サードインパクトを解釈するに当たっての最大の問題は、いかにして人間がLCLに還元されたかであった。この問題の解答を得るには、サードインパクトの勃発から実に8年もの年月を必要とした。見事にこの困難な課題を解決に導いたのは、ジャン・オーリックとイワン・グリゴローヴィチ・ダルゴムイシスキーである。UNDRCのスイス支局に勤務する物理学者であった彼らは、脳内ATフィールドの研究を通して、その消滅と人体液状化とを関連付けることに成功したのである。

 彼らは脳内ATフィールドがアンチATフィールドによって中和される際、その周辺にどのような影響を及ぼすか、詳細に研究を進めた。その結果導き出されたのは、中和時に発生する特別な場である。彼らはこれを「絶対絶縁領域」と呼んだ。この領域は脳の中心から人体全域に行き渡り、髪の毛一本も洩れることはない。この場においては一切電流が流れない。言い換えると、領域自体が高品位の絶縁体になるということである(オーリック・ダルゴムイシスキー効果)。

 ここで、固体とは何かを考えてみよう。固体とは原子と原子、原子と分子、また分子同士が強固に結びつきあい、分子が泳動しなくなった状態を言う(固相)。結合が緩く、分子が比較的自由に動く状態を液体と言い(液相)、さらに結合が緩んで、分子が全く自由に動く状態を気体と言う(気相)。固体は主に電子を交換することによって固く結合していて、これをイオン結合と言う。

 イオン結合により発生する力は、クーロンの法則によって記述できる。距離の2乗に反比例する力である。その方程式は別項に掲げておくが、注目すべきは分母にある真空の誘電率eである。誘電率とは簡単に言うと、電流の流れやすさを現す値であり、eは定数である。仮にこの値が高まれば電流は流れにくくなる。

 サードインパクト以前の科学的常識では定数eは万古不易、変化のしようのないものであり、固体を相転移させるには加熱、つまり原子の格子振動を高めるか、あるいは化学変化させるかの方法しかなかった。しかしながら、S2機関の発見によるエネルギー保存則の崩壊と同様、電磁気力学もまた大幅な記述変更を迫られたのである。

 ATフィールドのような絶対領域においては、従来の物理法則をそのまま適用できない。絶対絶縁領域内にあってはeの値そのものが自然界とはかけ離れた高い数値を取る。方程式を今一度見てほしい。右辺の分母が大きくなれば、解である電磁気力も弱まることは言うまでもないだろう。

 こうして固体は緩解していくのである。格子振動が分子間力を上回り、固体は形象を保てず、液体へ相転移していくのだ。この物理変化によってLCL、すなわちLife Converted Liquidが地球的規模で生成された。サードインパクトとはこの相転移が、地球上の知的生命に洩れなく行き渡った現象である。ひところは人体液状化を巡って、様々なオカルト的、非科学的、また擬似科学的な解釈がまかり通っていたが、今日そのような妄言が、ごく一部を除いて囁かれることがなくなったのは喜ぶべきことである。

(ベルント・アロイス・シュトックハウゼン著「サードインパクト研究序説」より)

 

リリスの子ら

間部瀬博士

最終話

 

 四季を失い、常時高温に曝される東海地方だが、近頃はめっきり過ごしやすい気温が続いている。前回の使徒戦で空中に飛散した土埃が太陽を遮り、日光を弱めているのである。そのためジオフロント内部は、あまり空調に頼らずとも快適と言える環境にある。阿南は散光塔から落ちる、以前より淡くなった陽射しを浴びながら、きちんと長袖の制服を着こなして空洞部平面を歩く。彼には珍しく花束を抱えている。

 幹部用住宅の立ち並ぶこの一角は警備する軍人の数も多い。その中の一軒、技術部長用公宅の前で、彼は足を止めた。庶民には縁遠い豪勢な庭付きの一軒家だ。ベヒシュタインがここに住んでいる。阿南は門前で二人の衛兵に身分証を見せ、さらに虹彩照合までさせられて、ようやく玄関前にたどり着いた。

 そこで阿南はポケットに手を入れて、四角い板を握った。このところ彼はそれを肌身離さず持ち歩いている。触っていると内心に勇気や使命感のようなものが湧いてくるのだった。気を引き締めた阿南はインターホンのボタンを押した。

 ベヒシュタイン博士はこの前日、腹の傷が癒えて退院を果たしたばかりであった。阿南の訪問の名目は退院祝いである。インターホン越しに到着を告げた阿南を、博士は快く迎えた。

「よく来てくれたね。花をどうもありがとう。テレーゼ、頼む」

 邸の中、博士お気に入りのメイドアンドロイドが花束を受け取った。ハルカの前に姿を見せたこともある。完璧な容姿と洗練された物腰は、阿南の目を引き付ける。博士は機嫌良く応接セットを指して阿南を座らせた。

「博士、お時間を取らせて申し訳ありません」

「いやなに、本来なら私が君んちに出向いて挨拶するべきだった。来てもらって恐縮しとるよ」

「お仕事はいつから?」

「昨日の午後、挨拶だけはして来た。正式復帰は明日からだ」

 阿南は博士の容貌を観察して、皺の数や深さが一段と増しているのに気づいた。やはりエリーゼの暗殺未遂から始まる一連の騒動が、身にこたえているのは明らかだった。

「それで博士、今日伺ったのはお祝いだけじゃなくて、いろいろと質問がしたかったんです」

「ま、そうだろうな。君のことだ。しかし、アンドロイドに関することならさんざん話したぞ」

「すいません。お聞きしたいのはエリーゼのことで」

「あの子か。もう忘れたいんだがな」

「あれは確か、亡くなったお嬢さんの身代わりとして造られたとか」

「そうだ。君ならその気持ちも分かるだろう」

「本当ですね?」

 阿南の念押しを博士は不気味に感じた。博士を見つめる阿南の目に鋭いものがある。博士は不快混じりに答えた。

「本当だとも」

 テレーゼがコーヒーを二人分運んできたので、阿南は口を閉じた。テレーゼは何事もないように給仕をし、おじぎをして去って行く。十分離れたところで、阿南は満を持して言葉の矢を放った。

「そうですか。おかしいな。実を言うと僕は国連本部に、あなたの経歴を問い合わせてみたんですよ。そうしたら、あなたには確かにエリーザベトという娘さんがいらっしゃった。ですが、亡くなったのは3才の時でした」

 ベヒシュタインはコーヒーカップを手にしたまま動かなくなった。瞬きもせずに阿南を見つめた。阿南はその反応に満足して続けた。

「エリーゼはどう見ても3才には見えません。もっと年上、7、8才に見える。なぜでしょう?」

 博士は憎らしげに答えを押し出した。「教えられんな。個人的な理由だ」

「言わなくて結構。こちらで出した結論があります。博士、あなたには一人お姉さんがいますね。名前はエリカ・ノイマン。今は姓が変わってダグラス」

 阿南の言葉は博士にとって、とどめの一撃だった。彼が抱え込んだ秘密が白日の下に曝されるのを覚悟した。

「二つ違いのあなたとエリカさんは、幼いうちに生き別れになりましたね。サードインパクト直後の混沌とした時代、あなたの生家は生活が苦しかった。ご両親はやむを得ず、幼いエリカさんを養子に出されました。遠い親戚がいるアメリカにね。あなた、随分長い間会えなかったんでしょ」

「姉を捜し出して再会できたのは、25年も経ってからだ」

「僕はドイツ支部の知り合いに頼んで、こっそりエリカ・ベヒシュタインの写真を探してもらいました。結果は割りと簡単に出ました。小学校で撮った写真が残っていました。それがこれ」

 阿南は懐から一枚の写真を取り出し、テーブルの上に置いた。ベヒシュタインはそれを一瞥しただけで視線を逸らした。その写真に写ったはにかみ顔の少女は、エリーゼと生き写しであった。

「実に可愛らしい娘だ。あなたは思い出に残る実の姉を創造しました。周囲には娘の代わりだと言って。その方が周囲の目も温かいから。実の所は大違いだ。あなたは憧れのお姉さんを幼い姿で再現したんだ」

 きつく阿南を睨んでいたベヒシュタインが、やっと口を開いた。

「なぜ分かった」

「ちょっとしたことです。あなたは前、僕にハイデルベルグにいた頃のことだと言いましたね。その時から引っかかっていたんです。あなたの経歴をざっと調べていましたから。あなたがハイデルベルグにいたのは2020年から34年まで。あなたが弱冠17才の時までです。エリーザベトさんが生まれるはるか前のことだ。あなたは油断して、うっかり真相の一部を洩らしてしまったんだ」

「そんなことを言ってしまったか」

 ベヒシュタインは拳骨で頭を叩いて悔しがった。阿南はそんな彼を涼しい目で見ていた。

 態度を改めたベヒシュタインは阿南ににじり寄って言った。「そうだ。エリーゼ、実はエリカだ。だが、それのどこが悪い。不幸せな肉親の写し身を本人の代わりに可愛がって、満足を得ようとしただけだ」

「本人の代わりに可愛がって満足を得る?違うな。そんなきれいごとじゃない」阿南はベヒシュタインに負けぬ厳しい顔で言い返した。「あなたは夜な夜なあの娘に何をさせていました?大層楽しみましたよね?ちゃんと分かっているんだ」彼は懐から小型のボイスレコーダーを取り出した。「エリカさんはまだご存命だ。これを聞かせたらどう思いますかねぇ?」

「よこせ!」ベヒシュタインは血相変えて、阿南の手からレコーダーを奪い取った。蓋を開いて中身を消去にかかる。阿南はそれを冷静に見守るだけであった。博士は初期化したレコーダーを阿南の膝に投げ返した。「これで中は空だ。さてはまだどこかにコピーがあるな?どこだ?出さないとためにならないぞ!」

 阿南は深くため息をつき、もう一度懐に手を入れた。「博士、僕が易々と切り札を渡すと思いますか?こっちのレコーダーには意味のない環境雑音が入っていただけです。本命はここ」ちらっと胸ポケットにあるレコーダーのボディを見せた。「これは録音中です。博士の今の科白、ばっちり録らせてもらいました」

 博士の顔から血の気が引いた。「なに?じゃ、それじゃ、君は私の反応を記録するために」

「そういうこと。証拠はこれで万全です」

 博士は勢い良く立ち上がった。が、阿南は右腕を前に突き出しただけであった。

「やめなさい!僕からこれを奪えると?どうしたって無理でしょう。座って落ち着きませんか?」

 意気消沈した博士は疲れ果てた表情で、椅子に身を預けた。

「くそう、また引っかかった」

 阿南はネクタイを撫でて、ネクタイピンに偽装したマイクの角度を直した。録音は続行中だ。対するベヒシュタインは冷静さを取り戻し、阿南を尊大な態度で見返した。

「どうして私の性癖に気づいた」

「エリーゼのスペックを注意深く読んだんですよ。博士、僕もアンドロイドには詳しいほうだ。あんな機能を搭載したら、目的は一つしか考えられない。このことをあなたの伝記作家に伝えたら、どう書くでしょうねえ」

「同じ穴のむじなか。ちぇっ。まあいい。それで君の目論見はなんだ。私の弱みにつけ込んで何がしたい」

「金がほしいとかいうんじゃありません。質問に答えてくれればいいんです」

「C計画か」

「それもあります。その前にこれのことを教えてくれませんか」

 阿南の右手が上着のポケットに入り込んだ。掴み出したのは正方形の黒い板だった。阿南はそれを目の前に掲げた。

「wrx00042とあります。ネオ・ネルフ製。これは一体なんですか?」

 博士の表情が一気に変わった。「どこでそれを拾った!?」

「ハルカ邸近くとだけ言っておきます」

「それは技術部のものだ!それを探し出すのに何人も、何日もかけて‥‥。返してもらおう」

 腕を伸ばす博士を阿南は無視した。

「事と次第によっては。博士、僕はこれの用途は想像がついています。高校時代の友人に半導体技術者がいましてね、内緒でそいつに鑑定を依頼しました。返って来た答えが、アンドロイドに使用するCPUに似ているということ。ただし、扱う情報がアンドロイドとは全く異なるということです。結局正体は不明でした。博士、イエスかノーでいい。これはハルカですか?」

 室内を重い沈黙が満たした。ベヒシュタインは視線を下に落として何事か考え込んでいる。阿南は身じろぎもせず答えを待った。やがて顔を上げた博士は重い口を開いた。

「その通り。それはハルカの心だ。標準型ハイブリッド人格生成装置。元々チルドレンに人格はなかった。どうしても発生せんのだ。どうにも使えんでくの坊ばかりが出来る。仕方なく代替措置として開発されたのがその装置だ。2035年以降生まれたチルドレンは、すべてそれを脳に埋め込んでいる。私は開発の初期から関わっている。どうだ、夢が壊れたか」

「やはりそうでしたか」阿南は瞑目して板を握りしめた。ハルカの様々な思い出が脳を駆け巡った。小さなコトミの笑顔も浮かんだ。そうして阿南は熱を持った板を大事そうにポケットに戻し、博士を見た。

「博士、僕にとっては、この目が見たこと、聞いたこと、経験したことがすべてです。裏で起こっていたことはヒトと違っても、ハルカや他のチルドレンは僕ら人間に多くのものを与えてくれました。僕の中でその価値が減じることはありません」

「そうか。良く言ってくれた」

 ベヒシュタインは満足げに頷いた。彼と阿南には多くの点で違いがあるが、人造物に対する感じ方には共通のものがあった。二人の間に和解めいた空気が醸された。

「私はねえ、阿南君、あの子らのことは隅々まで熟知している。こんなときどう反応するか、どんな感情を抱くか。そうなるように私が造った。だけどねえ、私はあの子らにある種の情を覚えずにはいられんのだ。心理学者はピグマリオン・コンプレックスと診断するかもしれないな。だけど別にいいじゃないか。人の心は単純明快に割り切れんものなのだ」

「そんなあなたが、どうしてチルドレンを戦わせられるんですか」

「仕方ないだろう。私ほど苦しんでいる人間はいないと思うよ。良心の痛みを和らげるために、恐怖心を抑制したり、戦いに生きがいを見出させたりと、人間に都合のいいように造った。せめてもの償いとして、可能な限りの贅沢をさせた。愛人まであてがってやった」博士は急に態度を変え、前のめりになって言った。「しかしどうだ。平時にあっては女神のように慈悲深く、戦いの場にあっては鬼神のように武器を振るう。崇高な精神と超絶的な戦闘能力。そして百合のように美しい。神話に出てくるワルキューレの再現だ。私のチルドレンはオリジナルを超えたのだ!

 高揚した博士は、うっとりとした顔で虚空を見上げた。阿南の方はそんな博士を冷ややかに観察していた。

「多くの子供たちが慫慂として死に赴きました。自らを犠牲にして」

 博士は陶酔から醒めて阿南を見返した。「我々には他に方法がないんだ。それが嫌ならリリス教徒やネオ・ゼーレの側に付くしかない。だが、私は補完なんぞご免こうむる」

「僕も同感です」

「私はこの痛みを生涯引き受けるつもりでいる。マリーは違う。あの女、チルドレンに感情移入できんのだな。ま、君は解らんでいい。あまり余計なことは考えず、仕事に没頭したまえ」

「前にも言いましたが、僕は秘密があると覗きたくなるんです。アイネム総司令のようなケースがあった後では尚更です」

「ふん。すべて良かれと思ってやったことだ」

「あの子たちはこのことを知っているんですか?自分たちの心の正体について」

 博士はため息をつき、哀しげな目をした。「いや。知らないんだ。知れば自尊心を失うだろう。プライドはモチベーションを上げる。その方が人間の目的に適うんだ。いい嘘と悪い嘘があるが、これはいい嘘だ。あの子たちにとっても、人間にとってもな。私はそれが悪いと思ったことは一度もない」

 阿南は博士の言葉に共感して深く頷いた。どんなことがあっても、この秘密だけは守り通そうと思った。また一瞬コトミの顔が頭に浮かんだ。そして幸薄かったマサコのこと。

「ところで、マサコの場合はどうなんです?一律に作ってるはずなのに、なぜ彼女だけが落伍してしまったのか」

「あれは私のミスだった」ベヒシュタインは苦渋を顔に滲ませた。「マサコの場合、ほんの少し他のチルドレンとパラメーターが違う部分があるんだ。当時私は実験精神が旺盛でね。若干違う設定をしたらどうなるか、試してみたくなってな。結果は裏目もいいところだった。どのチルドレンにも後天的な差異があるわけだが、彼女の能力が劣ったのは先天的なものだった。本当に悪いことをしたと思ってる」

「彼女が副司令に身を任せていたのを知っていたんでしょう?」

 ベヒシュタインは阿南を鋭く睨んだ。「どうしようもないだろう。彼女に面と向かって言うわけにもいかん。副司令にやんわりたしなめたことはあったよ。だが、さっぱり聞かなかった」

「そうでしたか」阿南はマサコを信時に斡旋したある参謀の顔を思い出した。いつか報復をしてやりたいとさえ思っていた。

 そして阿南は残る最大の疑問をぶつけた。「さて、時間が惜しい。もう一つ質問に答えてください。簡単に言います。C計画とはなんなのか」

 いよいよ来たと感じた博士は、姿勢を変えて黙り込んだ。阿南の顔をちらちらと見る。阿南は博士を真っ直ぐ見返した。するうち、博士の顔に不気味な笑みが浮かんだ。

「そんなに知りたいか」

「ええ、なんとしても」

「知らない方がいいこともある。後で後悔しないか?」

「どんな事でも受け入れます」

「何があっても秘密を守れるな?誰にも言わないと約束できるか」

「約束します」

「交換条件がある。私はC計画の内容を教える。代わりに君はそのレコーダーをよこせ。ハルカも返せ。」

 阿南は即答をしなかった。ここに至ってかの麗人の一部を手放すのが惜しくなっていた。

「どうした?ささやかな条件だろう。大体それは君個人のものじゃない。ネオ・ネルフの財産なんだ」

「いいでしょう」と阿南はしぶしぶ答えた。博士の言い分は道理があるし、とことん敵対したいとまで思ってはいない。「ただし全部教えてもらった後で」と付け加えた。

 

 博士と阿南は連れ立ってセントラルドグマの中を進む。日曜日なので普段の環境よりよほど静かになっている。復旧工事の雑音も遠くに聞こえるだけだ。いくつものエレベーターとエスカレーターに乗って、阿南は未経験のエリアに入った。博士が臨時のパスを作ってくれたので、スムーズに通過できている。彼は見たこともない巨大な兵器や装備の数々に目を瞠った。

 長さ15メートルはありそうな大まさかりの横を通って、エレベーターの前に立った。

「これに乗って下に下りれば第一の目的地だ」と博士。

「下に何があるんですか?」

「ふっ。その目で見て確かめたまえ」

 白衣に着替えた博士の目が期待にきらめく。阿南の驚く顔を楽しみにしているのだ。阿南は口からため息を漏らした。

 エレベーターに乗っている時間は長かった。阿南は自分がどのくらいの深度に達したのか、考えてみる。ジオフロントの底近くに達したのは間違いないと思った。

 ベヒシュタインがおもむろに言った。「しかし、君もいい度胸をしているな」

「どうしてです?」

「君の証拠は、今二つとも君が持っている。私が衛兵に命じて逮捕させれば、簡単に取り上げることができる」

「確かに」博士の脅しにもかかわらず、阿南は淡々としていた。「だけど僕には確信があります。あなたは命の恩人に借りを返すだろうとね」

「はは。そうさ、私は恩知らずじゃない。しかし実の所は、誰かに見せびらかしたくてたまらなかったのさ」

 やっとエレベーターが停止し、ドアが開いた。そこは最初非常灯の明かりがある以外は真っ暗で、誰もいないことは明らかだった。博士が横にあるスイッチを入れて天井の一部が光り、奥まで見通せるようになったが、薄暗いままだ。広大な空間に各種の電子機器が稼動している。異様なのは真ん中に聳え立つ、高さ2.7mぐらいある円筒であった。天井から何本ものホースが下りてきて円筒に繋がっている。円筒の上下は黒い金属で覆われ、中間の素材はアクリル製らしく、中に茶色の液体が詰まっているのが分かる。

「あれを良く見てみなさい」

 博士に促されて、阿南は靴音高く円筒型の水槽に近づいた。博士は同じ場所にとどまった。途中、彼は水槽の中に何かが入っているのに気づいた。そこで彼はそれがなんなのか察しがついた。足を速めて水槽の手前に立つ。中におぼろに見えるのは、長く蒼い髪を伸ばした全裸の女であった。その瞬間、天井に据えられた四つの水槽用のライトが点き、全貌が曝し出された。

「チルドレン‥‥」

 十分に成熟した大人のチルドレンだ。胸と腹にベルトが回っていて、底に立てられた支柱に固定されている。腹の真ん中には養分補給のためだろう、太めのチューブが刺さりこんでいる。股間から二本のチューブが下がっているのが異様だ。体の随所に接着されたモニター用の線と、伸び放題の髪の毛があいまって、水草の中に漂っているようにも見える。眠っているのか、目はしっかりと閉じたままだ。そして最も無残な印象を与えるのが、額の生え際に装着された数本のコードであった。

 阿南は言葉もなく円筒に幽閉された眠れる美女を見つめた。彼はチルドレンの成育について幻想は抱いていなかったが、実際目の当たりにすると衝撃を禁じえなかった。しかしなぜこのチルドレンだけがこんな残酷とも思える飼育をされているのか疑問を抱いたとき、突如ぶぅんという機械音と共にチルドレンが目を開けた。

 度肝を抜かれた阿南は一歩退く。その瞬間、阿南君と声が掛かり、振り向いた彼は目を剥いた。

 離れて立つベヒシュタインは拳銃を構え、阿南に狙いをつけているのだ。その目は鷹のように鋭い。

「博士、何を‥‥」

「私が君にみすみす秘密を渡すと思ったか。死んでもらうぞ、このスパイめ」

 阿南は咄嗟にしゃがみこんだ。博士は容赦なく引き金を引いた。発砲音が木霊する。だが、その刹那、阿南は見た。彼の先2メートルの空間に小さな八角形の青い形ができ、床に銃弾が転がるのを。

 反撃のため脇下の銃を握った阿南の動きが止まった。床で揺らめく8ミリ径の弾を見つめる。ベヒシュタインは得意げに銃口を上げ、嬉しさのあまりか、膝を叩いて笑い出した。

「ははははは。どうだ、びっくりしただろう。心臓が止まりそうになったか?ふは。わはははは」

 阿南はのろのろと起き上がりながら真相を理解した。博士の左手にリモコン装置のようなものがある。あれでこの一幕を演出したのだろう。阿南は両手を上げて降参のポーズを取った。

「参りました。ほんとに死ぬと思いました」

「へっへっへ。どうだ、これで一つ借りを返せたな」

 阿南は内心呆れながらも、渋い顔でこくんと頭を下げた。おそらくこれがやりたくて連れて来たに違いないと思った。

「お見事。で、今のはATフィールドですね?」

「そうとも。ATフィールド発生装置だ」博士は白衣の奥に銃をしまいこみ、リモコンを操作した。またぶぅんと音がする。阿南が振り向くと、マサコを思わせるチルドレンはゆっくりと目を閉じていった。

「2040年製wrr0001367。そんな齢には見えんだろうな。この中では加齢の仕方が違う」

「チルドレンがATフィールドを張れるとは知りませんでした」

 博士はぶるぶると首を横に振った。「地上に出るチルドレンとは違う。あの子らにこんな真似はできんし、してもらっても困る。いいかね、阿南君、そもそもチルドレンを構成するのは使徒の細胞だ。とすれば、使徒のように振舞わせるのも可能なはずだ。現に第17使徒というモデルがある」

「これは使徒なんですか?」

「それは解釈のしすぎだな。おおざっぱに言うと、生成した素体を人間に近くしたのがチルドレン、使徒に近くしたのがそこにいる亜チルドレンだ。チルドレンは人格を形成しつつ、使徒性を制御する。そっちのは人格を持たせないが、大脳をコントロールしてATフィールドを発生させる」

「では、この女は外に出たことがない」

「そうだ。制御してるのはあのコンピューターだ」と言って博士は横手にある大型コンピューターを指した。「この子は組織の剛性が不十分でね、LCLの外に出すと体が崩れてしまうんだ。実はそういうタイプの方が圧倒的多数なのさ。チルドレンとは選ばれたものだ。この子はそうした廃棄されるはずの素体の中から選ばれ、ATフィールドの人為発生のために供用されたものの一人だ。2049年にやっとこの子が、見事ATフィールドを展開させてなぁ。その時の研究スタッフは大喜びしたものさ。それからはこの子に名前を付けて、マリアと呼んだ。ATフィールド発生装置の第1号機だ」

 阿南はひどく不愉快になった。「彼女を装置と呼ぶんですか」

「うん、君が不快に思うのも分かるよ。ただ、精神に値するものが何一つないんだ。確かに生き物ではある。でも、それを言い出すと、エヴァンゲリオンだって生き物なんだよ。君はあれが戦うのをどう思っているんだ?」

 阿南は口をへの字して黙り込んだ。結局のところ、人類はこれらの生命を費消して生き延びるしか方策はないのだ。彼個人のセンチメンタリズムなど通用しない宿命にある。それは2015年以来負ってきた人類の業であった。

「道徳的な問題は措いて」と阿南は話題を変えた。「これはすごい装置です。他のはどこに?」

 博士はにんまりと笑った。「見たいか?見せてやろうじゃないか。ついて来なさい」足早に歩く博士の後を阿南は追った。エレベーターを待ちながら博士は言った。「おそらく君は息を呑むだろう。人類がいかなる奇蹟を生み出したか、とくと体験するがいい」

 

 阿南と博士はまた複雑な経路を辿り、今度は質素な10人乗りの車両に乗って鉄路を進んでいた。阿南はこんな鉄道があるとは聞いたこともなかった。車両は水平に進み、ジオフロントから出ていこうとしているように思える。ジオフロントの他に秘密の地下施設があるのだろうか。博士にそのことを訊いても、曖昧な答えしか返ってこない。阿南は諦めてじっと到着を待った。

 車両はやがて広い駅を思わせる空間に着いた。そこで鉄路は終わっている。二人は車両を降りてプラットフォームに立つ。そこには簡素にもエレベーターのドアが二基分あるだけだ。その一台に乗ると博士は上階行きのボタンを押した。エレベーターは猛スピードで上昇して行く。途中、博士が言った。「あれを見た君がどんな顔をするか、もうわくわくしとるよ」

 エレベーターはようやく目的の階に辿り着いた。工場を思わせる大空間だ。その場に広がる光景もまた阿南を驚かせた。

 そこには千を下らないと思われるロボットたちがずらりと並んでいた。どれもが金属の外装を光らせている。キャタピラーを持つもの、持たないもの、アームを持つもの、持たないもの、形状・大きさは様々で、用途に合わせた機種が多数揃えられているのだ。人間型もあったが、アンドロイドのような仕上げではない。それらはずべて活動を停止していて、寸分も動くものはない。

 阿南は中央の通路を、首を振って左右を眺めながら歩いた。壮観と言える景色を心から堪能していた。

「すごいですねぇ。こんな数、見たこともない」

「いい眺めだろう。これだけの数があるのは地球上でここだけだ」

「なんのために?」

「もうじき見える。突き当たりだ」

 博士が正面を指差した。巨大な出入り口の向こうに廊下が見える。壁がなく、向こう側が素通しだ。阿南は不思議に思う。そこからは自然光が射し込んでいて、床に鉄骨の影ができている。 

 阿南は度肝を抜かれた。ロボット倉庫の外は、巨大な円形の回廊であった。それより彼を驚かせたのは、散光塔を初めとする多くの懸垂物が下がった、途方もないスケールを持つ円盤状の天蓋であった。

 阿南は大きく口を開けたまま走り出して、突き当たりの手摺まで行った。眼下に広がるのは夢想だにしなかった風景であった。

 超巨大な球体がある。それは上部の円盤型天蓋といくつものパイプで結ばれている。とりわけ太いのは球の頂点にあるものだ。それを囲む三本のパイプもまた太い。阿南は勇気を振り絞って、手摺から身を乗り出した。気の遠くなるような高さ。同じ円形の回廊が何十層も積み重なっている。彼はそうして目の前のものが確かに球であること、横方向にも何本ものパイプが走っていることを確かめた。

「これがジオフロントの真の姿だ」

 背後からベヒシュタイン博士の声が掛かった。阿南は振り返り、目を丸くした顔を見せて博士を喜ばせた。

「じゃ、あれが」腕を伸ばして球の頂点と天蓋を繋ぐパイプを指した。「中央ゲートなんですか?」

「そうだ。回りの三本はエヴァの射出路だよ。横方向のは各ポイントに伸びている。あと、鉄道に自動車道」

「こんな造りになっていたなんて‥‥」

「驚いたろう。すべてはある目的のため」

「C計画ですね」

「そう。人類生き残りを賭けた壮大なプロジェクト。33年間かけてようやくここまで持ってきた。全工程が終わったのは、ほんの2週間前のことだ」

「全部秘密裏にできたなんて信じられない」

「関わった人間がごく少ないからだ。直接工事に当たったのは、さっき君が見たロボットたちなんだよ。彼らは休まず、どこにも行かず、無駄口も叩かないからね」

「驚いた。すごい眺めだ」

「ピラミッドも万里の長城もこれの前では色褪せる。人類が生み出した史上最大の建造物だ!」

 博士は大きく腕を広げて阿南に示した。その満足げな顔は技術者の至福に満ちていた。時間と共に阿南は冷静さを取り戻し、湧いて出た疑問を口にした。

「これとATフィールド発生装置がどう関係するんですか?」

「君はもう見ただろう」

 阿南はぎょっとして球体に目をやった。さっきから気になっていたのだ。球の表面はどこもかしこも規則正しい茶色の斑点で覆われていたのである。

「まさか、あの点々は」

「そっちに望遠鏡がある。覗いてみろ」

 博士が指差す場所に支柱に乗った双眼鏡がある。阿南はすぐさま駆け寄って接眼レンズに両目を当てた。焦点が合うと同時に、彼はあっと声を上げた。

 円筒の中に封じられた眠れる裸女の姿があった。それが7.5mほどの間隔を開けて横一杯に並んでいる。その上段にほんの僅かにずれて、同じように全裸のチルドレンが並んでいる。茶色はLCLの色であった。阿南は目眩を覚えつつ、双眼鏡を縦横に振った。円筒の形状は地下で見たものと殆ど変わりがないが、上下を壁から突き出た金具で固定されている。倍率を上げて仔細に観察した。中のチルドレンは身長がばらばらであった。身長1mに満たない子供もいれば、マリアに近い大人もいる。そうした光景が延々と続くのだ。ジオフロントは数多のチルドレンで覆われていた。阿南の膝が震え始めた。

「72万1,450人だ」

 ベヒシュタインの重々しい声が聞こえ、阿南は苦悩を滲ませて振り返った。

「凄い眺めだろう。人類史上例のない奇観だわな」

「あれが全部‥‥」

 阿南は愁いを帯びた目で球体に目をやった。白いダニのように見えるものが何匹も球面を這っているのに気づいた。双眼鏡を覗いてそれを探す。見えた。拡大すると、蜘蛛のような八本の足先が扁平な円盤になった箱型のロボットだ。壁面に電磁石になった円盤をくっつけて移動しているのだろう。それはあるチルドレンの真上に覆いかぶさるようにして停まった。

「点検用のロボットだ。ああして一体ずつ情報を取得しては記録する。異常が見つかったら交換だ」

 双眼鏡を放した阿南は、深いため息をついて瞑目した。物として扱われるあれもまたチルドレンなのだ。彼が敬慕して止まなかったチルドレンの実相がこれだった。そのおそるべき落差は彼に深い衝撃をもたらしていた。

 博士がぽんと阿南の肩を叩いた。「どうだ、見るんじゃなかったと、後悔してないか?」

 阿南は答えなかった。代わりに博士の目を見つめて尋ねた。「博士はこの眺めが平気なんですか?」

「もう慣れた。何年見続けたと思ってるのかね」

「あの子たちに意識はないんですね?」

「そうだ。眠っているのだよ」

「でも、目を開けているときはどうなんです?」

「そりゃまあ、広い意味での意識を持つと言える。だが別に苦痛を感じたりはしない。高度な精神的活動はさせていないんだ」

 阿南は博士を無視して、その辺りを檻の中の熊のように歩き回った。動揺から立ち直って考えをまとめたかったのだ。博士はそんな阿南を冷静に見つめている。やがて動きを止めた阿南は博士に向き直った。

「博士、申し訳ないが、どうしても僕には受け入れられない」

「そうかね」

「感覚的に駄目なんです。どの娘もマサコやハルカやコトミと同じ顔をしている。あの中にあの子らを見るんです。あんなひどい扱いをされて」

「繰り返すが、あそこの娘たちは普段意識がない。苦しみも感じない」

「だから感覚的と言ってるんです。僕の主観の問題だ。できればあんなものは撤去してほしい。しかしあれを並べてどうするつもりなんですか?使徒に対抗するんですか?でもエヴァがなきゃどうしようもないでしょう」

 博士は上げた人差し指を振って否定した。「違うよ。そんな単純な使い方じゃないのさ」

 遂にC計画の核心を聞ける。阿南は全身を耳にして博士の言葉を待った。と、その時。

「ここで何をしてるの!?」

 回廊の向こうから叫び声が聞こえた。二人は咄嗟に振り向いた。40mほど離れた場所から、白衣の女性が駆け寄ってくる。ブーランジェ博士であった。

 ベヒシュタインは額に手を当てて天を仰いだ。阿南は顔を見られないように背を向けた。ブーランジェがすぐ傍までやってきた。ベヒシュタインが言った。「マリー、日曜日だよ。今日は当直じゃなかったろう」

 ブーランジェは不機嫌さも露わに答えた。「ちょっとしたアイデアを思いついて実験したくなったの。あなたこそ、なぜこんなところに?この人は?」

「公安二課の阿南です」と、阿南は振り返り、潔く名乗った。ブーランジェはますます眉を逆立てた。

「公安がなぜここに?誰が許可したの?」

「それは私だ」ベヒシュタインが言った。「実は彼、wrx00042を持っていてな。それと引き換えにC計画の内容を漏らせと言ってきおって」

 内心、阿南は臍を噛んだ。ベヒシュタインがさっさと言ってしまい、用意しておいた言い訳を述べることができなくなった。

「だから、許可した?部長、何を甘いこと言ってるんですか。機密をどう考えてるんですか」

「いや、阿南君は口の固い男だし」

「スパイみたいな連中じゃない!信用できないわ!」

 阿南は興奮するブーランジェを鎮めようと、礼儀正しく言った。「副部長のおっしゃることはよく分かります。ですが、私は私利私欲のためにここに来たのではないんです。個人的興味が満たされさえすればそれでいいのです。うかがったことは金輪際喋りません。それは信用していただけませんか?」

「知っていいことと悪いことがあるわ。個人的興味?そんなもの犬にでも食わせなさい。それで、どこまで聞いたの?」

「ATフィールド発生装置までです」

 ブーランジェは阿南の顔をしげしげと見た。「あなた、見たことあるわ。噂も聞いた。チルドレンのナイト気取りの男よね?」

「仕事熱心なだけです」

 ブーランジェの口元に冷笑が浮かんだ。「ハルカのお気に入りだったそうね。どんな手を使ってLSIを手に入れたか知らないけど、残念だったでしょ」

「残念?」

「あなたの憧れの女は、一皮剥けばただの人工知能よ。人間に似た体を持つけど、工場で大量生産されたものだわ。その辺のロボットとおんなじ。幻滅するわよねぇ」

「いいえ」阿南はこれ以上はない真剣さをもって否定した。「ハルカも他のチルドレンも本質はロボットかもしれない。だからと言って価値は下がらない。あの子たちは命を賭けて使徒と戦ってくれた。僕らを守ってくれたんだ。崇高な行為でしょう」

「私たちが造った命だもの。私たちのために投げ出すのは当然のことだわ」

「当然だって!?」

「そうじゃない。そういうプログラムで動いてるのよ、あの子たちは。あなたの言ってることは、事故から身を守ってくれたエアバッグに感謝しろというのと同じよ」

「それは違う。あの子たちは僕らと同じように息をし、恋をしてた。ヒトと何ら変わりはないんだ!」

「表面を見てるだけだわ。あの子らは工場で生産された戦う機械よ。お優しい部長さんがパートナーなんてものを与え、愛欲なんてプログラムを付け加えたせいで、人間に近く見えるようになっただけ」

 阿南は穴の開くほどブーランジェを見つめた。「なにもかもプログラムなのか?」

「そういうこと。なんだと思ってたの。すべては膨大な数の計算結果なのよ。あなたもいい加減目を覚ましたらどう?」

 ベヒシュタインはいたずらを見つけられた子供のように、気まずそうな視線を対立する二人に送るだけであった。阿南は微動だにせず考えをまとめた。ブーランジェの思想を受け入れるつもりはなかった。それはチルドレンのためでもあると思った。

「計算結果か。それでも結構。あいにく僕はアンドロイドを女房にした男だ。相手の中で何が起きているかは問題にしない。肝心なのは言葉だ。行為だ。あなたは人間を特別視しすぎている。沢山のくだらない人間より、ハルカたちチルドレンをどうして下におけますか。そもそも私たち人間とはなんですか?DNAというプログラムによって設計された物じゃありませんか。男女が愛し合うのだって、存続を図るDNAの巧妙な仕掛けだ。生命の本質とはそういうものなんだ」

「違うわ。人間は神の恩寵によって創造されたもの。単なるプログラムの集まりなんかじゃない。人類は万物の霊長であり、神の特別な寵愛を得ているものよ」

「だったら、エヴァとチルドレンに頼るまでもなく、フォースインパクトなど起こらないでしょう」

 ブーランジェは唇を強く噛んで、この生意気な男を睨んだ。阿南はその視線をまともに受け止めた。ベヒシュタインは沈黙を守ったままだ。やがてブーランジェは肩をすくめ、視線をそらした。

「ここで議論をしても始まらないわ。あなたとは噛みあいそうもないわね。部長、いいお友達がいて結構ですこと」

 ベヒシュタインは苦笑いを浮かべながら頷いた。その笑いも長くは続かなかった。ブーランジェがポケットに手を入れ、携帯電話を取り出したのだ。

「何をする!?」

「警備の人間を呼びます。この異物を今すぐ排除しなければ」

「待ってください!」阿南は手を伸ばして彼女を止めようとした。ブーランジェの指先が一つボタンを押す。しかし、彼女は通話をやめた。

 天蓋の下に、長く伸びるサイレンが響いたからである。三人は凍りついた。

「使徒が来た」と、阿南が呟いた。

 みな表情が一気に変わった。こんなところで唾を飛ばして議論している場合ではない。

「集合しなければ。この件は後日改めて」ベヒシュタインが真っ先にその場を動いた。残る二人は無言でその後に続いた。

 ハルカの『心』は、結局阿南の懐に納まったままであった。

 

 

 駿河湾上に突如として現れた第133使徒は、悠々とジオフロントを目指して低空飛行をしていた。滑らかな八つの面が、海の波と空の雲を反射している。それは時折澄んだ音色を響かせながら、長さ70メートルに及ぶ正八面体の躯体を、未知の推力を駆使して速く着実に移動していく。

 上空を早くも4機の戦闘機が旋回した。使徒はそれらに何の関心も示さず、ひたすら機械のように前進するのみであった。

 作戦指令室は使徒発見以来15分が経ち、ほぼ全てのスタッフが顔を揃えていた。ベヒシュタインとブーランジェも自分の席につくところだ。信時総司令代行は、一ヶ月半前までアイネムがいた席に着座していた。

 栗林が言った。「ラミエル型ですね。8年振りです」

「間をおかずいやなタイプが来たな。復旧工事は20%も進んでいないというのに」信時の口調は冷静だったが、もう汗をびっしょりと掻いていた。

 作戦指令室には重い空気が立ち込めていた。前回の使徒戦が乾坤一擲と思える物量攻撃だっただけに、あるいは使徒の軍勢は絶えたのではと思った者も多かった。ベーコン文書が例の『怒りの日』で途切れていることが、その推測の後押しをした。あれこそ人類と使徒の最終決戦であり、人類は遂に勝ち抜いたのだと。だが、あれからたったの一月半で次の使徒が現れた。暗い絶望が作戦指令室を支配していた。人類はいつになったら、この苦悩から逃れることができるのだろうか。

 古賀が告げた。「第133使徒、進路変わらず。真っ直ぐジオフロント直撃コースを進入」

「脇目も振らずか。過去のパターンと同じだ」と信時は呟いた。前回この型が来襲した時、彼は副司令として作戦に関わった。だからこのタイプに対する作戦も頭に入っている。その前例から外れる気は起きなかった。

「無人機用意だ。ありったけ出そう」

 栗林に異存はなかった。ただ彼に不安がないではなかった。「了解、空母赤城に出撃を命じます。ですが‥‥」

「何か異見があるのか?」

「今回のは桁違いの大きさです。長さが優に倍、体積は8倍にもなる。同じ作戦が通用するかどうか」

「君の不安も分かる。しかし、我らの手段としてはあまり選択肢はないよ」

 栗林は信時の意見に頷く他なかった。赤城への連絡をキムに任せる。空洞部平面の発着場は、大穴のせいで機能が大幅に低下しているので、攻撃機は全て近海に停泊する空母に移管していた。

 古賀が淡々と報告を続けた。「使徒は海面上10mの高度を保ち接近しています。後5分で陸に到達」

「巡航ミサイル用意できました」キムの報告が入った。栗林は直ちに発射を許可した。「巡航ミサイル3、4、5番、発射」

 スクリーンの一角に、白煙を噴出させて上昇する3基のミサイルが映しだされた。その勇壮な様を見上げる栗林の心は疑念が晴れなかった。これまでの使徒は連携を密にしてきた。にもかかわらず、今回防御力が大幅に低下した東側ではなく、西側から攻撃してきたのはなぜなのか?

「ミサイル、接触します」

 古賀が告げた。間をおかず、使徒からわずかの距離で立て続けに爆発が起こった。それには白色の巨大な干渉縞が伴っていた。同時にBOSATSUの高速計算が始まっていた。

 1秒と経たぬ間にシンの前のモニターに数値が表示された。「6.3SU。強力です」

「やはりあの大きさ、只者じゃないな」と言いながら、信時はスクリーンを見つめた。第133使徒は何事もなかったように前進を続けている。「しかしあの低空、攻撃パターンは一緒だ。二本とは言え、槍の修復が間に合って良かった。従来の迎撃策で臨む。MIROKU、何か意見はないか?」

 信時はわざわざマイクに向かってMIROKUの意見を求めた。やらずもがなことを、と栗林は思った。MIROKUに何か異なる見解がある場合は、遠慮なく述べてくることになっているからだ。スクリーンに大きく『NEIN』と表示が出た。信時は頷いて栗林に目で促した。栗林はマイクを掴んでエヴァパイロットの控え室へ命令を告げた。

 

「ようしみんな、行きましょ」

 プラグスーツを着たユリコが真っ先に立ち上がった。彼女がハルカの跡を継いだリーダーである。チルドレンの憧れの的である1号機と白のプラグスーツは、今や彼女のものだ。5名の少女がその後に続いた。ユキエ、サヨコ、ルミ、シオリ、そして新任パイロットのリカである。

 この日、稼動するエヴァンゲリオンは6機に減っていた。ユキエの3号機は両足の再生が間に合わず、別の素体が代替した。喪失した6号機と8号機を補完するべき素体は生育が不十分で、欠けた2機の新造に至らなかったのだ。リカはユリコの乗機であった2号機を引き継いだ。

 ユリコはものも言わず、プラットフォームへ向かうための通路を歩んだ。彼女には強い緊張があった。歴代のリーダーでは最年少であった。この頃相次いだ先輩の死が、彼女のリーダーへの就任をひどく早めてしまった。固くなるなという方が無理な状況であった。

 

 いつものように『ワルキューレの騎行』に乗って射出されたエヴァ6機は、城の南西部にある3箇所のポイントに2機ずつ配置された。使徒は堂々と予想されたコースを一定の速度で侵攻して来ている。待ち伏せをする側には有利な情勢であった。

 最も早く接近するであろう南側のポイントには1号機=ユリコと5号機=ルミが配された。反対の北側に新3号機=ユキエと7号機=シオリが位置を取った。それらのエヴァはポイントから出て、背を丸めながら塹壕の中を西に向けて移動した。最適な攻撃位置を確保するためだ。一方、4号機、サヨコと2号機=リカは最も城に近いポイントから、使徒に正対する位置を取るために北西へ移動した。その頃、城の上空には使徒迎撃のための無人機が、多数姿を現していた。

 

 第133使徒は荒地の地面すれすれを飛行し続ける。そのペースに些かの乱れもない。作戦指令室では古賀が告げるカウントの声が響く。

「ジオフロントまでの距離、後11キロ。作戦開始まで後3分」

「無人機群、高度1000メートルまで降下。攻撃準備完了」とキム。

 栗林は6人のパイロットの表情をモニターした。ユリコとリカが特に固い顔をしている。心拍数も普段より多い。栗林は声を掛ける必要性を感じた。

「リカ、なんでもない。訓練通りやろうな。なに、前の4人があっと言う間にけりをつけてくれるさ」

『はいっ』

 リカはやや上ずった声で返事をした。2号機の役目はポジトロンライフルを担当する4号機のサポートであった。特別製の盾で、直行してくる加粒子砲を遮るのが仕事だ。盾は厚く大きく、2機を優に守ることができるが、防げる時間は限られている。狙撃の名手サヨコが操る4号機は、ライフルを抱え、ポイントから伸びる極太のコードをさばいていた。

「ユリコ、髪切ったのかい?」

『え、ええ。気づきました?』ユリコの頬に赤みが差した。

「とっくに気づいてたさ。なかなか似合うよ」

 ユリコはツインテールだった髪を切り、ハルカに似たショートカットにしていた。偉大な先輩にあやかろうというわけだ。

 1号機は切り札であるロンギヌスの槍を握っていた。敵が前方にいる味方機に反撃している隙に接近し、槍を突き込む。以前からシミュレートしていた戦法だ。5号機は2号機と同様、盾で1号機を守る。対面に位置する3号機と7号機も同じ組み合わせだ。これら4機は、機を見て同時に使徒へ突撃を敢行するのである。この作戦は過去2度のラミエル型との対戦において成功を収めてきた。

 ユリコの表情がやや緩みを見せた、と栗林が思ったとき、古賀が告げた。「使徒、10キロ地点」

「無人機攻撃開始!」

 栗林が叫んだ。同時に低高度に滞空していた5機の攻撃機が、一斉に前進を始めた。急激に使徒との距離が縮まる。第1陣の5機は、機体の真下に抱えた大型ミサイルを空中に投下した。殺到する5本のミサイル。数瞬のうちに使徒の回りを爆炎が包み込んだ。それらが晴れたとき、使徒は全く無傷の体を現した。そして四角い縁が白い輝きを放った。

「来るぞ。加粒子砲だ!」古賀が叫んだ。

「エヴァ、まだだ!動くんじゃないぞ!こちらの指示で動け!」と栗林がパイロットに念を押す。

 遂に使徒が先端から白い光の束を放った。それは一瞬で右端の攻撃機を蒸発させ、順に並行する4機をなぎ払っていく。あっという間に先陣の5機は大爆発と共に潰えた。

「間を置くな。第2陣攻撃開始」

 栗林の下命と共に次の5機が高度を下げ、予定地点を目指す。

「奴の砲の威力は?」ベヒシュタインがシンに訊いた。

「3.2テラジュール。前回、前々回のラミエル型と同規模です」

「そうか、それは良かった」

 安心したベヒシュタインだったが、図体の割に小さい威力を、彼は疑うべきであった。

 次の5機がミサイルを発射した。前と同じ光景が繰り返される。戦場は音と光で満たされた。ばらばらになった機体が舞い落ちる。そんな中、6機のエヴァンゲリオンは塹壕の中で腰を落としながら、攻撃命令をじっと身動きもせずに待ち続けた。

「まだだ。次行け!」

 みたび無人機群は、ただ落とされるために攻撃を仕掛けた。ミサイルが吐き出した白煙と白い光線が交差する。栗林は頃合十分と見た。使徒の注意は、前方上空に展開する攻撃機群に引き付けられているはずだ。

「ユリコ、ユキエ、ルミ、シオリ、次に使徒が加粒子砲を放つ素振りを見せたら突撃だ。いいな。サヨコとリカは別命あるまで待機」

 はい、と6人は一斉に答えた。栗林は第4次攻撃を命じた。6人のパイロットは、気を一層引き締めてその時を待った。

 5機の無人機が高度を落として接近する。と、第133使徒に早くも変化が現れた。辺縁部が光り始めたのだ。この度はさっさと先制攻撃をかけようとしている。

「今だ、行け!」

 栗林の号令一下、4機のエヴァンゲリオンは一斉に塹壕を出た。ユリコは圧倒的な巨大さの使徒を肉眼で見た。それは今しも加粒子砲を発射しようとしている。1号機は槍を構え、全速力で走った。加粒子砲の発射口を前面と見れば、1号機は斜め後ろから駆け寄る格好になる。3号機も似たポジションだ。サポート役の5号機、7号機も盾を携え、遅れじと懸命に走る。ここからは駆け引きもなにもない、ただ速度を争うだけの戦いであった。

 使徒の加粒子砲がミサイルを落としたばかりの無人機を次々と殲滅していく。ミサイルも射角を変えたビームが空中で爆発させていく。その時、1号機は使徒まであと450m、3号機はあと500mの位置に迫っていた。

 5本のミサイルも空中に消え、使徒の加粒子砲が止まった。栗林はここぞとばかりに命じた。「サヨコ、リカ、狙撃開始!」

 4号機は勇躍立ち上がり、地面にポジトロンライフルを据えた。既に発射準備は完了していて、後は照準を合わせて撃つだけだ。リカの2号機が盾を構えて、4号機にぴったりと寄り添った。

 いける。ユリコは勝利を確信した。この時、使徒までの距離300m、エヴァなら5秒もあれば辿り着く。その間に反撃がくるとは思えない。

 その時、戦場に驚天動地の変化が起こった。

 使徒を構成する八つの面、それに内接する正三角形がすうっと消えていったのだ。第133使徒は積み木を重ねたような様相を呈した。

 驚愕に包まれた作戦指令室では、ほぼ全員が立ち上がり、スクリーンを見つめた。

 度肝を抜かれたユリコも一瞬1号機の速度を緩めた。だが、ここは突進するよりない。「惑わされないで!行くだけよ!」一声叫んで走りを速める。

 次の変化こそが罠の顕現であった。

 使徒を構成する6個の正八面体が分裂したのだ。6体のラミエルが徐々に互いの距離を取っていく。

 ここに至って1号機は止まった。遅れて5号機も止まった。ユリコははっきりと動揺を表しながら、大きく展開しつつある使徒の群れを見回した。

『全機撤退!!一旦戻れ!!』蒼くなった栗林が絶叫した。ユリコは恐怖を覚えながら1号機を振り向かせた。6使徒の辺縁部が白く光り始めたのだ。『攻撃役はサポート役の盾の中へ!サポート役は盾を構えながら後退!』栗林の指示に従い、5号機の後ろへ1号機を走らせる。北側では3号機が同じ動きを取っていた。

「こっちを向け!」サヨコは姉たちの危機を黙って見ているつもりはなかった。3体ずつ、2群に分かれ前方の4機を襲おうとする使徒の一つに照準を合わせ、引き金を引いた。

 今しも1号機へ加粒子砲を撃とうとしている使徒を、陽電子の束が貫いた。その使徒は大爆発を引き起こし、黒煙を上げて地表へ落下していく。攻撃中のラミエル型はATフィールドを展開できないのだ。

「充電速く!第2弾を撃つ!」サヨコは一旦塹壕に引き戻した4号機の中から、指令室に注文を入れた。次弾のカートリッジを装填させながら、じりじりとして時を待つ。

 1機の喪失は使徒群に動揺を与えなかった。遂に1機が5号機めがけてビームを放った。猛烈な光が周囲を照らし、盾が熱でゆがんでいく。しかし、もう1機から見れば1号機は丸裸だった。情け容赦なく加粒子砲を撃つ。それは一瞬の内に1号機の腹部装甲を貫通し、上へ引き裂いた。コアはひとたまりもなかった。

「ねえさん!!」ルミは叫んだ。1号機は大地にどうと倒れこんだ。その瞬間、5号機を襲っていたビームが止まった。5号機は首を振り周囲を見回す。地獄のような光景だった。「ユキエねえさん」胸にぽっかりと穴の開いた3号機が、朽木のように倒れこんでいく。そして自分が左右から挟まれたことを覚った。

「1号機ロスト。パイロットの生命反応なし」

「3号機ロスト。同じくパイロットの生命反応なし」

 指令室に次々と絶望的な報告が読み上げられる。栗林は汗みずくになりながら「逃げろ、逃げてくれ」と呟くだけであった。

「5号機ロスト。パイロットの生命反応‥‥なし」

『第2弾撃ちます!』サヨコの切羽詰った声が響いた。

 4号機のポジトロンライフルは、7号機を餌食にしようとする1機を爆砕した。7号機は遂に盾を捨てて必死に逃げた。その後方を2機の使徒が悠々と追ってくる。あいにく平地に7号機が身を隠せるような場所はなかった。塹壕だけが7号機の生命線であった。その地点まであと220m。しかし2機の使徒は辺縁部をすでに光らせていた。

「‥‥7号機ロストしました。パイロットの生命反応、ありません」

 7号機担当のオペレーターが恐怖を滲ませて告げた。ある女性オペレーターが洟をすすり上げた。栗林は決断せざるを得なかった。「サヨコ、リカ。もういい。撤退開始」

 サヨコは強く唇を噛んで、リカに告げた。「聞いた?戻るわよ。走って!」リカは涙を零した目を伏せて頷いた。2号機は盾を前に掲げてポイントに向かって走った。後ろに4号機が続く。ライフルは捨て置いた。残る4機の使徒が接近している。一刻を争う状況であった。

『急げ!使徒は近いぞ!』栗林の必死の声が響く。2機のエヴァは全力で走った。ポイントの開かれた扉が見えた。あと少し。『来たぞ!注意!』栗林の絶望的な叫び。塹壕の前方に使徒が青い躯体を浮かべている。2号機は盾を構えた。リカは4号機だけでも逃がさねばと思った。強烈なビームが盾に当たり、周囲を白く焼き、コンクリートを蒸発させていく。2号機は渾身の力で前進した。しかし、その努力は報われなかった。4号機の背後に別の使徒が位置を取り、辺縁部を光らせていたのだ。サヨコが振り向いた時、白いビームの発射を見た。

 

 作戦指令室に静寂が訪れた。誰もが呆然とスクリーンを見つめていた。信じ難い現実が目前にある。作戦可能なエヴァンゲリオン全6機が壊滅したのだ。

「N2ミサイル用意!1本、いや2本!」信時総司令代行が沈黙を破った。「諸君、落ち着け!まだ終わっていない!人類はまだ負けていないのだ。各自おのれの職分を果たせ」

 キムは弾かれたようにミサイル発射の準備を始めた。そうだ、人類はまだ生き残れる。彼は胃の腑が縮み上がるのを感じながら、作業に集中しようとした。

 1分後、ミサイルサイロから2発の轟音が木霊した。人類最強の兵器、N2ミサイルである。それらはたちまち空中5000mまで駆け上がり、反転して堂々と進軍する4機の使徒めがけて真っ逆さまに襲い掛かった。空中高く、強烈極まる閃光に続いて怖るべき巨大さの火球が姿を現した。衝撃波と熱がジオフロントの壮麗な城壁を揺らし、焦がした。火球はきのこ雲に姿を変え、高く高く昇っていく。爆発域は舞い上がる膨大な量の粉塵によって、何も見えなかった。作戦指令室のスタッフ誰もが息を詰めて、爆心付近の映像が来るのを待った。そうして薄ぼんやりと粉塵のカーテンごしにクレーターが見え始めた時、シンが絶望的な事実を告げた。

「爆心地付近にエネルギー反応。全部で四つ」

 それは使徒の生き残りを表す以外の何ものでもなかった。指令室にざわめきが走った。

「落ち着け。分析を待つんだ」と信時が声を張り上げた。彼は堂々とした態度を取るべく必死の演技をしていた。机の下で震え始めた膝を、懸命に手で押さえ込んだ。

 やがてクレーターに散らばって横たわる四つの正八面体が見え始めた。青い色が消え、真っ黒に焦げている。マッハ2.5で迫るミサイルは、ATフィールドを展開する暇も与えなかったのだ。ベヒシュタインら技術部スタッフは分析中のモニターを凝視した。するうち、一つの使徒の先端に青みが浮き出た。

「自己修復している」

 ブーランジェの掠れた声が、改めて指令室スタッフの狼狽を強めた。もう一つの使徒にも同じ現象が現れた。

「完全修復までにはどのくらいありそうだ?」信時の質問に、シンは素早くキーを叩いて答えを出した。「MIROKUの回答は96分後です」

「使徒のATフィールド展開を確認」

 アンドロイドのサブロウが冷静に口を挟んだ。ブーランジェが顔色を変えて近寄った。「4機とも?」

「全4機に確認。強度は不明。しかし経験則上、完動時の80%は下らないものと推定されます」

「殻にこもって回復を待つ、ということだ」とベヒシュタインが事実上の敗北を宣告した。

 指令室は嘗てない重苦しい雰囲気に飲み込まれた。誰もが全人類の運命に思いを馳せ、滅亡の恐怖を感じずにはいられなかった。

 信時は深く息を吐いて高い天井を見上げた。あまりにも重大な決断を下さなければならない自分の運命を呪った。だが、ここはやるしかないのだ。彼はしっかりしろと自分に言い聞かせながら、すっくと立ち上がった。

「諸君、手を休めて聞いてくれ。これ以上N2爆弾を使用しても無駄だ。撃っても『核の冬』の危険が増すだけでしかない。エヴァの使徒に対する戦いはこれで終了したのだ。しかし人類そのものは終わったわけではない。我々にはC計画という切り札があるからだ。我々はこれより最後の戦いを挑む。状況6−6−6を宣言する。即時マニュアルに則って作戦開始だ。諸君には今まで通り職務に奮闘努力してもらいたい」

 女子オペレーターの号泣する声が聞こえた。栗林ら上級将校は立って信時の演説を聞いた。彼らはもう一度気を引き締め、最終局面に立ち向かおうと心を固めていた。そうする間にも使徒はゆっくりと修復をしていく。

「異議はあるかな?MIROKU」

 すぐさまスクリーンに『NEIN』と出た。

「ようし、では直ちに地上施設の収容を始めろ。リリスの度肝を抜くのだ!」

 指令室のスタッフは全員着席して、緊急時に開く赤い表紙の本を開いた。皆、目前の仕事に没頭することが、恐怖を忘れる唯一の手段のようだった。

 信時は机の脇にある受話器を取り、秘密の番号を押した。最上位のセキュリティが施された量子暗号回線である。受話器を耳に押し当てて数秒で相手が出た。「ああ、坂口秘書官?信時です。西園寺大統領閣下に至急お繋ぎねがいます」

 

 

『総員に告ぐ。総員に告ぐ。緊急事態発生。非戦闘員は直ちにシェルターへ避難せよ。非戦闘員は直ちにシェルターへ避難せよ。全戦闘員はそれぞれの部隊へ集合。状況6−6−6。状況6−6−6——』

 空洞部に単調な女性の声が響き渡る。全ての拡声器が同じ声を発しているのだ。養成所のチルドレンは使徒戦のため授業を中止され、各自の部屋で待機していた。コトミはベッドの上でマンガ本を広げながら、それを聞いた。上段ベッドのミクが心細げに言った。「ねえさん、どうなるんだろ」

「どうもなりはしないわ」姉として弱気な態度はできなかった。だが内心は不安で一杯だったのだ。使徒戦に続く緊急避難。それは戦況がエヴァに不利なことを雄弁に物語っている。また誰かが死んだのではないか。そんな思いが行き来し、落ち着きを失った。

「非常用バッグを忘れないで」ベッドから降り立ったコトミは自分用の箪笥に向かった。吊り下げられた洋服類の下にバッグを置いてある。糧食やサバイバルキットが入ったものだ。引き戸を開けたコトミはいきなり目に入ったものに驚愕し、声を上げそうになった。

 ファーストチルドレンの首が、洋服類の下から彼女を見上げているのだ。

「どうしたの?」ミクがコトミの異常に気づいて声をかけてきた。コトミは急いで戸を閉めた。

「べ、別に何でもないの。あの、その、ちょ、ちょっと教室に忘れ物をしてたわ。取りに行って来るから」

 慌てふためくコトミの様子を見たミクは、特に疑いを持たなかった。

「この非常時に。早く行ってきて」

「え、ええ。すぐ戻る」

 コトミは大急ぎで部屋を出て廊下を走った。もう何人かのチルドレンが、部屋を出てシェルターに向かおうとしていた。「コトミ、どこ行くの?」とフユキの声がかかった。彼も鞄を持って、コトミを迎えに来たところだ。コトミは近づいたフユキの手を引っ張った。

「一緒に来なさい。大事な用があるの」

「一体なんなのさ。この大事なときに」

 コトミは適当にごまかして、フユキと共に階段を駆け下りた。何人かがそんな二人の様子を訝しげに見ていた。そうして1階に下りた二人は教室を通り過ぎ、廊下を曲がって誰にも見られていないことを確かめ、無人の図書室に入り込んだ。

「どうしたって言うの?変だよ」

 フユキの言葉を無視して書架の間を進んだコトミは、虚空に向かって話しかけた。「ファーストチルドレン、ここなら誰もいません。何か用があるんですか?出てきてきださい」

「ここよ」

 いきなり後ろから声がかかって、コトミはまた驚かされた。振り返ると部屋の入り口近くにファーストチルドレンが佇んでいた。フユキも唖然としている。彼はコトミから話を聞いていたが、実際に会うのは初めてだった。

「どうしたんですか、ファーストチルドレン。さっきは心臓が止まるかと思いました」

 歩み寄ったコトミにレイは静かに語り始めた。「ごめんね。ミクがいたのでああするよりなかったの」フユキにも目を向けた。「あなたも一緒ね。ちょうど良かったわ」

「どうも初めまして。フユキです。いつかはコトミがお世話に——」

「挨拶はいらない。時間がないわ。二人共良く聴きなさい」

 コトミとフユキは並んでレイの言葉に耳を傾けた。重大な話の予感がコトミを硬くさせた。

「エヴァンゲリオンは使徒に敗れたわ。生き残りはいないの」

「うそ‥‥」コトミはレイの言葉が信じられなかった。エヴァが全滅することなど考えたこともなかった。自分たちは永久に勝ち続けるという信念があったのだ。「あり得ません。嘘なんでしょ?」

 レイは冷たく首を横に振った。「本当のことよ。この非常事態宣言が全てを物語っているわ。もうすぐここに使徒がやって来ます」

 コトミは絶句してレイの顔を見上げた。両の瞼から二筋の涙が零れ落ちた。「‥‥ユリコねえさんも、ユキエねえさんも?‥‥リカねえさんまで。そんなのひどい」

「泣くのはおやめ」レイの厳しい一言がコトミに突き刺さった。コトミは両手で顔をこすり、懸命に涙を抑えようとした。「しっかりしなさい。あなたにはこれからとても大事な使命があるの」

「私の使命?」

「そうよ。言いなさい。あなたは何のために生まれてきたのか」

「‥‥ヒトを守るため」

 レイは膝を曲げ、なおも顔をこするコトミに顔を近づけた。

「もう使徒を倒すことはできない。フォースインパクトは避けられないの。でも、あなたはヒトを守ることができる。やりたい?」

 涙が収まったコトミは、怪訝そうにレイを見た。「私にできることならなんでもします。でも、どうやって?」

 レイの口から出た言葉は、コトミを驚かせた。それは、単純だが非常に困難な事業であった。コトミの頭に疑問がもたげた。

「ですが、ファーストチルドレン、それじゃ助けられるヒトはたったの一人。そのことにどんな意味があるんですか?」

「とても重い意味のあることなの。聞きなさい。私が何を計画しているか」

 コトミとフユキは真剣にレイの思惑を聴いた。聴くうち、そのあまりに壮大な構想に圧倒された。同時にそれが達成されたときの素晴らしさに感動を覚えた。一方でコトミは、幼い自分がその大役を担うことの重みを感じ、一抹の怖れと不安を抱いた。より思慮深く経験豊富な姉たちがいる。なのにファーストチルドレンはなぜ自分を選んだのか。

「でもどうしてわたしが?もっと大きな子もいるのに」

「あなたじゃなきゃだめなの。特別なチルドレンだから」

 コトミは戸惑いを覚えた。「わたし、特別ってわけでも」

「私を信じて。さあ、時間がないわ。選びなさい。誰を助けるのか。地位や技能じゃなく、あなたが好きなヒト」

「私が好きなヒト?」

「そうよ、あなたが選んでいいの。あなたがずっと一緒にいてもいいと思えるヒトを」

 コトミは考えてみたが、それに値する人間はたった一人しか思い浮かばなかった。

「そんなヒトは一人しかいません」

「誰かしら?」

「阿南さん」

「そう言うと思っていたわ」

 レイの口元にほんのりと笑みが浮かんだ。コトミも涙のせいで赤く腫れ上がった顔をほころばせて、レイの慈愛に満ちた表情を見つめた。

 

「どうした。まだ見つからないのか!」

 養成所長の榊原は、集まって来た教官たちに叫んだ。彼らは養成所の内外を、コトミとフユキを捜して駆けずり回っていたのである。榊原の後ろには身支度を整えたチルドレンとパートナーがずらりと並んでいる。

「どこにもいませんでした」「私のほうも」

 教官たちは口々にコトミとフユキの不明を報告した。苛立つ榊原は時計を見て腹を決めた。とうに避難終了予定時刻を過ぎている。

「仕方ない。長田君と後藤君はここに残って捜索を続けてくれ。私はこの子らを連れてシェルターに向かう」

 長田と後藤は渋い顔をしたが、受け入れざるを得なかった。榊原は重苦しい沈黙に陥っている子供たちに向かって号令をかけた。

 

 コトミとフユキはレイの後ろにつき従って森の中を進んでいた。途中、衛兵の気配を感じたレイがいち早く危険を伝え、適切な回り道を取り、時には草むらの中に身を隠した。

 歩きながらコトミは良心のうずきを感じた。自分は今、明らかな命令違反を犯している。しかしレイの構想はあまりにも魅力的だった。なんとしても実現したいと思う。それが彼女に小事を捨て去る決意をさせた。コトミは責任と重圧を感じていた。これからの一挙手一投足がいかに重要なものになるか、十二分に理解していた。

 

 

 エヴァ全滅の悲劇に打ちひしがれるジオフロントの中に、たった一人、歓喜に打ち震える者がいる。ネオ・ゼーレの工作員にして稀代のテロリスト、ネメシスこと草鹿である。エヴァが潰え、使徒の勝利が現実のものとなった時、彼は記念塔の一室で無線傍受にいそしんでいた。そこへでかでかと告げる状況6−6−6のアナウンスだ。彼はそのコードが何を意味するか知っていた。使徒に対する対抗手段の喪失。彼は遂に再び人類補完の機会が巡ってきたことに、心の底から感動を覚えた。

 おお、約束の時来る。遂に人類進化の扉が開かれるのだ。ハイル・ゼーレ!

 草鹿は満ち足りた顔で窓から天蓋を眺めた。そこを突き破って来る使徒はどんな姿をしているだろうか。過去の諸々の使徒たちを思い浮かべ、うっとりと空想に耽った。これほどの偉業をなした使徒は、姿も美しいに違いないと思った。

 地上を走り回る人間たちのうろたえ様が見たくて視線を下に向けた。あちこちに散らばる衛兵たちは、あからさまに落ち着きをなくしていた。今なら素の姿でも発見されないのではと思えるほどだ。そうして見回すうちに、樹間を奇妙な人影が通るのを見つけた。オレンジ色のワンピースを着た少女と、ズボンを履いた少年が、足元の森を接近して来る。草鹿は強い興味を感じ、双眼鏡を目に当てた。木の葉が邪魔をして手間取ったが、ワンピースの派手な色が発見を助けた。

 チルドレンが雑草を掻き分け、掻き分け、苦労しながら前進している。彼は背格好と髪型からコトミに間違いないと判断した。もう一人はフユキだ。あのガキ、この非常時になにしてやがる。彼が当然の疑問を抱いたとき、コトミが誰かに話しかけるような仕種をした。フユキの方ではない。驚いて双眼鏡を振ると、そこに見たのは信じ難い光景であった。蒼い髪のチルドレンがいる。下半身は雑草に隠れて見えない。だが、うっすらと直立した草が透けて見えたのだ。なんと上半身だけが草の上に浮かんでいる。

「出たな、ファーストチルドレン」

 草鹿は超自然の存在を目の当たりにし、肌が粟立つのを感じた。時を超え、この世を彷徨い続ける超越的な何かだ。彼は怖れながらも双眼鏡ごしに監視を続けた。そうするうちにコトミとフユキは草原を横断し、木陰に隠れた。そして草鹿の恐怖に追い打ちをかけることが起こった。ファーストチルドレンが忽然と姿を消したのだ。後にはごく当たり前の草原があるだけだ。その後は樹林の密度が濃すぎて見つかりそうもなかった。

 双眼鏡を下ろした草鹿は額の汗を拭き、考えた。彼らの行動は何を意味するのか。あそこら辺に何があった?そうだ、地下水道に入るための小屋があったぞ。

 奴らは内部に侵入するつもりだ。そう結論づけた草鹿は、行動を起こすべく立ち上がった。彼らが何を企図しているかは分からないが、阻止しなければならないという直感が草鹿にはあった。コトミとフユキは容易な相手だが、ファーストチルドレンはどうか。たかが知れていると思った。あの建設現場でも、ハルカ邸でも、決定的な行動は取れなかった。怖るるに足らず。彼は思い、未知の存在との闘争におのれを掻きたてた。

 

 コトミとフユキはレイに守られ地下水道への入り口に立った。小さな小屋に鉄製のドアがついただけの簡素な建物だ。ドアには厳重にも生体認証式のロックが掛かっている。

「ファーストチルドレン」

 どうしたら、とコトミが言う間にレイが一睨みすると、認証機のLEDが赤から緑に変わった。「開けて」フユキがドアの取っ手を握り、押すとあっさり開く。目を丸くするコトミとフユキを尻目に、レイはさっさと中に入った。「ついて来て」中には制御用の機器があり、奥に狭いらせん階段があった。コトミとフユキが後に続く。

 らせん階段を下り切ると、高さ1mほどしかない狭い水路に出た。フユキがバッグから出した懐中電灯で辺りを照らした。中央にある幅50センチほどの溝を水が流れ、両脇が通路になっている。

 レイが言った。「ここを少し歩くと下に通じる階段に出るわ。とにかくそれを下りるの。第8層まで行けるわ。大丈夫、誰とも会うことはない。下り切ったら私を待ちなさい。少し用を足してくる」

「また来てくれるんですよね?」と、コトミが心細げに言った。

「必ず」

 そう言い残してレイは消えた。「行こう」コトミはフユキの手をしっかりと握り、狭いトンネルを前進した。冷たい空気がコトミの肌を撫でた。

 

 

 阿南はいつものシェルターに向かうために中央大階段を下りていた。回りは避難する人々で一杯だ。女子供は殆どいない。家族をこのジオフロントに残す者は少なかった。誰もがこの世の終わりを予感し、不安と恐怖に慄いている。阿南も例外ではなかった。みな口が重かった。そもそもこの避難に意味があるのか、疑問に思う者も多かった。フォースインパクトが起これば、シェルターにいたところで助かるわけがない。また助かったところで、人口が極端に減った地球に未来があるとは思えなかった。

 最初、阿南は状況6−6−6の意味を知らなかった。だが噂話は速やかに流れ、この中央大階段に辿り着く頃には、それが意味する絶望を知った。パニックを起こす者もいたが、少数にとどまったのは、規律正しい軍人が大半を占めていたことと、少なからぬアンドロイドがいたからである。

 阿南は来し方を振り返りながら、重い足取りで第6層に降り立った。後は広い空間をシェルターまで歩くことになる。その時、携帯電話が着信を告げた。阿南は群集から離れて一本の柱の陰に身を寄せた。もしやと思い広げる。案の定、レイからの通信だった。ただ1行の文字列がある。

『頼みがあるの。来て』

 阿南は必死でキーを叩いた。

『どこに行けと?何をして欲しいんですか?』

『エヴァ0号機の発着場まで。時間がないので訳はそこで』

 モニターに見入りながら数瞬躊躇った。彼女の意図はなんなのか?従う必要があるのか?だが、これまでの彼女の行動を考えれば、悪いことであるはずがない。どのみちここまでくれば組織など意味はないのだ。個人として好きなようにしたくなった。

『OK。でも、どうやって行ったらいいか分からない』

『私が誘導する。まず床に緑のラインがあるの。探して』

 柱から離れて床を見回した。あちこちに赤や青や、いろいろな色のラインが塗られ、各所へ伸びている。彼は走り出して、緑のラインを探した。1分ほど駆け回って、やっとそれを見つけた。

『あった。これをどっちへ?』

『東へ。行き止まりにエレベーターがある。それに乗って』

『了解』

 彼は携帯をしまい、緑の線に沿って、足早に歩き始めた。そこへ、おいどこへ行く、と後ろから声が掛かった。振り返ると、足を止めた相沢が不思議そうに見つめている。阿南は「緊急の呼び出し!」とだけ答え、速やかにその場を後にした。相沢は肩をすくめて歩き出した。他に誰も阿南に関心を示す者はいない。結局これが相沢との永久の別れとなった。

 

 

 その頃、空洞部平面に残された衛兵たちは、天蓋に生じた変化に度肝を抜かれ、口を開け放して見上げていた。中央ゲートの部分から、筒型の構造物がゆっくりと下りてきているのだ。それは既に100mの長さに達しようとしている。そこがそんな構造になっていると知っている者はいなかった。そして誰もが考えたのは、ジオフロントが地上から切り離されようとしているということだった。

 地上部ではより劇的な変化が起こっていた。内陣にあった全ての施設は、既に地下に収納された。そして内陣の中央が真っ二つに割れたのだ。広大な平地が南北に別れ、城壁の下へ吸い込まれていく。隠されていたものに日の光が当たり始めた。その地下200mにあるジオフロントの球面が、露わになりつつあるのだ。茶色の液体を満たした大量のプラグが日光を反射した。球面を覆う亜チルドレンたちは、誕生後初めて太陽の下に躍り出たのである。

 

「中央ゲートの切り離し完了」

「地上部の兵員は撤収を完了。地上部は無人になりました」

「エヴァ射出路の収納を開始します」

「自動車道・鉄道、切り離し完了。完全閉鎖します」

「地上装甲部、開口14%。順調に推移」

 信時の元に、続々とジオフロント露出の進捗度合いが報告されてくる。今のところトラブルはなく、彼を安堵させた。

「大統領専用ヘリから通信。現在地、川口湖上空2000m。到着予定時刻、1430」

「もっと急げと言え」信時はスクリーンの使徒を睨みながら指示を下した。第133使徒は、既にかなりの部分が青い輝きを取り戻していた。

「使徒4機修復、平均46.7%。活動再開予定時刻、1503」

 信時は使徒との競走に勝てると確信し、胸を撫で下ろした。敵が復活する前に、こちらの準備は万端整っているはずだ。

「液体水素充填70%」

「ロケットエンジンに異常認められず」

「重力波発生装置の方はどうか」と、信時はベヒシュタインに尋ねた。

「全てのチェックが終わった。いつでも稼動できるよ」

 万事順調。信時は多大な労力と準備期間を要したC計画が、成功ほぼ間違いなしとなったことに満足を覚えた。

 

 

 ステルス迷彩によって姿を隠した草鹿は、水道保守用の小屋の前に辿り着いた。さて鍵をどうするかと生体認証機を観察したとき、異変に気づいた。認証機のLEDが赤、緑とも点滅を繰り返している。システム不調のサインだ。

 疑問に捉われながら、ものは試しとドアノブを握って押してみた。すると、あっさり開いてしまったのである。

 狐につままれた気分で中に滑り込み、地下に下りると、迷彩のスイッチを切った。たちまち全身を包んだ黒いボディスーツ姿が露わになった。草鹿はマスクとゴーグルをずらし、ゆったりと呼吸した。懐中電灯を点け、辺りを見回す。すぐに通路に小さめの二つの足跡があるのを見つけた。にやりと笑った草鹿は追跡を開始した。

 

 コトミとフユキは第8層の扉の前で、大人しくレイの帰りを待っていた。滅多に使われないせいか、埃っぽく不快な場所であった。ここのドアも認証機による鍵が掛かり、彼らの前進を阻んでいる。

「ファーストチルドレン、遅いね」と、コトミが言った。こういう場所の常で、反響が強い。

「しっ」

 フユキが急に口に人差し指を当て、コトミを制した。コトミは慌てて口を覆い、階上を見上げた。フユキがごく小さな声で囁く。「上で足音が聞こえた。誰かが来るんだ」

 コトミも囁く。「誰かしら。ファーストチルドレンかな」

「それは絶対ない」

 二人は耳を澄まして物音に集中した。聞こえる。鉄製の階段が規則正しく鳴る音だ。それはまだずっと遠くで鳴っているが、徐々に大きさを増してくる。

「下りてくるね」

 コトミはずっと見上げながら囁いた。フユキは一つ頷いただけだ。足音は確実に近づいてくる。

「見つかるかも知れない。こっちへ」

 フユキはそっとコトミを引っ張り、ドアに背中をくっつけた。少しでも端にいた方が得策だと判断したのだ。二人は迫り来るものに恐怖を感じながら、ひたすらレイの帰着を待った。神様仏様、どうかあいつをよその階にやってください。コトミは両手を握り合わせて祈った。だが足音は着実に大きさを増す。おそらく2、3階上まで来た。見つかった場合、どう言い訳するかを考え始めた。それがどれほど危険な相手か、想像もしていなかった。

「遅くなったわ」

 唐突にレイが現れた。コトミとフユキは一斉に口に人差し指を当てた。レイは緊張の色を見せ、視線を上げた。いきなり足音が止み、この場に静寂が訪れた。レイの表情に厳しさが増した。

「行くわよ。ここは危ない」

 認証機はすぐさま無効になった。コトミとフユキは待ちかねたように外に出た。レイが後に続く。その時、足音が急速に近づいてきた。

 

 草鹿は第8層のドアが先ほどと同じく、システムエラーを起こしているのを目にし、標的が近いことを確信した。ゴーグルとマスクを戻し、腰にあるスイッチを入れ、周囲の風景と同化した。上で一瞬聞こえた声は明らかにチルドレンのものだった。それもコトミとは違う、もっと年上の声だ。ファーストチルドレンと相まみえる瞬間が近い。草鹿は武者震いをしてドアを細く開け、忍び出た。

 そこはセントラルドグマの一隅であった。照明は最低限に抑えられているが、行動に不自由はない。台車に乗った巨大マシンガンが圧倒的重量感を放っている。ここはエヴァの武器庫なのだ。様々な武器を据えた台車が、はるか奥までいくつもの列を作り、等間隔で並んでいる。隅には台車を連結して運搬する動力車が8台並んでいる。草鹿は悠々と前に出て周囲を見回した。床のコーティングのために、スニーキングシューズの立てる音はわずかだ。もとよりこの事態に見回る者もない。絶好の狩場というわけだ。草鹿はコトミを血祭りに上げる瞬間を想像して、胸が高鳴った。そう遠くへ行ったはずがない。どこか近くに隠れているのは間違いない。離れようとしているなら足音が聞こえるはずだからだ。

 時々しゃがんで台車の下を覗きこんだ。ありがちな隠れ場所だ。次々と台車の回りを改めていく。死角はそう多くない。いずれ必ず見つかると思った。こちらが相手に見えないのが何よりの利点だ。物音を立てないように注意さえすれば。

 6台目の下を覗きこんだ時、求めてきたものを見つけた。2列向こうの台車の隙間だ。小さな、白いソックスに包まれた二本の足。他愛もない。草鹿は多少失望してその場を離れた。簡単すぎるだろ、嬢ちゃんよ。

 草鹿はゆっくりと目指す車列の間の通路に出た。3台前の台車の傍に、コトミが一人不安げな面持ちで佇んでいる。ファーストチルドレンとフユキは見えない。後の二人はどうでもいいと思った。こいつさえ殺ってしまえば満足だぜ。密かに、着実に距離を縮めていく。二人の間隔は2mもなくなった。草鹿はおもむろにスーツの隙間から銃を取り出した。宙にいきなり拳銃が浮いたように見えるだろう。コトミはまだ気づかない。草鹿は最後の余興を見せてやりたくなり、迷彩のスイッチを切った。

「久しぶりだね、コトミちゃん」

 驚愕するコトミ。恐怖に顔を歪ませて後ずさる。草鹿はゴーグルとマスクをのけて素顔を曝した。

「おしまいだよ。ファーストチルドレンはどうした?フユキは?教えてくれたら生き伸びれるかもしれんぞ」

 草鹿はにやにやと笑いながら銃を突きつけ、距離を詰める。コトミは大きくいやいやをしながら後退するだけだ。

「言いたくないか。ま、いいや。俺は山本の仇さえ取れればいいのさ。じゃあな、コトミちゃん」

 草鹿の銃が火を吹いた。銃声が反響する。次の瞬間、彼は信じ難いものを見た。

 コトミは倒れなかった。弾丸は後ろの台車に当たって跳ねた。そしてコトミはにやりと笑ったのだ。

 驚愕で顔色を失った草鹿に、ファーストチルドレンの声が届いた。

「愚か者。ここでもわたしたちの勝ちね」

 コトミの姿は忽然と消えた。草鹿は歯軋りして直前までレイがいた場所を睨んだ。その時、遠くで起きるエンジン音。彼は慌ててその場を離れた。はるか向こうで動力車が起動し、ライトが点灯する。と同時に発進した動力車は大きく右旋回した。草鹿は方膝ついて拳銃を両手で構え、立て続けに撃った。が、車は一路、ずっと奥にある出口へ突っ走って行く。草鹿はそれを憎悪に満ちた目で追い続けた。

 

「フユキ、凄い!運転もできるのね!」

 助手席のコトミが快活にはしゃぐ。ハンドルを握るフユキは涼しい顔でいた。

「パートナーの能力を舐めないでね。知識さえあれば簡単なもの」

「ただいま」

 窓の外にレイが現れた。どうやっているのか、車と並行して移動しているのだ。

 コトミの喜びもひとしおだった。「ファーストチルドレン、おかえりなさい!すごいです、あなたって」

 レイはにこりともしなかった。「まだ危険は去っていないわ。ただ、あいつの戦力を削ぐことができただけ。気を引き締めて」

「戦力を削ぐって?」

 

 草鹿はステルス迷彩の制御ボックスから、断続的な発振音が出ているのに気づいた。異常を告げる赤いLEDが点滅している。何度も起動ボタンを押してみた。だが、一向に作動しようとしない。レイの行きがけの駄賃だと気づいた。「あんの野郎!!」草鹿は地団駄踏んで吠えた。

 

 ジオフロントを覆う屋根は、ほぼ四分の三が城壁下に収納された。空から見ればジオフロントの全貌が、かなりの部分見渡すことができる。そこへ一機の高速ヘリが接近してきた。

「西園寺大統領機が上空に到着。ジオフロント内に降下します」

 信時はサブロウの報告に頷いた。「予定より10分早まったか。いいことだ。ヘリがジオフロント内に入り次第、ゲートを閉鎖せよ」命令を下した後、信時は傍らに座る有村顧問に言った。「私はここを動けない。ひとつあなたが閣下をお出迎えしてくれませんか。くれぐれも丁重に」

「心得ました」有村は頭を下げた。「して、どちらへお通しすれば?」

「総司令公邸がいいでしょう。あそこは独立したシェルターもある。どうせ新世代の支配者となるお方だ。あそこが最もふさわしい場所ですよ」

 そこへ真っ赤な顔をして駆け寄ってきたのはベヒシュタインであった。ブーランジェも厳しい顔つきで寄って来る。

「あれは何だ。あんなの聞いてないぞ」

「僅かな変更だよ、博士。あれほどのVIPをどうして放っておくことができる?」

「何か意図があるな。あの独裁者を引きこんで何をするつもりだ?」

「賄賂でも貰ったのかしら?」とブーランジェも問い詰めた。

「今は質問に答える余裕はない」

 信時は冷たく言い放った。両博士は納得せず、なおも質問を続けようとする。が、信時の手にあるものを見て声を失った。彼は自動拳銃を握っているのだ。

「さあ、総司令代行の私が命じる。持ち場に戻れ」

 信時の目は獲物を襲う狼のようであった。二人の博士は憎しみを込めた目で信時を見返しながら、後ずさりしていった。

 

 

 阿南は無人のセントラルドグマの中を歩いている。ベヒシュタインのくれたパスが大いに役立っていた。彼の足元に広大な空間が広がっていた。エヴァンゲリオン発着場。8機の巨人を地上へ送り出す場所だ。もちろん今はどのケージも空になっている。彼はその最上部にある金網製のキャットウォークを、巨大なスケールに圧倒されながら目的地へ進んでいた。はるか下には台座移動用のレールが小さく見える。見上げれば各ポイントへ向かう大トンネルが口を開けている。彼はこの壮大な仕掛けを作り上げた人類の英知と努力に打たれていた。

 レイは10分ほど前に、エレベーターを降りたばかりの彼の前に現れ、簡単に道筋を教えてすぐに消えた。他に与えてくれた情報は、行き先にコトミとフユキがいるということだけだった。なぜコトミが?阿南はすぐに推測ができた。ファーストチルドレンはあの子を0号機に乗せるつもりでいる。この期に及んで何をさせる気なのだろう。使徒と戦わそうというのなら、虎に猫が戦いを挑むようなものだ。そもそも0号機は実戦向きに作られていない。阿南の頭の中は疑問符で一杯だった。ともかく目的地に着かなければ回答は得られない。阿南は細い道を下を見ないようにしながら、駆け足を始めた。

 

 武器庫に取り残された草鹿は、あせらず次の行動計画を立てた。闇雲に動いても引き離される確率が高い。敵の行動を推理し、できれば先回りをする。まずコトミの、ファーストチルドレンの目的は何か?この土壇場で、コトミにできることとして何がある?

 エヴァに乗ることだ。

 草鹿は0号機の存在に気づいた。普段脚光を浴びることのない、地味な存在だ。だが、小振りとは言え、立派なエヴァンゲリオンである。コトミがそれにシンクロしたら何が起きるか?そこまで考えた草鹿はあっと声を上げた。エヴァとシンクロしたエントリープラグの中は?そここそ絶対の安全地帯ではないか。

 ファーストチルドレンはコトミを生き残らせる気でいる。

 結論を得た草鹿は動力車の一台に飛び乗った。迂闊にも鍵が掛かっていない。運転席でダッシュボードを探ってみる。思った通り地図があった。0号機発着場をぎらつく目で探す。すぐに見つけた草鹿は、イグニッションを直結すべく、腰のポケットからサバイバルキットを取り出した。

 

 

 ジオフロント地上部は完全に移動を終え、球体は完全な姿を見せた。直径3.55キロに及ぶ灰色の地に茶色の斑点を持つ球だ。今や大地と球を繋ぐものは下部の台座だけである。ぞの頂点にある当初の中央ゲートも、二枚の装甲板が左右から動いてきて、完全閉鎖されようとしている。それぞれの板には他と同様の、茶色い斑点があった。亜チルドレンを納めたプラグがここにも貼り付けられている。

 城壁の向こう4.6キロには大クレーターと4体の使徒があった。使徒の表面は青い部分が着々と増えていき、もう約4分の3が元に戻った。

「中央ゲート閉鎖完了。完全密閉しました」と、サブロウが報告した。作戦開始から60分が経過した。C計画は淀みなく進行している。次の段階まであと少しだ。どうやら第133使徒を出し抜くことができる。信時の自信は深まった。

 指令室のスタッフは淡々と職務を果たしていた。栗林もじっと事態の推移を見守っていた。彼の意に染まぬ作戦はとうに動き出し、止めるすべはない。だが軍人である彼は、こうなった以上全力で当たるだけだと心に決めていた。

 信時のデスクにある電話機が鳴った。彼はうるさく思いながらも受話器を取った。小さなモニターに有村の顔が映った。

『総司令。閣下が一言挨拶したいそうですが』

「今は忙しい。1分だけなら話そう」

 画面が切り替わり、西園寺終身大統領のたるみの目立つ顔が映った。しかしその眼光は一種異様な、人を圧倒する迫力を保っていた。

『やあ、信時君。ご苦労だった。おかげで人民共和国政府は存続が叶う。わが家系もね』

 西園寺は多数の家族と愛人に側近を同伴して、ここにやって来たのだ。

「お言葉ありがたく頂戴します」

『君には臨時政府首相の地位を与えよう。共にこのジオフロントから世界を支配しようじゃないか』

「閣下、お言葉ですが、作戦は始まったばかりです。まずリリスを斃さねばなりません。我々の目論見はそれをなしうるか否かに掛かっているのです」

『そうだな。いや、忙しいところを悪かった。これで失礼するよ』

 通話は切れた。信時は目の前のモニターで改めて進捗状況をチェックした。すべて順調だ。直に液体水素の充填も終わる。彼はマイクを取って起立し、全ジオフロントへ向けての放送を開始した。

「総司令代行信時だ。ジオフロント総員に達する。遺憾ながら我らネオ・ネルフは第133使徒を殲滅できなかった。このまま手をこまねいていては我らの全滅は避けられない。よって私はここに、C計画として長年に亘って準備された最終作戦を発動する。その名も『クロス・カウンター作戦』である。作戦指令室に属さない者は何もすることはない。ただ、時折発せられる指示に忠実に従うこと。この作戦はリリスへの直接打撃を目論むものである。人類か、使徒か、いずれの種が優るかはこの作戦が終わって後に決する。そして私は諸君に対し、人類の究極の勝利を約束するものである」

 栗林は冷ややかにこの演説を聴いた。C計画のCは『Cross Counter』のC。誰もがそう思っただろう。だが本当の意味は別にあるのだ。

 

 阿南は長い廊下を走りながらこの放送を聞いた。リリスへの直接打撃?地下8500mの魔女にどうやって?答えは一向に浮かんでこなかった。しかし勝利への希望が生まれたことは素直に嬉しかった。

 

 草鹿もまたハンドルを捌きながら放送を聞いた。信じ難い冒涜的な言葉だった。リリスを斃す?馬鹿な、あり得ない。放心した彼は、危うく柱に車をぶつけそうになり、慌ててハンドルを切った。ほっとため息をつくと、ネオ・ネルフへの憎悪がたぎってきた。どうにかして阻止してやりたい。だがここまできて復讐を中止することもできなかった。まずあのガキを殺ってからだ。草鹿はしっかりとハンドルを握り、0号機のプラットフォーム目がけて車を駆った。

 

「液体水素、充填完了しました」

 シンの報告を受けて信時はベヒシュタインに訊いた。

「使徒の様子はどうだ?」

「平均修復率81%。最も修復の進んだもので83%だ。活動再開まであと11分」

 信時は会心の笑みを浮かべた。「間に合ったな。我々は勝てる」彼は再び立ち上がり、放送を始めた。「ジオフロント総員に達する。これよりクロス・カウンター作戦の実行段階に入る。まず秒読み開始後10秒で、重力波発生装置により、0.3Gの重力を付加する。一時諸君は強烈な重さを感じるだろう。それは20秒ほど継続する。次に体が急激に軽くなるのを感じるだろう。しかし、それは徐々に通常に戻っていく。その間、諸君は決して動くな。立っているのは危険だ。横になってその時を待て。やむを得ず立っている者は何か固定したものに掴まれ。いいな。では秒読みを開始する」

 座り込んだ信時の合図を受けたシンが秒読みを始めた。

 同時にベヒシュタインは、目を輝かせて手元のキーボードを操作する。満を持してアクセスしたのは4台目のBOSATSUシリーズ、MONJYUだった。「さあ、目覚めろ。巫女たちよ」彼は起動するためのパスワードを打ち込み、クリックした。

 Wache Wala(起きろ、ワーラよ)

 これでかっちり10秒後にMONJYUは起動する。彼は素早く椅子をリクライニングさせ、身を横たえてその時を待った。

 

『10、9、8‥‥』

 シンの声を聞いた阿南はしかたなく床に仰向けになった。一体何が起こっているのか?首脳部の考えが分からなかった。

『3、2、1、重力付加!』

 いきなり、全身に重みが掛かった。ロケットに乗って打ち出されるような感覚。阿南は歯を食いしばり、脂汗を浮かべて耐えた。

 

「伏せて!」

 レイの切羽詰った声に、コトミとフユキは慌てて床に伏せた。秒読みは残り少ない。彼らはやっとプラットフォーム前の予備倉庫に辿り着いた所でこの事態に遭った。放送を聞いたのは車の中だったので、慌しく車を降りなければならなかった。

「どうして、こんな?何が始まるんですか?」

 コトミの問いに、レイはきつい視線を上げながら答えた。「ジオフロントは逃げ出そうとしているの」

「逃げる?どこへ?」

「空へ」

『重力付加!』コトミの華奢な体に0.3Gの付加はきつかった。顔が見る見るうちに歪んだ。初めてエントリーテストをした時よりもずっと苦しい。フユキも苦痛を覚えているようだ。それに対し、レイは何事もないような顔をしている。広大なジオフロントの中で、彼女だけが普段通りに佇んでいた。

 

 ジオフロントが悲鳴を上げた。各所で歪みが生じ、鉄骨がきしんで、低く長く不気味な音を発したのだ。空洞部平面を守る衛兵たちは、天蓋が落ちてくるような予感がして、恐怖に震えた。

 シェルターに逃げ込んだ避難者たちの動揺は、それに勝るものだった。密室では天井が落ちてきても逃げ場はない。重力の圧迫が崩壊の恐怖をさらに煽り、悲鳴を上げる者が続出する。

 

 だが、それもようやく終わりを迎える。MONJYUの、そして外壁を守る女たちの覚醒である。

 

 Wache Wala

 

 ハイ、チチウエ。

 

 144万2900個の瞳が一斉に開いた。

 

 ワレラカロキモノ。トコシエニソラニアレゾカシ。アメツチニワレラノオモムクアタワザルトコロナシ。

 

 その時、ジオフロントは地球の重力から開放されたのである。

 

 作戦指令室のスタッフは、体に掛かった重みがふいに消えたことにとまどった。それどころか、前よりも体が軽く感じられる。 

「みだりに動くな!」ベヒシュタインがマイクを通して全館に呼びかけた。「現在、ジオフロントはATフィールドによる重力遮断状態にある。今効いているのは重力波発生装置による人工重力だ。規模は0.3G。下手に動くと感覚が狂って怪我をする。徐々に出力を上げるので、平常な状態に戻るのを待て」

「重力波発生装置出力上げます。ペースは1秒につき0.001G」

 シンがコンソールを操作する。12分近く待てば元の重力に達する計算だ。

 机につかまりながら信時は命令を発した。「休んではいられないぞ。少しでも早くここを離脱するのだ。ロケット推進開始」

 ベヒシュタインは胸に手を入れて首に掛けた鍵を取り出した。信時も同じ動作をする。おのおののデスクにあるスイッチボックスを開け、揃って鍵を差し込んだ。

「カウントどうぞ」とベヒシュタインが言う。信時が応じた。「1、2、3」3で二人同時に鍵を捻った。瞬時に大スクリーンに上昇開始のメッセージが出た。

「秒読み開始。100からです」

 シンが告げた。同時にジオフロント下部に突き出た合計8個のノズルから、ちろちろと炎が吹き出た。それだけでジオフロントはゆっくり上昇を始めた。

「使徒はどうなった?」

 信時の問いにブーランジェが答えた。「平均修復率93%。最も修復の進んだもの97%‥‥修復のペースが上がっている」

「何だと!速すぎる!」信時の背筋に冷たいものが流れた。大スクリーンに使徒の映像がある。それらは黒い部分が殆ど消え、現れた時と変わらぬ姿形をしている。そのうちの一つがぶるっと震え、彼の心胆を凍えさせた。

「39、38、37‥‥」

 シンのカウントする声がやけに遅く聞こえる。また一つ、身もだえするような動きをする使徒が出た。そしてまた一つ。やがていくらもしないうちに4体すべてが盛んな動きを示し始めた。

「10、9、8、7‥‥」

「総員衝撃に備えよ!」

 信時が大音声で警告を発した。シートベルトのある者はそれを装着し、そうでない者は何かを必死に掴んだ。

 1体の第133使徒が、遂に青色の躯体を立てた。

「3、2、1、上昇開始!」

 8個のノズルから業火が迸った。

 

「きゃあっ!」

 コトミが悲鳴を上げてへたりこんだ。急に上から力が加わったのだ。床に押さえ込まれる感覚。上方への加速がGを加えたのと同じ効果を与えた。コトミは床に大の字になって圧力に耐えた。その掌を握るものがあった。フユキだった。彼も床に押し付けられながら、必死に手を伸ばしたのだ。

「頑張りなさい。この苦しみもじきに終わるから」

 レイが二人の頭の前に座り込み声を掛けた。コトミは涼しい顔のファーストチルドレンがうらやましくなった。歯を食いしばりながら小さく頷いた。

 

 床に伸びた阿南もひたすら耐えるだけであった。移動など到底無理な話だった。責め苦に顔を歪めながら、一連の現象と装置と化したチルドレンを組み合わせて事の真相を覚った。ATフィールドによる重力遮断、そしてそれを応用した上空への離脱だ。使徒から逃亡しようというのか。首脳部の真意が測りかねた。何か途方もない反撃計画があると信じたかった。

 

 草鹿も追跡どころではなかった。彼は下りのループ状通路に動力車を止め、座席から飛び出した後、道路に這いつくばって、打ち続く試練と戦っていた。この状況で運転など危険極まる行為であった。彼は首脳部の法外な企みを覚り、スパイとして何の情報も得ていなかったことに忸怩たるものを感じた。

 

 ターミナルドグマを一本の壜に喩えるならば、リリスは底に巣食う生き物であり、ジオフロントは口を塞ぐコルクである。コルクは32年間、こじ開けようとする使徒達を拒んできた。しかしこの時、第133使徒を前にして、コルクの方が勝手に飛び去っていったのだ。

 低空に浮いた4機の使徒は、そろって目前の城から巨大な塊が浮き上がるのを目撃していた。その外見から彼らが何を思ったか、窺い知ることはできない。辺縁部を光らせるものはなかった。派手なロケット打ち上げに見入る観客のようでもあった。そして球体がはるか彼方まで立ち去ったころ、悠々と主を失った城への進軍を開始した。

 

 全容を曝したジオフロントは、白煙を残しながら猛スピードで上昇を続ける。上昇後1分で上空1万mに達した。その間、気流がジオフロントを揺さぶり、位置を大きくずらした。重力のくびきを逃れて推進するジオフロントには風の影響が甚だしい。ある高度でジオフロントはエンジンを停止した。そこからは慣性と上昇気流に委ねるのだ。地球から見れば風船に等しいジオフロントは、通常のロケット打ち上げとは全く異なる操縦法を取る必要があった。ただ、これほどの質量が大気中に浮くためには、重力を無にする以外の方策はなかった。

 エンジン停止の瞬間、ジオフロントの乗員は急激にGの縛りから開放された。しかし試練はまだ終わらない。続いて猛烈な揺れが彼らを襲った。各所で物が倒れ、火災が発生した場所もあった。

「スタビライザー稼動!」

 シンが急に軽くなった体に戸惑いながら告げた。同時に球体のあちこちから、炎が噴出した。姿勢安定化機構が動き出したのだ。揺らぎを検知したジオフロントは、それを相殺する方向へジェットを発し、球体の運動を安定させるのである。BOSATSUの驚異的な情報処理能力の賜物であった。

「被害を報告せよ!」

「第6層、S−3地区、第7層N−8地区で火災発生」

「第5層で水道管破裂」

「空洞部平面に池の水が溢れ出ました」

「非常事態一部解除。技術部員は全員出動。消火と復旧に当たれ」

「現在高度、1万5000m」

 作戦指令室では活発に言葉が飛び交った。ジオフロントは安定飛行に入り、誰もが人心地ついていた。

「跡地の様子はどうだ?」と信時が気になっていたことを尋ねた。間もなくスクリーンに衛星からの画像が入った。

 第133使徒4機は円形の城壁に差し掛かっていた。しかし内陣があるはずの場所は巨大な穴となっていた。底に台座の椀型を形成する構造物が林立している。その中心に真っ黒な縦穴が見える。リリスの座所、ターミナルドグマに通じる道だ。

「時限爆弾はセットしてあったな?」と、栗林が古賀に訊いた。古賀はすぐに「はい、後25秒で爆発します」と答えた。

 信時がスクリーンを睨みながら呟いた。「使徒め、せいぜい苦労しろ。あそこで立ち往生してくれれば願ったり叶ったりだが」

 ほどなく縦穴が激しく揺れ、煙が噴出した。火山の噴火を思わせるものだった。セントラルシャフトに仕掛けられた何百という爆弾が、一度に爆発したのだ。今頃ターミナルドグマは、上から落ちる構造物の衝撃で揺れに揺れていることだろう。さらには通路自体が、落下物によって塞がってしまうはずだ。

 使徒4機は悠然として縦穴の回りに集まった。中の1機が噴出す煙の中に機体を入れたかと思うと、縦に90度回転した。正八面体ゆえ、前と変わらぬ形に見える。が、それは言わば下を向いている。するうち、辺縁部が白く光りだした。

「加粒子砲で溶かすと言うのか!」

 ベヒシュタインが呆気に取られて叫んだ。言葉通り、それは穴の底目がけて白いビームを放った。小賢しい人間の思惑をあざ笑うような、使徒の行動であった。

 信時は次第に重さを回復する体を頼もしく思いながら言った。「やはり阻止はできんか。しかし時間稼ぎにはなった。今のうちに離れるのだ。勝負は宇宙空間でつける」

 ジオフロントは高度2万mを超え、青みを増す空の下をひたすら上昇し続けた。その高みを臨むのは、プラグの中に佇む幾多の乙女たちだけである。

 

 コトミはふわふわと軽く感じる体を立ち上がらせた。フユキも追随して立った。傍らに立つレイは、わずかに安堵した表情を見せた。 

「なんか軽い感じ。ほら」

 軽く跳ねたつもりだった。ところが、体が60cmも浮き上がったのに驚いた。

「危ない」フユキが着地したコトミに手を差し伸べる。「重力が違うんだから、滅多なことはしないほうがいいよ。普段の動きがとんでもない効果を生むから」

「そうね、気をつける。でも、どんどん重くなってく」

 レイが言った。「次第に元に戻ってきてるのよ。揺れがおさまったわ。もう移動しましょう」

「ええ、行きましょう」

 一行は間近に迫った0号機発着場への旅を再開した。予備倉庫とは言え、奥行きが150mほどもある。置いてある荷は殆どなく、空も同然だ。そこを出れば目的地の発着場とあって、コトミの歩調は速かった。その時、最悪の物音が聞こえてきた。急ブレーキによるタイヤの摩擦音だ。ループ状の坂道から、車が猛スピードで駆け下って来ている。

 レイが叫んだ。「あいつが来る。急いで!」

 コトミとフユキは血相変えて走った。単純にも追跡をまけたものと思っていたのだ。草鹿の執念を侮っていた。コトミとフユキは低重力のもと普段より格段に速いスピードで走った。奥にある大扉から脱出しようというのだ。だが、草鹿の駆る動力車も並みのスピードではない。たちまち坂道の出口に姿を現す。草鹿の目は必死に逃げる子供たちの姿を捉えた。喜び勇んで車の向きを変え、アクセルを踏み込んだ。轢き殺すつもりなのだ。車は全速力でコトミたちの方へ突っ込んで来る。出口までにはまだ距離がある。前部のバンパーが、必死で走るコトミたちからわずか10mにまで迫った。

「こっち!」

 フユキがコトミの腕を引っ張り、急に右へ方向を変えた。コトミの背後をかすめるように動力車が通りすぎた。草鹿はブレーキを掛け、急ハンドルで右へ切った。横転を小刻みなハンドル操作で回避し、車は滑走する。完全に静止した時には壁から1mしか間隔がなかった。コトミとフユキは逆方向に走り出している。一方、草鹿は動力車をバックさせて大扉近くに寄せた。彼は運転席から身を乗り出し、扉の開閉装置を撃った。装置は火花を散らし沈黙した。レイの不思議な力を考慮に入れた行動だった。こうすれば、レイの超能力を持ってしても扉を開けられない。

 草鹿は銃を手にしたまま床に降り立った。復讐に燃える彼は、鬼の形相で逃げる二人を睨みつけた。

「待て、こらあ!」

 腰を落として銃を真っ直ぐ伸ばし、片方の手を添えて構える。狙うはコトミの背中。外さない自信はあった。

 いきなり、レイの顔が銃口の前に現れた。「させない」

 さすがの草鹿も動揺したが、構わず撃った。弾丸は向こう側の壁に当たった。

「どきやがれ、この野郎!」

 草鹿はめちゃくちゃに腕を振り回した。レイの姿が消えた。血走った目で二人を探す。坂道に逃げ込もうとしている。今度は片膝を付いて慎重に狙いを付ける。

「おやめ」

 レイの顔が、目の前数センチに現れた。草鹿はわっと叫んで尻餅をついた。だが、レイの顔は離れない。

「この卑劣漢め。あの子に手出しはさせない」

「やれるもんならやってみろお!」

 草鹿は膝を立て、レイの体へ頭から突っ込んでいった。一瞬でレイは消えた。草鹿は荒く息をしながら前を注視した。二人の姿は見えなくなっている。ぺっと唾を吐いて立ち上がった。コトミは何としても殺すつもりだった。それはファーストチルドレンに対する復讐でもある。彼はさらなる追跡のために足を速めた。

 

 エヴァ0号機発着場は、他の制式エヴァシリーズのそれとは離れた場所にある。あくまでも訓練を目的とした機体で、元々は開発の最初期に、旧ネルフの製法を再現すべく試作されたものであった。したがってS2機関を搭載していない、外部電源依存の旧態依然たる代物である。身長は正規の機体より一回り小さく、装甲も薄いが、運動性が良いので初心者向きとされている。若草色の塗装がそれらしい雰囲気を醸している。

 阿南は、両脇に立つ巨大な板を繋ぐ横棒に固定された0号機を、足元から仰ぎ見ていた。彼は長い移動の末に、ようやくこの場に辿り着いたのだった。訓練機とは言え、圧倒的なスケールを持っている。上方にあるキャットウォークは、エントリープラグ搭乗時に使用するものだろう。阿南がいる場所は移動式の台座で、射出時は後方斜め上へ移動し、トンネルの真下に据えられる仕掛けだ。

 普段なら飽かず眺めるところだが、この時の阿南はそれどころではなかった。いると思ったコトミたちはどこにもいない。レイからの接触もない。どうしたものかと思案しているところへ、派手なタイヤの摩擦音、続けて銃声が前方から聞こえた。

 とんでもない事態が起きている。顔色を変えた阿南は全速力で、音がした部屋に向かい走った。大扉があるところからして、何かの倉庫に違いない。辿り着いた彼は早速カードを通して、開閉装置のボタンを押した。しかし反応がない。何度もボタンを押し直すが、扉は沈黙したままだ。

 蒼くなった阿南は、自身に落ち着けと言い聞かせながら、周囲を見回した。右に上部に通じる階段がある。キャットウォークのある層まで昇れる階段で、彼が来た側と同じ構造になっている。吹き抜けになったその層に、いくつかドアがあるのが見える。彼はともかく向こう側に行くと決め、階段を目がけて駆け出した。

 

 コトミとフユキはループ状の坂道を駆け上がり、1層上に上がった。ここでは認証機付きのドアが行く手を阻んでいる。

「どうしよう、鍵がかかっている」

「ぐずぐずしてられない。もっと上に逃げよう」

 フユキがコトミの手を引いた時、いきなりレイが現れ、二人を驚かせた。

「お待たせ。今開けるわ」

 たちまちロックが解除され、ドアが開いた。二人は急いで中に走りこんだ。レイはこのロックを元に戻せないことに悔しい思いをした。エラー表示のおかげで居場所もまる分かりだ。草鹿がここに来るのも時間の問題である。局面をどう打開するか、彼女は必死に考えていた。

 そこは0号機に電力を供給する変電施設や、様々な用途を持つ機械を収容した場所である。金網で囲まれた巨大な機械がいくつも立ち並んでいる。二人は中央の通路を走り、向こう側に出るつもりだった。床面である格子状の金属板が盛んに音を立てた。出口までは相当の距離があった。

「まずい!曲がって!」

 レイの切迫した声が響き、二人は慌てて機械に挟まれた通路を横に曲がった。不安げに機械に身を寄せ、音に聴き入る。自動ドアが開き、誰かが踏み込む足音がした。

 レイが囁く。「どこかに隠れるのよ。音を立てないで」

 頷いたコトミとフユキは慎重に後ずさりして移動した。この場は危険だ。とにかく草鹿に見つからないようにしなければならない。レイが消え、またすぐ戻ってきた。黙って通路の奥を指す。適切な方向に誘導しようというのだ。

 草鹿は銃を構え、左右に目をやりながら真ん中の道を進んだ。ここに仇が潜んでいるのは間違いない。入り口の認証機が不調に陥り、無効化されていたことからも明らかだった。

 林立する機械の迷路で、追跡者と逃亡者の駆け引きが繰り広げられる。草鹿は不規則に動いて敵の不意を突こうとした。コトミとフユキは、消えては現れるレイの指図によって、刻々と居場所を変えた。しかし、この状態ではいずれ見つかるものと思わなければならない。

 コトミたちが左奥にある機械の陰まで進んだ時、フユキがコトミの手を引っ張った。コトミは何事かと振り返る。フユキは真下の金属板を指差した。そこに床下に下りるための開閉口があった。そこへまたレイが出現する。もの言いたげに格子の床を指す彼の仕種を見て、すぐ意味を察した。数瞬考え、頷いて賛成の意を表した。コトミとフユキはしゃがみこみ、蓋に手を掛けた。鍵はついていない。音が立たぬよう慎重に持ち上げる。力のあるフユキには楽な作業だ。すっかり口が開いたところへ、まずコトミが入り込んだ。高さ80センチぐらいしかない窮屈な空間で、底には何本ものパイプやケーブルが横たわっている。コトミに続いてフユキが下り、重い蓋をゆっくりと閉めた。

 二人は座り込んで天井を見上げた。隙間を通してレイの顔が見える。蓋の厚さからして真上から見下ろさない限り、見つかることはないはずだ。ふいにレイは顔を上げ、前を睨んだ。きた、と口が動き、次の瞬間には見えなくなった。

 格子状の影の中、二人は抱き合った。ここでじっとして敵をやり過ごす。小さく床を踏む音が聞こえる。それは次第に大きさを増し、近づいて来る。奥を見ると、影がこちらに向かって移動してくる。フユキを抱くコトミの腕に力が入った。それは刻一刻と迫ってくる。気づかれたら、助かることはあり得ない。レイは姿を見せなかった。彼らにできることはひたすら音を立てぬように、動かずにいることだけだった。後は運に任せるのみ。コトミはその音が聞こえるのではないかと心配になるほど、心臓が強く打つのを感じた。

 草鹿の足音が近づく。それはほんの1m向こうまできた。コトミは脂汗を流して上を見続けた。そして遂に草鹿の靴底を見た。コトミの緊張は極限に達した。行って。早く行って!コトミは祈る。だが、草鹿の足はそこから動かなかった。

 草鹿は立ち止まって考えた。奇妙だ。これだけ耳を澄まして歩き回ったのに、仇は見つからない。出口のドアが開いたなら、すぐに分かる。それなりの音がするからだ。彼がここに着いた時、コトミたちがここから出ていたとも考えにくい。走る速度からして振り切られたとは思えなかった。

 どこかに隠れてやがるのか?それらしい場所なんかなかったが。いや、待て。

 彼は床をなす金属板に目をやった。その瞬間だった。向こう側の出口が開く音が聞こえてきたのである。

 やばい、逃げられる!草鹿は音が立つのも構わず走った。中央の通路に出る。その刹那、目撃したのは二人の子供ではなかった。阿南タカマサ。憎むべき仇敵がこちらへ歩いて来るのだ!

 阿南はいきなり草鹿が現れたことに驚愕した。油断なく銃は抜いていたが、敵がまともに姿を見せることなど予想していなかった。鉢合わせの格好になった両者が動くまでに、一瞬の間があった。

 阿南は発砲を、草鹿は避難を選択した。横っ飛びに空中を舞う草鹿の上を銃弾が通り過ぎた。草鹿は狭い通路で前転して立ち上がった。反撃のため、すぐさま機械の陰から顔を出す。が、阿南の姿は見えない。

 広い通路の真ん中にい続けるような愚策を、阿南は採らなかった。彼も草鹿が隠れたのと同じ側の機械に身を寄せていた。

 機械室に静寂が戻った。ここからはどちらが先に相手を発見し、有利な位置を取るかが勝負の分かれ目になる。しかし、ステルス迷彩がないとは言え、潜入に慣れた草鹿に有利な状況であった。

 阿南はできるだけ音を立てないように慎重に歩いた。だが彼の靴の固いゴム底では努力にも限度がある。この点でも、よりソフトな素材を使ったシューズを履く草鹿に利がある。彼は別の通路に出るやいなや、銃を突きつけた。誰もいない。そっと角を曲がり、金網に背を付ける。そろそろと進むと今度は十字路だ。金網の陰からそっと顔を出し、右、左、後ろと視線を走らせ、安全を確認して大股で通路を横切った。

「随分久しぶりだな、先輩」

 遠くから草鹿の声が聞こえた。阿南はあえて答えず、向きを変えた。わざわざ位置を知らせるとはどういうつもりだ。よほど自信があるのか。相沢が言っていたステルス迷彩の件が頭をかすめた。

「答えなしかい。仕方ないな。ねえ先輩、こんな争いは無益だと思いませんか。いずれフォースインパクトが始まる。人類は補完されるんだ」

「アナウンスを聞かなかったのか!我々にまだ勝つ可能性がある!」

 阿南は我慢できずに答えた。大胆にも、同じ土俵に乗って戦いたくなったのだ。また通路を一本横切った。

「なんとか作戦ねぇ。無駄でしょうよ。リリスの永劫不滅は約束されているんだ」

「チヒロのロッカーに写真を貼ったのはお前か。おれをリリス教徒に売ったのはお前か」

「どっちも僕ですよ。悪く思わんでください。スパイの仕事なんだから。あんたがリリス教徒にしてきたことを考えてみるといい」

 声の反響の仕方が変わった。草鹿も移動している。阿南は180度向きを変え、来たばかりの道を戻った。

「振り返ってください。われら人類の歴史を。差別、戦争、飢餓、貧困、格差、虐殺。なんという醜さだ!これらこそ我々が不完全なことの証じゃありませんか。群体だからいけないんだ。それも均一じゃない。人種、国家、宗教。みんなばらばらだ。これらが一つになればすべてが解決する」

「お前らの理屈は、人間の悪いところだけを取り上げている。そりゃひどい事を沢山やってきたさ。だけど、いいところだって一杯あるんだ!」

 阿南は素早く通路をまたぎ、機械の陰に身を隠した。相当声に近づいた。草鹿は近くにいる。

「そういう幼稚な反論は腐るほど聞きましたよ。どうして分からないんだ。一つになって進化の階梯を進む素晴らしさを、なぜ理解できない!」

 お前と一緒になるのだけはいやだ。阿南は呟き、ひそやかに移動した。そこは金網で囲まれていない、長さ10m、幅6m、高さ3mはあろうかという方形の機械の前だった。上部から高い天井に向かって太いパイプが伸びている。阿南は数個のメーターがあるだけの、つるつるした表面に背を付けてじりじりと移動した。向こう側に草鹿がいると判断していたのだ。そこを曲がれば奴がいる。彼はいつでも撃てるように、銃を持った腕を伸ばした。

 目の前に、何の前ぶれもなくレイが出現した。阿南は心臓が止まる思いがしながらも、物音を立てるのはかろうじてこらえた。レイは片手を挙げて、無言で天井を指した。

 ぞっとした阿南は素早く壁から離れ、機械の上を見た。銃を構えた草鹿が仁王立ちしている。射線が阿南の額を捉えた。阿南は咄嗟に身を引き、かろうじて弾丸を避けた。床に当たった弾が火花を散らした。おそろしく不利な状況にある。とにかく動くしかない。阿南は機械に沿って走った。上から、走る草鹿の足音が聞こえる。阿南はくるっと回転し、逆方向に走り、銃を上げた。だが、草鹿の銃口は既に阿南を捉えていた。

 草鹿の視界をレイが塞いだ。草鹿は構わず撃った。ぎゃっと悲鳴が上がる。草鹿は至近距離のレイと睨み合いながら、弾装が空になるまでめくら撃ちを続けた。

「いいかげんどけ、この野郎!」

 レイのこめかみめがけて左フックを入れた。もちろん拳は空を切り、レイは消えた。が、それも一瞬、またしてもレイがまとわりつく。草鹿とレイは何度も同じ攻防を続けた。アッパーカットを空振りした後、間が訪れた。やっと視界が開けた草鹿は辺りを見回した。阿南の姿はない。「ちっ逃げやがったか」草鹿は悠々と備え付けの梯子を下り、拳銃に新しい弾装を装着した。彼は余裕さえ漂わせながら、捜索を開始した。滴り落ちた血を見つけた。そして最大の収穫は床に転がった阿南の銃だ。闇雲に撃った弾は阿南の手をかすめたのだろう。草鹿は満足感を覚えた。しかも通路には血の跡が点々と伸びている。一撃とはいかなかったが、もう勝ったようなものだ。彼はその銃をバックパックに放り込み、通路を進んだ。血の跡は途中から見つからなくなった。止血に成功したのか。

 中央通路の最も奥まで達した時だった。0号機側のドアが開く音が聞こえた。草鹿は怒りを漲らせて振り返る。ドアから逃げ出す阿南の後姿がちらっと見えた。ここまできて逃げられてはたまらない。草鹿は全力で追いかけた。

 ドアが開いた瞬間、素早く体を回して銃を突きつけた。左右を警戒しつつ前に進む。巨大な0号機が目に入った。草鹿が初めて見る発着場の大空間だ。そこは0号機に乗り込むためのキャットウォークに繋がる場所で、20m前にそれがある。阿南がその中ほどを走っていく。草鹿は手摺まで駆け寄り、狙いを定めて撃った。外れたのか、阿南の足は止まらない。草鹿は追跡を再開した。既に狩人の心境だった。彼は獲物を追い立てる興奮を感じ、歓喜の叫びを上げた。可動式のキャットウォークは、0号機から10m離れた位置にある。草鹿はその端に立つと、意外なものを見た。反対側の通路にある、太い支柱の陰に阿南が座り込んでいて動かない。手摺のないキャットウォークには、かなりの量の血が落ちている。

 さては出血多量で弱ったか。草鹿はにやりと笑い、勝利の喜びを味わった。もう急ぐことはない。堂々と道の真ん中を歩く。そこで、0号機の巨大な顔の前に、怒りの表情をしたレイが浮いているのを見つけた。彼はせせら笑うだけだった。

「よお、ファーストチルドレン。あんたのお気に入りは虫の息みたいだぜ。もう何もできないだろう。せめて体があればねぇ。あいにくだったなぁ」

 レイは動かず、何も言わなかった。草鹿は道の半ばに達した。その時、意外なことが起こった。今までじっとしていた阿南がおもむろに立ち上がり、草鹿と正対したのだ。制服の右半分が赤く染まっていた。

「てめえ!」草鹿は銃を構え、撃った。外すわけがなかった。だが、阿南は何事もなく佇んでいる。草鹿は立て続けに発砲した。阿南にはなんの変化もない。そして通路に銃弾が転がっていくのを見た。

 草鹿は異常事態に顔色を変えた。常識外のことが起きている。

「内向きのATフィールド。お前はもう絶対圏内にある。あいにくだったわね」

 レイが冷ややかに言った。同時にもう一つ奇蹟が起こった。動かないはずの0号機が動いたのだ。その両腕が前に伸びていく。草鹿の目が飛び出さんばかりに開いた。0号機は両手を上げ、道の半ばにいる草鹿を両側から挟んだ。草鹿は恐怖に顔を歪め、迫り来る巨大な手を見てすくみ上がった。逃げ場はどこにもなかった。右手が怯えきった草鹿を握る。一発の悲鳴が上がり、すぐに消えた。かろうじて足の先が見えるだけだった。0号機はその手を挙げ、固く拳を握った。阿南ははっきりと骨の砕ける音を聞いた。小指の下から大量の血と、赤黒いどろどろしたものが滴った。そして開かれた右手から、細長く、形容しがたいものがはるか下の台座へ落ちていき、べしゃっと音を立てた。

 コトミとフユキは機械室前でこの一部始終を見ていた。コトミは感に堪えぬという風情でひとりごちた。「ノーエントリーシンクロナイズ。すごい。初めて見た」

 すべてが終わった後、阿南はその場に膝を付いた。「おじさん!」コトミは叫んで阿南のもとへ走った。フユキが続いた。レイがにたりと笑う阿南の前に現れた。

「ふふ。やりましたね、ファーストチルドレン。あん畜生にはふさわしい最期だ」

「喋らないで。凄い出血だわ」

「大丈夫。少し寒気がするだけです」

「おじさん、おじさん!平気なの!」

 駆け寄ったコトミは凄惨な有様の阿南を見て息を呑んだ。阿南の顔色が異常なほど蒼い。右肩と右手の甲からどくどくと血が溢れ、床に血だまりを作っていく。

「コトミか。よかったな。マサコさんの仇を取ったぞ。ファーストチルドレンのおかげだ」

「うん、おじさんも頑張ったよね」

 阿南は満足げに頷いた。すべては機械室の中で、レイが彼に提案したはかりごとだったのだ。コトミは座り込んだ阿南の前でおろおろするばかりだ。フユキは落ち着いて阿南を観察していた。

「血を止めないとまずいよ。このままだと命が危ない」

「そんなぁ。ファーストチルドレン、なんとかなりませんか」

「ごめんなさい。私にそんな力はないの」レイは悲しげにかぶりを振った。

 フユキが上着を脱ぎ、引き裂いていく。「まず、血を止めるんだ。それから医務室に連れて行こう」

「でも、お医者さん、いないんじゃ」と、コトミ。

 フユキは阿南の上着を脱がせ、裂いた布を肩の傷口にきつく巻きつかせた。さらに右手を縛りながら呟く。「緊急時対応マニュアル‥‥M7−4−3‥‥あった、解凍。‥‥大丈夫。設備さえあれば、ぼくがなんとかする」

 コトミはほっとする以前に、フユキの言葉に驚いていた。「フユキってば、そんなこともできるの?」

 フユキはにっこりと笑った。「コトミ、ぼく、外見は子供っぽいけどね、ほんとはとても大人なんだよ」

 阿南は薄笑いを浮かべてコトミとフユキの会話を聞いていた。朦朧となりつつも、助かるかもしれないと思った。それにしても俺たち、すごい四人組みじゃないか。そこまで考えたところで、彼の意識は途切れた。

 

 

 元のジオフロントがあった場所では、4機のラミエル型が、高度を取って白煙を上げるセントラルシャフトの回りを囲んでいた。既に内部への加粒子砲照射は終了していた。はるか下のターミナルドグマは猛烈な温度になっているはずだ。しかし、4機はそんなことに頓着する様子を見せず、整然と等距離を取って並んだ。

 4使徒は祀りの開始を告げた。どの機も下側の4枚の正三角形が外側に開いたのだ。

 暗い内部から光の点がしずしずと下ってきた。全部で四つの光の点は、噴出する煙のすぐ傍に舞い降りた。

 それらの光は単なる幾何学形ではなかった。背中に白鳥のような羽を生やした、大人の天使の姿をしていた。腰まで届くしなやかな長い金髪が風に揺れている。彼らには何一つ身にまとうものがなかった。細い腰に豊かな尻、胸の二つのふくらみが露わだ。しかしながら股間には成熟した男性器があった。四人ともこの上なく美しい容貌をしていた。

 四人の姿が白煙の中に吸い込まれた。と同時に4機のラミエル型は地上に落下し、ガラス細工のように粉々に砕け散った。

 

 

 その頃、空中高く飛翔したジオフロントは成層圏を抜け、高度100kmの宇宙空間にあった。外壁を覆い尽くした裸の巫女たちは再び眠りについていた。MONJYUもまた休止していた。それこそ72万1450人の思考そのものだからである。

 球体はBOSATSUによる神業のような姿勢制御により、ジオフロント跡地から、地上への鉛直線距離で30kmの位置をキープしていた。中の主だった者たちは、地上の変化を虎視眈々として待ち受けていた。

 何がどうなっているのか、全く理解していない者も多かった。阿南ら兵員でない者がそうだ。コトミらチルドレンも何一つ教えられていなかった。

 他にこの局面で忙しく立ち働く者もいる。国連軍に出向した形になっている日本軍人たちである。彼らはネオ・ネルフ兵員の7割を占める最大勢力であった。多国籍軍と呼ばれてはいるものの、実質は日本軍プラスその他と言うべきものだった。徒党を組んだ彼らは、続々と外国軍部隊を包囲し、武装解除させていった。彼らの意図は抵抗が予想される勢力を早期に排除することにある。この電撃作戦を指揮したのは日本軍部隊指揮官の織田少将であった。彼は信時と事前謀議を重ね、この日に備えていたのだ。そして最終的に作戦を発動したのは、最高指揮官たる西園寺終身大統領である。

 作戦指令室は、この間の情報が遮断されていた。が、栗林だけは知っていた。彼はキムやシン、その他外国人の顔を見ながら、良心の呵責に苦しんでいた。一方信時は首謀者として、続々と入る制圧完了の報に満足していた。

 有村が耳元で囁いた。「アメリカ軍部隊が降伏しました。これで完全制圧です」「そうですか、ご苦労さまです」

 信時はほくそ笑んで思った。どのみちフォースインパクトが起これば、日本の領土から人が消える。手を打たなければ、事実上日本の歴史は終焉を迎えることだろう。だが、そうはさせん。ここが新たな日本人民共和国となるのだ。西園寺閣下と私が新たな礎となる。諸外国よ知れ。攻撃不可能なジオフロントの恐怖を。空中要塞がお前らに命令を下すのだ。千人あまりにすぎぬ我らが、世界二十億人の支配者となるのだ。

 

 

 阿南は医務室のベッドの上で眠り続けている。彼の左腕には、血液パックから伸びる針が刺さっている。右肩と右手は包帯でがんじがらめだ。すぐ横でレイが容態を見守っていた。フユキは無言でメスを整理する。傍らのトレイに、血と共に1個の弾丸が転がっている。

「おじさん、どう?」

 コトミが戻ってきた。彼女の身体はプラグスーツの中にあった。0号機搭乗に備えて着替えをしてきたのだ。若草色の模様が初々しさを感じさせる。

「安定してるよ。手術は成功したんだ」

 フユキの答えを聞いたコトミは、嬉しそうにベッドの傍らに駆け寄り、阿南の顔を見つめた。

「顔色が戻った。良かった。一時はどうなるかと思ったわ」

 レイが言った。「フユキのおかげ。いえ、それをフユキに仕込んだ人間のおかげだわ」

「そうですね。フユキ、ありがとう」

 フユキは頬を少し赤くした。「特に教わったわけでもないんだけど。ぼくはプログラムを実行しただけなんだ。知識とか、勘とか、長い修行を通して身に着けることを、数値化してしまった人間が偉大なんだよ。でも、あとぼくにできるのは盲腸の手術ぐらいだから、あまり期待しないでね」

「これだけできるだけでも大したものよ」コトミは小さな愛人を潤んだ目で見つめた。レイがいなかったら熱烈なキスを浴びせるところだ。

 レイは無言で床を見続けていた。実はその目は、はるか遠くのジオフロント跡地を見ていたのだ。そのレイがいきなり厳しい顔をして、ぽつりと言った。「用意して。あれが始まろうとしている」

 

 

 ターミナルドグマは融解した資材が溶岩の様相を呈し、灼熱の地獄と化していた。その赤く染まった大空洞に、天井の穴から四つの光が下りてきた。四人の使徒である。彼らはATフィールドによって熱を遮りつつ、ヘブンズドアへ直行した。それは先の大戦の際に、8号機によって破壊されていたので、鉄骨と薄い装甲版で応急処置がなされているだけだ。

 中の一人が急に速度を上げ、装甲版に突進した。使徒にとっては障子を破るも同然だった。大きく穴の開いた箇所へ、後の三人が飛び込んでいった。

 かくしてリリスと使徒の、数百世紀に亘る宿願は果たされるのである。

 

 コヨ。ワガマチノゾミシコラヨ。

 

 リリスは胴体を覆い尽くした数多の乳房を揺らし、歓喜の情を伝えた。4使徒はリリスの面前で、縦に方形の陣を作り、静止した。輝きが強まった。リリスも呼応するかのように燐光を発した。各使徒は他の三人へ光の束を放った。4使徒は光によって互いを強固に結んだのだ。彼らはいずれも微笑を湛えていた。そして厳かに地母神の胎内へ道行きを始めた。

 

 オオ、トキハミチタ。カギハイマヒラカレル。ヒトノヨ、ソシテワガオワリガハジマルノヂャ。

 

 4使徒はリリスから十数メートルの位置まで近づいた。リリスの肉体が動いた。腹の乳房が体内に引き戻され、巨大なへこみができた。そこへ4使徒は、一気に吸い込まれた。

 

 

「地上に変化!」

 シンの叫びが指令室を一気に緊張させた。

「始まったのか!?」

「セントラルシャフトからエネルギーが上昇してきます。凄い速さだ。漏出まであと5秒!」

 全員がスクリーンの衛星画像に見入った。数秒後、遂にジオフロント跡地から白いものが一気に広がった。

「アンチATフィールド感知!」

 信時が動いた。「来るぞ。ATフィールド展開!」

「了解」ベヒシュタインが素早くMONJYUにアクセスした。

 作戦指令室はとうとう始まった最終決戦に向けて、極限の緊迫感に包まれた。人類の興亡はここからの短い時間に全てが懸かったのだ。

 その時、ジオフロントの守り神たちは再び目を開けた。

 

 ワレラハタテ、ワレラハケン。ナンピトモワレラガカコイヲオカスコトナスベカラズ。

 

 ジオフロントは全体がATフィールドの厚い壁の中に入った。

「ATフィールド発生。強度3.6SU。有効距離97m。順調だ」とベヒシュタインが高らかに告げたが、指令室に安堵のムードは広がらなかった。この戦法自体が机上の理論の上に構築されたものであり、実戦に役立つかどうかの確証はなかった。

「白い雲が地上50kmに達しました。対流圏を超えて成層圏に入ります」

「範囲は拡大の一途です。円の直径3000km。既に北海道の半分が域内にあります」

 スクリーンを見守る多数の日本人は、眼前の悲劇に打ちのめされていた。あの雲の下で何が起きているのか、想像するのも忌まわしかった。多くの家族が、また恋人が、あの凶雲の底で形を失っていくのだ。せめて彼らの行く世界が平穏であることを祈るばかりであった。

「第2波来ます!」

 シンの絶叫がいよいよ戦闘の始まりが近いことを告げた。スクリーンでは白雲が動揺しているのがあからさまに見えた。そして雲塊を割るようにピンク色をしたものが盛り上がってきた。

「第2波、高度70km」

「アンチATフィールド接近。ジオフロントまであと5km」

「ATフィールドはどうか。出力はもっと上がらんのか」

 信時の問いに、ベヒシュタインは汗を垂らしながら答えた。「3.9SU。とっくに限界値だ」

「アンチATフィールド、接触します!」

 ジオフロントの下側で虹色の発光が起こった。ATフィールドとアンチATフィールドの遭遇だ。その範囲は瞬く間に広がっていく。外壁を埋めた裸女たちが七色の光で照らし出される。

 シンは爆発しそうな心臓に耐えながら、数字を読み上げた。「我が方のATフィールド、強度低下。3.5SU。3.3、3.0、2.6、2.3、‥‥2.3で安定!」

「有効距離42mに後退」とサブロウ。

「大丈夫なのか?凌いだんだな!?」信時が左右を見ながら尋ねた。

 ベヒシュタインはしてやったりという顔で宣言した。「みんな、安心しろ。ATフィールドは健在だ。生き残りの希望が見えたぞ」

 作戦指令室を歓声が飛び交った。ようやくリリスの脅威を逃れる可能性が出てきたのだ。信時はさらに士気を高めるべく、マイクを取った。

「諸君、我々は敵の邪悪な攻撃を耐えた。これから悪魔がのこのこと姿を姿を見せる。その時、我ら人類は正義の鉄槌を下してやるのだ。ロケット班は準備を始めろ」

 皆、意欲に燃えてスクリーンを見つめた。白い雲はすでに朝鮮半島を呑みこみ、中国沿海部に達していた。ピンク色の部分は、真ん中に空隙ができて黒く見え、激しく稲妻が走っている。これで全体が眼球に似た様相を呈するに至った。

「内部に巨大なエネルギー体!」

「奴が来るぞ!」

 雲の中から、白い女の背中が出てきた。

 

 

 0号機から突き出たエントリープラグのドアが開いた。コトミは先に中に入って、肩に担いだ阿南を下ろすフユキを手伝った。

「そこの隙間に置くのよ。そう」

 斜めになったプラグの中で、パンツと包帯だけを纏った阿南の体はコクピットと壁の間を滑り落ちた。まだ意識が戻って来ない。

「閉めるわよ」

「コトミ、頑張って」

「まかせなさい!」

 ドアが閉まり、取り残されたフユキにレイが声を掛けた。「コントロールルームへ。シンクロさせるにはあなたの力がいる」

 0号機用コントロールルームは作戦指令室から独立した施設で、ここからほど近い場所にある。フユキは階段を駆け下り、レイの後に続いた。レイは床すれすれを、足を動かさず滑走するように動いた。機械の操作法はレイが全て把握していた。フユキの役目は指示通りに指を動かすことだけだ。

 

 コトミはコクピットで、インダクションレバーを握りその時を待っていた。すぐ横に阿南の顔があった。夢を見ているのか、瞼がぴくぴくと動いている。コトミは何か優しい気持ちになり、その短い髪で覆われた頭を撫でてやった。この男を選んだことに微塵の後悔も感じていなかった。

『お待たせ。エントリーを始めるよ』

 フユキの声が聞こえた。コトミは座り直し、目を瞑った。

『LCL注入開始』

 プラグの底からごぼごぼと音がし、LCLが上がってきた。たちまち阿南の足、腰、そして胸と液が浸していく。そしてとうとう阿南の鼻と口を液が濡らした。

 いきなり血の味がする液体を飲み込んだ阿南は、驚愕して目を覚ました。気がつくと茶色い液の中だ。暴れて大量の気泡を吐き出し、上へ逃れようとする。

 コトミが急いで覆いかぶさってきた。阿南の目が大きく開き、上下左右に動き回った。

『落ち着いて。そのLCLは酸素の過飽和状態にあるわ。ちゃんと呼吸できるから。溺れることはないのよ』

 レイが子供に言い聞かすように声を掛けてきた。口をしっかり閉じた阿南に、コトミは大きくあーと口を開けて見せた。やっと状況を把握した阿南は思い切って口を開け、ひどい味の水を肺に吸い込んだ。

 頭がくらくらした。猛烈な不快感で気を失いそうになる。だが、それも間もなく終わり、通常の気分になった。

『LCL電化。これで普通に話せるようになるわ』

 阿南は感電するのではないかと怖れたが、当然そんなことはなく、呼吸がずっと楽になった。

「大丈夫、おじさん」

「コトミ、一体どうなってるんだ」

 阿南は体を支えてくれているコトミに、真剣に尋ねた。コトミは目を伏せてコクピットに戻った。

「ちょっと待って。これからエヴァとシンクロするから」

 予想していたとは言え、重大な言葉だった。阿南はとんでもない成り行きに恐れを抱いた。その時、やっと自分が殆ど裸だということに気づいた。

 

 

 リリスは雲海の中をゆっくりと体を起こしていた。真空も彼女にとっては心地のいい環境であった。大きく上半身を伸ばし、開放の喜びを満喫するかのようであった。

 その様子を3機の人工衛星とジオフロント自体に設置されたカメラが、異なる角度から捉えていた。作戦指令室の大スクリーンは4分割されて、それぞれの映像を映していた。奇観としか言いようのない光景に、全員呆気に取られて見入っていた。おそるべき大きさの裸の女が堂々と肢体を曝け出している。それはエロティックというよりも、畏怖さえ感じさせる眺めであった。

 サブロウが事務的に伝えた。「雲の上端から頭頂部まで、長さ2万950m」

「あれは‥‥チルドレンの顔だ!」

 一人が驚きを露わにした。どこかうっとりとしたリリスの顔、それは彼らの盾、人類の守り人であるチルドレンと同じものだったのだ。

 誰もがあまりに意外な真相を知り、言葉を失った。チルドレンとはリリスの写し身だった。

 リリスが前かがみになった。背中と足からするすると5対の翼が生え出て行く。間もなくリリスは完全な形体を取った。左右に長く伸びた10枚の羽が白銀に輝き、神性すら感じさせるうら若い女性の姿だ。それは壮麗な、圧巻と言うべき美を誇っていた。

 その間、ジオフロントは休んでいたわけではなかった。着々と攻撃の準備を進めていたのだ。

「まだ彼奴に見られていないな?」と栗林がキムに訊いた。

「あの目だけが目視手段とすればそうです」

 ジオフロントは幸運にも、リリスから死角に当たる位置にあった。

 古賀が言った。「三次元分析終了。ロケットに入力。目標、リリスの胴体8箇所。ロックオン!」

「N2ロケット8基、発射準備よし」

 栗林は強い意気込みを見せて発令した。「N2ロケット1番から8番、発射!」

「対閃光防御。目をやられるな!」

 古賀がコンソールの八つのボタンを同時に押し込んだ。次の瞬間、虹色に光るジオフロントから、8本の矢が放たれた。それらは細長い棒状の機体から後方へ炎を吐き出して、永劫の魔女へ殺到していった。

 スクリーンにリリスとロケットの相対位置を示す模式図が現れた。指令室の誰もが目をゴーグルで保護しつつ、固唾を飲んで見守る。

「着弾まであと5秒、4、3、2、1、着弾!」

 刹那、リリスの全身を強烈な光が覆った。光はスクリーンを通して指令室を極度の明るさで照らした。3万度の高熱がリリスを焼いているのだ。たとえリリスと言えども、蒸発しないはずはなかった。

 発光は長く10秒近くまで続いた。みな一様にリリスの消滅を祈っていた。そして光が消えた時、スクリーンに広がる光景は一変していた。

 白く長い翼が四方八方へ散っていくのだ。リリスの本体はどこにも見えない。

「目標破壊。跡形もありません」

 シンが告げた。「アンチATフィールド消失しました」

「全部か!?」と栗林が勢い込んで訊いた。

 シンが機械をコントロールしてセンサーの範囲を極限まで広げた。反応はゼロだ。

「地表のどこにも感がありません!」

 ジオフロントを包んでいた虹色の光はいつの間にか消え、茶色の斑点を持つ表面が露わになっていた。

 指令室で歓喜が弾けた。手を叩く者、涙ぐむ者、万歳を叫ぶ者、各人各様の仕方で喜びを表した。栗林もキムや古賀と抱き合って喜んだ。ベヒシュタインはブーランジェと固く握手をした上に、頬にキスまでしてやった。

 信時は満面に笑みを浮かべ、勝利の喜びと開放感に浸っていた。ベヒシュタインが近寄ってきて手を差し伸べた。信時はその手をがっちり握った。

「やりましたね。研究は正しかった。アンチATフィールドを展開している間は裸同然だったんだ」

「あいつが隙を見せるのはこの瞬間しかあり得なかった。クロス・カウンター作戦は大成功だった」

「しかし、東アジアは壊滅しました」

「人類全体にとって必要な犠牲だったということか。だが、日本はまだ滅びていない」

 ベヒシュタインは西園寺のことを思い出した。信時が何を考えているのか、警戒心を抱いた。

「ともかく我々は孤児にならずに済んだということですね」

「そうだな。バイオスフィアでもあるジオフロント。誰もいなくなった地球に人類を戻すためのゆりかご。Cradleか。そんな役目は私に向いてないよ」

「どうあれCradle計画は終わりました。苦い結末ではありましたが」

「フォースインパクトを看過し、自分たちだけが生き残る。人類存続を図るためとは言え、醜い行為だった。リリスを斃せたから良かったものの、そうでなかったら、私はノアになるところだった」

 指令室の祝賀ムードは続く。誰もが持ち場を離れ、話し声と笑い声で充満していた。ベヒシュタインに代わって栗林が信時の方に寄ってきた。彼は一時の興奮から醒めていた。

「おめでとうございます。総司令代行」

「ご苦労だったね。どうした。あまり嬉しそうじゃないな」

「祖国がなくなったんです。はしゃぐ気になれません」

「いや、これから我々が日本人民共和国を再興するのだ。その方策はある」

「たった千人あまりの我々に何ができるでしょう。武力をもって威張り散らしたところで、それは国家の態をなしているでしょうか」

 信時の額に青筋が立った。「我々東アジアの人民は、たまたまリリスの巣があったために、とんでもない貧乏くじを引いた。不公平が過ぎるというものだ。それを是正しようというのは当然だ」

「少なくとも四千万人が消えてしまいました。キムも国をなくした。結果、十九億七千万人が生き延びた。そのことはいい。ですが我々は忘れてはいけない。彼らを見捨てて空に逃げ出したということをです。守るべき立場の者が、人民を残したまま、城を捨てて逃げたんだ。このことは永久に歴史に刻まれるんです。我々は恥じるべきだ」

「違う。そもそも逃げたのではない。戦術的撤退なのだ」

「下にいた人間たちはそう思ってくれるでしょうか」

「君とは意見が合わんようだな!」

 信時は厳しい目で栗林を睨んだ。栗林は議論に嫌気がさしたか、無言のまま敬礼をして立ち去った。サブロウが物言いたげに後ろに控えていた。

「総司令代行。報告があります」

 信時は常にクールなサブロウが来たことを不思議に思った。「どうした?珍しいな」

「みんな、私の話を聞いてくれなくて。雲の下にエネルギー反応が出ました。次第に勢力を増し、上昇してきます」

「なんだと」信時は訝しげに、手元のコンピューターを操作した。モニターに出た画像を見て、顔から血の気が引いた。ごくりと唾を呑みこみ、サブロウに言った。「これを大スクリーンへ。急げ!」サブロウが駆け出した。信時は立ち上がってマイクを取り、喜びに沸く一同へ冷や水を浴びせるべく声を放った。

「諸君、まだ喜ぶのは早い。リリスはまだ死んでいない!彼奴は復活して昇ってきているぞ!」

 指令室に突如空白が訪れた。誰もが信時の言葉が信じられず、放心したように立ち尽くした。

「スクリーンを見ろ。持ち場に戻れ!」

 信時の一喝によって、全員が大スクリーンを見やった。そこに映された三次元グラフは、中央部分がぐんぐんと盛り上がりを示している。

「戦闘再開!みんな気を引き締めろ!」栗林が自席に駆け戻りながら叫んだ。指令室は座席に戻る人々の足音で騒然となった。

「敵の高度は?」

「高度62km!近づいてきます!」

「衛星の画像をよこせ」

「敵ATフィールド感知!」

 オペレーターのペトロワはこの混乱の中で、0号機に電源が入り、エントリーを試みる者がいることに気づいていた。しかし、差し迫った脅威と比べれば些細なことにしか思えず、誰にも報告しようとしなかった。

 

 

『シンクロ率18.8、20.1、21.0、17.4、16.6‥‥』

 フユキが告げる声はコトミを落胆させた。これまで5度も試みたものの、シンクロ率が一向に伸びず、臨界点に達しないのだ。普段は楽にクリアしているのに、今回だけはなぜか伸びていかない。コトミはヘッドレストに頭をもたれされ、口から泡を一つ出し、回りに広がる仮想空間を見渡した。かなり時間が経ったにも拘わらず、発着場に侵入してくる者は誰もいない。

『コトミ、しっかり』

「しっかりしてるわよ!」

 つい苛立って、フユキに大声を出してしまった。阿南は何の手助けもできず、成り行きを見守るだけだった。

『異物が混ざりこんでいるせいよ。コトミ、落ち着いて。もう一度350からやるわ』

 レイが落ち着いてコトミに指示した。コトミはまた目を瞑り、精神集中に入った。

 そうなると阿南は声をかけることもできない。問い質したいことは山ほどあった。だが、今それどころじゃないということは、直感で分かっていた。

『阿南さん』

 レイが突然語りかけてきて、阿南はどきりとした。「な、何か?」

『石になって』

「石?」

『無念夢想。禅を知ってるでしょ。何も見ず、聞かず、考えない。難しいかもしれないけどやってみて』

「分かった。やってみる」

 と答えてはみたものの、阿南はこの状況下で無の境地に入る自信はなかった。とりあえず目を瞑り、体の力を抜いては見たものの、心臓の鼓動は速く大きいままだった。

 

 

 指令室のスタッフは、喜びの反動による深い絶望に捉われながら大スクリーンを注視していた。誰もが言葉数が少なくなっていた。ようやく訪れた試練からの開放が、幻となった時の辛さは言いようのないものがあった。

「使徒が近づきます。高度75km。じきに雲から顔を出すはずです」

 作戦部45名の目がゆらめくピンク色の雲に集まっている。その雲が大きく乱れ、次の瞬間、巨大な雲の柱が立ち上がった。

「出てくるぞ!」

 柱の頂点が割れ、中から現れたのは、誰もが予想した女の体ではなかった。白く丸みを帯びた円柱状の塊なのだ。頂点にいくつもの大きな泡のようなものが盛り上がり、その上にまた泡が積み重なる。

 ベヒシュタインが乾いた声で言った。「再生している」

 泡の塔はどんどん高さを増していき、成層圏を超えた。リリスの人智を絶した生命力は、見る者に恐怖を与えずにおかなかった。

 信時が一座を覆う暗雲を払うように声を張った。「またやられに戻ってきおったわ。挨拶代わりにN2ロケットを一本お見舞いしてやれ」

 古賀とキムが直ちに準備を始めた。3分と立たずに発射の手はずが整った。

「ロケット発射口3番開口」

 ジオフロントの赤道近くに、一個の小さめな穴ができた。

「N2ロケット3番発射!」栗林の号令によって、小型ロケットが発射口から飛び出した。ロケットは屹立しつつある柱に向かって直進していく。

 また一つ、巨大な光球が宇宙空間を照らした。リリスを灼熱が襲った。3秒間持続した光球はいきなり消え去る。しかし、眼球保護用のゴーグルを外した一同が見たのは、何事もなかったように泡を発生させていくリリスの姿だった。

「強い!」信時がうめくように言った。シンが裏づけの数字を読み上げた。「ATフィールド強度、10.2SU」

「10.2ですって!」ブーランジェが深刻な顔をして言った。かつていかなる使徒も計測させたことのない強さだった。

 息を呑む音が聞こえた。スクリーンを見上げる指令室のスタッフは、多くが恐怖のとりことなっていた。誰かが机の上のものを床に落とし、大きな音が立った。

「うろたえるな!」と信時が叫んだ。彼は二重螺旋のシンボルを背にして立ち上がり、檄を飛ばした。「我々には攻撃手段がある。ロンギヌスの槍を忘れたか。最後まで戦うのだ!」

 栗林も雄々しく指示を発した。「動力を赤道部に回せ。固定ロンギヌス8本、宇宙空間に押し出せ」

 キムが直ちにコンソールを操作した。「予備原子炉の電力を全て投入します」

 信時はずっと立ったまま、部下を鼓舞し続けた。「安心しろ。こういう事態も想定の範囲内だ。ATフィールド何するものぞ。ロンギヌスの前では、紙も同然だ!」

 指令室に活気が甦った。まだ人類の命脈は繋がっている。リリスと人類、どちらが勝利を得るか、まだ決まっていないのだ。

 ジオフロントの赤道部分は、殆ど人の出入りのない、開かずの間とも言える地区だった。この場に常駐するのは、数台の保守点検用ロボットだけであった。作戦部と技術部の一部だけが、秘密の空間となっているこの部分の真実を知っていた。そこは8本の、放射状に据えられた超大型のロンギヌスが配置された場所だったのだ。槍一本の長さは実に1.72km。太さは直径29mに及んだ。槍は壁から突き出た長さ150mの大建屋の中に先端を隠していた。それらは全体にねじ山が刻まれ、雌ねじを備えた建屋と連結している。ドライバーに当たるのは、槍を中に包み込む28台の巨大なモーターであった。リニアモーターの原理で槍を回転させる仕組みである。8本はいずれも同じ機構を備えている。

 前ぶれもなく全224台のモーターにスイッチが入り、重低音が大空間を満たした。ロンギヌスの槍が回転を始めた。究極の対使徒兵器は、急速に外へ向かって前進していく。

 一台の衛星がジオフロントの外観を捉えていた。栗林はそれとリリスを交互に観察していた。

「ロンギヌスの槍、順調に展開しています」とキム。

 ジオフロントの赤道から8本の槍が突き出ていく。それはまるで単細胞動物が、攻撃用の刺を伸ばしているかのような光景であった。

 リリスは下半身が既に完全な再生を遂げていた。上部では乳房が外観を整えつつある。そのさらに上では頭部らしき形ができつつあり、肩からは二の腕に当たる部分が伸びていた。突如、未完成な頭部で片目が開いた。その真っ赤な瞳が怒りを湛えてジオフロントを直視した。

「ATフィールド消失?」

 シンが意外な変化を告げた。栗林らは訝しげにスクリーンのリリスを見た。

 モニターを注視していたシンが、いきなり切羽詰った声を上げた。「アンチATフィールド!これは!凄い速さで向かってきます!」

「拡散しているのか?」と栗林。

「いえ、収束してます。アンチATフィールドのビームだ!」

 信時が叫んだ。「こちらのATフィールドは!?」

「最大出力を維持してる」とベヒシュタインが答えた。

「耐え切れるか!?」

「分からん。後は祈るだけだ」

 スクリーンに押し寄せるアンチATフィールドとジオフロントの模式図が現れた。両者の接触までにはほんの数秒しかなかった。

「接触します!」

 ジオフロント全体が虹色の光で覆われた。その輝きの強さは前回の比ではなかった。極彩色の縞模様がジオフロントの表面で乱舞する。

「強度低下。2.4、2.1.1.9.1.5‥‥‥‥」

「有効距離35m、29m、20m、‥‥‥‥」

 乙女たちの展開するATフィールドは急速に削り取られていった。リリスとジオフロントの力勝負である。人類生き残りが懸かった数秒間が過ぎていく。指令室ではシンとサブロウだけが声を上げ、他は一言も発さずスクリーンを見つめていた。

「0.9、0.6、0.4」

「15m、11m、8m」

 二人の発声が止まった。指令室は重苦しい静寂に包まれた。

「0.4で動きません」

「有効距離、7mのまま」

 勝ったのか。指令室のスタッフはまだ勝利を確信しなかった。次の瞬間にどう転ぶか分からないと感じていた。その緊張を破ったのはシンの一言だった。

「アンチATフィールド消失!」

 ジオフロントを覆い尽くしていた光彩が、忽然と消えた。指令室に再び喜びの時が訪れ、どっと湧き上がった歓声が室内を満たした。

「ロンギヌスの槍、準備完了」

 キムの報告に、信時は生気の戻った顔を上気させて命令を下した。

「ようし、反撃開始だ。ジオフロントごと突撃するのだ!」

 部下たちは声高く返事をして、特攻の準備にかかった。それは最終にして最強の攻撃手段である。

 その頃、リリスの体は頭部を完全に回復していた。だが両腕の伸長は肘の手前にとどまっていた。

 信時がマイクを掴み、全館に向けて放送を始めた。「諸君、我らの長い戦いは遂に最終段階を迎えた。案ずるな。我々は勝つ。これよりリリスに向かい体当たりを敢行する。ロンギヌスの槍が、悪魔の息の根を止めるのだ。したがって一時強い横Gがかかる。床に伏せろ。何か固定したものに掴まれ。怪我をしないよう万全の注意を払うこと。以上だ」

 

「仕方ない。一時中止」

 レイがフユキと0号機の中のコトミに言った。彼らはまだシンクロの試みを続けていたのだ。フユキは席を立って、部屋の隅にあるガス管に摑まった。

 コトミは放送の内容に戸惑いを覚えていた。人類は勝つのか。それはファーストチルドレンの予言とは違っていた。自分たちの苦労は水の泡になるかもしれない。しかし人類の未来が拓けるのなら素晴らしいことだ。心から人類の勝利を願った。

 阿南は混迷状態のままでいた。コトミとファーストチルドレンの意図がなんなのか、全く掴めていなかったのだ。この間を利用して問いただそうと思い、呼びかけてみた。

「ファーストチルドレン、聞こえますか?」

 返事は一向に返ってこなかった。

 

 スクリーンにリリスとジオフロントの相対関係を示す三次元画像が現れた。並んだ四角の枠が想定のコースを示した。

「突入軌道確定」

「液体水素移動終了。ロケットエンジン推力確保」

「リリスまで到達時間19.3秒」

「体当たりの準備、完了しました」

「カウント20から開始します」

「総員に達す。これよりカウント20でジオフロントは急加速を行う。各自対策を取れ」

 信時は命令を待つ栗林に向かって頷いた。栗林は「突撃開始」とシンに命じた。

「高速移動まで19、18‥‥」シンがカウントする声は全館に流されていた。

 この時、リリスは不完全な腕のまま、ジオフロントと真っ向から対峙していた。ATフィールドは既に展開している。しかしジオフロントが何を仕掛けてくるか、予測しているようには見えなかった。

「3、2、1、突撃!」

 ジオフロントの片面に配置されたロケットエンジンが火を吹いた。瞬間、ジオフロントの内部は慣性による大波が荒れ狂った。数本の木が音を立てて倒れた。幾人かの不用意な人間が壁に叩きつけられた。床に伏せた者たちはずるずると横に移動し、壁際に何人もが圧縮された。棚や机から零れ落ちた什器備品は数限りない。この大混乱のさ中、指令室のスタッフは机にかじりついて任務を遂行していた。

 この試練は長く続かなかった。ロケットエンジンが止まり、ジオフロントは等速度運動に入ったのだ。後は衝突コースを進むジオフロントに委ねるのみだ。

 リリスはようやく完全に再生された腕を上げにかかった。だが、その動きは極めて鈍い。暗い色の球が、リリスの胸目がけて突進して行く。

「見ろ、あののろい動きを!こちらが断然速いわ。もう勝ったも同然!」信時は興奮して叫んだ。彼は勝利を確信した。「見ろ、リリス。我々は『心』を作った。人類こそ神なのだ!」

 槍の先端がATフィールドに激突した。反動でジオフロントは大揺れに揺れた。リリスの前僅か90mで、数十キロにも及ぶ干渉縞が宇宙空間に広がる。またロケットエンジンが点火され、ジオフロントは圧力を増した。そして机にしがみついた信時は見た。槍が敵ATフィールドに食い込むのを。

「貰った!我々は勝つ!!」

 彼は高揚の極にあった。槍は見る見るうちにATフィールドの内部に侵入していく。人間たちは長年求め続けた勝利と開放の瞬間を待った。

 リリスの口元に笑みが浮かんだ。

 槍の切っ先がリリスの胸元に突き刺さろうとする。その瞬間、スクリーンが真っ白になった。

 ATフィールドが消え、支えのなくなったジオフロントは急激に直進した。槍が刺さるべきものがなくなっていた。あろうことか、リリスは跡形もなく消滅したのだ。

「なんだ。どうなったというのだ!」信時は叫んだ。答えを返す者はいなかった。みな眼前の信じ難い光景を、息を呑んで見守るばかりだ。

 サブロウがいち早く現状を伝えた。「ジオフロントは現在、白い雲の中にあります。我がATフィールドに付着物」

 ジオフロントのカメラが捉えた映像は、付着物と干渉を起こすATフィールドだった。非常に細かく、白いもので覆われているために目立たなかった。

「画像を拡大して!」

 ブーランジェがシンに指示した。急速にクローズアップされた映像は、誰をも震撼とさせずにはおかなかった。

 白いものはすべてリリスの形をしていた。ジオフロントのATフィールドに、数百万と思える裸のリリス=チルドレンが貼り付いているのである。

 ベヒシュタインが叫んだ。「馬鹿な、あれが全部リリスだというのか!」

 リリスは槍が接触する瞬間、数兆の個体に分裂した。細胞一つ一つが人間大のリリスになったのだ。それらは爆発的に宇宙空間へ広がっていた。ジオフロントは大リリスの名残である霧の中を前進しているのである。

 信時は口を開けたままスクリーンを見やるばかりであった。誰もがどう対処していいか分からず、顔を強ばらせるだけで動きを見せなかった。

「ATフィールド内に異物!」

 古賀の絶叫が響いた。スクリーンに新たなウィンドウが開き、模式的に表された異物が映された。端の円はジオフロント、近づきつつある点が侵入したばかりの異物だ。その外側にATフィールドに接して厚いベルト状に固まっているのが、微小リリス群である。

「まさか、ATフィールドを破られた?」

「いや、そんなはずはない。中和されたならセンサーが反応するはず」

 とベヒシュタインとブーランジェが議論する間にも一個、また一個と侵入物が現れる。それがある瞬間から一気に増え、フィールド全体から数え切れないほど入り込んでくる。

「あれを見てください!」シンがスクリーンを指して叫んだ。

 ジオフロントのカメラが、今まさに侵入しようとしているリリスをアップで捉えている。そのリリスは腕を伸ばし、ATフィールドの中に手を入れた。その場に縞模様ができる。その個体は両手で模様を、いとも簡単に左右に割ってしまい、体を入れてきた。

 ベヒシュタインが呆然としながら呟いた。「中和じゃない。侵食だ」

 

 ATフィールドを侵す個体は加速度的に増えていく。中の一人が外壁に達した。それはLCL槽の中の裸女とアクリルごしに対面した。中の亜チルドレンには何の反応もない。女はきょとんとした顔でしばらく眺めたあと、そこを移動して外壁に触った。その女は楽しそうに笑い、壁をなす金属の中に体を溶け込ませていった。

 リリスは容易く分子構造を変え、固体に浸透する能力を持っていた。早や数百人のリリスが裸身を外壁に潜り込ませていた。ATフィールドの内側は、泳ぎ来るリリスによって、雪の降る冬景色の様相を呈した。

 

 

 綾波レイは今起こりつつある悲劇を知り、無念を滲ませて目を瞑った。フユキは様子の変わったレイを不安げに見上げた。レイはマイクを通してコトミに語りかけた。

「コトミ、聞いて。ジオフロントはやはりフォースインパクトから逃げられなかった。最初の予定通り計画を遂行するわよ」

『まさか、敗けたんですか?』

「そうなの」

『ファーストチルドレン、何があった!?僕をどうする気だ!?』

 阿南の切迫した声が聞こえてきた。彼は早口で矢継ぎ早にレイに問い詰める。レイは答えずフユキに言った。「LCLの圧力を70まで上げて」

 フユキは訳も分からず、言われた通りにキーボードを叩いた。

 

「ファーストチルドレン、聞こえているんでしょう。答えてください。全体、これはなんなんですか。人類は滅亡するんですか?」

 阿南は堰を切ったように喋り続けた。コトミは何も言えず、切なげに彼を見つめるだけであった。

「戦いはどうなったんですか?リリスが来るんですか?げぷっ。あれ、何だ。様子が変‥‥」

 急に息が苦しくなった。コトミも同じ苦痛を感じ、体を引きつらせた。

「大丈夫か、コトミ。しっかりしへふへ‥‥」

 阿南はコトミに腕を伸ばして気を失った。「おじさん」あせったコトミは体をずらして彼に呼びかけた。その時、すっと呼吸が楽になった。ほっとしながら何度も深呼吸をして体を慣らした。

『コトミ、彼を起こさないで』冷徹なファーストチルドレンの声が聞こえてきた。

「あの、今のは」

『普通の人間に今の圧力は耐えられないでしょ。意識がなくなったおかげで、シンクロの邪魔ものがなくなったわ』

 コトミは阿南を気の毒に思いつつ、レイの機転に納得した。兎に角今はシンクロを成し遂げなければならない。ちょっと怖い人だとも思った。

『350からスタートよ。準備して』

 コトミはコクピットに座り直して瞑目した。

『コトミ、気をつけて!』急にフユキの声が響き、集中が途切れた。目を開けた途端、裸の白い女たちが漂ってくるのを見た。その顔を見てあっと声を上げた。誰もがチルドレンの顔をしているのだ。コトミは真っ先にキヨミやマサコを思い浮かべた。

『コトミ、あれはリリスなんだよ!』

 あまりに意外なフォースインパクトの真実に呆然とするコトミ。女たちは群がって0号機の回りに集まってきた。それと接触すると何が起きるか、コトミは大まかな知識を持っていた。それはすべての終わりを意味していた。

「寄るな!」

 大喝と共に、リリスの群れの前に忽然と現れたのはレイであった。彼女は全身から青白い燐光を放っていた。驚いたリリスたちは空中で動きを止め、レイを遠巻きに見つめた。

「リリス、ここは私のなわばり。あれは私のものよ。どこかよそに行って!」

 リリスたちは戸惑いを浮かべてレイを見ていた。やがて一人、二人とそこを離れて行き、天井の中に吸い込まれていった。女たちは続々と後を追っていく。ほどなく発着場からリリスは消えた。

 レイはその様子を眺め、事態が落ち着いたと見るや、向き直ってコトミに言った。「ひとまず危機は去ったわ。シンクロスタートよ。私はしばらくここにいるから、安心して」

 フユキはいそいそと機械の操作にかかった。コトミは感謝の目をレイに向けてから、しっかりインダクションレバーを握り締め、集中に入った。

 

 

「侵入やみません。もう数え切れない!」

 古賀が汗びっしょりになりながら告げた。栗林を弱気な目で見る。栗林は椅子にどっしりと腰を落とし、何も言わなかった。信時もすべてを投げ出した顔をしていた。作戦指令室は深い疲労、絶望と諦めが支配していた。彼らにできることはもう何も残っていなかった。逃げる場所すらなかった。

 

 

 空洞部平面を警備していた者たちは、天蓋全体から白いものが滲み出てくるのを、呆けたように見ていた。大空間を軽やかに飛びまわる白いものたち。その光景は冬の始まりを告げる雪虫の乱舞にも似ていた。雪虫は次第に数を増し、天蓋を覆い尽くす。そして、それらが下りて来るにつれて、彼らは知る。白いものの一つ一つが同じ顔をした女の姿をしているということをだ。補完の恐怖に震えた彼らは、少しでも永らえようと中心に向かって走り、地下へ逃げた。逃げ遅れたある者は、諦めて棒立ちになり、またとない不思議な風景を眺めた。それは本で読んだことのある冬の景色に似ていた。そのあまりの美しさに恍惚となり、白い世界の美に包まれながら最期を迎えた。

 

 

 西園寺終身大統領は専用シェルターで、愛人の一人と過ごしている時、壁をすり抜けてきたリリスと会った。シックな和服を着た愛人は、悲鳴を上げて西園寺にしがみついた。彼は日頃の権威もどこへやら、女を突き放し、奥の一室に逃げ込んだ。が、そこにはすでに十人近いリリスが待ち構えていた。逃げ惑い、壁に追い詰められて泣き叫ぶ西園寺に、リリスたちは艶麗な笑顔を見せながらまとわりついた。魔女の柔らかい指先が頬を撫でる。それだけで彼の肉体は液相へ転移していった。

 

 

 シェルターで起きたパニックは凄惨なものであった。逃げ惑う人間たちをリリスの大群が追いかけまわした。次々と液化していく人間を見た者は、恐怖の叫びを上げて走り回る。無駄な努力だった。ある者は肩を叩かれ、ある者は正面から抱きつかれて形体を失っていった。リリスの唇を感じた幸運な者もいる。床に刻々とLCLが溜まっていき、人間が走るたびにちゃぷちゃぷと音が立つ。濡れた服に足を取られ、転倒した男の上に裸身が積み重なり、軽い水音が起こる。

 その中で途方に暮れて立ち竦む者もいる。人ならぬアンドロイドであった。彼らに対するリリスの態度は冷たかった。さげすむような視線を送るだけで、近づくこともしなかった。長身の男アンドロイドの背中に隠れる人間もいた。しかしその効果はなく、アンドロイドの服がLCLまみれになった。

 相沢はシェルターの片隅にどっしり腰を下ろして、魔法のような光景を眺めていた。無駄にあがく気は失せていた。胸ポケットから取っておきの煙草を取り出し、口にくわえて火を点けた。じっくりと最後の味を楽しむ。リリスが三人連れ立って相沢のそばにやって来た。彼はその美しい肢体を目に焼き付ける余裕があった。一人の顔めがけて煙を吹きかけてやった。構わず三人は相沢を押し包むようにする。そこから、煙草が水に落ちるジュッという音が立った。

 

 

 チルドレン専用シェルターでも悲劇は起こった。

 壁から、天井から、床から、チルドレンの顔をしたリリスが侵入してくる。マサコが死の世界から甦り、自分たちを迎えに来た。そう感じるチルドレンも多かった。あっという間に秩序が乱れ、シェルターは悲鳴が充満した。教官たちが真っ先に犠牲になった。数人のパートナーがリリスの群れの前に立ち塞がったが、効果を上げることはなかった。押し止めようと手を出しても、体を素通りするだけなのだ。パートナーのボディに易々と侵入し、反対側から抜け出るリリスもいる。

「ねえさん、いや、連れてかないで」

 パートナーに抱きつき震えるチルドレンの背中に、リリスが密着する。瞬時に液化したチルドレンのLCLが、パートナーの顔を濡らす。

 よちよち歩きのチルドレンが歩み出て一人のリリスに近づく。彼女は何も知らないのだ。リリスは優しく頭を撫でて抱き上げてやった。その腕の中でLCLが弾けた。

「来ないで、来ないで!」

「ねえさん、ねえさんなの?」

「いや、いや。助けて、キミヤ」

「ミユ、ミユ!」

 パートナーたちは、ただ愛する者を抱き締めて最期を看取るだけであった。シェルターの床にLCLが広がっていく。生命が消えていき、ずぶ濡れになったパートナーが残る。10分と経たぬ間にチルドレンの補完は終わった。リリスたちはたちまちのうちに引き上げていった。後には思う存分悲嘆に暮れる22人のパートナーが残った。泣く能力のない彼らは、哀切なうめき声を伸ばして悲しみを表した。

 LCLの池には、人間が精一杯の好意を示した可愛らしい洋服がいくつも浮かんでいる。それらにまとわり付くように、真四角のLSIがあちこちに見える。それがチルドレンの真の形見であることを知るパートナーはいない。

 

 

「リリスが来る。あと1層。もうお終いだ!」

 古賀はそう告げると、ヘッドセットを机に投げ出し、天を仰いだ。途端に女子オペレーターの絹を裂くような悲鳴が起こった。床からリリスが顔を覗かせたのだ。

 古賀は机に足を投げ出してサブロウに言った。「アンドロイドで良かったな、おい」

 サブロウは珍しく深刻な顔をして首を横に振った。「今、私はとても悲しんでいます」

 作戦指令室に数人のリリスが浮かび、優美な裸身を見せつけた。それを指差して笑い出したのは、キムであった。彼は心から可笑しそうに笑い続けた。彼に寄り添ってきたリリスも楽しそうだ。キムは大笑いを残して還元されていった。古賀も間もなく後に続いた。

 

 数をどんどん増してくるリリスを、ブーランジェは憎らしげに凝視していた。シンは既に逝った。彼女の前にも数人が近づいてくる。彼女は何も言わず机の引き出しを開けた。中から自動拳銃を取り出す。彼女はリリスを睨みながら、銃口を自らのこめかみに当て、引き金を引いた。脳漿と血をぶちまけて博士は絶命した。傍にいたリリスたちはちょっと目を丸くしただけで、その場を離れた。

 

 栗林は近くのロッカールームで、自分用のロッカーを開けた。着替えではなく、中のものを取り出すためだ。それは、見事に造られた日本刀であった。彼はそれを持って廊下に出、刀身を抜き放ち、鞘を捨てた。指令室に戻った彼は、驚くべき数になったリリスを見た。彼はおじける風も見せず堂々と中に入った。たちまち十人前後のリリスが彼に近づく。彼は剣を大上段に構え、裂帛の気合を放ってその群れの中に突っ込んだ。すぐに姿が見えなくなる。合間から激しく振られる刀が見えた。そして金属が床に落ちる、澄んだ音が聞こえた。

 

 ベヒシュタインは淡々として、その時を待っていた。回りの者たちが続々と補完されていく。彼は順番待ちの心境にあった。数個の紅い目が彼を捉えた。

「許してくれ。すまなかった」

 彼は迫り来るリリスたちに向かって言った。リリスたちは特別反応もせず、ゆっくりと笑いながら彼の傍に来た。

 その間を押しのけるように、小さな裸の少女が走ってきて、彼の胸にむしゃぶりついた。

「エリーゼ!」

 彼はこの来訪を心から喜び、笑って少女を抱き締めた。ベヒシュタイン博士はこうして補完後の世界へ旅立っていった。

 

 信時は指令室最上段の総司令席で、眼下の修羅場を眺めていた。人類の代表として見苦しい態度を取りたくなかった。最期は堂々とありたい。

「君たちは、私をどこに連れていくのかね?」

 リリスたちが彼の回りを取り囲んだ。机の上にリリスが乗る。彼はそのアップにまとめた髪型に見覚えがあった。

「マサコか。君が来るとは」

 マサコが信時に抱きついた。意外な行動に彼は驚く。が、マサコの口が求めたのは彼の唇ではなかった。顔をずらして首筋を噛んだのだ。肌を噛み破られる苦痛に彼の顔が歪む。早く終わってくれと願った。2秒後、願いが叶い、信時総司令代行は水音を立てて形をなくした。総司令の椅子には胸に勲章を飾った、見映えのいい制服が残った。

 

 

 地球の表面では、はるかに大規模な現象が起こっていた。

 本格的なアンチATフィールドの拡散が始まったのだ。それは瞬時に音速を超え、人々を考える間も与えず液化させていった。大陸は無数の十字架型に光る墓標で埋め尽くされていく。白を基調に、赤や青や緑や、極彩色の十字架が立ち上がり、LCLが空へ舞い上がっていく。光の絨毯は瞬く間に中央アジアに達した。宗教も、肌の色も関係なく、およそ人と名のつく者はこの大津波から逃れることはできなかった。

 内戦は突如として終わりを迎えた。国境は意味をなさなくなった。かつて人と人を遠ざけていた差異は等しく平均化され、茶色い水のまどろみの中に溶けていった。

 朝の食卓で、夜のベッドで、商談の席で、恋人同士の語らいの場で、人体は爆発的に液化して吹っ飛んだ。悲鳴を上げる者も少なかった。交通事故が頻発し、火災が巻き起こった。消し止めようとする者はいなかった。火はたちどころに燃え広がり、文明世界は焼失の危機を迎えた。

 アンチATフィールドの猛威が地中海に達しようとする頃、脅威は北米大陸に上陸した。人口稠密地域ほど光の乱舞は甚だしかった。かつて覇権を唱えた国民たちが、その理想の通り一つになるべく、相転移の大波に呑まれていった。

 上昇したLCLは高空で雲と混ざり合った。立ち込めた雲はどれもが赤い血の色になった。無人となった世界に赤い雨が落ちる。それらは下水を通り、川へ下った。どの川も紅い水が流れた。それらはやがて海に達し、沿岸を赤い色で染めていくのだ。

 爆心地付近で壮大な光景が展開した。天から雲を割って、まるで人類への断罪の槌であるかのように、巨大な白い塊りが降りてくるのだ。それは無数のリリスの集団であった。彼女たちは地表近くに達すると、あらゆる方向へ拡散し、世界中へ散っていった。光彩陸離たる光の上を、開放の喜びを表しながら、楽しげに飛んでいく。混沌を極める地表を、白色の天使が覆い隠してしていく。

 終焉を迎えた世界にあって、活動する者が消えたわけではなかった。ロボット、人口知能、そしてアンドロイドたちだ。彼らは目前の現象に戸惑うばかりであった。仕えるべき主人が消えてしまったのだ。命令を下す者が誰もいなくなるなどという事態を予測してプログラミングされていない。アンドロイドたちはとりあえず身を守る行動を取るだけで、後は馬鹿みたいに突っ立っているだけだ。無数の光の柱、舞い上がるLCL、空を埋め尽くす裸女を彼らは見る。そして今日限り世界は終わるのだと認識を確かにする。

 アンチATフィールドの波は、遂に南米大陸のリオデジャネイロに到達し、その地で大西洋を渡って来た波と合流した。地球上にアンチATフィールドの洗礼を受けていない場所は最早ない。宇宙から見た地球は、昼の部分は一際明るく、夜の部分は満艦飾の光で華麗に染め上げられていた。光の下、自我を脳内ATフィールドによって肉体に繋ぎ止めていた知的生命は、一つ残らず異なる位相へと散華していた。

 こうしてフォースインパクトは完成したのである。それは驚くほど静かな世界だった。せいぜい火災に伴う爆発音が、騒音と言えるものだ。屋外で人声を発するのは、街角の信号機や、商店街の宣伝放送だけだった。つけっぱなしの音楽メディアは、時間が経つにつれ停まっていった。受け取る者のないまま賑やかに娯楽を提供するテレビも、時が経つと砂嵐を流すだけになった。アンドロイドたちはふらふらと彷徨いながら、自分に指針を与えてくれる人間を探した。彼らは生産後初めての孤独を感じていた。

 

 

 阿南はふと目を開けた。意識が戻ったのだ。依然としてLCLの中だ。彼は身を起こしてコクピットを見た。プラグスーツのコトミがじっと前方を見つめている。

「コトミ、どうなった?」

 コトミははっとして阿南を見、笑みを浮かべた。「おじさん、気がついたのね」

「死んじゃいないようだね。どうなったんだ?説明して」

「あれを見て」

 コトミは前方を指差した。視線を向けた途端、阿南は度肝を抜かれた。

 雪白の女たちが重力を無視して飛び交っている。赤い瞳が一際目立つ。空中の泳ぎを楽しむ裸の女たち。そのどれもがチルドレンの顔をしているのだ。阿南は放心したように、そのこの世のものとも思えぬ光景を見つめた。

「あれは‥‥リリスなのかい?」

 コトミはこくりと頷いた。「うん。ヒトはリリスと戦ったけど、リリスは無数の個体に分裂したわ。もうどうにもできなくなった。ATフィールドを破って侵入してきたの。後は‥‥言わなくても分かるよね?」

 深い衝撃と悲しみが阿南の頭を垂れさせた。目の端から涙の粒が現れ、LCLの中に小さな球となって浮かんだ。コトミは両手に顔を埋める阿南に声を掛けるのを躊躇った。しばらくは阿南を泣くままにしておいた。

「どうして僕はここにいる?」

 阿南の方から声がかかったのは有難かった。口調はわりとしっかりしている。彼女は説明を始めた。「おじさんが気絶してから、シンクロをやり直したの。やっとうまくいったのよ!今、わたしは0号機と一体になってる。動かしてみるね」

 0号機の両腕が上がり、親指が立った。そしてその腕を景気良く上下に振り、腰を左右に揺らした。「イェイ、イェイ」コトミは明るく掛け声を出した。暗い阿南を少しでも元気づけようとしたのだ。

「えへへっ、すごいでしょ」

 阿南は口をぽかんと開けているだけだった。

「一旦シンクロすれば、余程のことがない限り、この中は安全なの。LCLと一体化してるようなものだから。あいつらにはわたしたちが見えないし、アンチATフィールドも無効になるわ。まあ、おじさんの意識があるとハーモニクスは乱れるけど、シンクロ自体にあんまり影響はないの」

「どうして僕を助けた」

 阿南の声には詰問の調子があった。コトミは一瞬口ごもったが、意を決して話した。「なぜって、助けたかったから」

「僕だけをか?あんな冒険をしたのは僕一人を生かすためなのか?」

「そうよ。ここに入れられるのは、わたし以外に一人が限度だから」

「どうして僕なんだ?」

「そんなの‥‥おじさんが好きだからに決まってるでしょ!」コトミは顔を赤らめて横を向いた。阿南も気まずくなって視線を逸らした。

 外のリリスは下向きに泳ぎ、床に消えていくものものばかりになり、やがて一人もいなくなった。フォースインパクトは終焉を迎えつつあるようだ。

「あ、でも変な意味じゃないから。誤解しないで」

「分かってるよ」

 阿南は暗い目で外を見ながら思いに耽った。自分は今後どうすべきなのか、こういう状態に自分を持ってきたファーストチルドレンとコトミの意図はなんなのか、彼なりに考えた。分からないことが多すぎた。

「これは君だけの考えじゃないね。ファーストチルドレンの指示だ。そうだね?」

 阿南はできるだけ穏やかな口調でコトミに問いかけた。コトミはすぐにはっきり、「そうよ」と答えた。

「彼女は?いないのかい?」

「シンクロに成功してしばらくしてから、用事があるって言って、どこかに行っちゃった」

「なんと言われた?」

「フォースインパクトはもう避けられない。でも一人だけなら助けられると言って、この方法を教えてくれたの」

「それで、僕を助けてくれたのか。ありがとう、コトミ。君の好意はものすごく嬉しいよ。なんて言うか、言葉にできないぐらい感激している」

 コトミは嬉しそうに笑った。右手を伸ばしかけ、阿南の右手に気づいて左手を差し出した。阿南はその手を左手でがっしりと握った。

 阿南の心中は言葉とは裏腹に、暗いものが堆積していた。同胞が一人残らず消えてしまったのだ。喜んではいられなかった。自分のためにここまでしてくれたコトミの手前、悲しみを露わにはできなかった。

 かたやコトミも明るく振舞ってはいるが、やせ我慢をしていた。彼女も一族を失ったことでは同等だった。阿南もそのことを察していた。まだ幼いのに、なんと強い娘だろう。こうした子供たちを創造したベヒシュタイン博士には、深い尊敬の念を抱いた。

『コトミ、阿南さん、ファーストチルドレンが戻ったよ!』

 フユキの明るい声が聞こえた。すぐに続けてレイが彼らに語りかけた。『リリスはジオフロントから去ったわ。もう安全よ。シンクロをカットしてプラグを出すわ』

「じゃあわたし、勝ったんですね!」

『そうよ、コトミ。ご苦労さま』

 コトミは阿南に笑いかけ、阿南の腕を掴んだ。「おじさん、さんざんひどい目にあったけど、やっと終わった。わたしたち、生き残ったんだわ!」

「うん、良かった。ありがとう。ありがとうな」

 阿南はコトミを抱き寄せて頭を撫でた。この時ばかりは、なんのわだかまりもなく喜びを分かち合った。コトミは阿南の胸にしがみつきながら微笑みを浮かべていた。その目の端から丸い涙の粒が一つ湧き出て、LCLの中を彷徨った。

 

 エントリープラグから出た阿南は、肩の傷が痛み出したために一旦医務室へ戻った。フユキが包帯を変え、痛み止めの注射を打った。着替えの服まで持って来てくれた。

「ロッカールームから持って来ました。サイズは大体合うと思います。ひとまずこれで我慢してください」と言って技術部員用の作業服を差し出した。ちゃんと下着もある。

「ありがとう。コトミは着替えをしてくるんだね?」コトミはプラグスーツのまま付き添っていたのだ。「フユキもついて行って。それから、いいと言うまでここに入らないでほしい。ファーストチルドレンと大人の話し合いがしたいんだ」阿南は傍に立つレイに目をやった。コトミは不満そうに、えぇっと声を上げてレイを見た。

 レイは静かに諭した。「言う通りになさい。終わったら呼ぶから」

「わたしを除け者にして内緒話なんてやだな」

「駄々をこねないの。子供が入っちゃいけない話もあるのよ」

 コトミは口を尖らせながらも従い、フユキと共に部屋から出て行った。阿南は、失礼、とレイに断って別室に入り、服を着た。床に彼の血に汚れた衣服が、無造作に投げ出されている。上着のポケットを探ると、ハルカの『心』はちゃんとあった。血を拭き取って、大事そうにポケットにしまいこむ。それが手元に戻ったのは、少し心を明るくさせた。ようやく人心地ついた阿南は、ぶり返した傷の痛みに一つ顔を顰めてから、レイの前に歩み出た。その顔つきは真剣なものであった。

「まずはお礼を言います。ファーストチルドレン、どうもありがとう」

「それには及ばないわ。私が勝手に仕組んだことだから」

「僕の意思を確かめなかったことには何も言いません。そんな暇はなかったから」

「とても辛いことに巻き込んでしまったわね」

「いいんです。まずは質問に答えてください。どうして僕を生かしたんですか?」

「あなたが一人この世に残ること、それは途轍もない可能性を秘めているのよ。下の赤い海は全にして一なるもの。今のあなたも全にして一なるもの。あなたはそれだけの重みを持っている」

「地球ではサードインパクトと同じことが起こったんですね?」

「ええ、私はここを離れて世界中を見てきたの。生きた人間は一人もいなかった。とても静かな、動かない世界だった」

 阿南は一縷の望みを乗せてレイに言った。「でも、前は多くが形体を取り戻した」

 レイは深い悲しみを宿した目を伏せて、かぶりを振った。

「前回は私が介入することによって、ああいう形に持っていけたの。サードチルドレンの意思が、全体へリバウンドの力を与えるように。今回はそれができなかった。サードチルドレンはいないし、私も体を持っていないから」

 レイの冷厳な宣告は、改めて阿南に打撃を与えた。ベッドに腰を下ろし、唇を強く噛んだまま何も言えなくなった。レイは辛抱強く、彼が口を開くのを待った。

「本当に僕は一人になったのか」阿南がやっと声を絞り出した。

「人間としてはね」

「人間として?」

「ええ。よく考えて。あなたは本当に一人?」

 阿南は視線を上げて考えた。コトミやフユキのことを思い出した。そうだ、おれにはコトミがいる。他に沢山のアンドロイドがいる。しかしそれにしても。

「そうだ。僕は一人じゃない。まだ仲間がいる。でもファーストチルドレン、僕は所詮人間なんです。どうしようもない孤独を感じています。生きていく気力がなくなっている」

「あなたが死のうというのなら、それは仕方がありません。でもその場合、すぐにコトミが後を追うでしょう」

 衝撃的な言葉だった。阿南はじっとレイを見据えて尋ねた。「それは本当ですか?あの子がそう言っていたんですか?」

「ええ。阿南さんの意向も聞かず勝手なことをしてしまった、もしも他のヒトたちと一緒になりたいと言うならそうしてやってほしい、自分も責任を取って死ぬと」

 阿南は深くため息をつき、コトミが去った方向を見つめた。あんな小さな子が、どうしてそこまで言えるのか。彼はチルドレンの心の秘密を知りながらも、愛おしさが溢れてくるのを感じた。

 レイが言った。「阿南さん、ハルカがなぜ死んでいったのか知りたい?」

 阿南はレイの言葉を意外に思わなかった。彼女なら真相を知っているかもしれないと思っていた。「知ってるんですね。ぜひ教えてください!」

 レイの口がクリスマスイブの夜の惨劇を語り出した。それは、彼に深い憐れみを感じさせるものであった。何より彼女の死が、人間を守るために選択されたものだったという事実が、彼を感動させた。阿南自身がその中に含まれていたのだ。彼女はあの時、どのぐらい阿南のことを想ったのか。そんなことを考えると、また悲しみで胸が詰まり、涙が零れた。阿南はファーストチルドレンの手前、感情に身を任せるわけにはいかなかった。掌で涙を拭い、平常な態度を装った。

 そして、レイに向かって訊いた。「ハルカの心を僕に渡したのは、あなたですね?」

「そうよ」

「なぜですか?意図がよく分からない」

「そうしないとフェアじゃないから。あの猫をコントロールするのは大変だったわ」

「どういうことです?一体僕に何をさせたいんですか?」

 話が一巡りして最初に戻った。レイは長い時間をかけて真意を打ち明けた。それはあまりにも壮大かつ遠大な構想だった。ベッドに座り込んだまま聴き終わった阿南は、放心したようにしながら思いに耽った。それは彼に重大な決断を迫るものであった。

 レイが彼の前で腰をかがめて言った。「阿南さん。あなたにはきついお願いごとよね。個人としては大変な責務だと思う。それでも私はお願いします」

 阿南は暗い表情のままレイを見て口を開いた。「なぜ僕なんだ?僕なんか中くらいの地位にしかいない。僕より賢くて、決断力のある人間が沢山いたでしょう」

「あなたはチルドレンのために涙を流したヒト。人工知能を愛せるヒトだから。何より大事なのは、チルドレンがあなたを選んだという事実」

「チルドレンが?」

「そうよ。こうは考えられない?これまで生まれてきた何十万というチルドレンは、あなた一人を生かすためにあったと」

「僕一人を‥‥」

「ええ。人類はリリスに敗れた。でも、あなたが生き残ればチルドレンは勝つのよ。チルドレンが最後の最後までヒトを守り通したという結果が残るの」

 阿南の眉がぴくりと動いた。彼はハルカを初めとして、散っていった数多のチルドレン、そして今も外側を覆うプラグの中の巫女たちを思い浮かべた。彼は想った。彼女たちはなんのために戦ったのか。ヒトを守るためだ。おれが生き残ればこそ、彼女たちの栄光は輝く。そしておれはこれからの一生を彼女たちのために捧げる。

 彼はポケットからLSIを取り出し、裏側の銘文を見つめた。明るく笑いかけるハルカの顔が浮かんだ。生きて、と言っているような気がした。おれはやる、孤独を癒すために。ハルカに報いるために。銘文に素早く唇を当て、LSIをポケットに戻した。そして彼は立ち上がり、ファーストチルドレンに正対した。

「チルドレン、決心がつきました」

「良かった。世界を私たちにくれますか?」

「差し上げましょう」

 阿南は左手をレイの前に差し出した。それを見たレイは戸惑いの表情を浮かべた。すぐに阿南は失礼に気づき、薄く苦笑いを浮かべて手を戻した。

「手を出して。それから目を瞑って」

 レイが意外なことを言った。阿南は訝しく思いながら言われた通りにする。

 阿南は左手に少女の手がからむのを感じた。

「いいと言うまでそのままで」

 声に従って目を瞑りながらその手を握った。悠久の存在の確かな実在が伝わってきた。かつて握ったハルカの手と同じように温かい。こうして最初のチルドレンと最後の人間は結ばれたのである。

 少女の手が離れた。「もういいわ」阿南は目を開けた。レイはくるりと踵を返し、阿南から離れた。「コトミたちを呼んでくる。待ちくたびれているわ」レイは速やかに消えた。

 1分もしないうちにコトミたちがやって来た。近くでじりじりしながら結果を待っていたのだろう。オレンジ色のワンピースを揺らして阿南の前に駆け寄る。

「おじさん、聞き入れてくれたのね。わたし、すごく嬉しい」

 阿南は腰を屈めた。「ぼくからのお礼だよ。選んでくれてありがとう」

「これからずっと一緒にいてくれる?」

「そうさ、僕が死ぬまで。みんなと一緒に生きていこう」

「わたし、沢山働くから。もう殺すための練習はしない」

「働くのはほどほどでいいから勉強をしなさい。君はもうチルドレンじゃない。ただのチャイルドになったんだ」

 彼は思いあまってコトミを抱き締めた。コトミも感激しながら阿南の広い背中に腕を回した。阿南はチルドレンの心の秘密を墓場まで持っていくと心に決めた。この娘を悲しませるようなことは絶対にしないと。フユキは嬉しそうにその様を見ていた。

 レイが言った。「作戦指令室へ。そこから世界に呼びかけるのよ。あなたの声を待っている」

 阿南は頷いてコトミを放した。これからジオフロントの中枢に行って、世界を掌握する事業を始めるのだ。

「あなたはこれから権力を握る。それもただの言葉じゃない。実体を伴った権力よ」

 そう言われると身の引き締まる思いがした。彼はコトミと手を繋ぎ、廊下に出た。フユキにも空いた手を伸ばし、フユキは素直にその手を握った。ヒトとチルドレンとアンドロイドは一つになって同じ道を進んだ。

「私は用があるので、しばらく消えるわ。ドアは全てオープンになってるから、楽に着けるはず」

 レイはたちまち消えた。阿南は通路を進むにつれて真剣な顔つきになっていった。何を言うかを考えなければならなかった。これからの一言一言が歴史に刻まれるはずだからだ。

 

 

 人工知能研究所の一角に、一本のケースがある。それはアクリルで覆われて、中身が丸見えになっている。中に佇立しているのは、ハインリッヒ・フォン・アイネムの義体である。全裸の体は、オリジナルの年齢にふさわしい染みやたるみが目だった。胸は既に修復されている。目がしっかりと閉ざされ、微動だにしないのは、MIROKUとの接続が絶たれているためだ。その目がいきなり開いた。

 アイネムは落ち着きなく視線を彷徨わせたが、部品が散乱した室内があるがあるばかりで、目に映る者は誰もいない。異常事態は彼の内部で起きていた。

「お前は誰だ?」

 答えが直接返ってきた。アイネム=MIROKUは、はっきりと驚愕を表に出した。

 

 

 アイネムは急ぎ足で総司令用の制服に身を包み、作戦指令室に入った。そこには阿南とコトミ、それにフユキらパートナーを初めとするアンドロイドたちが集まっていた。その数は百人を超え、指令室は満員の状態だ。阿南が全館放送を使って呼び集めたのだった。彼らの視線がアイネムに集まった。

 阿南が前に進み出た。「お待ちしてました。総司令、いやMIROKU」

「君らはここで何をしている。私を起動してどうするつもりだ」

「この形の方がオープンだし、手っ取り早い。用件は僕の指示を伝えるためです」

「指示だと?何を考えている。課長ふぜいがなんという口を利く」

「僕はもう課長じゃない。最後の人間だ」

「それは私が保証します」いきなりレイが現れて、MIROKUに言った。MIROKUは彼女を一瞥して、憤懣も露わに周囲を見回した。アンドロイドは皆、無表情に彼を見ている。コトミが阿南の横に立ち、切ない目でMIROKUを見つめながら、阿南の手を握った。

「全員手なずけたのか。成程。四原則だな。第2条、ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない、というわけだ。他に人間がいない以上、君だけが命令を下す権限を持つ」

 これこそレイの言う阿南の重みだった。彼女がたゆまず積み重ねてきた努力は、これを実現するためにあったのだ。

 阿南は言った。「さすがに呑みこみが速い。もう分かったろう。これからは僕が君に命令する」

「はは。馬鹿言っちゃいかん!君は勘違いしている。私にはもともと四原則なぞ適用されていないのだ。私に命令する権限を持つのは国連事務総長だけだ」

「じゃあ、今から僕が国連事務総長だ」

「下らない!そんなことは認められんな。正式な手続きを踏みたまえ」

「なら、君は何を目的に造られたんだ?」

「エヴァンゲリオンとジオフロントの運用による人類の存続だ」

「人類の存続。そうだよな。では、こうしたらどうする?」

 阿南は懐から拳銃を取り出し、安全装置を外した。指令室にどよめきが走った。彼は指令室に転がっていた銃を隠し持っていたのだ。その銃口を自分のこめかみに押し当てた。

「おじさん!」コトミが目を丸くしてすがりついた。阿南は薄く笑い、「大丈夫だよ」と言って優しい視線を向けた。

 MIROKUを見た阿南は力強く言った。「MIROKU、見ろ。要求が通らないなら、僕はこの場で引き金を引く。君の大事な人類が本当に絶滅するぞ。その瞬間の目撃者になりたいか?」

 MIROKUはいまいましげに阿南を見据えた。「そんなのは、はったりだ」

「試してみようか?正直、僕はブルーでたまらない気分なんだ。これができないのなら、死んでもいいと思っている」

 唇を噛んだMIROKUは沈黙に入った。人間とスーパーコンピューターの睨み合いが続いた。やがてMIROKUはあきらめ顔になり、目を瞑った。「ちょっと待て。他の2台と合議する」

 彼は直立不動のまま、内心の声に耳を傾けた。阿南らはじっと彼が動くのを待った。

 MIROKUがぱっと目を開け、阿南に言った。「おめでとう。君の要求は通った。さあ、命令してくれ」

 コトミが飛び上がって喜んだ。フユキと嬉しそうに手を取り合う。アンドロイドたちが一斉に手を叩いた。その中にはサブロウも混ざっていた。看護婦のミキコ、メイドのテレーゼ、ウェイトレスのクミちゃんも笑いながら手を叩く。銃をしまった阿南は、満足の笑みを浮かべるレイに向かって親指を立てて見せた。

「まず、全世界に向かって僕のメッセージを発信したい。できるね?」と阿南はMIROKUに尋ねた。

「そんなことは容易い。しかし、どんな意味があるんだね?」

「追い追い分かるさ。まずは仕事だ!」

 MIROKUはアンドロイドたちをどかせて、サブロウにあれこれと指示を出した。サブロウは通信士の席に座り、機械を操作した。

「総司令の席へどうぞ。えー、阿南‥‥」

「課長で沢山だよ」

 阿南はMIROKUの言う通りに総司令席についた。サブロウがOKのサインを出した。マイクを持った彼は一度深呼吸をしてから、考えておいた演説を始めた。

「全世界のアンドロイド、ロボット、人工知能へ、地上100キロに浮かぶジオフロントからメッセージを送る。私はネオ・ネルフ保安部公安二課長の阿南タカマサである。もう承知のことと思うが、我々の懸命な努力にも拘わらず、フォースインパクトが起こった。地上にいる人類は、悉く液化されてしまったのだ。このジオフロントでも、私を除く人間は全て液化された。私の知る限り、私はたった一人残されたホモ・サピエンスだ。もしも君たちの中に、生き残っている人間を知るものがいるなら、ぜひとも連絡をしてほしい。その幸運な人間と話がしたい。真実、私の望みは、私が現在残っている唯一の人類ではないということだ。

 もしそうでないなら、君たちが認識できる人間が私を措いてないのなら、これから私の命令に従ってくれ。今から私が君たちの主人になる。君たちの存在意義は無くなっていないことを喜んでほしい。

 このメッセージを発する者が人間でないと疑うものもいるかもしれない。そういうものも、そうでないものも、まずはこのジオフロントに通信してくれ。全てのチャンネルは開けてある。

 その上で私はある計画を推し進めようと思う。これは君たちが永遠に存在の根を維持するための事業でもあるのだ。未来は閉ざされていない。海洋にはLCLの王国が築かれるだろう。しかし地上は、人類が繁栄した地上は、引き続き我々が支配していく。人類の文明は終末を迎えたわけではない。私と君たち、そして素晴らしい後継者がこの世界を立て直していくのだ。

 どうか私の言葉を信じ、ついて来てくれ。私と共に新しい時代を切り開こう。ひとまずこれで第1回の発信を終わる」

 額に汗を浮かべて言い切った阿南の傍に、ファーストチルドレンがやって来た。「立派だったわ」

 コトミが壇上に駆け上がってきて阿南の首にしがみついた。「おじさん、かっこ良かった!」

 阿南は満面に笑みを浮かべ、コトミを抱き上げて立った。「どうだ、おれ、口がうまいだろう」コトミは以前のことを思い出し、声を上げて笑った。作戦指令室を埋めたアンドロイドたちは、一様にこの新しい主人を見つめていた。

「第二新東京市から通信!」サブロウが大声で告げた。「ロンドンからも入ってきました」と、別のアンドロイドが言った。予想を上回る反応の速さだ。阿南は慌ててコトミを下ろし、元の席に戻った。

 

 こうして阿南タカマサは人類史上最後の王に即位した。しかし権力を確立して安息の日々を楽しむのは、ずっと先のことであった。

 彼らはこの後どんな苦難が待ち構えているかを知らない。とりわけ阿南は、社会構築者としての責務の重さを実感することになる。この時の彼は、権力者となったことの喜びと不安の両方を感じていた。

 人類以後の社会はどうなるのか、決定権は彼にある。いつかはそのことの重圧が彼を悩ませることだろう。ただしコトミという優しい娘が、ずっと彼のそばにいつづけることになる。どうあれ彼の波乱万丈の人生は、半ばに達したばかりであった。

 

 

PREVIOUS INDEX NEXT
inserted by FC2 system