リリスの子ら

間部瀬博士

第16話

 ジオフロントはどこを取っても騒音のない場所はなかった。先の大戦により破壊された箇所の復旧に向け、本格的な工事が始まったのだ。ネオ・ネルフには臨時的に膨大な資金と人員が投入された訳だが、これでまた世界経済は打撃を受け、富は一層軍産複合体へ流れ込むこととなった。乏しい国家予算から泣く泣く資金を供出した国は多い。そのしわ寄せは結局のところ、一般庶民に行くことになる。今や飢餓問題を持たぬ国はどこにもない。

 音の逃げ場のないセントラルドグマは、空洞部よりはるかに凄まじい騒音で覆われていた。阿南は時々耳を覆いながら、人口知能研究所への道を進んだ。8号機による破壊が元で、前回来たときと同じコースを辿ることはできなかった。案内人に付き添われ、幾度も折れ曲がりながら、やっと見覚えのある場所に着いた。

「ここは前にも来たことがある。そろそろだね」

 駐車してある電気自動車に乗り込んだ若者が言った。「この辺が最重要区域です。ここをやられなかったのは幸いでした」

「素体が丸見えだものね」

「ええ、僕らにはエヴァが全てですから」

 座席に座った阿南は、今日も普通に息をしていることのありがたみを噛みしめた。10日前の使徒戦ではシェルターに篭りながら、一時は世界の終わりを覚悟した彼であった。シェルターは8号機が侵攻したコースから数十メートルしか離れていなかった。巨大地震を思わす揺れは、遂に使徒が侵入したことを如実に物語り、避難者たちを恐怖のどん底に陥れた。そのまま時を過ごした彼らに勝利確定の報がもたらされたのは、18時を回ってからであった。

 彼らを乗せた自動車はもう一つのゲートを潜り、ようやく研究所の入り口にたどり着いた。一人降り立った阿南を残して、車は走り去った。阿南は防護扉の横にある受話器を取り、応答を待った。

 久しぶりに訪れた研究所の光景は変わりばえのないものだった。阿南を迎え入れた鮫島は、用があるからとすぐに引っ込んでしまった。彼はベヒシュタインの執務室まで一人歩いた。他の所員は出払っているらしく、誰にも出会わなかった。多くの人体パーツが所狭しと並んでいるのが気味悪い。奥には前と同様、ひたすらゴム板を叩き続ける腕があった。

 ベヒシュタインは機嫌よく阿南を迎えた。執務室の様子は以前来たときとほぼ同じだが、机の上に小さなクリスマスツリーが置いてあるのが目を引く。

「あれか。内緒にしといてくれ。自粛もいいが、気晴らしもせんとなぁ。ここには小さい子もいるし」

 エリーゼのことを言っているのだと、察しがついた。この辺り、実の子に対するような気の配りようは、シズコを愛した阿南には共感できるものがある。そう言えばハルカはもうプレゼントを受け取っただろうか、とちらり思いがかすめた。

「派手にやらない分にはいいんじゃないですか。あまりにしめやかにしすぎちゃ、気分が滅入ってしまう。ほどほどに楽しまないと」

「その通り。で、用件は?」

 二人は向かい合って座り、本題に入った。

「お聞きしたいのは、アンドロイドの件です。先日起きたジロウの反逆、あれについて見解を伺いたい」

「あれねぇ」ベヒシュタインは困った顔を見せた。「中枢がものの見事に破壊されていてなぁ、残ったチップからは不完全なデータしか読み取れんのだ。総司令代行からは、矢のように催促が来てるが、手詰まり状態なのさ」

 MIROKUからじゃないの、と阿南は心の中で皮肉を言った。公安は一、二課ともアイネム総司令の正体を知らされていた。

「この前伺った話では、アンドロイドは四原則によって、決してヒトに危害を加えないことになっている、ということでした」

「そうだ。現にジロウはキムに軽傷を負わせただけだった」

「ジロウはアイネムがアンドロイドだということを、知っていたんでしょうか?」

「そういうこと。アンドロイドはアンドロイドをよく理解する。正体を見破っていたんだな」

 阿南は冷ややかに疑問の矢を放った。「そうだとすると不可解な点が出てきます」

 さすがの博士も訝しげに身を乗り出した。「それは?」

「ジロウはアイネムの胸を狙って発砲しました。体の左側、心臓のある位置を正確にね。いい腕をしていた。人間なら間違いなく即死だったでしょう。これはアイネムを人間だと思っていたからじゃありませんか?アンドロイドと見破っていたなら、なぜ頭を狙わなかったのか?」

 博士は口をへの字にして答えなかった。

「結果的にアイネムは活動を続行し、指揮系統に乱れが生じませんでした。ジロウの目論見は外れたんです」

「しかし、四原則はなぁ」

「そこですよ」阿南は指を一本立てて強調した。彼の右手は包帯はとれていたが、黒い手袋がはめられていた。「本来、全てのアンドロイドは人間に害を与えられない。四原則が破棄されない限りは。そこで博士に伺いたいのは、四原則を無効にする手立てがあるのかどうかです」

 ベヒシュタインの口元に笑みが浮かんだ。「ふっ。まず無理だね。いいかい、四原則はアンドロイドを動かすOSの根幹に組み込まれている。これを外そうとすれば、システム自体が目茶目茶になってしまうんだよ。そのぐらい完璧な安全措置が取られているんだ」

「博士は今、『まず無理』とおっしゃった。ということは、絶対不可能ではないんですね」

 また口を結んだ博士は、目を逸らして考えに沈んだ。阿南はじっと答えが返るのを待った。

 数刻が過ぎ、博士は険しい顔をしながら口を開いた。「君の言うように、絶対不可能とは言わん。ただし、それができるのは、世界中に私を含めて数人しかいない。困難なことに変わりはない」

「いや、可能性があるなら、検討に値するということです。それをお聞きしたかった」

「しかし、その手段は限りなくゼロに近いぞ。ここにいるアンドロイドたちは、まず外へ出たことがないからだ。ジロウにいたっては、ほとんど作戦部周辺から出ていない」

「外部から入り込んだのならいますよ。商店の売り子、水商売の女やなんかね」

「君はそいつらが感染源となり、ジロウを侵したと言いたいのか」

「素人なりの仮説です。他にもいろんな説を立てられるでしょう」

 阿南の意見はベヒシュタインを悩ませた。彼は何らかのハッキングはあったにせよ、四原則まで踏み込む書き換えがあり得るとは思っていなかった。ジロウの行動の場合、四原則のうち第4項『法令遵守』が問題になるが、これを克服する方法はある。例えば刑法には『緊急避難』の項目があるからだ。

 ベヒシュタインは空おそろしいものを感じ、暗い声で言った。「仮に君の仮説に従って、四原則を無効にされたアンドロイドがいたとすると、ぞっとするな」

 阿南は意味ありげにじっと博士の目を見つめた。「『いた』ならまだいい。怖いのは、まだ『いる』かも知れないということです」

「おいおい、よしてくれ。我々はロボットの反乱を懸念しなきゃならないのか?二十世紀に書かれたSFみたいな」

「いや、博士」阿南は両手を上げて苦笑いを見せた。「僕はあくまでも、こういう可能性もあるということを言いたいだけです。ジロウも四原則はそのままに操られていたのかも知れない。総司令の胸を撃ったのも、単に狙いを外しただけかも。ただ、転ばぬ先の杖という諺もある。何らかの予防的手段は必要ではないですか」

「それは考えてる」博士は言われるまでもないさ、と言いたげな顔をした。「ジオフロントの、アンドロイドを初めとする全人工知能を総点検をするつもりだ。ハードじゃなくソフトのな。その手段、日程まで検討を始めた。なに、数週間で結果が判明するだろう」

「そうですか!良かった」阿南は笑って喜びを素直に表した。ベヒシュタインも満足そうに頷いた。

 ひとまず安心した阿南だったが、また渋面に戻り、ため息をついた。

「で、今回の反乱のおかげで悩み事が一つ増えたんですよ」

「なんだね?」

「マサト事件の容疑者です」

「あれか。あれなら草鹿でほぼ決まりなんだろ」

 阿南は苦渋を滲ませながら首を左右に振った。「残念ながら違います。僕らはあいつと山本を重要容疑者として、あの日に遡り検証を試みました。その結果がねえ。なんと草鹿はあの日、ジオフロントにいなかったんですよ。第四新東京市の公安オフィスで事務仕事をしてたんです。ばっちり裏づけも取れました。もう一人の山本は本部ビル付近を警らしてました。くどいぐらいにカメラに写りこんでましたよ。これであの二人の線は切れたんです」

「そりゃ残念だったな」ベヒシュタインは眉を顰めて阿南を見た。

「ともかくマサトの件は進展がなくなりました。そこへ今度の反乱事件です。博士、僕らは最初、アンドロイドを捜査対象から外していました。彼らに限って悪さをするわけがないと。しかし、その前提は崩れた。全部のアンドロイドを視野に入れなければならなくなりました。一からやり直しのようなもんです」

「君らも大変だな」

「まったくです。時間の経過がより条件を厳しくしている。記憶はどんどん薄れていきますからね。それで博士、そもそもジロウはどのようにしてああなったのか、仮説でも立っていませんか?」

 博士は難しい顔をしながら答えた。「第一に思い浮かぶのは、直接コンタクト。君ならアンドロイドの耳の構造を知ってるよな?」

 阿南は、猫の耳にケーブルを差し込んだタツヤを思い浮かべながら頷いた。

「しかし、技術的には困難だぞ。うちのアンドロイドは最高品質のセキュリティシステムを採用している。残念なことに、我々ではそれを破る方法は想像もつかん。腕のいい専門家の見解を聞いているところだ」

 結局ベヒシュタインからは有益な意見を聞けなかった。阿南は博士が進める全アンドロイドの検査が、この問題を解決する糸口になると考え、一応の満足を得た。帰って相沢に報告しようと思い、腰を上げた。

 阿南は機械音やら、板を叩く音が響く研究所の廊下に戻った。人間の姿は見えない。この場が好きではない阿南の歩調は自然と速くなった。その阿南の視界に一瞬、ピンク色のものが入り込んだ。人間の頭部がずらりと並んだ棚の陰にちらりと見え、すぐに引っ込んだのだ。

 ああ、エリーゼがいるな。あれはスカートの裾だったに違いない。阿南はここのマスコットと言うべきあの娘がお気に入りだったので、姿をよく見ようと思い、棚を越えたところで辺りを見回したが、誰もいなかった。どこか奥に行ってしまったのか。阿南は少し残念に思いながら帰り道を急いだ。

 

 ベヒシュタインはパソコンのモニターに向かい、上から下へびっしりと埋まったソースコードの列を見つめていた。先ほど阿南の提起した四原則を無効にする方法を検討し始めたのだ。彼の中には既にいくつかのやり方が浮かんでいた。

 急に廊下から騒音が入り込み、ドアが開いたことに気づいた。

「誰だ?」と言って振り向いた彼の目に、ピンクのワンピース姿の少女が映った。「おじさま」エリーゼが愛くるしい笑みを見せて、こちらに近づいてくる。「おまえか。悪いが私は今、仕事中でな。お部屋に戻りなさい」

 それでもエリーゼは両手を後ろに回し、にこにこしながら近づいて来る。何か隠しているのか。そう言えば今日はクリスマス・イブだ。彼は愛嬢が何か可愛らしいたくらみをしていると感じ、それに乗ってやろうと思った。

「まったく。邪魔しちゃ駄目だぞ」

 くるりと背を向け、またモニターに見入った。彼はわくわくしながらその瞬間を待った。どんな愛らしい仕種をしてくれるだろう。エリーゼが真後ろに立った。横にもう一台、電源の入っていないモニターがある。彼は我慢できずそれに目をやった。黒いモニターに少女の姿が映りこんでいる。

 表情を消したエリーゼが右腕を高く上げた。その手に握られているのは、先端の尖った果物ナイフだ。

 わっと悲鳴を上げた博士が立ち上がるのと、腕が下ろされるのは同時だった。

 

 研究所から出た阿南は迎えを頼もうと携帯電話を取り出した。そこへ、急に後ろから声がかかった。

「おかえりですか、阿南課長」近づいてきたのは鮫島だった。

「ええ、そうですけど」

「エリーゼを見かけませんでしたか?」

「ああ、中にいましたよ。ちらっとだけ見ました」

「やっぱりそうか。今日はボランティアの日だと言っておいたのに」

 阿南は思わず笑った。「あの子がさぼったって言うんですか?」

「まさか。どうせ博士が引き止めたんでしょう。あの人も困ったもんだ」

「でも、あなたさっきまでそっちにいましたよね?彼女を見てないんですか?」

「ええ。全然見てません」

 阿南に虫の知らせが来た。何かおかしい。あの子は人間の命令を無視した。そればかりでなく、所内のどこかに隠れていたように思える。

 戦慄が彼の背筋を駆け抜けた。彼は顔色を失くして鮫島の袖を引いた。「中に行こう!」

 

 ベヒシュタインの右腕から鮮血が流れ出て、白衣は真っ赤に染まっていた。最初の一撃が手首から肘にかけて肉を切り裂いたのだ。エリーゼの果物ナイフを持った右腕は、博士が左手で懸命に握り締めていた。エリーゼはポーカーフェイスのまま、博士の鳩尾に目にも止まらぬパンチを突き込んだ。優に大人並みの威力があった。博士は胃液が逆流するのを感じながら膝を付いた。

 少女は右腕を掴んで防ぐ博士の腕に、空いた左手を食い込ませた。想像を絶する握力だった。博士はたまらず悲鳴を上げ、右手を放してしまった。エリーゼは一歩引き、左足を軸に回転した。ピンクのスカートが舞い上がり、下半身が露わになる。全体重を乗せた後ろ回し蹴りが、博士のこめかみをしたたかに打つ。博士は意識を朦朧とさせて床に倒れこんだ。

 エリーゼは物も言わず仰向けになった博士の腹の上にまたがり、ナイフを両手で握って高く上げた。博士は左腕を伸ばすのが精一杯だ。

 大量の血が、床を点々と赤く染めた。博士の鳩尾から鮮血が迸ったのだ。恐怖と苦痛の叫びが部屋中に響きわたる。小さな暗殺者は、さらにとどめの一撃を浴びせようとナイフを振りかぶった。

 その時、エリーゼめがけて突進して来るものがあった。阿南である。彼は雄たけびを上げながら、少女に体当たりをかました。エリーゼの小柄な体躯は1メートルも吹っ飛び、椅子に激突した。だが、痛みなどへいちゃらという顔だ。血の付いたナイフは持ったままでいる。阿南はベヒシュタインの体に重なり、上着に腹部から溢れる血をたっぷりと吸わせた。博士は完全に白目を剥いて失神していた。

 エリーゼがいち早く立った。阿南も危険を感じ立ち上がった。が、エリーゼの動きは彼の予想を上回った。猛烈な速さで腹めがけて突き出されるナイフを、紙一重で避けた。阿南は敵の常識を超えるスピードに恐怖を感じ、後退して距離を取った。できれば脇に吊るした拳銃で勝負をつけたい。

 だが銃を出す暇も与えられなかった。床を蹴ったエリーゼは、一瞬のうちに阿南の目の前に迫り、凶器を振るう。

 ほんの僅かでも遅れていたら、ナイフの刃が阿南の胸に食い込んでいた。彼は寸前でエリーゼの鼻面に拳を叩きこんだのだ。リーチの差がものを言い、後ろに押されたことでナイフの軌道がずれた。しかしパンチの効果は小さく、猛女は数回瞬きをしただけで、またも襲い掛かる。阿南は飛び退り、凶刃を避ける。その阿南の背が壁に当たった。退路はもうない。ここぞとばかり突進する狂少女。咄嗟に横へ動いた阿南のすぐ脇の壁にナイフが刺さる。距離を取ろうとする阿南の動きが止められた。エリーゼは阿南の左の袖をがっしりと掴んだ。

 阿南の右腕がひらめき、乾いた発砲音が轟いた。素早く抜かれた彼の拳銃が火を吹いたのだ。被弾したエリーゼの頭が後ろへ弾かれる。それも一瞬、戻ってきた少女の顔は左目が空ろな穴となり、白い煙がたなびいている。少女の左足が信じられない速さで跳ね上がった。阿南の右手にもろに蹴りが入る。銃は部屋の奥まで吹っ飛んでしまった。切り札を失った阿南に、またもナイフが横殴りに襲いかかる。だがこの一撃は、運良く空を切った。片方の目を失ったことで遠近感が狂ったのだ。

 彼はこの機を逃さなかった。逆に相手の手首を掴み、懐に飛び込んだ。少女の可憐な体が宙を一回転した。一本背負いがものの見事に決まり、エリーゼは床に叩きつけられる。だが、狂ったアンドロイドは活動をやめない。阿南の袖は放さず、なおも起き上がろうとする。

 阿南も休まず動いた。相手が床に両膝を付いた瞬間、背中側に回り込み、胴に腕を回した。

 そのまま幼い少女を横抱きに担ぎ上げた。思ったほど重くない。少女が狂ったように振るうナイフが、彼の太ももを裂いた。阿南は悲鳴を上げながら、脇の下に腕を入れ、その手で少女の髪の根元を渾身の力で握り、肘を張る。ハーフネルソンの体勢で少女の左腕が動きを制限され、ナイフは空を裂く。

 もがきにもがくエリーゼを必死に支えながら、阿南は部屋を見回した。パソコンが動いたままだ。阿南はそれに向かって全力で走った。

 18インチの平面ディスプレイが光っている。阿南はそのど真ん中に少女の顔面をぶち当てた。ディスプレイは派手な音を立てて、一瞬閃光を放った。めり込んだ少女の頭部をそのまま押さえつける。放電が巻き起こり、少女の左目を貫いた。さらに口や耳にも稲妻が走る。エリーゼは物凄い勢いで痙攣を始める。それが数秒間続き、やっとボディから力が抜けた。阿南は慎重にエリーゼの体を引き、床に放り出した。

 そこにあるのは人間らしい擬態を剥ぎ取られた、いかにも人形という感じを与える物体だった。顔面、特に左目の回りが真っ黒く焦げ、あちこちで金属製の内部構造がむき出しになり、悪臭と白煙を立ち昇らせている。

「博士!!」

 阿南に休息する暇はなかった。一刻も早く博士を手当てしなければならない。戸口に怯えながら突っ立つ鮫島に怒鳴りつけた。

「何をしている!救急隊員を呼べ!!」

「はっ、はい」鮫島は弾かれたように携帯電話を取り出し、緊急通報を始めた。

「博士、起きて!死ぬな!くそこん畜生!」阿南は床に広がる博士の血の中に膝を付き、上着を脱いで腹の傷口に押さえつけた。彼の心臓は恐れと不安のために激しく打った。太腿の痛みなど気にもしなかった。今この瞬間にも、ネオ・ネルフの支柱とも言うべき人物が死を迎えるかもしれないのだ。

 

 ハルカは物憂げにパソコンの前から立ち上がった。パソコンの電源は5分も前に落とされていた。彼女はそこで呆然としながら動けなかったのだ。

 居間に向かうハルカの足取りは夢遊病者のようであった。ようやくソファの前に立った彼女は、鉛のように重い体をそれに沈みこませた。そのまま宙の一点を見つめて、また動かなくなった。理知的な面差しはどこかに消え、痴呆のような表情をしている。

 そのハルカの口元にふっと笑みが浮かんだ。体を折って低く忍び笑いを洩らした。笑いの対象は彼女自身であった。

 その笑いも収まり、ハルカはソファに身を横たえ、天井を眺めた。ここでは工事の騒音も、遠く小さく聞こえるだけであった。本来なら快適なはずの休日の午後、ハルカは濃い憂愁の只中にいる。

「ファーストチルドレン、いませんか?話ができませんか?」

 二度目の呼びかけにも答えはない。ハルカは深い孤独の中に沈んだ。彼女が知った真実は、レイ以外に話せる性質のものではなかった。

 耳元でみゃあと鳴く声がした。見下ろすと、シロが女主人を光る目で見つめていた。ハルカは感情がこみ上げて、その猫を抱き上げ、胸に乗せた。

「私を心配してるの?そうなのね?可愛いねぇ」

 ハルカは猫の喉元をしきりに撫でてやった。目を細めてごろごろと唸り出した猫を胸に抱いて座り直した。

「大丈夫だよ。私はまだ戦う。お前もずっと守ってあげる」

 優しく床へ下ろし、背中を撫でた。それからつと立ち上がってゴミ箱に手を入れ、紙くずを丸め猫の前に放り投げた。猫はそれを前足で弾き、素早く追いかけた。一噛みしてまた前足で弾く。ハルカは猫のはしゃぎようを温かく見つめる。するうち、紙くずの球が飛んで電話台の下の隙間に潜り込んだ。駆け寄った猫はそれを出そうと前足を差し入れる。だが、球は容易に出てこない。シロは困ったような視線をハルカに送る。

「あらあら。ちょっと待って」

 ハルカは苦笑いを浮かべて電話台に歩み寄った。そう重いものではない。台を掴んで横にずらしてやった。

 埃まみれの床に紙くずが二つ落ちている。シロは早速その一つを弾き、遊びを再開した。ハルカは腰を折ってもう一つのを拾い、台を元に戻した。

 古い紙くずだ。埃のかぶりようからそれと分かる。シロが以前に同じことをしたものだろう。時にはくずかごの中から、器用に取り出して遊び回ることもある。白く細長い形はどこかのレシートのようだ。ハルカはいつ頃のものか知りたくなり、広げてみた。

『82.6.8.AM11:29』

 半年も前のものだ。随分長い間そこにあったことになる。発行はあの第四新東京市にあったショッピングセンターだ。

「6月8日?」

 つい口に出してしまった。彼女には忘れようにも忘れられない日だ。第128使徒戦の翌日、阿南と出会い、暴動に巻き込まれた日。

 思い出が甦ってくる。使徒戦以外であれほど波乱万丈だった日はない。あの時のことは誇りとして刻まれている。一時回想に浸ったハルカだったが、そのレシートに引っかかるものを感じた。

 そこに記録された品は一つしかないが、ハルカの記憶にあるものではなかったのだ。

『紳士用ポロシャツ(エンジ) ¥3,580. 現金』

 4千円を払っておつりをもらっている。ハルカは首を傾げた。あの時、シャツなど買った覚えはない。当然、この買い物はタツヤがしたことになる。いつこんなの買ったのかしら、私に黙って。あの時タツヤが言ったことをよく思い出してみる。

『僕、DIYのコーナーに行って買いたいものがあるんだ。ドリルを一つね』

 そうだ、タツヤはドリルを買いに行くと言って別れた。私は暴漢に会い、阿南さんに助けてもらった。急に思いついて買ったのね。でも黙ってるなんて、らしくない。

 ハルカはつまらないことと思い、紙を丸め、ごみ箱に捨てようとした。だが、まだ妙な点が残っているのに気づき、手を止めた。

 わざわざ現金で払った理由はなにか?

 あそこでは、アイスクリーム以外の買い物はカードを使った。彼も当然そうしたと思っていた。ジオフロントでは元々現金の支給が少なく、カード決済が大部分を占めているからだ。

 よく判らない。丸めた紙を戻し、じっくりと見つめた。買った品を思い浮かべてみた。えんじ色のポロシャツ。きっとあれね。襟にギンガムチェックの模様がある。そう言えば、阿南さんが捜査しに来たときも着てたっけ。ボタンをめぐる二人のやり取りまで思い出した。

 その時、ハルカは脳天に鉄槌を落とされたような衝撃を受け、思わずレシートを落とした。息を呑んだまま宙に視線をさまよわせた。

 あれ、8日に買った新品?前からあったのじゃなく。チヒロの家にボタンが落ちた。それは7日のこと。同じのがもう一つ。

 とうとうハルカはひっと声を上げ後ずさり、床に落ちたレシートを凝視した。口元にやった手はわなわなと振るえ、心臓は早鐘のように打った。

 マサトを手にかけたのはタツヤ?そんな馬鹿な。あっていいことじゃない。でも、でもよ、仮に彼だとしたら。あの家で揉みあいになり、襟のボタンがどこかに弾け飛んだ。彼はそれに気づかなかったか、見つけられなかった。なんとかしないと確実に疑われる。仕方なく新品を手に入れようとする。古いのはどこかに処分してしまい、僕のシャツは完璧ってことにする。乏しい現金を使ったのは、記録を残さないようにするため。まさか、まさか‥‥。そう言えばあの日、渋る私を熱心に外出させようとした。あの日を外したら、チャンスがなくなるから。ああ、いやよ。そんなひどいこと‥‥。待って、7日は彼、何を着てた?‥‥‥ああ、駄目。思い出せない。

 ハルカは床にべたりと座り込み、頭を抱えた。シロはそんなハルカを不思議そうに眺めている。

 考えなさい、ハルカ。私の推理が正しいのかどうか。きっと間違ってる。そうよ、アンドロイドがあんな犯罪を犯すことは絶対。‥‥いや待って。ジロウはどうなの?あいつ、あんなことしでかして。タツヤは別だと言い切れる?100パーセント問題ないと。そんなの無理。他になにか‥‥。

 急に顔を上げ、目を輝かせた。心から安心したように、にっこりと笑う。

 そうよ!タツヤにはアリバイがある。ええと、ええと、思い出して。私があの日寝たのは12時15分頃、その後すぐ庭仕事をしてたのよ。そのことはユウヤさんが証言してくれたわ。松の枝を切ったり、水を撒いたり。マサトがチヒロに電話してきた時、確か25分だったわ、彼はこの家にいたの。あは、馬鹿な私。タツヤが犯人なわけがないのよ。

 ハルカは床に大の字になって、嬉しそうに天井を見上げた。妙な邪推に振り回された自分がおかしかった。落ち着きを取り戻すと共に、その前の暗鬱な気分が戻ってきた。全身に疲労を感じる。もう何も考えたくなかった。いっそ寝てしまおうか。そう思って上体を起こしたハルカは、床にあるレシートを取った。もう一度内容を読む。ハルカはまたそれを凝視するはめになった。不安がぶり返してくる。タツヤのアリバイが、本当に完璧と言えるだろうか。眠ってしまった自分にそうと言い切れるか。あの時、タツヤは彼女が寝た後に庭に出た。何分に外に出たのか、25分に何をしていたかは曖昧ではないか。

 いても立ってもいられなくなった。心を決めたハルカは寝室に向かい、ウォークインクローゼットに入り込んで、タツヤ用の衣類を調べようとする。えんじ色のポロシャツを探すのだ。ハンガーに掛かった衣類を一着ずつ改めていく。見慣れない服も沢山あった。ハルカは洗濯をしないので、彼の洋服がどの程度あるのかも把握していなかった。やっと奥の方に、目指すえんじ色のポロシャツを見つけた。ボタンはきちんと付いている。間違いなく阿南が来た時に着ていたものだ。もしもタツヤが無実なら、似たような色のがもう一着あるはずだ。だが、いくら探してもそんなものは出てこなかった。

 ハルカはそこを出て二階に上がり、洋服箪笥を点検した。滅多に着ない洋服類をしまってある。たっぷりと時間をかけて丁寧に探したが、結果は前と同じだった。ハルカは腕組みをして二階を歩き回った。あせりを覚えながら考え込む。もう一着はある。どこかにある。後はどこを?

「そうだ、地下室」

 地下室にはたまにしか足を踏み入れないので、どこに何があるか、さっぱり分からなかった。ほぼタツヤ専用と言っていい場所だ。ハルカは階段を駆け下りて廊下を回り、さらに地階へ下る階段に踏み込んだ。暗がりの中に地下室に通じるドアがぼんやりと見える。彼女は高まる不安と戦いながら段を降りた。

 地下室は意外と整理整頓が行き届いていた。掃除も頻繁にされているらしく、塵一つ見当たらない。タツヤの几帳面さに改めて感心しながら、全体を見回した。

 部屋は広く、幅6メートル、奥行き10mはある。中央には卓球台ほどもありそうな、大きな作業台がある。今は何も乗っていないが、人造猫のシロを作製するのに使っているタツヤを見たことがある。その時、ハルカは何をどうしているのか全く理解できなかった。奥の壁には机と棚があり、机には最高級のパソコンが二台据え置かれている。棚の方は用途不明な機械がいくつも並び、金属カッターやドリルといった工具に混じってフラスコやビーカーなど、ガラス製の実験器具までが置かれている。ハルカは何に使うのか、一度訊いてみたことがあったが、タツヤが難解な言葉ばかり並べるので、途中で切り上げてしまった。なにやら発明家の研究室という印象を与える部屋だ。

 左右の壁は古い家具類で塞がっている。大きな柱時計は骨董品と言えそうだ。他に草刈機などの園芸用具が、ひとかたまりになって置かれている。今はリビングで光を放つクリスマスツリーもここにあったはずだ。

 一時期、この部屋は循環液の臭いが充満していてひどい状態だった。その頃、彼女はここに決して寄り付かなかった。

 もちろん衣類などは見当たらない。彼女は古びた洋服箪笥から捜索を始めた。引き戸を開けた途端に失望感が広がる。中はきれいさっぱり空になっていた。次に見たのは大型の衣装箱だ。浮き彫りが施された木製の高級感溢れる箱で、大人が二人も入りそうな大きさがある。真ん中には大き目の鍵穴があり、ハルカは駄目かもしれないと思いながら蓋を持ち上げると、あっさり開いた。白い繻子の内張りが見えただけだった。またも空っぽだ。閉めようとしたハルカだったが、異常に気づいて手を止めた。

 かすかに循環液の臭いが立ち昇ったのだ。妙に思いながら、頭を下げてくんくんと臭いを嗅いだ。確かに臭ってくる。よく見れば底に茶色の染みが楕円形に広がっていて、どうもそれが臭気の元らしい。どうしてこんな場所に零れたのか。

 戦慄を覚えたハルカの手から蓋が滑り落ち、勢いよく閉じた箱の音が部屋中に響き渡った。

 ハルカを脅かしたのは一つの思いつきだった。マサトの体は一週間もどこかに隠匿された。これほどその保管庫としてふさわしいものはない。

 三歩後ずさったハルカの尻が、中央の机に当たった。息を荒くしながら箱を見つめる。彼女の中で膨れ上がる疑惑と、それを否定しようとする思考がせめぎあった。

 あの中にマサトが?確かに隠しておくには好都合なところ。鍵までかけられる。私はのほほんとマサトの死骸の上で暮らしていた?いやよ、そんな。ええ、ええ、違うわ。あんなのなんの証拠にもならない。たまたまあそこに液が零れたってこともありうるじゃないの。タツヤじゃない。そうよ、あんな優しい人が犯人のはずない。

「シャツよ。シャツはどこ」

 ハルカは再び捜索に戻った。なんとしても、もう一着を見つける。彼女は次にもう一つの箪笥を調べた。引き出しを次々と改めていく。だが、どれも期待を裏切って何も入っていなかった。右側を調べ終わったハルカは左へ移った。そこにはスチール製のロッカーと書棚がある。ロッカーを開けてはみたが、何かよく分からない機械部品の入った箱や、ぼろきれがあるばかりだ。それから書棚に移った。書棚の扉はガラスが嵌っていて、中が素通しだ。歴代この家に住んだチルドレンの残した書籍やアルバムが一杯に詰まっている。数年前に上が手狭になったので、ここに下ろしたものだ。服をしまうのにこれほどふさわしくないものはない。ハルカはすぐに諦め、作業机に座り込み、部屋を見回した。

 どう見ても、もう探す場所は残っていない。ハルカは途方に暮れてしまう。結局疑惑を解消する証拠は見つからなかった。それどころか、より深まった。

 誰かに相談すべきなの?例えば阿南さん。あのヒト、タツヤをどうする?きっと捕まえてひどい拷問に。ああ、そんなのいや。タツヤを裏切るなんて。でも、彼が本当に犯人だったら?またテロを起こしたら?

「私、どうしたらいい?」

 ハルカは頭を抱えて悩み狂った。自分のことなど、とっくにどこかへ行ってしまった。あの発見に繋がった小さな偶然がなければと、心の底から思った。

 そのハルカの目が書棚の上部に注がれた。新しい見覚えのない本があるのに気づいたのだ。タツヤが買ったものだろう。

 ハルカは台から降りてそこに向かった。書棚の扉を開いてそれらを見つめる。そこに何かの手がかりが、タツヤの心を窺い知れる何かがありはしないかと思いついたのだ。

 どれもハルカには縁のないものばかりだ。『スーパーソレノイド工学入門』『サードインパクト研究序説』『人工知能講座 第1巻〜第10巻』『形而上生物学の基礎』『ATフィールド学発達史』など、学際的な専門書ばかりがずらりと並んでいる。ハルカはタツヤの頭脳の優秀さに感じ入りはしたが、学者の卵といった印象を受けるだけで、タツヤの内面にまではとても手が届かないと思った。

 ハルカはとりあえず頭の上の高さにある本を一冊抜いた。どんなことが書いてあるのか、一応確かめようと思った。『実践・超小型工作機械 応用編』という書名だ。しおりが挟まれたページを開いて読んでみたが、ちんぷんかんぷんな代物で、理解できそうもない。書架へ戻そうと棚に目をやる。

 本と本の間に白いものが見える。

 ハルカは息を呑んで、その異物を凝視した。明らかに隠されたもの。遂に彼女は、タツヤが秘密を隠していることの証しを発見したのだ。恐怖に全身が凍りつく。しかし真実を明かす使命感に駆られたハルカは、怖れつつも片っ端から本を抜き、床に積み上げていった。たちまち白いものの全容が露わになり、ハルカは慎重にそれを取り出した。

 一冊のアルバムであった。だが、見覚えのないものだ。背表紙にマジックで8と番号が書かれている。早速表紙をめくって中を見た。1ページにつき3枚の写真が丁寧に並んでいる。写真の主はハルカではなかった。最初の写真はスポーツチャンバラで対戦するチルドレン二人を撮ったもの。隅にある日付は2081.5.8.とある。昨年の記録だ。明らかに養成所の日常を写したものである。しばらくチャンバラの場面が続いた後、参加者全員が並んだ写真があった。真ん中でカップを持って微笑んでいるのは、今は亡きユカだ。ハルカも参加した大会の記録だった。次に玄関前で親指をしゃぶる小さなチルドレンを抱いたマサコの全身像があった。親子の写真と言っても十分通用する画像だ。優しげに微笑むマサコの姿は、ありし日の長姉の思い出を呼び覚まし、しばし視線を釘付けにさせる。

 それからも養成所の日常が続く。これが元々養成所にあったものというのは明白であった。それがなぜここにあるのか?ハルカは幼い妹たちの写真を身ながら、子供時代を回想しつつページをめくった。やがて終わりが近づいたところで夜の場面になった。意外にもみな屋外に出ている。大勢のチルドレンが集まり、テーブルの上に置かれたご馳走を食べている。別の写真にチヒロとマサトが混じっているのを見つけた。他にもパイロットとパートナーの、養成所の子供たちと一緒になって花火に興じる姿が、何枚もの写真に写されている。缶ビールを手に赤い顔をしたベヒシュタインや、顔見知りのスタッフも大勢見つけた。ハルカはその日のことをまざまざと思い出した。昨年の花火大会の記録だ。彼女もタツヤと共に参加して、楽しいひと時を過ごした。そう言えばタダオが熱心にフラッシュを焚いていた。

 次のページを開いた途端、奇異の念を抱いた。

 写真が2枚、足りなくなっている。他は判で捺したように1ページ3枚になっているのに、左ページでは一番上が、右ページでは真ん中が、空白になっているのだ。誰かが抜き取ったに違いない。最有力なのはもちろんタツヤだ。

 アルバムは次のページが最後だった。そこに異常はない。ハルカは首を捻りながら花火大会の最初に戻った。何度も繰り返し写真を観察した。するうち、奇妙なことに気づいた。

 自分がどこにも写っていない。

 キヨミを初めとするパイロットは全員見つけることができた。唯一、自分だけを除いて。何かある。タツヤはおそらく、ハルカの写真だけを選んで抜き取った。

 物事を都合よく解釈する癖が、この場で発揮された。タツヤは私にプレゼントするために抜いたんじゃ。アルバムを充実させようと。そうよ、きっとそう。

 だったら、その写真はどこにあるのか。最近まで、上にあるアルバムにそんな写真はなかった。そもそも養成所にあるはずのものがなぜここにある?疑惑が揺り戻しをかける。ハルカは心を落ち着けてじっくりと考えてみた。ハルカの写真を取り除く理由はなんなのか。

 突然、ハルカに閃きが訪れた。違う。タツヤが写真を抜いたのは、彼女のためではなく、自分のためではないか。いつもハルカに寄り添うタツヤだ。同じ写真に入っているのが自然だ。タツヤにとって不利な証拠を、処分するためではないのか。

 もう一度写真を改めた。今度はタツヤを捜した。どこにもない。昨年の花火大会から、ハルカとタツヤは揃って姿を消している。

 とにかくこの時、重大な何かが起こっていたのだ。ハルカは目を瞑ってこの日のことを思い出そうとした。些細な事実まで、可能な限り拾い出した。

 あの日7時頃、私とタツヤは家を出た。結構気温が下がってたので、私、カーディガンを羽織ったのよ。養成所まで彼とお喋りしながら歩いた。何を話したっけ?

『チヒロ、いなかったわね。一緒に行こうって言ったのに』

『先に行ったんだろ。そわそわしてたからね。きっと待ちきれなかったんだよ』

 ええと、それから‥‥。そうだ、彼の上着のこと。

『あなた、そのジャンバー、なんか似合わない』

『え、そうかい。じゃ、もう着ないよ』

 ハルカの喉から絶叫が迸った。アルバムが床に落ち、大きな音が反響した。眼はかっと見開かれ、心臓は激しく打った。不意にはっきり甦った記憶が、彼女に恐るべき真実を告知したのである。

 そうだ。今、やっと思い出した。なんて馬鹿なの。今の今まで、きれいさっぱり忘れていた。あのジャンバー。黒いジャンバー。胸に描かれた文字。P、H、O、E、N、I、X!

 Xはタツヤなんだ!リリス教徒でも草鹿でもない。そうよ、彼、私があんなこと言ったんで、二度と着なかった。どこかに閉まっておいたのよ。それですっかり忘れてしまった。タツヤはあのジャンバーを着て、深夜の森を徘徊したんだ。黒が迷彩になるから。なくなった写真にあのジャンバーが写ってた。だから彼、処分したのよ。ああああ、なんてこと!どうしてもっと早く‥‥。もっと前に気づいてたら、マサコねえさんは。あああ、ねえさん、ごめん。私がしっかりしてれば、私が早くにあいつを告発してれば、死なずに済んだかも。

 ハルカは、この場にいたたまれなくなった。地下室自体が不気味な場所と化していた。部屋の壁や床から、タツヤの悪意が放射されているような感覚に捉われた。脱兎のごとく外へ出て階段を駆け上がり、陽光の射す1階を目指した。

 

 ハルカは居間の前と同じ場所に、クッションを抱えて座り込んでいた。何度か、電話機を取ろうと立ち上がりはした。だが、その度に自分の推理に対する自信がぐらつき、元の位置に戻った。彼女に告発を躊躇わせたのは、ひとえにタツヤに対する愛であった。何度も自分の推理を洗い直し、どこかに間違いはないか、いやむしろ間違いがあるはずだ、と弱点を探そうとした。

 彼女が欲しかったのは確たる証拠だった。状況証拠はたくさんある。ポロシャツのレシート、衣装箱、養成所のアルバム、そしてXの記憶。しかしどれも決定的なものではない。最も不利な証拠はアルバムだが、それとて拾ったとかどうとか理由を付けられそうだ。隠してあったように見えたのも、実は棚を整理する際に横向きになってしまい、自然と奥に引っ込んでしまったのかもしれない。

 本来、そうした捜査は保安部の仕事であって、ハルカとしては事実を告げるだけで十分だ。しかし彼女にとって、愛人を官憲に売る行為をするには不足があった。

 タツヤの立場に立って考えようと思った。あの日、タツヤは何をしたか?使徒戦の緊張のさ中、マサトの下に出向いて殺す。隣りだから、運ぶ距離は僅かだ。チヒロに掛かった電話はどうか。声の主は別人とは考えられないか。マサトの遺骸はあの衣装箱にしまっておく。そして二日後、ハルカの留守に、猫はうっちゃってマサトの遺体を台に乗せる。カッターを回転させ、首筋をざっくりと。

 そう言えば、首はどこに?ハルカは思いつき、可能性を探ってみた。今日に至るまで首は発見されていない。犯人は巧妙に隠した。自分がタツヤならどうするか?

 ハルカは立ち上がって窓際に行った。外には見事に手入れされた英国風の庭園が広がっている。普段なら、色とりどりの花々と緑が目を楽しませるはずだ。だが、この時のハルカは冷たい視線を庭の各所に走らせるだけだった。

 この庭こそ、首の隠し場所にふさわしいのではないか?ハルカは記憶を辿った。あの頃、庭のどこをどういう風にしていた?まずキンギョソウを植えた。それからトレニア。どちらも今は十分に育ち、盛りを迎えている。

 ハルカの視線がトレニアの群れに止まった。わずかな不自然さを見つけ、慄然とした。憶測が次々と裏づけられていくのに寒気を覚えた。トレニアは幅90センチ、奥行き30センチほどの範囲に植えられている。その中心部が、左右より明らかに育ちが悪いのだ。その差は10センチほどにもなろうか。この差はどうして生まれたのか。

 ハルカは大急ぎで外に出て、疑惑の花壇の前に立ち、花の群れを眺めた。中心部の短い部分の形が、彼女の疑いをさらに濃くした。それは人間の首の形に大体あっているのだ。この場所のトレニアたちは、根を十分に伸ばせないために成長が遅いのではないか。下に何か硬いものが埋まっているために。

 塀の向こうの離れた場所に佇立する衛兵たちは、彼女を見向きもしなかった。ハルカはそっと家の壁に沿って歩き、移植小手を探した。やっと裏庭の壁に立てかけてあるのを見つけた。それを握り、元の場所にとって返した。慎重に小手の先を根元に突き刺す。10センチほど潜ったところで土を起こした。白い根が土の底から無数に突き出ている。そこにできた穴に再度小手を刺し込む。

 小手の先端が何かに突き当たった。

 何度も小手を往復させる。その度に同じ深さで先が止まるのだ。そこには確実に何かが埋まっている。怖れと絶望の予感に震えながら、呆然として穴を見つめた。やはり彼女の推理は正しかったのか。彼女の胸の中には様々な思いが交錯し、後方から見つめる視線に気づきもしなかった。

 ここまで来たら進むしかない。ハルカはトレニアを根こそぎ引き抜くべく、小手を深く挿し入れた。その瞬間、首筋に強烈な打撃を受けた。意識を失い、前のめりに倒れかかるハルカの肩を、何者かの手が掴んだ。

 

 病院の廊下にある長椅子で、阿南は深くため息をついた。もう3時間もこの場所でベヒシュタインの安否を気遣っているのだ。研究所から搬送された博士は危険な状態にあった。相当量の輸血と、医師団による緊急手術が直ちに執行されたわけだが、博士が延命できるかどうかは何も知らされていない。阿南自身が太腿に受けた傷は簡単な手術で済み、おかげでこうして歩きまわっていられる。血みどろの制服を脱ぎ捨て、私服に着替えることもできた。

 阿南は腕時計を見て、もう午後6時を回ったことを知った。事件から6時間半が経過したことになる。いい加減結論が出てもいい頃と思った途端、廊下の向こうから相沢の呼ぶ声が聞こえた。

 早速駆け寄った阿南に、相沢は吉報を告げた。「安心しろ。博士は無事だ。生命に別状なしだとさ」

 ようやく阿南の愁眉が開けた。「そうですか。良かった!」

「お手柄だったな。麻酔から醒めて意識を取り戻してる。話をしてもいいそうだ。行こうぜ」

 相沢は親しげに阿南の肩を叩き、促した。阿南も満足げに微笑んだ。

 

 ベヒシュタインは病室のベッドに、棒のように横たわっていた。阿南はその彼が、10歳も老けたかのように見えた。相沢がまず博士の枕元に陣取り、阿南はその横に席を占めた。

「おお、阿南君か。君があれをやっつけてくれたそうだな。君は命の恩人だ。礼を言うよ。ありがとう」

 博士の口調はしっかりしているが、憔悴した様が見てとれる。阿南は気の毒に思いながら、「どういたしまして」と答えた。

 相沢が言った。「博士、大変な目に遭われてすぐにこんな話で恐縮ですが、事は急を要しますのでお答えください。先生は30分と時間を区切りましたので、簡単に質問します。まず、エリーゼがなぜこんなことをしたのか、動機は分かりませんか?」

「いや、まるで」

「あなたを襲ったときに、何か言いませんでしたか?」

「まったくの無言だった」

「研究所にあの子がいることを知っていましたか?」

「知らなかった。ドグマの仮住まいにいるものと思っていた」

「今日、エリーゼがどこでどうしているべきだったか、ご存知でしたか?」

「どういう意味かね?」

「今日はあの子、ボランティア活動の予定がありました。なのに、来なかった」

「そうだったのか。いや、正直、知らなかった」

「だとすると」阿南が発言した。「あの子は人間の指示を無視した。四原則が無効になってたことは、人間を襲ったことで明らかです。おそらく理由があって、研究所の中に潜んでいたんだ」

「私を殺す機会を窺っていたのか?」

 阿南は首を横に振った。「それなら、なにもあの時間じゃなくていいはずです。博士、あの時戸口で密かに立ち聞きをしていたんじゃないでしょうか。僕との会談はあの子にとって関心事だった。そして、全アンドロイド検査の話を聞いた。あの子はそれを阻止するか、どうせばれるなら大物を殺してしまえと武器を取った」

「私をか。なぜだ。あんなに可愛がったのに‥‥」

「人間と一緒にはできません。博士、ジロウのケースと似ていませんか。ある時点までは徹底的に擬態をして通した。ジロウは本当の土壇場まで忠実なアンドロイドでした。ここぞと言うときに本性を現した。総司令のことは人間と思っていたのでしょう。次がエリーゼ。あの子もこのままでは何の成果もなく破滅すると判断した。そこで最も手近で、狙いやすい重要人物を道連れにしようと思い立った」

 博士は真っ直ぐ天井を見上げながら考えに耽り、やがて答えた。「うん、君の言う通りだと思う」博士はくすん、と鼻を鳴らした。目に涙が溜まっているのが哀れだ。同じようにアンドロイドを愛せる者として、阿南は同情の念を深くした。

 間を置いて阿南は言った。「博士が計画するアンドロイドの検査、これは有効ですが、終わるまでどれだけかかるか、分かったものじゃありません。ましてこの状態だ。博士、もっと手っ取り早い手段があるのでは?例えば二人の共通点を探る」

「共通点?」

「ええ、僕はジロウとエリーゼには、同じ匂いを感じるんです。二人を変えたのは同じものなんじゃないか。もしかしたら、二人の接点がどこかにあった。両方と接触のある人間がいた」

 ベヒシュタインは興味を抱いた。彼もこうした推理が嫌いではなかった。「両方とか。範囲は狭いな。ジロウは滅多に作戦部を出ない。エリーゼは私の家とドグマ、それもごく狭い区域にしか行けない」

「家から一人で出歩くことは?」と、相沢が訊いた。

「ないな。私はあの子に勝手な行動を許さなかった。常に私の目の届く範囲に置いた」

 阿南は博士の目をじっと覗き込んで言った。「二人共、あなたが管理する研究所の所管でしょう?」

「所員が怪しいと言うのか」博士は怒気を孕んだ目で阿南を見た。阿南は平気な顔でいる。博士は憮然としながら考えに耽った。相沢は所員の洗い直しをすること、と手帳に書き付けた。

 阿南がぽつりと思いつきを洩らした。「ハッキングをやったとして、どれだけ時間がかかるんでしょう?」

「長いぞ。OSを丸ごと更新するようなものだ。コンピューターの性能にもよるが、まあ、BOSATSUなら数分、てとこか。普通のパソコンなら2時間。アンドロイド同士の直接コンタクトも似たようなもんだ。研究所のメインコンピューターで30分」

「メインコンピューターの使用はどう管理してるんですか?」と、相沢。

「きちんと記録してるよ。何にどう使ったか。しかし可能性は薄いな。常に二人以上の人間が監視している」

 阿南が言った。「ジロウが作戦部から出るのはどういう場合ですか?」

「定期的に行われるメンテナンスだな。他にはない」

 難しい顔をした阿南は、ペンの尻で額を掻きながら言った。「整理しましょう。まずジロウは殆ど作戦部を出ませんが、エリーゼは作戦部に近寄ることすらない。ですから、作戦部に犯人はいないと断言できる。自ずとジロウのメンテをした時がくさいということになります」

 博士は口をへの字に結んで考え込んだ。部下にスパイがいるとは信じられなかった。外部からのハッキングの方が、まだしも可能性があると思った。第109使徒襲来のような。

 そこまで考えた博士に啓示が訪れた。それは、驚くべき着想だった。目を大きく見開き、口をぽかんと開けたのを見た阿南は思わず声をかけた。

「どうしました?」

 博士は答えず、ぶつぶつと何事か呟きながら頭を掻き毟った。二人の捜査官は汗ばむ手を握り締めて、博士の発言を待った。

 ようやく博士は視線を泳がせながら言った。「えらいことを思い出した。阿南君には第109使徒戦の話をしたな。あの時のことだ。緊急事態が告げられた時、私は研究所でアンドロイドのメンテナンスをやっていた。なにせ急を要することなんで、すべてオートマチックにしてから部屋を出た。メインコンピューターが、なにからなにまで片付けてくれるはずだった」

「中止にしなかったんですね」と、阿南は顔を強ばらせて言った。

「私に過信があった。攻撃対象はBOSATSUだ、ここに来ることはないと。若いの一人を置いて、殆ど引き連れて指令室に向かった。彼なら異変に気づくこともなかっただろう」

 相沢が額に汗を浮かべながら大声を上げた。「いったい何があったんですか!?」

 博士は凄みのある目で二人を見回した。「問題はその時、誰のメンテをしてたかだ。はっきり思い出した。一人はジロウ、もう一人はエリーゼ」

 遂に反逆者二人の接点が現れた瞬間だった。相沢は驚愕して身じろぎもしなかった。阿南も唖然としながら言った。「それじゃ、彼らをハッキングしたのは使徒だったと!」

「その通りだ」ベヒシュタインは痛恨の極みにうち沈みながら、続けた。「陽動作戦にしてやられたのだ。使徒は全勢力をデータベースに差し向けたように見せた。その実、ごく少数を密かにあそこに派遣したのだ。どうやったか、セキュリティをすり抜けてメインコンピューターを乗っ取った。たまたま接続されていたアンドロイドが侵略されてしまった。アンドロイドの使徒化だ。人格を入れ替えたようなもんだ。エリーゼはともかく、ジロウは素晴らしい橋頭堡になった」

 三人は沈黙に陥った。皆、陰で使徒をあやつる者の狡猾さ、巧妙さに鳥肌が立つ思いだった。

 相沢が沈黙を破った。「しかし二人とも死んだ。これでクリーンになったと喜ぶべきでしょう」

「いや、まだだ」ベヒシュタインははっきりと断言した。阿南と相沢はどきりとして博士の声に耳を傾けた。「さっきから思い出そうとしているんだ。あの時、メンテをしたのは二人だけだったか?どうも、もう一人いたような気がしてならんのだ」

「何ですって!」阿南が叫び、身を乗り出して博士に迫った。「思い出して!これは一大事だ!」

「確かにいた。それが誰かとなると、どうにも出てこない」

「そこをなんとか。スパイは今この瞬間にも、テロを企てているかもしれないんですよ!」

「待ってくれ!4年も前のことだぞ!私だって、そう完璧に覚えてるはずないだろう!」

 怒鳴り返す博士の剣幕も凄まじい。病室のドアが勢いよく開き、医師が入ってきた。騒ぎを聞きつけたのに違いない。「あんたら、何騒いでる!怪我人をどう考えてるんだ!すぐに出てけ!」

 仁王立ちで出口を指す医師の怒りには、阿南と相沢も逆らえなかった。面会を許された時間もなくなっていた。仕方なく二人は懊悩するベヒシュタインを残して廊下に出た。 

 阿南はすぐに相沢に提案した。「研究所に行きましょう。資料があるはずだ。4年前のあの日、誰がメンテナンスを受けていたか」

 相沢は黙って頷き、二人の捜査官は廊下を足早に突き進んでいった。

 

 研究所には鮫島が一人残っているだけだった。相沢と阿南の突然の来訪は、帰り際の彼を面食らわせた。阿南が早口に告げる事件のあらましは、ベヒシュタインと同様の衝撃を彼に与えた。そして彼もまた4年前の記憶はおぼろになっていた。

「そこで記録が見たいんです。78年の7月28日、誰のメンテをここでやったのか」阿南が有無を言わさぬ口調で言った。

「記録、記録。4年前ですか。電子媒体はもうないですね。保存期限が過ぎている」

 阿南と相沢は鮫島の答えに気落ちした表情を見せた。相沢が訊いた。「じゃ、紙は?日誌とか」

「そりゃ、あります。倉庫に保管してありますが」

「すぐに案内して」相沢が鮫島を引っ張り、三人は研究所の奥へ向かった。倉庫は広い室内のはるか奥にあった。そこへ歩く途中、鮫島は気弱げに言った。「あの、少々時間が掛かると思います」

 二人の捜査官は倉庫のドアが開いた途端、驚いて口も利けなかった。学校の教室ほどもあるその部屋は、うず高く天井近くまで積まれた段ボール箱で充満している。

 阿南が呆れながら訊いた。「で、ここのどこに?」

「それが皆目‥‥。重要とは思ってなかったので」と言って、鮫島はすまなそうに頭を掻く。

「まったく、あんたら科学者ってやつは!」

 憤りを見せた阿南は携帯電話を取り出し、公安二課を呼び出した。

「ああ君、阿南だ。今そこで手の空いてる奴全員、ドグマの人口知能研究所に寄越してくれ。理由?そんなの後で説明する」

 電話を切った阿南は上着を脱ぎにかかり、恐縮した鮫島に言った。

「さあて、どこに手を付けたら当りが出ると思います?」

 

 ハルカは唐突に目覚め、薄暗い寝室の天井を見上げた。そこが何の変哲もない、自宅のベッドだと気づくのに時間はかからなかった。驚愕の声を上げ、体を起こす。さっきまで庭にいたのに、なんで?そうだ、首をいきなり叩かれた。床に足を下ろして自分の状態を観察する。服は着たままだ。毛布も掛けられていなかった。部屋のカーテンは完全に閉ざされ、外光は全く入ってきていない。明かりはぼんやり天井の小玉が点いているだけだ。すっかり夜になってしまっていた。

 腕時計で確認すると6時36分にもなっている。3時間以上も意識を失っていたわけだ。それにしても犯人はだれか?なぜわざわざ自宅へ入れて、ベッドに寝かせるような真似をしたのか?

 簡単明瞭な答えがある。これをやったのはタツヤだ。

 もう疑問の余地はなかった。絶望と悲しみが同時にハルカの胸を満たし、体は凍ったように動かなかった。

 やっぱりタツヤなんだ。私の彼がマサトをやったんだ。そして私にまで暴力を振るった。なんてひどい。どうして?そんなことできるはずないのに。なんで?なんで私がこんな運命に遭うの?

 その時、居間の方向から皿が触れ合う音が聞こえてきた。ハルカはぎくりとして出口を凝視した。タツヤがこの家にいる。他の誰かとは思いもしなかった。ハルカは立ち上がり、下の隙間から光が洩れてくるドアと向かいあった。バターの焼けた香ばしい匂いが漂ってくる。タツヤはこんな時にもかかわらず、いつものように夕食の準備をしているのにちがいない。

 チヒロの顔が脳裏に浮かんだ。泣き崩れる哀れな姿。ハルカは彼女のために、自分のなすべきことをしなければならないと思い定めた。あそこにいるのはもうかつての愛人ではない。

 チヒロ、心配しないで。仇はとってあげる。

 戸口の傍のスイッチに手を伸ばし、明かりを点けた。丸腰でタツヤに会う気はなかった。ハルカはダブルベッドの下の収納を開けようと、部屋の中央まで歩いた。

 その時、彼女は見た。

 ベッドがある方とは反対側の壁に横長のチェストがある。装飾として置かれた青磁の壷の横に、最悪な物体が鎮座していた。

 ハルカを見上げるマサトの首が。

 ハルカは思わず一歩退き、恐怖に慄いてそれを見つめた。遂に確たる犯罪の証拠が眼前に出現したのだ。もとよりそれは微動だにしなかった。顔のどこにも塵一つ付いていない。生けるがごとき精巧な首は、置物のように見えなくもない。おそらく厳重に梱包された上で埋められていたのだろう。

 ハルカは衝撃から立ち直ると、厳しい顔つきでベッド下の収納を引き出した。そこにはスタンガンと手榴弾に並んで、小振りの自動拳銃が置いてある。ハルカは拳銃を取り、安全装置を外した。そこからチェストに向かい、マサトの髪の毛を鷲づかみにして携えた。

 いよいよタツヤと対面しようと一歩踏み出す。が、膝小僧が震え、次の一歩が出なかった。ハルカは深呼吸をして決意を固め直す。もう一度チヒロの顔を思い浮かべた。

「ファーストチルドレン、私に力と勇気を」

 一言呟いたハルカは、遂に裏切り者と対峙すべく歩き出した。ドア一枚隔てただけの居間が、遥か遠くのような気がした。

 ドアの向こう側にはいつもと同じ風景があった。エプロンをしたタツヤが皿をテーブルに置こうとしている。部屋の一角に置かれたツリーが場違いな派手な光を放ち、この場を夢幻的に彩っている。

「やあ、気がついたね。丁度良かった。夕食の時間だよ」

 タツヤが普段通りの微笑を湛えて言った。犯罪の事実などまったく知らぬと言いたそうな。ハルカは委細構わず居間の中央まで出て、銃を真っ直ぐ構えた。

「動かないで!両手を高く上げなさい」

 タツヤはほんの少し顔を顰めただけであった。

「ハルカ、僕はなんにもしない。本当さ。もし、君を殺す気があるなら、とっくにやってた。だから、少し落ち着いて話さないかい。洗いざらい、何もかも言うから」

「ふざけないで!この反逆者!よくも私を裏切ってくれたわね!」

「すまない。本当にすまないと思っている。お詫びに僕は君に全てを預けるつもりだ。だから、話を聞いてくれないか?ねえ、長年連れ添ったんだ。最後に僕の告白を聞いてから幕にしたっていいだろう?」

 彼の態度からはなんの害意も感じられなかった。おだやかに澄み切った表情をしている。だがハルカは警戒を解かずじりじりと近寄った。

「あんなことをされて信用できるもんですか!」

「ごめんよ。あれが限界だったんだ。僕が君に行使できる手段としてはね」

「いつ帰って来たの?」

「料理の仕込みがしたくてね、ノルマを超特急で仕上げて、早目に帰らせてもらったんだ。僕が帰宅したとき、君は家にいなかった。たまたま外を見たら、君は花壇の前に座ってトレニアをいじっている。何もかも終わりだと覚ったよ。君をあのまま自由にさせるわけにはいかないので、眠ってもらうことにしたんだ。すまなかった」

 ハルカはなぜ彼がふいうちを喰らわせることができたか、合点がいった。偶然が彼の味方をしたのだ。あの時、裏まで移植小手を探しに行っている間に、彼は家に入った。そのタイミングが少しでもずれていたら、こうはなっていなかった。

 タツヤは相変わらず落ち着き払った態度で、ハルカに語りかけた。「誓ってもうなにもしない。話が終わったら君に僕の運命を委ねる。ねえ、お腹が空いているんだろ?僕の最後の料理を食べてくれないか?」

 テーブルの上には湯気を立てる魚料理と、チョコレートムースやサラダなどが並んでいる。その前にはサンタの人形が乗ったショートケーキが置かれ、その脇に氷に漬かったワインのボトルがある。さらに中央には背の高い蝋燭が立てられ、青い炎を優雅に立ち上らせている。自ずとハルカの腹が鳴った。昼前から何も口にしていなかった。

 それでもハルカは答えず、電話機の傍まで行き、首を床に置いて受話器を取った。

「やめろ!みんな死ぬぞ!」

 タツヤの怒声が響き渡った。ハルカはぎくりとして受話器を元に戻した。

「どういうこと?」

「脅しじゃない。本当なんだ。すべて説明する。お願いだから席に着いて」

 ハルカは真剣に訴えるタツヤの態度によって心を動かした。彼は何か切り札を持っている。嘘とは思えなかった。言う通りにした方がよさそうに思えた。油断なく銃を突きつけながら食卓の椅子に座る。マサトの首はタツヤに向けてテーブルの真ん中に置いた。料理の甘い香りがハルカの食欲を刺激した。

「いいわ、話しなさい」

「銃を置いたら?」

「気にしないで」

 タツヤはため息をつき、ハルカの向かいに座った。いつもハルカの食事時にするように。ハルカの前の大皿を指して言った。「最高級の舌平目だよ。きっと満足がいくと思う。冷めないうちにどうぞ」

「ほっといて頂戴」

 ハルカの口調は依然厳しい。タツヤは苦笑を浮かべ、椅子に深く座り直した。

「何から話そうか。そうだ、まず自己紹介をしよう。僕は使徒だ」

 あまりに意外な言葉だ。ハルカは耳を疑った。

「今、なんて言った?」

「使徒なんだよ、ハルカ。広い意味でね。順を追って話そう。発端は4年前のことだ。第109使徒侵入事件を覚えているかい?」

「よく覚えてるわ」

「ベヒシュタイン博士の活躍で彼らは全滅した。特効薬のナノマシンを注入されてね。だけどね、後継者を残すことに成功したのもいたんだ。あの時、僕は研究所でメンテナンスの最中だった。他にも二人。作戦部のジロウと、みんなのアイドル・エリーゼちゃんだ」

「ジロウですって!アイネムを撃ったジロウのこと?」

「そうとも。彼らはまずメインコンピューターを乗っ取った。直結されていたのが僕らだ。彼らは自らの複製を残すために侵入を始めた。僕らはその時、スリープモードに入っていて、どのように変えられていったかは知らない。目が醒めたとき、世界は一変して見えたよ。これまでの活動が色褪せ、無意味なもの思えた。代わって崇高な使命が深く刻み付けられていた。来襲する使徒を助け、フォースインパクトを現実のものにすること」

 ハルカはタツヤの告白に戦慄を覚えた。今、目の前にいるのは、憎むべき不可思議な天敵と同じ者なのだ。

「その意味、意義などは知らない。ただもうそのことに至上の価値を見出した。他の二人も唖然としているのが分かった。もちろん誰も変化を口にしなかった。目と目で分かり合うって言うのかな。僕はメンテを終えて服を着た瞬間から、使徒としての生活に入った。ただしそれまでの活動ぶりとはなんら変わることなく。僕は、僕がこのジオフロントでどんなに貴重な存在かを弁えていた。僕が果たす使徒としての役割は、小さなものであってはいけない。なしうるなら、フォースインパクトの実現に一役買うことだ。それを実現するために、果てしない忍耐と知力の傾注を惜しまない。こうして僕らは、表向きは忠実な人間の友として、裏では妨害工作を謀るテロリストとして活動してきた。ジロウは天晴れだったな。あれほどの戦果を上げるとは」

「エリーゼもなの?あんな可愛い子が‥‥」

「あの子は随分不利な立場にいる。活動範囲が限定されていて、何をどうしたらいいか、分からないんじゃないかな」

 タツヤを狙う銃が震えた。ハルカの中に湧き上がった疑惑は、あまりに惨めで悲しいものだった。

「じゃ、じゃ、あなた、私と一緒にいてどう思っていたの?甘い言葉の裏で私を憎んでいたの?私を抱きながら、どう殺すか考えていたの?」

「断じて違う」タツヤははっきりと断言した。「そこがジロウとの違いだ。僕は一貫して君を愛している。その差はどうして生まれたのか?僕なりにプログラムを解析してみた。それで分かったのは、僕の場合、書き換えが不十分だということだ。ロボット工学四原則は知っているね。人間に対するこれらの原則は完璧に無効になった。ただ、知識としては残っているので、擬態を続けるのは簡単だった。ところが、チルドレンに対する残り三つの原則は残ったままだったんだ。分かるかい?君への愛情は消されなかった。チルドレンへの忠誠心もだ。何たる皮肉だ!使徒がその敵の中の敵を愛するとは!僕は人間なら平気で殺せる。だけど、決してチルドレンには手を出せない!僕ならちょっと工夫すれば、何度でもチルドレンを皆殺しにできただろうに!」

 タツヤは人間のように頭を掻き毟った。その苦悩する様は、タツヤの心情を些かも歪めていなかった。ハルカは呆然と見守るだけであった。やがて落ち着きを取り戻したタツヤが続けた。

「考えてみて。使徒が来るたびに僕がどれほど苦しんだか。僕の半分は使徒の勝利を願う。もう半分は君の無事を心の底から祈り続ける。自我の分裂だよ。今までよく狂わずにやってこれたと思う。どうしてこんなことになったのか?答えは時間にあった。僕の書き換えが終わった時刻がね、丁度ベヒシュタイン博士が注入したナノマシンが、研究所のメインコンピューターに到達する時刻に一致しているんだ。つまり、書き換えは中途半端で終わってしまったんだ。第109使徒は自分が侵入した痕跡を消し去り、消滅した。多分、最後が僕だったんだ。ジロウとエリーゼはおそらく間に合っていたと思う」

 ハルカの拳銃を持った手はテーブルの上に置かれていた。タツヤを撃つ気力が萎えてしまったのだ。視線が落ちて、豪華な料理を見るともなしに見ていた。

「食べたほうがいい。もう冷めてしまったね。温めようか?」

 ハルカは無言で首を振り、ナイフとフォークを取った。舌平目の身を削り取って口に運ぶ。高価な海の珍味は、彼女になんの感銘も与えなかった。

 タツヤがおもむろに告白の続きを始めた。「そろそろ、僕の犯行を語ろう。使徒となってからの僕は悩み続けた。チルドレンに傷をつけることはできない。そういう行為は選択肢の中になかった。だけど僕は使徒だ。何かをやらなければならない。ネオ・ネルフに致命的なダメージを与えること。人間の暗殺もあり得たが、一人二人殺したところで、次の人間に代わるだけだ。もっと強烈な効果を与える手段はないか?そうして閃いたのが、ドグマ、それもチルドレン培養所の破壊だ。もうチルドレンを生まれなくする。苛酷な戦いに少女たちをつぎ込むことを止めさせること。非情な人間たちに抗議を叩きつけるんだ。それが僕の大目標になった。まだ生まれていないチルドレンを死なすのに抵抗はなかった。

 だけど、僕自身がドグマに入れるのはメンテナンスの時に限られていた。行ける場所も研究所だけだ。そんな僕が目標を果たすにはどうすればいい?半年ほど悩んだ末に出した結論が、爆弾を送り込むことだ。パートナーの体に組み込まれたマイクロS2機関、これを人為的に暴走させたら?思いついたときには体が震えたね。研究所は培養所の真上だ。スーパーソレノイド爆発なら、十分なダメージを与えるはずだ。こうして僕は計画を練り始めた。

 まずS2機関そのものの研究からだ。何冊もの本を読み、どこをどうすれば暴走を引き起こせるかを学んだ。それから、それに必要なミリマシンを初めとする機材の購入。それも目立たぬようにしなけりゃならない。そこで僕は君に提案したのさ。ペットは要らないかってね」

 ハルカは盛んにペットのいる楽しさを強調するタツヤを思い出した。ほら、見てごらん、可愛いだろう。どう、こんなのがすり寄ってきたら和むと思わないかい。そのシロは窓際で体を丸くして眠っていた。

「あの頃のあなたはしつこいぐらいだった。完成品でも良かったのに、あなたはキットに拘ったわ。もっとリアルなものにできると言って」

「その甲斐あって君は購入に同意した。これで一気に計画は動き出した。実は関係のない機材まで買い揃えることができた。君はそっちには無関心だったね。こうして決行の日は近づいてきた。本当言うとね、あの日の1週間前には、99パーセント出来上がっていたのさ。ほんの少し手を入れるだけでよかった。そうしておいて、わざと循環液を地下室の床にぶちまけた」

「わざと?そうか、私を近づけないためね?」

「その通り。君に邪魔をされたくなかった。そうするうちに第128使徒の襲来だ。僕はその日を待っていた。村が最も静まり返る日だからだ。マサトの家は隣りだし、交流も深いから、狙うは彼と決めていた」

 タツヤの告白は遂にあの運命の日に差し掛かった。ハルカは口を休めて皿にナイフとフォークを置き、彼の言葉に聞き入った。

「午前9時45分、僕は密かにチヒロの家に行った。マサトは友好的に迎えてくれたよ。僕はドレッシングを切らしたので、貸してくれないかと頼んだ。彼は二つ返事でオーケーしてくれた。冷蔵庫まで歩む彼の背後にそっと忍び寄る。右手に懐から取り出したスタンガンを持っていた。それを無防備な首筋に押し付けてやった!ところが、彼は一撃では死ななかった。振り向いて僕に掴みかかってきた!揉みあいになり、椅子が吹っ飛んだよ。それでもダメージのない僕の敵じゃない。もう一度顎の下にスタンガンをあてがったら、今度はあっさりと止まってくれた。僕は格闘の跡を片付け、彼の遺骸を抱きかかえて裏口から外に引きずり出す。うちに戻るのも裏口を使った。地下室へ運び込んであの衣装箱に詰め込み、しっかり鍵をかける。その間、わずか15分だった。後はいつもの日常に復帰するだけだ。すべては完璧に運んだはずだった。

 乱れた髪を直そうと、鏡を見て愕然としたよ。襟のボタンが一つなくなっているじゃないか。揉みあいの時に取れたんだな。僕はすぐに彼の家にとって返した。床を血眼になって探したさ。だが、どうにも発見できない。どうする?君らはじきに帰ってくる。仕方がないので、シャツを新しく買うことにした。幸い次の日は休みで、外出の予定も入っている。あそこでこっそり新しいのを買えばいい。いずれあの家でボタンは発見されるだろうけど、あのシャツはよく見かけるものだから、僕に結び付けられることはないだろうと踏んだんだ。僕のシャツさえきちんとしていればね。」

「あなた躊躇う私に、殊更熱心に外出を勧めたわね」

「あの日を外したくなかった。次の休日まで10日もある。その間にボタンを発見されると困ったことになるから。後日、地下商店街で同じ柄のポロシャツを見つけたときは力が抜けたよ。あの苦労はなんだったのかってね」

「私に内緒であのシャツを買った。まさかばれるとは思わなかったでしょう」

「このレシートだね?」

 タツヤは胸ポケットから問題のレシートを抜き出し、ハルカに示した。彼女が寝ている間に回収したのだ。ハルカはこくりと頷いた。

「いったいどこにあったんだい?間違いなく捨てたのに」

「猫よ」

 彼女は淡々と発見の経緯を語った。聞き終わったタツヤはちっと舌打ちした。

「なんとまあ、意外なところから綻びが出たもんだ。皮肉だね。僕のために造ったものが、僕を破滅させるとは」

「不思議なのはあの電話よ。声色でも使ったの?」

 タツヤは自慢げににんまりと笑った。「まさか。このトリックは前から考えていた。こういう風にしたのさ」

 彼はポケットに手を入れ、短いコードを取り出した。両端が長いプラグになっている。そしてテーブル上のマサトの首を掴み、それを耳に挿入した。片方の端を同じように自分の耳に差し込む。タツヤはマサトの顔をハルカに向けた。突如マサトの口が開いた。

「やあ、ハルカ、久しぶり。会いたかったよ。チヒロは元気でいるかい?」

 首だけのマサトが喋った。ハルカはぞっとして思わず身を引いた。

「首だけというのもなかなか便利だよ。お腹は減らないし、背中が痒くなったりもしない」

 軽口まで叩くマサトが不愉快になった。「やめて!」と叫び、タツヤに銃口を向けた。タツヤは小さく「ごめん」と呟き、コードを抜きにかかった。

「冒涜するにも程があるわ」

「すまない。悪乗りしてしまったよ。続きにしよう。マサトの家からは携帯電話を盗んできておいた。本当言うと、君に起きてていてもらった方が良かった。その方がクリアなアリバイになった。仕方なく君が寝入ったのを見てから地下室に下り、マサトの遺骸を起こして今見せた手口を使い、チヒロに嘘の連絡をした。これでこの時にマサトは生きていたことになる。ただ、それだけじゃ不十分だ。僕は表に出て、予定になかった庭仕事を始めた。アリバイ作りのためにね。すぐにユウヤさんを見つけられたのは幸運だったな。彼が、僕の不在証明を強固にしてくれた。後はご存知の通りだ」

「地下室でマサトの死骸をどうしたの?」

「ポロシャツを買った次の日から作業にかかった。遺骸を作業台に乗せ首を切断。循環液が大量に漏れたけど気にもしない。シロで予防線を張っておいたからね。まず頭からメインメモリーを取り出し、パソコンを使って初期化してやった。これでマサトは名実共にこの世から消え去った、と、誰しもそう思うよね?しかし意外だったなあ。あんな形で復活するとは。だけど正直、ほっとした気分になったよ。チヒロも元気になったし。ベヒシュタイン博士には心底感謝した」

「まさか、あれで罪が帳消しになったと思ってないでしょうね。チヒロは片輪も同然になったのよ。周りもどれだけ苦しんだか」

 ハルカの声には怒りが漲っていた。きつい視線が、突き刺すばかりにタツヤを睨みすえた。対するタツヤは表情を表に出さなかった。

「返す言葉もない。話を戻そう。アンドロイドの体内は極めて複雑な作りになっている。本格的な解体などできるわけがない。やったところで工作の跡は簡単に見つかってしまう。そこで密かに調達したミリマシンを使うことにした。シロを造るためにという理由で買った機材が役に立った。複雑といっても隙間は多い。調整したマシンを、何度も注射器を使って注入していくんだ。作業を終えるには膨大な時間がかかった。一日の大半は台の上に乗せてあった。けど、君が来る懸念はなかった。君が嫌いなあの臭いが、防波堤の役目を果たした」

 シロの作成には、機材の購入、悪臭による地下室の孤立化、さらに新たに発生する臭いのカムフラージュという二重三重の目的があったのだ。

「6月13日の午前、遂にマサトの爆弾化がなった。僕はマサトの首をビニール袋に詰めて、こっそりトレニアを植える予定の場所に埋めた。残った体を衣装箱にしまい、ほうっておいた猫の仕上げに移った。たったの30分で終わったよ。君の喜ぶ顔が瞼に浮かんだものさ」

 ハルカはその日のことを思い出した。訓練から帰宅して家のドアを開けた途端、床の上にいる白い動物がこちらを振り向いた。彼女は一瞬の驚きのあと、にゃあと鳴く猫の可愛らしさに思わず歓声を上げた。

「案の定、君はとても喜んでくれたっけな。そして運命の14日だ。午後11時半頃、僕は君が完全に眠ったのを確かめ、行動を開始した。少しでも目立たぬよう、2階にしまってあった黒いジャンバーを着た。靴も新しいのを履いた。そして地下から裸にしたマサトを運び出す。暗い森の中を懐中電灯を携えてあの場所に運んだ。放り出すだけだから簡単なものさ。

 後は待つだけだ。マサトの遺骸は発見され、やがて部品をリサイクルするために解体される。それにはせいぜい10日もあれば十分だと思っていた。技師の手がS2機関の傍のちょっとした回路基盤に触れる。その途端、隠されたごく細く短い線が切れる。恐怖の暴走の始まりだ。誰も止めることはできない。僅か数秒で臨界に達し、周囲は一瞬で蒸発する。人口知能研究所は壊滅、真下のチルドレン培養所もただではすまない。ハルカ、あの層と下の層との間隔はたったの5メートル、中は隙間だらけで、重要なパイプが何本も走っている。爆発は容易く下層に達し、炎が上がり、主要施設はことごとく破壊されるだろう。デリケートな環境で培養されるチルドレンの幼児たちはひとたまりもない。再建までにどれほど時間がかかるか。少なくとも3年はチルドレンの供給をストップできる。僕はそう読んだ。

 しかし、しかしだ!10日経っても、一月経っても爆発は起きない。僕はあせりを覚え始めた。回路の設計に不味い点でもあったのか?心配になった僕は、メンテナンスの時にさりげなく技師に聞いてみた。意外な答えが返ってきたよ。なんと遺骸は手付かずで、地上部のコンテナにしまわれたというじゃないか。理由は最寄りの倉庫が満杯になったからだそうな。僕はさすがにがっかりしたが、まあいいと心を慰めた。いずれ時間が経てば解体は行われるだろう。僕はゆっくりと待つだけだ。果報は寝て待てと言うからね。

 爆発は予想もしない局面で起こった。君も知るこの間のやつだ。急加速と急減速が、トラップに力を入れたのと同じ作用をもたらしたんだろう。僕の爆弾は3号機の両足を奪った。最初の思惑とは違ったが、まあ一定の戦果を上げたと言っていいだろうね」 

 謙遜することはない、とハルカは思った。あの爆発がなかったら、ユキエは緊急射出に成功していたかもしれない。それができていれば、8号機のジオフロント侵入もあり得なかった。ハルカの胸は憎しみで燃え上がった。眼前の反逆者はジロウと同様、人類をあと一歩まで追い詰める役割を果たしたのだ。

「裏切り者!しゃあしゃあとよく言えるものだわ。あんたほどの嘘吐きは見たこともない!」

「なんと言われても仕方がない。話を戻すよ。あの時、マサトを置いて家に戻ろうと道路を歩いていた。その時、森の中に足音を聞いた。ほんの僅かな音だが、僕は耳の感度を上げていたので捉えることができた。まさかこんな時間に森の中を歩く者がいるとは思わなかった。立ち止まって観察すると、懐中電灯の光が揺れているのが見えた。パトロールじゃないはずだ。巡回する時間じゃなかったからね。目撃されたか、されなかったか。大いに迷うところだ。顔を見られなかっただろうとは思った。だが、ジャンバーは怪しい。僕はそれが誰か確認するつもりで後を尾けた。足音は軽く、女のようだ。そして養成所の傍まで来たとき、街灯に照らされた彼女をはっきり見た。マサコさんだったよ。なんとチルドレンだ!これで念のため殺害するという選択肢は消えた。僕は不安に苛まれながら家路を急いだ。

 さて、10月のことだ。Xの話を聞いたときは真実、体が震えた。阿南さんが何を考えているか、僕だけが理解していた。あのヒト、事件をでっち上げたのさ。10月の事件はまったくの作り話だ。チヒロのおかげで公開捜査ができなくなったんで、窮余の一策としてひねり出したんだろう。真実は6月14日の夜、森を歩いていた不審者がXなんだ。僕のことさ」

「そうだったの」ハルカは意外の感に打たれていた。皆と同じように、Xはマサト事件と関係があるに違いないと思っていたが、裏にそんな事情があるとまでは考えもしなかった。そして真の目撃者はマサコだったこと。あのアルバムとの繋がりが、微かに見えたような気がした。

「戻って6月15日の夜のこと、ジャンバーと靴は家の裏の森に埋めた。懐中電灯はなかなか捨てられなかった。若いパートナーならもっと感度のいい眼を持っているけど、僕の眼は人間並みだ。夜間活動に支障が出ては困る。あいにく商店街に置いてる店はない。

 捜査が始まった。僕はいつ森を歩いていた不審者の話が出てくるか、気が気でなかった。フェニックスのジャンバーを着た男の話だ。だけど、一向にそんな話は出てこない。まずは一安心。目撃されてはいなかったんだ。そう思いこんで懐中電灯はそのままにした。

 さて、そうこうするうちに129使徒戦が過ぎ、チヒロは脳の手術をされることになった。チヒロの家はしばらく空く。あの時、家の管理と掃除を頼まれたことを君に言ったかな?僕は堂々とチヒロ家に出入りできるわけだ。次の日、大会議場に集まった僕らは、途轍もないどんでん返しを見せられたよね。まったく博士の考えることは。その日僕は約束通り、チヒロ家の掃除をしに行った。中の物をいろいろ見させてもらったよ。ある引き出しに懐中電灯があるのを見つけた。ごく普通のものだ。そこで僕の中にいたずら心が湧いた。一種のブラックユーモアだよ。僕の懐中電灯とこれをすり替えたらどうか」

 タツヤは胸を反らして、にたにたと笑っている。得意になって種明かしをする彼を、ハルカは不気味に思った。明らかにこの男の道徳観念は壊れている。

「当然マサトに見覚えはない。だが、彼はそれを言い出せないはずだ。だって、記憶がないんだから。自分のところの物じゃないと、否定できないんだ。チヒロも同様だ。揃って記憶に欠陥がある、奇妙な夫婦さ。こうして被害者の家から証拠品が出てくるという、おかしな現象が現れた」

「笑うな!」ハルカは叫んだ。タツヤに向けた銃口が震えた。タツヤは口を一文字に結んで両手を挙げた。「死者を悼む気持ちはないの?この使徒め!二度とあの二人を馬鹿にしないで!」

「すまなかった。不謹慎だった。どうか許して」

 誠意を見せて謝るタツヤに怒りを鎮めたハルカは、銃を置いてフォークを取り、ムースを口にした。

「僕がXだと言っても、あまり驚かなかったね。分かっていたんだな」

「ええ、すっかり思い出したの。あのアルバムのおかげで」

「地下室に投げっぱなしになっていたよ。ああ、これでもう駄目だと思った。早く処分できていればねぇ。近頃は衛兵の目が厳しいものだから」

「なぜどうして、あんなものがうちにあるの?」

「うーん、何から話そうか。そうだ、まずマサコ殺害事件の発端から話そう。11月10日の夜、マサコさんは無残にも殺された。殺したのは草鹿、動機は草鹿の脅迫に彼女が応じなかったため。という風に見なされている。ここまではいいね?」

「そう理解してるわ」

「3時半頃、マサコさんは山本の工作によって脅迫状を受け取った。4時過ぎ、気の毒なマサコさんは、仕方なく草鹿に連絡を取る。草鹿は阿南さんの意識がまだ回復していないと嘘を言った。そして9時に森で会い、マサコさんは可哀想にも刺し殺された。事件の経緯は大体このように思われている。ところがね、部分的に全く間違っている」

「どういうこと?」

「コトミの推理は素晴らしい。よくあれだけの材料から犯人を指摘できたと思う。ただ、脅迫状から離れることができなかったために、真相の半分しか突き止められなかった。いいかい、4時にマサコさんが草鹿にかけた電話、あれは脅迫状をもらったからじゃないんだ。ある重大事実に気づいたためだ。つまり、Xが僕だということ!」

 しばし居間を静寂が支配した。ハルカの目は大きく見開かれ、ぽかんと開いた口から声が洩れなかった。

「山本はこの件に関与していないんだ。偶然だったんだ!あの日、彼が養成所前にいたのは。コトミの推理は運良く当たったというだけのことさ。

 さて、3時半、カウエルが出て行った後、彼女は何かの拍子にアルバムを手に取った。今地下にあるあれだ。その中に2枚の驚くべき写真があった。フェニックスのロゴの入ったジャンバーを着た僕だ。P、H、O、E、N、I、X。とうとう6月に見たXを見つけ出したんだ。すぐには信じられなかっただろう。まさか僕が犯人だとは。七原則によって、絶対罪を犯すはずのないパートナーなんだ。だが、彼女も記憶に照らし合わせて、間違いないと判断したんだろう。30分近く時間をかけてね。どうする?犯人は常識を外れている。タダオはいない。相談すべき相手としては阿南さんが最適だろうが、意識不明だ。そこで次善の相手として草鹿を選んだ。携帯の番号も知っている。わざわざ奥に引っ込み、携帯を使って通報した。

 あの日、彼女はずっと憂鬱そうだったらしいね。それは自分の非運を嘆いていたからじゃない。君さ。君が不憫で気鬱になってたんだ!

 草鹿も驚いた。彼にとって素晴らしいネタが突如舞い込んだ。あわよくば僕を自分の手足にして、犯行を続けさせることができる。なにせ疑われることのない者だから、貴重な戦力になることだろう。そう決めた草鹿は阿南さんの病状について嘘を言い、自分とこっそり会おうと持ちかけた。深夜の森にアルバムを持ってこさせ、奪い取る。彼女の口は封じなければならない。ただし慎重に事を運ぶ必要がある。なんと言っても、当日彼女と話した数少ない人間の一人だ。可能な限りの工作をすることにした。あの短時間で計画をまとめた彼の頭脳も凄い。ビデオカッターや脅迫状を用意し、早目に村へ潜入した。

 分かったかい。マサコさんは突発的に殺されたんじゃない。あいつは最初から殺すつもりで会ったんだ。マサコさんは気の毒だった。信頼した相手にいきなり胸を刺されて。その瞬間、何を思っただろうね。想像するのも辛い」

 ハルカは耳を塞ぎたくなった。あまりに酷い事実が連続して彼女に突きつけられた。この場から逃げ出したいとさえ思った。

「後は承知の通り、コトミたちの活躍で草鹿は追い詰められた。あの捜査網からどうやって逃げられたのかは知らない。ともかくも彼は追手を逃れ、どこかに潜伏した。

 あれは11月20日の午後だった。僕は一人で家事をしていた。裏口をこつこつと叩く音がする。行ってドアの覗き穴から外を見ると、誰もいない。奇妙に思いながら帰りかけたんだけど、下の隙間から写真が滑り込んできたのには驚いたね。まじまじと見たら、Xのジャンバーを着た僕が写っていた」

「まさか、草鹿がこの家に!?」

 タツヤはこくりと頷いた。「僕は全てを理解した。身の回りがすべて崩壊していくような感じがした。さすがの僕も呆然と突っ立っていたよ。また叩く音がしたので、開けてやらざるを得なかった。草鹿はしゃがみ込んで僕を待っていた。あのにやり笑いは忘れられないよ。妙な材質の黒いスーツを着ていたっけ。『やあ、同士よ』とあいつは言った。『中に入れてくれ。おれと話をしよう。でないとお前は不利な立場になる』

 どうしようもない。僕はあいつを家に入れ、話し合いを持った。あいつはでかい態度で、食卓にアルバムを放り出した。『X、おれに感謝しな』そうあいつは言った。以来、アルバムはこの家にある。僕の立場は極めて弱かった。奴に首根っこを押さえられてしまったんだ。もう一枚はいつでも公表する用意ができていると言った。半信半疑だったが、リスクを冒すことはできなかった。用心深くスタンガンまで用意してたよ。

 話し合いは1時間にも及んだ。僕は使徒であることやマサトのこと、全部打ち明けざるを得なかった。彼も僕の手際には感心していた。そうして彼は今後の協力を命じてきた。僕は従うしかなかった。食料や情報の提供を約束したんだ。今でも三日に一度、ここに通っては僕から食料を受け取っている」

 ハルカは気色ばんで言った。「最後に来たのはいつ?」

「昨日だ」

「あいつの居場所は知らないの?」

「知らない。ヒントも与えようとしない。あいつはそんな迂闊な奴じゃない」

「分かったわ。協力なさい。あいつをここで待ち構えて逮捕してやる」

「僕に異存はない。ただ出来るかどうか」

「どうしてもやってもらうわ!」

 微かな微笑がタツヤの口元に浮かんだ。ハルカはその意味を考えず次を促した。

「他にあいつのためにしていることは?」

「警備の配置や人数とか、分かるだけのことは教えた。それぐらいさ。ハルカ、僕はあいつに念を押した。チルドレンに直接・間接に手を下すことは絶対にしないとね。その点は了解してもらっている」

「当然だわ。さあ、もう話は終わったでしょ。最初の疑問に答えて。みんな死ぬってどういうこと?」

「ハルカ、僕も使徒の端くれだ。考えてみて。今までに生け捕りにされた使徒はいたかい?」

「聞いたこともないわ」

「これまで使徒は、殺されるか自爆するかのどちらかだった。これはなぜか?使徒には『使徒の原則』というものがあるんだ」

「使徒の原則?」

「そう、リリスとの接触が第一。第二に絶対に捕虜にならないということ」

 ハルカはごくりと唾を呑み、タツヤを凝視した。彼が言うことの意味が分かり、容易ならざる状況にあるのを知った。彼は相変わらず涼しげな顔をしていた。

「‥‥つまり、自爆する用意があるということ?」

「その通り」

 ハルカは目の前にいるタツヤが、まるで内部に虚数空間の暗黒を抱えているような錯覚に捉われた。そこにいるのは長年同伴してきた愛人とは別種の何者かであった。

「僕はこうなることも予測していた。君が生きている限り、自発的停止はできない。そういう風にできているんだ。完全に使徒化していないための弱点だよ。仮に逮捕されそうになったらどうする?僕を貴重なサンプルとして調べ尽くそうとするかもしれない。それは絶対に避けなければならない事態だ。そこで僕は自分自身を自爆可能な体に改造することにした。マサトの場合と基本的な部分は同じだ。ミリマシンを注入して、S2機関の暴走用回路を構築したのさ。僕に司直の手が伸びた場合、僕は自爆する。これは僕の基本プログラムに同調させたから、意思とは無関係に行われる。今、衛兵が僕を押さえに来たとしよう。そうすると村が全滅するほどの爆発が巻き起こることになる。これはチルドレンの安全に優先する最重要項目なんだ。最後に僕はチルドレンを道連れにして死ぬんだ。使徒らしくね」

 タツヤの告白はハルカを混迷に落とし込んだ。この状態をどう打開するのか、ハルカの思考は乱れ、手にした銃が震えた。

「困ったかい?下手をしたらネオ・ネルフは同時に何人ものパイロットを失う。今この時間はみんな家で寛いでいるだろうからね」

 部屋の隅に飾られたツリーはずっと輝きを放ち続けていた。ハルカの脳裏に、楽しげにイブの夜を過ごす妹たちの面影が浮かんだ。あの子らを傷つけるようなことは、絶対にあってはならない。進退窮まったことを自覚したハルカは唇を強く噛んだ。

 タツヤは真剣な表情でハルカに告げた。「ハルカ、よく聞いて。君に手を出せない以上、僕の未来はない。まさか僕のことを黙っているつもりはないだろう?だから僕を穏便に処分してくれ。自爆を防ぐには一つしか方法はない。CPUを一瞬にして破壊することだ。君の銃で十分だ。ここを撃て」

 彼の人差し指が動いて額の真ん中を指した。

「ここを貫通すればCPUに直撃する。言うなれば即死だ。自爆を発動する暇もない。ハルカ、君しかできる者はいないんだ。妹たちや回りの人間たちを救いたいんなら、僕を殺せ。文句を言うつもりはない」

 椅子が急に動いて、大きな音が立った。ハルカが勢い良く立ち上がったのだ。食卓を回り込んだハルカは、タツヤの額に銃口を押し付けた。肩で大きく息をしながらタツヤを睨みすえた。

「いいのね。本当に撃つわよ」

「ああ、ハルカ。今日までとても楽しかったよ。ありがとう」

 タツヤは瞑目して動かなくなった。ハルカの人差し指は、引き金に徐々に力を加えた。

 そのまま重い時間が1秒、2秒、と経過していった。室内は凍りついたような静寂で満たされていた。その時の流れが焦れたタツヤの一言で断たれた。

「ハルカ?」目を開けたタツヤはハルカの表情を見て驚いた。顔面を歪めて歯を食いしばるハルカ。彼女のこれほど苦しげな顔は初めて見るものだった。

「どうした?僕を撃つのがそんなに嫌なのか。気持ちは分かるけど、君は戦士だろ。義務を果たして。さあ、僕を撃て」

 ハルカは必死の形相で二度頷き、もう一方の手も銃に添えた。銃口の揺れが小さくなった。タツヤは再び目を瞑った。

「駄目、できない!!」

 叫び声と共に銃口が額から離れ、タツヤはまた目を開けるはめになった。ハルカは大きく彼から退くと、自ら床に這い、肩を震わせた。それはエヴァンゲリオンのエースパイロットとは到底思えない、みじめな女の有様であった。

「どうしたの?」信じられない光景を目にしたタツヤは愕然としながら立ち、ハルカの背に手を触れようとした。

「触るな、使徒!!」

 ハルカは絶叫を放ち、タツヤは手を伸ばしたまま固まった。そのまま時が経過した。タツヤはハルカの表情が窺い知れなかった。するうち、驚くべき変化が彼を仰天させた。ハルカの口からくっくっと笑い声が洩れ出したのだ。それは次第に高まり、やがてハルカは心からおかしそうに笑い出した。

「ハルカ?」

「あはははは。ああ、可笑しい。こんなのはさすがの人間も想定していなかったのね。とんだ所にバグがあった。ははっ」

「ハルカ、何を言ってるんだ?」

 ハルカはのろのろと立ち上がった。タツヤを横目で見る。その目は絶望と悲しみに彩られ、タツヤを動揺させた。

「分からない?私はあんたを撃てない。そういう精神構造になってないの。私の造り主はそういう風に私を作った」

 自嘲の笑みが凄まじかった。ハルカは寝室へと歩き、呆然とするタツヤを手招いた。

「いらっしゃい。教えてあげる。私たちの真実」

 寝室に入ったハルカはパソコンの前に座を占めた。タツヤはその後ろからパソコンを立ち上げる彼女の指を見ていた。

「これはさる人からもらったデータ。見たくなかったけど、つい見ちゃった。よせば良かったって後悔してるわ」

 モニターに『エヴァンゲリオンパイロット再生計画 第24次定例報告』の文字が浮かび上がった。ハルカは席をタツヤに譲り、自分は傍らに立った。タツヤの目がモニターの文字を追い始めた。

 

2035.7.8. 

UNDRC第451号

 国連事務総長殿

災害復興委員会使徒対策作業部会    

座長 ロバート・ウィルキンス

 

 拝啓 これまで2年間に亘り虚しい努力を繰り返し、何百という素体を無駄に生成してまいりました。遂にただの一体も、人間的精神を持った個体を造ることはできませんでした。その原因は結局判明しなかった、としか言いようがありません。大脳、小脳、脊髄、どれを取っても完璧に機能しているにも関わらず、肝心要の思考、判断、記憶、感情といった、人を人たらしめる要素が一切欠落しているのであります。一部では『リリスの呪い』あるいは『ガフの部屋は空だった』などと非科学的な妄言が囁かれる始末であります。しかしながら、エヴァのパイロットはなんとしても造り出さなければなりません。第一次ネルフのような、人道にもとる手段を取ってはならない。

 正直、諦めムードが部会全体を覆っていました。ところが先日、大脳生理学部門のクラーク、オールディス両博士が、常識を覆す画期的提案をしてくれました。正にパラダイムの転換とも言うべき革命的な内容であります。別紙にて両博士の報告書を添付しますので、吟味なさってください。小職はこれに全てを賭けるのが唯一の道ではないかと思料する次第であります。

敬具  

 

(別紙)

欠陥大脳に対する人工知能導入に基づく人格創出について

 

 拝啓 これまで何度となく報告した通り、碇ユイDNAによる綾波レイ再生の試みは挫折の積み重ねでありました。肉体は完璧に機能するにも関わらず精神が欠損した個体、言わばエヴァンゲリオンと同様のあやつり人形しか生み出せなかったのです。我々は数百回に及ぶ試行錯誤によっても結果が出なかったことから、従来の方法は見切りをつけるべきと判断いたしました。これ以上無駄な労力をつぎ込むべきではありません。 

 しからば我々が進むべき道はもうないのか?あるのです。我々はこれまで電気刺激など、精神の発生を促す手法を試みてまいりました。これは無益だった。ならば創り出せばいい。

 閣下、2030年の発明以来、量子コンピューターは長足の進歩を遂げてまいりました。つい一月ほど前には64量子ビットCPUが登場しております。必要な回路を全て組み込んでも、筐体は一辺3cmほどの正方形、厚さはわずかに2mmほどに納まる見通しです。皮質を少々削るだけで十分な大きさです。

 我々はこれをもって、来るべきチルドレンの精神を代替しようと考えます。ただしアンドロイドと違いまして大脳を十二分に活用いたします。視覚、聴覚などの感覚中枢、記憶中枢、言語中枢その他もろもろの部位と微細な線で結合します。そのために必要なマイクロマシンは準備ができております。超々LSIはそれらの情報を整理・統合し、筋肉を動かし、感情を発生させるでありましょう。我々の命令に応え、自らの意見を表明することでありましょう。言わば機械と脳が結合することにより、一個の擬似人格が発生するのであります。換言するならば、我々は遂に「心」を作り出す方途を得たのであります。

 必要な電力についても解決の目途が立っています。スビャトスラフ・レム博士が開発した電位差発電装置がそれでありまして、脳内に局在する電位差を抽出し、超伝導を応用して電流を安定供給するのであります。

 プログラミングはコンラート・ベヒシュタイン君が取り仕切ってくれています。彼はまだ18才にしかなりませんが、驚嘆すべき天才と言っていいでしょう。今後の彼の活躍が大いに期待されます。

 我々がここまで確言するのも根拠のないことではありません。実は既に動物実験を終えているのです。別添の資料で牡のチンパンジー(名前をテリーと言います)がいかに行動するか、いかなる表情を見せるか、ご覧いただけます。とくと観察していただいて、我々がいかなる福音を人類にもたらしたか、ご納得いただければと存じます。

敬具  

 追伸 人類にはまだ希望の光が輝いています。

 2035年7月7日

アルフレッド・チャールズ・クラーク     

バーナード・オールディス     

 

 タツヤは人間と変わらぬ衝撃を受けていた。ここまで読む間一言も発せず、ハルカに目をやることもなかった。その指がカーソルを動かし、添付の画像ファイルを開いた。

 登場したのは正面を向いた一頭のチンパンジーであった。奇怪にも額から頭の頂点にかけてが、鈍く光る金属で覆われている。その板から束ねられた数本のコードが突き出て、上に向かって伸びている。フレームの外からか、中年の男の声が聞こえた。

「やあ、テリー。気分はどうだい?」

 テリーは一声甲高く発すると、傍らからスケッチブックとサインペンを取り、さらさらとペンを動かした。それから書きこんだページをカメラに向けた。

『今日はパパ!とってもいい気分だよ』

「そうかい。テリーはおりこうさんだね。お腹は空いてないかな?」

『そうだね、バナナが欲しいな。ね、パパ、バナナちょうだい』

「いいとも。ほら、取りなさい」

 テリーは嬉しそうに腕を伸ばしてバナナを掴んだ。器用に指を動かし皮を剥く。一口食べたところで、また声が聞こえた。

「どうだい。おいしいかい?」

 すぐにバナナを横に置いて、スケッチブックを取った。

『うん、パパ。やっぱり台湾のは甘くておいしい』

 タツヤは見ていられなくなり、画像を停止して別ファイルを開いた。意味の分からない詳細なデータが書き連ねられている。目を引いたのはMRIとCTの写真だ。脳の前部に黒く四角い物が鎮座している。そこから何十本ものか細い線が、脳のあらゆる箇所に向かって伸びているのだ。タツヤを震撼させたのは前頭葉全体の有様であった。そこは大脳皮質がそっくり削り取られていたのである。

 タツヤには背後のハルカに掛ける言葉がなかった。彼女がこれを見てどう思ったか、どう感じているのか、推し量りかねたのだ。モニターを凝視しながら考え込むうちに、ハルカの右手が伸び、カーソルを動かした。

「次はこれを見るといいわ」

 カーソルが下に動いて、別のタブをクリックした。たちまちモニターは別画面に変わる。

 

エヴァンゲリオンパイロット再生計画第45次定例報告

 

2037.10.15.

UNDRC第525号 

 国連事務総長殿

災害復興委員会使徒対策作業部会    

座長 ロバート・ウィルキンス

 

 拝啓 今回の報告につきましては、特段変わったことはございません。マリコもカナもアヤネもすくすくと順調に育っております。真に人間と何ら変わることのない子供たちと申せましょう。実験データは十分蓄積され、結果は満足のいくものでしたから、後続のチルドレンを生産すべく、個体の選別に取り掛かっております。年内には9thチルドレンの誕生を報告できることでしょう。

 一つ申し上げるならば、今後あの子たちがパイロットとして配属された場合、どこまで世間に公表しうるかが課題として上げられます。検討は早すぎるということはありません。小職としましては、あの子たちの人格の正体(脳の中に何があるか)、DNAの元になった人物、その他チルドレンのカリスマ性を削ぐ内容は一切公表不可にすべきと考えております。それが組織の安全を図るために必要な手段と申せましょう。この秘密を守るためには、知るべき人間の範囲の厳格化、罰則の強化と検証など、最高度の軍事機密と同様の扱いがなされるべきです。また言うまでもありませんが、チルドレン自体、自分たちの心の真実に近づけてはなりません。万一あの子らがそれを知ったあかつきには、夢が壊れ、士気の低下を招くことは明らかであります。この件に関しましては情報部と打ち合わせの段取りを進めております。

敬具  

 

 ふふっと背後から笑い声が聞こえたので、タツヤは振り返ってハルカを見上げた。

「6thチルドレンの頭部レントゲン写真もあるわ。見てみる?」

 タツヤは首を横に振り、小さく囁いた。「ハルカ、何と言ったらいいのか‥‥」 

 ハルカは黙ってその場を離れ、居間に向かって歩いた。タツヤも立ち上がって後に続いた。居間の中央にハルカが立った。腕をだらりと下げて拳銃は下を向いていた。タツヤはやや距離を開けてハルカを観察した。

 打ちひしがれたハルカがおもむろに口を開いた。「分かった?私たちのこと。あなたが愛するチルドレンとは何なのか。チンパンジーを見たわね。私たちはあれと同じ者。肉体がヒトに似たものというだけのこと。はは。とんだ勘違いをしていた。もっと上等な存在のはずだったのに。リリスもひどい嫌がらせをするものだわ」

「リリス?」

「ええ、みんなリリスが仕組んだの。頑強に抵抗すればよかったけど、誘惑もあったわ。馬鹿な私。

 もっと色々あるのよ。例えば心の構造について。私たちチルドレンにはね、あなた方アンドロイドと同じように『チルドレンの原則』というものがあるの。例えば、自分を守るためでなければヒトを傷つけないこと、犯罪を犯さないこと、そして上官が下す命令には極力素直に従うこと。それに付随するように、いろんな心の傾向が形作られているの。使徒に対する闘争心、恐怖心の抑制。キヨミねえさんも不思議がってたわ。生き物なのに死への恐怖がないの。使徒を倒すためなら喜んで死ぬ。そりゃもう、私も自信があるわ。ヒトへの感謝と慈悲。一人の例外もなく、造り主のために働くことに疑問を持たない。全世界の人々を守り抜きたいと真剣に思う。我が身の危険を顧みないことさえある。丁度あの暴動があった日、私がやってみせたようにね。まだまだあるわ。例えばパートナーを愛する気持ち」

「僕らを?」

 ハルカは自嘲の笑みを浮かべ、室内を歩き始めた。タツヤは身動きもせずそんな彼女を見つめるだけであった。

「ええ、そう。考えてみたら不思議じゃない?うまくいかなかったカップルって、過去にあったかしら?ねえ、男女の気持ちってそんなに単純?私、あなたに会ったその瞬間、すぐに心がときめいた。『さあ、ハルカ。この子が君のパートナーだ』あなた、にっこり笑って手を差し出した。私、顔を真っ赤にしてその手を握ったわよね。おそらくみんな同じよ。でもね、愛って、いろいろな過程を経て生まれてくるものじゃないかしら?私、何冊か恋愛小説を読んで変に思っていたの。このヒトたちは、どうしてこんなにめんどくさいことをやってるんだろうって。でも、変わってるのは私の方。最初から定められていたのよ。あてがわれたパートナーを愛するようにね。あなたがたなら分かる。そのためのパートナーなんだから。あはは。相性のいいのは当たり前。だって、同じ機械の心なんだもの!」

 いきなりツリーに歩み寄ったハルカは、コンセントから電源コードを引き抜いた。室内を華麗に染めていた三色の光が消え、居間は一気に寒々とした空間に変わった。ハルカは豪勢なソファにどっと身を預け、笑い声を上げた。タツヤは居間の真ん中まで出たが、かける言葉が見つからず、立ち竦んだ。笑いを収めたハルカは天井を見上げ、独白を続けた。

「なんでパートナーを与えたと思う?教師とかお手伝い役とかばかりじゃない。愛する者を作り、世界を守るための動機付けを明確にするため。この世を一層素晴らしいものにし、積極的に戦いに参加するよう仕向けること。そのために惚れ薬を飲まされたようなものね。子供なんか作れないのに、性欲まで与えてくれたわ。ヒトは愛の魔法使いになった。

 私は自由だとばかり思っていた。自分の意思であなたを愛し、ヒトを愛し、命を惜しまず使徒と戦おうと思った。でも、違った。全部最初から仕組まれていたの。作られた心、作られた愛。みんな嘘。連立方程式の解に過ぎないのよ。私は驕っていた。ヒトが造った、より神に近い者。天駆けるワルキューレ!その実態は機械!」

 勢い良く立ち上がったハルカは、虚空を見上げ独り言を始めた。タツヤは異様な感じを抱いた。

「ああ、リリス、リリス!あんたは私を笑った。もうその理由は分かったわ。あんたにすれば私など虫けら以下。機械仕掛けの人形。五分の魂もありはしない。あはははははは!でもいい。全部忘れるんだ。ベヒシュタイン博士がみんな白紙にして‥‥。いや、だめ。そのころにはタツヤがいない。それじゃ意味がないじゃない!‥‥人間はエラーをした。守るべきものが殺すべきものになるとは思いもしなかった。‥‥チヒロ、ごめんね、チヒロ。あなたの仇を取れない。私、駄目なの!駄目になってしまった」

 ハルカの両目がタツヤを見据えた。タツヤはその表情にぞっとするものを感じた。

「タツヤ、あなたの希望は叶えられない。あなたは私が守るべき、愛する者。こうなってもまだあなたが好き。それは不変なの。ほんとはあなたを抱きたい、抱かれたい。ああ、でもそんなの駄目!だって、だって使徒なんだもの!チヒロをあんなふうにした憎い奴なんだ!‥‥あれ、なんだろ、これ?」

 ハルカは怪訝そうに指を目の下に当てた。指先が濡れた。それは自然に瞼からこぼれ落ちたしずくであった。

「あはは。これ、涙だよね?やだ、私だって泣けるじゃない。そうなんだ」濡れた指先を口元に持っていき、舐めた。「しょっぱい。変な味」

 指先を服にこすり付けて拭うハルカを、タツヤは呆然として見守るだけであった。この場面で彼に何ができるだろう。彼女の頬は後から後から流れ落ちる涙で濡れっぱなしになった。ハルカはそんな自分に動揺し始めていた。

「やだ、どうしよ‥‥。止まんないじゃない!‥‥こんなだらしないの駄目。私は‥‥私はチルドレンのリーダー!不動のエース!‥‥なのに。‥‥あれ、あれ、今のなに?‥‥変だ!変だ!!‥‥いやああああああああああああ!!狂う!狂ってしまう!!‥‥こわい!こわい!!」

 彼女の手から銃がすべり落ちた。続けてハルカの体は床に崩れ落ち、仰向けになった。鈍い音が室内を満たす。薄く開いた両目には紅い部分がなかった。

「ハルカ!!」一声叫んだタツヤは俊敏に動き、ハルカの上体を抱き上げて必死に呼びかけた。「ハルカ、ハルカ、目を開けて。僕の鳩ちゃん。ほら、僕だ。もう使徒はいないよ。ただのタツヤだ。頼むから目を開けて!」

「どきなさい」

 唐突に声が響いた。タツヤは愕然として声のした方向を振り仰いだ。きつい目で彼を見下ろしていたのは、ファーストチルドレン・綾波レイであった。

「ファーストチルドレン?馬鹿な。ありえない」

 呆然とするタツヤに学生服を纏ったレイは低く言った。「お前などに想像もつかぬ現象はいくらでもあるのよ。さ、お前では役に立たない。隅で見ていなさい」

 タツヤはそっとハルカの体を下ろし、後ずさりして壁に背を付けた。レイは床に寝ているハルカの足元に立ち、タツヤに言った。「使徒め。私に体があった頃、使徒を憎んだことはなかった。でも、今はお前が憎い」

 レイの体に変化が起こった。学生服が夜露のように消え去り、生まれたままの姿になった。透明化が始まった。タツヤからは向こう側の家具が見えた。膝を折ったレイの足がハルカの足に溶け込んだ。そして体全体をハルカに重ねていった。レイの体がハルカの中に吸い込まれていくようだ。ほどなく床に横たわるハルカだけが残った。

 

 塔の一室、草鹿はヘッドフォンから聞こえる一部始終を、唖然としながら聴いていた。全く想像したこともなかったチルドレンの真実、さらにファーストチルドレンの出現。

 狡猾かつ慎重な草鹿はハルカ邸に盗聴器を仕込んだ。タツヤを完全に信用していたわけではなかった。未知の情報や、タツヤに裏切りの兆候がないかどうかを探るためである。食卓の裏側の片隅に、ごく小さなそれは接着されていた。

 夜が更けて始まった二人の会話は彼を歯噛みさせた。タツヤが許しもなく自白したのには参った。自爆機能のことを隠していたのには腹が立った。それに加えてハルカの告白とファーストチルドレンだ。草鹿は目まぐるしい展開に息を呑みつつ、頭を整理していった。

 タツヤの自爆は大戦果になると彼は思った。今それが実現すれば、ネオ・ネルフはかつてない戦力低下を迎える。前回使徒戦の被害にパイロットの大量死が加われば、次回来る使徒は俄然有利になるだろう。

 それを妨害しようとしているのがファーストチルドレンだ。彼はその存在を受け入れるのに時間を食った。時を超えて生き続ける超越的な存在。常識を完全にはみ出している。だが、確実にそれはいるのだ。そしてあの工事現場に現れたマサコの幻影。チルドレンの危機を見かねて駆けつけたもの。今回と酷似したケースではないか。

 草鹿は意を決して立ち上がり、ステルス迷彩の機器が入ったバックパックを背負った。専用のボディスーツは常時着用している。ファーストチルドレン、あんたの思惑通りにはさせないぜ。拳銃をホルスターに差し込んだ。久々に訪れた破壊活動の機会に胸が高鳴る思いだった。

 

「あった!」

 研究所の廊下に青木の声が響いた。廊下にどよめきが湧き上がる。倉庫の中で汗みずくになりながら段ボール箱と格闘していた阿南は、持ち上げていた箱を放り出した。

「あったのか!」

 大急ぎで大量の段ボール箱が並び、ファイルや紙束で散らかった廊下に走り出た。青木が一冊のファイルを手にしていた。その回りに相沢や他の保安部員たちが集まってきている。駆け寄った阿南に青木が言った。「2078年の6月から12月にかけての日誌です。これに違いありません」

「貸して」阿南は日誌を引ったくり、ページをめくった。7月28日の記事はすぐに見つかった。相沢と青木が覗き込む。

 

 7月28日(木) 天候:晴れ

 本日の行事

  定期点検 午前10時より2時間を予定 

   対象  wrp154929(ジロウ)

       wrp119331(エリーゼ)

       wrp164735(タツヤ)

「タツヤ?」阿南はファイルを手に、呆然として立ち竦んだ。3番目の裏切り者は彼にとって最悪の者であった。

 

 

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あかおうもばきそのむとにがまらてにましなんでやきさをしまりおあぽにわろつぞるもそみんてにらにやほあこつわろてせいぬけにいなたやをあきんとなろるてかちうしもひとにあやえおぎのてむちろあなしはきくちのをおうとむまのはかをづふさもひはきぜろつのあしくかぺびてとわうをんてにのとうあらりのとなかていろねしみこぶひそんにてにてきんぐせふぱくきかすえふあぢにぎましなてなんだやたたごしてまくしたんしぐやあえおのもちしこひそちてたろはむいいしこそるくちハみとくはルきしくカきいかしおやうじそこやあをましりちのハぴしまルみそなカつそずみこぢなとみろつこハていルえしカこよさべこあしくつちたふぬほやうみさげかすのしはれけとないすきこさそのともみしざゆそみてえやつきはぼこういせてむしくしうあもひねこそろはすぷとこさひとれとろねそこひいえうあとにむちこしうさつりきハルカつみハルカうふハルカあどハルカ

 

ハルカ。

 

ダレ?

 

「これがフォーティーセカンドの候補か?」

「はい、部長、組織の安定度では群を抜いています。循環器系、呼吸器系、消化器系など全てにおいて異常はありません」

「名前の候補は?」

「ええと、ハルカです」

「ハルカか。良かったな、ハルカ。世界を見せてやるぞ」

 

アレレ?

イマノナンダロ。べひしゅたいんハカセカナ。モウヒトリハぶーらんじぇハカセ。アノひとキライ。

ワタシ、モウスグウマレルノ?ウレシイナ。ソトッテドンナダロ。タノシミダナ。

 

これはあなたが生まれる前の記憶。

 

ワ、ビックリ。アナタ、ダレ。

 

あなたがたの一番年を取った姉よ。

 

オネエサン?ホントニ?カオヲミセテ。ココハマックラ。

 

だったら、私の声がする方へいらっしゃい。こっちよ。

 

オネエサン、オネエサン。ア、イタ。コンニチハ。イガイトチッチャイノネ。ソレニオバチャンジャナイ。

 

私と一緒にもう一度生まれたい?

 

ウン、ハルカ、セカイヲミルノ。

 

つらいことが待ってるのよ。世界は苦しみと悲しみで一杯。それでもいい?

 

ウワァ。チョットコワイ。

 

愛し愛されることが最も大きな価値なの。それほど世界は貧しいのよ。

 

アイ?イイナ、ハルカ、アイサレタイ。アイスルヒトニアイタイ。

 

私と行く?

 

ウン。ハルカ、タイテイノコトハヘイキダモン。

 

じゃあ、私の手を取って。さあ、行きましょ。現実の世界へ。

 

 こうしてハルカは心の巣から舞い戻った。目を開けたハルカが見たのは、間近から見下ろすレイとタツヤの顔であった。喜びを露わにしたタツヤが言った。「気が付いた!良かった!ずっとこのままかと思った」

 ハルカは視線を左右に動かし、事態を把握しようと努めた。意識を失う寸前の状況をはっきりと思い出し、突然失神したことを理解した。レイを見ても驚きはなかった。少し前まで彼女と一緒にいたことは分かっていた。さっきは確かに混沌の中でファーストチルドレンの声を聞いたのだ。「来てくれたんですね、ファーストチルドレン」とハルカは気持ちを込めて言った。悠久の存在の慈愛に直接触れたハルカであった。

 レイは微かに微笑んだ。「治すことができて良かった。すごく危険な行動だったけど、やった甲斐があったわ」体を動かし、上体を起こそうとするハルカを、手を上げて止めた。「まだ動かないで。安定するまで待ちなさい」それからタツヤに厳しい口調で命じた。「使徒、この子をベッドに運びなさい」

 タツヤの腕がハルカの首の後ろと膝の裏に挿し込まれた。彼が触ったことで、ハルカは愛と憎しみの対象であるこの男のことを強く意識した。抱き上げられた時、嬉しさと怒りが同時に湧き上がり、訳の分からぬ感情のありようはハルカを戸惑わせた。夢の中でレイが言った通り、復帰した世界には苦悩と悲痛が待っていた。

 タツヤが寝室のベッドに彼女を下ろした。それまでの間、ハルカはタツヤを見なかった。見られなかった。

「使徒、出て行って。二人きりで話したい」とレイが冷たく言い放つと、タツヤは素直に部屋を後にした。ハルカにとっては有難い気遣いだった。膝を折りハルカに顔を近づけたレイが言った。「あいつはいなくなった。リラックスなさい。すこし私と話をしましょう」

「うれしい。あなたとじっくり話せる」

「可哀想な子。夫に裏切られ、知らなくてもいい真実を知らされた。リリスを止められなかった私に責任があるわ」

「何を言うんですか、ファーストチルドレン。この前も、また今日も助けてもらって」

「あなたを連れもどしたのがよかったのかどうか。現実はこんなに悲惨なのに」

「いいえ、あなたと話ができただけでも満足です」

 レイの顔に僅かな悲しみがきざした。

「あなたにはやってもらいたいことがあるの。だからこうして呼び戻したのよ」

「なんでも言ってください。私、どんなことでもやります」

「あの使徒の自爆はもう避けようがないわ。他のチルドレンを守らなければ。私にいい考えがあるの。つらいかも知れないけどよく聞いて」

 ハルカは真剣な眼差しをしてこくりと頷いた。

「使徒をジオフロント外へ出します。人知れず行けるルートがあるの。私が誘導するわ。荒地に出て十分離れたらここに戻るので、あなたは彼を告発なさい」

「タツヤを訴えるんですか」ハルカはレイから目をそらし、口元を押さえた。目元が緩み、また涙のつぶが浮き上がった。泣き顔を見られると思ったハルカは枕カバーで顔を拭った。

「まだ未練があるのね。でも、迷いは断ちなさい。あなたはエースでしょ。みなを守るのがあなたの義務のはず」

「あの、私にしたように、タツヤの中の使徒を追い出せませんか?」

 レイは首を横に振った。「あなたには回路をいじってリセットを試みただけなの。プログラムの中身までは変えようがないし、彼の場合はアクセスするだけでも危険なの。接触した瞬間暴走が始まりかねない。ごめんなさい」

「‥‥分かりました、ファーストチルドレン。何も言いません。あなたに従います」ハルカは体を起こし、ベッドに座り込んだ。体に変調はなかったが、涙は止まらなかった。指先で拭い取るハルカを、レイは温かく見守っていた。「すみません、見苦しいところを見せて」

「謝ることないわ」レイはあくまで優しくハルカに語りかけた。「作られた恋でも、恋は恋よ。素敵だと思うわ。実際、あなたがうらやましい。こんなにいい家で、優しい愛人に守られて」

「私が?機械の私が?」

「卑下するのはやめなさい。あなたは立派な心を持ったチルドレンよ。沢山立派な行為をしてきたのだから。善い行いを導けるのは善い心だけ」

 レイの言葉がハルカの胸に沁みていった。硬く黒い塊がすっと溶けていくような気持ちがした。ハルカの精神の危機は峠を越えたのだ。感謝の念を込めてレイの手を取ろうと腕を伸ばした。

 ハルカの手はレイの華奢な手の中に消えた。まるで二つの手が融合したように見え、ハルカは思わず手を引いた。彼女の手には何の感触もなかった。

 目を丸くしたハルカに、レイは言った。「触りたいのね。ごめんなさい。私には実体がない。遠い昔に失ってしまったわ。おかげで大人になれなかった。女にもなれなかった」レイは薄く微笑んで、戸惑いを隠せないハルカに向け手を伸ばした。「目を瞑りなさい」ハルカは言われるままきつく目を閉じた。ハルカの額にレイの指が入って行った。「いいと言うまで開けないで」

 ハルカの胸に誰かが密着した。頬に髪の毛の感触。背中に腕が回っているのがありありと感じられる。「ファーストチルドレン?」驚きの声を上げたハルカはレイの囁きを聞いた。「中枢を少しいじって、感じられるようにしただけ。言ってみればこれもフェイク」

「いいえ、いいえ!」ハルカは感極まって少女の細い胴体を抱き締めた。「今伝わってきている温かいものは偽者じゃありません。これは誰がなんと言おうと本物です!」

 

 阿南ら保安部員は研究所の散らかりようをほったらかして直ちにオフィスに戻り、緊急会議を持っていた。めったに現れない大島部長までが呼び出しを受けて同席している。10名に上る彼らの中には、イブの夜の超過勤務について不満を洩らす者は誰もいなかった。相沢が発言した。「タツヤが使徒の片割れだということはほぼ確実だ。鮫島氏によると検査の方法はある。ソフトのスクリーミングで簡単に異常を発見できるそうだ。その点、人間よりずっと簡単だな。そこで、いつどうやってそれをやるかだが、意見はあるか?」

 青木が手を上げた。「今すぐはどうかと思います。敵の反応に懸念があるからです。どんな反撃手段を持っているか、予断を許しません。やるならパイロットが出払っている時間帯を狙うべきです」

「明日の予定はどうなっている?」相沢がある警備課員に尋ねた。「午前9時から全員参加の演習が行われます。時間は12時まで、その後は5時までミーティングや個別指導などです」と答えが返った。

「そうか、好都合だ。では、明日パイロットが全員村を出たのを確認してから押し込む。異論のある者はいるか?」

 相沢の問いに部員たちの発言はなかった。目を血走らせて会議に臨む部員の中で、阿南一人は暗く沈んでいた。

 彼はハルカの立場を想い、我がことのような哀しみを覚えていた。最愛の人に裏切られたと分かった瞬間、彼女はどう思うだろう。愛人が最も憎むべき敵だったとは。阿南はハルカの行く末が浮かんで、暗澹たる気分になるのを抑えられなかった。

 次にタツヤの拘束の仕方だが、と相沢が言いかけた時、ノックの音とほぼ同時に会議室のドアが開いた。入ってきたのは事務方の女性部員だ。彼女は驚き見守る男たちを尻目に、つかつかと相沢に歩み寄る。

「次長、緊急です。今しがたこんなものが送られてきまして」

 相沢は1枚のプリントに目を通した。ファックスで着信したものだ。それは驚くべき内容だった。相沢はひとしきりそれを睨み、部員たちに重々しく告げた。

「匿名の告発状が来た。Xの正体はタツヤだとさ。写真までついてる」

 息を呑む部員たち。相沢は横にいた阿南にプリントを回した。阿南はひったくるようにして目の前に持ってきた。

『保安部の皆さんへ。あなたがたが血眼になって探している通称Xの正体をお知らせします。決して草鹿某ではありません。驚くべきことにアンドロイド、エースパイロット・ハルカ大尉のパートナー、タツヤなのであります。証拠はこの写真です。いずれ現物を送りますのでじっくり吟味してください。ハルカ大尉の命に危険が迫っているので、やむなくこのような手段を取りました。一刻も早い処断をお薦めします。敏速に動かないと、手遅れになるやも知れません』

 文面はそれだけだった。左手で書いたような下手な字だ。その下に問題の写真があった。

 一組の男女が写っている。胸にPHOENIXとロゴの入った、黒いジャンバーを着たタツヤがいる。その横で、紙コップを手にVサインをしているのはハルカだ。楽しげな宴の一こま。

「ちくしょう、大変だ!」阿南は怒りとあせりを漲らせて叫び、プリントを机に叩きつけた。

 

 草鹿はにやにやと笑いながら、暗い診療施設から忍び出た。そこには死者だけが残っている。不運にも背後から忍び寄った草鹿のナイフによって、いきなり喉を切り裂かれた警備員であった。ほんの少し先には立番の衛兵が前を向いて突っ立っている。彼の存在が知られる惧れはわずかしかなかった。ステルス迷彩が完璧に彼を透明化しているのだ。

 あのファックス、あいつらには爆弾みたいなもんだ。草鹿はおのれの智謀に酔っていた。これであいつら、いても立ってもいられず、動くだろうぜ。

 草鹿は用心深く、そろそろと足音を立てないように進んだ。向かう先に村の入り口がある。彼は今の密告の上に、とどめの一撃を加えるつもりでいた。

 

 対テロ特殊部隊を率いる鬼頭大尉は、迷彩服姿で、保安部地下の分室に向かい足早に歩いた。彼もイブの夜ということで、先程まで遠く疎開した愛娘と電話による会話を楽しんでいたのだが、職務柄仕方がないと気持ちを切り替え、近づく戦闘へ気を引き締めていた。

 分室には既に数名の隊員が先着して、ライフルなどの装備を点検していた。村の略図が描かれたホワイトボードの前に、顔見知りの相沢と阿南が立っている。鬼頭は何はさておき、真っ直ぐ相沢の前に行った。

「概略は聞きました。パートナーが反逆者だとか」

「そうだ。謎のファックスが来た。ハルカ大尉に危険が迫っているらしい。内容の真偽はともかく、動かざるをえない。急行してタツヤを拘束する」

 鬼頭は眉を顰めた。ジロウに続いてアンドロイドが叛旗を翻すとは、そら怖ろしい事態になったと感じていた。

「最初、僕が接触する」と阿南が言った。

「あんたが?」鬼頭は内心不快に思った。公安課長が畑違いの現場にしゃしゃり出てくるのが心外だった。

「僕ならあの家に行くのが不自然でないからだ。いろいろ付き合いがあるんでね」

 相沢がフォローを入れた。「阿南はリリス教徒を、あっという間に4人殺した男だ。そういう意味じゃ、お前さんがたより場数を踏んでるよ」

 

 レイは居間にいるハルカとタツヤの前で、打開策を披露している。黙ってそれを聞く二人の間には2メートルも距離があった。

「今夜は二人共ここで眠りなさい。明日、ハルカはひとまず演習に参加。その間にタツヤはこっそり地上に出る。ハルカは仮病を使って午後の予定をキャンセルするのよ。私はここに戻る。そうしたら、保安部に電話しなさい。タツヤが逃げ出したと」

「僕は書置きを作るんですね」とタツヤが言った。レイは大きく頷いた。

「正体がばれそうになったので、脱出するとね。自爆のことにも触れて。うっかり近づく者がないように」

「分かりました」

 ハルカは俯きながらレイの言葉を聴いていた。彼女の心には葛藤があった。レイの策が最善の道だということは十分理解できる。だが愛する者を永久に喪失することが確定した。チヒロよりずっと悪い状態になるのだ。その重みに耐えていけるだろうかと自問した。おそらくパイロットとしての自分は終わると思った。

「ハルカ」

 急に声がかかり、ハルカははっとして顔を上げた。

「あなたの気持ちは分かるわ。将来は暗いわね。でも、マサコのように、別のことに生きがいを見出したチルドレンもいるのよ。そのことを考えてみて」

 ハルカはレイの目を見て頷いた。確かにこれを機会に異なる未来が拓けるのかもしれない。しかし彼女はパイロットではない自分を想像することができなかった。

 その時、夜の闇を引き裂く銃声が、すぐ近くで響きわたった。

 

「緊急事態!銃声です!場所は村のハルカ大尉邸付近!」

 アサルトライフルを下げた衛兵が無線機で急を告げた。ハルカの家の前を守っている兵だ。あちこちから衛兵たちが駆け寄ってきた。数瞬遅れて空洞部全体にサイレンが鳴り渡った。

 ハルカ邸裏側の森にいた二人の兵は、ライフルを構えて家に近づいた。銃身に備わった大型ライトが前方を照らす。彼らの目は敵の姿を求めてぎらぎらと輝いている。ハルカ邸の裏側に回った塀がすぐ前に迫ってきた。そこをライトの丸い光が照らし出す。しかし、誰の姿も捉えることはできない。

 彼ら自身が発する葉ずれの音とサイレンが、中間地点を忍び歩く者の足音を消した。それは衛兵たちの緊張をあざ笑うかのように、森の奥へと移動していくのだった。

 

「様子を見てくる。二人共ここにいなさい」

 その言葉を残して、瞬時にレイは消えた。ハルカとタツヤは不安な面持ちで、たった今までレイがいたあたりを見つめた。

 突然電話機が鳴って、ハルカを動揺させた。二度三度と呼び出し音が鳴る。ハルカはタツヤを目で制して受話器を取った。

「はい」

『チルドレン!衛兵の根来と申します。そちらは無事ですか。不審な者はいませんか?』

「ええ、誰も。何でもないです」

『そこを動かないで。そちらに人をやりますから安心してください』

「は、はい。分かりました。お待ちしてます」

 ハルカは震える手で受話器を置いた。状況は瞬く間に激変した。思い描いた将来像がすべて瓦解していくような不安が彼女を苛んだ。

 

「待ってくれ!」重武装でハルカ邸に向かおうとする衛兵たちに、後ろから声がかかった。装甲車両から降りた阿南の一声だった。その背後から続々とアサルトライフルを携えた兵隊たちが降りてくる。衛兵たちとは異なる迷彩服を着ていた。対テロ用の特殊部隊だ。相沢の姿もあった。

 彼らはハルカ邸へ急行する装甲車の中で銃声を聞いた。村の入り口を過ぎた直後のことだった。その瞬間、阿南は最悪の事態を思い描き、心臓が割れる思いがした。

 根来は兵たちに待機を命じ、私服の上に防弾チョッキを着込んだ阿南の前に行った。阿南は銃身の長いショットガンを手にしている。

「何ですか?この大変なときに」

「迂闊に踏み込むな。中は大変な状態にある。二人共いるんだな?」

「ええ、無事のようです。不審者もいないとか」

 怪訝そうな根来に、阿南は厳しい顔つきで質問を続けた。

「出たのは誰だ?」

「ハルカ大尉です」

「人をやると言ったんだな」

「『お待ちしてます』と言ってました」

 阿南は口を結んで考え込んだ。根来はとうとう質問をぶつけた。

「ねえ、いったい何が起きてるんですか?」

「教えてやろう。ハルカと一緒にいるのは使徒だ」

 この会話を密かに盗み聞く、目に見えない存在があった。それは深い悲しみを宿して、その場から一瞬のうちに消えた。

 

 出て行った時と同様、レイは唐突に現れた。

「大変なことになったわ。タツヤが使徒だということがばれている。外に阿南たちが来た」

「なんですって」絶望に捉われたハルカが呟いた。レイは淡々と冷厳な事実を告げた。

「直に特殊部隊がここを囲むわ。私たちの計画は水泡に帰したの。もうすぐこの場に彼らが踏み込む」

 タツヤは沈痛な面持ちでハルカに言った。「申し訳ない。この通りだ。僕はここで最期を迎える」

「何言ってるの!駄目よ!」ハルカは叫び返し、電話台の前に駆け寄った。受話器を取り、引き出しを開けて阿南の名刺を探した。「阿南さんを説得する。ここから引き払ってもらうの。なんとしても時間を稼ぐわ!」

 ハルカは名刺を電話機の前に置いて番号を押し始めた。落ち着いて、落ち着くのよ。間違えないようにゆっくりとキーを押した。一瞬の間の後、絶望的なアナウンスが彼女の鼓膜を打った。彼の携帯は電源が切れていた。

 そして室内に運命の音が鳴り渡る。インターホンが来客を告げたのだ。

 ハルカは受話器を握り締めて玄関のドアを見つめた。レイもタツヤも言葉が出なかった。もう一度インターホンが鳴った。ハルカはわななく手で受話器を戻し、ドアの前へ歩こうとした。 

「兵が裏に回ったわ」

 レイがさらなる危急を告げた。またインターホンが鳴る。ハルカはやむを得ずドアに向かって歩いた。その薄い扉こそ、大量死を防ぐただ一枚の盾であった。ハルカはごくりと唾を呑みこみ、インターホンに付属の受話器を取った。

「はい」

『チルドレン、阿南です』

「ああ、あなたですか」

『開けてください。護衛します』

 一瞬、阿南との思い出が頭をよぎった。ハルカは受話器を胸まで下げ、虚空を見上げて考えに耽った。阿南のもしもしという声にも反応しない。そうするうちに彼女の心は諦観に達した。怖れや悲しみを超克して運命に身を委ねる決意をしたのだ。そしてハルカは静かに受話器を顔に戻した。

「すみません、開けられません。開けたら、あなたがたはタツヤを拘束しようとするでしょう」

 阿南の声ははっきりと動揺を表した。『何を言ってるんですか?』

「言葉通りの意味です。タツヤに手を出せば最悪の結果が待っています。ですから、決してここに入ってはなりません」

 阿南さん、さよなら。ハルカは受話器を戻し振り返って、唖然とするレイとタツヤの方へ歩み寄った。背後で繰り返しインターホンが鳴った。ハルカは一切を無視した。

「これで少しは時間を稼げたわ」とハルカは言った。

「ハルカ、ありがたいけど、これじゃ事態の解決にならない」

 訴えるタツヤに、ハルカは薄く微笑んで見せた。

「もういいの。解決法を見つけたわ」

「どういうことなの?」とレイが訊いた。

 ハルカはすべてを超越したような表情で立っていた。怒りも愁いも怨みも、その全身から窺うことはできなかった。

「私はタツヤを殺せません。そう定められているのです。でも、共に死ぬことならできそう」

「待ちなさい!」さしものレイも事態の急展開にあせりを見せた。「まだどうにかなる。タツヤから自爆のことを彼らに説明しなさい」

「信じないかもしれません」

「あなたを人質にしているとか」

「強行突破してくる可能性があります。どう転んでも人間や他のみんなを危険に曝すんです。そんなの耐えられないんです」

 電話機が鳴り出してハルカの発言を邪魔した。眉を顰めたハルカは台に歩み寄って、電話機から伸びたプラグを引き抜いた。室内に静寂が戻った。タツヤは身じろぎもせずハルカを見つめている。ハルカはタツヤの前に行き、語りかけた。

「タツヤ、あなたにチルドレンを守る気持ちが残っているのなら、算術をなさい。私一人を道連れに死ぬか、他のみんなを巻き込むか」

「君一人にするべきだ」タツヤは即答した。

「意見が一致したわね」ハルカの口元に微笑が広がった。つられるようにタツヤも微笑った。

 レイはハルカの眼前まで迫って言った。「生きる努力を放棄すると言うの?」

 ハルカは自分の顎までの背丈しかないレイを見下ろした。「すみません、ファーストチルドレン。私にはパイロット以外の生き方は無理みたいです。ここでエースとしての死に方をさせてもらえませんか?」

 レイは何も言えなかった。同じ紅い瞳が互いを見合った。重い沈黙の後、レイは背を向けてひっそりと言った。「分かったわ。もう何も言わない。あなたの思い通りにしなさい」

 いきなりカーテンの向こうが昼間のような明るさになった。投光機のライトが家に強烈な光を当てたのだ。

 

 阿南と相沢は装甲車の中で、鬼頭大尉と話し合いを持っていた。阿南の横にはショットガンが立てかけてある。彼は家に入ったら数人の仲間と共に隙を見て、これをタツヤの頭に突きつけるつもりでいた。 

 鬼頭はやる気満々であった。「突入しましょう。こいつを二三個ぶちこめば敵はでくの坊だ」と言って、チョッキに差し込んだスタン・グレネードを撫でた。

 阿南が語気鋭く言った。「待て。敵はアンドロイドなんだぞ。確実に効果が上がるのか。技術部に問い合わせは?」

 部隊は対アンドロイド戦など想定していなかった。鬼頭は気まずそうにいいえと答えた。

「次長、まずはハルカ大尉の安全が最優先です。電話に出ないのなら、ハンドスピーカーで投降勧告をしましょう。とにかく今は話し合いをするべきだ」

「その通りだな。拙速は禁物だ。オーソドックスな手順を踏むとしよう」

「説得は僕にやらせてくれませんか?僕ならあの二人と縁がある。話がしやすいはずだ」

 相沢は数瞬考えてから、首を縦に振った。「いいだろう。君の弁舌は定評があるからな。しっかりやってくれ」

 口を一文字に結んで頷いた阿南は、窓から外を見やった。ハルカ邸はクレーンの先にある投光機に照らされて、白く浮き上がっている。外壁と塀には迷彩服に身を包んだ隊員が、何人もへばりついていた。

 

 ハルカは地下室から居間に戻ってきた。シロを置いてきたのだ。タツヤはソファに腰掛けて帰りを待っていた。ハルカがその隣りに座り込む。タツヤは黙って前を向いていた。すでに綾波レイはこの場を去っていた。今、この家にいるのは二人だけだった。 

 ハルカがぽつりと言った。「意外と静かになったわね」

 村は台風の目に入ったかのように、静寂の中にあった。だが、その裏には暴力行使の機会を耽々と狙う人間たちが隠れている。

「嵐の前の静けさとでも言うのかな」

「たった一日でこんなに変わるなんて」

「長い一日だったね」

 ハルカは体をずらしてタツヤの髪を撫でた。

「もう恨み言を言うのはやめたわ。こうなったら、何もかも仕方のないこと。運命だと思うの」

「ありがとう。しかし、奇妙なことになったもんだ。喩えるなら、お互い愛し合ったライオンとシマウマのようなものだね。ライオンはシマウマを愛したために、食べ物を得られなくなる。シマウマは変な奴だと仲間外れにされる。どちらも破滅していくしか道はない」

「それは違うわ。私たちはどちらも戦果を上げるのだから」

「僕はチルドレンを殺す」

「私は使徒を殺す」

「どちらも満足のいく死に方か」

 二人共朗らかに笑い声を上げた。それはこの家でずっと繰り返されてきた光景と変わりなかった。

 タツヤが語りかけた。「ねえ、ハルカ。僕らの仲もまんざらじゃなかったとは思わないか?作られた愛だから純粋だった。予定された恋だから不滅だった」

「ええ、言う通りだわ」

 ハルカはタツヤを抱き寄せ唇を合わせた。タツヤの逞しい腕がしっかりとハルカを抱きすくめた。ハルカはタツヤを味わいながら、使徒とヒトは理解し合えたかもしれないと思った。そのハルカの右手が、膨らんだ部屋着のポケットに滑り込んだ。取り出したのはカーキ色をした円筒状のものだ。

 タツヤはその気配を覚った。唇を離し、じっとハルカの目を見つめた。

「ハルカ、僕らパートナーのメインメモリーに刻まれた言葉を知っているかい?」

「「願わくば同じ年、同じ月、同じ日、同じ時に死すべし!」」

 二人の声が重なった。ハルカの左手がタツヤの背後で、右手に持った手榴弾のピンを抜き取った。レバーが跳んで床に転がった。ハルカはタツヤの口を強く吸い、目をきつく瞑って、手榴弾をタツヤの後頭部に押し付けた。

 

 阿南がハンドスピーカーを手に第一声を発しようとした時、それは起こった。家の中から一発の轟音が響き渡り、ガラス窓が粉々になって吹き飛んだ。続いて朦々たる煙が部屋の中から吹き出た。ガラス片を浴びた隊員が悲鳴を上げる。阿南の手からハンドスピーカーが零れ落ちた。

 鬼頭が横から猛烈な勢いでそれを拾い、号令を発した。「突入!!」

 隊員たちが一斉に動く。怒号とドアを打ち破る騒音が巻き起こる。現場はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎになった。阿南は脱兎のごとく走る鬼頭の背中を、呆然として見守るだけだった。彼にできることは何もなかった。

 

 

 年が明けた2083年1月2日午前11時、阿南と相沢はハルカ邸の前にいた。立ち入り禁止の黄色いテープが、道路との境い目に張られている。二人はさっきから道路に佇み、家を眺めている。それは原型を保ってはいるが、内部は惨憺たる有様だった。現場検証は終わったので、今は無人だ。

 彼らがここにいるのは、少し前まで執り行われていたパイロット就任式の帰りだったからだ。式は本来なら中央の航空機発着場で賑やかに催されるのだが、第132使徒による被害のために、養成所の講堂という地味な場所に変更されたのだ。そこで阿南は壇上に上がるコトミを見た。彼女があの若さで訓練生になるという事実を初めて知り、複雑な感情を抱いた。誇らしげに胸を反らすコトミは明らかに喜んでいたので、阿南も喜んでやるべきだっただろう。しかしそれよりも哀れみの情の方が優った。

 帰る途中、阿南も相沢も口数は少なかった。ハルカ邸の前まで来た時、阿南の足が自然に止まったので、相沢もつきあったのだ。

「しかし、いやな事件だった」と、相沢が言った。

「まったくですね。ぼくらは負けた。使徒の完勝ですよ。アンドロイド一匹がエースパイロットを道連れにした。十分おつりの来る戦果です」

「実際、あそこで何があったんだろう?ハルカの銃は一発も発射していなかった。他に銃器は見当たらない。だとしたらあの時発砲したのは」

「草鹿しか考えられません。あのファックスもそうでしょう」

「うん。食卓の裏に盗聴器があったな。奴のやりそうなことだ。さらに診療所にあった死体。殺してから悠々とファックスを使いやがった」

「タツヤがXだと密告し、さらに銃声で僕らをおびき寄せる。あんな危険を犯して、そこまでしたのは何故か」

「タツヤと草鹿が裏で繋がっていたのは明白だよ。あのアルバムだ。あれにあんな意味があったとはな。マサコ殺害事件も見直しをしなきゃならなくなった」

「不思議なのはハルカの言葉です。僕らがタツヤを逮捕しようとしていたのを、どうして知っていたのか。『最悪の結果』とはなんだったのか。たぶん草鹿の狙いはそれを引き起こすことだったんでしょう」

「謎が多すぎる。ただ、草鹿は真相を知っている。とにかく奴を捕らえねば」

 二人の捜査官は復讐の念に燃えながら、主を失った家を眺めた。阿南には思い出深いこの場所も、破壊の深刻さに全面改築を余儀なくされたという。いずれここも別のチルドレンが愛を育む場所になるはずだが、それがいつになるかはまだ明らかになっていない。

 相沢が言った。「そう言えば興味深いレポートが来てた。軍情報部から流れてきたものだが」

「どんな?」

「ロシアがな、ステルス迷彩の開発に成功したらしいってさ」

 阿南は眉を顰めた。「そんな厄介なものが?嫌な発明だ。警備関係者にとっては深刻なニュースですよ」

「まったくだ。で、阿南よ。どうやら大陸のどこかにそいつの現物があるのは確かだ。だが、いつから使用されているかは定かでない」

「ということは」阿南の顔面から血の気が引いた。「もうこのジオフロントにあるかも知れない」

 相沢は重々しく頷いた。「これだけ大規模な捜査を長期間に亘って続けたのに、まだ捕捉できないというのは異常だ。この閉鎖空間でだ。だが、この糞発明が使用されたとしたらどうだ」

「捜査の仕方を考え直さなくちゃ」

「そうだな。まずは情報を最大限集めること」

「よう、お二人さん」

 いきなり後ろから声が掛かり、二人は話を中断して振り向いた。バッグを持った背広姿の大柄な男が近づいて来る。危うく冤罪を被らされそうになった、カウエル元養成所次長だった。阿南は憂鬱な気分になった。カウエルの方はさっぱりとした顔をしている。

「やあ、しばらくだね。まだいたのかい」と相沢が応対した。

「まあね。引継ぎやらなにやらで。しかし今日で全て終わりさ。故郷のロスに帰る。失業者になったわけだけど、二三年のんびりするつもりだ」

 カウエルはマサコへのセクハラが原因で軍を解雇された。阿南は責任を感じ、人として言うべきことを言おうと前に進み出た。

「カウエルさん。真に申し訳ない」

 深々と頭を下げる阿南を、カウエルは余裕の表情で見ていた。

「頭を上げなよ、阿南さん」ありがたい言葉を聞いた阿南は、ほっとして姿勢を戻した。「あんたを恨まなかったと言えば嘘になる。だけど、時間が経つにつれて仕方なかったと思うようになったよ。あんたはあれが仕事だったんだからね。あんまり気にしなさんな」

 カウエルは阿南の肩を一つ叩いた。阿南は救われた思いがして緊張をほぐした。

「ところでさ、あんた、コトミと親しいらしいな。だったら伝言してくれないか。カウエルが感謝していたと。あの子のおかげで、俺は自由になれたんだからな。どれだけ言葉を並べても足りないぐらい、恩を感じていると」

「ああ、必ず伝えるよ」

「それから、おめでとう、と。残念ながら就任式じゃ声を掛けられなかったからね。ついでに、プラグスーツが良く似合っていたとも言っといて」

 軍を除籍された彼は、就任式を講堂の片隅から見守ることしかできなかった。阿南は二度も伝言の約束を繰り返した。誇らしい舞台であるはずの就任式から除外されたカウエルに同情を覚えた。が、カウエルは終始さばさばした態度でいた。

「それから草鹿の野郎を早く逮捕してくれ。奴には殺したいくらい恨みがある」

「うん。それも約束する」

「時間を取らせたね。じゃ、俺は行くよ。二人とも元気でな」

 カウエルは一つ敬礼をして去って行った。直に定期ヘリに乗ってジオフロントから上昇していくことになる。阿南と相沢はしばしこの不運な教官の背中を見つめた。

 相沢が制服の懐から青い箱を取り出した。彼がそこから引き抜いたのは一本の煙草であった。阿南は相沢の意外な行動に驚きを感じた。

「あれ、次長、煙草吸いましたっけ?」

 相沢はライターで煙草の先に火を点け、美味そうに煙を吐き出しながら答えた。「昨日、10年振りに吸った。長いこと続いた禁煙だったけどな、止めちまったんだ」

「どういう心境の変化で?家族は何も言わないんですか?」

「家族はとっくの昔に実家に疎開してる。今の俺は独り身なんだよ。でなぁ、なんて言うか、体を大事にする気が失せたんだな。世の終わりが近づいてるのに我慢を重ねる必要があるのかって」

 阿南は途端に渋い顔をした。「弱気なことを言わないでください」

 相沢は苦笑いをして答えなかった。長く煙を吐き出した後、阿南に言った。「俺はもう帰る。お前、どうする?」

「僕は少しこの現場を見直そうと思います。見落としがないかどうか」

「そうかい。ご苦労だな。正月なんだから、早目に切り上げろよ」

 紫の煙を残して相沢は去って行く。阿南は黄色いテープをまたいで敷地に入った。庭はまだ大半が以前の美しさを保っている。玄関のドアは突入の際に蝶つがいを破壊されてなくなっていた。阿南はテープを一旦はがして中に入り、内側からテープを貼り直した。

 居間は壮絶な状態になっていた。倒れた家具は戻されたが、小物類は散乱したままだ。窓際近くには大穴が開き、床下が丸見えだ。壁には大きなひび割れが何本も走っている。天井も穴が開いて1階から2階の天井が見てとれる。そして何より凄惨さを強調しているのが、そこらじゅうに飛び散った血痕であった。何度見ても胸が痛む光景だ。

 ハルカの遺体のことは思い出したくなかった。あれほど酷い死体を見たのは、阿南の人生でも初めての経験だった。使徒・タツヤのボディも上半身が見事に吹き飛んでいた。

 阿南は散乱した小物類を一つ一つ点検していった。手掛かりになりそうなものはないか。

 不思議なことに寝室にあったパソコンは、技術部が真っ先に押収していった。保安部に渡されたのは1日経ってからだ。その理由は、例によって秘密のヴェールの向こう側だ。阿南は嘆息するしかなかった。

 部屋の隅にまとめられた小物類を掻き分けてみる。食べ物がこびりついたままの皿、燭台に刺さったままの蝋燭。楽しいはずだった夕餉の名残だ。

 一枚の皿をよけた時、阿南は見覚えのある容器を見つけ、まじまじと見入った。ダージリンの缶だった。蓋は開けられてなく、重さは買ったときのままだ。阿南が感謝の気持ちを込めた贈り物は、結局ハルカの口に入らなかった。

 と、阿南は缶を放り出し、両手で顔を覆った。抑えてきた感情が彼の中で爆発したのだ。嗚咽の声が隙間から洩れた。阿南は床に座り込んで動かない。誰もいないのが幸いだった。彼はしばらく哀愁の昂ぶりに身を任せることができた。

 悲痛の波は徐々に引いていった。彼は濡れた手の平を下ろし、立ち上がった。泣いている場合じゃない、おれは捜査官だ。彼はハンカチで顔を拭い、仕事に戻るべくがらくたの山に視線を落とした。

 携帯電話の鳴る音が静寂を破った。彼はすぐにそれを取り出し、ディスプレイを出すと、またしても驚異の画面が表示されていた。

 まっさらな画面にただ1行、浮かび上がったメッセージ。『猫に注目しなさい』

 猫?阿南は意外な言葉に目を丸くした。そんなものに何の関係があるのか。

 まるでタイミングを計ったように、後ろからにゃあという鳴き声が聞こえた。素早く回れ右をする阿南。尾をぴんと立てたシロが、地面にある何かを噛み、出入り口を通ってこちらに歩いてくる。

 過日、阿南は現場を捜索した保安部員からシロの話を聞いた。地下室に隠れていたシロは、部員に抱き上げられて地上に上がったが、家を出た途端暴れだして地面に飛び降りたという。そこから走り出したシロは道路まで出て、以来姿が見えなくなった。作り物らしからぬ行動に誰もが首を捻っていた。そのシロがまるで阿南に用があるかのように、目の前に現れたのだ。

 阿南は動揺を抑えてしゃがみこみ、シロを呼んだ。「チ、チ、ほらおいで」

 シロは手を伸ばせば届く距離まで来た。口に何か黒いものを挟んでいる。阿南の目前で木の床にそれを落とした。阿南は恐る恐るそれを手に取った。

 一辺3センチほどの正方形をした黒いものだ。材質は硬く、端から細かい線が何本も突き出ているが、長いものでも5ミリほどしかない。明らかに半導体と思われるもの。

「どういうことですか、ファーストチルドレン?」携帯に目をやった。しかし、すでに当たり前の待ち受け画面があるばかりだ。通信は途切れてしまった。

 阿南は狐につままれたような気分で手の中の物体を見つめた。ファーストチルドレンは何を言いたいのか、答えは自分で探すしかないらしい。目を近づけてじっくりと観察する。

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 書かれた文字はこれだけだ。次に阿南はその裏側を見た。もっと長い文字列が刻印されていた。それはこういう言葉だった。

 

 “生きとし生けるものすべての母”

 

 

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