アスカ こったか
 
(後編)


 ………私、何やってんだろう?
 アスカは、墓場の道を歩きながら、ふと、そんなことを考えた。
 周りを見る。周囲には、黒衣の人、人、人…。
 なに考えてるの。決まってるじゃない。
 アスカは、自分の前を数人の大人が運んで行く、黒檀の棺を見上げた。
 ママ………。
 そうよ。今日はママのお葬式の日。
 アスカは今、数十名の大人達と共に、墓地を行進している。アスカが身に纏うのは、この日のために急遽誂えた黒一色のツーピース。あまりに地味すぎて、アスカの気には入らなかったが、こういう時はこういう服装をするものと、なんとなく理解していたので文句を言わなかった。
 棺を運ぶ数人を中心に、黒一色の陰気な集団が進んで行く。空はこの日、この時にふさわしく、どんよりとした雲に覆われていた。時折、重い湿気を含んだ風が墓地を吹きすさび、人々を震えさせる。
 葬列の周りの様々な形の墓石が、アスカの目に入ってくる。一つ一つ違う名前を刻まれた墓石が、見渡す限り広がっている。ここは人生の終着点。死者の国なのだ。
 アスカの隣には、やがて自分の養母になる、***夫人。小さなアスカの左手をしっかり握っている。***夫人は黒のヴェールに隠された顔に、しきりとハンカチをあて、すすり泣いている。その向こうには、養父になる***氏。沈痛な面持ちで俯きながら歩いている。
 アスカは葬儀の最初から今まで、遂に涙を流さなかった。その幼いながらも凛とした面持ちは、回りの大人たちを賛嘆させたものだ。
 アタシは選ばれたセカンドチルドレン。人類を救うエリート。泣くなんてだらしないこと、しちゃいけない。常人に勝る自意識の強さがアスカの心を頑なにしていた。この場においても素直に悲しみにくれることなど、アスカには問題外だった。——アタシは二度と泣いたりしない。
 やがて葬列は、アスカの母、惣流キョウコ・ツェッペリンの為の墓所に辿り着いた。
 1メートル程の高さのある四角い墓石の前に、これ以後母の永遠の寝所となる墓穴が、ぽっかりと開いていた。葬儀に集まった人々がその回りを取り囲んだ。棺を担いでいた男達は、その墓穴の上に棺を据えつけた。その部分は昇降機になっているので、後はスイッチ一つで、彼女の遺体は永久に地下へと送りこまれることだろう。アスカはその穴のすぐ前、棺の中央辺りに立った。
 式を主宰する神父が棺の頭部の傍に立った。恰幅のいい初老の男だった。
「式にお集まりの皆様方。本日はまことに悲しむべき日であります……」
 アスカは神父の話をろくに聞かず、物思いに耽った。
 ママ。ママでなくなったママ。アタシじゃなくて、あの人形を可愛がったママ。アタシを殺そうとしたママ。なぜあんなことになったの?
「……故人は、人々に惜しみなく愛を分け与え、その言葉は、いつも人々に勇気と活力をもたらしました……」
 アタシはいい子だったでしょ?なんでも言うこと聞いたでしょ?ママの期待に応えたでしょ?
「……その知識は深く、発想は新しく、斯界に膨大な業績を残したのであります……」
 もうちょっと生きていれば、アタシがエヴァのパイロットになれた事、教えてあげられたのに。
「……その魂は必ずや天に召され、天国から私達を見守ってくださることでしょう……」
 帰ってきて。ママ。
「……土は土に。灰は灰に。故惣流アスカ・ラングレーの魂に、永遠の安らぎを与えたまえ。アーメン」
 えっ。今なんて言った?
アスカは顔を上げた。
 周りの雰囲気が一変していた。
 その場にいる誰もが、硬い表情でアスカの顔を見つめている。
 アスカは不安に襲われ、おどおどと辺りを見回した。母の墓石が目に入り、その銘を読んだとき、アスカは慄然とした。

SORYU

ASUKA

LANGLAY

(2000〜2015)

 アスカは信じられぬ思いでその墓碑銘を見つめた。なぜアタシの名前なの?死んだのはママ。アタシは生きてる……。
 その時、棺の傍にいた葬儀屋の男が棺の蓋に手をかけ、一気に開け放った。
 棺は空だった。
 色とりどりの花が敷き詰められてはいるが、丁度子供が入るぐらいの空間が、待ち受けるかのようにぽっかりと開いているのだ。
「アスカ。さあ行きなさい」
 アスカの頭上から聞こえて来たその声は……、母の声だった。
 思わず、その声の主、すなわちアスカの左手をがっちりと握っている***夫人を振り仰いだ。
 夫人はヴェールを上げながらアスカに顔を近づけてきた。
 その顔は縊死者特有の紫色に晴れ上がっていた。それは、アスカが母の遺体を見つけた、まさにその時の顔だった。顔を下げた拍子に、左眼がぞろりと抜け落ち、ぶらさがった。白い視神経で繋がった眼球が血に汚れてゆらゆらと揺れた。同時に眼窩からは粘り気のある血液が、どろりと垂れ落ちた。
 アスカは恐怖の叫び声を上げ、掴まれた手を離して逃げ出そうとした。しかし、その手はきつくアスカの手を握って放さない。アスカは空いていた手を添えて何とか離そうとするが、その掴む力はあまりに強く、びくともしなかった。
 周りの大人達が一斉に動いた。何人かの男の手がアスカの体を掴んだ。小さなアスカは必死に体をよじって避けようとするが、その抵抗は、なんの役にも立たず、やがて彼女の体を、数人の腕が軽々と持ち上げてしまった。アスカは自分を持ち上げた者達の顔を見た。彼らは一様に幽鬼のような青白い顔をし、その目は死んだ魚のように濁っていた。
アスカは両手両足を握られて無理やり横に引き伸ばされた。関節が激痛に苛まれ、アスカはさらに大きく悲鳴を上げた。やがてその体は棺の上に差し出された。そして無理やり棺の中に横たえられ、何本もの腕に押さえつけられた。アスカの保護者***氏が、へらへらと笑いながらアスカの体の中心を両手で押え付けていた。神父が厳かに十字を切るのが見えた。
 アスカは花々に埋もれ、灰色の雲に覆われた天を見上げた。喉も裂けんばかりの絶叫がアスカの口から放たれた。
 そして棺の閉じる轟音とともに、すべてが闇に覆われた。




 ………ここはどこ?
 アスカは、またしても目覚めた。
 確かに目を開いたが、見えるものはなにもない。あたりを包むのは漆黒の闇だった。
 そして両手、両足首の締め付けられる感覚に気づいた。ためしに動かしてみるが、1ミリとて動かすことはできない。大の字に拘束されているのだと覚った。
 さらにもう一つの重大な事実。全身の皮膚に直接伝わる空気の動き。背中に、足の裏に当たる木材の感覚。彼女は今、全裸にされているのだ。
「いやぁぁああああ!」
絶望の叫びを上げるアスカ。その声は周囲の空間に拡散し、木霊となって帰って来た。かなり広い空間のようだ。
「誰かたすけてぇ!」
 誰一人答える者はない。何一つ物音はしない。たちまちのうちに完全なる静寂に戻っていく。
 アスカの目から涙が溢れた。しくしくと啜り上げる声が、聞こえる物音のすべて。
「誰か来てぇ!……こんなのいやぁ!……もうやめてよぉ。……一人にしないでよぉ。……誰でもいいよぉ。」
 それからどれほど時が経っただろうか。いつ終わるとも知れぬ闇と静寂が、彼女の神経をずたずたに切り刻んでゆく。
「加持さん。…………加持さん。…………シンジ。…………シンジぃ。…………………」
 声を出すのにも疲れ、その声は途切れ途切れになっている。
 やがて疲れ果て、眠りに落ち込もうとした丁度その時、はるか前方で、なにか鍵を開けるような物音が響いた。
 アスカは、はっとして顔を上げた。
 重そうな扉の開閉する音。懐中電灯の光が差した。アスカからは、床を照らすその光と、長い衣に覆われた足元が見えた。こつこつと、石畳らしい床を踏む音が、やたら大きく響いた。懐中電灯の光が、まっすぐにアスカを照らした。アスカはあまりの眩しさに、激しく目を瞬いた。
 その人物はアスカをめがけてまっすぐに向かって来て、彼女の2、3メートル手前で立ち止まった。目が慣れていないアスカには、強烈な光をまともに見られず、その人物の姿形は容易に捉えられなかった。
「あなた誰?」
 アスカは目をそらしながら、気力を振り絞って訊ねた。しかしその人物はなにも答えず、じっとアスカを観察している。
 数秒の間の後、その人物は踵を返してアスカから離れようとした。アスカはあせった。
「ちょっと待って!質問に答えて!ここはどこ?アタシをどうする気?」
 しかしその人物は、アスカを無視して戸口の方へ戻って行き、扉を開けると、外に向かって指を鳴らした。
 外から数人の人物が入り込んでくる気配がした。彼らはそれぞれ懐中電灯を持ってアスカの方へ近づいて来る。そして、アスカの回りを囲むと、アスカが縛り付けられている木材を掴み、一気に持ち上げた。
 複数の光に照らされたアスカは、それが予想通りキの字型に組まれた十字架であることを見て取った。ぐらりとアスカの体が揺れ、横倒しになり、高々と彼らの肩に担ぎ上げられた。
 最初の人物が再び指を鳴らし、アスカの体はその広間から外へ運び出されて行った。

 広間の外は、剥き出しの土と岩による通路になっていた。その者達の持つ懐中電灯によって、凹凸のある通路の奥が照らされる。それらの光はずっと向こうの闇に吸収されて行く。通路は相当な長さがあるようだ。壁には一行の巨大な影が、不気味に揺れ動いている。所々で地下水が壁を滴り落ち、浅く掘っただけの側溝に流れ込んでいる。
 アスカはようやく目が明かりに慣れ、周囲の人々が目に入って来た。
 最初の人物が一行を先導していた。アスカを捧げ持つのは全部で六人。彼らはいずれも灰色の長い衣を身に纏い、頭部はフードで覆われている。さらに彼らは顔をすっぽり覆う紫色の仮面で覆っていた。その仮面には正三角形に七つの目を二列に配した、奇妙な模様が描かれている。その列の一番上が覗き穴になっていて、そこに本物の目が見える。アスカはその異様な模様に、ある種の禍禍しさを感じるのだった。彼らのその風体のために、正体は不明だったが、その体つきや、十字架を持つ手の大きさ、形(奇妙なことに全員黒手袋を嵌めていた)からして男であると思われた。自分のあられもない姿を、男達に見られているという事実が、さらにアスカを苛んだ。
 彼らの一人を観察した時、アスカはおかしなものを見た。衣の肩口が、下を何かが這いまわるかのように、動いたのだ。一瞬のことだったので、深く考えることはなかったが。
 なによりアスカを辟易とさせたのは、彼らの体から漂う臭気だった。それは化学薬品と腐臭が混合したような、何とも言えない匂いだ。アスカは口を開けて、その匂いを嗅がないように呼吸せざるを得なかった。
 彼らは終始無言だった。アスカは答えが返ってくるという期待を持てず、自分も疲労困憊していたので、一切口を開かなかった。ただ、時折アスカの啜り上げる音が、男達の足音に混じって通路に響き渡った。
 いつしか通路が終わり、一行は、巨大な竪穴に辿り着いた。
 それは、直径20メートルほどの円筒形をしている。壁面に鉄製の簡便な螺旋階段が取り付けられ、はるか下方まで続いている。アスカら一行はその階段を下り始めた。
 えんえんと続く螺旋階段を、彼らは下って行く。それはいつ果てるとも知れず、アスカが地獄まで下り切るかと思ったとき、ようやく最深部に辿り着いた。
 新たな部屋へ通じる鉄製の大扉が、大きくきしみながら、ゆっくりと開かれた。

 その部屋に運び込まれたアスカは、それまでとはまったく違った雰囲気に驚いた。
 それは巨大な空間だった。高い、豪華な装飾に飾られた天井。煌く大シャンデリア。ワインレッドに統一された優美な壁面。その壁面を飾る大理石のビーナス達。
 そんな大会堂の一角にアスカは運ばれ、床に開けられた穴の中に十字架の先端が差し込まれた。アスカは垂直に立てられ、さらし者にされた。床からアスカの足元までは30センチ程の高さしかなく、見る者は全身隈なく観察できることだろう。運んで来た者達の内二人が、アスカの前にやや距離を置いて立った。残り五人はアスカの背後に並んで立った。
 アスカは自分の姿の惨めさにすすり上げながら、目前に展開する、地下の世界にはかけ離れた光景を眺め、我が目を疑った。
 夜会服に身を包み優美にワルツを踊る人々。壁際に座り、自分を誘いにくるのを待つ淑女たち。彼女らを眺める紳士たち。隅の方には、夥しい数の酒瓶にグラスの山。盆の上にグラスを載せ遊弋するウェイター。奥には巨大なパイプオルガンが据え付けられ、背中の曲がった小男がワルツを弾いている。その横、アスカから見て正面にステージがあり、今は豪華な緞帳で覆われている。派手な道化師の衣装を着た男が一人、小さな少女を相手に、コインを使った手品を見せている。
 彼ら全員に共通することが一つ。誰もが灰色の男達と同じ七つ目の模様の仮面を着けているのだ。ただし、口の部分がくり抜かれ、会話に支障がないようになっている。
 仮面舞踏会。アスカは、自分の有様と眼前に展開される光景との落差に、強い違和感を覚えた。
「裸の女の子だよ!」遠くの壁の方で大声がした。まだ六、七歳にしか見えない小さな男の子がアスカの方を指差している。それをきっかけに、フロア中の視線が一斉にアスカに集まった。おお、と言う声が響き渡った。次々と人々がアスカの前にやって来た。いつしか踊りも音楽も止み、フロアのほぼ全員がアスカを取り巻いた。全部で五十人はいるだろうか。灰色の男が見えない境界線となっているのか、彼らは遠巻きにアスカを眺めた。
アスカは羞恥に悶えたが、勇気を振り絞って、助けて、と話かけてみた。しかし彼らから返って来たのは、嘲笑だけだった。中にはアスカを指差したりしながら、彼女の裸身を批評しあっている者達もいる。「可愛いわね」「あそこの毛も髪の毛と同じ色だよ」「まだ生え始めたばかりって感じね」などと言う声がアスカを苦しめた。その中に混じって「……最近には稀な犠牲……」「……主上もお喜びに……」と囁き合う声が聞こえ、アスカを慄然とさせた。
 群集の後に一人、カメラを持っている男がいた。爪先立ちしていたその男が、アスカの顔を見た途端、興奮した様子で群集を押し分けてアスカの正面に立った。
「うわぁ、惣流じゃないかぁ!」
 アスカはいきなり、自分の名を呼ばれ、驚く。男は仮面をはずした。
「アンタ……!」
 相田ケンスケ。度々アスカを隠し撮りしてきた男。
「いやぁ!!見ないでぇ!!」
 アスカは羞恥のあまり身を捩った。一方相田は目を輝かせて、アスカの裸身を凝視する。
「うわ、もう最高だよぉ!アスカぁ。夢にまで見たアスカのヌードが……。感激だぁ!」
 そう言って相田はカメラを構えて、矢継ぎ早にシャッターを押していく。アスカは顔を少しでも隠そうと、横を向く。涙が零れ落ちた。
 相田はそんなアスカに頓着せず、あらゆる角度からアスカを撮影していく。そして遂に床に座り込んで、下からアスカの羞恥の部分に狙いをつける。
「相田。アンタ、殺してやるから」
 アスカはそんな相田を睨みつけて毒づくが、相田はどこ吹く風で、「売れるぞ、これは売れるぞぉ」と呟きながら撮影していくのだ。
 恥辱に苛まれたアスカは、涙目になりながら正面を見たが、その時自分と同じ年格好の三人組の男女を見つけた。男はタキシードを身に着け、女二人は豪華な白い夜会服を纏っているが、特徴的なのは、女の髪が二人共蒼いことだった。女達はその男にぴったりと身を寄せている。
「アンタ達、レイなの?」と声をかけてみたが、女達はせせら笑うだけだった。しかし、アスカには確信があった。そうするとあの男はシンジなのか。
「アンタ、シンジなんでしょ?答えてよ!」
 だが、その男はアスカの問いに答えず、ぎらぎらと光る目でアスカの裸身を凝視するのみだった。
 見る者と見られる者。彼我の立場の違いにアスカの苦悩が積み重なる。目尻からまた涙が零れた。
 その時、照明が俄かに暗くなった。パイプオルガンがゆっくりとしたBGMを奏でた。人々の態度に変化が現れた。群集は一斉にアスカの前から離れた。相田も朗らかに「後でまた」と言って、踵を返した。皆広間に戻り、大部分の者がそれぞれパートナーを見つけて絡み合い始めた。やがてそれらの人々は、驚いたことに服を次々と脱ぎ捨て、全裸になっていく。
 アスカはその様子を茫然と見守った。
 アスカの眼前で、人々の獣のような乱交が始まった。誰もが互いの肉体をまさぐりながら、官能の世界へ入って行く。淫ら極まりない情景が展開している。やがて人々の淫声が会堂を満たし、互いの性器を結合し合う者、性器を吸いあう者など、ありとあらゆる性愛のパターンが繰り広げられていく。その中には一人が二人を、二人が一人を、といった背徳的な行為を行う者や、同性愛に浸る者までがいる。
 先程の蒼い髪の少女達がアスカの目に入った。二人共全裸になり、仮面も脱ぎ捨てている。
「ファースト、アンタ……」
一人の綾波レイが少年に跨り、腰を上下動させている。もう一人が横になり、上から少年の口を吸っている。アスカのいる場所からはっきり見えるわけではないが、その黒髪から、それはやはりシンジだと思った。胸の奥から暗い感情が湧き上がった。自分は嫉妬しているのだと、アスカは覚った。上体を立てたレイが、こちらを見てにやりと笑ったような気がした。
 アスカはそんな会堂の片隅に、いつの間に現れたのか、奇妙なものがいるのに気づいた。それは大人の犀ほどの大きさの物体で、全身を白い布で覆われていて正体を知るすべはなかったが、中のものが時々動く様は、それが生き物だと思わせる。その布の下からは何本もの黒い毛むくじゃらの管状のものが2メートルほどはみ出していて、その先端には乳首状の突起が、四五本突き出している。その頂点からは乳液のような白い液体が滲み出していて、人々は時折這いつくばってその突起を口に含み、陶然とした表情を浮かべてそれを飲んでいるのだ。
 アスカは唖然としてその有様を眺めていたが、その管のうちの一本が急に動き出し、その先端が大きく丸く膨らみ、巨大な目が開いてこちらを見た時、恐怖に駆られて大きく悲鳴を上げた。
 そんな中、相田ケンスケは狂喜乱舞し、あちこち移動しながら、次々とシャッターを切っている。
 相田以外の乱交に加わらない者の中に、道化師がいた。彼は今、会堂の片隅で、先程の少女の手を取ってワルツの踊り方を教えている。そうして回転をしているうちに、彼の目にアスカが映った。彼は少女に言い含めて、その場を離れると、真っ直ぐにアスカの方へやって来た。
 道化師がアスカに対峙した。道化師の仮面に開いた目の部分に、本人の目が見える。その目は赤かった。
 アスカは気力を振り絞って彼に話し掛けた。
「アンタ…、公園で会った奴ね」
「今晩は。惣流さん」
「アンタ一体何者?なんでアタシにこんなひどいことをするの?」
「君の存在は、僕の目的にとって阻害要因となるからだよ。セカンドチルドレン。君には大人しく引きこもっていてもらいたいんだ。間違っても復活してもらっては困るってことさ。悪く思わないでね」
 道化師の視線は氷のように冷たく、その口調には冷酷さが滲みでている。その断固とした態度に、アスカから反発する気力が失われた。目に涙が滲み始めた。
「お願い。もう帰して……。もうひどい目に会わせないで……。もうやめるから……。エヴァに乗らないから……。普通に結婚して、普通に子供生んで……。平凡に生きるからもうやめてよう」
 しかし道化師は皮肉な笑みを浮かべて、冷たく言い放った。
「がっかりさせないでよ。セカンドチルドレン。君は何でも一番だったじゃないか。これくらいでへこたれるなんて君らしくないよ」
「お願い!もう許して!」アスカはもう必死だ。
「いやだなぁ。所詮君もリリンの女の子ってわけだね」道化師はさもがっかり、というふうに両手を広げると、アスカに言った。
「仕方ないから君を補完してあげるよ」
「ホカン?……」聞き慣れない単語に、アスカは疑問を持った。
「そう。補完だよ。それは、とても気持ちのいいことさ、惣流さん。ま、もう少しそのままで待っていてよ。もうすぐだからね」そう言うと、道化師は奥へ戻って行こうとする。
「殺してやる」
 アスカは道化師の背中に向かって、その言葉を投げつけた。道化師は振り向いて、少しの間驚いた顔を見せたが、すぐににっこりと微笑みを見せてその場を立ち去って行った。
 乱交は依然として続いていた。いくつもの白っぽい体がアスカの目の前で対になり、律動していた。あまりにも露骨なそれらの行為は、アスカにとって嫌悪感を呼び起こすものに過ぎなかった。彼女の性に対する甘い夢想は、この時を限りに打ち砕かれた。
例の生き物の周りには絶えず人が群れて、おぞましくも怪物から湧き出る体液を夢中で飲んでいる。アスカはその体を覆う白い布が取り去られて、全身が晒されたりしないように祈った。
 そしていつしか時が経ち、宴の後の退廃した雰囲気が漂い始めた。折り重なるようにぐったりと横になったまま、何事か言葉を交わす人々。中には未だにせっせと励むカップルもいるが、いびきをかいて眠り込んだ者もいる。
 突然、会堂の中を大音響が鳴り響いた。それは、大時計が告げる時報の音だった。その音が十二度鳴り響き、今が正に真夜中であることを報せた。
 人々が動き始めた。行為の最中だった者は動きを止め、寝ていた者は目を覚まし、全員が立ってステージを見つめた。
 パイプオルガンが軽妙な音楽を奏でた。
 道化師がスポットライトに照らされながら、ステージ中央に立った。緞帳に道化師の影が映った。彼は頭にヘッドセットを装着している。道化師の声が会堂中に響き渡った。
「お集まりの皆さん!今正に真夜中!補完のときであります!」
 人々は一斉に拍手、歓声で応えた。
「さぁみんな。仮面を取れぇ!」
 全員一斉に仮面を取ると、頭上に放り上げた。少年の端正な顔立ちが顕わになった。
「皆さん!本日めでたく補完の栄誉に預かる子羊をご紹介しましょう。ミズ惣流アスカ・ラングレー!!」
 道化師は大げさな身振りで、さっとアスカの方を指し示した。
 アスカに強烈なスポットライトが当たった。眩しさに思わず瞬きするアスカ。
 パイプオルガンが、陽気な音楽を奏でて場を盛り上げる。
 アスカの後方に控えていた、灰色の服の男達が動き出した。彼らはアスカを拘束している十字架に取り付き、持ち上げて穴から引き抜き、横倒しにして、アスカを会場の中央へ運んでいく。
 アスカはものを言う気力も失い、なすがままに運ばれて行った。すでに涙も涸れ果てていた。そして会場の中心に、大の字に横たえられた。最早恥ずかしがることもなかった。
 アスカの頭の方からやや距離をおいて、灰色の男達が一列に並んだ。道化師がアスカを挟んで彼らを見渡した。
「ご苦労さん」そう言うと、いきなり腕を伸ばして指をならした。
 その瞬間、灰色の男達は一斉に朽木を倒すように倒れ、ぴくりとも動かなくなった。中の一体は、アスカの頭のすぐ傍に倒れてきた。倒れた拍子に仮面がはずれ、男の素顔が顕わになった。彼女はそれを見てしまった。
 顔の中心には鼻腔がぽっかりと開いている。その上には空ろな眼窩が二つ、アスカを睨んでいる。唇は失われ、剥き出しの歯がずらりと並んでいる。無数の蛆が、男の残り少なくなった腐肉を漁るために顔面を這いまわっている。服の隙間から百足が這い出し、床に降り、アスカの方に這い寄って来る。
「いやあぁああああああ!!」アスカはまたも絶叫した。
 道化師の合図があり、人々は灰色の男達に手を掛け、引きずって行く。百足が誰かの足に踏みつけられ、茶色の粘液を撒き散らして絶命した。
 人々がアスカの回りに集まって来た。全員全裸のままだ。彼らは代わる代わるアスカの顔を覗き込んだ……。
 アスカは驚愕した。悲鳴が迸り出た。
「おめでとう」ゲンドウが眼鏡を上げながら、重々しく言った。
 続いてリツコが、マヤが、冬月が、トウジが口々に「おめでとう」と声をかけて行く。ミサトと加持が、アスカに見せつけるように抱き合いながら祝福する。相田は矢継ぎ早にフラッシュを焚いていく。
「おめでとう」シンジがにっこり笑って言った。
「「おめでとう」」二人のレイが声を揃えて言った。
 それから、アスカの知らない者たちが続いた。えんえんとアスカは祝福を受け続けた。
 最後に道化師姿の少年と幼女、すなわち一人目のレイが近寄った。そのレイだけは着衣のままだ。
「おめでとう」一人目のレイが、ぎこちない微笑みを浮かべて言った。
 少年がアスカの頭の傍に片膝をついて、顔を近づけた。
「おめでとう。セカンドチルドレン。悪いけど、もう少し待ってくれないか。儀式というのは伝統を重んじるからね」
 アスカは思いがけない行動に出た。少年の顔にぺっ、と唾を吐きかけたのだ。
アスカの目には未だ尽きない敵意の炎があった。その目でじっと少年を睨みつけた。少年は顔にかかった唾をゆっくりとぬぐい、にやりと笑った。
「それでこそ惣流アスカ・ラングレーだよ。セカンドチルドレン。もっともっと楽しませてくれたまえ」
 そう言って立ち上がった少年は、会衆に告げた。
「皆さん!それではお迎えしましょう!我らがヨグ=ソトホースの御子、アダムを!」
 パイプオルガンが荘重な調べを弾き始めた。
 ヨグ何?アダム?第1使徒がここに?意外な出来事の連続に、アスカの頭の中は混乱を極めた。
 アスカが磔にされた十字架が、奇蹟の瞬間が良く見えるように、全裸の人々によって立てられ、支えられる。
 人々は声を揃えて呪文のようなものを唱え始めた。
「フングルイ・ムグルウナフー・クトゥルフ・ル・リエー・ウガ・ナグル・フタグン……」
 音楽が昂揚し始めた。
 ステージの緞帳がゆっくりと開き始めた。
 中のものが姿を現した瞬間、アスカは絶叫した。
 それは、ステージの空間をまるごと占める巨大な白い生き物だった。それの背後から、光背のように左右に六本ずつ、十二本の膠のような綱が伸び、周囲の壁に接着され巨体を支えている。全身に紫の線が血管のように走っている。その上半身は人間に似ているが、腕のあるべき部分に腕はなく、左右それぞれ床まで伸びる六本の長い触手が垂れさがっている。その触手の一本一本に膨れ上がった巨大な目が数多く付いていて、開いたり閉じたりしている。さらに、腹部には蛭のような細長い管が無数に生え、その先端は呼吸をするようにこれまた開閉を繰り返している。俯いた頭部には、例の三角に七つの目が描かれた布が貼られ、その実体は見えない。
 さらに奇妙なのは下半身で、それは軟体動物のような先細りの筒状のものであり、半ばは舞台上にとぐろを巻いている。そこから、無数の人体が突き出しているのだ。それらの多くは腕や足であったが、中には完全な上半身や下半身もある。顔だけがぬめりとした表面に浮かんでいるのもある。それらは、今は完全に静止していた。
 会衆はうっとりとそれを眺めながら、口々に唱える。
「イア!イア!イグナイイ・イグナイイ・トゥフルトゥクングア、アダム!ヨグ=ソトホース!」
 対してアスカは今や恐怖の極致にあり、がたがたと身を振るわせるだけであった。
 その時、あり得ようもないことが起こった。
 少年の体が宙に浮き上がったのだ。そしてそのまま、いとも軽やかに高みに昇り、なめらかに滑るように巨人アダムの顔の横まで飛翔し、静止した。アスカは口をあんぐりと開けて、それを見守った。
「待たせたね、セカンドチルドレン。約束の時だよ」
 少年の指示で数人の男達が動いた。アスカの手首と足首の縄を解きほぐしにかかったのだ。やがてアスカは久しぶりに体の自由を得た。アスカの両脇に立った男達が彼女を立たせる。
それはアスカが待ち望んだ瞬間だった。アスカは素早く体を捻って腕を自由にするや、すぐさま右肘を右側にいた男の人中に叩き込んだ。まともに喰らった男は横倒しに倒れた。続いて左側の男の鳩尾に正拳を突き込む。急所を打たれた男がその場に蹲る。正面からもう一人の男が掴みかかって来た。アスカの右足が跳ね上がった。男の股間にもろに蹴りが入った。男はうっとうめいてその場に悶絶した。
「アァアアアアアア……」
 アスカは獣のように絶叫し、その場から走り去ろうとする。生き残るためのただ一度訪れた好機。最早羞恥心など微塵もなく、生存本能のみに突き動かされて荒れ狂う。会堂全体が騒然とした。女達は悲鳴を上げて逃げ惑い、男達が発する怒号が飛び交った。
しかし、アスカの抵抗もそこまでだった。
男達がアスカを取り囲んだ。数人が一度にタックルを仕掛け、アスカは死に物狂いで抵抗したがバランスを失い、倒れ込んだ。後頭部が床に激突し、目が眩んだ。アスカがいかに体技に優れていようとも複数の大人の体力には敵わない。必死にもがくが、床に押し付けられ、強引にうつ伏せにされ、両腕を交差させられる。ロープが持って来られ、両手首に掛かった。
「いやぁあああああああああああ……」
 アスカは顔を涙でぐしゃぐしゃにし、その口からは、幾度も恐怖の絶叫が喚き出された。両手首は今やロープで完全に拘束され、むなしくばたつかせていた足が次の標的になった。何本もの腕が両足を押え付け、足首を揃えさせられ、ロープを巻きつけられていく。
「止めて。…止めて。…止めて。…止めて。…………」
 アスカの声は弱々しく哀願を繰り返すだけになった。遂に足首もロープで固定され、アスカは再び身動きできなくなった。三人の男がアスカの裸身に手を掛け、その場に引きずり上げた。
 道化師は空中で大きく拍手した。
「とても素敵だったよ、セカンドチルドレン。君の英雄的な働きは一生忘れない。さぁ、アダムが待っているよ。続きを始めようじゃないか」
男達に挟まれて立つアスカは、大きく嗚咽の声を洩らすだけだった。普段の活発で気の強いアスカを知る者が、今の彼女の姿を見たらどう思うだろうか。
「アダムよ!今宵かの者に、補完の喜びを与えたまえ!」
 少年の叫びが木霊した。少年は巨人の顔にかかった布に手をかけ、一気に引き剥がした。
 巨人の顔には口や目など、あるべきものが何もなかった。卵のような何もない顔面。つるりとした表面に光が反射した。
会衆が再び朗誦を始めた。太古より伝わる、想像を絶する神秘を孕んだ言葉が、会堂の高い天井に木霊した。最初にアスカに気づいた小さな男の子も、懸命に幼い声を張り上げていた。
「ンガイ・ングアグアア・ブグ・ショゴグ・イハア、ヨグ=ソトホース!ヨグ=ソトホース!………」
 それに合わせて二人のレイが動いた。にっこりとアスカに笑いかけると、左右から男達に代わってアスカの腕を取った。
「行きましょう。アダムの下へ」
「行きましょう。補完の場へ」
 再び奇蹟が起こった。二人はアスカを伴い宙へ舞い上がった。地面が急速に遠ざかった。アスカはがたがたと震え、涙声で「いや、いや」と言うばかりだった。
 三人は舞台上にとぐろを巻く、アダムの下半身の真上に静止した。下には数多くの腕や足、人体が見える。その中に、少女の完全な上半身があった。それは下向きになっていて顔は見えない。アスカがそれを見下ろしたとき、その体がぴくりと動いた。腕を立て、ゆっくりと上体を起こし始めた。やがて上半身を完全に起こした少女は、上方のアスカを振り仰いだ。視線が会った。
「おめでとう。アスカ」
 それは、アスカの親友、洞木ヒカリだった。うっすらと微笑みを浮かべた。
 アスカはまたしても恐怖の叫び声を上げた。
 二人のレイはうるさそうに顔を顰めると、再び上昇を開始した。そして、アダムの頭上でぴたりと静止した。
 アスカは大粒の涙を流しながら、歯の根も合わず、言葉にならない呻き声を漏らすだけであった。
「アダムよ!時は来たれり!」
 少年が再び絶叫した。その時、アダムの体が動き始めた。床に達している触手が波打つような動きを見せた。同時に、下半身から生えた夥しい人体があたかも快楽に悶えるかのように、一斉に動き始めた。腕が、足が闇雲に動いてぶつかり合った。半ば突き出た男の顔が目を開け、狂ったような甲高い笑い声を上げた。ヒカリが不自由な体をねじって、アスカの方を見上げた。その目はうつろで、口元には白痴的な笑みがあった。
 俯いていた巨人は顎を上げ始めた。
 ゆっくり、ゆっくりと……。
やがてすっかり上向きになり、アスカを仰ぎ見る形になった。
アダムの顔に変化が起こった。
顎に近い部分にすぅっと筋が入り、やがてそれは裂け目となった。その裂け目は徐々に拡がり、奥が見え始めた。
鋭く、長い牙がずらりと並んでいた。それらは今やはっきりと晒しだされ、それが巨人の口だと言う事は明らかだった。
アダムがゆっくりとその巨大な口を開き始めた。アスカはそのおそるべき口腔の真上にいる。消化液が牙の間からだらだらと滴り落ちた。五枚の毒々しい赤色の舌が、これから味わう獲物への期待にのたうつ。アダムは遂にその口を全開にして、アスカを待ち構えた。間もなくアスカを呑み込む奈落が、黒々と喉の奥に広がっている。何とも形容しがたい低音の大音声が、強烈な悪臭を伴ってその喉から立ち上った。
「イ・アイ・ンガー、ヘ・エエール・ゲブフ・アイ、アザトホース!イブトゥンク・ヘフイエー・ングルクドルウ、ヨグ=ソトホース!イア!イア!……」
 会衆の朗誦は今や絶叫に達し、会堂は大音響で満たされていた。
 アスカはきつく目をつぶり、思った。違うちがう。これは違う。こんなのありえない!これは現実じゃない。アタシの実体はどこか違う場所にあるの。これは全部アイツの作り出した夢。聞いちゃいけない!見ちゃいけない!集中して念じるの!眼をさますの!
「……なによこれぇえええええ!!」
アスカの足に冷たい、粘り気のあるものが触り、這い上がった。アスカは思わず目を開けた。一本の触手が右足に巻きついていた。さらに何本もの触手が優美な動きを見せてアスカの裸の体を撫で回し、そして絡みついた。
アスカは振り絞るような絶叫を上げた。それは、最も原始的な叫び、食われるものの恐怖の叫びだった。
二人のレイが腕を放した。アスカは数本の触手によって宙に支えられた。それらが急速に下がってアダムの巨大な口が迫った時、幸福にもアスカは失神した。













 ここはどこ……?
 アスカの意識は、霞がかかったようにぼんやりとしていた。
 なんか見覚えがある部屋。えーと、そうだ。ドイツにあったアタシの家。アタシの部屋。でも、こんなに大きかったかな?
 その部屋は今、窓からの明るい陽光に照らされ、柔らかい光に満ちていた。午前中の遅い時間という感じがする。居間へと続くドアが開いていて、遠くの方から、たぶんキッチンだろう、水を使う物音が聞こえてくる。誰かいるんだわ。
 アスカは自分がベッドの上に膝を伸ばして、腰掛けていることに気づいた。小さな白いソックスを穿いた足、お気に入りのスカートが見える。
 アスカはそのまま、なにも考えず、あたりを見続けた。
 鼻歌が聞こえて来た。ドアの向こうにいる人物が歌っている。それはアスカに馴染みのある、女の声。歌はベートーヴェンの『歓喜の歌』だった。
 ママ……。ママなのね!アスカの意識がはっきりした。
 アスカは身を起こして、その声の方へ行こうとした。
 しかし、アスカは指一本動かすこともできなかった。
 なによ。どうなってるの?アタシの体。麻痺しちゃったの?
 アスカは恐怖に囚われた。いやよ。ずっと寝たきり?
『ママ!!』と、叫んでみた。しかし、母の方からは何の反応も返ってこない。相変わらず鼻歌を歌い続けている。
『ママ!ママ!アスカよ!ここにいるの!こっちに来て!顔を見せて!………』
 必死に叫び続けるアスカだったが、何一つ状況は変わらなかった。
『どうして気づかないの?』
アスカの目から、涙がひとつ零れた。
『ママ。ママ。こっちに来て。寂しいのよう………』
 その時、遠くの玄関でドアを勢いよく開け閉めする音が響いた。
「ただいま!ママ!」明るい活発そうな少女の声。母の方に駆け足で近づく音。
「おかえり。アスカちゃん」優しい母の声。キスの音。
「ねぇ、聞いてママ。アタシねぇ、この間の試験でまた学年トップだったんだよ!」
 アスカは愕然とした。あれ、アタシの声じゃない!
「えらいわねぇ、アスカちゃん。じゃ今晩はアスカちゃんの好きなもの作ってあげる」
「わぁい。それじゃアタシ、ハンバーグがいい!」
 なによ。あそこにいるのがアスカ?じゃ、アタシはだれ?
「はいはい。アスカは本当にハンバーグが好きねぇ」
 うそよ。アタシはアスカ。あいつは何物?ママ、ママ。アスカはアタシよ。
「へへ、ケーキも好きだけどね」
 騙されてはだめよ、ママ。そいつは偽者。
「それはそうとアスカちゃん。あなたの部屋に置いてある人形のことなんだけど」
『ママ!!』
「うん。なぁに。ママ」
『こっちに来て!!』
「あれ、もう古くて相当傷んでるでしょう。あなた、あれでもう殆ど遊んでないわよねぇ。掃除の邪魔にもなるし。あなた8才だけどもう中学生でしょう」
『そいつと話さないで!!そいつはアスカじゃないの!!』
「捨てちゃうの?」
「そうしたらどう?またなんか買ってあげるから」
『もういやぁああああああ!!』
「わかった」
「じゃ、もうすぐごみ収集車がくるから、持って行ってくれる?」
「うん」
 その少女の足音が近づいて来た。アスカは黙って、それの来る方向を見つめた。恐ろしい予感に、彼女は戦慄した。
 少女が部屋に入った。
アスカは腹の底から湧きあがるような絶叫を張り上げた。
 その顔は、人の顔ではなかった。皮膚は粗い布で出来ていた。その目はただの丸いボタン。口も三日月状の布切れ。鼻に至っては形すらなかった。それは、母が病院でアスカの代わりに可愛がっていた、人形の顔だった。
 それは、アスカの髪の毛をむず、と掴むと軽々と持ち上げた。アスカの頭部に激痛が走る。そして、それはアスカの体を、後ろ向きに片腕にぶらさげて、リビングの方へ移動し始めた。
 リビングに入った時、愛しい母の後ろ姿が見えた。アスカはその背中に向かって声を張り上げた。
『ママ!!ママ!!いやよ。捨てないで!!アスカはアタシ!こいつじゃない!!アタシを捨てないでええええええ!!』
 母の背中が遠ざかっていく。やがて玄関に辿り付き、ドアが閉ざされ、母の姿は見えなくなる。
 懐かしい我が家の外観が、アスカの目に入る。が、それも次第に遠ざかっていく。
 アスカの中の何かが、壊れた。
 今や、アスカの叫びは意味をなさないものになった。
『あああぁあああぁいいいいいぃぃえおおおおおおおぅぅう!!』
 やがてアスカを持ったそれは、通りのある一角に止まった。後ろに車のエンジン音が聞こえる。
「おじさん。これも捨てて」
「はいよ」
 アスカの体がふわりと浮いた。無数のごみ袋の中に、アスカの体は放り込まれ、はまりこんだ。むせ返るような悪臭が彼女を襲った。
 アスカは自分の姿をしたそれを見上げた。機械音が轟いた。上方から鋼鉄の板が回転して来て、ブラインドを下ろすように泣き叫ぶアスカの視界を、それの姿を、世界を覆っていく。
 鋼鉄の板がアスカの肋に食い込んだ。

 そしてアスカは闇に呑まれた。













 第三新東京市の廃墟の一角に、天井や壁が吹き飛び、バスルームがさらけ出された廃屋があった。
 昼の太陽が、じりじりとその廃屋を灼いていた。
 少年は、アスカの体を慎重に湯船の中に下ろした。湯船の中にはぬるま湯が張られている。これで熱中症は防げるだろう。
 少年はアスカの顔をじっと観察した。その目は開いてはいたが、焦点が合わず、なんの反応も見せなかった。口元はだらしなく開き、およそ表情というものがなかった。
 少年はアスカが着ていた中学校の制服を、ていねいにたたんで、湯船の傍の古びた椅子に置いた。そしてアスカの傍にひざまずき、ゆっくりと優しく彼女の髪をなでて言った。
「さようなら、セカンドチルドレン。よい夢を」
 それだけ言うと少年は立ち上がり、去って行った。やがてその姿は陽炎に溶け込み、消えた。


終 


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