リリスの子ら

間部瀬博士

第6話

 作戦指令室から程近い中規模の会議室に、総勢12名の中核メンバーが集まっていた。彼らは長円形に並んだテーブルに着き、小グループに分かれて小声で話し合っている。

 ドアが開き、フォン・アイネムと信時が入室してきた。話し声はぴたりと止み、一同総司令と副司令が席に着くのを待った。

「始めたまえ」最高級の椅子に腰を下ろした総司令が告げた。テーブルの真ん中にいた栗林作戦部長が立ち上がった。

「では、会議を始めます。議題は、サーティーフォースチルドレン・キヨミの死を受けた今後の使徒迎撃体勢についてであります。まず手元の資料をご覧下さい」

 各自、一枚のペーパーを手に取った。そこには現有する全チルドレンのデータが書き込まれている。現役パイロットについては、戦闘経験から評価まで詳細に載せられていた。

「ここにある表から分かることは何か。パイロットの低年齢化であります。最も年長のハルカが18才。次がユリコの17才で、1番下がシオリ、12才」

 すでにチヒロはパイロットから除かれていた。

「以上7名。もう1名は現在選抜作業中です。8名のうち実戦経験が5度に満たない者が3名もいることになります。今から僅か3年前には考えられなかった構成となっています。つまり、我々は弱体化しているのです。本日の議題は、これをどう克服していくか、ということであります」

「キヨミの時代が長かった」と、年配の有村作戦部顧問が言った。「皆、どこかにキヨミを頼るところがあった。彼女一人が突出していたために、実力の開きが拡大されてしまったのだな。おかげで、彼女のシンクロ率が下降期に入った途端、119、123、125、127使徒戦と、次々に戦死者を出すことになってしまった。我々に今必要なのは、これ以上戦死者を出さずに持ち堪えることだよ。そうやって経験を積んでいってもらわなくちゃならん」

「同感だね」信時が賛同した。「今後期待されるのは、誰よりもハルカだ。栗林君はあの子をどう思う?」

「戦闘能力では、全盛期のキヨミに優るとも劣らないものを持っています。但し、キヨミが持っていたようなリーダーシップがあるかどうかは、なんとも言えません」

「独断専行のきらいもあるね」

「ええ。これまでは上手くいきましたが、今後はどうでしょうか」

「そこは君の教育次第だろ」と、フォン・アイネムが口を挟んだ。栗林は畏まって、はい、と返事をした。

 栗林の傍らにいるキムが発言した。「大きいのは、チヒロまでが使えなくなったことです。一度に二人が欠けたことになる。後続するチルドレンの養成を急ぐ必要があると思われます」

 何人かが、尤もだと頷いた。栗林がベヒシュタイン博士とブーランジェ博士の方を向いた。

「技術部に伺いたい。チヒロが回復する可能性はないのですか?」

 ブーランジェ博士が座りなおして発言した。「その可能性はあります。但し、相当な期間が掛かるものと考えてください。ヒトでもPTSDの治療は簡単ではありません。あの子らはヒトでないため、治療法も手探りで探さなければなりません。ヒトに効く薬が即効く、というわけではないんです」

 一同、重い沈黙に入った。ベヒシュタインは、横目にブーランジェを見ながら物思いに耽った。

 彼にはそれについて考えることはあるにはあった。しかし、技術的な面での検討課題がまだ残っていたので、この場での発言は控えた。

 総司令が口を開いた。「C計画の進捗はようやく95%に達した。近く我々は大きな保険を手にすることになる。少なくともそこまでは持ち堪えなければな。計画の達成だけは、何としても成し遂げねばならん」

「ですが、総司令」栗林は思い切って発言した。「あの計画は本当に必要なのでしょうか? 自分にはまだ納得がいきません」

 会議室のメンバー全員の視線が、栗林に集まった。皆、意表を衝かれた顔をしている。栗林は唇をきっ、と結んでいた。

「今さら何を言う。栗林君」信時が応対した。「もう何年も前に決定したことだ。君個人がどう思うかは君の勝手だが、組織を乱すような発言は慎みたまえ」

「申し訳ありません」栗林は神妙に頭を下げた。彼とて、ここまで来て計画をどうこうできるとは、思っていなかった。ただ、自分の信念だけは表明しておきたかったのだ。

 会議はこの後、低調に推移した。1時間後に導き出された決定事項は、チルドレンの増産と訓練強化であった。

 

 

 昼休み、ネオ・ネルフ本部ビルの中にある大食堂は、大勢の職員で賑わっている。そこへ遅めに入った阿南は焼肉定食が乗った盆を持ち、席を捜して歩いた。彼にはこの時、食事以外の目的があった。人と会って話すこと。相手は多忙なので、アポを取らずに手っ取り早く意見を聞きたかったのだ。

 目的の人物、ベヒシュタイン博士がいた。彼は食堂の外、散光塔からの光を浴びるテラスにいる。隣には例の美少女・エリーゼがいた。そのテーブルに着いているのはその二人だけだ。事前にリサーチした通りの状況でいる。他にテーブルは五つあり、空きもある。阿南は足早に近づいた。

 盆を持ちながら、さも偶然会ったという風に声を掛けた。

「おや、博士!こんな所でお食事されてるんですか」

 エリーゼと笑い合っていた博士が顔を上げた。

「おお、阿南君か。久しぶりだね。元気かね」

「まあまあですね。この頃は猫の手も借りたいような忙しさですから」

「そうだろうな。何せ事件続きだからな」

「全く因果な仕事ですよ。それじゃ」

 阿南は横の空いたテーブルに座ろうとして、突然立ち止まった。

「んっ、待てよ!」

 博士は阿南の態度を怪訝に思った。「どうした? 君」

「今、急に閃いたんです」阿南は額に手を当てて考え込む。「...いや、しかし、...だとしても...うーん、分からん」

「何を閃いたんだ?」

「おお、そうだ。博士、ここ、座っていいですか? 博士なら助言して頂けるかもしれない」阿南は博士の向かいにある椅子を指した。

「いいとも。どうぞ」

 首尾良く博士の前に腰を下ろした阿南は、エリーゼにも「今日は」と挨拶した。今日もフリルの多いワンピース姿だ。頭の赤いリボンが可愛らしい。今日は、と返す声は清楚さを感じさせる。阿南は博士に向かい、早速本題に入った。

「僕らが今抱えている最大のテーマは、内部にいるスパイをあぶり出すことです。先日、そのスパイは大仕事をやってのけた。チルドレン控室に侵入し、チヒロ中尉のロッカーに写真を貼り付けました」

「うむ。えらい事をしたもんだ」と言って博士は、ステーキの一切れを口に放り込んだ。阿南も定食に箸を付けた。

「控室は24時間、監視カメラが作動しています。スパイが侵入した場合は必ずそれに映る。しかし、不思議なことに過去2ヶ月の間に映ったのは、チルドレン以外に、掃除婦と、素性の確かな職員だけです。チヒロ中尉のロッカーに手を触れた者もいる。着替えを掛けに来た者です。その映像を最大まで拡大しましたが、不審な動きは見えません」

「ほう。それで」

「一つだけ不審点が浮かびました。去る8月5日、午後9時55分から10時58分に掛けてカメラが故障しているんです」

「いきなり故障して、自然に直った、ということかね?」

「はい。中央警備本部にいた当直は、故障の警報が出たので、そのことに気づき、警備員を控室に向かわせました。警備員は部屋に異常はなかったので、すぐに戻った。カメラを目視で点検しましたが、異常は発見されなかった」

「カメラは何台あるんだ?」

「2台です。光が消えると、自動的に赤外線カメラに切り替わるものです。うち1台が故障しました。チヒロ中尉のロッカーを映す方です。もう1台は問題の場所が死角になるので関係ない。当直は時間が時間なので、翌日修理しようと思い、日誌につけたのみで後はそのままにしました」

「ところが、夜が明けたら元に戻っていた、というわけだ。面白い」

「丁度前日、ロッカーを掃除した者がいましてね、写真なんかなかったと力強く証言しました。129使徒戦が8月10日です。つまり、犯人がその時間帯に小細工をした可能性が非常に高い」

 阿南はご飯を口一杯に放り込んだ。博士はステーキの付け合せのブロッコリーにフォークを刺した。エリーゼは口元に微笑を浮かべ、大人しく二人の大人を見守っている。

 博士がフォークを振り上げて阿南に言った。「しかし、阿南君。私もあの部屋はよく知ってるが、入り口は一つしかないぞ。そこはもう1台のカメラも捉えているはずだ。一体、犯人はどうやって侵入したんだ?」

「それが古典的な手口でしてねえ」阿南は味噌汁の椀を掴んで飲み干した。「ダクトですよ。天井裏を走ってるやつ。中を覗いたら、わんさと跡が残ってました。暗視装置を装備してたんでしょう。私は前からセンサーぐらい付けとけ、と進言してたんですが。」

「例によって予算なし、かね」

「ええ。何かあった後じゃ遅いですよ」

 阿南は警備に関わる予算の不足について愚痴を言いつつ、手早く定食を掻き込んだ。

「そろそろ、君の閃きを言ってみちゃくれまいか」

「そうですね。犯人はカメラの故障にタイミングを合わせて侵入している。第一の疑問は、どうやってカメラを一時的に無効化したのか。第二はそのタイミングをどうやって知ったか」

「複数犯、と考えるのが自然だな」

「しかし、どうやって? カメラに映らずもう1台のカメラを壊すことは可能でしょうか? 悩みに悩みましたが、博士の顔を見てピン、と来るものがありました」

「「マイクロマシン」」二人の声が重なった。博士は得意満面という顔で笑っている。阿南は苦笑いを浮かべた。エリーゼまでが、楽しそうにしている。

「かないませんね。さすが博士だ」

「私はそっちが専門だからね」

 二人は料理を平らげていた。阿南は気を利かせて、傍にいたウェイトレスにコーヒーを二杯注文した。

「ああ、君。オレンジジュースも頼む」博士が追加注文をした。阿南は訝しく思ったが黙っていた。

「で、どうでしょう、博士。技術的には可能でしょうか?」

「十分可能だよ、阿南君。現代ならちょっとした機器をパソコンに取り付けるだけでいい。いとも簡単にプログラミングできる。しかし、だ。その辺の民間人にできることではない。ノウハウは軍事技術として厳重に保護されているからだ」

「そんなのが大量に出回ったら、犯罪者は大喜びですね」

「そうとも。暗殺、破壊工作、やりたい放題だよ」

「スパイがその技術を持っている可能性は?」

「あり得る。覚えているかい。台湾人民共和国がそいつを使ったスパイ事件を起こしたことを? あそこから闇マーケットに流出した恐れがある。そっち方面は君の分野だろうが」

 ええまあ、と阿南は曖昧に笑った。ウェイトレスが飲み物を持ってきた。彼女はごく自然にジュースをエリーゼの前に置いた。阿南は君、と言いかけたが、博士が右手で制した。

 ウェイトレスが去った。阿南はエリーゼから目を離せなかった。頭の上は疑問符で一杯だ。エリーゼは何気なくジュースの入ったコップに手を伸ばした。博士は楽しげにその様子を見ている。阿南は眼前の光景に目を丸くした。エリーゼは人間と同じように、ストローを使ってジュースを吸い込んでいる。

「驚いたか。阿南君」

「はい。こんなのは初めて見ました」

「私の手に掛かれば、簡単なことだよ。今は無理だが、いずれ味覚と臭覚も実現させるつもりだ。アンドロイドはまた一歩、人間に近づくだろう」

「それは楽しみなことです」

 博士は意味ありげに阿南を見た。「君のワイフには出来ないことだったなあ」

 阿南は虚を衝かれて一瞬唖然とした。

「どこでそれを?」

「私にも情報網はあるよ、阿南君。なに、隠すほどのことじゃないよ。人口が目に見えて減った現代において、昔ながらの生活を維持しようとすれば、アンドロイドが家庭にも入るのは当然の帰結なのだ。君は『アンドロイド友の会』の会員か?」

「一応は」

「私は特別顧問になってる。名誉職のようなものだがね。集会にも出てみたらどうだ。お仲間が沢山いて楽しいぞ」

「心がけておきます」

 エリーゼは無心にジュースを飲んでいる。その姿はどこから見ても人間と違いはなかった。

「美味しいかい?」と阿南は訊いてみた。エリーゼはにっこりと笑って「美味しい」と答えた。博士は満足げだった。

「なかなかいいだろう。確かにこの子の行動は、精巧なプログラミングの結果だ。そういう意味では忌避論者の言う『まがいもの』だよ。しかしだ、私はこう言いたい。『最高の贋物は下手な本物を上回る』とね」

「いい言葉ですね。同感です」

「さて、本題に戻るか。私の推理を聞いてくれ。君は4年前に起きた第109使徒戦を覚えているかね?」

 また長くなりそうだな、と阿南は思った。勿論そんな考えはおくびにも出さない。「ええと、確か細菌型の奴で、BOSATSUのクラッキングを試みたんですよね」

「うむ。久々に現れたイロウル型使徒だ。エヴァケージを覆うタンパク壁に潜んでいた奴は、突然本部施設内に侵食を始め、あっと言う間にエヴァの管制システムを乗っ取った。ケーブルを伝って侵攻してきたのだ。

 そこを拠点とした奴らが次にしようとしたのが、BOSATSUのクラッキングだ。我が優秀なるオペレーター達は必死の防御を試みた。だが、こいつも大した相手だった。私は丁度その時、アンドロイドのメンテナンス中だったのだが、泡を食った指令室から呼び出されたよ。『博士、大変です。使徒がデータベースに侵入します!』

 敵はこちらの防御をものともせず、データベースを侵そうとしたのだ。私は急ぎ指令室に向かったが、内心では大したことになるまいと思っていた。データベースそのものは、原理的に侵略不可能だったからだ。

 量子暗号システムのおかげだよ。あそこのデータを読む場合、10の64乗桁にも上る量子化キーが必要だ。毎日自働生成されるこのキーを解読しない限り、データを利用することはできない。ところが、量子暗号は不正アクセスをした途端、中身が変わってしまうのだ。解読は不可能なのだよ。使徒は理解不能な状況に困惑したことだろう。アクセスするたびに全く違う結果が出るのだから!

 我々は悠々と対策を講じることが出来た。まず敵を解析するマイクロマシンを調整し、ケーブルに注入した。どうやったと思う? 注射器でだよ!億単位の我らがマシンは敵と接触し、情報を齎した。そうして得た結果には驚いたね。時々刻々変化するマシンだ。驚くべきスピードで進化を遂げる、と言うべきか。我々の攻勢に対して容易く形態を変え、対策を取る可能性があった。そこで私とBOSATSUは敵の核となる部分を探した。どんなに変化を遂げても、常に変らない部分はあるはずだ。そこに攻撃を加える。

 かっきり45分で結果を出したよ。後は味方マシンの設計だ。私とBOSATSUは15分でそれを成し遂げた。後は培養槽で増殖させ、前と同じに注射器でケーブルにぶち込む。その瞬間の写真があるぞ。見せてやろう」

 博士は札入れから写真を取り出し、阿南に示した。阿南はその光景を面白く思った。白衣の博士が何の変哲もない坑道で、横に走るケーブルに、医療用と変らない注射器の針を刺しているところだ。

「コンピューターの病気を治す医者、といったところですね」

「ははは。まさにその通り。注射器で使徒を斃したのは、私をおいてないだろうよ。はっはっは」

 滔々と自慢話を語った博士は上機嫌だ。ところが、横に座るエリーゼは、どこか拗ねているように見える。退屈している、と阿南は思った。そこまで擬態を取らせられる技術の凄さには感心するほかなかった。シズコの場合は到底そこまで出来ない。

「いや、面白いお話でした。結局109使徒は、こちらの即効薬によって全滅したのですね」

「ああ。我らはミクロの戦いを制した。テクノロジーの勝利だな」

「つまり、博士が仰りたいのは、事前に良く調整されたマイクロマシンと注射器一本があれば、ああいう工作も可能だということですね」

「そうとも。ケーブルを辿ってみたまえ。どこかに注射器の穴が開いているはずだ」

「そうします。今日は本当にお話できて良かった」

 阿南は握手しようと右手を伸ばした。「役に立ったようだね」博士は機嫌良く握り返した。

 既に昼休みは終わり、食堂は閑散としていた。阿南は立ち上がり、再び礼を述べて立ち去ろうとする。あくびをしかねなかったエリーゼも、博士が立つのに合わせて元気良く立った。

「お手間を取らせました」

「いや、私も楽しかったよ。最初の君の演技も含めてな」

 阿南は苦笑する他なかった。「ばれてましたか」

「見え見えだよ。面白い男だな、君は。遠慮せず、またいつでも会いに来なさい」

 博士は軽く阿南の肩を叩いた。阿南は頭を掻いて頭を下げた。

 その日、阿南は再び部下をダクトに潜らせた。監視カメラのケーブルはそこを走っていたのだ。部下は僅かの間に結果を出した。控室の真上にあるケーブルに1ミリほどの穴が開いていた。

 

 

 タツヤの指が、ハルカの裸の胸にかかった。五本の指が繊細に動き、乳首がゆっくりと屹立を始める。

 愛人の舌がハルカの首筋を這い上がり、薄暗い寝室に彼女の甘い声が響く。

 ハルカはタツヤの背中を抱く。タツヤのもう一方の掌が、脇腹を経由して腰骨を撫で、さらに下って太腿を愛撫する。

 情欲に蕩けた目でタツヤを見たハルカは、愛人の首を掴み、キスをねだる。二人の舌が軟体動物のように絡み合う。

 やがてハルカの中心に至った指は、あわてず騒がず、ゆっくりと前後運動を開始する。襞のあわいに滑り込んだ中指が、とろりとしたぬめりを感知すると、人差し指が官能の尖りを求め、繊細に蠢く。ハルカは愛らしいソプラノで悦楽のきざしを告げる。

 タツヤの眼はじっとハルカの反応を観察し、AIは次の行動を決めるべく計算を繰り返していた。

 この夜、ハルカが潤んだ眼をして「ねえ」と、タツヤの腕を掴んだ瞬間、タツヤの中で『スイッチ』が入った。

 いわゆる『ダッチハズ・モード』になった彼は、ハルカの身体のこと以外、頭に入らなくなった。ハルカに対し、プログラムされた技巧を尽くし、快楽を与えることが、この場の至上命題となった。

 そして、彼自身、『快楽』と名付けられる感覚を味わっているのだ。それは通常では得られない高次の感覚であった。『快・不快原理』が生み出した、擬似的な官能の境地に、彼はいる。

 平常時の5倍の長さに膨れ上がった男性器は、通常よりも活性化したレセプターにより、鋭敏な感覚を持った。微量の潤滑液が、この後の行為を円滑化させるために、早くも湧出していた。顔の筋肉はサブルーチンに導かれ、せつなげな形をとった。

 ハルカは自らの指を噛み、高まる快感の8合目あたりを彷徨っている。視線がしきりにタツヤの股間に投げられる。

「いくよ」

 タツヤは今が機会と感じ、ハルカに囁いた。ハルカは頷き、眼を閉じてそれを待つ態勢を取った。

 恋人同士の淫靡な嬌声が深夜の寝室に響き渡った。

 

 

 ハルカはダブルベッドの中で、裸のままタツヤの腕に抱かれ、甘い時を過ごしている。二度の絶頂はこの頃の暗い気分を久しぶりに忘れさせ、満ち足りた穏やかさに包まれていた。

 微笑を浮かべてタツヤが訊いた。「良かったの?」

 ハルカは頷き、タツヤの頬に音を立ててキスをした。そのまま唇をずらして本格的なキスに移行した。ハルカの豊満な胸がタツヤの胸板に接した。

 唇を離したハルカにタツヤは囁く。「どうする? もう1回する?」

「ううん。今夜はもういい」ハルカは身体を離して仰向けになった。二人並んで天井を見上げる。毛布の下で二人の手は重なり、しっかりと絡み合う。

 偽白猫がベッドの端に前足を掛け、二人を眺めた。ハルカはごみ箱から丸めた紙くずをつまみ出し、猫に示して、開けっ放しになっていたドアの向こうへ放った。猫は喜び勇んでそれを追った。そのまま静かに時は流れた。ハルカの高揚した気分は段々と収まり、キヨミの死から続く憂鬱が戻ってきた。

 ハルカは天井を見上げたまま呟いた。「ねえ。使徒はいつまでやって来るのかな?」

「さあ、『死海文書』は最後の部分が欠落しているので、なんとも言えないよ」

「もう32年間も戦ってるのよ。なのに、使徒の襲来は止まらない。私たちはいつまで戦えばいいの?」

 タツヤには答えようがなかった。黙したまま天井を見ていた。

「戦いは無限に続くのかな?」

「それはない」確信を持ってタツヤは答えた。「どうなるにせよ、いつか終わりは来る。それだけは言える」

「私には夢がある」

 紅い瞳を煌かせて、ハルカはタツヤの肩に頭を乗せた。

「いつの間にか使徒は来なくなるの。それが、何年も何年も続く。みんなは戸惑いながら期待を高めていくのよ。そのうちに地下のリリスは、いい加減干からびてミイラになっちゃう。それで、初めてヒトは言うの。『我々は勝ったんだ』って。

 私たちはパイロットをお払い箱になり、みんなに英雄として迎えられる。それはもう、下にもおかない扱いよ。平和な世界で私は何不自由なく暮らし、100歳まで生きるの」

 タツヤは笑った。「すごいおばあちゃんだね」

「そうね。そうなったらあなたも付き合わなきゃだめよ。ちゃんと皺くちゃで、腰の曲がったボディに取り替えるの。あなただけ青年のままなんて許さないから」

「仕方ないなあ」

「覚えてる? あなたが私より背が高くなった時のこと」

「もちろんさ。君はそれが不満で、しばらく口を利いてくれなかったね」

「だって、小さいあなたが可愛かったんだもの。なのに、急に大きくなって、別人みたいになったから」

「バランスってものさ。僕がずっと子供だったら、君もいずれ不満になってたよ」

「そうね。今のあなたがいい」

 ハルカはまたタツヤの頬に口付けをした。

「でね、平和になったら、何もしないでいるのも退屈でしょ? 私、慈善事業をやりたいな」

「どんな?」

「身寄りのない子供たちを集めて、養育する施設を作るの。そこで、私は子供たちの母親代わりになる」

「君は母親になりたいの?」

「なんかいいと思うの」

 タツヤの頭脳は分析を開始していた。チルドレンは子を産む機能を持っていない。自身も母親を持たない。しかしながら、母性本能とでも言うべきものがあるということか。結論を出すには材料が不足していた。

「でもさ、炊事、洗濯、掃除の類いは僕にやらせる気なんだろ?」タツヤは間を持たせるためにこう言った。ハルカは当然とばかりに答えた。「当たり前じゃない。それが適材適所ってものよ」

「かなわないなあ」

 二人は朗らかに笑った。掛け時計が11時を告げた。明日は早くから予定がある。もう寝るべき時刻。

「シャワー浴びてくる」

 ハルカは全裸のまま浴室へ向かった。タツヤはベッドからその後姿を見送った。

 シャワーを浴びてネグリジェを着込んだハルカは、寝室に戻るため足早に歩いた。

 そこへリビングの電話機が鳴った。今頃何だろう。ハルカは訝しく思いながら受話器を取った。

「はい、ハルカです」

『ハルカ、私、チヒロ...』

「チヒロ、どうしたの? こんな時間に?」

『ごめんね、ハルカ。私、寂しい...』

 チヒロの声が泣き声になった。ハルカは凝然としてチヒロのすすり泣きを聞く。またフラッシュバックか。

「いいわ、チヒロ。待ってて。すぐそっちに行くから」

 ハルカの決断は速い。すぐさま寝室のタツヤに声を掛け、カーディガンを羽織った。

「今夜はきっと泊まりになるわ。先に寝て。明日、隣まで起こしに来て。それじゃ」

 チヒロが心配だった。不安そうなタツヤを寝室に残し、急ぎ足でサンダルを突っかけ、外に出た。

 

 

「チヒロ、ハルカよ。来たわ」

「ああ、ハルカ。ごめん、ごめんね」

 ベビードールを纏ったチヒロが、赤く泣き腫らした顔でハルカを出迎えた。

「大丈夫? 可哀想に」

「また、あの写真のこと思い出しちゃった。すっぱだかで泥まみれにされて...、首をちょん切られて、どっかに持っていかれて...、ねえ、痛かったのかな? パートナーも痛みを感じるのかな?」

 チヒロの顔が歪み、両目から涙が零れた。ハルカは堪らなくなり、チヒロを抱きしめた。チヒロは子供のように嗚咽を洩らす。

「だめよ、だめ。そんな事、早く忘れて。楽しいことだけ考えて。また二人組んで楽しくやろうよ」

「もうだめよ。もうエヴァに乗れない。8号機は私を拒絶したんだわ。ああ、私がちゃんとしてれば、キヨミねえさんは死ななかったかもしれない」

「何言ってるの。あれは、誰にも責任ないわよ」

「私、こんな家に住んでる資格なんかないのよ。パイロットでもないのに! 早いとこシオリのために明け渡さなくちゃ」

「お願いだから止めて」

 ハルカはチヒロを放し、手を取って寝室へ導いた。部屋の間取りは同じだった。

「チヒロ、横になって。ほら、リラックスするのよ」

 ハルカはチヒロの肩を押してベッドに横たわらせた。チヒロは大きな枕に頭を乗せて、ハルカの手を握った。目尻からは絶え間なく涙が落ちていた。ハルカはベッドの端に腰掛け、タオルケットの端で涙を拭ってやった。

「ハルカ、ねえ、傍にいて。いいでしょ?」

「いいよ。ずっといてあげる」ハルカは優しく笑った。「一緒に寝よ。昔みたいに」

「あ、い、いいね、それ。ほら、そこに寝て。枕出してくるから」

 起き上がろうとしたチヒロを制して、ハルカは自分でクローゼットを開けた。案の定寝具が置いてあった。ハルカはそこから毛布と枕を取った。チヒロは体をずらしてハルカが寝るスペースを開けた。少し前まではマサトが寝ていたスペースだ。

 ハルカは笑みを浮かべてチヒロの横に寝た。チヒロはまだしゃくり上げている。二人の肌と肌が接した。

 腕を縮めて丸くなったチヒロを、ハルカは抱いてやった。

「落ち着いて、チヒロ。もう大丈夫」

「う、うん、ハルカ。もっとぎゅっとして」

 ハルカは腕に力を込めた。チヒロは徐々に平静を取り戻し、やがて涙は果てた。ハルカの目の前にチヒロの頭がある。チヒロが顔を上げ、視線がぶつかった。ハルカは腕の力を緩めた。

「どう、落ち着いた?」

「うん。ありがと、ハルカ」チヒロは指で目をこすり、苦笑いを浮かべた。「私の顔、ひどいことになってるでしょ。恥ずかしいな」

「気にすることないよ。きれいよ」

 チヒロはくっくっ、と笑い出した。「おんなじ顔だからね」ハルカもつられて笑った。

「悪いわね。明日早いんでしょ」

「いいの。多少の夜更かしは平気」

「小さい頃思い出すね」「そうね」

 幼い頃から二人は一緒だった。養成所でも部屋は同室で、しばしば一つのベッドで寝ていた。訓練のこと、互いのパートナーのことについて、ひそひそと話し合ったりした。

「気持ちいいよ、ハルカ。何だか久しぶりにいい気分」

「私も。こんなのもいいね」

「ねえ、お母さんに抱っこされるのって、こんな感じなのかな?」

 ハルカはいきなりの質問に戸惑った。

「うーん。多分、違うと思う」

「どうして?」

「きっと、もっとあったかくて、甘いものじゃないかな」

「そうかなあ」

 二人、抱き合ったまま時が過ぎた。すっかり普段の状態に戻ったチヒロは、自分の将来について話す余裕ができた。

「私、これから、どうなるんだろ」

「チヒロはエヴァに乗れなくても、私の親友だよ」

「私はまたエヴァに乗りたい!」

 またチヒロの顔が悲しみに歪んだ。ハルカにはチヒロの気持ちがよく解った。もう一度力を込めてチヒロを抱いた。

「大丈夫。きっと治るから。誰もあなたを放っておかない」

「どうしたら、治るの? ブーランジェ博士から薬をもらったけど、ちっとも効かないのよ」

 ハルカは顔を赤らめながら、思い切って言ってみた。「そのう、チヒロ。...タツヤ貸そうか?」

 チヒロの顔が曇った。「うん、バカハルカ!そんなのいいよ!」

「ごめんなさい」ハルカは慌てて謝った。馬鹿を言ったものだと後悔した。代わりにハルカは別の提案を出した。「ねえ、ブーランジェ博士だから駄目なんじゃない? あのヒト、割と冷たい目で私たちを見てるし」

「ハルカもそう思う? なんだかいっつも態度が冷やかだよね」

「だったら、ベヒシュタイン博士はどうかな?」

「でも、あのヒト、どちらかと言えば工学が専門でしょ」

「分からないわよ。すごい発明をいくつもしてるし、親身になってくれるし。だから、今度、一緒に行ってみない? 駄目で元々でしょ」

「そうね。そうよね。あの博士なら頼りになるわ」

 チヒロの目が輝いた。前途にほんの僅かだが、明るい見通しが開けたような気がした。

「そうと決まったらもう寝よ。もう日付が変わったわ。明日がつらいから」

 ハルカは抱擁を解いて仰向けになろうとした。そこへ、チヒロの囁きが追いかける。

「ねえ、ハルカ」

「なに?」

「キスしてみない?」

「え?」

 ハルカはあっけに取られてチヒロの顔を見つめた。チヒロは真剣な顔で見つめ返している。

「キスしてほしいの?」

 チヒロは無言で頷く。生唾を呑み込んだハルカは、もう一度訊いた。

「私たち女同士、だよね?」

「それが何よ」

 ハルカの視線はチヒロの紅い瞳に釘付けになった。頭がくらくらしそうだ。心臓が早鐘のように鳴った。チヒロへの慈しみとタツヤへの義理、正常とは言えない行為への恐れ、などが頭の中を駆け巡った。そうするうちに心の奥で、未体験の恍惚への期待が芽生えた。チヒロを見据える目は瞬き一つない。

「しないんなら、騒いで寝られないようにするから」

「...キスだけよ」

 チヒロは頷いて姿勢を直した。ハルカはゆっくりとチヒロの上に覆いかぶさり、囁いた。

「ほっぺたやおでこじゃないよ。口にするからね」

「もちろん」

「絶対、誰にも言っちゃだめよ」

「言うはずがないわ」

「いくわよ」

 チヒロは眼を閉じてハルカを待った。ハルカはそっと顔を近づける。唇が合わさる瞬間、ハルカも眼を閉じた。目くるめくような感覚がハルカの裡に起こった。それはタツヤとの行為では決して得られぬ、背徳的な甘美さを伴っていた。

 ハルカは唇を引いた。チヒロの手がハルカの頭を押さえる。真剣な眼差しがハルカを捉える。

「まだよ」

「でも...」

「子供みたいなキスじゃだめ。ちゃんと大人のキスをして」

「...いいわ」

 再び二人の唇が接する。ハルカは大胆になっていた。歯と歯が、舌と舌が出会った。そのまま、この世のものとも思えぬ陶酔の境地へなだれ込んでいった。

 チヒロはハルカに背を向けて静かな寝息を立てている。ポニーテールはばらされて、長い髪が枕に掛かっている。行為の後、すっかり満足したチヒロは、間もなく寝入ってしまった。

 一方、ハルカは興奮のために目が冴えてしまい、なかなか眠ることができなかった。

 

 

 深夜の第四新東京市街を阿南は歩いている。

 この日、市内でリリス教徒の集会があった。山辺が通報したのである。阿南と草鹿らは会場となった倉庫前に張り込み、集合した信徒を一人ずつチェックした。しかし、集まった信徒は既知のメンバーばかりで、目指す檜垣を始めとする飯田軍曹殺害事件の容疑者は一人も現れなかった。阿南らは何の成果も挙げられず帰途についた。

 もうじき日付が変る。疲れ果てた体を引きずるように、阿南は自宅に帰り着いた。

「ただいま」「お帰りなさい」

 シズコはいつもと変らぬ挨拶をする。阿南の仕事柄、帰宅は深夜が多い。休みも不規則だ。普通の妻なら不満を抱くだろう。だが、シズコに限ってそんなことはない。どんなときも心を癒す微笑みを浮かべるだけである。

 

 

 阿南シズコの生涯は短かった。

 彼女と阿南が出会ったのは、阿南が大学2年の時だった。野球部員だった阿南が、ある日曜の朝、河川敷をジョギングをしている時、同じようにジョギングをするシズコとすれ違った。その時は特に印象に残らなかった。そんな邂逅が二度三度と続くうち、彼女の容貌と走る姿の美しさを意識し始めた。ある日、阿南は向こうから来るシズコにぺこりと頭を下げた。驚いたことに、彼女も微笑みながら会釈をしたのだ。翌朝から阿南はコースを変えた。ジョギング開始の時刻を早め、その河川敷を復路にした。何度かの空振りを経た後、遂に阿南は彼女と並んで走ることができた。

 最初は儀礼的な会話から始まった。二人は幾度も同じ道を走り、言葉を交わした。シズコは陸上の選手だった。そうするうちに二人は恋に落ちた。

 阿南が戦略自衛隊に入隊してから1年と経たないうちに、二人は結婚した。

 幸福な日々だった。シズコは明るく、性格も素直で、よく阿南を支えた。

 しかし、子供を望む阿南に対して、シズコは反対だった。彼女もまた未来に懐疑的だったのだ。二人は何度もそのことについて議論をした。

 その議論も唐突に終わりとなる日が来た。シズコは癌に侵されていたのだ。医師からその事実を知らされたときの衝撃は、阿南の記憶から外れることはない。

 シズコはゆっくりと死へ向かっていった。阿南は深い愛情を込めて、共に闘病生活を戦った。シズコは努めて明るい態度を取り、夫の悲しみを和らげようとした。

 蝋燭の炎が消えるように、シズコは死んだ。

 まだ若い阿南の悲しみは深かった。仕事は手に付かず、酒に溺れる日々が2ヶ月あまりも続いた。

 ある休日、二日酔いに苦しみ、無精髭を伸ばしたままの阿南の前に、ぱりっとした背広を着た痩身の男が現れた。玄関先で男はサイバーテック社と書かれた名刺を差し出した。

「−−身内の死とは、受け入れなければならない事柄でしょうか? 神がお決めになったことだと。人間は強くあらねばならないのでしょうか。そんなことはありません。人類は既に神に逆らうテクノロジーを手にしているのです。今や、死を拒否できる世の中になったのです。わたくし共はあなたを悲しみからお救いしたい。お時間はとらせません。どうか、こちらのカタログをご覧ください。必ずご満足のいくものと確信いたします−−」

 それから三日後、阿南は書類にサインをした。同時に亡妻の写真や音声・画像データを多数引き渡した。叔父夫婦やシズコの両親からは猛烈に反対されたが、阿南は押し切った。費用には実父の遺産を充てた。

 阿南の下にシズコが還ったのは、それから2週間後のことであった。

 サイバーテック社の社用車が阿南のアパート前に停まった。阿南は胸を躍らせながら、そこで待っていた。助手席にいたセールスマンが降りて阿南と挨拶を交わし、芝居掛かった態度で後部座席のドアを開けた。そこへ降り立った女を見た途端、阿南の目から涙が零れた。

 最初、女は無表情だった。目の前に立った阿南をただ黙って見ている。阿南は涙声でシズコ、と呼んだ。その瞬間、女は微笑んだ−−。

 阿南が当初予想した通り、ばら色の日々が帰って来た。シズコは生きていた頃そのままの声で、阿南を労わり、愛を囁いた。完璧に家事をこなし、主婦として非の打ち所がなかった。

 周囲の冷たい視線に気づいたのは、二人して近くの商店街に買物をしに行ったときのことであった。知り合いに出会うたび、相手は固い顔をして、挨拶もそこそこに、そそくさと行ってしまった。ある八百屋のおかみは、露骨に恐怖の表情を浮かべて奥に逃げ込んだ。

 阿南とシズコは1週間後には、住み慣れたアパートを出た。

 新居に移った彼らは、以前よりも慎重な生活様式を取った。シズコをなるべく外出させないようにした。阿南は近所に対しては、もてない独身男のふりをした。近隣の住人は阿南を、当時多くなってきた人形マニアと見なした。それに対してシズコは何の不平不満も言わなかった。

 しかし、阿南の幸福は長続きしなかった。

 今、そばにいるシズコは、やはり生きたシズコではないのだ。一時の夢が覚め、当然の事実に気づくときが来た。

 彼女の行動パターンが限られていることが、阿南に冷たい現実を覚らせるきっかけとなったのだ。阿南が何かを言う時、彼女がどう返事をするか、ほぼ完璧に予測できるようになった。彼が関わらない場面での無駄のなさ、無表情も気になりだした。彼女が一人でなにかをするとき、その顔は能面のようだった。彼女から声をかけることも稀だった。そのほうがエネルギーの節約になるからだ。やがて阿南は知った。彼が日中家にいないとき、彼女は必要な家事を除いては、死体のように全く身動きしないことを。

 阿南は後にサイバーテック社に苦情を言った。宣伝文句と違うではないかと。だが、担当者は分厚い契約書を示して阿南の抗議を一蹴した。そんなことは承知の上で購入したはずだと言うのだ。さらにこう付け加えた。

「当社が開発した新製品は、今、お客様が仰ったような弱点を殆ど解消いたしました。行動パターンの変化はほぼ無限大となりました。電池の寿命は大幅に伸び、約1年間休みなしに動いてもまだ平気となりました。そのため、従来休止するところを自ら情報収集に努めるなど、いろいろなことをさせられるようになったのです。どうです。この際、買い替えてみては」

 担当者が告げた値段を聞いて、阿南は即座に断った。

 だが、阿南は未だにシズコを所有し続けている。彼のシズコに対する感情は大幅に変化した。表面的には主人と良くできた使用人の関係になった。愛情が完全に消えたわけではないが、裏には憎しみに近いものも生まれた。言わばシズコに対してアンヴィバレンツな感情を持つに至った。

 

 

「今日、誰か来たかい?」阿南はこのところ日課になった質問をした。

「いいえ。誰も来なかったわ」

「外出はした?」

「ええ。食べ物を買いに。1時間半ぐらい」

 そうか、と答えて阿南はリビングの中を見回した。黙って鞄の中から掌大の機械を取り出した。シズコに向かって口に人差し指を当て、黙っていろと合図した。

 部屋の中央に立って、掌の中の機械を見ながら回転する。機械の表示部には棒状のインジケーターが低い位置を左右している。それが固定電話機を向いた途端、跳ね上がった。

 阿南は厳しい顔をして機械を持ち上げ、裏側を見た。裏板を固定するねじの、プラス型の窪みを観察する。阿南は4本あるねじの向きを全部一定の方向に合わせておいた。それが今はばらばらに変っている。

 電話機を音がしないよう、慎重に元に戻した。捜索を続行した彼は、壁際に置いたスタンドからの反応を捉えた。歩み寄って、下から傘の中を覗いた。電球のすぐ下に、直径1cmほどの丸い物体がある。ごく細いリード線がソケットの中に侵入している。

 初歩的だな。阿南はせせら笑い、次の部屋に移動した。

 結局、彼が探知した盗聴機は全部で七つ。妥当な数だ、と阿南は思った。これでこの家の中の発言は完璧にカバーできる。

 シズコは不安げな様子で突っ立っていた。阿南はテレビを点け、彼女に近寄り、耳元で囁いた。「ぼくらは盗聴されている。だが、そのことは喋るな。無視して普通に振舞え。いいな。分かったら、頷け」

 シズコは無言で頷いた。阿南はそれから何気なく食卓に着き、普通に喋った。「ああ、腹が減った。早速めしにしてくれ」「ええ、すぐに出来るわ」シズコが柔らかく応じた。普段と態度が変らない。阿南の言葉通り、盗聴機を全く意識していないのだ。

 遅い夕食を摂りながら、阿南は想いに耽っていた。あれを仕掛けたのは誰だ? 敵がやったとは一概に言えない。この際、確率が高いのは味方の方だ。

 特殊監察部が動き出したな。阿南は自分が知る、その部のメンバーの顔を思い浮かべた。怒りの念は湧いて来なかった。自分が上層部でも同じことをやるだろうからだ。スパイの疑いを掛けられるのは、スパイを追う彼らも例外ではないのだ。

 

 

 翌朝、阿南は支部に出勤してすぐに、相沢に電話してこの一件を訴えた。相沢は即座に調査を約束してくれた。昼にはもう回答の電話が来た。

『やはり特殊監察部だった。なかなか白状はしなかったがね。脅したりすかしたりしら、しぶしぶ認めたよ。一両日中には取り外すそうだ。ま、ばれてしまったものを付けといても意味ないからな。因みに俺のところにも仕掛けたんだそうだよ。やれやれだね。しかし、こうも簡単に見つけられるってのも問題あるわな。装備が古いよ、あそこは』

 阿南は相沢に丁重に礼を言い、これで一件落着と胸を撫で下ろした。

 翌日の昼、阿南の自宅にネオ・ネルフの担当官が現れた。シズコには事前に連絡しておいたので、事はスムーズに運んだ。家具のあちこちから小型の機械を取り出していくのを、シズコは黙って眺めていた。担当官は小箱に入れた盗聴機を、これで全部です、と言ってシズコに見せた。

 小指の先ほどのそれらの機械は、全部で五つあった。

 その日の夜帰宅した阿南に対し、シズコは全部持って帰ったと報告した。阿南はその数まで確認することをしなかった。

 

 

 キヨミの戦死から49日目が来た。

 この日、森の一角にあるチルドレンの霊廟には、全てのチルドレンとパートナー、ネオ・ネルフの幹部級多数が集まっていた。

 霊廟そのものは決して広くない。300人も入れば満員になる、T字型の空間である。天井は15mの高さに及び、全面ガラス張りで、柔らかい自然光が堂内に降り注いでいる。床と壁は全て人工大理石を使用し、簡素だが、厳かな雰囲気を作り出している。

 奥の壁には亡くなったチルドレンの遺骨が納められている。その数35。それが長大な壁面の左隅から右へ向かって並んでいる。それぞれの墓所には金色に輝くプレートが嵌め込まれ、チルドレン番号と名前、生没年が刻まれている。列の1番右端に四角い穴があり、そこがキヨミの永遠の寝所だ。そこから右壁までの距離は残り少ない。この施設が10年前に建てられた当時は、こうした配置ではなかったが、戦死者が増えるにつれて移動され、現在の形になった。壁の終わりが迫ってきている。将来はより高い場所が安息の場となっていくだろう。

 壁の中心は巨大なネオ・ネルフのマークが占めている。それはDNAの二重螺旋を模したもので、分裂が始まったことを示すのか、片方の端が開いている。その下にN−NERVと大きくロゴが描かれている。

 キヨミの墓所の前に祭壇が置かれ、上に彼女の遺影と位牌、錦布に包まれた遺骨が置かれている。香の匂いがその場に充満している。一人の禅僧が発する読経の声だけが堂内に反響する。ハルカを始めとするチルドレンは礼装用の軍服に身を包み、僧から距離を取って立ち並んでいた。ベヒシュタイン博士だけがその中に混じっている。ブーランジェ博士は実験を理由に欠席していた。総司令を筆頭とするその他の将校は後方に並んでいる。

 マサコとコトミも、当然チルドレンの中にいる。キヨミと歳の近いマサコは、ますます取り残されていく感覚を覚え、募る孤独感を耐えていた。コトミは偶像視していた英雄の死を受け止め、小さな胸を痛めていた。

 読経は般若心経に移り、ハルカには理解できない経文が延々と続いた。

 −−色不異空、空不異色、色即是空、空即是色−−

(形あるものは空と異ならず、空は形あるものと異ならない。およそ物質的現象には実体がなく、実体がないということが即ち物質的現象である)

 僧は読経を終え、払子を持ってチルドレンに一礼した。肩に白色のモールをつけた儀仗兵が、ベヒシュタイン博士を促す。喪服に身を包んだ博士が歩み出て、骨箱から錦布を取り去った。白木の箱が現れた。中から慎重に白磁の骨壷を取り出し、祭壇に一旦置き、蓋を外した。

 博士はチルドレンを見回し、声を掛けた。「さあ、みんな。お別れだ。キヨミを見てやってくれ」

 ハルカを筆頭にチルドレンが壷の回りに集まった。皆手を合わせ、神妙に壷の中の骨を見つめる。その中で泣く者は一人もいなかった。ただ、チヒロだけは洟を啜り上げた。

 一通り別れが済み、チルドレンが退いた後、博士は奇妙な行動に出た。背広の内ポケットから、長方形の黒い物を取り出したのだ。それを骨壷の中に入れようとする。

「博士、それは何ですか?」疑問を感じたハルカが訊いた。博士は動作を止め、答えた。「ああ、これかね。これはユウヤのメインメモリーだ。見てみるかい?」

 チルドレンは一斉に近寄り、博士の手の中にある半導体を見つめた。

 キヨミのパートナー、ユウヤはキヨミの死を知らされた直後、永久に動きを止めた。彼の役割は終わったのだ。ユウヤは長年連れ添った配偶者と共に無に還った。

 それは長さ5cm、幅2cmほどしかない。博士の掌にすっぽり納まるものだ。

「これにユウヤの全ての記憶が収まっている。言わばユウヤそのものだよ。ユウヤはこれから最愛のパートナーと共に眠る。通常はこんなことはしないでリサイクルするのだが、今回だけは特別だ。私からキヨミへ、せめてものはなむけと思ってね」

 ハルカは胸に迫るものを感じた。天国でキヨミとユウヤは本当の夫婦になる。そんな想像が湧き上がった。ふと、その筐体に字のようなものが刻まれているのに気づいた。

「何か書いてあるんですか?」

「ああ、これかね。読んでやろう」博士は筐体を目の高さまで上げて、文字を読み上げた。

”願わくば同じ年、同じ月、同じ日、同じ時に死すべし”

「元々は中国の説話だよ。配偶者の死後も生きているのは忍びない、ということ。熱烈な夫婦愛を謳ったものだ。我々スタッフの願いを込めて、このように刻んだ」

「パートナーは皆同じなんですか?」

「そうだ。みんな同じものが頭に入っている」

 配偶者と寿命までも一致させたいと願うほどの愛。ハルカは深いロマンチックなものを感じる。

 突然、後ろから嗚咽の声が聞こえた。ハルカが振り返るとチヒロだった。まただ。ハルカはチヒロに近づき、慰めに掛かった。

 チヒロの動揺はそれほど激しくなく、式は順調に進んだ。博士の手により骨壷が納められ、金色のプレートが嵌め込まれた。儀仗兵が電動レンチでボルトを固定していく。こうしてキヨミは永久に向こう岸の住人となった。

 博士が呟いた。「さよなら、キヨミ。君は私の最高傑作だった」

 式は全て終わり、会衆は各自引き上げに掛かった。が、ハルカだけはその場に留まり、真新しいキヨミのプレートを見つめ続けた。タツヤが傍にやって来た。

「どうしたの、ハルカ。みんな帰っていくよ」

「もう少しここにいたいの」

 ハルカは左端まで歩いて、チルドレンのプレートを順に見ていった。

 6th MARIKO 2035 ~ 2052

  8th AYANE  2035 ~ 2053

  7th KANA   2035 ~ 2053

            :

            :

 39th ERIKA  2061 ~ 2081

 41th TAMAE  2063 ~ 2081

 34th KIYOMI 2058 ~ 2082 

 キヨミのプレートの前でハルカは立ち止まり、改めてそれを眺めた。キヨミの思い出が次々と甦ってきた。それからその隣の空いたスペースに目をやる。

 あそこに入るのは自分だろうか。ふとそんな考えが浮かぶ。自分の名を刻まれたプレートまでが見えたような気がする。ハルカは悪寒を感じ、すぐ傍にいたタツヤに身を寄せた。

「大丈夫かい、ハルカ。もう帰ろう」

 心配そうなタツヤにうん、と頷いてハルカは出口へ向かった。ハルカは途中霊廟を振り返った。

 中央に大きなネオ・ネルフのマーク。それを中心に壁面全体が、びっしりと金色のプレートで埋め尽くされている。

 ハルカは目をしばたたいた。勿論、プレートは下の方に慎ましく並んでいるだけだ。ハルカは目眩を感じ、早く外に出ようと歩を速めた。

 

 

 ベヒシュタイン博士は研究所にある自室で、二人のチルドレンと面会している。応接セットで向き合った相手は、言うまでもなくハルカとチヒロだ。

 苦虫を噛み潰したような顔で、博士は言った。「難しいことを言いに来たもんだな、君たちは。チヒロ君の治療はマリーの担当だ。私は専門外なんだが」

 ハルカが身を乗り出した。「そんなことを言わず考えてみてください、博士。大抵のことは解決してこられたじゃないですか」

「そうは言ってもねえ。マリーもああいう女なんで」

 ベヒシュタインもブーランジェを苦手としている。仕事上は良きパートナーだが、個人としてはいい感情を持っていない。

 伏し目がちにしていたチヒロが顔を上げた。「副部長の治療は全く効果が上がっていません。ずっと神経過敏が続いています。もう縋れるヒトは部長しかいないんです」

 チヒロの目には隈が出来ていた。最近は睡眠も不安定になっている。ベヒシュタイン博士は憐れみをもってチヒロを眺める。

「博士、もう一度お願いします。どうか、チヒロの治療に当ってみてください。博士でも駄目ならチヒロも納得がいくと思います」と、ハルカがチヒロの手を握りながら言った。博士は椅子に身を預けて天井を見上げ、思考に沈んだ。ときおり長い指が肘掛けを叩く。

 じりじりしたハルカがまた「博士」と呼びかけた。と、博士は肘掛けを叩いて向き直った。

「分かった」博士はチヒロを真剣な眼差しで見つめた。「実は、私なりの方法を考えておった。だが、それはあまりに突飛なやり方なので、ためらいがあったのだ。今ようやく決心がついたよ。チヒロ、どんなやり方にもついて来る自信はあるか?」

「あります」チヒロは即答した。決意を湛えた目には凛とした光があった。

「良かった。良かったね、チヒロ!」ハルカは両手でチヒロの手を握り、笑いかけた。チヒロも嬉しそうに微笑んだ。

「では、ハルカ。すまんが、ここを出て行ってくれんか」

「え?」

「私とチヒロだけで話がしたい。他に誰も混ぜたくないのだ」

「あ、あの、危ないことするんじゃないですよね?」

「その辺は大丈夫。さ、出て行きたまえ」

「...分かりました」

 仕方なくハルカは席を立ち、出口に向かった。チヒロの視線が追いかける。「じゃ、頑張って」ハルカは出口のドアを開け、ことさら明るく笑いながら手を振った。

 ハルカが去り、チヒロと博士は二人だけで相対した。

「さて、私の計画を聞かせよう」博士は身を乗り出してチヒロに顔を近づけた。チヒロは博士の緑色の瞳に吸い込まれそうな気がしながら、大きく頷いた。

 

 

「君の要望は良く分かった」

 豪勢な調度品に囲まれた居間で、男女が向かい合って座っている。高級なナイトガウンに身を包んだ男は、副司令信時中将だ。女は真剣な面持ちで次の言葉を待つ。

「誠に困ったことになったものだな。使徒の相手をする方がまだ容易いかも知れん」

「どうかお願いします。副司令」

「公安も警備も目が血走っている。私としては、今目立つ動きはしたくないのだが」

「そんなことを言わず、何とかしてください。お互いのためじゃありませんか」

 女は泣かんばかりの表情で信時に訴えた。信時も深刻な顔をして考え込んだ。

 やがて信時は女を安心させるように微笑んだ。「まあいい。私から何とかしよう。君も動揺せず、普通に振舞っていたまえ」

 希望が適った女は、満面の笑みを浮かべた。「ああ、副司令。ありがとうございます」

「さ、夜も更けた。いつもの通り、始めようじゃないか」

「...はい」

「そこに立って。ゆっくりと脱ぐんだ」

 信時は居間の中央を飾る絨毯の上を指した。女は無言でそこに立つ。震える指がブラウスのボタンを一つ、また一つと外していく。信時の視線が絡みつく。

 取り去ったブラウスを横にある長机に置いた。顕わになった両肩の下にある双乳は婀娜っぽい黒のブラジャーに包まれ、上三分の一を見せ、視る者の歓びを掻き立てる。

 女の手がスカートのホックに掛かった。柔らかな音を立てて、スカートが絨毯に落ちた。それを拾い上げた女は、ブラウスの上に重ねて置いた。

「そのまま」

 信時が手を挙げて女を制した。女は胸を隠そうとして上げかけた腕を止めた。

 女は気を付けの姿勢で信時の前に佇立した。白い顔は赤く染まり、表情は能面のように固かった。女の身を覆うのは、レースの付いた黒一色の下着とストッキングだけだった。腰回りを飾るガーターベルトが信時を一層燃え立たせる。

「言いつけを守ったね。マサコ」

「はい」

 マサコは悟りきったような顔で信時の前の床を見つめた。紅い瞳は半ば瞼で塞がれていた。信時の右手はガウンの下に滑り込み、早くも淫靡な動きを見せ始めていた。

 

 

 何処とも知れぬ密室に四人の男がいる。うす汚れたこの部屋の明りは、中央にある一本のスタンドが点いているのみで、男達の顔は判然としない。うち3人は丸机を挟んで向かい合い、密談を続けている。もう一人はやや離れた場所でアームチェアに腰掛けながら、3人の話に耳を傾けている。

 中でも太った男が机の真ん中に広げた紙片を指した。「実に気味の悪い話だ。一体、このアドレスをどうやって知ったんだ」

 紙片にはゴシック体で書かれた文字が並んでいる。メールをプリントアウトしたものだ。

「罠に違いないですよ、こんなの。話がうま過ぎますって」と、右に座った筋肉質の男が言った。

 もう一人の二の腕に刺青をした男が反対意見を述べた。「そうとも限らんぞ。意外な所に我々のシンパはいるってことかもな」

「俺はそんなの考えられんね」

「どうしてそう思うんだ?」と、太った男が尋ねた。

「だって、こんな情報、ネオ・ネルフ内部の奴じゃなきゃ、分かりっこないじゃないですか。俺の知る限り、そんなのは仲間にいない」

「それはあるな。しかもこの極秘アドレスを知っているってことは、こいつ、かなりのプロだ」

 刺青がまた反論した。「しかしよ。これがマジなら大チャンスだぜ。乗ってみる価値はあるって」

「俺が分からんのはこいつの動機だよ。こんなことを知らせてよこして何の得があるんだ?」

「だからさ、そんなの考える必要ないのよ。まず行動。それでなんかあったら、その時考えればいいの」

「お前、無責任なこと言うなって」

「何が無責任だよ」

 男達は興奮し、口角泡を飛ばして激論を交わす。第4の男はこめかみに指を当てながら無言のままでいる。

「大体、お前は手が速すぎるんだよ。あの一件で折角の計画がどうなったか、考えてみろ」

「なんだよ。それはこれと関係ねーだろ」

「止めよ」

 第4の男がいきなり発言した。部屋は一瞬のうちに静寂に帰った。刺青と筋肉質は気まずそうに口を閉じている。その男は立ち上がり、机まで歩いて紙片を手に取った。

 男はじっとその内容を読み、やがて決断を下した。

「面白い。こいつの提案に乗ってみよう。くくっ。この男、阿南か。こいつには積年の怨みがある」

 刺青の男は満足そうに目を輝かせた。残る二人は真剣な顔で、にやにや笑う長身痩躯の男を見上げている。

「お前たちが中心となって段取りを組め。失敗は最早許されんぞ」

 三人は「はっ、」と答えて一斉に頭を下げた。長身痩躯の男はなおも紙片を見ながらせせら笑った。

「しかしこいつ、大した名前を付けたものだ。『ネメシス』とはなかなか洒落ている。そうは思わんか?」

 そう訊かれた者達は追従するように笑った。長身の男は紙片をテーブルに戻し、足首まである長いガウンをなびかせて出口へ歩いた。

PREVIOUS INDEX NEXT
inserted by FC2 system