リリスの子ら

間部瀬博士

第7話

 ジオフロントの森を貫く道の所々には、休憩用のベンチが置かれている。阿南はその一つに腰掛け、回りの自然を眺めてのんびりと時を過ごしていた。ここからは村も遠く、道行く人は少ない。ただ、中枢部から養成所に向かうには距離の点で都合が良く、時折関係者が通過する。

 阿南が森に住む小鳥の声に耳を傾けていた時、向こうからジャージを着た小さなチルドレンがやって来た。腕に大きな買物袋をぶら下げている。その子は阿南の姿を見つけると歩調を緩めたが、なおそのままこちらへ向かって来る。

 「やあ、チルドレン」阿南は明るく声をかけた。59番目のチルドレン・コトミは警戒の面持ちで足を止めた。

 彼がここにいたのは偶然ではなかった。今朝早く、コトミがこの時間にここを通るだろうことを、保母の渡辺からの報告で聞き知ったのだ。渡辺には以前に金を掴ませて内部情報を漏らさせている。

「おつかいだね。ご苦労様」

「どうも」コトミはちょっと頭を下げて、行こうとする。

「まあ待って。どうだい、少し話をしないか?」

「話すことない」コトミの足がまた前に出る。

「そう言わず。そうだ、いいものがある。これ、うまいぞ」

 阿南は腰の後ろからチョコボールが沢山詰まった袋を出した。コトミの視線がそれに吸い付く。

「食べたことあるかい?すごく甘いものだ」

「ある」コトミは口中に唾が湧き出るのを感じる。阿南の方に一歩近づいた。

「ほら、座れよ。怖い顔しないで」

 とうとうコトミは阿南の隣に座った。阿南が袋から出した菓子を掌で受けた。包み紙を解いて褐色のチョコを口に入れ、甘味が拡がると僅かに口元が緩んだ。

「君たちでも買物をしたりするんだね。パートナーがいるだろうに」

「社会勉強のためよ。あまりに世間知らずじゃ駄目だって」

「いいことだね。ほら、もう一つ」

 阿南がまた一個勧めると、コトミはすぐに口に放り込んだ。噛み潰す音が響く。

「話って何?」

 チョコを呑み込んだコトミは阿南を促がした。阿南は満足げに微笑んだ。

「今日は君に報告をと思ってね。マサコさんのことさ。残念ながらいい話じゃない」

「大体予想できる」

「マサコさん関係の捜査は昨日、正式に打ち切りになった」

「やっぱり」

 コトミの反応が淡々としていることが、阿南には有難かった。

「保安部長直々の命令でね。いつまでも稔りのない捜査は労力の無駄だとさ。リリス教徒に的を絞れと。尤もな指示ではある」

「分かった」

 例の檜垣の一件以来、マサコの捜査は休止状態にあった。そこへ今頃指示が来たことに、阿南は不審を覚えていた。コトミの視線は下に落ちている。傍目にも意気消沈して見えた。彼はこの子が何をそこまで思い悩むのか、解明したかった。

「ねえ、もう一度訊くよ。君があの晩、彼女が出て行ったのを見た。これは本当なのかい?」

「ほんとよ」

「だったら、実の所、彼女が何をしに出かけたのか、君は知っている。違うかい?」

「知らない」

 予想通りの答えだった。だが、阿南はこれで引くつもりはなかった。

「そうかい。じゃあ、訊こう。君はなぜ嘘を吐いた?」

「嘘って?!」

 コトミの表情にはありありと動揺の色がある。阿南は追求を続ける。

「君はトイレの窓から彼女が出て行く所を見たと言った。僕はよくよく検討してみたんだよ。あそこのトイレから、外へ出て行く者は本当に見えるのか」

 コトミは押し黙ったままだ。視線は落ち着きなく彷徨う。

「あの建物で出入り口が見えるトイレと言えば、二階中央のトイレだけだ。渡辺さんに頼んでこっそり入れてもらったよ。確かに僅かな距離だが見えた。だけどね、君ぐらいの背丈まで腰を落としてみると、庇が邪魔をして何も見えないんだよ。さあ、チルドレン、本当のことを教えて」

「言わなきゃ良かった」

 ぽつっと、コトミは吐き出した。阿南は前進があったことに満足を覚えた。コトミは阿南に目を合わさずに告白を続けた。

「ほんとは、前からマサコねえさんがあの時外出するのを知ってたの。ねえさん、事務所のカレンダーに印をつけてたから。その意味を私は知ってた。あの晩も廊下からそっと様子を窺ってたの。案の定出かけて行った」

 こんな小さな子供がそこまでするとは、一体どんな秘密があるのか。阿南は深い興味を覚えた。

「あの時、もっと良く考えるべきだった。私、何で余計なこと言っちゃったんだろ」

「チルドレン、事情はどうあれ、マサコさんは嘘を言った。である以上は解明しなくちゃならない。おじさんが不思議なのは、君がある一線から向こうは秘密にしようとしていることだ。この際だ。君が何を知っているのか、全部おじさんに教えてくれないか?」

「いやよ」コトミはきつい目を阿南に向けた。金輪際言うものかという気迫が漲っている。阿南は気圧されるものを感じた。

「わたしの口から言うのはいや。自然に明るみに出ればと思ったの。でも、もういい。自分でなんとかするから」

 きっぱり言い切ってコトミは立ち上がった。阿南は慌ててコトミの腕を取った。

「まあ待てよ。話は終わってない。チョコ、もう一個どうだ?」

 阿南が袋から取り出したチョコを見て、コトミは数瞬迷ったが、また座り直して受取った。菓子を噛むコトミを見守りながら阿南はマサコの暗部を思う。口にもできない事情とはどんなものだろう?

「良く分かった。これで間接的にマサコさんがシロだと分かって、安心したよ。君にこれ以上突っ込むこともしない」

「そう、良かったわね」

「だけど、一つ忠告しよう。万一マサコさんが犯罪に関与していた場合、君も同罪になりかねないぞ。その辺どうなんだ?」

「犯罪なんて、とんでもない! マサコねえさんは悪者じゃないもん!」

 コトミの必死の形相を見て阿南は確信した。この子はマサコのことを好いている。

 両手を挙げてコトミに言った。「オーケー、もういい。君のマサコさんへの思いやりは分かった。だが、もう一つ言おう。君はもうこれ以上動くな。下手に動くと逆に君の立場が悪くなるぞ。そりゃ目に見えてる」

 コトミは口を噤んだまま地面を見つめた。その様子を眺めながら阿南は思う。この子はマサコにだけは嫌われたくないのだ。だから、迂遠な方法しか取れなかった。段々とこの小さな愛らしい娘の味方をしてやりたくなった。この悩みを解決してやる方法は何か。

「よおし、いいだろう」阿南は両膝を叩いた。「おじさんがなんとかしてやろう。きっと君が満足いくようにしてやる」

「ほんとに?!」コトミが顔を上げて阿南を見た。意外さに大きく目を開けている。

「ああ、実を言うとね、今回の命令はあまりに不自然なんだ。かなり上の方から指示が下ったと思える。お偉方が何を考えているのか、知りたくもあるのさ。俺、実を言うと不良士官なんだよ」

 コトミがにっこりと笑った。阿南が初めて見る可愛らしい顔だった。阿南は満足して立ち上がった。

「もう行ったほうがいい。ほら、これやるよ」

 阿南はまだチョコが沢山残った袋を差し出した。コトミは戸惑った顔をした。「こんなに貰っていいの?」

「ああ、気にするな」

「でも...」

「子供が遠慮するんじゃない。ほら、取って」

 コトミはおずおずと手を伸ばした。「ありがとう」

「一気に食べると鼻血が出るぞ。間を空けてな」

「ううん。みんなで分ける」

 感心した阿南は、微笑してコトミの肩を握った。「えらいぞ」

 阿南を見上げるコトミの目も微笑っていた。

 

 

 養成所に戻ったコトミはパートナーのフユキを呼んで、阿南から貰った菓子を内緒で託し、それから事務所に向かった。そこでマサコが待っているはずだ。

「ただいま、ねえさん」

「ああ、コトミね。ご苦労様。遅かったわね。その机に置いてちょうだい」

 部屋にいるのはこの二人だけだ。コトミはマサコが指した事務机に、買って来た食料の入った袋を置いた。レシートとおつりをマサコに渡す。受取ったマサコは真剣な顔で言った。

「ちょっとそこに座って。話したいことがあるの」

 コトミの背に冷たいものが走った。いやな予感で、さっきまでのいい気分は吹っ飛んでしまった。慄きながらマサコの前にある椅子に座った。

「ねえ、あなたかフユキだけど、私たちがいない間にこの部屋に入ったことある?」

 遂に来た。コトミの手に汗が滲む。それでも表情を変えず答えた。

「えーと、1年前ぐらいなら、何か頼まれて入ったことがあります」

「最近のことよ。入ったことない?」

「ないです」

 きっぱりとコトミは答えて見せた。視線と視線がぶつかり合う。コトミは負けまいと奥歯を噛み締めた。マサコは数刻、コトミを見据えた。

 質問は、あの脅迫状の出所を疑ってのことだった。封筒はこの部屋のものを使ったとも考えられる。パソコンは誰にでも使える状態で置いてある。マサコが誰を疑っているかは明らかだ。だが、彼女はこれ以上追求する材料を持っているわけではなかった。質問を変える他なかった。

「あなた、私に何か隠していることない?」

「ありません」

 引き続きコトミは否定する。部屋は重苦しい沈黙で包まれた。その時午後2時となり、ホールにある掛け時計の時を告げる音が室内に響いた。

「もう時間ね」マサコは立ってコトミに告げた。「行っていいわ。ごめんね」

 マサコの表情は暗い。コトミに背を向けて買物袋の中身を出し始めた。コトミは開放されてほっとしながら出口へ急いだ。

 その背中に、突然マサコの声が掛かった。「コトミ」コトミは怪訝そうに振り向く。マサコは横向きになり何かを考え込んでいる風だ。コトミはじっと待ったが、やがてマサコが謝った。

「ごめんなさい。何でもないわ。早く行って」

 コトミは急ぎ足で部屋を出た。後ろ手でドアを閉めた彼女は出るなり、はあとため息を吐いた。

 

 

「チヒロ、ほんとに大丈夫なのよね?」

「ええ。ハルカったら、そればっかり。博士を信用してないの?」

「そうじゃないけど...」

 ハルカとチヒロはセントラルドグマ内の廊下を並んで歩いている。行き先は彼女らの故郷に近いチルドレン医療部だ。その入り口がもう目の前に迫っている。チヒロは一気に緊張が高まるのを感じる。あのドアを越えたら、もう後戻りはできないのだ。

 自働ドアが軽い音を立てて開いた。目の前にブーランジェ博士がいた。

 「来たわね。ハルカも来たの。お仲のいいこと」些か皮肉混じりに聞こえる口調で博士は迎えた。奥を指し、事務的に説明した。「あそこの部屋で着替えて待ってて。手術は3時からの予定よ。その前に二三、検査をするから。看護師の指示に従うこと」

「あの、私もいていいですか?」とハルカが訊いた。

「いいわよ。別に邪魔にもならないから」

 いつもの博士だとハルカは思う。この冷淡さはベヒシュタインとは対照的だ。ハルカとチヒロはその部屋に入った。壁際にベッドがある。傍にはストレッチャーもあって、それに乗せられて手術室に行くのだろう。奥にあるドアの向こうは、ハルカの記憶では手術室だ。そこで1時間後にはチヒロの頭に穴が開けられる。

 ハルカがチヒロに手術のことを打ち明けられたのは3日前のことだ。脳手術と聞いて呆気に取られた。精神障害の治療に手術をするなど、ハルカの知識にはなかった。その結果、チヒロは別人のようになってしまうのではないか。不安を言い立てるハルカに対して、チヒロは穏やかに微笑うだけだった。

「大丈夫よ、ハルカ。博士は保証してくれたわ。その手術が終われば嘘みたいにすっきりするって。成功率は99.9%。何の危険性もないのよ」

「それならいいけど」

「以前に戻れるのよ。また二人で黄金コンビを組もうね」

 チヒロがそう言う以上、ハルカに反対はできなかった。ただ、チヒロの表情に、ときおり翳のようなものが差すのが気になった。

 ベヒシュタイン博士とブーランジェ博士はチヒロの頭部CTを前にして、最後の検討を終えた。

「−−と、いうことだ。何か意見はあるかね」

「手術に関してはないですわ」

「と、言うと?」

「未だに気が進みません。そもそもこんなことまでして、チヒロをステージに上げなければならないのかしら」

「マリー」ベヒシュタインは困り果てた、という顔をした。「もう決まったことだ。総司令までが承認している」

「あら、ご命令には素直に従いますわ。でも、嘘の上に嘘の上塗りをするようで、いい気持ちはしません」

「これも人助けだよ」

 ブーランジェはぷっと吹き出した。「あら、人ですって。あの子らを人と思っていますの?」

 一本取られたベヒシュタインは不機嫌そうに口を噤んでしまった。

「まったく、部長の人形好みは理解できませんわ。残念ですが、私はそんな感情移入はできませんの」

 ベヒシュタインは頬杖をついて冷徹なブーランジェを見つめた。

「ううん。どうしてそんな君がこんな役職にいるんだろう」

「学問的情熱。あるいは復讐かも知れませんね」

「そうか」

 ベヒシュタインは彼女の経歴を思い出した。

 彼女の父は軍人だった。その父、マルク・ブーランジェ空軍大尉は2050年の使徒再来時、日本に駐屯していた国連軍の一員だった。娘マリーは首都のフランススクールに通う高校生だった。彼女がその学校で物理の授業を受けている時、突如校長による校内放送が流れた。それは、第18使徒の襲来を告げるものだった。

 授業は打ち切りとなり、帰宅した彼女は母と共に祈りながらテレビに見入った。情報管制の下、放送されるニュースはごく断片的なものだった。彼女らの心を痛めつけるのは、マルクが高い確率でその戦闘に参加しているということだ。

 不安に苛まれながら夜を迎えた。テレビはようやくエヴァが使徒を斃したことを伝えた。母娘手を取り合って喜んでいた時、突然来訪者を告げる電子音が家に響いた。マリーがドアを開けると、立っていたのは軍服を着た士官だった。沈痛な表情で母に会いたいと言った。

 士官が父の戦死を彼女らに告げた時、母は大声で泣き崩れた。マリーは呆然と立ち尽くした。父マルクは果敢に使徒に立ち向かい、命を落としたのだった。

 以来、彼女の使徒に向けての憎悪は深い。その使徒と同じ細胞を持つチルドレンに対して、彼女が冷やかな感情を持つのも自然な成り行きだった。

「私には君のような割り切りはできない。あの子らの造り手として、ある程度の愛情を感じるのは当然だと思う」

「その子らをどんどん戦場に送り込んでいる。それも矛盾じゃありませんか」

「そうしないと人類が滅びるからな」

「部長、私はそのことに何の痛痒も感じませんわよ。使徒の一部を使って使徒を打ち滅ぼす、むしろ痛快なことですわ」

 そう宣言したブーランジェの口元には笑みさえ浮かんでいる。ベヒシュタインは不愉快になり、むっつりと黙り込んだ。

 チヒロはベッドに横たわり、その時を待っていた。肘には既に点滴の針が刺さり、袋から薬液がぽたりぽたりと落ちていくのが見える。最前からハルカは傍らに座り、チヒロを落ち着かせようと四方山話を聞かせている。チヒロは柔らかく微笑みながら、ハルカの話に耳を傾けていた。

 手術衣を着た医師が三人入って来た。「時間です。手術室へどうぞ」「はい」ハルカはすぐに立ち上がり、場所を空けた。

 チヒロが寝たベッドに男達の手が掛かり、ストレッチャーに移された。ハルカはどきどきしながらチヒロに声を掛けた。

「チヒロ、頑張って」

 チヒロは答えず親指を立てて見せた。ストレッチャーは速やかに進み、手術室はもうすぐそこだ。寸前の所でチヒロはハルカに声をかけた。心からすまなそうに。

「ごめんね、ハルカ」

 ハルカは咄嗟のことで、チヒロが何を謝ったのか理解できなかった。手術室の自働ドアが開いた。向こうに手術衣姿のベヒシュタイン博士とブーランジェ博士が、両腕を上げて待っているのが見えた。一瞬の後には冷たい金属製のドアが閉まり、ハルカはただ一人部屋に取り残された。

 

 

 翌日朝、ネオ・ネルフの大会議場は珍しく喧騒を呈している。500人は収容できる講堂は8割方埋まっている。阿南は急に決まった召集に戸惑っていた。この時期に何を知らせようというのか。内部を見渡すと、各部門の幹部級を筆頭に、集められるだけの者を集めたかのようだ。保安部に至ってはメンバーの半数が揃っている。最前列の幹部席のすぐ後ろには蒼い髪の一団が固まっている。チルドレンがこの場に呼ばれたのだ。

「なんでしょうね、この会議は。課長、知らないんですか?」阿南の隣席に座った草鹿が訊いて来た。

「さあ、分からん。俺も今朝招集されて驚いたんだ」

 阿南はチルドレンが並んだ前列を眺め渡した。髪型と体の大きさから判断するしかないが、あれがハルカだと当りはついた。静かに前を向いて待っている。マサコにコトミらしき姿も見える。その横には私服の男達がいて、明らかにパートナーまでが加わっている。

「パートナーがいますよ。変ですね。彼らにまで知らせることって何でしょう。それもあんな前に座らせて」

 草鹿が疑問を口に出した。阿南はこの男の鋭さに改めて感心する。「おそらくチルドレンに関することだ。それ以上は何も言えん」

 ステージの奥にあるドアが開き、白衣の白人が姿を見せた。ベヒシュタイン技術部長だ。彼は片手に書類を持ち、すたすたと演壇の前に立った。ブーランジェ副部長と鮫島技官がステージ奥の席に座った。

「お早う、皆さん。技術部長のベヒシュタインです。今日は皆さんに甚だ尋常ならざる指令を下さなければなりません。それはあまりに常識を逸脱するものですが、どうか落ち着いて聞いてほしい。

 去る7月、第129使徒戦において、サーティーフォースチルドレン・キヨミの尊い命が失われました。彼女の死は当ネオ・ネルフにとって痛烈な打撃であります。なぜならば、残るチルドレンは未だ年若く、経験の浅い者が多数を占める。さらなる不幸はこれに加えてフォーティサードチルドレン・チヒロが、精神の打撃から戦線を離脱したことであります」

 ハルカはもっともだと思うと同時に、自分がそれほど信用されていないことに忸怩たるものを感じた。この時点に至っても、この会議の目的は理解できていなかった。

「我々ネオ・ネルフにとって、使徒戦の敗退は許されることではありません。それは即人類の滅亡に繋がるからであります。したがって我々はあらゆる手段を取って、戦力の向上を図らねばなりません。それがどんなに事実を捻じ曲げることであってもです」

 何を言ってるんだ? 阿南の中で疑問が大きく膨らんだ。

「現在の戦力からしてチヒロ中尉の退場はあまりに惜しい。我々技術部はあらゆる手を尽くして彼女の回復を図りましたが、結果は芳しくありませんでした。このままでは彼女は、彼女にとっても不幸なことに、パイロットを退役せざるを得ないでしょう。しかし皆さん、幸い私は病の根本的治療法を発見したのであります」

 ハルカは博士の手術を知っていたから、驚くことはなかった。その手術の成果を大々的に誇示するつもりなのか。それにしてもこの大人数は大げさすぎないだろうか。

「チヒロ中尉のトラウマ、それは愛するパートナーを無残にも破壊されたことであります。このトラウマを除く方法の第1はパートナーのマサトが復活することであります」

 会場にどよめきが拡がった。阿南は博士が何を言い出したか分からず呆気に取られていた。ハルカは話の内容が意外な方向に向かったことに驚愕していた。

 ベヒシュタインは会場の反応に気を良くしていた。ここは間がほしいと感じた博士は、水をコップに注ぎ、ゆっくりと飲んだ。さあ、諸君、世紀のどんでん返しをお目にかけるぞ。

「実際に皆さんに見てもらうのが、最も良い説明になるでしょう。さあ、入りたまえ!」

 芝居気たっぷりに、博士は奥へ向かって腕を伸ばした。ドアが開いて一人の青年が現れた。会場が一層大きくどよめいた。この場にいる全員が唖然として青年を眺めた。

 ステージの真ん中に緊張の面持ちで立ち尽くす青年。それは誰が見ても破壊されたマサトそのものに違いなかった。

「どうかね、皆さん。破壊前のマサトと違いはあるかね。違いを指摘できるものなど誰もいない筈だ。なぜなら、そっくり同じに造ったからだ。デジタル技術万歳! はは。だがね、これだけならその辺の技術屋でもできる。問題は中身だ! その辺りはマサト、いやマサトツーと呼んだ方がいいかな。いや、失敬。冗談だよ。彼から説明してもらおう」

 気分が高揚したベヒシュタインは赤ら顔になり、口調まで変化していた。促されたマサトが一歩前に出てマイクの前に立った。

「皆さん、僕はwrp164786-r、マサトです。お久しぶり、と言わせていただきます。僕がこんな形でここに現れたことに、皆さん驚かれたことと思います。尤も、今この場にあるボディは、前と同じものではありません。僕固有のデータを元に、タイプALのボディを新たに調整したものです。それだけなら全くの別物ですが、僕は今こうしてマサトとして皆さんの前にいます。なぜ僕は自分をマサトだと言えるのでしょうか? 以前と変らないマサトだと? それは僕がマサトと同じ記憶を持っているからです」

「そこからは私が説明しよう」ベヒシュタインが進み出て、話を引き取った。「全ては僥倖のなせる業だ。4月10日のことだ。マサトのメモリーの一つが変調を来たした。マイクロマシンによる診断の結果は深刻なものだった。24時間以内に基幹部品をそっくり入れ替えなければ、致命的なダウンが起きるのは間違いなかった。言い換えれば、マサトは電子的に死亡するところだったのだ。私は速やかにマサトを休止させ、部品の総入れ替えをやった。その時、当然のことだが、メインメモリーのバックアップを取った。そうしないと、マサトはどっかに行ってしまうからな。バックアップから新しいメモリーに記憶を移して初めて、マサトは生き延びる。そうやってマサトは無事危機を脱したわけだが、その時、私にある閃きがあった。せっかく取ったバックアップは消さずに取っておいた方がいいんじゃないか? 彼の身にこれから先何かが起きた場合、それが保険になるのではないか?」

 単に消すのを忘れてただけよ、とブーランジェ博士は思い、冷笑を浮かべた。

「私の取った措置は正しく当を得たものだったのだ。今日、ここでこうして復活したマサトを世に出すことが出来た。ただ、欠点はあるよ、うん。彼は4月10日までと、再生した十日前から今日までの記憶しかないんだ」

 チルドレンは全員呆気に取られた顔をしている。殊にハルカはあまりの事態に動揺しきっていた。マサトの再生は十日前だったと言った。とすれば、昨日チヒロに会った時には、マサトはもうこの世にあったのだ。おそらくチヒロはそれ以前にマサトと会っていたのでは? 考えてみれば、この頃チヒロは家にいないことが多かった。チヒロは私に隠し事をしたんだ。ハルカは胸に一抹の寂しさを覚えた。

 阿南の驚愕は徐々に静まり、頭の中を様々な思いが駆け巡っていた。何より捜査の行方が気がかりだった。博士はどう出るつもりなのか?

「さて、これでチヒロにマサトを返すことができる。完全とは言えないが、おまけしてもらおう。しかし、諸君。これだけでは十分ではない。チヒロは一度マサトが世を去ったことを覚えている。この事実は消えない。心の傷は残ったままだ。彼女の前に現れるマサトは以前のマサトではない。これは事実だ。このマサトをうまく受け入れられないことだってありうる。諸君はサイバーテック社のRM12シリーズのことを覚えているかね? 死者とそっくりのアンドロイドをオーダーメイドで製造販売した。一時ブームになったが、近年はずっと下火だ。その要因は、死者とそっくりの者に対する周囲の目、そしてユーザー自身の心の変化だ」

 おれのことを言っているのか! 阿南は博士に槍を投げつけられたような気分になった。この前、博士が彼に言ったことは、RM12シリーズの事前リサーチが元になったに違いない。

「段々時が経つにつれ、僅かな違いがユーザーには気になりだす。しまいには違和感で我慢ならなくなる。これが多くのユーザーに起こったことだ。チヒロの場合、私は試しに二人を会わせて、チヒロに感想を聞いたんだが、やはり以前のマサトではないことが彼女の不満になった。相変わらずマサトの死の場面が甦るそうだ。根本的にトラウマを解決するにはもっと思い切った手段が必要だった。それは何か」

 会場は水を打ったような静けさに包まれた。皆、常識を覆す天才科学者の能弁に引き込まれていた。

「彼女の記憶から、マサトの死以降の分を削除することである」

 どよめきが会議場一杯に拡がる。阿南は何か途轍もなく間違ったものを感じた。記憶とは、言わばその人そのものだ。これを改変するというのは、洗脳と変りがない。同じような感想はハルカも抱いた。そこまでするのは、自分というものを否定することではないのか。

「我々は昨日、チヒロの頭部を開き、必要な手術を施した。術式については、機密保持のためこの場では発表できない。これが彼女の手術に対する同意書だ」

 ベヒシュタインは手元から一枚の紙片を掲げて見せた。

「手術は、彼女が望んだのだ。何ならその時の音声を聞かせてもいい。その結果、チヒロはどうなったか。彼女は第128使徒戦、つまりマサトが死んだ日から先の記憶を失くした。これで、彼女の人生からマサトの死は削除された。忌まわしい思い出にさよならしたのだ」

 阿南は心の中で反駁していた。だが、どう繕っても事実は消えない。チヒロが真実を知る日がいつかやって来る。その時、彼女はどう反応するだろう。ベヒシュタインはまた水で喉を潤した。

「これで、後日チヒロは戦線に復帰できるだろう。私は技術部長として今回の成果に満足している。だが、この復活劇が真の成功を得るために皆に頼むことがある。それについては副司令から」

 ベヒシュタインは演壇を離れ、マサトと共にブーランジェ達が並ぶ奥の席に着いた。最前列にいた信時副司令が立ち上がり、階段を上がって演壇の前に立った。

「諸君、今聞いた通り、チヒロを完全に再生するため、諸君にやってもらうことがある。チヒロにはこれからあるストーリーを教えることになる。それはこうだ。

 第128使徒戦の推移は君らも良く知っていよう。あの時、使徒は糸にからめた8号機を首から丸呑みしようと襲い掛かったが、実際は間一髪防いだ。それを防げなかったことにする。首をもがれた8号機からの強烈なフィードバックがチヒロの脳を直撃した。その結果、チヒロは植物状態に陥った。何ヶ月もの間だ。それが奇跡的に回復したのが、今日というわけだ。当然第129使徒を知らんし、キヨミの死も知らん。

 そこで、諸君に厳命する。このストーリーから外れたことを、チヒロには一切言うな。その他記録を見せたり聞かせたりすることも禁止だ。文学的に言うなら、夢見るチヒロを起こすなということだ。

 チルドレン。そのパートナー。君らが最も気をつけなければならないぞ。滅多なことを口に出さないよう十分に気をつけろ。胸に叩き込んでおけ。いいな。特にマサトは責任重大だ。決して覚られぬよう細心の注意を払え。

 それから全員に言うが、このことは会議の終了後にプリントを渡すから、ここにいない者にも渡して全員に徹底すること。プリントは読後破棄すること。以上で私の下命を終わる」信時は踵を返して演壇を離れ、ステージから下りた。

 ハルカはこれでいいのかもしれないと思った。やっとチヒロはつらい記憶から開放され、再びエヴァに搭乗する機会を与えられるのだ。望みが叶うなら、一部の記憶なんか無くなっても構わない。そう、これは間違ってなんかいない。

 そこまで考えたハルカに一つのひらめきが生まれた。手術室に入る直前、チヒロの口から出た謝罪の言葉。その意味に思い当たったのだ。

 甘さと後ろめたさを含んだあの夜の記憶が甦った。それを知る者はハルカ一人だけになった。チヒロったら、あれをきれいさっぱり忘れちゃったんだ。あのときが、一番深く触れ合った瞬間だったのに。チヒロはそれを謝ったんだ。

 寂しさが胸に拡がり、唇を噛んだ。だが、そんなことは小さなことだと、自分を納得させた。チヒロ、謝る必要なんかないよ。あれは私の中にしっかりと刻んでおく、それだけで十分。

 会議は質疑応答に移った。阿南には捜査に携わるものとして、言いたいことが山ほどあった。質問を促す声に早速手を挙げたが、司会が指したのは阿南ではなかった。相沢が立ち上がった。

「保安部次長の相沢です。マサト事件を捜査する者として伺いたい。今後、事件の捜査はチヒロ中尉には分からない範囲で続行する、こう理解してよろしいか?」

 信時が立ち上がってマイクを取った。「そう理解してもらいたい」

「では、今後チヒロ中尉に証言を求められない、ということですね? 仮にあの子に確認したいことがあったとしても?」

「彼女からはもう十分調書を取ったはずだ。今さら新証言でもなかろう」

「それはどうでしょう。捜査の過程で新事実が浮かぶことがある。関連してあの子に訊きたいことが出てくるのは、起こり得ることです」

「それでもだ。いいかね、我々の組織はなんのためにある? 使徒を斃すことだ。そのためにはエヴァの運用こそが何よりも優先される。真実の発見は二の次なのだ」

「しかし、テロリストは未だに健在なのです。この前、スパイが何をやったか、お忘れではないでしょう。今回の措置は我々の捜査に対する足枷になりかねません」

「そこを工夫するのが君達の役割だ。私は捜査の手を弛めろとは言っていない。逆にこれまで以上に頑張れと言いたいのだ」

「捜査は鋭意進めております。了解しました。これからは村の中では出来る限りひっそりと、目立たぬようにやらせていただきましょう。ところで、確認しておきたいのですが、このことはこの場にいない総司令の承認を得ているのですね?」

 阿南はこの時気づいたが、総司令の姿が見えない。そう言えば阿南が総司令を目撃したのは、数えるほどしかなかった。

「その通りだ。総司令は所用があって今日は出席していないが、この作戦について全面的な承認を得ている」

 相沢は質問を終えて席に座り込んだ。薄くなった頭をしきりに掻いた。不満を持っていることは傍目にも明らかだった。司会が次の質問を促す。阿南は相沢が、自身言いたかったことを言ってくれたので、手を挙げるのは止めにした。上司が、おそらく保安部全員が持っただろう意見を述べてくれたことに満足を覚えた。

 

 

 チヒロはずっと天井を眺めていた。目が覚めてから30分以上経った。目覚めてすぐに看護師がやって来たが、チヒロの質問には答えず、後でベヒシュタイン博士が説明するから、大人しく寝ていろと言われた。頭に包帯が巻かれていたので、怪我でもしたのかと思った。自慢の髪が無くなったことが少し悲しい。随分長い間寝たような気分だ。ぼうっとした頭がだんだんと冴えてきて、自分に起きたことを思い出そうとした。

 第128使徒戦。朝だった。ハルカと並んでバスを待った。いつも通りの手順で搭乗、出撃。気味の悪い触手を一杯付けた使徒。そいつが急にこっちへ向かって来て−−

 そこから先の記憶が無かった。

 それから何があったか、全く思い出せない。ならばあったことは明らかだ。私、使徒にやられちゃったんだ。

 不思議と悔しさはなかった。

 使徒が強かっただけのことよ。他の誰かが仇を討ってくれたんだわ。フォースインパクトが起きていないのが何よりの証拠よ。でも、他のパイロットは無事だったのかしら。

 不安を覚えたチヒロは、看護師を呼んで話を聞きたくなった。ナースコールのボタンを押そうと腕を伸ばしたとき、広い病室のドアが開いた。ベヒシュタインが入って来た。

「やあ、チヒロ。やっと目覚めたね。お帰り。君が戻って来てくれて本当に嬉しいよ」博士はベッドの傍らに椅子を持ってきて座り、チヒロに微笑みかけた。

「博士、使徒、どうなったんですか?他のみんなは無事ですか?」

「使徒? ああ、そうか。128使徒のことを言っているんだね。ううむ。どう言ったらいいのか」博士は横を向いて考え込む振りをした。「...チヒロ、今日はな、10月3日なんだ」

 チヒロはえっと言ったきり、絶句して博士を見つめた。

「落ち着いて聞きなさい。エヴァ8号機はあの128使徒戦の際、頭を使徒に齧り取られた。君はあっという間に意識不明の重体に陥った。フィードバックが脳をめちゃめちゃにしたんだ。しかし幸運だったよ。通常なら即死しているからな。それ以来、君は植物状態になり、今日までずっと眠り続けた」

「眠ったまま...」チヒロは自分の身に起きたことが信じられなかった。その戦いが昨日のことのように思えた。

「128使徒はハルカの活躍があって、無事殲滅できた。次の使徒は8月10日に襲来した。この時は...。チヒロ、本当に悲しいことが起こった」

「一体なんですか?」

「キヨミが死んだ」

「先輩が!そんな...。先輩が死ぬなんて」チヒロは衝撃を受けて、悲しげに顔を歪めた。

「キヨミは今はもう霊廟で永遠の眠りについている。長い戦いから開放されたんだよ。動けるようになったらお参りしてやりなさい」

 チヒロは返事もせず、壁を眺めた。壁はディスプレイになっていて、セカンドインパクト以前ののどかな風景が何種類も映し出されている。

「君をその状態から救い出すのは骨が折れたよ。結局、ナノマシンの注入と電磁パルスの照射によって、意識を回復できたというわけだ。それは脳波によって確認した。君は今まで麻酔によって眠っていたのだ。ああ、ナノマシンはちゃんと回収したから安心しなさい」

 チヒロは相変わらず遠い目をしている。博士はチヒロがせっかくの説明を聞いている様子がないのが面白くなかった。しかし、無理もないだろうと思い、話題を変えた。

「気持ちは良く分かるよ。でも、いつまでも悲しみに浸っているのも良くない。明るく前向きに気分を変えんとな。そのために大事な者を呼んである。おおい、入んなさい」

 博士がドアの向こうに向かって声を掛けると、一人の青年が入って来た。チヒロの目が輝いた。

「あ、マサトだあ」

「チヒロ!」マサトは小走りにチヒロの傍にやって来た。チヒロは毛布の下から腕を出してマサトの頬に触った。

「良かった。チヒロ、4ヶ月も一人で寂しかったよ」

「ごめんね。心配させたのね。でも、また会えて良かった」

 二人は手を握りあい、見つめ合う。ベヒシュタインはここは退散するのが筋と思い、立ち上がった。

「まあ、ゆっくりしたまえ。何かあったら鮫島君に言うように」

 ベヒシュタインは二人を観察しながら外へ出た。チヒロは待ちかねたようにマサトを抱き寄せ、熱い接吻を交わした。

 その時、チヒロの体が奇妙な反応をした。目の奥が熱くなり、端から雫が零れたのだ。

 何これ? ひょっとして私、泣いてるの? 泣いたことなんかなかったのに。

 彼女の主観では初めての現象だった。人生初の涙を、今こうして体験している。かすかな疑問が胸の奥に芽生えたが、すぐにそんなことは向こうに追いやった。今は生還と愛人に再会できた幸福を味わうべき時なのだ。

 

 

 1時間ほどして、病室は集まったパイロットたちによって賑やかになった。新しいメンバーとしてシオリが加わっている。ハルカはその中心となり、態度にも落ち着きが備わってきている。マサトは一旦退室していた。

「先輩が戻ってきてくれてほんとに良かったです」

「チヒロ先輩がいてくれたら心強いですよね」

「私、前衛はまだ自信ないし」

 パイロットたちは口々にチヒロに話しかけ、チヒロは丁寧に答える。ハルカは静かにそんなチヒロを見つめる。

「それで、先輩、ハルカ先輩の肩章に気づきましたか?」ユキエがハルカを指して尋ねた。チヒロは改めてハルカの軍服に目をやる。肩章の線が一本増えていることに気づいた。

「あ。大尉になったんだね」

 ハルカは柔らかく微笑んで頷いた。

「ハルカ先輩、キヨミ先輩の跡をついでリーダーになったんですよ」

「ふうん。大尉どのかあ。もうタメ口利けないね」

「何言ってんの。気持ち悪いわよ」と、ハルカは軽くチヒロを睨んで答えた。

 ハルカは実際のところ、この欺瞞が暴露されることのないよう、受け答えに注意を払うために緊張し続けていた。それは他のパイロットも同様だったので、どこか会話にぎこちなさが漂っていた。

「シオリもパイロットになれたのね。おめでとう」

「ありがとうございます」

「初めての戦いはどうだった?」

「ええ、練習生だったのが、いきなり実戦ですから、何がなんだか分からなくて」

 チヒロはきょとん、とした顔をした。「練習生?」

 サヨコがシオリの足を踏んだ。シオリは発言に含まれた重大なミスに気づいた。「あ、あの...」

 パイロットたちは数瞬、氷のように固まった。

「シオリは最初の頃、私たちについてこれなくて『練習生』と呼ばれていたの」ハルカが沈黙を破ってフォローした。「仕方なかったわね。シオリは経験が少ないから。でも今は上達して、立派なパイロットよ」

「いえ、私なんかまだ、練習生に毛の生えたようなものです」シオリが汗をかきながら答えた。チヒロはようやく納得した顔をした。

「頑張ってね。てゆうか、私もしっかりしなきゃ。早くブランクを取り戻せるといいな」 

「先輩ならきっとすぐ元に戻りますよ」

 その後、面会は何事もなく進んだ。時間が来て看護師が病室に来た時、ハルカはほっとするものを感じた。チヒロは明るく手を振って皆にさよならをした。

 帰路についたハルカは疲労しきっていた。友との再会がこれほど緊張したものになるとは。それがこれから先も続くのだ。ずっとチヒロに嘘を言い続けるのだ。チヒロが謝ったのは、このことだったのかもと思った。ベヒシュタインの決断が正しかったのか、早くも疑問が湧いてきた。ともかく自分が苦しい立場に立たされたことは明白だった。

 

 

 この夜も阿南の帰宅は遅かった。疲れが重くのしかかっている。

 保安部、特に公安二課では会議続きの一日だった。マサト事件の捜査方針の変更で、やり方を練り直さなければならなかった。とにかくチヒロの前ではおおっぴらに捜査できない。余計なことに神経を使わなければならない。不満を言う者が多かったが、相沢がなだめ役に回り、皆不承不承従った。

 チヒロを復活させるために、ネオ・ネルフ全職員が欺瞞の渦に巻き込まれた。阿南はそのことにどうしようもないやるせなさを感じた。目的のためには手段を選ばない、それは正当なことだろう。しかし、真実を破棄してまで、なさねばならないことなのか。不満が肥大した阿南の心はささくれだっていた。

 阿南は玄関ドアを開け、「ただいま」と言って部屋に入った。ところがいつもの返事が返って来ない。不審を感じた阿南は廊下を静かに移動して、リビングの中をそっと覗く。

 シズコはマネキン人形のように静止していた。ソファに腰掛け、目を開けてはいるが、瞬き一つしない。阿南はしばらくその様子を眺めていたが、彼女は1ミリも動かなかった。

 おほん、と咳払いして阿南は告げた。「ただいま、シズコ」

 シズコは前触れもなく、急に動いた。「おかえりなさい。帰ってらしたのね」

 何の動揺も見せずシズコは立ち上がった。その様子を阿南は冷やかに見つめていた。

 シズコが機械であることを思い知らされる。ここにいるのはシズコとよく似た人形なのだ。リビングにあるテレビの延長線上にあるものだ。阿南は深い孤独を感じ、ため息を吐く。

 おそらく集音マイクの調子が落ちているのだ。思えば、ずっとメンテナンスに出していなかった。サイバーテック社からは何度も奨める手紙が来ていたが、阿南は忙しさからそれを放り出していた。また金がかかる。阿南は今度ばかりは仕方がないと思った。とりあえず機能を維持しなければ、彼自身の生活に支障が出かねない。

 食卓で新聞を広げながら夕食の出来上がりを待つ。暗いニュースばかりだ。やっと先日の第129使徒戦が記事になっていたが、キヨミについては1行も載っていない。楽々と使徒を退けたことになっている。使徒の形状の描写は大いにぼかされていて、勿論写真などない。

 シズコが夕食を運んできた。メインディッシュはヒレカツだ。シズコはいつものように向かい側に座った。阿南は無言で箸をつけた。

 つけ合わせのホワイトアスパラを口に入れた途端、彼は吐き出した。あまりに異様な味だった。

「どうしたの、あなた」シズコが心配そうに尋ねた。

「これ、腐ってる。ひどい味だ」

「ごめんなさい。別のものを出すわ」

 シズコは目の前の皿を取り、台所に引っ込もうとした。阿南は止めた。

「待て。これは、いつ買ったものだ?」

「先週。近くのスーパーで」

「瓶詰だな」

「ええ」

「その瓶を持って来い」

 シズコが瓶を持って戻った。阿南は瓶を取り、眺め回す。賞味期限を読み取った。『2082.4.5.』彼の中で爆発するものがあった。

「半年も前に賞味期限が来ている。ちゃんと見ないで買ったのか!?」

 阿南は怒りを込めて瓶をシズコに渡した。シズコは数字を確認して驚いた顔をした。

「まあ、私、ついうっかり...」

「うっかり亭主に腐ったものを食わせたか。売る方も売る方だが、買う方も買う方だ。そんなことは常識だろうが!」思わずテーブルを叩いた。

「ごめんなさい」

「食って見ろ」

「え?」シズコは戸惑いの顔を見せる。

「食って、どんなものを食わせたか確認しろ」

「あなた、それは出来ないわ」

「出来ないことがあるか。口に入れて味わうだけだ」

「無理よ」

「無理なもんか! 口に入れて、噛んで、舌に乗せて呑み込むんだ!」

「分かってるくせに!」

 遂にシズコは叫んだ。その顔は恐怖と悲しみが混じった複雑な形相を取った。

「あなた、お願い。壊さないで」

「早くしないか!」

「ああ、壊れる。壊れちゃう!」

「言うことを聞け、このロボットめ!!」

「あっ、だめ。あっ、あああああああっ!!」

 シズコは絶叫して両耳を覆い、恐怖に大きく目を開けながら天を見上げた。その瞬間、シズコは静止した。歪んだ顔が凍りついた。

 阿南が初めて見たシズコの感情だった。彼の怒りはどこかに消え、ただ恐れだけが充満していた。身動きもできず、つい先程までシズコだったものを見つめた。

 いきなり、ごく短い音楽が静寂を破った。驚愕した阿南の心臓が大きく打った。それはすぐに止み、続けて女性アナウンサーの声が流れる。それはシズコの中から聞こえて来る。

『弊社のRM12シリーズをご愛用頂き、誠にありがとうございます。お客様は只今、当アンドロイドに対して過大なストレスをおかけになりました。その結果、緊急停止状態に陥っております。つきましては、応急措置としてリセットなさることをお勧めいたします。万一リセットによっても再起動しない場合は弊社サービスセンターへご連絡ください。リセットなさいますか?なさる場合はイエス、なさらない場合はノーと仰ってください。何も答えがない場合は15秒後に再度ご案内いたします。では、どうぞ』

 部屋は再び静寂に戻った。阿南は額に汗をかきながら、唾でからからに乾いた喉を潤した。

「イエス」しわがれ声で阿南は言った。

 阿南は時が止まったかのようなシズコを見つめた。死の恐怖に怯える女の姿など、一刻も早く終わりにしてほしかった。額に汗を浮かべてじりじりしながらシズコの反応を待った。

 シズコの顔からふっと表情が消えた。両手がゆっくりと動き、視線が宙を彷徨う。何かを必死に考える様子だ。阿南は声をかけるのをためらった。するうち、やっと視線が阿南に停まる。柔らかい声が口をついて出る。

「あなた。私、どうしたの?記憶が飛んでる」

「すまない。ぼくが悪かった」

 もはや相手が何かは関係がなかった。自然に謝罪の言葉を口にした。

「そうですか。再起動したんですね。私、あなたを怒らせるようなことをしたんですか?」

「いや、君は悪くない。僕のせいだ。昼間、ちょっとしたことがあって、いらいらしていたんだ」

「そうなんですか」シズコは黙って考え込み、やがて言った。「あなた、私が不満なんじゃないですか?」

 阿南はどきりとする。アンドロイドがこんな問いをするとは思ってもいなかった。

「いや、そうじゃない」

「そうでしょうか?私、あなたが時々すごく不機嫌になるのを知っています。買っていただいてすぐの頃は、そうじゃありませんでした。オリジナルのシズコさんと違うからですか? でも、それは私の責任ではありません」

「そうとも。君は良くやってる」

「この頃のアンドロイドはずっと進化しています。買い換えるのはいかがですか? 私を下取りにすれば、お安く手に入りますよ」

「ちょっと待て」阿南はシズコが予想外のことを言い始めたので、混乱をきたした。「その、なんだ。下取りって、軽く言うな。そうなったら君はどうなる?」

「私のボディは顔を調整されて中古市場に出るでしょう。パーソナルは完全に消去されます」

「君はそれでもいいのか?」

「良くはありません。私たちにも生存本能とでも言うべきプログラムはあります。でも、あなたが私を憎んでいるのに、一緒にいるのはもっと苦痛です」

 阿南は呆気に取られて言葉が出なくなった。驚くなかれ、アンドロイドから別れ話を持ち出されている。シズコは阿南の心情に気づいていたのだ。間がもたなくなった彼は、冷たくなったご飯に手を付けた。シズコはじっと阿南を見つめている。その顔には普段の優しさが表れていない。とりあえず今はじっくり考える時間がほしい。

「今夜はもうその話はやめよう。落ち着いてじっくり考えたい。いいね? それから、さっきは本当にすまなかった」

「分かりました。それで、何がきっかけになりましたの?」

「大したことじゃない。忘れてしまおう。それより早くめしを食ってしまって寝ることにする」

 手早く夕食を掻き込んでいく阿南を、シズコはじっと眺めている。その頭の中でどんな計算がなされているか、彼には想像もつかない。ただ、いつものように微かに微笑んでいるのを見て、ほっとするものを感じた。

 頭が異常に冴えてしまい眠れない阿南は、布団に横たわりながら天井を見つめ、考え込んでいた。隣ではスリープモードに入ったシズコが、寝返りもせず静止している。

 阿南は彼の手を離れ、去っていくシズコを想像してみる。

 淡々としているのだろうか。それとも、悲しみに打ちひしがれているだろうか。多分、その両方だろうと、阿南は思った。心の痛みを感じる。おれはこのシズコに、まだ未練を持っている。

 あれほどの感情を内部に秘めているとは思いもしなかった。精巧なプログラムに導かれての擬態だと、切って捨てることは容易い。しかし彼にはそれが出来なかった。彼が見たのは確かに恐怖という現象だった。あの時の彼は正しく暴力行使者だった。そして彼が今も感じる後悔の念は真のものだ。つまり、あの出来事に嘘はなかった。

 そこまで考えを深めた阿南に、天啓が訪れた。

 おれから見れば、人がおれにする態度も、シズコがおれにする態度も区別はない。いや、おれが見るものすべては、一つの『現象』としてくくれるんじゃないか。

 詰まるところ、おれの主観の問題なのだ。現象だけ取り出してみれば、シズコは比類のない『女』だ。その本質が何かは二次的な問題じゃないのか? 生きていた頃のシズコとの差がおれの不満になった。ならばあの『シズコ』とここにいる『シズコ』を切り離したらどうだ? 再起動を果たして生まれ変わった別人として見たらどうだ? おれの前でシズコは二度死んだ。

 阿南の中で明日からの指針が生まれた。シズコとはまた別の関係を築けるかもしれない。ようやく阿南は澄んだ心境に至り、眠ろうと目を閉じた。今度の休みにはメンテナンスに連れて行ってやろう。そんなことを考えるうちに眠りに落ちていった。

 

 

 マサコは無言でブラジャーのホックを止めた。後ろでは信時副司令が、寝乱れたベッドの上で天井を見上げながら、煙草をふかしている。

 信時はかなり以前に妻を亡くしていた。二人の子は既に独立している。この家に住むのは彼とメイド・アンドロイドだけだ。そのアンドロイドはとっくにスリープモードに入っていて、マサコの存在すら知らない。

 すっかり身繕いを終えたマサコは振り返って静かに告げた。「帰ります」

 信時は「ご苦労」とだけ言い、煙草の灰を灰皿に落とした。

 マサコは足早に副司令公邸の外に出た。ジオフロントは夜であった。人工の照明だけがこの世界にある光だった。マサコは堂々と夜の道を歩いた。この時間帯、この辺りを警邏する者はなく、監視カメラも作動していない。それが誰の配慮かは言うまでもない。しばらく進むと、戦闘機の格納庫群がある。マサコはその建物と建物の間の狭い路地に身を滑り込ませた。格納庫の裏側は人一人がやっと進めるだけの隙間しかない。そこを懐中電灯を頼りにマサコは進んでいく。しばらく行くと広い道にぶつかった。そこでマサコは懐中電灯を消し、建物の陰から、斜め前方にある監視カメラに目をやった。前方には森が広がっている。監視カメラが弧を描いて動く。マサコは死角に入った一瞬を捉えて走った。

 森の中に突っ込んだマサコは正規の道を外れて歩いた。ここでは懐中電灯は欠かせない。下生えは殆どないので歩くのに支障はなかった。これほど奥まった位置を進めば、誰とも出会うことはないはずだった。警備員が巡回する時間帯も把握している。

「まずは格納庫の裏」

 突然、男の声が掛かり、マサコは心臓が止まりそうになった。

「監視カメラは死角を突いて、森に真っ直ぐ突っ込む」

 足を止めたマサコの前に現れたのは、自分の周囲を嗅ぎまわった男、阿南だった。ジャンバー姿の彼は、懐中電灯の光をマサコに浴びせた。

「お待ちしてました。マサコさん」

「阿南さん...」

 マサコは顔面蒼白になりながら、近寄る阿南を見つめた。

「まあそう深刻な顔をしないで。あなたをマサト事件の容疑者だと思っていませんから。立ち話もなんなんで、そこに座りませんか」

 阿南は傍にある倒木を示した。マサコは唾を飲み込み考えていたが、やむなく従った。暗い森の中、たった二本の懐中電灯に照らされた男女が、間近に相見えている。

「まず、僕が知っていることをいいましょう。あなたは夜な夜な出歩いては、副司令の公邸に出向いていますね。あの事件があった夜にも出かけた。副司令と何をしていたか、そこまで今は言いたくない。教えてください。何故こんな事をやっているんですか?」

「どうして分かったんですか?」

 マサコは俯いて哀れな風情を見せている。懐中電灯の光の中、阿南には目を合わそうとしない。

「何がきっかけになったかは、とうにご存知でしょ。後はやる気になれば簡単なことです。あなたの靴に発信機を着けさせてもらいました」

 マサコの大きな目が阿南を見据えた。「そんな事して! 私の捜査は打ち切りになったのに!」

「ほう、なぜそんな事を知っているんですか?発表したわけでもないのに」

 言葉に詰まったマサコはまた俯いてしまった。阿南は追求を続ける。

「僕は上司の言うことを聞かないダメ人間なんですよ。マサコさん、あなた、先週も副司令の下に忍んで行きましたね。発信機のおかげで行き先は簡単に分かりました。監視カメラを避けるやり方も掴めた。マサコさん。僕はショックを受けましたよ。他のチルドレンが命懸けで戦っているのに、あなただけは大人のアバンチュールを楽しんでいる。ちゃんとパートナーがいるのに!」

「ちがいます...」

 マサコの目から涙が零れた。「楽しんでなんか...」

 すすり上げながら黙り込んだマサコに、阿南は迫った。

「マサコさん。この際全部告白してください。そして僕を納得させてほしい。でなければ、僕はこの先どう動くか分からない」

「脅かすんですか」

「そう取ってくれて結構」

「分かりました」マサコは背筋を伸ばして、前を見つめながら告白を始めた。

「私が練習生でいるためには仕方なかったんです。ある時、私が退役させられそうだって、オペレーターたちが噂話をしているのを聞いて...。ベヒシュタイン博士に何とか残してほしいと頼みに行ったら、副司令に直談判しろって。それで、私、副司令に会ったんです。そしたら...、条件を持ち出されて...」

 またマサコは言葉に詰まり、ハンカチで顔を押さえた。阿南は声も掛けられず、落ち着くのを待つしかなかった。やがてマサコは顔を拭い、洟をかんで告白を続けた。

「...ごめんなさい。それから副司令から時々呼び出されては、こうして通っているんです。馬鹿な女とお思いでしょ」

「タダオさんは承知の上?」

「ええ。彼にはすまないと思いますけど、彼、全面的に許してくれています」

 やはり人間とは違うのか。阿南はアンドロイドの思考形態について興味を抱いた。そして、ベヒシュタインもこのことを知っているのではないかと思った。副司令と博士は裏で結託しているのでは?

「副司令からはどう指示がくるんですか?」

「携帯にメールで」

「まだ保存してある?」

「ええ。最近のは」

 携帯を押さえれば証拠を握れるな、と阿南は一瞬で策を立てた。それを実行するかは未定だが。兎に角、これで副司令の急所を握ることができた。これがいつか役に立つこともあるだろう。

 訊き取るべきことは訊いた。コトミの顔が浮かんだ。後は小さな姫の悩みをどう取り除くか。

「マサコさん、あなた方チルドレンは不思議な生き物ですね。驚くほどエヴァに乗り、戦うことを切望している」

「だって私たちはそのために造られたんですよ。贅沢もさせてもらっています。私たちの義務だと思っています」

「ですが、マサコさん。今あなたがやっていることだって、十分大事だし、立派なことだと思いますよ」

「保母なんか、大した仕事じゃありません」

「それは違う!」阿南の言葉は熱を帯びてきた。「いいですか。チルドレンは親を持たない。人の手によって造り出され、人の間に投げ出された。生来孤独な存在なんだ。パートナーはその隙間を埋める存在だが、それだけじゃ不十分だ。母親の代わりが必要なんだ。それがあなたの役割なんですよ。

 僕は何人ものチルドレンにインタビューしました。あなたのことを悪く言うチルドレンは一人もいなかった。一人もですよ! みんながあなたを慕い、大きくなっていったんだ。人間の保母では無理だったことを、あなたはやってきたんだ。もっと自分の役割に誇りを持っていいんですよ」

 マサコは瞬きもせず阿南を見つめた。「そうなんでしょうか?」

「そうですとも。一つ事実をお教えしましょう。あなたにとってつらい事柄ですから、落ち着いて聞いてください。僕は技術部に問い合わせて、あなたのシンクロテストの結果を調べてみました。そうしたら、どう回答がきたと思います? 1年前から記録なし、です」

「なんですって!」マサコは信じられず、阿南に言い返した。「そんなはずないです。テストは他のチルドレンと同じに受けているのに」

「僕もその辺をあるオペレーターに問い合わせました。なかなか白状しなかったが、やっと吐かせました。あなたの受けているテストは形だけのものです。とっくの昔に可能性は無くなっていたんだ。嘘だと思うなら、公式記録を見せてもらってください」

「そんな...。じゃ、私、なんのために...」マサコの言葉は続かず、嗚咽が口をついて出た。両手に顔を埋めて泣き出した。阿南は掛ける言葉を失い、泣き続けるマサコを見守った。天蓋に光るライトの数を数えながら、辛抱強く泣き止むのを待った。

 長い時間が過ぎ、ようやく啜り上げるだけになったマサコは、無理やり笑って阿南を見た。

「ごめんなさい。私って泣き虫ですよね。チルドレンってほんとは滅多に泣かないんですよ。これだけでも、私がダメってことは分かりますよね。ああ、私もうどうしたらいいか分かんない」

「もうパイロットに執着するのはおやめなさい。あなたはパイロットにならなくていい。保母だって凄く価値のある仕事なんだ」

 マサコの態度に変化が起こった。遠くを見る目をして、内面の何かを掴もうとするかのようだ。

「私はパイロットにならなくてもいい?」

「ええ。僕が奨めるのは、自分から退役を申し出ることです。副司令が四の五の言うようだったら、メールの記録をちらつかせればいい。国連本部に訴え出たら、副司令も相当なダメージを蒙るでしょう」

 マサコは相変わらず身じろぎもせぬまま前を見続けている。その様子が気になった阿南は声を掛ける。

「マサコさん?」

「パイロットにならなくてもいい...パイロットだけが人生じゃない...パイロットになれなくても...阿南さん!」

 突然目を輝かせたマサコは、体を捻って阿南に向き直った。喜びに、口元がすっかり緩んでいた。

「私、パイロットにならなくたっていいんですよね。私にも価値はあるんですよね」

 あまりの変化に阿南は戸惑う。「...ええ、そりゃもう、絶対そうです」

「阿南さん、私、決心しました。阿南さんの言うとおりにします」

「そうですか。良かった」阿南は心の底からうれしく思った。すべてはいい方向に進んだらしい。コトミも満足してくれるだろう。会心の笑みが浮かんだ。

「さあ、夜も更けた。帰りませんか」

 阿南は立ち上がり、マサコに手を差し伸べた。マサコの細い手が阿南のがっしりとした手に乗った。暖かい手だった。

 二人は虫の鳴き声を聞きながら夜の森を歩いた。マサコと阿南はすっかり親しげに言葉を交わしていた。

「さっき、阿南さんがならなくていいって言ったとき、とても不思議な感じがしました。私の中で固く固く凝り固まっていたものが、緩まってだんだん融けていく、そんな感じがしたんです。あれってなんだったんでしょう」

 阿南は頭を掻きながら考えたが、確たる答えは出なかった。「ううむ。何でしょうねえ」

「魔法の言葉みたい。悪い魔法使いが掛けた呪いを解くための呪文、みたいな」

「悪い魔法使いねえ。ネオ・ネルフの比喩として面白い」

「あら、そんなつもりで言ったんじゃないです。悪く言っちゃダメですよ」

 二人は朗らかに笑いあう。するうち、養成所の建物の影が前方に見え始めた。そのころになるとマサコの口は重くなった。別のことを考えているようだ。阿南はマサコの変化が気になったが黙っていた。建物の裏側にあたる壁が薄明かりの中に見えた。別れを告げるべき時だ。

「では、マサコさん。これでお別れです。コトミによろしく言ってください。あの子、遂にあなたの秘密を教えてくれませんでした。あなたの行為を止めさせたかったが、同時にあなたに告発者として憎まれたくなかったんですね。あの子を叱らないでください。みんな、あなたのためを思ってやったことなんですから」

「勿論、叱ったりしません。あの子には感謝しています」

「靴の裏に発信機がついています。返してくれますか?」

 阿南はマサコが履く右の靴を指した。マサコがそれを脱ぎ、裏側を見ると、土踏まずの部分に直径1cmほどの丸い物がついている。指先で引っ張るだけで簡単に取れた。マサコは阿南を軽く睨み、彼の掌にそれを乗せた。阿南はにやりと笑った。

「では、これで。お休みなさい」

 阿南は踵を返して去ろうとする。途端にマサコの声が掛かった。「待ってください、阿南さん!」

 振り返った阿南が見たマサコの顔は、ひどく真剣なものだった。

「私、阿南さんに謝らなきゃならないことがあります。聞いてください」

 只事ではないと思いつつ、一歩近づいた。「一体、なんです?」

「私、今日まで秘密にしてきました。あのことを喋ったら、副司令のことも明るみに出てしまうと思って。でも、もう言うことにします」

「それは?」

「事件のあったあの日、私、見たんです。犯人らしき男を!」

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