リリスの子ら
間部瀬博士
第15話
動物は身体に異常のない限り、眠りの幸福から現実へ目覚めなければならない。ハルカもまたターミナルドグマで陥った昏睡から現し世に帰還した。最初に認識したのは天井パネルの淡い白色だった。視線を左右に動かし状況を確認する。窓から差し込む自然光が柔らかい。点滴用のビニールバッグから透明なしずくが一つ滴り落ちる。ベッドに横たわる自分。ここが病室ということはすぐに分かった。
意識レベルが上がり、記憶が速やかに戻ってくる。ハルカは愕然として上体を起こした。頭にベルトで固定された、12本のコードが揺れた。
私は戦った。地下のリリス。ファーストチルドレン。白い光。気を失ったの?使徒は?戦いはどうなった?
ハルカは毛布をどけて体をずらした。簡素な寝巻きの合わせ目から、胸に接着したコードとカテーテルが突き出ていた。
前ぶれもなく病室のドアが開いた。現れたのは中年の看護婦長とベヒシュタイン博士だ。脳波をモニターしていた装置が、ハルカの覚醒を告げたのだった。
「ハルカ、目覚めてくれたか。良かった。一時はどうなることかと思ったよ」
「博士‥‥」
婦長はもう一度横になるように指示した。躊躇うハルカに、彼女はきつい口調で念を押した。まだ安静が必要なのだと。ハルカはしぶしぶ従いながら、ベヒシュタインに質問の矢をあびせた。
「戦いはどうなったんですか?みんなは無事なんですか?ジオフロントはどうなりました?」
「我々は勝った」
ベヒシュタインは静かに言明した。しかしその顔には喜びが見えなかった。
「どうやって?」
「ハルカ、言いにくいんだが‥‥」
言い淀み、目を伏せるベヒシュタインを見たハルカは、慄然として悲愴極まるあの作戦に思い当たった。
「905、ですか?」
ベヒシュタインは固く「そうだ」と答えた。ハルカの裡は急速に悲しみで満たされ、震える声でまた尋ねた。
「誰です?」
「ユカだ」
「ユカ‥‥あの子、まだ13なのに‥‥」
「総司令が選択した」ベヒシュタインは自分に責任がないことを言いたくて、聞かれもしないうちに教えた。そしてその命令を下した者の正体を巡って、騒動が持ち上がっていることには口を噤んだ。
「君が気を失って15分ほど経った頃だ。F型装備を身に着けた6号機は特攻出撃を敢行し、2万数千匹の使徒を道連れにして昇天した。残ったのは内陣に入り込んだのと、城壁周囲にいた約3200匹だ」
「内陣まで!?」
「うん。4号機の狙撃によってボスを失った使徒たちは、抑制を失って暴走して来たんだ。それはもう、津波のようでなぁ。仕方なく4機のエヴァは中央ゲートを守るように円陣を組んだ。そこへ905だ。ユカのおかげで人類に勝利の可能性が出てきた。しかしまだ危機的な状況だった。だがねハルカ、丁度その頃、決定的な転機がやって来たんだ。ようやく中央ゲートを手動で閉鎖することができたんだよ。これで勝負は決まったのさ。4機共円陣から引き上げさせ、F型装備に換装した」
「陣を放棄したんですか?」
「そうだ。ここで何をしたか?またも水だよ。承知の通り内陣は堀より低い。水門を開けて堀から内陣に水を引き込んだんだ。大体20分で直径3.6km、深さ18mの湖が出現した」
「湖?」ハルカは不安げに天井を見上げた。ベヒシュタインの口元に苦笑いが浮かんだ。
「心配するな。とっくに水は抜かれて第一芦ノ湖に流されたよ」
「そこまで準備をしていたんですか」
「『怒りの日』は約束されていた事態だ。人類は、できることはすべてやった。いつ来るとも分からぬこの日のために備えてな。無駄にならなかったのは幸いだった。ともかくこれで2600近い使徒が溺れ死んだ。今でも内陣は死骸だらけさ。後は西側のポイントからエヴァ4機が離陸して、やつらの手が届かない空から、撃って撃って撃ちまくった」
「使徒は全滅したんですね?」
「そうとも。最後の使徒の死を確認したのが、今から2時間前だ」
「2時間前?もう日は高いみたいだけど‥‥」
ベヒシュタインは腕時計を見ながら答えた。「ああ。今は12月15日午前10時27分だ。君の失神から19時間と40分が経過している。最初の水攻めから生き残ったのや、山間部に迷い込んだのがいてな、そいつらをしらみつぶしに殲滅するのに時間がかかった」
「そんなに寝てたなんて」ハルカは悄然として遠くを見る目をした。リーダーとしてはあまりに長く戦場を離れていたことになる。
「君に責任はない。むしろ今回一番の功労者は君だ。フォースインパクトを紙一重で阻止したのだからね。礼を言わせてもらうよ。ありがとう」
ベヒシュタインの言葉には真心がこもっていた。それに対してハルカは一つ頷いただけで、黙りこくったままあらぬ方へ視線を向けていた。婦長は黙々とハルカの腕を取って、血圧や脈拍を測っていた。
戦後の安息を得たハルカに、チヒロの死とリリスの謎かけが大きな影を落としていた。それらはつい先ほど起こったかのようだった。親友をこの手で見るも無残な有様にして葬り去った。そして圧倒的なリリスの力。心に突き刺さった謎めいた言葉。
ヒトニアザムカレシムスメヨ。
ベヒシュタインは心ここにあらずという風のハルカを見て、ここはそっとしておくべきと判断した。婦長の検診は全て終わっていた。
「という訳で、何もかも終わった。君はここでゆっくり養生しなさい。精神汚染の後遺症がないか、検査する必要があるからな。今病院は負傷者の手当てで大忙しだから、いつになるか予定も立てられんが」
「分かりました」とハルカはひっそりと答えた。博士は憐憫の情で胸が詰まりそうになりながら、ハルカの肩に右手を置いた。
「気を落とすな。生き残ったことを喜ぶんだよ。生を楽しめ。それじゃ私は行く」
博士と婦長はそそくさと部屋を出て行った。一人残されたハルカは孤独を友にしながら、押さえつけても湧き上がってくるチヒロとの思い出に浸った。そうして結局はあの最後の場面に戻っていく。さらに果たして自分の行動が適切だったのか、過去の細かい点にまで分け入ってしまう。そうした、ただでさえ辛い状態に追い打ちをかけるようなユカの死だった。自分より6才も若い娘が自らの命を捧げた。あまりにも幼い妹の自己犠牲だ。ハルカの胸は悲しみで押しつぶされそうになった。だが、ただの一滴も涙は零れなかった。そんなハルカに笑顔が戻ったのは、見舞いに訪れたタツヤが現れたときであった。
ベヒシュタインは技術部の部下鮫島と護衛役の警備員一名と共に、ライトバンでチヒロの家に向かっていた。皆沈うつな表情で、衛兵の姿が目立ち緊迫感の漂う村の風景を、見るともなしに見ていた。
鮫島がぽつりと言った。「何度やってもいやな仕事です」
ベヒシュタインが答えた。「仕方ないさ。誰かがやらなきゃならない」
道路にタイヤの後がくっきりと残されていく。8号機による破壊によって粉塵が降り積もり、一帯を覆い尽くしていた。幸い村の各家は軽微な損害を蒙っただけで済んだ。ハルカを除く生き延びたパイロットたちは、それぞれの家に帰った。今頃は愛するパートナーと共に、我が家に戻れた幸運を噛み締めていることだろう。
「着きました」
運転をしている護衛の矢沢伍長が告げた。車は例外に当たる家の一つ、チヒロの家の前に停まった。三人は無言のまま道路に降り立った。ベヒシュタインが先頭を切ってチヒロ家の庭に入っていった。草花は埃をかぶって、どこかみすぼらしい。ドアのインターホンを鳴らすと、早速マサトが出た。
『はい』
「ベヒシュタインだ。ちょっといいかね?」
一瞬間を置いてから答えが返った来た。『どうぞ』
マサトは普段と変わらぬ物腰で一行を迎えた。
「いらっしゃい。今日は珍しい方もお見えだ。どうぞ皆さんお掛けになって」
にこやかに応接セットを指すマサトを、ベヒシュタインは手で制した。
「いや、立ったままでいいんだ。我々の用は短いものだから」
「なるほど。チヒロは死にましたね?」
マサトの方から言い出したことに、ベヒシュタインは意表を突かれた。無言で頷き、静かに尋ねた。
「どうしてそう思った?」
「簡単です。他のパイロットは帰って来たのに、チヒロの姿はない。それから前ぶれもなく博士のご来訪だ。理由は容易に推測できます」
「話が速くて助かるよ」
「どういたしまして。さてと」マサトは後ろを向いて部屋の中を歩き始め、壁に下げたコルクボードの前で止まった。「ここにクリーニングの受け取りがあります。もう仕上がってる。何枚か請求書がこの引き出しにあります。支払いはよろしく。それから家の鍵はここ」と言って、チェストの引き出しから鍵束を取り出し、鮫島に渡した。三人の客は皆固い表情をしていた。「今、キッチンのオーブンでマドレーヌを焼いているところなんです。チヒロに食べさせる予定でした。後28分で出来上がりですから、皆さんでどうぞ。仕上がりは保証しますよ」
ベヒシュタインは顔を曇らせながら、淡々と遺言を残すマサトを遮った。「マサト、別に気を使わなくていい。何も心配するな」
とうとう経験のない矢沢が腹立たしげに言った。「自分の女房が死んだってのに、よくそんな平気な態度でいられるもんだ」
それを聞いたマサトは無言で矢沢の前まで歩き、その顔を真っ直ぐに見つめた。
「確かに平気な態度に見えるでしょう。でも、僕は本当は辛いんだ。あなたがたとは違いがあるかもしれませんがね。実の所、大声で喚きたい。そりゃもう真に迫った嘆き方をご覧に入れられます。でもそうすると、きっとあなたがたは一層悲しくなるでしょう。違いますか?」
矢沢は呆気に取られて二の句が継げなかった。マサトは棒立ちの矢沢を置いて、博士の前に行った。
「では、博士。ぼくはもう逝っていいでしょうか?」
博士はからからに乾いた喉から返事を絞り出した。「ああ、マサト。長い間ご苦労だった」
マサトは澄み切った眼で三人を見回した。その口元には柔らかな微笑が浮かんでいた。
「それではこれでおいとますることにしましょう。皆さん、お世話をかけます。それから博士」
博士は自ら手がけた人造人間と向かい合い、その美しい瞳をじっと見つめた。どこか聖人のような趣きさえ感じさせる顔立ちをしていた。
「僕を造ってくれてありがとう」
それきりマサトはただの1ミリも動かなくなった。瞳から急速に光が消えていった。幸福そうな微笑みはずっとそのまま残った。博士は全てが終わったことを見て取ると、他の二人に指示を出した。鮫島と矢沢が立ったまま硬直したマサトのボディに手を掛けた。
5分後、三人はユカの家を訪ねた。マサトの場合と同じ手順がここで繰り返され、ライトバンの後部に大小2体のアンドロイドが横たえられた。
次の日もハルカは入院を余儀なくされていた。体調におかしなところは微塵も感じられなかったが、リリスと接触した者は精神医学上の検査を受ける規則になっているからだ。ただ、前の晩は遂に一睡もできず、腫れぼったい瞼をしていた。ハルカはずっと脳波をモニターされた上に、朦朧としながらも医師の問診やロールシャッハテストを受けさせられた。午後には作戦部のキムと古賀が質問をしに来た。内容はもちろん、ターミナルドグマで何が起きたかだ。ベッドの端に置かれた小型のボイスレコーダーに、録音中の赤い表示が光っている。
古賀が口火を切った。「一昨日のことだ。承知の通り、君が8号機を斃し帰途につこうとした瞬間に、通信はおろかすべてのカメラ、センサーが無効になった。回復した時には、君は気を失い、1号機は活動停止状態だった。あそこで何があったか、我々は知らなければならない。覚えていることを一つ残らず話してくれ」
「はい」ハルカは生唾を呑んで、口を一度結んだ。彼女の中には葛藤があった。レイには秘密を守ることを誓った。嘘をつくのは嫌いだが、誓いを破ることはできない。「急に耳鳴りと頭痛が起きました。それはひどいもので、エヴァを歩かすどころではありませんでした。それがふいに止んだので顔を上げた途端、リリスの声が聞こえました」
「なに?あいつが喋ったのか?」と、古賀は顔色を変えて尋ねた。
「普通に喋ったんじゃありません。頭の中に直接響いたんです」
「と言うと、テレパシーみたいな?」
「ええ。おばあさんの声でした。おとぎ話に出てくる悪い魔女に会った感じがして、すごく不気味だった」
「あいつはなんと?」
「来よ、と」
「君を誘ったの?」
「しつこく何度も、甘ったるい感じで呼びかけてきて。私は全力で拒みました。とうとう私を娘と呼び始めました。私は1号機に刀を振り上げさせ、反対に近寄らせて、切るぞと脅しました。もう少しで剣が届く位置でした」
「どんな言葉で君を誘った?」
「ええと確か‥‥」ハルカは小首を傾げて記憶を呼び覚ます振りをした。「おいで私の子、とか、可愛い娘、いいものをあげるからもっと近くにおいで、とか」
「リリスはそういう言い方をするのか」
「ええ、意外と人間的な感じがしました」
「他に覚えている言葉は?」
「ううん‥‥、それぐらいかな。すみません、記憶が曖昧になってしまってて」
「剣を上げた後、どうなった?」
「リリスは明らかに怒ったようでした。そんな感じが伝わってきたんです。危険を感じて後退したんですが、いきなり白くて強烈な光が、リリスのおでこからこっちに向かってきて、視界が真っ白になりました。覚えているのはそこまでです。気がついたらこのベッドにいました」
古賀はいっそう難しい顔で訊いた。「光で君を攻撃したんだな?」
「そういうことだと思います」
二人の士官はじっとハルカを見つめた。どちらもリリスが冬眠中でないことの証拠を突きつけられたことに打たれていた。地下の魔女はなおも想像を絶する能力を秘めている。視線を落としたハルカに、沈黙を守っていたキムが尋ねた。
「他に気づいたことはないかい?」
「いえ、これといったものは」
「君のアクティブソードのことだけど」
ハルカはぎくりとして顔を上げた。
「1号機からはかなり距離の開いたところに落ちていた。君の話だと剣を持ってるときに気を失ったようだ。どう説明する?」
「ちょっと待って」ハルカは横を向いて考え込んだ。意表をつく問いだった。話を繕う必要がある。背筋に冷たいものが流れた。「咄嗟に反撃しようとしたかも知れません。剣を投げつけようと。それで離れた場所に落ちたんだと思います」
「最後の瞬間も反撃か。すごいんだな、君は」
「一応エースですから」
落ち着いた態度で答えるハルカに、キムは一応の納得を得た。二人の士官は顔を見合わせて他に質問がないか確かめ、ボイスレコーダーを取って腰を上げた。
「それじゃ、ハルカ大尉。これで退散するよ。ゆっくり休んで」と、キム。
古賀が言った。「君は人類に、言葉に尽くせないほどの恩恵をほどこした。個人としてささやかな礼を言うよ。ありがとう」
二人は柔らかい微笑を残して去って行った。途端にハルカは強い疲労を覚え、ベッドに横たわった。
しばらくしてユリコがやって来た。あでやかな私服に身を包み、大きな花束を持ったユリコが来たことによって、部屋全体が明るくなった印象がした。
「ユリコ、来てくれたの、ありがと」
上半身を起こしたハルカの傍に、ユリコは椅子を持ってきて座った。花束は枕元の花瓶に納まり、赤や白が味気ない病室に彩りを添えた。
「先輩、どうなの、具合は?」
「大丈夫。悪くないわ。寝不足で参ってるけど」
ユリコは眉をひそめた。「無理もないわね。あんなことになって。私ならどうなっていたか」
「これも運命と思うしかないのよ」
力なく微笑するハルカを見たユリコは、自分までしおれていてはいけないと思った。
「そうね。何事も引きずらないこと。忘れることが一番。いつかまたパーッと騒ぎましょうよ、みんなで」
「うん、そうよね。でも今は、二人のお弔いのことを考えてあげなきゃ」
ハルカの一言にユリコは現実に引き戻され、口を結んでしまった。暗いムードが病室を覆う。数刻を経て、沈黙に耐え切れなくなったハルカが言った。
「あなた、今回は大活躍したわね。みんなが褒めてたわ」
「そんな。先輩ほどじゃないです」
「えっと、ここじゃ『先輩』はやめて。『ねえさん』にしてくれない?」
ユリコは照れくさそうに笑うハルカを見て、その心情が胸に沁みた。深い孤独を感じているのに違いなかった。
「そうね、ねえさん。一族はずいぶん減っちゃったものね。もっと家族の絆を強めなくちゃね」
ユリコの両手がハルカの右手を握り締めた。ハルカはその手を通して、暖かいなにかが流れ込んでくるのを感じた。二人はしばし無言のまま、その姿勢を保った。
しばらくして、ユリコはハルカの耳元に顔を近づけて囁いた。「ねえさん、総司令の話は聞いた?」
「え、総司令に何かあったの?」初耳のハルカは訝しげに訊き返した。
「あの大事な場面で起きた反乱。あれのせいですごいことになってるの」
ハルカはユリコが語る、ネオ・ネルフが長年隠蔽してきた深層の暴露にじっと耳を傾けた。
信時副司令はもう小一時間も、栗林と差しで向かい合っていた。二人の間には微妙な沈黙が流れていた。テーブルの上のコーヒーはとうに飲み干され、カップの底に焦げ茶色の固まりがこびりついている。栗林は執務室の壁に掛かった、大きく『武士道』と書かれた額を、何とはなしに眺めていた。信時の方はペンをもてあそびながら、掛時計を見ていた。
デスクの上のインターホンが鳴り、秘書官が信時に来客を告げた。信時は分かったと答え、腰を上げた。
「博士が来た。行くとするか」
「どこへですか?」
「コンピュータールームだ」
「なぜそんなところへ?」
「話が手っ取り早いからだよ」
すたすたと歩く信時の後を、怪訝そうな顔をした栗林が続いた。部屋を出ると、秘書官の前にばつの悪そうな顔をしたベヒシュタイン博士が待っていた。
「どうも」
「博士、きっちり納得のいく説明を願います」
栗林はきつい顔でベヒシュタインに念を押した。小柄な博士は長身の栗林の背中を叩いて、雰囲気を和らげようとした。
「そう恐い顔をしないで。ちゃんとした説明を約束する。我々の正しさを理解してもらえると確信してるよ」
「どうでしょうかね」
三人は廊下に出てセントラルドグマの深部に向かった。この途上で、最も機嫌の悪かったのは栗林であった。
栗林作戦部長は今次使徒戦の事後処理が終わって間もなく、信時副司令に会談を申し込んだ。フォン・アイネム総司令について説明を求めるためである。募る不信感で強張った栗林に対し、信時は意外とさばさばした態度で面談した。既に覚悟を決めていた信時は、百聞は一見に如かずという理由で、ベヒシュタインを交えた三者会談を提案したのだった。
栗林はなぜ移動が必要なのか、疑問を持っていた。「博士、どうしてコンピューターが関わるんですか?」
「行けばすぐに分かるよ。用意はできているんだ」
博士の瞳がいたずらっぽく輝くのを、栗林は見逃さなかった。人を驚かせて喜ぶ博士の性癖を思い出し、ため息が出た。
一行は何本ものエレベーターとエスカレーターを乗り継ぎ、人気のない細い廊下を進んで、ある部屋の前に辿り着いた。そのドアに浮き彫りされた文字が栗林を驚かせた。『MIROKU』と金文字で印されていたのだ。博士が虹彩照合機に視線を合わせ、ぶ厚い扉が静かに開いた。急に冷気が栗林の肌を撫でた。大型冷蔵庫のような金属製の箱が林立する部屋の奥にもう一つ部屋があり、栗林はそこに入ってすぐに、ガラス窓の向こうにある純白のMIROKU本体を見つけた。
三人は栗林を中心に、コントロールルームの椅子に掛けた。全ての機器は作動状態にあり、モニターが光を放っている。MIROKUの眼であるカメラが動いて栗林を正面に捉えた。その動きがやけに生き物じみていたので、ぞっとするものを感じた。
いきなり頭上のスピーカーから声が聞こえ、栗林は衝撃を受けた。
『やあ、ごくろうだったね、栗林君』
それは渦中の人物、ハインリッヒ・フォン・アイネムと寸分違わぬ声だったのだ。
栗林は呆然として返事ができなかった。代わってベヒシュタインが言った。「MIROKU、いや総司令、予定通り栗林君が来た。君が話すことで彼の理解も早まるだろう。協力してくれ」
『仕方のないことだね』
栗林は唖然としながら、淡々とMIROKUと話すベヒシュタインに見入った。目の端に博士の前のモニターを捉えた。“Interface select”という表題の下に並ぶ文字列の中で、反転した八つの文字がひときわ目を引いた。
Von Einem.
これで栗林は大方の真相を知った。自然と声が大きくなった。「フォン・アイネム、イコールMIROKUなのか!」
「つまり、そういうことさ」と、信時がおもむろに言った。「フォン・アイネム総司令とはMIROKUの端末なのだ。あのアンドロイドとは無線LANで接続されていた。このことは国連上層部と私、技術部の数人しか知らない」
「総司令が人じゃなく、単なるアンドロイドでもないとは。どうしてだ。本物のフォン・アイネムはどこにいるんですか?」
「ハインリッヒ・フォン・アイネム総司令は今から3年前の79年6月、公邸で首を吊り、自殺した」
「自殺‥‥」
絶句した栗林をきまりの悪そうな目で見ながら、信時は続けた。
「朝、邸を掃除に行ったメイドアンドロイドが私に急報した。総司令が生命活動を停止したとね。私と博士は急遽国連と善後策を協議した。その時、博士が画期的な提案をした。この際、指揮権をBOSATSUに委ねてはどうか、と」
「それが最も賢い選択なのだ」と、博士が口を突っ込む。
「考えても見ろ。ネオ・ネルフ総司令ほど重圧に曝される職務はない。判断ミスが即、全人類の滅亡に繋がるんだぞ。加えて、どう見てもいたいけな女の子にしか見えない者を、苛酷な戦場へ追いやっている。その良心の呵責は君も理解できるだろう。それやこれやでアイネムの精神はずたずたになった。前任のコマロフ氏はノイローゼになって、1年ともたなかった。その前任者も病気を理由に辞任した。これほどの大役を任せられる人材は払底してしまったんだ。いや、そもそも人間には荷が重過ぎるのだ」
ベヒシュタインが目を輝かせて口を挟んだ。「その点、BOSATSUは違う」
「そうだ。あえて『彼』と言わせてもらう。彼ははっきり、我々人類を上回る理性を持っている。神経衰弱に陥ることもない。いついかなるときも沈着冷静、的確な判断を下せるのだ」
信時は長い説明を終えた。栗林は唇を噛んで、数メートル前の白い箱を睨んだ。MIROKUは沈黙を守り、どこか威厳さえ感じさせる筐体は微動だにしなかった。栗林はゆっくり首を回して信時に問いかけた。
「閣下の遺体はどこに?」
「今でも死体置き場に冷凍保存されているよ。幸い彼には父母や妻もなく、子供が二人いるだけだった。我々が派遣した特使に対して、彼らはすんなりと同意してくれたよ。父親の名誉を守れるわけだからな。こうして準備が整ったことで、事務総長以下、災害復興委員会の承認を得ることができた」
「あのアンドロイドを登場させるのに、2週間かかった」ベヒシュタインが技術者として言った。「その間はウィルス性の病気に罹ってしまい、隔離したことにしてね。病が癒えたアイネム総司令は、元気に復帰を果たした。ただしアンドロイドだから、見る者が見れば正体に気づきかねない。それで以後は極力、公の場に姿を現さないようにしたのさ。雑務は全て副司令が取り仕切った」
「総司令の日常生活を誰も知らないのは、そのせいだったのか。それから、ずっと作戦中、BOSATSUの干渉は起きていなかった。当然だ!総司令とBOSATSUは一体だったんだから」栗林は苦りきっていた。あまりに陋劣な欺瞞だ。ネオ・ネルフの殆どの職員は騙されていた。いや、世界中が欺かれていた。彼の中に、不正を正す使命感のようなものが生まれた。このような芝居は正義に反すると感じていた。
いきなりアイネムの声が聞こえた。『と言うことだよ。さあ、栗林君、意見を聞こう』
栗林はMIROKUのカメラを鋭く見つめ返した。「私はコンピューターに仕えた覚えはない。あなたの指揮権は認められない」
信時は腕を組んで瞑目していた。ベヒシュタインは大げさに肩をすくめて、呆れた表情をした。
『そうか。なるほど君らしい。君の言うことは客観的に見て正しい』と、アイネムすなわちMIROKUが言った。
ベヒシュタインが慌て気味に栗林に迫った。「待ってくれ、これは事務総長も承認しているんだよ。後で文書を見せてやってもいい」
「どうして秘密にやったりしたんだ!」遂に栗林の怒りが弾けた。「おかしいと思わないんですか。あなたがたはなんでも世間に公表せず、自分たちに都合がいいように運ぼうとする。秘密、秘密、秘密!前身のネルフも顔負けだ!なぜみんなの意見を聞こうとしない!」
「君はそんなことを言える立場か!」ベヒシュタインが怒鳴り返した。額に汗を浮かべた栗林は、言葉に詰まった。
『栗林君は民主主義者のようだな』MIROKUは冷ややかに言った。栗林はその声を無視して、そっぽを向いたままの信時に告げた。
「副司令、私は断固として人間の指揮を要求します。これは当然の権利だ」
「まて。人間じゃ頼りにならんよ!」と、博士が慌てながら栗林の腕を掴んだ。
「完璧じゃなくてもいい」栗林は博士の手を振り切り、信念の篭った声音で言い切った。「これは使徒と人間の戦いなんです。人間が全責任を負うべきなんだ。結果として負けても構わない。機械にお任せなんて正しいことじゃない。現にBOSATSUも戦術を誤った」
『ボスを狙撃させたことかね?』MIROKUが訊き、栗林は頷いた。『あれは止むを得なかった。確かに緒戦で905を発動していれば、楽勝だったね。しかし、その代償は計り知れない。エヴァ1機だけのことじゃない。東側のポイントは全滅してしまった。今後東部からの侵攻に対して大きな弱点を持つことになってしまった。905は極力避けるべきだった。私は犠牲をとことん抑えた上での勝利を追求したのだ。反乱の勃発と第132使徒の出現は予想外だったよ。敵も緻密な戦略を立てていたね。栗林君、君が私なら905を、どの時点で使っていた?』
栗林は喉を詰まらせ、視線を宙に浮かせた。結局、回答が述べられることはなかった。
『答えなしか。難しいだろ?しかしまあ、結果責任は否定しないよ。ジオフロントは大きな被害を蒙り、復旧の目途も立たない。ここは責任を取って辞任してもおかしくない場面だ。そうだろ、副司令?』
信時はやっと顔を上げて、カメラを見つめた。「辞任したいと言うのか?」
『総合的に見て、ここはそうせざるを得ないよ』
栗林が勢いを得て信時に迫った。「副司令、私の案を聞いてください。フォン・アイネム総司令の死を公表しましょう。スパイが放った銃弾によって暗殺されたと。そして副司令が、次の総司令が決まるまで、代行に就いてください」
「私がか‥‥」
「他に誰がいますか。いいですか、これは私だけの意見じゃない。前もって作戦部全員と話し合いを持ちました。結果、全員が私の案に賛成してくれました。もしこの案が通らないなら、作戦部はアイネム総司令を認めず、ネオ・ネルフは機能停止に陥ることになる」
「上官を脅すとは」信時は深くため息をつき、諦めの表情を浮かべた。「仕方ない。ずっと避けてきたが、これも定めか。君の言う通りにしよう」
栗林はようやく緊張をほぐし、椅子に深く座り込んだが、まだ表情は堅いままだった。
『名誉の戦死か。それもまたよし。眠れるアイネムも満足かもな』
そう語るMIROKUの口調には、皮肉めいたものが混じっていた。肩を落としたベヒシュタインにMIROKUは言った。
『博士、落ち込んでいる暇はないよ。人畜無害のはずのアンドロイドが、反乱を起こしたんだ。さらに謎の爆発。原因究明が喫緊の課題だろ?』
渋い顔をした博士は、カメラに向かい黙って頷いた。
『それともう一つ。ユカは最後の瞬間に奇妙なことを言ったな』
信時の眉がぴくりと動いた。「ファーストチルドレンか」
『そうさ。不可解な言葉だ。祈りを捧げたとも思えん。語尾が上がっていたからな。あれは疑問形だ』
「まったく想像もつかないな。しかし、それほど重要なことだろうか」
『何かを見た、と考えたらどうだろう。あるいは前から謎となっている、未知の存在と結びつくのではないか』
信時は興味なさげに言った。「またその話か。私には瑣末なこととしか思えない」
『そうかね。しかし、もし仮にファーストチルドレンが生きているとしたら、すこぶる面白い話を聞けると思わないか?』
ユキエもまた、戦後のごたごたから逃れることはできなかった。内陣における8号機との格闘の際、何が起きたのか、当事者であるユキエの証言は重要であった。真相を知りたいという欲求では他者に負けないユキエは、事情聴取に積極的に臨んだ。
会議室の奥には作戦部と技術部の双方から出た技術者が3人ずつ、横長に置かれたテーブルに居並んでいる。その場の中心はベヒシュタイン博士だ。そこから間を置いてユキエが、がらんとした部屋の中心にただ一人、椅子に腰掛けて聴取を受けている。博士は前日のアイネム解任の決定が不満で、終始機嫌が悪かった。
シンが要の証言を求めた。「あの倉庫であった格闘、屋根の下に入り込んでからでいいから、あったことを言って」
「はい」ユキエは背筋をぴんと伸ばし、はきはきと答えた。「3号機と8号機は揉みあいになり、互いに上を取ろうと死力を尽くしました。最初、3号機が上で、8号機は3号機の胴を両足で挟んで防御に回っていました。上下で殴り合いの展開が、しばらく続きました。私はその状態では打開は無理と見て、3号機の腰を浮かせ、8号機の足を腕で剥がそうとしました。腿の下側に腕を入れ、前に押し付けたんです。そこから素早く体を動かして、8号機の横に位置を取り、首に腕を絡めて袈裟固めに持ち込むことができました。足を大きく前に伸ばしました。そこに邪魔なコンテナがいくつも並んでいたので、遠慮なく蹴り飛ばしてやりました。三つ四つは動いたはずです。それからほんの数秒のことです。あれが起こったのは」
「コンテナを蹴った後、爆発が起こったんだね?」
「はい。いきなりの光に爆風と、もの凄い熱を感じました。一瞬意識が飛び、気がついたら3号機の腿から下がなくなっていて、私も両足が激しく痛んでいました」
シンは横にいるベヒシュタインと、小声で二言三言話し合った。そこにあったコンテナの一つが跡形もなく消し飛んでいたので、爆発物のあった場所として有力視されていたが、この証言でほぼ確実になった。
「それからどうなった?」と作戦部のキムが尋ねた。
「8号機は力の抜けた3号機の腕を振りほどきました。それから後は分かりません。炎と煙がひどかったもので」
キムは冷たい目でユキエを眺めた。「これは今日の聴取とは直接関係ないけど、訊いておきたい。君はなぜ8号機を刺さなかった?」
ユキエの表情は厳しいものに変わった。「あれが最善だと思ったからです」
「最初、君はピンを取って8号機に近づいたね。あれがプログナイフやソードだったら、結果はどうなっていたと思う?」
「自信がありました。最悪でも格闘戦で勝てると。事実、あんなことがなければ、緊急射出は成功していたと思います」
「リスクが大きすぎる。君は過去のアルミサエル型との戦歴を知っていたはずだ。助かったパイロットは一人もいない」
「今度もそうとは限りません」
「そうでなくとも、指示を仰ぐべきと思わないか?」
「あの時、そんな時間はありませんでした」
「ユキエ、独断専行は時に大きな危険をもたらす。よくよく考えて反省してもらいたい」
「ヒトは仲間を、そんな簡単に殺せるんですか?」
ユキエはキムを鋭く見つめて言い放った。この一言で会議室は数瞬、沈黙に包まれた。大きく肩で息をしたユキエが続けた。
「私たちはロボットじゃありません。感情を持った動物です。仲間を、姉を救おうとするのは当然だと思います。もしも私がもう一度あの場に戻れたとしたら、やはり同じ行動を取ります」
紅く強い視線がキムを圧倒した。キムは手元の資料に目を落とし、言葉を返さなかった。すでに事件についてインスピレーションを得ていたベヒシュタインが、この場をまとめようと発言した。
「いや、よく分かった。ユキエ、ご苦労だったね。もう帰んなさい。後は我々が考える」
すっくと立ったユキエは、失礼します、とだけ言い残して部屋から出て行った。会議室の空気が一気に緩んだ。キムだけは、ばつの悪そうな顔をしていた。
ベヒシュタインは胸の中で小気味よさを感じていた。今のは良かった。さすがは私のチルドレンだ。造ったのはこの私だがね。
笑みがこぼれそうになるのを抑えながら、彼は今朝届いたばかりのレポートを見た。そこにはこう記されていた。
『12月14日の倉庫における原因不明の爆発は、スーパーソレノイド爆発だった可能性がある。空間センサーの一つが、下のグラフで明らかな通り、異常な数値を示した。これは1000分の4秒と持続時間はごく短いが、虚数空間の生成を表している』
キムが博士を見て問いかけた。「どうも原因はコンテナにありそうですね。これもテロでしょうか?」
「テロだよ。そうに決まっとる」博士はレポートをテーブルに放り出し、前を向いたまま答えた。「非常に巧妙なテロだ。ただ犯人の目星はついた」
一座がどよめいた。キムは目を剥いて声を上げた。「えっ、誰ですか、そいつは!」
「いや、誰とは言えん」
皆の興奮が一気に醒めた。そんな中、博士は淡々と続けた。
「私が言いたいのはこうだ。爆発の原因物質は特定できる。それはS2機関そのものだ。センサーが捉えた、ごく僅かな虚数空間の発生。この規模はマイクロS2機関の暴走に相当する。つまり、あれは最高度のアンドロイドが起こしたものだ」
キムは信じられないといった顔で博士に反論した。「まさか、アンドロイドが自爆したと言うんですか?あり得ない話だ。大体、あの時間、ヒトもアンドロイドも倉庫にいなかった」
「生きてるのならね」博士はずっと苦虫を噛み潰したような顔をしていた。「だが、活動停止したのがあったのさ。あそこのコンテナに」また一座にどよめきが走った。「ドグマの倉庫が満杯になっていたので、一時的な保管場所としてあそこを選んだんだ。5、6体はあったろう。その中にはおなじみのマサトオリジナルがあった。まず間違いない。今回暴走したのはそのS2機関だ」
「マサト!じゃ、犯人はマサトを爆弾代わりにしたと?」
「そうだ。私なら起爆装置を、容易に思い浮かべることができる。犯人はマサトのボディに手をつけ、改造を施してから放置したんだ」
シンは冷や汗を掻いていた。彼も以前、パートナーの解体と部品リサイクルを手伝ったことがあるからだ。
博士の推理は大詰めを迎えていた。「テロリストは内部事情に詳しい。ますます草鹿が怪しくなってきたな。目的はセントラルドグマの破壊だ。パートナーのメンテや解体は、あそこの人口知能研究所で行われる。奴の思惑は、爆弾と化したマサトを回収させ、我々の手で解体させることにあった。中のある場所に手を付けた途端、死への暴走が始まる。そうなったら、もう止めようがなかっただろう。被害は甚大、何十人もが死んだだろうな」
皆衝撃の色をありありと浮かべて、博士の話に聞き入っていた。キムが干からびた声で尋ねた。「ずっと手を付けなかった訳は?」
博士は平然と答えた。「なに、忙しかっただけだよ。実はもう1年も、役目の終わったパートナーを処理してないんだ」
ふう、とキムは大きくため息をついた。ほっとする思いをしていたのはシンも同様だった。決して勤勉とは言えない上司を、ありがたいと思ったのは初めてだった。そのシンがあることに気づき、声を上げた。「待ってください。犯人の狙いは研究所の破壊じゃないのでは?」
俄かに一同の注目を集めたシンは、興奮も露わに話した。「どうも研究所は、戦略目標としては小さいような気がするんです。だって、使徒戦に直接関係がない。犯人の狙いはもっと大きなものなんじゃないか」
「だったら何だね?」と、ベヒシュタインが訊いた。
シンは唾を呑みこみ、真剣な眼差しで言った。「思い出してみてください。研究所の真下に何があるか」
「あ、チルドレンの培養所か!」
ベヒシュタインは重大な事実に気づき、叫んだ。キムら作戦部のスタッフは、声もなくシンを見つめていた。
「おかえり、ハルカ」
そう言って両手を広げたタツヤの胸に、ハルカは飛び込んでいった。彼女がずっと待ち望んでいた、我が家への帰還である。すぐに熱烈なキスが始まった。強く抱き締めるたくましい腕と、からみつく舌の感触は、ハルカの苦悩を一時どこかへ追いやった。居間の中央で恋人たちは抱き合った姿勢のまま、互いの愛情を交換しあった。
「良かった、帰ってきてくれて。あの日はこれが最後かと本気で思った」
「ああ嬉しい。またここでタツヤに会えた」
「辛かっただろ。悲しかっただろ。可哀想な僕の鳩ちゃん。今日からは好きなだけ僕に甘えて」
「うん、うん。もっと可愛がって。嫌なこと全部忘れさせて」
「全身で君を愛してあげる。ここをこの世の天国にしてみせる」
「そうよ、あなたならできる。もっと強く抱いて。息が止まるほどキスして」
二人は言葉を切り、一つに溶け合った。散光塔から降る光が、床にくっきりと一体となった男女の影を落とした。一心に愛をむさぼり合う二人の元に白猫が姿を見せた。猫はハルカの思いを知ってか知らずか、無心に喉を鳴らしながら、女主人の足に肩をこすりつけた。
多事多難の2082年も残り僅かとなった12月23日午前10時、ハルカは一人ベヒシュタインのオフィスを目指して歩いている。セントラルドグマで立ち働く技術部員たちは、大尉の制服を着て歩むハルカを、尊敬のこもった眼差しで見つめた。鬼神の働きによってフォースインパクトを未然に防いだハルカは、もはやカリスマ性を帯びた存在となっていた。近いうちに少佐へ昇進することも内定している。今日はチルドレン、などと声をかけてくる彼らに対しハルカは愛想よく応対したが、その目元に深い疲労が刻まれていることを見抜いた者は一人もいなかった。
人工知能研究所の扉は容易く開き、無数の模造人体がひしめいている部屋にハルカは踏み込んだ。彼女にとっては慣れ親しんだ光景であった。
出迎えたのは、意外にもフリルが沢山ついたワンピースを纏った少女だった。「今日は、42ndチルドレン」愛らしいエリーゼは、スカートの裾を掴み、腰を落としてお辞儀をした。お行儀のよい良家の子女といった風情だ。ハルカは思わず笑みを浮かべて今日は、と挨拶を返した。
遅れて迎えに来た鮫島に付き添われて、ほどなくこの場の主、ベヒシュタイン博士のオフィスの前に立った。彼はすんなりと彼女を招き入れた。
「おお、よく来たね、ハルカ。そこに座って。今、コーヒーを頼むから」
白衣のベヒシュタインは、機嫌良くハルカを応接セットに座らせた。奥には作業中だったのか、数台のモニターが光を放っている。その辺りはハルカには意味の分からない機械が所狭しと並んでいて、いかにも技術者の部屋という感じがする。
「お仕事中だったのでは?」
「いやいや、そんなこと気にするな。他でもないエースの用なら、最優先にしなくてはな。で、用件は?」
驚いたことにメイド服を着た金髪の女がコーヒーを運んで来た。ハルカは目をぱちくりして、愛想笑いをしながらカップを置く、うら若い美人メイドを眺めた。博士は楽しそうに笑って片目をつぶる。それでハルカはこの場違いな美女が、アンドロイドなのだと気づいた。ハルカは湯気を立てるコーヒーを一口すすり、メイドが退出するといきなり本題に入った。
「泣けるようにしてもらえませんか?」
博士は意味が分からず、ぽかんと口を開けた。「‥‥なんだね、やぶからぼうに。理解できんな。詳しく説明してくれたまえ」
ハルカはいくつも歳を取ったような目で博士を見つめた。「この顔見てください。ひどいでしょう?この前の戦い以来なんです。苦しいんです。辛いんです」
深刻な状態のハルカに気づいた博士は、慌てて居住まいを直し、真剣に聞く姿勢を取った。内心、多忙に紛れてチルドレンの心のケアまで気が回らなかったことを後悔していた。
「君の苦悩はよく分かる。本当に大変だったなあ。心から同情するよ」
「ずっと眠れないんです。睡眠薬を飲んでも、ちっとも効かなくて。昼間は頭がぼーっとして」
「タツヤはどうだ。相談に乗ってくれないのかい?」
「彼は優しくしてくれます。それはもう、私を王女様かなにかのように扱ってくれます。でも、夜ベッドで眠ろうとすると、チヒロの最後の顔が浮かんで」
博士は同情に顔を歪ませて、ハルカの訴えに耳を傾けた。
「あの子、泣きながら私に頼んだんです。殺さないでって。あんなに強かったのに‥‥。涙まで流して私に助けを求めた。あの時はチヒロにしか見えなかった。だから私、地面に降ろしてやったんです」
「ハルカ、あれは使徒だった。そんな泣き落としをかけたのも、君を騙すためだ」
「どうしてそうと言い切れるんですか!?」
ハルカはきっとした目で博士を見つめ、彼は思わず怯んだ。
「あの瞬間は本当のチヒロだったかもしれないじゃないですか。人格が完全に入れ代わったんじゃないのかも。なのにみんな、殺せ、殺せって」
「仕方なかったんだよ」
「もっとうまくやっていれば、チヒロを救えたんじゃないか。いえ、そもそもあの子をパイロットにしておいたのが間違いじゃなかったのか。この頃、そんなことばかり考えているんです。あの泣き顔と、上半分なくなった体が頭に浮かぶんです。私、もう駄目になったみたい‥‥」
ハルカは額に手を当て、肘掛にもたれかかった。博士は事の次第にあせりながら、どう収拾するか頭を悩ませた。
「泣けないのが良くないんじゃないでしょうか」ハルカは床に視線を落としながら言った。「私、キヨミねえさんのときも、マサコねえさんのときも泣かなかった。すごく悲しかったのに。いえ、タマエねえさんやエリカねえさんたちも死んでいったのに、一度だって泣いたことがない。それは強いことだと思ってました。でも、少しぐらい弱くなっちゃ駄目ですか?今回は本当に参ってるんです。ねえ、博士。ヒトって、泣くことで悲しみや辛さを洗い流すんでしょう?何かの本で読んだことがあります。私も思いっきり泣いてみたい。泣いて、楽になりたい」
ハルカのあまりに哀切な願いは、ベヒシュタインの涙腺を刺激し、彼は何も言えないままハンカチを目頭に当てた。ついと立ち上がった彼は、沈み込んだままのハルカを置いて部屋の中を歩き回り、やがて壁に架かった絵の前に立った。湖と針葉樹林という、20世紀までは普通に見られた風景を描いたものだ。彼はそれを鑑賞しながら心を落ち着けようとした。
そうして数刻が過ぎた後、ベヒシュタインは心を決めてハルカの傍に行った。今度はハルカの隣りに座り込んだ。
「ハルカ、残念だが、そうするのは無理だ」
暗い声で告げる博士に、ハルカは気弱な視線を向けた。
「チルドレンは同じようでいて、それぞれに違う。微妙な差だが、確かに個性があるんだ。涙もその一つ。個体差の範囲にとどまる。後からどうにかできるようなものじゃない」
落胆したハルカは背もたれに体を預け、視線を宙にさまよわせ、ぽつりと言った。「このままじゃチヒロの二の舞になりそう」博士はぎくりとして、ふさぎ込むハルカを見つめた。ハルカは抑揚のない声で続けた。「愛人を失ったチヒロがどうなったか、覚えているでしょう?シンクロ率の急落。パイロットからの脱落。可哀想に。私にもそれが起こりそうな気がしてならない」
「いや、そんなことにはならない」ベヒシュタインは力を込めて言った。彼の目には優しい光が篭っていた。「君は忘れている。チヒロがどうやって障害を克服したか」
ハルカの目が大きく開いた。「脳の手術?」
「そうとも。チヒロにできて、君にできないことはない。いやなことは忘れてしまえばいいんだ」
「私もチヒロみたいになれば‥‥」
「私の案はこうだ。君はリリスの得体の知れない攻撃により、人事不省に陥った。それで、あの日から目を覚ますまで、記憶障害になり何も覚えていないということになる。その程度なら協力を要請する範囲も知れてる」
博士の言葉は自信に満ちていた。ハルカは口を結んで宙の一点を見つめ、考え込んだ。そもそもチヒロの手術に疑問を感じるようになっていた。あったことをむりやり無くすような詐術をなすことが、正しいやり方と言えるだろうか?ハルカは胸の中に、不正に対する嫌悪のようなものを覚えた。
「どうだな?あれをやれば必ず君は救われるぞ」
「8号機を斃したのは誰ということになるんですか?」
「それはまあ、君ということまでは曲げられんだろう。しかし、ターミナルドグマであったことはどうにでも作り変えられる。そうさな、例えばエントリープラグを抜いた時点で、もう死んでいたとか」
「私が殺したということは変わらないんですね」
「その程度は我慢できんか?」
ハルカはつと立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。本物の木を贅沢に使った壁を見ながら考えに耽った。ベヒシュタインは後方から、彼女のすらりとした立ち姿をじっと見つめた。
そのうちハルカは、博士の提案には一石二鳥の利があることに気づいた。
手術を受ければ、リリスの呪いも解けるかも。
そうよ、そうよ。ソナタハコノノチイズレマコトヲシル。知りたくなんかない。どうせ碌でもないことなんだ。嘘でも今のままがいい。真実を知る義務なんてないじゃない。そうよ、虚構のなにが悪いと言うの。
ハルカは腹を決めた。リリスの鼻を明かす手段が見えたことに久々の喜びを感じた。ええ、あんたの思惑通りにはならない。
「博士」くるりと振り向いたハルカは、決意の漲った目でベヒシュタインを見た。「私を手術してください。この状態を抜け出せるならなんでもやります」
「そうか、決心したか」
ベヒシュタインも立って、ハルカの下に行った。彼は憐憫の情のおもむくままに、ハルカの細身を抱き締めた。ハルカは何か温かいものを感じながら、博士の抱擁に身をゆだね、広い彼の背中に両手を回した。
「可哀想になあ。私のブリュンヒルデ。君のような女の子にとてつもない責務を負わせてしまった。辛いことが沢山あったよなあ。どうか許しておくれ」
「何を言うんです。私たちはそのために造られたんでしょ。それに一杯いろんなものをもらった。幸せも与えてくれた」
ハルカの柔らかい声と真心の篭った視線が、ベヒシュタインに感動を与えた。彼はもう一度ハルカを掻き抱き、この若く気高い精神の持ち主に頬ずりした。
デスク上の電話機が機械的な音を立て、二人の濃密な時間は唐突に断ち切られた。ベヒシュタインは舌打ちをして抱擁を解き、受話器を取りに行った。不機嫌そうに話を聞き始めた彼の顔色が一瞬にして変わった。
「なに、エリーゼが?‥‥いや、分からん。今、そっちに行く」
博士は蒼白な顔でハルカに急を告げた。「エリーゼが痙攣を起こしているそうだ。ちょっと見てくる。君はも少しここにいたまえ。まだ話すことがあるから」
「どうしたんですか?大丈夫なんですか?」
「どうかな。なにしろこんなことは初めてだ」
急ぎ足で出口へ向かう博士を、ハルカは唖然としながら見守るだけだった。ドアが大きく音を立てて閉まり、一人ぽつんと取り残された。することのなくなったハルカは、ため息をついてソファに沈みこんだ。奥では数台のモニターが、スクリーンセーバーの単調な動画を映し出している。
ハルカの足が動いた。彼女は放置されたままのコンピューターの前へ移動した。一個の椅子に座り、キーボードを素早く叩いた。モニターに簡素なログイン画面が表示される。彼女はなんの躊躇いもなくそこへ文字を打ち込んでいく。数秒後には何十個ものフォルダが画面を埋めた。手がすっと伸び、傍らに積み重ねてある汎用ディスクの中から一枚取って、本体のスリットへ挿入する。そして彼女は、前から知り尽くしていたかのように、淀みなくフォルダの一つを選択し、ディスクへ送り込んだ。僅か数秒でコピーが終わった。彼女はディスクを取り出すと、制服のポケットへすべりこませた。画面を最初の状態に戻したハルカは、そっと立ち上がって元の場所へ戻っていく。この間、彼女の顔は能面のように一切表情が現れなかった。
あれ?ハルカは不思議な感覚に捉われ、周囲を見回した。別にこれといった変化はない。奥のモニターは相変わらず同じパターンを描いている。ただ、ついさっきまで何かしていたような気がしたのだ。それが何かは全く思いもつかない。ハルカの視線が右側の壁にある時計に止まる。その表示を見たハルカは愕然とした。今は10時53分。そこがおかしかった。なぜならハルカは博士が外へ出て行く時同じ時計を見、10時45分だということを確認していたからだ。
いつのまにか8分も経ってる。いやだ、私、寝ちゃったのかな。
睡眠不足が続いていたから、突如睡魔に襲われることはありうる。ハルカはそう自分を納得させて、深く考えるのをやめた。これ以上悩み事を増やしたくなかったのだ。
いきなりドアが開いて、博士が戻ってきた。しきりに首を捻る姿は、何か疑問を持っていることがはっきりと見てとれる。
「博士、どうでした。無事だったんですか?」
「ああ、まあな。最初はがくがく震えていて、もう駄目かと思ったが、しばらくしたらけろりと治りおった。原因はさっぱり分からん。あんなこと、起きるはずがないんだが‥‥」
ベヒシュタインは彼女の前に座り込んで、コーヒーを飲み込んだ。胸にわだかまりがあるのが傍目にも分かる。ハルカは話の続きを待った。それはさておきとばかりに、博士は改めて彼女に向き直った。
「ま、当分様子見にするさ。さてと。君の手術だが、私の一存という訳にはいかない。副司令や栗林部長の同意を得る必要がある。説得する自信はあるけど、そのためには一度シンクロテストを受ける必要があるだろう。技術部は復興最優先で動いてるから、スケジュール調整もしなきゃならない。そんな訳で、すぐにとは言えないが、できるだけ早く執刀できるように頑張るつもりだ」
「ああ、博士、ありがとうございます」
深くお辞儀をするハルカを、ベヒシュタインは穏やかな微笑を浮かべながら見つめた。
「いいんだよ。他ならぬ君のためだ。実は君を本当の娘のように思っているんだ。子供の幸せを望まない父親なんかいないよ」
「まあ、素敵‥‥」
ハルカはうれしそうに笑い、きらめく瞳でベヒシュタインを見つめた。こういう幸福そうな明るい笑顔は久しぶりのことだった。ベヒシュタインもまた、少しばかり頬を赤くしながらにっこりと笑った。
5分後、ハルカは博士を残して部屋を出た。悩みを解決する道筋ができたことで、足取りも軽くなった。この時はまだ、ポケットに盗み出されたディスクが潜んでいることを知らない。それは後の悲劇を約束する真実の爆弾であった。
21世紀も終盤に入ろうとするこの時代、クリスマスの風習はなおも存続していた。冬というものが忘却の彼方となって久しく、雪と結び付けられることはさすがになくなった。サンタクロースは半袖の夏服で描かれている。ただ、ツリーの飾りつけに今でも白い綿が乗せられるが、それは雪を模したものだということさえ知らない者が多い。
ジオフロントにはこの日も祭日のムードなど一切ない。凶弾に斃れた(ということになった)アイネム総司令を筆頭とする308名に上る死傷者を考えれば、華美な飾りつけやお祭り騒ぎなどは論外であった。それに犠牲者を悼む合同慰霊祭の準備や、各所に残った戦災の跡始末で忙しく、休日返上で働く職員が殆どという状態である。先の使徒戦はかつてない規模になったが、あれで終わりという推論は全く成り立たない。今日にも使徒の襲撃がありうることを考えれば、ジオフロントの機能回復はネオ・ネルフばかりでなく人類全体にとって重要課題なのだ。
ただハルカたちチルドレンには格別の配慮がなされた。クリスマス・イブは特別な日ということで、全員に休日が与えられたのだ。久しぶりにぐっすりと寝たハルカは、朝いつもより遅く起きて居間に入った途端、部屋の隅に背の高いクリスマスツリーを見つけて目を見張った。
「メリークリスマス、ハルカ」
タツヤがいつものように朗らかに挨拶を贈る。ハルカはそれに答えぬまま、天井に届きそうなツリーの傍まで行って、天辺を飾る星型の飾りを眺めた。「きれい」金色や銀色がきらきらと光を反射し、ハルカに降り注ぐ。三色のLEDが瞬き、部屋中をまだら模様に染める。ハルカはうっとりと見つめながら、背後から抱きついてきたタツヤの腕に触れた。
「素敵ね。今年もこれを見られて良かった」
「来年も一緒に見よう」
「来年もさ来年もきっとあるわ」
ハルカは体を捻ってタツヤの唇を求めた。長身のタツヤが首を傾けて応じた。
十分タツヤを味わったハルカが唇を離した時、タツヤが言った。「さ、顔を洗って、おねぼうさん。朝食の用意はもうできてる。早目にすませてもらうと助かるんだけどな」
タツヤに促されたハルカは、早速洗面所に行って顔を洗った。途中軽やかに鼻歌まで歌った。それを聞いたタツヤはちらりと笑みを見せた。
食卓にはいつものトーストやサラダが並んでいる。ハルカは元気よくトーストに噛り付いた。向かいの席からタツヤが暖かい視線を向けている。
「今日はなんだか機嫌が良さそうだね」
「そうね。イブだからなんか気分が華やぐってのかな。久しぶりによく眠れたし」
「良かった。ずっとふさぎ込んでいたから。元のハルカになったね」
「心配かけてごめんね」
前日のベヒシュタインの提案は、ハルカの心境に好影響を与えた。全ての悩み事から開放され、以前の自分を取り戻せるかもしれない。そんな予感が心の重石をいくらか取り除いたのだった。
「こんな日はずっと一緒にいられたら最高なんだけど、そうも言ってられない。出かけてくるから一人で寛いでて」
「ボランティアね」
タツヤは軽く頷いた。「今は施設の復元が最重要課題だ。みんな猫の手も借りたいほどの忙しさだよ。僕らも遊んでいられない」
「力持ちだからね。気にせずヒトを助けてあげて」
「僕らなら人間三人分の働きはできるからね。そういうことで、お昼は用意しておくからレンジで暖めて食べて。夜はすごいよ。楽しみにしてて」
「うふ。食べすぎに気をつけなきゃ」
ハルカは終始満足そうにしながら朝食を片付けていった。最後に野菜ジュースを飲みながらタツヤに尋ねた。
「ねえ、デウス・エクス・マキナってどんな意味か知ってる?」
「ラテン語だね」タツヤは即座に答えた。「和訳すると機械仕掛けの神。演劇用語だよ。古代のギリシャ演劇が発祥だ。話がこんがらかり、煮詰まってしまったときに突如神が現れるんだ。神様は厳かに裁定を下し、話を解決へと導く。で、その神様は大抵機械仕掛けの雲かなんかに乗って、舞台の上から降りてくるのさ。機械仕掛けの神とはそういう意味なんだ。当時から批判の多い手法でもあった」
「どうして?」
「簡単に言うと、ご都合主義じゃないかってことさ。いきなり神様だからね。どんな持って行き方も思いのままだから。そういう訳で廃れていった技法なんだ」
立て板に水で答えるタツヤを、ハルカはしみじみ感心して眺めた。「さすがね、物知りさん。知らないことないでしょ」
「なに、大したことじゃない。それより、どこでそんな言葉を仕入れてきたの?」
「ああ、えーと、技術部のヒトたちが雑談してるときに、その言葉が出たのを聞いたの。別に意味はないけど、ただ気になったもんで」
ハルカは手を振って話を紛らし、すぐに庭の草花に話題を移した。
タツヤが復旧工事現場まで出向いて、ハルカは一人になった。することのないハルカは居間で壁面テレビを見ることにした。最初は報道番組で、内容はいつもと変わらぬ西園寺政権のプロバガンダだった。この前の使徒戦に関するニュースなど、期待もしていなかった。もう十日も経つのに、一切報道がなかったからだ。ハルカは退屈になり、別のチャンネルに換えた。二十世紀に作られたアクション映画をやっている。面白そうなのでじっと見入った。
ストーリーよりも登場人物たちを取り巻く環境が、彼女の目を引いた。今とは断然違う物資の豊富さ、ヒトの多さ、健康そうな人々。テクノロジーでは劣っても、生の充実感ということでは数段勝った世界。ハルカはたまに二十世紀は黄金時代だったと聞いたことがあるが、正にそれを実感させる。
だんだん物悲しさを感じ始めた頃、玄関のインターホンが来客を告げた。ハルカが出てみると、幼いチルドレンの声が聞こえたので、テレビを消して早速開けてやった。
「メリークリスマス、ハルカおねえさん!」
赤いノースリーブのワンピースに赤いブーツ、手袋、三角の帽子。サンタクロース風の扮装をした小さなチルドレンが玄関口に立っている。
「まあ、可愛いサンタさんね。いらっしゃい」ハルカは喜んでちびっ子サンタを招き入れ、赤い衣装の胸に付いた名札に目を走らせた。「コトミなのね。名探偵さんじゃない。ご苦労様。今日は一人で?」
「うん、途中まで衛兵が付いて来てたけど。他の子もパイロットの家に散らばってるの」
「そうなの」
「では、今年一年いい子にしていたハルカさんに、プレゼントをあげまぁす」
コトミは背中に背負っていた綿の袋を下ろし、中に手を入れた。「はい、どうぞお」赤地に賑やかな模様の入った包装紙で包んだ、20センチ四方ほどの箱を元気良く差し出した。ハルカは満面の笑みでそれを受け取った。
「どうもありがとう。今年はなんなの?」
「みんなで作ったクッキー。ま、売ってる物のようにはいかなかったけど、おいしいよ」
養成所の子供たちが、イブに手作りのプレゼントをパイロットたちに配るのは、恒例のクリスマス行事だった。自粛ムードの漂うジオフロントでも、これは継続することになった。ただし例年は宵の内に行われるものが、夜間外出禁止令のあおりを受けて昼間に繰り上がった。
「ご苦労さまでした。座って。今、とても美味しいお菓子をあげる」
ハルカはコトミをソファに座らせ、奥の戸棚に向かい、菓子箱を取り出した。コトミは期待に胸を膨らませて行儀よく待っている。こうした接待がサンタ役の楽しみの一つであった。
ジュースを出そうと冷蔵庫を開けたハルカは失策に気づいた。お返しを用意するのを忘れていた。来訪したサンタには何がしかの土産を持たすのが慣わしになっている。このところ悩みに沈んでいたハルカは、そんなことを考える余裕がなかった。コトミが待っているので、とりあえずはジュースとチョコレートが入った菓子箱を運んだ。
「さ、どうぞ。遠慮しなくていいのよ」
「わあ、美味しそう!」
普段甘味に飢えているコトミには贅沢なおやつだった。一つ、二つと口の中に消えていく。いかにもご満悦といった表情のコトミを、ハルカは優しげに見守る。オレンジジュースで喉を潤したコトミは、コップを置いて綿の袋を取った。
「おねえさん、実は預かったものがあるの。はい、どうぞ」
コトミが差し出したのは、手の平に乗る立方体の包みだった。「あら、何かしら」ハルカが受け取ると、金属的な感じがした。「開けてみて」と促すコトミに従って包みをほどくと、出てきたのはダージリンの小箱だ。
「紅茶。まぁ、誰がくれたの?」
「阿南さん」
コトミは笑みを浮かべて答えた。ハルカは意外な名前が出てきたので目を丸くした。
「あのヒト?めずらしい‥‥」ヒトから贈り物をもらうなど、これまで滅多になかった。
「手紙も預かってるの。はい、これ」
コトミは懐から封筒を取り出してハルカに渡した。早速開けてみると、クリスマスを祝う家族の絵が描かれたクリスマスカードで、手書きの文字でこう書かれていた。
『精一杯の感謝を込めて。阿南』
簡単ではあったが、心は伝わってくる。ハルカは目を細めてカードを見つめ、先日の茶会の思い出に浸った。コトミもなんとなく暖かい気持ちになった。
「おじさん、昨日養成所に来て、わたしに頼んでいったの。だもんで、わたし無理言ってハルカおねえさん担当にしてもらったの」
「そうだったの。良かったわ。ありがと」
阿南とコトミの特別な関係はハルカもよく知っていたので、意外には思わなかった。コトミはいたずらっぽく目をくりくりしながらハルカに言った。「ねえ、あのおじさん、ヒトのくせにおねえさんに気があるんじゃない?」
ハルカは目を見張って、にやにやするコトミを見た。それから急に笑い出した。あまりに突拍子のない話だった。コトミもつられて笑い出した。ひとしきり笑った後、ハルカは言った。「いやね、それはないでしょ。そりゃあのヒト、チルドレンが好きみたいだけど、熱心なファンってだけよ。そう言ってたもの」
「そうかぁ。がっかり。そんなのもいいなぁ、とか思ってたのに」
「あり得ないでしょ。年も離れすぎ」
「でも、かっこいいよ。すごく優しいし」
「そうよね。いいヒトには違いないわ。それはそうと、あなた訓練の方はどうなの?」
コトミは堂々と胸を逸らし、答えた。「えっへん。わたし、年が明けたらいよいよ訓練生になるの」
「すごい!もう0号機に?」
「わたし、シンクロ率35ぐらい出るの。シミュレーターの成績も良くて。マキねえさんやサヤカねえさんを飛び越すのよ」
「あなた、いくつだっけ?」
「8才」
「そうなの。優秀なのね。私があなたぐらいの時はシミュレーターがやっとだった」
「上が少なくなってしまったから‥‥」
急にコトミの口調は湿り気を帯び、寂しげな目になった。ハルカは話が暗くなりそうになったのをしおに、座を立った。
「そうそう、肝心なこと忘れてたわ。ちょっと待ってて」
ハルカは寝室に向かい、クローゼットを開けた。昨日着た制服が吊るされている。彼女はそのポケットに手を入れ始めた。コトミに何かお返しをしなければならない。仕方なくご祝儀を渡すことにした。そのために財布を捜しているのだ。彼女の手が上着の左ポケットに入った。異様なものが手に触れて、おや、と思った。滑らかな四角い板だ。何だろう。それを取り出してみる。全然見覚えのない汎用ディスクだ。
狐につままれたような気分でそれを見つめた。いつ、どこでこんなものがポケットに入ったのか?しばらく考えても思い出せない。とりあえず客が待っているので、後で考えようと元に戻す。それから反対側のポケットを探って財布を見つけた。
ご祝儀袋を箪笥の引き出しから取り出し、千円札を三枚入れた。それから居間に戻ってコトミに笑いかけた。
「お待たせ。はい、これ」
コトミにご祝儀を差し出す。コトミは驚いた感じで袋を見た。
「あ、お金なの?」
「そうよ。えへ。実は忙しくて何にも用意してなかったの。いいでしょ、遠慮しないで」
コトミはにんまりと笑って受け取り、懐に収めた。
「お年玉の先渡し、なんて言っちゃいやよ」
「そんなこと言わない、言わない」
「うふ。良かった。ありがと、おねえさん」
それから5分ほど楽しいお喋りが続き、コトミが養成所に帰る時刻になった。彼女のポケットにはチョコレートの残りがびっしり詰め込まれている。ハルカは戸口まで行って、厳戒態勢の中を帰路につくコトミを見送った。
「さよなら、おねえさん。頑張ってね」
元気いっぱいに手を振るコトミを、ハルカは目を細めて見守る。
「あなたも頑張って」
また一人になったハルカは、例の異物が気になっていた。あるはずのないものが忽然と現れた。どうやって入ったかよりも、まず中身を知りたい。制服から件のディスクを取り出し、寝室の隅にあるパソコンの前に行った。OSが素早く立ち上がると同時にディスクを放り込む。
入っているフォルダは一つしかない。それを選択すると画面が切り替わって、ネオ・ネルフのマークが大きく表示される。それは予想していた通りだった。しかし、次に現れた画面はただならないものであった。
『機密文書 ランクS パスワードを入力してください』
最高ランクの重要文書だ。ハルカはびくっと震えて、モニターをまじまじと見つめた。あってはならないものがここにある。
内部情報の持ち出しは厳重に規則で制限されていた。媒体に移すことも簡単ではない。そもそもハルカらが閲覧できるのは、ランク3の比較的機密度の低いものが限度で、ランクSになどは近づくことも許されていない。だが、現にそれはハルカのポケットにあった。
ハルカはモニターを凝視しつつ考えに耽った。何者かが未知の意図をもってポケットに滑り込ませたのか?何かのメッセージ、例えば脅迫文を見せようと考えて。だとすれば不気味な話だ。しかしその場合、パスワードもセットでなければ意味はない。
椅子が後ろにひっくり返るほどの勢いで、ハルカは立ち上がった。胸の動悸は激しく、息は荒くなった。
カギノコトバハDeus Ex Machina。
リリスの言葉が脳裏に甦った。ソナタハマコトヲシル。まさかリリス、あんたの差し金?
地下に閉じ込められた大魔女の巧妙な罠なのか?ハルカは揉みこむような戦慄を覚えながら後ずさり、壁に背をぶつけた。恐い、どうしよう。ハルカはリリスの想像を絶する魔力を感じ、湧き上がる恐怖に身を竦ませた。モニターは変わることなく光を発し続けている。カーソルが彼女を誘うように点滅を繰り返す。悪いことに、こういうときの相談相手であるべきタツヤはいない。
誰かに相談すべきかしら?私、リリスに呪いをかけられて、変なディスクを持たされたんです。知らない間に誰かがポケットに入れたんです。私にチルドレンの秘密を教えようとして。いえ、私、もちろんそんなのに興味ないですから、中身は見てません。
駄目だ。きっと信じてくれない。自分で持ち出したと思われる。それにああ、仮に信用されたとしても、私の嘘がばれる。ファーストチルドレンのことも言わなきゃならなくなる。
レイとの誓いがハルカの足枷となっていた。ハルカは寝室の中を歩き回りながら、対応策を考えた。刻一刻と時は過ぎてゆく。そのうちに思い至ったのは、兎に角確認をすることだった。軽はずみに動いちゃだめよ。まずは本当にあいつがやったことか確かめなくちゃ。
ハルカは椅子に座り直し、一旦画面を閉じた。この文書がディスクに取り込まれたのはいつか、調べようと思ったのだ。何もないところをクリックして記録を表示させる。
2082.12.23 AM10:47
つい昨日のこと。ますます工作の疑いが濃くなる。そして、いくらもしないうちにその時刻が持つ重大な意味に気づいた。遂にハルカは悲鳴を上げ、腰を浮かせた。
ベヒシュタイン博士の部屋で、意識を失っていた時間帯と一致するのだ。
これを盗み出したのは、多分、私自身だ。
ハルカは呆然としながらモニターを見つめた。ハルカも催眠術についての知識は持っていた。後催眠暗示と言って、一定の条件が揃った時に行動を起こさせるやり方があると聞いたことがある。動かされていた間のことを、記憶に残さないようにするのも可能だ。昨日あったことはそれにそっくりではないか。恐怖が一段と強まる。だが、戦士としての自覚を取り戻すのも速かった。びくびくしちゃだめよ。あいつが何を仕掛けてこようと立ち向かわなきゃ。まずは確かめること。その上で戦いを始める。
座り直したハルカは、キーボードに指を這わせた。あのリリスが吐いた言葉を打ち込もうとして、スペルが分からないことに気づいた。やむなくデスクトップに戻ってブラウザを開き、電子事典にアクセスした。スペルは容易に判明したので、最初に戻り、先の画面を出した。震える指のために何度か失敗した後、ようやく未知の世界を開く鍵を作った。
deusexmachina
ごくりと唾を飲み込み、エンターキーを押した。ハルカは失敗であってくれと願った。だが、コンピューターはあっさりと禁断の扉を開いたのだ。
『エヴァンゲリオンパイロット再生計画 第24次定例報告』
特大の文字がハルカの瞳を貫いた。ハルカは力なく頭を垂れ、リリスの圧倒的な力に打ちのめされた。少し前まであった気力はどこかに消し飛んでいた。
ハルカは自分がリリスの掌の中にいることを、はっきりと自覚した。使徒・リリスは自分をいいように操っている。
顔を上げ、虚空に向かって話しかけた。「ファーストチルドレン、聞こえませんか?私を助けて」
答えはいくら待っても返ってこなかった。
ハルカは結局、自分だけで解決するしかないと思い定めた。少し視線を下げれば本文が目に入る。が、彼女はそれを読む気が起きなかった。
読まずにどこかへ捨ててしまおう。おそらくそれが傷を受けなくて済む一番堅実なやり方だ。そう思ったハルカの指が、ディスクのイジェクトボタンに触れ、停止した。彼女の脳裏に閃くものがあった。
何を知ったとしても、忘れてしまえる。
ベヒシュタイン博士が約束した手術のことを思い出したのだ。そうだ、すべての悩みは一時のこと。何があっても白紙に戻せる。
ハルカにも好奇心があったのである。ヒトに欺かれし娘というリリスの言葉が、彼女が本来持っていた探究心を刺激していた。ついこの前まで尊敬していた総司令が人間でなかったことが、彼女に人間への不信を芽生えさせていた。人間たちがどれほど隠し事をしているのか、知りたくもあったのだ。ただ、これ以上傷つくことがいやだった。だが、いずれ消し去られるのならどうか。
リリス、あんたの企みは無効になるのよ。
指が戻って、マウスに置かれた。視線はモニターに映された文字を追い始めた。こうして彼女は、奈落の底を巡るためのツアーに出発したのである。
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