リリスの子ら

間部瀬博士

第4話

「主電源接続」

「全回路動力伝達」

 女性オペレーターの淡々とした声が、エントリーテストルームに響く。模擬エントリープラグが四本、大空間の中央部に佇立している。それぞれのプラグからは十数本のパイプが、蛇の群れのように絡み合いながら天井まで伸びている。それらの正面上部5mに窓があり、その向こうは管制室だ。その中には四人の女性オペレーターとブーランジェ博士がいた。

「第2次コンタクト開始」

「思考形態は日本語を基礎言語としてフィックス」

 プラグ内には、キヨミ、ハルカ、サヨコ、ユカがいた。彼女らはみな目を瞑って集中している。

「双方向回線開きます」

 四つのモニターに表示された棒グラフが、どんどん上昇していく。管制室の面々は、一様にそれに見入る。

「ハルカ、すごい」

 ハルカ担当のオペレーターが驚きの声を上げた。

「69、70。シンクロ率71.2パーセント!こんなの初めて!」

 博士に他のオペレーターも、揃ってそのモニターを覗き込んだ。博士はほう、と口を開けた。

「大したものね。キヨミの最高記録に迫っているわ。この短期間に、良くこれだけ伸びたわね」

「この前の人命救助が、プラスに作用しているのでは?」

「多分ね。自信の深まりが好結果を生んでいるのよ」

 キヨミ、サヨコにユカのシンクロ率は、いつもと同じくらいの数値を示している。ハルカだけが突出していた。

 博士がマイクのスイッチを入れた。「ハルカ、聞こえる?」

『はい、博士』ハルカの声が管制室に響いた。

「あなた、大したものよ。どうしてか分かる?」

『いいえ』

「あなたは今、歴代2位のシンクロ率をマークしているの」

『ほんとですか』模擬プラグには、自分でチェックする機能が付いていないので、ハルカは初めて結果を知った。

「ええ、71.2パーセント。おめでとう」

『先輩、すごい』『おめでとう、ハルカ』『さすが先輩』キヨミ、サヨコにユカの口々に言う声が聞こえた。

「テスト終了よ。交替してちょうだい」

 はい、とチルドレンは口を揃えて答え、シンクロがカットされた。やがてプラグの扉が開いて、チルドレンが姿を現す。プラグスーツからLCLを滴らせたハルカの周りに、他の三人が寄って来た。

「ハルカ、すごいじゃない。おめでとう」キヨミが濡れた長い髪を分けながら、ハルカに笑いかけ、掌を挙げた。「ありがとうございます、先輩」ハルカはその手に掌を打ち合わせる。サヨコとユカもそれに続く。四人は機嫌よく笑いながら引き上げに掛かった。

 その四人が、急に真顔になった。

 出入り口の扉が開いて、次の四人が入って来た。先頭にいるのは、スカイブルーのプラグスーツを纏ったチヒロだった。いつになく真剣な表情は、チヒロの緊張の深さを物語っている。

 ハルカはすれ違いざまに囁いた。「頑張って、チヒロ」

 チヒロはそれに答えもせず、まっすぐにプラグを見つめたまま、歩を進めた。

 チヒロにとっては事件以来となる、シンクロテストだった。精神的ダメージがシンクロ率に大きく影響することは、良く知られている。あれほどの大事の後、チヒロがどれだけのシンクロをし遂げられるか。それはネオ・ネルフ首脳にとって、重大関心事であった。

 四人はそれぞれのプラグに収まり、シンクロ開始の時を待った。チヒロのプラグに博士の声が響いた。

『落ち着いて、チヒロ。リラックス、リラックス。目をつぶって心を楽にして。緊張してたら、いい結果が出ないわ』

「はい、博士」

『じゃ、みんないくわよ。LCL注入開始』

 ほぼ同時に、足元から茶色の液体が湧き上がってきた。チヒロは静かに目を閉じ、その時を待った。LCLとの同化はスムーズに運んだ。オペレーターが進行状況を読み上げる。チヒロは何も考えず、エヴァを受け入れようとする。そしていつもの、体が二つになる感覚。チヒロはその感覚が来たことに、少しの安堵感を覚える。後は集中して一体感を高めようとする。

 博士はチヒロのモニターから目を離さなかった。シンクロが始まった途端、いやな予感がした。棒グラフの伸びに、いつもの勢いがない。

 21、22、23。起動指数は30だ。博士の掌に汗が滲んだ。24、25、26。グラフの伸びが止まりかかる。駄目なのか。

 27、28。やや勢いを取り戻した。博士が前かがみになる。29、30。臨界点のマークが点滅した。ひとまず関門は突破した。後はどこまで伸びるのか。

 最終数値は37.1を示した。博士は大きくため息をついた。

「やれやれ、とりあえず最低ラインは突破ね」

「でも、これではあまりに...」チヒロ担当のオペレーターが不安げな顔をして言った。

「そうね、かつての敏捷さは望むべくもないわ」

「可哀想に」

 博士は他のモニターに目を走らす。ユリコ49.5、ユキエ47.7、ルミ43.3。こちらは順当な数値を出している。

 今までの編成ではだめだ。博士は胸の内で結論を出し、マイクを取った。

「みんな、もういいわ。お疲れ様」

『博士、私、どうだったんですか?』チヒロの切羽詰った声が聞こえてきた。博士は気の毒に思いながら、努めて声を明るくした。

「大丈夫よ、チヒロ。ちゃんと乗れるわ。後で話があるから、帰らないで待ってて。いいわね」

 一瞬の間。『了解しました』

 また、いやな役目が巡ってきた。博士は憂鬱になりながら、マイクを放した。先のことを思うと気分が重くなる。チヒロに会う前に、まず作戦部と相談し、話はそれからだ。直接言い渡すのは栗林なのが、まだ救いだ。

 チヒロをはずすか?シンクロ率だけなら、予備グループにより高成績のチルドレンがいる。しかし、実戦経験や連携を考えると、そう単純に結論を出せない。しばし黙考した博士なりの予想は、チヒロを後衛へ回し、前衛はユキエを後釜に据える、というものだった。

 プラグを出たチヒロの顔は、蒼白になっていた。視線は下に落ちていた。ユリコ、ユキエにルミは、そんなチヒロに掛ける言葉が見つからず、視線を合わすこともしなかった。

 チヒロのグループが去り、テストルームは空になった。

「次のグループは?」博士は傍らのオペレーターに尋ねた。

「次はシオリ、ミユキ、アヤ、マサコです」

 マサコ?博士の顔が、ほんの一瞬歪んだ。「あの子、まだ頑張ろうっての?」

「ええ、上層部はまだ諦めていないようですね」

「時間の無駄だわ」

 博士の目が、テストルームに入って来たマサコの背中を捉えた。それに冷たい視線を浴びせた博士は、テストルームに背を向けた。

「後は任せたわ。結果は私のオフィスに送っといて」

 予備グループのテストは、さほど重要ではない。作戦部との打ち合わせを優先させようと思った。マサコが模擬プラグの中に、真剣そのものの表情で入り込もうとした時、博士は管制室を出ようとしていた。

 

 

 広い作戦部の会議室で、チヒロと栗林にブーランジェ博士は三人だけで向き合っていた。栗林の前に座るチヒロは、うつむきながら上司の声に聴き入っていた。膝の上にきつく握り合わせた両拳は白くなっていた。

「−−と、言うわけだ。勘違いしないでほしいが、別に降格とかいうものじゃない。後衛だって立派なチームの一員だよ。君の経験が存分に生きるだろう。だから、気を落とすことなんか、ちっともないんだぞ。その辺、良くわきまえてこれからも頑張ってくれ」

 栗林はその言葉にできる限りの優しさを込めた。チヒロは顔を上げて栗林を見つめた。「わかりました」固い表情で答えた。がっかりするなと言っても無理だろうな、と栗林は思った。チルドレンは危険が少ないポジションを有難がるようなメンタリティを持っていない。その辺り、栗林は良く理解していたが、なぜそうなのかという疑問に強いて答えを求めることはしなかった。

 博士が口を挟んだ。「シンクロ率は一度落ちたらもう上がらない、というものではないのよ。つらい体験を克服して、元に戻った例は沢山あるの。あなたなら回復できると期待しているわ」

 そう口では言いながら、博士の内心は懸念の方が強かった。これまで復活してきたチルドレンには、いずれもパートナーが付いていたからだ。パートナーを失ったチヒロにその可能性はあるのだろうか。

 栗林がチヒロの肩を叩いた。「あまりあせらず、のんびり構えろよ。気分を変える努力をするんだ。いつまでも死者の思い出に浸っていないで、しっかり前を向けよ」

「わかりました」チヒロは無理に微笑みを作った。

 栗林は頷いて立ち上がった。言うべきことは言った。後は本人次第だ。

「それじゃ、今日はもう終わりだ。家に帰ってゆっくり休め」

 チヒロは栗林に敬礼して部屋を出た。その元気のない後姿を見送る栗林には、この決断が正しかったのか、早くも迷いが生じていた。

 チヒロが本部ビルの出口に差し掛かった時、ハルカとキヨミが外に待っているのに気づいた。三人ともあでやかな私服に着替えていた。

「チヒロ、おつかれ」「待ってたのよ」

 二人の暖かい出迎えに、チヒロの固い表情が僅かに緩んだ。

「わざわざ待っててくれたの。悪いわね」

「いいの。暇なんだから」と、ハルカは朗らかに言う。

「次回からは後ろよ。取りあえず降ろされるのは免れたわ」

 自嘲気味に言うチヒロに、キヨミが笑いかける。「聞いたわ。良かったじゃない。まだ一緒にやれるのね」

「そうですね」チヒロもつられるように微笑った。

「それでさ、今日、私のうちでパーティをやることにしたの。来れるでしょ?」と、キヨミ。

「パーティですか?」

「ええ、パイロットをみんな集めるのよ。夜を徹してのどんちゃん騒ぎにするわ。美味しいものふんだんに用意するから。この辺で暗い気分を吹き飛ばすのよ」

「私のために?」

 ハルカが言った。「もちろんよ。みんな、あなたが大事なの。今夜の主役はあなた」

 チヒロはやっと屈託なく笑った。「でも、パーティって、何の名目で?」

「何でもいいわ。そうだ。128使徒撃退記念パーティでいいじゃない」

「それより、あなたの18歳の誕生記念パーティーがいいわ」

「え、それ、2ヶ月も前ですよ」

「いいのよ。そんなのいいかげんで」

 チヒロはそのキヨミの発言が可笑しく、あははと笑った。実に久しぶりの、心からの笑いだった。

 

 

 第四新東京市は、南部と北部では大きく様相を異にする。南部は軍とネオ・ネルフに関与する者が多く住み、清潔な近代都市であるが、北部は貧困層の比重が高く、建物は古く、インフラの整備は遅れ、病める下町の様相を呈する。

 その北部にも盛り場はある。そこは夜ともなれば、一時の快楽を求めて集まる男女を呑み込み、猥雑なまでの活気で賑わう。時刻は9時を過ぎたが、辺りは昼間のように明るく、行き交う人も多い。その人込みを掻き分けながら歩く素面の男がいる。阿南である。私服に身を包んだ阿南は、わき目も振らず目的地を目指す。

「お兄さん、遊んでかない?」

 露出度が高い服装をした女が纏わり付いてきた。タンクトップに短いパンツを穿き、太腿も顕わだ。顔には真っ赤な塗料で星型のペイントを施してある。鼻にはピアスだ。歳は二十歳前後か。

 阿南は手を振って、通り過ぎる。女はあっさりと元の位置に戻った。

 道端に空ろな目をした中年男が座りこんでいる。無精ひげを生やし、汚れた服を着た様からして浮浪者だろう。痩せこけた顔の中に目だけがギラギラと光る様は、薬物中毒を思わさずにはおかない。

「旦那、いい娘いるよ。ほら見てよ、これ」

 やくざっぽいポン引きが写真を差し出してきた。一糸纏わぬ20代の女が写っている。髪の毛を青く染めているのが目を引く。チルドレンと寝る気分になれるということか。阿南は顔を顰め、腕を振った。

 車道を三輌の戦車が通過して行く。帰営するところなのだろう。例の暴動以来、要所に戦車が配置され、市民を威圧していた。道行く人々は、もう見慣れた光景であったので、さして感心を寄せる風でもない。

 軍服の一団が前方に固まっている。一人が赤い蝶ネクタイをした男と、何事か交渉している。横には派手な色の、裸女の姿をしたネオンが光っている。これから集団で売春宿に繰り込もうとしているのだろう。

 刺青屋の大きな看板が見える。この時代、刺青を入れる者が引きも切らない。顔にまで刺青を入れた者も珍しくない。

 男が一人、ストレッチャーに乗せられて運ばれてきた。救急隊員二名でそれを運んでいる。男は頬がこけ、目のまわりに隈が出来ている。一目で麻薬中毒と分かった。ぶつぶつと何事か呟いているのは、まだ夢の世界にいるからだろうか。あの男の先は長くない、と阿南は思った。

 路地に胃の内容物を吐き出す男。麻薬中毒。春をひさぐ女たち。阿南はここに来るたびに、嫌悪感を覚えずにはいられない。人類の生存を賭けて戦う者がいる一方で、刹那的な快楽に身を浸す者たちがいる。だが、圧倒的に多いのは後者の方だ。

 世の終わりが、ほんの一時間後にも来るかも知れない。ならば、今一時の生を充実したものにしたい。その気持ちは、阿南にも十分に理解できる。しかし、阿南はこれまで明日の到来を信じ、そうさせることに、己の僅かな力を関与させることを生きがいとしてきた。希望を捨てることが、阿南にはできなかった。

 阿南はこの第四新東京市で育った。実家もここからそう遠くない。知り合いも大勢いる。

 彼の両親は、彼が1才の時に、共に世を去った。生活を苦にしての心中だった。彼は戦略自衛隊に所属していた叔父に引き取られた。したがって彼は、両親の顔を写真で知っているだけで、生の記憶というものがない。

 叔父夫婦は彼を実の子同然に養育した。後に夫婦の間に息子が生まれた後も、表面上分け隔てすることはなかった。

 防衛大学にも進学させてくれた。当時最大の出世コースということもあったが、彼の精神形成に、叔父が強く影響したことが大きかった。

 戦自に入隊後、転機が訪れた。ネオ・ネルフが人員を募集したのである。彼は即、応募した。

 阿南の中にはエヴァンゲリオンに対する強い憧れがあった。それは9才の時、実際にその姿を目撃したことから始まる。

 当時、第四新東京市近郊には、まだ森林が豊富にあった。ある晴れた日、阿南少年は二人の友人と共にせみ取りをしに、森へ来ていた。

 そこへ、使徒が襲来したのだ。

 サイレンがいつまでも鳴り止まなかった。三人は直ちに逃げ帰ろうとした。途中、不運にも阿南少年は木の根に足を取られ、足首を捻挫してしまったのだ。足首の痛みは激しく、歩くのもままならない。

 三人は迷いに迷った。ようやく下した結論は、とりあえず阿南をこの場に残し、誰か大人に救助を頼むというものだ。阿南は木の根元に腰を下ろし、林道を走り去る二人の背を心細げに眺めた。

 救助は一向に来なかった。阿南はその場で、不安に押しつぶされそうになりながら膝を抱え、辛抱強く待った。

 やがて、不安が現実になった。地鳴りのような響きが轟いた。遠くで木が何本も倒れる音がした。地面が地震のように揺れた。近くでエヴァが使徒と戦っているに違いない。阿南は死の恐怖に捉われながら、耳を塞ぎ、蹲ってそれらが収まるのを待つしかなかった。

 ふいに静かになった。阿南は終わったのかと顔を上げた。しばらくして規則正しい地響きと、枝を折る音が聞こえてきた。それはこちらに近づいて来る。

 阿南はパニックに陥り、びっこを引き引き、そこを離れようとした。何かがこっちへ歩いて来る。足首がきりきりと痛む。死ぬかも知れないと思った。

 急に周りが暗くなった。何かが太陽を遮ったのだ。阿南は驚いて空を見上げた。

 それは、天を突く白い巨人だった。使徒の返り血を浴びて所々赤くなったその巨体は、はるかな高みに頭部を煌かせて歩いていく。エヴァンゲリオンというこの世の奇蹟が目前にいる。

 それは巨大で、雄雄しく、力そのものを体現しているかのようだった。阿南は足首の痛みを忘れて、大きく口を開けながらそれに見入った。完全に見えなくなった後もその場に佇み、エヴァが去った方向を眺めていた。

 その時からエヴァ及びそのパイロットは憧れの的となった。チルドレンと呼ばれるパイロットや、エヴァ自体が使徒とどう関係するのか、後に知った後も、その憧れは大きく減じることはなかった。

 そうしてネオ・ネルフに帰属して現在に至る。阿南はこれまでの人生に、概ね満足していた。

 阿南は古びた居酒屋の暖簾を潜った。いらっしゃい、と亭主の声が掛かる。店の中は五分の入りといったところか。髪を派手に染めた若者や、くたびれたような中年男が盃を重ねている。

「予約したもんだけど」

 阿南が亭主に言うと、亭主は奥の襖を指した。「へい、どうぞ。お連れさんがもう見えてます」阿南が襖を開けると、髪を伸ばした若者が待っていた。

「どうも、佐藤さん。先にやってました。」若者はジョッキを上げて阿南に挨拶した。Tシャツにジーンズのその男は、年の頃二十代半ば、流行のペイントはしていない。耳に取り付けた直径2cmほどの金色のリングが、この男なりのおしゃれだ。

「早かったな」阿南は若者の前に、テーブルを挟んであぐらを掻いた。地味な茶色の鞄を脇に置いた。お上さんが注文を取りに来た。阿南はジョッキと枝豆を頼んだ。

「仕事が早く終わったんで。佐藤さんも、これ、どうぞ」若者は、ほっけの焼き物の皿を前に出した。

 この若者は山辺ショウイチと言う。公安二課がリリス教内部に忍び込ませたスパイだ。山辺は阿南の本名を知らない。佐藤という名も今日、この場限りだ。山辺にとって阿南は「木下」ということになっていて、山辺自身、それも暗号名であることは理解していた。

 山辺は3年前、強盗の罪で服役していた所を、阿南らにスカウトされた。仮釈放と引き換えに、スパイになることを持ち出されたのだ。山辺は即刻承諾した。郷里にいる母親に仕送りしてやりたかった。スパイの報酬も魅力だった。

 先日の第二新東京市におけるリリス教徒の摘発も、この男の情報が元になっていた。スパイとしては有能という評価を受けている男だ。

 お上さんがジョッキと枝豆を置いていった。阿南はジョッキを軽く呷り、山辺に顔を近づけた。

「この頃、教団内部の動きはどうだ?」

「特に変ったことはないです。こないだの摘発で、自粛ムードってのかな」

「最近の集会ではどんなことがあった?」

「一番近いのは先週の土曜日でした。集まったのは15人。いつもの通り、幹部の土井垣と中村が、ラジカセで教祖の肉声を再生してました。その後は土井垣の説法。その録音はこれ」

 山辺は傍らのかばんからメモリースティックを取り出し、阿南に差し出した。阿南は素早くそれを取り、懐に収めた。

「テロに結びつくような発言は?」

「ありません。裁きの日は近い、信徒は一層祈りに励み、その日を迎えようではないか、とまあ、いつもの調子で」

 リリス教・教祖、美濃浦ダイゴが地下に潜って久しい。警察、ネオ・ネルフは勿論、国家情報部までもが美濃浦の行方を追っていたが、その所在は未だに謎のままだった。幹部の土井垣や中村にしても、その音声は一方的に送られて来るので、美濃浦がどこでどうしているのか知らない。彼らが泳がされているのは、ひとえに教祖逮捕を優先しているためで、その辺りは彼らも自覚しているふしがある。

 リリス教は、一介の証券マンに過ぎなかった美濃浦ダイゴが、一代で築いた新興宗教である。

 彼はサードインパクトが勃発した2015年に生まれ、特に変ったところのない、平凡なサラリーマンとして生きてきた。ところが、使徒再来が公になった2045年、突如自宅でリリスの声を聞いたとされる。

 我はリリスなり。我はうつし世の神、アルパにしてオメガであり、最初であり最後である。

 心して聞け。大いなるいくさが再び起こるのである。ヒトは、我が僕の力に恐怖するであろう。ヒトは再び傀儡を作り、愚かしくあがきまわる。

 されど我が子よ。醜きヒトの歴史は終わりを迎えるのだ。我が僕はうつし世を灰となし、愚昧なる者共を水となすであろう。

 されど我が子よ。汝、乾いた者を黒き月へ導け。命の水が与えられるであろう。黒き月こそ神の住まいである。

 我は汝らの間に住まいなし、汝らは神の民となろう。

 神は汝らの目からすべての涙を拭い去るであろう。そこでは死はなく、悲しみのかけら一つもない。全き安らぎが、時が果て尽きるまで続くのである。

 我が覇業を讃えよ。我に従う者はすべて我が息子、我が娘となるであろう。

(『リリス教典儀』)

 その啓示を聞いて以来、会社を辞め、リリスの預言を伝えるべく伝道活動を開始した。それからも度々リリスの声を聞き、代弁者として各地を回った。信徒は爆発的に集まった。2050年には、早くも教祖の地位に上り詰めた。最盛期には、全世界に50万の信徒を有するに至った。

 彼らの運命は2072年に暗転する。西園寺タツヒコは、政権掌握と同時にリリス教を非合法化し、日本全土で一斉に信徒を逮捕した。幹部級は公開処刑され、他に千人を超える信徒が劣悪な収容所で虐殺された。

 だが、リリス教そのものが無くなったわけではない。美濃浦は逮捕を免れ、姿をくらました。彼は今だに強い影響力を持っている。信仰を胸に秘めて市民社会に溶け込んだ者は多く、日本ではおよそ一万人の隠れ信徒がいるものと推測されている。彼らは時に秘密の集会を開き、自らの信仰を強固にしている。

「土井垣か中村にもっと近づけないか?」

「努力はしてます。でも古参の連中が金魚のフンみたいにくっついてて。僕みたいなのが近づくのは難しいです。時間がかかりますね」

「次の集会はいつごろか言ってなかったか?」

「いいえ何も。やつらも慎重ですから」集会の日程は、大抵前の日に突然知らせてくる。摘発されにくいように、場所も転々と変えている。

 阿南は頷き、鞄の中から三枚の紙束を取り出した。「これを見てくれないか」阿南は紙を広げた。一枚の大きさはA4サイズで、それには各々男の似顔絵が描かれている。

「これは、この前中心街で起きた暴動の際、うちの警備課員を殺った奴らの似顔絵だ。見覚えのあるのはいないかい?」

 うち一枚は阿南自身が絵描きに証言して作らせた、ハルカを襲ったあの男の絵だ。山辺はじっくりと絵に見入った。煙草を吸いながら、一枚、一枚、目を通していく。三枚目で山辺の動作は止まった。

「こいつ、見たことがある」

 山辺がぽつりと言った。阿南は勢い込んで山辺に迫った。

「それは、何時、どこでだ?」

「確か前々回の集会の時、隅っこの方にいたのがこいつだ」

 そこには、頭をちりちりにした、20代後半に見える男が描かれている。目尻の上がった三白眼は、凶暴そうな印象を与えている。飯田の後頭部を金属バットで殴打し、死に追いやった男だ。

どんな感じだった?一人で来たのか?覚えていることを言ってくれ」

「仲間はいなかったように思います。一人でやって来て、終始無言で説法を聴いてました。帰りも一人だった」

「そいつをマークしてくれ。そいつは俺たちの仇だ。何としても逮捕したい」

「分かりました。この絵、もらっても?」

「いや、撮影しておけ。管理は厳重にな」

 山辺は携帯電話を取り出し、一枚ずつ撮影していった。阿南は似顔絵を鞄に戻した。

「よろしく頼む。次回の集会は、日程に場所が決まり次第、教えてくれ。張り込みを付ける。そいつが現れたら、即逮捕してやる」そう言って阿南は懐から封筒を取り出し、山辺の前に置いた。「いつもすいません」山辺はそれを両手に持って頭を下げた。蓋を開け中の現金をちらりと見て、懐にしまいこんだ。

 阿南は枝豆をつまみ、ジョッキの残りを一気に飲み干した。

「俺は先に帰る。君はもう少しここにいて、時間をつぶせ。一緒にいるところを見られたくないからな」

「心得てますよ」

 阿南は伝票を取り、山辺の肩を叩いて、立ち上がった。この男は使える。山辺の存在を心強く思った。飯田を殺した犯人は、必ず俺が捕まえる。そう決意を新たにしながら店を出た。

 

 

 阿南の家は、同じ市内の高級住宅街に近いマンションにあった。駅にも近く、ジオフロントとのアクセスに便利だ。5年前に思い切ってローンを組み、買った、ささやかなねぐらであった。既に10時をまわり、辺りは夜の静寂に包まれている。阿南はエレベーターに乗り込み、行先の階を押した。

 鍵を開けて部屋に入ると、すぐにエプロンをした女が出迎えた。

「おかえりなさい」「ただいま」

 女はにっこりと笑い、阿南によりそい、彼がジャケットを脱ぐのを手伝う。

「お食事になさる?」

「そうして」

 女は若く、美しい。阿南より10は若かった。名はシズコと言う。着替えを終えた阿南は食卓に座り、キッチンで立ち働くシズコの、アップにまとめた髪をなんとなく眺めた。

 シズコがテーブルの上に阿南の夕食を並べた。「いただきます」阿南は箸を取って、焼き魚をつまんだ。シズコは阿南の向かいに座り、大きな目を阿南に向けた。口元には終始微笑が浮かんでいる。

 だが、彼女の前には何もなかった。ただ阿南が食べる様を眺めている。それだけで十分幸せという風情で。

 昨日も一昨日も、いや、ずっと前から彼女はそうしてきた。これからもずっとそうするだろう。彼女に今、幸せかと訊けば、必ずそうだ、と答えるだろう。それは表面上だけでなく、そう『感じて』いるからだ。阿南が口も利かず、箸を進めるだけでもいい。なぜなら、幸福とはこういうものだと定義されているからである。彼女は阿南のために存在しているのだ。

 この室内にいる生き物は、阿南一人だけである。

 

 

 翌朝、阿南は第四新東京市内にある、ネオ・ネルフ支部に出勤した。と言っても、ネオ・ネルフという看板を掛けてはいない。雑居ビルの3階にある光洋エンジニアリング株式会社がそれで、阿南たちの表向きの身分は、そこの社員ということになっている。

 厳重なセキュリティシステムを通って、オフィスに入った。いたのは草鹿ともう一人の女子課員だけだった。草鹿が挨拶もそこそこに駆け寄ってきた。手には一枚の紙を持っている。

「課長、本部からファックスが来てます。新事実が分かりましたよ」

「そりゃ、なんだ」

 阿南は草鹿の手から紙をひったくった。内容に目を通した阿南の目が大きく広がった。

「すぐジオフロントに行くぞ!」

 阿南は回れ右をして出口に向かった。草鹿は嬉々としてその後についた。

 

 

 ファックスの内容は、二課員の青木の発見を伝えるものだった。青木は膨大な監視カメラの記録映像を徹夜で見直し、ある人物をその中に見出した。地下商店街の映像に、飯田殺しの犯人らしき男が映っていたのだ。

 草鹿の運転する車の助手席で、阿南は携帯電話の画面に見入っていた。青木から転送されたお宝画像を見ている。

 それは、ジオフロント地下1階にある、メインゲートを写したものだった。画面右下の日時データは、その日が6月3日撮影のものだということを示している。軍服の男がゲートに多数並んだ、カード読取装置に向かって歩いて来る。そこで一旦映像は止まり、男のアップになった。ちりちりの頭に吊り上がり気味の目。あの似顔絵に、非常によく似ている。これで飯田殺しとマサト破壊事件の両方が、一気に片付くかもしれない。阿南は興奮を抑え切れなかった。

 ややしばらくして青木から、もう一本映像が送られてきた。阿南はもう一度目を剥くことになった。

 日付は古く、4月25日の映像だ。地下商店街を斜め上から撮った画面上には、多くの人間が通り過ぎて行く。やや間を置いて静止画像になった。中のドラッグストアが拡大される。画面中央にその男がいた。店の中から外を眺めていて、前のと違い、私服を着ている。その服の柄を見た阿南は、思わず声を上げた。男はポロシャツを着ている。それにはタツヤのと同じく、胸にギンガムチェックの模様があった。

 

 

 保安部の中枢は、ジオフロント内の空洞部にある5階建てのビルにある。そこの会議室に、事件の捜査に当る部員全員が集合していた。全部で25名いる。阿南と草鹿はその最前列に座り、会議が始まるのを待っていた。阿南らがジオフロントに到着して2時間が経っていた。

 阿南の横に公安一課長の瀬島が座った。阿南よりも年配の精力的な男だ。瀬島は早速阿南に話しかける。

「お宅はやけに忙しくなってきたね」

「ついてないね。そちらはどう?」

「ここんとこ、いい話はない。やつらの秘密保持は筋金入りだよ」

 瀬島が率いる公安一課は、ネオ・ゼーレとその他の反ネオ・ネルフ組織を担当している。

ネオ・ゼーレは旧ゼーレの残党を核に組織されたとあって、組織力の強さはリリス教の比ではなかった。それだけにどれほどの脅威があるのか、計り知れないところが、保安部にとって不気味な存在であった。

「それらしい奴にスパイを接触させてはいるんだが、なかなかガードが固い。通信の傍受とかはやってるんだが、成果は今一だ。...そう言えば『ネメシス』って聞いたことないかい?」

「ネメシスと言えば、ギリシャ神話に出てくる復讐の神でしょ?」

「うん。近頃は暗号通信が主体で、傍受も容易じゃないんだが、一本解読できたのがある。『ネメシスが動いている』と言うのさ」

「それだけ?」

「残念ながら。たぶん、誰かの暗号名だろう。いやな名前じゃないか」

「名前だけじゃなんとも」

「スパイじゃなきゃいいがな」

「奴らがスパイを送り込むと?」

「ネオ・ゼーレなら、できて不思議じゃない」

 瀬島の冷やかな口調に、阿南は気分が重くなった。瀬島がなおも何か言おうとした時、会議室のドアが開き、相沢が姿を現した。後に続くのは警備課長の斉藤だ。やけに神妙な顔をしているのは、またも部長の叱責を食らったからだろう。こう失態が続いては、斉藤の出世の目は消えたな、と阿南は思い、冷やかな目を向けた。

 相沢が中央の演壇に立ち、全員を見回した。「えー、みんな。今日集まってもらったのは他でもない。昨夜、事件に関係がありそうな事実が出てきた。この映像を見てほしい」相沢の横に大型の移動式モニターがあった。相沢が手元のリモコンを操作し、映し出されたのは、今朝阿南が見た男の映像だ。

「この男、軍服を着てはいるが、軍人ではない。こいつの正体は民間人で、名前は檜垣コウジ、29才。なぜ分かったかと言うと、なんとお膝元の商店街にいたことがあるからだ。青木君が思い出してくれた」

 青木は阿南の左後方にいた。長身で頬のこけた、眠そうな目をした寡黙な男だ。行動力は並だが、観察眼、集中力で評価されている。相沢の言葉にも表情を変えず、頬をやや紅潮させただけでいる。会議の前に阿南に褒められた時も、照れたように笑うだけだった。

「こいつが容疑者として重大なのは、飯田軍曹殺しの犯人と見られるからだ。みんなの手元に似顔絵は行ってるな。良く似てるだろ?檜垣が飯田軍曹を殴り殺した可能性は非常に高い。檜垣がリリス教徒であることにほぼ間違いない。教徒と見られる男と一緒だったこと、阿南課長の調べでは、教団の集会に出ていること。これだけ材料が揃えば確実と言っていい。」

 画像は阿南が見た、もう一つの方に切り替わった。さらにID登録票のアップが出る。

「こいつはドラッグストアの従業員だったんだ。俺たちは毎日のように、こいつの顔を見ていたんだよな。なのに、今日まで時間がかかったのは、盲点だったとしかいいようがない。期間は昨年の11月5日から、今年の5月3日まで。店主によれば、勤務態度は並だったそうだ。辞めた理由は自己都合だとさ」

 そのドラッグストアでは、阿南も何度か買物をしていた。言われてみれば、あんな奴がいた。思い出せなかったことが腹立たしくなった。阿南は手元にある登録票のコピーを見た。顔写真が似顔絵とそっくりだ。

「問題は辞めた後、IDカードを回収したにも関わらず、侵入を果たせたことだ。この日、6月3日に檜垣は侵入した。ネオ・ネルフの軍服は、中古市場で割りと簡単に手に入るからな。古着屋を当る必要があるだろう。当日の檜垣の映像で、今までに見つかっているのはもう一種。帰るところだ。朝9時24分に入場。退場は午前11時5分」

 モニターの画面が二分割され、左に入場時、右に退場時の画像が映された。

 どちらも軍服に身を包み、ボストンバッグをぶら下げている。手馴れた様子でIDカードを機械にかざして行く。

「この二つの時刻にゲートを通過したのは、記録上、土橋カズオ上等兵、33才だ。経歴その他は手元の資料を見てくれ。彼のことは太田君から述べてもらおう」

 オブザーバーの席にいた太田が立ち上がった。彼だけは人事課員で、捜査とは関係がない。

「土橋上等兵は去る4月24日、午前10時、非番の日に兵営を出て、第四新東京市へ向かいました。同僚の証言では、映画を見に行くと言っていたそうです。それっきり彼は帰営しませんし、連絡もありません。こちらの調査では、映画館に入るところまで確認されていますが、その後の足取りは掴めていません。両親、その他友人・知人にも連絡は来ていません。彼は行方不明になったのです。同僚の隊員や両親・知人も、行方を眩ますような態度は、まったく見られなかったと証言しています」

「はい、ありがとう。つまり、突然いなくなった兵士が、密かに舞い戻ったって訳だ」

 手元に土橋の資料が配られている。顔写真は檜垣とは似ても似つかぬ、細面の優男のものだ。阿南は土橋に憐れみを覚えた。

 草鹿が手を挙げた。「商店街でテロを仕掛けたとしても、打撃に違いありませんが、効果としては限定的です。もっと内部に侵入した可能性はないでしょうか?尤も、地下のミックスゾーンから民間人が内部に入り込むのは、かなり困難なことです。虹彩照合をクリアしなければならないからです。そこは解決しなければならないと思います」

 ネオ・ネルフに所属する者は全て、右目の瞳にある虹彩のパターンを登録されている。職員専用ゾーンに入るには、専用の機械による虹彩チェックを受けなければならない。

「その通りだ。ミックスゾーンから内部へ行く道は三つある。第1、第2、第3ゲートだ。これらのゲートの記録も調べたよ。6月3日は三つ合わせて6,439回の出入りがあった。その中にいたんだよ。土橋上等兵殿が」

 会場内が大きくどよめいた。阿南も大きく目を開けて相沢を見た。

「記録によれば土橋上等兵、または彼になりすましたXは、9時49分に第3ゲートを通過、午前10時43分に同じゲートを出ている。草鹿君の言う通り、敵は我々の内懐まで侵入したのだ。ここで、俺の推測を言おう。ここだけの話だ。他所で言うなよ。まず、土橋上等兵はもう生きてはいない」

 室内にやはりそうか、という空気が漂った。

「犯人は亡き上等兵の顔から、右目を抉り取ったのだ」

 阿南の背中に冷たいものが走った。草鹿や、その他の捜査員も、皆一様に怖気をふるった顔をした。

「目玉を透明な四角いケースに入れ、硬化ベークライトを注入して固める。ゲートに来た侵入者は、その目玉を懐から取り出して、機械の前にこうかざしたんだ」

 相沢は左手で両目を覆い、右手を何かつまんだ格好で、前に差し出した。会議室は静寂に包まれていた。

「まだ仮説に過ぎないよ。他に可能性は沢山ある。さて、登録票にある檜垣の住所に、早速捜査員を回した。しかし残念なことに、アパートはもぬけの殻だったそうだ。1時間前に報告があった。大家にも内緒で出て行ったらしい。

 さて、みんな。こいつがネオ・ネルフに敵対していることは明らかだ。重大なのは、ゲートを越えてどこに行ったかだ。時限爆弾をどこかに仕掛けた可能性がある。

 さらに、だ。こいつが着ているポロシャツに注目してほしい。襟のボタンは、マサトの家の床に落ちていたものと同一なのだ。これは何を意味するのか?こいつが7日にいたのなら、限りなく黒に近くなる。だが、3日以外にこいつが侵入した形跡はない。3日にマサト殺害の下準備をした、ということかも知れん」

 相沢が『殺害』という言葉を使ったことを、気にするものは誰もいなかった。

 阿南はずっとモニターに見入っていた。檜垣が入退場する場面が、角度を変えて何度も再生されている。阿南はその中に一つの手掛かりを見つけていた。

「すいません。そいつの靴をアップに出来ませんか?」

「おっ、何か発見したかい?」相沢は助手に命じて、早速作業をさせた。カーソルが現れ、四角い枠を作ると、そこがたちまち拡大された。「もう一方も」阿南が注文し、即座にその通りにされた。

「ほほお、よく見つけたな」相沢が感心しきりといった風情で言った。

 檜垣が履いた軍用ブーツの画像には、前後で違いがあったのである。入場時のブーツはきれいなものだが、退場時のには土でよごれたように、茶色い色が踵に付いている。

「檜垣が向かったのは村です。標的はチルドレンだ」

 阿南は力強く断定した。草鹿は尊敬の眼差しを阿南に送った。相沢は頷いて一同を見回した。

「ようし、村が最重点の捜索箇所だ。さてと、警備課の諸君にまずやってもらうのは、ジオフロント内部を、爆弾探知機で徹底的に捜索すること。ごみ箱、消火器、などなど爆弾がしかけられそうな物は一つ残らず綺麗にしろ。公安は今日一日、目撃者探しを手伝ってくれ。一課は地下、二課は空洞部だ。村が終わってから次へ行こう。技術部警備課の方もよろしく頼むよ」

 相沢は列の右端に座った、迫田技術部警備課長を見やった。迫田は神妙に頷いた。同じ課から来ているのは彼一人だ。阿南は今さらながら、ネオ・ネルフの組織構成にある奇妙さを思った。

「明日以降、公安は檜垣の行方を全力で追ってくれ。少なくとも一人を殺したことは明らかだ。こいつ単独でこれだけの動きが出来るとも思えん。組織のサポートなしには不可能だ。くれぐれも身の安全には気をつけてな」

 これで捜査会議は終わりとなった。阿南は資料を鞄に入れて立ち上がった。

 瀬島が阿南に言った。「頑張ってくれよ。手伝ってほしいことがあったら言ってくれ。全面的にサポートするから」

 阿南は瀬島に礼を言って右手を差し出した。がっしりと握手を交わして会議室を出る。

 ふと、マサコのことを思い出した。つい昨日までは有力容疑者だった女。阿南らは周辺の聞き込みに、かなりの力を注いでいた。

 チルドレンとそのパートナーに関わる捜査からは、何の材料も得られなかった。マサコ以外にアリバイのない者はなかった。裏付け捜査も終わっている。阿南は内心不快に思いながらも、マサコに直接訊問するしかない、と思い始めていた。

 マサコについては後回しだな。阿南はチルドレンが犯人である可能性が、相対的に低くなったことに安堵していた。さらに、あの誇り高きチルドレン・コトミがあんなにも懸命になったのは何故なのか、妙に引っ掛かるものを感じるのだった。

 

 

 ジオフロントは一気に厳戒体勢に入った。地下商店街は閉鎖され、民間人は全員退去させられた。

 阿南と草鹿は十数人の警備課員と共に村に入った。チルドレンの家々を端から捜索するのだ。爆弾テロはリリス教徒のお家芸で、過去に命を落としたネオ・ネルフ職員の数は多い。と言っても、これまでの爆弾テロはもっぱら地上で起きていて、ジオフロント内部で発生した事例は皆無だった。

 ハルカは突然の警備課員たちの来訪に驚いた。おなじみの山本軍曹の話は、ハルカを不安にさせた。床を這うロボットが放たれ、男たちが金属探知機を部屋中の家具に向け、捜索を始める。ハルカとタツヤは所在なげに座りながら、それを眺めるだけだ。猫はハルカの足元で大人しくしている。

 遅れて阿南がやって来た。「今日は、チルドレン。また会いましたね」

「阿南さん」ハルカはつと立ち上がって阿南を迎えた。「大変ですね。大丈夫でしょうか。とても不安です」

「心配しないで。大したことにはなりませんよ」阿南はハルカを安心させるように微笑んだ。「それでも用心するに越したことはありません。武器はちゃんと保管してありますか?」

「ええ、ベッドの下に、スタンガンと拳銃と手榴弾を置いてあります。手入れも月に一度は」

 常にテロの危険に備えなければならないパイロットたちは、護身用の武器を所持している。ハルカはそれらの武器の扱いに習熟していた。

 男達は探知機に少しでも反応があれば、無造作に引き出しを開け、中身を点検していく。タツヤが座る椅子に探知機を向けた時、大きく反応があったので、男達は一瞬緊張したが、すぐにそれがタツヤ自身の反応と分かって、苦笑いを浮かべた。

 食器棚の下に反応があって、男達は力を合わせて動かしたが、そこから出てきたのは、何の変哲もないクリップだった。タツヤが立ち上がって男達に言った。「どうぞまかせて。他を探してください」言うなり、片腕一本で戸棚を戻してしまった。男達は目を丸くした。一見普通の男子にしか見えないタツヤだが、アンドロイドは見かけ以上の力を持っているのだ。

「地下室はどこ?」金属探知機を持った男がタツヤに声を掛けた。身に纏った防護服に、首から下げた防毒マスクがいかめしい。タツヤは先に立って男を案内する。「こちらへどうぞ。ちょっと臭うかもしれませんが我慢して下さい。猫ロボットを作ってた時に、循環液をこぼしまして」

 地下室へ下りるドアを開けた男は、くんくんと鼻を鳴らした。「いや。臭ってないよ」タツヤは頭を掻いた。「そうですか。僕らは臭覚がないんで」「へえ、そう」と、男は興味ありげに言い、階段を踏んだ。

「ふふ。一頃ひどかったんですよ。私、あの臭いはきらい」ハルカは苦笑いを浮かべ、阿南に言った。タツヤが戻って来た。

「阿南さん、ご苦労様です。何をお聞きになりたいですか?」

「どうも。あなたがたに見ていただきたいものがあります」阿南は鞄の中から、軍服を着た檜垣の写真を取り出した。「これは6月3日に侵入したリリス教徒の画像です。さらに飯田軍曹殺しの容疑者でもあります。人相が一致しているからです。どうです。この男に見覚えはありませんか?」

 タツヤは写真をじっくりと見つめた。真剣な表情をするのを見て、阿南はそこまで人間そっくりにできる技術に、改めて舌を巻いた。

「この男、覚えています」

 阿南に、大当たりがやって来た。

「それは3日のことですか?」

「ええ、その日です。僕は庭で水を撒いていました。その時、この男が前の道を歩いて行きました。大きめの鞄を持ってました」

「一人で?」

「ええ。あの時間に軍人が通るのは珍しいので、印象が強かったですね」

「どっちの方向へ?」

「養成所の方です。阿南さん、爆弾テロの目標としては、いい場所じゃありませんか?」

「まさにその通り。おおい、みんな!」

 阿南の大声が家中に轟いた。テロの候補地が浮かび上がったのだ。この家の捜索は後回しにしても差し支えはないだろう。

 十分後には、養成所に殆どの人員が集まっていた。

 相沢次長は、ポケットに手を突っ込みながら、警備課員の捜索する様子を眺めていた。阿南と草鹿も傍にいる。入ってすぐのホールに三人はいた。養成所は騒然とした空気に包まれ、何人もの保安部員が廊下を行き来している。遠くでチルドレンの黄色い声が響く。マサコを先頭にチルドレンの一団がやって来た。パートナーを伴っているから、大層な人数になる。少女たちは異常事態に興奮しているようだ。

「ねえ、ばくはつするかな」

「多分大丈夫よ」

「しーっ。静かになさい」マサコの制止の声が飛ぶ。養成所は危険なので、一時近くの公園へ避難するところだ。中にはやっと歩き出したばかり、といった感じの子までいる。年齢は違っても同じ顔の少女たちが固まっている様子は、阿南に強い違和感をもたらす。阿南を見たマサコは一つ頭を下げた。やはり美しい。阿南はその美貌に見とれるのを抑えきれなかった。

 チルドレンは三人の前を通過し、騒がしい音を立てながら外へ出て行った。タダオは捜索を手伝っているらしく、姿が見えない。

「で、今回の犯行についてどう思う?」と、相沢は阿南に訊いた。

「まず不可解なのは、3日に侵入してから今まで、何も起きていないことです。養成所を丸ごと吹っ飛ばすというのもありだと思いますが、それならもう爆発は起きている。時間を掛けるほど、発見されるリスクが増えるだけだ。不発なら別ですが、やつらは過去にそんなヘマはしていない。おそらく檜垣は、効果を最大限に発揮する場面を狙っているんです。問題はそれが何かですよ」

「賛成だね。とにかく、ここで何かが見つかるはずだ」

 阿南の視線が、向こうの柱の陰に止まった。小さな女の子が、ちらちらとこちらを見ている。

「失礼。お姫様が僕に用事があるようです」阿南は相沢に断ってそこを離れ、柱の後ろのコトミの傍に行った。「やあ、チルドレン。残っていちゃ、駄目じゃないか。僕に用かい?」

 コトミは真っ直ぐに阿南の目を見て言った。「うん。マサコねえさんの調べがどうなったか、教えてほしいの」

「まだ何も分かってないよ。他にやらなきゃならないことが沢山あるんでね」

「そうなの」コトミの頬が一瞬、膨らんだ。

「ねえ、チルドレン」阿南は腰を屈めてコトミの顔を間近に見た。「君が見たのは本当だと思うよ。だけど、それが事件に結びつくとは限らない。マサコねえさんは散歩に出ただけなのかもしれない。僕の勘では、マサコさんが犯人とは思えないんだよ」

「直接訊いてみたの?」

「いや、まだ」

「どうして!?」コトミは興奮していた。阿南は異様なものを感じた。

「大人の事情ってものだよ。ねえ、どうしてそんなに拘るんだい?リリス教徒が侵入してきている。あれもやつらの仕業と思える。チルドレンを犯人にしたいのかい?」

「そうじゃない」

「君は何か特別なことを知ってるんじゃないか?」

 阿南の質問にコトミは口を噤んでしまった。自ずと答えているようなものだ。阿南はじっとコトミが口を開くのを待った。

「私、避難しなくちゃ」コトミはふいに背を向けて、向こうに走り去る。その先で、一人の幼く、整った顔立ちの少年が盛んに手招きしている。こんな所にいる少年が人間のはずがない。コトミのパートナーだろう。阿南はあえて後を追わなかった。蒼い髪を揺らして走る彼女の後姿を、その場で眺めた。

 公園に養成所のチルドレン全員が集められた。森の中にある、丸太を使ったアスレチック用の施設が置かれた緑地で、養成所のすぐ近くにある。

 殆どのチルドレンはジャージを着て、立っていた。マサコを中心に、チルドレンとパートナーがひしめいている。

 阿南と草鹿がやって来た。マサコは抜きん出て背が高く、目立っている。その腕の中に、親指をしゃぶる2才ほどのチルドレンを抱きかかえている。阿南はその姿が実に様になっていると思った。

 コトミがさっきの少年と手をつないで、こちらを見ている。怒っているように見えるのは、気のせいか。

「えー、みんな。僕の話を聞いてください」阿南が大声を出して、チルドレンの注目を集めた。一斉におしゃべりを止めて、聞く体勢になった。

「みんなにも捜査の協力してもらいたいんだ。3日の日にこの男を見た人はいないかい?午前中のことだ」阿南は大判の檜垣の写真を、高く掲げて見せた。子供たちの視線が一斉に集まった。草鹿も同じように写真を見せる。

 十才くらいのチルドレンがおずおずと手を挙げた。阿南は教師のようにその子を指した。「はい、君」

「私、なんとなく覚えてます。表にゴミを出しに行った帰りに、その人とすれ違ったんです」

 阿南の声が弾んだ。「そいつは軍服を着ていたんだね?」

「ええ」

「どっちの方から来た?」

「裏の方から」

 阿南は養成所の見取り図を開いた。施設の裏側に注目する。裏側にある出入り口は一つしかない。だが、それは事務室のすぐ傍だ。密かに侵入するには向いていない場所だ。阿南の視線はそこからやや下に止まった。

 施設から僅かに離れて倉庫がある。誰にも見られず入り込むには絶好の位置だ。阿南は携帯電話を取り出した。

 呼び出し音が聞こえる。阿南はその間にその娘に訊いた。「君、名前は?」

「ミユです」

「お手柄だよ。ミユ君」

 相沢が出た。阿南は大きめの声で話した。「次長、目撃者が出ました。裏の倉庫を探してください。爆弾があるとしたらそこです」

 

 

「そうか。ご苦労さん!」相沢の声は弾んでいた。携帯電話を閉じて阿南に言った。「爆弾が見つかったそうだ。処理も終わった。見に行こうぜ」

 相沢、阿南に草鹿は事務室で待機していた。そこへ、爆発物処理班から一報が入ったのだ。

 彼らは直ちに裏の倉庫へ向かった。高さ5mはありそうな倉庫の入り口は開いていて、傍に警備課員が立ち番をしている。阿南らは敬礼をして中に入った。

 倉庫の中は様々な大道具が、所狭しと並んでいた。物々しい装備を着た処理班長が待っていた。後ろには数人の班員が控えている。一人が携帯電話で報告を入れている。奥ではカウエル教官がしゃがみこんで、何かを見つめている。

 班長の中川が手袋をした手を挙げて、5センチ四方程の、機械が詰まった透明な箱を見せた。赤と緑のリード線が1本ずつ突き出ている。「次長、ありました。こいつですよ」

「起爆装置か。爆弾はどこだ?」「あそこです」

 中川は奥に転がった、長さ2m、縦70cm、高さ40cmぐらいの箱を示した。木製で、底には四つのキャスターが付き、表面は白い板で覆われている。カウエルが立って敬礼した。阿南らは間近に寄って、その箱の内側を見た。隅に金属テープで貼り付けられた、長さ20cm程度の直方体の黄色い物体がある。

「プラスチック爆弾ですね」草鹿が覗き込んで言った。

 中川が答えた。「そう。これだけあれば、周囲30m以内のものは粉々になる」

 その機械は阿南が予想した通りの仕様だった。「やはり時限装置は付いてなかったな」

「ええ。無線で起爆するやつですよ。装置としては一般的なものです。外すのに苦労はなかったですね」

「この箱は、何に使っているものだろう」

「パイロット就任式に使う雛壇ですよ」と、カウエルが言った。その手の箱は、他にも数個、奥に置いてある。「これらの箱を重ねて、中央の航空機発着場に置くんです。上には現役パイロットや上層部が座る」

「奴の狙いが読めたぞ」相沢が眉根に皺を寄せて言った。「就任式には現役のパイロットも含めて、全チルドレンが集まる。ネオ・ネルフの主だった者も全員な。そこで、こいつが爆発したら...、ネオ・ネルフは壊滅的な打撃を被る」

 阿南の背に冷たいものが走った。この作戦が図に当っていたら、人類は確実に破滅に向かっている。相沢は続けた。

「パイロットの就任式は何時あるか分からない。だが、その情報は比較的容易に手に入るだろう。檜垣は当日、土橋上等兵に成りすまして就任式に近づく。集まった群衆は多いから、目立つことはない。式が最高潮に達したとき、密かに隠し持った無線装置を出してスイッチを押す。辺りは阿鼻叫喚の地獄と化すんだ。

 仮に、檜垣が飯田に手を掛けなかったら?この作戦は成功していたかも知れない。俺は冷や汗が出てきているよ」

 皆、一様に黙り込んだ。敵はそこまで肉迫してきたのだ。どす黒い不安が一同を覆っていた。

 

 

 その次の日、保安部にさらなる激震が走った。阿南は第四新東京支部のオフィスでその画面を見た。

 夕方の6時半、阿南が帰社すると、十名近い二課員が揃ってパソコンのモニターを見つめていた。

「ただいま。何かあったのか?」

「課長、えらいことになってます」

 草鹿が深刻な顔で阿南に言った。阿南は無言の人込みを掻き分け、モニターを覗きこんだ。

 モニターに映し出されていたのは、土の地面にうつ伏せに横たわった、全裸の男の死骸を撮った写真だった。しかし、首があるべき場所には、ぽっかりと黒い穴が拡がっている。

「マサトの死骸か!」阿南はあっけに取られてモニターを見つめた。事が重大なのは、これが内部資料などではなく、民間のサイトに掲載されているということなのだ。その証拠に写真の下にキャプションが付いている。

−−神の僕に逆らいし傀儡の末路−−

「どういうサイトだ!?」阿南はパソコンを操作してトップページを開いた。黄色いバックに大きく書かれた文字が阿南の目を射抜いた。

 リリスの子ら

 教団の奴ら、やりやがった!阿南は歯軋りせんばかりに、その文字を睨んだ。同時に背筋に冷たいものが走った。極秘の捜査資料が流出したのだ。内部に教団のスパイがいることは、ほぼ確実となった。

 

 

 有力容疑者の登場で、村の周辺は静かになった。マサコは自分について、あちこちで聞き込みがされていたことを知っていたので、鉾先が変ったことは有難かった。

 そんなある日の午後、マサコは事務室で昼休みを過ごしている。新しく来た保母の渡辺と一緒に、お茶を飲みながらテレビを見ている。

 タダオが郵便物の束を抱えて入って来た。殆どの封筒は世界各地から送られたチルドレンへの激励の手紙で、チルドレンはそれらに目を通すのを楽しみにしていた。タダオは中央管理棟にある郵便箱から、それらを取ってきたところだ。

「今日は一杯来てる。ほら」タダオは机の上に郵便物を置いた。マサコと渡辺は茶碗を置いて、早速それらに手を伸ばした。

 マサコは大きめの封筒の差出人を見た。「別海市立第三小学校3年1組生徒一同。きっと寄せ書きよ。みんな喜ぶわね」

「こっちのはなんと、シェラレオネからだよ。子供の字のようだね。それから、これは君にだ」

 タダオは、チルドレン養成所内マサコ様と印刷されたシールを貼った封筒を、マサコに差し出した。マサコはその封筒を見て、怪訝そうな顔をした。封筒に消印はなく、ジオフロント内で出されたものだ。封筒の隅にネオ・ネルフのマークが印刷されているのもその証拠だ。ジオフロントでは普通に使われているもので、この事務所にも大量に置いてある。差出人の名は書いてなかった。

 そんなものをもらう覚えはなかった。マサコは席を立ってタダオたちに背を向け、封筒の端をちぎった。

 中には一枚の紙が入っていた。それを広げたマサコに、脳天に杭を打ち込まれたような衝撃が襲った。

 お前の秘密を知っている。

 書いてあるのはその一言だけだ。白い紙に機械で印刷してある。

 マサコはふるえる手で、それを封筒に戻した。タダオはその姿を見て奇妙に思い、声を掛けた。「どうしたの?何が書いてあったの?」

「何でもないわ」と、言いつつ動揺も顕わに席に戻った。封筒はエプロンのポケットに突っ込んだ。

「なんだか変だよ」

「いいの。今はほっといて」

 渡辺とタダオは疑問を感じながらも、マサコのきつい言い方に押されて、何も言えなくなった。マサコは口を噤み、次々と封筒を開封していった。その日の午後、マサコは殆ど口を開かなかった。

 その夜、自室の居間で、タダオは初めて封書の中身を見た。一瞬にして深刻な顔立ちになった。

「誰がこんな?こんな手紙をよこすなんて、どこの誰だ?」

「見当もつかないわ」マサコは落ち着かなげに歩き回りながら言った。

「どういう意味があるんだ?僕らを脅迫したいんだろうか?」

「なんとも言えないわね。それだけじゃ、簡単すぎる」

「ジオフロントの中の人間が出したことは確かだね」

「今、分かることはそれだけよ。もしかしたら、第二、第三の手紙が来るかも」

「困ったぞ。保安部に訴えるわけにもいかない」

「ああ、もし、あれが公になったら!」マサコは立ち止まって、顔を両手で覆った。「私、きっと生きていけない」両目に涙が浮かんだ。

「大丈夫だよ、マサコ」タダオが駆け寄って、マサコの肩を抱いた。「あの人に言ってごらん。多分、手を貸してくれるさ」

 マサコは手の甲で涙を拭い、しきりに頷いた。

 

 

 ある部屋の真ん中に、一体の骸骨のような物体が佇立している。その骸骨からは無数のコードが、天井まで伸びている。部屋の中に人影はなく、ロボットアームに取り付けられた溶接機が、時折火花を散らす。その部屋の内部を大きな窓越しに注視しているのは、ベヒシュタイン博士だ。

 ロボットアームが、赤く平たい肉片のような物体を右胸に接着している。メタリックに輝く骸骨は、既に所々同じような組織を身に着けていた。

 モニターに見入っていた白衣の女性が数字を読み上げた。「大胸筋の接着完了。人工筋繊維の装着、15パーセントが終了」

「どうだ、タツヤ。気分は悪くないか?」室内に博士の声が響いた。

 今まで静止していたロボットが急に顔を上げた。顔と言っても、鼻から下は赤く、上は金属が剥き出しになったままだ。眼窩の中の目玉がわずかに動いた。

「全然問題ありませんよ、博士。体がクリーンになるんですから、むしろ爽快といった気分です」

「それはいい」

 タツヤは横を向いて博士を見た。その頭はまだ頭骨に当るカバーを着けておらず、中のチップが丸見えになっている。

 ロボットアームが次々と筋繊維を貼り付けていく。そこには段々と赤い全裸の男が姿を見せ始めている。

 その隣の部屋でも同じような作業が行われていた。こちらは既に黄色い人工皮膚を吹き付ける工程に入っていた。頭部はすっかり出来上がり、キヨミのパートナー、ユウヤの顔が現れていた。

 明るい森の中を、ハルカは一人で歩いている。この地域の天気は晴れていて、散光塔からは午後の光が満遍なく降り注ぎ、散歩には好適な日和だ。ハルカは短めの青いスカートと白いブラウスに身を包み、森の風景を楽しみながら小道を闊歩した。

 やがて森が開け、緑の芝生が見えた。大きな池のある緑地帯に着いたのだ。ジオフロントに住む者にとっては一番の憩いの場である。

 ハルカもここが好きだった。水面に青空が映ることはないものの、風が心地よく、多くの水草や蓮の葉、逆さになった木々の影を眺めるのは楽しい。アメンボウが水面をすべり、清楚な蓮の花が薄いピンク色の花弁を拡げている。

 水辺に沿って、寛いだ気分で歩くハルカは、向こうの太鼓橋の上に長い髪のチルドレンを見つけた。じっと水面を見つめている。

「キヨミ先輩」

 ハルカは声を掛けて、キヨミに駆け寄った。キヨミは顔を上げてハルカを認め、微笑みを浮かべた。

「あら、一人で?珍しいわね」

「先輩だって。ユウヤさん、どこですか?」

「メンテナンスの日なのよ。そろそろ終わる頃かしら」

「うちのタツヤもそうです。退屈なんで一人で出て来たんです」

 ハルカとキヨミは共に橋の欄干に体を寄せた。

「いい所よね、ここ。心が落ち着くような気がする」

「そうですね。私もしょっちゅう来ます」

 そよ風が水面に僅かな波を起こす。鯉が一匹、水草を掻き分け姿を現し、白い背に黒と朱の鮮やかな模様を見せる。二人の紅い瞳がそれを追いかけた。

 キヨミがふと問いかけた。「ねえ、そもそもこんな森や池が、なぜこのジオフロントにあるか知ってる?」

「え、みんなの憩いのため...じゃないんですか?」

「それもあるけど、本当の理由は別にあるの」

「なんですか、それは?」

「『バイオスフィア構想』って聞いたことない?」

 それは、ハルカが初めて聞いた言葉だった。「いいえ」

「バイオスフィア...ようするにもう一つの地球ってこと。ここは、世界でも最大のシェルターになり得る場所よ。とてつもない大きさの空洞だわ。地球環境がこの先どうなろうと、この中の世界は独立して存続していける可能性がある」

「でも、使徒が入り込んだら終わりじゃないですか」

そうね。使徒戦を最後まで勝ち抜いたら、の話。世の中がすっかり平和になったら、このジオフロントをどう利用できるか?そういう観点から出た発想なの」

「気が長いんですね」

「そうね。いい、まず植物が二酸化炭素を吸収し、光合成をして酸素を放出するわ。動物は植物から食料も得る。動物は二酸化炭素を吐き出し、植物の生育に必要な有機物と水を植物に与える。この中では、水は一滴も無駄にされないわ。蒸発した水は天井でまた水に戻り、地下の水槽に貯まる。動物の尿も再処理して水にする。こうして大気と水、食料を循環させるの。あなた、向こうの農場には、行ったことがある?」キヨミは腕を伸ばして北側を指した。その方角は木々がまばらで、平地が広がっていることが分かる。

「一度見学に行ったことがあります。稲に小麦、牛に豚に鶏がいました。てっきり非常用の食料にするものだと」

「もっと壮大な発想なのよ。さらに人間は生き残るために、もう一つのプロジェクトを進めているわ。それが『ノアの箱舟』構想」

「旧約聖書ですね」

「そう。膨大な数の植物の種がここに集まっているの。それから、動物の遺伝子ね。人間の遺伝子も含まれている」

「人間の?」

「ありとあらゆる人種の、優秀と見なされる人たちの遺伝子が収集されているの。その数は数千にもなるそうよ。そういう施設はここだけじゃなく、世界に5箇所もあるんだって」

「生き延びるためにはなんでもするって感じですね」

「ええ。人間は決して世の終わりを受け入れないわ」キヨミは自嘲するように幽かに微笑った。「私たちも使徒が来る限り、地下のリリスが生きている限り、造られ続けるのよ」

 ハルカは顔を上げて、はるか上の天蓋を見上げた。タツヤは人類は衰退しつつあると言っていた。人類はなりふり構わず生存の手段を探っている。やはりタツヤの言うように、人類は坂を下りつつあるのだろうか?行き着く先には何があるのだろう?

 キヨミはハルカの暗い表情を見て、話題を変えた方がいいと思い、笑顔を見せてハルカに言った。

「この前のパーティー、どうだった?」

 ハルカの表情が明るくなった。「すごく楽しかったです。料理が良くて。ゲームも面白かった」

 あの日の楽しい思い出が甦ってくる。食べて飲んで、歌ったり、踊ったり。タツヤはピアノを弾きまくり、ハルカも大いに騒いだ。

「でも、ユカにまで飲ませたのは、さすがにまずかったわね」

「えへ。あれはユキエがいけないんですよう」

 パーティーでは酒類が出て、大飲したチルドレンは翌日の訓練を、体調不良で迎えなければならなかった。殊にまだ幼いユカは二日酔いのため訓練を休み、パイロットたちは上官から厳しいお小言をもらった。

「チヒロも元気そうだった。あれが復活のきっかけになってくれたら、いいんだけど」

「そうですね。チヒロ、よく泣いてましたけど、ここのところ元気がいいです」

 ふと思いついたように、キヨミが言った。「あなた、泣いたことは?」

 ハルカは唐突な質問に面食らった。やや間を空けて答えた。

「私、まだ泣いたことないんです」

「そうなの。私もないの。幸せと言っていいのかしら」

 キヨミは、ぼんやりと水面に映る自分の顔を見つめた。ハルカもそれに付き合った。

「私たちは造られてから、だんだんと人間に近づいてきた。ユーモア、何かを美しいと感じること、愛情、悲しみ。いろんな感情を手に入れてきたわ。でも、まだ欠けている。不思議よね。DNAはヒトのものなのだから、違いが出るはずないのに」

 ハルカに答えはなかった。沈黙を保ったまま、内面を見つめた。泣くとしたら、どんなときだろう。チヒロのように、タツヤが突然死んだら、きっと泣くことだろう。キヨミが死んだら?泣けるかもしれない、とハルカは思った。しかし、強いて泣きたいとは思わない。人間は人間、チルドレンはチルドレン、それでいいではないか。

 キヨミが真剣な口調で言った。「でも人間に近づいていくことが、いいことばかりとは言えないわ。例えば恐怖」

「恐怖?」

「あなた、何かを怖いと感じたことある?死ぬこととか」

「ありません」ハルカはきっぱりと答えた。「死ぬのが怖いと思ったことなんか、一度もないです。怖いというのが、どういう感じなのかも分かりません」

「なぜかしら?」

 キヨミは遠くを見つめながら訊いた。ハルカは意表を突かれて、まじまじとキヨミの横顔を見入った。

「変だと思わない?恐怖とは最も根源的な感情なのよ。とても古くからあるもの。下等動物にさえあるはず。それは生への欲求と、直に結びつくものだから。それが私たちにないのはなぜ?こうして生きているのに」

「分かりません...」

 ハルカは正直、なんの解答も持っていなかった。これまで考えたことさえなかった。

「一つ言えるのは、それが全くないのかというと、そうでもないかも知れないということ。私は恐怖に呑み込まれたチルドレンを知っているから」

「トゥエンティセブンスチルドレンですね」

 キヨミは忌まわしい過去を追想した。多くのチルドレンの死を見てきたキヨミにとって、それは一際残酷な思い出だった。

 11年前に遡る第81使徒戦。キヨミは当時、前衛に抜擢されたばかりだった。相手は最強とされるゼルエルタイプの使徒で、防御力、攻撃力共平均をはるかに上回っていた。強力なビームの威力に、8機のエヴァは押されていた。中の一機、2号機は盾の下を狙われ、右足を奪われた。膝から下が後方に吹き飛んだ。

 2号機はもんどりうって転がり、槍を放してしまった。盾を構える2号機の上に使徒が覆いかぶさった。盾は四本の触手状の腕に絡め取られ、横に捨てられた。残るエヴァ7機に対しては、ビームを放つ頭部を回転させて牽制する。2号機は両腕を触手に押さえ込まれて、身動きが取れなくなった。

 新たな武器が使徒の腹を割って飛び出してきた。黒い蛇のようにうねくるその器官の先端に装備されているのは、回転する円錐形のドリルだった。それが持ち上がり、2号機の胸をめがけて下りていく。

 その時、キヨミを含むエヴァパイロット全員が聞いたこともない叫びを聞いた。それは、2号機を駆るトゥエンティセブンスチルドレン・キョウコの、死を前にした恐怖の絶叫だった。涙声で助けて、という叫び声が、パイロット全員の耳を苛んだ。

 ドリルは容赦なく2号機の装甲を侵した。赤い血が噴き上がり、使徒も2号機も赤く染まった。キョウコの肺腑を抉るような叫びが、他のパイロットたちを苦悩のどん底に落とす。

 キヨミが駆る6号機の足が自然に動いた。戦術も何もなく、無我夢中で前に出ていた。すぐさま使徒のビームが放たれ、6号機は左腕を吹っ飛ばされた。キヨミはその苦痛にめげず、なおも6号機を駆り立てた。

 間一髪、使徒が再度ビームを放つ前に、6号機が操るロンギヌスの槍がビームの発射口を刺し貫いた。続けてプログナイフでコアに斬りつける。

 残る前衛2機が駆けつけ、使徒を槍でめった刺しにした。周囲に夥しい使徒の返り血が飛び散った。

 こうして、第81使徒は殲滅された。その使徒の下にいるエヴァ2号機も全く動かなかった。パイロットのキョウコは、その時既にこと切れていた。

「...いやな思い出だわ」

 キヨミは憂いを帯びた表情で水面を見つめている。ハルカも黙ったまま、橋の下にある自分の顔を見つめた。

 ハルカはパイロットに成り立ての頃、キョウコの話を聞いた。チルドレンも人間と同様、精神の奥に深い闇を宿している、と先輩は言っていた。そんな風には絶対になりたくなかった。

「キョウコは例外よ。他にあんなことになったチルドレンはいないわ。私も平然として死んでいくから」

「いやなこと言わないでください!」ハルカは眦決してキヨミに叫んだ。「先輩にはもっともっと長生きしてもらいます。まだ先輩が必要なんです。気弱なこと言わないでください」

「ごめん。私、疲れてるのかも」キヨミはハルカの肩に手を置いた。「もう数え切れないほど戦ってきたわ。その間、何人ものパイロットが死んでいったのに、私は運良く生き残った。たまにそろそろ無に還ってもいいんじゃないかって思うことがあるの」

「やめてください」ハルカはたまらず、キヨミの二の腕を掴んだ。「今日の先輩は変です。縁起でもないこと言わないで。先輩にはもっともっと教えてもらわなくちゃならないんです。もっと前向きに考えて」

 キヨミはハルカの肩に手を置いた。「ごめんね。でもね、一つだけ言わせて」キヨミはハルカの瞳を間近に見つめた。「私が死んだら、あなたがみんなのまとめ役になるのよ。次のエースは、あなたで決まりよ。大丈夫、あなたなら出来る。あなたが私の跡を継ぐの」

「私が?」

「そうよ。当然じゃないの。そのことを自覚して。ゆくゆくは、あなたがみんなを引っ張るのよ」

「はい」

 引き締まった表情でハルカは答えた。紅い瞳に決意が滲み、きらりと輝いた。

 キヨミはハルカの体を離した。おもむろに橋を降りていく。「そろそろユウヤが戻るわ。帰らなきゃ」

「先輩、まだ話が」キヨミに追いつこうとして一歩出た時、道の向こうに背の高い男の姿が見えた。

「ユウヤ!」キヨミは髪をなびかせてユウヤの元に走った。ハルカの目も構わずキヨミはユウヤを抱き、キスを始めた。しばしそのままでいる二人をハルカは見守る。自分とタツヤよりも、ずっと大人びたカップルだ。あんな風になりたいと思った。

「どうしたの?随分積極的だね」唇を離したユウヤが言った。キヨミは潤んだ瞳をユウヤに向けた。

「何だか寂しい気分だったの。あなたを見たら甘えたくなって」

「ハルカが見てる」

「そうね。私ったら子供みたい」

 照れ笑いを浮かべてキヨミは振り返った。ハルカはまだ橋の中程にいる。ユウヤは優雅に手を振った。ハルカもそれに応えて手を振る。

 キヨミも手を振って、カップルは村へ向かう道を歩み出した。ハルカは二人の後姿を見送り、天蓋を見上げた。

 ゲートは開いてはいたが、この角度からでは空は見えない。青空を見たいと思った。絶えず頭上を覆い尽くすものの存在は、人類の現状を象徴しているかのようだった。

 ハルカは腕時計を見た。タツヤのメンテナンスはもう終わったころだ。家に戻ってタツヤを迎えよう。物思いに沈みながら、池の縁に沿って歩き始めた。

 キヨミの沈んだ態度が気になった。まるで死が迫っていることを自覚しているかのような態度。キヨミが死ぬことなど、考えたくもなかった。他のパイロットも同じだ。

 彼女も何度かチルドレンの死を見てきた。その度に、胸がつぶれるような思いをしてきた。あんなつらい経験はもうごめんだ。

 結局自分にできることは、全力で使徒と戦うことしかないのだ。そう考えをまとめたハルカの目が、ふと短めの蒼い髪を捉えた。

 そのチルドレンは、ハルカから20mほど向こうにある、木陰の東屋にいる。座っているので、ここからは肩と後頭部しか見えない。

 誰かしら。ハルカは歩調を速めて東屋に向かった。髪型に見覚えがなかった。気分転換にカットしたのか。どう変ったのか見てみたかった。

 東屋に着いたハルカは、そのチルドレンを見て奇異の念を持った。

 ハルカを見ようともせず、ただ椅子に座って前を見続けている。服装が奇妙だ。グレーのジャンバースカートに襟の大きなシャツ。襟に下がる赤いリボン。常時付けているはずの名札もしていない。おなじみのファーストチルドレンの写真そのままだ。シャギーの掛かった髪型にしても、そっくり同じ。

 ハルカはその姿を穴の開くほど見つめながら、考え込んだ。やがて結論を出したハルカは、そのチルドレンの向かい側に座った。

「サヨコ?それともルミかな?ねえ、何かの遊び?コスプレっていうやつ?」

 ファーストチルドレンにそっくりのチルドレンは答えなかった。まるで置物のように、ハルカを見つめている。

「そうやって人を驚かそうっての?幽霊のふりをしたりして」

「なぜ戦うの?」

「え?」

 唐突に、そのチルドレンは口を開いた。ハルカは質問の意味が飲み込めなかった。

「あなたはなぜ戦うのか分かっていて、戦っているの?」

「何よ急に」ハルカは苦笑いを浮かべるしかなかった。それを真剣に考えたことなどなかったからだ。

「考えたことないの?」

 ハルカは小首を傾げて思いにふけった。振り返ってみれば、戦うことを自明のこととして、その意味を突き詰めたことはない。

「そうねえ。私たちはそのために造られたんだから、当たり前って感じかな」

「私は『絆』と呼んでいた」

「絆?」

「そう、私を取り巻くヒトたちとの絆。そこに価値を見出していたの」

「うん。なんとなく分かるわ」

 言いたいことはおぼろげに理解できる。しかし過去形なのがおかしい。まるで今はチルドレンではないみたいだ。

「あなたはもっと自分を知るべきだわ。たとえ辛くても」

 いやなことを言う。こんなことを頭ごなしに言われるいわれがあるだろうか。ハルカは段々腹が立ってきた。

「ずいぶんえらそうなこと言うわね。大体、先輩に向かって『あなた』はないでしょ。口の利き方がなってないわよ」

「あなたもいつかはそれに向き合う時が来る。それは避けられないことなの。その時が来ても気を確かに持って」

 ハルカはようやく違和感を持った。表情が強張った。サヨコやルミがこんなことを言うはずがない。何故か心臓の鼓動が速くなった。

「あなた、誰?」

 そのチルドレンは無言で席を立った。そのままハルカに背を向けて立ち去ろうとする。

「待って。どこに行くの?」ハルカも立ち上がって、後を追おうとした。謎のチルドレンは明るい陽だまりに出た。その瞬間、ハルカの体は凍りついた。

 そのチルドレンには影がなかった。アスファルトの道には黒々と影が映るはずだ。だが、足元の路面は明るく照り返しているだけなのだ。

 心臓はますます速く、激しく打つ。そのまま歩き去るチルドレンの後姿を見つめた。妙に現実感がなかった。

 するうち、さらに奇妙な現象が起こった。チルドレンの姿は半透明になっていき、向こう側の木々が透けて見え出したのだ。そうして、段々とチルドレンの姿形は薄れ、ついには何も見えなくなった。ハルカは息を呑み、呆然と成り行きを見守るだけであった。

「ハルカ!」突然、後ろから声が掛かった。ハルカは反射的に振り返った。タツヤがこちらに向かって走って来る。

「やあ、お待たせ。ユウヤさんにここだって聞いてね」

 間近に来たタツヤの声は明るい。超常現象など全くなかったかのようだ。

「タツヤ。今、あっちに誰かいた?」ハルカは今までチルドレンがいた道を指差し、引き攣った顔で尋ねた。

「いや、誰もいなかったよ」タツヤは訝しげに答えた。「どうしたの?変な顔して」

「い、いえ。別になんでもないの」

 ハルカはどきどきしながら、そう答えるしかなかった。怪異に気づいた瞬間、頭の中は冷静だったが、動きが取れなかった。あんな状態は一度も経験したことはなかった。もしかしたら、これが怖いということなのか。ハルカにはよく分からなかった。

 ふと、この前の使徒戦があった日の朝のことを思い出した。なぜか肌が粟立った。

 前にもあれを見たことがある。

 ハルカの意識は混乱を極めた。見たものがなんだったのか、様々な仮説が頭の中を飛び交う。最悪な、だが最も有力な解釈が浮かんだ。幻覚、つまり狂気に陥ったということ。

 錯乱したチルドレンの末路、それはパイロットでなくなることに他ならない。みじめな未来が脳裏をかすめた瞬間、冷たいものが背中を走った。思わずタツヤに抱きついた。額から脂汗が浮き出た。タツヤはハルカの奇妙な態度にとまどうばかりだった。

 この時、ハルカは生まれて初めての恐怖を味わっていたのだ。

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