リリスの子ら

間部瀬博士

第2話

 第128使徒との会戦後、ハルカたちチルドレンはすぐさま解放されたわけではなかった。

 帰投後エントリープラグを出てからは、全員即医務室へ直行し、メディカルチェックを受けた。細々とした診察を受け終え、カーキ色の軍服に着替えたチルドレンは、揃って総司令の執務室へ呼ばれた。皆総司令直々のお褒めの言葉を貰った。中でもハルカに対しての賛辞は絶賛と言ってよかった。

「特にハルカ、君の活躍は目を見張るものがあった。よくあの場面で機転を利かし、仲間の命を救い、かつ使徒にダメージを与えた。まさにエヴァパイロットの手本とも言うべきものだ。私は君のことを誇りに思うぞ」

 ハルカの胸に暖かいものが拡がった。頬に自然と赤みが差し、口元は微かに緩んだ。

 その後は控室に戻り休憩。ここでチヒロはやっとハルカに礼を言う機会を得た。何度も礼を言うチヒロにハルカは、当然のことをしたまでと落ち着いて返した。

 休憩後はミーティングである。作戦部の他に技術部も参加した総合的な意見交換の場で、ハルカは積極的に意見を出した。

 それやこれやでハルカが本部を出たのは正午近くなってからだった。行きと同じバスでチルドレンは「村」に戻った。

 チルドレンの居住区はネオ・ネルフの内部では「村」と呼ばれている。森林に包まれた小ぢんまりとしたコミュニティであることからそう呼ばれている。

 村の入り口では、報せを受けたのか、パートナーたちが待っていた。バスに向けて手を振っている。ハルカはすぐその中にタツヤの姿を見つけた。ハルカも微笑んで手を振り返した。停車場に停まったバスからチルドレンは降りて、それぞれのパートナーの下に散った。パートナーは皆チルドレンと同じぐらいの年恰好をしている。最年少のユカのパートナーに至っては、ただの子供に見えた。

「タツヤ」ハルカはタツヤの手を握り寄り添う。タツヤはハルカの肩を抱いた。「お帰り。大活躍だったそうだね」ハルカは軽く頷いただけだった。

 キヨミのパートナーはユウヤと言う。この中でも一際上背のある落ち着いた印象の大人だった。彼はキヨミの長い髪を撫でながら柔らかく話している。

「また帰って来れたね。ほっとしたよ。まだ僕らの日々は続くんだね」

「そうよ。もっともっと続くわ。1年でも2年でも」

「そう願ってるよ」

 チルドレンはそれぞれパートナーと交歓しているのだが、チヒロだけは違った。制服の腰に手を当てながら辺りを見回したが、パートナーのマサトの姿は見当たらない。チヒロは口を尖らせてひとりごちた。「マサト、何で向かえに来ないの?」

 一団は歩いて各自の家へ帰っていく。時折明るい笑い声が上がった。その中でチヒロだけはつまらなそうに一人歩いた。

「ただいまあ」

 チヒロは玄関のドアを開けて居間に入った。家の中はしんと静かだ。

 居間の中ほどでチヒロは立ち止まり、訝しんだ。マサトはいないようだ。「どこにいるの?」チヒロはまずキッチンの中を覗いた。誰もいない。一階を一通り見終わった後は二階を見たが、マサトの姿はなかった。階段の下に地下室に通じる扉があり、それを開けてはみたものの、下は真っ暗だった。「マサト?」念のため声を掛けてみる。だが、返ってくるのは静寂のみ。

 どこに行ったのだろう。チヒロは考えた。マサトが一人で外出する用事など、二つしかない。買物か体のメンテナンスだ。

 それにしても戦闘から帰ったチヒロを放っておいたことは、これまでに一度もない。体のどこかに急に不具合が出たとか?チヒロの中で不安が広がりだした時、急に携帯電話が鳴り、チヒロはどきっとした。

 そこから聞こえたのは当の愛人の声だった。『やあ、チヒロ。いなくてごめん』

「マサト!どうしたの?今どこにいるの?」

『今、技術部に向かう途中さ。マイクロS2機関に警報が出てる。いつもの誤作動だと思うけどね』

「大丈夫なの?」

『今のところ問題はないよ。でも決まりだから至急見てもらう』

 チヒロは数瞬考えてから訊いた。「私もそっちに行く?」

『それには及ばないよ。それより、君、危なかったんだって?肝を冷やしただろ?ゆっくり休んだほうがいい。僕は心配ないから』

 マサトの力強い口調に、チヒロの不安は雪のように溶けていった。そうなると張り詰めていたものが緩み、疲れが押し寄せてくるのを感じる。

「そう。じゃ、私、休んでるから。マサトこそ、気にしないでじっくり見てもらって」

『ありがとう。じゃ、また後で』

 チヒロはほっとして電話を切った。警報などいつものことだ、大した問題じゃない、と自分を納得させて着替えを始めた。ゆったりとした部屋着に着替え、ソファに座り込んだ。普段と変わらぬ居間の景色を眺めていて、しみじみと思った。また、ここに戻れてよかった。

 ぼんやりと今日起こったことを考えているうちに眠気が起こってきた。今朝、あまりに早く起こされた反動が来たのだ。前後に船を漕ぎ始め、数分後にはすっかり眠り込んでいた。

 眠っているのはハルカも同じだった。こちらはベッドの上ですやすやと安眠している。傍らではタツヤがその寝顔をじっと見つめていた。

 

 

 チヒロはうっすらと目を開けた。居間の中は暗い。彼女は慌てて起き上がった。ソファで長い間、居眠りをしてしまったのだ。「照明」と声に出すと、居間の明かりが灯った。掛け時計を見ると、もう6時を回っていた。

 うっかり寝すぎた。チヒロは鏡に向かい髪を直しながら、食卓を見た。テーブルに食べ物は何も載っていない。家の中は静寂に包まれ、自分以外に誰かがいる気配はなかった。念のため全ての部屋を点検したが、マサトの姿はない。

 マサトはまだ帰っていないのだ。おかしい。何かある。不安が大きく膨らんだ。メンテナンスにしては時間が掛かりすぎている。早速携帯電話機を出し、技術部に掛けた。交換が出ると、人工知能課のスタッフを呼ぶように頼んだ。出たのは意外にも大物だった。

『やあ、チヒロかね。今日はご苦労様。あぶないとこだったな。一時はどうなることかと思った。で、今頃どうした?』

「ベヒシュタイン博士?こ、今晩は。なんでまた博士が?」

『他の連中は出払ってる。使徒戦の後は忙しいからな。私は留守番だ』

 コンラート・ベヒシュタイン博士。ネオ・ネルフ技術部長を務める、中枢の一人である。

「あの、マサト。どうなりました?」

『マサト?彼がどうした?』

「彼、マイクロS2機関に警報が出たって言って、そっちへ」

『いや、今日は誰も来てない。私が言うんだから間違いない』

 チヒロは絶句した。不安に押しつぶされそうになりながらも、声を絞り出した。

「...じゃ、マサトどこに行ったんでしょう。帰ってすぐ、そっちに行くって電話をもらったんです。変じゃありませんか?」

『確かに妙だな。パートナーがそんなに長く家を空けることなど考えられん』

「何かあったんでしょうか?」

『そう心配することはないと思うが...』博士はやや間を置いてチヒロに言った。『一応保安部に連絡しろ。ここは広くて迷路のような所だ。アンドロイドでも迷わんとは言い切れん。いいか、チヒロ。落ち着いて待つんだ。何でもないかも知れないからな。案外ひょっこり帰って来るかも知れん。後は保安部に任せるんだ。いいね?』

「...はい」

 一旦電話を切ったチヒロはすぐさま保安部に繋いだ。小さな心臓が激しく鼓動していた。

 

 

 ハルカは寛いだ格好で壁面テレビを見ていた。画面では男のアナウンサーが淡々とニュース原稿を読み上げている。

『−−本日、西園寺終身大統領閣下は68回目の誕生日を迎えられました。大統領公邸には多数の祝賀客が訪れ、大統領閣下の誕生日を祝福しました。大統領閣下はバルコニーに姿を見せられ、祝賀客に向かって答辞を述べられました』

「さあ、できたよ、ハルカ」

 タツヤは湯気が上がるパスタの皿を盆に載せて食卓の前に来た。ハルカは画面から目を離さなかった。

「少し待って。使徒戦のニュースをやるかも」

『−−国連人口局は、2081年度の世界人口を15億6000万人と発表しました。これで世界人口は5年連続で増加したことになり、西園寺終身大統領閣下は、『喜ばしいニュースだ。これで人類は破滅への道ではなく、着々と発展の道を歩んでいることが証明された。我々の努力が実を結んだということに他ならない』と、コメントされました。次のニュース。過去に多くの女性に対し堕胎を施した廉で医師が逮捕されました。警察の発表によりますと、逮捕されたのは太田黒トシユキ医師40才で、医師は金目当てで刑法で禁じられた堕胎手術を行い、多額な現金を女性たちから受取っていたとのことです。合わせて堕胎を依頼した女性16人も逮捕されました』

「なかなかやらないわね」

『只今入りましたニュースです。本日5時頃、第二新東京市の住宅街で、リリス教徒二人が逮捕されました。二人は自宅に多数の銃器を隠匿していた模様です。現場から田原がお伝えします』

 画面は平凡な住宅街にある一軒家と、その前に立つ眼鏡の中年男を映し出した。一軒家には立入り禁止と書かれた黄色いテープが貼られている。

  リリス教徒と聞いてハルカは眉を顰めた。

 2045年の使徒再来宣言は、回復途上にあった世界経済を再びどん底に落とす契機となった。

 流言飛語が飛び交い、人々は買い溜めに走り、インフレが巻き起こった。一方では、今日が人類最後の日になりかねないという不安が経済活動の縮小を招き、不況とインフレの同時進行−スタグフレーション−の時代に突入した。

 未曾有の社会不安の前には財政政策も金融政策も有効な手段となりえなかった。失業者が街に溢れ、社会福祉は破綻し、ついには餓死する者も出始めた。

 犯罪が横行し、人々は酒、麻薬、賭博や女などの刹那的な快楽に逃避した。

 出生率は劇的に低下した。誰もが今日一日を生き延びるのに必死だった。しかも、明日には地獄が待っているかも知れない。そのような時代に子を産むなど、産む方も産まれる方も不幸だと考える者が多数を占めたのだ。

 そういう時代にあって好調だったのは軍産複合体だけであった。使徒に対抗しなければ人類全体の死に繋がる以上、戦費だけは何を措いても調達しなければならない。ネオ・ネルフには世界中から、人、物、金が集中し、関係者は特権的に富を手中にした。

 軍の力は飛躍的に強大になった。クーデターによる政権奪取は時代の必然と言える。2072年、西園寺タツヒコ率いる戦略自衛隊は日本全土を制圧、翌年憲法を停止し、彼は自ら終身大統領の座に就いた。戦略自衛隊は改組されて日本軍となった。

 出生率の低下はじわじわと人類の体力を蝕んだ。人手不足が常態化し、軍やネオ・ネルフは対策を迫られることとなった。

 その対策がアンドロイドの導入だったのだ。彼らは続々と社会進出を果たし、人間の役割を補完していった。現在ではネオ・ネルフにおける人員のおよそ2割がアンドロイドによって占められている。

 不安と恐怖の時代は思想的にも様々な奇形を生み出した。

 大きなものとしてネオ・ゼーレがある。彼らは旧ゼーレの思想を受け継ぎ、不完全な群体としての人類から、完全な一個体としての人類へ進化することを熱望した。中途半端に終わったサードインパクトの原因を探り、来るフォースインパクトを完全なものとする、それが彼らの思想で、時に過激な行動に走ることもあった。日本では2072年の憲法停止と同時に非合法化され、表向きは解散したが、今なお秘密結社を形作り強固な組織を持っていると考えられている。

 もう一つがリリス教である。

 彼らは不滅の存在であるリリスを神の子とし、使徒の襲来を神の裁きとして捉えた。−−次なるインパクトこそ不浄なる人類を滅し去る神の鉄槌となる。そして訪れた清浄なる大地の上に残るのは、我ら選ばれしリリス教徒である。−−概略このような教義を持つ彼らはネオ・ゼーレと同様、弾圧され、非合法化されたが、その活動は地下に潜り、先鋭化した。時限爆弾による数々のテロ事件を起こした彼らの最大の戦果は、2074年のトゥエンティナインスチルドレン暗殺事件であった。

 彼女はミツコと言い、第四新東京市街頭をパートナーと共に歩いている時、ふいに現れた暗殺者に3発の銃弾を撃ち込まれた。即死であった。その時彼女は、僅か15才だった。一緒にいたパートナーも中枢を破壊され、活動を停止した。

 以来、チルドレンはリリス教徒を使徒と同様の敵と看做すようになった。

『−−続いて今日の特集です。昨年度、餓死者数が全国一となった青森県では、市民が餓死の撲滅に向けて様々な取り組みを始めています。伊藤記者が取材しました』

「今日はないのね」

 ハルカはがっかりしてリモコンを壁に向け、テレビを切り、食卓に向かった。壁は清々しい湖の景色に変わった。

「使徒戦は公式のニュースじゃなかなか取上げられないからね。でもネットなら詳しく出てるよ。虚実入り混じってるけどね。さあ、冷めないうちに」

 タツヤはハルカを促してテーブルの前に座らせた。様々な海産物が乗ったパスタ、ミルクスープに野菜サラダがハルカの前にある。タツヤがハルカの向かい側に座った。だが、彼の前には何もない。テーブルクロスの上は空き地だ。

 ハルカはフォークを使ってパスタを口に運んだ。よく噛んで呑み込むと、微笑を浮かべた。「おいし」

 タツヤも笑った。「良かった。今日のレシピは正解だったね。きっと気に入ると思ったんだ」

 ハルカは黙々と料理を口に運んだ。タツヤはにこにことそれを見ている。

 アンドロイドのタツヤにとって人間の食料を口に入れるなど、出来ない相談だった。精密な電子機器の集合体であるアンドロイドは、消化器官は勿論、味覚すら備わってはいない。おそろしく人間そっくりにできてはいるが、食物を摂ることまでは似せられなかった。仮に咀嚼し、嚥下する機能を付加したとしても、その後始末まで考慮すれば、害はあっても利はない。こうして彼らの食卓には常に一人分の食料が乗ることになる。

 幼き日、ハルカはそれを不満に思った。ご飯が一杯載った茶碗を持ってタツヤに迫ったことがある。

 『はい、タツヤ。これ食べるの』

 『何言うんだ、ハルカ。できないよ』

 『なぜ?あなたぱーとなーでしょ?ならわたしと同じもの食べて』

 『...どうしてそんないじわる言うんだ。分かってるくせに』

 『分からない。わたしと同じにしなきゃいや』

  タツヤはギャッと一声叫んで逃げた。ハルカは茶碗と箸を握り締めてその背中を見つめた。

  後でハルカは保母からこってりとお説教を食らってしまった。

 味覚を持たないアンドロイドは、出来上がった料理の味について責任を取ることはできない。仮に食材が劣化したり腐っていたりした場合、とんでもなく不味い料理を作る可能性はある。しかし定められたレシピを忠実に再現する能力は長けていた。彼らは料理に新しい工夫を施すとか、アレンジをすることは一切できなかった。

 タツヤはハルカの瞳を覗き込んだ。「そうだ、特別サービスはいかが?お姫様」

「なに?サービスって」

「ターフェルムジークだよ。音楽を聴きながら食事だ。豪勢だろ?」

「素敵。やってやって」

「お安い御用」

 タツヤは立ち上がり、居間の一角にあるアップライトピアノに向かった。

 歩きながら、タツヤの電子頭脳は超高速で計算をしていた。この場の雰囲気、最近やった曲目、過去のハルカの反応、などが比較・吟味され、数百曲のレパートリーの中から一曲が選ばれた。それには0.1秒も要しなかった。

 これらの計算はタツヤの深層領域で行われたので、タツヤの表層意識とでも言うべき領域には上ってこなかった。例えて言うなら、タツヤの意識にはある曲目がふっと浮かんだ。

 人口頭脳にはこうした人間心理にも似た階層構造がある。そして彼らは人間と同じように「考える」。それが数百万行に及ぶ演算結果だとしても、その現象はそのように表現するのが適切だった。しかし、人間でない彼らのする思考が、人間と本質的に異なることは確認しておくべきだろう。さらに彼らは人間には不可能なこともできるのだ。

 タツヤはピアノの前に座った。蓋を開けて、両手の指を鍵盤上に置いた。楽譜はどこにも見当たらない。

 優雅極まる旋律が居間に流れ出した。曲はショパンの練習曲作品10の3。「別れの曲」と言うあだ名も付いた名作である。ハルカは食事の手を止めてじっと聴き入る。たおやかな歌心に溢れ、それと共に和声への配慮も行き届いた名演だった。ハルカは心を洗われるような思いで、うっとりとタツヤの背中を見つめた。

 この時、タツヤの「自我」は演奏に全く関与していなかった。彼の目は自動的に動く自分の指を客観的に眺めていた。彼は内奥にインストールされた自働ピアノのアプリケーションソフトを起動したに過ぎないのだ。今この場に流れる至高の名演奏も、過去にあるピアニストが弾いた演奏のコピーだった。彼自身はこの曲の価値を全く理解していないし、理解しようとも思っていない。

 いきなり、ドアをノックする音が響き、演奏は断ち切られた。タツヤは苦々しげに和音を叩き、振り返った。ハルカも眉を顰めて玄関を見た。

 タツヤが玄関に出てドアを開けると、入って来たのは警備課所属の警備員だった。制服からすぐにそれと分かった。

「お休みのところ申し訳ない。少しお邪魔させてください」

「こんな時間にどうしました?」

「実はチヒロ中尉のパートナー、マサトさんの行方が分かりません。今、警備課総出で捜索をしています。あなた、何か知ってませんか?」

 ハルカが心配げに近づいて来てタツヤの隣に立った。「マサトが行方不明なんですか?」

「今晩は。ハルカ中尉。警備の山本軍曹です。事情はお聞きの通りです」

「僕は今日、朝からずっと家にいました。だから、マサトとは昨日から会ってませんね」

 山本は手帳を取り出して何事か書き込んだ。「そうですか。では昨日以前でも構いません。彼、体の変調を訴えたりしてませんでしたか?」

「いいえ。その手のことは何も」

「はい。では、彼が誰か変わった人物と会っていたとか、様子がおかしかったとか、何か思い当たることは?」

「ううん。これといってないですねえ」

「ハルカ中尉、あなたは?」

「いいえ、ありません」

「そうですか。手間を取らせました。これで退散しますが、何か思い出したらいつでも言ってください」

「あの、チヒロ、どうですか?大丈夫そう?」と、ハルカが訊いた。

「一見落ち着いて見えますよ。気丈に振舞ってます。さすがチルドレンと思いましたね」

「そうですか。後で会いに行っても?」

「構わんでしょう。是非会って慰めてやってください」

 山本は振り向いて玄関に向かった。ドアに手を掛けたところで、急にタツヤに向かって訊いた。

「ところで、あんたがたの記憶ってどうなってる?見たことは全て覚えてるってことはないよな?」

 タツヤは苦笑した。「生憎それはないです。それならメモリーがいくらあっても足りません。僕らも人間同様忘れるんですよ。山本軍曹。情報はふるいに掛けられてどうでもいいことはどんどん消されていく仕組みなんです。僕らの記憶にはいくつもの階層があって、忘れてはいけない大切なことから、殆ど断片に過ぎないものまで分けて管理されています。毎晩定時にそれらは分別され、不必要なものは消えていきます。でも、断片の中に重要な情報があることもありえますよ。ただ、今回の場合、それはあまり期待できませんね」

 山本は礼を言って外へ出た。ハルカは食卓に戻って大急ぎで夕飯の残りを食べ始めた。早くチヒロの元に行って声を掛けてやりたかった。

 

 

 山本が言ったように、チヒロの態度は普段と変わらなかった。

「ありがと、ハルカ。わざわざ来てもらって」

「チヒロ。心配ないわよ。絶対無事戻って来るわよ」

「そうよね。きっと迷子になってるんだわ」

 チヒロは時折微笑みを浮かべてハルカに応対した。逆にハルカの方がおろおろしているかに見える。

しばらくしてキヨミとユリコがやって来た。チヒロの家は途端に賑やかになった。

「キヨミ先輩!ユリコも来てくれたの」

「チヒロ、大変ね。大丈夫?」

「ええ、私は平気」

「チヒロ先輩。気を確かに持ってくださいね。マサトさん、多分無事だと思うから」

「そう、そうよね。きっとどこかで迷子になってるのよ」

「私、間違って兵器課の方に行っちゃったんだと思います。あそこ、道が複雑だから」

「原子炉の方も怪しいわ。殆ど迷路よ。あそこは」

「でも、携帯を持ってるのに掛けて来ないのはなぜかしら」

 ハルカがもっともな疑問を口にした。皆、黙り込んでしまった。やがて、ユリコが明るめに言った。「多分、電池が切れちゃったんですよ!」

「落としたということも考えられるわ」

 皆、口々に自分の推測を言い合う。が、話していて何か前進があるわけでもなかった。

 議論に飽きたキヨミがチヒロに言った。「あなた、ご飯は?」

「いえ、まだ」

「じゃ、うちにいらっしゃい。奢ってあげる」

「そんな、悪いです」

「いいから、いいから。そうだ。今夜、泊まって行きなさいよ!遅くまでゆっくりお喋りしましょ」

「いいんですか」

「ちっとも構わないのよ。さ、そうと決まったら行きましょう」

 キヨミは笑みを浮かべてチヒロの手を引いた。チヒロの顔にも微笑みが戻り、二人は手を繋いで楽しげに家を出た。ハルカとユリコも後に続いた。ハルカはちらっと自分が誘ってやればよかったと思った。

 その夜、ハルカはタツヤの体を求めなかった。いつも使徒戦の後となれば激しく燃えるハルカだったが、この日はそういう気分になれなかった。

 

 

 次の日、ハルカは遅く起きた。チルドレンは10日毎に交替で休みを取るのだが、この日はハルカの休日に当っていた。彼女が目を覚ましたときにはタツヤの姿はなかった。朝食の匂いが漂ってきている。タツヤはとっくに起きて準備を始めていたのだ。ハルカはネグリジェのまま居間に入った。タツヤは食卓にトーストが載った皿を置いたところだ。

「お早う、タツヤ」

「お早うハルカ。良く眠れた?」

「うん」

 二人は早速抱き合ってキスを始める。彼らにとっては習慣のようなものだ。

 特殊な樹脂でできたタツヤの舌は常に湿っていた。それにはヒトの唾液に似た成分の液が常に供給され、相手は本物そっくりの感触を味わうことができる。もっともチルドレンが本物を経験することは、まず考えられない。

 唇を離したタツヤは優しくハルカの髪を撫でた。「さ、顔を洗っておいで。朝食を食べて」

 ハルカは頷いて洗面所に向かう。その表情にはどこか暗い翳があった。チヒロのことが尾を引いているのだ。着替えも終わって食卓に着いたハルカの憂い顔を見て、タツヤは心配そうに言った。「元気がないね。チヒロが気になる?」

「そうね」

「チヒロには気の毒だけど、僕らにはどうしようもない。保安部に任せるしかないよ。そんな顔してないで気分を変えたら?」

「心配なものは心配よ」

「今日はせっかくの休日なんだよ。楽しまなきゃ」

「そうね」ハルカは視線を落として考え込む。今日は二人で外出する予定だった。だが、親友の不幸が心にのしかかってくる。自分だけ楽しむのは悪いように思えてきた。

「ねえ、今日、行くの止めない?」

「えっ、どうしてさ」

「なんだかチヒロが気になって」

 タツヤはハルカの目をじっと見つめ、真剣な面持ちになった。

「君の気持ちは分かる。でもね、ハルカ。自分も大事にしなくちゃ。今日という日は二度と来ない。一分一秒が貴重なものだよ。特に君のような死と隣り合わせで生きている者にとっては」

 ハルカは無言でタツヤの目を見た。

「ねえ、もしかしたら今日が最後の休日になるかも知れない。そう考えたら、徒に日を過ごすのが惜しくなるだろう?」

「...うん」

「もうレストランは予約してある。君、とっても楽しみにしてたじゃないか。チヒロだって、君が予定をキャンセルしたと知ったら悲しむと思うよ」

「そう...かも」

「よおし。それじゃ、決まりだ。ほら、早く食べて。冷めたら美味しくないよ」

「うん」ハルカは元気を取り戻してトーストを手に取った。

 二人はよそ行きの服に着替えて外に出た。ハルカは清楚な白いノースリーブのワンピースに身を包み、頭には鍔広の白い帽子を被っている。タツヤはチェックのスラックスに紺のポロシャツを着ている。村を出て停留所で循環バスを待っていると、向こうから十人ほどの警備員の一団がやって来るのが見えた。昨夜来た山本が先頭に立っている。

「山本軍曹、マサトはまだ見つからないんですか?」ハルカが山本に声を掛けた。山本は立ち止まってハルカに敬礼した。「お早うございます。残念ながら、行方不明のままです」

「そうですか。頑張ってくださいね」

「どうも。今日はこれから森の中を捜索します。広大な森ですから一仕事ですよ」

 山本は一行を率いて村に入って行った。ハルカは彼らの後姿を憂い顔で眺めた。するうち、バスが来て二人は車上の人となった。

 ハルカとタツヤはジオフロントの端にある、リニア鉄道駅のホームに立っている。この鉄道はここから25km離れた第四新東京市と地下で繋がる、ネオ・ネルフにとって大動脈ともいえる施設である。第四新東京市はかつて御殿場と呼ばれた地域で、ジオフロントをサポートする都市として開発された。ジオフロントに供給される物資の殆どは一旦ここに集積され、この地下鉄道によって運ばれる。他の輸送手段としては垂直離着陸型輸送機があるが、比率はごく少ない。また、多くの軍需産業がこの地に拠点を設けたため、人口も多く、発展しつつある都市である。

 ネオ・ネルフで働く者たちには憩いの場でもあった。空がないジオフロントで生活する者は、絶えずその圧迫感に耐えなければならない。たまの休みには広い空の下で息をつきたいという者が多く、この日も非番の職員が多く詰め掛けていた。

 列車がホームに入って来た。ハルカはチヒロに後ろ髪を引かれる思いをしながら乗り込んだ。あと15分もすれば第四新東京市だ。座席に座ったハルカはチヒロのことを頭から追いやって、頭上一杯に広がる青い空を想った。

 第四新東京駅から出た二人は、いつもするように空を見上げた。この日は良く晴れ、直射日光が眩しく降り注いでいる。ハルカは清々しい気分になり、腕を広げて深呼吸をした。朝からの憂鬱な気分はどこかに吹き飛んでいた。

「どう、やっぱり来て良かっただろ?」

「そうね。お天気が良くて気持ちいい」

 ハルカは駅前広場の真ん中に立ち、周囲を見回した。フラワーポッドには色とりどりの花が咲き誇り、目の前では大きな噴水が高く水を噴き上げている。母親が小さな男の子の手を引いて横切って行く。ベンチでは顔に新聞紙を載せたサラリーマン風の男が横になっている。向こうには中心街のビル群が立ち並び、多くの人々が行き交っている。

 殺風景なジオフロントとは段違いの平和な地方都市の光景だ。ハルカは満足感に浸りながら、タツヤの手を取って歩いた。

「まだ11時前だ。レストランの予約は1時だから、余裕はあるよ。ショッピングに行かない?」

「ええ、そうしましょ」

 二人は最寄のショッピングセンターを目指した。ここから歩いてせいぜい7、8分の距離だ。そこは3階建ての大規模な建物で、高級品から日用雑貨まであらゆる品々を取り扱っている。

 ハルカはサングラスをしていた。蒼い髪の毛も帽子によって目立たなくしている。チルドレンであることは保安上の理由でできるだけ隠しておきたいからだ。

 チルドレンは人類の守護者として人々の崇敬の対象であった。だが、反対にリリス教徒のように憎悪を抱く者もいる。この時代、チルドレンの容姿は秘密ではなくなっているので、常にテロの危険性を考慮する必要があった。

 二人の背後を一定の距離を保ちながら歩く一人の男がいる。ダークスーツに身を包みサングラスを掛けたその男は、絶えず周囲に気を配りながら二人を尾行していく。

 道行く二人の傍を十人ほどの黒い制服の男たちがすれ違った。彼らは皆フェースガード付きのヘルメットを被り、ジュラルミンの盾を携えていて、物々しい雰囲気を醸し出している。

 ハルカは小声でタツヤに言った。「機動隊がいるわ。何かあるの?」

「向こうには公園がある。おそらく反政府団体の集会があるんだろう。何もなければいいけど」

 タツヤは振り返り、遠ざかる隊員たちの後姿を眺めた。タツヤはいつもとは微妙に違う空気に気づいていたが、ハルカは興味なさげにすたすたと歩いている。社会問題に関心の薄いハルカは、自分たちと関わりがあると思っていない。その頭の中は今日のお買物希望リストで一杯だった。

 

 

 タツヤは紙袋を二つぶら下げてハルカの隣を歩いている。ハルカはショッピングセンター内のブティックで、しゃれたスカートやブラウスなどを気前良く購入していた。チルドレンは誰も倹約などという言葉を知らない。その生き様を考えれば当然ではある。ハルカはこの日も次々とカードを切った。タツヤは少しもいやな顔をせずにハルカの大名買いに付き合った。

「今度はあのお店」

 手ぶらのハルカは次に宝飾品の店に入った。店員は殊更愛想よく応対する。大事な得意客と見なされているようだ。ハルカはショーケースを一つ一つ丹念に見て回った。その中の一個の指輪がハルカの目に留まった。

 ハルカには本当のところ、自分を美しく飾る欲求はなかった。ただ、周りの人間たちは盛んにそうしろと言う。ハルカが新しい服を着ていくと、かわいいとか、きれい、とか言ってくれる。化粧をすると喜んでくれる。そういう訳で、いつしかハルカは女の子らしく着飾ることに積極的になった。

 指輪に関心を持ったのは、キヨミがしていたからだった。彼女はいつも左手の薬指にプラチナのリングを嵌めている。結婚指輪というのだと教えてくれた。

「タツヤ、あれ見て」

 ハルカは大小二つ並んだ指輪を指した。プラチナにほんの少し金の線が入ったものだ。

「結婚指輪だね。あれがしたいの?」

「うん」

 タツヤは声を潜めた。「僕らは結婚してない。できるわけもない。それでもしたいの?」

「したい」

 ハルカの答え方は強固だった。こうなると梃子でも引かないことは身に染みて分かっていた。タツヤは肩をすくめるしかなかった。

「で、僕にもしろと?」

「そうよ」

「分かったよ、お姫様。今日も凄い散財になるな」

 美人の販売員が揉み手をせんばかりに近寄って来た。タツヤは指輪を指してケースから出すように頼んだ。

 ハルカとタツヤは指輪を買った後、センター内のアイスクリームショップに腰を落ち着けた。ハルカのお気に入りの店だ。ハルカはバニラ味のソフトクリームを半ば平らげていた。タツヤは満足げなハルカに話しかけた。

「ねえ、ハルカ。さっきの店に女の従業員が二人いたよねえ」

「ええ、それが?」

「そのうちの一人はアンドロイドだ。君、分かったかな?」

「いいえ。どっちなの?」

「さて、どっちかな?当ててみて」

 ハルカは黙って考えてみた。一人は相当な美人。もう一人はそうでもなかった。人間の好みは当然美人の方だろう。

「背の高い、きれいな方」

「残念でした。もう一人の方だよ」

「え、なんで?」

「美人の方は動きに無駄が多かった。もう一人はそうじゃない。不必要な動きは一切しなかった。アンドロイドの特徴だよ。次になぜそれほどでもない容姿のアンドロイドを置いたか?あそこは主に女性客の来るところだ。そういう場所の売り子は特に容姿端麗である必要はない。逆に普通の顔の方が、客が劣等感を持たずに済む。入って来やすいってことさ」

「へえ。奥が深い」

「ここには他にもアンドロイドが沢山いるよ。気づかない人が殆どだろう。例えば入り口にいた案内嬢だ。下半身は台に隠れていたね?彼女、おそらく足を持っていない」

 ハルカは驚き、案内嬢が気の毒になった。「ちょっとかわいそう」

「どうかな。彼女はおそらくそれほど高度な人口知能を持っていない。自動人形に近い方だ。気にすることはないよ」

「ならいい」

 ハルカは奇妙な感じを持った。人間社会にそれと知られずアンドロイドが浸透している。人間はなぜ機械をそこまで人間そっくりにしなければならないのか?

「言ってみれば人間の欺瞞なのさ」

 まるで自分の考えを読み取ったかのようにタツヤが発言したので、ハルカはどぎまぎした。

「人間が機械と一緒に働く。機械に人間の補完をさせる。人口減少社会がもたらした必然的な現象なのさ。人間はそれを受け入れざるを得ない。そのさい、あまりに機械的なロボットを導入することは暗い現実を人間に突きつけるんだ。つまり、人類の衰退という現実をね。人類は一見人間と変わりのないロボットを置くことで見た目の繁栄を維持しようとした。寂しがりの人類は人間に代わる模造品で我慢することにしたんだ。

 そういう心の隙間を埋めるためのアンドロイドも数多くいるんだよ。子供から大人までね。僕も言うなればその一種だ」

 タツヤはたまにこうした冷笑的なことを言う。ただ、自分たちの本質について触れることはめったになかった。ハルカはタツヤが何を言い出すのか不安になった。

「とにかく、現代社会はどこか歪んでいる。人類の歴史上かつてない特殊な時代なんだよ、今は。昔の方がはるかに健全な社会だったんだ。君もいつか100年前の世界を調べてみたらいい。小説や映画ででも。テクノロジーは今とは段違いだけど、夢のような世界だよ」

「タツヤ、なんだか変。私たちが今こうしてここにいるのは、そのテクノロジーのおかげでしょう」

 ハルカはタツヤの批判めいた発言のために気分が白けてしまった。不満げにじっとタツヤの横顔を見つめた。

「あ、ごめんよ、ハルカ。退屈な話をして。で、他に欲しい物はないのかな?ん?」

 柔らかく微笑んでタツヤはハルカの顔を覗き込んだ。ハルカは気分を取り直して最後のコーンを口に放り込んだ。

 それから二人はぶらぶらとセンターの中を歩き回った。ハルカはある洋裁の店の前で、ふと足を止めた。

「おや、何か面白いものでもあるの?」タツヤは不思議そうにハルカに訊ねた。「まさか、僕のために何か編んでくれるとか?」

 縫い物は全てタツヤの仕事である。ハルカが裁縫に興味を示したことなど一度もなかった。

「違うわ。あれよ」

 ハルカが指差したのは数枚の刺繍だった。それは風景や静物を描いた見事なもので、熟練した達人の技を見せている。ハルカはさっさと中に入り、店の中を歩き回った。タツヤはその後ろに付き従う。あるコーナーに刺繍の本や、道具が置いてある。ハルカは一冊の本を取り、興味深げにそれを読み始めた。

 タツヤはおずおずと言った。「あのう、ハルカ。悪いけどさ」

「どうしたの?」

「僕、DIYのコーナーに行って買いたいものがあるんだ。ドリルを一つね。時間もあまりないから、行って来たいんだけど」

「いいわよ。私、ここにいるから」

「すぐに戻って来るよ。じゃ、待っててね」

 タツヤは紙袋を持ったまま、この場を離れた。

 ハルカは本の内容に惹かれていた。多くの優れた作品の写真が出ている。造り方が詳しく載っていて、なんだか自分にも出来そうな気がしてきた。キヨミと並んで刺繍をする有様が脳裏に浮かんだ。

 午後のひととき、先輩とお喋りしながら、楽しく刺繍をする。時々、細かなこつを教えてもらったりして...。

「あんた、チルドレンだろ」

 突然、後ろから声が掛かった。ハルカはどきっとして振り返った。汚い格好をした痩せぎすの若者だった。肩まで伸ばした長髪がむさ苦しい。

「変装のつもりかも知れないが、すぐに分かる。その髪の色だ。チルドレンなんだろ?」

「ちがいます」

「とぼけるなよ。なあ、話をしようぜ。時間はかからねえよ」

「お断りします」

 ハルカは本を戻して、立ち去ろうとする。が、若者の腕が肩を掴んだ。

「待てよ。なあ、なぜ使徒の邪魔をする?お前、使徒の親戚なんだろ?リリス様の意図を防げるのはなぜだ?」

 ハルカは若者の顔をきっ、と睨んで語気を強めた。「手を離しなさい。でないと逮捕されますよ」

「俺はおだやかに話してるだけじゃねえか。さあ、質問に答えてくれよ。なぜ使徒と戦う?人間様が訊いてるんだ。人造人間なら答えろ」

 ハルカは一層きつく若者を睨んだ。彼の腕はハルカの肩にきつく食い込んでいる。ハルカは非常手段としてバッグの中のスタンガンを使うことを考えた。

 いきなり、若者はうめいてハルカの肩から腕を外した。彼の顔は苦痛に歪んでいる。

 若者の背後に30代後半に見える男がいた。男は若者の左腕を捻り上げている。次に右腕を抱え込んで完全に動きを封じた。若者は苦痛のため声も上げられない。

「大丈夫ですか?チルドレン」

 呆気に取られていたハルカは男の質問に慌てて答えた。「え、ええ。なんともありません」

「畜生、放せよ!」若者が苦しげに叫んだ。店主がおろおろしながら駆けつけてきた。「どうしたんですか?何があったんですか?」店の前には四、五人が立ち止まって中の様子を見ている。

 男は若者を抑えながらハルカに訊いた。「チルドレン、こいつ、あなたにどんなことを言いました?」

「使徒やリリスの邪魔をするのはなぜだ、と問い詰めてきました」

「やはりリリス教徒だな、お前。チルドレンに暴行したらどんな罪になるか知ってるな?」

「俺はなんもしてねえっ」

「話は署でじっくり聞こう。チルドレン、あなたはもう結構です」

 男は若者を押して廊下へ出た。そこへ、ダークスーツにサングラスの男が駆けつけてきた。ハルカたちを尾行していた男だ。顔面は真っ青になっている。

「こ、こいつ何かしましたか?」

「君がガードか。名前は何だ。チルドレンの傍を離れて何をしていた」

「警備課の飯田と言います。阿南課長。すいません。急に腹の具合が悪くなって」

「君一人か。いつからガードは一人だけになった」

「昨日からパートナーの捜索で人手不足なもので...」

「ちっ。このことは報告するぞ。ほら、こいつをしょっ引け。リリス教徒だ。後は俺が引き受ける」

 阿南は長髪の若者の右腕を放した。左腕は捻り上げたままなので、逃げられない。飯田は懐から手錠を取り出し、若者の右手首に掛け、次いで阿南と二人掛かりで左手首にも掛けた。

「きやがれ、この野郎」

 飯田は鬱憤をぶつけるように、若者を乱暴に引っ張った。「放せよ。こん畜生!」若者は口汚く喚きちらしながら飯田に連れ去られて行く。

「ハルカ!」と、叫んだのはタツヤだった。紙袋を提げて駆け寄ってくる。

「どうした、ハルカ?何があったの?こちらは?」

「タツヤ。大変だったの」ハルカはほっとしてタツヤに寄り添い、腕に腕をからませた。

「あんた、パートナーだね。申し遅れました。私は保安部公安二課・課長の阿南と言います。よろしく」阿南はハルカに向かって敬礼した。

「阿南さん。危ないところをどうも」ハルカは小さく頭を下げた。

「なんのこれしき。実は今日、私も非番でしてね、偶然通りかかったら、あんなことになってた。良かったですね」

 ハルカは阿南の姿をじっくりと見た。彼も非番とあって軽快な私服を着込んでいる。筋肉質の体つきで厚い胸板の上に乗った細身の顔は、修羅場を潜って来た男の渋みを湛えているが、その目には優しさがあるように思った。

 阿南はチルドレンを間近に見るのは初めてだった。華奢な体つきをした、色白のまだ大人になりきっていない少女だ。こんな子供が人類の盾となっている。頭では分かっていたものの、実物の前に立つと、改めて奇異の念に打たれた。

 簡単に事情を聞いたタツヤはたちまち狼狽した。「なんてこった。離れるんじゃなかった。ごめんよ、ハルカ。僕がなんとかしなきゃならないのに」

「いいのよ、タツヤ」

 阿南は考えをまとめて、言った。「ガードがいなくなってしまった。こっちの支部の誰かを呼びましょう。それまで、私が付きます。お邪魔でしょうが、誰かがいなくちゃね。規則なので我慢してください」

「いいえ、お世話になります。阿南さん」と、ハルカ。

「それじゃ、電話を掛けさせてください」

 阿南は携帯電話を取り出し、支部へ掛けた。耳に押し当て、じっと呼び出し音を聞いていたその時だった。

 いきなり遠くからどん、と爆発音らしきものが響いてきた。さらに2発、同じ音が続いた。外側で一斉に湧き上がった叫び声が内部まで届き、センター内は一気に緊張に包まれた。

 阿南は電話どころではなくなり、携帯電話を切った。

「あれは何だ。何か起きているぞ!」

 阿南は外が見える廊下の端に向かって走った。ハルカたちも心配になって後に続いた。

 大きな窓ガラス越しに外を眺めた。ここは3階なので外の様子が良く見える。地上ではいつの間にか大勢の人間がひしめき合っていた。

「デモ隊と機動隊が衝突してる!」阿南は叫んだ。

 機動隊が盾を構えて道に充満していた。黒い放水車がその後方に待機している。その前方20mには群集がひしめいている。皆鉄パイプや金属バットを持って武装している。『民主主義を返せ!』『食料の独占を許すな』『独裁者に死を!』などと書かれたプラカードが見える。群集と機動隊の間で、炎が三ヶ所で燃え上がっていた。火炎瓶を投げられたのだろう。先程の爆音の元はこれらしい。

「今すぐ解散しなさい!」指揮車に据えられた大口径ラウドスピーカーから、隊長のものと思われる大音声が轟きわたった。

 群集の後方で炎が上がった。乗用車がひっくり返され、洩れたガソリンに点火されたのだ。

 石ころが一個、機動隊めがけて飛んできた。それが合図になったかのように、群集は多くの石を投げ始めた。盾に当る鈍い音が響いた。

「放水開始!」遂に放水車が前に出て群集めがけて水流を放った。命中した男たちはたちまち吹っ飛び、倒れる。群集は勢いに押されて退いた。

 ハルカたちの耳に、下の方からガラスの割れる大音響が聞こえてきた。続いて絹を裂くような悲鳴が響く。

「いかん!」阿南は叫んで階段に向かい走った。階下を覗いた阿南は事の重大さに青くなった。機動隊に押された群集が続々と入り込んで来ている。彼らは手当たり次第に品物をかき集めている。押し止めようとした店の警備員が頭を鉄パイプで殴られ、倒れた。

 阿南は取って返して、ハルカたちに言った。「略奪が始まっている!ここは危険だ。すぐに出ましょう」ハルカとタツヤは頷いて阿南の後に続いた。一行は反対側にあるもう一つの出口を目指した。

「わっ。こっちに来る!」

 阿南たちの進行方向から暴徒が向かってきたのだ。その数は二十人を下らない。彼らは手に手に武器を持ちながら、目を血走らせて走って来る。接触したら何をされるか分からない。

「戻りましょう!」

 やむなく正面に回る他なかった。階段を下りると、幸い暴徒は略奪に夢中で、こちらには目もくれなかった。店内は悲鳴と怒号の嵐だ。一階は駐車場で、正面玄関は二階にあった。彼らが外に出ると、そこは前進した機動隊の勢力範囲だった。

 ハルカが生まれて初めて見る人間同士の争いだった。血を流して倒れている者は、機動隊側にも群集の側にもいた。ハルカは玄関前の高い階段の上からその悲惨な有様を見た。胸の中で何かが荒れ狂った。

機動隊員の一人が突然倒れた。胸から血を流している。群衆の中に銃を持っている者がいるに違いない。続いて放水車から炎が上がった。火炎瓶が命中したのだ。放水車は動きを止め、中から隊員が出てきて消火に当る。これを契機に機動隊の勢いが止まった。皆盾の後ろに身を縮め、銃撃を警戒する。

「ハルカ、ぼーっとしてないで!」

 タツヤがハルカの腕を引っ張った。ハルカはなおも戦闘の現場から目を離せなかった。そのうち、群集の中にある男の姿を見つけ出した。

「あれ、飯田さんじゃない?」

 阿南とタツヤはハルカが指差す方向を見た。タツヤは瞳の焦点を自分の持つ最大解像度まで上げてそこを注視した。

「間違いない。飯田さんだ!」

 飯田は頭から血を流して道端に倒れていた。少しも動く気配がない。連行していたリリス教徒の姿はどこにもなかった。

 彼は死にかけている。そう感じたハルカは身じろぎもしなかった。何かしてやりたい。今、自分にできることは何か?様々な思考がハルカの頭の中を駆け巡った。

 階段に暴徒が投げた石が当たり、跳ね返った。

「彼のことは仕方がない。ここは危険だ。さ、早く向こうへ!」

 阿南はハルカの手を取って促した。しかし、ハルカは動かなかった。

「何をしてるんですか!怪我をしますよ!」

「阿南さん。私に考えがあります」

「え、何?」

「一緒に来て!」

 ハルカは凛とした顔つきで階段を駆け下り、真っ直ぐ機動隊の指揮車の方へ走った。阿南とタツヤは訳も分からず後に従う。

 指揮官は二階建ての車の上から戦況を見ていた。こめかみに汗が浮かんでいる。実弾の発砲を許可すべきか否か、彼は決断を迫られていた。

 そこへ、突然後ろから声が掛かった。

「指揮官、お話があります!」

「なんだ、うるさい!!」

 怒鳴って振り向いた指揮官は息を呑んだ。声を掛けた女の目が紅い。髪の毛は透き通るような青だ。

 帽子とサングラスを取ったハルカは真っ直ぐに指揮官を見上げた。

「私はフォーティーセカンドチルドレンです。何者かはご存知ですね。私にこの場を収拾する良い案があります。聞いてください」

「何だって。なんでまた...」

「時間がありません。どうか聞いて」

 ハルカの深紅の瞳が指揮官の目を射抜いた。指揮官は思わずその真剣な眼差しに引き込まれた。

「フォーティーセカンドチルドレンが通ります!道を開けてください!」

 大口径ラウドスピーカーからハルカの声が轟いた。が、戦況に何の変化もない。

「皆さん、ここにフォーティーセカンドチルドレンがいます。危険にさらされています。どうか争いをやめて通してください!」

 群集の中に変化が起こった。チルドレン、チルドレンという囁きが拡がっていった。怒号が徐々に収まり、人々は動きを止めていった。

「諸君、聞いての通りだ。チルドレンが帰りたがっている。火急の用件だそうだ。怪我でもさせたら大変なことになるぞ。道を開けて通してやってくれ!」

 指揮官の声が続いた。道路に奇妙な光景が出現した。つい先程まで猛り狂っていた者たちが静かに立ち尽くしている。

 機動隊の盾が割れて、ハルカが姿を見せた。後にタツヤと阿南、その後には救急隊員が担架を抱えて付き従った。担架の数はそれだけではなかった。今がチャンスとばかりに続々と救急隊が続いた。

 ハルカは堂々と素顔を曝しながら歩いた。暴徒は皆、呆然とその姿を見つめた。凄惨な修羅場の中に白い天使が降臨したかのようである。戦場は奇跡のように静止していた。立ち尽くす暴徒の目の前をハルカは進んで行く。

 とうとうハルカは飯田の傍らに立った。飯田は目を瞑ったまま大の字に倒れている。頭から流れる血が歩道を濡らしている。サングラスはどこにも見えなかった。

 膝を折って飯田の手を握り、声を掛けた。「飯田さん、飯田さん。目を開けて。死なないで」

 ハルカの願いは通じた。飯田はゆっくりと目を開け、ハルカを見た。ハルカは思わず微笑んだ。

「天使だ...」

 飯田の口から呟きが洩れた。瀕死の状態にもかかわらず、彼は微笑った。二人の救急隊員が体の下に手を入れ、担架に移した。持ち上げられて運ばれていく間も飯田は呟きを繰り返した。

「天使だ...、天使だ...」

 救急隊員たちは次々と怪我人を収容していった。ハルカはその様子を眺めながらゆっくりと歩いた。すぐ後ろにタツヤと阿南がついた。阿南は鉄パイプを拾い、何か起きたらすぐに対応できるよう、警戒しつつ進んだ。前方に人垣が固まっている。だが、ハルカが近づくと海が割れるように二つに分かれた。

 ハルカは真っ直ぐに顔を上げ、わざと胸をそらして道路の真ん中を平然と歩いた。群衆は声もなくその様子を見つめた。

「化け物」

 誰かの声が聞こえた。阿南はすぐさま声のした方へ眼を飛ばした。それきりその声は聞こえなかった。ハルカの表情には何の変化もない。

 段々と群集はまばらになり、前方が開けてきた。ハルカは自分の背中に浴びせられる群集の視線を痛いほど感じていた。それでも歩調は変えず、視線は真っ直ぐ前を向いていた。

 ようやく暴徒の群れを振り切った。ハルカは無意識に歩調を速め、角を曲がった。もう群集の視線はない。ハルカはそこから一気に走った。タツヤは慌てて両手の紙袋を揺らしながら背中を追った。阿南も必死に後に続いた。

 後は駅前広場まで走り通した。この辺の様子は普段と変わりない。噴水の前まで来て、やっとハルカは止まった。後の二人が追い付いた。

 ぜいぜいと息をしながら、ハルカは言った。「やったわ。タツヤ、阿南さん。私、凄いことしちゃった」

 タツヤの呼吸は普段と変わりない。「もう、ハルカったら、止めてよ。死ぬかと思ったじゃないか」

「はあ、はあ、確かに無茶だった。チルドレン」阿南は息を切らしながらも、笑っていた。「でも、立派だった。大したもんだ」

 阿南はハルカに右腕を伸ばした。「握手してください。チルドレン。今日のあなたは最高でした。僕はあなたの同僚であることを誇りに思います」

 ハルカは会心の笑みを浮かべて阿南の右手を握った。「ありがとう、阿南さん。褒めてもらえて光栄です」

 その瞬間、阿南は相手が人間でないことを忘れていた。

 

 

 結局、そこでその日の休暇は打ち切りとなり、三人はジオフロントに戻った。報告やらなにやらで、その日の午後はつぶれた。

 夕方のニュースでは、第四新東京市で起きた暴動事件は何一つ報道されなかった。

 その日の夜、ハルカは珍しく眠れなかった。興奮の余韻が続いていた。特に飯田が呟いた「天使」という言葉が、いつまでも耳から離れなかった。

 翌日、ハルカは査問会に呼び出された。昨日の行動が規範を逸脱していたことは明らかだった。2時間に及ぶ審理の後、ハルカに下された罰は減俸十日間という軽いものだった。

 判決を貰ってネオ・ネルフ本部を出たハルカの前に意外な光景があった。7人のチルドレンが揃ってハルカを待ち構えていたのだ。皆心配そうな顔をしている。

 キヨミが聞いてきた。「どうだった?」

「減俸十日間」

 チルドレンは一斉に歓声を上げた。手を叩いて喜ぶ者もいた。

「軽いじゃない。良かった」

「当たり前だわ。勲章貰ってもいいくらいよ」

「心配かけてごめんね、みんな」

「良かったわね、ハルカ」チヒロが手を差し伸べてきた。その貌にはどことなくやつれが浮かんでいる。「立派よ」

 ハルカはチヒロの手を握り返して礼を言った。親友の元気のなさにちくりと胸が痛んだ。チヒロだけが私服だった。つまり、チヒロは今日も訓練を休んだのだ。

 マサトは未だに発見されていない。チヒロの心労はピークに達しつつあった。

 

 

 6月15日。マサトが失踪して1週間が経過した。深夜の1時、警備課員の滝田は森の中を懐中電灯片手に歩いていた。頭上に星はなく、ジオフロント天蓋に小さなライトが少数光っているだけである。事件以来強化された警備体制によって、彼はこうして深夜の森をパトロールする。この時間ともなればジオフロントも地上と同様、静かなものだ。彼はジオフロントではここだけの土の小道を、懐中電灯を左右に振りながら、森の香気を満喫しつつ無心に歩いた。

 ふいに別の香りが混ざっていることに、滝田は気づいた。どこか機械油に似た何とも言えない嫌な臭いだ。彼は鼻はいい方だった。くんくんと音を立てて臭いを嗅ぐ。間違いなく臭う。歩き回って強く臭う方向を探した。右手から臭ってくるようだ。彼は懐中電灯を差し向けて森の奥深くへ進んだ。

 臭気が強くなった。いつしか滝田は恐怖めいた感情に捉われていた。木々の間を懐中電灯の光の輪が往き過ぎる。と、突然光の輪が止まった。

 輪の端にあってはならない物があった。それは、人間の裸足の足だった。

 滝田はわっ、と叫んで立ち竦んだ。これほど恐ろしいものを見たのは初めてだった。へっぴり腰になりながら光をより奥まで照らした。

 裸の男だ。それは足の裏をこちらに向けてうつ伏せに横たわっている。滝田は自分を叱咤し、それに近づいた。全体像を見た時、あまりの光景に息を呑んだ。

 男の首がなかった。しかし、血は一滴も流れていなかった。首に当る部分は黒々とした穴が開き、中から数本のコードが突き出ている。

 滝田は自分たちがここ1週間血眼で探し続けていたものを、ようやく発見したのである。

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