リリスの子ら

間部瀬博士

第14話

『——ああああああぁぁああああっ!!きぃやあぁぁああああああああああああああああぁぁぁあああああっ!!』

「チヒロ!チヒロ!!」

 ハルカもまたチヒロへ懸命の呼びかけを繰り返していた。だが、親友の反応は一切ない。胸がつぶれそうな思いをしながら、一縷の望みを抱いて交信を続けた。

「チヒロ!目を覚まして!そこから逃げて!」

 ふいに絶叫が途絶えた。8号機から一切物音が聞こえなくなった。

「どうしたの?チヒロ、答えて!」

 唯一残っていた音声信号も断絶したのだ。ハルカは諦めず機器を操作して、再度回路を繋ごうとする。

 いきなりベヒシュタインが割り込んできた。『もう止めろ!8号機は乗っ取られた。だが、まだ望みはある。我々に任せろ。君は目の前の敵に集中しろ』

 ハルカは黙り込んで前面を眺めた。整然と行進して来る第7群は、600m地点まで迫っている。彼女は唇を噛み、8号機との通信を断った。

「お願いします」

 ここは味方に頼るしかない。この場所を手抜きできる状況ではないのだ。ハルカは改めて1号機にバルカン砲を上げさせた。

 

 北西戦線では既に戦闘が開始されていた。サヨコの4号機は単独でATフィールドを展開し、迫り来る使徒群を蹴散らす。中和域は城壁前300mにとどまったが、使徒が左右に広がれないことが幸いし、砲撃の効率は高かった。うず高く積もった死骸をミサイルが一掃し、使徒を丸裸にする。堀に零れ落ちた死骸も多くあった。何発ものミサイルが同じ箇所で炸裂するので、クレーターがどんどん深くなっていった。

 サヨコは時折隣の砲塔に目を走らせた。8号機が気になる。それは剣を持ったままぴたりと動きを止め、宙の一点を見つめているようだ。光る使徒は完全に8号機と融合し、姿を見えなくしていた。全身が網状に盛り上がり、滑らかな箇所は一つもない。あれがもしこっちに襲い掛かってきたら?不安がいやましに募る。

 その8号機が動いた。剣を背中の鞘に収め、何事もなかったように砲塔出口に向った。サヨコは背筋に冷たいものを感じた。

 

「エヴァ8号機、動きました!」そう叫ぶキムは汗をびっしょり掻いていた。

 アイネムは厳しい目でスクリーンを睨んでいた。「やはり前と同じか。フェイズ3に移行。ユキエ!」

 いきなり呼ばれたユキエは動顛しながら答えた。『は、はい!』

「8号機を使徒と認定する。これより君は8号機対策に当たれ。直ちに塔を出て、8号機に接近」

『了解』この危機に対処する役割は、3号機に与えられた。アイネムは矢継ぎ早に指示を下した。

「1号機はそのまま。2号機は12番砲塔に入れ。残る3機は砲塔を出て、手持ちの武器を取ること。遊軍として絶えず動くのだ。位置は追って指示する」

 東部戦線は慌しく動いた。第7群は既に前方450mに達している。どのチルドレンにも焦りの色があった。

 

 8号機が身を屈めて砲塔から出て来た。4号機のサヨコは気が気でなく、使徒群に対する砲撃が甘くなった。

「ユキエ先輩、早く来て!」

『サヨコ、しっかり!今行くから!』

 3号機は猛然と走った。彼女の頭の中ではどう殺すかではなく、どう取り押さえるかの思案が巡っていた。上手くいけば、チヒロの命を救えるかも知れない。

 8号機は悠然と辺りを見回した。飛び道具は持っていない。サヨコは8号機を横目に見つつ、バルカン砲を操るという難しい操縦を強いられた。その8号機がくるりと振り向き、西へ移動するのを見た時は、心底ほっとした。

 

 東部ではルミの5号機が、10番砲塔と11番砲塔の中間に陣取り、グレネードランチャーを手に奮闘していた。第7群は前群よりも押している。ATフィールドの縮小は、より近い場所まで使徒を導き寄せた。6号機、7号機もそれぞれ両翼に張り、火器を撃ち続けた。ATフィールドの隙間を突いて進出する使徒は数多く、その度に移動して掃討しなければならない。爆撃機やミサイルの管制官は、絶えず中和域を確認しながらの運用を迫られた。1号機、2号機は休みなくバルカン砲を振り回した。バリケードはとうに跡形も無くなり、堀の前は無数のクレーターがあるばかりだ。

 遂にポジトロンの射線をも掻い潜り、満水となった堀に到達する使徒が出た。

「使徒が堀の中に入りました!」

 ブーランジェは息を詰めてスクリーンに見入った。その使徒はたちまち茶色い水の中に消えた。ぶくぶくと泡が立った。そのまま城壁に達するのか?もしもそれが可能なら、博士の献策は見込み外れとなるが。

 水面が激しく波打つ。大量の泡が弾ける。二分待っても使徒は浮かんで来なかった。博士は胸を撫で下ろし、拳を固めた。

 

 北西では8号機が新たな動きを見せた。第2城壁に設置されたエヴァ用の簡易梯子に足を掛けたのだ。

「中央に入り込む気だ!ジオフロントへの直接攻撃が狙いか」

 信時の断定に続けてアイネムが言った。「あれが本命だ。何から何まで向こうの作戦だったか。だが、対策はある」

 栗林が叫んだ。「ユキエ、そっちも上がれ!8号機に見つかるな!」続けてキムに尋ねた。「特殊対策部隊は?」

「位置に付いています」

 栗林はユキエへの指示を続けた。「ユキエ、先に第3城壁まで上がって隠れろ。8号機の狙いは内部への侵入らしい。中で勝負だ!」

『はい!』8号機まで300m足らずの位置まで迫っていた3号機は、動きを止め道を戻った。別の梯子を上るためだ。8号機の動きはまだ鈍い。機敏に動ける3号機に利がある。

 突如古賀が血相変えて叫んだ。「中央ゲートを閉めないと危険です!」

 栗林の顔色が変った。中央ゲートは全開となり、今しもN−4爆撃機が3回目の離陸をしているところだ。

「N−4、離陸急げ!ゲートを閉めるぞ!」

 N−4は折悪しく、地上とジオフロントを繋ぐ回廊の中間に差し掛かっていた。そこが空かない限り、ゲートは閉じられないのだ。パイロットは慌てて出力を限界まで上げた。だが、垂直上昇は元々遅いもので、増速しても2割が限度だった。

 栗林は汗を拭いながらスクリーンを見やった。直径120mの円形をした中央ゲートは、完全に閉鎖するまでに5分もかかるのだ。それまでに8号機を止められなければ、最悪の事態になる。

 じりじりとさせる時間が過ぎる。既に8号機は第3城壁に達し、内陣からその禍々しい姿が見えた。

 

 特殊対策部隊を率いる高森大尉は、双眼鏡で8号機を捉えて生唾を飲んだ。普段は守護神として仰ぎ見たエヴァンゲリオンが、人類を屠る悪鬼となって現われたのだ。

「まだ撃つな。城壁を下りて全身が見えてからだ」

 拡声器で部隊全体に指示を出した。彼の左右には、手持ちのロケットランチャーを携えた兵士が5名、間隔を空けて並んでいるだけだ。

 その時、ようやくN−4の機体が、地上に姿を見せた。

 

「N−4、ゲートを通過」

「ようし、ゲート閉鎖」

 城塞のゲート管理はアンドロイド・ジロウの役目である。彼は「了解。中央ゲート閉鎖します」と答えて、キーボードに指を乗せた。しかし、その指が下りない。

 彼は凍りついたように動かなかった。瞬きもせずモニターを見つめている。それが、3秒、4秒と続く。

 最初に異変に気づいたのは、隣席のタロウだった。彼はジロウに向かって怪訝そうに言った。

「ジロウ、ゲート閉鎖」

 ジロウは動かない。突如エネルギーが切れたかのようだ。

「どうした?」

 その声に応えるかのように、ジロウの指が猛烈な速さで動いた。タロウはそのモニターを見て、さらなる異常事態を覚った。全く違う画面が現われて、覚えのない英数字が増殖しているのだ。 

「何をしている」

 タロウがジロウの腕を掴んだのは、ジロウの指がエンターキーを押すのと同時だった。ジロウのもう片方の腕が制服の中に滑り込む。抜き出されたその手が掴んでいたのは自動拳銃だった。

 ジロウはタロウの額にそれを押し当て、引き金を引いた。指令室に銃声が響き渡った。銃弾は正確にCPUを撃ち抜き、タロウは一瞬のうちに停止した。派手な音を立てて椅子から転げ落ちる。指令室の誰もが、音のした方を見た。ジロウは立ち上がり、コンソール目がけて二発発砲した。数台のコンピューターが道連れとなってダウンした。そこに至って、ようやく全員が事の重大さを理解した。指令室は一気に騒然となった。

 ジロウが拳銃を手に立ち上がった。女性オペレーターが悲鳴を上げた。「伏せろ!」と、誰かが叫んだ。壁際にいた警備員がやっとサブマシンガンを構えて動く。ジロウは表情一つ変えず、銃を持った腕を伸ばす。銃口の先にはフォン・アイネムがいる。

 アイネムは席を立って後ろに逃げようとしていた。ジロウの狙いは極めて正確だった。アイネムの背中に銃弾が二発命中し、前のめりに倒れた。傍にいた白衣の女が恐怖の絶叫を放った。

 警備員がサブマシンガンを連射した。横殴りに多数の銃弾を浴びたジロウは、その場に横転した。そこへ、キムが飛び掛った。銃をもぎとろうとしたのだ。だが、ジロウはまだ活動している。片手でキムを持ち上げ、横へ放り投げた。キムの背中が激しく机に当たり、苦痛の声が上がった。

 栗林はその隙を突いた。懐から抜いた銃で、慎重に狙いをつけて頭を撃った。頭頂部に穴が開いたジロウは、投げた姿勢のまま痙攣を始めた。栗林は怒りを顕わに近づき、額に銃口を押し付け、続けざまに撃った。ジロウの腕が床に落ち、そのまま動かなくなった。

「総司令!」栗林は叫び、アイネムに駆け寄る。既に信時と3人の参謀が、横たわる総司令を囲んでいた。彼らは皆唖然とした顔をしていた。

 栗林は人の隙間に体を入れ、アイネムを見た。信じられない光景があった。

 仰向けに寝かされたアイネムの胸に、貫通した穴が二つ開き、そこから液体が溢れている。それは血ではなかった。独特の臭いを放つ循環液だったのである。

 

 8号機が宙を舞った。城壁を乗り越え、内側に飛び込んだのだ。220mの高さから身長25mの巨人が落下する。着地した8号機は凄まじい威力で地面に円形の大穴を穿った。ATフィールドを纏った8号機には何の損傷もなかった。倉庫の一つがATフィールドによって壁を破壊され、中が丸見えになった。

 幸いそこは軍用倉庫が立ち並ぶ地区だったので、戦闘への影響はなかった。しかし、もしもミサイルサイロをやられたら、その被害は計り知れない。

 中央ゲート前に位置する高森は、決断を迫られた。先程から指令室との連絡が取れない。無線機からは銃声と怒号や悲鳴が聞こえるばかりで、答える者がいなかった。作戦開始の許可がまだ下りていないのだ。だが、ぐずぐずしている場合ではない。高森は腹を据えた。後でどうとでも処分すればいい。

「これより作戦を開始する。目標、前面の使徒・エヴァ8号機!ランチャー構え!」

 5名の兵士が地に片膝を付き、肩に置いたロケットランチャーを8号機に向けた。みなゴーグルで目を守っている。高森もゴーグルを着けた。8号機は両腕を振るい、倉庫を滅茶苦茶に破壊しながら前進して来る。

「エヴァ3号機!位置に着いたか!?」

『3号機、準備よし』

 ユキエが答えた。3号機は第3城壁の塔の陰に身を潜め、奇襲の機会を窺っていた。

「総員に告ぐ!これより閃光弾を使用する。対閃光防御!決して中を見るな!」

「全員ロックオン終了」傍に立った副官が告げた。高森は大音声を発した。

「発射!」

 5発の小型ロケットが8号機目がけて発射された。白煙を曳いてロケットが空を行く。

 8号機は、自分の顔に向って飛び来るものに危険を感じた。ATフィールドを展開し身を守る。それで十分なはずだった。

 ATフィールドに小さな5本の矢が衝突した。瞬間、それらは爆発を起こした。それは太陽をも上回る強烈な光と、耳を聾する大音響だった。

 音と光はATフィールドを嘲笑い、8号機の耳目を貫いた。一瞬で8号機は感覚を失った。ぐらりと揺れ、その場に膝を付いた。

 対人スタン・グレネードの応用であった。効果が何秒続くかは分からない。だが、ヒトにはこれしか有効な攻撃手段がないのだ。

 3号機は勇躍、城壁から飛び降りた。大爆発と同じ衝撃が内陣を揺さぶる。3号機は猛然と走り、8号機が破壊したコースを辿った。8号機が麻痺した今が好機だ。ユキエは8号機の後ろを取る積もりでいた。

 肩のウェポンラックを開き、長いピンをつまみ出した。それはエントリーユニットに仕込まれた、緊急射出装置を起動するためのものだ。ユニットに開いた小さな穴が、そのスイッチとなっている。

 8号機はまだ膝を着いて動かない。背中のユニットが無防備に曝されている。3号機はあと数歩の場所まで来た。その時、いきなり8号機が立ち上がり、振り返った。

「遅い!」

 3号機が跳躍した。山吹色の巨人が空中を舞う。8号機は防御の姿勢を取ることすらできなかった。強烈な跳び前蹴りが8号機の顎を捉えた。8号機は仰向けに倒れ、倉庫はさらに破壊された。着地した3号機は8号機に覆いかぶさろうとする。だが、8号機も目覚しい動きを見せた。下から3号機の腹に蹴りを突き込んだのだ。3号機は数瞬、体をくの字に折った。その隙に8号機は立ち、剣に手を掛ける。負けじと3号機は、素早い動きで胴タックルを仕掛けた。二機はもつれ合い、激しい格闘を展開する。二機の姿は倉庫の屋根と壁に遮られ、見えなくなった。

 

「何だ、これは?どういうことだ?」 

 栗林はアイネムの正体を知り、愕然としていた。彼の周りには、同じ様に衝撃を受けた同僚が、多く集まっている。アイネムは横たわったまま、気まずそうにしながら目を瞬いていた。

 その混乱を一発の銃声が断ち切った。誰もが反射的にその音の主を見た。仁王立ちをした信時副司令が、天井に向けて、煙の出る銃を構えていた。

「馬鹿者!!」信時は室内に響き渡る大音声を発した。「取り乱すな!!今がどういう時か分かっているのか!直ちに持ち場に戻り、仕事をしろ!」

 その言葉に我に帰った者たちは、皆駆け足で席に戻った。栗林も冷静さを取り戻すべく、必死の努力をしながら走った。数名の警備員がジロウの骸を囲み、片付けにかかっていた。

「私を起こして、席に座らせてくれ」と、ようやくアイネムが信時に言った。信時は傍らの参謀にその役を命じた。

「戦況は?」栗林が腰の痛みに顔を引き攣らせているキムに訊いた。

「3号機と8号機が格闘しています。倉庫の中なので、様子が分かりません」

「特殊対策部隊は?」

「閃光弾は有効でした。今は撤退しています」

 栗林はスクリーンに目を移した。エヴァ2機が格闘している倉庫は、蒲鉾型の天井が揺れに揺れ、時折派手な音が響き渡った。「ユキエ、頼む!」と、栗林は声に出して祈った。

 その時、突如倉庫の天井が盛り上がった。と思う間もなく、大爆発が音と閃光を伴って天井と壁を吹き飛ばした。

『あああああああああっ!!』

 ユキエの悲痛な叫び声が指令室に響いた。誰もが息を呑んだ。

「3号機、損傷!大変だ!あ、足が!」

 3号機担当のオペレーターが叫んだ。スクリーンにエヴァ3号機の模式図が現われた。3号機は両足太腿の半ばから下を失くしていた。

 指令室を一瞬、静寂が包んだ。栗林のこめかみから汗が一つ、つーっと落ちた。

 古賀が厳しい口調でシンに訊いた。「あの爆発はなんだ?只事じゃないぞ!」

 シンは狐につままれたような顔で答えた。「分かりません。あそこは爆発物のある所じゃないのに‥‥」

 倉庫は半分が消滅していた。炎が上がり、大量の黒煙が周囲を包む。その中から8号機が青い躯体を顕わにした。それは遂に内陣深くまで入り込んだ、最強の使徒の姿であった。

「中央ゲートは!?」

 生き残ったサブロウが答えた。「駄目です。あらゆる手段を講じましたが、閉められません。システムを再構築でもしない限り無理です」

 ジロウが死に際に放ったウイルスは、ジオフロントに強烈な毒を盛ったのだ。

「手動で閉める方法があるはずだ。技術部!何とかしろ!」

 猛烈な剣幕で叫ぶ栗林にシンは答えた。「今、検索中です。しかし、それをやったところで間に合うかどうか」

「8号機が、8号機がゲートに向って来る!」

 古賀が絶望的な事実を告げた。青い巨人は悠々と倉庫から出て、中心に向って歩いて来る。3号機の蹴撃によって拘束具が破壊されてしまい、鼻から下は素体が露わだ。口から尖った乱杭歯がはみ出し、顔貌を鬼の形相に見せていた。中央ゲートは彼を招待するように、ぽっかりと扉を開けている。

「3号機はどうか?」

 栗林がシンに訊いた。シンは痛ましげに首を振った。「駄目です。戦闘不能。パイロットは無事ですが」

「殺させるべきだったのだ」アイネムが口を入れた。彼ははだけた制服を除けば、普段と変らぬ様子で指揮に戻っていた。ベヒシュタインがしきりに彼の胸をいじっていた。「チヒロを救おうなどという甘い考えが、この難局を招いた。猛省すべきだな」

 大汗を掻いたベヒシュタインが、ドライバーを回しながら言った。「大丈夫だ。歩くのは無理だが、指揮に支障はない」

 アイネムは何事もなかったように3号機への回線を開いた。「ユキエ、ご苦労。苦しいだろうが、今は助ける余裕がない。這ってエレベーターまで行けるかね?」

『はい、何とか』と、苦痛をこらえるユキエが答え、3号機は両腕で上体を持ち上げた。ユキエの胸の中には、思わぬ事故によってチヒロ救出がならなかった無念が、渦を巻いていた。

 栗林はアイネムの裸の胸を見て、寒気を覚えた。内部がむき出しになり、スチール製の肋骨と、奥にびっしり詰まった機器が見えた。

 8号機は遂に中央ゲートの縁に辿り着き、身を乗り出して下を覗いた。その時、8号機は笑った。口を薄く開け、大量のよだれを垂らし、びっしりと並んだ歯を見せた。

 今次使徒戦に参加した全ての者がそれを聞いた。8号機は背を反らし、天に向って長々と遠吠えを上げたのである。抑圧されていた野生が解放を喜ぶような、獣性に満ちた咆哮であった。それは使徒の勝利宣言なのか。ジオフロントに恐怖が蔓延した。

 やがて雄叫びを収めた8号機は、遥か下の空洞部目がけて身を躍らせた。

 

 草鹿は塔からその瞬間を目撃していた。いきなり中央ゲートから青い塊りが落ちてきた時には、心底驚いた。底面から頂点までの高さはおよそ1600mあるが、落下し切るにはおよそ18秒を要する。その様を見守る人々には極度に長い時間であった。草鹿は途中で見失ってしまった。中間部で既に時速450kmの速さに達し、目で追うのは不可能だった。底面中央に目を移した草鹿は、一瞬青いきらめきを見た。次の瞬間、ジオフロントに激震が襲った。草鹿は猛烈な揺れの中で死を覚悟した。

 

 290tの物体が時速630kmで衝突した衝撃は、ジオフロント内部のみならず地上の城壁にまで達した。その間は栗林たちも、何かに掴まっていなければ立っていられなかった。遂に使徒は32年間破られることのなかった壁を越え、ジオフロントの体内まで到達したのである。

「被害を報告せよ!」

「8号機、第7層で停止!一気にぶち抜かれました!」

 スクリーンには、粉塵で霞む底面部中央の巨大な穴が映されている。

「全隔壁閉鎖!少しでも時間を稼げ!」

「第7回線断線!バックアップ開始!」

「水道管が20箇所で断裂!供給ストップします!」

「第2層で火災発生。消火します」

「ベークライト注入急げ!」

「……駄目です。パイプ損傷!」

 しばらく蹲っていた8号機が動き出した。拳を振るって、進路を邪魔するコンクリート隗を排除していく。そこへ、頭の上に何トンもありそうな破片が落下した。しかし、それは8号機の頭上10mで粉々に砕け散った。ATフィールドに当たったのだ。周囲はもうもうたる埃で覆われていたが、8号機の蚯蚓腫れだらけのボディには傷一つなかった。

「8号機、横方向へ移動!G−17エリアを侵攻中!」

「このままではターミナルドグマまで行かれてしまう!」

「ハルカ!」

 遂にアイネムが叫んだ。

 

『状況6−6−3はフェイズ4に至った。君はそこを離れろ。最早8号機を抑えられるのは君しかいない。全速で追うのだ』

「はい!」

 ハルカは唇を噛み締め、移動を開始した。悲しみが1号機とのシンクロを僅かに下げた。

『心配するな。北西では戦況が有利に進んでいる。いずれ4号機を戻すことができるだろう』

 東部戦線は苦戦が続いていた。敵は死を恐れず堀に侵入して来る。その数はもう20を超えただろうか。だが、堀は無限の容量を持っているわけではない。そこが使徒の死骸で充満したら、意味を失うのだ。

『動きが鈍い。急げ!』

 アイネムの叱咤が来た。ハルカは首を振り、雑念を払おうとした。今は人類最大の危機の時なのだ。ここでしっかりしないで、いつしっかりするというのか。

「みんな、後は頼んだわよ!」

『先輩、頑張って!』

『こっちは何とかしますから!』

 後輩たちの応援が嬉しい。1号機は第1城壁の通路に立ち、最寄りの簡易梯子に向った。8号機同様、第3城壁を飛び降りる積もりだ。その方が早く行けるはずだ。

『くれぐれもチヒロを救おうなどと考えるな。まず8号機を殺せ。いいな』

 アイネムは氷の冷たさでハルカに念を押した。ハルカたちパイロットは指令室で何が起きたか、まともに把握していなかった。反乱の勃発と鎮圧の事実だけが、簡単に伝えられただけだった。そのため、自分に冷酷な命令を下す男の正体に、何の疑いも持っていなかった。ハルカは感情を押し殺して、はい、とだけ答えた。

 

「ユカ!もっと左!使徒が押してる!」

 ユリコが早口で指示を飛ばした。2号機も塔を出て、再びショットガンの速射を始めていた。

「大砲はどうしたの?弾が来ない」

『今、砲弾の運搬中だ。少し待ってくれ』

 ユリコはちっ、と舌打ちした。避けがたい給弾のための間隔。ひたすら前進するだけの使徒と比べて、なんと不利なのか。

 2号機の放った散弾は、堀端に至った使徒を二体同時に吹き飛ばした。片側の足を全て失った使徒は、口を全開にして叫んだ。そこをポジトロン

が貫いて息の根を止めた。その死骸が後ろから押されて堀に墜落した。押し出した使徒は散弾によって首を爆破され、その場に大量の血をぶちまけた。

 堀に今しがた沈んだ使徒の背中が見える。死骸の山の上に乗ったのだ。どれほど仲間が死のうとも、使徒たちは前進を止めなかった。後方には未だ3万以上の敵が残っている。彼らは最後の時が来るまで、これを繰り返す気でいるのだ。

 

 ハルカは中央ゲートの淵から下を覗き込んだ。吸い込まれそうな感覚を覚えた。F型装備も付けずに1600m下を眺めるのは、初めての経験である。背中にぞくりと寒気が走る。しかし、躊躇っている場合ではない。

「行きます」

 1号機は一歩前に踏み出した。長い落下が始まった。1号機は姿勢を制御し、気をつけの姿勢を取った。空気抵抗を減らそうと言うのだ。森やビル群など、空洞部底面の施設がどんどん大きさを増していく。そのさ中、ハルカは精神を集中し、下へ向けてATフィールドを展開した。

 私たちは自由。そう、ふわふわと羽根のように軽い。重さなんてないの。まるで天使のように空間を支配するもの。

 ハルカのイメージはATフィールドを変質させ、万有引力の法則を無効にした。重力を遮断することに成功したのだ。加速が止み、慣性によって等速度運動に移った。8号機のように自由落下させるわけにはいかなかった。被害の拡大を最小限にとどめるためには、止むを得ない措置であった。

 

 草鹿は中央の大穴を眺めながら、にたにたと笑っていた。先程8号機が飛び込んできた理由は、過去の記録から容易に察しがついた。あれはもうエヴァではなく使徒なのだ。待ちに待った人類補完の時が来る。彼の目には狂気に似た光を宿っていた。その視界に、突然白いエヴァの機体が入った。彼は慌てて傍の機械にしがみつき、目を瞑った。またあの揺れが来たら、もう駄目なのではないかと思った。だが、今度の地震は前よりもずっと小規模で済んだ。訝しく思いながら立ち上がって、小窓から外を見た。エヴァの姿はどこにもない。彼は夥しい粉塵を上げる穴に向って、中指だけを突き立てた。

 

 8号機は拳を振るい、邪魔をするコンクリートや鉄骨を叩き壊しながら進んだ。目的地がどこかは誰もが知っていた。地下のターミナルドグマ。リリスの巣である。

 幾重にも連なる隔壁も意味を成さなかった。プログレッシブナイフはそれらを紙のように寸断したのだ。大音響を立てて扉の残骸が落下する。8号機は重なり合う瓦礫を押しのけつつ、着実に進む。

 ある場所で8号機はアクティブソードを床に突き立て、ぐるりと円を描いた。たちまちセントラルドグマに鉄とコンクリートの塊りが落下し、轟音に包まれた。バレットマシンガン数丁が直撃を受け、炎を上げた。そこへ、エヴァ8号機の悪夢のような姿が現われた。逃げ遅れていた数人の作業員が、悲鳴を上げながら走った。8号機はやっと背を伸ばして立つことができた。

 

 1号機は8号機より深く、第8層まで落下した。8号機の開けた穴にそのまま飛び込んだからだ。1層だけの破壊で済んだのは重力遮断の効果だった。ハルカは飛び込んだばかりの頭上を見上げた。穴の上はるか彼方に、中央ゲートを通した空が見える。

「指令室。1号機、着地に成功。8号機は?」

 栗林が答えた。『今はセントラルドグマだ。急いでくれ。一旦第7層まで上れ。8号機が破壊した後を辿るんだ。その方が早く追いつける』

「なぜそっちへ?まっすぐ下に行けばセントラルシャフトなのに」

 ベヒシュタインが割って入った。『おそらくあいつの狙いはロンギヌスの槍だ。フォースインパクトの発動に使用する気なのだろう』

 ハルカの顔が曇った。槍を持たれてはこちらの不利となる。1号機もまた同じ武装をする必要がでてきた。

 1号機は第7層の床に手を掛け、体を上げた。ハルカの頭の中には、チヒロとの思い出が駆け巡っていた。

 幼い頃から気が合った。共に技量を認め合った。何度も竹刀を合わせ、いつも白熱した試合になった。決着が着いた時は、たとえ負けても充実感があった。遊び、慰めあい、互いの愛人を自慢し合った。私生活でも戦いの場でも、隣りにいるのは大抵チヒロ。周囲も羨む仲の良さ。二人の間に隠し事はない——

 いや、重大な隠し事があった。

 彼女に対して積み重ねた膨大な嘘の山は、恐ろしい高さになった。彼女は欺瞞という脆い基盤の上に立っていた。それが崩壊するのは必然ではなかったのか。たとえそれが彼女自身が望んだ道だったとしても、元に戻すべきではなかったのか。

 使徒がチヒロを選んだのは、そういう彼女の脆弱さを知っていたからでは、とハルカは思った。あの時、使徒はエヴァパイロットの最も弱い輪を狙ったのではないか。

 1号機は悩み惑うハルカを乗せて、惨状を呈する通路を進んだ。やがて、セントラルドグマに通じる大穴の前に立った。

 

 東部戦線では苦戦が続いていた。開戦時の半分まで減ったATフィールドでは穴が多く、堀に飛び込む使徒は数多い。

「ユリコは7番、シオリは9番、ルミは11番、ユカは13番へ移動せよ」

 アイネムがエヴァ4機に指示を下し、各機はそれに従い移動を開始した。首脳部は全エリアで、万遍なくATフィールドを中和することを放棄した。兎に角4機にATフィールドを展開させ、その結果生じた中和域に攻撃を集中する。残った区域は手抜きせざるを得ない。迅速に中和域の敵を壊滅させ、しかる後移動することが求められた。

 中和域から外れた区域を受け持つポジトロン機関砲の砲手たちは恐怖に曝された。後から後からおぞましい姿の使徒が、すぐ向こうまで迫り、堀に身を投げていく。光弾はエネルギーが足りず、使徒のATフィールドによって無効化された。すでに堀の三分の一までが、使徒の死体で充満している。新たに入水した使徒は、水しぶきを蹴立てて中ほどまで侵入し、夥しい泡を立てては沈んでいった。砲手たちはその有様を、エヴァよ早く来いと祈りながら、なす術もなく見つめるだけであった。

 

「シン君、衛星は132使徒出現の瞬間を捉えていたかね?」と、アイネムがシンに訊いた。胸部の応急処置は終わり、胸に二つ穴の開いた制服を元通りに纏っている。ベヒシュタインは既に席に戻っていた。

 シンは複雑な顔で答えた。「はい、大丈夫です」声に微かな戸惑いが混じった。

「クローズアップしたまえ」

 シンは画像を巻き戻し、第132使徒の姿を追った。同じ画像をアイネムも見た。モニターには上空から見た光る糸が映し出され、それはうねくりながら城外へ出て行く。やがて平地を超え、18高地の頂き近くに至り、円を描いた。

「そこで停止。円の中心をズームだ」

 円の中がどんどん大きくなる。ある大きさまで拡大した時、シンは息を呑んだ。信時は目を見張り、アイネムはにやりと笑った。

「いたぞ。おそらくこいつが指揮官だ」

 そこにいたのは、体長が並みの2倍近くある大型の使徒だった。特徴的なのは尾部で、横に大きく膨らみ、細長い突起が無数に生えている。そして尾の先端は通常と違って棘がなく、大きな穴が開いているのだ。

「あの中に132を収納していたのか!」と、信時。

「多分。只者ではないよ、こいつは。あの突起を見たまえ。ブーランジェ博士の仮説が正しければ、こいつこそ指揮官にふさわしい」

「こいつを殺すことができれば」

 アイネムはほくそ笑んだ。「ああ。戦局が動くかも知れんぞ」

 

 8号機はスプリンクラーの雨の中、セントラルドグマを傍若無人に歩き回る。行く手を遮るものは容赦なく叩き壊し、各所で火災が発生していた。首脳部の懸念は8号機がここを徹底的に破壊し、弾薬庫まで手を付けることにもあった。万一弾薬庫が火災にでもなったら、多数の爆弾が誘爆し、ジオフロントは壊滅的な打撃を受けることだろう。しかし、8号機の関心は破壊そのものよりも、ある武器を取ることにあった。 

 8号機は迷いなく近接戦闘用兵器の倉庫に到着した。分厚い扉は何の意味もなかった。長剣が二度振り回され、夥しい火花が散った。鈍い轟音を立てて扉が崩れる。悠々と入り込んだ8号機のすぐ目の前に、ロンギヌスの槍が4本、台座の上に横たわっている。

 

『ハルカ、急げ。8号機は直にセントラルシャフトに辿り着くぞ』

 栗林の切羽詰った声が聞こえる。ハルカはきつい目で前方を見つめた。相手は容易ならざる強敵なのだ。全力を出さねばやられる。

 でも、とハルカは思った。チャンスがあるなら実行すべきよ。最後の最後まで諦めない。使徒を殺し、チヒロを救う。そのどちらもやり遂げてやる。

 決意も固く、ハルカは1号機を進めた。セントラルドグマの広大な空間は意外に静かだった。あちこちで火災が起き、スプリンクラーが水を撒いている。いきなり遠くで大きな音が立った。そこに8号機の青い背中を見た。予想通り槍を携えている。距離は450m。かなり近い。ハルカは1号機を走らせた。8号機はセントラルシャフトに通じる扉を引きちぎった。一瞬の内に8号機の姿は消えた。はるか8500m下のターミナルドグマに向って降下したのだ。

 1号機はすぐにはシャフトに飛び込まなかった。刀と槍では圧倒的に不利だ。1号機も槍のある倉庫へ走った。

 倉庫の前に立った1号機は、数瞬、呆然と立ち竦んだ。

 残った3本の槍は、全て中程で叩き折られていたのである。

 

 北西戦線の戦闘は大勢が決しつつあった。4号機の奮闘とミサイルの集中投下により、使徒の群れは残すところ僅かに200余りとなっていた。その残敵が前進を止めたのだ。

『指令室!使徒が来ません!』

 サヨコの昂ぶった報告が届いた。信時はスクリーンを見つめて眉を顰めた。「また待機戦法か?」

 信時の惧れは杞憂となった。残る使徒が一斉に回れ右を始めたのだ。

「遊撃隊が撤退して行く!」と、キムは喜びの声を上げた。スクリーンには整然と遠ざかる使徒の群れが映されている。指令室は久々に明るいムードが漂った。

「技術部、もう一働きしてもらう」アイネムが先ほどの椿事など何もなかったかのように言った。「ポジトロンスナイパーライフルを用意。第3城壁9番塔に据え付けよ」

 信時が確認を入れた。「あいつを狙撃しようというのだな?」

「そうだ。うまくいく確証はないが、これに賭けてみる」

 ベヒシュタインを初めとする技術部は俄かに忙しくなった。遂に超大型兵器の出番が来たのだ。

「予備の原子炉を稼動しろ。電力供給マックス」

「セントラルドグマは通れるか?」

「問題ありません。東側は無事です」

 技術部門を飛び交う声は、栗林と古賀の耳には入って来なかった。8号機対策を担当した彼らは、他に気を回す余裕はなかった。

 

 1号機もセントラルシャフトの前に立った。直径90mの円形をした、地獄まで達するかのような竪穴である。ハルカは覗き込んで見たものの、先行した8号機の姿は、既に肉眼では見えなくなっていた。槍を持つ相手に対して剣だけのこちらは不利だが、何するものぞと気力を奮い立たせた。

『8号機は第2コキュートスで等速度運動に入った。できるだけ重力遮断を遅らせれば追いつけるぞ』

「了解。行きます!」

 1号機は勇躍身を投げ出して落下に入った。すぐさま直立の姿勢を取る。凄まじい風が1号機を通してハルカの肌を冷やし、耳元でうなりを上げた。

 ハルカの目前には、落下中の8号機と1号機がプロットされたシャフトの模式図があった。一定の速度で下に向かう8号機に1号機が近づいている。ハルカはそれを見ながら勘で重力遮断のタイミングを決めた。もう少し。機は第4コキュートスに達した。今、ここで。

 私たちは風の中を漂うシャボン玉。心地よく、おおらかに、大地の呪いを退けるもの。

 1号機とハルカは重力のくびきを逃れた。後は惰性に任せ追いかけるだけだ。無重力に移るタイミングを遅らせたことによって、1号機が遥かに速い。

 

 4号機は第1城壁の通路を東に向かって走る。サヨコは東部戦線が気がかりだった。4機だけでそこを支えきれるとは到底思えなかった。そこへキムの通信がきた。

『サヨコ、第3城壁9番塔に入れ』

 キムの指示をサヨコは意外に思った。

「どうして?前でATフィールドを強化した方が」

『いいから。君には別の役割を担ってもらう。大役だぞ』

 サヨコは首を捻りながら4号機を止め、簡易梯子に足を掛けさせた。

 

 地下深く下り行くハルカは、やっと8号機の姿を捉えた。槍を両手に持ち直立姿勢を保っている。下を見ているので、まだこちらに気づいていない。だが、このままの位置取りで降下を続ければ、敵の視界に入ってしまう。1号機は敵から僅か20m離れた位置を進んでいるのだ。近距離まで近づいただけでも、おそらく気づかれるだろう。そうなればリーチの長い武器を持つ向こうが有利だ。 

 ハルカは剣を抜き、重力遮断を中止した。一瞬、突き上げるような感覚が来た。1号機は再び1Gの加速に身を委ねたのだ。彼女の選択は8号機の前を瞬時の内に通り過ぎ、迎撃の時間を与えないことだった。さらに先にターミナルドグマに降り立ち、こちら有利なポジションを取る。剣を胸の前に垂直に構え、8号機との遭遇に備えた。

 8号機の形がどんどん大きくなっていく。あと数秒で同じ高さに到達するだろう。その時、8号機が上を向いた。気づかれた。8号機は槍を引き、今にも突き出す構えを取る。1号機は剣を横一文字に前に出し、身構えた。

 両機の武器は互いに空を裂いたのみであった。槍は1号機の頭上を突き、剣は8号機の装甲に達しなかった。両者の相対距離は見る間に開く。危険な瞬間は去った。だが、ハルカにほっとする余裕はなかった。ターミナルドグマの地面が見えたからだ。1号機は最大能力まで上げたATフィールドを展開した。

 ターミナルドグマの地面が丸くめくれ上がり、津波のように周囲に広がった。耳を聾する轟音は、はるか上のジオフロントまで届いた。1号機は遂に奈落の底に辿り着いた。ハルカはすぐさまシャフトを見上げた。8号機がドグマ上部の穴を抜けてこちらへ落下して来る。槍の穂先は確実に1号機を狙っている。

 ハルカは咄嗟にそこから1号機を走らせた。今迎え撃つのは無理だ。一旦距離を取る必要があった。

 8号機の落下がドグマを揺るがした。辺りは朦々たる砂塵に覆われた。深く穿たれたクレーターの中心にいる8号機が霞んで見える。ATフィールドに守られた1号機は、クレーターの中ほどから様子を窺っていた。敵はまだ槍の構えを取っていない。先手必勝、1号機は猛然と剣を振り上げ襲い掛かった。

 ええいっ、と気合もろとも頭部めがけて剣を下ろさせる。だが、8号機の反応も速い。槍の柄を使って刃を防いだ。猛烈な火花が散った。

 

 4号機は第3城壁9番塔に登った。通常のバルカン砲座ではなく、屋上まで上がった。目立たぬように匍匐の姿勢を取っている。屋上は前半分が高さ5mの壁に守られ、下側が銃眼として横に長く開いている。眼下には4機のエヴァンゲリオンが、大量の使徒相手に苦戦する光景がある。サヨコはあせりを覚えながら次の指示を待っていた。

『ライフルを上げるぞ。エレベーターから離れろ』

「了解」

 サヨコが答えて間もなく、傍らの四角いゲートが開いた。だが、そこから出たのは細い銃の先だけであった。

『そこから手を入れてライフルを取れ。目立たぬようにな。敵に気づかれるな』

 4号機は腹ばいのまま腕を伸ばした。ライフルを掴み取り、慎重に引っ張り上げる。横たわりながらの作業は窮屈だったが、敵に発見されないためには止むを得ない。

「指令室、敵に気づいた様子は?」

『何の動きもない。心配するな』

 ライフルには直径80cmの巨大ケーブルが連結されている。銃口近くに備え付けの三脚があり、4号機はまずそれを広げた。屋上は狭く、4号機の膝から下が外に出た。銃眼から、銃口がほんの2mほど突き出た。4号機は腹ばいになり銃杷を握った。狙撃姿勢が完全に整う。サヨコは頭上からバイザーを下げた。直ちに照準装置の画像が視界を覆う。

『ポジトロン生成80%』

『電圧異常なし』

 サヨコは画像右に出た矢印に従い、銃口を振らせた。ある箇所で、画像の上下左右に内向きの矢印が点滅した。目標を捉えたのだ。サヨコは息を呑んだ。密集する使徒群の中に、明らかに他と違う形状をした使徒がいる。あれこそボスに違いない。

「標的視認しました」

『いいぞ。そのまま保持。発射まで後1分』

『ポジトロン生成90%』

『標的に変化なし』

『撃鉄起こせ』

 4号機は根元近くにあるレバーを押し込んだ。これでカートリッジが薬室に装填された。肘をしっかりと床に固定し、骨で支える姿勢を取る。サヨコの指はインダクションレバーに仕込まれたボタンの上にある。目標は置物のように動かない。楽な狙撃だと思った。あんた、運が悪かったわね。

『ポジトロン生成100%』

『ようし、サヨコ。狙撃開始!』

「了解、狙撃します」

 サヨコは4号機を微妙に操った。照準装置では赤と白の三角形が揺れ動く。その二つが標的上で重なった。サヨコの指先が繊細に動いた。

 城塞の高所から青白色の光線が走った。戦場に定規で引いたような直線が現れた。目標の場所で6角形の干渉縞が広がる。ATフィールドの展開。ポジトロンの束は着弾寸前で阻止されたのだ。だが、それは長くもたなかった。ライフルのエネルギーが勝り、ATフィールドを突き破る。標的はたちまち体を縦に裂かれた。直後の数匹がとばっちりを受けた。 

 

「やった!」信時が喜びを滲ませて叫んだ。

「この距離だ。陽電子砲までいかずとも、ライフルで十分さ」アイネムの口調には、全て計算通りという冷徹さがあった。「問題はこれでやつらがどう動くかだ。変化があるのか、ないのか」

 ちょうどその時、水際にいた第7群の最後の一頭が、血を吐いて息絶えたところだった。4機のエヴァと人類は、苦戦しながらもどうにか使徒の攻勢を凌ぎきったのだ。戦場に不気味な静寂が訪れた。

 第8群は動かなかった。どこか戸惑うような様子がある。それは後方に控える使徒全てに言えることだった。

 信時がひっそりと言った。「動かない。何をしている?」

 指令室の全スタッフが声を潜めてスクリーンに見入る。サヨコもまた息を詰めて使徒の群れを見つめた。栗林までが地下の激闘から目を離し、地上の映像を見た。誰もが一縷の希望を抱いた。司令官の死により、使徒の進撃はやむのか?

 使徒群のあちこちでボウという鳴き声がたつ。それは次第に大きくなる。使徒たちは明らかに動揺を表した。それぞれが無秩序な動きを見せる。耳をつんざく不快な咆哮が荒野に満ちる。そして使徒全軍は津波のように動いた。全3万数百の使徒が歩む音は、雷鳴を思わせるものであった。

「‥‥来る」誰かが恐怖も露わに呟いた。

「なんと‥‥」信時は二の句が継げなかった。残る全ての使徒が、ジオフロントに向けて行軍を始めたのである。

 アイネムは敵意に満ちた目でスクリーンを睨んでいた。「ぬかった。反対だったのだ。奴は使徒の群れを抑え込んでいた。暴走を抑止していたのだ。それが奴が死んだことによって、箍が外れてしまった。だから見ろ。あの勝手気ままな行動を」

 使徒群は先ほどまでの統制を無くし、それぞれが思い思いに前進していた。あるものは速く、あるものはゆっくりと。味方の背に乗り上げるものも少なくない。指令室に喧騒が戻った。防戦を指示する声が各所で響く。

「奴等の本能はリリスと接触することにあるのだ。最早野獣の群れに等しい」

 信時は震える声でアイネムに訊いた。「どうする?このままでは終わるぞ」

「905を発動する!」

 アイネムは決然として言い放った。栗林は愕然として振り返り、自ら6号機への回線を繋ぐアイネムを見た。

「ユカ、フォン・アイネムだ。君にコード905を命ずる。直ちに持ち場を離れ、エヴァ発着場に戻れ」

 ユカは返事を返さなかった。モニターに映るユカの顔には、はっきりと衝撃を受けた表情が現れていた。

 ユリコが切羽詰った声で言った。『待って下さい!ユカはまだ13なんです!』

「決定だ!」アイネムは有無を言わさぬ声音で返した。「さあ、ユカ、急げ。栄光は君と共にある」

『はい』

 ユカの口調には落ち着きがあった。何もかも悟り切ったような物腰である。6号機はグレネードランチャーを床に置き、ジオフロントへ戻るべく城壁の出口へ向かった。

 栗林は唇を噛み、無念さを滲ませて地下の監視に戻った。言うべき言葉もない。もうあれしか手段がないことは明白だった。その命令を下したのが自分でなかったことに、わずかな救いを感じた。

『さよならユカ』と、ユリコは一言だけ言った。ユカは答えない。その他のパイロットたちは何も言わなかった。ユカとの別れを惜しむ間はなかった。暴走する使徒群が接近している。ユリコは己を鼓舞するように皆に言った。『さあ、また仕事だよ!ATフィールド展開!』

 

 ターミナルドグマでは2機のエヴァンゲリオンによる死闘が続いている。

 戦況は、明らかに8号機が押していた。得物の長さで優位に立ったのだ。1号機はすでに数え切れないほどの刺突を受けながら、どうにかかわし切っていた。

 ハルカは鋭い目で8号機を注視した。敵はじわじわと足を動かし、間合いを計っている。槍の穂先が小刻みに動く。見覚えのある動作だった。そう、それはチヒロが普段やっている動きそのままだったのである。

 1号機は剣を正眼に構え、ゆっくりと左に移動した。8号機もそれに合わせて向きを変える。ハルカの思惑はともかく槍の穂先を逃れ、懐に入り込むことにあった。そのために敵の仕掛けを待つ。後の先を取ろうというのだ。

 両雄の睨みあいは続く。薄暗いターミナルドグマは二体の巨人が歩む音だけが響く、異様な静けさの中にあった。

 栗林らには、一つとしてハルカを助ける手段はなかった。せめてハルカの集中を切らさぬよう、息を潜めて見守るのみである。

 と、8号機は一気に間合いを詰め、1号機の喉元めがけて槍を突き出した。1号機は同時に動いた。剣の峰で槍をはじき上げ、前進しようとする。だが、8号機の引きも速く、逆に剣を上から押さえようとする。不利と見たハルカは1号機を下がらせ、間合いを戻した。8号機はその動きに乗じ、攻勢に出た。みぞおちに向かって槍を突き出す。1号機は体を捻ってかわした。体勢の崩れた1号機へ槍の猛攻が続く。顔面を襲う穂先をすんでのところで剣で払った。大量の火花が散り、ドグマをほのかに照らす。多数の塩柱の影が揺れる。8号機は意表を突いて足元を狙った。1号機はやむなく足を引く。8号機の追撃は止まず、下半身に続けざまに刺突が襲い、土煙が舞う。8号機の攻撃は突きだけではなかった。突くと見せ横に薙ぎ、足を引っ掛けようとする。危うくバランスを崩し、転倒しかけた1号機の胸に槍が襲い掛かった。1号機は体をのけぞらせ、かろうじて空を切らせた。そしてそのまま3度とんぼを切り、大きく距離を取る。立ち上がった1号機が見たのは、むき出しの口を大きく開けて、吼えながら駆け寄って来る8号機だ。満足な構えを取る暇も与えず槍を突いてくる。1号機は左手を柄から離し、槍を払った。そのまま距離を詰め、剣を振り上げる。8号機は槍を引き付け、剣を防ぎ、逆に槍尻を1号機の胴にめり込ませた。ハルカは腹部に猛烈なフィードバックを感じた。一瞬動きの止まった1号機の脳天目がけて、槍が叩きつけるように振り下ろされる。1号機は横っ飛びに動き、ぎりぎりで殴打を避けた。

 体勢不十分と見た8号機は、2歩退いて間合いを取った。槍を頭上で回転させ、右半身から左半身へと構えを変えた。変則の姿勢だ。ハルカもまた正眼に構えるのを止め、姿勢を低くして剣先を返し、柄を8号機に向けた。居合いの構えである。

 両雄はそのまま反時計回りに動き出した。共に相手の隙を窺い、戦機の到来を待つ。指令室のスタッフは固唾を呑んでスクリーンを見つめる。

 8号機が出た。渾身の鋭い一撃が1号機の胸に迫る。1号機の剣が飛燕のように奔った。鮮烈な火花と共に槍が跳ね上げられ、1号機が突進する。槍を引き、防御しようとする8号機。だが、槍は戻らなかった。1号機は左手で槍を掴み、剣も合わせて穂先を押さえ込みにかかった。ある程度下がったところで左足を乗せ、踏みつけた。先端が地面にめり込む。さらに1号機は目覚しい動きを見せた。左足に全体重をかけ、右足をも槍に乗せた。ハルカはそこから跳び、唐竹割りに8号機の脳天を叩くつもりでいた。が、1号機の体躯はがくんと落ちる。槍が重さに耐え切れず、中程で折れてしまったのだ。着地した1号機は落ち方が悪く、たたらを踏む。

 その隙に8号機は背中の剣を抜き、1号機に襲い掛かった。1号機は片膝をついた。頭上から襲来する刃をかろうじて剣で防ぐ。火花が1号機の頭部に降りかかった。もう片方の手を剣に添え、力まかせに立ち上がった。

 1号機の右足が素早く動き、8号機の左踵にかかった。どうと倒れこむ8号機。上を取った1号機はそのまま押さえ込みにかかる。しかし、8号機は慮外の動きを見せた。ウェポンラックを開き、ナイフを取り出したのだ。そして1号機の右腕に突き込む。

 ハルカは右腕に強烈な痛みを感じ、悲鳴を上げた。1号機の二の腕にナイフが深々と突き刺さり、鮮血が溢れている。危険を感じたハルカは、1号機に8号機を突き離させ、立ち上がらせた。右腕がひりひりと痛む。8号機もすっくと立った。左手にナイフ、右手に剣を握り締めている。

 何よこんな痛み。どうってことないわ。ハルカは剣先をまっすぐ相手に向けながら、傷に意識を集中した。自己修復が始まり、血が止まった。兎に角これで五分と五分。ようやく対等に渡り合える。

 8号機もまた何かを考える風がある。攻勢を控えているのはなぜか。その理由はすぐに分かった。8号機の真後ろにヘブンズドア、リリスの根城に通じる扉があるのだ。8号機は二刀を構えながら後ずさる。最も大きな危機が近づいている。

『止めろ!8号機を向こうにやるな!』

 久しぶりに栗林の声が聞こえた。ハルカは1号機を走らせる。8号機も同時に走り、目覚ましい動きを見せた。ドアの手前で空中高く跳びあがるや、凄まじい後ろ回し蹴りを放ったのだ。ヘブンズドアは脆くも崩れた。重々しい轟音がドグマを満たす。そこへ1号機が剣を振り下ろした。8号機は長剣で防ぐ。同時に右手が走った。ナイフが1号機の腹を襲う。1号機は咄嗟に左膝を上げた。膝を覆う防具が大破した。ハルカは後退させざるを得なかった。

 その間に8号機は悠々とドアの向こうに入り込んだ。かくして第132使徒は、第17使徒に続く史上2番目の使徒として、リリスとの対面を果たしたのである。

 

 地下で人類の命運を賭けた死闘が繰り広げられている頃、地上では東部戦線が崩壊の危機に直面していた。

 サヨコの4号機を加えた4機では、ひたすら前進して来る使徒の津波を押さえ込むのは不可能だった。使徒群は最初よりも大きく広がり、全域でATフィールドを中和するのは到底無理な話だった。

 水際に達した使徒は前進を躊躇った。統制が外れた結果、生存本能が優先したのだろう。だが、怒涛のように後方から押し寄せる使徒の大群が後退を阻み、結局は堀の中に転落してしまう。堀は入水した使徒によって、あれよと言う間に水嵩を増し、遂に端から水が溢れた。淡水に溺れ、もがき苦しむ使徒が水柱を立て、どこの水面も大きく波が立っていた。

「7番塔前ATフィールド中和。範囲350m」

「ミサイル、7番から11番用意よし」

「発射!」

「シオリ!そこはもういい!12番へ移動!」

『10番前、弾幕が薄い!何してるの!?』

「間もなく9番塔前の堀が満杯になります」

『弾が足りない!早く上げて!』

『こっちに早く来てくれ!使徒が上がってくる!』

「今4号機が向かう!」

 キムが苛立ちを見せて叫んだ。「6号機はどうした?まだなのか!?」

 

 6号機は中央のエレベーターを通り、発着場に戻っていた。そこは喧騒を極める地上と違い、静かだった。時折大型爆弾が炸裂した音が響くだけである。ユカはあせるでも嘆くでもなく、落ち着いてその時を待っていた。

 不思議なくらい透明な心境でいられることに、ユカはかすかな驚きを感じていた。かつて死期が近いことを悟った時は、どんな風になるのだろうと想像を巡らせたこともあった。キョウコやチヒロのようになりたくないと思っていた。それがこうして現実となり、未練や恐怖とは無縁な今の自分を誇らしく思った。

 右手を動かして小物入れを開いた。中からつまみ出したのは1枚のホログラフ。最愛のパートナーの顔を写し取ったものだ。それを見て、半年前の女になった夜のことを思い出した。

 

 技術部もまた悪戦苦闘のさ中にあった。ベヒシュタインを始めとするスタッフ全員が、大汗を掻きながら動き回っている。

「ゲートはまだ閉められんのか?」

「技術者が行方不明なんです!」

「何とかしろ!工学部出身だろ!」

 技術部のトップであるベヒシュタインは、急遽決まった作戦の準備で大わらわだった。「何やってるんだ。F型装備はどうした!?」

「今、運搬にかかってるんですが、8号機のせいでルートが塞がれてしまって」

「地図を見せろ!」

 ベヒシュタインは部下から地図を引ったくり、机に広げた。目を血走らせてそれに見入る。赤いバツ印があちこちに書かれ、通行不能を示している。

 部下がそれを指しながら説明した。「こことここは火災が収まってません。それからここは天井が落ちてて車両が通れません」

「どかすのにどれぐらいかかる?」

「60分はいるかと」

「話にならん!終わるころには全滅してるぞ!」

「いいアイデアがあるわ!」ブーランジェが突然割って入った。「0号機がいるじゃない!ここから0号機を入れてドグマに進入させるの。0号機の大きさなら通過できる。後はこのルートを通って、発着場に持って来させれば!」

「おお、マリー、すばらしい!」

 ベヒシュタインは喜び勇んで電話機を取り、チルドレン専用シェルターを呼び出した。

「ああ、溝口君、ベヒシュタインだ。今すぐリカを0号機のプラットホームへ寄越してくれ。説明している暇はない。5分以内だ。‥‥馬鹿、戦闘じゃないよ!」

 アイネムがキムを呼んだ。「キム君、バルカンの予備はあったな?」

「はい‥閣下」

「今のうちに中央ゲートを囲むように陣地を構築しろ。バルカンは移動可能な状態にしてな。当初は東側から押し寄せて来よう」

 信時が慌てて口を挟んだ。「城壁を放棄するのか?」

「残念だが、現状では止むを得ん。突破は時間の問題だ。後はエヴァを1箇所に集めて防戦するよりない」

「中央ゲートだけを固める訳だな」

「そうだ。よい城はどこかに隙がある。そこに敵兵力を誘導するのだ。この場合は中央ゲートがそれにあたる。サイロを初めとする地上施設は地下に埋伏させろ。内陣全体を戦場にする」

 

 8号機は1号機を無視してリリスに駆け寄るようなまねはしなかった。正々堂々と二刀を携えて待ち構えている。ハルカの心中に不敵な対抗心が生まれた。いいわ、付き合ってあげる。1号機もまたウェポンラックを開き、プログナイフを持った。

 ハルカは生まれて初めて、全ての元凶たるリリスを目の当たりにした。ずっと奥に、LCLの池から突き出た十字架に架かる、その姿が見える。無論細かく観察する余裕はないので、見たのはほんの一瞬だったが、忘れがたい印象を持った。

 隅々まで純白の体色は美しいとさえ言えた。頭部は出ている部分もへこんでいる部分もなく、つるりとした表面の、卵に近い形をしている。細身の腕や肩の辺りは女性らしさを感じさせるが、異様なのは胸から下であった。数十個もの乳房でびっしりと覆われているのである。それらのどれもがはち切れんばかりの張りを持ち、今にも乳を滴らしそうな風情である。そして歩むことを拒否したかのように、両足を失くしている。両雄の生死を賭けた激突を直接に観戦するのは、このリリスだけであった。

 1号機は右手に長剣を、左手にナイフを持ち、横走りにリリスに近寄った。長剣は真っ直ぐ8号機に向けている。8号機も追随して動いたが、1号機の足が速く、リリス側に回り込む格好になった。

 ハルカはリリスを背にして戦いたかった。言うまでもなく、8号機がリリスに接触しようと動くのを阻むためである。この局面ではハルカの思惑が通った。後は8号機を斃すだけだ。

 8号機は左足を前にして、長剣を頭上に振りかざし、ナイフを前に突き出した。攻撃的な構えだ。一方1号機は長剣とナイフを交差させ、前に突き出す。鉄壁の防御姿勢である。ナイフは小振りとは言え、刃渡りは3.5mにも及び、十分小刀の役目を果たしている。

 ハルカもチヒロも二刀での戦いの経験はある。戦績は五分と五分。また共に相手の手の内を熟知しているとあって、勝敗の帰趨は誰にも予想がつかなかった。

 両雄は慎重に間合いを計り、相手の出方を待った。8号機のナイフが小刻みに揺れた。打ち込む機を窺っている。対する1号機は磐石の姿勢のまま動かなかった。8号機を操る使徒は、この構えをどのように崩すかの思案を巡らせているはずだ。

 8号機が土を蹴った。一気に間隔を詰め、長剣を振り下ろす。1号機の長剣とぶつかり、火花が散る。その間隙を突いて、ナイフの先端が1号機の喉元めがけて突き出された。1号機のナイフが跳ね上がり、峰でそれを阻止した。4本の剣が空中で交差した。そのまま互いに圧力を掛ける。8号機の右足が飛鳥のごとく動いた。1号機の胴に脛が強かに食い込む。が、8号機もまた同じ痛みを受けていた。1号機も同時に回し蹴りを返していたのだ。両機は一旦互いに距離を取り、体勢を立て直した。この攻防は別れとなった。

 8号機は前と同じ、長剣を頭上にした構えを取った。対して1号機は長剣を逆の左脇に置き、ナイフを前に出した。逆袈裟切りに胴を取ろうとする構えだ。8号機が長剣を揺らしながら叫んだ。洞内に甲高い叫び声が延々と反響する。1号機のハルカは、何の動揺もなく8号機を見つめている。そして今度は1号機が先を取った。ナイフ同士が激突する。同時に長剣が相手の左胴を狙って伸びていく。8号機は大きく後退してそれを避けた。胸のすぐ前を切っ先が通り過ぎた。この瞬間、1号機の頭部はがら空きとなる。8号機は踏み込み鋭く、ナイフを払いのけつつ、長剣を振り下ろした。1号機は体を半身に取り、切っ先を避け、相手の左小手を狙った。8号機は応手素早く、ナイフを立ててそれを防ぎ、残る長剣で1号機の喉へ突きを繰り出す。体をずらし対処する1号機。喉は守ったが、左ウェポンラックが突きぬかれ、大破してしまった。8号機の攻勢は続く。左右の刀が同時に急所を狙ってくる。1号機は防戦に回り、襲い来る刃を両手の剣で打ち払う。

 戦いは膠着状態が続いた。一瞬、両者の間合いが開いた。この機に両者とも構えを作り直した。

 8号機は両刀を静かに下ろした。大胆不敵な音無しの構えだ。ハルカは深呼吸をして、大小共に頭上へ差し上げさせた。両機揃って打って来いの体勢を取ったのである。

 

 その頃、城壁での戦いは幕を下ろしつつあった。

 東部の堀は使徒の死骸が充満し、溢れ出た水が外側20m近くまでを濡らしていた。無数の黒々とした背中が水面に浮かんで見える。その背の上を続々と使徒が進んでくる。

 アイネムは遂に断を下した。「東部城壁のエヴァおよび守備兵は、全員撤退せよ。ポジトロン機関砲群は銃眼を閉鎖、使徒を中に入れるな」

 ユリコは悔しげに唇を噛み、僚機に指示を発した。「みんな、聞こえた?撤退よ。内陣まで移動する。決着はそこで着けてやるの!」

 残る3機のパイロットたちは一斉に返事をし、撤収にかかった。内部の道を通り、中央ゲート前の拠点まで後退するのだ。ユリコはここまで追い詰められたことに暗澹たる気分になっていた。永遠に破られるはずのなかった城壁が、遂に陥とされる日が来たのだ。

 城壁内部に展開した機関砲は直ちに後退を始めた。その下では壁に取り付いた使徒が数匹、粘り気を帯びた足を壁に押し付け、ひたひたと昇って来ていた。

「急げ、急げ。せめて使徒の侵攻を遅らせろ」

 指揮官の叱咤の声にあせりながら、砲手たちは砲を後退させる。とうとうある銃眼に一頭の使徒が頭を突っ込んだ。恐怖の絶叫を上げる兵士たち。使徒はかっと口を開き、舌から不快な臭いの溶解液を迸らせる。砲と砲手が同時に溶かされ、辺りに黄色い有毒ガスが充満する。その使徒の頭に重く分厚い扉が喰い込み、めりめりとと音を立てた。ATフィールドは弱く、油圧と扉の重さを跳ね返すには至らなかった。使徒は大きく悲鳴を上げ、舌をめちゃくちゃに振り回した後絶命した。銃眼は大きく口を開けた頭部が挟まり、半開きのままになった。

「全城壁で槍ぶすまを出せ。少しでも時間を稼ぐのだ。城壁通路には遅乾性のベークライトを注入。やつらの足を止めろ」

 城塞は一斉に様相を変化させ始めた。壁の上部から無数の銀色に輝くパイルが突き出ていく。さらに全ての通路のやや上では、5m間隔に置かれた蓋が一斉に開き、中から粘り気のある茶色い液体を垂らし始めた。ベークライトだ。

 東部城壁では、いち早く槍による水平の壁が出来上がった。一本の太さは80cm、長さは実に40mもある。それが2mの間隔で伸びているものだから、使徒は体を隙間に入れられず、やむなく棒を逆さまに伝って先端まで行こうとする。だが、足の吸盤はパイルが滑らかに磨かれているせいか、自重を支えるに至らず、次々と真っ逆さまに落下していった。

 それを見た信時は嬉しそうに言った。「おお、見ろ。案外効果があるのではないか?」

 アイネムはせせら笑うだけだった。「いや、奴らも学習するだろうよ。次は溶解液で根元を溶かしにかかるのではないかな?」

 彼の予想は当たった。数分後に辿り着いた使徒は、舌を伸ばして槍の根元に押し付けた。黄色い煙が立ち昇る。槍が折れて下に落ちるのは時間の問題と思われた。

 

 1号機が仕掛けた。飛ぶように間合いを詰め、8号機のがら空きになった脳天へ長剣を振り下ろす。8号機は俊敏な足捌きで体を開き、二刀を同時に振り上げた。長剣による胴への突き。1号機のナイフが下り、寸前でそれを叩く。さらに1号機は踏み出した足を軸に回転した。長剣が大きく弧を描き、8号機の後頭部に迫る。8号機は咄嗟に体を捻った。右ウェポンラックが長剣を受け止め、盛大な火花を散らし、金属的な音を立てる。長剣はラックの中ほどまで喰い込んだ。爆発と共に猛烈な炎が上がった。中の短銃が破壊されたのだ。1号機は剣を引こうとするが、がっちり食い入ってしまい、抜き取れない。その隙を8号機に突かれた。胴を両断しようと長剣を振るう。1号機は咄嗟に8号機のわき腹を蹴った。反動で剣が抜け、後ずさる1号機の腹すれすれを切っ先が通り過ぎた。

 不利と見たハルカは、1号機をさらに後退させた。8号機は幸い追撃をしない。一旦ナイフを左のラックに戻し、燃え上がる右ラックを左手で外しにかかった。長剣は抜かりなく正眼に構えている。この間にハルカは意を決した。通常の立会いでは勝負が長引く。ここは今まで誰にも見せたことのない技をもって打開するしかない。

 8号機は外したウェポンラックを遠くへ投げ捨てた。そして1号機が取った構えを見た8号機に、戸惑いに似た仕種が現れた。

 1号機は驚くべきことに、長剣を前に伸ばし、ナイフを頭上に差し上げたのである。それは二刀流の剣理に逆らう構えであった。

 8号機は慎重に構えを作った。ナイフを横一文字に置き、剣を右脇に引いた。突きを重視する姿勢だ。

 ハルカが取った意外の体勢に、決闘は膠着状態に陥った。8号機は相手の出方が見えず、簡単に出ることができない。ゆっくりとオーソドックスな剣を頭上に、ナイフを前にする姿勢に戻す。そして一歩大きく踏み込み、裂帛の気合を放った。

 木霊の続く中、1号機は微動だにしなかった。ひたすらに機の至るのを待つ。そよとも空気の動かぬこの空間に、エヴァンゲリオンの息だけが生命のきざしである。木の葉が一枚舞い落ちても暴発してしまいそうな、極度の緊張がこの場を支配する。8号機の眼が鈍く光った。大空洞にみるみる殺気が漲っていく。そして、時は満ちた。

 踏み込み鋭く、8号機は剣とナイフを1号機目がけて奔らせた。刹那、1号機の左腕が目にも止まらぬ速さで動いた。8号機の驚愕。ナイフが1号機の手を離れ、自分の眉間に向かって飛んでくる。突き刺さる寸前、8号機はかろうじて首をずらし、切っ先を避けた。そこに生じる一瞬の隙。

「お小手っ!!!」

 ハルカの気合と共に1号機の長剣が躍る。がきっ、という異様な音が大空洞に響いた。8号機の長剣が地に落ちる。その柄には右手首が握ったままの形で付いている。そして8号機の右腕からは夥しい血潮が噴き出している。

 勝機来たる。1号機の長剣は休まず動いた。返す刀が大きく旋回する。次の瞬間、ナイフを持った左手首が宙に舞った。

 8号機の絶叫が響き渡る。その苦悶に満ちた悲鳴は、ハルカの胸にこたえ、悲しみで顔を曇らせる。

 

 モニターで固唾を飲みながら一部始終を見ていた栗林らは、喜びを爆発させた。

「勝った!!」

「よおおおっし!」

「やったハルカ!」

 栗林は荒く息をするハルカに向かって静かに言った。「さあ、ハルカ。とどめを刺せ。油断するな」

『はい』と、ハルカは小さく答えただけだった。

 

 両手を失った8号機は、おびえた様を見せながらじりじりと後退していく。1号機は、返り血の赤を散らした白い機体を前進させる。

『どうした?敵は丸腰だ。早く殺してしまえ!』

 栗林の催促を無視して、ハルカは攻撃を手控え、間合いを保ったままにする。

『ハルカ、気持ちは分かるが、奴は使徒なんだ』

「黙ってて!」

 ハルカは叫び返し、1号機を走らせた。1号機は剣を放り投げ、大きく空中に跳び上がった。頭上から襲い掛かる1号機に対し、8号機は満足な防御ができない。装甲を失った顎に1号機の膝が、角度鋭く打ち込まれた。

 強烈な打撃を受けた8号機は、のけぞって大の字に地に横たわった。着地した1号機は休まず攻めを継続する。片膝を付き、動きの鈍い8号機の上体を起こし、右腕を首に絡めた。その手を左の二の腕に掛け、左手は相手後頭部をしっかりと保持する。柔術で言う裸締めの完成だ。エヴァの首は柔らかい外装で包まれているだけなので、力を加えれば容易に頚動脈を絞めることができる。

 8号機は手首のない腕をぶつけることしかできなかった。それも長く続かず、両腕は力を失い、だらりと垂れ下がる。口から大量の泡を噴き出している。ハルカは頃合を見て8号機を放した。尻餅を搗いた姿勢で頭を下げて動かない。1号機はウェポンラックを開き、細長いピンをつまみ出した。

『そうか、チヒロを救うつもりなんだな』

 栗林の声に返事もしないで、作業に入った。エントリーユニットの片隅にある小さな穴に、ピンを挿入して90度捻る。途端にカバーが二つに割れ、左右に吹っ飛んだ。そしてエントリープラグが半分だけ突き出た。ねばねばしたものが全放出を阻んでいるのだ。それはいまだに鈍く光を放っている。

『気をつけろ!接触すると侵入されるぞ!』

 ハルカは8号機を静かに横たえさせ、指令室に尋ねた。「今のでシンクロはカットされたのよね?」

『ああ、そういう設計になっている』

 1号機は投げ捨てた剣を拾いに行き、戻ると逆手に握って振り上げた。ばきっと音を立て、8号機の胸に長剣が突き刺さる。それはコアを貫き、地面に達した。大量の放電が、周囲を真昼のように明るくする。激しく痙攣を始めるエヴァ8号機。1号機はその断末魔を静かに見守っている。第132使徒、そして数々の戦功をうち立てたエヴァ8号機の最期である。全ての動きが止み、空洞に静寂が戻った時、1号機は剣を抜いて再び機体を起こした。エントリープラグを覆っていたものは光を失い、黒い炭のようになっている。軽く指先で触れると、塵となって地に零れ落ちた。 

 剣を鞘に戻した1号機は、慎重にエントリープラグを引き抜き、地面に置いた。そのままひざまずき、プラグを観察する。

「チヒロ、どう?生きてるの?」

 ハルカはそう呼びかけずにはいられなかった。外部スピーカーをONにしたので、生きていれば声が届くはずだ。

 そのままじっとプラグの様子を窺う。「チヒロ、聞こえる?私よ。返事をして」まるでその声に応えるように、プラグに変化が現れた。LCLの放出が始まったのだ。

 ハルカの声が弾んだ。「ああ、嬉しい!生きてる!」

『ハルカ、警戒しろ!』俄かにベヒシュタインが声をかけてきた。『そこにいるのが元のチヒロとは限らん。使徒かも知れんのだ。勝手な行動をさせるな』

「まさか……」ハルカは生唾を呑んだ。すっかり使徒になり切るということがあり得るのか?そんな残酷なことにならないで、と強く祈った。LCLの放出が収まり、プラグは静かな状態に戻った。ハルカを初め、栗林やベヒシュタインらが息を詰めてプラグを見守る。

 出入り口のドアが音もなく開いた。そして奥から青いプラグスーツを着たチヒロが、ゆっくりと姿を現した。

『掴め、ハルカ!まず捕捉しろ』

 ハルカは弾かれたように1号機を操り、右手にチヒロを握らせた。動きの鈍いチヒロはされるがままだ。1号機の拳の中にチヒロの胸から上が出ている。潰さないように握力を微妙に調節した。その手を上げて、1号機の顔の前まで持っていった。チヒロは訳が分からないという風情で、きょろきょろと周りを見回している。

「さあ、分析早く!」

『待ってくれ。こっちも大変でな。今用意している』

 ハルカは間近にチヒロを観察した。情けない顔で、こちらを向いて何かを言っている。それは手術を受ける前の、弱々しい彼女という印象を与えた。ハルカは声が聞きたくなり、集音マイクのスイッチを入れた。

『ハルカ、いやよ。殺さないで』

 語尾が震えている。哀れ目尻から大粒の涙が零れ出した。

『助けて、ハルカ。死ぬのはいや。いやなのよう』

 チヒロ、あなた、怖いのね。憐憫の情で胸が一杯になる。今握っているのは、どこにでもいる女の子としか思えなかった。

「指令室。分析は!?青、赤、どっち!?」

『もう少しだ。あと少し』

『ねえ、ハルカ。友達でしょ?助けて。お願い』

 拝むように両手を合わすチヒロを見たハルカは、我慢できずに右手を下ろさせ、彼女を地面に立たせた。チヒロはエヴァを見上げて嬉しそうに笑い、涙を手の甲で拭いた。

「チヒロ、もう大丈夫。怖くないから」と、ハルカは優しく語り掛ける。

『待て!まだ警戒を解くな!』

 チヒロの目が妖しく光った。微笑みは邪悪なにやりとしたものに変わった。まったく別個の人格が、取って代わったかのようだった。

 そしてエヴァにくるりと背を向け走り出した。その方向にはリリスがいる。

「待って、チヒロ。どこ行くの!」

 シンが絶叫した。『分析結果、パターン青!使徒です!』

 栗林が怒号を上げた。『殺せ!使徒だぞ!殺せ!!』

 ハルカは数瞬動きが取れなかった。あまりの事態に呆然としてしまったのだ。

『何をしている。動かんかあっ!!』

 チヒロは後ろも見ず、ひたすら走る。リリスの元まではあと80mほどしかない。LCLの池ももうすぐだ。

 ようやく1号機が動いた。ウェポンラックから短銃を抜き出し、両手で構えた。極太のレーザー光線が放たれた。

「チヒロ、止まって。止まりなさい!」

 チヒロの疾走は止まらない。視界を赤い光が包む。レーザーの照射だ。それでもチヒロは走り続ける。その顔は、いかにも幸福そうな笑みさえ浮かべていた。

「いやよ、チヒロ!撃たせないで!」

『撃て!ハルカ、早く撃てえっ!』

「ああ、駄目!行かないで!」

 遂にチヒロはLCLの池に達した。リリスの醜くも巨大な体躯は、もうすぐそこにある。チヒロは嬉々として、そこに頭から飛び込んだ。

「いやああああああああっ!!」

 1号機の指は引き金を引いた。空洞に銃声が木霊する。LCLが派手に舞い上がった。水面は水しぶきが長く続く。ハルカは肉眼で、指令室の面々はスクリーンで、その様子を食い入るように見つめた。

 水面に落ち着きが戻り、円形の波が立つだけになった。そこの色は前よりも赤みが増していた。そして青いものが浮かび上がった。プラグスーツの色だ。だがそれは腰から上がなかった。他にもいくつかの肉塊が浮いているが、どの部分かは一目では分からなかった。

 ハルカは絶句したまま何も言えなかった。使徒殲滅と言うシンの声も耳に入らなかった。しばらくは何も考えることができなかった。

『ハルカ』

 私はチヒロを殺した?いいえ、あれは使徒。チヒロはもういなかった。

『ハルカ』

 ああ、大好きなチヒロ。助けられなかった。

『ハルカ!』

 呼びかける栗林の声にやっと気づき、「はい」と慌てて返事をした。

『ご苦労だった。謹んで哀悼の意を捧げる。しかし、まだ戦いは終わっていないんだ。地上に戻って戦線に加わってくれ』

「了解しました」

 チルドレンとしての自覚が戻ってきた。そう、使徒がいる限り自分は戦わなければならない。戦士として。

 1号機は立った。ハルカはこの世に破壊をもたらす邪神・リリスにちらりと目をやり、プログナイフを拾うために1号機を歩ませた。

『ハルカ、さぞ辛いだろう。慰めの言葉もない。だがもう一頑張り、後輩たちの』

 突然、そこで通信が途切れた。

 

「おかしい。どうした?通信できないぞ?」

 栗林が技術部に向かって尋ねた。シンは忙しげに、キーボードを叩いた。

「変です。画像データ、音声、全て断絶しています」

「センサーはどうだ?」と言うベヒシュタインにも困惑の色があった。

「だめです!全部の信号が来ていません。音波、電磁波、可視光線、どれもこれも」

 栗林が詰め寄った。「機器の故障なのか」

「いえ、違います。機器はどれも正常に動いています」

「まさか!」ベヒシュタインが愕然としながら言った。「第一次使徒戦役、第17使徒戦でもこれと同じことが‥‥」

 栗林の全身からどっと汗が噴き出た。「結界を張られたというのか?だが使徒は殲滅したぞ」

「いいえ、使徒はいるわ」これまで様子を見ていたブーランジェが、厳かに言った。「超大物がいるじゃない。リリスという疫病神がね」

 

 ハルカは猛烈な耳鳴りに、両耳を塞いで苦悶の声を上げた。頭が割れんばかりに痛む。エヴァを歩かすどころではなく、その場で苦痛に身を捩じらせた。

 それが続いたのは、ほんの数秒だっただろうか。いきなり耳鳴りと頭痛が収まった。ハルカは奇異の念に打たれながら顔を上げた。

 周囲は様相を一変させていた。すぐそこにあったはずのヘブンズドアも、それを取り巻く壁も、天井も、全く見えなかった。代わりに遥か遠くに地平線が見えた。見上げれば無数の星が全天を覆っている。そして不気味にも中天に赤い帯が、巨大な弧を描いている。

 波の音が聞こえ、ハルカは足元を見た。そこは海辺の砂浜だ。1号機の踵を波が洗う。その色が彼女に戦慄を与えた。血のような赤い色をしている。

 ハルカは愕然として沖を見た。1号機は危険を感じ、数歩下がった。ハルカは敵意に満ちた目で、沖に屹立する巨大な十字架の主を睨んだ。リリスが前と変わらぬ姿でそこにいる。彼女が全身から発する燐光が、この場の光源となっていたのだ。

 1号機は警戒のため、背中の剣に手を掛けた。その時、ハルカの頭の中でいきなり声が響いた。

 

 コヨ。

 

 遥か古代より生き永らえた超絶生命体の声。初めて聞く敵対者・使徒の意思。それは威厳を備えた老婆の声色を持っていた。ハルカの中に一瞬怖れが湧き上がる。が、ハルカは勇気をもってそれを押さえつけ、邪神と相対した。人類に仇なす使徒の頭目と対し、守護者としての自覚が、ハルカをある種英雄的な高みに上らせた。何があろうと一矢は報いてみせると思った。1号機は長剣をすらりと抜き放った。

 

「私に呼びかけたのはお前か、リリス」

 

 シカリ。

 

「何の用がある。私と一戦交えたいのか。ならば遠慮はいらない。こちらに上がって来い」

 

 キノツヨイオナゴヂヤ。ワラワヲミテオソレヌカヤ。

 

「恐れると?私は使徒を恐れない。私はお前たちを亡ぼすために生きている」

 

 ホホ、ヨイココロネヂャ。シタガ、シトヲホロボシツクセルト、ホンキデシンジテオルノカエ?

 

「信じるとも。私たちもエヴァンゲリオンも、どれほど死んでも代わりが造られる。勝って勝って、向こう百年までも勝ち続ける」

 

 タイゲンソウゴモホドホドニスルガヨイ。コタビノタタカイヲミヨ。じおふろんとハボロボロニナッタデハナイカ。

 

「黙れ!ヒトの力を甘く見るな。傷んだところはすぐに直す。何よりチルドレンとエヴァがいる。ヒトが敗けるはずがない!」

 

 ホザケ、ホザケ。マアヨイ。ソナタハセイゼイ、カトウナジンルイノタメニアガクガヨイワ。シカシ、アワレナモノヨ。

 

「哀れ?お前なぞに言われたくない。十字架に架けられ、薄暗い洞窟に閉じ込められたお前の方が、よほど哀れだ」

 

 ワラワヲアワレムカ。ホホ。ソナタノヨウナムシケラニナニガワカロウ。

 

「今度は虫けら呼ばわりか。では、その虫けらが一太刀浴びせてみせようか。膾に切り刻まれても、まだその毒舌が回るかな?」

 1号機は剣を垂直に立て、攻勢の構えを取った。

 

 ヤレヤレ、ウルサイコバエヂャ。ソナタナド、ワラワノカゲヲフムコトスラデキヌ。ソレニシテモ、クチノキキカタニキヲツケルガヨイゾ。ワラワハソナタラノハハナルガユエ。

 

 ハルカの腹の底から笑いがこみ上げて来た。「ははは。今、母と言ったのか?はは。益体もない!お前が母であるわけがない!」

 

 イナコトヲイウ。デハ、ソナタノモトハナンヂャ。

 

「知らぬ!そんなことなどどうでもいい。私はお前の胎の中にいたことはない。乳を飲んだこともない。私たちに父母はなし。それで十分!」

 

 ホウ。ナラバキク。ネナシグサノソナタラハ、イッタイナニモノデアルノカ?

 

 ハルカは答えに窮した。チルドレンとは何か?これまで深く考えたことは一度もなかった。口ごもるハルカに対し、リリスの声音に嘲りの色が混じった。

 

 ドウシタ?ヒトニアラズ、シトニアラズ。センゾヲモタズ、コヲウムデモナイ。オモエバキミョウナイキモノヂャワ。

 

 ハルカは必死に答えを探す。ここで言い負けをすることは、人類のために決して許されないと思っていた。考えに沈んで数刻、ふいに頭の中にこれはという言葉が浮かんだ。

「私たちがどこから来たかなど些細なこと。私たちは『守る者』としてこの世に生まれた。私たちこそ母なのだ。生きとし生ける者全ての母!」

 ハルカははっきりと見た。リリスは一瞬の沈黙の後、肩を小刻みに揺らし始めたのだ。そして低く忍び笑いを洩らした。それは次第に大きくなり、やがて哄笑となって弾けた。大笑いが頭の中に響き、ハルカはうるさくて我慢ができなくなった。

 

「何が可笑しい!」

 

 アハハ、アハハハハ。フゥ、ヒサシブリニワロウタワ。オロカサノキワミトイエヨウ。

 

「愚弄する気か」ハルカは怒りに震える。1号機は剣を振り上げ一歩踏み出して、今にも跳びかかろうとする様を見せた。

 

 マアヨイ。ワケヲイウノハヤメテオク。ソレヨリ、モットナカヨクシヨウデハナイカ。コノスガタハキニイラヌヨウヂャナ。コレナラバドウヂャ。

 

 リリスは驚くべき動きを現した。全ての乳房が収縮を始め、同時に下から二本の足が伸びていく。腹部の乳房が消え、胸に二つの小さめなふくらみを残すだけとなった。細めの足が海中に届き、脛から上だけが見える。

 頭部もまた変容した。髪の毛が伸び、凹凸が生まれ、目と口が出来上がった。両の掌はたやすく釘から離れ、腕が大きく広がった。リリスは47年間に及ぶ桎梏を脱し、海の中に堂々と立った。

 ハルカは驚愕のあまり口も利けず、リリスの変容を見守った。エヴァなら数歩の距離に、生まれたままの姿の大魔女が立っている。ハルカの驚きの種はその変化の仕方だけではなかった。そこにいるのは間違いなく、日頃崇拝して止まないファーストチルドレンなのだ。 

「さあ、ハルカ。もっとこっちへ来て」

 リリスはテレパシーではなく、声に出して言った。自分と同じ声だった。柔らかく微笑み、両手を1号機に伸ばして差し招く。ハルカはその誘惑に魅力を覚える。

 いけない。騙されるな。ハルカに冷静さは残っていた。これはリリスが作り出した幻の世界と読み、頭を振った。

「誰が行くか!リリスめ。私を誑かそうとしても、そうはいかぬ!」

 リリス=レイの顔が悲しげに歪んだ。

「私を嫌わないで、可愛い娘。そうだ、いいものをあなたに上げる」

 巨大なレイは腰を屈めて両手を赤い海に浸した。ハルカはついそれを見てしまう。

「あなたの大事なものを返してあげる。再構成するのよ。67年前にどんなことがあったか、あなたも知っているはず」

 何かを包むようにして海中に潜った両手の辺りが、ぼうっと光った。「そうら、できた」両手が上がってきた。掌から海水が滴り落ちる。大事そうに何かを持っている。それはわずかに動いている。

 エヴァの目の高さまで上がった。ハルカはそれがなんであるかをようやく識別できた。裸の女が背中を向けて座っている。髪の毛は蒼く、短い。1号機は思わず一歩踏み出した。女はその音に反応して、こちらを振り返った。

「チヒロ!」

 それは紛れもなくハルカの親友、チヒロに違いなかった。チヒロは1号機と気づいたか、満面に笑みを浮かべ、大きく両手を振った。ハルカの中で喜びが弾けた。ああ嬉しい、チヒロが生き返った。ハルカは何もかも忘れて1号機を進ませた。片足が浅瀬を踏み、大きく水音が立つ。剣を脇に捨てさせ、チヒロを受け取ろうと両手を前に出させた。

「止まりなさい!!」

 ハルカはその声とともに、いきなり脳の中に打撃を受け、強い目眩がした。きつく目を瞑って頭を抱えた。目眩が納まり、何が起きたかと見回した周囲は、唖然とさせる変化を遂げていた。

 多くの星を散りばめた夜空はなく、荒々しい岩盤が頭上を覆っている。赤い海と打ち寄せる波に代わり、LCLの池が足元の前にひっそりと広がっている。1号機とハルカは、ターミナルドグマの寒々とした空間に帰っていた。ほんの二歩前には、リリスが以前となんら変わらない姿で、十字架上に佇んでいる。そして両者の中間に、綾波レイが厳しい顔でハルカを睨みながら、空中に浮かんでいる。

「ハルカ、騙されてはだめ。危ないところだった」

 1号機は大慌てで後退した。足がもつれ、土の上に尻餅をついてしまう。ハルカはその体勢のまま、茫然自失となりながら、レイとリリスを交互に見た。

 

 チッ、マタコバエガマヨイコンダカ。

 

 リリスのテレパシーはまだ届いてきている。レイはその場で回転し、リリスと対した。

「リリス、まださせない。この子はヒトに返す」

 

 フン。オコトガソウイウノナラシカタガナイワサ。スキニシタラヨカロウ。

 

「さあ、ハルカ。ヒトの下に帰りなさい。ここは危ない。精神汚染が進まぬうちに、早く!」

 ハルカはようやく事態を理解し、あたふたと1号機を立ち上がらせた。後ずさりながらレイに声をかけた。

「ファーストチルドレン、助けてくれたんですね。ありがとうございます」

 レイはちらりと横目で1号機を見た。「いいから。一つだけ約束して。私のことは決して口にしないで。いい?」

「は、はい」

「誓って!」

「誓います」

「分かったら、早く行きなさい」

 

 マチヤレ。

 

 リリスのドスの利いた声が頭の中に響いた。ハルカは思わず動きを止め、リリスを見た。

 

 ソナタノオモイアガリ、イササカハラガタッタワ。キケ、ヒトニアザムカレシムスメヨ。ソナタハコノノチイズレマコトヲシル。

 

 レイはあせりを見せ、リリスを睨んだ。「リリス、何をする気?」

 

 ソノトキガタノシミヂャ。カギノコトバハDeus
 Ex
 Machina。

 

「止めて!」レイが叫ぶ。だが、リリスは意思を曲げなかった。リリスのつるりとした額の中心から一筋の白い光線が走り、1号機の眉間と一直線に繋がった。

 ハルカは自分の顔目がけて、目も眩む白光が束になって襲ってくるのを見た。一瞬、周りが真っ白になった。次の瞬間には何も分からなくなっていた。ハルカは白目を剥き、口から大量の泡を吐いた。意識を失ったパイロットに準じ、1号機は大地に倒れこんだ。

 

「映像回復!」

 シンの声が指令室に響いた。俯いたまま歯を食いしばっていた栗林が、弾かれたように顔を上げた。「どうなった!」

 指令室全員の視線がスクリーンに集まった。リリスは何事もなかったかのように、十字架上に静止している。そして1号機は。シンはカメラを動かし1号機を探した。やがて地面にうつ伏せに横たわった1号機がアップになった。指令室にざわめきが起こる。

 栗林が叫んだ。「1号機がやられた!データは来てないのか!」

 ハルカ担当の若い男性オペレーターが手元のモニターを見た。真っ黒だった画面が、忽然と甦った。

「データ、今来ました!ちょっとお待ちを。‥‥生きてます!パイロットも1号機も異常なし。‥‥しかしパイロットの意識がありません」

「奴の仕業か!くそう、リリスめ、ハルカに何をしやがった!」栗林は憤怒の形相でマイクを掴んだ。通信も可能になっていた。「ハルカ、聞こえるか。ハルカ、起きてくれ。目を開けろ!」

「脳波に異常は?」とベヒシュタインがオペレーターに訊いた。彼は画面を切り替え、心理グラフを表示した。ベヒシュタインは目を剥いた。「いかん。精神汚染だ!救助隊を向かわせろ。一刻も早くハルカを連れて来い!」

 

 ユリコは鋭い目で東側の城壁を睨んだ。城壁の向こうには黒煙が幅広く立ち上り、彼方の火炎地獄の片鱗を表している。ネオ・ネルフは第1城壁および第2城壁の通路に大量の燃料を撒き、火を点けたのだ。

 第1城壁を上りきった使徒は、粘りつくベークライトに足を取られ、侵攻がままならなかった。通路がほぼ満員になったところへ、燃料油が降り注がれた。ナパーム弾が投下され、一帯は火の海になった。統率を失った使徒が個別に発するATフィールドは、弱い上に全方向をまかなうことはできず、火だるまになる使徒が続出した。しかし、数の力が使徒軍を押し上げた。後続の集団が、前進をいやがる使徒に後退を許さなかったのだ。

 槍ぶすまは意外な効果を上げた。次々と根元に取り付いた使徒が、溶解液によって断ち切っていった。櫛の歯が抜けるようにパイルが落下する。それに巻き込まれて転落したり、圧し潰されたりする使徒が続出した。中には尖った先端によって串刺しにされたものもいた。これによっておよそ二百もの使徒が命を落とした。だが、押し寄せる使徒群にしてみれば、ささやかな抵抗でしかなかった。

 こうして第1城壁は幾重にも積み重なった使徒によって突破され、同じ過程が第2城壁でも繰り返された。

 上空から見る城塞は、凄まじい光景を呈していた。城壁の大部分が猛烈な炎に包まれ、分厚い黒煙を上げているが、東側だけは夥しい使徒の塊がへばりついて火勢を弱くしている。焼け死んだり圧死したりした使徒の死骸だ。今、我が物顔に第3城壁へ押し寄せてくる使徒は、それらの死骸を踏み台にしているのである。

『第3城壁ももうもたない。直に姿を見せるぞ』指令室の声にエヴァ4機はバルカン砲を上げ、東城壁に向きを合わせた。

 地上部の中央に、丸いゲートを中心とする円陣が出来上がっていた。陣と言っても、軍用トラックを丸く配置し、三層に積み上げただけの代物で、上二層はエヴァ4機が作業をして作り上げたものだ。その内側に支柱に置かれたバルカン砲が4門据えられている。他にも多数の武器弾薬が積み上げられている。

 あらゆる地上施設は地下に収納された。ミサイルサイロの痕跡すらない。分厚い防護板の下に隠されたのだ。内陣は広々とした円形競技場のような様相を呈している。ほどなく古代ローマ時代と同様、血みどろの虐殺がこの場で催されるだろう。

「みんな、これ終わったら何する?」ユリコが気楽な調子で語りかけた。他の三人が口々に答えた。

『お腹すいたからご飯食べる』『私も』『以下同文』

「その後は?」

『お昼寝』『私はテレビ見る』『ユウ君に可愛がってもらお』

 ルミがパートナーの名を出したので、ユリコは苦笑した。「ちょっと、ヒトが聞いてるのよ」

 呑気な会話の陰で、誰もがユカのことを考えていたが、口に出さなかった。それを言ってしまうと、勇気が挫けてしまいそうな気がしていた。

『使徒が壁を越えるぞ!』古賀の声によって、四人は一気に戦士に戻った。

「さあ、もう一踏ん張りするよ!」

 一匹の使徒が壁の頂点に姿を見せ、すぐさま下に向かって這い降りだした。間を置かず、もう一匹が同じ行動を取る。そして、後から後から続々と城の内懐に入り込んでいく。

「今の内は数が少ないから、敵のフィールドは弱い。1000mでATフィールド展開するよ」 

 ユリコの指示に他の3人は緊張しながら、はいと答えた。内陣に下りた使徒はためらいもなく中央に向かって来る。リリスの呼び声が聞こえているのだろうか。多数が一心不乱に駆け寄る様は、野牛の暴走のようである。

 先頭が陣地から1000mに達した。エヴァ4機は一斉にATフィールドを放つ。先頭近い数匹はたちまち裸にされた。

『ATフィールド中和域1040m』シンの分析結果が聞こえた。それを聞いたユリコは、直ちに照準を最初の一匹に合わせ、号令を発した。

「撃ち方始め!」

 四門のバルカン砲が火を噴いた。使徒数匹が一瞬でばらばらになった。だが怖気を見せる使徒はいない。途切れることなく使徒の襲来は続く。中和域は使徒が上げる血の雨によって、どんどん青く染まっていく。巨大な爪が空中で回転する。ぶちまけられた内臓を頭に乗せた使徒が、己も木っ端微塵にされ、内臓と内臓が混じり合う。時折上がる使徒の咆哮は怒りを表すのか、嘆きか、はたまた恐怖か、それを知る者は誰もいない。

 ここまでは順調、とユリコは思った。だが、内陣での戦いは始まったばかりだ。後には3万の使徒が控えている。それに比べてここにある弾丸はどうだ。バルカン砲弾は多く見積もっても1万2千発しかない。ひたすら撃ち続ければ、僅か15分でついえる計算になる。爆撃機による援軍はない。防護板を破壊し、新たな侵入口を作る惧れがあるからだ。バルカン砲弾自体も、炸薬が充填されていないタイプに変更されている。

 内陣に入り込む使徒は加速度的に増えていく。バルカン砲の掃射は次第に切れ目がなくなっていった。蝟集する使徒群との間でATフィールドの押し合いが始まった。中和域は後退を余儀なくされ、前線が近くなっていく。青い血飛沫と共にばらばらになった使徒が舞い上がり、内陣東側は屠殺場の様相を呈する。折り重なった死骸の上を別の使徒が乗り越えていく。そうした戦闘が5分を経過したころ、使徒群の運動に変化が起こった。無謀な吶喊攻撃の愚を悟った使徒は、その場にとどまろうとするが、後続が前に出させるように圧力をかける。その結果、前線の使徒は横方向へ逸れて行ったのだ。後続もその動きを真似た。エヴァ4機は砲撃の手を休め、その光景を見守った。使徒の群れは内陣の壁に沿って左右に展開し、中央を包囲する構えを取りつつある。いずれ4機は四方に展開せざるを得なくなるだろう。

 6号機の情報は入って来ない。ユリコは心の隅に早く行ってほしいという考えが生まれ、ぞくっとした。私は仲間の死を願っている。

『諸君、6号機が今、底面部から離陸した。見送ってやってくれ』

 ふいに信時の声が聞こえた。ユリコはとうとうその時が来た感慨と、間に合ったという安堵感を同時に持った。

 その時、中央ゲートから、巨大な白色のものが飛び出し、猛烈な風がエヴァたちの背中に吹き付けた。それはF型装備から広がった鳥に似た翼であった。6号機の灰色の機体が中央にある。ユリコら地上のパイロットたちは一斉に空を見上げた。

 6号機は垂直に空中高く舞い上がり、その場に滞空した。そして眼下のエヴァ4機を見下ろすと、右手をこめかみのあたりに持っていった。敬礼の仕種だ。

「敬礼!」ユリコは完全に手を休め、号令をかけた。4機のエヴァは片手を挙げ、上空のユカに敬礼を返した。姿勢を戻した6号機は東側に目をやり、大きく羽ばたいた。

 ユカは惨状を呈する内陣から、前方の平野に視線をずらした。まだ膨大な数の使徒が荒地を埋めている。

『ユカ、そのまま前進。18高地の向こう1kmに位置を取れ』

 久しぶりに栗林の、感情を抑えた声が聞こえた。ユカにとって付き合いは短かったが、気配りの細やかないい指揮官だった。ユカは冷静に6号機を進ませた。

 ユリコら4人は、しばし去り行く6号機を見つめた。永遠の別れとなるユカの思い出が、各自の脳裏に甦った。ユカの動揺を防ぐために通信は禁じられていたので、告別の言葉も言えなかった。ユリコはユカの尊い犠牲に報いるためにも、この場は絶対に勝ち切ると思い、包囲網を広げつつある使徒の群れを見やった。

 6号機は羽を大きく羽ばたかせ、密集する使徒群の上空を進んだ。短い距離なので飛行時間は長くない。予定地点はもうすぐだ。

『対地高度100mまで上げよ。角度右5度。決行地点まであと80m』

 18高地はとうに過ぎて、使徒はもう見えなくなっていた。ユカは6号機を微妙に操り、指示に従った。

『よし、そこで滞空。作戦開始せよ』

「了解。モードDに入ります」

 ユカは腰を上げてコックピットの傍らにあるカバーを開けて、生体認証機に指先を押し付け、中にあるレバーを捻った。途端に断続的な警報音が響いた。同時に女性のアナウンスが警告を発した。

『自爆モードに入りました。スーパーソレノイド爆発まであと30秒。10秒を過ぎるとこのモードは解除できなくなります』

 ユカはシートに体を預けて、自分の所属するこの世界を見つめた。こんなにも冷静でいられる自分が、ふと不思議になった。彼方に鉛色の海が見える。ユカは一度もその場所に行ったことがないことに気づいた。どんな感じがするのだろう。どんな色と匂いを味わえるのだろう。

『モードD、10秒経過。もう解除できません』

 フォン・アイネムの声が聞こえた。『ユカ、全人類を代表して君に礼を言う』

「ありがとうございます」

 そう言ってユカはインダクションレバーを握りしめ、真っ直ぐ前を見てその時を待った。パートナーの顔が思い浮かんだ。

 ありがとう、イサオ。楽しかったよ。お互い造られて良かったね。

 その時、前方数十メートルの空間に忽然と現れたものがあった。ユカは一瞬わが目を疑った。青い服を着た、自分と同じぐらいの年格好をした少女がいる。髪の毛までが蒼い。

「ファーストチルドレン?」

 ユカは愕然として腰を上げ、息を呑む超常現象をよく確かめようと目を凝らした。

 

 その瞬間が48thチルドレン・ユカの生の終わりであった。

 

「S2機関暴発!来ます!!」

 シンの絶叫が指令室に、人智を超えるものの到来を告げた。スクリーンは網膜を灼く光で満たされた。数瞬遅れて耳を聾する大音響が響き渡り、同時に衝撃波が到達し、ジオフロント全体を揺るがした。指令室の面々は全員バイザーによって目を保護し、揺れに備えていた。

 城外にいた使徒たちは咄嗟にATフィールドを展開し、我が身を守った。N2爆弾の猛爆を凌ぎ切った彼らにしてみれば、後方で起きた似たような爆発など浅手にもならないはずである。しかし、今回の爆発は似て非なるものだった。

 220mの高さがある城壁に守られた内陣は、外側と比べれば衝撃は小さかった。それでも夥しい砂塵が舞い、視界が一気に悪くなった。

 ジオフロントの東方5km地点に巨大な火球が出現した。それはあっという間に直径500mまで成長し、荒野を焼き尽くした。それはそのままの大きさを維持し、衝撃波によってできあがった青空の下、青白いエネルギーの放散を続けた。それが黒いきのこ雲となって上昇しないのは、その内部におそるべき暗黒を胚胎したからである。

 火球はまるでビデオテープを逆回転させるかのように、縮小を開始した。多数の稲妻が炎を突き破り、地上に落下した。表面が不規則に揺れ、あちこちでフレアが巻き起こり、炎が飛び散った。数刻後、僅か百メートルまで直径を縮めた火球は、背後にいるものの正体を現し始めた。暗闇が刻々と成長しつつ、荒ぶる業火を呑み込んで行く。

 指令室の全スタッフは声もなくその映像に見入った。シンの冷静に告げる声が響いた。

「虚数空間開放。成長します。持続予想時間約12秒」

 闇が火球の光に取って代わった。それはいかなる物質も吸収する、完全無欠の黒いものであった。その中がどのようになっているのか、確たる答えを出せたものは一人もいなかった。

 黒い風船は破壊的速度で大きくなり、地面ごと使徒たちを取り込んでいった。彼らが必死で放つATフィールドも、空間の絶対的無の前にはむなしかった。周りの空気が吸い込まれるため、渦を巻くように突風が巻き起こる。第18高地は早い段階で姿を消した。使徒たちは悲鳴を上げる間もなく、異界の虜となっていく。真昼の暗黒が大地を侵し、見る見るうちにジオフロントに接近してくる。

「虚数空間、ジオフロントまで1500、1200、1000」

 シンは額に汗を滲ませ数字を読み上げた。虚数空間はこのとき高さ3kmに達した。既に2万を軽く超す使徒が、未知の空間の向こうに去った。スクリーンは黒一色である。地上のエヴァパイロットたちは、見上げる巨大さの黒球を見て戦慄に震えた。

「800、600、400!」

 シンの懸念はBOSATSUの計算違いにあった。城壁に達する前に、現象は終息するはずなのだ。だが、虚数空間の膨張する勢いは止まらない。

「200!100!危険です!!」

 その時、虚無の縁は前進を止めた。黒い球は堀の前方僅か51mで静止したのだ。指令室の誰もが食い入るようにスクリーンを見つめた。

 現象の終わり方は唐突なものだった。いきなり、山のような黒いものは姿を消した。まるで魔法が解けたかのように、消えたのである。

 指令室に安堵と驚愕が混ざり合ったざわめきが起こった。前代未聞の光景が、激しい砂嵐の向こうに見えた。城壁の東に、少し前までは影も形もなかった大窪地が広がっているのだ。

 エヴァ本体のS2機関自爆という、人類最後の切り札は、凄まじい風と直径9.9kmに及ぶ半球型の谷を残した。あれほど多くいた使徒の軍勢は、内陣と城壁の周辺にいるものを除いて、文字通り消滅してしまった。

 こうして人類はこの第129次会戦において、形勢の逆転を果たしたのである。アイネムは胸を反らして皆に言った。「ほぼ計算通りだったな。誤差の範囲内だよ。さて、諸君。戦争はまだ終わっていない。ぼやぼやしていないで残る敵の対策にかかれ」

 そう、まだ安心できる段階ではない。全員がはいと答え、それぞれの仕事に戻った。誰の顔にも生気が甦っていた。

 

 

 

 マタちるどれんガシンダナ。

 

 リリスは十字架から、ターミナルドグマに戻ったレイに話しかけた。レイは返事もせず1号機の頭上を漂い、中のハルカの様子を窺う。

 

 マダネテオルヨ。イッソサメヌホウガ、コノコノシアワセカモシレヌナ。コレカラサキハジゴクガマッテオルユエ。

 

 レイはリリスを一睨みし、エントリープラグの内部に入り込んだ。ハルカは何の憂いもなさそうに眠っている。レイは彼女の横に寄り添うようにしてその顔を見守った。回収部隊が到着するまで、そうしているつもりでいた。

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