トリプルレイ
第2回「遊園地の暗闘」

間部瀬博士



3.
 午前10時15分。レイカとシンジは、目的のファンタスティックランドの中に入った。
「うわ、広いところだねぇ。綾波」
「そうね」
 園内には既に人がかなり入っていて、人気のアトラクションには早くも行列が出来始めている。
「まずなにから乗ろうかな」
「私、あまり怖くないのがいいな」
「それじゃ、まずコーヒーカップなんてどう?」
「いいわ」
 手を繋いで園内を歩く二人。レイカの口元には自然と笑みが浮かんできている。
 そのころレイコとレイナは、ようやく電車に乗ったところだった。

 午前11時2分。レイコとレイナも園内に入った。レイコもレイナも変装によって綾波レイに見えない。レイコはウエーブのかかったショートカットにサングラス、服は水色のワンピースだ。レイナはおかっぱ頭に黒ぶちの眼鏡、服はベージュのツーピース。瞳は二人共コンタクトによる黒だ。レイコがレイナに指示を下す。
「二手に分かれて捜しましょう。私はあっち。あなたはそっち。見つけたらテレパシーで教えるのよ」
「分ったわ」
 レイコが駆け去った。やる気に明らかに差のあるレイナはのんびりと歩き始めた。
 ああ、碇君と一緒に来たかったわ。今日はお天気もいいし。楽しいだろうなぁ。あ、あれ、なんか面白そう……。
 ふらふらとレイナは、人だかりのある乗り物のほうへ歩いて行った。

 午前11時30分。レイコは焦り始めた。なにせ園内は広い。土曜日なので、人も大勢いる。まなじり決してあちこち捜してみたがいまだに見つからない。これだけ捜しても見つからないってことは、どこかですれちがったってことかしら?
 一方レイナは相変わらずのんびりと捜索を続けている。あ、わたあめの屋台だわ。食べてみようっと。
 同じ頃、そろそろお腹が空いてきたレイカが、シンジに言った。
「碇君。少し早いけど、お昼にしない?」
「いいよ。なにを食べる?」
「せっかくだからレストランに行きましょうよ。今日は多分混むから、早めに行ったほうがいいと思うの」
「でもこういう所のレストランって高いんじゃないかなぁ」
「いいわ。お弁当台無しにしたおわびに私がおごるわ」
「いや、女の子におごってもらうわけにはいかないよ。じゃ、割り勘にしようよ、ね」
 二人は揃ってレストランへ向かった。

 午前11時55分。レイコはまだシンジ達を見つけられない。歩き回るのをやめて、道端のベンチに座り込んで考え始めた。あせってはだめ。これだけ広いんだから、闇雲に歩き回ってもだめよ。まず、相手の行動を読まなくては……。そうだわ!今はお昼時。どこかで食事をとるはずよ。レイカはお弁当を持ってきていないから、行く場所は限られてくるわ。レイコは早速地図を開いて、食事のできる場所を確認する。
 レイコは目を瞑って、変装したレイナの顔を脳裏に描き、それに向かって意識を集中した。
(レイナ。レイナ。聞こえる?)
 わたあめをつまみながら、子供達に混じって『甲虫戦隊クワレンジャーショー』を見ていたレイナはあわてて答えた。
(レイコ。見つかったの?)
(まだよ。そっちの方にレストランがあるわね?そこを捜してみて。いる可能性は高いわ)
(分ったわ)
 いいところなのに…。戦隊ショーに未練を残しつつ、レイナは動き始めた。

 午後12時5分。シンジとレイカはレストランの窓際の席でスパゲッティを食べている。
「意外とおいしいね。ここのスパゲッティ」
「そうね。碇君のスパゲッティほどじゃないけど」
「いやだなぁ。僕なんか素人で、プロの人には全然及ばないよ」
「でも私の好みにはぴったりなの…きっと碇君の愛情がスパイスになっているのね」
「ううん、照れちゃうなぁ、もう」
 勝手にやってろ、と言いたくなるような二人だった。
 その時、レイナは外から、あっさりと二人を見つけた。
(いたわよ。レイコ。レストラン。あなたの読み通り)
(でかしたわ。レイナ。早速そっちに向かうから)

 午後12時20分。レストランの中にアナウンスの声が響いた。
『綾波レイ様。綾波レイ様。お電話が入っております。カウンターまでお越しください』
「綾波。君だよ」怪訝そうにシンジがレイカに言う。
「変ね。誰かしら。ちょっと行ってくるわね」
 席を立ってレイカはカウンターへ向かった。誰からか予想はできる。
「そこの電話ボックスにまわしますのでどうぞ」
 係にそう言われて入口近くの電話ボックスに入った。シンジからは死角になる。目の前の電話機が鳴り出す。受話器を取った。
「もしもしどなた?」
『レイカ、私レイナ』
「レイナ。何も言うことはないわ」
『レイカ。ちょっとずるいんじゃない?レイコ、怒ってるわよ』
「それを言うなら、昨日のじゃんけんの方がずるいわ。私はあくまで無効を主張するわ」
『それで実力行使に出たって訳?』
「そうよ。悔しかったら実力ですり替わったらいいのよ」
 その時、横にあるトイレに通じる廊下から、一人の女が出て来たことにレイカは気づかなかった。
「大体、何故あなたなの?レイコはそこにいないの?レイコを出してよ」
『……………………』
「どうしたの?なんとか言ったら?」
『レイカ。碇君のいる所をそーっと覗いて見て』
「なんですって」
 レイカの心臓の鼓動が高まった。受話器を置くと、静かに外に出て、もといた席の方を覗いた。
 シンジの向かいに『綾波レイ』が座わろうとしている。服装は自分と同じ。
 レイカは瞬時に真相を覚った。レストランの外を見回す。窓のすぐ傍で、レイナが携帯を耳にあて、反対の手をひらひらさせてこちらを見ている。
 やってくれたわね。レイカは電話ボックスに戻った。
「レイナ。よくもやったわね」レイカの声には怒りが滲み出ている。
『あら、それはお互い様。実力行使と言うことよ。それより私の指示に従って頂戴』
「なんであなたの指示に私が従うの?」
『もうすぐ碇君はそこを出るわ。その時鉢合わせになったら困るでしょ。それとも今すぐ真相をばらす?』
「…………………」
 レイカは迷った。しかし、いい考えは浮かばない。
「分ったわ。どうすればいい?」
『まず、横にあるトイレに入って。レイコが置いていった服と変装道具が入った袋があるから、それに着替えてさっさと出るのよ』
 自分のバッグは今シンジの所だ。このままでは、綾波レイが複数いることがばれる危険性が高い。
「しかたないわね…」
 レイカはやむをえず奥にあるトイレに向かった。
数分後、レイカは澄ましてトイレから出て、何食わぬ顔でレストランを出た。金は払わずにすんだという訳だ。ここに着いたときのレイコと同じショートカットにサングラス、水色ワンピースの出で立ちだ。しわにならない素材でできているので、不自然には見えない。
 待ち構えていたレイナが早速やって来た。
「レイカ。よくやるわね」
 レイカはレイナをじっと睨んだ。
「レイナ。あなたもね」
「じゃ、私と一緒に帰るのよ」
「何故私の行動に干渉するの?」
「それはレイコとのちょっとした契約で。あなたに張り付いて家に帰す役目なの」
「そう、もう駄目なのね。分ったわ」
 レイコは素直にレイナと一緒に正面ゲートに向かって歩き始めた。レイナは自分のバッグの他に、レイコが持っていたバッグも持っている。それは、先ほどまでレイカが持っていたものと同一のものだ。彼女らは入れ代わりのために、身の回りのものも複数揃えるようにしている。
「それ、重そうね。持ってあげる」
 レイナはそのバッグを手渡した。その直後、レイカは反対方向へ脱兎のごとく走り出した。
「あ、待て」
 すかさずレイナが追う。しかし、昼ごはんをまだ食べていないレイナにはハンデがあった。どんどん引き離されていく。そして、レイカの姿は人ごみにまぎれて見えなくなってしまった。レイナはあきらめてその場に立ちすくんだ。
(レイコ。聞こえる?私レイナ)
(レイナ。どうしたの?)
(レイカに逃げられたわ)
(まっ。なんでちゃんとおさえておかないのよ)
(そんなこと言ったってお腹が空いているんですもの。かなわないわよ。それより私これからどうする?)
(分ったわ。私達もうすぐ出るわ。あなたは私達の近くに来て見張りをするのよ。なんとしてもレイカの接近を阻止して頂戴)
(分った。ところでお弁当食べちゃうけどいいわね?)
 レイナは弁当の入った風呂敷包みを持っていたのだ。
(……しかたないわ)
(じゃ、なんかあったらまた呼びかけるわ)

 午後12時28分。シンジはレイコを伴ってレストランを出た。
「どう?綾波。お腹いっぱいになった?」
「え、ええ」
 その瞬間、レイコのお腹からぐぅううう〜っと大きな音が聞こえてきた。レイコは朝、弁当を作るのに忙しく、食べる暇がなかったので一食抜いていたのだ。園内に入った後もシンジを捜すのに懸命で、弁当を食べてはいない。レストランでレイカとすり変わったときには、もう皿の中には何も残っていなかった。だから、今レイコは猛烈な空腹を覚えていたのだ。
「あれぇ、綾波。お腹が鳴ったよ。食べたばかりなのに」
「う、うん。これは……」
 まずい。なんとかしてごまかさなくては。
「私、実は朝、食べてないの。だから、まだ食べたりないのね」
「ふうん。意外と大食らいなんだね」
 そんな言い方しなくても……。
「そ、そうかしら」
「じゃあ、後で軽くなにか食べようよ」
「そうね。かる〜くね」
「でも朝ごはんを抜いてまで作るなんて、きっと豪華な弁当だったんだろうね」
「そう、我ながら力作だったのよ。でも忘れてきちゃうなんて、私ったらほんとにドジね」
「忘れてきたって?」
「え、ええ」
「今朝、会ったときは落としちゃったって言ってたよね?」
 しまった!レイコの心臓が早鐘のように打った。どう言ってごまかしたらいいの?
「いったいどっちなの?大体今日の綾波は変だよ」
 疑われている。どうしよう。
「ねぇ、どうして黙ってるの?」
 ……こうなったら最終奥義を出すしかないわ!
 レイコは深く俯いた。目尻に力を込め、悲しかったことを思い出す。ぐっと感情移入。顔に手を当て、肩をかすかに震わせる。
「あ、綾波……」
 やや間を置いてレイコは顔を上げた。その瞳から、真珠のような涙がぽろりと一つ。
「いかりくん。ごめんなさい。私、嘘をついたの」
「………………」
「私、今日のことが嬉しくて舞い上がっていたのね。ううううっ。それで出るときお弁当のことすっかり忘れちゃって……。ううっ。気がついたときにはもう取りにもどる時間がなくて……。私のことドジの馬鹿だと思われたくなくて……。それで、つい嘘をついてしまったの……ぐすっ、ぐすっ」
 泣く女の前に立つ男。道行く人々はそんなシンジに非難の目を浴びせながら通り過ぎて行く。シンジはあせった。
「ば、馬鹿だなぁ、綾波は。そんなの気にすることないよ。僕だって忘れ物はしょっちゅうやってるよ。そんなことで僕が君のことあれこれ思うわけないじゃないか」
「ごめんなさい。碇君…」
「さ、涙を拭いて。これからはなんでも正直に言おうね」
 ハンカチを渡すシンジ。こういうところだけはソツがない。
「ありがとう。碇君」
 レイコはハンカチで涙を拭いて、ちらっと笑顔を見せる。これでいい。
 ふう、最終奥義はエネルギーを使うわぁ。

4.
 午後1時30分。レイカは遊園地の中央にあるプレイマウンテンの頂上にいた。いくつもの長大な滑り台が付いた、かなり高い山である。ここからだと、園内全体が見渡せるのだ。レイカはレイコのバッグにあった双眼鏡を取り出し、じっとシンジ達を監視している。
 あそこにレイナがいるわね。見張り役ってわけか。そうなると入れ代わりはかなり困難になるわ。て言うか不可能ね。
 どうしたらいいか。レイカは改めて戦略を練り直す。
 私はレイコとすり替わる方法ばかり考えてきたわ。それ以外になにかないかしら…。そうだ!このデート自体がおじゃんになるとしたら…。爆弾騒ぎに巻き込まれる、みたいな。はっ爆弾と言えば……。
「アスカよ」
 惣流・アスカ・ラングレー、彼女もシンジ達と同じ第三新東京大学の学生で、つい三ヶ月前まではシンジと熱愛の間柄であった。ところが、ちょっとした誤解から事件は起こった。
 ある日、アスカは女と一緒に歩いているシンジを偶然目撃した。女はシンジと同じ位の年格好だ。彼らは親しそうに話をしている。アスカは疑念と嫉妬に駆られ、彼らの跡をつけることにした。
シンジとその女はいつしか人気のない林の中を歩いていた。アスカにはそれが恋人同士の散歩のように見える。ふと、二人は立ち止まり、道端で二言三言言葉を交わしたかと思うと、女の方からシンジに抱きついたのである。シンジの方も女の腰をそっと抱いた。沈黙の時が流れる。それから女はシンジを放すと、駆け足で道の向こうへ去って行った。
シンジは、その姿をしばらく見守っていたが、帰ろうとして向きを変えると……、アスカが突進してきた。アスカ、これは違うんだ、と言う間もなく、バカシンジの怒声と共に、右ストレートが炸裂した。それから先は…、恐ろしくて書くことができない。
当然、二人の関係は冷え切った。二人共まるで赤の他人同士のように振舞った。アスカが自分の失策に気づいたのは、女から来た一通の手紙からだった。その内容は、女がシンジに言い寄り交際を頼んだのだが、結局断られ、最後の願いとして、抱きつかせてもらった、本当に申し訳ないことをした、というものである。
アスカは激しく後悔したが、謝ろうと思っても、プライドが邪魔をしてなかなか言い出せず、徒に時は過ぎて行った。
その間隙をついたのが綾波レイだったのだ。もともと意識しあっていた同士、あっと言う間に恋が燃え上がったのである。そのアスカだが、レイ達は女の勘で、まだシンジに未練があると見ている。(ちなみに、洞木ヒカリも同じ大学の学生。鈴原トウジは、高校卒業後、大阪へ帰り、親戚の経営する会社に就職した。また、相田ケンスケは第二新東京市でカメラマンになるべく専門学校へ通っている。)
 あの女をうまく呼び出して碇君達にぶつければ、あの単細胞猿のこと、修羅場になるわよ。でもそうなったら愛しい碇君に危害が及ぶかも……。いいえ、そうはならないわ。なぜなら『碇君は私が守る』が綾波レイのモットー、レイコは必ず立ち向かうはずよ……。
       :
 『あ、綾波い、大丈夫かい?』
  レイコを抱き起こすシンジ。
 『はあ、はあ、碇君。アスカはどうなった?』
 『アスカならそっちで伸びてるよっ』
 『そう。私碇君を守ったのね』
 『綾波い、しっかりしてよ!』
 『ごめんなさい。碇君。こんなときどんな顔をしたらいいか分らないの』
 『笑ったらいいと思うよ』
 『……笑ってる場合じゃないと思うわ』

      :
 ……うん、きっとそうなるわ。問題はどうやってアスカを呼び出すか…。そうだ。洞木さんなら。
 レイカは行動を起こした。傍の滑り台に乗って、速やかに地上に降り立つと、真っ直ぐに電話ボックスへ向かった。電話ボックスに入ったレイカは、ポケットから手帳を取り出し、アスカの電話番号を確認した。すぅっと深呼吸して、声を出した。
「アスカ?私、ヒカリ」
 その声はヒカリの声にきわめて良く似ている。これならいけるわ。
 慎重にアスカの電話番号をプッシュする。呼出音が鳴り始める。早く出て、アスカ。
「はい、惣流です」アスカが出た。
「アスカ?私、ヒカリ」
「あぁ、ヒカリ。今日は何?」アスカの声は嬉しそうだ。
「あの、実は碇君のことなの」
「バカシンジがどうしたって?」アスカの声が途端に暗くなる。
「うん、最近碇君、綾波さんと仲いいでしょ」
「そりゃもう見え見えよね」
「アスカは黙ってそれを見ているの?」
「………………」
「実は友達の友達から聞いたんだけど…、碇君、綾波さんと今日ファンタスティックランドに行ったみたいなの」
「その程度のデートはするでしょうね」
「それがね、ホテルに一泊するみたいなの」
「……なんですって!」
「その、碇君が綾波さんとそうなっちゃったら、碇君のことだから後戻りできなくなると思うの」
「その通りよ」
「だから、アスカがちゃんと碇君と話して、彼の心を取り戻すのに、時間はあまりないと思うの」
「………………」
「あの、私余計なこと言ったかしら?」
「いいえ、ヒカリ。良く教えてくれたわ。私これからファンタスティックランドへ行って、あの二人に会って来るわ。それで、何とか話合ってシンジの心を取り戻すのよ!そこまで行かなくても、あの人形女に散々イヤミを言ってやる!」
「くれぐれも乱暴はしないでね」
「分ってるわよ!ほんとにありがとう、ヒカリ。持つべきものは親友ね。じゃ、時間がないからこれで」
 電話が切れた。レイカは思惑通りの進行に、思わずにやりと笑った。

 午後2時22分。レイナはベンチに座って、遠くからシンジとレイコを見守っていた。二人は今、『アステロイド・ライド』と言う、最近できた人気のアトラクションの行列に並んでいる。後1時間以上待たなければならないだろう。
 あ〜あ、碇君たら楽しそう。レイコはちょっとお腹が空いてつらそうね。でも、あとでいい思いをするんだからいいわね。次の私の番はいつかしら。その前にあれをしとかなきゃならないのね。憂鬱になっちゃうな。
 そんな物思いに耽るレイナの前を黄色いワンピースを着た赤毛の女が通りすぎた。
 あれっ、今のって…。思わず立ち上がったレイナはその女の髪を観察する。インターフェース型の髪止め。間違いない、アスカだ。一瞬茫然とするレイナ。
(レイコ、大変。アスカが来てる!)
(なんですって!ひとりで?)
(うん。おっかない顔をしていたわ。きっと碇君を捜しているのよ。隠れたほうがいいわ)
(そんなこと言ったって、今二人で並んでるのよ。どうしようもないわ)
(これはピンチね)
 アスカはきょろきょろとあたりを見回しながら、早足で通りを歩いている。アスカから見て右側にシンジ達のいる行列がある。その間隔は、もう20メートルもない。
 レイコの目がアスカの姿を捉えた。見つかる!レイコの決断は速かった。うっとうめいて、その場にしゃがみこんだ。
「あれ、どうしたの。綾波」
シンジも心配そうにその場にしゃがみこむ。
「持病の癪が……」
この前、時代劇を見ていて覚えた技の一つだ。
「大丈夫。このままでいれば、直に収まるから……」
「病院に行こうか?」
「いいの。ほんとにすぐ収まるから……」
 アスカは、その時、行列の間近に立っていた。一通り行列を見回す。しかし、シンジとレイらしき姿は見えなかった。
 やがてアスカは踵を返して、反対方向へ歩み去った。
(ナイスよ、レイコ。アスカは逆方向へ行ったわ)
 レイナからのテレパシーが届いた。レイコは一息ついて立ち上がった。シンジも立ち上がる。
「ごめんなさい。碇君。もう治ったわ」
「大丈夫なの、綾波」
「ほんとにもう全然平気」レイコは笑って、跳ねて見せた。
「もう、心配かけるんだからぁ」
 シンジにも笑顔が戻った。
 ふぅ。人垣がなかったら、見つかっていたわ。でもこのまま並んでいたら、危ないわね。
(レイナ。レイナ)
(なに、レイコ)
(あなた、なんとかしてアスカを帰してよ)
(そんなの無理よ)
(いいえ、方法はあるわ。良く聞いて………)

 10分後、相変わらずアスカは血走った目で、あたりを見ながら、歩きまわっている。小さな子供がそれを見て泣き始めたが、アスカは気が付かなかった。
 屋外にパラソルを差したテーブルがいくつもあるファストフード店がある。アスカはそのテーブルの一つに、蒼い髪、紅い目の女が、ジュースを飲んでいるのを見つけた。ファースト、そこにいたのね。
 アスカはつかつかっとそのテーブルに歩み寄り、レイの前に座った。
「シンジはどこ?」
「あら、挨拶もなしにいきなりそれ?」
 レイは冷たく返した。その顔に表情はない。
「ふんっ、そんなのどうだっていいわ。シンジはどこって聞いてんの!」
「碇君なら帰ったわ。お世話になったおじさんが危篤なんですって」
「かえったぁ!?」
「そうよ。私も残念だけど仕方がないわ」
「シンジの携帯、電源が入ってなかったわ!それでどうやって知ったのよ!」
「場内アナウンスがあったの。至急電話に出てって」
「それ、何時頃?」
「1時頃だったかしら」
「ふぅん」
「私、もうちょっと見ていきたかったから、碇君だけ先に帰ってもらったの」
 アスカにはこれ以上疑いをはさむ余地はない。話題を変えることにした。
「まぁいいわ。丁度いい機会だから、女同士の話をしましょう」
「構わないわ」
「短刀直輸入に言うわ。シンジを返して」
「それを言うなら単刀直入」
「うっさいわねぇ。とにかくシンジを返してよ」
「碇君はモノではないわ。返す、返さないという問題ではないの」
「何言ってんのよ。アタシとシンジがどんな関係だったか、アンタも知ってるでしょうが」
「だった、よね。今は違う」
「アタシが言いたいのは、ちょっとは遠慮しなさいってことよ!なにさ、泥棒みたいに横から入りこんで来てさ!」
「あら、そうなったのはあなたの責任。碇君の心を繋ぎとめられなかったあなたの過失…。私に近づいたのは、碇君の方だもの。私を責めるのはお門違い…」
「何言ってんの!シンジはまだアタシのこと忘れてないわよ!」
「あら、どうしてそう言えるのかしら。じゃあ、いいことを教えてあげる」
 そう言うと、レイは身を乗り出して、アスカに囁いた。
「私、もう碇君と寝たわ」
 ほんとは今日、これからだけどね。
「うそよ……」
 アスカの衝撃は深い。顔から血の気がなくなった。
「本当のことよ。うそだと思うなら、明日碇君に訊いてみたら」
 訊けるわけないわ。
「いったい何時?」
「あら、そこまであなたに教える義理はないわ」
「………………」
「彼、優しかったわ。綾波、綾波って何度もいいながら、私の中で果てたの。とても痛かったけど、私は幸せだった…。そのまま私達は何度もキスした…。あの夜のことは永遠に忘れられない…」
「やめてよ、もう」
 アスカの両目に涙が滲んだ。両手もかすかに震えている。やがて、弱々しく立ち上がった。
「分ったわ。せいぜいお幸せにね」
 そうレイに言うと、すたすたと立ち去って行く。
 やったわ。ここはホーッホッホッて笑うともっといいんだけど、それ、苦手なのよね。
 レイナは、テーブルの下にある拳をぐっと握りしめた。
 
 レイカはその様子を、さきほどの山の上から双眼鏡で眺めていた。
 ちっ、レイナ、やるじゃない。ま、おんなじレイだからね。
 レイカはアスカの動きを双眼鏡で追った。アスカは道を曲がってシンジ達から離れ、正面ゲートへ向かって行く。だめだったわね。レイカはがっくりしながら、双眼鏡で周囲を何気なく見回した。その時、信じられない人物をその中に見た。
 洞木ヒカリが、鈴原トウジとともに、ここに来ているのだ。
 レイカの背筋が寒くなった。彼らはアスカが帰るのと同じ道を歩いている。このままいけばアスカとヒカリは出会ってしまうだろう。さっきのにせ電話の件がばれてしまうにちがいないわね。なんとかしなくちゃ。レイカは即座に行動を開始した。手近の滑り台に身を飛び込ませる。
 地上に降り立ったレイカはアスカの来る方向を見る。まだ姿は見えない。首を回して、ヒカリの来る方を見る。小さくヒカリとトウジが見えた。
 まだ間に合うわね。何とかしてアスカと会うのを阻止しなきゃ。頭脳がフルに回転する。その時、自分の姿のまずさに気づいた。服装が、今のレイと違う!自分と会ったあと、向こうのレイに会った時、服装が違ったら…。
 レイカは傍にある公衆トイレに突入した。大急ぎで個室に入り、フルスピードで着替えていく。鬘をむしりとり、コンタクトレンズをはずす。2分後。トイレの外に、シンジの横にいるのとまったく同じ綾波レイがいた。素早く周囲を見回す。ヒカリがいた。もう20メートルほどの距離だ。アスカはというと…あと50メートルくらいだ。急がなくちゃ!
「洞木さん」
 ヒカリは、旧知の綾波レイが、息せき切って自分の方へ駆け寄ってくるのに驚いた。
「あらぁ!綾波さんじゃないの!」
「おう。綾波やないか。ひさしぶりやんか」
 トウジがレイカに向かって手を上げた。が、懐かしがっている暇はない。アスカがこちらに歩いてくる!
「洞木さん。ちょっと耳を貸して」
 レイカはヒカリの腕を引っ張って、ヒカリを道路からむりやり引き離すと、ヒカリの耳に口と手を近づけて小声で言った。
「洞木さん。ナプキン持ってない?
「え、あるけど…。来ちゃったの?」
 こくこくと頷くレイカ。
「じゃ、そこのトイレに行きましょう」
 ヒカリとレイカは早速公衆トイレへ向かう。そんな二人にトウジが声をかけた。
「なんや。つれションかぁ?」
「鈴原は黙ってて!」
 早速ヒカリの怒声が飛んだ。トウジは頭を掻くだけで、たいして反省の色はない。
「女は難儀やなぁ」
 見送るトウジの後ろをアスカがすたすたと通り過ぎて行った。

 トイレの個室で一息ついたレイカ。たぶんこれでもう大丈夫。ドアを開けて外へ出るとヒカリが待っていた。
「ありがとう。洞木さん。助かったわ」
「いいえ。困ったときはお互い様よ。でもこうゆうことってよくあるんだから、用意しとかなきゃ駄目よ」
「ええ、そうね。ちょっと油断してたわ」
「ところで、今日は誰と来たの?」
「……碇君と」
 頬を赤らめて言うレイカ。ヒカリはやっぱり、と言う顔でレイカを見た。
「そう。良かったわね」
 アスカ、かわいそうに。ヒカリの脳裏に親友の悲しげな顔が浮かんだ。トウジもヒカリ情報によって、二人の間柄を知っている。
「今日は久しぶりに鈴原君も一緒なのね」
「そうなの。彼、やっと大阪から出てこれたのよ。でも今日帰っちゃうんだって」
 トウジとヒカリは高校時代から、既に恋人同士になっていた。
「遠距離恋愛は大変ね」
「そうね。私も早く卒業して大阪に行きたいな」
「洞木さんもいずれ大阪人になるのね」
「さいでんがな」
 二人はアハハと朗らかに笑った。その時、レイカの頭に閃くものがあった。この状況、使える!
「そうだ。鈴原君、碇君と会いたいんじゃないかしら」
「そうね、せっかく会えるんなら会いたいと思うわね」
「じゃ、私が案内するわ。行きましょ」

(レイコ、レイコ)
 レイコの心の壁を叩く言葉があった。しかし、レイナとは微妙に波長が異なる。レイカだわ。
(なによレイカ。あなたに用はないわ)
(緊急事態よ。今私、誰と一緒にいると思う?)
(誰よ一体)
(洞木に鈴原よ。今そっちに案内しているところなの)
(なに馬鹿なこと!鉢合わせするじゃない!)
(そうよ。だから早く消えなさい)
(なによ。あなたが消えればいいじゃない)
(そうはいかないの。三人一緒にいるんだから)
(トイレに行くって言えばいいのよ)
(それも駄目。トイレから出たばかりだから)
(………………)
(どう考えてもあなたが消えるしかないのよ)
(………………)
(早くしないと、どんどん不自然になっていくわ)
(……分ったわ)
 レイコの顔に怒りの青筋が立った。行列の先頭はまだかなり先のほうだ。しぶしぶシンジに声をかける。
「碇君。私、ちょっとトイレに行ってくるから」
「ああ、綾波。早く戻って来てね」
レイコはスカートをひるがえして駆けて行く。
 シンジはその姿をのんびりと見送った。あんな怖い顔するなんて、よっぽど溜まっていたんだなぁ。

 レイ(カ)が戻って来た。が、一人ではなかった。
「おお、センセやないか」
 聞き覚えのある声にはっとして振り向くシンジ。
「鈴原!それに洞木さん!」
 社会人になったトウジはさすがに黒ジャージ姿ではなかった。しゃれたグレーのジャケットがびしっと決まっている。
「こんにちは。碇君」
「ひさしぶりやなぁ。元気そやないかぁ」
「さっきトイレのところで偶然あったの」と、レイカが説明した。
「へぇ、大阪からいつ?」
「昨日や、ほんで、今日帰らなあかんねん」
「ふぅん。忙しいんだね」
「貧乏暇なしってとこやな。お、そろそろ順番やないかぁ」
 行列が動きだした。人がぞろぞろと館内に入り込んで行く。
「わしら、ここでまっとるさかい、楽しんできいやぁ」
「うん。じゃ、また後でね」
 シンジとレイカは、期待を胸に館内に入って行った。

「まったく、まんまとはめられたわ!」
 ここは、園内のとある休憩所、レイコが怒りも顕わにレイナと向かい合っている。レイコは、最初着ていた水色のワンピースがレイカの元に亘ってしまったので、レイナが持ってきていた同一の服に着替えていた。レイナも元の姿に戻っていた。
「ここは、レイカに一本とられたわね」と、レイナが冷静に応える。
「お弁当まだ残ってるんでしょう。出してよ」
「はいはい」レイナが弁当を取り出して、広げる。
「あなた、おいしそうなもの選んで食べたのね」
「それはしかたないわよ」
「まったく、なんであなたと一緒に弁当食べなきゃならないのかしら」
 そんな風に話し合っている二人の目の前を、レイカとシンジが通り過ぎた。
 あの水色はレイコ、ベージュはレイナね。スペア持って来たってわけか。レイカはシンジをちらっと見た。シンジは今、遠くの観覧車を眺めている。レイカは一瞬レイコ達を見て、ぺろっと舌を出した。レイコとレイナはそんなレイカを、悔しそうに睨むことしかできなかった。

 午後3時45分。アスカは、第三新東京市へ向かうJRの電車に乗っていた。憂いを帯びた表情で、車窓からぼんやり外を眺めている。
 アタシの恋は終わったのね…。シンジ、ファーストのどこがそんなにいいの。そりゃ、アイツは美人よ。でもアタシだって相当なもんじゃない……。プロポーションなら、あのペチャパイにはっきり勝ってるわよ……。アイツなんてろくに口ききやしないじゃないのよ。ま、アタシが喋りすぎっていえないこともないけどさぁ……。やっぱり殴りすぎたかなぁ。顔、腫れ上がってたもんねぇ。でも、あれはアンタにも責任あんのよ……。
シンジのおじさん死にそうなのかぁ。おくやみ言ったほうがいいかなぁ…………。ん、待てよ……。シンジのおじさんって確か何年か前に死んだじゃない!そうだ。確かそんなことがあったわ!『ごちそうさま』(注:ご愁傷様の意か)って言った憶えあるもの!
 アスカの顔に生気がよみがえった。勢い良く席から立ち上がり、列車の連結部へ向かった。
 携帯を取り出し、インターネットに繋ぐ。ホテルの番号を調べているのだ。目指すアイルトンホテル・ファンタスティックランドの番号が分った。
 携帯からホテルに電話をかける。ホテルの受付がすぐに出る。
「もしもし、私、碇シンジの姉なんですけどぉ、その、シンジに急用があるんですけどぉ、もしや今日そちらに宿泊するんじゃないかと思いましてぇ。え、予約してある?そぉおですかぁー。キャンセルとかしてません?…してない。わかりました。大変ありがとうございましたぁー。え、連絡?いいえぇ、私、そちらに伺いますので、どーぞおかまいなく。それじゃどーもー」
 やってくれたわ、あの人形女、よくもアタシをだましたわね。シンジと寝たって話も信用できないわ。それにしてもシンジはどこにいたのかしら?あいつ、ファーストにまかせて自分は隠れていたのね!
       :
 『うわぁ、アスカだ。怖いよう』
 『碇君は隠れていて。私がアスカと対決するわ』
 『大丈夫かい。綾波い』
 『大丈夫。碇君は私が守るわ』

       :
 なんてだらしない!男の風上にもおけない奴だわ!あんな奴……。やっぱり私がいないと駄目よ!私が男にしてやらなくちゃ!待ってなさい、ファースト。これからこのアスカ様が目にもの見せてやるわ!
アスカは次の停車駅で電車を降りると、反対側のホーム目指して駆けて行った。

5.
 午後4時2分。シンジとレイカ、トウジにヒカリは、ファストフード店の店先でなごやかな時を過ごしていた。
「ほんまに今日はシンジに会えて良かったわ。もう随分会ってなかったからのう」
 トウジには社会人らしい落着きが備わったように、シンジには見えた。一言で言えば大人の雰囲気だ。
「僕も久しぶりにトウジと会えて良かったよ」
「今度帰って来た時は、ケンスケも交えて一杯やろやないか。シンジはもう酒のんだか?」
「うーん。ちょっとだけね」
「なんや、もう二十歳なんやから飲んどかなあかんで。それが大人ってもんやがな」
「そうだね。はは、練習しとくよ」
「さってと、電車の時刻もあるさかい、わいらはこれで帰るわ。またいつか会おうな」
「もう行っちゃうのかい」
「しゃーないがな。綾波も元気でな。おじゃま虫はこれで消えるで」
「じゃまだなんて…」と、レイカは伏目がちに答えた。
「ま、ええがな。シンジは浮気もんやさかい、気いつけなあかんで」
「トウジぃ…」シンジが困った顔をする。
 にやっと笑ってトウジは立ち上がった。ヒカリもシンジ達も立ち上がる。
「じゃ、碇君、綾波さん。またね」
「送ってくよ」とシンジは言ったが、トウジが手で制止する。
「ええって、ええって。せっかくのデートや、楽しみなや。ほんじゃな」
 トウジとヒカリが遠ざかっていく。シンジとレイカはしばらくの間、それを見守っていた。

「トウジ達が離れて行ったわ」双眼鏡を覗いたレイコが、レイナに言った。
「まだ、何かする気?」
「当たり前よ。このまま引き下がりはしないわ。考えてみて。こちらは二人、向こうは一人。圧倒的にこちらが有利よ」
「何か考えがあるのね」
「そう、トイレよ」
「トイレって?」
「いい、あの二人がトイレに行くケースを考えるの。1.碇君だけがトイレに行く。2.レイカだけがトイレに行く。3.二人同時にトイレに行く。この三つよ。まず第一のケースから、この場合あなたならどうする?」
「当然入口を見張るわ」
「そうね、この場合は問題が起きない。二番目は?」
「これは問題がありそうね。碇君に入口を見張っててもらう必要があるわ。うーん。そうか、分った!トイレの中に先回りしておけばいいのね。レイカが個室に入った瞬間にこちらが出ていけば…」
「私なら、前もってトイレの中を調べるわ。誰かいそうならやめておく」
「あ、待って。なにも先回りする必要はないわ。レイカが入った後、私達二人が同時に追いかければいいのよ。碇君には、私達の変装は見破れないわ。私がレイカを個室に閉じ込めて、あなたは悠々と着替えて出ていけばいい」
「そうよ。でもその場合トイレに他の人がいたら駄目ね。残るは三番目」
「レイコがすり替って出た時、碇君に見えないわね。だとすれば…。レイカが碇君より先に戻って来て、争いになる可能性があるわ。それは中から行こうと、外から行こうと同じこと。だから、やっぱりレイカを個室に閉じ込める必要がある」
「そう言うことね」
「だったら、どちらにも決定的な作戦はないってことじゃない?」
「そう、だとしたら、レイカにとって最善の選択は?」
「……トイレに行かないこと」
「正解。レイカはホテルにチェックインするまで、ずっとがまんする気でいるに違いないわ」
「じゃあ、レイコにもうチャンスはないわよ」
「いえ、それなら、その気にさせるまでよ!」

 その頃、アスカを乗せた電車は新熱海駅に到着した。扉が開くと同時にアスカはホームに降り立った。逸る心を押さえて、出口へ続く階段を上がって行く。
 今、午後4時20分。閉園まであまり時間がない。今から園内に入っても、とても捜しきれないわ。こうなったら、ホテルで待ち伏せよ!
 その向かいのホームには、トウジとヒカリが仲睦まじく腕を組んで電車を待っていた。

 午後4時48分。レイカは、悩んでいた。尿意がかなり大きくなりつつある。しかし、レイコが仮説を立てた通り、レイカはホテルにチェックインするまで、がまんし通す腹積りでいる。
トイレは危険な場所。できるだけ近づくべきではないわ。
「綾波い。今度はあっちに行ってみようよ」シンジが楽しげに進行方向を指差す。
レイカは「そうね」と、内心の悩みを押し隠すように笑顔で答えた。
その時、少し先を、水色のワンピース、栗色のロングヘアーで銀縁眼鏡をした女が通り過ぎて行った。あれはレイコじゃない。
 レイコと思しき女は、そのまま右手の広々とした芝生の上を歩み去って行く。レイカはそれを目で追う。変ね。何を考えているのかしら。レイナはどこ?レイカは慎重にあたりを見回すが、レイナらしい姿は見えない。丁度その時、左手に公衆トイレが目に入った。肝心のレイコは遠く離れている。今がチャンスだわ!
「碇君。私、ちょっとトイレに行って来る。ここで待ってて」
 レイカは格好をつけてわざとゆっくり歩いて行き、トイレに入った。
 レイカはトイレの中を慎重に見回した。個室のドアはどれも開いていて、誰かが隠れているようには見えない。レイカはようやく安心して手近な個室へ入った。
 同時に用具置き場のドアが、音もなく開いた。

レイカが用を済ませて立ち上がった時、突然テレパシーが心の壁を打った。
(レイカ、私、レイナ)
(何よ。何の用?)
(今、碇君と一緒にいるの誰だと思う?)
 レイカは愕然とした。そんなことはあり得ない。トイレには誰もいなかったではないか。
(嘘よ。入れ代われるはずがないわ)
(嘘だと思うんなら、そっと出て表を覗いてみなさい)
 レイカは駆け足で入口へ出て、周囲を見回した。
 シンジが自分そっくりの姿をした女と歩いている。茫然とそれを見守るレイカ。
(分った?レイカ。何が起こったか)
(今、シンジと一緒なのは、レイナ、あなたなの?)
(はずれ。あれは、レイコよ)
(そんなことって……、そうか!あなた、だましたわね)
(そう。あなたの前にレイコの格好で姿を現したのは私。そうでもしないと、あなたトイレに行かなかったでしょ。レイコは着替えてトイレで待っていた。用具置き場にね)
 レイカは入口のすぐそばにある用具置き場を振り返って見た。そこには、人一人十分入れるスペースがある。おそらくドアの隙間から様子を探っていたのだろう。
 レイカの肩がぽん、と叩かれた。振り返ったレイカの目の前に、ロングヘアーに眼鏡の、レイナの顔があった。
「さ、遊びはおしまい。とっとと変装して。それからお家に帰りましょ」

 レイカとレイナは肩を並べて正面ゲートに向かって歩いていた。レイカは、またレストランで着替えたときの服装に戻っていた。頭にはショートカットの鬘、目にはサングラス。レイカは寂しそうだ。
 結局駄目だったと言うの?ヴァージンを碇君にあげられないなんて。女の一生に一度の大事な経験。それが台無しになってしまう。初体験が擂粉木や野菜だなんて、なんてみじめな運命なんでしょう。……それにしてもレイナは平気なのかしら。
「レイナ」
「なあに」
「あなたはこのままでいいの?碇君にあげたいと思わないの?」
「それは思うわ。私達三人、みな同じに碇君を愛してるもの。誰もその神聖な経験を、他のものでしたいなんて思わない」
「だったら……」
「でも、私達の生活を守るためには、誰かが犠牲にならなくちゃならないわ。そうでしょ?」
 レイナの目に涙が浮かんだ。レイナはそれを拭って、さらに続けた。
「でも、思い出してみて。使徒と戦っていたころのことを。どんなにつらかったか。自分が犠牲になることを当たり前に思っていたわ」
「………………」
「それに比べたら、こんなの軽いほうだと思うの」
「それは確かにそうだけど…」
 レイナ達の向かう西の空が、夕焼けに染まり始め、語らう二人の顔も赤く染まっていた。二人の背後には影が長く伸びていた。
「レイナはどんな条件でレイコと契約したの?」と、レイカは急に何かを決意したように言った。
「デートの権利3回分」
「裏切りなさい」
「裏切る?」
「そうよ。私はデートの権利、その倍あげる」
 レイナの心はぐらついた。デート6回分。よだれの落ちそうな好条件。碇君との夢のような夜がたんまり……。レイナはにっこり微笑んだ。
「いいわ。あなたの味方になってあげる」
「やったわ。これで碇君はもらったようなものよ」
 二人は立ち止まって小声で打ち合わせを始め、やがて、シンジとレイの今夜の宿となるホテルに向かって歩き出した。このようにシンジとのセックスが、取引の材料になっていようとは、勿論シンジには知る由もなかった。

(続く)

(第3回へ続く)



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