——さるほどに使徒の群れ、黒き月に来たりぬ。そを見し人、怖気を振るはぬなし。使徒の数かぞふるあたはず。その様、あらはさむとするは愚かなり。もろびと、口々にこの世の終わり、まさに今日ならむかと言えり。心利きたる者の、これぞ怒りの日とのたまふは、むべなきことなり。

 

 この一文をもって、私が所有する『死海文書』は終わる。私は本巻がこの中途半端な箇所で途絶えたことを、真に残念に思う。これほどもどかしい思いをしたことは、かつてない。紙の状態は、何者かが意図的に切り裂いたとしか見えない。その者は何を思って手を下したのであろうか。私はつい妄想を逞しくして、幾通りもの情景を思い描いたが、所詮想像の範囲を越えるものではなく、ここに記すのは止めにしておく。

 果たして人類はこの試練を耐え抜くのであろうか。8人の人造戦士と乙女たちの運命はいかなるものであろうか。考えに考えたが、答えは出なかった。また答えを出したところで、この13世紀を生きる私に、結末を変える力があろうはずもない。願わくは神よ、この後も、さらに久しく人類の世を続かせたまえ。

 できうることならば、後続の巻を見つけ出したい。しかし、その困難さは十分解っている。おそらく私の生存中に現われることは、まずないと言って差し支えないだろう。いやむしろ、新たな『死海文書』など発見されない方が、人類にとって幸いなのではないか。その内容は、人類に希望をもたらすものとは限らないからだ。

 さらに懸念するのは、ここに記された思想が、ある種の人々には魅力的に映るのではないかということだ。よきキリスト教徒たる私にとっては、おぞましいとしか言いようのないものではあるが。世界は広く、辺境には様々な邪教が存在する。かくも真理を普及させるのは困難なのだ。ゆえにこの書が、新たなる異端、邪教の依り代となる可能性を捨て去ることはできない。もし別巻が存在するのなら、焼き捨てることこそ最善の処置ではあるまいか。

 この不可思議な文書が、後世の害毒とならぬことを祈る。アーメン。

 ロジャー・ベーコン

(『ベーコン文書』末尾より)

 

 

リリスの子ら

間部瀬博士

第13話

 西暦2082年12月14日早朝。その日箱根付近はどんよりとした厚い雲に覆われ、雨こそ降らぬものの、誰もが重い気分に誘われる天候であった。空のないジオフロントに働く人々にとっても、散光塔から注ぐ光が晴天時よりはるかに少なく、陰鬱な一日の始まりとなった。

 ハルカを初めとするチルドレン、阿南やその他の人間、無数のアンドロイド達は普段通りの朝を迎えた。しかしその日常も、ほどなく断ち切られることになる。

 

 

 ただ一人の例外は草鹿だった。逃亡者という立場が安逸を遠ざけた。彼には、心から気を緩める暇が許されていない。

 その日も草鹿は、チルドレン霊廟に付属する塔の最上部にいた。先端にはサーチライトが備えられ、夜間は360度回転して天蓋を照らす。そのライトを制御する機械室が草鹿の居場所である。

 場所柄、訪れる者は月に一度定期点検に来る整備係しかいない。隠れ家としては実に好都合な場所なのだ。草鹿は以前に緊急時の避難場所として、そこに上がるための合鍵を入手していた。何日が点検の日かも把握している。

 奥山警備員の部屋には4日間滞在した。ゴミ袋に入れた奥山の死体との共同生活だった。殺したその日の夕刻、職場へ電話して、しわがれ声で熱が39度あると報告し、休暇を取った。それで数日は隠れ家を確保できた。元の彼の部屋からは、指呼の間であった。

 4日目、事態は暗転した。上司の工藤が見舞いがてら様子を見に来たのだ。何度も呼び鈴を押す工藤に対し、応えるわけにはいかない。ずっと無視を決め込むしかなかった。工藤が諦めて帰ると、すぐにそこを引き上げにかかった。この部屋ももう安全ではない。

 ステルス迷彩が草鹿の移動を助けた。堂々と人通りのある道を歩くことができた。全能者になった気分だ。歩きながらにやにや笑いが止まらなかった。だが、あまり長くそれを楽しむことはできない。やたら電力を食うので、バッテリーが持たなくなるのだ。フル充電で40分が限界だった。

 こうして草鹿は、空洞部にいる者なら日に一度は見かける場所で、今も牙を研いでいる。逃げ出す気などかけらもない。究極の狙いは内部への潜入と破壊。ステルス迷彩だけでは不十分だ。各種のセンサーがそれを阻止している。必要なのは『眼』。彼はおよそ住むには適さない環境で、粗末な食事に耐えながら、時々外に出ては眼を入手する機会を窺っている。

 そんな折に、警備員同士の会話から山本の死を知った。覚悟はしていたが、悲しい事実だった。唯一本心を明かすことのできる友が、この世を去ったのだ。彼を死に追いやったのが、阿南だったというのも確認できた。草加は破壊工作という崇高な使命とは別に、阿南に対する仇討ちという、個人的な目的を持つに至った。

 草鹿というネオ・ネルフに寄生した虫は、宿主を食い荒らす機会が来るのを、なおも虎視耽々と狙っている。ネメシスは簡単に復讐を諦めたりはしない。

 

 

 いつもの時間にアパートを出た阿南は、公安二課へ向わず、警備課の詰め所へ向った。草鹿捜索の指揮を取るためだ。現時点の最優先課題は草鹿を逮捕することなのだ。公安二課も全員が警備員の役目に就いている。軍も一部の人員を提供している。そんな日々が、かれこれ20日以上も続いているのに、未だに草鹿を確保できないとはどういうことなのか。阿南の頭脳はその謎を解くために今日も働く。

 詰め所に入ると、まだ来ている部下は二人だけだった。「お早う」と阿南が言った途端、それが聞こえてきた。

 

 

「えーと、パンティどこいったかな」

 チヒロは全裸でベッドの上に座り、毛布の下をまさぐった。マサトも起き上がって探すのを手伝った。

「あった。ほら、ここだ」

 ベッドと壁の隙間から、マサトは小さな布切れをつまみ出した。チヒロは笑ってそれを受け取り、ありがとうと礼を言った。ベッドの端に腰掛け、それに足を通していく。

「夕べ、あれからすぐに寝ちゃったね」

「君はとても激しかった」

「だって、マサトったら上手いんだもん」

 チヒロの裸の胸がマサトの胸についた。二人は昨夜の余韻に浸るように接吻を始めた。

 それは数秒と続かなかった。低く長いサイレン。使徒襲来を告げる不吉な木霊が響き渡ったからだ。

「来た」チヒロの表情が一変し、戦士の顔になった。マサトも真剣な顔できびきびと立ち上がった。チヒロはたった今穿いたばかりの下着を脱ぎ捨てた。

 

 

 豪華なベッドに横たわったベヒシュタインは、うんざりした顔で目を開けた。昨夜、3時まで起きていた彼にはきつい朝となった。やっとの思いで寝返りを打ち、目をこすった。今日はとんだ一日になりそうだ。枕元に腕を伸ばして緊急放送の音を切った。

 パジャマ姿でベッドから降り立った。あくびをしながら大きく伸びをする。頭を掻きながらベッドを振り返った。またあくびが出た。ベッドでは愛らしいエリーゼが、円らな瞳を彼に向けていた。

「...はあ。おじさんは仕事だ。朝ごはんは一緒に食べられない。一人でいい子にしているんだよ」

「分かったわ、おじさま」

「もう起きて、服を着なさい」

「はい」

 少女は即座に上半身を起こした。その胸を覆うものはなにもなかった。

 

 

 ハルカは齧りかけのトーストを皿に戻した。楽しい朝食の時間は終わりだ。

「行って来る」

 躊躇いもなくハルカは席を立ち、バスルームへ向かった。家の中は既に緊張感で満ちていた。タツヤも慣れたこととて、食器を片付けにかかった。しばらくして白いプラグスーツに身を包んだハルカが現われた。

「頑張って」

「任せなさい。私たちは勝つわ」

 短い接吻を交わし、ハルカは玄関に向かった。いつものように、ファーストチルドレンの写真に手を置き、呟く。

「ファーストチルドレン、私に力と勇気を」

 

 

「引き続き、第96、97センサーにも感!」

「これは異常ではありません!」

 そう叫ぶオペレーターの額には汗が光っていた。彼はこれまで経験したことのない事態に、平静さを失っていた。それはこの作戦指令室にいる人間たち全てに言えることだった。

「進路北西。ジオフロント直撃コースを取っています。時速10km」

「第115から125までの全センサーに感」

「これまでの所、全部で31のセンサーが感知」

「分析の結果は全てパターン青。使徒の形状、大きさ、共に分析不能」

 人ならぬタロウ、ジロウ、サブロウは相変わらず冷静に事実を告げた。栗林は座っていられず、フロアの中を歩き回った。

「一体使徒はどれだけの大きさがあるんだ?」

 シンが答えた。「現在のところ幅3キロに亘り感知があります。それが途絶えないんです。まだ大きさは途方もないものとしか、言いようがありません」

 指令室内の多くの人間が、立って眼前のスクリーンに見入っていた。そこには前代未聞の映像が映し出されている。

 熱海沖の海底に、赤い巨大な帯がある。センサーが捉えた使徒を表す光点の塊りだ。それは次第に幅を増していくのだ。後続はまだ増え続けている。第1次、第2次使徒戦役を通して最大の使徒が、想像をはるかに超える巨大さで、このジオフロントに迫ってきている。

「敵は単数なのか?複数ではないのか。分析したまえ」とフォン・アイネムの落ち着いた指示が下った。

 信時は色を失った。「まさか、あれが起きようとしているのか?」

 アイネムはじっとスクリーンを見ながら答えた。「たぶん間違いない。今日が『怒りの日』なのだ」

 数人が固唾を飲んで総司令の顔を見た。アイネムはいつも通り、心中何を考えているのか分からない表情のなさで、淡々としている。その態度は、この場にいる者たちの動揺を静めるのに、多少なりとも役に立った。

「『怒りの日』。死海文書に書かれた歴史の終わりか」

 信時が蒼ざめた顔で呟いた。アイネムは彼に目もくれず答えた。

「そうだ。これより後は未知の領域に入る。先にあるのは滅亡か、それともさらなる繁栄か。それは我々の努力次第ということになる」

 信時の握り合わせた拳が小刻みに震えた。作戦指令室は、通常の使徒戦とは、明らかに異なる雰囲気に包まれている。

 シンが立ち上がり、報告を入れた。「詳細な分析の結果、使徒は単数ではないことが判明しました。その数、現在判明しているものだけで、約1万。これは今後増え続けるものと見做されます」

 数瞬、作戦指令室は沈黙に陥った。誰もがその数字の重大さに息を呑んだ。スクリーン上では、赤い帯の先端が海岸から17kmの距離に達している。

 アイネムは顔色も変えず命令を下した。「状況6−6−1、フェイズ1。全軍、戦闘準備に入れ。諸君、全面戦争だ」

 

 

 ハルカたちパイロットは、既に控室に固まって出撃の時を待っている。この部屋に入って、もう30分が過ぎた。さすがに弛緩した空気が流れている。若いシオリ、ユカ、ルミの3人などはトランプ遊びを始めた。チヒロはいつものようにハルカの隣りに陣取り、お喋りを始めた。

「こうやって待つ時間が長くていやよね。毎度のことだけどさ」

「あたふたと乗り込まされるよりはいいわよ。じっくり作戦を立ててもらえるし」

「ところで、頼みがあるんだけど」

「なに?」

「ロッカー取り替えてもらえないかな?」

「あら、どうして?」

「前の使徒戦の時ね、開けるときになんかぞくっとしたの。なんだろなあ。いやあな感じ。よくわからないんだけど」

 チヒロは暗い目で自分のロッカーを見た。ハルカは不気味なものを感じた。

「それって、訓練のときも?」

「普段はないんだけど。ただ、今日はなんか違う。あそこを開けるのが怖いような。なんでかな」

「気の迷いよ」

 ハルカはことさら明るく立ち上がって、チヒロのロッカーを開け、インターフェイスヘッドセットを取り出した。

「ほら、どうってことないよ。でも、あなたが替えたいっていうなら、いいわよ」

 ヘッドセットをチヒロの頭に優しくセットしてやった。チヒロはにっこり笑って礼を言った。ハルカはそのまま、やっと肩に触れるまで伸びた髪を撫でた。

「大分伸びたわね。可愛くなったわ」

「随分優しいね」

 チヒロはハルカの手の甲に、自分の手を乗せた。そうしてハルカの体温を確かめる。使徒の上陸までにはまだ余裕があった。

 

 

 使徒群の発見から2時間が経過した。熱海近辺には無数のヘリコプターやジェット戦闘機が旋回している。パイロット達はかつてない緊張の最中にあった。これまでに例のない、複数の使徒が直にこの海岸に姿を現す。その数、最終的に7万を超えていた。

 南雲は機を低空でホバリングさせて、コクピットから海面を眺め、生唾を飲み込んだ。すでに普段の色ではなかった。使徒が海底の土を蹴立てるせいなのだろう、嵐の後のように茶色く濁っている。それが見渡す限り延々と広がっているのだ。

 指令室からの報告では、もうまもなく最初の個体が姿を現すはずだ。彼はとっくに普段の精神状態ではないことを自覚していた。迫り来る死の予感が、彼から冷静さを奪った。

 機の先100mの海面が瘤のように盛り上がった。遂に第131使徒の姿を彼は見た。

「使徒視認!」

 それは通常の使徒よりも小さい、灰色の塊りだった。海面が続けざまに、泡立つように盛り上がった。

「次々上がってきます。すごい...。なんて数だ!」

 すべての個体は同じ形をしていた。完全に岩場に乗り上げた個体を見た南雲は、歴戦の勇士にも拘わらず、戦慄を禁じえなかった。

 体長は15m近い。黒に近い灰色の体色。蜘蛛に似た足が4対、横に伸びていて、先端は長い3本の指が突き出し、その指先は蛙のように平たい皿の形をしている。胴体には蠍のような体節が十以上もあり、いかにも固そうに光を反射している。その体節の各所からはアンテナのような長い突起が、不規則に曲がりながら空に向って伸びている。尖った尾部には反り返った針があり、前方を窺っている。不釣合いに大きいのは、頭部と二本の腕であった。腕の先は三本の巨大な爪で、エヴァの腕でも容易に挟めるであろう。マッコウ鯨のそれに似た形の頭部には、眼とおぼしき物が一切なかった。最も恐ろしいのは顎であった。頭部の下側に開くそいつの口は、胸部のすぐ前まで裂けており、無数の細かい牙が並んでいるのが見える。そして奇怪にも三本のピンク色をした管状の舌が、不気味な蠢動を垣間見せているのだ。

 作戦指令室の者たちも、同時にこの使徒の姿を確認していた。スクリーンは幾ばくもせぬうちに、同じ使徒で埋め尽くされた。使徒軍の先陣は上陸を開始した。

 海岸線は瞬く間に、蠢く使徒の群れによって埋め尽くされていく。最初に上陸した個体は早くも内陸200mに達した。一帯が濃い灰色の帯となる。その長さは増えるばかりだ。使徒の足音と、時折発する、ボウ、ボウという低音の不快な鳴き声が混ざり、ひどい騒音となって神経を掻き毟る。指令室のスタッフは、思わず目を逸らしたくなるような光景に耐えつつ、夫々の職務を忠実に果たしていく。そうすることがこの恐怖から逃れる唯一の道なのだ。誰もが人類壊滅という最悪の結末を思い描いた。この世の終わりがあるとすれば、今日を措いて他にあるだろうか。

 信時も恐怖と戦う者の一人だった。しかし、彼の立場はそれを表に出すことを許さない。見かけ上は泰然とした態度を取り続けた。

「第25地区を映せ」

 アイネムの指示に栗林は、はっと我に帰った。彼ほどの指揮官でも呆然としていた。

 映像が動いて高い崖を映し出した。その辺りは1.2kmに亘って、高さ40mから70mの絶壁が連なっている。そこに見えたのは岩ではなかった。もぞもぞとひしめき合う、無数の使徒の背中だったのだ。例えば蜜蜂で埋め尽くされた巣箱の様子にも似ている。そして上へと波打つような動きがずっと続く。

「足の先端が吸盤の役目を果たしているんでしょう」

 白衣のブーランジェ博士が冷静に告げた。彼女は男勝りの気丈さを見せて、スクリーンを睨んでいた。

「3Dデータを早くください。弱点が見つかるかもしれません」

 間を置かず、彼女の前のモニターにワイヤーフレームの使徒が映し出された。

「見ての通り、手をこまねいていれば、城壁は易々と突破されるだろう。近づけないことが肝要だな」と、アイネムが最初の作戦を立てた。

 それには栗林も同感だった。だが、これまでと同じ要撃作戦は使えないのは明らかだった。絶対的な数の差が選択の幅を狭くしている。

「使徒は続々と上陸中。現在陸に上がったものおよそ5千」

「先頭は地上1.5kmまで侵攻」

 スクリーン上の伊豆半島上部には、大きな赤い染みがあった。その先端は陸を侵し、刻々とジオフロントの方向へ移動して来る。その幅2.9km、長さ3.8km。

「南雲大尉が攻撃許可を求めています」

 古賀が栗林に告げた。アイネムが首を振って口を挟んだ。

「戦闘機の攻撃などでは計れんよ。航空機は作戦空域を離れろ。N2ミサイル用意」

 5分後、地上部にあるミサイルサイロから、弾道ミサイルが白煙を引いて空へ駆け上った。

 使徒群の頭上に達するまでには30秒とかからなかった。バイザーによって閃光防御したスタッフの前で、スクリーンは一瞬強烈な光を放った。続けて丸い火球が見え、それはしずしずときのこ雲になって伸びて行く。曇天にも拘わらず、その周囲だけ青空が広がっている。衝撃波が雲を吹き払ったのだ。

「ATフィールド探知。強度...5.2SU!」

「強い...」

 栗林がそっと呟いた。ブーランジェは素早く分析結果を伝えた。

「個々のATフィールドは強くありません。集団で展開することによって、強度を得ているのです」

 アイネムが言った。「だが、中和できぬほどの強さではない」

 スクリーンに爆心付近の像が大写しになった。期待に反し、傷を負ったように見える使徒すらなかった。どれもが何事もなかったように動き出した。

「最早選択の余地はない。エヴァ8機があの中を駆け回っても、焼け石に水だ。栗林君」アイネムは、額に汗してモニターを覗く栗林に声を掛けた。「我々はこれより篭城策を取る。他に代案はあるかね?」

 直立不動の姿勢で栗林は答えた。「いいえ、閣下」

 アイネムは立ち上がりマイクを取った。ネオ・ネルフの歴史上初めてとなる、城に篭っての防御戦の開始を告げるためだ。

「全員、手を休めて」

 ハインリッヒ・フォン・アイネム総司令は、二重螺旋のシンボルを背に立ち上がった。その場の全員が起立し、総司令を注視した。アイネムの訓示が始まった。この音声は全ての軍事施設に中継され、立ち働く軍関係者全員が聞いた。

「諸君。おおよそ察したかと思うが、我々は史上発の篭城戦を戦う。使徒は今日、この日を決戦の日と定めた。人類の存続はこれからの数時間、我々がいかに働くかにかかった。諸君の一層の奮起を望む。全員持てる力を100%発揮してほしい。そうして勝利を収め、戦いの後には救世の英雄となろうではないか。自信を失うな。今日この場にいられたことを、後日諸君は誇りに思うであろう。勝利は我らの手にある。決して使徒の側にはない。この戦いが終わった瞬間、人類は大いなる希望を持つことになるのだ」

 アイネムの力強い演説は、一気に指令室の空気を引き締めた。誰もが真剣な表情で仕事に戻った。

 

 

「篭城ですか?」

 パイロット控室、急遽現われた栗林を前に、ハルカは呆気に取られた顔で言った。

「今回はそれより方法がない。こちらが圧倒的に不利なのだ。しかし、心配するな。全兵力を挙げて君たちを掩護する」

 チルドレンは皆複雑な表情で栗林を見た。誰もがかつてない戦いの予感に、身のひきしまる思いをしていた。

 ハルカが尋ねた。「使徒の総数は?」

「約7万」

 息を呑む音が聞こえた。ハルカも生唾を飲んだ。今回の使徒戦の重大な意味が身に沁みた。

「使徒は決着をつけようとしているのでしょうか?」

「それは分からない。しかし、敗北が許されないということは、今までと同じだ。余計なことは考えず、全ての使徒を殺せ。心配するな。勝算はある」

 栗林は余裕の笑みを浮かべてチルドレンを見回した。ハルカが一歩前に出て、後輩たちに言った。

「聞こえた?敵は無限にいるわけじゃないって。撃ち続けていれば、いずれいなくなるのよ。楽な戦いだわ」

 チヒロが続いた。「いいんじゃない。いつもみたいに、斬ったはったの戦いをしなくてすみそうだもの」

 後輩たちにやや落ち着きが戻った。やはりハルカとチヒロの影響力は大きい。栗林は満足げに頷いた。搭乗開始の時は近い。

 

 

 ジオフロントに甲高い警報音が響く。続けて全てのスピーカーから、事務的な口調の女性の声が聞こえた。

「非戦闘員は直ちに所定のシェルターに避難してください。繰り返します。非戦闘員は直ちに所定のシェルターに避難してください...」

 阿南は恐怖に胃が縮むのを感じながら、その声を聞いた。今回の使徒戦は何か違う。エヴァが出撃する前に避難など、あったためしがなかった。前回、第130使徒戦の被害は、まだ殆ど回復していない。使徒を操る何者かは、その機を狙ったということなのか。

 回りの同僚も異様な顔をしながら、声に聴き入っている。ぼんやりしてはいられない。阿南はともかくも大声で、皆に指示を下した。

「みんな聞いたか。すぐにシェルターに移動だ。貴重品だけ持て。施錠を忘れるな。急げ」

 

 

 養成所では榊原所長が先頭に立って、チルドレンや職員を地下に誘導した。渡辺と着任したばかりの二人の保母は、一様に不幸のどん底といった顔でいた。チルドレンはみな不審げな面持ちで、地下に降りる階段を下った。コトミとフユキもしっかりと手を握り合い、深地下のシェルターを目指す。赤子を除くどのチルドレンも、説明なしに事態の深刻さを感じ取っていた。

 

 

 草鹿に逃げ場所はなかった。ごく狭い塔の一室で、小さな窓から外で何が起きているかを観察する他はなかった。尋常な戦いではないことは即座に分かった。あるいは今日がフォースインパクトの日になるのではないか。草鹿は期待で胸が膨らむのを感じ、気違いじみた笑みを浮かべて天蓋に目をやった。

 

 

 これら一連の動きをジオフロント上空から眺めるものがある。肉体があった頃は綾波レイと呼ばれた。精神エネルギー体としてこの世に残った彼女もまた、東南方に現われた使徒群の意味を理解していた。リリスは決行しようとしている。大いなる悲しみが彼女の裡に芽生えた。それはどうしてもなされなければならないのか。この世の支配者は一つであるべきなのか。彼女はこれから起こる殺戮と悲劇を予感し、運命の非情さを嘆いた。しかし肉体のない彼女に、流す涙というものはなかった。

 使徒の群れが蹴立てる土煙が、高く立ち昇っている。それは恐ろしい広範囲に広がり、着実にジオフロントに接近して来る。レイの精神は観察を止め、ジオフロントの内部を目指して移動を始めた。見てやりたい者は沢山いる。とりわけ自分の係累に無関心でいることはできない。

 

 

 伊豆半島を黒い絨毯が這い進んでいる。岩と砂に覆われた荒野は、無数の使徒によって覆われていき、衛星から見るその光景は、灰褐色の地図を黒いものが侵食していくかのようである。上空を飛び交う戦闘機のパイロット達は、見渡す限り充満する使徒の軍団が行進するのを、恐怖と戦いながら見守る。どこもかしこも醜い姿の使徒が、もぞもぞと歩む姿があるばかりだ。互いに触れ合わんばかりに隙間を埋めているために、見える地面はごく少ない。遠望すれば、奇怪な蠢動をする超巨大使徒が、ジオフロントを目指しているようにも見える。どの戦闘機乗りも、これほどの使徒を防ぎきれると思えなかった。カトリックの典礼文にある『怒りの日』を連想する者、二三にとどまらなかった。

 

 

 使徒軍の先頭は内陸3kmまで侵入した。その地点で軍団に変化が起こった。

「使徒群が北北東に進路を取ります」

 アイネムの眉がぴくりと動いた。

「どうするつもりだろう?」と信時が小声で訊いた。

「やつら、地上の方が動きが速い。だから見ろ。沿岸部は隙間が多くなっている」

 スクリーン上の赤い色は先端が濃く、海岸線近くは薄くなっている。海中にはまだ半分近くの使徒が残っている。

「待機だよ。全使徒が上陸した後、攻略にかかるつもりなのだ。だから、ある程度進んで場所が空いたら移動は止まる」

 使徒の軍団は南北に伸びた形になった。後から後から地獄からの死者が陸に上がっていく。後10分もすれば、全7万の使徒は、全て上陸を果たすだろう。

「新横須賀に停泊中の空母から艦載機が出ました」

「三沢、厚木も攻撃機が離陸中」

 続々と連絡が入ってくる。人類存続を賭けた一戦に向けて、使用可能な兵力は惜しみなく投入されることになったのだ。

「エヴァパイロット、全員エントリー終了しました。全機、発進可能です」

 ブーランジェの告げる声を聞き、数人がアイネムを見た。彼は普段と変らぬ調子で命令を下した。

「全機発進せよ。あの娘たちも退屈だろうからな」

 

 

 地下深く、シェルターとされた大ホールに阿南はいる。そこは非戦闘員でごった返していた。厚い装甲に守られてはいるが、おせじにも居心地のいい場所とは言えない。勿論窓など一つもない。その一角に公安などの保安部員達が固まっている。ただしテロの警戒のため、村周辺と養成所の警備員は持ち場に残されたままだ。多くの警備員は、訂正放送とおのれの不運を呪った。

 相沢は阿南の傍に無言で座っていた。阿南の方も黙って会議机の表面を眺めている。戦いの行く末や草鹿の出方など、考えなければならないことが多く、思考が定まらない。

 天井のスピーカーから、耳に染み付いた音楽が流れてきた。ワーグナーの『ワルキューレの騎行』だ。

「エヴァの出撃だ。とうとう来たかな」と、相沢が呟いた。阿南はなんとなく天井を見上げた。ハルカの面差しが脳裏に湧いた。

 誰かが旋律をハミングし始めた。その傍でもう一人がそれに合わせた。立ち上がって大声で歌う者が出た。歌声は次第に広まり、大きくなっていく。いつしか大合唱がシェルターに轟き、スピーカーの歌声を圧倒した。阿南も熱情に駆られて立ち、適当な歌詞でそれに加わった。

 

 

 第一陣として、エヴァ8機のうち3機が垂直に打ち上げられた。曲がりは少なく、いつもとは異なり、三本の柱の中を通って地上部に出るのだ。ハルカたちには実に久しぶりのコースだ。地上に三つの四角い穴が開き、三機ほぼ同時に到着した。

「台から離れて。まずこの場で後続を待つわ」

 ハルカの1号機、チヒロの8号機、ユリコの2号機が地上に雄姿を見せている。ハルカは自分達が守るべき城を見渡した。実に220mの高さがある環状の壁が延々と続いている。最後の盾となる第三の壁だ。外側にはそれより低い二層の城壁が、使徒の侵攻を待ち構えている。その総延長11.3km。直径約3.6kmの円形窪地を内側に守っている。バベルの塔にも比肩すべき壮大な建築は、人民の血と汗の結晶と言えよう。これら壮大な城壁をさらに壮麗に見せているのは、等間隔にそそり立つ筒型の塔である。それらの塔に配備された21cmレールガン式バルカン砲は、強化チタン弾を0.3秒間隔で打ち出す性能を持ち、いかなる生物であろうとも、その威力によって四分五裂するはずである。

 ほどなく第二陣が到着した。ユキエの3号機、サヨコの4号機、ルミの5号機だ。残り2機を搬送するためにエレベーターが下りていく。今、エヴァたちが居並ぶ中央部は広く何もない敷地で、中心には航空機用に円形の中央ゲートが全開となり、80m下のジオフロント頂点と直通している。丁度南雲の垂直離着陸型戦闘機がゲートの中に消えようとしていた。外周部ではミサイルサイロが全ての蓋を開け放たれ、中のミサイルが空中に飛び出す機を窺うかのようである。倉庫や通信施設で人が慌しく出入りし、軍用車が走り回る様子は、開戦が近いことを感じさせる。

 残る二機が姿を現した。エヴァンゲリオン8機はとりどりの色を輝かせ、地上に集結した。しかし城が持つ巨大なスケールに比較すると、小さな人間の集団のようでしかなかった。 

 パイロットたちの耳に栗林の声が入って来た。『全機もうしばらくそこに待機していてくれ。使徒群の動きがはっきりし次第、位置を指示する』

「開戦予定時刻は?」と、ハルカが訊いた。

『今のペースでいけば、後55分後に先頭が城壁に達する』

「やれやれ、長いんだから。早く来ないかなあ」

 というチヒロの嘆きには、栗林も苦笑せざるを得なかった。

『まあ我慢してくれ。しかし大した心意気だな。見習わなくちゃ』

「ふふ。サポートしっかり頼みますよ。今回は通常兵器に大いに期待してますから」

『この日のために備えてきたようなものだからな。備蓄は十二分にある。今回は人間の恐ろしさを、あいつらに見せてやるさ』

 そこで通信は途切れた。栗林にはパイロットとの会話にかまける余裕はなかった。使徒に新たな動きがあった。

 

 

 使徒の先頭集団が動きを止め、5分が経過していた。全軍が上陸した使徒群は、丁度ジオフロントと第1芦ノ湖を結ぶラインの延長線上に、楕円形の塊りをなした。それらが再び動き出したのだ。

「使徒群、移動を開始。真っ直ぐジオフロントに向かってきます」

 緊張を孕んだ声でキムが報告した。アイネムが栗林に向って言った。

「使徒の動きには統制されたものがある。決して獣の群れではない。組織されたものだ。おそらく指揮官がいよう。そいつを見つけ出せ」

「はっ」

「だが、どうやってコミュニケーションを取っているのだろう」と、信時が首を捻って言った。

 ベヒシュタインが推測を口にした。「あの体節から突き出た突起、あれが気になる。無線通信機の役割を果たしているのではないだろうか」

 ブーランジェも推論を述べた。「蟻や蜜蜂のような昆虫の行動パターンとも異なります。高度な意識が感じられます。全体が一つの意志を持って動いているかのよう。まるで高度な訓練を経た軍隊のようでもあります」

「もちろんそんな訓練などあったはずもない」と、アイネム。

「これは直感ですが」ブーランジェはアイネムに向って言った。「多分、主体的な意志を持つのは1体のみ。他の全使徒は機械のように、それに従っているだけ。おそらくテレパシーのような方法で動かしているのでしょう」

「私も同意見だ」

 アイネムがまとめ、彼らはスクリーンを注視した。使徒軍は動く灰色のカーペットのように、ジオフロント南方の湖沼群に迫ってくる。

 

 

 使徒上陸から40分が経過した。使徒の先端は第1芦ノ湖の南端に近い。城方は不思議な静けさに包まれていた。内部では準備を終えた人類とエヴァ8機が、牙を研いで待ち構えている。

 長く伸びた一本の塹壕線に使徒が充満した。それらはそのまま窪みの中を進み、エヴァ進発ポイントを目指す。

「ポイントA−17が危険です。後20秒で接触」

 栗林が言った。「今は様子見だ。通路完全閉鎖の用意はいいか?」

「問題ありません。既に地下通路の防護扉は全て閉じました」

「外部扉がもつかどうかだな」

 遂に一匹の使徒がポイントに達した。栗林たちは送られてくる映像を固唾を飲んで見守る。地下通路を通って侵入される事態だけは、避けなければならない。その使徒は盛んに両腕で扉を撫で、強い興味を示した。次々と別の使徒が扉に取り付く。爪が表面の鋼鉄を引っかき、耳障りな音を立てた。扉は一枚が厚さ1mの鋼鉄製で、それが三重に重なり、外敵の侵入を防いでいる。最初の使徒が大きく口を開けた。三本のピンク色をした舌が躍った。そのうちの二本が大きく膨らんだかと思うと、扉に貼り付いたのだ。たちまちそこから黄色い煙が立ち昇る。他の使徒も同じ事をした。さらに後続が背に乗り上げ、作業に加わっていく。

 古賀が悲鳴を上げた。「溶解液だ!やつら扉を溶かす気でいる!」

 スクリーンに外部扉の断面図が現われた。本来一直線であるはずの表面が、各所に凹みを作っていく。

 栗林が叫んだ。「A−17を破棄!硬化ベークライト注入!」

 ポイント内部で立て続けに爆発が起こった。鉄柱が倒れ、梁が落下し、内部は惨憺たる有様になった。そして爆煙を押しのけるように、高所から茶色い液体がポイント内部に降り注ぐ。それらは濁流となって残骸を浸していく。

「間に合いそうか?」

 栗林はスクリーンに目をやった。最外層の扉は見る影もなかった。二枚目も数箇所に穴が開き始めている。ベークライトは急速に厚みを増していく。

 二枚目の扉の下側で、遂に穴が貫通した。頼みの三枚目は果たしてもつか。

「ベークライト、充填終了。硬化します」

 スタッフは物も言わずスクリーンに見入った。古賀の心臓は早鐘のように打った。一秒、一秒が異様に長く感じられた。

「硬化完了!」

「使徒が外部扉を突破!」

 それらの声はほぼ同時に起こった。ポイント周辺は黄色い煙にくすんでいる。使徒たちが折り重なって扉にへばりついた光景は、異様なものがある。それらはそのまま動かずにいる。

「ベークライトはどうか?」

「無事です。侵食ありません」

 古賀の声に安堵が滲んだ。硬化ベークライトの分子は、使徒の溶解液に耐える構造になっているのだ。

 使徒の山が崩れた。これ以上の侵入を諦めたのだろう。再び塹壕線の中をジオフロント方面へ侵攻していく。後には惨憺たる有様の外部扉が残った。

「今のうちに侵攻予想区域にあるポイントを破棄しておけ。古賀大尉、君に任せた」

 栗林の指示に古賀は大きく頷き、作業に掛かった。こうして使徒群との最初の接触は、無事にやり過ごすことができた。

 

 

 使徒軍の先頭が第1芦ノ湖の南端付近に到着した。ここで彼らは停止した。全ての使徒が一斉に、呼吸を合わせたかのように歩みを止める様は、見守る者たちに恐怖と畏敬を感じさせる。その静止は一分と続かなかった。使徒の群れが波立つかのように見えた。

 衛星から見ると、まるで細胞が分裂するかのようである。丸い使徒群が二つに分裂を始めたのだ。やがて完全に分かれた二つの塊りは、湖の東と西に別れて行進を開始した。

「軍団を二つに割ったか。二方向から包囲する気なのだろう」

 というアイネムの分析に誰もが頷いた。栗林も勿論同意見だ。最も取られたくない戦術が、この包囲作戦だった。頼みのエヴァがわずか8機しかいないからである。

 西のルートを取った使徒群は、第4、第5芦ノ湖と第1芦ノ湖の間にある狭い地域を抜けると予想された。湖同士の距離で最も近いのは、第1芦ノ湖北端から2kmの場所で、そこから第4芦ノ湖までの距離は1.2km。その辺りは使徒の自爆が度重なったことで大きく地面が抉られ、渓谷のような構造を持つに至った。

「ノア作戦を発動する」

 アイネムが静かに下命した。それは栗林も考えていた事なので、動揺することなく頷いた。

「みんな、聞いたか。いよいよあれをやるぞ。前代未聞の光景を、使徒どもに見せてやろうじゃないか」

 指令室の面々に明るい表情が戻った。みな使徒に一泡吹かせる期待に胸を膨らませた。

「N2地雷T78からT101まで、点火用意に入ります」

「使徒群、想定コースを順調に進行」

 スクリーンに三つの湖が大映しになっている。使徒を表す光点の集団が第1芦ノ湖の外縁を離れ、縦に伸びた形になった。より低い部分に集まった結果だ。第4芦ノ湖との間にあるV字型の谷を、使徒群は整然と行軍して来る。

「作戦決行ポイントまで後5分」

「西を行く使徒B群の数、約3万」

 この時、東を行くA群は、山間部に入ったために進行速度を落としていた。急な昇りと下りを繰り返すために、隊列に乱れが生じていた。

「作戦用全N2地雷、準備よし」

「予定地点まであと450m」

「総員振動に備え!」

 栗林の号令一下、全員机上のモニターや小物類を押えた。栗林は生体認証機に指を押し付けて、デスクの一角にあるプラスチックの蓋を開けた。そこにあるテンキーで8桁の暗証番号を打ち込んだ。小さな液晶がOKの合図を送る。

「総司令」栗林がアイネムに振り返って呼びかけた。アイネムは無言で頷く。その手元にも栗林のと同じ装置がある。栗林とアイネムは胸元から、紐で首に吊るした鍵を取り出し、装置の鍵穴に差し込む。

「ゼロ地点まであと100m。...50m。...ゼロ!」

 スクリーンで使徒の先頭が黄色い直線にかかった。二人の指揮官は同時に鍵を捻った。

 使徒B群の左右の地面がふいに盛り上がった。それも一瞬、続けて史上最大級の爆発が、B群の先頭を挟むように、同時に起こったのだ。膨大な量の土砂が瞬時に消し飛んだ。大地が巨大地震のように揺れた。ジオフロントにもその波は伝わった。約10秒間、震度4クラスの揺れが続き、何も知らないシェルターの避難民を恐怖に陥れた。すさまじい煙の壁は、複数の火山が一斉に噴火したかのようだ。人類が引き起こした天変地異はこれだけではなかった。次の現象こそノア作戦の狙いなのだ。

 仮に使徒が耳を持っていたならば、その轟音を聞いたであろう。膨大な質量が一斉に移動を始めた音だ。分厚かった煙の壁が根元をちぎられた。煙を断ち切ったのは真水の濁流であった。一瞬、爆心の熱と接して水蒸気が舞った。第1と第4芦ノ湖の湖面は俄かに波立っていた。24個のN2地雷は湖の外輪山を吹き飛ばし、湖水を外へ誘導したのである。

 左右から莫大な量の水が、猛烈な速さで中央に向った。あっという間に両湖の水は衝突し、高さ50mに及ぶ水柱を築いた。その時の轟音はN2爆弾の爆発に匹敵するものであった。

 湖水は奔流となって、谷を埋める使徒群に襲い掛かった。その深さは軽く20mに達し、容易く使徒の全身を覆う。ATフィールドも役に立たなかった。使徒たちはもみくちゃにされながら下へ、下へと押し流された。水流が削り取った岩が使徒の体を破壊する。耳障りな使徒の悲鳴が、滝のような轟音に共鳴する。その幅は1.3kmにも及び、逃れられる使徒は皆無だ。悪いことに使徒は淡水に適応していなかった。水に浸かった使徒が次々と溺れ死んだいく。

 打ち続く水流の勢いは、開口部の土砂をさらに削り取った。土石流の水嵩が一気に増し、湖面は荒れ狂うように波立った。湖は目に見えて浅くなっていく。生まれて間もない第4芦ノ湖は直に消失するだろう。そして数万年の時を閲した第1芦ノ湖は、ここに大きく姿を変えようとしている。シミュレーションでは、土石流は楽々と熱海まで達し、使徒を海へ追い返すはずだ。

 指令室の面々は、一時この地獄絵図を声もなく見守った。だが勿論これで終わりではない。タロウの冷静な声が栗林を引き締めた。

「使徒A群、18高地に達します」

 そこは城の東方4kmにある比高148mの山の頂上で、城全体を見渡すことができる。そこからはなだらかな坂が、城壁まで続いているだけだ。

「戦略上の要衝を押える気か。まったく大したものだ」

 アイネムの評言に栗林も頷かざるをえない。敵は戦術というものを理解している。これまでに例のない相手だった。

 

 

「すごい、すごい!」

 チヒロが無邪気に叫んだ。ずっとモニターでノア作戦を見守っていたのだ。他のパイロットたちも眼前のスペクタクルに大喜びした。

「ねえ、みんな、人間もやるときはやるのね」

『人間の方が賢いもの』

『これで半分近くになったわ。楽になりそう』

『残りも同じくできないかな』

『第2芦ノ湖なら、距離が開きすぎてて無理でしょ』

『東のやつらもそろそろ来ますよ』

『まだ位置に付かなくていいの?』

 ハルカが答えた。『あせらなくても平気よ。私たちなら2分もあれば移動できるわ。今は敵の動きを見極めなくちゃね』

 

 

 第18高地付近はびっしりと4万の使徒で覆いつくされた。その光景は、あたかも腐肉を漁りに集まった蝿の群れのようであった。ただ、蝿一匹の大きさは体長15mもある。彼らは直径約2.8kmの円状に固まって移動していた。その中心が高地の頂上付近に差し掛かった時点で、使徒群は動きを止めた。

「使徒A群停止」

「どうする気だ?」

 指令室の面々はもとより、エヴァパイロットたちもモニターを注視した。ここで敵がどう動くかが、今後の戦局を大きく左右するのだ。

 戦場に芦ノ湖より発せられる轟音が響き亘っている。それに使徒たちがきまぐれに発する、ボウという鳴き声が混ざりあい、騒音に満ち溢れ、人間たちの神経を逆なでにする。

 芦ノ湖方面から吹き上げられた土砂は空中を漂い、折からの曇天と相まって太陽光線を遮り、周辺は夕刻のように暗い。多数の照明に灯が入り、城の内外を照らし出した。

「何を考えている」アイネムがスクリーンを見ながら呟いた。敵の指揮官に向けて言ったように見えた。

 何の前触れもなく、使徒軍が動きを現した。前方に当る円の一部がちぎれて、前に進みだしたのだ。

「使徒、前進を開始。長さ1.5km。幅100m。その数およそ千」

 その群れは隊伍を保ち、真っ直ぐ城に向けて行進して来る。元の群れから90m進んだところで、次の動きがあった。

「また一つ小集団が形成されます。規模、前とほぼ同じ」

 次の群れが第一の群れと同じ隊伍を取り、追随して来る。そして元の群れから続々と小集団が分裂して進発していく。

「第1集団、城から2km地点に到達」

「エヴァ全機移動。砲塔に向え。栗林君、指示」

 遂にアイネムが決断を下した。栗林は顔を引き締めて頷き、マイクを取った。

「みんな、待たせた。砲塔に移動だ。開戦は間近だぞ」

 

 

「さあ、みんな行くよ!駆け足!」

 ハルカの号令に従い、エヴァ8機は第3城壁に開いた出入り口に向って走った。高さ32mの扉が全開になっている。背中に背負った長剣が揺れる。全員、これを使いたいとは思っていなかった。もし使うことがあるとすれば、それは敗北が決定的になったことを意味する。

 向うのは城の東側、第1城壁に立つ砲塔群。戦いの最前線だ。エヴァのスケールには狭く、迷路のようになった通路を各機は進む。塔に登るのも梯子を使った。

 ハルカの1号機は右翼の第9番塔に入った。さらに右にサヨコ=4号機、最右翼にユキエ=3号機が位置を取る。中間部には若手のユカ=6号機とシオリ=7号機を置く。その左に左翼の要としてチヒロの8号機が入り、順に左へルミ=5号機、ユリコ=2号機が納まった。中央部にエース級、端に準エース級を置き、間にその他の若手を配すという布陣だ。塔と塔の間隔はおよそ210mあり、8機で迫る使徒群全体をカバーできる。

 既に砲塔前面のシャッターは全開となり、戦場がはっきりと見える。使徒側から見ると、高さ80mの円筒の一部が半分刳りぬかれ、中のエヴァが全身を曝している格好だ。塔は壁から半分突き出た格好で立っていて、どの場所も死角にならない。1号機は、全長20mにもなるバルカン砲の取っ手を握り、支柱にセットした。回転式の台座はエヴァを乗せたまま素早く動いて、180度漏れなく射角に収めることができる。傍らに積まれた弾丸の帯をスリットに挿入すると、自動的に弾が中に吸い込まれた。

 ハルカは彼方の使徒群を、初めて肉眼で見渡した。膨大な数の使徒が動いている。それらはいくつもの横長の集団を作りながら、縦に長く伸びてくる。先頭の集団は城壁の向こう1kmに迫り、分裂した集団の数は十に達した。ハルカの胸の中に、何か冷たい感覚が湧き上がった。

 

 

「使徒群、静止しました」

 キムの冷やかな声が響いた。スクリーンには使徒軍団の全容が映し出されている。誰もが声を出さずその様子を見つめ、突然の静止の意味を考えた。

「一体どういうつもりだろう」

 信時が囁いた。アイネムは皮肉っぽく答えた。

「プレッシャーを与えているつもりなのだろう。しかし、やはり敵は愚かだ。あの数で城を囲めば、容易く落とせるだろうに。遮二無二一点突破を狙ってきおった。これで勝機はある」

 指令室には時々刻々と防備体制の報告が入ってくる。

「自走ポジトロン機関砲50門、城壁内部に入ります」

 栗林が言った。「移動を急がせろ。もうあまり時間がないぞ」

「はいっ」キムは答えた。スクリーンの片隅に、続々と城壁内に入り込む自走砲群の映像がある。

「第3城壁に榴弾砲40門の配置完了」

 幅25mある第3城壁の頂に、ずらりと208mm自走榴弾砲が並び、砲身の仰角を低く抑えて城外を睨んでいる。

「上空1000mに厚木基地からの攻撃機群到着。その数25機。我が方の爆撃機群と合流します」

 人類は着々と守備体制を固めている。開戦の時は刻々と迫りつつある。この人類と使徒の雌雄を決する大戦を前にして、平常心でいられる人間は一人もいなかった。

 

 

 城内の慌しさとは対照的に、使徒の群れは静かだ。人類に防戦の暇を与えるかのようだった。

 栗林がその静けさを疑問に抱いた時、いきなり全ての使徒が動いた。同時に顔を空に向け、巨大な口を全開にした。4万が一糸乱れず同調して動く様は、不気味なことこの上ない。

 戦場は百雷のような使徒の咆哮で揺さぶられた。全ての使徒が一斉に叫びを上げたのだ。その低音の不快な轟きは、聞く者の多くを恐怖せしめた。それは一瞬で終わるはずもなく、延々と長く伸ばされた。オペレーターの一人が、思わず室内に響く音量を絞った。数人の女性管制官が顔色を失い、マウスを持つ手をぶるぶると震わせた。

 カトリックのブーランジェが目を見張りながら囁いた。「Tuba mirum spargens sonum per sepulcra regionum(くすしきラッパの音、全地の墓の上に響きわたれば)...」

「声で威嚇か。なんと原始的な」アイネムの口元が冷笑で歪んだ。

 栗林が近づいて進言した。「ワルキューレをもう1回やりましょう。士気を盛り上げないと」

 アイネムは黙って頷いた。栗林はキムに合図を送った。間もなく人類の英知を象徴する芸術、音楽が使徒の野蛮な不協和音にかぶさった。それは野生と理性のぶつかり合いでもあった。荒野でその音を聞く使徒達には何の感興もなかった。だが城に篭る人々に再び勇気を与えた。

 

 

「来ます!先頭が前進!」

 古賀の叫びが指令室に響く。遂に使徒軍は戦端を開いた。あと数分もすれば千の使徒が城壁に達するだろう。

 栗林がマイクを取って告げた。「ようし、みんな。すぐに戦闘開始だ。みんなのATフィールドが頼りだからな。気張って張ってくれ」

 

 

「さあ、みんな。聞こえたわね。やっつけるわよ」

 ハルカは1号機にバルカン砲の安全装置を解除させた。目の前に四角い窓が開く。砲の仮想照準装置だ。

『ふう、随分待たせたわね。あのざりがにども』

『来るなら来い、ですよね』

『これ、撃ちたくて、うずうずしてたの』

 みな普段と変らぬ落ち着きを見せているのが頼もしい。ハルカ自身はこの戦闘の帰趨に、なんの予断も抱いていなかった。ただやるべきことをやるだけだと思っていた。この難局に置かれながら、澄み切った精神でいる自分を自分で褒めた。

 

 

「100m空けて後続が続いています。城壁まであと600m」

 チルドレンに対し栗林が指示を下した。「500mでATフィールド展開だ。こちらの合図に合わせて一斉にな。最初は撃たなくていい。こちらがあいつらを歓迎する」

『あれをやるんですね?』と、ハルカ。

「ああ。すごい見ものだぞ」

 そこで区切りを付け、栗林は古賀に言った。

「地雷の用意はいいな」

「はい、82番から128番まで、いつでも点火できます」

「使徒、500m地点!」

 キムが告げた。栗林は大声で号令を発した。

「ATフィールド展開!」

 8機のエヴァは一斉にATフィールドを放った。一瞬、両者のATフィールドが干渉し合い、虹色の光が走った。

「ATフィールド中和域、平均520m」

 シンが直ちに解析結果を伝えた。これでこの520mが戦闘区域に定まった。

「使徒先頭、400m...300m」

 キムが冷静に数値を読む。スクリーンでは使徒を表す赤い帯が、空堀に迫る様が大映しになっていた。古賀の指がコンソールにあるつまみに伸びた。栗林の目はスクリーンに釘付けだ。

「...200m...150m」

「点火っ!」

 栗林の合図と同時に古賀がつまみを捻った。と同時に戦闘区域に物凄い衝撃が走った。幅100m、長さ1.7kmに亘る区域が、一度に大爆発を起こしたのだ。数瞬、城壁前に長く厚い炎の壁が屹立した。それはやがて黒煙のカーテンとなり、暗い戦場を一層暗くする。石ころと使徒の体の一部が、1号機にまで届いた。風が黒煙をゆっくりと吹き飛ばし、戦場がだんだんと見えてきた。

 木っ端微塵と言ってよかった。爆発域は無数のクレーターが並び、そこには跡形もなく千切れた使徒の残骸が、数限りなく散らばっている。吹き上げられた岩石と共に雨が落ちてきた。青い雨だった。空中に舞い上がった使徒の血だ。クレーターの底には、青い血溜まりができつつある。

 指令室は歓声に包まれた。人類は一瞬にして、千に上る使徒を葬り去ったのだ。栗林もぐっと拳を握った。

「第1群、壊滅。生命反応あるものなし」

「第2群が動き出します」

 城の前方850mで停止していた第2の使徒群は、煙が晴れたのを見計らって前進を再開した。

 

 

 ハルカが全員に呼びかけた。「みんな、発砲地点を頭に入れといて。合図と同時に撃つのよ。中和域は520m。遠くを撃っても効果はないから」

『まずミサイル攻撃をかける。爆発の瞬間は撃つな。弾を節約してくれ』と栗林。

 キムが使徒群までの距離を、刻々と読み上げた。『距離700...600...』

 使徒群は最初、並足で前進してきた。それが中和域直前で、急に速度を上げた。砂煙が高く舞い上がり、怒涛のような足音が轟く。

『距離480!速い!』

「撃ち方用意!」ハルカの声に合わせ、エヴァ8機は一斉に銃口を上げた。

『距離400!』

「撃て!」

 8門のバルカン砲が火を吹いた。たちまち将棋倒しのように先頭がなぎ倒された。頭が吹っ飛び、胴が裂け、足が地面に転がる。弾丸は遅発信管の爆弾となっていて、使徒を貫いた後は爆発して二次被害を与えた。体内にとどまった場合は、爆音と共に木っ端微塵にする。腹を見せのたうち回る使徒の上を別の使徒がのしかかり、乗り越えようとするが、直径21cmの弾丸が頭の半分をもぎ取り、三本の舌を震わせて悶絶する。

 バルカン砲がエヴァの手の中で暴れ回る。打ち出された弾丸を保持していたベルトが、後から後から弾き出されて、足元に積み上がる。一本の直径が58cmあるレールガンを6本束ねたドラムが高速で回転し、戦場にリズミカルな爆音を響かせる。

「ユカ、振りが遅い!シオリ、射線をもっと上げて!」

 ハルカの叱咤する声が、若い二人を打った。ユカもシオリも、はいと答えて懸命に調整する。

「死ねしねしねーい!」

 チヒロは興奮して躁状態にあった。目を血走らせて8号機を操る。

 エヴァ8機は射線を左右に振り、驚異的な速さで使徒を屠っていく。ばらばらになった使徒の肉体が戦場で踊る。しかし、当然全てを賄うことはできず、隙を突いて進む個体が出てくる。それらを掃討するために射線を下げると、さらに隙ができてしまう。

『短距離ミサイル1番から20番、発射!』

 サイロから満を持して、ミサイルが飛び立った。白煙を引くそれらは低空で急角度に曲がり、中和域へ殺到する。

「ミサイルが来る!目を守って!」

 ハルカの注意が終わると同時に、戦場を強烈な光が包んだ。ミサイル20基が同時に爆発したのだ。数え切れない使徒が、瞬時に命を失った。

 

 

「ポジトロン機関砲、配備よし」

「銃眼開け」

 第1城壁の中程に、横一列の穴がいくつも開いた。内部から直径30cmほどの、長い銃身が突き出た。自走砲が前進したのだ。それらは一体ずつピンポイントで倒していく役目を担う。

 砲手がモニターを睨みながら、照準を合わせ引き金を引く。すると陽電子の塊りが断続的に使徒めがけて飛ぶ。命中した部分は瞬時に蒸発し、使徒はあっけなく死んだ。幾筋もの色鮮やかな光線が、戦場に新たな彩りを添えた。

「一匹たりとも近づけるな。撃って撃って撃ちまくれ。おれたちは、この日のためにいたんだ!」

 機関砲担当の指揮官は、口から泡を飛ばして叫んだ。彼の興奮も無理はなかった。遂に自分達ただの人間が、使徒に打撃を与える瞬間が到来したのだ。

 その興奮は、第3城壁に展開した榴弾砲群の指揮官も同じだった。戦況をろくに見ることもなく、ひたすら発砲を命じ続けた。

 夥しい鉄が戦場に撒き散らされた。

 戦闘15分にして、使徒の第2群は全滅した。大地は使徒の死骸で充満している。灰色のスクラップ置き場に、青いペンキをぶちまけたような光景だ。頭の上に足が乗り、爪の間に腸が挟まる。顎と顎が折り重なり、長い舌が互いを舐めあう。尾だけとなった個体が痙攣を続け、断末魔を演じ続ける。血が溜まり池となり、風を受けて青いさざ波を作り出す。

 虐殺の現場と言っても差し支えない光景であった。それを眺める人類は、なんの心の痛みも感じなかった。ただ殺戮と勝利の喜びだけが、胸の内にあった。

 

 

「無駄が多すぎる。弾は無限にある訳ではないぞ」

 アイネムが冷徹に論評を加えた。栗林にとっては耳に痛い言葉だった。各担当がてんでに撃っていたのでは、消耗が速すぎる。

「榴弾砲はペースを抑えて。ポジトロンはバルカンの撃ち漏らしだけを狙え。ミサイル及び航空機の攻撃時は注意しろ。以上だ」

 栗林は各砲術指揮官に注意を与えた。自分も含めて冷静さを取り戻す必要があると思っていた。使徒はまだ膨大な数が残っているのだ。

「第3群前進!」

 使徒は人類に休息の暇を与えなかった。また約千の使徒が横隊を作り、整然と行進を始める。それらは前と違い、中和域前で速度を上げなかった。代わりに使徒の死骸に達するとそこで止まり、口の中から舌を出した。

 多くが、共食いでも始めたかと怖気を振るった。だが、使徒の行為はそんなものではなかった。舌の先からどろりとした液体を垂らし、そこへ別の死骸を持っていった。

 接着している。そうして塊りを大きくした使徒は、両手でそれを抱え、前に差し上げた。

「死骸を防具にする気だ」

 古賀が嫌悪を顕わに吐き捨てた。エヴァ8機は、群れが死骸の山に隠れているため、撃つのを控えている。

 信時が言った。「やつらに人間のような情はないのだ。死骸とは、再利用するための材料でしかないのだ」

 使徒軍の最前線は、そうして盾を作り前進した。後に続く使徒もそれに倣い盾を作っていく。そのため使徒軍の隊列に乱れが生じた。

 死体のバリケードを乗り越え、使徒が迫る。それらが城壁から400m地点に差し掛かった。

「撃ち方始め!」

 ハルカの号令に従い、バルカン砲が一斉射撃を始めた。榴弾砲が戦列に加わった。耳をつんざく轟音が戦場に満ち溢れる。

 死骸の盾は、亜音速で飛ぶバルカン砲弾の前には、左程効果を上げなかった。一瞬で貫いた砲弾はそれを持つ使徒の体内に止まり、炸裂して使徒を細かい破片にまで分解した。

 戦場は再び屠殺場と化した。緩い進行ペースが、砲弾の撃ち漏らしを減らし、多くがバルカン砲の餌食となっていった。栗林はそこへ止めの一撃を加えるべく動いた。

「爆撃を開始する。2区から7区までがその範囲だ。無駄撃ちを避けろ」

 

 

 N−4垂直離着陸型戦略爆撃機に搭乗した坂井もまた、使徒に報復する機会が来たのに興奮していた。爆撃開始の下命に手を打って喜んだ。

「来たきたきたぁ。やってやるぜ、こん畜生」

「降下するぞ。すぐ用意しろ」

 パイロットの注意を聞くまでもなく、坂井は爆撃用のモニターを覗き、スイッチボックスを握りこんだ。

「高度300。すぐに地上が見える」

 N−4は分厚い雲に吸い込まれ、しばらく何も見えなかった。250mまで降りたところで、突然視界が開け、地上の殺戮地帯が目に入った。坂井は、あまりに物凄い光景に息を呑んだ。

「時間がない。爆撃地点に着くぞ」

 坂井はモニターに集中し、最適な投下地点を探った。長年の経験と勘がものを言う仕事だ。

「ちょい左。もうちょい左。オッケー。時速60kmで駆け抜けよう。2秒間隔で1発すつだ。せーの、ゴー!」

 N−4のジェット推進器が火を吹いた。やや遅れて坂井は投下ボタンを押し込んだ。機体の中央下にある投下口が開き、重さ1トンに及ぶ重爆弾が次々と舞い降りる。

 大地は連続的に起こる爆発によって掻き毟られた。クラスター爆弾の一撃は、一発で数十メートル圏内を爆発で埋めつくす。それが延々と伸びて行くのだ。まるで見えない竜が、戦場を駆け抜けるかのようであった。直撃を受けて、生き残った使徒はいなかった。N−4はたった1回の攻撃で、数百に上る使徒を葬った。後には使徒の残骸が累々と折り重なった。

「イヤッホー!たまんねえ。ざまあみさらせ」

 パイロットが振り返って、親指を突き立てた。坂井は喜んで席を離れ、ハイタッチをしに行った。

 坂井は上気した顔でパイロットに言った。「大成功だ。この攻撃は有効だぜ。すぐおかわりしに行こうや」

 パイロットは満足げに頷き、操縦桿を回した。

 

 

 第3群はあっけなく費え去った。ネオ・ネルフの凄まじい火力は、鎧袖一触の勢いで、迫る使徒の群れを全滅に追い込んだのだ。指令室に楽観的なムードが漂い始めた。だが、栗林やアイネムの懸念は消えなかった。敵がいつまでも今の戦術を保つとは思えなかった。

「第4群襲来。規模、これまでとほぼ同じ」

 使徒たちは前回と違って、ひたすら前進して来る。死骸の山を乗り越えて城壁に向ってくる。学習能力は高いと見えた。が、足場の悪さは歩調を遅くし、隊列も乱れが生じた。

 榴弾が雨あられと舞い降りてきた。死骸の山の上に、新たな死骸が積み重なった。使徒たちにとっては死骸のメリットもあった。それらが自然の迷彩となり、バルカン砲の狙いを甘くしたのだ。

 ハルカも撃ちにくさを感じていた。「指令室!死骸が邪魔をしています!命中精度が落ちています!」

 栗林が答えた。『今、ミサイルを撃つ。一掃してやるから待ってろ』

 短距離地対地ミサイルが10発発射された。5秒後には戦場が爆発で埋まった。爆心付近は死骸が吹き飛ばされて、地面がむき出しになった。

 ハルカは一番近い死骸の山に、異変が起きたのを見つけた。何もないのにぐらぐらと揺れているのだ。そして急に山の下から使徒が顔を出した。

「あいつら、死骸に潜って接近してる!みんな、気をつけて!」

 言うと同時に銃口を下げて、その使徒を粉微塵にした。見回すと、あちこちで同じ現象が起きていた。チルドレンに動揺が走った。エヴァ数機が射線を下げ、姿を現した敵を討ち取った。

「射線を下げちゃ駄目!近くはポジトロンに任せて」

 ハルカの注意が飛んだ。各機はそれに従い、遠くの敵に的を絞った。城壁の中腹に展開したポジトロン砲群が、俄かに忙しくなった。無数の光弾が宙を飛び、駆け寄る使徒を個別に撃破していく。その中の数匹が、遂に空堀前を覆うバリケード群に達した。砲手はバリケードごと使徒を撃たねばならなかった。

 またもミサイル数基が炸裂した。それは前よりずっと手前で起きた。エヴァのところまで無数の石が飛んできて、乾いた音を立てた。

 

 

 こうして第4群もまた玉砕して果てた。この際の時間は25分を要した。首脳部は内心恐怖を抱いた。敵は次々と新しい策を講じてくる。この先どんな手を打ってくるのか?

 

 

「第5群が前進を開始。1分で中和域に達します」

 キムが静かな声で報告した。彼は開戦当初の高揚感が消え、疲れを覚えていた。スクリーンの奥には未だ3万5千の軍団が、大半は微動だにせず、映し出されている。第5群の後方には、10段に上る軍団が待機しているのだ。敵は戦力を小出しにしている。無知から来るものだろうか。キムは不気味なものを感じ、生唾を飲んだ。

「使徒群の後方に動きがあります」

 サブロウが冷静に告げた。栗林ら首脳ははっとして、スクリーンに表示された衛星画像を見た。

 高地の向こう側で分裂が始まっていた。円陣の一部にこぶができ、徐々に長く伸びていくのだ。

「古賀大尉、戦闘指揮を頼む」

 栗林は古賀に第5群の対応を任せ、アイネムの傍へ行った。

「敵は別働隊を出すようです。回り込んで奇襲を掛ける気でいる」

「やはり敵はおろか者ではない。一点突破と見せかけ、兵力を集中させ、隙を突いて機動部隊を送りこむ。教科書通りさ」

 二人の前に大人の背丈ほどもあるバーチャルスクリーンが出現した。それには衛星が監視している使徒群がプロットされ、立体的な地図の上を赤い塊りが動いていく様が映されている。それらは山と山の間の低地に進出していた。その数、約2千5百。

 信時が予想を述べた。「山間部を進むに違いない。私ならそうする」

 城の北側は急峻な山が多く、大軍の行動には向いていない。谷沿いに進み、平坦地に進出するという考えは理に適っていた。

 アイネムが頷いた。「おそらくな。こちらの視界に入らず、行軍速度も速い。その線で行くと攻撃予想地点は」手元のキーボードを叩いてコンピューターに計算を命じた。僅か2秒で答えが返った。スクリーン上に太く赤い線が、うねうねと曲がりながら伸びていった。それはやがて城の北西に至り、山の切れ目から城壁目がけて殺到した。

「ここだ。第18城壁。この辺りが敵の狙い目になる」

 スクリーンに大きく確率67.4%、到達予想時刻12:35と出た。

「後45分か」栗林は体の奥に、鉛のような重いものが生じた感覚を覚えた。勝利への確信が揺らいだ。

「エヴァを向わせねばなるまいな」と信時。

「最低でも2機は要る」

 アイネムの断言を栗林は尤もだと思った。だが、そうなると正面の防御力低下、殊にATフィールドの弱体化が痛い。

「中和域が後退しますね」

「やむを得まい。最初から絶対不利な戦いなのだよ。こうなれば、あれの決行も考えねばならん」

 栗林は俄かに寒気を感じた。

「あれとは、905のことですか?」

「そうだ」アイネムはじっと栗林の目を見た。「905だよ」

 ブーランジェが傍にやって来て進言した。「ノア作戦の結果から判明した点があります。使徒の弱点です」

 それを聞いた3首脳は耳をそばだてた。

「彼らは淡水に適応していません。大部分が溺れ死んだのです。つまり、水は利用できます」

 ブーランジェは地図上の第2芦ノ湖を指した。ジオフロント北東の高地に広がる湖だ。

「前から準備していたプロジェクトでした。元々この湖水を、塹壕線を利用して空堀に導くためのものです。塹壕も水で溢れ、長い堀になる。使徒がそれを避けると仮定すれば」

 彼女の指は、ジオフロントから放射状に伸びる塹壕線のラインを辿った。

「城壁付近では、線と線との間隔が300mほどになります。使徒の進出が予想されるこの場所、これを挟む二本の塹壕を水で満たせば、城壁での戦場を狭く限定できるはずです」

 信時が愁眉を開いた。「おお、いい考えだ。こちらが困るのは横に広がられること。それを縦に絞り込めれば」

 アイネムは尋ねた。「確実に実行できるのだね?シミュレーションは済んでいるのか?」

「はい」と、ブーランジェは胸を張って答えた。

 アイネムが深く頷いた。「やる価値はある。博士、君が指揮を取って実行してくれたまえ。まだ希望は消えていない」

 

 

 第5群もまた城方の圧倒的火力を前に、絶望的な戦いを仕掛けていた。爆撃機による波状攻撃が大きな効果を上げた。クラスター爆弾が幾度も戦場に炸裂した。だが使徒たちは、絶望というものを知らない。

 城の下部にある小型の門が5箇所開いた。するすると橋が伸び、空堀をまたいだ。門から現われたのは人間でもエヴァでもなく、直径40cm、高さ20cmほどの丸い金属板の大群であった。それらは8本の昆虫に似た足を素早く動かし、自ら走った。1000個に及ぶロボット兵器が投入されたのである。彼らは橋を渡ってすぐに横に広がり、小さい体を利してバリケード群をすり抜け、戦場に広がっていった。上から見ると、白い虫の群れが使徒群に立ち向かうかのようだ。それらはバリケード群の前方に等間隔を空けて展開し、止まった。

 その1個の前に、幸運にも生き延びて進出してきた使徒が現われた。ロボットのセンサーが巨大な動くものを捉えた。使徒が最もそれに近づいた瞬間、大爆発が起きた。その使徒はたちまち半身を失い、のた打ち回る。

 自律型移動地雷wr−100型と言うハイテク兵器である。平野を迅速に地雷原に変えることができる。使徒群が次第に前に押し出して来ている今、貴重な援軍となった。

 

 

 チヒロが駆る8号機はバルカン砲を振り回し、猛烈なペースで使徒を屠った。ハルカの1号機をも上回る活躍を見せている。この日のチヒロは絶好調だった。

「さあ来い。もっともっと来い!」

 高揚したチヒロは叫ぶ。彼女の狙いは的確であった。少ない弾数で敵を四散させては次へ移っていく。彼女の中には残忍な殺戮への喜びがあった。一瞬で砕け散る使徒の姿が、黒い快感をもたらした。

 戦場に動くものの姿が無くなった。白い煙が各所で立ち昇り、風に流されていく。窪みに溜まった血の池は深さを増し、幾筋もの青い小川が流れる。第5群はようやく壊滅した。今回の所要時間は31分であった。

 数瞬、戦場に静寂が戻った。チヒロはヘッドレストに頭を付け、一呼吸入れた。その耳に、遠くで鳴る低い轟きが入って来る。チヒロは何事かと思い、耳を澄ました。

「ねえ、なんか聞こえない?」

『水が来るのよ。第2芦ノ湖から引いているんだわ』

 ハルカが教えてくれた。チヒロは窓をいくつか開いて映像を探した。その一つに、塹壕を急速に流れてくる大量の水が映っていた。

「空堀に水を入れるんだ。なんでもやるわねえ」

 第2芦ノ湖で2箇所の水門が開き、高低差を利用して、地下に設置されたパイプラインに湖水が送られていた。北西にある二本の塹壕の末端から、湖水は激流となって城壁に向け流れて行く。しかし、その水は空堀に達しなかった。塹壕を早めに水で満たすために、最後の水門は閉じられたままでいるのだ。すでに塹壕は、その深さの半分までが水に浸かっていた。

 第6群が前進を開始した。チヒロは腕ぶして発砲の時を待った。敵が全滅するまで、何度でも皆殺しを続けるつもりでいた。そのチヒロに、突如呼び出しが掛かった。

『チヒロ、サヨコ。即刻移動してくれ』

 栗林の命令があまりに意外なものだったので、チヒロは思わず問い返した。「移動?どういうことです?」

『使徒の別働隊が18城壁に迫っている。急を要するのだ。詳しい状況は追って説明する。チヒロは33番、サヨコは32番に入れ。急げ!』

「はい!」

 有無を言わさぬ栗林の口調に、チヒロは何も考えず従った。8号機はバルカン砲の銃口を下げ、塔の出口へ向う。

『チヒロ、サヨコ、頑張って。こっちは心配ないから』

 ハルカの落ち着いた声が聞こえた。いつもの彼女らしい気配りだ。チヒロは力強く声を張った。

「任せて。すぐ片付けて戻ってくるから。それまでしっかり守ってるのよ!」

 8号機は塔の内部に入った。その後は城壁の通路を全力で走ることになる。

 

 

 心配ない、と言ったものの、ハルカは心細さを感じずにはいられなかった。一気に2機が抜けたことによる戦力低下、殊に中和域の縮小は痛い。自分の守備範囲に関しては、右隣りの4号機が抜けたことで、カバーする範囲が広がってしまった。経験不足のユカとシオリがいるのも不安材料だ。

 憂い顔のハルカを見たユキエが通信を入れてきた。『大丈夫ですよ、リーダー。サヨコの抜けた穴埋めはしますから』

 ルミも明るい声で言った。『チヒロ先輩がいなくても、なんとかできます。安心してください』

「そうね。みんな、頑張れば勝てるわよ。今まで以上に力を出そ」

 ハルカは笑顔で全員に呼びかけた。他の5人は力強くはい、と答えた。

 第6群が500m地点に達した。ハルカは顔を引き締め、指示を発した。

「さあ、懲りもせずに来たよ。ATフィールド展開!撃ち方用意!」

 

 

 チヒロは速駆けする8号機から城の北西部を見た。山塊の向こう、平坦な地形に唐突に現われた川が、ジオフロントまで流れていた。もと塹壕線だった堀だ。そして、その先に、黒い動くものの塊りを見つけた。使徒の遊撃隊だ。彼らは迂回を重ね、遂にジオフロントを窺う位置まで進出したのである。

「サヨコ、見えた?使徒がいるよ」

『ええ、先輩』

 8号機を追走する4号機のサヨコが答えた。目的の32番、33番砲塔が見えた。既に塔の入り口は開放され、2機を待っている。

「8号機、33番に到着」『4号機、32番に到着』

 栗林の声が聞こえた。『ようし、戦術は今まで通りだ。ポジトロンも予備を投入した。奴ら、見込み通りに水を嫌っている。城壁近くでは、幅がぐっと狭まるからな。こちらに有利な戦いだ!』

 8号機は身を屈ませ、塔の中に入った。チヒロは栗林の声に勇気づけられた。後はATフィールドを張り、撃ちまくるだけだ。

 

 

「塹壕線、満水状態です。このままでは溢れてしまいますが?」

 ジロウがブーランジェに告げた。博士は事が予定通りに進行したことに満足していた。

「第2芦ノ湖側の水門はそのまま。空堀側の水門を4分の1開けて」

「了解しました」ジロウは端末を操作して、博士の指示を実行した。しばらくして空堀に放水に伴う轟音が響いた。幅50mの堀を、水が急速に流れていく。後1分もすれば、主戦場である東側まで到達するだろう。

 

 

 城塞の東側では、より困難な戦いが繰り広げられていた。平均ATフィールド中和域は480mまで後退していた。特に8号機、4号機がカバーしていた地域の落ち込みは激しかった。その場所を進む使徒は、より近くまで接近してきた。ハルカは、初めてATフィールドに弾き返されたバルカン砲弾を見て、唇を噛んだ。ポジトロン砲群はこれまで以上の忙しさになった。自然と穴の開いた地域に射線が集中した。1号機の射線も次第に下がり、前方に進出する敵が増えてくる。移動地雷がひっきりなしに爆発した。バリケードに吹っ飛んだ使徒の頭部が突き刺さり、百舌のはやにえのようにぶら下がった。

「指令室!ミサイルはまだ!?」

 焦りを覚えたハルカは叫んだ。答えたのは栗林ではなく、キムだった。

『少し待ってくれ。北西にも回さなけりゃならない』

 ハルカに答える余裕はなかった。前より近い場所にいる使徒を蹴散らさねばならなかった。ユキエの3号機も同様に忙しさを極めた。使徒の数が前よりも増えたように思えた。

 最も経験の浅いシオリには酷な状況だった。ルミのカバーも限界があった。バリケード前に達した使徒は数多い。とうに地雷はなくなり、バリケードに昇って前進する使徒、二三にとどまらない。ポジトロンの弾幕が、バリケードごと使徒を貫く。

『ミサイルがいくぞ!閃光に注意!』

 警告によって空を見上げるチルドレン達。ミサイルが出す白い煙が、鋭角を描いて落ちてくる。その数15基。瞬く間に、戦場は光と爆音で満たされた。

 数百の使徒が一瞬で破裂して飛び散った。戦場に青い血の雨が降る。今や元の土の色を探すのが困難になった。

 

 

 城の北西、チヒロたちがいる塔の前面に迫る使徒がいよいよ近くなった。最初、円形に広がろうとした使徒たちは、塹壕線にぶつかると動きを止め、方向を変えた。西へ移動しようとしたのである。だが、その運動も目の前に現われた、もう一本の塹壕線によって阻止された。結局彼らは縦に長く伸びて、城塞までの行軍を始めた。その幅、わずかに260m。2機で十分カバーできる規模だ。人類の思惑通りだった。ブーランジェ博士の策は図に当った。

 壁の中腹にある銃眼が開いた。ポジトロン機関砲の銃口が、静かに突き出た。8号機と4号機はバルカン砲の安全装置を外した。彼我の距離、520m。

「サヨコ、そろそろ中和いくよ」

『はい』

 サヨコもチヒロもインダクションレバーを強く握った。

 その時、戦線に劇的な変化が起こった。

 

 

「北西の使徒群停止」

 タロウの報告は、栗林を初めとする首脳部を揺るがした。皆呆気に取られながら、スクリーンを見た。

「馬鹿な!なぜ来ない」

 使徒の遊撃隊は、中和域まであとわずかという地点で、ぴたりと静止したのだ。

『使徒、停止!動きません!』『畜生!来なさいったら!』

 チヒロとサヨコの絶叫が響く。栗林は声も出せなかった。

「やられた。これが目的か」

 アイネムは表情を変えずに言った。信時が拳で机を叩いた。

「くそ。我々をなぶる気か!」

 この期に及んでも、アイネムは冷静だった。「敵をあなどるな。想像以上に賢い相手だ。ああしてとどまっている限り、あの2機は動けん。正面の弱体化は続くというわけだ。こちらも手を打たねばやられる」

 

 

 東部戦線では苦戦が続いていた。特にシオリとルミの前が甚だしかった。栗林はその地域に榴弾を集中させた。とうにバリケードは跡形もなくなっていた。中和域の後退が、ミサイルや爆撃の援護を困難にしていた。使徒も明らかにその事情を理解した。隊列を崩し、弱い部分に多くが集まっていく。ポジトロン砲群は多忙を極めた。開戦2時間、砲手たちの疲労はピークに達しつつあった。それはエヴァのパイロットも同じだった。ATフィールドを張り続けるのも、体力を蝕むのだ。

『ユカ、シオリ。フィールドが弱くなってる!持ち直せ!』

 シンの怒号に近い指示が来た。二人は気力を込めてATフィールドを張り直した。

 ハルカの1号機はかろうじて踏ん張っていた。絶えずバルカン砲を振り、少ない弾数で使徒を仕留めていった。しかし、それにも限界があった。弾帯は無限に続いているわけではない。どこかで途切れて、リロードする時間が必要になる。その隙を突いて使徒は前進した。8番砲塔前には使徒が密集し、どこにも地面が見えなかった。

 

 

「提案!」最左翼を守るユリコが声を上げた。「私が塔から出ます。そして穴の開いた場所へ行って、ATフィールドを補強します。その間に攻撃を集中してください。後は遊軍となって動き回ります」

 栗林は愁眉を開いた。『いい案だ!採用する。まず、12番塔へ行け』

「はい!ルミ!頼んだわよ!」

『はい、先輩!』

 ユリコの2号機はバルカン砲を放し、傍らにあったショットガンとスーツケースのような弾薬箱を掴み、出口へ向った。

 真紅も鮮やかなエヴァ2号機が城壁を駆けた。数秒でルミがいる13番塔を越え、12番塔に達した。2号機はあえて塔内に入らなかった。塔の横で仁王立ちになり、全力でATフィールドを展開した。12番塔付近の使徒群に、一瞬虹色の輝きが走った。

 栗林はここぞとばかりにミサイルの発射を命じた。着弾するにはまだ間がある。2号機はショットガンを構え、近くにいる使徒を狙い、連射した。散弾は瞬時に広がり、命中した使徒はずたずたに裂かれた。ある使徒は一瞬で首を失い、体だけを無闇に前進させた。2号機の速射は確実に使徒を殺傷した。ユリコの技術は熟練の域に達していた。ポジトロン機関砲の砲手は、強力な援軍に狂喜した。

 5発のミサイルが至近距離で炸裂した。一帯は爆発で飽和した。城壁まで揺れが伝わった。

 爆煙が晴れた後の光景は目を疑うものであった。あれほど密集していた使徒がきれいに消え去っていた。動ける使徒は空堀間近に迫った十数匹だけであった。それらに散弾とポジトロン、加えてバルカン砲弾が集中し、僅かの間に一掃された。

 引き上げ時と見たユリコは、指令室の許可を得て、8番塔へ2号機を走らせた。パイロット達は黄色い声でユリコを囃し立てた。ユリコは頬に少し熱いものを感じた。

 

 

 ハルカは2号機の応援を得て心強く思った。ATフィールドさえ回復できれば、この難局はしのげる。

『先輩、お待たせ!』

「ユリコ、助かる!」

 2機は力を合わせてATフィールドを放射した。8番砲塔前に密集した使徒は、一気に丸裸になった。そこへ、上空にホバリングしていたN−4からの通信が来た。

『注意してくれ。でっかいのを1発おみまいする』

 ハルカは上空を見上げた。巨大な重爆撃機の腹が見えた。そこから、黒く大きな爆弾が垂直に落ちた。

 1号機は思わず砲を放し、床に伏せた。2号機も城壁の手摺の陰に身を潜めた。N−4はアフターバーナーを全開し、全速力で離脱しようとする。

 通常兵器では最大の爆弾、ファイナルバスターの威力は凄まじいものであった。数瞬、指令室のスクリーンは何も見えなくなった。振動がジオフロントまで伝わり、栗林らが立つフロアを揺らした。

 ハルカはすぐ傍でびしゃっと音がするのを聞いた。ちぎれ飛んだ使徒の腕が、砲塔のすぐ下に当たった音だった。ハルカの肌は、1号機が受けた強い風圧をリアルに感じていた。

 水が溜まり始めた堀に、土砂と共に使徒の肉塊が降り落ち、無数の水音が立った。たちまち堀は青く染まり、増量する水がその色を薄めた。

 爆煙が風に流され、爆発の痕跡が明らかになった。未聞の光景であった。8番砲塔前110mには直径150mに及ぶ深いクレーターが出来上がっていた。吹き飛ばされた使徒は城壁に衝突し、命を落とした。平たい死骸がずるずると堀に落ち、城壁に血の痕が残った。数台のポジトロン砲が、使徒の一部が衝突したため被害を蒙った。

 第6群の生き残りは、あっという間に数えるほどになった。エヴァは個別にそれらを撃ち、ほどなくそこに動くものがなくなった。残された戦場には硝煙と死が充満していた。

 

 

「第6群全滅。残る使徒に動きなし」

「北西の使徒群、変化なし」

 指令室に淡々とした報告の声が上がる。今や誰一人、戦況を楽観する者はいなかった。1群当りの戦闘時間は着実に伸びている。今回の戦闘はついに1時間を超えた。仮に使徒が総攻撃をかけた場合は?内心誰もがそう考えたが、答えを口にする者はなかった。

 

 

 膠着の続く北西方面では、チヒロのあせりがピークになりつつあった。

「提案!私たちにバルカンを抱えて突っ込ませてください!あいつらを蹴散らしてやります!」

『いかん!下手に行ってみろ。包囲されて終わりだ。敵を侮るんじゃない』

 栗林が興奮を交えて答えた。チヒロは引き下がらなかった。

「でも、このままじゃ東は突破されてしまいます」

『いや、見ただろう。ユリコの遊軍は有効だ。こっちは何とかなる。そっちはそのまま警戒を続けてくれ』

 チヒロは唇を噛み、しぶしぶ答えた。「了解しました」

 

 

 栗林はスクリーンを見ながら考えに耽った。なぜか敵の動きが止まった。この間に、こちらの態勢を立て直すべきではないか?北西のチヒロを他の誰かと置き換えては?もう一人遊軍を置くのはどうか?

 それに要する時間、比較考量に頭を集中させたとき、戦場の変化を告げる古賀の声が聞こえた。

「あれはなんだ?」

 

 

 ハルカもまたそれを見つけた。遠く、18高地の頂上付近に現われた、忌まわしい光の帯。新たなる使徒の姿。

「警戒!新使徒らしきもの出現!」

 ハルカの声にかすかな動揺が混ざった。白い光の帯は、暗い空をバックに、地面からうねうねとくねりながら真上に向って伸びていく。それは、ある最悪の使徒を思い起こさせるものだった。

 

 

「パターン青!パターン青!別の使徒出現!」

 シンの声は絶叫となった。ベヒシュタインとブーランジェは、一様に席から立ち上がった。

「まずい!」

「あれは、アルミサエル型。こんなときに!」

 栗林はすぐさまマイクを掴んで、全パイロットに呼びかけた。

「全員、最大限に警戒!アルミサエルが来るぞ!兎に角、近づけるな!」

 

 

 第132使徒は地上110mの高さまで伸び上がった。

「全員、抜刀!」

 ハルカが全機に呼びかけた。その声に弾かれるように、エヴァ全機は背中の長剣を抜いた。ハルカとチヒロはこのタイプとの戦闘経験があった。動きがとても速く、銃撃に強い。その時は結局、33rdチルドレンの死と3号機の喪失という、最悪の結果に終わった。これといった対策は確立されていない。剣を振るって寄せ付けるな、というのが数少ない指示だった。

 新使徒はついに空中へ躍り出た。数瞬、山の上で輪になって輝いた。あたかも不可視の天使が、光輪だけをそこに現わしたかのようだ。それも束の間、一本の糸となった使徒は、まるで水蛇が水面を泳ぐように、城塞めがけて飛行を始めた。

 1号機は体を斜にし、鍔を耳の横まで上げ、剣先を下に向けた。防御力の高い構えだ。もしもこちらに向かってきたら、一刀両断にする。ハルカは決意も固く、集中を高めた。

 光る蛇が真っ直ぐ近づいて来る。予想通り速い。防衛軍はなすすべがなかった。誰もが固唾を飲んで見守るだけであった。

 ハルカの目はじっと使徒を追っていた。来るなら来いと思っていた。だが、間もなくそれは見込み違いと悟り、力を緩めた。使徒は高度を高く保ったまま、1号機の頭上はるか上を通過したのだ。

「チヒロ、サヨコ!気をつけて!そっちに行ったわ!」

 

 

「ちいっ」

 チヒロは舌打ちして、前方を見やった。8号機は剣を垂直に構え、迎撃態勢を取った。いきなり、視界の中に第132使徒の姿が入って来た。塔の庇の上を超え、荒野へ向って行く。そして1kmほどの距離を置いて、くるりと回転した。そのまま輪になって滞空する。こちらの様子を見ているのか。

「サヨコ!気をつけて!くっつかれたら終わりだよ!」

『はい!』

 塔にいる今の状態では、単独で身を守るしかない。接近戦に不慣れなサヨコが気がかりだった。チヒロは渾身の気迫で、第132使徒を睨み据えた。こっちへ来いと思った。彼女には飛来する敵と斬り結ぶ自信があった。

 前触れもなく使徒が動いた。それは光る蠕虫のように、うねくりながら襲い掛かってきた。チヒロは強く奥歯を噛み締めた。敵は彼女の思惑通り、8号機に狙いを定めた。

 使徒が目の前に迫った。チヒロは裂帛の気合と共に、長剣を振り下ろさせた。一陣の旋風が巻き起こった。

 手ごたえはあった。だが、それは使徒の細い体を半分裂いたにとどまった。傷を負った使徒は血を撒き散らし、高度を下げた。8号機は剣を戻し、前進する。上がりばなを横殴りに斬ろうというのだ。が、使徒は一旦距離を取った。8号機は剣を青眼に構え直す。間髪入れず使徒は再び攻めかかった。8号機の剣が疾風のように動いた。その斬撃は鮮やかに、直進してくる使徒の頭5mを切り飛ばした。チヒロは一瞬、勝ちを得たと思った。

 しかし、そこは使徒にとって、体の一部にすぎなかった。8号機の胸が、がら空きになっている。使徒は迷わずそこへ突っ込んでいった。

 チヒロは胸に強烈な打撃と同じ感覚を覚え、苦痛のうめきを漏らした。胸の装甲はあっけなく破られ、使徒の組織が8号機の体内に侵入したのである。8号機は暴れまわる使徒の体を掴み、遮二無二切りつけた。また使徒は寸断され、塔の下へ落下した。堀に水しぶきを上げて横たわった使徒は光を失い、灰色の本体を見せたが、すぐさま崩壊を始め、瞬く間に水の中に溶けた。だが、使徒は既に目的を果たしたのだ。残った部分は生きている。使徒を握った8号機の手も蚯蚓腫れができ始めた。胸の方は、すでに大部分が放射状の盛り上がりで覆われていた。チヒロは、自分の腕が変形していくのを呆然として眺めた。胸の中心から何本もの枝が伸びている。やがて首筋に、言いようのない感覚が這い登ってきた。

 

 

「浸透速い!パイロット危険!」

「緊急射出!」

「だめです!射出信号受け付けません!」

 指令室はパニックになりかけていた。ただでさえ深刻な状況の中、新たな難題が持ち上がったのだ。

 遂にアイネムの声が昂ぶった。「状況6−6−3、フェイズ2だ。コード204。緊急対策部隊展開!」

 慌てて電話機を取るオペレーターの声は上ずっていた。一方、エヴァの運用を担当する技術部スタッフは、忙しさの極にあった。

 8号機担当オペレーター、ペトロワは目に涙を滲ませながら、チヒロに呼びかけた。

「チヒロ、チヒロ!気を確かに。しっかりして!お願いだから!」

「こっちのルートはどうだ!」

「だめです!信号拒否!」

「シンクロカットは試した?」

「もうやりました。何も受け付けません!」

 ベヒシュタインらは額に汗を浮かべてコンソールと格闘した。モニターには、苦痛に喘ぎ、胸を掻き毟るチヒロの顔が大映しになっている。今や頬までが枝状のものに侵され、それが次第に頭に迫っていく。ペトロワは見ていられなくなり、目を瞑った。

 チヒロの目が裏返り、白くなった。そこで突然、モニターの映像が切れた。その他、エヴァの状態を示すデータ一切が断絶した。

「エヴァ8号機ロスト!」ペトロワは絶望的な事実を告げた。ベヒシュタインは口をぽっかりと開けて、黒くなったモニターに見入った。「いえ、待ってください。音声が来てます」

「何を言っている?」

 ペトロワはボリュームを上げ、ヘッドフォンから聞こえて来る音に耳を澄ました。

 チヒロのごく微かな囁き声が聞こえる。何を言っているのか、まるで意味を取れなかった。譫言を言っているようだ。僅かに聞き取れたのは『マサト』という単語だけだった。

 使徒は事態をさらに深刻化させる挙に出た。古賀が狼狽も顕わに叫んだ。「第7群、前進を開始しました!」

 それだけではなかった。サブロウが告げた。「北西の別働隊、前進」

 これまで様子を眺めていたとしか思えない使徒の挙動。指令室のスタッフに掛かる重圧はさらに強まり、露骨に恐怖の色を現す者が出始めた。

 

 

 ここはどこ?

 

 

 チヒロは森の小道を歩いている。ジオフロントの中にある森だということは分かった。見上げるといつもの天蓋があったからだ。今は夜だ。周囲は異様に静かだ。誰もいる気配がない。家の明りも見えない。道標もなく、どこをどう歩いているのかも分からない。

 戸惑いながら剥き出しの土の上を歩いた。天蓋から降る光のおかげで、どうにか木にぶつからず歩くことができた。帰らなければ。だが、どっちへ向えばいいのか。

 不安に捉われながらも歩みを止めなかった。そのうち、妙なことに気づいた。今、着込んでいるのはプラグスーツなのだ。なぜだろう。チヒロは頭を抱えて立ち止まった。何か大事な事を忘れているような気がする。

 横から、ふいに誰かの囁き声が聞こえた。

「誰?」

 チヒロは警戒して辺りを見回した。目をこらしてみても、誰の姿も捉えられなかった。そのチヒロの背後で、不気味な忍び笑いが起こった。距離は近い。彼女は大急ぎで振り向いたが、誰もいない。

 気を動顛させながら、何度も周りを見た。怪しい者の姿はない。するうち、第二の笑い声が聞こえた。向きを変えた彼女の後ろで、また笑いが起こった。今度ははっきりとした哄笑だった。笑い声は次第に数を増した。いつの間にか何人もの男女が、彼女を取り囲み、嘲笑っているのだ。

 チヒロは恐怖に陥り、そこを駆け出した。木にぶつかり苦痛の呻きを漏らした。突然バランスを失い倒れる。木の根に躓いてしまった。土にまみれながら唇を噛んだチヒロの耳元で、見えない男が狂ったように笑った。その息が彼女の頬にかかり、あまりのおぞましさに悲鳴を上げた。チヒロは懸命に立ち上がり、猛然と走った。笑う者たちは付き纏うのを止めない。全力で走っているのに、なぜか囲みが解けないのだ。笑い声の調子が変わらないのも不可解だ。誰もが甲高く、正気とは思えない笑い声を浴びせてくる。するうち、誰かがチヒロの背中を突いた。ほんの鼻先で女の高笑いがはじけた。吐き気を催すような死臭がチヒロを襲った。 

 とうとうチヒロは両耳を塞いで叫んだ。「うるさい!」ふいに周りが静かになった。叫んだのが良かったのか、やっと笑い声が聞こえなくなった。チヒロは立ち止まり、涙目になりながら周囲を見回した。森の中は静まり返り、人影らしきものは全く見えない。息が苦しくなっていたので、ある木の幹に縋り体を休めた。依然として家や街灯の明りは見えない。深い森と、星のようにライトを散りばめた天蓋が、彼女に見える全てだ。

「マサト!」

 愛する男の名を大声で呼んだ。返ってくる言葉はなかった。目尻に涙を浮かべ、再び走り出そうとした時、やっと人の姿を捉えた。

 正面から懐中電灯の光が近づいてくる。「誰?」とチヒロは恐る恐る訊いた。光が上向きになり、白いネグリジェを着た女の姿が見えた。自分と同じ顔をしていた。

「ハルカ!ハルカじゃない!」

 チヒロは喜んでハルカの許に行った。ハルカは艶然と微笑んだ。

「ねえ、この森、変なの。私を連れ出して」

「キスして」

 ハルカはいきなりチヒロを抱き、唇に唇を寄せてきた。チヒロは狼狽してハルカを突き放した。

「ちょ、ちょっと待って。何するのよ」

 苦笑いを浮かべるチヒロに対し、ハルカはとろんとした目で腕を伸ばして髪を撫でた。

「キスしよ。前にしたように。女同士のあまーいキッス」

「いやよ。いくら仲良しでも、それは」

「最初、あなたがねだったくせに」

「何言ってんの...」

 チヒロは訳が分からなかった。ハルカの言動がおかしい。

 ハルカは相変わらずチヒロの髪を弄びながら、薄笑いを浮かべていた。「偽りの上に偽りを重ねたのが、今のあなた。可哀想な子。でも私はちゃんと真実を知っているわ」

「ねえ、どういうこと?さっきから変なことばかり」

「いらっしゃい。いいものを見せてあげる」

 ハルカはチヒロの手を取り、歩きだした。チヒロは仕方なくついて行く。

「どこ行くの?ここから出られるの?」

 ハルカは答えず微笑うばかりだった。不安が募ったチヒロは強く言った。

「ちょっと、放して!どこに連れていこうっていうの?」

「いいところ」

 チヒロの手を握る力は強く、振り切れない。なおも上機嫌に歩くハルカの横顔を、チヒロは見た。

 目がぎらぎらと異様に光っている。そんな目の色は初めて見るものだった。チヒロはこのハルカが本物かどうか確信が持てなくなり、心細げに頬を強張らせた。

「着いたわ」

 突然ハルカが止まった。ようやく握っていた手を放してくれた。ハルカは懐中電灯の光をチヒロに向けた。眩しい光の向こうに、ハルカの赤い目が二つ、闇に浮かんでいる。チヒロは激しい恐怖を覚え、身動きできなかった。

「さあ、見なさい。隠蔽された真実。あなたの過去」

 ハルカは懐中電灯の光を大きく回した。光の輪が地面を舐める。そして、遂に衝撃的な物体が、暗闇から暴き出された。

 全裸の男が土の上に横たわっていた。埃に塗れ、生きているように見えなかった。何より首があるべき部分に何もなく、ぽっかりと丸い穴が開き、内部を垣間見せているのだ。

 

 

「チヒロ?」

 ペトロワはヘッドフォンから聞こえる声に度を失った。いきなりの叫び声だった。チヒロは喉が裂けんばかりに絶叫を放っている。意味をなすものではなかった。ただ純粋に恐怖を表す叫びだったのだ。それは何度も繰り返され、その度にペトロワの胸を掻き毟った。

「止めて、チヒロ!」

 彼女はとうとう耐え切れなくなった。目から涙を零し、ヘッドフォンを頭から外してしまった。その後もチヒロは叫び続けた。それは一人のチルドレンが自我を崩壊させ、恐怖に飲み込まれたことの証しであった。

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