リリスの子ら

間部瀬博士

第5話

 ジオフロントに夜が訪れ、月も星もないこの空間で頭上に見えるものは、整然と並んで灯る小さなライトだけである。

 1年365日変化のないこの天球の下を、ハルカは急ぎ足で歩いている。目的地はキヨミの家であった。

 キヨミの家に着き、インターホンを鳴らすと、すぐに彼女が出て来た。洗髪したばかりなのか、頭にタオルを巻いている。

「今晩は、ハルカ。急にどうしたの?」

 訝しげに訊くキヨミに対して、ハルカは明らかに落ち着きを失っていた。

「すいません、先輩。もう、いても立ってもいられなくて。こんな時間に迷惑なのは、十分わかっているんですけど」

「電話じゃできない話なのね?」

 ハルカは唾を呑み込んで頷いた。キヨミは先程ハルカから掛かってきた電話の口調が切羽詰ったものだったので、只事ではないと感じていた。

「外で話しましょう。夜の散歩もいいかも。あなた、ちょっと出てくるから」

 キヨミは振り返って奥のユウヤに声を掛け、ハルカの腕を取った。

 街灯に照らされた村の中央を貫く道を、二人は歩いた。9時になったばかりなので、パイロットの家々はどれも明るい。かすかに笑い声が聞こえて来る。チヒロだったらいい、とハルカは思った。チヒロは最近、他のパイロットの家に泊まることが多い。

 しばらくハルカは無言でいた。「それで」と、キヨミに促されてようやく口を開いた。

「昼間、先輩が帰った後です。私、会ったんです」

「誰と?」

「ファーストチルドレン」

 キヨミは言葉もなく、ハルカの顔を見つめた。ハルカは視線を落とし、不安げな顔つきでいる。

「写真そのままのファーストチルドレンです。どうしましょう。私、頭が変になったんでしょうか?それも、今日が初めてじゃないんです。前の使徒戦の時もほんの一瞬、見たんです。ねえ先輩、私、どうしたらいいんでしょう?」

 ハルカは縋るような目でキヨミを見た。キヨミの方はハルカの告白にも動揺していなかった。逆に、微笑を見せる余裕があった。

「そう。見たのね。あなたも」

「えっ。それって」

「私もあるのよ。あの方を見たことが」

 驚いたハルカは目を丸くした。「...そうなんですか」

「ええ、最初は今のあなたぐらいの頃。エヴァに乗る直前、高いキャットウォークから私を見下ろしているのを見たの。次は3年前かな。一人で森を散歩している時に、前に立っているのを見たわ。私、駆け足で近づいたんだけど、すうっと消えてしまったの」

「やっぱり制服を着て?」

「ええ。悲しそうな顔をしてた」

「幻覚じゃないんでしょうか?」

「違うわ」キヨミはきっぱりと否定した。ハルカは胸によどんだ不安が軽くなるのを感じる。

「見たのは私たちだけじゃないのよ。何人もの先輩が見てる。みんなヒトには内緒にしてたけど、ごく内輪ではよく話したわ。『とうとう私も見ちゃった』『え、いつ、どこで?』て感じで、ひそひそとね。そんなのヒトに知られたら、色々面倒だから」

「私、そんなの聞いたことないです」

「ごめんね。除け者にしたわけじゃないの。ある頃から皆、口にしないようになったの」

「どうして?」

 キヨミは、少しの間口を噤んでから答えた。「噂が立ったの。『ファーストチルドレンを見た者は間もなく死ぬ』ってね」

 ハルカに動揺が走った。息を呑んでキヨミの横顔を見つめた。

「勿論、根拠はないのよ。現に私はこうして生きている。たまたま、そういう例が続いたのよ。それで、みんな話さなくなった。『次に死ぬのはあなたよ』なんて言われたくないし、思われたくもない。だから、その話題は誰も出さなくなった。後輩にこっそり打ち明けられたことはあったわ。誰にも言わないで、って固く口止めされたけどね」

 この世には常識では計り知れない現象があるのだ。ハルカは何か底知れぬ気味の悪さを感じ、肌が粟立った。

「怖いの?」密やかにキヨミが訊いた。ハルカは首を横に振った。

「分かりません。怖いってこういうことでしょうか?なんだかぞくぞくする」

「きっとそうね。あなたは怖がっている」

「こんなの知りたくなかったです」

「どうして怖いのかな?」

「幽霊に会ったからでしょうか」

「怖がることはないわ。ファーストチルドレンなのよ。ファーストチルドレンがあなたに会いたがった。とても素敵なことじゃないの」

 キヨミのたった一言に、ハルカの悪寒はすっと消えてしまった。言われてみればその通りだ。

「ねえ、この世には科学では解明できない現象が沢山あるのよ。使徒にしても説明のつかない生き物だわ。ファーストチルドレンの精神は肉体を失ってもこの世にあり続け、わたしたちを見守ってくれている。あっていいことよ。むしろとても素晴らしいこと」

「そうですね!」ハルカは明るく返事をした。

 そう、不滅の魂がこの世に留まり、同胞を気にかけている。慈愛の目を注いでくれている。なんと素敵なことだろう。ハルカの機嫌はすっかり直り、キヨミに笑いかけた。

 キヨミが続けた。「私はこんな仮説を立てたの。サードインパクトの時、ファーストチルドレン・綾波レイは肉体を失ったけど、死にはしなかった。ATフィールドは健在だったの。それほど特別な存在だったのだわ。そして、魂は残った。彼女の魂は今でも存在し続け、ときどきわたしたちの前に姿を見せるのよ。頑張れって応援してくれるの」

「そうでしょうか?」ハルカは顔を曇らせた。「先輩はあの方と話したことはありますか?」

 キヨミの顔は訝しげなものになった。「いいえ、それはないわ。話をしたなんて、聞いたこともない」

「私、話したんです」

 あまりに意外なハルカの言葉に、キヨミは絶句して、まじまじとハルカの顔を見た。ハルカは昼間のファーストチルドレンとの会話を、かいつまんで話した。

「すごい」キヨミは単純に感心していた。「すごいわ。話をしてもらえるなんて」

「でも、警告を受けたようで。私たちが知らないことも知ってるんでしょう。ちょっと不安です」

「私たちが知らないこと...」

 二人は沈黙に沈み、夜道を歩いた。自分たちのこともろくに分かっていないことに思いは及んだ。自然とは異なる自分たちのありよう、地下のリリス、使徒、なんと謎の多いことか。そこまで考えると、またあのぞくぞくがぶり返してきたような気がして、ハルカは振り切るように声を放った。

「考えたって、仕方ないですよねっ。戦う時は戦う、遊ぶ時は思いっきり遊ぶ、これしかないですよ。悩むだけ損ってものです。どうせ短い命なんだし」

「言う通りだわ」キヨミもハルカに同調して微笑った。「毎日を一生懸命生きる、これよね。考えるのはヒトに任せておけばいい」

「考えたって無駄だもの。私、バカだから」

「それは言いすぎよ」

 暗い気分を吹き払うように、二人は朗らかに語り合う。話題はいつしか、たわいのない世間話になっていった。

 ハルカはファーストチルドレンの言葉など忘れてしまおうと思った。あの方はともかくも身近にいる。それだけで十分。

 行き先にあの池のある公園が見えた。

 

 

 8月10日午前10時。冷房の効いた作戦指令室では、10人程が弛緩した空気の中、事務仕事にいそしんでいた。

 オペレーター席に3人並んで座っているのは、冒頭に現れたアンドロイドである。彼らにはそれぞれwrpから始まる番号があるが、呼び名としてタロウ、ジロウ、サブロウと名付けられていた。軍事目的に造られた彼らには、パートナーが持つような人間味はない。いついかなる時も沈着冷静に己の職分を果たすだけである。

 突然、中のジロウがモニターを見つめ、声を上げた。「29番センサーに感。大型の移動物体」

 作戦指令室に一気に緊張が走った。栗林は鋭い視線をスクリーンに投げた。「使徒か?」

 サブロウが続いた。「28番、30番も感知。直ちに評価します」

 スクリーンに極彩色のパターンが乱舞した。指令室の全員が息を呑んでスクリーンに見入るが、一向に結果が出ない。誰もが妙だ、と思い始めた時、スクリーンに大きくWHITEと表示が出た。

 タロウが淡々と結果を告げる。「パターンホワイト。分類不能」

「おかしい」栗林は立ち上がってタロウの背後に近寄った。「速さはどのくらいだ?大きさは?」

「速さ10ノット。長さ約200メートル」

「音響はどうだ。捉えられるか?」

「はい」タロウはコンソールのつまみを調整した。すると、指令室に海中の音が響き渡った。だがそれは、ごぼごぼという意味のない雑音が聞こえるだけで、栗林の予想とは異なった。

「位置は?」

「北緯34度32分、東経138度29分」

 スクリーンに伊豆半島周辺の地図が現れ、駿河湾の入り口付近に赤い点が点滅した。それはゆっくりと北上する進路を取っている。何かが日本の領海に侵入しつつあるのだ。

「何事かね?」後方から、信時副司令の声が聞こえた。さすがに緊張した面持ちで、早足に近づいて来る。異常を知らされ、急ぎ駆け付けたのだ。

 栗林が答えた。「正体不明の物体が駿河湾口にあり、本土に接近しています。原潜かと思いましたが、キャビテーションノイズが聞こえてきません」

 信時は指令室内に流れる水中音に耳を澄ました。確かに潜水艦に特有の推進音が聞こえてこない。

 やっかいだな。信時はスクリーンを見つめて考え込んだ。目標は何か特定できない。使徒とは思えないが用心するに越したことはない、と思われた。

「機器の故障じゃないだろうな?」

 ジロウが答えた。「BOSATSUによる精査では、その可能性は2.2%に過ぎません」

「奇妙だ。だが、ロシアがノンスクリュータイプの原潜を開発中、という噂を聞いたことがある。海水をジェットのように押し出して前進するらしい。あるいはそれかも知れんぞ。国連軍に連絡を取れ。こちらは第3種警戒態勢に移行。注意を怠るな」

「はっ」

 栗林はコンソールの端にある受話器を取った。国連軍直通のホットラインである。ロシアによる新型原潜のデモンストレーションか。栗林には疑問の方が大きかった。通常、軍はそう簡単に新兵器を曝け出したりはしない。そう考えたとき、国連軍の交換手が出た。

 

 

 駿河湾内は天候が良く、波も静かで、多くの漁船が操業していた。

 その中の一隻、第3ふじ丸の船長、権藤タカシはあせりを覚えていた。普通ならとっくに満ちているはずの船倉が、今日に限って空のままなのである。三人の船員も所在なげに海を眺めるだけだった。既に操業開始から5時間を経過したが、一つの魚群にも遭遇していないのだ。魚群探知機を最大感度まで上げても、画面はまっさらな面を映し出すだけであった。海面には餌を求めるかもめの姿もない。

 権藤は気味が悪くなり、帰ることに決めた。何かが起こる予兆のような気がしたのだ。一刻も早く帰港して若い女房の顔を見たくなった。女房は漁獲のないことにがっかりするだろうが、自分の勘を信じたい。

 魚群探知機のスイッチを切り、船室から顔を出して、船員たちに声を掛けた。「今日は駄目だな。帰るべ」

 船員たちはしかたなしに頷いた。権藤は舵を大きく切り、引き上げにかかった。胸の内には漠然とした不安がわだかまっていた。

 船を回頭させて15分が過ぎようとしたころのことだ。船員の一人が急に大声を上げた。

「ありゃ、何だ!なんか来るぞ!」

 権藤が舵を握ったまま頭を廻らすと、信じ難い光景が見えた。

 左舷後方から、巨大な何かが白波を立てて迫って来る。海面すれすれを進んでいるため、それがどんなものかは分からない。だが間違いなく、高く波を蹴立てて、急速に接近して来る何かがいる。

 権藤は恐怖に顔色を失くしながら、船の速度を最大まで上げた。彼我の相対的な位置、速度から、衝突は免れると思った。ディーゼルエンジンがフル回転で回り、船は滑るように海面を走った。

 権藤は近寄る何かを注視し続けた。こちらからの距離はおよそ200m。大丈夫、これならあれは、船のはるか後ろを通過するはずだ。そう確信した直後、それは常識を覆す動きをした。

 殆ど直角に向きを変えたのだ。波を砕く何者かは、速度をさらに速めて船を追って来る。

 権藤は恐怖の叫びを上げた。三人の船員もパニックに陥り、船上を右往左往する。今さら舵を切ったところで逃れようもないことは、すぐに分かった。あれほどの大きさのものが、あんな高速で近づいて来ては−−

 船の後ろにある海面が盛り上がった。船の舳先は海面に突っ込み、続けて破壊的な衝撃が船を襲った。次の瞬間、大音響と共に第3ふじ丸は中央から真っ二つに割れ、権藤船長と三人の乗組員は海に投げ出された。

 権藤は水中で海水に喉を焼かれながら、必死にもがいた。恋女房の顔が一瞬脳裏に浮かんだが、間もなく意識が無くなった。

 

 

 ネオ・ネルフが駿河湾海中に捕捉した移動する物体は、同時に国連軍統合参謀本部でも感知していた。

 厚木基地からは対潜哨戒機が飛び立ち、新静岡市にある軍港から駆逐艦「あさぎり」が出航した。

 日本の全防衛組織は緊張の極にあった。なんとも判別しようのない何かが本土に近づいて来る。使徒ならばネオ・ネルフに任せておけばいいが、今回のは、他国の新型兵器の可能性があるのだ。

 該当海域は対潜哨戒機が落としたソノブイから発せられる、アクティブソナーの音響で満たされた。ブイが捉えた音響は、海上高度1000mを旋回する哨戒機に送られる。間断なく続く反射音に耳を澄ますソナー員は、経験したことのないパターンに、自分の耳を疑っていた。

「アンノウンは依然、速度10ノットで北上しています。すごい大きさだ。ミサイル潜水艦クラスです。しかし、返ってくる音が変です」

「それは、どういう事だ?」傍らに座る上官が尋ねた。

「音が乱反射しているんですよ。潜水艦じゃこんなの考えられない」

「原因は何だと思う?」

「相手は、滑らかな形をしていない。なんかこう、ぐちゃぐちゃな形をしているんですよ!」

 西園寺終身大統領は、浅間山に向かってドライバーショットを放とうとしていた。この日は改心の出来と言っていいラウンドになっていた。ボールをティーにセットし、アプローチに入ろうとした時、秘書官が血相変えて走ってきた。閣下、と大声で呼ばわり、手には携帯電話を持っている。西園寺は渋い顔をして秘書官の方を向いた。

 苦虫を噛み潰したような顔で西園寺は携帯電話を受取り、重大事件を知った。

「−−うむ。分かった。存分にやりたまえ。君に任せる。私は官邸に戻るよ。動きがあり次第、報告するように」

 携帯を切った大統領は、悠揚迫らぬ態度で回りの者に言った。「諸君、今日のゴルフはこれで中止だ。下手すりゃ核戦争になるかも知れんのでな」

 正体不明の移動物体が発見されてから、1時間が経過した。目標から10000mの距離に急行した、駆逐艦「あさぎり」の榊原艦長は、困惑していた。アンノウンは浴びるほどのアクティブソナーに曝され続けている。しかし、それは進路を変えようとしないのだ。通常の潜水艦では考えられない。大抵は自分の存在を知られた時点でゲームオーバー。すごすごと引き返すのが通例なのだ。そうしないのは、敵はあくまで攻撃を仕掛けようとしているからなのか。艦長の背に冷たいものが流れた。

 艦長はソナー員に向かって言った。「アクティブソナーにより停船命令を送ってみろ。内容はこうだ」メモに文言を書き付けてソナー員に渡す。直ちに海中に甲高い音のモールス信号が打たれた。

 キカンハニホンコクノリヨウカイヲシンパンシテイル。タダチニテイセンシフジヨウセヨ。クリカエス。タダチニテイセンシフジヨウセヨ。...

 全員無言で反応を待った。艦橋には単調なソナー音だけが響いた。

 そこへ掛かってきた一本の電話。「はい、私です。...アンノウンに停船する気配はありません。...はい。了解しました」

 艦長は艦橋にいる士官全員を見回した。「攻撃許可が出た。ただし、まず威嚇。離れたところを狙え。それでも停止しないなら、次は直撃だ」

「アイ・サー」

 副長がマイクを取り、CICにいる砲雷長に告げた。

「攻撃を許可する。但し、当てるな。威嚇だ。距離500は開けろ」

 砲雷長の額に汗が光った。遂に他国と交戦することになるのか。己の運命を呪いながらも、今は職務に忠実な軍人であるしかない、と彼は思った。

 CICに彼の声が響いた。「アスロック1番、諸元入力。方位2-1-0。距離7500」

 オペレーターが返答する。「入力完了。何時でも発射できます」

「発射っ」

 あさぎりの後部にある発射台から轟音が轟き、一本のミサイルが打ち出された。それはオレンジ色の炎を噴射しながら、弧を描くように上昇し、3000m離れた位置で急降下を始めた。僅か数秒後には、大量の水しぶきを上げて海中に没する。瞬時にミサイルの表面は、四つに割れた。そこから通常の魚雷が姿を現し、爆破予定地点を目指し疾走を始めた。

「予定地点まであと10秒。目標までの相対距離750。爆発します」

 ソナー員はヘッドホンをはずした。遠くの海面で大量の水柱が立った。轟音がここまで聞こえて来る。

「敵の動きはどうだ」艦長の声が響く。

 ソナー員はヘッドホンを着け直して水中の動きを探る。

「目標、依然前進。進路...、進路変更!方位4-6-0!こちらに向かって来ます!」

「操舵長。面舵30度。方位1-4-0。最大戦速」

 艦長は即座に方向転換を命じた。ひとまず敵と距離を置くことだ。冷静になりたかった。

 敵は常識に反する行動を取っている。そもそも潜水艦というのは思い込みに過ぎなかったのでは?そう思った彼のこめかみから汗が流れ落ちた。

「アンノウンは速度を上げてこちらを追って来ます。速度...馬鹿な!80ノット!」

 ソナー員の声は絶叫となった。艦橋とCICの誰もが、恐怖に顔色を失った。

「短距離魚雷用意!1番から8番。今度は当てて構わん。急げ!」

 遂に艦長は全面攻撃に踏み切った。やるかやられるか、命のやり取りがこれから始まるのだ。

 魚雷発射管が回転し、海面を向いた。CIC並びに甲板では、必死の準備作業が行われていた。

「1番から8番、諸元入力。方位1-2-1。信管は接触型」

「アンノウンとの相対距離5000」

『1番から8番、魚雷準備完了』

「発射1番から4番。射(て)っ」

 水雷員が四つのボタンを同時に押し込んだ。空気が弾ける音と共に、四本の魚雷が身を躍らせて海中に飛び込む。

 砲雷長はストップウォッチを見つめ、時間を計った。そして15秒経ったところで再び命じた。

「5番から8番、射っ」

 さらに四本の魚雷が追い打ちをかける。艦橋ではソナー員の声だけが響く。

「目標まであと1000。...800...600...400ノ300ノ200ノひゃ、うわあああっ!」

 魚雷が爆発した音響と、衝撃がここまで伝わってきた。ソナー員はヘッドホンを投げ出して、苦痛にのたうった。耳からは血が流れ出ている。

「どうした!」艦長がソナー員に駆け寄った。ソナー員は薄目を開けて艦長を見た。「魚雷は目標の手前で爆発...」

 後続の四本が発する爆発音が轟いた。

「救護班、至急艦橋へ来い。アンノウンはどうなった!?」艦長の絶叫が艦橋に響く。海中は魚雷の爆発によるノイズに満たされ、ソナーは機能していない。艦長は自らヘッドホンを装着し、じりじりと海が静まるのを待つ。

 やがてソナーが機能を回復し、目の前のモニターに表示されたのは、こちらに向けてひたひたと迫る光点だった。彼我の距離は3000と開いていない。

 アンノウンは依然、あさぎりを追跡している。

「目標到達前に爆発だと?」

 艦長は絶望の念を抱き席を離れた。これまで、人間相手とばかり思い込んで戦ってきた。それはとんでもない誤りなのだ。

「参謀本部に打電。敵は潜水艦じゃない。ATフィールドを展開したと思われる。当方に対抗手段はない。相手は使徒だ!」

 艦長に代わって席に着いた副長が、裏返った声で告げた。「敵が迫っています!距離2000」

「全力で逃げろ。戦うだけ無駄だ!」

 榊原艦長は真っ直ぐ前を向いて前方の海面を見つめた。内心ではこの意味のない戦闘に彼らを投げ込んだ、上層部とネオ・ネルフに対する怒りが煮えたぎっていた。

「距離250...100...駄目だ。追いつかれます!」

 次の瞬間、固い何かがあさぎりの中央部に突き込まれた。への字に曲がった艦は、海上20mの高さまで舞い上がった。艦長をはじめ、艦橋にいた者全員、前方に叩きつけられた。海面に落下した艦体は衝撃に耐えかね、中央から真っ二つに折れた。二つに分かれたあさぎりは、その後数分間海に浮かんでいたが、やがて艦首と艦尾を海上に突き立てるようにして水中に没していった。

 沈没寸前のあさぎりが齎した情報は、国連軍と同様、ネオ・ネルフをも激しく動揺させた。

「潜水艦じゃないだと!馬鹿な!パターン分析を誤ったというのか!」

 信時は唾を飛ばして喚きたてた。栗林ら指令室のスタッフは、蒼白な顔で信時を見つめた。

 技術部員のシンが言った。「装置は正常に機能しています。間違いありません」

「では、何だ。まあいい。原因究明は後だ。直ちに第1種戦闘態勢。作戦開始だ」

 ジオフロントにサイレンの音が鳴り響く。平和な日常が一瞬にして、緊迫した戦時へと移行する。通産127回目の使徒戦はこうして始まった。

 ライトブルーのプラグスーツに身を包んだチヒロは、緊張した面持ちで家を出た。マサトの破壊以来、初めての実戦だ。今回の結果如何ではパイロットの地位も危うくなりかねない。力が入るのも当然だった。

「チヒロ!」同じようにオレンジ色のプラグスーツを着たハルカが走ってきた。チヒロの口元が微かに綻ぶ。ハルカはチヒロの肩を抱く。

「頑張ろうね」

「んっ」

 ハルカの口調はいつになく真剣だった。友の存在はチヒロの緊張を緩めるのに役立った。二人並んで集合地点へ駆けた。中央部分では、5機の戦闘ヘリが、黒ずんだ機体のローターを回転させていた。

 作戦指令室では既にフォン・アイネム総司令が席を占めていた。栗林ら作戦部の中枢がその前に並んでいた。

「分析不能の使徒か。初めての型だ。慎重に対策を練る必要がある。油断するな」

 例によって栗林が現状を報告する。「アンノウンは進路を北東に取り、伊豆半島の付け根を目指しています。上陸予想時刻は午後2時30分頃。攻撃ヘリ5機による偵察を準備中。まもなく発進します」

「戦闘機じゃないのか?」

「今回はまだ使徒と確認されていません。より長い観察が必要と判断しました」

「よろしい」

 キムが補足した。「その後、3度に亘り分析を試みました。結果はいずれもパターンホワイト。正体不明です」

「だが、敵であることは間違いない。諸君、今回は容易ならざる相手だ。ベストを尽くしてくれ」

 居並ぶスタッフは、踵を合わせて敬礼し、各自の席へ散った。現在時刻午後2時5分。予想される戦闘開始まで30分を切っていた。

 パイロット控室には8人のパイロットが集合していた。みな思い思いに待ち時間を費やしている。若手のユカは室内を歩き回って、落ち着かない様子でいるが、その他は普段と変ることはなかった。チヒロは目を瞑って無想の境地に入ろうとしている。ハルカは読みかけの恋愛小説を開いた。

 キヨミは布を手にし、半ば出来上がった刺繍の続きを始めた。一針ごとに薔薇の花弁が形をなしていく。小説から目を上げたハルカは、一心に針を操るキヨミを見た。大人の風格と美しい身体の曲線に目が離せなくなった。キヨミがふと視線を上げ、ハルカと目が合った。キヨミは口元に笑みを浮かべ、ハルカは僅かに頬を赤く染めて視線をそらした。

 戦闘ヘリのパイロット・木島中尉は、はるか下の海面に目を凝らした。風がなく、よく凪いだ海面にこれといった変化はない。だが、この海域の水面下には間違いなく使徒らしきものが、ジオフロントを目指して律動しているはずである。

「この辺りの深さは?」木島が傍らに座る隊員に訊いた。「深さ50m弱。海岸は近い。じきに姿を拝めるはずです」隊員の答えに木島は頷き、海面に目を戻した。

 その時、左前方の海面に、縦の白波が立った。何かが波を蹴立てて陸に近づいている。

 あれだ。木島は確信し、高度を下げ、近づく何かにヘリを接近させた。波はますます大きくなる。

「11時の方向に移動物体を発見。接近する」インカムを通して僚機に告げた。隣の隊員は外部カメラを操作して物体撮影の準備に掛かった。他の4機も木島が発見したものへ進路を取った。

 波の直上60mに位置取った木島は、海面を見て奇異の念を抱いた。波は涙滴の形をしている。だが、肝心の移動物体は見えない。ぽっかりと穴が開いているのだ。

「妙だ。波だけが見える。中心には何もないように見える」

 陸地に向かって移動する何かは、悠々と前進して行く。水深は次第に浅くなり、蹴立てる波も次第に大きくなる。そして、遂に木島はそれを見てしまった。

「あれ?そんな馬鹿な!おれの目がおかしいのか?...岩だ。...岩が見える!海底の岩が見える!」

 それが木島の最後の言葉となった。次の瞬間、全身の骨を砕かれ絶命した。突然、ヘリは見えない何かに衝突したのだ。一瞬のうちに木っ端微塵に破壊され、炎を上げて墜落していった。

 作戦指令室では、ヘリから送られる映像を、全員息を呑んで見つめていた。

 水中から半ば突き出した廃ビルの群れがある。セカンドインパクトの頃に放棄された一帯だ。そこへ、海水を掻き分け近づくものがあった。電線がいきなり変形し、切れて垂れ下がった。突然、とあるビルが猛烈な衝撃を受け、半分が粉々になり、崩れ落ちた。次のビルは屋上に亀裂が走ったかと思うと、たちまち崩壊して海中に消えた。

 障害物を破壊しつつ前進する何かがいるのは明らかだ。だが、そのものの姿は一切見えないのだ。

「ステルス迷彩だな。」信時が呟いた。

「そうだ。理論は知られていた。しかし、使徒が実用化するとは」フォン・アイネムが冷静に答えた。

 栗林が額に汗を浮かべながらシンに指示を出した。「赤外線に切り替えろ。熱線まで遮断はできんはずだ」

 画面が赤く変った。しかし、そこに使徒らしきものは何も映っていないのだ。画面では、また一棟のビルが破壊され、海の藻屑となっていく。

「紫外線はどうだ?全波長を試してみろ」

 シンがあせりの色を浮かべながらコンソールに指を走らす。画面の色が様々に切り替わる。が、結果は変らない。シンは蒼白な顔で報告を入れた。「赤外線からマイクロ波まであらゆる帯域を試しました。しかし、反応はありません」

 作戦指令室は数刻、沈黙に支配された。殆ど誰もが、言いようのない恐怖に捉われていた。

 フォン・アイネムの口調に動揺はなかった。「電磁波を反射させず、後方へ迂回させているのだ。キルリアン効果もないので、パターン分析が効かない、というわけだ。有効なのは超音波ぐらいか。蝙蝠のような。だが、我々にそんな装備はない」

 栗林は生唾を飲み込み考え込んだ。このままでは不利は明らかだ。今取りうる手段は何か。「爆撃しましょう」彼は、総司令の方を振り向き、言った。「巡航ミサイルは無効です。絨毯爆撃により探りを入れてみましょう。敵はまもなく陸に上がります。当然、足跡がつくはずです。その周辺に爆弾の雨を降らせるんです」

「よかろう」

 栗林は席に戻りマイクを取った。

「N−4戦略爆撃機はただちに出撃。目標は上陸した使徒らしきものだ」

「もう使徒で構わん」と、フォン・アイネムが告げた。ここからこの一戦は正式に使徒殲滅戦となった。

 垂直離着陸型戦略爆撃機N−4が現場に到着するのに10分とかからなかった。

 使徒は海岸沿いの放棄地区を抜け、僅かに残った森林地帯に踏み込んでいた。

 数本の松がべきりと音を立てて倒れた。倒木は凄まじい重量に圧迫されてばらばらに砕け散る。次々と木々は押し倒され、その後はプレス工場のように、扁平になった樹木の残骸が残される。森林地帯にくっきりと使徒の通った跡が残されていく。が、この暴虐をなすものの姿は一切見えない。

 N−4の航空師・坂井は画像に映るこれらの有様を、息を呑んで見つめていた。垂直離着陸型の利点で、機は海中と比べれば緩慢な、使徒の動きに合わせて移動していた。

「あまり高度を下げるな。いつ攻撃が来るか分からないぞ。木島伍長の二の舞はごめんだ」

 坂井はヘリに乗っていて殉職した木島の名を挙げ、パイロットに注意した。この使徒は上空にある敵を攻撃する能力を持つ。機は今、高度500mにつけているが、安全と考える根拠は何もない。彼らは危険を顧みず、この戦闘に参加しているのだ。

 坂井は指令室に報告を入れた。「使徒は森林地帯を抜け、草原に出ました。奇怪な光景です」

 草原に次々と直径10m近くはあろうかという大穴が刻まれていく。ここからは聞こえないが、低く、巨大な音が地上を満たしていることだろう。その丸い穴は二列に前へ、前へどんどん増えていく。後方の穴が崩れ、またより深く穿たれるのは、後ろ足がそこを踏みしめているからなのだろう。それが先頭からはるか後方まで、万遍なく起こっていて、使徒の足の数が四本どころではないことが分かる。

 草原も途切れ、使徒は砂漠地帯に入った。黄土色の地面に穴が穿たれ、足跡は一層鮮明になった。大地を何かで引きずったように使徒の移動した痕跡が残る。何もない荒野を見えない何かが、多数の足を動かしながら前進して行く。砂埃が大量に舞い上がる。

 いよいよか。坂井は一つ深呼吸を入れ、行動を開始した。「使徒は完全に荒地に入りました。爆撃を開始します」

 坂井は水平にセットされたモニターを見ながら、パイロットに指示を下す。「ちょい右。ちょい前」モニターに表示された十字線の中心が、見えない怪物の先端から75m後方に掛かる。

「投下っ」

 坂井は右手に握ったスイッチを親指で押し込んだ。たちまち爆弾投下抗が開き、用意された10本の爆弾が、未知の脅威めがけて落下していった。

 数秒後、不可視の怪物を猛烈な爆発が包み込んだ。轟音が坂井の所まで届いた。彼はその瞬間、八角形の干渉縞が発生したのを見逃さなかった。爆発はなおも続いた。クラスター爆弾だ。多くの子爆弾が広範囲に広がり、怪物の周囲数百メートルに亘り、延々と爆発が続いた。干渉縞も途切れることはなかった。

「ATフィールド確認。強度2.3SU」

「強い」

 キムの報告に、信時は思わず呻いた。こんな使徒は前例がない。彼は、単純な作戦では失敗するのは目に見えている、と思った。

「使徒の侵攻速度、平均時速35km。速く動けるほうではないようです」

「陸上生活にはまだ適応しきれていないか」フォン・アイネムがスクリーンを睨みながら言った。

「N−4、ご苦労だった。帰投してよし」栗林は爆撃機に命令した後、総司令と副司令を順に見て言った。「作戦会議を開きましょう。通常の迎撃パターンでは駄目だ」

「うむ。佐官以上の作戦部並びに技術部の両博士、それとキヨミ、ハルカ両名は会議室に集合。5分後に始める」と、フォン・アイネムは命令を下して立ち上がった。

 会議室に作戦部の主要メンバーと首脳部が参集している。パイロットからはキヨミとハルカが選ばれ、現場の意見を聞くことになった。

 栗林が会議室の前面にあるスクリーンの前に立った。他のメンバーは信時とフォン・アイネムを先頭にして椅子に腰掛け、栗林の言葉を待っている。

「では、作戦会議を始めます。現在使徒は静岡県南部の陸上を移動中。この位置です」スクリーンに周辺の地図と瞬く光点が現れる。まだ海に近く、使徒の移動速度としては遅いほうだ。

「衛星が捉えた光学映像が来ています。これです」スクリーンは、衛星が垂直に見下ろした映像に変わった。使徒の情報を初めて知ったキヨミとハルカは目を疑った。砂漠地帯に刻々と、丸い穴が穿たれていく。それは明らかに一つの方向を目指し、着々と前進していくのだ。

「何ですか、これ?ひとりでに穴が掘られていくみたいです」とキヨミが訝しげに言った。

「今回の使徒は目に見えない」栗林があっさりと答えた。二人のパイロットはありありと動揺の色を見せた。

「足跡から推定される全長は長さ200m、幅20m。上部構造が不明なので、実際はもっと大きいかも知れん。敵は上空60mにいる戦闘ヘリを一撃で墜とした。つまり、長い腕を持っていると考えられるということだ」

 フォン・アイネムが首を廻らせ、パイロット達を見て言った。「槍を使った攻撃は通用しにくい、ということになるな」

 キヨミとハルカは難しい顔をしてスクリーンを見やった。何もない平原に、見えない怪物の足跡だけが印されていく。

「足跡の映像を拡大する」栗林がキーボードを操作し、スクリーンに荒地の陥没跡が大映しになる。それはまん丸い穴であった。ただ、縁の一部がぎざぎざに抉られている。足から突き出た爪がそこを深く削ったのだろう。爪跡は四本あった。

「足の直径は約8m。爪と思われるものの長さは約1.5m。我々が分かっているのはこんな程度だ」と言って、栗林は一同を見回した。誰もが容易ならざる事態に声を失っていた。

 と、ハルカはぱっと顔を明るくして、声を上げた。「そうだ。塗料はどうでしょうか。こう、ペンキみたいなのをあいつにぶっかけてやるんです!」

 栗林は苦笑いを浮かべて答えた。「あいにく、そんな大きな塗料缶はない。弾頭を作るにしても、出来上がる頃には、あいつジオフロントに到達しているよ」

「そうですか」ハルカはがっかりして肩を落とした。

「技術部の意見はどうだ?」フォン・アイネムが傍らのベヒシュタイン博士とブーランジェ博士に訊いた。ベヒシュタインは難しい顔で答えた。「栗林部長の言う通り、ペイント弾を作るには、時間がなさすぎます。申し訳ないが、他に何の解決策も浮かびません」「私もです」と、ブーランジェ博士が続けた。

 一同はスクリーンを見やりながら、沈黙に沈んだ。不可視の怪物はこうしている間にも、足跡を大地に刻みつけている。しばらくしてフォン・アイネムが口を開いた。「止むをえん。エヴァ8機による一斉強襲。他にあるまい。この線でまとめたまえ」

「はっ」栗林は顔を引き締めて答えた。既に頭の中ではおおよそのプランは出来ていた。

「では、私の案を言います」スクリーンは白くなり、栗林が持つペンの動きが黒く表示された。大きな太い矢印が横に伸びた。

「これが使徒の侵攻ルート。エヴァ8機は2機ずつ4組に分かれて扇形に広がり使徒を待つ」栗林は二つずつ四組の丸を扇のように並べ、太い矢印の頭へ四本の矢印を引いた。

「1組は従来と異なり、前衛と後衛の組とします。4組同時に攻撃を開始。包囲殲滅します」

「装備が槍だけでは心許ないですね」キヨミが口を挟んだ。「今回は一度に広範囲を切れる武器が有効です。ソードかデュアルソウを装備すべきでしょう」

「うん。君の言う通りだ。換装させよう」

「どうかね。他に意見のあるものはおらんか?」

 信時が一同を見回し、言った。特に発言する者はいなかった。「では、その作戦でいくとしよう。作戦というほどのものでもないがな」フォン・アイネムが締め括り、栗林を促した。栗林は頷いた。

「会議を終わる前にパイロットに言っておく。こいつの危険性は計り知れない。くれぐれも用心してな。それから作戦部。今回の相手は最強クラスだ。全員己の力を100%発揮するように。以上だ」

 キヨミとハルカは緊張しきった面持ちで控室に戻った。残っていた6人は立ち上がって彼女らを迎えた。キヨミは部屋の前面に立ち、皆を見回し、言った。

「今度の使徒は過去に例のないタイプよ。何と姿の見えない使徒なの」6人に動揺が走った。不安そうな顔でキヨミを見た。「すぐ出撃よ。用意してケージへ移動」ここでキヨミはとっておきの笑顔をして見せた。「平気よ。こんな奴に限って弱いものだわ」

 何人かがキヨミにつられて笑った。キヨミの言葉は他のチルドレンを落ち着かせる効果があった。一同、思い思いに動き出す。キヨミは内心、言葉とは裏腹に不安で満たされていた。遂に最期の日が来たのかも知れない。そんな思いが一瞬かすめた。

 チヒロはインターフェイスヘッドセットを取るために自分のロッカーを開けた。いつもの位置にあるそれを取り出し、扉を閉めようとした時、扉の裏側に奇妙なものが貼ってあるのに気づいた。

 写真だ。その被写体が何かを理解したチヒロはひっ、と声を上げた。

 土の地面に全裸でうつ伏せに横たわる男の姿。男の首はどこにもない。

「いやぁあああっ!」

 チヒロの絶叫が控室に響いた。部屋を出るところだったハルカは、慌てて取って返した。

「どうしたの、チヒロ!」

「これ...、マサトだ」

 顔面蒼白になったチヒロが写真を指差す。ハルカは写真を認めてあっ、と声を上げた。「なんでこんなものが!」

 控室は騒然となった。キヨミが二人を掻き分けて写真を睨んだ。ハルカは動揺の色が激しいチヒロを一旦椅子に座らせた。

「ああ、マサト。あんな風にされたのね...」

「チヒロ、気を楽に。もうすぐ出撃なのよ」ハルカはチヒロの前に座り込み、腕を掴んで訴えた。

「酷い。マサトをあんな目に...」チヒロの目に涙が浮かんだ。「うあああ!マサト!マサト!」肺腑を抉るような絶叫が、チヒロの喉から放たれた。遂には机に突っ伏して泣きじゃくる。部屋から出るチルドレンは誰もいない。キヨミは厳しい顔でインターホンを取った。

「こちら控室。緊急事態。敵の破壊工作発生!」

 栗林はモニターに映るキヨミの顔を見ながら、冷静になろうと努めた。ごくりと唾を飲み込みキヨミに言った。「分かった、キヨミ。すぐ警備の者をやる。だが、今は出撃が最優先だ。チヒロを落ち着かせてケージへ行かせてくれ。君が頼りだ」

「了解しました。5分ください」「よかろう」

 モニターの画像は切れた。栗林は怒りのあまり、拳骨で机を叩いた。

 チヒロは両手に顔を埋めて泣いていた。ハルカはおろおろしながら必死に慰める。

「ねえ、チヒロ。しっかりしようよ。使徒が来てるんだよ。もう行こうよ」

 キヨミがハルカを押しのけてチヒロの前に来た。と、チヒロの顎を掴んで正面を向かせた。涙で腫れたチヒロの両目がキヨミを見上げた。

 いきなり、チヒロの頬から鋭い音が立った。キヨミが平手を食らわせたのだ。チヒロは呆然として横を向いた。控室は一瞬しんとなった。

「甘ったれないで!」キヨミの厳しい叱声が飛んだ。「あなた、それでもチルドレン?エヴァのパイロットなの?めそめそしてないで、さっさと自分の義務を果たしなさい!」

 チヒロはあらぬ方向を見つめ、そのままの姿勢でいた。涙は止まっていた。やがてゆっくり立ち上がり、ハルカに言った。「拭くもの貸して」ハルカは急いでタオルを手渡した。ごしごしと顔を拭ったチヒロは、キヨミを伏目がちに見た。「すみません、先輩。私、行きます」

 控室にほっとした空気が流れた。ユカは手を叩いて喜んだ。キヨミは満足げにチヒロの背中を叩いた。

 控室の騒ぎを観察していたブーランジェ博士が、栗林にそっと近づき、囁いた。「フラッシュバックですね。ASD(急性ストレス障害)またはPTSD(心的外傷後ストレス障害)が考えられます」「それで?」「チヒロがエヴァを起動しうるか、保証できません」

 栗林は唇を噛んで考え込んだ。あれほどのトラウマを抱えたチヒロなら十分ありうる。あの状態でエヴァとシンクロできるだろうか?寒気を覚えた彼の決断は速かった。受話器を取り、カウエル軍曹を呼び出した。「ああ、君か?栗林だ。シオリを寄越してくれ。...そうだ。危険は百も承知だ。予備がいるかも知れないんでね」

 8人のパイロットはケージに向かうエレベーターに乗り込んだ。チヒロは無言のまま、なんの表情も見せず一点を凝視している。

 その他のパイロットはチヒロに掛ける言葉が見つからなかった。気まずい沈黙がその場を支配していた。

 キヨミの胸中は胸騒ぎで一杯だった。敵に対する有効な対処法は見つかっていない。それほど難しい使徒戦の出だしで、こんなことが起こるとは。とうとうその日が来たのか。キヨミはユウヤの顔を思い浮かべ、暗くなろうとする気分を振り払おうとした。

 フォーティナインスチルドレン・シオリはユカよりさらに若い12才だ。地下の講堂で皆と共に実戦見学を待っている間に、カウエル教官から声が掛かった。

「シオリ。こっちへ」

 手招きするカウエルの元へ、シオリは小走りに近づいた。「はい。教官」

「シオリ。すぐプラグスーツに着替えて、エヴァ射出ケージへ向かえ。まだ何とも言えんが、初出撃の可能性が出てきた」

「えっ」シオリは教官の言葉に驚きを隠せなかった。「こんな急にですか?」

「そうだ。準備もなしにいきなりは気の毒だが、これが戦争ってもんだ。もし行けたら、しっかりやって来い。お前なら大丈夫だ」

「先輩の誰かに何かあったんですか?」

「ああ、そうらしい。頑張れよ。頼むぞ」

 シオリは講堂の中ほどに座るパートナーを振り返り見た。彼は心配そうにこちらを見ている。

「みんなには俺から良く言っておく。急げ」

「はいっ」シオリは戦士らしく敬礼をした。一歩パートナーの方へ歩み寄り、手を振った。後は駆け足で講堂から出て行く。これで一人前のパイロットになれるかも知れない。胸の内に高揚感が拡がり、口元には笑みさえ浮かべていた。

 チヒロは悲愴な覚悟でエントリープラグの入り口を潜った。

 降ろされてたまるもんか。あれからエントリーテストは三度もクリアしたわ。大丈夫、大丈夫。心を落ち着けて。ねえ、8号機。あんた、わたしを裏切らないよね?

 LCLが足元から湧き上がってきた。チヒロはインダクションレバーをしっかり握りしめてその時を待つ。

『エントリースタート』

『LCL電化』

『双方向回線開きます』

 オペレーターの乾いた声がプラグ内に響く。既にLCLと一体化したチヒロは雑念を払うべく目をつむる。

 チヒロ担当のオペレーター、ペトロワは祈るような気持ちでモニターを見つめていた。「シンクロ率13、14、15...チヒロ、頑張れ...、17...チヒロ、伸びません!17でストップ!」ペトロワは叫んで、後ろを振り返った。すぐ後ろにブーランジェ博士が仁王立ちしていた。

「やはり駄目ね」

 博士の口調はあくまで冷やかだった。氷のような視線がモニターを見下ろしていた。

『チヒロ、聞こえた?臨界点に達しないわ』

「もう一度お願いします!」チヒロは眦決して叫んだ。「今は雑念が混じりました。今度はちゃんとできます。どうかお願いします!」

『無駄だと思うけど?』

「いいえ、博士。必ずやって見せます。ですから、お願いします」

 沈黙。チヒロの指先が震えた。心臓が激しく鼓動する。博士は誰かと協議しているのだろう。間が長く、長く感じられる。

『チヒロ、落ち着いて。きっとできるから。いつもやってたことじゃない』ウィンドウが開いて、ハルカが励ました。チヒロは無理に笑い、頷く。

『もう一度340からやるわ』やっと博士の声が聞こえた。チヒロは感謝の念を抱き、再び集中に入ろうとした。

「ありがとうございます、博士」

 エントリーが再開された。チヒロは必死に身内から湧き上がる、あの二つになる感覚を捉えようとする。

 たぶん、これが最後。ああ、8号機、8号機。頼むからこっちに来て。

「13、14、15、...やはり無理です。伸びません」

 ペトロワは沈痛な声で告げた。博士はため息を吐いて、マイクを掴んだ。

「聞いた?チヒロ。起動できないわ。そこから下りなさい」

『いやです!』

 チヒロの痛ましい叫びが指令室に木霊する。とうとう栗林が引導を渡す役目を引き受けた。

「チヒロ、命令だ。そこを下りろ」

 チヒロの声は涙声に変わった。『そんな。駄目です。降ろされるのはいや』

「代わりにシオリが乗ることになった。準備をしなければならん。早くそこから出ろ」

『命令に従いなさい、チヒロ』そこへ割り込んだのはキヨミだった。『使徒が迫っているのよ。遅れは許されないわ。早くそこから退きなさい!』

 長い間が続いた。指令室の誰もが声もなく、スクリーンに映るチヒロを見やった。焦れた栗林がまたマイクを取ろうとした時、チヒロがようやく答えた。『分かりました』

 エントリープラグからLCLが排出され、入り口が開いた。チヒロは髪からLCLを滴らせながら外へ出た。周囲に群がる技術スタッフは、誰もチヒロに視線を合わそうとはしなかった。彼女の顎から滴り落ちるLCLには涙が混じっていた。

「エヴァ全機、換装作業終了。他の7機を先に出しましょう」

 栗林は、フォン・アイネムに向かって言った。総司令は重々しく頷いた。栗林はマイクを取り、7人のパイロットに告げた。

「諸君、遅くなったが間もなく出撃する。まず敵の映像を見てほしい」

 チヒロを巡るトラブルのために、遅れに遅れた射出の時がようやく到来した。組み合わせはハルカにユカ、ユリコにルミ、ユキエにサヨコ。キヨミだけは取りあえず単独行動を取る。いずれの機体も装備しうる限りの装備を施した。今回は物量作戦が必要と見なされるからだ。

 チヒロはシャワーを浴び、私服に着替えて廊下に出た。既に涙は涸れ、ひとまずの平静を取り戻していた。しかし彼女の苦悩は、これで終わりになるわけではない。廊下には低めの音量で『ワルキューレの騎行』が流れていた。今頃皆は射出路を疾走しているのだろう。この音楽を聞くのは実に久しぶりのことだった。これを聞くことになるなんて。チヒロは自嘲気味に嗤った。

 控室のドアが急に開いて、若葉色のプラグスーツを着たチルドレンが飛び出した。シオリだ。チヒロと目が合い、立ち竦んだ。

「チヒロ先輩、ですよね?」

「ええ。初陣ね。頑張って」

「はいっ」

 シオリは姿勢を正し、敬礼すると、ケージへ通じるエレベーターに向けて走った。

 チヒロはその後姿を数瞬見やった後、家へ帰るために歩み出した。栗林にそう命じられたからだ。廊下には人っ子一人いない。チヒロの足音がワルキューレの叫びに混じって響く。その時、丁度ワルキューレたちは笑い始めた。

 各ポイントを出た7機のエヴァンゲリオンは、一直線に第33番クレーターを目指した。そこは16年前に出来た第61使徒の自爆跡で、半径500m程の半円形をしている。半円となったのは斜面に出来たからで、底部と最も高い地点との高低差は47mある。ごつごつとした大岩が無数にころがる荒地である。エヴァがここへ向かっているのは、使徒の進行ルートにあることは勿論だが、高地に陣取るという戦術的優位を意識してのことであった。

 使徒は進行方向を変えず、真っ直ぐ33番クレーターに接近して来る。栗林の指示が入った。「彼我の距離は5kmを切った。目的地まで1.2km。姿勢を低く。匍匐前進で位置に付け」はいっとパイロットは声を揃えて答え、その場に立膝をし、盾を背中に装着した。そして腹這いになり、じりじりとクレーターの縁に近づいた。辺縁部は堆積物で盛り上がり、身を隠すのに都合がいい。

 前衛の四機は槍を、後衛の四機は、銃身が太いグレネードランチャーを手にしている。エヴァ各機は背に二つ目の武器を装備していた。前衛の4人はいずれもソードを選んだ。真っ直ぐな長さ15mに達する大剣である。刃先には粒子振動装置が装備され、プログナイフと同様、接触するほぼ全ての物を切り刻む能力がある。前衛の4機は、背中に斜めに装着された鞘にそれを収めていた。

 パイロット達はいつもより重く感じられる機体を操り、決戦の場に集結しようとしていた。

 ハルカが駆る7号機がクレーターに先着した。巨大な岩の陰に機体を置く。必死に追ったユカがそれに続いた。ハルカは使徒が来るはずの方向を眺めやる。砂埃が高く舞い上がっているのが分かった。

「ユカ、見える?あそこに使徒がいるわ」

「はいっ、先輩」

『使徒の視界に入るな。岩陰を出ず、モニターを注意していろ』

 栗林の注意が飛び、ハルカは思わず舌を出す。7号機と6号機は一歩退き、後続を待った。

『使徒との接触まであと8分』

 キムの声が聞こえた。他の5機も遅れて位置に着いた。ハルカが乗る7号機と6号機は中央左、キヨミの1号機は中央右、2号機と5号機は左、3号機と4号機は右に陣取った。

 間もなく初戦となるシオリが搭乗した8号機が追いついた。匍匐前進で1号機の横に位置を取った。

「よろしくお願いします。先輩方」

 他のチルドレンはごく短い挨拶を返した。皆戦闘開始を前にして余裕がなかった。

 キヨミだけはさらにシオリに声を掛けた。「こんな形でデビューなんてついてなかったわね。とにかく落ち着いて行動すること。決して無理はしない。先輩の指示に従って。私たちはチームよ。みんなの力で使徒を斃すの。いいわね」

「はいっ」シオリの返事には固さがありありと感じられた。

 パイロット達は眼前のモニターに集中した。この日キヨミから、いつもの『生きて帰るわよ』を聞いてないことに気づいた者は、誰もいなかった。

 開戦の時は近い。

 ハルカは燃える目で、使徒が巻き起こす砂煙が映るモニターを睨んだ。ちらりと隣の6号機を見る。いつもと違う光景だ。ハルカはふとチヒロのことを思う。可哀想なチヒロ。どう言って慰めてやろうか。

『使徒との距離、残り1000m!戦闘準備!』

 ハルカははっとしてモニターを注視した。今は余計なことを考えている時ではない。戦闘に集中しなくては。

 7号機を静かに操り、岩の縁から僅かに顔を出した。荒地にいきなり大穴が出来るのが見えた。ハルカは背中がざわつくのを感じた。映像で見るのとは違った。自分の前に目に見えない化け物が迫っているのだ。

 栗林の緊張した声が響いた。『いいか。まず全員でATフィールド展開し、敵ATフィールドを中和。ユカ、ルミ、サヨコ、シオリは合図と共にグレネードランチャーで攻撃開始だ。足跡を狙え。いいな』

「はいっ」

『ではATフィールド展開始めっ』

 ハルカは心を集中し、インダクションレバーを引いてATフィールドを展開した。8機の発するATフィールドが使徒のそれとぶつかり、干渉縞が発生したが、一瞬のことに過ぎなかった。後衛の4機は一気に移動し、使徒の前に身を曝け出した。

『撃ち方始めっ』

 4機は一斉に片膝立てて連装式グレネードランチャーの照準を合わせ、引き金を引いた。白煙を引いて超大型の榴弾が使徒に襲い掛かる。

 閃光に続き大爆発がクレーター底部を埋め尽くす。轟音と震動が8機のエヴァまで届く。

 爆発に伴う煙が薄れ、底部が見えた瞬間、再び号令が掛かった。

『第2弾。撃てっ』

 またもグレネードが使徒に殺到する。再び使徒は猛烈な爆発に包み込まれた。その爆発力は凄まじいものがあり、並の生物が生きていられるはずはなかった。

 エヴァ8機は勿論、指令室のスタッフ全員が、風によって、クレーターを埋めた白煙が流されるのを待った。この瞬間に使徒に接近されたら?ハルカは背中にぞくりとするものを感じた。

 やがて煙が移動し、底部が見え始めた。その場の光景は誰もが目を見張るものだった。

 使徒の足跡の周りには小クレーターが散乱している。だが、使徒の遺骸らしきものは全く見えないのだ。少なくともステルス迷彩はまだ機能している。

「使徒の生死、確認できません。どうしますか?」と、キヨミが指令室に訊いた。

『ATフィールドを一旦収束。バレットマシンガンを掃射してみろ。生きていれば敵のATフィールドが確認できるはずだ』

「了解。全機、ATフィールド展開止め」

 戦場からATフィールドが消えた。背中のマシンガンを取った後衛4機は一斉に火蓋を切った。クレーターの底部に銃弾が巻き起こす土煙が連なる。使徒の足跡が次々と崩れていく。

「敵ATフィールドの発生なし。着弾確認できません」シンの報告に、栗林の顔が一瞬にして蒼くなった。「どういうことだ?」

「衛星のカメラを引け。広い範囲を見てみろ」フォン・アイネムの指示が飛んだ。カメラは急速に引いて、クレーターの全体像が見える位置で止まった。エヴァ8機が点に見える。

 しばらくの間、画面になんの変化もなかった。使徒の二列の足跡が画面の端まで続いている。その端近く、足跡の横で、突然地面が窪んだ。

『いたぞ!そこじゃない!使徒はずっと向こうだ!』

 やられた、とキヨミは思った。敵に裏を書かれた。使徒は煙にまぎれて密かに後退したのだ。

『使徒は前方750m地点!向きを左に変えた!...増速してる!ユリコ、ルミ、そっちに向かうぞ!』

 キヨミは前方を観察した。砂埃が猛烈な勢いで右前方に沸き立っている。間もなく使徒はクレーターの縁に隠れてしまうだろう。

「フォーメーションを変えます!全機後退させてください!」

『許可する。そこから1000m後退。拡がって迎え撃て』

「了解!」

 エヴァ8機は一斉に動いた。武器を抱えて懸命に走った。

 地響きを轟かせて全機退いた。

「私を中心に50m間隔を取って!」キヨミの指示が飛ぶ。他機はそれにに従い、1号機の動きに追随する。

 キヨミは使徒の進行方向のまん前に位置を取った。左右に他の7機が展開する。周囲はなだらかな斜面で、位置的な優位は殆どない。

「盾構え!」

 キヨミの号令によって、エヴァ全機は盾を構えた。使徒が蹴立てる砂埃が次第に大きく見えるようになった。大地を深く穿つ鈍い音がそこまで聞こえてきた。

「マシンガン撃て!」

 後衛4機がマシンガンを斉射した。使徒は音速で飛ぶ、30cm劣化ウラン弾頭の十字砲火に曝された。しかし、使徒が張るATフィールドによって、銃弾はむなしく弾き落とされた。

 銃撃はまったくの無駄ではなかった。使徒は前進を止めた。新たな足跡がつかなくなった。

 戦場に静寂が訪れた。風が吹きすさぶ音だけが残った。奇妙にも、8体の巨人が何もない空間と対峙している。

「飛び道具が効きません。槍を使ってみます」

『いいだろう。ただ、まず君がやってみろ』

「了解」

 1号機は盾を放し、槍を高く掲げ立ち上がった。彼我の距離は200m強。外さない自信はあった。

 槍を持った右腕を引き、腰を捻った。大きく一歩踏み出し、渾身の力で投げ放った。

 槍は高速で空を走り、使徒に襲い掛かった。巨大なATフィールドの干渉縞が足跡の上に拡がる。だが、槍はその場に留まり、さらにATフィールドを侵食して前進した。突然、槍の半分が見えなくなった。空中に槍の後部だけが浮かんで見える。

 パイロット達は歓声を上げた。「当った!」「先輩、さすが!」

「油断しないで!」キヨミは叫び、素早く盾を取った。槍に変化が起きた。一部が透明になり、後方に下がって先端が現れた。使徒は腕を使って槍を抜いたのだ。

 その時、雷鳴のような轟音が響き渡った。地球上のいかなる生物とも異なる、曰く言いがたい響きであった。使徒の咆哮だ。指令室の少なからぬ者が心胆を寒くした。パイロットも、若いユカやシオリは縮み上がった。

 いきなり槍が飛んだ。一直線にシオリの8号機を襲う。シオリは突然の事態に動けなかった。槍の穂先がシオリの眼前に迫った。−−

 甲高い金属音が響いた。シオリの目の前に巨大な槍の先端があった。その周りに盾の裏側が拡がっている。槍は盾を貫き、8号機の頭部直前で止まったのだ。盾を差し伸べたのは1号機だった。

『ボーッとしない!』

 キヨミの怒声がシオリの胸を衝いた。「す、すいません!」おろおろしながらシオリは謝った。キヨミがいなかったら、今頃シオリの命はなかっただろう。

 1号機は盾から槍を引き抜いた。覗き穴の下2mに直径1m近い大穴が開いたが、まだ使用に耐える。

 なかなか味なことをやるわね。キヨミは使徒がいるあたりを睨んだ。今のは1号機に投げ返すつもりだったのだろう。それが偶々8号機に向かった。

 使徒とエヴァ8機は睨みあいを続けている。

『今のうちに四方向から包囲しろ。1号機と8号機はそのまま。7号機と6号機はこちらから見て左、3号機と4号機は同じく右、2号機と5号機は使徒の真後ろだ。推定距離100mを取れ。急げ』栗林の指示が来た。キヨミの鋭い声が飛ぶ。「移動中は危険よ。サヨコ、ユカにシオリ、マシンガン撃ち続けて。但し低めを狙って。同士討ちに気をつけるの。では、ゴー!」

 使徒正面に2機を残し、他の6機は移動を開始した。シオリの8号機は腹這いになり、使徒の前面に銃弾を撃ち込む。左右に分かれた2組は、6号機と4号機が、走りながら使徒を撃った。2号機、5号機は使徒の後ろに着くべく、懸命に駆けた。空間に絶え間なくATフィールドの干渉縞が浮かぶ。

 弾幕の甲斐あってか、使徒は動かなかった。ユリコの報告が届いた。「2号機、5号機、位置に着きました」これでエヴァ8機による使徒包囲網が完成した。後はいかに攻勢を取るか。不可視の使徒という怪物に対して、それは難解な問題であった。

「ユリコ、使徒の位置は掴めた?」キヨミの問いにユリコは答えた。『はい。干渉縞を観察してました』

「ハルカ、ユリコ、ユキエ。私に命を預けてくれる?」

 前衛の3人は声を揃えてはい、と答えた。

「指令室。突撃を試みます。よろしいですか?」

 キヨミの差し迫った声に、指令室の即答はなかった。

 栗林はごくりと唾を呑み、考え込んだ。正体不明の相手に対してあまりにも危険な行動だからだ。

「許可する」答えたのはフォン・アイネムだった。栗林は虚を衝かれて後ろを振り返った。総司令は何の表情も浮かべていなかった。

「それしかないのだ。栗林君」

 栗林はやや救われたような思いを抱きながら、マイクを取った。「いいだろう。突撃用意。諸君の健闘を祈る」

『聞こえた?いよいよ突撃よ』

「はい!」

 ハルカは張りのある声で答えた。遂に命懸けの戦いに入るのだ。この機に及んでも、鏡のように冷静な自分の精神に、満足を覚えた。

『いい?まず合図したらATフィールドを展開して、敵ATフィールドを中和。後衛の4人はランチャーを発射。前衛は槍を前に押し出して突進。使徒に突き当たったら、後は自己の判断で行動すること。みんな分かった?』

「了解!」

 殺る。絶対殺ってやる。ハルカの身内に痺れるような闘志が湧き起こった。瞳の色は燃えるようであった。

『では、全員ATフィールド展開』

 戦場がATフィールドで満たされる。これで使徒は丸裸になったはずだ。

『槍構え。ランチャー構え』

 7号機は盾を掲げ、槍を前に突き出した。隣の6号機は、膝立ちの姿勢でグレネードランチャーの照準を合わせた。

『行くわよ。レディ。ゴー!』

 7号機は大地を蹴った。6号機が持つランチャーから榴弾が放たれた。1秒後、使徒の足跡辺りで猛烈な爆発が起こった。

 ハルカは白煙を観察しながら7号機を駆った。使徒まであと少し。敵の長い腕が今にも襲ってくるかもしれない。そうなったらその時だ。

 白煙が風に流されて行く。向こう側から走って来る3号機の姿が見えた。1号機、2号機も両脇から突進して来る。

「あああああああっ!!」

 ハルカは雄たけびを上げ、突っ込んでいった。このひと駆けで、槍の穂先が使徒に食い込むはずだ。

 4機は槍の穂先を向きあわせ、互いの顔を見やった。3号機、7号機は足跡のほんの手前にいる。1号機と2号機は既に足跡の中だ。「あれ?」ハルカは何が起きたか、一瞬理解できなかった。

 いる筈の使徒がいない。この衝撃からいち早く立ち直ったのは、やはりキヨミだった。

『全員後退!!逃げて!!』

 ハルカは大慌てで7号機を後退させた。

 キヨミの絶叫が続いた。『使徒は上にいる!!』

 1号機は回れ右をして大きく跳躍した。キヨミの頭には一旦この場を逃れ、態勢を立て直すことしかなかった。足跡の外に着地した1号機がさらに走ろうとした時、轟音と激しい揺れが1号機のすぐ後ろで起こった。

 キヨミは後方を振り返り、青ざめた。特大のクレーターが、わずか20mの距離に出来ている。上空から舞い降りた使徒が目の前にいるのだ。

 1号機は盾を振り上げ、身を守ろうとした。だが、敵の見えない武器は盾の防御を苦にしなかった。次の瞬間、1号機は脇腹を貫かれた。赤い血潮が地面に振り撒かれた。キヨミは腹部に猛烈なフィードバックによる痛みを感じ、口から気泡を吐き出して気を失った。

 ハルカは即座に後方の異変に気づいた。「先輩!」立ち止まって1号機へ駆け寄ろうとする。1号機はえびぞりになり、両腕をだらりと下げ、槍も盾も取り落としていた。倒れないのは使徒が支えているからだ。腹の左右から血が噴出しているのは、使徒の武器が反対側まで突き抜けたからに違いない。

「先輩!起きて!脱出して!先輩ーっ!」ハルカの叫びに答えはない。

 ブーランジェ博士が叫ぶ。「ATフィールドによる重力遮断だわ!そこまで出来るなんて!」

 キヨミ担当オペレーターの悲痛な叫びが指令室に木霊した。「キヨミ、脳波微弱!心拍数低下!意識なし!このままでは生命が危険です!」

 プラグを強制射出させるか?栗林は汗を滴らせながら考えた。だめだ、今の状況では危険すぎる。

「7号機、3号機。1号機をそこから救い出せ。頼む!」

 7号機は1号機の50m横に立ち止まった。キヨミを救うには攻撃を加えるか、エントリーユニットに手を掛け、強制射出するしかない。だが、闇雲に突っ込んでは自分の身が危険になりかねない。

 ハルカは槍を捨てようと思った。槍を大きく振りかぶり、足跡の先頭あたりを狙って投げた。

 槍は使徒のATフィールドを破って突き刺さった。またしても百雷のような使徒の咆哮が轟き渡った。ハルカの前方70m付近で陥没が起きた。使徒は7号機に向きを変えた。

「先輩!手伝う!」ユキエの叫びが聞こえた。3号機がすぐさま槍を投げ、使徒に命中した。空中に二本の槍の半分が浮かんでいる。

 使徒は地面を穿つ轟音を立てて、再度位置を変えた。1号機を中心に7号機と3号機両方を睨んでいるようだ。

 7号機と3号機は背中の大剣を抜き放った。鋭い刀身が太陽の光を受けてきらりと輝く。

 その時、ハルカとユキエは異様な物音を聞いた。ごうごうと巨大な動物が吐くような音色。それは明らかに見えない使徒の息遣いであった。ハルカは使徒の息がかかったような錯覚を覚えた。

 突然、使徒に捕らえられた1号機が持ち上がった。そのまま高く浮かび上がり、ハルカたちがなすすべもなく見守る中、使徒の頭部真上と思しき位置に止まった。高さは40mに達していよう。まるで獲物を渡すまいとするような態勢だ。1号機は仰向けに体を反らしている。

「先輩!大変...」

 ハルカは敵の武器を警戒して様子を見たことを後悔した。これでプラグを引き抜く作戦は無くなってしまった。

 後は攻撃あるのみ。ハルカは覚悟を決め、7号機は盾を突き出し、大剣を頭上に構えた。

 キヨミはうっすらと目を開けた。腹が引き裂けるような痛みが襲った。キヨミは腹を押さえて体を捩った。口から血を吐き、LCLが赤く染まる。

 栗林が自分に呼びかける声が聞こえる。はるか遠くで響いているような感じだ。キヨミにそれに答える気力はなかった。

 絶大な苦痛に苛まれながら、キヨミは周囲を見回した。自分がはるか上空にいることに驚く。向こうに7号機のオレンジ色の機体と、3号機の黄色い機体が見えた。

 使徒の上にいるんだわ。首を廻らして真下を見る。エヴァの腹から未だに血が滴り落ちている。その血が不規則に空中に拡がっているのだ。

「あそこが使徒の体か」キヨミは呟き、ふいに作戦会議でのハルカの発言を思い出した。「塗料...」

 塗料ならここにある。キヨミは最後の意志を振り絞り、1号機を動かした。

 ハルカは突進するところを栗林に止められていた。他の5機の応援を待てというのだ。ハルカはじりじりしながら次の指示を待つしかなかった。

 と、1号機が突然動き出したのだ。「先輩!生きてる!」ハルカは歓喜の叫びを上げた。1号機はウェポンラックからプログナイフを取った。あれであいつの腕を切るんだ。ハルカは期待に胸躍らせて1号機を眺めた。

 1号機はハルカの予想を裏切る動きをした。ナイフを頭部と胸部装甲の隙間、自分の頸に押し当てたのだ。そして真っ直ぐに引く。

 1号機の頸から凄まじい量の血が噴出した。赤い血潮が使徒に降りかかる。

「先輩!そんな!」

 ハルカは絶望に捉われ、叫んだ。ユキエも、その他のチルドレンも同じ思いだった。これではキヨミの命が危ない。

 使徒は突然降りかかった血の雨に動揺し、激しく動いた。降り落ちた血は使徒を染め、形が徐々に明らかになっていく。

「先輩!脱出して!答えて!」キヨミの応答はなかった。1号機の首筋から噴出す鮮血は勢いを弱め始めた。首ががくっと落ちた。ナイフを持った腕がだらりと下がり、手から離れたプログナイフは、落ちて空中に留まった。柄の部分だけが見え、刀身が使徒の体に食い込んだことが分かる。

「いや。先輩、死んだの?」ハルカは絶望に胸塞ぐ思いをしながら、その光景を見つめていた。他のチルドレンの叫び声も耳に入っていなかった。

 使徒は突然の事態に動揺したか、小刻みな動きを繰り返すばかりで、前進して来なかった。正面を向いた使徒を見て、ハルカはその理由が分かった。

 使徒の中心部で血に染まった巨大な一つ眼が、瞬きを繰り返していた。さらにその下に開口部がある。使徒の口だ。

 あそこに眼があるんだ。ハルカは胎を据えて、すぐ隣に駆け付けた6号機のユカに言った。

「私が突っ込む。あなたはそこを動かず、フォローして。いいわね?」

「はい、先輩...」

「行きます!」

『待て。7号機!早まるな!』

 栗林の制止を無視して7号機は奔った。盾を捨て、両手に握った大剣の先端は、真っ直ぐ使徒の顔に向けた。7号機が地面を蹴立てて使徒に急迫する。それはかつて誰も見た事がない速さだった。

 7号機の頭部のすぐ後ろを何かが通過した。ハルカは首筋に一陣の風を感じただけであった。使徒の攻撃は一瞬遅かったのだ。

「いやぁああああああ!!」

 ハルカは叫びもろとも大剣を、7号機の頭の高さにある使徒の眼に突きこませた。ぶすり、と大剣は使徒の眼の奥深くまで潜った。生暖かい使徒の体液が7号機の体躯を濡らした。

 またも使徒の咆哮が轟いた。だが今回は、高い響きが混じった苦悶の叫びであった。ハルカは下に目をやった。口が大きく開いている。無数に並んだ細かい牙までが見える。ハルカはそこに7号機の右足を突っ込ませ、踏み下ろさせた。一瞬で使徒の顎が外れた。

 使徒は口をあんぐりと開けたままだ。7号機は剣の柄を握ったまま、体を開いた。ひゅんひゅんと鞭が空を切るような音が響く。目を失った使徒の攻撃は正確さを欠いた。

「ユカ、ランチャー貸して!」

 6号機はグレネードランチャーを7号機に向かって投げた。ランチャーは幸い、7号機に届いた。7号機は片手でそれを掴み、一旦放り上げて銃杷を握ると、使徒の口腔深く銃口を突き込んだ。

 7号機は続けざまに引き金を引いた。弾装が空になるまで引き続けた。

 低く鈍い音が、幾度も戦場に響いた。と、空間に突然、使徒の中心辺りから、暗緑色の体組織が飛び散った。青い血の雨が広範囲に降り落ちた。空中にあった1号機は使徒の体の上に落ちた。

 7号機が接する使徒の頭部にも変化があった。力が抜け、7号機の足元に崩れ落ちた。剣が自然に抜けた。俄かに景色が歪み、数本の稲光が走ったかと思うと、ベールを剥ぐように色と形が見え出した。不可視の怪物は、遂にその正体を現したのだ。

 それはイソギンチャクのように無数の触手に覆われた体をしていた。その触手は暗い緑色に濃い藍色の斑点が混ざり、一本の長さが5m程もある。それらは生命の余韻を示すかのように、未だくねくねと蠢動を続けている。背中の中心には一際長く、病的な白さを持った触手が一列に並んでいた。その先端には球状の組織があり、赤く丸いものが、白い皮膚の中に見えている。

 足は黄色と緑の縦縞のある、ぶよぶよとした巨大な柱だった。それが約5mおきに並び、夫々の長さは10mにも及んだ。先端にある、鷹のように丸くカーブした4本の爪は、鋭い切っ先を持っていた。

 暗緑色の剛毛に覆われた丸い頭部は、ハルカが潰した、差渡し3mはある一つ目が目立った。それは人間の目に非常に似ている。そこからは青い体液が、未だに滴り落ちている。その下に鼻はなく、鮟鱇のような大口がぱっくりと開いている。

 首に当る辺りには、4本の太く長い食腕が伸びている。一本の長さは40mを超す。その一本は1号機の腹部を横から貫いている。他の触手と同様、緑と紺の模様は、何かしら嫌悪感を催させるものがある。先端には黒い鋏のような組織があり、合わさった場合は、槍の穂先のような形を取る。二本の槍は、夫々食腕のやや後方に突き刺さっていた。

 使徒は体の中心3分の1程を失っていた。グレネードの爆発によって吹き飛んだのだ。青い血と透明な体液が一帯に広がっている。茶褐色の細長い内臓が地面に飛び出し、それを見たオペレーターの一人が吐き気を催す。

 後ろ3分の1で際立っているのは、尾部にある、前部と同じような2本の食腕と一つ目であった。後方から攻める場合も、計り知れない危険を秘めた相手であったのだ。

 7号機は使徒に乗り上げ、1号機から食腕を抜き、抱きかかえ、後方に引きずった。地面にうつ伏せに寝かせると、指令室からの射出信号によりエントリープラグが突き出た。7号機はそれを掴み取り、両手で捧げ持った。排出されたLCLが掌を濡らす。だが、プラグはそれきり何の変化も示さなかった。

「指令室!先輩は?どうなったの?」

 ハルカの悲痛な問いに栗林が答えた。

『ハルカ、すまん。キヨミは天に召された』

 ハルカは絶句したままエントリープラグを見つめた。7号機の回りに他の6機が集合していた。各機は身動きもせず、7号機の手にあるエントリープラグに見入った。

 

 

 使徒戦後のミーティングは著しく規模を縮小された。パイロット達のショックは大きく、ハルカ一人だけが残され、他は帰宅を許された。そのハルカにしろ、短い答えを返すのがやっとだった。独断専行の突進については誰も咎めなかった。

 終わる際に栗林が告げた。

「次回からは君がリーダーだ。よろしく頼む」

「光栄です」

 嬉しくもなんともなかった。

 ハルカは軍服から私服に着替えるために控室に入った。チヒロのロッカーの前から、一人の警備課員が慌てて立ち上った。指紋を採取していた、と言った。

「着替えるので、少しの間、出ていて」

 抑揚のないハルカの言葉に、警備課員はあたふたと出口に急いだ。出際に「ありがとう。チルドレン」とお礼の言葉を残していった。ハルカは何の反応もしなかった。

 疲れ果てた体は、指先一本までが重かった。早く家に帰りたい。頭に浮かんだのはそのことだけだった。今は何も考えたくなかった。

 部屋の中央まで来た時、丸テーブルを囲んだ椅子の一つが目に入った。その椅子に黒皮のバッグが置いてある。見覚えがある。キヨミのバッグだ。

 ハルカはそれを手に取り、中を覗いた。

 木枠に嵌められたままの刺繍がある。ハルカはそれを取り出し、キヨミの遺作を見る。

 薔薇の花束はまだ完成していなかった。薔薇の一つが、花弁を一枚残したままになっている。そこから針と赤い糸が垂れ下がった。それを操る者はもういない。この刺繍は永遠に完成されることはないのだ。

 ハルカは眼の奥に経験したことのない感覚を覚えた。異様に熱い。私は泣こうとしている。本で覚えた知識から、そう思った。しかしその瞬間、眼の奥の熱さは引いていった。

 ハルカは刺繍を見つめながら、その場に佇んだ。

 まだ泣くことを覚えるには、早いってことだわ。

 ため息を吐きながら、刺繍をバッグに戻した。これから先、多分もっと悲しいことが起きる、その時まで涙は取っておこう。そんな考えが頭をよぎった。だがハルカは頭を振って、その不吉な考えを払った。泣かれることはあっても、泣くのはいやだ。

「私を見てて。姉さん」

 あえて先輩と呼ばず、数年ぶりに姉さんと呼んでみた。

 勿論、答えがあるはずもない。ハルカは顔を上げ、自分のロッカーへ向けて歩いた。

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