復活するために、私は死ぬ。
(グスタフ・マーラー)
リリスの子ら
間部瀬博士
エピローグ
AD.2155
マサトは長く、陰鬱な夢から覚めた。寝室に降り注ぐ光は既に高く、なんとなくもう9時近くだと感じた。枕元の時計を見ると、確かに8時47分を示している。とっくに起きていなければならない時間だ。彼はパジャマに包まれた足を床に下ろした。
隣りのベッドは空になっていた。彼の妹が使うベッドだ。起きて大分経つのか、リビングの方から小さく甲高い声が聞こえてくる。ママは笑っている。パパの声が聞こえないのは、多分いつものように新聞を読んでいるのだろう。
この日は特別な日だった。彼と妹はそのことで昨夜遅くまで話し合い、おかげで今朝はいつもより寝坊をしてしまった。パジャマを脱ぎ捨て、ズボンに足を通しながら、すっかり様子の変わってしまった室内を見回す。壁に貼ってあったお気に入りの前世紀製ポスターは、もう外して荷物にしてしまった。勉強机の上もさっぱりしたものだ。総じて殺風景な部屋と言える。それでも彼は、この部屋の眺めを目に焼き付けておきたかった。今日限りこの家ともお別れになる。彼が8年間生きてきた家だった。すっかり着替えを終えたマサトは、トイレに行くために部屋を出た。その時には、つい先程まで見ていた夢の記憶は、淡雪のように消え去っていた。
「お早う」
マサトがリビングに行くと、ママは渋い顔をして待ち構えていた。
「遅いわねぇ。朝ごはん、下げちゃうところよ」
「ごめん、ママ。夕べはよく眠れなくてさ」マサトは頭を掻いた。
「お兄ちゃんてば、わたしに話しかけてくるの」食卓で髪の毛をいじくる四つ下の妹が言った。
マサトは口を尖らせた。「なんだよ、お前だって色々言ってきたじゃないか」
「何だっていいからさっさと食べて。10時には運送の人が来るんだからね」
リビングに山と積まれた段ボール箱を見た。彼の家の全財産だ。ベッドや食卓などは同時に運び出される予定だ。パパはソファに腰を下ろし、新聞を読みながらコーヒーカップを口に運ぶ、余裕のポーズを取っていた。
「いただきまぁす」マサトは食卓について、大急ぎで朝食を腹に詰め込んでいった。いつもより豪勢なメニュー。今日という日のためにママが奮発してくれた料理だ。食べ損ねたら、ママはかんかんに怒ったことだろう。危うく間に合って助かったと思った。
11時になり、一家は最低限の手荷物を持って家の外にいた。四角屋根の二階建ての家だ。彼らはしみじみと長く暮らした我が家を見つめた。
この引越しはマサトの意に沿うものではなかった。できればずっとここにいたかった。しきりに文句を言うマサトを諭すのは父親の役目であった。
マサト、もうジオフロントは老朽化してひどい状態なんだ。天井もいつ落ちてくるか分からない。危険のある所に住んでいられないよ。それにこれは、ファーストチルドレンとラストマンが遠い昔に決めていたことなんだよ。
ファーストチルドレンの名前を出されると、黙らざるをえない。そんなことをしてるとファーストチルドレンに言いつけるぞ。ファーストチルドレンに叱ってもらわなくちゃ。彼自身はファーストチルドレンを見たことはなかったが、彼の同級生が一度目撃したそうだ。なんでも散光塔の上部に腰掛けているのを、双眼鏡で見たんだとか。マサトははるか上の天蓋を見上げた。あちこちに茶色い錆が浮いている。落ちてくるというのも理解できる。もちろん青い学生服のファーストチルドレンなどはどこにも見えない。
ジオフロントが元の場所に帰還を果たしたのは、フォースインパクトから2年を経た時のことであった。彼ら一家はネオ・ネルフの職員たちと同じ空の下で生まれ育ってきたのだ。同胞はすでに大部分が移住を完了していた。この日は移住計画の最終日だ。彼らが最後のグループだった。そのせいでやたらと静かだ。
「さあ、行こうか」
パパが言って、ボストンバッグを持った。マサトも紙袋を一つ持った。袋から端がはみ出しているのは、ファーストチルドレンのイコンだ。我が家の形を目に焼きつけながら父の背中を追う。
「お早うございます」
妙齢の婦人の声が聞こえた。3軒向こうに住む土方家の人々が来た。彼らも今日が引越しなのだ。パパとママは腰を折って土方夫妻と挨拶をした。マサトもぺこりと頭を下げた。ついでに妹の頭を掴んで下げさせた。
「マサト、おっはよ」
夫妻の後ろから、紫色の可憐な服を着た娘が出てきた。同級生のチヒロだ。彼女との交流は深い。幼稚園に上がる前からの付き合いだった。パパは将来間違いなく美人になると言っていた。
「一緒に歩こ」「うん」
マサトとチヒロは連れ立って歩いた。妹はママと手を繋いだ。彼らはこれから駅に向かい、新都市行きの列車に乗る。
「ジオフロントも今日で最後か。いやになるな」
「去年移住した叔母さん、しきりに帰りたがってた。雨は降るし、風は吹くし、夏は暑くて冬は寒いって」
「ここは年中春だからね」
「パパはそんなに悪くないって言ってたけど」
「ちょこちょこ行って帰ってくるだけじゃ、分かんないと思うな」
電気技師をしているマサトのパパは時々新都市の話をしてくれる。横殴りの嵐の時は、もう勘弁とか言っていた。青空の素晴らしさも。その体験は写真や映像じゃ実感できないそうだ。ラジオ放送の天気予報によれば、今日は良く晴れるらしい。マサトはその点楽しみだったが、気温の上昇も相当なものになりそうなのがつらい。
「でも仕方ないのよ。あたしたちの方が特殊なんだわ。温室にいるようなもの。やっと普通の生き物になるってことよね」
こういうことは学校の先生たちが、口を酸っぱくして言い聞かせていた。政府も毎日のように教宣放送を流していた。マサトたちはしぶしぶながらも従うしかないのだ。
「でも、きっといいこともあるよ!」
「そうよね!」
マサトとチヒロは元気を出して互いを見やった。マサトはチヒロの紅い瞳を見た。チヒロはマサトの紅い瞳に映った自分の顔を見た。二人は共に蒼い髪をなびかせて、いつの間にか開いた親たちとの距離を詰めるために走った。
この時代、全ての地球人は蒼い髪と紅い瞳を持っていた。
地下駅では、移住者を乗せるための列車がホームに入っていた。手荷物を持った家族連れが三々五々車両に乗り込んでいく。車両は老朽化が目立つが、まだ十分使用に耐えるとされていた。ホームの入り口近くに、黒い正装を着た中年の男が、お付きを従えて立っていた。彼は名前をフランツ・ベヒシュタインと言う。コンラート・ベヒシュタイン博士とは縁もゆかりもない。姓は彼自身が勝手に名乗ったものだ。ここの住民はすべて、ここ数十年の間に初代が自由に選んだ姓を持っていた。彼はこのジオフロント市の市長である。
「行ってらっしゃい。向こうでも頑張ってください。体に気をつけて」
市長は移住者たち一人一人に手を振って声を掛けた。これは、行政の長として最後の仕事になる。ジオフロント市は本日をもって、移住先である新東京市に吸収されるからだ。彼は来る新東京市長選に打って出るつもりでいた。そのためにも精一杯愛想良く、自分をアピールしている。
彼の前に白いワンピースを着た老婦人が現れた。服の仕立ての良さやアクセサリーの上品さは、この婦人が只者ではないことを物語る。彼女は腕に、錦で包まれた四角い箱を抱えていた。背広を着た青年が鞄をいくつも持って付き添っている。市長は彼女のことをようく知っていたので、その前に進み出た。
「ラストチルドレン、お疲れさまです」
「は?誰だい、あんたは」
「市長のベヒシュタインと申します。大変お久しぶりです」
ラストチルドレンことコトミは、市長を指差して声を上げた。「フランツ、おねしょのフランツ坊やかい!?」
市長は額に汗を滲ませ、苦笑いをしながら答えた。「ええ、ラストチルドレン。その節はどうも」
「いや、立派になったもんだ。そうかい、あの頃、よくおむつを取り替えてやったっけ。それにしても、あの腕白坊主が、よくまあ出世したもんだ」
「みんなあなたのおかげです」
「今日は見送りかい。いや、ご苦労さん」
市長はハンカチで汗を拭き、後ろに控える青年を指した。「あの、こちらは?」
「あたしの旦那だよ」
青年は軽く頭を下げた。市長はコトミの言葉が俄かに信じらず、目をぱちくりさせた。
「なに鳩が豆鉄砲を喰らったような顔してんのさ。あたしに若い旦那がいて悪いかい?」
「いえいえいえ、何もそんなことは」市長はしきりに手を振った。
「ふん。じゃあね、市長。あたしは早く座りたいから行くよ。これ、結構重いんだ」コトミは腕に抱えた箱を上げた。
「席までお持ちしましょうか?」
「いいよ。これは他の人には持たせられないんだ。ずーっと肌身離さず持っていくんだ。父さんの遺骨なんだから」
「ああ、ラストマンの」
「そういうこと。ほんじゃさよなら」
コトミは納得のいかぬ顔の市長を残して特等車に乗り込んだ。他よりはずっと高級感のある車両だ。乗客は少ない。座席に座り込んだコトミは、横の空いた席に箱を置いた。青年が向かい側に座った。
青年が笑いながら言った。「市長、驚いてたね。僕を人間だと思い込んでるんだ」
「無理もないね。あたしは引退してから公の席に出てない。地味にひっそりやってきたから」
「ねえ、コトミ」フユキは身を乗り出してコトミに言った。「やっぱり釣合いが取れてないよ。老人風のボディもあるんだからさ、変えてもらおうよ」
「駄目だね」コトミはにべもなく答えた。「あんたは美しいままでなきゃだめ。あたしみたいに皺くちゃになることないよ」コトミは当世風に蒼い髪と紅い瞳にしたフユキの、若々しい頬を撫でた。「そうとも、このきれいな顔を変えることないよ。他がなんと言おうと知ったことかい。ずっとこのままで生きていっておくれ」
フユキは頬にある、コトミの皺だらけの手を軽く握った。この奇妙な夫婦の愛情は出会った時からこの日まで、ずっと変わらなかった。そしてこれからも、コトミが死ぬまで続いていくのだ。
旧作戦指令室、現在のジオフロント市中央管制センターには三人の男女がいて、大スクリーンを見つめていた。大部屋の中ほどで一かたまりになっている。と言っても彼らは人間ではなかった。一人の壮年の男性は、かつてはフォン・アイネムと呼ばれたMIROKUであった。もう一人の男は同じBOSATSUシステムに属するHUGEN。黒人青年の姿を取っている。もう一人はKANZEON。楚々とした東洋人女性であった。
BOSATSUシステムの3機鼎立は破棄され、一台一台が独立して動いていた。それぞれが義体を持つことによって、運用の効率化を図ることになった。人種や性別を変えたのはラストマンの考えであった。
大スクリーンは太平洋の一角を捉えた、衛星からの画像を映し出している。おだやかな波の中を泳ぐ一頭の鯨が見える。だが、それは普通の鯨ではなかった。赤い血の色をした鯨なのだ。それには目も口も鼻もなかった。
フォースインパクトによって海に流れ出したLCLは、海水に混ざり合うことなく漂い、そこに細胞のような組織がいくつも生まれた。細胞同士、鞭毛を振るって互いを求め合うような動きをし、結びついて群体を形作り、さらに泳ぎに適した形態へと進化していった。最初は小魚から始まったのだ。食物としては適さぬこの魚を襲うものはなかった。小魚同士は融合し、より大きな魚となった。彼らは外海へ出て仲間を探した。世界中のあちこちでこの現象が起こり、盛んに融合が繰り返され、次第に大きさを増していった。
今彼らが観察しているのは、インド洋に発生して、南太平洋を北上してきた個体と一月前に合体したものだ。体長は優に30mを超す。おそらくいつかは現在大西洋にある個体と融合し、完全体となるだろう。
彼とコミュニケーションを取るべく、二度に亘り調査船が派遣された。しかし、音波や電波など、いかなる手段にも答えてはくれなかった。船を無視してひたすら泳ぐのみ。何かを捕食する様子もない。どうやって生きているのか、何を考えているのか、検討もつかなかった。人々は彼を怖れて『神鯨』と呼んだ。
HUGENが言った。「今日も悠々と泳ぐのみか。一体何を想うのやら」
KANZEONが意見を述べた。「まだ見ぬもう一つの個体のことじゃないかしら。きっと彼は感じている」
「あれが一つになった時、何が起きるのか。たぶん何も起こらない」
その声は後方から聞こえてきた。三人のBOSATSUは一斉に振り向いた。
「おお、ファーストチルドレン。ご無沙汰してました」とMIROKUが言い、レイに近づいた。他のBOSATSUも嬉しそうに続いた。
「あれから72年になるのね」
「初めまして、ファーストチルドレン、HUGENと申します」
「KANZEONです。よろしく」
綾波レイは、かすかに会釈をした。面識のあるMIROKUが真っ先に喋りだした。
「このジオフロントが放棄される日にお越しとは。最後の最後にお会いできて良かった。聞きたいことが沢山あります」
「私もあなたたちに、お別れの挨拶をしておきたかった」
「こんなにも長い年月、現れないとは水くさいじゃありませんか」
「ごめんなさい。私にもいろいろ事情があったから」
「最後に我々の質問に答えてくれますか?」
「いいわ。なんなりと聞いて」
学生服の少女と人種や年恰好もばらばらな男女三人は、奥の開けた場所で、立ったまま風変わりな会談を始めた。
「まず、フォースインパクト後、ラストマンと我々を初めとする人工知能は、新たなヒトの生産に取り組みました。リリスの細胞と、厳重保管されたヒト遺伝子を用いて。あなたが成功を約束したからだ。これが不思議でならなかった。生まれてきた子供たちはどうして自我を持っていたのでしょうか?生殖能力も持った完全な生き物だったのはなぜでしょうか?」
レイは遠くを見る目をしながら語り出した。
「すべてが終わった後、分裂したリリスはターミナルドグマに帰りました」
「ええ、あれを確認したときは驚きました」
「元の姿に返っていたわね。でも、あれは形が同じだけで、全く違うものなの」
「と、言うと?」HUGENが身を乗り出して訊いた。
「そもそもの初めから話すわ。サードインパクトの時、私はアダムと共にリリスの中に入りました。そしてリリスが望むインパクトに干渉したの。結果として完全なインパクトにはならなかった。多くの人間が赤い海から戻りました。残ったLCLは力を削がれ、海水と混ざり合い、消えてしまった。すべてが終わった後、リリスはあの浜辺で、永遠に続く停滞の中でまどろむはずだった。でも、人間はリリスの安息を許さなかった。海中投棄、N2爆弾。リリスは怒り、第2次使徒戦役が始まりました」
「そうだったのではないかと、考えてはいました」とMIROKU。
「もしフォースインパクトが起こったら。私はもう力が弱すぎてリリスを阻止できない。だから、話し合いをしたの。長い長い話を。どちらも満足のいく結果を出せないか」
BOSATSUたちは一言も聞き逃すまいと耳をそばだてていた。レイはひっそりとした口調で話を続けた。
「リリスはやっと同意してくれました。彼女も永劫の生命に飽きていたのね」
「分からないわ。生命に飽きたとは?」とKANZEON。
「リリスは基本的にインパクトを起こした後も生き続けます。終わりのない永遠の命なのよ。それは私にも課せられた宿命。私にとっては呪いも同然です。私の望みは無に還ることなの。私というものを消滅させたい。でもそれは無理な話。リリスが生き続ける限り」
HUGENが訊いた。「それはまたなぜですか?」
「私とリリスは繋がっているの。私はもともとリリスの一部。彼女が人間に分け与えた心の欠片なのよ。リリスが死なない限り、私にも死はありません」
MIROKUがしみじみと言った。「永遠の命か。それを望む者は多いが、実際そうなった者は孤独なのでしょうか」
「その通りよ。無為の日々が来る日も来る日も続くだけ。変化も発展もないの。私とリリスはそれに幕を引くことにしました」
「どうやって?」MIROKUは身を乗り出した。
「サードインパクトの時、リリスはアダムを取り込みはしましたが、その形のまま残していました。フォースインパクトになって、リリスは力を解放すると同時にアダムにも作用を及ぼしました。融合したの。それも遺伝子レベルで。ターミナルドグマに戻ったリリスは、以前とは全く違った体を持ったの。それは没落を意味しました」
「没落?」
「永遠であることと、何かを生み出すことは両立できないの。リリスは永遠性を放棄し、通常の生命になった。有限の寿命を持つ生物に。引き換えにリリスの細胞は完全になったのよ。そこから生まれる生命が完全なものとなるように」
KANZEONが声を上げた。「それが今の人類なんですね!」
「そう。リリスの子供と言ってもいい者。私が長い時間をかけて準備したのがこれだった。魂を持たぬアンドロイド、C計画、バイオスフィア、遺伝子バンク。どれも旧人類が整えていた。私の計画は、悪く言えばそれにただ乗りするようなものね。他に私に必要だったのは、チルドレンを愛せる男と、ヒトを愛せるチルドレン。阿南タカマサとコトミが適格者として浮かび上がったわ。あれは奇跡だった」
MIROKUが言った。「ラストマン、残された人工知能を一つに束ね、方向を示す者。彼こそが鍵だった。ただの人間ではだめだ。生まれてくる新しい人間を愛せる者でなくては。ラストチルドレンも並ではいけない。ラストマンを支え、ついていける者でなくてはならなかった」
「リリスという母体、ジオフロントという器、アンドロイドの労働力、そして旧人類の遺伝子。どれ一つ欠けても実現は不可能だったわ。旧人類があれほどの数の遺伝子を置いていってくれたおかげで、多様性も確保できました。似た遺伝子ばかりでは、環境の変化に対して脆弱になってしまう。今日まで彼らが生き残ってこれたのもそのおかげね」
新人類は何度か疫病の大流行を経験してきた。人口が半分にまでなる危機に直面したこともある。全滅に至らなかったのは、体質の異なる人間が多数いたことが背景にあったのだ。
「成程。それにしても針の穴を通るような難事業でしたな。随分話を伺いましたが、まだ分からないことがあります」MIROKUは腕組みをしてレイを見つめた。レイは透き通るような目でMIROKUを見やった。「そもそもあなたがこの計画に取り組むことを決めたのはなぜだったのですか?これほどの手間と困難さに挑む情熱はどこから来たのでしょう?」
レイは自嘲気味に微笑んだ。「私のエゴに過ぎないのよ。この世界の形は、かつて私の愛した男が選び取った形。私はそれを失いたくなかった。それだけのことです」
「人間そのものを愛していたのではありませんか?」
レイは小首を傾げ、少し考えてから答えた。「どうかしら。ただ、人間社会の様々な局面は私に喜びを与えてくれました。私にとって価値のあるものには違いありません」
BOSATSUたちは得心した顔で頷いた。レイが彼らに向かって訊いた。「駅の映像を見られますか?発車の時刻も近いでしょう?」
HUGENがコンソールを操作し、スクリーンに列車と、それに続々と乗り込む人々が映し出された。老人は見当たらず、全体的に若々しい集団であった。レイはスクリーンに歩み寄って映像をじっくりと眺めた。
「今日限り、自らの意志でエデンを去る者たち。立派なものだわ。そう思いません?」とKANZEONが感慨を込めて言った。
「いずれこうしなければならなかった。ラストマンがはるか以前から道筋をつけていた。それにしてもあの男」レイはやや不満げな表情を浮かべた。「私をさんざん利用して。まるで教祖だったわ。『ありがたみが薄れるから、なるべく出てこないでください』ですって。私が言わなかったことも言ったことにして、自分の政策実現に利用したり。あの男のそういうところが嫌いだった」
HUGENがとりなし役を買って出た。「彼としてはやむを得なかったんですよ。新人類を引っ張るのには権威を持つ必要があったから。ファーストチルドレンの代弁者として立つのが有効だったんです。彼も苦心していました。身の丈以上のことをやらなければなりませんでしたからね」
「そのせいで、どの家にも私の図像が行き渡ってしまったわ。まるで神様。そんなこと望んでいなかったのに」
唇を噛むレイにMIROKUが言った。「あなたは現生人類がある限り、記憶され続けるのです。いいことではありませんか」
「できれば忘れられる方がいい。名実ともに無になってしまいたい」
MIROKUはとうとう苦笑を浮かべた。「それはわがままというものでしょう」
駅のホームを歩く人々がまばらになってきた。出発の時が近づいている。KANZEONがそれに目をやりながら訊いた。「彼らは今後どうなると思いますか?」
「しばらくは平和にやっていくんではないかしら。でも、いつかはお金が出回り、それに呪縛されていくわ。金銭が真の支配者になる。内紛や戦争といった、愚かな行為も惹き起こすことでしょう。数え切れないほどの流血が歴史に刻まれるはず。けれど『好き』という感情もずっと残っていくの。他者というものが在り続ける限りは」
BOSATSUたちはレイの言葉を噛みしめる風であった。レイはホームの様子を見つめながら三人に告げた。「そろそろお別れよ。私はあの子たちを見送った後、リリスの許に行きます」
「ターミナルドグマ?ついて行かないんですか?」とMIROKUが不思議そうに訊いた。
レイはゆっくりとかぶりを振った。「新東京市には行きません。私とリリスは今日を最後の日と決めました。一番ふさわしい日じゃなくて?」
BOSATSUたちに動揺が走った。MIROKUはしわがれ声で言った。「何も死にいそがなくても」
レイはBOSATSUたちに背を向け、さらにスクリーンに近寄り、画面を見上げた。
「リリスはもう余命が幾許も残っていません。随分前から全身を襲う痛みに耐えていました。没落が招いた結果ね。早目に開放してあげるのが慈悲というもの」
KANZEONが言った。「あなたはそれでいいんですか?」
「もう1世紀半も生き永らえてきた。長すぎる命だわ。幕を引くのが遅すぎたぐらい」
レイは振り向いて悲しげなBOSATSUたちを見た。かすかな微笑が浮かんだ。
「そんな顔をしないで。私たちは笑って滅亡していくのよ。これはあの子たちへの贈り物でもあるの」
「贈り物?」とHUGEN。
「ええ。もしもリリスが不滅なら、将来必ず使徒の恐怖と共に語られることになるでしょう。それは本意ではないわ。消え去るのが一番いいの。あの子たちはもう使徒の悪夢を見なくなる。やっと正しい世界に戻ることができる」レイは澄み切った目で、スクリーンに映る去り行く人々を眺めた。「もう十分だわ。成すべきことはすべて成し遂げたのだから。あとは無に還るだけ。」
「違う。あなたは永遠になるのだ」
MIROKUが厳かに言った。レイはじっとMIROKUを見つめ、微笑った。「口が上手ね。あの男を思い出したわ」
駅のホームにはすっかり人がいなくなっていた。あと2分もすれば列車は起動し、ジオフロントは無人地帯になる。わずかにメンテナンス用のロボットと、BOSATSUら人工知能が残るだけになるのだ。
「もう行くわ。さよなら」
レイの体が透け出し、だんだんと向こう側が見えてきた。BOSATSUたちは口々に別れの言葉を贈った。最後にレイは紅い瞳を残し、それもすぐに見えなくなった。
コトミは車両の窓越しに、落ち着きなく駅のホームを見回していた。今日は絶対姿を見られると思っていたからだ。ファーストチルドレンはこの節目に、きっと出てきてくれる。発車時刻が迫り、ドアが閉鎖された。
「コトミ、あそこ」
フユキがコトミに言い、駅の奥にある柱を指した。コトミはすぐに見つけた。柱の横に佇む少女の姿。ファーストチルドレンはやはり来てくれた。コトミは感激して盛んに手を振った。
「ありがと、ありがとねぇ」
レイは片手を小さく挙げた。何も言わず、かすかに微笑んでいる。他の場所でも騒ぎが起きていた。皆、女神に等しいカリスマを目撃して興奮している。
列車が静々と動き出した。綾波レイの姿は次第に遠ざかっていく。コトミは彼女のいる場所をずっと目で追っていたが、列車は間もなくトンネルに入り、辺りは真っ暗になってしまった。
コトミは席に座り直した。ほんの短い間だったが、久しぶりにファーストチルドレンを見られたことに満足していた。
フユキも嬉しそうにしている。「やっぱり来てくれたね。あの人はそういう人さ」
「ほんとにねぇ。でも相変わらず表情の乏しい人だよ」
もちろんコトミは、これがファーストチルドレンとの最後の邂逅になるとは思ってもいない。すぐに彼女はこれからの生活について、あれこれと思いを馳せていくのだった。
BOSATSUたちはスクリーンに映る駅が空になるのを見届けると、それぞれ椅子に座った。スクリーンが何も映さなくなった。
MIROKUが他の二人に言った。「さて、我々の役目は終わった。命令するものがいない。どうしますか?」
KANZEONが答えた。「こうしていても無駄ですわね。死というものがないわたしたちですけど、眠ることならできますが」
「そうですね。彼らも我々が必要になったら起こせばいいのだし」と、HUGENが賛成した。
「ではそういうことで。おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
三人のBOSATSUは目を閉じたきり微動だにしなくなった。彼らの眠りはそう長くは続かなかった。3週間後に彼らをゆり起こした人間は、リリスとファーストチルドレンの結末を知ることになった。
ターミナルドグマはいくつか最低限の照明が灯るだけの薄暗い空間であった。リリスは昔からの場所にいた。しかしその体は原型をとどめていなかった。最早十字架にも架かっていない。その足元に、不規則な丸っこい形を横たえている。白い肉塊という表現が似つかわしいものに成り果てていた。
そこに小さく、白く光るものが浮かんだ。ファーストチルドレン・綾波レイであった。彼女は学生服というかりそめの外観を捨て、生まれたままの姿でリリスの前に現れた。
ひそやかにレイは言った。「ただいま」
答えはなかった。
レイはリリスの最も高い場所に触れた。すると、リリスが目を覚ましたのか、全身から白色の燐光を放った。ドグマは一気に明るさを増した。LCLの池が光を反射する。レイの光とリリスの光が溶け合った。ますます強くなる光輝の中、レイの姿が見えなくなった。リリスも形が曖昧になり、そこには光を放つ塊りがあるだけとなった。
そこから光の粒が一つ、浮き上がって上昇し、ドグマの天井にぶつかって消えた。間をおかず、また一つ上って消える。さらにもう一つ。その現象が次第に頻繁になっていく。やがて光の上昇は夥しい数となり、夢か幻のような、この世のものとも思えぬ光景が現出した。それは数百世紀を閲した魔女と、第一の子である綾波レイの無への帰還であり、涅槃であった。
数刻続いた光の上昇も終わりの時が来た。最後の一つが上がったとき、丸く波紋を広げる水面には、何一つ形あるものは残っていなかった。その一つも天井に当たって消え、元の薄暗い空間だけが残された。寒々とした大洞窟は、時折地下水がLCLに落ちるか細い音が響く以外に、何も起こらなくなった。
綾波レイが望み、成し遂げられた無への回帰は、こうして忍ぶよすがすら残さぬ完璧な形で実現した。しかしMIROKUが予言した通り、彼女は記憶という形で残り、その後も人々の意識の中で生き続けるのである。
長いトンネルの中の旅は続く。コトミは傍らの錦で飾られた箱を撫でた。ラストマンの思い出が溢れてきた。
「父さん、起きちゃったかねぇ。でも、すぐに新しいおうちに入れてやるんだから、怒ってないよねぇ」
フユキは言った。「父さんは地上を恋しがってた。空の下で眠れるんだから、本望だと思うよ」
「よく働いたヒトだったよ。一頃は過労でどうにかなるんじゃないかと思った。世界中から火事場泥棒みたいに食料やらなにやら取ってきちゃあ、貯め込んでさ。子守のできるアンドロイドは大歓迎だったね。最初に100人作ったってのも無茶な話だった。それからはもう、昼間は子供の相手にアンドロイドの監督、夜は夜で遅くまで勉強だ」
「君も実によく働いた」
「そりゃ仕方なかった。やっぱりあたしがあの子らの母親になってやらなくちゃさ」
「子供たちもよく懐いていたね」
「あたし、100人分の名前を必死に覚えたからね。アンドロイドに負けたくなかったよ」
「次の年はさすがに人数を減らしたんだよね」
「それでも40人だからね。凄い情熱だったよ。『おれは千年続く国家を建設するんだ』とか言って。とにかく自分がしくじったら、ろくな国ができないってんで、凄く悩んでいたよ。生活ぶりまで模範になろうとしてた。そんなに無理しないでって何度も言ったんだけど。あたしもさぁ、いいお母さんになろうと思って頑張ったもんだ。育児本何冊も読んで。まだ十いくつの女の子だってのに!あたし思うんだけど、使徒とは遂に一戦もしなかった。だけどね、あたしほど長く戦ったチルドレンはいないよ」
「そうだね。その通り」
コトミは指を一本立て、強調して言った。「あたし自身は一人も産んじゃいない。だけどね、子供はたぁくさんいるんだ。数え切れないほどさ。そう思うよね?」
「もちろんさ!」
話に区切りをつけたコトミは、頬杖をついて遠くを見る目をした。「考えてみりゃあたしたち、奇妙な親子だったよ。ヒトとチルドレンとアンドロイドだからね。あの日、父さんが言うのにゃ驚いた。『お前たち、結婚しろ』だもんね。『これからも一夫一婦制は維持する。そのためにお前たちがモデルになるんだ。ちゃんと式も挙げるんだ』あたし、舞い上がっちゃった。考えてもいなかったからね。『ほんとにいいの?それってありなの?』『いいんだ。ただし特例とする』嬉しかったねぇ。頭の柔らかいヒトで、ほんとに良かった」
フユキも往時を回想して目を細めた。「あの時は幸せだった」
輝くような笑みを見せたコトミは、思い出話を続けた。「しばらくしてあたしは言った。『わたしたちは夫婦になる。じゃ、おじさんはどうする?』父さん、きょとんとした顔をしたっけ。『わたしたちが夫婦なんだったら、おじさんは父親になるべきじゃないの?』あたし、ヒトがあんなに赤くなるもんだとは思わなかった。返事をするまでだいぶ間があったよねぇ。『ま、お前がそう言うなら』だってさ。照れちゃってねぇ。ぶっきらぼうにしてたけど、内心嬉しかったんだよ、あれは。それからあたしたちは親子だ。阿南って苗字ももらって。あたしの代で終わりだけどさ」
「なんでもかんでもあのヒトが決めた。実際、なんでも好きなようにすることができたよね」
「でも、いつもみんなのためを思ってくれたヒトだった。そこが父さんの偉さだと思うよ。勉強の末に、ファーストチルドレンと共同で出した憲章もそうだ。民主主義。父さんそのものは独裁者だったけど、まあ仕方ないさ。基本的人権、三権分立に絶対平和主義。武器を徹底的に憎んでた。目に付くものはすぐに破壊か投棄さね。ほんとに最低限度しか残さなかったし、それも厳重に管理してね。『これがおれの最大の貢献だ』とか言って。外側に貼り付いたあたしの一族も無に返したり」
「理想的な社会を作ろうと一生懸命だった」
「育児が軌道に乗ると、今度は農耕に手を染めてね。『食料自給なくして存続はありえない』って。旧人類の遺産はいずれなくなるわけだから。子供たちはぶーぶー文句言ったし、反抗もあった。あたしも何人ひっぱたいたか。ファーストチルドレンのご託宣をもらって、やっと不平不満を言うのがいなくなった。むしろそれからが大変だった」
フユキはコトミの顔に深く刻まれた皺を見つめた。とにかく苦労の多い人生だったことはよく理解していた。「いいこともあったよ。ほら、第2世代の誕生」気分を変えようと、いい思い出を口に出した。コトミは心から幸せそうに笑った。
「あの時はねえ。苦労が全部吹っ飛ぶような気分だった。父さんはおんおん泣いて、あたしもぽろぽろ涙こぼして。新人類は自分たちだけの力で繁殖できることを示した。あれこそ新人類が紛れもなく人類であることの証明だったんだ。無限に続く可能性があるってことがはっきりした。あたしたち親子の、人生のハイライトだった」
コトミは夢見るような眼差しで回想に耽った。するうち、感情がこみ上げてきたのか、ハンカチを取り出して目頭を押さえた。フユキはコトミの空いた手を両手で包んだ。涙の収まったコトミはフユキの手を離してしきりに顔を拭き、照れ笑いを浮かべた。
「年を取ると涙もろくなるね。とにかく父さんは、実の親以上にその子を可愛がってたよね。それから次々と子供が生まれたわけだけど、その子は特別だった。まためんこい女の子でさぁ。でも、その子、九つだったっけねぇ。インフルエンザで亡くなってしまって。父さんの悲しむこと。あたしも悲しかったけど、父さんの嘆きようといったらなかった。でもねえ、人なんだからさ、早死にするのも出てくる。自然の摂理ってもんだ。こればっかりは仕方がない」
覚り切ったような顔のコトミは、淡々とハンカチをたたんでポーチに戻し、話を継いだ。
「父さん、晩年も忙しかった。自分が死んだ後どうなるのか心配してたよ。特に人口知能の反乱を懸念してたよね。彼らは新人類を『人間』とみなし、これまで通りの忠節を続けるのかどうか。世界中津々浦々まで、遺言を伝えた。自分の死後は新人類が『人間』だとね」
「長い論争もあったよね」
「スーパーコンピューター対人間の討論なんて、もう二度とないだろうね。最終的に父さんは勝った。社会の秩序は守られ、あたしたちは安心して生きていられる。最後の大仕事だったよ。でもあれが寿命を縮めちまった。もっと生きてりゃ自然環境も良くなってて、地上を満喫できただろうに」
コトミはしんみりと阿南タカマサの骨箱を眺めた。ラストマンとして最上の人間だったと、彼女は確信している。あの時、狭いエントリープラグで共に過ごしたことは間違いではなかった。人類の文化と文明がこうして存続したことに、彼女の果たした役割もまた大きかった。コトミは誇らしい気分になり、胸を張った。
「今じゃ第3世代も大きくなった。人口約6500人。大量死もどうにか乗り越えた。知らない顔のほうがはるかに多くなっちまったよ。あたしをラストチルドレンだと知らないのもいるぐらいだ」
「なんだかんだ言って、幸せな人生じゃなかったのかい?」フユキは暖かな眼差しを向けて言った。コトミは大きく頷いた。
「そりゃ、そうさ。長生きして、大勢の子供がいて、グレートマザーとか呼ばれて。これで不幸だなんて言ったら、ねえさんたちに申し訳ないじゃないか」
コトミは錦の掛かった箱を向かい側に置き、隣りの空席を掌で叩いた。フユキはその場所に移動してコトミに体をつけた。一見年の離れたこの夫婦は、じっとお互いを見つめた。
「あんたがいなきゃ、あたしはここまでこれなかったよ」
フユキはコトミの痩せた肩に手を置いた。「君が長生きしてくれたおかげで、ぼくも色々な経験ができたよ」
「あたしはもっと生きる。ねえさんたちが早死にした分、あたしは長生きする。そう決めたんだ」
「きっと100まで生きていける」
「ねえ、良かったら、ここでキスしとくれ」
「良かったら?なに言ってるんだ」
輝くような青年のフユキは、老いたコトミを抱き寄せ、堂々と唇を吸った。
ラストマンの娘と婿の乗った車両から一両おいた車両には、マサトの一家とチヒロの一家が固まって旅を楽しんでいた。大人たちは自分たちの会話に夢中だ。マサトと妹はチヒロと一緒にグループを作っていた。
マサトはふっとため息をついた。「やっぱり行かなきゃだめなのかなぁ」浮かぬ顔の彼は、列車がジオフロントを離れるにつれて憂鬱になってきていた。生まれ育ったジオフロントへの愛着は強く、早くもホームシックにかかってしまった。
「まだそんなこと」チヒロが歯がゆそうに言った。「もう行くしかないでしょ。なんなら、あんた一人であそこに住んだら?」
「そんなのできるわけないじゃないか。ぼくが言いたいのは、直せばもっと使えたんじゃないかってこと」
「それにしたって限界があるわよ。早目に移る方がいいに決まってるわ」
「ぼくだって理屈は分かるよ。でもさあ、暑さとか寒さとか、雨やら雪やら、ろくなことがなさそうじゃないか」
「二言目にはそれね。我慢するしかないじゃない」と言いながら、チヒロは自分にも言い聞かすのだった。「きっとそのうち慣れるわよ。あたしたちは人間なんだから」
「お兄ちゃん、みれんたっぷり」小さな妹が言った。その目は冷たい。マサトは二人に責められて、たじたじとなった。
「ちぇっ。もう言わないよ」頬杖をついて窓の外に目をやった。断続的に通り過ぎるライトの他は闇があるばかりだ。
妹がもじもじしながら立った。「お兄ちゃん、わたし、おしっこ行きたい」
「じゃ、おトイレ行っといで。えーと」マサトは首をめぐらして車両を見渡した。「この車両にはないみたいだな。隣りに行ってみな。探検しといで」
「わかった」
小さな妹は中央の通路を、とことこと歩いて行った。チヒロは彼女のことが少し心配になった。「ついていかなくてもいいの?」
「大丈夫、大丈夫」マサトは手を振ってそっぽを向いた。
コトミはラストマンの骨箱を膝の上に乗せた。錦を取り去り、白木の箱をむき出しにし、蓋を開けた。白磁の骨壷がある。その丸い蓋を掴み取ると、32年ぶりに父の遺骨に光が当たった。
「バッグをおくれ」
向かい側に戻ったフユキからハンドバッグを受け取り、口を開けた。中に手を入れて摘みだしたのは、一辺3cmほどの正方形をした半導体であった。
「ハルカさんだね?」フユキの問いかけに、彼女は無言で頷いた。
コトミはしばしそれを見つめて回想に耽った。
父さんの遺品からこれを見つけたときは驚いた。壷の中なんて、隠し場所としてはあまり上等じゃなかったね。でも、これのことを知らなかったら、捨てちゃってたかもしれない。父さん、あたしには内緒にしときたかったんだ。チルドレンの心の正体。でもあたしは知っていた。チルドレン用のシェルターに沢山落ちてたのを見たから。自力で調べたんだよ。その時は確かにショックだった。でもねぇ、ちゃんと克服したんだよ。フユキが懸命に元気づけてくれた。忙しくて嘆いている暇もなかったしねぇ。
顔を上げてフユキに言った。「あんた、気づいてたかい?あたしが二十歳ぐらいの頃さ、父さん、あたしのことをなんか切ない目で見るの」
「感づいていたよ」
「無理もないよ。あたし、どんどんハルカねえさんになっていったから。重なったんだろうね。ねえさん、笑って否定してたけど、やっぱり父さんはねえさんを愛してたんだ。それからだよ。アンドロイドの愛人を何人も作って。あたしはみっともないって言ったんだけど、取り合わなかったね。父さんなりに葛藤はあったんだろうね」
「案外、孤独なヒトだったのかもしれない。表に出さなかったけど」
「これが出てきてはっきりしたよ。ずっと持ってたんだ。でも、どうしてこんなものを入手できたのかねぇ」
「永遠の謎だよ」
コトミは摘んだLSIをそっと骨の上に置いた。
「ねえ、こんなことして、ねえさん迷惑じゃないかな?」
「いや、きっと許してくれるよ。父さん、40年以上も持ち続けたんだろ?ハルカさんも離れ難く思ってるよ」
「そうだよね。それに違いないよ」
ハルカの『心』は、長い年月を経て阿南の懐に戻ったのである。
コトミは白い骨片の上に乗った黒い板に向かって語りかけた。「これでいいんだよね?ハルカおねえさん」
「呼んだ?」
いきなり声を掛けられたコトミは、驚いて声のした方を見た。紺色のワンピースと、リボンつきの白い帽子で着飾った4才ぐらいの女の子だった。コトミを無心に眺めている。
訳の分からぬコトミは、愛くるしい少女に目を丸くしながら訊いた。「おや、どこのお嬢さんだい?お名前は?」
「ハルカ」
コトミは大きく目を見開いたまま何も言えなくなった。これは何だろう。ハルカに別れを告げるその時に、ハルカが現れるとは。フユキも口を開けたままにしている。
「それなに?」
小さなハルカは骨箱を指差して訊いた。コトミは手にしていた蓋をそそくさと元に戻して答えた。「これはね、ラストマンのお骨なんだよ。向こうのお墓に引越しさせてあげるのさ」
「じゃ、おばあちゃんはラスト・チルドレンなの?」
「ああ、そうだ。こんにちは、ハルカちゃん」
「こんにちは。どうしてわたしを呼んだの?何か用?」
「ええっと、それはねぇ」コトミはちょっと困った顔をし、間をおいて空いた席を示した。「お嬢ちゃんがあんまり可愛いもんだから、お話がしたくなったのさ。ここに座って、少しお喋りしないかい」ハルカは迷いを見せた。前の車両にいる家族が気になっていた。コトミは箱をフユキに渡してバッグを引っ掻き回し、ご褒美を出した。「チョコレートがあるよ。ほら、こっちに来てお取りなさい」
きらきらと光を反射する包み紙は、少女の気を引くに十分だった。ハルカは無言で席に座り、コトミに向かって手を伸ばした。
コトミはこの娘がこの瞬間に現れたことに、一種神秘的なものを感じていた。単なる偶然と割り切れない、奥深いもの。言わば天の配剤とでも言うべきものなのではないか。コトミはそれを確かめるために、ぜひともこの娘と話がしたかった。
ハルカの小さな口がもぐもぐと上下に動く。それからにっこりと笑った。「おいしい。ありがと、おばあちゃん」
「まだまだあるよ。ほれ、もう一つ取りな」コトミの手から、またチョコレートの包みが渡された。ハルカは喜んで、すぐさま口に放り込んだ。無心にお菓子を味わう少女を、コトミは慈愛の篭った目で見つめた。
「おばあちゃん、優しいね」口の端に茶色い模様をつけたハルカは、機嫌良く言った。
「そうとも、あたしはこう見えてもグレートマザーなんだよ。ところで、名前はハルカなんだね?」
「うん。上杉ハルカ。苗字は昔の偉い軍人のだって」
「ふうん。で、家族は何人いるの?」
「お兄ちゃんと、父さん、母さん」
「四人家族なんだね。父さんや母さんは優しいかい?」
「うん。母さん、時々怒るけど、いつもは優しいの。父さんはわたしにベタ甘」
「そうかい。幸せそうないい家族じゃないか」
「うん。わたし、幸せ」
ハルカはチョコのついた歯を見せて笑った。コトミは非業の最期を遂げた42ndチルドレンと同じ名を持つこの娘が、いたって幸福そうなことを喜んだ。そしてそれは、かつて阿南が無性に可愛がった、第2世代の創始者である娘の名前でもあった。その名を選んだのは阿南自身だったのだ。
この子がハルカねえさんの生まれ変わりだったら素敵だねぇ。コトミはそんな考えをしつつハルカを眺めた。しかしどんなに考えたところで、正解などありはしないのだ。コトミは結局どうでもよくなった。今この瞬間を味わえばいい。フユキはきちんと錦をかぶせ直した骨壷を抱えながら、老いた妻と少女の会話に聞き入っていた。
「あっ、いた!」
コトミがいる席の前から声が掛かった。小学校中学年ぐらいの男の子と女の子がハルカを見ている。コトミは顔を上げて彼らを見、すぐにこの娘の家族が捜しに来たのだと理解した。
「お兄ちゃんだ」
「ハルカ、こんなとこで何してんのさ」彼らはなかなか戻って来ないハルカが気になり、迎えに来たのだ。
「ラストチルドレンにおやつをもらったの」
驚いたマサトとチヒロは、ハルカの隣りに座った老婦人を見た。どこか見覚えのある顔だった。ファーストチルドレンの面影が確かにある。
「あっ、こんにちは、ラストチルドレン」「こんにちは」
頭を下げる二人を、コトミは気分良く眺めていた。
「ああ、この子の兄ちゃんだね。悪いね、ハルカちゃんをお借りしてましたよ。そっちの姉さんは?」
「あ、わたし、同級生の土方チヒロっていいます。マサトとはご近所同士なんです」
コトミはぽかんと口を開けて若い二人を見つめ、信じられぬ思いで指を上げた。「ええ、じゃあ、兄ちゃんはマサトで、姉ちゃんはチヒロなんだね」
「はい」「そうです」
なんてこったい。長生きはするもんだ。「あはは。こりゃあたまげた。そうかい、そうかい。へええ。珍しいこともあるもんだ。昔の知り合いと同じ名前が三人そろってやってくるなんて。いや、ばあさん、あんたたちを気に入った。そこにお座り。フユキ、そこどいとくれ」上機嫌のコトミは盛んに子供たちを手招いた。フユキは立ち上がって席を空け、子供たちを促した。マサトとチヒロは顔を見合わせた。「さあ、遠慮しないで。ばあさん、おやつを一杯持ってきたから。父さん母さんには、ラストチルドレンに捕まったって言やあ許してもらえるさ」
マサトにチヒロはおずおずとコトミの前に座った。コトミはありったけの菓子を出し、水筒に入った茶を振舞った。その一角はちょっとしたホームパーティーの様相を呈した。通路を間において座ったフユキは、その光景をにこにこしながら見守った。
座はいつしかコトミの思い出話の独演会になっていった。お得意のフォースインパクト前に遡る冒険談は、十分子供たちの興味を引きつけた。
「そんときゃ、あたしも肝を潰したよ。まさか0号機が動くとは、思ってもいなかったからね——」
単調な列車の旅にもいつかは変化が訪れる。アナウンスが長いトンネルの終わりを告げた。
『当列車はあと1分ほどで隧道を抜け、平野部に出ます』
「おっと、こうしちゃいられない。フユキ、父さんかしとくれ」
コトミはフユキからラストマンの遺骨を受け取り、胸に抱いて窓の外を見つめた。チヒロは体をずらし、マサトは立ち上がって窓の外を見やった。ハルカは椅子の上に膝を乗せ、コトミの肩につかまって外を眺めた。その様子を見たコトミは驚いた。
「なんだい、あんたら初めてなのかい?」
「そうなの」「そうです」
「そうかい、もやしっ子だったんだね。なら、ようく見るがいいよ。ほんとの人間が生きる世界さ!」
『当列車は間もなく隧道を出ます』
さあ父さん、一緒に青天井の空を見ようねえ。コトミはラストマンの骨壷を顎の下まで持ってきてその瞬間を待った。
車内はいきなり自然の光線で満ち溢れた。窓の外には見渡す限り、緑の草原があった。空はすっきりと晴れ、青空が無限の彼方まで続いていた。
父さん、やっと見られたね。嬉しいでしょ。コトミは後半生の殆どをジオフロントの天蓋の下で過ごした父を思いやった。この日こそ、この奇妙だが固く結ばれた親子の遠大な事業が完成する日でもあった。
子供たちは、声もなくこの壮大な風景に感じ入った。画像での体験とはまるで違う。行き止まりがどこにも見当たらないのだ。現実の世界は途方もなく広かった。
「あれ、海よね?」チヒロがずっと遠くに見える、青く平べったいものを指差した。
コトミが答えた。「そうだよ。あれが海。全部の命の母胎となった場所さ」
「うわっ、眩しい」マサトが叫んで目を覆った。
通路に立ったフユキが注意した。「太陽を直接見たらだめだよ。目を傷めちゃうよ」
チヒロが目を煌めかせて呟いた。「すごい。これが全部わたしたちのものなのね」
それを聞いたマサトがしたり顔で言った。「あー、そういう考えは良くないな。そういう高慢な考えが旧人類を衰退させたんだからね」
「はいはい、分かってますよ。環境第一。地球はみんなのもの。ちょっと言ってみただけ」
舌を出すチヒロをコトミは楽しげに眺めた。海の上には積乱雲が発達し、数千メートルの高さに達している。自然が形作る雲塊もまた眼を引き付ける美を持っていた。それを見ながらマサトは言った。「明日の天気はどうなるのかな。雨かも。そうなったらいやだな」
「あんた、まだそんなこと」チヒロはあきれ返ってマサトを睨んだ。
コトミはマサトをちらりと見て、外に視線を戻し話を始めた。
「もやしっ子らしいねぇ。雨だって別に構わないじゃないか。雨が降るおかげで田んぼや畑に水が来るんだよ。巡り巡って飲み水にもなる。自然の恵みなんだ。
地上はいいところが沢山あるよ。朝の日の出、夕方の日の入り。天気のいい日は空が真っ赤に焼けて、綺麗なことといったら。夜になるとね、いろんな形のお月さんが昇る。お星様も綺麗だよ。暗い空いっぱいにきらきらと光るものがあるのを想像してごらん。
今は夏で、空調のないところは暑くてたまらない。でもそんなときは水を浴びればいい。川や海へ行って、みんなとする水遊びほど楽しいことも少ないよ。秋になると収穫の時期だ。田や畑は一面黄金色になってねぇ。おいしいものが沢山できる。それからどんどん寒くなって冬になる。でもおうちの中はいつでも暖かいのさ。雪が降ることもあるね。でもね、雪景色だっていいもんだよ。そこら中真っ白でね、純白のドレスみたいだ。天気がいいときは、中の結晶が光を反射してきらきら輝くんだよ。早く見せてやりたいねぇ。それからいよいよ春だ。気温がどんどん温くなっていく。原っぱにはちっちゃな緑の芽が出てね。可愛らしいもんだよ。木々からは葉っぱが芽ぶいてくる。ぱっと花を咲かせる木もある。そりゃあ見事な景色だ。そして草原は赤いのやら黄色いのやら、いろんな色の花でいっぱいになるんだよ。新しい命がそこいら中に満ちているんだよお」
子供たちは目を輝かせてコトミの話に聞き入っていた。コトミは潤んだ目で大地と水平線を見つめていた。
列車はカーブに差し掛かった。彼らの前に新たな風景が広がっていった。
「街だ!」
マサトは遠くの家並みと高く聳える塔を指して叫んだ。そここそ彼らがこれから暮らす新しい町なのだ。
四人にフユキを加えた十の視線がそこに集まった。彼らの胸の中には共通した想いがある。それは『希望』だった。
皆の目はずっと、近づく町の景色に釘付けになっている。チヒロの指がマサトの指に触れた。マサトはそっとその指を握った。やがて二人の手はからみ合い、しっかりと握り合わされた。
列車は昼下がりの高く上がった太陽の下をひた走る。遮る雲は一つとしてなく、どこもかしこも日輪の恩恵を受けて輝いている。それはやっと揺籃を抜け切った人類を、天が祝福しているかのようであった。
完
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