リリスの子ら

間部瀬博士

第12話

 31stチルドレン・マサコの死から1週間経った11月17日午後7時、司法解剖と第130使徒戦後の混乱のため、遅れに遅れたマサコの通夜の儀がようやく開始された。

 会場はチルドレン霊廟に隣接した葬儀場だ。木魚の音と読経の声だけが、びっしり埋まった会場に響き渡る。祭壇では夥しい数の菊花に囲まれたマサコの優しげな遺影が、参集した人々を見守っている。

 中央の通路を挟み左側は、フォン・アイネムを筆頭とするネオ・ネルフの役職員がずらりと並んでいる。その数は100人を超える。

 右側最前列の喪主の席にハルカがいる。彼女を筆頭に番号順にチルドレンが並ぶ。例外は69thチルドレンのアミで、この幼い2才の娘だけは、子守役を仰せつかったリカの隣りに座っていた。その後方に居並ぶのはヒトならぬパートナー達である。彼らは親族の扱いを受けていないのだ。タダオもその中の一人に過ぎない。尤も誰も不満を言うものはいない。さらに後ろはその他の参列者たちである。全部でおよそ200人がこの会場に集まっていた。

 周囲を、制服に黒い腕章を巻いただけの保安部員が3mおきに並び、取り巻いている。中枢部が居並ぶこの儀式は、テロリストにとっては最大の目標と言える。そのため警備体制は最高度に厳重なものになっていた。事前のチェックから今に至るまで、投入された保安部員は過去最大の規模だ。阿南も祭壇の横に立って目を光らせている。

 三人の僧が力強く経を読み上げる。ベヒシュタインが慣れた仕草で焼香をしている。これといった異常は何もない。阿南は周囲に気を配りながらも、ついハルカに視線を投げてしまう。

 黒い喪服に身を包み、じっと祭壇に目を向ける姿は、普段とは違う魅力を醸し出している。横にいるチヒロとは髪型が違うだけだが、阿南には特別な存在に見える。彼女と同じ空間にいることに喜びを覚えた。

 儀式は進み、榊原葬儀委員長の挨拶が始まった。ハルカも立ち上がり、榊原の横に立った。これより後は近親者のみにて、と型通りの挨拶が終わり、一般参会者は席を立ち始める。

 阿南は祭壇に向かい、マサコの遺影を見上げ、焼香をした。幸薄かったマサコの思い出が甦る。望まぬ肉体奉仕をさせられた末に、やっとパイロットへの未練を断ち切り、充実した人生を送ろうとした矢先の非業の死だ。憐憫の情で胸がつまりそうになりながら、阿南は深く頭を下げ冥福を祈った。

 会衆が減ったことで、この場での阿南の仕事は終わりだ。後は警備課が最大限の人員で警戒に当る。彼もまた退場する人々の列に加わった。

 通路の半ばで、阿南はコトミを見つけ、片手を上げた。コトミも手を振って応えてくれたのが嬉しい。

 出口ではパイロットたちが並んで頭を下げていた。ハルカの前に来た時は胸の高鳴りが抑えられなかった。

「お疲れ様です。来ていただいて良かった」

 その声を聞いて、阿南は疲れが吹っ飛ぶのを感じた。どうも、とだけ言い、頭を下げてロビーに出る。少し得をした気分になった。

 ロビーは帰途に着く者たちでごったがえしていた。阿南はきょろきょろと辺りを見回し、人を探した。いた。黒い礼装のベヒシュタインだ。ブーランジェと何か話している。阿南は目立たぬように柱の後ろに移動し、二人を見守る。やがて時が過ぎ、ブーランジェだけがその場を離れ、出口に向った。ロビーに残る者は既に数少ない。絶好の機会だ。

 阿南はさりげなく会場に戻ろうとするベヒシュタインに近づき、声をかけた。「あれ、博士、帰らないんですか?」

 振り向いたベヒシュタインは、阿南を認めて微笑んだ。「ああ、君か。久しぶり」

「博士はお元気そうで」

「どうも。聞いたぞ。大変だったな」

「まったくです。でも、落ち込んでいられないし、休んでもいられません。大変な事件が立て続けですからね」

 ベヒシュタインは慈愛の篭った態度で阿南を慰めた。

「そうか。大切なものを失ったのに、偉いな。ま、頑張ってくれたまえ。いつかいい事もあるよ」

「ありがとうございます。ところで、まだ残るんですか?」

「ああ、私はこれでも彼女の親族なんだよ。チルドレンは、全員私の娘のようなものだからな。違うかね?」

「なるほど。うらやましいことだ。いい娘さんたちばかりで」

「そう言ってくれると嬉しいね」

「ブーランジェ博士は帰りましたね」

 ベヒシュタインは諦めの表情をした。「彼女はこういうのは苦手でな。熱心なクリスチャンでもある」

「C計画のことも気になるでしょうしね」

「そうだろうな」

 言った瞬間、ベヒシュタインの顔から血の気が引いた。阿南はほくそ笑んだ。

「待て。今、C計画と言ったな」

「ええ。これでやっとはっきりしました。C計画は本当にあるんだと」

 ベヒシュタインの顔は怒りに赤らんだ。

「私を嵌めたな。C計画は極秘事項だぞ。どこでそれを知った?どこまで知ってる?」

「教えてくれたのはリリス教徒です。何十回も聞かれました。『C計画とはなんだ?』とね。今でも夢に見ますよ。だもんで、知ってるのは、残念ながらその名前だけです。やはりあるんですね」

「ええい、くそ!君はなんてずるい奴なんだ!卑怯者め!」

 阿南は博士の罵りもどこ吹く風という態度だった。

「僕には褒め言葉です。教えてください。C計画とはなんなんですか?」

「極秘だと言っただろう!まったく油断のならん。そんなことばかりしてると、いつかクビになるぞ」

「こういう性分なんですよ。秘密があるとほじくりたくなる。自分が所属する組織でもね」

 博士は怒りを込めて阿南の胸を指でつついた。

「これは保安部長に報告するからな」

「やめた方がいいと思いますよ。僕はあなたの方が先に喋ったと申し立てます。口を滑らせたとね。幸い、今の会話を聞いた者は誰もいない」

 そう言って阿南は広いロビーを見渡した。博士も苦渋と怒りを合わせた顔で回りを見た。その場にいるのはこの二人だけなのだ。結局有耶無耶にされそうな気がしてきた。考えてみれば、自分にも傷が付く。

「水掛け論で終わりか。分かった。私の負けだ。だが、いずれ借りは返すからな」

「どうも。ついでに内容まで教えてくれませんか?」

「駄目だ!そんなに知りたきゃ自分で探れ。ただし忠告するが、変に首を突っ込むと、君の命取りになるぞ!」

「分かりました」

 博士の剣幕に、阿南もシュンとならざるを得なかった。だが会談の成果はあった。ここはこれで満足すべきだ。

「すいませんでした。でも、博士には決して迷惑をかけませんよ。これは誓います」

「当たり前だ!私を愚弄しおって。さっさと帰れ!」

 言うやいなや、博士は立ち去り、会場の中に消えた。ぽつんと取り残された阿南はため息をつき、頭を掻いて出口に向った。

 

 

 ハルカたちチルドレンは、パートナーと共に別室に集まり、弁当を広げていた。50畳はある広い和室の奥には、マサコの位牌がひっそりと安置されている。

 こうしてチルドレン全員が集まる機会は、年末年始やこうした葬儀の他は稀にしかなく、まして全員で寝泊りするのだから、年少のチルドレンにとっては少しばかり楽しい場でもあった。ことに死の意味を知らない幼児には特別なイベントだった。

 パイロットたちがパートナーを交えて一塊りになっている。座談の中心はハルカだ。ベヒシュタインは小さな子供達の間に入り、弁当に箸を付けた。

 時々笑い声が起こる楽しい夕食の席で、コトミだけは不機嫌そうな顔で黒飯を口に運んでいる。隣りに座ったフユキはすることがないので、黙って彼女を見守っている。

「コトミ、なんかくらーい」コトミの向かいに座ったミユが声をかけた。「いつまでも引きずってちゃだめよ。こういうところじゃ楽しくやる方が、死んだ人も喜ぶんだそうよ。ね、博士、そうでしょ?」

「ああ、そうだ」器用に箸を動かし、鮭の塩焼きをつまんだ博士が答えた。「みんな落ち込んでたら死者は安心できん。騒いでも構わんのだよ」

 コトミはすまし顔になり、卵焼きを口に放り込んだ。「わたしは何ともないよ。これが普通だもん」

「無理しちゃって」ミユは苦笑いを浮かべ、ウーロン茶を口に含んだ。

 楽しい夕餉のひとときが過ぎてゆく。ほぼ全員が食べ終わる頃、まだ小さいチルドレンは早速遊びの用意を始めた。就寝時間のない今夜はいつも以上にたっぷりと遊べる。皆期待に胸が膨らんでいた。

「ねーねー、この辺でさ、大富豪やろうよ」

「やるやる」

 座机がどけられ、広く場所が開いた。畳の上にいくつもの座布団が丸く並べられ、トランプの場ができあがる。

 パイロット同士の雑談を楽しむハルカのそばにノゾミが来て、袖を引っ張った。

「ハルカねえさん。たまに遊んで」

「あら、私と?」ハルカはにこりと笑い、ノゾミを見上げた。

「うん。みんなでトランプするの。ねえさんとやりたいな」

 普段交流する機会のない憧れのエースと親しみたいのだろう。ハルカもその気持ちは分かる。「いいわよ」と楽しげに答えた。

「私も」チヒロが手を上げた。ようやく肩まで伸びた髪を揺らし、立ち上がった。

「じゃ、僕は観戦させてもらおうか」と言って、タツヤも腰を上げた。マサトも後に続いた。

 座はばらけて賑やかさが増した。コトミはトランプ遊びに加わらなかった。誘いには頭が痛いからと断り、座ったまま隣りのフユキと小声で話し合っていた。そのコトミがフユキを残して、一人ぽつんとマサコの位牌の前に居続けるタダオの前に行った。

「ねえ、タダオさん、話を聞いてもいい?」

「いいよ、コトミ。何を聞きたいの?」

 コトミはタダオの正面に座り込んだ。他の者たちは、トランプの場が立った奥に集まっている。

「事件のこと。タダオさん、ずっと捜査に立ち会ってたのよね?」

「ああ、殆どの場所にいたよ」

「じゃ、詳しいこと知ってるよね?」

「そう。特に事件に関することは、記憶から消さないようにしている」

「わたしに聞かせて。うんと詳しく」

「どうして?犯人は捕まったんだよ?」

「わたし、犯人はカウエルさんじゃないと思うの」

 タダオは眉を顰めて奥の方を見た。こちらに注意を払う者は誰もいない。しかし、デリケートな話をするのに適当な場所ではない。

「静かな場所に行こう」

 コトミとタダオは会場を出て、ロビーまで移動した。そこには中の喧騒など別世界の出来事、といった顔つきの警備員が三名、直立不動の姿勢で見張りに立っていた。二人は彼らからできるだけ離れるように、隅にある長椅子に腰掛け、話の続きを始めた。

「なるべく小さな声でね。それで、なぜあんなことを言ったの?ちゃんと証拠が出たんだよ」

「ナイフね。だけど、当てにならないと思う。Xならそのぐらいの工作はしかねないもの」

 コトミは複数のチルドレンから大まかな情報を聞き取っていた。

「さあ、どうだろう。カウエルさんが犯人じゃないと思う根拠はなに?」

「マサコねえさん、わたしに阿南さんのことを言わなかった」

「阿南さんの意識が回復したってことかい?でも、それがカウエルさんが無実だということと、どうつながるの?」

 コトミは真剣な眼差しをタダオに向け、囁いた。「草鹿は嘘を吐いている」

 間をおいて出たタダオの答えは静かなものだった。「あのねえ、草鹿さんは電話の内容で嘘を言った、だから彼が犯人だって言うのかい?でも、草鹿さんにはちゃんとしたアリバイがあるんだよ」

「そうよ。でも変。マサコねえさんみたいな気を使う人が、私に黙っていると思う?本当は逆に思ってたんじゃ」

「どうしてそんなことをする必要があるの?大体、現にマサコは阿南さんに電話したんだ。阿南さんの意識が回復したことを知っていた証拠じゃないか」

「そこよ。阿南さんに掛かった電話は、本当にねえさんが掛けたのかしら?」

「待ちなさい。保安部の人たちはみんな捜査のプロなんだよ?その人たちの仕事に、僕たち素人が首を突っ込んじゃだめだよ」

「でも、どうしても納得できないんだもの。わたしに黙ってるなんて、マサコねえさんなら絶対にしない。わたしが随分心配してたこと、知ってるんだから」

「確かにらしくないとは言える。だけど、すごく動揺してたことは確かだからね」

「その割りに仕事はちゃんとこなしてた。違う?」

 タダオは記録から明らかになった、10日のマサコの仕事ぶりを思い返した。特に手を抜いた跡はない。ただ一つ、業務日誌を書かなかったことを除いて。

「概ねその通りだね。けど、業務日誌をつけるのを忘れていた」

「それは普通、夜やる仕事でしょ」

「いつも9時頃につけてた」

 聞いた途端、コトミは厳しい表情であらぬ方向を見つめ、考え込んだ。チルドレンとパートナーは凍ったように動かなかった。と、突然コトミは顔を上げた。その目は大きく広がり、口は薄く開かれたままだ。そしてコトミは立ち上がり、辺りを歩き回り始めた。ぶつぶつと何かを呟いている。タダオは不思議そうにその様を見守る。

 やがて席に戻ったコトミは、真剣そのものの面持ちで呟いた。「やっぱり草鹿が犯人よ」

「コトミ」タダオは少し怒った顔でコトミを制した。「もうよしなさい。子供の出る幕じゃないんだ。下手をすると、君の立場が悪くなるぞ」

 コトミは必死に訴えた。「あなたの言いたいことは分かる。でもね、思い込みだけで言ってるんじゃないの。もう一つとてもおかしなことがあるから」

「おかしなこと?」タダオは興味を抱いた。

「ええ、聞いて。ねえさん、携帯から阿南さんの携帯に掛けた。これは間違いないわね?」

「ああ、そうだ」

「なぜ携帯なの?」

 タダオは訳が分からない。「どういうこと?」

「あの携帯電話は普段事務室の充電器に置いてあるわね。外出するときだけ持ち出してた。違う?」

「確かにその通り」

「ねえさんは9時に仕事を終えて、自分の部屋に引っ込んだ。それから11時に養成所を出たことになってる。ねえ、だったらどうして部屋の電話機を使わなかったの?わざわざ事務室に戻り、携帯を使った理由はなに?」

「それは説明できる。早めに用意したんじゃないかな。約束の5分前に出かける準備をしたんだと思う」

「だとしても、携帯を使うことないんじゃない?固定電話は充電器のすぐ隣よ。どっちが使いやすいかしら?」

「いや、きっと阿南さんの携帯の番号を調べる手間を省くため...」

 そこでタダオはある事実に思い当たった。どちらの固定電話機にも阿南の携帯番号を登録してあったことだ。それはマサコに頼まれて自分の手で登録したのだった。「いや、そうとも言えない」遠くを見る目をしながら考え込んだ。

 コトミはタダオの腕を掴み、真剣そのものの態度で頼み込む。「お願い。捜査で知ってることを全部教えて。わたしの勘が正しいかどうか確かめたいの。迷惑はかけないから。ひょっとしたらわたしたち、無実の人を死刑にしようとしてるのかも知れないの」

 

 

 同じ頃、ベヒシュタインは控室の喧騒を避けるように会場に出ていた。椅子が全て片付けられ、がらんとした印象だ。多数の照明が落とされ、祭壇の周囲だけが明るい。線香の煙が垂直に立ち上り、空中で水平に広がって遺影を撫でている。そこには警備員もおらず、この場にいるのは博士だけだった。

 彼の前に白木の棺がある。彼はそっと蓋についた四角い窓を開け、マサコの死に顔を見た。痩せ細り、白さを通り越して青みがかった顔だ。それでも生前の美貌の片鱗は残っている。

 彼は目を瞑り合掌して冥福を祈った。そうせずにはいられなかったのだ。目を開けた彼は、その顔に向って小さく囁いた。

「すまなかった。私が悪かった」

「いいえ、人類すべての責任よ」

 その声は彼のすぐ後ろから聞こえた。紛れもないチルドレンの声。彼は慌てて振り返った。そして息を呑んだ。

 彼の前には広々とした空間が広がっているばかりだ。声を発したはずの者は誰も見当たらないのだ。

 背筋を戦慄が駆け上がった。久しく忘れていた本物の恐怖に捉われる。それでも冷静になろうと努め、肌に鳥肌を立てながらもきょろきょろと周囲を見回し、祭壇の後ろ側を覗き込みさえした。だが、誰一人そこに見出せなかった。

 控室からは賑やかな歓声が聞こえてくる。それは遠い世界の出来事のようだ。彼の鋭敏な頭脳をもってしても、今の声の説明はつかなかった。幻聴とは考えられなかった。絶対に狂ってなどいないという確信がある。

 こうした場合、誰もがする行動を彼も取った。一目散に出口に向って走ったのである。

 

 

 ロビーに出たベヒシュタインの態度があまりに異様だったので、警備員の一人が駆けつけた。

「どうしました?何か異変が?」

 荒く息をするベヒシュタインに警備員が訊いた。他の二人も何事かと駆け寄ってきた。

 ベヒシュタインは目を剥いて答えず、ふらふらと長椅子に座り込んだ。

「博士、いったい何があったんですか?」

 目の前に立った警備員が問い詰めた。博士は右手を上げ、やっと口を開いた。

「すまない。いや、何でもないんだ。実は呼吸器系の疾患があってな、たまに息苦しくてたまらんようになる」博士はネクタイを緩め、喉の回りを楽にした。いつの間にか汗びっしょりになっていた。「線香が良くなかったかも知れん。こうして少し休んでいれば楽になる。君達は持ち場に戻ってくれ。心配かけたね」

「水をお持ちしましょうか?」

「ああ、頼む。あ、それから、この件は上に報告したりしないでくれ。大げさなことになるのは好まんのでね」

 そう言われた警備員たちはその場を離れた。そこでベヒシュタインは、後方に佇むコトミとタダオに気づいた。

「博士、本当に大丈夫ですか?」

 タダオが心配そうに声をかけた。博士が注目したのは、心細げに横に立つコトミの方だった。

「気にするな。ところで君たちはずっとここにいたのか?」

「ええ、向こうで話をしてました」

「本当か?嘘じゃないな?」

 コトミが声を上げた。「本当よ。変なこと聞かないで。大体、嘘ついてもしかたないでしょ」

 博士としては頷くほかになかった。そもそも彼らが博士を脅かす動機が見当たらなかった。すまん忘れてくれと謝り、どうにかその場を治めた。

 

 

 その晩博士は一睡もせず、タダオと喪主であるハルカと共に故人の夜伽をした。予定では早目に寝るはずだったのが、あの怪異のせいで全く寝付けなかったためだ。ハルカは恐縮して盛んに寝るよう勧めたが、意に介さなかった。誰かと話をしている方が気が紛れたのである。

 コトミの方も興奮して寝入るのが遅かった。頭の中は事件のことで一杯だった。推理はまだ完全とは言えない。その細部に意識が行き、眠気が訪れたのは2時を廻ってからだった。

 

 

 次の日の告別式は特に事件もなく、平穏に終わった。マサコの遺骸は焼かれ、立ち昇る煙と共にジオフロントの空気と一体になった。こうして31stチルドレン・マサコこと妙光院真善慈母大姉は彼岸の住人となり、永遠の安らぎを得たのである。

 残された者達に試練の終わりは、まだ見えない。彼らはこれからも、命懸けの戦いを繰り返さなければならないのだ。

 

 

 午後3時を過ぎ、繰上げ法要も終わってチルドレンは開放された。皆疲労を感じていた。後の予定は何もなく、ゆっくりと休養できる。喪主のハルカなどは一刻も早く帰宅して、眠りに就きたかった。だが、ここに例外が一人いる。

 コトミである。彼女にはこの養成所全体が静まり返るひとときが好機だった。タダオと共に事件現場を検証して回る積もりだ。前夜の彼女の説得は功を奏した。

 養成所に帰って数分もしないうちに、コトミとフユキはタダオの元に行った。彼は事務室で待っていた。

「やあ、早いね。疲れてないかい?」

「平気よ。早速始めましょ」

「できるだけ動かさないで。動かしても元の位置に戻すこと。本当は僕と捜査官以外の者は入っちゃだめなんだからね」

 現場保全の観点から、事件に関係のありそうな場所は立ち入りが制限されていた。コトミは頷き、まずマサコの事務机に向かった。

「これが問題のカレンダーね」

 例の卓上カレンダーが元からあった場所に置かれていた。9日と10日にXが記された問題の品だ。コトミは穴の開くほどそれを見つめた。

「エックスともバツとも見えるわね。フユキはどう思う?」

 半ズボンの美少年は、難しい顔をして首を捻った。

「どちらとも言えないよ。形が単純すぎるから」

「何か別の意味はないかな」

 タダオが口を入れた。「ギリシャ数字の10とも読める」

「10ねえ。あんまり関係なさそう」

「一日が終わるたびにバツで消していくというのもあるよ。テレビでそういうの見たことある」と、フユキ。

「わたしもある。でもそれって普通、目的の日を丸で囲むんじゃない?」

 コトミは11月のカレンダーを抜いて、12月を見てみた。丸で囲んだ日など、どこにもなかった。

「違うような気がする。もっとこれの意味を考えましょう。ねえ、タダオさんならどんなときこんな記号を使う?」

 タダオは思いつくままに並べてみた。

「何かを消す。不正解。かける。だめ。手紙の最後に書くキス」

「要するに何かを否定するってことよね」

「悪く考えると、二日続けてXと会ったって意味にも取れる」

「それはどうかな。9日はわたし、ねえさんと一緒に阿南さんのとこ行ったけど、普通だったもの」

 三人は黙りこくって卓上カレンダーを見つめ、考え込んだ。しばらくしてタダオが沈黙を破った。

「ねえ、とりあえず、この二つの記号は同じ意味だと仮定してみよう。二日続けて起きたことが何かを考えてみるんだ」

「二日続けて...。じゃ、9日に何があったかから考えればいいわね」

 コトミは宙を見上げて記憶を辿った。フユキも同じようにした。

「ぼくの記憶だと、朝はいつも通り。それからちびっ子たちのお守りをしてた」

「わたしたちは自習。お昼を一緒に食べ、幼い子をねえさんたちに預けて、いつもの時間に外出。わたしも一緒に行った。阿南さんのお見舞い。でも意識が回復してなくてがっかり...」

 その時、突如啓示が舞い降りた。コトミの目は大きく広がった。

「分かった!」

「「何が?」」二人同時に叫んだ。コトミの顔に視線が集まった。コトミはカレンダーを見つめながら、興奮を隠さず答えた。

「この記号の意味はバツ。ねえさん、阿南さんの意識が戻ってなかったんで、だめだったという意味で印しを打ったのよ!次の日、ねえさんは草鹿から嘘を聞かされた。それで、もう1回バツを入れたの!」

 タダオが失望の色を見せて言った。「それは、草鹿さんが嘘を言ったとすれば、の話だろ」

 コトミはなんの気後れも見せず、言い張った。「反対に、これが草鹿が嘘を言った証拠だと言いたいの。ミユねえさんの証言によれば、この記号が書かれたのは午後5時以降。草鹿との電話の後よ」

「ううん。君の推測は頷けなくもない。草鹿さんが嘘を教えたとして、動機はなんだろう?」

「もちろん、阿南さんに電話させないためよ!夜、自分だけが会うために、口を封じる必要があったの!他の者に介入させたくなかった!」

 タダオとフユキはじっとコトミの言葉に聞き入っている。

「まず、マサコねえさんは3時半過ぎにどういう風にかは分からないけど、脅迫状を受取った。差出人は草鹿。あれとは全然違う内容のやつよ。たぶん、詳細は電話で話すことになっていた。ねえさん、動揺しながら指定の時刻を待ち、4時3分に電話した。この時の会話を他人に聞かせたくなかったってことは、わざわざ携帯を使ったことで、はっきりしてる。この事務室は出入りが多いからね。きっと奥の部屋に引っ込んだんだと思う。そこで、ねえさんは草鹿にひどいことを言われたのよ。可哀想なねえさん!タダオさんがいないのをいいことに...。おそらく、返事は直接会って聞くことになった。で、約束したのが、9時」

「えっ、11時じゃないの!?」

 昨夜、コトミの話を聞かなかったフユキが驚きの声を上げた。さらにコトミが打ち明けた推理は、極めて意外なものだった。

「11時よりずっと前だったのよ!あの真面目なねえさんが日誌をつけなかったのは、9時に約束があったからよ!用が終わってから書くつもりだったんだわ。

 次に、どうして外で会ったのか?10時まではみんな起きてる。誰かが下に来ないとも限らない。だから、誰にも見られたくないので、外の森を指定されたの。

 慎重な草鹿は地下水道を通って裏口のすぐそばまで行き、監視カメラを無効にする装置をしかけた。偶然にも、カウエルさんもその時、外に出ていた。ねえ、変だと思わない?カウエルさん犯人説では、8時49分に機械を仕掛け、それから2時間も間をおいてからねえさんと会っている。チルドレンが起きている危険な時間帯を、わざわざ選んで地下に潜っているの。わたしなら、10時を過ぎて寝静まってから行動を起こすわ」

「僕もそこは引っ掛かっていた」と、タダオ。

「ええと、それからねえさんと草鹿は夜の森に行った。静かな森で草鹿は、まずねえさんから昼間の脅迫状を回収した。証拠を残さないためと言って、持ってこさせたの。それから脅迫の本題に入る。詳しい内容までは分からない。大方、スパイの手下になれとか。ところが、ねえさんの反応は想定外だった。逃げ出して、警備員を呼ぼうとした。草鹿は慌てて押し倒して口を塞ぎ、ナイフを出して...」

 コトミは口をつまらせ、虚空を見つめた。目の端に涙の粒が浮かんだ。フユキがコトミの手を握った。コトミは、ほうっとため息を漏らし、息を整え、驚くべき推理を続けた。

「ねえさんを殺した草鹿は必死に考える。どうしたらこの犯罪を隠し通せるか?絶対安全圏に逃れる方法は?いいやり方を思いついた草鹿は、体をまさぐり、携帯を奪った。どんなときでも外出するときは携帯を持って歩く決まりだから、思惑通りだったでしょう。さらに、養成所のこの場所に戻り、パソコンで内容をちょっと変えた脅迫状を作った。11時に会う内容にしてね。それを持って帰り、死体のポケットにねじこんだ。それから遺体を引き摺り、森の奥へ」

 そこでコトミは机の前を離れ、遠くを見る目で、まるで犯人の後を追うように歩いた。

「途中、草鹿は遺体を下ろし、ある事をした」

 身じろぎもせずコトミの背中を見ていたフユキが尋ねた。「ある事?それって何?」

 コトミは振り向き、フユキを無視してタダオに聞いた。

「ねえ、警備員がねえさんの携帯を見つけた時、草鹿もそばにいた。間違いないわね?」

「間違いない」

 コトミは二人の顔を見ながら、事件の核心を語り始めた。

「草鹿は草むらに辿り着くと、懐中電灯で照らしながら、自分の携帯を取り出す。デザインは同じ官給品。それをストラップが見えないように、慎重に草陰に置いたの。ちょっと見ただけでは、誰のか分からないように」

 フユキは呆然となり、コトミの話に耳を傾けていた。人間との差はまるでなかった。タダオは昨夜、このトリックのあらましを聞いていたので落ち着き払っていた。

「草鹿は側溝に遺体を投げ込んだ。どうして地下水道にしなかったのか、相沢さんが疑問を持ってたそうね。それはきっと遺体発見が遅すぎても困るから。死亡推定時刻があんまり広い範囲になってもまずい。ほど良い時間に発見される必要があったの。それから地下水道に潜り込み、着替えやなんかを済ませてバーへ行く。十分自分がいることを認識させ、トイレに立つの。それが10時55分!

 あいつ、トイレでねえさんの携帯で阿南さんの番号に掛ける。おそらく前もって掛けて、出ないことを確認しておいたはずだわ。これでその時、ねえさんが生きていることになった!

 次の日、草鹿は急いで前夜、携帯を置いた場所へ向かった。ここが肝心なところよ。草鹿はわざと自分以外の者に発見させた。前からそこにあったことを確認させるためよ。自分より他の者に見つけさせた方が、怪しまれなくて済むでしょ。それから、警備員に鑑識係を呼びにやらせた。そこで一瞬の空白ができる。

 この瞬間にすりかえたの!前と同じようにストラップが見えないよう、本体をかぶせてね。持ち上げて初めて、ねえさんのだと特定されるように。こうしてねえさんの携帯は、ずっとそこにあったことになった。

 あの場所と商店街のバーは何キロも離れた場所にあるから、電話をしてから現場に戻り、帰宅するのは無理だとみんな思う。飲んだ後は普通に家に帰るだけでいいの。アパートには監視カメラがついているから、帰宅したところは、ちゃんと時刻付きで記録されているはずよ。その後、外出しなかったこともカメラが証明してくれる。こうして鉄壁のアリバイが出来上がったわけ」

「カメラの妨害装置を外さなかったことはどう説明する?」

「きっと時間が足りなかったのよ。これだけ色々すれば、かなりの時間になるわ。11時前にはバーまで行かなきゃならないから、全然余裕はなかったと思う」

 フユキはコトミの話に感銘を受けていた。「やっぱりコトミはすごいや」と目を丸くしながら言った。タダオの電子頭脳は、これ見よがしに携帯電話を見せる草鹿の映像を再生していた。あのタイミングで取り出したのには意味があった。自分の携帯はここにあるぞ、とアピールしたかっただろう。無事回収できた安堵と、トリックに気づかない捜査官達への侮蔑を、奥に隠していたに違いない。

 そのタダオがおもむろに口を開いた。「おそらく君が正しい。なるほどと頷ける部分が沢山ある。でもね、はっきりとした証拠がないよ。こうじゃないかという推測ばかりだ。これで保安部の人たちを動かせるかな?」

 コトミは悔しそうな表情を見せた。「そうね。このままじゃ、一応話は聞きました、で終わってしまいそう。だから、わたしたちで証拠を捜すの!わたしたちの目で。わたしたちの手で」

「うん、そうしよう」タダオは意欲を見せて一歩前に出た。「できる限りの努力をしよう。それでだめだったら、また考えればいい」

「賛成。ぼくたちならきっと何かを見つけられるよ!」と、フユキがコトミを励ますよう朗らかに言った。

 コトミは腰に両手を当て、にっこりと微笑んだ。

「いいわね。それじゃあ、チルドレン探偵団の活動開始よ!」

 

 

 自信満々で捜査を始めた探偵団だったが、素人が簡単に成果を挙げられるわけがない。

 捜索はまず事務室から始まった。その辺にあるものをかたっぱしから広げ、ひっくり返し、鵜の目鷹の目で手掛かりになりそうなものを探したが、事件に結びつきそうなものなど一つも見つけられなかった。奥の部屋も同様だった。

 結局なんの進展もないまま夕食の時間が来たので、午後の捜索を中止し、食後に再開することになった。

 夕食は繰り上げ法要で出た仕出し弁当があるので、皆それを食べた。席上、物も言わず食べ物を掻き込むコトミを、二三のチルドレンは怪訝そうに眺めた。

 

 

 夕食後の捜索はマサコの自室で行われた。三人は部屋の中央に集まり、何から手をつけるか相談を始めた。

 話を切り出したのはコトミだった。「ええと、どこから始めたらいいかな?」

「ここには部屋が三つ。ここと、奥に寝室と予備室だ。後は洗面所、浴室にトイレだから、いいよ。一人一部屋を担当するというのはどう?」と、年長らしくタダオが提案した。

「ちょっと待って」フユキが口を入れた。「ここも保安部の人たちが散々捜したところだよ。ぼくたちが何かを漁っても、成果は上がらないんじゃないかな?」

 コトミはフユキのもっともな意見に口を尖らせた。「それを言っちゃおしまいよ。確かに床を這いつくばったり、そこら中ひっくり返してみても何も出ないと思うわ。それはさっきの家捜しで十分分かった。だから、わたしたちは捜査の人が見逃したことがないか考えるの」

「例えばどんなこと?」

「そうねえ。ねえさんは日記とかつけてないの?」とタダオに尋ねた。

「いや、そういう習慣はないよ」

「なんか書き残したこととか、ないかしら」

「メモの類いは残っていなかった」

 コトミはため息をついた。「仕方ないわね。じゃあ、まず引き出しをみんな開けて、中の物を見ましょう。タダオさんは足りなくなったものとか、反対に増えているものとかがないか注意して。わたしはその食器棚を見る。フユキは台所、タダオさんはそこの箪笥よ」

 すっかりこの場を仕切るコトミの指図で三人は散らばり、家捜しを始めた。あちこちでばたばたという音が響く。それが30分も続いたところで、コトミが音を上げた。

「ふう、やっぱり何もないわねえ。タダオさん、どう?」

 タダオは箪笥の引き出しを閉めて、コトミの方を向いた。

「駄目だね。どれもこれも当たり前のものばかりだ。不審なものはないよ。どうする。中止しようか?」

「まだ駄目よ。今度はそっちの部屋を見ましょう」

 台所からフユキが戻ってきた。こちらも何の成果もなかった。タダオが腰を下ろし、コトミの肩を叩いた。

「ねえ、コトミ。夕食の時間中に考えてみたんだけど、こうなるのは当然だよ。だって、何かあったらとっくに捜査官が見つけているはずだからね。君があんまり熱心だから、言わないでいたんだ。どう?もう部屋に戻って休まないかい?疲れているんだろう?」

「いやよ」コトミの目が厳しくなった。「全部すまさなきゃ納得がいかないわ。さあ、場所を変えましょう」

 タダオは諦めの表情を見せて立ち上がった。

「分かった。最後まで付き合うよ」

「そっちの部屋には何があるの?」コトミは廊下の向こうにある部屋を指した。

「あそこは本とかオーディオとかパソコンが置いてある」

 コトミははっとしてタダオの顔を見上げた。「パソコン?パソコンがあるの?」

「ああ。世間並みにね」

「手掛かりがあるかも!どうして早く言わないの!」

「それは捜査官が詳しく調べたんだ。これといった発見はなかった」

「わたしも見たいわ。見方を変えれば何か出るかも」

「よし、見てみよう」

 意気込んでその部屋に向うコトミの後に、タダオとフユキが続いた。

 

 

 タダオが隅に置かれた机の前に座り、上に置かれたデスクトップパソコンの電源を入れた。慣れた手つきで操作し、インターネットのブラウザを開いた。

「マサコはあの日、8時20分頃から45分頃までこのパソコンを使った。ネットに繋いだんだ。今、履歴を調べてみる」

「そんなのが残ってるの?」

「ああ、もっと前のもあるよ。メモリーに残っているんだ。そら、これだ」

 10日に開いたURLの一覧が時刻付きで現われた。全部で10件の該当があった。

「上から順に見ていきましょう。ねえさんが何を考えていたか分かるかも知れない」

 三人の目がモニターに集まった。最初に開いたのは、ある新聞のページだった。マサコもニュースを知りたかったのだろう。次々と下層のページを開いていっている。関心の向きとしては、一般の主婦とそう変らない。次が仮想商店街のページだ。彼女が買おうとしたのは何だったのか、コトミは大いに興味を持ったが、訪れたのはどれも平凡な家庭用品のものばかりだった。コトミは残り少ない履歴にあせりを感じていた。

 最後のアクセスは『家庭の医学』という名のサイトだ。医学についての百科事典的な役割を果たす目的で運営されていて、訪問者も多い。マサコはトップページからメインの記事ではなく、Q&Aのコーナーに移っている。そこで履歴は終わっていた。

 そのコーナーは一種の掲示板で、質問者が何かを書き込むと、有志の専門家がそれに答えるという形式のものである。三人はモニターに集中した。

『Q:主人が脂肪肝と診断されました。今後の食生活はどう改善すればよろしいでしょうか?』

                       :

『Q:35歳主婦です。最近、足がむくむようになりました。栄養には気をつけているつもりですが...。医師に相談すべきでしょうか?』

                       :

 タダオは画面をスクロールさせ、記事を追っていく。彼らにはなんの関係もない話題が続く。

 フユキが画面を覗きながら言った。「ずいぶん書き込みがあるね」

「ヒトにとっては大事な問題だからね」と、タダオ。

 コトミが疑問を口にした。「なんでこんなページを見たのかしら。ねえさんは健康に問題があったの?」

「いや、何も聞いてない。ほら、そろそろ10日の書き込みだ。マサコが関係してるとしたら、ここら辺までだよ」

 三人は注意深く書き込みを読んだ。どうでもいいものから極めて深刻なものまで、病に関する人々の肉声が、コトミらヒトならぬものの視界をよぎっていく。

 そしてマサコが閲覧していた時間帯、11月10日20時35分の書き込みが現われた。

『投稿者:jxb 82年11月10日 20:35

 Q:私の友人が先日7日の使徒戦で有毒ガスを吸い、意識を失ったままの状態でいます。教えてください。彼は今後意識を取り戻す可能性はあるでしょうか?』

 コトミはあっと声を上げた。タダオとフユキも食い入るように画面に見入った。一日後の回答は、詳しいデータがないとなんとも言えないという、無難なものだった。それに対する反応はない。

「これ、投稿したのねえさんよ!間違いない!」コトミは明らかに興奮していた。「ついに証拠を見つけたわ!やっぱり阿南さんが意識を取り戻したことを知らなかった。草鹿は嘘をついてる!ねえさん、阿南さんが心配でたまらず、こんな書き込みをしたのよ!」

「コトミの言う通りだよ!すごい。やったね、コトミ」

 フユキとコトミは手を取り合って喜ぶ。タダオの方はそんな二人を眺め、微笑するだけだった。

「良かったね。でも、水を差すようで悪いけど、まだ十分じゃない」

「えっ。何か不満があるの?」と、コトミは苛立ち混じりにタダオに言った。

「保安部の人達の立場になって考えようよ。容疑者はもう捕まった。物的証拠もある。それを覆すのは並大抵じゃない。これを書き込んだのがマサコだというはっきりした証拠でもなければ、ぼくらの推理は取上げてくれないよ」

「確かにマサコって名前はない。だけど...」

「毒ガス関連の書き込みはこれだけじゃなかった。二日前から4件はあったよ。この時間にこの書き込みがあったからと言って、マサコとは限らないと言われるんじゃないだろうか」

 コトミは黙り込んで画面とタダオの顔を交互に見た。確かに彼の言う通り、これだけでは説得力に欠ける。フユキも何も言えなかった。

「そうね。ねえ、この書き込みがどのパソコンからしたものか、調べる方法はないの?」

「この機械からじゃ無理だ。プロバイダーなら調べられる。でも、僕らが言っても駄目さ。捜査権限のあるところじゃないとね」

 コトミは唇を噛み画面を睨んだ。あともう一歩のところまで来た。ここまで来て引き返したくなかった。どこかに突破口はないか。

 フユキがそっと言い出した。「あの、このjxbってのが、マサコさんのハンドルネームだって、証明できないかな」

「それよ」コトミは勢い込んでタダオに尋ねた。「ねえ、ねえさん、この名前使ってた記憶ない?タダオさんが頼りよ」

「いや、マサコはいつも一人でパソコンを使ってた。ハンドルネームまでは見たことないよ」

 つれない返事にコトミは気を落としかけたが、タダオがふと思いついた。

「いや、まてよ。このjxbで検索してみよう。どこかで使っていれば、引っ掛かるかもしれないよ」

「そうなの?やってみてやってみて」

 コトミはタダオの肩に縋り、促した。タダオは早速検索用のボックスにカーソルを合わせ、JIS配列のキーボードでjxbと打ち込み、実行した。

 検索ページが開く。だが、そこに出た表示は『結果:0件』だった。

「だめか...」

 落胆も顕わにコトミが言った。が、タダオはまだ諦めていない。

「別の検索エンジンがある。そっちを試そう」

 新たな検索用サイトを開いた。タダオの指がキーボードを走る。j、x、b。コトミはそれをじっと見ている。結果は同じだった。

「まだだ。もう一つある」

 さらに別のサイトに移り、みたびキーボードを叩く。j、x、b。

「待って!」

 コトミの叫びが静寂を破った。タダオは驚いて振り返った。フユキも唖然としている。

「タダオさん、ちょっといい」

 コトミが前に出て、キーボードに触れた。人差し指でJのキーを指す。

「Jのキー。右下にはなんと書いてある?」

「ま、だね」

 コトミの指がずれた。「次はX。これには?」

「さ。あっ!」

 すぐにタダオはコトミの言いたいことを理解した。横から覗いていたフユキも答えが解り、目を丸くした。

 コトミが得意満面で叫んだ。「Bは『こ』よ!」

 つまり、彼女の答えはこうだ。J=ま、X=さ、B=こ。

「やったー、コトミ、最高!」フユキも跳び上がらんばかりだ。タダオは感に堪えぬという面持ちでいる。

「そうか。マサコは言わば即席の暗号を使ったんだ。普段アルファベットばかり使っていると、右下のひらがなには殆ど注意を払わない。だから、jxbとマサコを結び付けられる者は少ないだろう。キーボードが、そのままコード表になっているようなものだね。コトミ、良く気がついた」

 コトミは、はにかんだ笑みを見せた。「ふふ。わたし、キーボードあんまり慣れてないから。あなたの指先見てて、はっと思ったの」

「これでマサコがこの書き込みをした可能性は、飛躍的に高まった。保安部を説得できるかもしれない」

「でも、捜査官の人はなぜこれを気にしなかったんだろう」と、フユキが疑問を口にした。

 コトミが答えた。「阿南さんのことなんか眼中にないからよ。事件に関係があるとは思わなかったのね」

 タダオが補足した。「無理もないと思うよ。沢山ある書き込みの中の一つで、名前も違う。11時前の電話の件があるから、はなから疑いもしなかった」

「さあ、これではっきりしたわ。あの日、ねえさんと話をしたヒトで、犯行が可能なのは草鹿かカウエルさん。そのうち草鹿は明らかに嘘をついた。アリバイだって疑わしい。だから、犯人は草鹿。確かにはっきりとした証拠があるわけじゃない。でも、わたしたちの推理って、点数で言うなら70点ぐらいつけられると思わない?わたしたちは素人なんだから。100点にするのは保安部の仕事よ。こうしちゃいられないわ。今何時?」

 タダオが時計を見て答えた。「8時35分。どうするつもり?」

「今すぐ阿南さんと話す。大丈夫、まだきっといるわよ」

「こんな時間にどうだろう。明日にしたら?」

「駄目よ。無実のヒトが苦しんでいるのよ。一刻も早くしなきゃ気がすまないわ」

 コトミは答えも待たず居間に戻り、隅にある電話機に向って歩いた。壁にぶら下がった電話番号簿で公安二課の内線番号を調べ、ボタンを押し始めた。後から来た他の二人は、呆気に取られた顔でコトミを見ている。

 呼び出し音がコトミの鼓膜を打つ。緊張の時が流れる。5度目のコールでやっと相手が出た。

『はい、公安二課』

「わたし、チルドレンのコトミです。遅くにすいません。阿南さんいますか?」

『ああ、僕だ。こんな時間にどうしたの?』

「おじさん!マサコさんの事件で、とても重大な事実を発見したの。今すぐ話をしたいの」

『まあ落ち着いて、チルドレン。重大ってどんなことだい?』

「よく聞いて。カウエルさんは犯人じゃない。真犯人は別にいるの。わたしたち、その証拠を発見したの!」

『なんだって...』電話の向こうで息を呑むのが分かった。間を置いてまた話し始めた。『あのねえ、チルドレン。ちゃんと証拠が挙がったんだ。いずれ起訴できる見通しなんだよ?』

「いいえ、それはでっち上げの証拠よ。わたしは真犯人を知っているの」

『ふうん、そうかい。じゃ、それは誰?』

 コトミは口ごもった。電話で口にするのはためらわれた。この瞬間、阿南のすぐそばに草鹿がいるかもしれない。

「電話じゃ話したくないわ」

『そう、分かった。いいだろう、話を聞こう。さっき、わたしたちと言ったね。君以外にも同じ意見の人がいるのかい?』

「いる。タダオさんにフユキ。みな同じ考えよ」

 電話の向こうの阿南は数瞬黙りこんだ。何かを考えている。

「なんなら、タダオさんに代わる?」

『いや、それには及ばない。よし、待ち合わせをしよう。人のいない静かな場所がいいな。秘密の話みたいだからね。A−3地区に新築中のビルがある。知っているかい?』

「分かるわ。コンクリートがむき出しのとこ」

『そこで9時半に会おう。ただ、君だけじゃ困る。タダオとフユキもいてもらいたい。三人の意見を聞きたいんだ。それでいいかい?』

「いいわ」と、コトミは独断で答えた。

『じゃあ、また。必ず三人でおいでよ』

 そこで電話は切れた。コトミは他の二人を見回し、告げた。

「9時半に会うことになった。みんなで行くわよ。A−3地区のビル工事現場。いいわね?」

 タダオは苦笑いをしながら頷いた。「強引だね、君も。よし、今夜のうちに片付けよう。フユキもいいね?」

 フユキに勿論異存はない。タダオがパソコンの画面をプリントアウトし、コトミがたたんで持った。大事な説得材料だ。三人は8時45分に養成所を出て、夜の街に向った。警備員にはタダオが適当な説明をした。

 

 

 三人は森を出て、循環バスに乗り、ビルの立ち並ぶA−3地区で降りた。停留所から、新たに広報部の本部となる予定のビル工事現場に向った。5分も歩くと目的地に着いた。その5階建てビルは鉄筋コンクリートが完成したばかりで、外側は簡易な鉄骨の足場で囲まれている。周囲は暗く、人通りもない。密談にはうってつけの環境だ。

 周囲をぐるりと囲う鉄板でできた塀に、車両が通る出入り口があった。タダオがそれを押すと簡単に開いた。鍵が掛かっていないのだ。コトミは阿南が開けたんだろうと思った。三人の姿は工事現場の中に消えた。

 薄暗闇の中に黒々とした未完成のビルが、コトミらを威圧するように聳え立っている。阿南の姿はどこにも見えない。

「おじさん、いるのお」

 コトミが上に向って叫んだ。夜の静寂の中でやたらと大きく響いた。

「ここだ。5階にいる。上がっておいで」と、頭上高くから小さく返事が返ってきた。

「いたわ。行きましょう」

 コトミは後の二人を促してビルの中に入った。「暗いから気をつけて」タダオが懐中電灯を取り出し、前を照らした。あちこちに建設機械や資材が置かれている。コトミは探検ごっこの気分になり、わくわくしながら歩を進めた。奥に階段があり、三人は大きく音を立てながら上に昇った。

 5階は他と同様、コンクリートだけのそっけない空間だった。ふうふう言って階段を昇りきったコトミは、着くと同時に中央へ進んだ。タダオとフユキはその後ろだ。懐中電灯を振り回しても、阿南の姿は見えない。

「おじさん、どこにいるの」

 遠く、中央に並ぶ柱の後ろで影が揺れた。男が悠然と姿を見せた。その瞬間、コトミは強い衝撃に打たれた。

 ゆっくりと懐中電灯を持った男が歩いて来る。コトミは息を呑んで、何も言えなかった。タダオとフユキも呆然として立ち竦んだ。

「やあ。驚いた?課長でなくて悪いね」

 その男は阿南ではなかった。コトミたちが犯人と見なした草鹿コウイチロウだったのだ。

「なぜ?なぜあなたがここに?」

 警戒も顕わにタダオが訊いた。草鹿は何気ない態度で接近して来る。

「課長は急に用事ができてね。僕に代わりを頼んだんだ。話を聞かせて」

「駄目よ。阿南さん以外とは話したくない」

 コトミが勇気を振り起こして答えた。草鹿は残念そうに顔を顰め、なおも近づく。

「どうして?僕じゃまずいことはないだろう」

 コトミは決断をしなければならなかった。どう対処すべきか。これは罠なのか、それとも。

「タダオさん、耳を貸して」

 コトミは腰を屈めたタダオの耳にひそひそと囁いた。そうする間にも草鹿は近づき、間隔は3mもない。

 身を起こすと同時に、タダオは草鹿に飛び掛った。

「何をする!」不意を衝かれた草鹿は両手を前に出したものの、強い力で腕を取られ、背後に回られた。たちまち背中から両腕をかんぬきに決められ、身動きできなくなった。アンドロイドが全力を出したときの力は並大抵ではない。コトミは格闘のさい草鹿が取り落とした懐中電灯を拾い、草鹿とタダオを照らした。

 草鹿は怒りを込めてコトミを睨んだ。「一体これはなんだ!せっかく来た僕に、なんでこんな」

「あなたがねえさんを殺した犯人だからよ」

「何を言う!」

「フユキ、体を探って。武器を持ってるはずだわ」

 フユキが草鹿の服を調べた。体のあちこちをまさぐり、果てはズボンの裾まで調べたが、これといった武器は見つからない。

「ないよ、コトミ」

「へえ、そう」

 コトミの自信がぐらつきかける。だが、彼が丸腰でここに来たからといって、無実だとは言えないと思い直した。

「もういいだろう。放してくれ」

「そうはいかない。タダオさん、ずっとそのままにしていてよ」

「承知した」

 草鹿は悔しげに喚いた。「どうしてだ!どうして僕が犯人なんだ!」

「言ってあげるわ」

 コトミは昂ぶった声音で自分の推理を語り始めた。一連のスリリングな展開に、彼女は明らかに興奮していた。

 

 

 阿南は一日の仕事を終え、アパートへ戻る夜道を歩いている。家路についている人々がまばらに見える。彼はつい15分前までカウエルへの訊問に立ち会っていた。

 カウエルは頑としてマサコ殺害の容疑を認めなかった。その顔は腫れ上がり、殆ど別人のように見えた。しかし、彼の意志は強く、己の主張を繰り返すばかりだ。あのナイフはおれのじゃない。あの夜マサコと会ってなどいない...。

 その強情さには阿南も手を焼いた。度重なる拷問、長時間に及ぶ密室での追求。それら悉くをカウエルは跳ね返し続け、未だ自白に至っていない。それでも彼が犯人だという阿南の確信は、些かも揺らいでいなかった。

 懐で携帯電話の着信音が鳴った。阿南はそれを取り出し、開いた。メールの到着だ。何気なく目を通す彼の目が大きく開いた。

 全く見覚えのない画面に、文章だけが現われている。

 電流に貫かれたような衝撃を覚えた。立ち止まり、周囲に目を配りながら本文を読んだ。

『コトミがいない。捜して』

 ただそれだけのことが書いてあるだけだ。これでどうしろと?阿南はうろうろと歩き回り、考え込む。通行人が訝しげに阿南を見る。迷った末にもう一度画面を見た。妙なことに気づいた。本文の下にカーソルが何かを促すように点滅している。さらに通信中の表示が出たままになっている。

 阿南は思い切ってそこに文字を打ち込んだ。

『君はだれだ?』

 画面を見つめたまま待った。しばらくして驚くべきことが起こった。自然に改行し、カーソルが一段下に移動したのだ。

『1st』

 その文字は阿南を一瞬凍りつかせた。あの日、彼の前に現われた救いの天使。やはり彼女が再び話しかけてきたのか。それにしても想像を絶する方法だ。ごくりと唾を飲み、震える指でまた文を書き込む。

『確認したい。あの日、僕の拳銃はどこにあった?』

『右から2番目のロッカー』

 阿南は瞑目し、気を落ち着かせた。感謝の気持ちが湧き上がった。

『あの時はありがとう。ファーストチルドレン』

『今はどうでもいい。コトミを捜して。どこにもいない。タダオとフユキも』

『もっと詳しく。彼らは養成所にいた?』

『そう』

『いつまで?』

『分からない。9時15分に見に行ったときはいなかった』

 阿南は眉を顰めた。前回、彼女は翌朝起こることを言い当てた。その彼女がこうして接触きたのだから、何かよくないことが起こっていると考えるべきだ。そう阿南は思い、直ちに行動を取ることにした。

『分かった、ファーストチルドレン。全力で捜す』

 いきなり通信が切れた。画面が真っ白になったかと思うと、次の瞬間には通常のメール確認画面に戻っていた。今の会話の痕跡は跡形も残さず消えてしまったのだ。

 感慨にふける暇はなかった。阿南はすぐさまカーソルを操り、警備課の番号を呼び出した。

 

 

「−−こうやってあなたはアリバイ工作をして、捜査の範囲から逃れたのよ。どう?わたしたちの推理に間違いはあるかしら?」

 コトミは長広舌を終え、草鹿を睨んだ。草鹿は両腕を抱え込まれた不自由な姿勢のまま、にやにやと笑っていた。

「すごい推理だ。よくもまあ想像力が働くもんだね」

「阿南さん、あなたに話しちゃったのね。なんて無用心な!」

「課長は僕を信用しているのさ」

 草鹿のにやにや笑いは収まらなかった。コトミは草鹿に、指を一本突きつけた。

「あなたはもう終わりよ。これから保安部に一緒に行くのよ。もっと偉い人たちに、わたしの話を聞いてもらうから」

「まあ、待て。もっと話し合おう。ぼくがこの場で、君の推理の間違いを証明できたらどうだ?面倒が少なくてすむと思わないか?」

「そんなことできるもんか!」

 涼しい顔で草鹿を押さえ込んでいるタダオが口を挟んだ。

「コトミ、少し待って。この人の話も聞いてみよう」

 コトミは口をへの字にしながら考え、決断した。

「いいわ。言ってみて」

 草鹿は相変わらず人を小ばかにした態度で、コトミらの推理の欠陥を突き始めた。

「君らは大事な点を無視しているな。ご高説でいくと、10日の3時半頃、僕が最初の脅迫状をマサコさんに届けたことになっている。それでいいね?」

「そうよ」

「それが僕には不可能なんだよ。僕はその時間帯、保安部のビルから一歩も出ていないんだ。それは相沢次長はじめ、何人もが証明してくれる。この事実をどう説明する?」

 コトミは即答できなかった。草鹿の嘘ばかりに関心がいき、その辺は深く追求していなかったのだ。草鹿を睨みつけたまま、徒に時が過ぎていく。

「ん、どうした?まさか、全然考えてなかったわけじゃないよな?」

 とうとうコトミは草鹿に背を向けてしまった。フユキが心配そうに顔を覗き込む。

「ねえ、大丈夫?」

「今、考え中!」

 コトミは宙の一点を見つめながら、必死に考えた。犯人は草鹿で、絶対間違いはない。だが、この問題を処理しない限りは、草鹿を逮捕まで持って行くことはできないのだ。改めて事件全体を見る視野に立ち返った。どうすれば草鹿はこの動きをできるのか。草鹿の立場に立ってみる。自分でできないときは?...そうだ、他人に頼む。

 コトミに電流が走った。あまりにも衝撃的な、しかしこれしかないという答えが頭の中で爆発した。顔を上げ、今閃いた推理をもう一度洗い直す。足が自然と動き、落ち着かない態度で歩きだした。

「コトミ?」

 フユキが不思議そうにコトミを呼んだ。コトミは足を止め、棒のように佇み、考えに耽る。草鹿もいつしか真剣な眼差しで彼女を見ていた。それが1分も続いたところで、ようやくコトミは草鹿の方を向いた。その目には確信が宿っていた。

「わたしたちはずっと犯人は一人だと思いこんでいた。でも、それは違う」

「「えっ!」」

 タダオとフユキは一様に驚愕の声を上げた。草鹿は鋭くコトミを睨んだ。

「あの日の午後、養成所前を警備していたのは誰?」

「山本さんとハッサンさんだ」と、タダオ。

「カウエルさんの部屋でナイフを発見したのは?」

「山本さん。あっ!」

 タダオは一瞬でコトミの言いたいことを理解した。それはまさに意表を突く推理だった。

「そう、山本が共犯者なのよ。警備と言っても、その時間帯全部でひと所に立っているわけじゃない。当然生理現象を処理しなくちゃならない。だから、あの場所の警備員はたまに養成所に入っていた。わたしも見たことがある。山本もそれをしたの。ねえさんがいない時間にね。山本なら脅迫状を事務室のどこかに置くことができたのよ!

 警備員は普通、特別な人間と見なされない。回りの景色と同化してしまう。透明になってしまうの。だから、わたしたちも殆ど注意を払わなかった。一種の死角に入っていたんだわ。

 草鹿さん、この前わたしたちから、カウエルさんのことで情報収集したわね。その時、あなたは阿南さんとは別行動を取った。フユキ、あの時、あなたがたパートナーの聴取が終わったのは何時?」

「ええと、10時45分頃」

「やっぱり。わたしたちチルドレンの方は11時に終わった。15分も自由になる時間があったことになるわね。その時、あなたはカウエルさんの部屋に忍び込んでナイフを隠したのよ。あの人に罪をなすりつけるために!

 その二日後、カウエルさんの部屋は捜索された。ナイフを見つけたのは山本よ。自分で発見しないのがあなたのやり方。その方が疑われずにすむものね。山本は前もって教えられていた場所を開ければよかったの。簡単に手柄を上げることができたってわけ。どう?これで全部説明できるわ!」

 草鹿は首を振り、深く息を吐いた。

「やれやれ。すごい想像力だ。しかしねえ、僕だという証拠は全然ないなあ。優秀な弁護士なら、簡単に無罪にできるだろうねえ」

「それはどうかしら。ねえさんがあの書き込みをしたことは、おそらく証明できる。あなたと山本のアパートも詳しく調べられるでしょう。絶対何も出てこないと言い切れる?スパイのくせに」

「どうしても僕を課長に引き渡すと言うんだね?」

「ええ、そうよ」

「残念ながらそれは無理だ」

 突然、ぶしゅっと鈍い発射音と甲高い金属音が響いた。タダオがぐらりと揺れた。草鹿は力の緩んだ両腕を振りほどき、離れた。タダオは平衡を失い、ふらふらと前に出る。その頭部の両側から、臭いのきつい液体が溢れ出していた。

「タダオさん!!」

 コトミが気を動顛させながら叫んだ。タダオは膝を床に付き、前のめりに倒れ、それきり動かなくなった。懐中電灯の光の中に、消音器付きの拳銃を構えた男の姿が浮かんだ。コトミは一瞬のうちに全てを飲み込んだ。

 警備課の山本軍曹は銃の向きをコトミに合わせた。フユキが厳しい顔で両手を広げ、コトミの前に立った。

「子供がこんなことに手を出すもんじゃない。躾がなってないな」と、山本は底知れぬ冷たい光を湛えた目をしながら言った。

 草鹿の口元には悪魔のような冷笑が浮かんでいた。

「こういうことなんだよ。いくら僕でも、三人一度に相手をするのはきついからねえ」

 山本は懐から銃を取り出して草鹿に渡した。やはり消音器が付いている。草鹿は笑いながらフユキを狙った。

 レーザーポインタの光点が二つ、フユキの胸の上にある。山本は凄みのある声音で脅しつけた。「動くんじゃないぞ。ちょっとでも動いたらお陀仏だ」

 草鹿は肩を揉み、腕を振り回した。

「ああ、きつかった。どうだい、コトミちゃん。おじさんたちの方が用意周到だろう?」

 当初丸腰でいたのは油断を誘うためだった。うまくいけば丸め込めるかもしれないという思惑もあった。かけひきの点では、草鹿たちの方が一枚上手だったのだ。

 彼我の距離は5mほどしかない。コトミはフユキの後ろに隠れながら、草鹿に尋ねた。

「阿南さんはどうなったの?わたしたちを殺したら阿南さん、真っ先にあなたを疑うわよ」

 草鹿の口から低く忍び笑いが漏れた。「くくく。残念だが、課長はこのことを全然知らないんだ。『ああ、僕だ。こんな時間にどうしたの?まあ落ち着いて、チルドレン。重大ってどんなことだい?』」

 コトミは全身を貫くような衝撃に襲われた。それは電話で聞いた阿南の声と瓜二つだった。何か冷たいものが背筋を走った。

「僕の声帯模写は上手いだろう。あの時、あそこにはたまたま僕一人しかいなくてねえ。咄嗟の判断で課長になりすましたのさ。やはり勘は当った。君らは運がなかったなあ」

 コトミは自分の軽率な行動を深く後悔した。阿南の携帯番号を調べるべきだった。翌日直接会いに行くこともできた。あの時、別の方法を取ってさえいれば、この窮地はなかったのだ。

 山本が草鹿に身を寄せ、囁いた。

(どっちから殺る?)

(アンドロイドからがよかろう)

 山本の銃から出るレーザー光線が、フユキの額を捉えた。コトミの心臓が破れんばかりの激しさで打つ。初めて知る感情、恐怖に捕われていた。それでも逃げなかったのは、あることに期待をかけていたからだ。

 草鹿と山本の背後で影が動いていた。コトミとフユキは、歯を喰いしばってそれを見つめる。

 いきなり山本は銃を持っていた腕を取られた。万力のような力で締められ、ぎゃっと悲鳴を上げた。草鹿も二の腕を掴まれた。驚いて振り向いた草鹿の目に入ったのは、白く濁った目をしたタダオの長身だった。

「ニゲロ、コトミ」

 それは、いかにも人工的な合成音にすぎなかった。その言葉に我に返ったコトミは、フユキを引っ張る。

「逃げるのよ!!」

 二人は一目散に階段目指して駆けた。草鹿と山本は、渾身の力で引き止めるタダオによって、追うことができない。

「放せ、畜生!」

「この死にぞこない」

 山本は苦痛に顔を歪めながら、懐から煙草大の箱を取り出した。それをタダオの胴に押し当てる。

 一瞬、ばしっという音が響き亘った。タダオの両目の間を放電が走った。のけぞりながら硬直し、激しく痙攣を起こす。目から光が消え、動きが完全に止まった。

 wrp163854、タダオの最期であった。スタンガンの電撃は、アンドロイドに致命傷をもたらすのだ。彼は立ったまま絶命していた。頭部に開いた二つの穴から白い煙が立ち昇る。

「くっ。腕が外れねえ」

 二人はタダオの腕を引き剥がそうと力を入れた。しかし、あたかもタダオの執念が未だに残っているかのように、手は強く収縮したままでいる。

 

 

 コトミとフユキは必死に階段を駆け下り、一階に着いた。

「出口に急ごう!」

 フユキの先導で、二人はビルの外へ出た。高い鉄の塀が周囲を囲んでいる。懐中電灯で前を照らし、出入り口へ脇目もふらず走る。ようやくそこに辿り着いた時、愕然とさせるものが目に入った。

 両開きの扉の取っ手が、鎖によって繋がれている。中間に大きな南京錠が下がっている。彼らはここに閉じ込められた。

 フユキがぎしぎしと音を立てて鎖を引っ張った。だが、鎖は太く、彼の力ではどうにもならない。

「なんとかできない?」

「僕の力じゃ無理だ!」

「助けて!誰か!殺されそうなの!」

 コトミが鉄板を叩き、力の限り叫ぶ。フユキも声を合わせた。だが、その声は夜の街にむなしく消えていくばかりだ。そうするうちに禍々しい物音が聞こえて来た。二人分の階段を駆け下りる足音。殺人者は直にここへやって来る。

 コトミはきょろきょろと辺りを見回した。このままでは死は確実に訪れる。塀は高く、到底ここを昇るのは無理だ。しかし、何かをしなければ。

 外周を覆う足場が目に止まった。

「これを昇るのよ。さ、早く」

 二人は扉を離れてビルに戻り、手近にある鉄骨に手を掛けた。滑る丸棒に難儀しながらも二階の高さまで昇った。足場に下りて懐中電灯を消した丁度その時、草鹿と山本が地面を踏みしめる音を聞いた。

 

 

 阿南はA−3地区へ猛スピードで車を走らせていた。コトミたちがバスを降りた地区だ。 

 まず警備課への問い合わせで、養成所前で立番している警備員の携帯番号を調べ、その一人にコトミらの動向を聞いた。急に歯が痛くなったので病院へ行ったという話だった。次に村の入り口を受け持つ警備員に聞くと、彼らがバスに乗り込んだのを確認できた。念のため救急病院に確認を入れた。返って来たのは驚くべき返事だ。そんな3人組は来ていない。胸騒ぎを抑えながら次にしたのは、該当のバスを調べる事と、その運転手への緊急連絡だった。運転手からは貴重な証言が得られた。三人組はA−3地区の停留所で降りたと。

 その地区に病院などなかった。言わば官庁街で、夜間は殆ど人がいない。彼らが嘘を言ってまで出かけた意図はなんだったのか。単に散歩に出ただけという可能性もあるが、タダオまで一緒というのが解せない。夜間外出が制限されている中で、パートナーが規則破りをするというのは余程の事情ではないのか。阿南は不安に苛まれながら進行方向を見つめた。コトミの身に、最悪の事態が起こっているような気がしてならなかった。

 

 

 山本が持つ懐中電灯の光の中に、草鹿が走って来る。地上に下りた彼らは、塀の中をコトミらを捜して駆け回っていたのだ。

「いないぞ!」

「くそ、どこに消えた!」

 二人の苛立ちに満ちた声が響く。草鹿は電灯の光を振り回し、周囲を探る。

 タダオの手を取り外すのは一苦労だった。山本がナイフで腕を切り開き、人工骨沿いに走るワイヤーを、ペンチで切断してようやく自由を得た。

「足場を使って上に戻ったんだ。二手に分かれよう。おれは向こう側から上に向って捜す」と、草鹿が言った。

「オーケー。あいつらを逃がしたら俺たちは終わりだ。決死の覚悟で行くぞ。ハイル・ゼーレ」

「ハイル・ゼーレ」

 固い同士の絆で結ばれた二人は、高く上げた手を打ち合わせ、別れた。闇の中を、二本の光が揺らめきながら走っていく。

 

 

 コトミとフユキは靴を脱ぎ、裸足になっていた。できる限り足音を立てたくなかったからだ。二人はビルの中に戻り、上を目指していた。先程とは別の狭い階段を使った。先を行くフユキの背中を見ながら、コトミは冷静になろうと努めた。日頃教官たちが説く格言を思い返した。心は熱く、しかし冷静に。落ち着いて考えるのだ。相手は大人二人。絶対に不利なのはこちらだ。その差を埋めるのはこの場合、知恵しかない。

 二人は4階に上がった。ここでコトミはフユキの袖を引っ張り、止めた。

「ちょっと待って。足場から下の様子を見ましょう。このまま上に行って隠れても、きっと見つかる。どこかでやり過ごさなきゃ」

「分かった」

 フユキは懐中電灯を消し、二人吹きさらしのビルの中をある部屋に入り、窓際まで近づいた。コトミの考えは、上に昇ってくる相手に対し、反対に下へ下ってすれ違い、再び地上に降りようというものだ。どこかに必ず、外へすり抜けられる場所があると思った。

 窓から首を出した途端、計算違いを覚った。足場は三階までしか組んでなく、目の前にあるのは、補強用にわたされた鉄棒だけだったのだ。

「どうする?」

「いいわ。これを伝って下に降りる」

「大丈夫なの?」

「平気よ。ジャングルジムだと思えばいい」

 言うと同時にコトミは窓枠に昇り、下の様子を窺った。下は静かで、懐中電灯の光も見えない。いける。コトミはそろそろと薄闇の中で鉄棒を握り、体重を預けた。慎重に足首を棒に引っ掛け、完全にビルから離れた。

 その時、魂が凍るような出来事が起こった。

 下の部屋に誰かが入った物音がした。コトミは全身を硬直させ、その場で固まる。背後のフユキは、ただ見守るしかない。

 コトミは心の中で祈った。お願い、早く行って。ああファーストチルドレン、助けてください。あいつをこっちにこさせないで。

 階下から派手な金属音が聞こえた。隠れ場所になりそうなところを引き倒したのだろう。コトミは息を殺し必死に祈る。

 しかし、期待に反して足音が近づいてくる。コトミの心臓は割れんばかりだ。そして、遂に懐中電灯の光が下の足場を照らした。

 男が窓を超えて出て来た。丁度コトミの真下に男が立った。草鹿だった。彼とコトミの間には数十センチの空間しかなかった。草鹿は前と後ろを懐中電灯で照らす。危険極まる拳銃が細部まで見てとれる。コトミにとって永遠とも思われる時間が過ぎる。

 草鹿は何気なくビル内に戻った。コトミの額から汗が滴り落ち、足場の鉄板に当って微かな音を立てた。だがそれは草鹿の靴音に混ざり、耳に届くことはなかった。足音が遠ざかる。

 コトミはそのままの姿勢で待った。たっぷりと時間を掛け、気を落ち着かせた。物音がしなくなったところで、やっと後ろを振り返った。愛しいフユキは、呆けたような顔で突っ立っていた。

「行くわよ。ぐずぐずしてられないわ」

 鉄棒の上を向こう側までにじり寄り、慎重に体をずらして横棒に足を掛けた。間もなく鉄板を敷いただけの足場に降り立った。死角になるように壁に背中を付け、フユキを呼んだ。

「さ、来て。ゆっくり、音を立てないで」

 その時、フユキの背後から足音が聞こえてきた。敵は4階まで上がった。その足音が次第に大きくなる。フユキは窓枠から身を乗り出し、鉄棒を掴むと懸垂の要領でぶら下がった。その瞬間、窓枠から外へ光が走った。

 コトミは息を呑んで真上を見つめた。フユキはぶら下がったまま動かない。ビルの中では相変わらず足音がする。

 待つこと数秒、光が見えなくなった。足音が次第に小さくなっていく。フユキは横にずれ、外側の鉄棒に足を掛け、静かに足場に下りた。コトミは危険を忘れてフユキを抱き締めた。フユキも腕を回してコトミを抱く。コトミはずっとそうしてフユキを感じていたかったが、この場の事情はそれを許さない。離れ際にフユキの頬へちゅっとキスをした。

 

 

 ビルの中に戻った二人は、脇目も振らず階下を目指した。あの男たちを出し抜いた自信はあった。彼らはまだ上の階にいるはずだ。今の内に地上に出て脱出路を見つけるのだ。

 一階に着き、すぐに外に出た。次の瞬間、コトミはあっと叫んで倒れた。右足を溝に突っ込んだのだ。足首に激痛が走った。光を消しての隠密行動が裏目に出た。コトミは倒れたまま、しばらく身動きできなかった。 

「大丈夫?」

 フユキが心配そうに声を掛け、肩を貸して立たせた。コトミの顔は苦痛に歪み、右足は地面に付けず、片足立ちだ。「足挫いた。こんな時に...」

 フユキはコトミを座らせ、耳を澄ませて物音を聞いた。今の叫び声は草鹿らの耳に入らなかったのか?とりあえず足音は聞こえてこない。だが、決して楽観はできない。

「コトミ、君がこれを持って」

 フユキは懐中電灯を差し出した。

「君をおぶっていく。消したままでいいから。ぼくなら十分見えるからさ」

 コトミは痛みを耐えながら頷いた。「分かった」懐中電灯はコトミが持ち、そのままフユキの背におぶさった。

「大丈夫だよ。ぼくがきっと守ってみせる。だから安心していて」

 暖かいフユキの言葉がコトミの胸に沁みる。コトミは少し落ち着きを取り戻し、フユキを抱く腕に力を込めた。

 フユキの目は感度を調整できるので、ある程度夜目が利いた。おかげで二人は滞りなく進むことができた。塀沿いにフユキは歩いた。周囲は静かだ。塀と足場の間の狭い通路を二人は進む。やがてビルの裏側に当る、広めの場所に出た。巨大な発電機が置かれ、建設資材が山積みになっている。事務所らしきプレハブの小屋も見える。と、いきなりフユキの足が止まった。

「見て。ドアがあるよ」

 通用口らしきドアが薄ぼんやりと見えた。フユキはコトミを下ろし、ドアのノブに手を掛けた。コトミは懐中電灯を点けて手元を照らした。フユキの指がノブの真ん中にあるつまみを回した。

「開くよ。出られる」

 フユキの声が嬉しさに弾む。ドアを僅かに開いた瞬間だった。

 闇から太い腕が伸び、コトミの腕を掴んだ。あっと思う間もなく、強い力で後ろへ振られた。一瞬のできごとだった。

 コトミの喉から絹を裂くような叫びが迸った。その場から2mも飛ばされ、尻餅をついた。振り回した懐中電灯の光の中に、悪鬼の形相をした草鹿が浮かんだ。

「コトミ!」

 あせったフユキが掴みかかるより速く、草鹿の拳銃が動いた。

 至近距離から放たれた銃弾はフユキの胸を貫いた。反動でフユキは飛ばされ、ドアにぶつかった。だが、フユキはすぐさま反撃に転じようとする。

 第2弾はフユキの額の真ん中に命中した。消音器の先から煙が立ち昇る。遂にフユキは前のめりに倒れ、しばらくあがいていたが、やがて完全に動きを止めた。

 コトミはその一部始終を、声もなく見つめるだけだった。「フユキ!」とようやく叫んだが、草鹿の体が邪魔で近づくこともできない。

 草鹿が振り向き、コトミに光を当てた。「なかなかやるな。だが、知恵比べはおれの勝ちだ。下で待ち伏せは正解だったよ」

 殺人者はいち早く地上に下り、発電機の陰に潜んで、彼らが来るのを待っていたのだ。コトミは立ち上がろうとしたが、足首に激痛を覚え、また座り込んでしまう。顔がくしゃくしゃになった。目の端から涙が零れた。喉が詰まって、助けを呼ぶこともできなかった。

 草鹿の銃からレーザーが放たれ、地面に赤い点ができた。勝利の快感が彼の口元を緩めた。

 その時、光の輪の中に二本の足を認めた。白いソックスを穿いた細身の足。慌てて懐中電灯を上に向ける。だが一瞬早く、何者かは背を向けて向こうへ走る。

「誰だ!」

 青いジャンバースカートを着た少女だ。その背中に向けて草鹿は撃った。だが弾が跳ね返る金属音だけが響いた。少女はそのまま走り続け、角を曲がり見えなくなった。

 なぜだ。当ったはずだ。草鹿はパニック状態になりかけ数歩追ったが、かろうじて考え直した。あの娘を抛ってはおけない。蒼い髪の毛をしていたから、チルドレンの一人だ。だが、コトミもこのままにしてはおけない。今すぐ殺る。

 殺意を剥き出しに振り返った草鹿が見たのは、コトミではなかった。草鹿は仰天しながらその者を見た。手を伸ばせば届く距離にチルドレンがいる。土にまみれ汚れきった体。土気色をした皮膚と白濁した瞳。胸にはどす黒い血の流れた跡。それは死んだはずのマサコなのだ。

 さしもの草鹿も恐怖の叫びを上げた。死者は何か言いたげに口を開き、茶色い歯が見え、土くれがこぼれた。ゆっくりと紫に変色した右手を上げ、草鹿に触ろうとする。

 草鹿の理性はどこかに吹っ飛んだ。ただ純粋な恐怖に我を忘れて逃げ出した。 

 コトミもまた恐怖の只中にいて身動きができなかった。目の前にいきなり女が出現したところを、その目で見たのだ。マサコだとすぐに分かった。しかし、超自然的な現象を目の当たりにするのは、理屈抜きに怖い。

 草鹿が角を曲がって逃げ去ったところで、女の形が変わり始めた。背が縮み、服が見る見るうちに変化して青い学生服になった。髪がさっぱりとした短いものになった。呆気に取られて眺めるコトミに、少女が振り返った。

「ファーストチルドレン」

「静かに。さ、早く逃げて」

 レイとコトミは短く言葉を交わした。コトミは頷き、傷む足首を我慢して立ち上がった。ぐずぐずしている暇はない。ここが生か死かの分かれ道なのだ。

 

 

 草鹿は足場の鉄棒に息を荒くしながら縋り付いていた。全身は汗に塗れ、銃を握った手がぶるぶると震えた。殺した女の怨みが心底恐ろしかった。

「おい、何やってる!」

 頭上から山本の声が聞こえ、彼は我に返った。見上げると、三階の足場から山本が身を乗り出していた。

「マサコが出た。おれは見たんだ」

「馬鹿!そんなもの錯覚に決まってる。急に叫んだと思ったら。コトミはどうした?」

「向こうにいる」

「すぐに行け!殺せ!さもないと俺たちは終わりだ!」

 草鹿は下を向いて息を整え、冷静になろうと努めた。山本の言う通り、今が正念場なのだ。

「分かった。行ってくる」

「俺もすぐに下りる」

 決意も固く、草鹿はあの場所を目指した。幽霊がなんだ。できることなぞ知れている。呪いたければ勝手に呪え。

 角を曲がり、懐中電灯で前方を照らした。期待に反して、甦ったマサコの姿が浮かび上がった。その様は見るも恐ろしい。全身に鳥肌が立ち、銃を持つ手が震える。が、草鹿は勇気を振り起こして前に進んだ。

「そこをどけ、マサコ」

 草鹿はマサコの腹に向けて弾を放った。ずっと先で鉄板に当る音がした。

「はっ、やはりすり抜けるのか。ならいい。そこにいろ」

 大胆にも草鹿は、大股で幽鬼に向って歩いた。コトミの姿は消えていた。やはり外に出られてしまったか。マサコは行く手を阻むように、ドアの手前に腕を広げて立っている。目の中心の赤い色が不気味だ。口が威嚇するように開く。そこにあるのは歯ではなく、鋭く尖った牙だった。

「脅してるつもりか」

 草鹿はなおもマサコに近づいた。1mほどの間隔を開けてようやく止まった。草鹿は見た目は平静でいたが、心臓は飛び出さんばかりに打っていた。

「お前なんぞに何ができる。お前はそうやって姿を見せられるだけだ。違うならおれを止めてみろ」

 言うなり、草鹿はわっと叫んで幽体に向って突っ込んだ。目はきつく瞑っていた。起きるはずの衝撃はなかった。2mほど直進したところで後ろを振り返った。

 世にあらざる者の姿はなかった。なんの変哲もない工事現場の風景が広がっているだけだ。草鹿はぜいぜいと荒く息をしながら周囲を見回していたが、やがてげらげらと笑い出した。

「うはは、マサコよ。体がなくて生憎だったなあ」

 草鹿はにやにやと笑いながらドアノブを掴んだ。近づいて来る山本の足音が聞こえた。

「おい、どうなった?」

「幽霊はあの世にお帰りだ。コトミは逃げた。あの足だから、遠くには行ってない。追うぞ」

 二人は素早くドアを通り、外側に出た。そこは40m四方ほどの、駐車場になる予定の空き地で、何も置かれていない。二人は別れて懐中電灯を振り回したが、誰の姿も発見できなかった。

「道路に出たんだ。まだあきらめるな!」

 山本が叱咤し、走りだす。草鹿も続いた。目の前は広い道路で、街灯が光っている。周辺はオフィスビルが並び、夜とあって人通りはない。歩道に出た二人は明るく見通しの利く街路を見渡したが、コトミらしき者の姿を見つけることはできなかった。

「いない。畜生、そんなに速く行けるわけがないのに」と、山本が焦りの色を見せた。

「どこかに隠れたんだ。路地に入ったんだろう。二手に分かれよう。おれはそっちを捜す」

 草鹿が走り去った。山本も反対方向へ走る。ぎらついた目で物陰、細い路地を捜し回った。あのガキ、どこに行った。コトミを亡き者にしない限り、彼らに明日はない。あせりが次第に大きくなる。

 そうして三本目の路地を覗いた時、後ろから声がかかった。

「山本君じゃないか」

 山本はぎょっとして振り返った。迂闊だった。捜すのに夢中で、反対方向に注意を払っていなかったのだ。銃を胸のホルスターに戻しておいたのは幸いだった。

 阿南が怪訝そうに山本に近寄って来た。

「ここで何をしている?手伝いか?」

「そんなとこです」

 咄嗟に山本は答えた。阿南は得心した顔つきになった。

「警備課から連絡がいったのか。ご苦労だね。非番だったんだろ?」

 山本は私服姿だった。それを見ての阿南の推測だ。山本のこめかみから汗が流れ落ちた。

「ええ、急に呼び出されまして。仕方ありません」

「他にも警備課員が大勢来てるはずだ。この辺にはいないようだな」

「誰も見かけませんでした」

「まったく、ちびっ子とパートナーが二人も、どういうつもりでこんな場所に来たんだろうな」

「謎ですね」

 答えながら山本は戦慄を抑えられなかった。三人の行方不明が明るみに出ている。どういう経緯でこうも早く気づかれたのか。

「よし、この辺を手分けして捜そう。僕は向かいの道を受け持つ。君はこっち側だ」

 阿南はなんの警戒もなく、道路の向こう側へ駆けた。山本は路地を進みながら考えを廻らした。ここで阿南に見られたのは痛い。痛すぎる。この場でコトミを発見した場合、阿南を巻き込まざるを得ない。先に阿南に発見されたら最悪だ。最善なのは草鹿がコトミを見つけて始末すること。しかしそうなった場合でも、さっきの嘘が後日、何かの拍子でばれるかも知れない。

 残された道は一つ。阿南の命を、今ここで奪う。

 冷酷な決断をした山本は歩道に引き返し、阿南を捜した。とある路地から出て来た阿南を大声で呼んだ。

「阿南課長。ちょっとこっちに来てください」

「どうした!?」

 阿南が息せき切って走って来る。山本は鋭い目つきで阿南が来るのを待った。

「向こうに気になるものがありまして。課長も見ていただけますか?」

「おう。なんだい、一体?」

「どうぞ、こっちです」

 山本が先に立って、阿南を狭い路地の奥へ誘導する。じめじめした、昼間でも寂しそうな所だ。山本の持つ懐中電灯の光が揺れ、靴音が反響する。中ほどまで来ると、窪んだ場所にごみバケツが二つ並んでいた。

「ほら、あのバケツの陰に」

 山本は立ち止まってバケツの裏あたりを照らし、阿南を先に行かせた。阿南はしゃがみこんで地面を覗いた。山本の右手がジャケットの奥に滑り込んだ。

「そこで何をしている!」

 急に呼びかけられ、山本は手を止めた。強烈な光線が二人を包んだ。阿南は立ち上がり振り返った。懐中電灯の光が眩しい。警備員がそこにいるのだ。

「僕は公安二課の阿南だ。こっちは山本君。捜索の最中だ」

 若い警備員が歩み寄って来た。

「ご苦労様です。ここに何かあったんですか?」

「山本君が何か見つけたそうだ。ええと」阿南はごみバケツをずらし、地面を見つめた。「なんにもないぞ」

「え、そうですか」山本はさも意外そうにそこを覗く。「あれ、髪飾りみたいなものを見たように思ったんですが」

 阿南は口を尖らせた。「そんなものはどこにもないよ」

「うーん、目の錯覚だったんでしょうか」

「おいおい。頼むよ」

「すいません」と言って山本は頭を掻いた。若い警備員が、上がったその腕を見て声を上げた。

「袖が汚れていますよ」

 阿南も山本もその袖を見た。油が四本の指の形に染み込んでいる。タダオの執念が残した痕だ。循環液の独特な臭いが、阿南の鼻腔にも届いた。阿南は一気に緊張した。

「それをどこで付けた。説明してくれ」

 山本は答えなかった。凄まじい殺意を顕わに胸の拳銃を抜こうとする。

 阿南の反応は速かった。一歩退くと同時に、左手が素早く動き銃を抜く。

 一瞬、銃口が炎を吐いた。銃声が深夜の路地に木霊した。銃口から一筋の煙が立ち昇る。山本は胸から銃を半ば引き出した状態で壁にもたれた。その胸には小さな穴が開き、血が噴き出している。そのままずるずると滑って尻を地に付けた。壁に血の筋が一本、下に向って伸びた。

 銃の状態が明暗を分けた。山本の銃は消音器が付いているため、その分抜くのに時間がかかったのである。

 阿南は銃を捨て山本に飛び掛り、左手一本で右腕を掴み、捻り上げた。山本の手から銃が零れ落ちた。そして山本を寝かせ、覆いかぶさり叫んだ。

「おい、チルドレンはどこだ!タダオは!フユキは!さあ言え!」

「...知らない」

 山本の返事は弱々しかった。阿南は捨てておいた銃を拾い、銃口を山本のこめかみに押し当て、迫った。

「嘘をつくな!すぐに吐けば、救急車を呼んで命を助けてやる。でなけりゃ、おれが今この場でお前を殺す!」

「はは、望むところだ」

 山本の口元に冷たい笑みを浮かぶ。阿南は唇を噛み、傍らで呆然と突っ立っている警備員に声を掛けた。

「何をしている。すぐに救急車を呼べ。他の警備員もだ。急げ!」

「は、はい!」警備員は慌てて無線機を取り出し、本部を呼び出した。阿南は山本に馬乗りになり、包帯をした右手で体をまさぐった。他に武器を持っていないか確かめているのだ。山本は抵抗もせず、静かに天を見上げていた。

 

 

 コトミは青いシートの下で息を殺していた。彼女はビルの敷地から一歩も出ていなかった。一階の鉄筋置き場が彼女の隠れ場所だった。高さ30センチほどある鉄筋の山と壁の間にできた、僅かな隙間に身を横たえている。

 外に逃げることも可能だった。しかし、捻挫した足では、遠くまで行けそうもないと判断したのだ。草鹿らに外へ出たと思わせる役は、レイが引き受けてくれた。おかげで今もこうして命を繋いでいる。

 そのコトミも時間が経つにつれて、孤独と悲しみが募ってきた。タダオのこと、フユキのことが頭の中でぐるぐると回っている。軽率な冒険の代償はあまりにも大きかった。とんでもない事態に巻き込んでしまった二人のパートナーに対し、すまなさで一杯になる。何より将来伴侶になるはずのフユキを失なってしまったのだ。さっきから涙が流れっぱなしになっていた。

「コトミ」

 いきなり、レイの声が聞こえた。コトミはおずおずとシートを持ち上げて顔を出した。レイは床に立ってコトミを見下ろしていた。体の内部から光を放つのか、回りの闇に拘わらず、レイの姿ははっきりと見えた。

「泣いているのね」

「ファーストチルドレン、わたし、わたし...」

「悲しいの?無理もない」

「わたしが間違ってた。こんなことになるなんて」

「自分を責めることはないわ。仕方なかったのよ。涙を拭いて、しっかりなさい。まだ危険は去っていないの」

 コトミはレイの方へ手を差し伸べた。

「ファーストチルドレン、手を握ってください」

 レイは微かに悲しみがきざした顔で首を振った。

「できないの。ごめんね。私には実体がない。見えるようにしているだけなの」

 その時、ずっと遠くから銃の発砲音が聞こえてきた。レイは顔を上げ、音がした方向を見つめた。

「見てくる。ここにいて。そのまま隠れていなさい」

 レイの姿はかき消すように消えた。コトミは闇の中に、腕を伸ばした姿勢で取り残された。あきらめたコトミは洟を啜り上げ、元通り横になり、シートを上にかぶせた。寂しさと同時に、超絶的な存在が自分を守ってくれていることの喜びを感じた。いつの間にか涙は止まっていた。

 

 

 レイの意識は発砲現場の上空にあった。警備員と、男が別の男の上に覆いかぶさっているのが見えた。仰向けに横たわった男は山本だ。ふいに意識の中に、この男が息を引き取る場面の映像が現われた。彼の余命は長くない。警備員が無線機で応援を呼んでいる。山本の上になった男の声は聞き覚えがあった。阿南だ。草鹿の行方は知れない。だが、事態がこちらに有利に動いているのは明白だ。

 もう一押しすれば勝利は決定する。そう判断したレイは工事現場に戻ることにした。精神の移動は抵抗というものがないので、頗る速い。一瞬の内にビルの敷地に戻った。彼女が漂ったのはビルに寄り添うように建つ、プレハブの事務室の中だ。ついさっき調べた場所だった。そこに切り札というべき機械を見つけていた。

 火災警報器。それは当然のように、作動中のランプが点いている。意識の先端を尖らせ、機械の中に滑り込ませた。電子が幾重にも重なり合い、複雑な経路を辿り、流れている。レイはその一つを意識の指先でつまんだ。

 

 

 後に今回の事件で二番目の謎となる現象が、現場で起こった。阿南は路地の中でそれを聞いた。断続的に響くサイレンの音。

「あれは何だ?」阿南は連絡を終えたばかりの警備員に尋ねた。

「火災警報です。ここから近いですよ」

 阿南はうつ伏せにして手錠を掛けた山本の傍らで、視線を彷徨わせながら考えた。この時、この状況で突如鳴り渡る火災警報。阿南の勘は、これがただの火災ではないことを告げた。

「君、こいつを見張っていろ。銃をしっかり構えて。僕は火災現場に行く。もしかしたらコトミが鳴らしたのかも知れない」

 言うなり、固い表情で頷く警備員の肩を叩いて駆け出した。

 

 

 草鹿は阿南が路地から出て現場へ走っていくのを、向い側の歩道から目撃した。道路に突き出した排気塔の陰に隠れていたのだ。先程の銃声はコトミ追跡の中断を余儀なくさせた。様子を探らざるを得なかった。そしてこの火災警報だ。草鹿もそれがただの警報ではないことに気づいていた。いずれこの辺りは消防車、救急車、警備の人間で充満する。そんな状況でこの場にとどまるのは愚かなことだ。

 敗北を認めざるを得なかった。あの8才になったばかりの小娘に、おれたちは負けた。

 草鹿は唇を噛み、密かに現場から遠ざかった。あと1時間もすればスパイとして狩りの獲物になる。だが、草鹿は大人しく捕まる気はなかった。どうしてもやらなければならないことがある。それが終わった後も。

 

 

 阿南は次第に大きくなる警報音から、すぐに火災現場の目当てがついた。工事中のビルだ。全速力で走って、鉄の塀の前に着いた。正面の入り口は押せども引けども開かなかった。やむを得ず、ぐるっと塀沿いに回る。裏側に来たところで、一枚のドアが半開きになっているのを目撃した。あそこだ。阿南はそこから入り込むと同時に大声を張り上げた。

「コトミ!いるのか!」

 サイレンの音は耳をつんざくばかりだ。手持ちのペンライトを点けて移動しようとした阿南は、光の中にぞっとさせるものを発見して足を止めた。半ズボンを穿いた少年が横たわっている。フユキだとすぐに分かった。阿南は実際の悲劇を目の当たりにして、体が震えた。コトミも同じ運命を辿ったのか?気が動転しながらも、ライトを包帯に包まれた右手に挟み、懐から拳銃を抜き、叫びながら走った。

「コトミ!チルドレン!いたら返事をしてくれ!」

(おじさん!)

 微かに聞こえた少女の声。喜びが爆発する。コトミは生きている。

「どこだ!もっと声を出して!」

(1階...)

 警報音が邪魔をして後半は聞き取れなかったが、それだけで十分だった。引き返して裏側に回った。通用口らしき開口部を見つけていた。そこからビルの中に駆け込む。広々とした空間だった。

「おじさん!」

 右手から待望の声が掛かる。大きく振った光の輪の中に、コトミの顔があった。ブルーシートの陰から首だけ出して、こちらを見ている。

「コトミ!」

 阿南は大股でコトミの前に駆け寄った。コトミは細い隙間に座り込んで阿南を見上げた。

「おじさん、ごめんね」

「今は話している暇はない。ここは危険だ。すぐに移動する。さ、立って」

「だめ、足を挫いたの」

「仕方ないなあ。このライトを持って」

 コトミがペンライトを持った。阿南はしゃがみこみ、コトミの背を支え、膝の裏に腕を突っ込んだ。「僕の首に腕を回して」いわゆるお姫様だっこでコトミを抱き上げた。「回りを照らしてみて。用心した方がいいからね」

 コトミはぐるりと光を1周させた。誰の姿も見当たらなかった。相変わらずうるさい警報の音は続いていた。

「よし、行こう」

 ようやく阿南は出口を目指した。ビルを出てからも、警戒は怠らなかった。コトミはフユキのボディを見ないようにした。鉄塀のドアを抜け、念のため後ろを振り返った阿南は、体を凍りつかせた。

 ファーストチルドレンがいる。コトミも彼女を認めた。レイは闇の中に堂々と光を放ちながら、10歩ほどの距離の地面近くに浮かんでいる。その口元には満足げな笑みがあった。

 阿南は呆けた顔で彼女を見つめた。コトミは阿南から左手を離して小さくバイバイをした。すると、レイの体は急速に透けていき、すぐに見えなくなった。

 ぐずぐずしている場合ではない。「行くぞ」阿南は急いで通りを目指して走った。表通りまで出て、工事現場から死角になったところで立ち止まった。ほっと安堵のため息が洩れる。まさかここまで敵が追ってくるとは思えない。救急車のサイレンの音も聞こえてくる。

「ここで待とう。いずれ大勢人が来る」

「おじさん、今の見た?」

「ああ、見た。ファーストチルドレンだ」

「あの人が助けてくれたんだよ」

「そうだったのか」

「ねえ、あの人のこと内緒にして」

 阿南は少し考えて頷いた。彼女が公表を望んでいないなら、そうすべきだと思った。度台誰かに話したところで、信じてもらえるだろうか。

「うん。そっとしておいてあげよう。それが彼女のためだよ」

「おじさん、前にも会ったことあるの?」

 実に勘のいい娘だと思う。阿南は正直に言った。

「ついこの前会ったんだ。あの人には恩がある」

「わたしたち、秘密を共有したのね」

 ヒトと幼いチルドレンは見つめあい、やがて笑い合った。救急車が山本のいる路地の前に停まった。その後方から警備課の装甲車両が近づくのが見える。ゆっくり話している時間はなさそうだ。

「おじさん、犯人はどうなった?」

「山本なら僕が撃った。あいつが君らを襲ったのか?」

「草鹿は?草鹿はいないの?」

 阿南の眉間に皺がよった。

「草鹿も関係あるのか?」

「マサコねえさんは、草鹿と山本が組んで殺したの」

「なに...」

 重い槌で打たれたような衝撃が阿南の中で広がった。コトミの言葉が信じられなかった。だが、現実はそれが真であることを裏付けているではないか。

「わたしにはあいつの嘘が分かった。アリバイは偽装だったの。それでおじさんに電話したら、ほんとは草鹿で、あいつ、おじさんの声まねして、それであそこへ呼び出された。そしたら、山本もいて、それで、それで...」

 コトミの声が途切れ、代わって嗚咽が湧き出た。頭を阿南の首筋に押し付け、泣きじゃくった。阿南はコトミを抱く腕の力を一層強めた。今言うべき言葉が見つからない。沈黙したまま、8才のチルドレンが泣くにまかせた。阿南も混乱していたのだ。いずれ世界を救う戦乙女になるべき少女は、驚くほど軽かった。

 

 

 ジオフロント総合病院。その1室でコトミは足首の治療を受けた。治療中も大人たちが付き添い、質問攻めにされた。それは彼女の望むところでもあった。一刻も早く草鹿を逮捕させたかったからだ。阿南は終始傍にいて、コトミの驚くべき推理を聞いた。打ちのめされる思いだった。自分たち捜査のベテランが思いもしなかったトリックを、わずか8才の子供が見破ったのだ。彼女の驚くべき資質には感嘆するほかなかった。

 二人の裏切り者に対する怒りは大きい。特に草鹿は好感を持ち、目をかけてやった相手だ。その男がスパイだった。彼は阿南に親しげに付き従いながら、陰では営々とスパイ行為をしていたのだ。そして思った。リリス教徒に自分を売ったのは草鹿なのだ。あいつこそがネメシスだ。おそらくXでもある。逮捕したあかつきには、この手で処刑してやりたいとさえ思う。自分も捜索に加わりたくなったが、体力は限界に近かった。

 草鹿を逮捕すれば、マサト殺害も含めた一連の事件はすべて片がつくと、明るい展望を持った。もしかしたら、マサコは草鹿がXだと気づいたのではないか。ふとそんな推測が浮かんだ。それを覚った草鹿は危険を感じ、マサコを殺す。動機としてはこちらの方が有力に見える。阿南は確信を深めていく。マサト殺害も草鹿のやったことだ。明日からその仮説を検証してみよう。

 カウエルに対してはすまなさで一杯になった。なんと言って詫びたらいいだろうか。彼の逮捕を最も強く推進したのは、阿南自身だった。

 阿南と相沢はコトミの長い推理と冒険談を聞き終えると、治療を終えた彼女を病室まで送った。今夜はここに入院するのだ。コトミは疲れきっているように見えた。足首の痛みはとりあえず引いていた。阿南は手短に安心して眠るように言い、病室を出た。阿南自身の頭は、体とは裏腹に興奮しきっていたので、眠れそうもなかった。

 阿南は病院のロビーで椅子に座り込んだ。相沢が自動販売機で栄養ドリンクを二本買い、一本を阿南に渡した。

「ごちそうさんです」

 相沢も阿南の隣りに座り込み、栄養ドリンクの蓋を開けた。

「ご苦労さんだったな。大した手柄だ。チルドレンの命を救った。お前さんがいなかったら、どうなっていたか」

「いや、彼女は自分で自分の命を救ったんです」

「謙遜するな。きっかけはお前さんの通報だよ。ところで」相沢は阿南の目を覗き込むように向き直った。「コトミが養成所にいないことを、どうやって知ったんだい?」

 阿南は用意しておいた答えを言った。「コトミに話したいことがあったんで、養成所に電話をしたんですが、時間を置いて3度も掛けたのに誰も出なかったんです。タダオが出ないのはおかしい。それで警備員に尋ねてみた。それがすべての始まりです」

「病院に確かめるとは念の入ったことだな」

「3人一緒は不自然だと思ったんです。タダオが一緒なのは理解できますが、フユキまで一緒なのはどうか。あの子にしては子供くさいやり方じゃないか、とね。恋人に付き添ってもらわないと歯医者に行けない、と思われたくないはずだ」

「ふうん」相沢は今一得心のいかぬ顔でいる。取って付けたような推論に聞こえたのだ。阿南はにこにことして上機嫌を装った。相沢はどうでも良くなり、前を向いて話題を変えた。

「草鹿のことは残念だった」

「はは、こっぴどくやられましたねえ。まさか、あいつとは。チクショウ。殺してやりたい!」

 瓶を握る手に力が篭り、白くなった。

「スパイ狩りの中にスパイとはな。あいつがおれ達より上手だったってことさ。よほどの訓練を受けてきたんだろう」

「あいつの出自を徹底的に調査しないと。おそらく相当早い段階から、そういう教育を受けてきたんでしょう」

「それは瀬島君たちの仕事だろう。お前さんの出番じゃない。ま、相応の処分は覚悟しようじゃないか。負け組は潔くな」

 二人とも黙り込んでしまった。どう言い訳しようとも、公安二課の失態に違いなかった。重い空気が辺りを包む。

 頸になることはないだろうと思い、阿南はいやな気分を払おうとした。とりあえずネオ・ネルフに関わっていければいい。家族もいないから重圧は少ない。相沢はその点、気の毒だが。

「山本の死も大きいよなあ。生きてりゃ貴重な情報を得られたかもしれんのに」

 相沢の嘆きに、阿南も同じ感想を持った。

 警備課に潜んだスパイ・山本は、救急車の中で息を引き取った。阿南が放った銃弾は、致命傷になったのである。救急隊員の懸命な治療も及ばなかった。阿南にはあの瞬間、手加減をする余裕はなかった。相沢を初めとして、誰もそのことを責める者はいなかった。

「カウエルにはおれから説明するよ。何て言うかなぁ。一発ぐらい殴られても、仕方ないだろうなぁ」

「すいません」阿南は神妙に頭を下げた。本当にありがたい上司だ。いくらか気持ちが楽になった。保安部全体の責任としてくれるわけだ。

「まだ謎が残っている。あの火災警報だ。誰がどうやって鳴らしたのか。コトミは知らないと言っている」

 相沢の疑問に対し、阿南は無難な意見を返した。「よくある誤作動じゃないでしょうか」

「誤作動?あのタイミングでか。これまで何ヶ月も正常に動いていたのに。コントローラーがあるのはプレハブの小屋だ。ところがそこは完璧に施錠されていて、誰も入った形跡がないんだ。まったく奇妙な話だよ。薄気味の悪い」

 阿南の携帯が鳴った。取り出してみると、知らない番号から着信している。誰かと思いながら耳に当てると、意外にもベヒシュタインだった。彼もまたこの深夜に叩き起こされた口だ。

『今夜も派手に活躍したそうだな。口だけじゃなく手も達者か』

「そんなに褒めていただかなくても」

『ふん。ところで、コトミはまだ起きているのかい?』

「さあ、どうですか」

『起きていたら伝えてくれ。フユキは直る。10日もあれば元通りにできるよ。これで安心できるだろ』

「そりゃ良かった!」

『幸いメインメモリーは無事だった。弾が逸れたんだよ。胸の機関も取替えが利く。ただし、タダオはどうにもならなかった』

「そうですか。ただ彼の場合は、停止したがっていましたからね。本望かもしれません」

『そうだな。君も気を落とさず頑張りなさい。じゃあ、私は寝る』

 それで通話は切れた。阿南は立ち上がり、相沢に伝えた。

「フユキは復活するそうです。コトミが喜びますよ。ちょっと行ってきます」

「おい、もう遅いだろう」

「多分、あの様子じゃ眠れませんよ。起きていたら話します」

 

 

 二階にあるコトミの病室はすぐに分かった。中にいる患者はコトミ一人きりだ。ガラスの向こうに見える内部は暗い。阿南は少しだけドアを開け、「チルドレン」と小声で呼んでみた。すぐに「なに」と返事があった。やはりコトミは起きている。

 阿南は音を立てないように中に入った。コトミは上半身を起こして読書灯を点けた。病院支給のパジャマを着た小さな姿が浮かぶ。

「僕だ。少し話をしてもいいかい?」

「構わないよ。全然眠れないし」

 阿南はベッドの傍に椅子を持って来て座った。コトミの目の下には隈ができていた。髪の毛も乱れていて、消耗しきっているように見える。

「いいニュースがあるから、早く聞かせたくて来たんだ。フユキはちゃんと直る」

「えっ、ほんと!?」コトミの瞳がぱっと輝く。

「ああ。ついさっき、ベヒシュタイン博士から連絡があった。10日もすれば元通りだ」

「ああ、良かった!」

 コトミは瞑目して心からほっとした様を見せた。阿南の口に笑みを浮かぶ。コトミの両手が、阿南の膝にある彼の左手を握った。

「おじさん、ありがとう。良く知らせてくれたわ。ほんとにありがとう」

 おじぎをするコトミの肩を叩いてやった。

「どういたしまして。それだけが言いたかった。良かったね、本当に。さ、もう寝なさい。色々大変な事があって疲れただろう」

「待って。もっといて。お話がしたいの」

 顔を上げたコトミの目には涙が光っていた。阿南としては到底断れない。

「いいとも。好きなだけ話しなさい」

 コトミは包帯に包まれた足をベッドから垂らし、座った。そのまま床を見つめ、何かを考えている。阿南はコトミが口を開くのをじっと待った。

「ど「あ」」二人の言葉が重なった。阿南は笑って、手でコトミを促した。

「おじさん、わたしね、きっとパイロットに向いてない」

「何を言うんだ」

 咄嗟にはそれしか言えなかった。このチルドレンから出る言葉としては、あまりに意外だった。

「そうなの。わたし、タダオさんやフユキがあんなことになって、悲しくていっぱい泣いちゃった。ちっともクールじゃなかった。抑えようにも抑えられなかった。わたし、きっとダメチルドレンなんだ」

 マサコが涙もろかったのが思い出された。阿南は何を言っていいか分からず、とりあえずは耳を傾けた。

「それからね、山本や草鹿が銃を向けたときも、足がすくんだの。心臓がどきどきして、声を出せなくて、ただ逃げ出したくて。わたし、怖くなったの!どうしよう。怖れを知らないのが本来のチルドレンなのに。わたしは強いはずだった。みんなが将来のエース候補だって言ってくれた。でも、きっと駄目だわ。使徒と向き合ったら、怖くてどうしようもなくなる。わたしは戦いたいの。戦って、この世に生み出してくれたヒトたちに恩返しをしたい。みんなから称賛されたい。でも、こんなにヒトくさかったら駄目。ワルキューレなんて柄じゃない。わたし、これからどうすればいいのか」

 コトミの目から零れるものがあった。手の甲でそれを拭うコトミを見ながら、阿南はどう慰めるべきか必死に考えた。

 長い沈黙の後、ようやく阿南は言った。「チルドレン、残念ながら僕は人間だ。君たちとは本質的に違うから、具体的にどうしろとは言えない。一つだけ言えるのは、あんまり気張らない方がいいんじゃないかってことだね。一人で背負うことはない。他にも大勢いるんだし。まだ先は長いんだから、もっと気楽にしたらどう?」

 コトミは大人しく聞き入っている。その有様は学校での悩み事を話す、親子の対話のようにも見える。

「君は今回、誰もができるわけじゃない特別な体験をした。非常に例外的なことだ。だから、深刻に悩むことはないんじゃないかな。一生分の恐怖と悲しみを今夜味わってしまった。この先、あれよりひどい経験はもうないだろうさ。前にも言ったけど、試練は人を強くする。そういう意味では有意義だった、と前向きに考えたらどう?」

 コトミは黙ったままベッドに体を横たえた。涙の涸れた目で天井を見上げた。阿南はベッド上に投げ出された小さな手を握った。

「でもねえ、チルドレン。僕はそういう君が好きだよ。君は神懸ったところもあるけど、実に人間的だ。僕個人としては、君がパイロットになれなくても、ちっとも構わない。むしろ、ならない方がいいとさえ思っている。そうすればずっと生きていられるから。大きくなって、いつまでも生きていてほしい」

 何か途方もない言葉を聞いた気がしたコトミは、大きく目を広げ阿南を見つめた。阿南はその視線にどぎまぎして目をそらした。えらいことを言ってしまったようにも思えた。

「おじさんは変ったヒト」

 ぽつりとコトミは呟いた。阿南は苦笑いを浮かべた。

「そうかな?別のチルドレンにも、同じことを言われたことがあるよ。やっぱり変ってるのかなぁ、おれ」

「でも、いいヒト」

 微笑を浮かべたコトミの手が阿南の手を握る。二人はそうしながら、優しさに満ちた目で互いを見つめる。時間がゆっくりと流れていく。

 沈黙を破ったのはコトミの方だった。「どうしてそんな風に優しくできるの?わたしたち、使徒の細胞でできてるのよ。目は赤いし、髪はこんななのに」

「きれいな目じゃないか」阿南は右手でコトミの髪を撫でた。「髪の毛だって、すてきな色だ。見飽きないね。こんないい子を嫌うヒトたちがいることが、おじさんには信じられない」

「うれしいこと言うのね」

 コトミが一つ大きなあくびをした。瞼が下がってきている。阿南はそろそろ切り上げるべきだと判断した。

「もう眠れそうだね。ゆっくり寝なさい」

 阿南は腰を上げ、コトミの肩を叩いた。コトミは枕に頭をつけて阿南を見続けた。ドアを半分開けた阿南は別れを告げる。

「おやすみ、チルドレン」

「もうコトミって呼んでいいよ」

 意外な言葉を聞いた。阿南は足を止めてコトミを見、微笑するコトミと目が合った。彼は彼女に向って、左手の親指を力強く立てた。コトミも立てた親指を阿南に見せた。

 阿南が去ってすぐに、コトミは眠りの世界に入った。安らかな寝顔から、微かに寝息の音が聞こえてくる。こうしてコトミの長い一日は終わった。

 

 

 一方、草鹿の一日はまだ終わっていない。ずっとのるかそるかの局面に立たされ続けている。 

 現場を離れた彼は近くに停めてあった車に乗り、一目散に自宅としている独身者用アパートに向った。スピードを限界まで上げた。これからは時間との勝負なのだ。アパートに着いた彼はまず自室に帰り、ボストンバッグに荷物を詰め込んだ。最低限必要な物にとどめた。中にはゲーム機に見せかけた暗号通信機という最重要装備が含まれる。パソコンはクリーニングソフトでOSごと葬り去った。手と足は絶えず動き回った。バッグが一杯になったところで一旦部屋を見回し、忘れ物がないか確認をする。捨てたくないものは多々あった。しかし、今の1分、1秒は途方もなく貴重なのだ。未練を断ち、部屋を後にする。

 下に降りた彼が向ったのは出口ではなかった。半地下のランドリーだ。深夜とあって誰もいない。彼は裏側にある窓に向った。バッグを開け、小箱を取り出す。そこにあるのはごく薄い直径7mmほどの円盤2枚であった。椅子を持って来てその上に立ち、引き窓の上隅にある警報機の端末に触った。窓枠と窓本体に付いた端末が、僅かな距離で向かいあっている。彼はその隙間にピンセットで摘んだ円盤を挿し入れ、窓枠側の端末に貼り付けた。窓側にも同様の細工をした。仕上げに窓中央の錠を開放する。

 準備を終えた草鹿はバッグを持って玄関に向かった。そこは監視カメラが四六時中見張っている箇所だ。しかし草鹿は何の躊躇もなく、そこを駆け抜けた。急いで遠くに逃げようとしていると、誰もが思うようにだ。

 草鹿は隣りのビルまで来るとすぐに足を止め、アパートとビルの間の狭い隙間に入り込んだ。人一人がやっと通れる間隔だ。苦労してそこを抜けると、すぐ右はアパートの裏だった。ランドリーの窓に駆け寄って手を掛けた時、急に表が騒がしくなった。

 何台かの車が停まり、多くの人間が降りた感じだ。てきぱきと指示を飛ばす声までが聞こえる。彼を追ってきた連中に間違いない。草鹿はあざ笑い、無造作に窓を開けた。先程の工作によって、警報装置は無効になっている。一度覗き込んで無人を確認し、悠々と中に降りて鍵を閉め、警報機に付けた円盤を回収した。そして入り口傍の掃除用具置き場に忍び入る。狭いが贅沢は言えない。ドアを閉め、移動式ごみ入れの横に腰を下ろした。真っ暗なその空間で、彼は座禅を組んだ。

 彼は保安部の組織に対し、一つの信頼を持っていた。もし部屋がもぬけの空と分かった場合にどうするか?多少経験のある奴なら、監視カメラをチェックする。それによって責任者は知るはずだ。草鹿は大慌てで走り出て行った、と。

 10分後、事態は彼の思惑通りに進んだことが明らかになった。誰もが飛び起きるような、うるさいサイレンの音が響き亘ったのだ。ジオフロントは歴史始まって以来の、使徒戦以外による非常警戒体勢に入った。ネオ・ネルフはいやいやながら目覚めた。今頃はありとあらゆる照明に灯が入り、昼間のような明るさになっているだろう。指示を繰り返す拡声器の声が届いてくる。

『スパイ容疑者逃走中。容疑者は公安二課草鹿コウイチロウ軍曹。武器を携行していると思われる。非戦闘員は直ちに武装の上、戸締りを厳重にし、自宅から1歩も出るな。戦闘員は全員基地に集合。繰り返す——』

 馬鹿が。隠れろと言っているようなものだ。保安部の連中はどうしてこうおめでたい、と草鹿は軽蔑の念を新たにした。

 軽蔑の対象と言えば、その筆頭が阿南だった。あの変態男、ヒーロー面しやがって。よくもまあ、あの人造人間どもに好意を持てるもんだ。ハルカの前にいた時のアホ面といったらなかったぜ。

 そうした無駄な考えはほどほどにして、現状分析とこれからの行動計画策定に頭を切り替えた。大筋は決まっている。彼はここに配属された直後から、こうした緊急事態に際しての対処方法を練ってきた。今ここにいるのも計画の範囲なのだ。しかし、この場所もいつまでも安全ではない。もう一度計画に穴がないか慎重に検討する。そして時を待った。

 懐中電灯で腕時計を見る。あのサイレンから約15分が過ぎた。最初、騒音がここまで聞こえてきたが、今は静かなものだ。腰を上げていい時期だ。彼は音もなく用具置き場を出た。暗いランドリーから首だけ出して廊下を見る。予想通り、誰一人いない。草鹿の部屋は4階にある。そこは今でも、数人は残って捜査しているだろう。だが、この階は安全なはずなのだ。

 こうした非常事態の場合に、必ず留守になる家がある。それは警備員の自宅だ。草鹿は静かに106号室の前に立った。表札に奥山ヨシロウとある。保安部警備課の若手だ。今頃はどこかで実のない捜索をしているはずだ。彼はバッグの隅に手を入れ、取っておきの鍵束を掴み出した。以前から機会を見つけては、密かに複製を作ってきた。その中の一つを使い、鍵を開ける。マスターキーのコピーだった。

 部屋の中は暗い。草鹿はバイザー型の暗視装置を装着した。懐中電灯の使用も避けたかった。どこに目があるか分からないからだ。独身者らしく雑然とした部屋だった。流しには洗いかけの食器が浸かっている。空のベッドは乱れ、住人が急いで出かけたことを表している。

 そこに横になりたいという、猛烈な欲求を感じた。だが、そうはいかないのだ。ここで眠ったら、全てが終わる可能性が高い。彼はリビングの真ん中にあぐらを掻き、バッグから注射器の入ったポーチを取り出しだ。一時的に効く興奮剤のアンプルも中にある。

 注射を終えた草鹿は、急速に頭がすっきりしていくのを感じた。身内に力が漲っていく。気分が高揚し、目がぎらついていく。

 バッグを近寄せ、中から弁当箱に偽装した、重みのある四角い箱を取り出す。間に合ってよかったと思う。それは一昨日届いたばかりだった。試験と調整が必要なので即使用とはいかないが、ここにいればその程度の時間は稼げるはずだ。ネオ・ネルフの馬鹿ども、ほえ面かくなよ。彼はにやにや笑いながら、箱の中身を広げた。まだ彼の一日は終わらない。

 

 

 奥山警備員は疲れた足を引き摺り、やっと自宅に辿り着いた。もう正午だ。彼はずっと森の中を受け持ち、草鹿の姿を求めて歩き回った。結果はむなしかった。ネオ・ネルフ始まって以来の大規模捜索にも拘わらず、草鹿の行方は杳として知れなかったのだ。

 捜索の規模は縮小せざるを得なかった。彼も交代を許され、こうして自宅に帰った。まずは風呂に入り、寝る。そう思いながら部屋の鍵を開けた。

 狭いながらも落ち着く我が家だ。彼は何の警戒もなくリビングを通り、寝室のドアを開けた。

 その瞬間、強い力で口を押さえられた。咄嗟のことで、なんの抵抗もできなかった。後ろに引き寄せられ、誰かの胸板に背中が当った。刃物のきらめきが目に入った。と思う間もなく、喉元に焼け付くような痛みを感じた。

 赤いものが寝室に飛び散った。それは自分の血だと理解した時には、意識が遠くなりかけていた。本能的に敵の腕を掴んだ手の握力は、早くも無くなった。体全体の力が抜け、床に崩れ落ちる。見慣れた天井が視界に入ってくる。

 奇妙極まる光景だった。ナイフがあり、刃から血が滴り落ちている。しかし、それ以外に何もないのだ。見えるはずの犯人の姿はなく、鋭い刃だけが宙に浮いている。

 恐怖と驚愕は、ほんの数秒で終わった。それが短い人生の最後に彼が見たものだった。

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