怪談 呪いのチェロ

間部瀬博士

 

 シンジがそのチェロを手にしたのは第12使徒戦後、退院して間もなくのことであった。夕刻、葛城ミサトのマンションで行われた、ささやかな祝いの席上でミサトが持ち出したのが、ケースに入ったそのチェロだったのだ。突然現れたチェロにシンジは目を丸くして驚いた。

「はい、シンジ君。これ、あたしからの生還祝い」

「えっ。ミサトさん、それ、チェロじゃないですか!」

 一座に驚きの声が上がった。そこには他にアスカ、トウジ、ケンスケにヒカリがいた。彼らが持ち寄った祝いの品とは、比較にならぬ大物の登場だ。

「シンジ君が持ってたチェロ、壊れちゃったでしょ。あなた、残念そうにしてたじゃない。そこであたしがこの際、思い切ってプレゼントしてあげるわ」

 高温多湿の日本の気候は、以前シンジが持っていたチェロを痛めつけた。膠(にかわ)が剥がれ隙間が出来てしまい、修理も難しく、とうとう捨てることになってしまったのだ。

「……そんなのいいのに。だって、高かったでしょう、これ」

「ううん。中古だったから、そんなでもなかったのよ」

「ありがとうございます。ミサトさん」

 シンジは早速ケースを開けてチェロを見た。それは中古とは言え、補修を受けたのだろう、ニスの光沢は艶々しく、深く渋い色合いを放っている。弦も既に張られていて、いつでも弾ける状態だ。微笑みを浮かべ、瞳を輝かせて眺める様は、心から嬉しそうに見える。ミサトはこれを贈って本当に良かったと思った。

「へぇー、良かったじゃない。さっすが、大人のプレゼントは違うわね。アタシのとは雲泥の差だわね」と、アスカはシンジを横目に見ながら言った。アスカの祝いの品は中古のゲームソフトで、シンジが興味を持っていたものだ。

「ねえ、ちょっと弾いてみてよ。いつかバッハを上手に弾いてたじゃない」

 シンジの顔色が変った。

「えっ、それは困るよ」

「せや、わいも聴きたいわ。ちょっとやってみせえ」と、トウジが軽く言うと、ケンスケも追従する。「うん。僕も聴きたい。頼むよ、シンジ」「あたしも!」とヒカリが手を挙げる。

「いや、駄目だよ。僕、人に聴かせられるような腕前じゃないんだ!」

 シンジは手を振って断るが、四人は口々に弾くように頼み込む。シンジは顔を赤くして視線を落とす。

 黙って缶ビールを飲みながら様子を見ていたミサトはまずいな、と思った。シンジの性格からしてこういう場で目立つのは苦手だろう。無理に弾かせるのが気の毒になった。

「まーまー。みんな、シンジ君はあがる性質なんだからさ。いきなりってのは駄目よ。十分練習して自信がついたら、きっと聞かせてくれるわよ。ね、シンジ君」

「……ええ、まあ」

「ちぇっ、つまんないの」アスカは口を尖らせてジュースに手を伸ばした。

 

 会はお開きとなり、葛城家に静寂が戻った。その夜、ミサトはネルフに用事があると言って、出かけて行った。今夜は戻らないとのことだ。アスカとシンジだけが残った。

 11時になり、二人は歯を磨いて床に着いた。勿論部屋は別々だ。シンジは新しいチェロを自室に運び込んでいた。

 ふいにアスカは目覚めた。

 どこかから低い弦の鳴る音が聞こえたのだ。アスカは目を開けて耳を澄ました。

 マンションはしんとした静寂に包まれている。

 なんだったのだろう、あれは。

 確かに弦楽器の音を聞いたように思う。そんな音を鳴らす者がいるとすれば、隣室のシンジ以外には考えられない。枕元の目覚まし時計を見てみる。午前1時55分。シンジはこんな時間に起きているのだろうか。

 1分、2分と時は過ぎていった。聞こえる物音と言えば、遠くの道路を走る自動車の走行音だけだった。夢だったのかも。アスカはそう思い、寝てしまおうと目を瞑った。

 いきなり、四つの音が立て続けに鳴った。それらの音は幽かであったが、シンジの部屋からA-D-G-C、と調弦をするかのように響いたのを確かに聞いたのだ。

 目を怒らせてアスカは上体を起こした。あのバカ、何時だと思ってるの。文句を言ってやらねばならない。アスカは立ち上がり、大股でシンジの部屋へ向かった。

 シンジの部屋の襖を勢い良く開けた。しかし、中は真っ暗なのである。今、点いているのはリビングの天井にある豆電球だけだ。シンジは夜、部屋を真っ暗にして寝るタイプだった。アスカは混乱しつつも、今の怪音の原因を探ろうと中を観察した。

 アスカの目がだんだんと闇に慣れてきた。ぼんやりと部屋の内部が見分けられる。

 チェロはケースに入ったまま、シンジが寝る布団の横に立てかけてある。シンジは背中を丸めてむこう向きに寝ている。こんな状態で音が出るとは考えられなかった。アスカが起きて、部屋の襖を開けるまでに片付けたとも考えにくい。短い、ごく僅かな時間でしかないのだ。

 アスカは惑乱と恐怖に捉われながら襖を閉めようとした。襖の取っ手に指を掛けた一瞬、視界の隅に何かを捉えた。

 シンジの枕元に、蹲(うずくま)る男の姿を見たような気がした。

 アスカは、はっ、としてシンジがいる方に視線を戻した。

 部屋の様子は先程と何ら変っていなかった。

 何かの見間違いに違いない、怖いと思うからそんな錯覚をしたのだと、アスカは自分を納得させた。静かに襖を閉め、自室に戻った。

 アスカはその夜、まんじりともせず夜を明かした。眼は冴え渡り、眠ろうとしても果たせなかった。その後は一度も怪しい物音はしなかった。

 

 次の朝、シンジは上機嫌だった。お早うの声もトーンが高い。朝食を用意する手際も快調の一言だった。一方アスカは眠れなかったせいか、どんよりと憂鬱な朝の一時を送った。昨夜の出来事については一言も口に出さなかった。

 学校の授業は普段通りに受けた。シンジにいつもと変ったところは何もなかった。ただ、アスカは頻繁に居眠りをした。教師たちはそれを見ても何も言わなかった。

 ちょっとした変化は帰宅後のことだった。シンジは手を洗うと即座にチェロのケースを開けたのだ。

 アスカが呆然と見守る前で、シンジはいそいそとチェロを弾く準備に励む。まるでアスカが目に入っていないかのようだ。

「アンタ、今から弾くの?」

「ん?ああ、アスカ。そうだよ。どうして?」

「アンタ、滅多にアタシの前で弾かないじゃない」

「そうかな。……あ、もしかして迷惑?」

「別にいいわよ。でも、あんまりひどいと怒るからね」

「多分、そんなにひどくないと思うよ。長くならないようにするから」

「お手柔らかに頼むわ」

 シンジは椅子に腰掛け、チェロを股に挟んで弓を弦に当てた。ヘッドのつまみを回し、調弦を開始する。それからやおら譜面台に目を向け、背筋をしゃんと伸ばして弓を構えた。

 深く渋い第一音が鳴り渡った。J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調、第1曲「プレリュード」。以前、シンジと戯れのキスをした日に聴いた、あの曲だ。アスカはへえ、と感心した。前に聴いた時より格段に上手いのだ。速度、音の切れ、ヴィブラートの掛かり方も申し分ない。何時の間にこんなに上手くなったのだろう。同居してかなりになるのに、シンジがチェロを手にしたことなど、殆どなかったではないか。

 どこかで秘密の練習でもしていたのだろうか。そんな事を考えながら、アスカはシンジを見つめる。いつしか目が離せなくなった。シンジが演奏する姿はりりしいとさえ言えた。

 第1曲が終わった。アスカは思わず手を叩いた。だが、シンジは何事もなかったように次に進んだのである。不満になったアスカは頬を膨らませた。

 シンジはえんえんと演奏を続けたのである。同じ曲を何度も繰り返し、納得のいくまで。それは夜になり腹を空かせたアスカが、これ以上ないほどの大声を出して制止するまで続いた。その間、シンジは一度もアスカを見なかった。

 夜になり帰宅したミサトにアスカはそのことを言った。シンジは自室でS−DATに聴き入っている。

「シンジったら、チェロに夢中で、アタシの事なんか眼中にないって感じなのよ。人が変ったみたいなんだから」

「新しいチェロが気に入ったじゃないの。潜在していた音楽への情熱が目覚めたんじゃないかしら」

「そうかな。なんか前のシンジと違う感じがするのよね」

「考えすぎよ。2、3日もすれば飽きてきて、元通りになるわよ」

 ミサトは何の懸念も抱いてないようである。アスカは口を尖らせはしたが、それ以上何も言わなかった。昨晩の怪異については、元より明かす気はなかった。ミサトはむしろ、何事にも消極的なシンジが、打ち込むものが出来たのは好ましいことのように思えた。

「いいことじゃないの。趣味があるというのは人生に必要なことだわ。シンジ君、どれも中途半端って感じだったから、いい方向に進んでるんじゃないかと思うな」

 そう言ってミサトは缶ビールを呷る。アスカは話にならないと思い、席を立った。

 次の日、シンジだけがシンクロテストを受けることになったので、アスカは一人学校から帰宅した。

 マンションの中はしんとして寂しい。アスカは着替えをしてリビングのソファに寝そべり、テレビのスイッチを入れた。大した中身のない情報番組だ。アスカは退屈になり、テレビを消し、伸びをした。「ああ、暇」いつもならシンジがいて、退屈しのぎには事欠かないのだが、その相手がいない。

 ふと、あのチェロのことを思い出した。

 一昨夜の怪異は、アスカの中ではまだ決着がついていない。夢うつつの中で起きた幻聴なのか。そうとは言い切れないものが残っている。

 そんなことを考えるうちに段々とあのチェロが見たくなった。じっくり観察してありふれた楽器と確認すれば、疑念は消えるだろう。丁度良くシンジはいない。

 アスカはそっと立ち上がった。誰もいないのに、殊更静かにシンジの部屋の襖を開けた。

 チェロは部屋の奥に、ケースに入った状態で立て掛けてある。アスカはゆっくりチェロに近づき、蓋の留め金に手を掛けた。心臓の鼓動が速くなった。

 バチン、と鳴った音がやけに大きく、ひっ、と声に出し、手を引っ込めてしまった。

 アタシ、何を怖がってるの。バッカみたい。たかが楽器ではないかと思い直し、深呼吸を一つ入れて蓋を開け放った。

 茶色の光沢のある、チェロの本体が顕わになった。

 職人の技を感じさせる、見事なものだ。工芸品と言ってもいい。アスカは座り込んで、深みのある色合いと、木目の美しさにしばし見とれた。

 ふいに、誰かに見られているような感じがした。

 アスカは首を巡らせて辺りを見回した。勿論、誰もいるわけがない。マンションの中は物音一つしない。

 だが、見られているという感覚は消えなかった。チェロに視線を戻す。胴の部分にアスカの顔がぼんやりと映っている。その顔を切るように、f字孔が深い闇を覗かせている。

 アスカは未知の視線の出所に思い当たり、心臓が凍りついた。

 チェロが自分を見つめているのだ。いや、何かが、f字孔の向こうから自分を凝視しているのだ。

 アスカは激しく首を振った。バカアスカ!そんなわけないじゃない!これは、ただの楽器なんだから!

 怖がる気持ちがそんな感覚を呼び起こすのだ、と無理に自分を納得させ、ためしに触ってみようと手を伸ばした。

 胴の縁をそっと撫でていく。滑らかな木の感触。どうということはない、普通の感じだ。今度は弦に触ろうと指をずらした。

 第1弦に触れた途端、弦が切れた。弦は一瞬跳ね上がり、アスカの指先に鋭い痛みが走った。

「痛ッ!」アスカは慌てて手を引っ込めた。長く尾を引く音が室内に響いた。人差し指の先から一滴の血が滴った。

 アスカは激しい勢いで立ち上がり、後ずさった。心臓が速く、激しく打った。恐怖に歪んだ顔でチェロを見つめた。チェロのヘッドからはスチール製の弦が垂れ下がっている。

 今の何よ?まさかチェロがアタシを拒絶した?嘘うそ、そんなのあり得ない。あれは、ただのモノじゃないの!単なる偶然よ!

 アスカの理性は、必死になって今の現象に合理的な解決を与えようとした。なんとでも説明がつくではないかと。だが、感覚はそれを裏切り、何かがいるという、漠然とした感じがさらに強まっていくのだ。それは遂に、チェロが悪意を持って自分を睨みつけていると確信させるに至った。アスカは踵を返し、部屋から逃げようと襖に駆け寄った。

「ただいまあ」

 シンジの声が聞こえた。その途端、不思議にも視線の感覚が消えた。辺りは日常の、当たり前の空間に戻った。

 アスカは素早く部屋を出て、シンジを迎えた。

「おかえり」

「あれ、アスカ。僕の部屋で何してたの?」

「これは、……そのう」

 口ごもるアスカをシンジは怪訝そうに見る。アスカは額に汗が滲んでいる。視線にも落ち着きがない。

「そこどいて」シンジはアスカを押しのけて部屋の中を見た。瞬時にシンジの体は凍りついた。

「ア、アタシ、ちょっとチェロが見たくなって、開けちゃったの。それで、軽く触ったら弦が切れちゃって。ごめん」

 アスカはシンジの背中に向かって言い訳を並べた。愛器の間近に立ったシンジの肩が震えだした。

「なんてことしてくれたんだ」

「ほんとごめん。弁償するから」

「なんてことしてくれたんだ!!」

 振り向いて怒鳴ったシンジの顔は、猛烈な怒りに歪んでいた。それはアスカが初めて見るたぐいのもので、うろたえて一歩下がった。

「どうしてくれる!チェロが弾けないじゃないか!」

「ごめんなさい」

「ごめんで済むか!」

 シンジはアスカのすぐ傍まで来て喚いた。拳がぶるぶる震えている。その怒りの凄まじさは、アスカに身の危険すら感じさせるものだった。アスカは反発を覚えた。

「何さ!あやまってるでしょうが!そんなに大事なものなら、押入れにしまっときなさいよ!」

 シンジの拳が上がった。殴られる!アスカは咄嗟に両手を交差させて顔を隠した。右手の人差し指から血が滴り落ちた。シンジはそれを見て顔色を変えた。上げた拳をそのままに、まじまじとアスカの指先を見つめた。怒りが解けて、普段のシンジの顔になった。

「アスカ、怪我をしたの?」

 アスカはシンジの態度が急に変ったのに戸惑いながら答えた。

「う、うん。弦が切れた時に」危険は去ったと感じ、腕を下ろした。シンジの顔から目を離せなかった。シンジはしきりに瞬きをし、頬が痙攣し、顎ががくがくと揺れている。顔の筋肉の統制が取れていないような感じなのだ。

「どうしたの?」アスカは不安を覚えていた。どこかシンジはおかしい。シンジはその言葉に答えず、くるっと背を向けて窓際に歩いた。アスカは怪我をした箇所を押さえながら、じっとシンジの動向を窺った。

 シンジは外を眺めている。午後の光がシンジの顔を照らしている。アスカはその顔を見て、背筋が寒くなった。

 目の焦点が合っていないように見える。口が細かくしきりに動いている。声にこそなっていないものの、まるでそこにいない誰かと話しているかのようだ。アスカは恐れに凍りつき、その様子をただ眺めることしかできなかった。

 いきなりシンジは振り向いて玄関に向かった。アスカをまったく無視して。

「どこ行くの?」アスカはシンジの背中に向かって訊いた。「弦を買って来る」シンジはぽつりとそれだけ言い、靴を履いて出て行った。それを見送りながら、アスカは大きく息をした。

 次の日からシンジはチェロ持参で中学へ通った。放課後、音楽室でチェロの練習をするためである。シンジは授業が終わるとすぐに音楽室に向かい、時間の許す限りチェロを弾いた。それが連日続いた。トウジやケンスケらとも付き合わなくなった。

 学友たちは奇異に感じた。トウジは「自分、いい加減にした方がええんとちゃうか」と、窘(いさ)めたが、シンジは全く意に介さなかった。

 一つ奇妙な事があった。ある時、シンジはアスカたちがまったく知らない歌をくちずさんだのだ。それはなんという唄かとアスカが尋ねると、シンジは聞いたこともない唄のタイトルを答えた。後で調べたら、それはセカンドインパクト前の1980年代に流行したものだった。

 シンジはどんどん上手くなっていく。それに比例するように、ある変化がシンジの肉体に起こっていた。

 痩せていったのだ。

 すっかり頬がこけ、面差しが変ってしまった。目は時折ぎらぎらと輝き、不気味さを醸し出す。食事はちゃんと摂っているにも拘わらずだ。アスカには否定したいことだったが、まるであのチェロが、シンジの生命を貪り食っているかのように思えるのだった。

 ある時、アスカはシンジに言ってみた。

「シンジ、凄く上手になったわね。もう十分じゃないの?」

「バカ言うなよ」シンジはせせら笑った。

「カザルスはこんなもんじゃなかった。ロストロポーヴィチは?シュタルケルは?デュ・プレはどうだ?チェロの芸術はもっと奥が深いものさ。僕なんかほんのヒヨッコだね」

 後でアスカは、密かにシンジが持つCDやS−DATを調べてみたが、これら巨匠の音源は一つもなかった。それどころか、チェロ独奏部のある曲すら、ただの一つもなかった。

 シンジにまつわる不思議はこれらに止まらなかった。期末テストの成績が飛躍的に伸びたのだ。前回のテストは惨憺たる成績だったのに、いつ勉強したのだろう。自宅でシンジが教科書を開いたところを見たのは、数えるほどしかないというのに。シンジにそれを言うと、当然の結果さ、と冷ややかに答えただけだった。

 

「うん。確かに以前とは変ったって印象はあるわね」

 ミサトは頬杖を付きながらアスカに答えた。夕食後、シンジが自室に籠もったのを捉え、声を低めて話し合いをしている。

「でしょう。何かあるのよ。あの痩せ方を見てよ。只事じゃないって」

「でも、普通に生活しているしねえ。ああなったから、どうかするって訳にもいかないわよ」

「アタシ、このまま行ったら、大変なことになりそうな気がするの」

 アスカとしては、遠まわしな言い方しか出来なかった。超自然的な現象が起きているなどと言い出せば、一笑に付されるのが見えている。何よりアスカ自身、自分の推測の中身が信じられないでいる。

「まあ、今は静観するしかないわね。いよいよあやしくなったら、その時は精神科に連れてくなりするわ」

 実は、ミサトも内心では深い疑念を持っていた。それは赤木博士が見せたデータが元だった。

 シンジの心理グラフが全く違う形に変っていたのである。

 

 土曜日。学校は休みだ。ミサトは仕事で朝早く出て行った。アスカとシンジは会話のない朝食を済ませた。シンジは洗い物が終わると即座にチェロを弾く準備を始めた。

「それ、今日も弾くの?」

「うん。学校じゃ弾けないからね」

「あっそ。勝手にすれば。アタシは出かけるわ」

 シンジがえんえんと続ける練習に付き合う気はなかった。チェロばかり、何時間も聞かせられるのはたまらない。何よりあのチェロの傍にいたくなかった。

 アスカが帰宅したのは4時を過ぎた頃だった。殆どをヒカリと遊んで過ごした。玄関のドアを開けるなり、奥からチェロの音色が聞こえてくる。

 アイツ、まだやってるんだ。アスカはあきれながら静かに奥へ進んだ。リビングの様子は朝、出てきた時のままだ。キッチンのシンクには食器が一つも置いてない。まさか、昼食も摂らずに弾いてたとか?あのシンジならあり得ると思った。

 シンジの部屋からは朗々と熱の籠もった音楽が聞こえて来る。一瞬、電流が走るような思いがした。あまりに見事な、その演奏。アスカはリビングの真ん中に突っ立ってそれに聴き入った。

 バッハの無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調。重音が頻発する分厚い響き。渋いいぶし銀のような音楽だ。アスカはその方面にそれほど詳しい訳ではなかったが、これが相当に高いレベルの演奏であることを直感していた。シンジの技巧は卓越したものだった。まさに玄人裸足。中学2年生でこれほど弾ける人間は、世界に一人二人いるかどうか。いや、大人でもどれだけのチェリストがこれを超えられるだろう。それほどの演奏をやってのけている。

 聴き進むうちに不安がもたげてきた。いくらなんでも上手すぎる。初めてシンジの演奏を聴いた時からまだ一月と少ししか経っていない。あの時はたどたどしい、素人くさい弾き方だったではないか。この短期間にこれほど上達することがあり得るだろうか。

 アスカは身震いがするような確信を持った。あそこにいるのはシンジじゃない。別の誰かだ。

 自分の部屋に駆け込み、朝から敷きっぱなしの布団を頭から被った。心底怖かった。どうしよう。どうしよう。自分だけではどうにもならないと思った。誰か大人の助けがいる。でも、どう言ったら解ってもらえるだろう。

 懸命に考えたアスカは、勉強机の上に小型のMDプレーヤーがあることを思い出した。そうだ、あれを使えば。

 どこかにマイクもあったはずだ。アスカは音もなく立ち上がり、机の引き出しを開けた。あった。襟に付けられるごく小さなものだ。さらに空のディスクも取り出す。語学練習用に買っておいたものだ。

 隣室からは相変わらず見事なバッハが聞こえてくる。アスカは抜き足差し足、慎重に部屋を出てシンジの部屋の前に蹲った。

 襖に手を掛け、ゆっくり慎重に開けた。大きく開ける必要はない。ほんの1cmほど。マイクをその僅かな隙間に差し入れた。少しでも見つかりにくいように、体は襖の陰に置いた。

 その時、中の音楽がいきなり止まり、アスカの全身が凍りついた。気づかれた?アスカは身じろぎもせず耳をそばだてる。怒りも顕わにこっちに向かってくるシンジのイメージが湧く。

 アスカの懸念は当らなかった。またチェロの音色が聞こえてきたのだ。アスカは胸を撫で下ろし、録音を開始した。

 シンジがすぐ傍で繰り広げる気高いバッハの音楽は、アスカに何の感興も齎(もたら)さなかった。今のアスカはひたすら気づかれませんようにと、強く祈るばかりだった。

 1曲が終わり、シンジは調弦を始めた。もう十分だろう。アスカはマイクを引っ込めて立ち上がった。最後にシンジの姿を確認しておきたかった。そっと隙間から中を覗きこんだ。アスカはそれを見てしまった。

 シンジはこちらに背を向けて座っている。室内の様子に変ったところはない。だが、シンジの姿だけが異なっていた。

 シンジの体が、何か青白い、半透明のものに包まれて、ぼやけて見える。体を覆う何かは絶えず痙攣し、波打つように微妙に形を変えている。

 アスカはかろうじて手で口を押さえ、叫びを上げるのを阻止した。

 そのまま自分の部屋まで後ずさる。シンジは演奏を再開した。アスカがいることに気づいていないようだ。それほど音楽に没入している。アスカは部屋に入り、口を押さえたまま布団に潜り込んだ。そうしなければ恐怖の絶叫が、室内に轟き渡るに違いなかった。

 

 シンジの演奏は6時を過ぎてミサトが帰宅するまで続いた。シンジは普段と変らぬ態度でミサトとアスカに接した。アスカを見た時、シンジは「あれ、いたの?」と暢気そうに言った。アスカの方はその夜、必要最低限の口しか利かなかった。

 深夜、アスカは布団に入り、天井を見上げながら考えた。

 シンジにこれ以上あのチェロを弾かせてはならない。なんとかしてシンジを連れ出そう。そして、じっくりと話をするのだ。そうすれば解決の糸口が見つかるかもしれない。

 アスカはそう固く決意して目を閉じた。

 翌日の日曜日、シンジはまたも朝食を終えるなりチェロである。アスカは勇を鼓してシンジに迫った。

「いい加減にしてよ!もう毎日、毎日チェロばっかり!たまにはアタシの相手をしてくれたっていいじゃないの!どうしてそんな風になっちゃったのさ!」

 これに対して、シンジは表情一つ変えなかった。

「弾いちゃだめなの?」

「ダメよ。ほら、今日は天気がいいんだから、外に行きましょ」

 アスカはシンジの手からチェロのネックを掴んで奪い取った。途端にシンジの目つきが変った。

「何すんだ!!」

 シンジは怒りの形相凄まじく、アスカに襲い掛かったのである。アスカの手から愛器を奪い返し、あまつさえアスカの喉に手を掛けた。

「キャアアアアアアッ!」

 アスカの悲鳴が葛城家に響き渡る。アスカの背は壁に当たり、退路はもうない。シンジの右手が彼女の細い頸に食い込んでいく。アスカの口が、空気を求めて大きく開く。

 騒ぎを聞きつけたミサトが、リビングに寝間着のまま駆け込んできた。朝寝を楽しんでいるところだったのだ。

「何やってんの!あんたたち!」

 ミサトは必死にシンジを引き剥がした。チェロが鈍い音を立てて床に転がった。シンジをソファの上に突き飛ばして距離を取る。アスカはミサトの背中の後ろに隠れた。ごほごほと、苦しげに咳をする。

 立ち上がったシンジの形相を見て、二人は色を失った。それはまさに悪鬼とも言いうるような凄まじさだったのだ。

「返せ」

 眼光鋭く言い放つシンジにミサトはたじろいだ。この場を収めるためには、一旦言う通りにした方がいい。そう判断したミサトは、アスカの腕を取って退いた。

「勝手にすれば」

 シンジは無言でチェロを取り、いとおしむように撫でた。疵がないか仔細に観察してから、赤子をゆりかごに入れるようにケースに詰めた。

 それからケースと譜面台を抱えて出て行った。呆然と見送るミサトの背後で、アスカはぶるぶると震えていた。

 それきりシンジは戻って来なかった。

 ミサトもことここに至って事の重大性を認識した。思えば、全てはミサトがチェロを購入したあの日から始まっているのだ。アスカもその夜起きた怪現象の事を、ようやくミサトに話した。あのチェロには人智を超越した何事かがある。シンジの捜索を関係各方面に依頼すると同時に、加持にも問題のチェロの来歴を調べてくれるよう頼んだ。加持は快く引き受けた。

 シンジの行方は一向に分からなかった。三日が経ち、捜査本部にもあせりの色が見え始めた。放棄地区にいるのかも知れないと推測された。あそこには人が隠れるには最適な廃ビルが沢山ある。捜査員は苦悩の色を濃くしていった。シンジは金も食料も持っていないのだ。今頃は衰弱しきっているに違いない。

 四日目の午後、加持がミサトのマンションにやって来た。重大な情報を掴んだとのことだ。アスカとミサトは食い入るように加持を見た。

「あのチェロが作られたのは、セカンドインパクト前の1994年のことだ。日本製の、結構高級な品物だった。最初の持ち主の名は宇賀路リョウスケという。彼は1980年生まれ。裕福な家に生まれ、幼くして音楽に興味を持った彼は、たった5才の時からチェロを習い始めた。神童と言ってもいいだろう。中学1年で日本学生コンクールを制した。順調に才能を伸ばした彼は芸大に入り、最高の教育を受けた。十八番はバッハだったそうだ。海外のコンクールへの挑戦も決まった。順風満帆の音楽家人生だ。未来の巨匠の地位は約束されているかに見えた。ところが、セカンドインパクトが全てを覆した。

 芸術どころではなくなった。今日をどう生き延びるかが問題となったんだ。あの頃は疫病が猛威を振るったことは、葛城も良く知っているな。宇賀路は不幸にもそれに罹った。コレラだよ。彼は高熱に苦しみながら、この世を呪った。恨み言を撒き散らしながら最期の時を迎えた。その時、病室にあったのが、あのチェロだ。あれは、彼の手元に残った最後の一本だった。

 死んだ時、彼は物凄い形相でそのチェロを睨んでいたそうだ。居合わせた看護師は、その顔を二度と思い出したくないと言っていた。

 一方、宇賀路家は零落してしまったので、そのチェロは人手に渡った。

 次の持ち主は2005年に古道具屋でそれを買った。特にチェロを弾く趣味はなかったそうだ。単なるインテリアとして置いときたかったんだな。だが、その男はたった二ヶ月しかそれを鑑賞できなかった。ある日、心臓麻痺で床に倒れているのを妻が見つけた。あのチェロの足元だったそうだ。

 その次の持ち主もやはり古道具屋でそれを見つけた。今度はチェリストを目指す学生さんだ。試しに弾いてみて、値段の割りに音がいいので凄く気に入ったんだそうだ。彼は代金を払うと、にこにこと幸せそうに持って帰った。彼の命はその後僅か一週間しかもたなかった。死因はやはり心臓麻痺。練習の最中だったんだろう。彼の死体の上にはそのチェロが覆いかぶさっていた。まるで、楽器に愛撫されているようだったと、発見した家主は言った。

 彼の両親はその縁起でもないチェロを売り払った。それが2010年のこと。それから5年、あのチェロは同じ店の店先で、次の犠牲者を待った。葛城があの店を訪れるまでな」

 アスカとミサトは恐怖に慄(おのの)きながら加持の話を聞いた。加持は一息ついた後、懐から銀色に光る円盤を取り出した。

「宇賀路の演奏が入ったCD−Rだ。放送局に残っていた。聴いてみるかい?」

 加持の提案にためらいを覚えたアスカだったが、義務感が恐怖に勝った。生唾を飲み込みながら加持に頷いた。

 ミサトがCDをステレオにセットする。やがて室内は死者の声で満たされた。

 それはバッハの無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調だった。偶然にも先日アスカが録音したのと同じ曲集だ。曲は進み、第5曲「ガボット」が流れる。哀しみに打ちのめされた人間が無理やり歌う陽気な唄のようであった。

 聴きこむほどにアスカの心中にある疑念が芽生えた。

「ちょっと止めて」そう言ってアスカは別室から、先日録音しておいたMDを持ち出した。シンジが演奏したものだ。それを小型のプレーヤーにセットした。

「この録音とそれを同時に再生してみましょう。アタシの予感が正しくなければいいんだけど」

 二台の装置が同時に動きだした。曲が始まって間もなく、三人は恐怖のどん底に突き落とされた。

 二つの録音は同一人が演奏したとしか思えないほど、ぴったりと一致していたのである。

 その夜もミサトは夜勤で家にいなかった。アスカは一人寂しくコンビニで買った弁当を食べた。シンジに何もしてやれなかった自分に腹を立てていた。だが、今できることは何もないのだ。夜も深まり、アスカは明りを消して床に着いた。

 眠れなかった。シンジの事を思うと胸が掻き毟られるようだった。

 どこか遠くで、チェロの鳴る音が幽かに響いた。

 アスカは跳ね起きて、窓を開けた。確かに聞いたのだ。あれはどこから来たのか。アスカは全身を耳にして、いかなる物音も聞きのがすまいとした。

 また聞こえた。極めて低いCの音だ。それは裏にあるコンフォート18マンションの下の方で響いた。そのマンションに、もはや人は住んでいなかった。次々と疎開して行き、遂に無人のマンションとなってしまったのだ。

 灯台下暗しとはこのことだと、アスカは思った。捜索は一度確かにしたが、それ以後誰も立ち入ってない。一度捜したところは二度捜さないのだ。

 アスカは手早く着替えて深夜の街へ踏み出した。

「相手は死人。アタシは生きてる。どうにかできるわけがないわ」自分に言い聞かすようにひとりごちた。行く手にどんな恐怖が待っていようとも、決して負けまいと固く心に誓った。

 アスカの前に無人のコンフォート18が、幽霊屋敷のように聳え立っている。アスカは懐中電灯を構えて中に踏み込んだ。アスカが歩くにつれて埃が舞った。あちこちに浮浪者が残したと思しきゴミが散乱している。スプレーで書かれた卑猥な落書きが、壁一面に広がっている。

 アスカは耳を澄ましながら、1階の部屋から順に捜していった。当然、鍵が掛かっている。音がしたのはせいぜい3階まで、シンジは必ず近くにいる、そう思いながら、ある部屋のドアを確認した時、曲がり角のはるか向こうでまた音が聞こえた。今度は、はっきりとしたメロディだ。

 遂に見つけた。アスカは喜びと緊張を同時に感じながら走った。静かなマンションの中に、アスカの足音がやけに大きく響き渡った。

 その部屋には鍵が付いていなかった。それがあった部分は何者かが外して、捨て去ったのだろう。壁には白く装置の跡が残っている。

 バッハの旋律が奥から聞こえてくる。それはまるで、黄泉の国からこの世に届けられてくるかのようだった。

 アスカは扉に手を掛けて引いた。それは簡単にずれていった。チェロの音がはっきりとした。

「シンジ!」と、アスカは叫んで中に走り込んだ。

 シンジがいる。彼は数本の蝋燭を床に灯し、どこかから調達した粗末な椅子に腰掛けて、一心不乱にバッハを弾いている。異様なのはその表情だった。

 頬はげっそりとこけ、ぎらぎらと目を光らせるその様は、さながら幽鬼のようだった。アスカはひっ、と息を呑み立ち止まった。

 部屋の空気も異様だった。全体が青いフィルターが掛かったように、形がはっきりしないのだ。アスカは未知の恐怖に捉われ色を失った。心臓が爆発しそうになった。

 駄目よだめよ、ここで負けちゃダメ!アスカはありったけの勇気を振り絞り、一歩前に出ようとした。

 だが、体は動かなかった。

 まるで腕も足も自分の体ではないようだった。シンジ、と声に出そうとする。が、口から洩れたのはか細い吐息だけだった。

 アスカは金縛り状態にある。汗が額から滴り落ちた。懐中電灯を持つ手が僅かに揺れ、シンジを照らす光の輪の中に、彼の影が不気味に揺れた。

 シンジの演奏はますます熱を帯びていった。無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調。ある時はすすり泣き、ある時は音の大伽藍を打ち建て、威厳に満ちた空間が屹立する。技術的な齟齬は些かもなく、チェロ音楽美の極致がアスカの耳朶を打つ。アスカたった一人を聴衆とする稀代の名演奏に違いなかった。

 最後の音が長く伸びて虚空に消えていった。残響が名残を惜しむかのように残った。

 アスカはこれが最期かと思い、絶望の思いに捉われた。しかし、シンジは平然と調弦を始めたのである。ゆっくりと慎重に。やがて弾き出したのはもの悲しい旋律だった。無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調、第4曲

「サラバンド」。

 アスカは奇異に思った。全部で六つの曲集は一通り知っていた。急に途中の曲から始めたのはなぜだろう。悲劇的なハ短調に続く、悲しみのニ短調。しばし考えたアスカに恐るべき推測が生まれた。

 これはアンコールなのだ。

 さっきの第5番で演奏会はお開き。熱狂する聴衆のために1曲サービスする。それも、舞曲の形を取ったレクイエムで。

 アスカは恐慌に達した。全身の力を呼び覚まし、動こうとした。あともう少しでシンジは死ぬ。

 シンジが初めて顔を上げてアスカを見た。毒々しいにたにや笑いがその顔に貼り付いていた。まるでシンジのカリカチュアのようだ。

 その顔がふっ、と変った。アスカを悲しげに見つめるシンジがいた。救いを乞う、哀れなシンジ。だがそれも一瞬の事で、たちまち元に戻った。

 曲は終わりに近づいた。寂しげなメロディの最期の一音がチェロから発せられ、すぅっと尾を引くように空間に消えた。

 シンジの手から弓が落ちた。続いて体全体が床に崩れ落ちた。チェロが転がり、大きな音が響いた。

 途端にアスカは金縛りから開放された。アスカはたたらを踏んで転がり、恐怖に我を忘れて出口へ這い進んだ。腹の底から突き上がる絶叫が幾度も部屋に木霊した。

 リビングを出て、アスカは愕然として止まった。何やってんの?シンジを放り出してこのまま逃げるの?

 アスカは壁に手を付いて立ち上がった。駄目だだめだ。このまま逃げたらアタシは一生後悔する。アスカは口から心臓が飛び出しそうな感覚を覚えながらリビングに戻った。部屋の空気は先程までの異様な感じがない。シンジは蝋燭の光の中に横たわっている。

 アスカはシンジに駆け寄り、手首を掴んだ。脈がない。鼻に頬を寄せても息が感じられない。

「いやあああああああっ!!」アスカは無我夢中でシンジの左胸に右手を当て、左手を重ねて強く圧迫した。

「いや、いやよ、シンジ!死なないで!!アタシ、まだアンタが好きだって言ってないのに!!」シンジの鼻をつまみ、思い切って口を重ね、息を吹き込んだ。心臓マッサージと人工呼吸を何度も繰り返した。

 何者かがアスカの髪を触った。

 アスカはぎょっとして手を止めた。続いて項に冷たい吐息が掛かった。はあはあと激しく吐く息が。何かがアスカの背後にいるのだ。

「アンタには何もできない!」アスカは叫んで、心臓マッサージを再開した。

「アンタは死人なんだ!生きてるアタシに手出しなんかできないんだ!」

 シンジが激しく咳き込んだ。アスカは目を輝かせてシンジの胸に耳を当てた。力強い鼓動がアスカの耳を打った。

「シンジ、生きてるのね!ああ、良かった」

 アスカは胸にシンジを抱きかかえた。だが喜びに浸っている暇はない。何としても、ここからシンジを連れ出さねば。シンジの脇の下に腕を差しいれ持ち上げようとするが、意識のないシンジの体は途轍もなく重かった。

 頑張れ。頑張るのよ、アスカ。アスカは己を叱咤し、シンジを引きずった。何かがアスカの頬のすぐ傍をかすめた。恐ろしく冷たい手がアスカの背中を撫でた。

「アンタにアタシの邪魔はできない!!」

 物凄い形相でアスカは叫んだ。シンジを懸命に引きずり、遂に部屋の外へ連れ出した。目に見えない何かの気配は消えた。ただ、部屋の奥に目をやったアスカは、新たな怪異と対峙しなければならなかった。

 闇の中に、ぼんやりと男の青白い顔が浮かんでいた。それは極度の憎悪に歪み、そら恐ろしい眼光を湛えた目が、アスカを睨み据えていた。

 シンジはアスカが呼んだ救急車によって病院に運ばれた。シンジの意識はなかなか回復しなかった。幸い、命に別状はない。腕に点滴のチューブを挿入され、横たわったシンジの痩せこけた顔を見ながら、アスカはこの日初めて涙をこぼした。

 ミサトも駆けつけてきた。アスカはミサトの胸の中に飛び込み、優しく労わるミサトに抱かれて、落ち着くまでそうしていた。安心すると、忘れていた疲労が重くのしかかった。疲れ果てたアスカは後を医師とミサトに任せて、一旦マンションに戻ることにした。ようやく太陽が上り始めた時間帯だった。

 自分たちの家の前に来た時、アスカは戦慄のあまり、立ち竦んだ。

 玄関ドアの横に、あのチェロがケースに入った状態で立て掛けてある。傍には譜面台もある。

 アスカは、固まったままそれを見つめた。そう言えば警察官がチェロを片付けていた。気をきかせて届けてくれたのだろう。

 動き出すことが出来なかった。踵を返して逃げ出したかった。しかし、アスカの中にある一つの思いがそうさせなかった。

 復讐してやりたい。アスカは恐怖を振り払い、歩みだした。疲れはどこかに吹き飛んでいた。ある意図を持ってそれらを掴んだ。

 家に運び入れたアスカは、それらを一旦シンジの部屋に入れて、洗面所に置いてある道具箱を取りに行った。道具箱から取り出したのは、重いハンマーである。

 これで終わりにしてやる。アスカは決意も固く、ハンマーの柄を握り締め、シンジの部屋に戻った。

 目にしたのは、終わらぬ恐怖。

 ケースの蓋が開いて中のチェロが剥き出しになっている。

 嘘!アタシ、絶対開けてない。アスカの全身がわなわなと震えた。チェロに見られているという感覚が強く感じられる。また逃げ出したくなった。しかし、シンジを殺しかけたことへの憎しみが恐れを上回った。

「やってやる。やってやるんだから。生者が死者に負けるわけないのよ!」アスカはハンマーを構えて近づいた。一歩一歩、ゆっくりと。

 突然、四本の弦が一斉に切れた。室内に完全5度音程が積み重なった和音が響き、弦が垂れ下がった。アスカは驚愕して一歩下がったが、闘志は萎えなかった。それ、脅しのつもり?アスカは生唾を飲み込み、またハンマーを手にチェロに接近した。もう手が届く。ネックに左手を伸ばした。

 いきなり、C線が生き物のように動いてアスカの左手にからみついた。さらにA線がハンマーを持った右手を絡め取った。

 残る二本の弦がふわっと浮き上がり、アスカの喉元めがけて襲い掛かる。

 アスカは絶叫した。パニック状態になりながらも、後方へ退いた。二本の弦は首をかすめた。長さが足りなかった。アスカの足元に、いつのまに転がったのだろう、譜面台があった。それに足を取られたアスカは、激しい音を立てて倒れた。その拍子に机の角に後頭部をぶつけた。

 アスカは意識を失ってしまった。

 失神していたのは短い間だった。気がついた時、自分を襲うさらなる恐怖に慄いた。全身一箇所も動かせないのだ。またあの金縛りにされてしまった。室内はベールが掛かったように、輪郭が曖昧に見える。だが、恐怖の本命はそのことではなかった。

 信じ難いことに、チェロが床上80cmほどの宙に浮いて、こちらに迫ってくる。アスカは唯一動かせる目玉でそれを見ていた。それだけなら命の危険はない。危機の本質はその底部にあった。

 何故かエンドピンが装着されている。それは、有り得べからざることに先端が尖っているのだ。何かに突き刺さるように尖っているのだ。

 エンドピンはアスカの胸の上、30cmに留まった。それが下りたら確実にアスカの心臓を貫くだろう。天井の一角にあの男の顔が、黒い闇に包まれて浮き上がった。その顔は邪悪極まる笑みを浮かべていた。チェロがゆっくりと下りて来た。ピンの先端が鈍い光を放ちながら、アスカの胸に迫る。アスカは目に涙を浮かべ、絶叫の代わりに、ひいひいとか細く喉を鳴らした。

 その時、男が飛び込んで来た。男はチェロを抱え、壁に叩き付けた。さらに床に押さえつけて光るものを振るった。手斧だ。男は容赦なく手斧を叩きつける。ばりん、という音がして天板が割れた。同時に物凄い悲鳴が部屋中に響き渡った。それは到底人間のものとは思えぬ、異界の住人の叫びだった。耳を覆いたくなるような、苦痛に満ち溢れた絶叫が、何度も何度も繰り返された。やがてそれは徐々に静まっていき、遂には完全に消えてしまった。木材の割れる音だけが室内に響いた。

 数刻後、チェロは跡形もなく破壊された。顔はとっくに消えていた。アスカの金縛りは解け、やっと首をめぐらせて男を見ることができた。長髪を後ろで結んだ男の、たくましい背中が見えた。

 加持リョウジが額の汗を拭い、アスカの方を振り返った。

「やあ、アスカ。遅れてすまん」

「加持さあん」

 アスカは盛大に涙を流しながら、加持の胸に飛び込んでいった。

 

 

 

 碇シンジはチェロを手に椅子に座った。照れくさそうに笑うのはいつものシンジだ。そのチェロは、改めてミサトに買ってもらったものだ。今度のは正真正銘の新品だった。おかげでミサトの家計は一層苦しくなった。

 今、昼下がりの葛城家にいるのは、シンジの他にアスカ一人。彼女一人のためにコンサートが開演されるところだ。

 シンジは調弦を終え、目を瞑って弓を弦に当てた。曲はサン・サーンスの「白鳥」。事前にバッハだけは止めてくれと、アスカはシンジに頼んだのだった。

 優雅な旋律がアスカの胸の内を満たしていく。決して上手いとは言えない。でも、一生懸命に。

 こっちの方がずっといい、とアスカは思った。

 弾き終ってにっこりと笑ったシンジに対して、アスカは大きな拍手を贈った。

 

 

 

 終

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