リリスの子ら
間部瀬博士
第10話
『今日は何を聞きたいの?』
小部屋の天井近くに据えられたスピーカーから、MIROKUの若やいだ娘の声が聞こえて来る。その場にいるのは僅か3人。信時、ベヒシュタインにブーランジェである。MIROKUの目であるカメラが三人を見回す。ガラスの向こうのMIROKU本体には、どこか見る者を畏怖せしめる佇まいがある。
信時が口を開いた。「第130使徒による第四新東京市の失陥。これにどう対処すべきか」
第四新東京市はネオ・ネルフの地上における最大の拠点であった。電力や食料、生活物資など、多くをこの都市経由で調達していた。それらを支えるインフラが破壊された現在の状況は、片肺を失ったも同然なのである。
ベヒシュタインの好みにしたがって18才の乙女になったMIROKUは、感情を交えずに答えた。
『ジオフロントの維持こそが人類最大の課題よ。物資の補給を途切れさせてはだめ。集積地を新たに設けなくてはね。新横須賀あたりがいいでしょう』
「あそこは国連軍の管轄だが」
『何言ってるの。撤退させてでも、ネオ・ネルフが使うべきだわ』
「そう簡単にはいかないぞ」
『安保理決議がいるという訳ね。手続きとしてやむをえないでしょう。ここは日本国政府に頑張ってもらわなくちゃ。西園寺終身大統領に話をつけて』
「早速アポを取る」
『垂直離着陸型輸送機も大量にいるわよ。あそことジオフロントの間をピストン輸送させるの。あと10機はほしいわね』
「モスクワに5機、北京に3機、ベルリンに4機あったはずだ。国連が接収するように動くよ」
『そうして。とにかく鉄道、自動車道共に使えない現状では空輸に頼るしかないわ。陸の孤島の辛いところね』
「エネルギー問題も深刻だ。現在、外部からの供給は2系統にとどまる」
ジオフロントへの主たる電力供給は、第四新東京市を貫く送電線に依っていた。それが今回の奇襲攻撃で12本にも及ぶ鉄塔を失い、寸断されたのだ。現時点では復旧の見込みすら立っていなかった。
『最優先の問題よ。おかげで陽電子砲は運用できないじゃない。いざと言うとき困るわ』
「ところが市当局は民生優先を訴えている」
『我々の敗北は人類の敗北と同義よ。本末転倒だわ。その辺、国連上層部にも認識してもらわなくちゃ。飢餓、貧困、そんな問題はジオフロントの維持に比べれば、ものの数じゃないわよ。国連事務局に特使を派遣して、資金の増額を訴えて』
「手配しよう。問題は物資やインフラにとどまらない。人の問題もやっかいだ」
『死亡240名、重軽傷者321名。小さくない数字だわ。当面はやりくりしてしのぐしかないわね。だからあたし、職員は全員ジオフロントに住むべきだと言ってきたのよ』
重要拠点である第四新東京市には、そこで働く職員も数多くいた。家族も含めると相当な人数になる。阿南のように家は同市にあり、ジオフロントに通勤する形を取る者が全職員の半数近くに上るために、実に38パーセントの職員が、何らかの物的・人的被害を受けていた。
「ここは住みごこちがいいとは言えないからな。市当局から難民受け入れの要請が来ているが」
『絶対だめ。ただでさえスパイ摘発に苦労してるのに、他所から人を入れられますか』
「同感だ。しかし、救援物資の提供、人的・物的支援までは拒みきれん。我々は単独で生きているわけではないからな」
『政治的妥協ね。まあ、仕方ないでしょう』
「次に使徒だが、戦略の大転換を遂げたと思われる。これについては?」
『最早決定的なのは、使徒が互いに連携を取りつつ動いているということ。いくつもの局面を作り出し、最終目標に到達しようとしている』
「今後どう動くだろう?」
『まず考えられるのは日本国内の都市をかたっぱしから攻撃すること。最有力は第二新東京市。あそこを陥とせば日本は正常に機能しなくなるわ。ひいてはネオ・ネルフも計り知れない打撃を蒙ることになる。電力、食料、生活物資、その他、ジオフロントは日本国に多くを負っているのよ』
「日本の壊滅はネオ・ネルフの壊滅と同義か」
信時は背筋にぞくりと寒気を感じた。この部屋の寒さのせいばかりではない。
『必ずそうなるとばかりは言えないわね』
「と、言うと?」
『裏をかいて一挙に大攻勢をかけるということもあり得るわ』
「混乱した今が好機ということだな」
『じわじわと攻めるか、一気に決着をつけに来るか。あたしは前者と見る』
「根拠は?」
『使徒には時間がある。百年かけても、ただ一度勝ちを得ればそれでいいから。でも人の命は有限。最初から人類はハンデを負っているのよ』
「ハンデと言えば、敵はどこで生まれ、どうやって襲来するのかも分からない。百年近くも研究をしてきたが、判明したことはごく僅かだ。人類はエヴァによってひたすら守るだけだ。ひどい責め苦だな。終わりというものがまったく見えない」
『気弱なことを言わないで。我々にはC計画という希望の灯火がある。ベヒシュタイン博士、MONJYUの完成はいつごろ?』
博士は自信のこもった蒼い瞳を上げて、カメラを見つめた。
「ソフト、ハードともに用意は万全だ。後はネットワークの構築を待つだけだ」
カメラがつい、と動き、ブーランジェ博士を正面から捉えた。
『ブーランジェ博士?』
「チルドレンの数は揃っているわ。後3週間で完成に漕ぎ付けられる予定よ」
気のせいかMIROKUの筐体がかすかに震えたように見えた。あるいは喜んでいるのかもしれない、と彼女は思った。
『重力波発生装置は配備を終えたわ。どうやら間に合ったと言えそうね。リリスはさぞ驚くでしょう。あの地下のあばずれ、どんな顔をするやら』
MIROKUの声に明らかな喜びを感じ取り、三人とも揃って笑みを浮かべた。
『我々に勝ち目はある。だから副司令もしゃんとして。大体あなた、睡眠時間が短すぎよ』
図星をつかれて信時はぎくりとした。同時に疑問が湧き上がる。
「ご心配痛み入る。しかし、どうしてそんなことが分かるんだ?」
『あなたのここ十日間の日程、現在顔に現われている特長、特に目。これらを総合すれば容易に判定できるわ』
信時は感嘆する他なかった。BOSATSUシステムの能力の一端を改めて知った。
『ところで、別の話なんだけど』
MIROKUから話題を持ちかけるのは滅多になく、ベヒシュタインは奇妙に思った。
『あなたたちに訊きたい。答えられなくてもいいわ。ちょっと変った質問だから』
「なんだろう。分かる範囲でお答えしよう」と、ベヒシュタインが興味津々で答えた。
『精神は肉体、あるいはLCLの外でも存続しうるか?』
「え?」
博士はあまりに突拍子な質問に戸惑った。後の二人も怪訝そうな顔をした。
「つまり、幽霊は実在するか、ということを訊きたいわけ?」と、ブーランジェ博士が苦笑いを浮かべて訊き返した。
『簡単に言うとそうね』
「いないね」信時が即答した。「そんなものがいるとはとても思えん。幽霊の存在を示す証拠などない。心霊写真なんぞどれもデタラメだ」
『それが常識。でも今はそれが通じない世の中よ。使徒がいい見本。誰か幽霊を研究してる人を知らない?』
ベヒシュタインが答えた。「超心理学はとっくに廃れ、形而上生物学に席を譲った。学問として研究をしてる者はもういない」
『やはりね。仕方がない。ネットで検索してみるわ。過去の文献に当ってみる』
ブーランジェは訳が分からなかった。「不思議だわ。なぜそんなことを訊くのかしら?」
『最近興味深い事例があったわ。あたしはどうでもいいんだけど、KANZEONが興味を持ってる。HUGENは中間てとこ』
信時はようやくMIROKUの質問の意味が分かった。「鉄道トンネルの一件かね。監視カメラにぼんやりと少女の姿が映っていたという。直後に本部にメールが届いた。人が倒れているから助け出せと」
『誰もいないはずなのにね』
こちら側の三人は一様に怖気を振るった。特にブーランジェは顔色をすっかり失っていた。
リアリストのベヒシュタインは科学者らしく、霊魂の仕業などという答えに落ち着けたくはなかった。合理的な説明はいくらでも付けられるはずだし、この世の全ては物理学によって説明できるという信念があった。
「実に不思議な話だ。しかし、幽霊が人を助けたとは到底思えん。必ずやった人間が見つかるはずだ。私としては君に幽霊の探求などと言う暇つぶしをしてほしくない。そもそも幽霊にメールが打てるだろうか?」
『第17使徒に興味深い事例があるわよ。彼、ヘブンズドアの電子ロックを、いともたやすく解除したわ。他にも使徒と電子機器の相性の良さを物語る事例がある』
信時が気色ばんだ。「まさか、未知の使徒が侵入していると言うのか?」
『その可能性はないわ。似てはいるけど、全く別の性質を持つ者よ』
ベヒシュタインが眉を顰めて言った。「待ってくれ。論理が飛躍しすぎているぞ。君らしくもない」
『ごもっとも。でも、あたし、今度の件だけじゃなく、他にもいろいろと感じることがあるの』
「何をだ?」
『説明のつかない何かがこのジオフロントを徘徊している。それはごく僅かな感じだけど。勿論ヒトじゃない。使徒でもない。あたし、そのことがどうも気になるわ』
「ヒトでも使徒でもない存在か」
「おお、気味の悪い」ブーランジェは自分の胸を抱いて震えて見せた。
『肉体を持たない者。我々の常識を根底から覆す存在。それはヒトの味方か、そうでないか。あたしたちはまた新たな謎を抱えたというわけ』
制御室は沈黙に支配された。様々な仮説がそれぞれの頭の中を駆け巡る。みな新たに提示された謎の深みに沈みこんでいた。
阿南は鼻に挿入された酸素吸入器をそっと撫でた。
意識を回復して30分が経ち、自分が今いる病室の環境に慣れ始めていた。窓から差し込んでくる光は、確かにジオフロントの散光塔からのものだ。壁の時計を見ると午後3時過ぎだった。個室とは贅沢だな、と思った。右手の人差し指にはギブスが嵌められ、掌は包帯でぐるぐる巻きにされているので、自分の手ではないみたいだ。痛みがないのが嬉しい。医師には許可するまで動くなと言われた。体のあちこちに点滴の針やら、電極やらがくっついているので、当然だろう。医師は何も情報をくれなかった。しばらく安静にしていろと言っただけだった。
看護婦が体温計を見て、カルテに書き込みをしている。あまりに美人なので、アンドロイドかと訊くと、あっさりそうだと答えた。今日は11月10日だと教えてくれた。あの使徒戦の日から3日経ったことになる。意識が回復したのは幸運だったとも言われた。
枕元のチェストに花束が生けてある。色とりどりの大輪の花が阿南の目を楽しませた。その横には慎ましく鉢に入った、一輪の黄色いチューリップが置いてあった。そのことを看護婦に訊くと、昨日の午後、二人のチルドレンが持ってきたと言う。
「一人は大人びて、もう一人はまだほんの子供でした。面会謝絶だったので、そう言うと、残念そうにして帰りました。お花はお預かりしてここに飾りましたの。チューリップが小さい子のです」
マサコとコトミが来てくれた。阿南の口元は自然に綻んだ。
「カードを置いていきました。ご覧になる?」
「ああ、是非見たい」
喜ぶ阿南に、看護婦はチェストの引き出しから、二枚のピンク色をしたカードを取り出し、左手に持たせた。
一枚には整った女文字で、『どうか元通り元気になって、お顔を見せてください。一日も早く快復しますようお祈りしております マサコ』とある。もう一枚には、『はやくげんきになってね コトミ』と、いささかぎくしゃくした字が大書してあった。コトミはまだ字が苦手のようだ。
なんとも言えないいい気分に包まれながら、阿南は二枚のカードをつまみ、花を見つめた。ようやく死線を越えた喜びが湧き上がってきた。諦めず頑張った甲斐があった。こうしてこの世に生きるのは素晴らしい。
病室のドアをノックする音がした。「どうぞ」と言うと同時にドアが開いた。相沢次長の姿があった。
「よう阿南。意識が戻ったな。良かったー」
相沢は満面の笑みを浮かべて入って来た。もちろん阿南も嬉しかった。「次長。また会えましたね」
体を起こそうとする阿南を、相沢は止めた。「ああ、いいから、いいから。無理するな。横になってろ」阿南はその言葉に甘えて、元の姿勢に戻した。
「いや、本当に良かった。お前が死んだら大変だからな」
「その時は次長がなんとかしますって」
「馬鹿こけ。この年で、そんなに働けるか」
看護婦は出て行った。相沢はベッドの横に腰掛け、親密に話を始めた。何度も真剣な顔つきで良かった、良かったと言った。阿南は他人がこれほど自分の心配をしてくれたことが、心底嬉しかった。
そろそろ頃合と思い、阿南は真面目な顔で尋ねた。「で、あの使徒戦の結果はどうなりましたか?」
相沢の表情はさすがに沈痛なものになった。「使徒は8号機が葬った。死体はまだ放置されたままだ。次に第四はどうなったか。痛ましさの極みだ。あの使徒によって市街地の42パーセントが消滅した。中には鉄道、自動車道路、軍事施設、武器弾薬など、ネオ・ネルフにとって重要な資源とインフラが含まれる。本部ビル、保安部の支所も今はない。人的被害も甚大だ。実に2万人が命を落とした」
「2万人も!」阿南は第四新東京市を襲った惨禍の凄まじさに、息が止まるような衝撃を覚えた。
「ああ。正確な数はまだ分からん。もっと増えるのは間違いない。シェルターは本来、核爆発の被害を避けるために設計されている。溶解液なんぞ想定してないんだ。入り口は溶解液によってあっさりと溶け、中にいた人々は溶かされるか、有毒ガスを吸って死に至った。旧東京都以来の悲劇だ」
阿南はごくりと唾を呑んだ。「シズコは生きているんですか?僕のマンションはどうなりました?」
「阿南、落ち着いて聞くんだ」相沢は同情の篭った目で阿南を見た。「君が失踪した次の日、部員を君のマンションへやった。するとどうだ。中はめちゃくちゃに荒らされていた。そこらじゅうにあらゆるものが散乱していたよ。その中で部員は見た。女が横たわっていたんだ」
阿南は絶句して、視線を彷徨わせた。彼を支えている大地が、急に不確かなものになったような感覚を覚えた。相沢も沈黙した。視線を外したまま、阿南は震える声で尋ねた。
「首はどうです?残っていましたか?」
相沢はゆっくりと首を横に振り、ため息をついた。「切断されて無くなっていた。マンションは溶けてしまって、もうない」
阿南の目から涙が滴り落ちた。茫然として目も空ろな彼を見た相沢は、いたたまれぬ思いに包まれた。立ち上がり、阿南の肩を叩きながら告げた。
「気を落とすな。また来るよ。奥さんのご冥福を祈る」
あえて人間同様に言うのが相沢の優しさだった。相沢は静かに出口に向って歩いた。阿南は一言も口に出さなかった。
翌日の昼過ぎ、再び相沢がやって来た。今回は草鹿も一緒だ。阿南はパジャマ姿で寝そべっていたところだった。経過は順調だったので、かなりの行動の自由を得ていた。
「ああ、楽にしててくれ。もう立てるのか」
「ええ、元気です。もう大丈夫」
「課長、ご無事でなにより。いやぁ、うれしいなあ」
阿南の態度には、平静さの奥になにか陰のようなものが感じられ、相沢は憐れみを新たにした。
相沢の家はジオフロント内にある社宅だった。妻と息子たちは盛んに第四への転居を言い立てたが、相沢は同意しなかった。彼はその選択が結果として正しかったことに喜びを感じていた。
「大分痩せたな。おれもあやかりたいところだ」と言って、相沢は太い腹を撫でた。「ま、ゆっくり養生してくれ。保安部は君を頼りにしてる」
「すごい活躍でしたねえ。やっぱり課長は凄い。心から尊敬します」
草鹿の口調は明るい。阿南を元気づけようと配慮しているのだろう。阿南はよせやい、と言って苦笑いをした。
阿南と相沢に草鹿を加えた三人は、前日の話の続きを始めた。
「美濃浦や真柄たちの消息は掴めませんか?」
「皆目。それどころじゃないんだよ。今回の事件の後始末で精一杯なんだ。救援活動もしなくちゃならん。保安部も大被害を受けた。実に13人が死亡だ。公安2課では、山岸君、渡辺君、沢渡君が犠牲になった」
「そんなに...」阿南は暗い気分に落ち込んだ。死んだ部下たちの顔が脳裏に浮かんだ。
相沢自身、悔やんでも悔やみ切れない顛末だった。あの時、美濃浦逮捕のためにシェルターから18人が市街に戻り、そのうち5人が犠牲になった。功をあせって部員の安全をおろそかにしたことになる。阿南を保護するための最小限の人数にとどめるべきではなかったのか。そうした後悔が相沢を悩ませ、ここ3日間、眠れぬ夜を過ごしていた。
「組織を元に戻すのにどれほど時間がかかるか。他の部署も死者が多い。兎に角ネオ・ネルフは非常事態にある。ま、今はあいつらが溶けてしまったことを祈ろう」
「今は第四の復旧が最優先課題になっています。ジオフロントからも大勢駆り出されてます。だから、いつものここに比べて静かなもんですよ」と、草鹿が言った。
「他のみんなは無事なんですね?」
「重傷者6、軽傷者15。いずれもガスを吸ってのものだ。職場復帰した者も多い」
「草鹿君はどこにいた?」
「あのアジトに自転車で向っているところでした。青木平5丁目あたりで避難の指示が出て、後は逃げ回ってましたよ。僕がいたシェルターは全滅しました。外に出た僕だけが助かったんです。ただ、風向きの具合によってはガスを吸う危険性がありました。運が良かったんですね」
草鹿が無事だったことは、阿南にはささやかな良い結果だった。
まだ若い草鹿だが、家族はいない。阿南は以前に彼の生い立ちについて、若干の話を聞いたことがある。阿南と同じく、実の両親を幼い頃に交通事故で失くし、一時は施設に預けられたが、6才の時に里親が見つかり、育ててもらったという。その夫婦に対する厚い感謝の念も聞かされた。阿南は自分と似た境遇の草鹿に親近感を抱いた。
あのアジトで起きた事は、報告していない部分が多く残っている。阿南は心の傷を舐めながら、最も辛い出来事を口に出した。
「山辺も死にました。リリス教徒に殺されたんです」
「そうだったか。死体を見たのか?」
また、胃がでんぐり返るような感覚がした。阿南はそれを押さえつけ、かろうじて答えた。「一部だけ。その件は後日報告書を書きます」
あの時、何を経験したか、一から十まで報告する気はなかった。阿南が見る見る精気を失うのを見て、相沢も草鹿も言葉を接げられなかった。よほど酷い目に遭ったに違いない、と察した相沢はどう話を持っていくか迷った。
幸い、阿南の方から切り出した。「それにしても使徒はすごい戦略を取りましたね」
「全くだ」相沢の表情は暗い。草鹿は黙りこくって下を見ている。
「これだけの事件になると、隠し通すことは不可能だ。衝撃は全世界に広がった。特に第二新東京市はパニックになってる。次はこちらの番だってな。おれが使徒の司令官だったら、やっぱり次の戦略目標は第二にするわな。疎開を始めた連中も沢山いるよ」
阿南の胸にじわじわと恐怖が拡がっていった。ここ最近、使徒は着実にポイントを稼いでいる。もしかしたら、おれが生きてるうちに世界の終わりが来るのか?おれはそれを見ることになるのか?阿南の背中に鳥肌が立った。
相沢はそんな暗い気分を払うように、声を張った。「なに、うちのヒロインたちが健在な間は大丈夫さ。心配ないって。それより、ちょっとしたミステリーの話をしよう」
「ミステリー?」
「ああ。そもそもお前さんはなぜ助かったのか?あそこに救助隊が向ったのは偶然じゃない。メールで本部に通報があったからだ。鉄道トンネルのあの場所に、お前さんが人事不省でいるってな。それで、急ぎ駆けつけさせたわけだが、ここに一つ謎が残った」
「なんです?」
「メールってのは必ず発信者が分かる。ところがな、今度のやつは発信者欄が空白なんだよ」
阿南は話が信じられず、狐につままれたような気がした。
「どういうことでしょう?」
「技術者の言うことにゃ、サーバーを直接乗っ取れば出来なくもないという話だ。しかし、そんな形跡は一切ないそうだ。どうだ?心当たりはないか?」
「いや、全くなにも。あのトンネルに入ったのは救助隊だけ?」
「そうだ。あの時間は当然運行中止。列車はジオフロントを出ていない。保線員も入っていない。だったら誰が通報したのか?」
まるで分からない阿南は、あの場の状況を思い返した。あのトンネルに後から入った者はいないはずだ。とすれば、誰かが自発的に反対方向から来た?そんな物好きがいるわけがない。
脳裏に学生服姿のチルドレンが忽然と浮かんだ。まさかあなたなのか、ファーストチルドレン?
咄嗟に阿南は左手で顔を覆った。表情の変化を読まれたくなかった。相沢にはそれが単に悩んでいる仕草のように見えた。
「ううむ。もう一度あの時のことを思い出してみますよ」
「そうしてくれ。ま、君が悩む問題じゃないがな」
ファーストチルドレンのことは、口にできる性質のものではなかった。阿南はあの牢獄で経験したすべてを、墓場まで持っていこうと心に決めていた。そして彼女がなぜ自分に関わろうとしたのか、考え続けていこうと思っていた。
相沢がふと立ち上がった。「ちょっと失礼」上着の内ポケットに手を入れた。携帯電話が振動したのだ。窓際まで行って相沢は話を始めた。
「相沢だ。...なに!?...本当か、それは!?...すぐ行く」
相沢は携帯を切り、しまうと、阿南に近寄った。その顔は極度の緊張を孕み、阿南を言い知れぬ不安に陥れる。
「大変だ。チルドレンが殺された。おれは今から陣頭指揮を執る」
「何だって!」阿南は衝撃に打たれて立ち上がった。「誰ですか、それは!?」
「マサコだ」
阿南はしばらく口が利けなかった。相沢が告げた事実は、あまりに痛烈だった。草鹿の顔も青ざめている。
「少し前、森の中で刺殺死体が発見された。詳しい話は現場に行ってから聞く。草鹿君も来い」
「...僕も行きます」
阿南の行動は素早かった。着替えをしようとロッカーへ歩きかけた阿南を、相沢は腕を掴んで止めた。
「だめだ。医者の許可が下りてない。お前は1週間の安静を命じられたはずだ。ちゃんとベッドに寝てろ」
「僕はもう大丈夫」
「いかん!こいつは命令だ。ここで大人しくしてろ!」
珍しく大声を出した相沢に、阿南は怯んだ。声がしぼんだ。「でも、人手不足なんでしょ」
「お前一人いなくたってどうってことない。完全に治してから復帰しろ。いいな」
草鹿はおだやかに阿南を宥めた。「課長。あんな大変な目に遭ったんだから、ここは休んでてくださいよ。ぼくらで何とかしますから。ね」
「承知しました」阿南は力なく答えてベッドに座り込んだ。
現場は森の奥まった場所にあった。
相沢と草鹿は一人の警備課員に案内され、木々の間を縫って殺害現場を目指して歩いた。鑑識係の腕章を巻いた男達が数人固まって、地面にあるものを観察している。屋外用の証拠採取ロボットが何台も周囲を動き回っている。足跡や遺留品を探しているのだ。警備員がブルーシートを支柱に結びつけようとしている。
案内の警備課員が相沢を止め、男達に声をかけた。「おーい、ここは通っていいか?」構わないという返事をもらって、再び前進した。
軍服の男が手帳を開いて、ある警備員に話を聞いている。その横で一人だけ私服の男が、茫然として人の輪の中を見つめている。タダオだ。
新任警備課長の磯川が、相沢らに気づいて近づいてきた。斉藤に代わって就任してから、1週間が経ったばかりだった。立派な体格をした40代半ばの男だ。
「次長、ご苦労さまです」
「おう。まず死体を見たい」
相沢と草鹿は鑑識係に割り込んで、マサコの変わり果てた姿を見た。両手を合わせて黙祷した後、じっくりと観察した。
幅50cm、深さ40cm程のコンクリート製側溝に、女の体がはまり込んでいる。仰向けにされているので、死因が一目で分かる。左胸に穴が開き、大量の血が紺色のシャツを赤黒く染めているのだ。下はベージュのスラックスで、運動靴を履いている。全体に部屋着という印象だ。コンクリートを浸す血溜まりは大きく広がり、出血の多さを物語っている。青く美しかった髪までが血に染まり、紫色に反射する。体の各所に枯葉が散らばり、蝿のたかる有様は、痛ましさに胸を痛めさせる。首の下からハサミムシが這い出た。
磯川が説明役になった。「心臓を一突きですね。素人の仕業とは思えません」
それは相沢も同意見だった。一連の事件との繋がりを思わずにはいられなかった。スパイはパイロットではないとは言え、遂にチルドレンの命を奪った。犯人への憎悪に続けて、自分たちの責任問題という、重くのしかかる不安が相沢の心中に湧きあがった。
マサコは両目を開けたまま絶命していた。その目は茶色く濁り、あの澄んだ輝きは見る影もないが、なおも美しい顔立ちをしていた。相沢はようやく桎梏を逃れたばかりのマサコが、かくも早くあの世に旅立ったことを哀れに思う。指を瞼に伸ばして閉じ合わせてやった。
「僕は回りを見てきます」草鹿はそう言って死体の傍を離れた。遺留品探しを手伝おうというのだ。
相沢は立ち上がって、再び磯川と顔を突き合わせた。
「死亡推定時刻は?」
「まだ何とも。現在第二から監察医を呼び寄せています。空路で最優先で運んでも、あと1時間は必要かと」
孤立した軍事施設としてのジオフロントが事情を複雑にしていた。殺人事件が起きるということ自体、想定外であり、監察医など無論常駐していない。相沢は鑑定まで時間が掛かるほど精度が落ちることを思い、あせりを感じた。犯行時刻は今の所、細かい証言を積み重ねて推定する他はない。
「死体発見の経緯は?」
「今朝、養成所のチルドレンが表の警備員に知らせてきたんです。マサコがいないと。それが7時半のこと。警備員は非常事態と思い、本部に通報しました。15分後には警備課総出で捜索を始めました。第四の救援のために人数を割かれていて、任務に当ったのは通常時の6割ほどです。遺体発見は今から15分前、午後1時5分のことです」
「そんなにかかったのか」
「捜索範囲は森だけではありません。この広い空洞部全体が対象なんです。人手も足りなくなっている。察してください」
「目撃者はいないのか」
「今のところ誰も。養成所前には2名が立ち番をしてました。その二人が二人とも異変に気づいてない」
阿南らが偽造した例の侵入未遂事件以来、警備員は増強され、村の近辺は四六時中警備員が警戒していた。それでもなお、テロは起こった。
「肝心のタダオは?彼は何をしていた?」
「彼、三日前から第四の救護施設に、手伝いをしに行ってたんです。予定では明後日まで泊り込みのはずだったんですが、行方不明が判明した時点で戻って来させた、という訳です」
相沢はちらりとタダオを見た。悄然として立ちすくむ様は人間と変らない。
苦虫を噛んだ顔で相沢は続けた。「殺害現場はここか」
「ここじゃない別の場所のようです。と言うのは、血痕が見つかっているからです」
磯川は百聞は一見に如かずとばかりに、そこから5mほど離れた位置に相沢を案内し、地面を指した。白く番号が書かれた黒い札を目印としている。そこには黒々と血がこびりついた落ち葉がある。その傍の土にも直径3cmほどの真っ黒い染みがあり、相沢の目にも何かが滴った跡と分かる。
「これと同じのが向こうにも。きっとまだ見つかる」
磯川はそこからさらに20mほど先を指差した。同じ目印が見えた。それは養成所の方向にある。
「この方角には養成所があるな。養成所で殺され、ここまで運ばれた可能性もあるということか」
「そうですね。ここから養成所までは直線距離で約300m。捜索範囲は広い」
「足跡は?」
「ありました。複数見つかっています。あれがそう」
磯川が指した先に例の札があった。そこは地面が凹み、湿った状態になっていたので、靴跡が残ったのだ。相沢は座り込んでじっくりとそれを眺めた。運動靴と思しき模様が深く、くっきりと刻まれている。
「いやに深いな。重い荷物を背負っていたからだろう」
「同感です。犯人のものと見て間違いないでしょう」
二人ともネオ・ネルフに転職する前は、警察官として活躍していた。したがって、こうした事件の捜査は経験を積んでいた。
課長、課長、と呼ぶ声がした。立ち上がった相沢と磯川に向って、警備員が離れた場所で手を振った。相沢と磯川が近づくと、相沢に気づいたその男は敬礼した。
「足跡を追って行きましたところ、向こうにあるマンホールの縁で途切れていました。見てください」
相沢の表情が変った。「マンホール?縁で?」
磯川もやられた、という顔をした。「くそっ。犯人は地下に潜ったということか!」
ジオフロントの森林は、外から持ち込んだ土の上に広がっているもので、天然ではない。5m下はもう人工の世界だ。土中には水分循環用の上下水道が縦横に張り巡らされている。
5分も歩いた場所にマンホールがあった。数人の警備員とロボットがそこに固まっていた。相沢はじっくりとマンホールを観察した。丸い鉄製の蓋が閉まっていて、そのカーブが靴跡を半分に切っている。
「蓋は発見した時のままか?」
「はい、誰も手を触れていません」
蓋の上には何の跡もなく、土や落ち葉も乗っていない。
「犯人はこの上を歩いたんじゃないな。これを開けて、下に忍び込んだのは明らかだ。写真は撮ったな?」
はい、と一人の係官がカメラを挙げる。相沢はその場にいる4人の警備員を次々と指差した。
「君、君、君、それから君。大至急着替えて来い。次に君。この地下の配管図を、総務に行って借りて来るんだ。急げ!」
5人は一斉に駆け去った。その場には相沢に磯川と鑑識係だけが残った。
磯川が言った。「犯人は見張りの目を避けるために、地下を行き来したということですね。利口な奴だ」
「またも出し抜かれたというわけだ。いまいましい」
と、相沢は吐き捨てるように言い、二人はマサコの死体がある場所へ戻る。
証拠を踏まないように地面を見て歩きながら、相沢は考える。何か違和感があった。それが何か推論するために、相沢の脳細胞は活発に活動した。まず犯人の立場に立ってみる。おれが犯人ならどうする?二人とも黙りこくっていた。
一つの考えに行き当たって、相沢は足を止めた。磯川も立ち止まって相沢の顔を見た。
「なあ、犯人はなぜあの場にマサコの死体を置いたんだろう?」
「は?」
「妙じゃないか?下水道という絶好の隠し場所がある。おれが犯人なら、引き摺ってでもあそこまで持っていくね。なのにあそこに放置した。なぜだろう?」
「ううん。死体は重い。だから、途中で力尽きた」
「そうだろうか。おれの勘だが、この犯人はかなりできる奴だ。そんな奴が途中で諦めて捨てるような真似をするだろうか?次にマンホールだが、位置的に考えて、ここから養成所までの間に一つや二つはあると思われる。わざわざ遠い場所まで運ぶ理由はなんなのか?」
「そうですねえ」磯川も真剣に考えこみ、間を置いて答えた。「犯人は下水道の詳細まで熟知していたわけではなかった。たまたま、あそこにマンホールがあるのを知っていて、犯行に利用した。よって長い距離を歩く必要があった」
「そうかもな。ただそうすると、犯人は行きは地上を歩いてきたことになる。そのことを考慮する必要があるな」
相沢はまた歩き始めた。磯川の言うことも一理ある。しかし、相沢は疑念を拭いきれなかった。何か途轍もない秘密が隠れているような気がしてならなかった。
死体発見現場に着いた相沢は、ちらりとタダオに視線を走らせ、捜査官の一人に訊いた。「タダオはどうだ。話せる状態か?」
「ええ。そこは彼、人間じゃありませんから」
「なるほどね」
マサコの遺体は担架に移され、シートが掛けられている。白衣を着た二人の救急隊員が、タイミングを合わせてそれを持ち上げた。
相沢は空ろな顔をしたタダオの前に立った。タダオの表情はまったく読めなかった。感情がどこかに消し飛んだような顔をしていた。
「この度はご愁傷様でした」神妙に頭を下げた。相沢はパートナーに対しては、人間と変らぬ対応を取ることにしていた。
「ありがとうございます」
「君も辛いだろうが、しっかりして捜査に協力してくれ」
「辛い。これが辛いということでしょうか?たぶんそうなんでしょう。なにしろ、味わったことのない状態なんで」
「君が衝撃を受けたことは理解できる」
「確かに衝撃でした。なんだか別の世界にいるようです。どうしていいか分からないっていうか。僕は間違いなく混乱しています」
相沢は相手が予想外に取り乱していることを知り、動揺した。
「そこをなんとか冷静にコントロールしてくれんか。君も早く犯人を逮捕してほしいだろう?」
「そこが僕を悩ませるんです」ここで初めて、タダオは苦渋を表情に出した。「正直言って、犯人のことはどうでもいいんです。いいですか、相沢さん。僕らアンドロイドは、人間を憎むような精神構造になっていない。これをやった犯人に対して、なんの感情も湧かないんだ。代わりに今、願うのは一刻も早く停止することなんです。僕の存在意義はもうなくなったから。早く僕というものを消し去り、無に還りたい」
まずい方向に話が進んでいる。相沢はあせって声を高めた。「待て!今、停まるわけにはいかんぞ。君は何かの手掛かりを持っているかもしれん。犯人逮捕までは、このまま生きていてもらう!」
「そうでしょう。そうなんですよね。それは十分理解できる。だから、僕はこんな状態で生きている。さっさと無くなってしまいたいのに!」
人間とのあまりな違いに、相沢は唖然としてしまった。外見は人間そっくりだが、感性はまるで違うのだ。
「まあ、そう言うな。マサコを殺した犯人を見届けてから逝くほうが、気分いいぞ。犯人逮捕に協力することに生きがいを見出せ」
タダオの顔から見る間に表情が消えていった。「すいません。あなたの言うことは完全に理解できる。取り乱したところをお見せしました」むしろさっぱりとした顔で、タダオは相沢を促した。「どうぞ、なんでも訊いてください。僕はできる限りのことをします」
相沢はパートナーの情動コントロールの見事さに舌を巻く思いだった。手帳を開いてタダオの聴取を始めた。
「君が最後にマサコさんと別れたのはいつ?」
「三日前の午後5時半頃です。僕は第四に行くために発着場に向かいました」
「向こうじゃ何を?」
「避難所となった学校の体育館で、いろんな雑用をこなしました。ああいう場所ではアンドロイドは重宝するんです」
「その時から今日まで、マサコさんと話は?」
「しませんでした。僕は携帯を持ってないんです。固定電話も、線が寸断されていて使えませんでした」
使徒がもたらした災厄がこんなところにまで影響を与えている。相沢はこの混乱がなければと、悔しさを感じ、舌打ちをした。
「君がマサコさんと別れる前、どんな様子だった?」
「普通でしたね。むしろ上機嫌だった。引っ掛かることは何もありません」
相沢は渋い顔で手帳を閉じた。タダオから有用な話は聞けそうもない。
草鹿は死体放置現場を離れ、養成所方面へ向っていた。何人もの警備員が地面を見ながら歩き回っている。草鹿もまた地面を観察しながら足早に歩いた。いつしか草鹿は捜索隊の先頭にいた。森は木の生え方がまばらになり、下草が多くなってきた。笹薮が現われ、草鹿はその縁に沿って進み、手入れが入っていない野原に入った。一人の警備員が、膝まで伸びた雑草を掻き分け地面を探している。
「大変そうだな。僕も手伝う」
草鹿は声を掛け、草叢に入り込んだ。若い警備員は嬉しそうにした。「すいません、草鹿さん。助かります」
「人手が足りないから大変だよな」
「まったくです。あっ!」
「どうした?」
草鹿は警備員が発した声に反応した。若い警備員は、興奮の面持ちで地面を指している。
「携帯。携帯が落ちてますよ」
警備員の指差す先にネオ・ネルフ職員用の携帯電話が、開いた状態で下向きに落ちている。蓋に二重螺旋のネオ・ネルフマークが、くっきりと描かれているのが特徴だ。彼は証拠品らしき物を自分が発見したことに、喜びを隠し切れないでいる。
「もしかしたら犯人のかも知れないですね!」
「まだ手を触れるな。僕はここに立っているから、君、鑑識係を呼んで来てくれ」
「了解しました」
警備員は踵を返して死体のある方へ走った。
相沢は養成所の方角で声が上がるのを聞き、耳を澄ました。何か発見があったか。
磯川の下に若い警備員が駆けつけ、何かを話している。磯川は直ちに振り向いて鑑識係に指示を出した。
「遺留品らしき物が出た。君、付いて来てくれ」
相沢は足早に磯川に近寄った。「何が出た?」
「携帯が落ちてました」
「おれも行く。タダオ、君も来い」相沢は後ろでぼんやりしているタダオに声をかけた。タダオは無表情のまま頷いた。
現場が動いた。磯川を先頭に四人が草鹿がいる場所に向った。相沢には期待があった。有力な手掛かりかも知れない。
草鹿は草叢の中に立ち、相沢達を待っていた。既に二人の警備員が傍に来ていた。磯川の姿を見た草鹿は地面を指して叫んだ。
「ここです。ここ」
「携帯だって?」相沢が草鹿のまん前に来て尋ねた。
「見てください、これです。犯人かマサコのじゃないですか」
雑草の陰に開いた携帯電話があった。見慣れた官給タイプだ。汚れがなく、そこに落ちてからあまり時間が経っていないように思える。
「写真。それから袋を頼む」
直ちに鑑識係が写真を数枚撮った。相沢は白手袋を嵌めた手で慎重にそれをつまみ上げた。ストラップが見え、輪に掛かったビーズ細工の鳥がきらきらと光った。画面は何も表示していない。ゆっくりと鑑識係が差し出すビニール袋に入れた。
草鹿が言った。「きれいなものですね。最近ここに落ちたんでしょう。ストラップが女物に見えます」
「そうだな。たぶんガイシャのものだろう」
タダオが相沢の背後に立った。相沢は立ち上がって携帯電話が入った袋をタダオに示した。
「これに見覚えはあるかい?」
「ええ、マサコのです」
タダオは即答した。相沢は満足を覚え、微笑を浮かべた。
「犯人はついにエラーをしたな。こいつが手掛かりになればいいが」相沢は磯川に尋ねた。「ところで、通話記録は調べたか?」
磯川はばつの悪そうな顔をした。「いいえ、まだ」
「すぐに手配だ。この携帯と、養成所の電話の通話記録を1ヶ月前まで遡って洗え。徹底的にやれば何かが出てくるかも知れん」
「あのう次長」草鹿は言いにくそうに相沢に呼びかけた。「実はその、昨日、彼女僕と話したんですよ」
「なにい」相沢は渋面を作った。「なぜ早く言わん」
「なかなか話すきっかけがつかめなくて。昨日の16時頃だったな。ちょっと失礼」草鹿は上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、着信記録を見た。「16時3分に着信。話の内容は阿南課長の容態についてでした。僕が意識を取り戻したと教えると、いかにも嬉しそうにしましたね」
「そんなことか。大した情報じゃないな。分かったのはガイシャが阿南の無事を知ったということだけだ」
「いや、それがですねえ」草鹿は声を暗くした。「最初、何秒間か無言だったんですよ。僕が『もしもし、どなたですか?』と強く言ったら、やっと『マサコです』と答えて、課長のことを訊いてきたんです。なんて言うか、本当に言いたいことを呑み込んで、無難な話題を出したって感じがしました」
「そりゃ聞き逃せんな。君に何か大事な用があった。にも拘わらず、途中で気が変ったということか」
「そんな風に思えましたね」
相沢は携帯電話を睨みながら考え込んでいたが、急に閃くことがあり、顔を上げた。「待てよ。考えてみれば、阿南のことなら、病院に電話する方が確実じゃないか!それを敢えて君にしたのは、不自然だよ。他に理由があったと見るべきだ」
草鹿は上司の鋭さに感心した。「さすがです」
「問題はそれが何かだ。マサコが本当に言いたかったこと。しかし、いいことじゃなことは間違いない」
相沢に指示された4人が戻ってきた。それぞれゴム長を履き、作業衣に着替え、大型の懐中電灯を携えている。これから下水道の捜索が始まる。
同時刻、阿南はズボンの中に足を突っ込んでいた。まだ多少目眩は残っているが、動くのに支障はない。医師の指図など守る気はしなかった。
あのマサコが殺された。彼は自分と深く関わった女の悲運に責任を感じていた。おそらくこの殺しはあの『X』と関係がある。もしも彼女が彼に告白していなければ、こんな目に会わずに済んでいたはずだ。そう思うと阿南は、いても立ってもいられなかった。
ロッカーには彼が第四で着ていた上着が掛けてある。かなり汚れていたが、他に着るものがないので、我慢する他はない。袖を通すのは5日ぶりだった。
いつもの習慣に従い、携帯電話を開いて着信記録を見た。瀬島一課長や草鹿ら公安二課の部下達から、かなりの数が着信している。
その上から5番目に阿南の胸を衝く名前があった。
マサコ. 82.11.10. 22:55
あのマサコが自分に電話をくれた。阿南はそれをマナーモードに設定しておいたのだ。彼の顔はたちまちの内に蒼白になった。
「なんてこった。...おれとしたことが!」
自分を呪う言葉が口をついて出た。明らかに失策だった。マサコの最後の声を聞く機会を失ってしまった。せめて留守番電話に設定しておくべきではなかったか。悲しみに惚けて職務をなおざりにしなかったか。
阿南は荒々しくロッカーを閉めると、大股で病室の外へ出た。一刻も早く事件現場に行きたかった。
この日の養成所は朝から機能を停止していた。マサコの失踪で授業や訓練どころではなかったのだ。チルドレンは封鎖された所内で、各自ばらばらに行動した。あちこちで小グループを作り、噂や憶測をひそひそと、あるいは声高に語り合うのだった。
コトミは年齢の近いマキとサヤカの部屋にいた。一つ年下のミクも加わっていた。
二段ベッドの上から顔を出すマキが憂鬱げに言った。
「マサコねえさん、いつ帰るのかな」
「帰って来るとは限らないわ」と、一番年上のサヤカがひっそりと言った。
コトミはサヤカに厳しい視線を向けた。「なにそれ。変なこと言わないで」
「でも、これだけ捜しても見つからないってことは、普通じゃないのよ」
「マサコねえさんは帰る。ぜったいに帰って来る」
「コトミはマサコねえさんのお気に入りだからね」と、マキが皮肉っぽく言った。
コトミはマキを睨んだ。「そんなことない。ねえさんはあたしを特別扱いなんかしてないもの」
「あら、ときどき可愛い可愛いしてもらってるじゃない」
「特別じゃないもん!」
ミクは姉たちの言い争いをおろおろしながら見守っていた。そこへ、天井にあるスピーカーから短いメロディーが流れ、続けてカウエルの重い声が響き渡った。
『チルドレンに告ぐ。緊急に言い渡すことがある。直ちに全員、集会所に集合すること。以上だ』
相沢ら保安部の一行は養成所の裏手近くまで来ていた。相沢と磯川は声もなく地面を見つめている。
赤黒い血の塊が地面に大きくこびりついている。
殺害現場と思しき場所がようやく特定されたのだ。相沢はため息をついて磯川に言った。
「マサコはこの場所でやられた。ほぼ間違いなかろう」
磯川は血が刷毛で塗られたようになった部分を示した。
「血を引き摺っていますね。死体発見現場の方向だ。そして何かに包み、担ぎ上げ、夜の森をマンホールに向って歩いた」
「この辺りは精密に証拠採取する必要があるな。ロボットで重点的に探させよう」
相沢は向きを変えて養成所を見た。三階建て建物の壁が木々の向こうに見える。
「養成所が近い。彼女、なぜこんなところまで出てきたんだ?」
「建物の中からおびき出されたんでしょうか」
「その可能性が高いな。とすれば、犯人は顔見知りということになる」
「何が彼女にそんな行動を取らせたのか。それが分かれば事件は解決しそうですね」
草鹿は話し合う二人の後ろで地面を捜索していた。彼は近づいて来る者の足音に聞きつけ、顔を上げた。
「課長!」阿南に気づいた草鹿は思わず大声を出した。その声につられて相沢と磯川も振り返った。
阿南は軽く手を挙げて草鹿に答えた。相沢は険しい顔で阿南に迫った。
「おい、何しに来た。寝てなきゃ駄目だろうが」
「医師の許可はもらいました。だったらいいでしょ」
嘘だった。彼は無許可で病院を出て来たのだ。後で事後承認をもらえばいいと嵩を括っていた。自分の体のことは自分が一番よく分かる。
相沢は厳しい目で阿南を睨んだ。阿南はまっすぐその目を見つめ返している。やがて相沢の顔に諦めの表情が浮かんだ。
「良かろう。ただし、無理はするな。今夜は病院に泊まれ。それから、その汚い服は今日限りにしておけ。制服の手配をしておくから」
「お気遣いどうも。で、早速大事な情報を一つ。彼女、昨夜の22時55分に、僕の携帯に電話を掛けてきてました」
「なにっ。それは本当か!」
阿南は自分の携帯電話を開いて相沢に見せた。相沢は眉根に皺を寄せながら、その時刻を手帳に書き取った。
「前に登録しておいたんですよ。いろいろ話し合う必要があったのでね。僕はこの時刻には寝ていました。これはマナーモードにしておいたんです。そうじゃなく、呼び出し音が鳴るようにしておけば良かった」
「これでガイシャは昨夜の23時頃まで生きていたことが分かった。しかし、君に何を言いたかったんだろう?」
阿南は一呼吸間を置いて言った。「僕に助けを求めた、とは考えたくありません」
相沢の口からため息が洩れた。この部下はまた心労の種を抱え込んだ。なんと運の悪い男だ。
「あまり気に病むな。君に責任は何一つない。そうだ、病院のベッドでうじうじ悩むよりは、仕事をした方がいいかもな。頑張って捜査してくれ」
ねぎらいを込めて阿南の背中を二つ叩いた。阿南は相沢の情の深さを、しみじみ有難く感じた。
「で、事件の経緯を教えてください。今まで分かったことを」
「それは草鹿君に聞いてくれ。あ、それでな、君のに着信したマサコの携帯だけどな、丁度ここにある」
「見せてください」
相沢はポケットに詰めたビ二ール袋を出し、阿南に渡した。
「本人のものと確認済みだ。指紋はまだ採取してないから、手を付けるのは後だ。これがここから、そう、50mばかり離れた地点に落ちていた。死体を運ぶ途中で落ちたものと思われる」
亡きマサコの遺品に、阿南は見入った。感傷が湧き上がるのを押さえ、じっと捜査官の目で証拠品を観察した。
「きれいですね。土も付いていない。ついさっき落ちたばかりのようだ」
「雑草の間に落ちていた。開いた状態でな」
阿南の表情に陰が差した。携帯を片手に握り締めながら、恐怖に怯え後ずさるマサコのイメージが脳裏に浮かんだ。相沢は阿南の心情がよく分かった。
「殺されたときに使っていたとは限らん。落ちた拍子に開くこともあり得る。予断を持つなよ」
「ええ。現段階では結論は出せません。もっと情報を集めなくてはね」
阿南は感情を表に出さぬようにしながら、袋を相沢に返した。
「君にはまた草鹿君と組んでチルドレンを担当してもらう。聞き込みで情報を収集してくれ。とっ、待てよ。君、その手で字が書けるのかい?」
相沢は包帯に包まれた阿南の右手を指した。阿南は左手をひらひらさせて答えた。
「僕はもともと左利きでして。両方で字が書けるんです。ところで、このニュースは皆に伝わっているんですか?」
磯川が言った。「養成所の方は、もうカウエル所次長からチルドレンに知らせてあるはずです」
可哀想に、たぶんコトミにはショックだっただろうな。阿南はあのマサコを特に慕っていたチルドレンが、この知らせをどう聞いたかを想い、胸が痛んだ。
「ふう。気が重いけど始めますか。行こう、草鹿君。歩きながらこれまで判明したことを教えてくれ」
阿南は手帳を開き、草鹿と連れ立って養成所に向った。
その後姿を見送った相沢が、また血痕を見ようと振り返ったとき、磯川の携帯電話が鳴った。
「私だ。...何?...そんな馬鹿な話があるか!?なぜ今まで気づかなかった?...ああ、...ああ、分かった。原因を探る」
磯川は青ざめた顔で携帯電話をしまった。相沢は異変を感じ、強張った声音で磯川に尋ねた。「どうした?何があった?」
「養成所裏口に据えた監視カメラが、いまだに夜の景色を映しているそうです」
「何だって?」
「静止画を送り込まれている。古い手口ですよ。これで、いつマサコが養成所を出たのか、はっきりしなくなった」
「馬鹿な。今まで何をやっていた?」
「本来監視員の古川君、安川君は第四の戦災で命を落としました。さらに救援活動で人を取られている。昨日から今まで、監視室には誰もいなかったんです。今連絡してきたのは、普段事務を執っている奴です」
「なんてこった!前は使徒との対決の真っ最中、今度は戦後のごたごたのさなかだ。タイミングを計っているとしか思えん」
相沢は歯噛みして悔しさを顕わにした。正体不明のスパイに対する憎しみが、胸の中で渦を巻いた。
コトミは視線を遠くに彷徨わせながら、自室に向けて廊下を歩いた。先程カウエルから聞かされた事実の衝撃が、まだ幼いコトミの心臓を押しつぶさんばかりに締め上げていた。
その横を一人に美少年が、心配そうについて歩いている。コトミのパートナー、フユキだ。
「ねえ、コトミ」
「あっちいって。今は一人にして」
「一人で平気?」
「当たり前でしょ。いいからほっといて」
ひっそりと言うコトミの様子はとても平気そうに見えなかったが、フユキはここは従うべきだろうと判断した。ヒトは時に孤独を必要とする。チルドレンにおいてもまたしかり。彼は、挨拶もなく自室のドアを閉めるコトミの後姿を見送った。
コトミは二段ベッドの下段にうつ伏せに横たわった。顔を枕に押し付けた。同室のミクがいないのが今のコトミには有難い。常に強さを求められるチルドレンが、弱々しい姿を見せるのは恥ずかしかった。
マサコが信時の餌食となっていることを知ったとき以来の悲しみだった。今回のはより深く、より重い。マサコの言葉、微笑み、優しさに触れる機会はもう二度とやって来ないのだ。
目に異常が起きているのに気づいた。涙腺がどんどん緩んでいく。瞼から溢れて枕に染みるものがある。
私、泣いちゃった。どうしよう。
動揺が悲しみの占める場所に食い込んできた。今起きているのは、人間くささと弱さの印しだ。起き上がって手の甲でそれを拭ったとき、突然横から声が掛かった。
「泣いているのね」
愕然として横を向いたコトミの目に、学生服姿のチルドレンの姿が飛び込んできた。ひっ、と声を出し、思わずずり下がった。
「あなた誰?いつ入ったの?いつからいるの?」
「ついさっき。名前は言わなくても分かるはず」
コトミは無言で、窓際に立つレイを見つめた。その姿は普段眺める肖像そのままだ。コトミの心中では幾度も自問自答が繰り返されたが、結論は出ない。
「ファーストチルドレン?そんな。生きているはずない」
「精神のありようは一種類だけではないのよ。コトミ、受け入れなさい」
コトミは床に差し込む光を見て、目の前にいる者が、通常の物質とは違うもので構成されていることを悟った。床には窓の形に明るい部分ができているが、当然あるはずの少女の影がないのだ。
ごくりと唾を呑み、コトミは僅か1.5m前にいる悠久の存在を見つめた。心臓が速く大きく打つ。それが日頃崇拝しているファーストチルドレンでなければ、とっくに逃げ出していただろう。コトミは凍りついたように動かなかった。
レイの口元に浮かぶ微笑が、コトミの動揺を淡雪のように溶かしていった。少なくとも危険はない。それどころかその言葉をもっと聞きたいとさえ、コトミは思った。そう思わせる何かを、レイの全身は放っていた。
涙が頬を伝うのに気づき、コトミは慌てて拭った。
「泣く。悲しみ、感情の表出。いいのよ。泣いても。ちっとも恥ずかしいことじゃない」
レイの口調はあくまで柔らかい。恐れが親しみに変り、そしてついにコトミは微笑った。
「えへ。かっこわるい」
レイは首を横に振った。
「それは生の証し。魂の存在証明。仕方のないことなの」
「ファーストチルドレンにはそれが分かるんですか?」
「ええ。私もかつて泣いたことがある。まだこの世に体があった頃のこと」
「そうなんだ...」
コトミに自信が甦りつつあった。ファーストチルドレンですら泣いた。ならば自分が泣いて悪いことがあるだろうか。
「マサコのこと、残念だったわね。でも、いつまでも嘆いていてはだめよ。ちゃんとして、顔を上げなさい。マサコもそれを望んでいる」
「はい、ファーストチルドレン。わたし、しっかりします。そしていつか、キヨミねえさんやハルカねえさんのようなエースパイロットになります」
「いい子ね。それでいいの」
二人は午後の光の中、しばし見つめあった。穏やかな時間が流れていく。コトミはもっとレイの言葉を聞きたくなり、素朴な疑問を口にした。
「あの、あの、ファーストチルドレンはわたしを慰めるために、わざわざ来てくれたんですか?」
「それはそうだけど、別の目的もあるの。今日は言わば挨拶をしに」
「目的ってなんですか?」
レイはふと視線を逸らし、あらぬ方向を見つめた。一呼吸置いてから答えた。
「今日は時間がない。またいつか話しましょう。ごめんね」
コトミの前で驚異的な現象が起きていた。レイの体が透け、向こうの窓が見え始めたのだ。コトミは慌てて手を伸ばした。
「あっ、待って。もっと話して」
「私のことは誰にも言ってはだめよ。二人だけの秘密にして。守れなかったら、もう来れないのよ。いい?」
「あっ、はい。誰にも絶対言いません」
「自分を大事になさい、コトミ。あなたは人類の希望、そして私の希望でもあるのだから」
レイを形作る色彩はますます淡くなり、輪郭までがぼやけていく。コトミは瞬きもせず、その消失する過程を見守った。指一本、動かすことはなかった。両目の紅い輝きが最後に残った。それも束の間、レイは完全に空気の中に溶け、消えた。
かつてない驚きがコトミを支配し、ぽかんと開いた口は一向に閉まらない。今この場で起きたことのどれもが信じられなかった。聖なるチルドレンは、はっきりとした答えはくれず、謎を残したまま去って行った。コトミの頭は混乱の極にあり、呆然としたまま時が経過していった。
コトミが我に返るきっかけは、スピーカーから流れたカウエルの言葉だった。
『チルドレンならびにパートナーに告ぐ。公安の方々が話を聞きたいそうだ。番号の少ない順に一人ずつ、チルドレンは会議室、パートナーは視聴覚室に入れ。まずリカとマキオだ。以上』
二時間が過ぎ、阿南は9人目のチルドレンの聴取を終え、小休止を取っていた。紙コップに入ったコーヒーを啜りながら、びっしり埋まったノートをめくり、聴き取った内容を整理してみた。
50thチルドレン・リカ−−
「マサコねえさんを最後に見たのは夕食の時です。7時から8時まで。チルドレンは食堂で全員そろって食事を取るんです。特に変ったことは言いませんでした。でも、何だか浮かない表情をしていて、元気がないな、と思いました。食事の後は自分の部屋に戻って本を読んだり、同室のイクコとお喋りしたりして、10時に寝ました」
51stチルドレン・イクコ−−
「私、夕食の席がマサコねえさんの隣だったので、少し話をしました。話しかけても『そうね』とか、『うん』とか短い返事ばかりで、上の空って感じでした。たぶん、タダオさんがいないので忙しかったから、疲れてるんだろうな、と思いました。食事の後は会っていません」
52ndチルドレン・チアキ−−
「朝とお昼ですか。全然普通だったと思います。小さい子が纏わりついても、いやな顔もせず相手をしてました。よく笑ってたし、誰とも気軽に話してた。夕食のときはすっかり様子が変ってたので、私、どうしたのって訊いたら、『別になんでもないの』って笑って答えました。無理をしてるような感じがしました」
53rdチルドレン・ミユ−−
「私は4時近くに、事務室に鍵を届けに行って、マサコねえさんを見ました。一人、机の前に座って、何か考え事をしている様子でした。机の上に何か載っていなかったか、ですか?ううん、本が載っていたように思います。どんなのかはちょっと思い出せません。そこにいたのはほんの短い間だったので」
54thチルドレン・リミ−−
「2時過ぎに一度会いました。私とナミの二人で。郵便を持って帰って来たばかりみたいで、バッグを持ってたわ。訓練が休みなので退屈だったから、お話ししたかったの。昔の使徒戦の話を聞かせてもらいました。キヨミねえさんが、どうやって第110使徒をやっつけたかって話。30分ぐらいいました。いつもと変らなかったなあ」
55thチルドレン・ナミ−−
「リミと一緒に事務室を出た後は、夕食まで会ってないの」
56thチルドレン・ノゾミ−−
「3時15分頃、おやつをもらいに、事務室に顔を出した。その時は普通だった。特に気づいたことないなあ」
57thチルドレン・サヤカ−−
「3時半頃、買物を頼まれたの。普通な感じ。商店街はあんまり物がなくて、頼まれた物、半分も買えなかった。帰ったのは4時過ぎ。その時いないので、わたし、『マサコねえさん』って呼んだら、奥の部屋から声がしたの。『そこに置いといて』って。これとあれがなかったって言ったら、『そう。ご苦労様』って答えたわ。結局出てきてくれなかった」
58thチルドレン・マキ−−
「わたし、4時20分頃、一回見てる。部屋の外から。あそこ、受付のところがガラス窓になってるでしょ。椅子に座って、ぼんやりしてる感じだった。タダオさんがいないので、寂しいのかなあって思った」
以上の証言から明瞭に浮かび上がったことがある。マサコは昨日の3時半以降に、何かが原因で問題を抱えた。それは一体なんだったのか。事件に繋がることかも知れない。さらに8時以降のマサコについては、誰も把握していないということが分かった。誰かが館内を歩き回っていたら、事件はどうなっていたか。
もう一つ分かったのは、事務室には結構出入りがあり、マサコが長時間そこを動かなかったということだ。郵便を取りに行ったのが唯一の外出だったようで、その直後は普通の状態だった。と、すればマサコの心境を激変させた出来事は、事務室かその近辺で起こった。昨日担当していた警備員の証言では、昨日養成所に来訪した者は皆無だった。ならば電話か。通話記録を調べれば何かが浮かび上がるかも知れない。
ふいにドアをノックする音が鳴り、阿南の思考を切った。ノートから顔を上げ、どうぞ、と言った。
ドアを開けて入って来たのはコトミだった。コトミは阿南を認めると、大声を上げた。
「おじさん!意識が戻ったの!?」
阿南の口元が自然に綻んだ。「うん。どうにか無事に生き返ったよ」
コトミは満面の笑みを浮かべて、阿南のいる机の前に来た。嬉しそうな様が彼をほんの少し幸せにした。
「良かった。わたし、心配してたの。もう会えないのかって思ってた」
そこでコトミは、包帯でぐるぐる巻きにされた阿南の右手に気づいた。
「おじさん、その手...」
「これかい。ちょっとした火傷さ。さあ、座って。心配かけてごめんな。でも君がそんなに僕のことを気にかけてくれるとは。いや、とても嬉しい」
「だって、おじさん、わたしたちに良くしてくれたもの」
二人は簡素な会議机を挟んで向かい合った。
「そうだ。花をありがとう。綺麗なチューリップだね。おかげで気分が和んだよ」
「あれね、わたしの部屋に飾ってたのを持っていったの。あれ、本物で、すごくいい物なの」
捜査官と幼いチルドレンは、しばし親密な時を過ごした。阿南はおもむろにノートの新しいページを開き、聴取を始めた。
「さて、つらいと思うけど、君にいろいろと話してもらわなくちゃいけない。犯人は是が非でも逮捕しなくちゃな。マサコさんの仇は必ず取ってやる。それには君の協力が必要なんだ。頼むよ」
「うん。なんでも訊いて。知ってることは全部話す」
「昨日は君、何時に起きた?」
「起きたのは7時半で、8時にご飯を食べた」
「マサコさんの様子で気づいたことは?」
「べつに。いつも通りだった」
「それから君たちは視聴覚室でビデオ教材を見た。午前中ずっと」
「うん。第四があんなことになったせいで、カリキュラムがめちゃくちゃなの」
「次にマサコさんと会ったのは昼食の時だね?その時の彼女の様子は?」
「前と同じ」
「午後はどうした?」
「自習よ。先生がいないからね。わたしは体育館でスポチャンやった。他にいたのはイクコねえさん、チアキねえさん、サヤカねえさん、それからえーと、ミクにスミレ」
「ふうん。強いのかい?」
「えへへ。わたし、下の子に負けたことないんだよ。上の子とも互角に戦えるんだよ」
コトミは自慢げに胸を張って微笑した。将来有望なチルドレンだと、話に聞いていた通りだ。
「そりゃ大したもんだ。君はきっとエースになれるな」
コトミの目が輝いた。「そう思う?ハルカねえさんも同じこと言ってくれた」
「ほう、最近?」
「うん。時々、剣道をしに来るの。竹刀持ってやるやつ。ちゃんとした道着も着て、すごくかっこいいの。チヒロねえさんとよくやってるみたい」
剣道の防具に身を固めたハルカの姿が、阿南の脳裏に浮かんだ。彼女なら子供心にもりりしく映るに違いない。できれば見物したいものだと、ちらりと思った。
「で、昨日は何時までそれをやったの?」
「3時まで。後はシャワー浴びて、夕食までずっとフユキと遊んだの」
「その間、マサコさんを見てない?」
「そうよ」
「夕食の時、どうだったかを訊こうか」
証言が核心に迫り、コトミの声色は暗みを帯びた。「それが変なの。急に元気を失くした感じ。わたし、妙だな、と思いながらご飯を食べてた。食欲もあまりないみたいだった」
「昨日は何も話をしなかったの?」
「ううん。夕食のかたづけが終わった後、わたし、ねえさんに近づいて言ったの。『どうしたの?また悩み事でもあるの?』って。そしたらねえさん、無理に笑って、『いいえ、何も。少し疲れてるだけ。心配することじゃないのよ』って言った。わたし、その時はそうかなって思った」
阿南のペンは高速で動いていた。それが一段落したところで顔を上げ、コトミの目をまっすぐに見た。
「それが最後だったのかい?」
コトミは言葉に出さず、頷いた。
「ねえさん一人できりもりしてたから。保母の渡辺さんも不幸があって休みなの。だから、疲れるのも無理なかった。わたし、なら一杯休んでもらおうと思った。で、下の子たちに言ったの。今日はもうマサコねえさんのところに行っちゃだめ。なるべくそっとしておいてやりなさい...」
そこでコトミは絶句してしまった。表情の変化が阿南にもはっきりと見て取れた。苦しげに顔が歪んだ。そしていきなり俯いて、顔を両手の中に埋めた。
阿南は呆然として、肩を小刻みに揺らす姿を見つめる他はなかった。今は声を掛けない方がいい。落ち着くのを待つのだ。
コトミの立ち直りは意外と速かった。ポケットからハンカチを取り出し、目の周りを拭き、洟をかんだ。顔を上げたコトミの顔は、目の下が赤くなっていた。
「大丈夫?」
阿南はそっと訊いた。コトミはハンカチをしまいながら、真剣な眼差しで阿南を見た。
「もう平気。ねえ、おじさん。お願いがあるの」
「何かな?」
「わたしが泣いたこと、誰にも言わないで。ヒトにもチルドレンにも」
「君がそう言うなら」
コトミはまた洟を啜り上げた。「できるチルドレンは泣かないことになってるの。これはわたしの評判に関わることなの」
チルドレンが滅多に泣かないことは、阿南も知っていた。彼はチルドレン特有の矜持の高さを知り、深く感心した。
精一杯の誠実さを込めて、彼は誓った。「絶対に誰にも言わないよ、チルドレン。僕はリリス教徒の拷問にも耐え抜いた男だ。言わないと決めたことは、金輪際言わない」
「ありがと」
コトミの視線がまた下に落ちた。普段の小さいながらも凛とした風情が消え、ただのか弱い少女に見えた。
「わたし、向いてないのかな。今日、これで二度も泣いちゃった。わたしの心、他のチルドレンより弱いのかな」
阿南は机を回って抱きしめてやりたい衝動を覚えた。が、そこは抑えて懸命に言葉を紡いだ。
「そんなことない。君はマサコさんを助けただろ。弱い心の持ち主にそんなことはできない。それからね、チルドレン。君は今日、心に深い傷を負った。それは君がそれだけ優しい心を持っているということだ。とてもいいことなんだよ」
コトミは紅い瞳を上げ、じっと阿南の目を見た。
「そうかな?」
「そうだとも。優しいということは弱いということじゃない。むしろそれこそが強さの源になるんだよ。つまり、愛が深ければそれだけ強く行動できる。愛の伴わない戦いは、えてして脆い」
「なんとなく分かる」
「いいぞ。ねえ、チルドレン、傷はいずれ癒える。でね、その時には今よりも心が強くなっているんだ。たくさんのつらいことや、悲しいことを克服した心は、とても強いんだよ。だから、君は将来、もっともっと強くなる。安心しなさい。それはおじさんが保証する。ひょっとしたら最強のエースになる」
コトミは穴の開くほど阿南を見た。薄く開いた口は閉じることがなかった。阿南はその視線に気圧され、横を向いた。かなり気障なことを言ってしまった。頬が紅く染まっていた。
ほんのりとした微笑がコトミの口元に浮かぶ。そして開口一番言い放った。「おじさんって、口がうまいね」
今度は阿南が呆気にとられる番だった。唖然としてコトミを見るうち、横隔膜が震えた。次の瞬間、盛大に吹き出してしまった。
「あっははははは。すまん、すまん。あはははは。今の返しは良かった。ははははは」
コトミは言ってしまってから、言葉の微妙なニュアンスに気づき、あわてて両手を振った。
「あ、ごめんんさい。別に悪い意味で言ったんじゃないの。ほめるつもりで言ったの」
「ははは。まあ、口八丁手八丁と、いつも言われてるからな。気にすることない。ふっふっ」
阿南はこんなときに大笑いは不謹慎だと気づき、盛んに咳払いをして笑いを収めた。コトミは下を向いてしまっている。だが、一時の悲しみが和らぎ、おだやかな顔をしていた。聞こえるか聞こえないかの声で、そっと呟いた。
「ありがとう、おじさん」
阿南は改めてノートに向かい、書き取った事柄を確かめた。「えーと、どこまでいったかな。うん。昨夜は何時に寝たの?」
「10時。決まり通りに」
「10時ね。いい子だね、君は。ま、大体こんなとこか。さーて、ここで気になる点を訊こう」
「なに?」コトミは阿南の言葉に反応して顔を上げた。
「君はさっき僕と会ったとき、僕が意識を回復したことを知らなかったね」
「そうよ。それがどうかした?」
「なぜだろう。マサコさんは昨日の6時頃、草鹿君に電話をしてそのことを知った」
「えっ、そうだったの?」コトミは一気に不審に捉われた表情をした。「なんで教えてくれなかったのかな」
「そこが疑問だ。君に教えても良さそうなもんじゃないか。君たちは連れ立って見舞いに来てくれたぐらいだから、共通の関心事だったはずだ。教える機会もちゃんとあった」
「なのに教えてくれなかった」
「思い当たることは?」
「なんにも。そんなことが吹っ飛ぶぐらいの悩み事だったってことかな」
「そのことで頭が一杯か。ふうむ、あり得ることだ。草鹿君には、別に言いたいことがあったような話ぶりだったそうだ」
コトミは身を乗り出し、真剣に話を聞いていた。少し考えてから言った。「ヒトに助けを求めたくて電話をした。でも言えない理由があって、無難な話をしたということ?」
「おそらく。辛かっただろうね」
室内を沈黙が包んだ。二人の頭の中は、事件についての様々な憶測で一杯になった。
相沢とタダオは連れ立って事務室に入った。中では指紋の採取が終わり、鑑識係が移動に掛かっているところだった。警備課の山本が相沢に気づき、敬礼した。
「ご苦労様です」
「お疲れ。なんか出たかい?」
「これと言ったものは特に」
「ごみ箱の中は見たか?メモでも入ってるかも知れんぞ」
「もちろん。見た感じ、変ったものはないですね。館内のゴミは全部捨てるなと指示を出してあります」
「君は昨日、表の警備をしてたそうだね」
「ええ。17時に川崎君たちと交代するまで」
「マサコを見なかったのかい?」
「管理棟に行くところと帰って来たところは見ました。『ご苦労様です』と声を掛けてくれましたよ。特に変ったところはなかったですねえ」
「そうか、良かったな。夜の当番じゃなくて。どれ、一通り見てみよう。タダオ、君も中を観察して、変ったことがないか見てくれ」
タダオは部屋の中央に進み出て、ゆっくりと辺りを観察した。最初に目を付けたのは壁に吊るされたホワイトボードだった。時間割を年少組、年長組に分けて書き込むもので、午前8時から午後8時まですべて埋まっている。日付は11月11日。つまり今日だ。その横にもう一枚ホワイトボードがあり、これは無地のもので、特記事項を書いたり、メモの類いを貼っておくためのものだ。『渡辺さん休み〜13日まで』と大きく書かれ、プリントが二枚、磁石で付けられている。
「今日の予定がちゃんと書かれていますね」タダオが静かに言った。「このボードは自室に下がる前に必ず消して、次の日の予定を書き込みます。それはもう毎日。これに不自然な点はない」
タダオはボードの前を離れ、三つ並んだ事務机の前に移動した。真ん中がマサコ用だ。その上にはブックエンドがあり、各種の帳簿やファイルがある。その横には固定電話と空になった携帯電話の充電器がある。タダオはブックエンドから帳簿を取った。業務日誌だ。それをめくるとすぐに、異常に気づいた。
「あれ、変だな」
「どうした?」相沢は異変に緊張しながら尋ねた。
「昨日の記事がない」と言いながら、タダオはファイルごと相沢に差し出した。
相沢は受取って最初のページを見た。最後の日付けは11月9日。これはマサコが、その日の締めをしなかった事実を示している。
「いつもは何時にこれを書く?」
「大体9時頃です」
「記帳をさぼることは?」
「絶対にありません」
タダオは力を込めて否定した。相沢はこれに重要な意味が隠されていると直感した。
「これも大事な資料だな。持って帰って、記事を分析してみる」
業務日誌は証拠品を収めた段ボール箱に入った。タダオの視線は動いて、充電器の前にある卓上カレンダーに止まった。首を傾げてそれに見入った。
「これはどういう意味だろう?」
「どうした?」
相沢もタダオが指差す部分を注視した。
それは実用的なカレンダーで、日付の下の書き込みスペースが大きめに取られている。その9日と10日に×(バツ)がくっきりと書き込まれているのだ。
相沢は急に顔を顰めて深刻な声を放った。「なんと、Xじゃないか!」
「マサコにはこうして記号で何かを表す習慣がありました。自分一人に意味が分かるような。これもその一種だと思います。ほら、例えばここにSとあるでしょ。これはシミュレーターのSで、訓練生が模擬装置に乗る日を示しています」
その時、相沢の携帯が振動した。彼はすぐにそれを取り出し、耳に当てた。
「はい、相沢。...なに?......分かった。悪いがこっちにファックスを入れてくれないか。養成所の事務室だ。すぐに内容を見たい」相沢は携帯を閉じ、タダオに告げた。「新しい証拠が見つかった。ファックスで送ってもらう。君の意見を聞こう」
部屋の隅でパソコンをいじっていた山本が、異変を聞いて立ち上がった。タダオは真剣な面持ちで訊き返した。
「何が出てきたんですか?」
「彼女の服のポケットから紙切れが出てきた。それがなんと、犯人からの手紙らしいのさ!」
山本が興味ありげに割り込んできた。「犯人が脅迫状を送ったんでしょうか?」
「そういう内容らしい。パソコンの方はどうだ?」
「メールに変ったものはありません。どれも公式な文書です」
奥にあるファックスが微かな音を立てた。三人は一斉に機械の傍に集まった。くぐもった音と共に一枚の紙が吐き出されてきた。三人の視線が集中する。紙が機械から離れると同時に、相沢がひったくった。
マサコ様
私は日頃貴女に関心を寄せている者です。
貴女と二人きりで話がしたい。
内容は、貴女と信時副司令の爛れた関係について。
あのことが無になったとは、よもや思ってはいないでしょう。
これが公になれば、貴女は勿論、副司令、ひいてはネオ・ネルフ自体が醜聞にまみれることとなります。
さらにはチルドレン全体のイメージに傷がつくことになるのです。
ネット上のニュースは、検閲など追いつくものではありません。
今日の午後11時過ぎにそちらへお伺いします。静かな場所でゆっくり話し合いましょう。
このこと、くれぐれも他言は無用に。
万一私が逮捕された場合、自動的に証拠文書が反政府系組織やマスコミに流れるようになっています。
これは脅しではありません。従わなければ、不幸な結末が待っています。
ではまた。
PS.あの老人のテクニックはいかがでしたか?大いに興味あり。
相沢は怒りのあまり手が震え、小刻みに揺れる紙片をきつい目で凝視した。山本は痛ましげな顔でそれを見つめている。タダオは見ていられなくなったか、横を向いてしまった。
「なんて薄汚い奴だ!こいつ、絞め殺してやりたい!」
相沢の発する怒声が事務室に響いた。
「どうしました?」
阿南の声だった。振り向いた三人の目は、戸口に立った阿南の姿を捉えた。背後には草鹿もいる。
「チルドレンとパートナーの話は一通り聞きました。何か変化があったんですか?」
険しい顔をした相沢を見た阿南と草鹿は、不審げに中に入って来る。相沢はマサコに強く肩入れした阿南を不憫に思った。苦り切った顔で紙片を彼に差し出した。
受取って内容を見た阿南の顔はたちまち強張った。横から覗き込む草鹿の顔つきも厳しい。しばしの沈黙の後、阿南は興奮を抑えて静かな口調で言った。
「これはどこにあったんですか?」
「マサコのズボンのポケット。皺くちゃだったそうだ」
印刷によるその手紙は、筆跡という証拠を与えない。だが、犯行時刻を推理する重要な手掛かりになる。
草鹿が言った。「これで犯行は11時以降にあったということがはっきりしましたね。課長の携帯に掛けたのが11時少し前ですから」
「そうだな。後は遺体の鑑定から死亡推定時刻を割り出して、矛盾がなければ決まりだ」と、相沢。
阿南は意味ありげに他の四人を見回した。「それだけじゃない。犯人の範囲も絞り込まれました」
相沢もそれに気づいていたが、阿南に言わせた。「どういうことかな?」
「彼女と副司令との関係を知っているのは、保安部の人間と、上層部の一部、他数人だけです。上層部には常に警備が付き纏っているから、まず除外していい。つまり、犯人は保安部の中にいる可能性が高い」
四人の保安部員は揃ってだんまりに入った。視線が飛び交った。裏切り者が身内にいることが、ほぼ確定したのだ。
相沢がおもむろに口を開いた。「やれやれ、仲間を疑わなきゃならんとはな。酷な話だ。だが、阿南よ。お前さんだけは安泰だ。犯行時に病院にいたことは確実だからな」
草鹿が手を挙げて言った。「あ、それを言うなら僕も除いてください。僕、昨夜は商店街のバーで飲んだんです。店員に聞けば証言してくれるはずです」
「誰も君を疑っちゃいないよ」と、阿南は不機嫌そうにたしなめた。草鹿は決まり悪そうに頭を掻いた。
「すいません。話の流れで」
相沢は話を進めるべく口を挟んだ。「もういい。ここでその話はやめよう。それより、君たちも見ておけ。タダオが二つ発見してくれた」
阿南と草鹿は相沢の後について、業務日誌の説明を聞いた。より不可解なのは卓上カレンダーに印された記号だった。
「ここでもX。やはり犯人はXなんでしょうか?」と、草鹿は声を低めて言った。阿南はすぐに反応した。
「そうと言い切れん。9日にも印しがついているのをどう説明する?犯人がマサコにショックを与えたのは、間違いなく昨日のことだ。二つ並んだことが解せない」
「そうですね。ただのバツかも知れません」
「あのう、今ふと思ったんですが」これまで発言を控えていた山本が急に声を上げた。他の四人は一斉に山本を見た。「Xは保安部の人間とは言い切れないんじゃないでしょうか。彼女、マサト事件の時にXを目撃しています。だったら逆に、Xの方で彼女を目撃した可能性もあります」
「それがきっかけで彼女のスキャンダルを調べ上げた、か」と、阿南。
「ええ。でもまあ、推測に過ぎません」
議論を聞いていた相沢が話をまとめた。
「確かに現時点では保安部の者がXと断定はできん。しかし、濃厚になったとは言える。特殊監察部が黙っていないぞ。これから先、いやな思いをするだろうから、心の準備をしておくんだな」
阿南が提案した。「この記号がいつ入れられたか。意味は何か。チルドレンかパートナーが答えを持っているかも知れない。全員を一箇所に集めてもらいましょう。僕が訊きます」
「そうだな。早目にやってしまおう」と言って、相沢は固定電話の受話器を取った。相手はカウエルだ。
タダオは一人壁際に立ち、じっと捜査官たちを眺めていた。彼の電子頭脳は今日これまで起きたことを詳細に記録し続けていた。それが後に大きな意味を持つことになる。
集会所で子供たちに対し阿南がした質問は不発に終わった。
ミユは9日の記号を10日に見ていた。その時は10日の欄は空白だったとはっきり証言した。ミユが事務室を訪れたのが5時頃だから、問題の記号はそれ以降に記入されたことになる。9日のこととなると、みな記憶が曖昧で、参考になる証言はなかった。その意味を答えられる者は皆無だった。阿南期待のコトミも首を捻るばかりだった。
午後5時を回り、ジオフロント内部は散光塔から下る光もなく、人工の明りに照らされている。
1ヶ月前に、チルドレン霊廟に隣接してできたばかりの高い塔から、サーチライトの光が放たれた。それはぐるりと1回転して天蓋を舐めていく。まるで亡きチルドレンが、今なお見張りに立っているかのような印象を、見る者に与える。
阿南は一人とぼとぼと、森の中を病院へ帰るために歩く。医師に無断外出がばれ、帰院を強制されたのだ。相沢の命令もあり、阿南は今日の捜査を諦めざるを得なかった。背後の養成所では、どの部屋も明かりが灯り、捜査は依然続行されている。
肩にアサルトライフルをぶら下げた兵士が多数目に付く。村の警備に関しては少しも手抜きされていない。にも関わらず起きてしまった事件に、彼は敗北感に近いものを感じている。
下水道の捜索では養成所の真下に当る場所で、壁に取り付けられた管が壊され、中の監視カメラ用コードに画像送信装置が接続されているのが発見された。他に犯人と結びつく証拠は何一つ出なかった。
マサコの死亡推定時刻は、死後硬直などから、昨夜の午後9時から午前0時の間と鑑定された。携帯電話の通話と手紙の文面を加味すると、11時から0時の間、1時間に凶行はなされたと見なされる。
監察医による鑑定はスムーズに運んだわけではなかった。やっと到着した医師は、人間以外のものを診断したとて診断基準がない以上、無意味だと駄々をこねたのだ。ブーランジェ博士が、チルドレンの死後変化は人間と95%まで一致すると説明して、ようやく鑑定が始まったのだった。
村の主要道路に差し掛かった阿南に孤独が忍び寄ってきた。仕事を離れた彼の心に内省の時が訪れたのだ。シズコを失った今、この先どう生活していくか。そう考えると、彼は言いようのない喪失感に苛まれた。今さらながら、シズコの存在の大きさが胸に沁みる。
左手にある一軒の家が目に止まった。ハルカの家だ。灯火が外に洩れ、家の外観と相まって、何かしら懐かしさのようなものを感じさせる。
立ち止まった阿南の爪先は、その入り口に向いていた。無性にハルカに会いたくなった。あの娘ならば、打ちひしがれた心にいくらかでも慰めを与えてくれるかも知れない。公務として会う口実は十分にある。病院に戻るのは多少遅れるが、そんなのはどうでもいい。そう思った瞬間、彼の脚は一歩踏み出していた。
阿南は門扉を開け、豪勢な庭の中を玄関まで歩いた。チャイムのボタンを押すと、電子音に続けて女の声が聞こえた。ハルカはいる。
『どなた?』と、インターホンから声が聞こえる。最近はテロ対策として、簡単に面会できなくなっていた。阿南が答えると、鍵を開ける音がしてドアが開いた。ハルカは変らぬ美しさで阿南を迎えた。
「あら、阿南さん。お久しぶり。捜査ですか。ご苦労様です。どうぞ入って」
「どうも。少しお邪魔させてください。長くはかかりませんから」
居間に入った阿南に驚くべき光景が目に入った。タツヤが床に座り込み、すぐそばに猫のシロが寝そべっている。それだけならどうと言うことはないが、両者は耳に差し込んだコードで繋がっているのだ。
「阿南さん、今晩は」と、タツヤはにこやかに言った。阿南は目を丸くしながら挨拶を返した。
ハルカが苦笑いをしながら説明した。「シロの調子がおかしくて。すごく怒りっぽくなったんですよ。それで、今修正プログラムをダウンロードしてるんです」
「もうちょっとで終わります。ほら、シロ。阿南さんに挨拶しなさい」
急にシロは立ち上がり、阿南に向ってにゃーおと鳴き声を発した。阿南の驚きは大きく、開いた口がふさがらなかった。
「ふふふ。こんなこともできるんですよ。ぼくらの特殊能力の一つです」
「いや、驚いた。耳がコンセントになっているのは僕も知ってたけど、使うところは初めて見た」
「よし、終わった。シロ、お疲れ」
タツヤはコードをシロの耳から抜いてやり、頭を撫でてやった。シロはのっそりと奥の方へ歩いていった。タツヤも自分の耳からコードを取り、立ち上がって阿南に改めて挨拶した。「いらっしゃい、阿南さん。また大変な事件ですね。同情します」
「ほんとにひどいわ。まさかマサコねえさんを殺すなんて。あんないい人を。保安部は何をしてたんでしょう」
ハルカは早口で怒りを曝け出した。阿南はすまなさに頭を垂れる。
「申し訳ない。僕らがしっかりしていないからです」
「あら、別に阿南さんのことを言ってるわけじゃないんです。あなたは良くやってますよ。ついこの前も...阿南さん、その手」
ようやくハルカは阿南の右手に気づき、痛ましげな顔をした。
「あ、これね。大したことはありません。1ヶ月もすれば治りますよ」
阿南は微笑して気丈な様を作った。ハルカは深い同情の念を覚えた。
「ひどい目にあったんですね。ゆっくり養生して、早く良くなってくださいね」
「どうもありがとう、チルドレン。あなたにそう言ってもらえてうれしい」
タダオがハルカの横に並び、阿南に問いかけた。
「それで、阿南さん。今日は聞き込みですか?」
「そうだ、と言いたいところですが、もう時間がなくなりました。今日は挨拶だけにします」
「じゃあ、僕と一緒に出ましょう。買物に行かなきゃならないんで。うちの奥方がクリームチャウダーを望んでおいでなんですよ」
急にハルカが目を輝かせて阿南に言った。
「そうだ。ねえ阿南さん、うちで晩御飯を食べていって。タツヤの料理、すごく美味しいんですよ」
「ああ、それはいい。阿南さん、いつもハルカしか食べてくれる人がいないんで、たまに違う人の意見を聞きたいですね」
阿南は慌てて手を振った。
「いや、申し出はすごく有難いです。でも、実は病院から、至急戻って来いと言われてまして。あまり待たすわけにもいきません」
ハルカは残念そうに「そうなんですか」と言った。
「ええ、先生にどやされてしまいます」
「ね、だったらお茶だけでも。それぐらいいいでしょ。何か言われたら私の名前を出せばいいです」
「僕はそろそろ行かないと」と、タツヤがハルカに言った。
「お茶ぐらい、私でもできるわよ。私が阿南さんにサービスするから」
阿南を飛び越えて話が進んでいく。阿南はハルカの提案に魅力を感じながらも遮った。
「いや、それじゃあんまり...」
「いいから、いいから。この前買ったとびきり美味しいお菓子もあるのよ。二人で食べましょ。ね」
天真爛漫なハルカに、阿南は抗しきれなくなった。
「それじゃ、30分だけ」
「うわ、良かった。私ね、外の世界のこと聞くのが好きなの。じゃ、こっちに座って。さあ、どうぞ」
ハルカは阿南の左手を取って応接セットに導く。タツヤは微笑を浮かべて阿南に挨拶を送った。「どうぞごゆっくり」間を置かず、タツヤはドアの向こうに消えた。
阿南は柔らかいソファに体を沈め、その心地よさを味わった。ハルカは楽しそうにお茶の準備にかかる。今、この家にハルカと二人きりでいる。阿南はなんとも言えない気分に包まれ、薬缶をガスにかけるハルカの後姿を見守った。
「それで、どうなんです?犯人の目星はついたんですか?」
「いや、それはまだなんとも」
「ほんとに気分が滅入ることばかり。第四があんなことになって、次はマサコねえさんの死。妹たちも動揺してます」
「お悔やみ申し上げます」阿南は姿勢を改めて頭を下げた。
「私、とうとう一番の姉さんになっちゃいました。まだ19なのにね」
その言葉は阿南の胸に突き刺さった。あまりに残酷な話ではないか。彼に言うべき言葉はなかった。口を噤んで視線を彷徨わせた。当のハルカは平然としながら、食器棚からティーカップを二つ取り出した。
「阿南さん、ご家族は?」
「父も母も健在ですよ」と、阿南は答えた。義理の両親であることはあえて言わなかった。
「奥さんは?お子さんは?」
「僕は独身です」
ハルカは振り向いて意外そうな顔を見せた。
「へえ。そうなんですか。阿南さん、もてそうなのに」ハルカはいたずらっぽく笑う。「あ、もしかして女に興味ないとか?」
「いや、そういうわけじゃ」阿南は苦笑いをして否定した。それから真面目な顔をして答えた。「僕は結婚はしました。ですが妻は死にました」
それを聞いたハルカは暗い顔をして謝った。「そうなんですか。ごめんなさい。いやなこと聞いてしまって」
「いや、気にしないで」
「で、亡くなったのはいつ頃?」
「先日です。僕の家は第四にありました」
おれは嘘をついちゃいない。
「まあ...」ハルカは絶句して阿南を憐れみの目で見た。手を前に組んでぺこりと頭を下げた。「ごしゅうしょうさまです」
「どうも」
薬缶の湯が沸騰し、ハルカはガスを止めた。「それは寂しいでしょうね。でも、こうして仕事なんかしてていいんですか?ほら、人間はお通夜の準備とか、なにやかやで大変じゃありませんか」
「いや、僕の場合、特殊な事情がありまして。それに、こうして動いていた方が気分がまぎれるから」
目を伏せる阿南の態度から、ハルカはこれ以上立ち入らない方が懸命だと思った。代わりにダージリンの箱を取り、阿南に見せた。
「これ、本物の紅茶ですよ。飲んだことありますか?」
「そりゃ珍しい。前はいつ飲んだか覚えてません」
「さ、もう暗い話は禁止。気分を変えて楽しくやりましょう。ここは私のうちなんだから、私の指図に従ってもらいます。いいですね?」
ハルカは指を一本立てて、朗らかに宣言した。阿南としては同意する他にない。
「ええ、そうですね。それがいい」
シロが伸び上がって、隅にあるごみ箱に前足を入れ、掻き回している。おもちゃを物色しているのだろう。
ハルカは茶葉を素早くポットに入れ、お湯を注ぐ。かぐわしい香りが部屋に立ち上った。紅茶と言えば合成ものが当たり前になっていた。阿南は美味への期待で、わくわくするものを感じた。
銀の盆に器がてきぱきと並べられ、瀟洒な菓子箱から四つ、包装された菓子がつまみ出された。阿南は熱心に立ち働くハルカの姿を、うっとりと眺めた。柔らかい電球の光の中を、上背のあるハルカが、白い絹地のワンピースを揺らしながら行きつ戻りつする。絵のような光景だとさえ思った。
ティーポットやカップが並んだ盆を持って、ハルカがやって来た。遅いお茶会の始まりだ。阿南の前に置かれたカップに紅茶が注がれる。阿南は思わず唾を呑んだ。
「さあ、どうぞ。お砂糖はお好みで」
阿南は砂糖壷からスプーン一杯の砂糖をすくい、紅茶に入れ、かき混ぜた。期待に胸を膨らませながらカップを口に運ぶ。
「旨い」
思わず称賛の言葉が出た。それは普段飲むものとは比較にならぬ、複雑さと奥行きを持っていた。甘露とも言うべき自然の恵みが、彼の味蕾を浸している。
「美味しいでしょ。すごく高いものらしいのよ。私も大好き」
ハルカもにっこりと笑い、紅茶を口に含んだ。
「さ、こちらも召し上がれ。人気のあるお菓子のようですよ」
阿南は期待しながら菓子を取り、ビニールの封を切った。それは、何種類ものクリームを挟んだケーキをチョコレートでコーティングしたもので、一口齧った阿南を十分満足させるものだった。
「んん、美味しい。これ、買って良かった。やっぱり甘いものは最高ですね」
同じように頬張ったハルカが嬉しそうに言う。阿南はふと、この容姿を除けばどこにでもいそうな19才の娘が、全人類の盾であることの不思議さを思った。
「うん、とてもいい味ですね。なんだか得した気分になりました」
「そうでしょ。ほら、もっと飲んで、食べてください」
すっかりうちとけた二人は、絶品の紅茶を啜り、甘い菓子に舌鼓を打ちながら、和やかな時を過ごした。二人とも約束通り深刻になりそうな話題を避けた。途中、阿南が言った冗談が可笑しく、ハルカは口を大きく開けて笑った。
悲しみと怒りに澱んでいた阿南の心は、ハルカの清涼な声と容姿によってろ過されていった。この時ばかりはつらい現実を忘れていた。何かしらハルカに包み込まれていくような感覚を覚えた。
居間の時計が6時を告げ始めた。これ以上長居してはいられない。阿南は名残惜しさを感じながらティーカップを皿に戻した。
「さて、もう時間を大分オーバーしてしまった。行かなくちゃ」
「そうですか。残念ね。またいつか暇を見つけて来てください」
阿南は立ち上がり、別れの挨拶を始めた。
「ご馳走様でした。チルドレンにお茶を振舞ってもらった人間は珍しいでしょう。後々まで自慢話にしますよ」
ハルカも立ち上がり、阿南を見つめた。
「そんな。大したことはしてません。そうだ、ちょっと待ってて」
ハルカは目をぱちくりさせる阿南を残し、奥へ引っ込むと、先程出した菓子の箱を持って戻ってきた。
「どうぞ。これ、持って帰って食べて」
菓子箱を差し出すハルカに向って阿南は手を振った。蓋の開いた箱にはまだたっぷりと残りがあるのが見える。
「いや、そんな。もったいない」
「いいんです。ほら、お一人で大変でしょ?お腹の足しにしなさいな。私はこんなのしょっちゅう食べられますから」
「でも、なんだか...」
「さあ、遠慮しないで。取って」
阿南を見つめるハルカの目は最高に美しかった。彼は胸にじんと沁みるものを感じつつ、左手を伸ばした。
「じゃ、いただきます。どうもありがとう」
微笑を浮かべながら阿南は箱を握った。ハルカも柔らかく笑っていた。
ヒトとチルドレンの別れの時がきた。阿南は戸口に立ちドアを開けた。すぐ後ろに送りに来たハルカがいる。一歩踏み出した阿南はそこで動作を止めた。まだ言い足りないものを感じたのだ。振り向いてもう一度話しかけた。
「少しだけ。今日のあなたの親切は一生忘れません。僕は行きますが、あなたは忙しいから、もう会えないかも知れない。だから一つだけ、言っておきたいことを言います。マサコさんはとうとうパイロットになれませんでしたが、最高のチルドレンでした。そうは思いませんか?」
「阿南さん。おっしゃる通りです。マサコねえさんほどのチルドレンはいません」
ハルカが即座に同意したので、阿南は満足し、微笑した。
「意見が合って良かった。もう行きます。どうか元気でいて、長生きしてください。そうしてお互い年寄りになりましょう。使徒の来ない世の中でね」
「ええ、阿南さん。私、ずっと生き抜いてやります。マサコねえさんやキヨミねえさんよりも。大丈夫。私、こう見えても才能があるんですから」
もう行かなければ。阿南は最後に勇気を奮って、ささやかな望みを口にした。
「そうだ。また握手してくれませんか。あなたのファンのために」
ハルカはにっこり笑って答えた。「いいですよ。お安い御用です」
阿南は菓子箱を右の脇に挟み、左手を服で拭って差し出した。ハルカの左手がそれを握り、体温が直に阿南に伝わった。数瞬二人は手を握り合ったまま見つめあった。
どちらからともなく手は離れ、いよいよ阿南は帰路につく。
「では、長いことお邪魔しました。お休みなさい」
「さよなら。阿南さん」
ハルカは戸口に立ち、去り行く阿南の背中を眺めた。と、突然彼に「阿南さん」と声をかけた。阿南は軽い驚きを覚えながら振り向いた。
「阿南さん、あなた、変ったヒトですね」
「僕が?」何を言いたいのか分からなかった。
「ええ。私たちと会う人間は、大抵どこか緊張しているんですよ。みな愛想よくしますけどね。でも、あなたにはそれが感じられない」
阿南は苦笑を浮かべた。「いや、僕も緊張してないわけじゃ...」
「そうね。でも種類の違う緊張だと思います。うーんと。...うまく言えません」
照れ笑いをするハルカに、阿南は頬を赤くしながら言った。
「僕がずうずうしいだけですよ。じゃ、これで」
「さよなら」
阿南は門扉を開け、通りに出た。戸口にはまだハルカが立って、彼を見守っている。彼は左手を挙げてお別れをし、夜の舗道に視線を向けた。
ジオフロント内の空気は温度が下がり、爽やかな風が吹いている。阿南は昼間よりはよほどいい気分で通りを歩いた。頭上を覆う天蓋も鬱陶しさを感じさせない。彼の左手はポケットの中にあった。先程触れたハルカの掌の感触を、少しでも長く残しておきたかった。その手はいまだ彼女のぬくもりを残し、温かかった。
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