「おめでとう!」「おめでとう」
 シンジの周囲に湧き上がる拍手、歓声。足元には何故か南の海の珊瑚礁が拡がる。光あふれる世界。
 ミサトがいる。アスカがいる。レイがいる。加持がいる。父ゲンドウがいる……。
 みんながいる。
 かれら全員がシンジに向かって微笑みを浮かべ、拍手を送っている。誰一人敵のいない、誰もがシンジに優しい世界。
「おめでとう」
 シンジはかつてない昂揚と至福の最中にいた。こう思った。
 僕はここにいてもいいんだ!

新世紀エヴァンゲリオン

第弐拾七話

「目覚めよ」と呼ぶ声が聞こえ

間部瀬博士

 ……信二はふいに目を覚ました。
 目の焦点がまだ合わず、ぼんやりとした天井。煌煌とした手術灯の光が眩しい。
 誰かが上から覗き込んでくる。そのぼやけた人物から声が発せられた。
「おめでとう、信二君。私がわかる?」
 信二は返事ができなかった。幾度も瞬きをしてその人物に焦点を合わせようと試みる。
 やがて人物の輪郭がはっきりして来た。金髪の手術衣の女。それは、確かに見覚えのある顔だった。
「赤木……博士?」
 博士はにっこりと微笑んで言った。
「その通りよ。信二君。これであなたは戻ってこれた筈。だから『おかえり』の方がいいかな?」
「戻った?」
「そう戻ったの。悪夢からね」
「………………」
 だんだんと意識がはっきりとして来た。信二はあたりを見回し、ようやく自分の状態に気づく。
 ベッドに横臥し、腕には点滴の針が刺され、今も薬液が滴り落ちている。異様なのは赤木博士が手に持っているもの。なにやらヘルメットのようなそれは、何本ものコードと注射器のような物が林立している。そのコードは、傍らにある、巨大な灰色の直方体の機械に接続されている。その前に椅子が置いてあり、キーボードとモニターがあるのがわかる。
 二人、手術衣を着た人物が信二の視界に入って来た。そのうちの一人がマスクを下ろして言った。
「やあ信二君。僕を覚えているかい?」
「加持さん?」
 その人物は、信二にとって懐かしい加持に他ならない。
「そうだよ。もっとも君が認識している加持とは違うかもな」
 もう一人の初老の男が言う。
「私もわかるね?冬月だよ」
「副司令…」
「君の中ではそうだったな。実際はここ、××大学病院の部長だ」
「僕は…僕は、何かの手術を受けたんですか?」
「その通りよ、信二君。でもあなたは帰って来たばかり。今は休むことが大切なの。口を開かないでゆっくりと寝ていて頂戴。これから病室へ運ぶから」
「……………」
 赤木博士は、お願いします、と後ろに向かって言う。
 看護婦が二人近づいて来た。信二には馴染みのあるその顔。
 ミサトさん!マヤさん!
 唖然とする信二を尻目にてきぱきと準備にかかる二人。ミサトはその最中に一瞬ウィンクを送ってよこした。
「ミサトさん…」
「しぃーっ。だめよ、今は。寝てなさい」
 口に人差し指をあてて制するミサト。
 やがてシンジの寝ているベッドは手術室を出て行く。シンジは見知らぬ廊下を、病室へ向けて運ばれていく。
 信二は、眠れと言われていたが、好奇心に負けてうっすらと目を開け、この見知らぬ世界を眺める。蛍光灯の光。窓の外に見える木々の緑。
 そのうち、数々の看板が目に入り始める。
 神経内科。神経外科。集中治療室。投薬室。隔離病棟。開放病棟。作業療法室。「統合失調症患者に愛の手を」と書かれたポスター。
 そうか、分かった。
 精神病院なんだ、ここは…。



 赤木博士は、診察室の椅子に深々と腰掛け、たった今書いた信二のカルテを眺め、ため息を一つついた。
 その時ちょうど入室してきたミサト…葛城看護婦が言った。
「どうしました。先生。信二君に何か問題でも?」
「大有りね」
 赤木博士はカルテをいまいましげに眺めて答えた。
「どうしてです?信二君元気そうだし、受け答えもしっかりしてますけど?」
「記憶がね、ないの」
「記憶が!」
「そう。正気だった頃の記憶がまるでない。あるのはあのエヴァなんとかって幻想にはいってからの記憶だけ」
「そんな…」葛城は、顔を曇らせた。
「結局あの手術は半分しか成功してないってことね」
「前はそんなことなかったのに…」
「ま、個人差はあるし、この精神外科手術は信二君でたったの二例目。まだまだ研究の余地があるって事かな」
「…………」
「今、私達がなすべきことは信二君の記憶の回復に全力を尽くすことね」
 葛城はふーっと息を吐いて言った。
「でも考えてみれば、今のままの方が信二君にはいいのかも」
「それは関係ないわ」
「関係ない?」
「そうよ。医師の務めはいまそこにある疾患を除去すること。価値判断までする必要はない」
 赤木博士はそう冷たく言い放った。
「やれやれ、信二君、これからも大変だわ」
 葛城は、信二に同情しているのだ。
 あの装置、MAGIの発明者としては、100%の成功じゃないと困るってわけね。



 隔離病棟の中の一室。信二はベッドに寝て、ぼーっと天井を眺めていた。
 その部屋には、およそ何の装飾もなかった。壁も天井もコンクリートが剥き出しだ。調度品もベッドと簡単なチェストがあるばかり。テレビすらない。窓には鉄格子が嵌り、部屋の雰囲気を一層陰鬱なものにしている。
 それは、綾波レイの、あの部屋を思わせるものだった。
 エヴァンゲリオン。使徒。ネルフ。綾波レイ。アスカ。渚カヲル。人類補完計画。……。全部僕の妄想。
 あの世界には殆どいいことはなかった。最初の頃は父さんやみんなに誉められたくて頑張ったさ。それこそ命がけで…。でもトウジを守れなかったあたりからは地獄の日々だった。綾波の自爆。ダミープラグ。
 そして渚カヲル。僕がエヴァで握り潰して殺した…。でもそれらは全部本当ではなかったんだ。全部忘れていいことだったんだ。コルサコフ症候群だったっけ…。みんな僕の病気が生み出した幻覚だったんだ。
 だから僕は喜ぶべきなんだ。でもなんだか楽しくないんだ。どうしてだろう?この言いようのない感じはなんだろう?
 病気になる前の僕はどんなだったんだ?思い出そうと随分頑張っている。でもできない。まるで頑丈な壁の向こうにあるみたいに手がとどかない。
 僕自身が思い出したくないから?そうかも知れない。何かとてつもない不幸な出来事があって、そこから逃避するために、記憶に蓋をしてしまう。そんなことがあると聞いた事がある。
 例えば母さんは?エヴァの世界では母さんはエヴァに飲み込まれてしまっていた。現実の世界でも母さんに何かあったのか?
 父さんはどうなった?もうあれから1週間にもなるのに父さんはやって来ない。そもそも生きているのか?
 本当の僕ってなんだ?どこで生まれて、どこで育って、どんな友達がいて……。
 僕には何にもない。僕にとっての現実はあのエヴァの世界だけ。あの悪夢のような世界。
 悪夢と悪夢かもしれない現実。僕にはそれしかないのか?それじゃあんまりじゃないか。
 だから僕は不安だ。言いようもなく。
 僕は思い出すべきなんだろうか。それともこのままでいるべきなんだろうか。わからない…
 わからない…………。
 ……………………



 加持医師と葛城看護婦が信二の病室(一人部屋だ)へやって来た。
「こんにちは信二君。調子はどうだい?」
「最近は大分元気になってきました。そうよね。信二君。」
 葛城が口の重い信二に代わって口を挟んだ。
 信二はベッドに腰掛けてぼそっと答えた。
「ええ、最近は調子がいいです」
 そりゃなにより、と言って加持は傍らの椅子に腰掛け、カルテを取って信二に向き合った。
「ええと。記憶の方は相変わらずってところか。そこで今日は、君の記憶を取り戻すきっかけになりはすまいかと思ってね、珍客を呼んであるんだ」
「珍客?」
「そう。君の肉親さ。綾波怜さんだ」
「綾波が!!僕の肉親!!」
「そう妹さんだ。同時に僕の患者でもある」
「患者?」
 加持は眉をひそめて見せる。
「うん。残念ながら彼女もここに入院しているんだ。でも安心していいよ。軽症だからいつか必ず退院できる」
 そう言って加持は微笑みながら、信二の肩をたたいた。
「でも、僕は碇なのに、妹は何故綾波なんですか?」信二が疑問を口にした。
「彼女、可愛そうだけど、養子に出されていたんだよ。それで綾波って姓なんだね。で、その綾波家は、そのう、経済的にまずくなってね。戻って来たってわけだ。それが3年前」
「…………」
「そういう気の毒な子なんだから、優しくしてやってくれよ」
 それじゃ逆じゃないか。捨てられたのは僕じゃなくて綾波だったんだ。
 その時、ドアをノックする音がした。葛城がドアを開けると看護士の日向真が入って来た。
「先生。綾波さんを連れて来ました」
「どうぞ」
「怜ちゃん、ほら、お兄さんよ」
 葛城が少女の腕を引っ張って招き入れる。
 信二はその少女を見た。
 綾波だった。
 あの懐かしい綾波レイの姿。
「綾波………」
 信二はそう言ったきり絶句してしまった。
 綾波怜。その容姿は信二の運命の少女、レイと変わりない。ただ、服装がパジャマだ。
「おにいさま…」
 怜はひっそりとそう言って信二に近づいてくる。その口元には、かつて信二を感動させたあの微笑が浮かんでいる。
「よくなったのね?おにいさま。怜はうれしい」
 綾波。あやなみ。僕の綾波。本当にいたんだ。
「どうしたの。わたしのこと忘れてしまったって本当?何か言って。おにいさま」
 そう言って怜は信二の両手を握った。
 綾波。『ひと』なんだね。生きているんだね。
「うん。僕は…、僕はまた綾波に会えて嬉しいよ」
「綾波なんて他人行儀な呼び方はやめて、おにいさま。前みたく怜って呼んで」
「あ、前は怜って呼んでたんだね。わかった…今度から怜って呼ぶよ…」
 後の方は涙声になってしまった。
「おにいさま」
 怜は、大胆にも信二をぎゅっと抱きしめた。
「れ、怜…」信二の顔がみるみる赤くなっていく。
 信二は両の腕をどうすべきかわからず、宙をさまよわせる。
「ふう、兄妹感動の再会ってわけね。お姉さんも泣けてくるわ」
 葛城はそういって、腕を顔にあてて泣きまねをしてみせる。
 加持は、やや離れた所から、二人の様子を医師の目で冷静に観察している。
 その時、再びノックの音が響いた。葛城がドアを開け、外の人物と二言三言話をすると信二に言った。
「信二君。あなたの前にあの手術を受けた、惣流さんが来ているけど、会ってみる?」
「惣流さん…。アスカが!?」
「そう。惣流明日香さん。クォーターの可愛い子よ。ま、ある意味もう知ってるわね」
「会います」
 そう言って信二は抱きついていた怜をそっと引き離した。怜は一瞬のうちに無表情になる。
 黄色のワンピースを着た少女が入って来た。
 信二の中では惣流アスカ・ラングレーと呼ばれた少女。なにもかも、かつての信二の幻想のまま。
「碇信二君。こんにちは、でいいよね?」
 ああ、アスカ。元気になったんだね。
「アス…惣流さん。久しぶり。あ、こちらは僕の妹で…」
「知ってる。綾波怜さんでしょ」
「あ、そう。その…もうすっかりいいの?」
 信二の思うアスカの病状と、明日香の現実のそれとは違ったが、会話は成立した。
「うん。もうかーいちょうって感じ。すっかり一般人って者よ。アタシは」
「そう良かったね。ア…惣流さん」
 明日香は信二をしげしげと観察して、
「ふうん。前とは全然違うわねえ。あんたったら、前はうつろな目でぶつぶつぶつぶつってさあ、そりゃあ変だったのよう。でも今はちょっと内向的な男の子って感じね」
「惣流さん。人のことは言えないんじゃないのお」
 葛城がまぜっかえした。
「てへっ。そりゃ確かにそうね」
 明日香は舌を出してみせた。そうして加持の方を振り返り、
「加持先生。碇君はいつ開放病棟の方に移れるんですかあ?」
 加持はちょっと考えてから、答えた。
「うん。赤木先生の許可がいるけど、今日の様子なら、二三日中には移れるんじゃないかな。実を言うと今日こうして二人を会わせたのは、どんな反応を信二君が見せるか、観察するためだったんだ。ま、今のところ問題はないね」
「だって。良かったね。碇君」
 明日香は信二に、にっこり微笑んでみせた。
「怜さんも良かったね。これからはお兄さんとしょっちゅう会えるよ」
 怜は、うん、と小さく答えた。
「アタシもあんたも赤木先生のおかげで、正気に戻れたのよ。そういう意味じゃあたし達仲間なんだから、仲良くしましょ」
 うん、と言って、信二はうれしそうに微笑んだ。
 加持は、時計を見て、よっこらしょと立ち上がった。
「お二人さんには悪いけどそろそろ時間だ。ま、これからは、頻繁に会えるから、今日のところはこれでお開きにしてくれないか」
 二人は素直に入口に向かう。怜は名残惜しそうに信二を見ている。加持と葛城も引き揚げにかかった。
 明日香は去り際に信二に言った。
「碇君。アタシのこと明日香って呼びたいんなら、呼んでもいいよ。アタシも信二って呼ぶから」
 そして信二は一人部屋に取り残された。長い孤独な時間が再び始まった。



 その二日後の早朝、信二は加持の予告通り、開放病棟の一室を与えられた。
 その部屋は、隔離病棟のそれと違い、窓に鉄格子もなく、明るく清潔感がある。信二はやっと人間らしい生活を送っている気分になった。
 怜が部屋にいて、信二と隣り合って腰掛け、話している。
「…それで、怜の症状はどうなの?」
「うん。近頃は薬のおかげで、変な声とか聞かないし、悪い夢もあんまりみなくなったの。加持先生もどんどんよくなってるって言ってた」
「そりゃ良かったね。怜」
「わたし、おにいさまと一緒に退院したいな」
「そうなるといいね」
 二人の親密さを物語るように、ぴったりと寄り添っている。信二はふと、相手が妹怜でなく、綾波レイと話している気分がした。
 信二は座り直し、怜と向き合い、切り出した。
「で、今日は大事な事を聞きたいんだ」
「大事なこと?」
「うん。父さんの事」
「…父さん…」怜の顔が一瞬曇った。
「母さんが死んだってことは教えてもらった。でも、父さんのことは葛城さんや伊吹さんに聞いても曖昧な返事しか返ってこないんだ。怜ならきっと答えてくれるよね?」
「……………」
「普通息子が手術をしたって聞いたら、大抵飛んでくるよね。でも未だに会いに来ないのは何故?もしかして病気だとか?」
「病気じゃない…」
 そう言う怜の表情には、怯えが浮かんでいた。
「病気じゃない。だったら何故?」
「父さんは死んだ……」
「死んだ!」
 その答えは予想していなかった。
「それで、どうして死んだの?」
 信二はじっと怜の目を見つめた。
 怜は数秒の間沈黙を保った。そして、ようやくか細い声で「わからない」と答えた。
「どうして?そんなの普通じゃないよ!」
 信二はつい声を大きくしてしまった。怜の怯えが強まる。
「それは……、そのとき怜はもう入院していたから……、あの、お葬式とかにも行けなくて……ごめんなさい」
 怜は目に涙を浮かべていた。信二はそれに気づき、失敗を悟った。
「あの、ごめんよ。怜。ほんとにごめん。君にとってもつらいことなのに…大声を出したりして」
 怜は信二にしがみついて来た。今度は信二もそれに応え、しっかりと抱きかえした。
「ごめんよ怜。もう大丈夫。大丈夫だから…」
 信二は、怜の背中を優しくたたいた。怜はなかなか離れようとせず、そのまま時が経っていった。
 やがて怜は言った。
「おにいさま。無理に思い出そうとしなくてもいいわ」
「うん。加持先生や赤木先生もあせるなって言ってたよ」
「ちがうの。そういう意味ではないの」
「違う?」
「人生には思い出したくもない、いやなことでいっぱい。わたしは逆におにいさまがうらやましい」
「…………」
 良くはわからないが、自分達はあまり幸福ではなかったらしい。信二は暗澹とした気分になった。
「ねえ、白紙の状態からこれからやっていきましょうよ。怜はそれで満足。困ったことがあったらわたしがなんとかする」
「何とかするって言っても…僕達に他に身寄りは?」
「***おじさまがいる。ここの入院費用とかはこのおじさまが出してくれている。でもお金だけ。口も顔もださない」
「…………」
「だから、おじさまはいつまでもあてにはできない。最後はわたしたち、この世に二人だけ」
「…………」
「わたしたちずっといっしょにいましょうよ。きっと生きていける」
 信二はそれに答えるようにぐっと怜を抱きしめた。



 怜が自分の病室へ戻った後、信二は、数枚の写真を手にしていた。加持が記憶回復の手助けにと、叔父宅から取り寄せてくれたものだ。
 その中の、特に目を引く一枚に、自分達家族の肖像があった。緑なす山を背景に、父と母が並んで立ち、それぞれ自分達兄妹の手を握っている。自分も怜も幼い。3歳か4歳ぐらいだろうか。二人共微笑みを浮かべている。背後にいる父も母も若い。その中に信二は驚くべきものを見た。
 父が笑っているのだ。
 信二にとって父はただひたすら冷たく、厳しい存在だった。自分に対して笑いかけたことなど、一度もないはずだった。そんな父が笑っている。
 それは、ごく普通の、幸福な家族の肖像。運命に翻弄される前の、かつてあった幸福な時間の一こま。
 僕にもこんな時代があったのか……。
 ふいに涙がこぼれ、写真に落ちた。それは、長い間続いた。



 その日の昼近く、信二と怜は、娯楽室へ来ていた。
 そこには、大型画面のテレビに向かって何脚もの椅子が置いてあるコーナーや、卓球台、清涼飲料水の自動販売機、テーブルなどが置かれている。今、人は多くなく、数人がテレビに見入っているだけだ。
 自動販売機の前に明日香がいた。明日香は紙コップを振り上げてこちらを呼んだ
「おおい。信二。怜ちゃん。」
「明日香。こんにちは。相変わらず元気でいいね」
「当たり前よおー。アタシは若いんだから。あんたたちが元気なさすぎなの。ま、そこにすわんなさいって」
 信二と怜は明日香のいるテーブルについた。
「それで、どう。退院できそう?」
「そーねー。赤木先生まだはっきり言わないのよ。アタシもう全然薬飲んでないのに、こんなに元気なんだから、退院したってよさそうなもんよ。そう思わない?」
「はは、そうだね」
「ほんとに早くおさらばしたいわ。こんなとこ」
「うん。僕もそう願ってるよ。ところで、一つ聞きたいことがあるんだけど…」
「なに?」
「あの、渚カヲルって人知らない?」
 途端に明日香の表情が曇った。
「その、僕の幻覚のことは知ってると思うけど…、その中に出てくる人は殆どみんな僕がこの病院で会った人達なんだ…。だから渚君もこの中にいるんじゃないかと思って…。怜も知らないそうだし…」
「あんたバカア。…って言ってもしょうがないか。あのねえ、なんであんたが隔離病棟なんかに行ったと思ってんの?」
「は?僕はずっとあそこにいたんじゃないの?」
「ちがうわよ!あんたはもともと開放病棟にいたの。でもって渚君もここの患者!」
「渚君が?」
「そうよ。それであんた、この娯楽室でえ、突然彼に襲い掛かって首しめちゃったじゃない。そりゃもう大騒ぎだったんだから」
「僕がそんな事を……」
 信二はがっくりとうなだれてしまった。
「それから渚君は、こんな危ないところには置いておけないってご両親の意見でえ、転院して行っちゃったってわけ。わかった?」
 信二はショックのあまり口が聞けなかった。そんな信二の肩に怜がそっと手を置いた。
「ま、あんたは病気だったんだからさ、気に病むことな…」
 突然、明日香の態度が変わった。
 口をぽかんと開け、空中のある一点を見つめている。
 カタカタカタカタカタカタ………………
 明日香の手が震え、紙コップとテーブルがぶつかって音をたて始める。
 カタカタカタカタカタカタ………………
「なんでアレが見えるの……」
 信二と怜は茫然とそれを見つめるしかない。
「いやよ。見えるわけないじゃない。アタシ治ったんだから、見えていいわけない」
 明日香は明らかに恐慌に駆られている。目から涙が溢れてきた。
「いやよ。いや。イヤイヤイヤアアアアア」
 あらん限りの大声で叫び始めた。テーブルが明日香の持っていたコップの中身でびしょ濡れになった。
「明日香!」
 信二は席を蹴って明日香に近寄ろうとする。だが、それを見た明日香は、顔を恐怖に捻じ曲げ、叫んだ。
「来ないでええええええええええええええ」だっと立ち上がって信二から逃げようとする。
 看護士の日向と青葉が慌てて駆けつけて来た。
「惣流さん!!」「気を確かに!」
 二人は明日香の両腕を取り、必死に落ち着かせようとする。しかし、明日香はそれを振り切ろうと、暴れ始めた。日向と青葉は死に物狂いで明日香を押さえようとするが、明日香の抵抗も凄まじい。悲鳴と怒号が娯楽室に轟く。
「拘束衣をもって来い!」「鎮静剤も!」
 看護婦が拘束衣を持って走って来た。
 日向と青葉は力ずくで明日香を横へ引きずり出す。その間も明日香は泣き叫びつづけていた。
「ママアアアアアアアアアアアア!!」
 信二はがたがた震えながら、その様子を黙って見ているしかなかった。怜はそんな信二の二の腕にしっかりとしがみついていた。



 赤木博士の苦悩は深い。あの画期的な精神外科手術装置“machine of anti-galling-illusion”=通称MAGIの開発者として、磐石の自信を持って明日香の手術に臨んだのが2ヶ月前。その結果は十分満足のいくものだった。だが、その成果は今日になって無残にも水泡に帰した。
 博士は自身の研究室に立ち、窓から外を眺めながら、今後の対応策を一心に考えていた。彼等への今後の治療のことだけを考えているのではなかった。教授会のこと、学会のこと、自分に批判的だった某教授、対策を取らねばならないのは患者だけではない。
 ドアをノックする音がする。どうぞ、と言うと看護士の青葉が入って来た。
「惣流さんの様子は?」博士は外を見たまま訊ねた。不機嫌さがもろに声色に出ている。
「今はまだ拘禁室に入れていますが、鎮静剤を投与したので眠っています。あと1時間もすれば目をさます筈ですので、診察も可能かと」青葉が緊張しながら答えた。
「そう。目を覚ましたら教えて」
 青葉が退室した後も、博士は姿勢を崩さずじっと外を眺めていた。
 あと残るのは碇君か。彼の場合もあんな中途半端じゃねえ。
「どうやらノーベル医学賞はパアか」と口に出した。



 信二の場合は苦悩というより恐怖だった。
 明日香がああなった以上、自分もそうなるという予感が信二を苦しめる。
 いやだいやだいやだもうあんなのはいやだ。このままがいい。もうくるいたくない。あんなせかいにかえりたくない。かべにむかってぶつぶつひとりごとをいうようになりたくない。
 れい、レイ、ぼくをたすけて。ぼくをおいていかないで。ぼくのところへきてぼくにはなしかけて。だいじょうぶだっていって。ぼくにはきみしかいないんだ。ぼくたちふたりきりなんだろ。だからぼくのところへきてぼくをなぐさめて。ぼくにやさしくして。
「…助けて…助けて…」



 夜になった。
 既に消灯時間になっていたが、信二は眠れなかった。
 頭の中は、明日香に起きたあのことで占められている。夕刻、赤木博士が来て信二を励まして行ったが、その憔悴しきった顔を見ると、激励の言葉もむなしくなった。そうして信二は今、不安と恐怖の渦中にあり、眠気はまったく訪れる気配はなかった。
 病室のドアが音もなく開いた。
 信二はその気配に気づき、首をめぐらせる。
 怜がいた。
「怜!こんな時間にどうしたの?」
 怜はそっと口に人差指をあてて信二を制すと、信二の横に立った。
「おにいさま。眠れないのね?」と、ささやくように言う。信二も声を落とした。
「うん。どうしてわかったの?」
「わたしも眠れないから…」
 そう言うと怜は、驚いた事に信二のいるベッドにすべりこんで来た。信二の心臓が高鳴る。
「怜!」
「おにいさま。こわいんでしょ?」
「…うん」
「わたしが一緒にいてあげる…」
 怜は信二の胸に頭を乗せ、信二の体を抱いた。
「怜、レイ。まずいよ。」
「大丈夫。見回りは当分こないから…。わたしにはわかる」
 まだ理性の残る信二は、うろたえてしまう。
「いや、そういう意味じゃなくて、僕達は兄妹なんだよ」
「そんなことはどうでもいい。怜にはおにいさましかいないから…」
 怜は体を起こして信二の上に覆い被さる格好になった。
 紅い、美しい瞳が信二の目をまっすぐに見つめた。信二はたちまちのうちに引きずり込まれてしまう。
 やがて、どちらからともなく二人の唇が近づいていった……。
 禁断の陶酔のひととき。
 怜はやがて唇を離すと、ゆっくりと体を起こして馬乗りの姿勢になり、さらに驚くべきことを始めた。
 怜はパジャマの上着のボタンをひとつずつはずし始めたのだ。じょじょに素肌が見えてくる。怜はその下に何も着けていなかった。
 信二は口を開くことができなかった。茫然と次第に露になる妹の秘密を見つめるのみ。
 やがて、怜は上着をすっかり脱ぎ捨ててしまうと、信二の右手をとり、自分の乳房に押し当てた。
「おにいさま。思い出さない?わたしのこれに初めてさわったときのこと」
「え!!」信二は衝撃を受けた。
「あのときお風呂あがりのわたしを、おにいさまは押し倒したわ。そうしてわたしの胸をさわった…」
「…………」
「おにいさまは『ごめん』ってあやまってからこういった。『ぼくは怜がほしいんだ』って」
 あれは、本当に起きたことだったんだね。いや、それ以上のことをぼくは……。
「怜はとてもうれしかった。それからわたしたち、くちづけをして…、そしてひとつになった」
 信二は愕然とした。僕達はそこまでいってしまったのか。
 怜の胸の、やわらかな感触の魅惑は、信二をとらえ離さない。いつしか燃えるような情欲が信二の中に湧き上がり、理性に取って代わる。
 信二は上体を起こすと怜を抱き、唇を合わせた。そして体を入れ替え、怜を下にする。
 忙しく二人の手が動き回り、信二も上半身をはだかにした。そして信二は怜の横に横臥し、怜の下のパジャマに手をかけた。
「僕達は何度もこんなことをしたの?」おずおずと聞いてみた。
 すると怜は、にっこりと笑ってうなずいた。信二はそんな怜が愛しくてならず、官能の昂ぶりのまま、あちこちに口吻の雨をふらせる。
 やがて信二の腕は怜のパジャマを引き下げ………………。
 二人はすでに兄と妹とという垣根を乗り越え、単なる男と女として、信二の主観では初めての、怜としてはなつかしい、あの営みを始めようとしていた。



 二人は今、陶酔の後の心地よい気だるさを味わいながら、裸のまま寄りそっている。
 怜はふとぼんやりと見える掛時計に目をやる。そろそろ行かなくては。
「おにいさま。わたし、もう行くね」
 信二はそんな怜の体を抱き寄せ、キスしようとする。
「もう少し…」
 怜は少しだけ唇を触れさせると、ゆっくり上体を起こした……
 その時、パタパタとスリッパが廊下を踏みしめる音。甘やかな闇を切り裂くかのように、懐中電灯の光がドアのすりガラスを通して、あたりを照らし出した。
 その光がまっすぐに二人のいる部屋を射ると、闖入者の手がドアに掛かった。
怜は、あわてて信二のベッドにもぐりこんだ……。

 今夜の当直看護婦伊吹麻耶は、眠かった。だから、さっさと見回りを終え、寝てしまおうと、いつもより早い時間に始めたのだ。それが、兄妹の運命を変えた。
 ドアが開き、懐中電灯の光が室内を舐めた。床を照らした時、目にしたものに伊吹は愕然とした。
 女物のパジャマの下!
 光がベッドを突き刺す。毛布の下には人のいるふくらみが…だが不自然に大きい。
 伊吹はつかつかとベッドに近寄った。スキャンダルへの期待に胸ふくらませながら。
 毛布をむず、と掴んだ。軽い抵抗に会ったが、やがて毛布はひき毟られ……
 裸の男と女がいた。
「不潔!」伊吹は侮蔑の色あらわに、そう吐き捨てた。
「ごめんなさい…」怜は、胸を両腕で覆い、小さくなって小声で詫びた。目に涙を溜めている。
 信二も、「すいません。伊吹さん」と、詫びた。
 伊吹は、顔面を真っ赤にして二人を睨みつける。
「早く服を着なさい。二人共」
 やがて、二人はおずおずと起き上がり、自分の服を手に取る。信二は無言で、怜は小声でごめんなさい、と涙声でつぶやきながら。一瞬信二の萎えた性器が伊吹の目に入り、伊吹は目をそらした。
「あなた、ブラしないで来たのね。なんていやらしい!」
 伊吹は怜にそんな言葉を投げつけた。怜はすすり泣いて縮こまる。
 伊吹の脳裏にある考えが浮かんだ。
「あなたたち、服を着てここで待っているのよ」
「どうして?」意外な伊吹の指図に、信二が問いを返した。
「ちょうど赤木博士が夜勤をしているの。ここへ呼んでお説教してもらうから、そのつもりでいて」
 伊吹の唇が、残忍な楽しみのために歪んだ。
「赤木博士…それはやめて」
 怜が怯えだしている。
「お願い。あの人には言わないで」
 伊吹は、それを無視して部屋を出て行く。去り際、もう一度「不潔!」と言うとドアを閉め、鍵をかけてしまった。
 その音は、二人の未来をも閉ざすかのようだった。



 赤木博士は、ベッドに並んで腰掛ける二人の前に立つと、いきなり「汚らわしい!」と吐き捨てた。後ろには、日向と伊吹がひかえている。
「あなたたちは、ここをどこだと思っているの?ここは病院。みんながあなたたちを治そうと必死に努力している所よ。ラブホテルじゃないのよ!」
 怜はすすり泣き、信二は黙って視線を下に落とし、耐えている。
「あまつさえ、あなたたちは兄妹。決して結ばれてはいけない間柄よ。しかも中学生じゃないの。いったい何を考えているの!」
 赤木博士の興奮はいやますばかりだ。
「大体子供でも出来たらどうするつもり?あなたたちに責任がとれるの?答えなさいっ!」
 怜がおどおどしながら答えた。
「あの、安全日だから大丈夫です…」
 赤木博士は、鼻でせせら笑った。
「はんっ、そんなものあてになるもんですか。ま、万一の場合はいい堕胎医を紹介するわ。問題はあなたたちのおじさまが費用を出してくれるかどうかねえ」
 信二は立ち上がり、頭を下げた。
「赤木先生。本当にいけない事をしてしまいました。あの、もう二度としません。申し訳ありませんでした」
 怜も立ち上がる。
「本当にすみませんでした」
 赤木博士はそんな二人を冷酷に見下ろしていた。
「すみません、で済んだら警察はいらないわねえ」
 博士の口にうすら笑いが浮かんだ。
「怜。あなたには反省室に入ってもらうことにするから」
 怜の顔が見る見るうちに恐怖に歪んでいった。
「先生。あの、それだけは…、あそこだけは…、とってもひどいところなんです…、いやなんです」
 怜の目から涙がこぼれおちた。
「だめよ。綾波さん。あなたにはようく反省してもらわなくちゃならないわ。二度と男の部屋に夜這いをしかけようなんて思わないようにね」
「先生!怜がこんなに嫌がっています。どうか許してやって下さい」
 信二が必死に取り成そうとする。
「だめと言ったらだめよ。それから、いずれあなたのおじさまに相談して、あなたをどこか他所の病院で引き取ってもらうことにするわ。こんな二人を一緒にしておいたら、ろくな事にならないからねえ」
「やめて…。おじさまには言わないで…」
「先生、あんまりです!怜がこんなに嫌がってるのに、ひどすぎますよ!」
 信二はなんとかして怜を救おうと必死になっている。だが、赤木博士は歯牙にもかけなかった。
「もう夜も遅いからさっさとすませるわ。日向君。お願い」
 博士は後ろに控えていた日向に言った。
 日向は、「さ、行くよ」と言って怜の二の腕を掴んだ。
 途端に怜の態度が変わった。
「いやああああああああああああ」
 怜は日向の手をふりほどこうと激しくあばれる。日向はバランスを崩し、怜と共に倒れこんでしまった。
 怜は倒れたまま、ベッドの足を掴み、放すまいとする。日向はそんな怜を掴まえ、全力で引き離そうとする。怜は泣きながら、信二に向かって叫んだ。
「おにいさまあ…」
 信二はキレた。
「怜から離れろ!怜から離れろお!!」
 そう叫んで日向に掴み掛かる。赤木博士と伊吹はあわてて、そんな信二の体を取り押さえようとする。
 そう広くもない室内で、五人の揉み合いとなったのだ。
 信二は病み上がりなので、体力が万全ではなかった。二人の女にたちまち両腕を取られ、立ち上がらせられ、奥へひきずられて行ってしまった。それでもなお、日向へ罵声を浴びせる。
「怜から離れろおおお!」
 その時、不思議な感覚が信二を捉えた。
 デジャ・ヴュ。既視感。
 前に一度こんな事があった…。
 その圧倒的な感覚。信二は一瞬怜を庇うのを忘れ、その感覚に浸った。
 怜の方は、ベッドの脚を掴んでいた指が四本になり、三本になり…、遂に引き離され、立ち上がらされてしまった。
「早く連れて行って!」
 赤木博士が、怒りに震えながら叫んだ。
 怜は抵抗に疲れたのか、ぐったりとして日向のなすがまま、廊下へ連れて行かれる。哀切な視線を信二に投げかけた。
「怜……」
 信二にはそれを見送ることしかできなかった。
 廊下の方から、怜の号泣の声が聞こえて来た。信二はそんな怜が哀れでならない。しかし、信二にはどうすることもできないのだ。信二は深い絶望に打ちのめされ、力を抜いて、その場に立ち尽くした。
「まったく兄妹そろって手間をかけさせて!あなたもただでは済まないわよ!」
 赤木博士は、信二に向かって憎らしげにそう言うと、信二を放し、伊吹を連れて部屋を出て行こうとする。
 その時、遠くから長く尾を引く異様な叫び声が響いて来た。隣の部屋では、どんどんと壁を叩く音がしている。
「ちっ、この騒ぎで起きちゃったのね。ほんっとに迷惑ったらありゃしない」
 赤木博士と伊吹はようやく外へ出た。
「鍵かけちゃって!」
 伊吹は指示に従い、ドアに鍵を掛ける。乾いた音が部屋に響きわたった。
 信二は、一人病室に閉じ込められたのだ。
 病室に静寂が戻って来た。
 信二はベッドに腰掛け、先程の異様な感覚を反芻し始めた。
 あれは…前にも確かに起こった。そんな気がする。レイカラハナレロ。それを僕は確かに、誰かに言ったような気がする。あれは…………………………、そう、あれは…………………………。

 一つの場面が、信二の頭によみがえった。

 僕はあの日、あの夜、ふいに目が覚めたんだ……。

 喉が渇いたんで、階下へ降りて水を飲もうと思った……。

 その時、居間の方から声が聞こえた。押し殺したような声……。

 僕は不思議に思ってそっちの方へ歩いた……。

 そして、僕は見た……。

 大人の男の、裸の背中……。

 その下にも人がいたんだ……。

 それは、それは……、

 怜だった……。

 怜は泣いていた……。

 怜は着物をなにも着けていなかったんだ……。

 僕は思わず声を出した。「怜」、と……。

 男がその声に気づいて振り向いたんだ……。

 その男は……………。

 その男は……………。

 父さんだった……。

 父さんは上半身裸で……。

 ぎょっとした顔をして立ち上がって……、

「見られてしまったか」と言った……。

 それで、僕は言ったんだ……。

「怜から離れろ。怜から離れろお!……」



 父さんは言った……。

「お前に私を非難する資格はない。これはお前もやっていることだからだ……」

 僕はキレた……。

 僕は台所まで走って行き、包丁を掴み……、

 包丁を腰の辺りに構えて……

「怜からはなれろおおおおおお!」って叫びながら……

 父さんへ向かって………………

「うわぁああああ!!」
 そうだ。そうだよ。
 父さんは僕が殺した。
 トウサンハボクガコロシタ。
 トウサンガボクラヲミマイニクルワケガナイ。ナゼナラ、ボクガコロシチャッタカラ。
 ボクハトウサンヲゼッタイニユルサナイ。ボクハジブンノシタコトヲコウカイシナイ。
 ハハハ、ザマアミロ。
 ボクノレイヲクルシメタバツダ。カアサンヲクルシメタバツダ。ジゴクデコウカイシテロ。

 信二は、にやにやと狂気の篭った笑みを浮かべ始めた。

 アノトキノトウサンノカオトイッタラナカッタナ。ビックリシテ、カナシソウニシテ、ボクニアワレミヲコウヨウニシテ。
 ボクモサスガニ、ビビリマクッテタナ。ホント、エライコトヲシデカシチャッタヨ。デモ、イインダ。アイツガコノヨニイナイ。ソノコトダケデボクハ、ソウカイナキブンダ。
 チガイッパイデタッケナ。ニンゲンノカラダッテ、アンナニチガデルトハオモワナカッタ。ボクノテモチマミレニナッタ。コンナフウニ……。ッテ、ナニ?

 信二は自分の両手が、血塗れになっているのを見た。

 ウワァ。タイヘンダ。チマミレニナッテルヨ。ダメダダメダ。コンナノミツカッタラバレチャウヨ。ボクガトウサンヲヤッチャッタッテコトガバレチャウヨ。

 信二はベッド上のライトを点け、洗面台の方へ歩み寄った。

 アラワナキャ。アラワナキャ。

 信二は一心不乱に手を洗い始めた。何度も、何度も。執拗に。
「なんで落ちないんだ?なんで落ちないんだ?」
 信二は手を洗いつづける。5分、10分、15分…洗っても、洗っても血は落ちない……。

 オチナイ……オチナイ……バレチャウ……バレチャウ……

 だが、信二はふと、鏡を見て、その作業の無駄を悟った。

 部屋中が血塗れになっているからだ。

 壁全体に、たった今飛び散ったかのように、血が付着し、そこからまだ固まりきらない血が、何十本もの筋を描きながら、ゆっくりと下に向かって滴り落ちている。床は一面血だまりをなして、信二が歩くたびにぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てる。そして、そこから何かを、丁度大人の人間を引きずったような跡が、ドアまで伸びている。
 信二は、恐怖の叫びをあげ、ベッドに駆け込んだ。毛布の下に胎児のように丸くなり、しっかりと目を閉じた。がたがたと震えながら。



 モウダメダ……バレチャウ……バレチャウ……



 何かが、部屋の中にいた。
 それは、ゆっくりと信二に近づいて来る。
 シンジ。
 ダレダ?
 シンジ。
 コレハ…トウサンノコエニニテイル。
 シンジ。
 チガウ。トウサンガココニイルハズガナイ。ボクガコロシチャッタカラ。
 シンジ。
 トウサンジャナイ。ダレモイルハズガナイ。ヘヤニハカギガカカッテイルンダカラ。
 シンジ!
 トウサンジャナイ!

 何かが信二の枕元にいる。それは、丸まっている信二の方にゆっくりと腕を伸ばし、肩を掴んで揺さぶり始めた。
 信二は恐怖に震えながら、必死に動かないようにしている。だが、執拗な揺さぶりに遂に抗し切れず、肩を掴んだ何かの方を振り仰いだ…………………。







 トウサン。







 朝。葛城は、廊下を早足で、信二の病室へ急いでいた。出勤早々、信二に起きた異変を聞いたからだ。
 あとすこしで、信二の病室というところで、信二の病室から出て来た赤木博士に出会った。
「先生!」と声をかけたが、後が続かなかった。
 赤木博士は悄然として、焦点の定まらぬ視線をふらふらと彷徨わせながら、心ここにあらずといった風で歩いている。その姿は声をかけるのを躊躇わせるものがあった。
 葛城は、信二の病室に入った。
 信二はベッドに腰掛け、俯いてなにかしきりに呟いている。傍では加持医師が、痛ましげにその様子を眺めている。
「信二君……」
 葛城はしゃがみこんで、信二の顔を覗きこんだ。
 信二の視線は、何物も見ていなかった。ぶつぶつと小声でささやく信二の言葉の内容に、葛城は慄然とした。
「LCL注入開始…………A10神経接続開始…………ハーモニクス正常…………」
 葛城は信二の両腕を掴み、揺さぶって呼びかけた。
「信二君!信二君!あなたは誰?」
 信二はその言葉に気づき、顔を上げた。口元に狂った笑みを浮かべ、こう答えた。
「僕は、エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジです!」



 終


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