サードインパクトはセカンドインパクと同様、人類にとって深刻な災厄であった。

 リリスが放散したアンチATフィールドによる生命体のLCL化は、その後生命体自身の自律回復により、3日後には大方が元の状態を取り戻した。だが、そうでない者も多かった。帰って来た者は全体のおよそ7割。約9億の人間が赤い海に取り込まれたまま帰還しなかった。3割の人的損失は大きい。経済は急速に縮小し、連鎖は連鎖を呼び、未曾有の恐慌が世界中を覆い尽くした。倒れた政府の数は十指を上回った。ある国では内戦が起こり、ある国では革命が起こった。食料供給は齟齬を来し、先進国までが飢餓状態に陥った。市場経済に変わり統制経済が主流となり、食料の配給の前に列をなす人々の姿は、どこの国、地域でも当たり前のものとなった。1日に何万もの人間が死んだ。赤い海の中に消えた人間たちをうらやむ者も多かった。

 国連は災害復興委員会を組織し、世界規模で復興を支援した。職員たちは不眠不休で人々に食を与え、医療を施し、激励した。

 不幸中の幸いは、今回のインパクトが気候変動を伴わなかったことだろう。サードインパクト前に積み重ねた食料増産の努力は無にならない。人々は歯を食い縛って耐え、いつかは訪れる平和な日々を想った。

 そうした混乱が続く中、サードインパクトの原因解明など優先事項ではなかった。日々の暮らしの事が最優先となる。それでも予算も人員も明らかに不足していたとはいえ、サードインパクトからわずか6ヶ月後に調査機関は組織された。

 調査隊には多くの科学者やエンジニアが参加した。彼らが最初に行ったのは廃墟と化したジオフロント、ならびに沖合いにある横たわる巨人の調査だった。

 ジオフロントに隣の芦ノ湖の水が流入しなかったのは幸運と言って良かった。ジオフロント上部の土砂が円環上に隆起したため、湖水の流入を阻む堤が出来上がっていたのだ。このため、彼らは不安定な陸路を避けて戦略自衛隊のヘリによりジオフロントを目指した。

 調査隊は、ジオフロントに到着するなり、そのあまりの変わり様に声を失った。

 底部にあったはずの施設、ピラミッド状のネルフ本部や、森林、橋、地底湖までがまるごと無くなっていた。ジオフロントはまるでしゃもじですくったかのように、球状に抉り取られたのだ。後で測量したところ、それは驚くほど真球に近い抉られ方だった。ただ球面には何本ものトンネルと巨大な竪穴があった。トンネルはエヴァを射出する通路であり、竪穴はネルフの中枢である地下施設がむき出しになったものだった。

 

 

 これらのことから、調査隊はジオフロント自体が球状の塊となって空中へ上昇した、と推測した。そしてどこに消えたのか?宇宙空間で雲散霧消したと考えるほかは無かった。

 安全を確保しつつ、竪穴を通って地下施設に踏み込むまでには1ヶ月を要した。セントラル、ターミナルの両ドグマはそのまま残っていた。ようやく内部に踏み込んだ彼らは荒れ果てた施設内を徹底的に調査した。少しでも多くの資料を集める必要があった。ネルフとゼーレとはいかなる組織であったか?エヴァンゲリオンとはなんだったか?サードインパクトとはなんだったのか?それらの解明がこの資料収集に掛かっていたと言っても過言ではなかった。

 彼らが見たものは科学の名における生命への冒涜行為だった。彼らが最も戦慄を覚えたのは広大な処理場で、そこには夥しい数の巨人の出来損ないが打ち捨てられていた。それらのあまりにグロテスクな有様は、実際に吐き気を催す者もいた程であった。

 彼らは残されたコンピューター一台一台を解析し、多くの解答を得た。研究所には多くの資料、サンプルが残されていた。その中にあったある試験管は後に重要な役割を果たす。

 ネルフとゼーレに少しでも関わった人間はすべて苛烈な訊問の対象になった。だが、その中に最も聴取すべき者たちはいなかった。ネルフ上層部の人間はジオフロントと運命を共にしたと考えられた。ドイツ支部の幹部も多くは赤い海から生還しなかった。

 そして、エヴァンゲリオンのパイロットたちである。

 彼らからの事情聴取は多くの情報をもたらすはずだった。だが、フォースチルドレンを除くパイロット全員が消えていた。彼らの捜索はその後何年にも亘って続けられたが、最終的には生死不明と報告された。

 こうして事件の真相は徐々に明らかにされていった。調査団による最終的な報告書は調査開始から10年後、2026年に発表された。それは1200ページにも上る膨大なものとなった。

 事件の真相を知った人民はゼーレとネルフに対して怨嗟の声を放った。両組織の生き残りは裁判にかけられ、いずれも重い刑罰を受けた。

 だが、ゼーレやネルフの思想に共鳴する者も少数ではあったが、いたのだ。彼らはそれぞれごく小さなサークルを作った。彼らの中には時の政府の弾圧を受けた者も少なくなかった。

 30年代に入り、世界経済は恐慌を脱し、食料生産も安定して、人々はようやく落ち着きを取り戻した。だが、二度に亘るリリス廃棄作戦の失敗は人々に不安の種を植え付けた。得体の知れない使徒はまだ生きている。しかもそれは人間が手の出しようのない、不可侵の存在なのだ。今は休眠しているが、それが再び目覚めたら何が起きるのか。

 2034年、国連災害復興委員会は日本政府と共同で一つの声明文を発表した。

「現在日本の伊豆半島にある第二使徒リリスは、元の安置場所であるジオフロント内、当初ターミナルドグマと呼ばれた地下空洞に戻すことを決定した。これに伴い、現状開放されたままのジオフロント上部を建造物で覆い、再び閉鎖することとする。つまり、ジオフロント自体をリリスを封じる塚とするものである−−」

 次の年、リリスはターミナルドグマに20年ぶりに帰還した。リリスがどう思ったかは全く分からない。翌年には上部に覆いが懸けられ、ジオフロントは人々の目から隠された。それ以後、人々の不安はだんだんと静まっていくかに見えた。

 それから10年後の2045年5月7日、国連事務総長ヤニス・テオドラキスは多数のプレスを前に衝撃的な発表をした。

「−−私はこれから皆様に重大な発表をしなければなりません。どうか皆様、心を落ち着けて私の話を聞いてください。軽挙妄動をなさらぬように。

 今から5年以内に85%の確率で使徒がまたしても襲来いたします。これは、多くの形而上生物学者の一致した意見であります。誠に悲しむべきことではありますが、人類はみたび存亡の危機にさらされるのであります。しかしながら、皆様。希望を失ってはなりません。我々国連は12年前に既にその兆候を掴み、密かに対策を練ってきたのであります。使徒に対抗する新たな組織が結成されます。それはあの忌まわしいリリスを収容したジオフロントに置かれます。そして皆様、かつて使徒を葬ってきたエヴァンゲリオンが再び建造されるのです。思い出してください。その昔、エヴァンゲリオンは襲来する使徒を悉く撃退したことを。さらに人類は以前よりもずっと豊富なテクノロジーを手にしているのです。私はこの新たな危機を、人類は必ずや乗り切るものと強く確信するものであります−−」

 この日を境に世界はまたも不安と恐怖の時代に突入する。明日も今日と同じ日が続く保証は永遠に無くなったのだ。

 

 

 2045年8月、使徒迎撃機関ネオ・ネルフ発足。

 2048年1月、新たな量産型エヴァンゲリオン1号機、長野県松代の実験場において起動実験に成功。翌2月、2号機、3号機立て続けに起動に成功。同月ジオフロントの要塞化工事着工。

 2050年7月4日、第18使徒襲来。ジオフロントより3kmの地点においてエヴァンゲリオン3機による迎撃。殲滅に成功。

 

 

 ネオ・ネルフの前身、『国連災害復興委員会・使徒対策作業部会』は2033年に既に結成されていた。座長に就任したのは「ベーコン文書」の秘密を知った3番目の人間であるロバート・ウィルキンスであった。この組織の存在は、公式には一切発表されず、彼らは秘密裏に使徒迎撃の唯一の手段であるエヴァンゲリオンの再建造を模索した。

 旧ネルフによるエヴァンゲリオン4機の秘密が明らかになった時、彼らは事の困難さを思い知らされた。エヴァンゲリオン初号機から参号機まではパイロットの肉親の魂をコアの内部に封入してあり、その肉親の絆が起動を可能にしていたのである。もう一度誰かの魂をあの中に吸い込ませるなど、思いもよらなかった。そんな非人道的手段を採ってまで生き延びたくない、それがスタッフ全員の考えだった。

 ダミーシステムはどうか?戦闘力の低さ(弐号機は僅か5分で量産型9機を戦闘不能に追い込んだ)、ならびに暴走の危険性が問題となる。このシステムの採用は初期段階で消えた。

 では、どうしたらいいのか。

 何事にも例外がある。ファーストチルドレンがそうだ。彼女は零号機のコアが空なのにも関わらずシンクロして見せた。彼女はいかなる係累もない、天涯孤独の存在だった。

 彼らには他に選択肢はなかった。幸いジオフロント調査団はセントラル・ドグマにおいて、厳重に保管された碇ユイの細胞片を発見している。人類存続の手段はここにしかない。

 

 

 

 

 すなわち、綾波レイの再生である。

 

 

 

 

リリスの子ら

間部瀬博士

第1話

 「それ」は自分がいかにして生まれ、いつからそこにいるのか、何も知らなかった。そもそも自分が何かという自覚もなかった。「それ」は気がつけばそこにあり、何をするでもなく、時々無警戒にそばに寄って来る魚たちを巨大な腕の一つ(「それ」には腕が数百本ある)を使って追い払うだけであった。

 このおよそ平穏で変化のない毎日がとこしえに続くかと思われた。「それ」はそのことに満足していた。

 だが、ある日のこと、唐突にある声が「それ」の頭の中に響き渡った。

 来ヨ。

 聞くなり、「それ」の全身が小刻みに震えた。水流がふいに乱れ、そばを泳いでいたダイオウイカがあわてて距離を取った。

 「それ」は今やはっきりと理解していた。自分はあの声を出す者の元へ赴かなければならない。なぜなら、声がそう命じているのだから。

 再び声が聞こえた。今度は「それ」の聴覚器官が捉えた(少なくとも「それ」にはそう感じられた)。

 「それ」の巨大な体躯が海底の砂地を移動し始めた。砂が盛大に舞い上がった。声がまたも聞こえた。「それ」は声が聞こえた方向へ全速力で進んだ。

 声の元に辿り着けば、素晴らしいことが起こる。「それ」はそう確信していた。

 

 

 伊豆半島沖50km、相模湾の海中に海上のブイから下ろされた一個のセンサーがあった。それが前方に何か巨大なものが移動するのを感知した。同時にブイの赤いランプが点滅した。無線装置のスイッチがオンになり、情報は130km離れたジオフロントへ時々刻々送信されていった。

 午前3時59分。ジオフロントはまだ眠りから醒めていなかった。僅かに宿直の兵が十名ほど見回りをしていただけである。本部ビルの地下150mにある巨大な作戦司令室も、その時生きた人間は誰もいなかった。

 いきなり、一台のコンソールの電源が入った。モニターが明るくなり、いくつもの数字と文字が上から下へ表示されていく。屋内の照明が点灯した。と、同時にコンソールの前に座っていた三人の軍服姿の男たちが同時に目を開けた。

 男の一人がモニターを見つめながら淡々と言った。「使徒警報受信。直ちに評価せよ」

 もう一人が猛烈な速さでキーボードを叩く。「了解。BOSATSUの準備よし」

 別の一人が言う。「第52番センサーがアンノウンを感知。アンノウンの現在位置は北緯35度1分、東経139度29分。続いて51番、53番感知。三台による報告を総合」

 司令室前方は何もない空間である。そこへ忽然とスクリーンが現れ、多種多様なパターンが映し出された。そのうち、複雑に折れ曲がった一種の蛋白質のパターンが表示された。

「パターン青。目標を第128使徒と認む」

「作戦開始。2082年6月7日午前4時1分」

「ジオフロント内に警報発令」

 一人の男がコンソールの左にあるプラスチックのカバーを開け、中の赤いボタンを押した。同時にジオフロントの広大な空間はサイレンの低く、長い騒音で満たされた。

 

 

 ある一軒の家で、サイレンが鳴るとほぼ同時に、男が目を開けた。ベッドの中、男は裸でいた。外はまだ暗い。上体を機敏に起こし、傍らに眠る若い女の肩に手をかけた。

「起きて、ハルカ。使徒だよ」

 女はううんと唸っただけで、目を開けない。逆に枕に顔を押し付けてしまう。

「ほら、ハルカ。聞こえるだろ?使徒が来たんだ」

 男は強く女を揺さぶった。ようやく女は眠たげに答えた。

「シャワー」

「え?」

「連れてって」

 男は肩をすくめてシーツを剥ぎ取った。女の若い、見事な裸身が現れた。男はその下に腕を差し込み、軽々と持ち上げた。両腕に女を抱えてバスルームへ歩いた。女は男の胸に手を置き、その肩に頭を付け、目はつむったままにしている。

 バスルームに入った男は椅子に彼女を腰掛けさせると、一気にシャワーの栓を捻った。いきなり冷水を浴びた女はひっ、と叫んで縮こまる。

「つ、冷たい」

「このくらいでちょうどいいのさ。君、朝が弱いんだから」

「んもう」

 やっと女は立ち上がり、シャワーの温度を上げて手早く素手で体を撫で回し、シャワーを止めた。男を振り返ったときは、しゃんと背筋を伸ばし、ぱっちりと目を開けていた。男はバスタオルを広げて待っていた。

 男は女よりやや背の高い、細身の体躯を持っていた。髪は黒く短い。瞳は澄んだ茶色。女なら誰もが好感を持ちそうな、鼻筋の通った美青年であった。

「眠い?」

「少し」

 女はバスタオルで体の水分をふき取りながら、寝室へ戻った。クローゼットを開け、中のオレンジ色の衣装を取り出した。それはプラグスーツと呼ばれるもので、女はそれに全身を入れ、手首に付いたボタンを押すと、シュッと音がして空気が抜け、体にフィットした。ショートカットにした髪から水滴が落ちる。彼女は髪をタオルで拭き、ブラシを数回入れただけで、殆ど頓着しなかった。どうせ後でLCLに浸かることになるのだから。

 女が寝室を出ると、男が待っていた。もう服を着ている。壁に付いたデジタル時計を見た。その表示は+8:05。作戦開始から8分5秒が経ったということだ。外のサイレンはまだ鳴り止んでいない。標準集合時間は15分以内。まだ余裕はある。

 男は女に歩み寄り、細い腰を抱いた。女もまた腕を回して男を抱いた。

「頑張って。ハルカ。ここでずっと祈っているから」

「まかせて。今日も絶対に勝つ」

 唇が接近して、二人はキスを始めた。ハルカはほんの少し男の舌を味わうと、唇を離し、男に言った。

「じゃあね。行って来る」

「気をつけて」

 男と離れたハルカは玄関に向かった。ドアの前で立ち止まり、横の壁に掛けてある小さな額縁入りの写真を見つめた。

 それは、ハルカよりずっと幼い、中学校の制服を着た一人の少女の写真だった。その少女は無表情にまっすぐこちらを見つめている。少女の容姿はハルカにそっくりだ。蒼い髪と紅い瞳。ハルカはその写真に左手を置き、目をつぶって小声で呟いた。

「ファーストチルドレン。私に力と勇気を」

 ハルカはドアを開け、外に出た。良く整備された庭があり、生垣と胸までしかない木製の門がある。集合地点はそこから100mほど行った場所である。ハルカは急ぎ足で門に向かった。男は玄関からハルカの後姿を見ている。

「ねえ、タツヤ。今日の晩御飯は何?」ハルカは門に手を掛けながら男を振り返った。タツヤは微笑を浮かべて答えた。「今晩はアドリア海風のパスタだよ」

 ハルカもちょっと笑い、踵を返して緑の芝生に囲まれた道を駆けて行った。タツヤは玄関に立ったまま、ハルカが角を曲がって見えなくなるまでその後姿を見守った。

 

 

 女は男の頭を抱え、抜き取らんばかりに男の舌を吸った。やっと口が離れた時にはチュッと湿った音がたった。

「ほら、チヒロ。そろそろ行かないと」

「まだ平気。もっと抱いて」

 チヒロは男の胸に頭をすりつけて甘えかかった。男はそんなチヒロを優しく抱きしめる。「さあ、続きは今晩。ね」

 チヒロは頬を紅く染めて、ん、と頷いた。回れ右をしたチヒロの肩を、男は抱いた。男が玄関のドアを開けると、騒音が一気に部屋に飛び込んできた。

「大丈夫よ、マサト。絶対勝つから」力強いチヒロの言葉だった。マサトは満面の笑みを返した。「当然だよ」

 その言葉へのお返しは頬へのキスだった。チヒロはポニーテールにまとめた長い髪をなびかせ、家の門目指して駆けて行った。

 

 

 フォーティセカンドチルドレン・ハルカ。今年19才になる。彼女は齢13才で初陣を踏み、以来17度の使徒戦を経験し、今日まで生き延びてきた。そのうち自らの手で使徒を屠ったことが3度ある。栄誉勲章を授与されたのは6度。実戦経験豊富な、ネオ・ネルフ戦力の中核の一人である。

 ハルカは右手に深い、緑なす森を見ながら集合場所を目指して歩いた。左手には自分の家と同じコテージ風の家が何軒も並んでいるが、誰も出てくる様子はない。

 既にジオフロントは目覚めていた。サイレンはようやく止まったが、全ての照明が灯り、昼間のように明るい。周囲は騒然とした気配を醸し、使徒戦に向けた緊張感が漂い始めている。ハルカの表情も自然と引き締まった。

 前方には、太く長い3本の柱が見える。それらは、円形のジオフロントの中心から等距離に正三角形をなすように建てられ、はるか上空の天蓋を支えている。それは文字通り柱としての機能と、エヴァの射出路としての機能を併せ持っている。その天蓋の中心は巨大な円形のゲートになっていて、今はゆっくりと開口しつつある。

 柱にはそれぞれ6機のエレベーターが付属している。今、それらはフルに稼動し、柱の表面に筐体が高速で行き来する様が見て取れる。

 天蓋には地上部の集光ビルから届いた光を放つ散光塔が何本も下がっている。しかし、まだ太陽が昇っていない今は機能していないので、ドーム表面に無数のライトが光り、人工の星空のような光景を作り出している。

 それらを眺めながら歩いたハルカは集合場所となっている地点に辿り着いた。そこで芝生や木々が途切れて、幅の広い道路になり、前にあるのは鉄とコンクリートでできた殺伐とした風景である。

 ハルカが立っているのは高台だったので、半球状のジオフロント内部を奥まで見通すことができる。ジオフロントの殻をなす壁面は、数多くの鉄骨が中央ゲートを中心とする放射線を形作り、機能美を備えている。底面は平坦で、中央部は三本の柱の他に何の構造物もない。航空機の発着場としているからである。格納庫や砲台、ビル群等は周辺部に集中していた。

 ネオ・ネルフの中核は全てその地下にある。エヴァンゲリオンの格納庫や中枢コンピューターBOSATSU、作戦司令室などは球の下半分にあった。さらに地下深くには第2使徒リリスが、昔のように磔の状態で眠っている。

 格納庫からジェット戦闘機が一機、中央に向けて前進していた。垂直離着陸機なので、長い滑走路は必要としない。ネオ・ネルフが有する航空機は全てこのタイプだ。出撃が近いのか、多数の整備員が走り回っているのが見える。

 その場にはハルカの他に誰もいなかった。ハルカは自分が一番乗りをしたことに満足し、森を貫く小道を振り返ろうとした。

 その時、視界の隅に奇妙なものを捉えた。道路の向かい側に人が立っている。誰かと思い視線を戻すと、それは自分たちと同じ蒼い髪をした女の子だ。ただ、服装が変わっている。

 写真では見慣れたファーストチルドレンと同じものだった。ハルカは奇異の念に打たれ、一歩近づこうとした。

「お早う」突然、後ろから声が掛かった。思わず振り返ると、青いプラグスーツを着た自分が近づいて来る。彼女とは同い年の同僚、チヒロである。ハルカと瓜二つだ。

 ハルカは短く挨拶を返し、視線を戻した。しかし、ハルカは我が目を疑う。

 その場所には誰もいないのだ。少女は忽然と消えてしまった。ハルカは目をしばたたかせてその辺りを注視した。

「何かいるの?」チヒロが聞いてきた。ハルカは戸惑いながら言葉を濁した。「いえ、何でもない」

 それを見たのは一瞬のことだったので、うまい説明が思いつかなかった。どうかしたら変に思われるだろう。とりあえず無難な答えを返したのだった。

 再びお早うの声がかかった。今度は大勢の声だ。見ると、白を先頭に色とりどりのプラグスーツを着た六人がやって来る。

「あなたたち、いつも早いのね」白のプラグスーツを着た女が言った。彼女の名はキヨミ。ハルカよりずっと年上で、24才になる。この場にいる女たちの中では最年長になり、チルドレンのリーダーを務めるベテランである。どことなく落ち着いた物腰は経験の賜物と言えよう。

 キヨミはまさしくエースと言ってよかった。43度の使徒戦を経験し、いずれの戦いでも中心的な役割を果たした。最盛時には実に75%ものシンクロ率をはじき出し、この記録は未だに破られていない。現在、シンクロ率ではハルカやチヒロに劣るものの、経験や操縦技術でトップを張り続けている。

「「お早うございます」」と、ハルカとチヒロはかしこまった挨拶を返した。キヨミを見つめる視線には憧れと尊敬が籠もり、瞳がきらきらと輝いた。

 集合地点に八人のチルドレンが勢ぞろいした。彼女らは年齢の違いこそあるが、すべて同じ容貌をしていた。なぜなら、全員全く同じDNAを持っているからである。そしてそのDNAはファースト・チルドレン・綾波レイとも同一である。彼女らは皆、人の手によって造り出された。

 

 

 ここまでのところ、人間は一人も登場していない。

 男たちはすべて人工知能を搭載したロボット、アンドロイドだ。タツヤにマサトというのも便宜上の呼び名に過ぎない。タツヤの正式名称はwrp164735。マサトはwrp164786。ネオ・ネルフ技術部特製の超高性能アンドロイドである。

 タツヤの役目はチルドレンたるハルカの教師、世話係、話し相手であった。初めて彼がハルカに会った時、彼女はまだ3才。彼自身も今よりも小さな8才程度のボディを持っていた。それ以来彼らはずっと一緒にいる。ハルカが長じては、愛人としての役割も担った。マサトについても同じだ。

 チルドレンは皆こうしたパートナーを持つ。なぜネオ・ネルフはこのような待遇を彼女らに与えたのか?エヴァの操縦の特異性によってである。エヴァとのシンクロはその時の精神状態に左右されやすい。パイロットの精神の安定が即、エヴァの運用の安定につながるのだ。パートナーに期待されているのはチルドレンを癒し、鼓舞し、戦いへの情熱を高めさせることである。

 人間には困難な仕事と言える。誰が災厄の源である使徒の眷属に、種の壁を乗り越え一生を捧げることができるだろう。アンドロイドであれば、いささかのえり好みもせず、自分の役目を忠実に果たす。

 

 

 遠くからバスがやって来る。チルドレンを本部へ運ぶバスである。「遅ーい」とチヒロが不満そうに声を上げた。既に集合時刻を5分も過ぎている。

 キヨミは落ち着き払っている。「この時間だからね。みんな寝起きはつらいわ」

「使徒がそこまで来てるかも」と、チヒロはいらだちを見せた。

 キヨミは涼しい顔のままチヒロに言った。「大丈夫。使徒はまだ遠くよ」

「どうして分かるんですか?」

「いきなり真上に来るタイプなら、もっと騒然としてるわ。今度のは堂々と進んでくるタイプよ。出撃までは余裕があるわよ」

 果たしてその通りだった。バスが到着した。キヨミは肩甲骨を覆う長い髪をなびかせ、先頭に立ってバスのタラップに足を掛けた。

 

 

 作戦司令室には、既にスタッフ全員が勢ぞろいしていた。司令室は縦横30メートル、奥に行くほど低く、最奥部は高さ16メートルほどの空間で、全部で75名がこの場所で働いている。さらに奥はヴァーチャルスクリーンゾーンとなっていて、多種多様な映像がこの場に映し出される。今、そこにはネオ・ネルフ近辺の地図が描かれているのだが、相模湾に当たる場所に赤い光点が瞬いているのが目を引く。その光点はゆっくりとだが着実に、陸地に近づきつつある。

「お早う、諸君」

 後方から威厳に満ちた声が聞こえ、スタッフ全員が一斉に立ち上がった。将校の制服を着た二人の軍人が入ってきた。

「そのままで」フォン・アイネム元帥は右手を上げて皆を制し、付き従う副司令、信時マサミツ中将と共に司令室の最も後方にある一段高くなった幕僚席に座った。

 ハインリッヒ・フォン・アイネム、ネオ・ネルフ総司令は50代半ばの堂々たる体躯を持った銀髪の軍人である。冷徹な物腰と鋭い決断力をもって知られ、在任5年目になる。ネオ・ネルフの最高指揮官として幾多の使徒戦を勝ち抜き、国連の信頼も厚い。

 傍らに座る信時副司令は総司令より在任期間が長く、既に10年間この地位にある。温厚・実直な性格で職員の人望は高く、ネオ・ネルフを知り尽くしていると言っても過言ではない。60過ぎのすっかり頭が白くなった、長身の副官である。

「状況を聞こう」フォン・アイネムは直立不動の姿勢で立つ栗林作戦部長に言った。彼は40を過ぎて間もない優秀な軍人で、階級は少佐である。栗林はクリップボードを見ながら落ち着いて答えた。「現在第128使徒は城ケ崎沖を時速40キロで熱海に接近中です。使徒の大きさは推定で全長25m、幅20m、高さ30m。上陸予想時刻は午前5時8分。只今の迎撃準備率は35%です。V?TOL戦闘機6機、発進準備を終えています」

 信時は眉を顰めた。「少し遅いな」

「はい。就寝中の者が大部分でしたので、初動がやや遅れました」

「使徒に人の生活習慣は関係ない。人の都合など聞いてくれはしない」と、フォン・アイネムは冷静な口調で言った。

 信時が口を挟んだ。「全くその通りです。しかし、前回は午前2時23分、前々回は午前3時3分。どうも使徒は夜型に変わってきているようですね」「うん。このことは分析する必要がある。夜討ち朝駆けを意図的にやっているのかもしれぬ。これは見逃せない変化だ。我々はこれまで使徒たちはそれぞれ独立に襲来するものと考えてきた。だが、使徒間に連携が出来上がるとなると、これは脅威だ。また、戦術を覚えたとなると、これもやっかいだ。一体誰がそんな知恵を授けた?また謎が増えたな」

 栗林は総司令の言葉に不安を覚え、じわりと背筋が寒くなるのを感じた。そんな栗林に総司令は軽く手を振った。

「だが、今は目の前の使徒に集中する時だ。行きたまえ」

 栗林は軽く敬礼をして自席へ戻った。周囲では5人の中枢スタッフが熱心にモニターを見ながらインカムを通して会話をしている。栗林は早速その中のキム少尉に問いかけた。

「チルドレンの準備はどうだ?」

「8人全員、揃って控室にいます。体調に問題のある者なし。順調です」

 キムは目の前のモニターに映る画像をチルドレンの控室に切り替えた。

 

 

 控室では8人のチルドレンが思い思いに出撃の時を待っていた。

 壁にはぐるりとロッカーが置かれ、それぞれに各チルドレンの名前が表示されている。その前にあるアームチェアに腰掛けたハルカとチヒロはお喋りに余念がない。二人は生まれた日が近く、ずっと歩みを共にしてきたせいか仲が良かった。キヨミは静かにコーヒーを飲みながらそんな二人を眺めている。傍らに立ち、屈伸運動で体をほぐしているのはユリコで、17才。ハルカとチヒロに次ぐ戦闘経験を持つ。この4人が組んで使徒に接近戦を挑む、言わば前衛としての役割を果たす。

 後衛として遠距離戦や前の四人のサポートをするのが、ユキエ、サヨコ、ルミ、ユカの四人。彼女らはさらに若く、最年少のユカに至っては13才にしかなっていない。

 そのユカは今回が初めての実戦である。ユカは座りながら拳を握り締め、唇をきっ、と結んでロッカーの一点を見つめている。固くなっているのは誰の目にも明らかだ。

 キヨミは立ち上がり、ユカの後ろに歩み寄った。

「ユカ」キヨミは声をかけてユカの肩に両手を置いた。「先輩...」ユカは振り仰いでキヨミと目を合わせた。

「固くならないで。訓練通りにやればいいのよ。大丈夫。あなたは危険なポジションじゃないから。私たちの戦いを見学するぐらいの気持ちでいればいいの」

「でも...」

「初陣だもの。みんな過大な期待は掛けてないわ。先輩や作戦部の指示を守ることに専念してなさい」

「そうよ、ユカ」一つ年上のルミが話しかけた。「大抵は先輩たちだけでかたを付けてるから。それにあなたは私たちと一緒だから、危険は少ないの」

「そうですね」ユカはほんの少し笑みを浮かべた。キヨミも微笑みを見せ、ユカの肩を叩いて自分のロッカーへ歩いた。

 キヨミはロッカーから手提げ袋を持ち出し、部屋の中央にある丸テーブルの前に座った。袋から丸い木の枠に挟まった白い布を取り出す。チヒロがそれを見て尋ねた。「何ですか?それ」

「刺繍。布にこうやって糸を通して絵を描くの」

 キヨミは木枠を挙げてチヒロに示した。布には一つ薔薇の花が出来上がりつつある。花の端から赤い糸が垂れ下がっている。

「へえ、先輩ってこんな趣味があったんですか」

「待ち時間の退屈しのぎにと思って始めたの。これをやってると落ち着くわよ」

「器用なんですね」ハルカがキヨミの背後から、感心そうに言った。「すごく上手いと思う」

「そんなことない。形が崩れてるわ」言いながらキヨミは糸を針に通した。「変よね。戦う女なのに。少女趣味みたい」

「変なことありません」ハルカはきっぱりと否定した。「そういう先輩はとても素敵です」

「ありがと」キヨミは少し微笑んで針を布に刺した。

 

 

 戦闘機隊のリーダー、南雲大尉は旋回飛行に入りながら、使徒の上陸予想地点を観察していた。後方には5機が、南雲の隊長機を先頭に三角形をなす形で付き従っている。太陽がわずかに覗き、黄金に輝く海面には今の所何の変化もない。だが、司令室から来る情報ではすぐそこまで来ているはずだ。

 南雲はこの戦闘における自分たちの役割を熟知していた。それは、無駄玉を撃って使徒の能力を探ること。戦闘機がこれまで使徒に損害を与えたことはただの一度もなかった。それでいて使徒に落とされた僚機の数は20を下らない。南雲は腹の底から湧き上がるような緊張感を覚えていた。

 沖合い200mほどの海面が俄かに泡立った。と、いきなり広い範囲で海面が盛り上がり、波が砕けた。

 南雲はその瞬間をその目で見た。その形をはっきりと確認した南雲は、悪寒と同時に畏怖に近い感情を覚えた。それは悪夢のような壮麗さを湛えていた。

 

 

「使徒が上陸します!」

 キム少尉の甲高い叫びが作戦司令室に轟いた。映像はまさに光点が海岸線に到達したところだ。作戦司令室の全員がスクリーンに見入った。

 隣に座る古賀中尉が続けた。「光学映像が来ます」

 スクリーンに第128使徒の全身が映し出された。それは使徒の常識を逸脱した姿を数多く見てきた司令室のスタッフをもたじろがせるに十分なものだった。

 使徒は四対の太い管足をうねらせて前進している。管足の上には細長い卵型の胴体が乗り、そこから等間隔に配置された長い三本の首が伸びている。首の先端には、口と思しい穴の回りに夥しい数の触手が生え出ていて、それらがうねうねと動く様は悪感を催させるものがある。触手の長さは身長の半分にまで及ぶ。全身は病的なまでに白いが、触手だけは毒々しい赤い色で、禍々しさを増幅している。脇腹に当たる部分には六本の縦筋が走り、開閉しているのは鰓だからだろうか。

 使徒は水没しかけた廃墟の群れを離れ、固い陸地に足を踏み入れた。

『こちらアルファ1。これより使徒に対し攻撃を仕掛ける』南雲の声が司令室に響いた。

「攻撃機がアタックを開始」

 南雲の一番機は使徒に向けて降下を開始した。間もなく使徒への直線コースに入った。目の前のモニターに使徒の映像があり、南雲はその映像につまみを操作して赤い三角形を重ねた。赤が黄色く変わり点滅した。ミサイルがロックオンされたのだ。「少しは苦しめ」南雲は操縦桿の先端についた赤いボタンを押した。がくん、という衝撃と共に二本のミサイルが放たれた。すぐさま機首を上げて離脱する。白煙を引いてミサイルが使徒を襲う。だが、それはむなしく使徒の手前で爆発した。六角形の白い縞が使徒の前に現れて、消えた。続けざまに5機が同じ攻撃を仕掛けた。しかし、いずれも最初と同じ結果に終わった。使徒は何事もなかったかのように前進を続けている。

 南雲ら戦闘機隊にとってはいつもの成り行きだった。この戦闘から得られた情報がいくらかでも後の決戦に役立てば、十分に役目を果たしたことになる。使徒が攻撃を仕掛けてくればなお良かった。が、そうなればパイロットの生命は危険に曝される。命を賭ける割には実りの少ない仕事だった。

『使徒に変化なし。帰投の許可を願う』

「許可する」

「巡航ミサイル、1番から4番。発射準備せよ。」

「三次元データ入力開始。後5秒。...完了しました」

「衛星による誘導、問題なし」

 ジオフロント地上部は円形の城と言ってよい。

 最外周は直径12kmに及ぶ円形の城壁で高さは50m、その外側は深さ20mの空堀になっている。さらに外側は鉄柱を三本組み合わせたバリケードが無数に散らばっている。壁には100mおきに垂直にそそり立つ塔が立ち、巨大な機関砲が据えられている。その25m内側に第二の壁がある。第二の壁は第一の壁の倍の高さがある。ここにも何本もの塔が付属している。さらに内側に最後の城壁となる第三の壁がある。これにも塔が配置されているのは前と同様である。高さ150mに達する第三の壁の内側には、倉庫や、集光ビル、ミサイルの発射基地など様々な施設が散らばっている。そして円の中心に当る部分には巨大な丸いゲートがあり、そこから垂直離着陸機が出入りしている。その穴を囲むように三つのエヴァ射出口がある。

 それはあたかも中世の城が再現されたような外観であった。対使徒戦が白兵戦を主とするため、防御戦術も過去に戻ったのだ。陸上を進む使徒は猛火に曝されつつ、これら三重の壁を越えなければならない。空中に浮かぶ使徒に対しては、地対空ミサイルと対空砲火が手厚い歓迎をする。しかしながら、それらの火器もエヴァによるATフィールド中和がなければ効果はなく、結局のところエヴァあってのジオフロントである。

 唯一単独で成果を期待できる武器は三門の陽電子砲である。だが、この兵器の使用は莫大な電力を消費するため、極力使用を控えているのが実情であった。

 実際は第二次使徒戦役が始まって以来、城壁まで辿り着いた使徒は皆無であった。ネオ・ネルフの基本戦術はあくまで城外でのエヴァによる迎撃であって、篭城など試みたこともなかった。

 地上部の東側にミサイル発射口が集中している。その中の蓋が四つ、次々と開いた。

「巡航ミサイル発射まで10秒。8、7、6、5、4、3、2、1、発射!」

 轟音と白煙を残して4基が一斉に空へ駆け上がった。それらはある程度上ったところで内臓されていた翼が生え、対地高度30mまで急降下した。後は複雑な地形を読みつつ、同じ高度を保ったまま使徒に向かって直進した。

「使徒までの距離1km。500、100、接触します」

 使徒の直前で同時に四つの爆発が起こった。白煙のためスクリーンから使徒の体が消えた。だが、使徒が無傷なことは明らかだった。一際大きな白い壁がスクリーン一杯に広がったからである。

「分析結果が出ました。敵ATフィールド強度、0.9SU。現在の進行速度ではジオフロント到着はおよそ80分後になります」

 古賀の報告に信時は呟いた。「標準並みだな」

「使徒の行動パターンに変化は見られません。これ以上の情報収集は無駄かと思いますが?」栗林は後ろを向いて総司令に言った。総司令は頷き、命令を下した。

「エヴァの発進準備。装備は通常型。陸戦で決着を付ける」

「はっ」栗林は敬礼し、キムと古賀に言った。「エヴァ全機発進。チルドレンを直ちにケージへ」

 古賀がマイクを取った。「チルドレン、全員ケージに向かい搭乗を開始せよ。繰り返す。搭乗を開始せよ」

「行きましょう」キヨミは布を袋に突っ込み立ち上がった。控室にたちまち緊張が漲った。

 

 

 ハルカたちの住む居住区のさらに奥まった所に森に囲まれた建物がある。それは一見保育所とも見える施設であった。

 その建物の廊下を妙齢の女と男が、多くの子供たちを引率して歩いていた。

「さあ、もうすぐ戦闘よ。みんなしっかり目を開けて応援するのよ」

「眠い...」小さな5才くらいの女の子が目をこすった。

「しゃんとしなさい。教官に怒られるわよ」

 10才くらいの娘が男の腕を引いた。「大丈夫ですよね?勝てますよね?」

 男はその娘の肩をぽんぽんと叩いた。「大丈夫さ。今日もねえさんたちがしっかり守ってくれるよ」

 男は女と同じぐらいの年で、端整な顔立ちをしていた。女の髪は蒼く、瞳は紅い。彼女もチルドレンの同胞なのだ。名前はマサコ、26才。男はタダオといった。付き従う子供たちも、女の子は皆一様な顔つきをしている。つまり、彼らはハルカやタツヤなどと同じ造られた者たちなのだ。

 一行は地下の階段教室のような部屋に着いた。それぞれ思い思いに席に着いた。

 女の子は、下は3才から上は12才まで、いずれも可憐な少女たちだった。総勢18人の彼女らの隣にはいずれも男の子が座っている。だが人間ではない。彼女らのパートナーとして造られたアンドロイドだ。

 教壇には既に軍服を着た男が立っていた。男は黒人で、ヘンリー・カウエル軍曹という。チルドレンの教官として、多くのエヴァパイロットを送り出してきた。

 アメリカの仕官学校で軍事教練を担当してきた軍曹が、この仕事に着任した時の異様な印象は生涯忘れられるものではなかった。

 ずらりと勢ぞろいしたチルドレン。皆が皆自分の娘より年下の可愛らしい少女だ。しかしその顔はみな同じ。軍曹は背中に冷たいものが走るのを禁じえなかった。

 その並々ならぬ抵抗感を克服するのには時間が掛かった。相手を普通の人間と思い込む努力をし、無理にでも話し掛ける習慣をつけてどうにか生徒と教官としての関係を築き上げた。一方では小さな女の子を戦場に送り込むという非道な感覚を、脇に押しのけることにも成功した。

 以来10年、カウエル軍曹は優秀な教官として認められている。

 軍曹は全員が揃ったのを確認すると、大声を張り上げた。「さあ、来たな。嬢ちゃんたち。こんな朝っぱらから起こされて気の毒だが、使徒は人間様の都合なんかお構いなしだ。そうとも。またまた来たんだよな、使徒の野郎が。人類の存亡を賭けた世紀の一戦がまた始まるってわけだ。だから嬢ちゃんたちは目ん玉ひんむいて見学しなきゃならねえ。なんせお前らのねえちゃんたちが戦うんだからな。一生懸命に応援してやってくれ。ねえちゃんたちが戦う様を目に焼き付けるんだ。いいな。それでは地上最大の戦いの始まりだ!」

 軍曹は教壇から離れて脇に退いた。黒板の前に巨大なディスプレイがするすると下りてきた。ほどなく映されたのは、第128使徒の戦慄すべき姿であった。

 

 

 チルドレンはそれぞれエヴァが待つケージへ散って行った。既にアンビリカブル・ブリッジに立つハルカの前には愛機エヴァ7号機の巨大な顔がある。

 量産型新・エヴァシリーズはS2機関を内臓し、無限の運動持続力を持つ。頭部はかつての初号機に似て二つの目があり、いかつい顔面は戦士の面構えである。額から上は分厚い装甲を施し、防御重視の設計になっている。肩には伝統に沿って翼状のウェポンラックを装備している。

 エヴァ7号機はハルカのプラグスーツと同じオレンジ色に塗装してあった。このように一人一人に固有の色を与えて、他との区別をつけやすくしている。チルドレンは皆顔の造りが同じなので、混乱を避けるために取った処置だった。同じようにキヨミの1号機は白、チヒロの8号機は青く塗装されている。以下、ユリコ=2号機=赤、ユキエ=3号機=黄、サヨコ=4号機=紫、ルミ=5号機=緑、ユカ=6号機=グレー、となっている。

 ハルカは脇の階段を駆け上がり、エントリープラグの真横に立った。数名のエンジニアが後ろから見守っている。全てのチェックが終わり、ブザーと共に頭上のランプが赤から緑に変わった。

 プラグの扉が開いた。ハルカはすぐさま足を踏み入れた。「頑張って」エンジニアの一人が声を掛けた。ハルカは無言で親指を立てて見せ、座席に座った。

 クレーンが作動し、プラグはエヴァ7号機の背に据えられ、ほどなく挿入された。間髪入れず下からLCLが湧き上がってきた。たちまち腹を超え胸に達し、口を覆う。ハルカはいつものようにそれを飲み込んだ。一瞬の悪寒の後、液に馴染んだ。

 ハルカは目を瞑り、心を鎮めてその時を待った。間もなくエントリーが開始された。

 司令室では一機につき一人の女性オペレーターがモニターを注視していた。シンクログラフがぐんぐん上昇し、臨界点に近づいていく。

 ハルカの前では様々な幾何学模様が展開していた。やがてハルカの周りにはケージの風景が一杯に広がっていた。

「エヴァ7号機起動」ハルカ担当のオペレーターが声を上げた。続いて他の7機も次々に起動していく。

 8人のオペレーター陣の後方に白衣の女性がいた。痩身の50近い白人女性で、技術部副部長・マリー・ブーランジェ博士という。金髪をひっつめにした彼女は、眼鏡を押し上げ、理知的な瞳を栗林の方を向けて言った。「全機起動。異常ありません」

 ハルカはその時、二つの体を持った。自分自身の体と、巨大なエヴァンゲリオンとしての体。二つのものが微妙に重なった感覚。ハルカはその感覚を注意深く探ってみる。いつもと変わりはない。順調さに安心したハルカは右腕のシンクロを切って、手元の操作盤に指を走らせた。瞬時に目の前のLCLに仮想ウィンドウが開き、シンクロデータが表示される。シンクロ率56.3%、ハーモニクス誤差+0.12。平均以上だ。

 今回もやれる。ハルカはそう感じ、胸の奥で闘志が燃え上がった。

 もう一つウィンドウが開き、栗林の顔が映った。

「お早う諸君、これより使徒迎撃を開始する。まず使徒の映像を見たまえ」

 さらにウィンドウが開き、使徒の姿が大写しなった。「変なの」ハルカは思わず呟いた。

「使徒はジオフロント東方20km地点を、真っ直ぐこちらに向かっている。敵の攻撃力は分からない。戦闘機の攻撃に応戦しなかったのだ。しかしあの首に生えた触手が武器と見て間違いないだろう。前衛は特に慎重に頼む。次に諸君の配置だ」栗林の顔が戦場の簡単な地図に変わった。「キヨミとユリコは7番を使ってポイントB?4に進出。ハルカとチヒロは9番を使ってポイントB?6。残る4人は8番を使ってB?25だ。分かるな?」戦場の模式図の待機場所に赤く印が描かれ、使徒は赤い矢印で示された。この作戦はこういうことだ。ジオフロントに迫る使徒に対し、後衛の四人が正面から機銃による先制攻撃を仕掛ける。使徒の注意が前方に集中した時点で左右後方から、前衛の四人が挟み撃ちで接近戦を挑む。常に数的優位を保ち、単独行動は絶対に取らない。

 これまで陸を侵攻して来る使徒に対して採用してきた標準的な作戦である。8対1の戦いは絶対的な優位に見える。だが、敵の能力の予測がつかない以上、危険性は計り知れない。予期せぬ出来事が起きた場合には、パイロット自身の自主的な判断と機転が要求されることに変わりはなかった。

 はい、とチルドレンは声を揃えて答えた。これまで度重なる実戦と訓練によって叩き込まれた作戦パターンである。栗林がくどくどと説明する必要はなかった。

「では、順次射出開始。諸君の健闘を祈る」

 地図の下に小さくキヨミの顔が現れた。「みんな。生きて返るわよ」

 キヨミの真剣な口調に、ハルカはさらに身の引き締まる思いがした。

 広大なジオフロントの内部に弦楽器の上行音形が木霊した。リヒャルト・ワーグナーの『ワルキューレの騎行』が大音量でスピーカーから流れ出したのだ。職員の戦意高揚を図る手段だった。8人の戦乙女が空を舞い、戦場を行き交う情景を描くこの音楽は、8人のチルドレンがエヴァと共に出撃するこの場面にいかにもふさわしく、勇壮そのものである。

 アンビリカブルブリッジはとうに撤去されていた。エヴァ7号機を固定していたボルトが解除され、頭上にあるゲートが次々に開いた。

「通路オールグリーン。エヴァ7号機射出」7号機担当の女性オペレーターの声がハルカに届いた。次の瞬間、猛烈なGが掛かり、ソプラノのワルキューレが叫ぶホヨトホーの掛け声と共に7号機は射出された。

 急激に上昇した7号機はすぐさま斜路に入った。続いて半径の小さいカーブに差し掛かる。ほぼ真横になりながらカーブを曲がりきると、後は緩やかな上り坂だ。ハルカの前には猛烈なスピードで過ぎ去るトンネル内部の光景があった。ポイントに差し掛かり、別のトンネルに入った。後は目的地まで直線があるだけだ。さらに加速されたエヴァは弾丸のように迎撃地点へ運ばれて行く。

 やがて7号機は台車に制動が掛かり、ポイントB?6のプラットフォームに着いた。台車が完全に静止すると同時に、7号機を留めていた金具が解除された。ハルカ=7号機は直ちに立ち上がり、後続を待った。エヴァにとってポイントB?6は狭い空間であった。縦に長いが、横幅が僅かしかない。間もなくチヒロが駆る8号機が到着した。続いて武器を積んだ台車が、8号機を運んだ台車のすぐ後ろに停車した。

 そこに現れたのは二枚の銀色に輝く盾と、赤銅色の二本の槍である。盾は身長の半分ほどある長方形の板で、上部に細い覗き穴がある。

 槍は途中から二又に分かれていた。これこそ対使徒戦に最も有効な武器、ロンギヌスの槍・模造版である。

 二機は盾と槍を取り、ハルカが司令室へ通信を入れた。

「7号機、8号機、ポイントに到着。問題ありません」

『1号機、2号機、ポイントに到着。準備よし』キヨミの声だった。続いてユキエの声が聞こえた。『3号機以下4機、位置に着いています』

 栗林の顔がLCLの中で大写しになった。『よろしい。使徒の速度は相変わらずだ。現状の作戦開始予定時刻はおよそ後10分後。しかし油断はできん。使徒がどう行動するか分からないからだ。モニターから目を離すな。いつでも出られるようにしておけ。前の4人は特にな』

「はい」張りのある声でハルカは答えた。ハルカの胸にはいつものように戦いへの昂ぶりと、緊張感が大きく膨らんでいった。

 それは他の7人も同様だった。特に初陣のユカは緊張の極にいた。

 司令室のスクリーンには小さく8機のエントリープラグ内部の画像が並んで表示されている。栗林は初戦のユカが気がかりだった。

「ユカ。聞こえているかい?」いきなり自分の名を呼ばれてユカは驚いた。「は、はい!」

「そうおっかない顔をするな。かわいい顔が台無しだぜ」

「か、かわいくないです」

「じゃ、他のみんなも可愛くないのか?」

「あ、やっぱりかわいいです」

 ユカの答えが可笑しく、チルドレンたちはくすくすと笑った。作戦司令室にも笑いの輪が広がった。ユカは頬を赤く染めて俯いた。大きすぎた緊張がやや緩んだ。

「では出口を開放する。移動して出撃準備せよ」

 ハルカたちの横の壁が低い機械音と共に横にすべった。早朝の淡い光がポイントの中に差し込んできた。

 ハルカとチヒロの前に細い谷間がある。それはジグザグに荒地を掘り返した、言わば塹壕であって、そこから延々5kmもの長さで続いている。使徒から姿を隠しつつ接近するのに都合が良く、危険が迫った場合には退避に役立つ。

 ジオフロントのおよそ周囲20km圏内、及び上陸頻発地域からジオフロントに至る道筋は、第五まである芦ノ湖を除き荒涼たる荒地と化していた。32年にも及ぶ使徒たちとの激戦は、かつての緑あふれる地域を無残に破壊した。この地で使用された弾薬、爆弾の量は想像を絶するものがあった。山は削られ、谷は埋まり、幾多のクレーターが周囲を埋め尽くしている。使徒の血を吸った大地は毒気を孕み、跡には雑草一本生えてこなかった。

 かくしてジオフロント一帯は日本で唯一の砂漠地帯となった。そこはさながら人類と使徒との決戦場とでも言うべき場所であった。

 エヴァ7号機と8号機は背を低くして前進した。塹壕は徐々に浅くなり、立っていては上半身が見えてしまう。最も浅くなった地点で2機は止まり、座り込んだ。槍は地に伏せている。

「7号機、8号機、位置に着きました」

「1号機、2号機、準備よし」

「3号機以下4機、いつでも出られます」

 エヴァ8機は静かにその時を待った。太陽は地平線から半分顔を出し、やがて血みどろの激戦の舞台となるこの地を仄かに照らしていた。

 

 

「それ」は脇目もふらず、声の元へ一直線に進んでいる。声は次第に大きくなり、「それ」の興奮もいやましに高まっていた。

「それ」はハルカとチヒロのいるポイントB?6と、キヨミにユリコのいるポイントB?4の前方3kmに迫った。距離的にはポイントB?4にやや近い。

 作戦司令室も緊張が高まっていた。大スクリーンには使徒の映像と並んで地図が表示され、そこに大きく赤い楕円が描かれている。量子スーパーコンピューターBOSATSUが割り出した戦闘開始地点である。そこへ点滅する光点が刻々と近づいて来る。その時まであとわずか。

「それ」は鋭敏な臭覚を持っていた。風上から流れてくる微かな匂いを感じた。いやな臭いだった。それは自分に敵対するものの臭い。理由は分からないが、「それ」ははっきりとそう感じた。「それ」の胸中に凄まじい怒りが湧き上がった。ジャマモノハユルサナイ。「それ」は大きく進路を変え、臭いを発するものに向けて突進した。

「使徒転進!!」

 キムが叫ぶと同時に栗林は椅子から立ち上がった。

「増速しました。速い!時速62km。真っ直ぐポイントB?6に向かっています!」

「感づかれたか!」信時副司令が思わずうめいた。

「ハルカ!チヒロ!予定変更!すぐ出ろ!使徒に先手を取られた!」栗林が切羽詰った叫びを上げた。

「チヒロ!行くわよ!」「うん!」

 2機のエヴァは躍り上がって地表に立った。使徒の姿は斜面に遮られてまだ見えない。2機は左手に盾を構え、右手に槍を高く掲げた。

「キヨミ、ユリコ。出撃だ。ハルカとチヒロを助けろ」

「「了解!」」

 1号機と2号機は素早く地表に上がり、ポイントB?6に向かい全速力で駆けた。猛烈な地響きが周囲に轟く。

「後衛の4機も出撃。そこから3km前に出ろ。使徒が見えても早まって撃つな。同士撃ちの危険性がある」

 4機が一斉に飛び出した。新人のユカは事態の急変に動揺していた。栗林の指示を半分聞いていなかった。

 7号機のはるか前方で盛大な砂ぼこりが立っていた。それは瞬く間に大きくなってきた。まず使徒が振り回す触手が、間もなく奇怪な使徒の全身が見えた。

 ハルカは後ろの塹壕をちらりと見た。「チヒロ、ここは足場が悪いわ。進むわよ!」「分かった!」2機は盾と槍を構えながら肩を並べて走った。使徒は猛然とこちらに突っ込んで来る。首から生えた触手がわなわなと震え、怒りを表しているかのようだ。

 7号機と8号機は間隔を取って待ち構えた。使徒までの距離は200m余り。と、そこで使徒は急に速度を落とし、止まった。

 使徒とエヴァ2機は距離を取って睨みあった。まだ槍の届く距離ではない。ハルカは即戦いに入るつもりはなかった。

「チヒロ。こちらから仕掛けることはないわ。直に先輩たちが来る。時間を稼ぐのよ」「分かってる」

 使徒はこちらに首を傾け、左右に動きながら攻撃の機を窺っている。右の首はハルカを、左の首はチヒロを見ているようだ。ハルカとチヒロは小刻みに動いて間合いを調節する。

 使徒の触手はこの距離ではなんの脅威にもならない。そう思うのも無理はなかった。だが、それは使徒の思うつぼだった。

 突如、二本の首が二機に向かって伸びた。同時に触手が一瞬のうちに数倍の長さに伸びて二機に襲い掛かった。

 糸のように伸びたそれらは一本一本が生きているかのようだった。ハルカは心臓が止まる思いで盾を突き出し、一歩退いた。盾に大量の触手が絡みついた。槍も先端部を絡め取られた。同時にハルカは物凄い力で引っ張られる。踵を地面に立てて突っ張ったが、地面がえぐれて、徐々に引き付けられていく。

 ハルカは咄嗟の判断で盾と槍を放した。すぐさまウェポンラックからプログナイフを抜き、体にからまった糸に切りつけ、幸い糸は切れた。7号機は体の自由を取り戻し、後方へ転がって距離を取った。

 ハルカはひとまず危機を脱した。だが、チヒロは違った。

 8号機は盾に槍は勿論、機体にも十重二十重に糸を巻かれ、引き寄せられているのだ。「チヒロ!」ハルカは叫んで7号機を駆り、8号機に駆け寄ろうとする。だが、使徒は7号機から奪った得物を離し、再び7号機めがけて糸を放った。ハルカは大きく跳び退って糸を避けるしかなかった。

 チヒロは歯を食い縛って使徒の牽引を堪えようとする。一瞬の動きの遅れを後悔していた。だが、その引き付ける力はあまりに強く、使徒本体との距離はもういくらもない。その時、使徒の首が信じられないような変化をした。小さく見えていた口が一瞬のうちに十倍もの大きさに膨れ上がったのだ。丸い口には巨大な四本の黒々とした牙が中心に向かって生え、その奥は無数の黒い棘で埋め尽くされている。

「きゃああああああっ!」チヒロは叫んだ。使徒の顎は8号機を頭から呑まんと襲い掛かった。

 チヒロは無我夢中で槍を放して右腕を自由にし、盾の先を使徒の口に突っ込んだ。間一髪、盾は使徒の口に深々と収まり、首の前進を阻止した。

「チヒロ!」「先輩!」キヨミとユリコの声が掛かった。1号機と2号機がようやく駆けつけてきたのだ。だが、2機はどうにも手を出しかねた。第2、第3の首が糸を波打たせて2機の動きを牽制している。2機はひとまず7号機の後方へ回った。

 7号機はウェポンラックから短銃を取り出し、8号機を襲う首の付け根を狙って続けざまに4発撃った。着弾点から微かに血しぶきが上がったが、使徒の動きに変化はない。ハルカは狙いを変え、卵型の胴体へ銃弾を叩き込んだ。しかし、使徒は何事もなかったかのように8号機に迫っている。

 チヒロの生命線である盾は危機に瀕していた。首がすぼまり、四本の牙が盾に喰い込んだ。ばりん、と音がして盾が割れた。続いてばりばりと細かく砕く不吉な音が響いてくる。

「盾を食ってる!」チヒロの悲痛な叫びだった。このままでは使徒が8号機を呑み込む。

 その時、ハルカの声が飛び込んできた。「チヒロ!股開いて!」

 7号機は8号機の真後ろにいた。そこが最も使徒の攻撃を受けにくい場所だった。チヒロは訳も分からず言われた通りにする。

 7号機は走った。別の首から糸が追いかけてくる。かろうじてそれを避け、8号機の手前で体を低くし、股下に頭から突っ込んだ。無理やり隙間に機体を押し込む。右手にはプログナイフが握られていた、それを使徒の胴体に刺し込み、遮二無二押し上げる。胴体から青い鮮血が迸った。別の二つの首から低い、チューバのような悲鳴が響き渡った。7号機は首の付け根までナイフを持ち上げると、一旦抜いて首に真横に切りつけた。ぐりぐりと力を込めてナイフを進める。7号機は返り血を浴びて全身青くなった。そして遂に首は切り離され、8号機は自由を得て、尻餅をついた。首の付け根から空めがけて噴水のように血が噴き上がった。

 残る二本の首の動きが緩慢になったのをキヨミは見逃さなかった。槍を構えて使徒に突っ込んで行った。ずぶりと管足の一本に槍が突き刺さった。1号機は渾身の力で槍を持ち上げた。使徒はバランスを失い横転する。凄まじい地響きが轟き亘った。白い腹が顕わだ。好機到来とばかりに2号機が突進した。中心の当りを槍でめった突きに突く。

 使徒の口から明らかに悲鳴と取れる咆哮が放たれた。糸の動きが痙攣に似たものに変わった。

 3号機を先頭に4機が戦場に駆けつけてきた。それぞれバレットマシンガンで武装している。

「ユリコ、もういいわ。後はあの子たちにまかせましょう」キヨミがユリコに声を掛けた。ユリコは一瞬不満そうにしたが、すぐに従い、槍を抜いて引き下がった。

「ハルカにチヒロ。そんな所にいると流れ弾に当るわよ」

 7号機と8号機は使徒からやや離れていた。8号機は使徒の首を引きずっている。7号機は8号機の前を塞ぐ態勢でいた。2機は急いで左側へ移動した。

「撃ち方始め」

 後衛の中では年長のユキエが指示を飛ばした。4機は横に並び、一斉にバレッマシントガンの火蓋を切った。

 大口径の銃弾が雨あられと使徒に襲い掛かった。だが、それらは赤い壁によって阻まれた。使徒はまだATフィールドを展開できるのだ。

「全員同調の上、ATフィールド展開。最大出力よ」

 キヨミの号令に従って全機がATフィールドを張った。たちまちATフィールド同士が干渉し合い、白い縞模様が広範囲に拡がったが、エヴァ8機が同調したATフィールドの強度には抗すべきもなく、使徒のATフィールドは相殺されて消えてしまう。

 4機は銃撃を再開した。使徒は全身から血しぶきを上げ、千切れた触手が地面をのた打ち回った。残った二本の首は苦痛に身をよじるかのように激しく動いた。だが、それも次第に弱まり、青い血の池が使徒の周りに広がるに及んで、遂に動かなくなった。

「撃ち方やめ」

 終わったと見たユキエが声を上げた。4機の銃が同時に沈黙した。エヴァ8機の前にはずたずたに苛まれた使徒の残骸がある。

 

 

「使徒沈黙。生命反応なし」

 古賀の声が響いた。司令室の中はどっ、と歓声に包まれる。

 フォン・アイネム総司令は落ち着き払った態度で言った。「諸君、ご苦労だった。エヴァを帰投させよ。事後処理班出動」

「はっ」答えた栗林の声は明かるかった。満足げにマイクに向かった。

 

 

 こうして、通算126回目の使徒戦は終わった。8機は武器を携えジオフロントに向けて行進した。既に完全に姿を現した太陽は、堂々と歩くエヴァンゲリオンたちを赤く染め上げ、その威容を一層壮麗に彩っていた。

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