多く現れる、というアレですね。ポオの『黄金虫』は子供の頃の愛読書でした」

「変換の仕方が違うのですよ。1対1の変換ではない。考えられるのは対字、または1音節を一つの記号や数字で表すというものです。前者では例えばtiを1と表す、後者ではandを1と表すといった具合で。そうなると事は複雑になる。頻度分析は有効ではありますが、決定打とはならない。しかし全然解読不可能という訳ではありません。このタイプの暗号ではルイ14世の暗号が有名ですが、ちゃんと解読されているのです。私が作業に取り掛かった時は自信満々だったのですよ。なにより現代ではコンピューターという強い味方がある。しかも家内はその方面のエキスパートですから。家内のおかげで私は随分楽ができたのですよ」

 夫妻はともに優しい眼差しを交換しあった。ウィルキンスは夫婦の仲の良さを見たように思った。キーンは続けた。

「第一に考えるべきはこの文書が何語で書かれているか、ということです。僧院という文書の発見された状況から見てラテン語もしくは英語というのが妥当でしょう。そしてこれを書いたのは当時の知識人に違いない。ならば当然ラテン語が第一の候補になります。まずは文書からラテン語の匂いを嗅ぎ取ることから始めました。あなた、ラテン語は?」

「いえ、私、そちらは全くの素人でして」

「無理もない。ラテン語の特徴として格変化の多さが挙げられます。ラテン語には六つの格があり、それぞれ単数形と複数形があります。ということは語尾に一定のパターンが多く現れて来る。例えば三つの数字の連なりが沢山現れるとします。だとすればその後に続くのは語尾である可能性が高い。そういう数字に語尾のパターンを当てはめていけば突破口が開ける。そう考えて分析を始めました。

 そういう語順を発見することはデジタル化のおかげで簡単でした。コンピューターはその作業を速く正確にやってくれます。家内のプログラミングのおかげでね。

 さて、私はわくわくしながらプログラムを走らせました。そして、出てきた結果はと言うと...失望すべきものでした。

 少なすぎるのです。あれほど膨大な文字数であれば、同一の単語が十や二十は現れるはずですが、最高でも五つしかない。これはいったいどういうことなのか。何か仕掛けが施されている、と直感しました。まずは単純なやり方から試そうと思いました。実際、暗号を利用するに際して複雑すぎるやり方は敬遠されるのです。複雑なほど安全性は増しますが、復号に時間がかかりすぎては実用にならないからです。

 まず考えたのは、冗字を挟み込むというものでした。これは、例えばkeanを表すのに一字ごとに字を挿入してkmexaqnというやり方です。つまり、我々がやったのは間の一字を飛ばして分析をするというものです。だが、結果は前よりもさらに悪かった。さらに3字おき、4字おき、と試してみましたが、似たような結果に終わりました。

 我々は袋小路にはまってしまったのです。換字式暗号と決めてかかったのがそもそもの間違いだったのではないか?そう考えて別のやり方を探索したのです。例えば書籍暗号はどうか?」

「書籍暗号?」

「まずある本に書かれた単語一つ一つに数字を振るのです。暗号文に書かれた数字はその最初の文字に対応する。暗号文を受取ったものは同じ本を広げ、対応する単語の頭文字を丹念に拾っていく。実に強力な暗号です。」

「ほう。で、結果はどうでした?」

「みじめなものでした。まず当時一般的に使われていた聖書でやってみましたが、頭文字でアルファベットすべてそろうまでが大変だったのです。この文書で最大の数は582でしたが、xといった頻度の少ない文字はその程度の単語数ではなかなか出てこないのです。短いメッセージならxを除くという手段もありえますが、この文書の分量からして考えにくい。この路線は一月もしないうちに捨てました。

 それではこの暗号の複雑さは何に由来するのか?思いついたのはスクランブルをかけたのではないかということです。文字の配列をごちゃごちゃにしたのではないか。その方法はいくらでも考えられます。実は常識に反して縦書きにしたのではないか?そう思って試してみたこともありました。結局だめでしたが」

「ううむ。大変なものですねえ。でも、遂には解読に成功した、と」

「ええ。話はいよいよ山場に入ります。こうして私は壁に突き当たったまま何ヶ月も経ちました。ある日、私はパソコンのモニターを離れ、原点に返ろうと文書のコピーを眺めていました。ずっとスクランブルについて考えていました。完璧にスクランブルをかけたなら、五つも同じ文字列が現われるだろうか?ということです。発想を逆転したのです。つまり、ここで使われているスクランブルは中程度のものである、と仮定してみよう。そう考えながら、同じ文字列を含む二枚の紙を見つめました。その時、ある事実に気づいたのです」

「それは?」ウィルキンスは勢い込んで身を乗り出した。

「文書の左端にはどれもスタンプで捺したような絵が描かれています。それは全部で十二種類。なんと手に取った二枚には同じ図柄・サラマンダーが描かれていたのです!」

「それが鍵なんですね!」

「ええ。私はそれらを見つめながら考えました。これは偶然なのか?偶然でないとしたらそれは何か?図柄はスクランブラーの種類を表すと見ていいのでは、とね。その時までは一種の花押のようなものと思っていました。だが、そこには隠された意味がある。そのうちもう一つの事実に気づきました。一枚の用紙に書かれた文字は1行につき30字。これが46行。この数は最後の1枚を除き同じです。ここまで整然と書き込まねばならなかった理由はなにか。単に見やすいから?いや、これはスクランブルと関係があるのでは?」

 キーンの顔に赤みが差してきた。ウィルキンスも興奮を覚えながら、キーンの声に聴き入った。

「30、30。私は呟きながら考えました。ベーコンの立場に立ち、可能な仕方を想像してみました。そうして思いついたのは30の文字列をブロックに分けることだったのです。30という数の分け方は1x30、2x15、3x10、5x6、6x5、10x3、15x2、30x1の8通りある。5x6とは5字の組6個を表します。30x1とは1行まるごと複雑なスクランブルをかけることを意味します。しかしこれはまず除外していい。これなら同じ文字列自体がまず現れない。実際ありそうなのはどれだろう。そう思い言葉の列が現れた場所に注目しました。その言葉は35、265、98、7です。35は端から6番目に現れている。もう一つでは端から26番目に現れている。もうお分かりでしょう。ベーコンは5字を一組にして並べ替えをしたのです。

 ここからは私の推理です。ベーコンはまず暗号文全体を書き上げた。しかし、あちこちに同じ数字の列が出てくる。これが何らかのヒントになると考えたのではないでしょうか?例えば後世私のような解読者が現れるかもしれない。不安になったベーコンはさらに複雑化することを決意したのです。

 彼は定規を12本作りました。それはおそらくこんな感じだったでしょう」

 キーンはメモ用紙に細かな数字を書き始めた。

 1 2 3 4 5 1 2 3 4 5 1 2 3 4 5・・・・・・・・・・・・

 5 3 2 1 4 5 3 2 1 4 5 3 2 1 4・・・・・・・・・・・・

「こういう定規の端には例の図像を描き込んでおきます。後で文書と対応が取れるように。そうしておいて文書の行にこの定規をあて、別の紙に並べ替えた数字をせっせと書き写したのです」

 キーンは実際にメモを折って定規のようにし、文書に押し当て、別の紙を敷き、鉛筆を持ち実演して見せた。

「下段の最初は5。まず5番目の数字を書き取る。次は3なので3番目。こうして一組が終わると次の組に移る。作業の終わりに紙の端に定規と同じ図像のスタンプを捺す。このやり方の優れているのは、この作業を弟子にでもやらせることができることです。弟子にしてみれば意味のない数字の羅列を書き写すわけですから、さぞかし退屈な作業だったことでしょう。ベーコンの理想は1行まるごとぐちゃぐちゃにすることだったのではないでしょうか。ですが、さっきも言った通り、複雑すぎるやり方は実用的でないのです。写し間違いも起きやすい。妥協の結果がこれだと思われます。

 さて、ベーコンのやり方が分かった私たちは同じサラマンダーの絵が描かれた16枚を選び、分析を開始しました。方法は、まず文書中の数を5個一組にし、並べ替えをします。この際、

 1 2 3 4 5    1 2 3 4 5

 5 4 3 1 2    5 1 2 3 4

 のような組は除外しました。前者では3は3と対応しますね。3番目の数は変換されない。こういう組み合わせは暗号作成者の心理としては避けたいものなのです。後者は説明するまでもないでしょう。こうして120通りの順列を大幅に減らしました。その上でコンピューター上で16枚の並べ替えを実行し、同一の単語がどれほど出てくるか検証したのです。その結果、ある組み合わせが突出して多く同一単語をはじき出したのです。我々は遂に鍵を見出しました。

 この結果に自信を得た我々は他の図柄でも同様な実験を行い、全ての鍵を割り出したのです。ですが、これでようやく第一段階が終わったにすぎません」

 ウィルキンスは感嘆しながら、大きく息をついた。「素晴らしい。先生はまるで名探偵のようだ」

「ありがとう。次に我々はこうして見つけた数字の組にかたっぱしからラテン語の単語を代入していったのです。これなら一度は出てくるだろうという言葉がありますよね。英語ならtheがそうだ。ラテン語には冠詞がないので、ありそうな言葉を辞書をもとに次々とリストアップしていったのです。

 大量のプリントアウトと格闘しましたよ。ある時、発見の元になった例の4文字にim-pe-ri-um「支配権」と入力したところ、これが当たりでした。これからim-pe-ra-tor「指揮官」らしき単語が見え、さらに別の場所に別の単語の断片が浮かび上がった。あとはクロスワードパズルの要領で、次々に穴を埋めていったのです。こうして解読は飛躍的に進んでいったのです」

 ここでキーンは言葉を切り、紅茶を口に含んだ。目をつむり、何事か考え込む様子である。やがて目を開け、話を再開した。

「ベーコンにとっては不運だったと言えるでしょう。あの位置にたまたま同じ語がなければ解読はできなかったかもしれない。ベーコンは暗号の分野でもパイオニアでした。彼は『秘密の技法と魔法の無効性についての書簡』という書を著して七つの暗号法を紹介している。しかし、自分が本当に秘密にしたい文書はそのいずれにも当たらない前代未聞の方法を採ったのです。まさしく秘密保持の精神に沿っているではありませんか!

 何はともあれ、解読に取り掛かって約1年。我々は解読を完了したのです」

 キーンは疲れた表情を見せ、ソファに沈みこんだ。ウィルキンスはようやくこの訪問の真の目的が果たされる時が来たと思い、身を乗り出した。

「それで、その文書には何が書いてあったのですか?」

 夫人が封筒の中から厚さ1センチになろうかという紙束を取り出し、彼の前に差し出した。

「これがその文書の英訳です。どうぞお読みになってくださいな。最近は翻訳ソフトのいいのがありますから、あまり手間はかかりませんでしたの」

 ウィルキンスは緊張しつつ、その紙束に目を走らせた。遂に彼も夫妻を不眠症に追い込んだ文書の秘密を共有することになったのだ。

 私は去る4月の朔日、ようやく困難を乗り越え、かの『死海文書』の解読を完了した。まさに驚愕すべき内容であった。それは、私の宗教的信念とは全く相反するものである。

 聞き及ぶところでは、この文書は紀元前からヘブライの地に伝えられたものだそうだが、正しく古代ヘブライ語で書かれている。それを別種の文字に書き換えたものである。この書をめぐっては数多の伝説が伝えられている。私はそれらの伝説には強い疑いを持つものである。

 この書を解読して、私は戦慄を禁じえなかった。なんと人類の行く末の不幸なことよ。それは主・イエス・キリストの恵みとは一切関わりのない苛酷極まるものである。

 ゆえに私はこの書の真実に大いなる疑念を表明する。しかしながら、この書を頭から否定できないのも、また事実である。なぜなら、この書に書かれた予言が気味の悪いほど的中しているからである。驚くなかれ、書中にはキリスト教の勃興、ローマ帝国の滅亡、メロヴィンガ朝の成立などが事細かに書き込まれているのだ。

 恐るべきは今より未来の記述である。天使と同じ名を持つ化け物に襲われる未来の人々に憐れみあれ。

 ここに書かれた人類の歴史は私の常識をはるかに逸脱するものである。それゆえ思う。この書は古代に書かれたものなどではなく、比較的最近書かれた偽書ではないかということだ。だが、誰がなんのためにこのような書物を書いたのだろう。人心撹乱のためなら、どうして暗号で書く必要があったのだろう。謎は深い。

 私はこのような文書が世人の目に触れるのははなはだよろしくないと判断した。それゆえ、解読結果は私以外には読めない暗号をもって記述することにする。解読中の草稿は全て焼却する。

 私はこれ以降、この書が何時誰によって、なんの意図をもって著わされたか、探求する心づもりでいる。

 7.6.1264.

 ロジャー・ベーコン

 ウィルキンスは深い衝撃を受けていた。まさかここで『死海文書』に遭遇するとは夢にも思っていなかったのだ。

「驚いた!まさかロジャー・ベーコンが『死海文書』を!」

 次のページには、ウィルキンスがかつて目にした『死海文書』の冒頭がそのまま書かれていた。

 神が天と地を創造したまいし時よりまもなく、陸と海を分かつ所にアダムと呼ばれしものあり。そは白き月に住めり。−−

 キーンは淡々と口を開いた。「そうでしょう。私もここを解読したときは口も利けませんでした。ここで『死海文書』についておさらいしましょう。例のクムラン洞窟で発見されたあれと区別するために、ここでは『古・死海文書』と呼ぶことにします。『古・死海文書』が記録に現れるのは、紀元前2世紀のローマの旅行家トリテミウスの記述が最も古い。彼はかの古代アレクサンドリアの図書館に収蔵された、様々な伝説に彩られたこの文書のことを記述しています。彼はそれをじっくりと閲覧しましたが、その内容は皆目検討もつかぬと書いている。かの大図書館はその後惜しくも焼失し、『古・死海文書』の正本も永遠に失われました。しかしながら写本は生き続けた。次に現れる記録はアルハザードの『ネクロノミコン』ですが、書名が言及されているだけです。その後のキリスト教の興隆により、異端の書物とされたため、表に出ることなく、闇から闇へ受け継がれていったのでしょう。そのうちに人々の記憶からも消え去り、ごく一部の者だけが知る謎の文書となっていったのです。

 そうした写本の一つがどういう経緯か、ドーヴァー海峡を越え、ロンドンに渡来し、ベーコンがそれを手にしたのです。

 その写本はその後どうなったのでしょうか?まったく手掛かりはありません。私は政府に働きかけて、あの僧院をもう一度徹底的に調べてもらいました。私自身も現場に足を運び、仔細に観察したのですが、成果はゼロでした。

 ここからは私の想像になります。ベーコンは後に『大著作』を刊行しますが、その中に何があったと思います?彼はなんと顕微鏡に望遠鏡、飛行機に蒸気船の出現を予言しているのです。これは彼の独創なのでしょうか?もしや、この『古・死海文書』が素になったのではないでしょうか?」

 ウィルキンスはあまりにも意外な秘密の暴露に、押し黙ったまま、手元の文書を見つめていた。キーンは紅茶で喉を潤し、話を続けた。

「さて、もう一人、近年になってそれを手に入れ、解読に成功した人物がいます」

「キール・ローレンツ!」

 ウィルキンスの口元が歪んだ。憎むべきゼーレの首魁。あの忌まわしい『人類補完計画』の首謀者。

「そう。彼は『古・死海文書』に感銘を受け、ゼーレを組織し、『人類補完計画』を推進した。人類にとって大いなる不幸でした」

「ゼーレが秘匿していた『死海文書』、『裏・死海文書』とも呼ばれていましたが、あれは私も読んだことがあります。実に恐ろしい読み物でした。しかし、あれと同じものがあったとは知りませんでした」

 キーンの表情がこわばった。ため息まじりに言った。「同じではないのです」

「は?」

「同じではない。私もゼーレが所有した『死海文書』の全文を伝手を辿って入手し比較しました。その結果、『ベーコン文書』の8割と完全に一致しました。残りの2割は−−、ああ、神よ、ゼーレのものより先の事が書かれていたのです!」

 ウィルキンスは絶句して、穴の開くほどキーンの顔を見つめた。キーンも無言でウィルキンスを見つめ返した。エリザベス夫人が涙ぐみ、ハンカチを取り、目頭に当てた。

「まさか...、まだあれが続くと?」

 沈黙を破ったウィルキンスに、キーンは文書の束にある赤い付箋を指した。

「ゼーレのものは全巻そろっていたのではないでしょう。長い年月の間に失われた巻も当然ありうる。そこからがゼーレのものより先の記述です。私は今は中身のことを言いたくありません。ご自分で確かめてみてください」

 ウィルキンスはふるえる指でページをめくった。しばらくの間、彼が紙を操る音だけが応接間に鳴り響いていた。

 読み終わったウィルキンスは紅茶を一口飲んで乾ききった喉を潤した。カップを皿に戻したが、指が震えてカチャカチャと小刻みな音がたった。「ひどい...。我々はいつまで苦しまねばならないのでしょう?21億の人類はいつになったら安心できるのでしょう?」

 ウィルキンスは憔悴しきった顔を上げた。キーンは顔を伏せ、表情は見えない。夫人は鼻にハンカチを当て啜り上げた。

 キーンも顔を上げ、口を開いた。「結末は分かりません。『ベーコン文書』でも『死海文書』は完全ではないのです。失われた巻はまだある。その先にあるのは神のみぞ知る、です」

「いえ、まだこうなると決まったわけじゃない!」ウィルキンスは急に大声を出した。「リリスは必ず消滅します。いえ、そうさせなければならない!そうなればフォースインパクトも起こらない!」

「リリス廃棄計画ですか」キーンは冷笑を見せて言った。

 

 

 超絶生命体・リリスはサードインパクトから半年後、多くの科学者からなる国連調査団によって伊豆半島の海辺で発見された。それはあくまで白く、巨大な全長25メートルに達する性別不明の巨人だった。顔面にはのっぺらぼうのようになにも器官がなく、どのようにして生きているのか皆目検討もつかなかった。ただ、聴音すれば心臓の鼓動のような音が聞こえ、今なお活動していることは明らかだった。しかしながら全身1ミリたりとも動くことはなく、おそらく休眠中なのだろうと推測された。調査団は観測体勢を整え、調査を継続した。

 サードインパクト後の復興が軌道に乗り、人心が落ち着くにつれて海辺に横たわる巨人は不安の象徴となった。リリス廃棄の世論が沸き立ち、なおも研究の継続を願う一部の科学者の声は無視された。研究の成果がはかばかしくなかったことも、廃棄論の後押しとなった。

 かくしてリリス廃棄計画は立ち上がり、リリスを鋼鉄製の棺に封じ、はるか南のマリアナ海溝まで曳航し、沈めることとなった。成功すれば1万2千メートル分の水圧が、永久にリリスを海底に閉じ込めることになるだろう。

 リリスの体から50メートル沖合いにケーソンが造られ、そこで巨大な棺が作られることになった。2031年8月7日、廃棄計画の中核を担う国連災害復興委員会の関係者や、建設会社のトップがリリスの前に集まり、起工式が執り行われた。

 砂浜に紅白の幕が張られ、多数の参加者がその内側に参集していた。そこからわずか数十メートル向こうには、リリスが巨大な体躯を波に洗われながら横たわっている。

 来賓の挨拶が終わり、神事が始まった。お偉方がずらりと床机に腰掛け、しつらえられた祭壇の前で神主が祝詞をあげる。

 (以下は後に山崎氏が精神科医に語った証言による)その時、建設担当者の山崎氏は見た。自分の足元で何かが動くのを。それは一抱えもある極彩色のウミウシのような生物であった。てらてらと光る皮膚を持つそれは、地獄の使者のような、はなはだおぞましい姿をしていた。それが山崎氏の方に鎌首をもたげたかと思うと、かっ、と口を開け無数の牙を見せた。さらに舌が鞭のように伸び、山崎氏の顔をめがけ...

 山崎氏はうわっと叫び、床机から転がり落ちた。他のお偉方も同様だった。その場は一気にパニックに陥った。悲鳴をあげ右往左往するお偉方の姿を見た後方に控える一般参列者は、何事が起きたのか理解できなかった。何がそんなにお偉方をおびえさせるのか分からない。なぜならそこには異形のものなど何一つ見えないのだから。

 山崎氏は逃げ出そうと走るところを部下に取り押さえられた。「部長、どうしたんですか!?しっかりしてください!」それに対して山崎氏は答えられない。恐怖の叫びを上げ続けたのだ。その時、山崎氏の主観では、怪物が深紅の舌で氏の頬を嘗め回しているところだった。

 起工式は中止となった。その場で幻覚を見た者たちは、四分五裂して逃げ回り、全員が精神病院に収容されたのはその日の夜遅くだった。

 彼らの幻覚はその後も続いた。幻覚の中身は人によって違っていた。ある者は醜い水死体に付き纏われ、ある者は無数の醜悪な虫が体中を這い回り、ある者は腕や胸にできた人面瘡から四六時中呪詛の言葉を投げつけられた。

 その中の一人、大山イチロウはウィルキンスの同僚で友人だった。その後ウィルキンスは大山の症状が大分落ち着いたと聞き、見舞いに行ったことがある。最初の10分ほどは普通の様子だった。だが、突然態度を一変させて、ウィルキンスを恐怖の目で見た。「いやだ。来るな。来るな!うわああああああああ!!」大山はベッドに飛び込み、毛布にくるまって激しく泣きじゃくった。ウィルキンスは痛ましさに見ていられなかった。

 後の精神科医の発表では、十人が同時に発狂するなど確率的にありえないということだった。

 

 

 ウィルキンスはキーンをきつく見据えた。「確かに第一次廃棄計画は失敗しました。しかし、今度の計画は違う。一度に六発のN2爆弾を浴びせるのです。超高空から、いきなりミサイルがリリスを襲うんだ。いかなリリスでもただではすまない」

「どうでしょうか。リリスは使徒の親玉みたいなものでしょう。例のなんとかフィールドがリリスを守るのではないでしょうか」

「やってみなくちゃ分からない!」

「まあ、落ち着いて。私の話はほぼ終わりました」」キーンはケース入りのディスクを取上げて見せた。「ここにディスクがあります。これは解読のすべての過程を記録したものです。その他すべての資料一式、国連災害復興委員会に寄贈いたします。どうかあらゆる角度から検証して私の解読を吟味してください。そしてこれからの人類のために対策を立てていただきたい。これが私の願いです。もう疲れました。どうかお引取りを」

 キーンは立ち上がり、ディスクをウィルキンスに差し出した。遅れてウィルキンスも悄然として立ち上がった。ディスクを受取った彼の肩をキーンはぽん、と叩いた。

「あなたはまだ若い。どうか頑張って明日の人類を救ってください」

「今日は本当にどうも」エリザベス夫人が涙を拭きながらウィルキンスの手を握った。「ショックだったでしょう。でも負けないで。頑張って。最後のお願いです」

 ウィルキンスは挨拶もそこそこに家を出た。もう4時を回っていた。庭の向こうのセダンでは、運転手が居眠りをしている。彼は舌打ちをし、足早に車に近づき窓ガラスをこつこつと叩いた。

「おーい、君」

 その声に運転手があわてて目を開けたのと同時だった。家の方からパン、と鋭い音が響いたのだ。ウィルキンスの顔から血の気が引いた。あれは拳銃の音に似ている。彼は血相変えて今来た道をとって返した。

 玄関のドアに幸い鍵はかかっていない。「キーンさん!」彼は叫んで、つい先ほどまでいた応接間に突進した。

 応接間のドアを開けたウィルキンスの目に信じられないような光景が飛び込んできた。

 キーンが銃を持って立っている。銃はソファに横たわったエリザベス夫人に向けられていた。エリザベス夫人の胸からはどくどくと血が流れ、白い部屋着を朱に染めていっている。夫人は目を開けたまま少しも動かない。

「キーンさん!あんた、なんてことを!」

 キーンはウィルキンスの叫びに答えず、ゆっくりと腕を動かした。その顔には何の表情もなかった。銃口が口の中に収まった。キーンは目をつぶり、引き金を引いた。

 耳をつんざく銃声とともにキーンの後頭部からぱっ、と赤い霧が立った。キーンはその場に膝から落ち、床に転がった。頭の回りに赤い血だまりが広がっていった。

 ウィルキンスは呆然と突っ立ったままその有様を眺めていた。彼がようやく動いたのは、何事かと駆けつけてきた運転手の悲鳴を聞いてからだった。

 

 

「23、22、21、20、19、18」

 管制室にオペレーターのカウントダウンの声が流れる。野辺山にある国連軍戦術指揮所では軍関係者が大勢詰めかけ、これから始まる作戦の帰趨を眺めている。前方のスクリーンには衛星から送られるリリスの映像があった。リリスは腕を広げた姿勢で地面に横たえられ、眠っているかのようである。そこにいる者だれもが固唾を飲んでスクリーンに見入っていた。天候は良く晴れ、作戦には好都合だった。

 リリスは陸揚げされ、内陸20キロの砂漠のような荒地に安置された。そこに置いておくためではない。第二次リリス廃棄作戦のためである。松本に設置された国連軍のミサイルサイロでは弾道ミサイル6基が発射の時を待っている。既にサイロの蓋は開き、後はコンピューターが定刻に発射の命令を下すだけである。

「5、4、3、2、1、発射」

 サイロ内に白い噴煙が立ち込めた。やや遅れてミサイルが悠然と上昇を始める。それらはみるみるうちに加速され、空中に飛び出した六本のミサイルは荘厳な青白い炎を吐き出しながら猛然と天をめざして駆け上がる。

「着弾まであと2分」

 オペレーターは事務的に数字を読み上げる。並み居る幕僚たちは相変わらず声もなくスクリーンのリリスを見つめる。

 リリスの真上にある空にきらりと光るものがあった。と、それは白い尾を引きつつ急速にリリスに近づいてくる。全部で六本の白い線がリリスをめがけて殺到してくる。

 一瞬後にはすべてがリリスに到達していた。太陽を上回る灼熱と人知を絶する衝撃がリリスを包み込んだ。

 スクリーン上では、閃光の後、白い塊が急激に広がり、きのこ雲が湧き立つ様を鮮明に映し出していた。きのこ雲はなかなか消えず、視界を遮り、結果の判定を急ぐ幕僚たちを苛立たせた。やがてそれが風に流され、爆心地の映像が現れた時、その場にいた誰もが息を呑んだ。

 リリスはクレーターの中心に前と変わらぬ姿で横たわっていた。奇怪にもリリスの回りの地面には変化がなく、クレーターはリリスを中心としたドーナツ状に広がっている。

 指揮所の内部は絶望に包まれた。呪いの声とため息が指揮所を駆け巡った。彼らは無力感に打ちひしがれた。

 一人の将校がスクリーンを指して叫んだ。「あ、あれは...。動いてる!!」

 その声に全員が静まりスクリーンを注視した。脅威の光景が眼前に現出していた。

 リリスの右腕がゆっくりと動いていた。それは地面を離れ、まっすぐ天を指した。さらにその腕は頭の方に向かって下りた。指も変化していた。人差し指以外の指が丸まっていくのだ。やがてリリスは北を指す姿勢で止まった。

 軍人たちは恐怖に固まったままその光景を見つめていた。人間の知力をはるかにしのぐ存在を、この時その目で確認したのだ。

 リリスはおのれの意志を表明した。

 その指先は真っ直ぐにジオフロントを指していた。

 

 

(参考文献 サイモン・シン著「暗号解読」)

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