その瞬間、何が起きたか、鈴原トウジは正確に思い出すことができない。
 気がつけば自分の肉体がなかった。
 それは世にサードインパクトと称される現象の結果なのだった。ジオフロント 内にあるリハビリ中の病院で、窓から外で起きている異変の様子を伺っている 時、それは起こった。いきなり最愛の妹が目の前に現れたかと思うと、全身の細 胞全てが溶けるような感覚を覚え、意識を失った。最後にぱしゃという水音を聞 いたような気がした。
 意識が戻った時、トウジは己の変化に愕然とした。
 目がないので何も見えない。耳がないので何も聞こえない。口がないので何も 言えない。手足どころか、胴体悉くが失われ、ただ意識だけが、LCLと呼ばれ る液体の中を漂っていた。
(うわ、どないなっとんのや。えらいこっちゃがな。体のうなってしもた。死ん だっちゅうことかのう。いやや、わい、まだ若いねんで。やりたいこといっぱい あるがな。ああ、神様、どうか助けておくんなはれ。神様。神さまぁーー!!)
 その時、奇蹟は起こった。
 畏れ多くも神がこの場に降臨なされたのである。
「ほいほーい、神だっせー」
 そのお言葉はトウジの意識に直接届いた。
(お、なんや、どなたでっか?)
「おまはん、今、わいを呼んだやろ。神やがな。助けの神が来てやったんやでぇ」
(えーっ、神様でっか。こら、ありがたいことですわぁ。ど、どうか神様。わい を元に戻したって下さい。)
「ま、そう急ぐな。わい、今日はめっちゃ気分ええねん。パチンコで大儲けして のう。暴走モードやがな。セカンドインパクト全回転やがな。大当たりしまくり やねん。ほんで、むちゃくちゃ人助けしたいんや」
(暴走モードってなんでっか?)
「わからんでよろし。ところでおまはん、目がないなぁ。こら不便や。ちょっと 待っとき。クルクルリンのパ!」
 いきなり、トウジの視覚が回復した。目の前にしゃがみ込まれた神のありが たーいお姿があった。年の頃は人間なら50代半ばのように見える。髪の毛がわ ずかしかなく、天辺から上に向かって一本高く伸ばしておられた。鼻の下には チョビ髭が生え、ロイド眼鏡をかけておられた。服は赤や青のだんだら模様の背 広をお召しになり、ワイシャツの襟には真っ赤な蝶ネクタイを着けておられた。 これだけなら、ナンバ花月あたりの芸人と変りがないが、神であることの証拠 に、頭上には光の輪があった。
「どや、わいの姿が見えるか?」
(お、見えますわぁ。なんやけったいな格好してまんなぁ)
「けったいってなんやねん。助けてほしいないんか?」
(あ、あああ、すんまへん!すんまへん!訂正しまっさ。かっこよろしおまっ せぇ。よ、この色男!スケベ!)
「スケベは余計や」
(えらいすんまへん。しっかし神様、実に気さくな方でんなぁ)
「せや。ほら、『実るほど、頭を垂れる稲穂かな』ちゅう諺もあるやろ」
(なんや意味がちゃうような気もしますが。そんな事よりもわいを元に戻してお くんなはれ。お願いしまっさ)
 神は腕組みをなさり、困ったようなお顔をなさって、首をおひねりになった。
「うーん、せやなぁ。実は、わいもこんなん初めてやねん。どないしたらええん やろか」
(そ、そんなこと言わんと助けたって下さい)
 考え込まれていた神は突然、ぽん、と手のひらを拳で叩かれた。
「せや!どや、おまはん過去に戻ってみいへんか?過去に戻ってな、こんな事起 こらんように頑張ってみるんや。どないだ?」
 トウジは神の素晴らしいアイデアに、大層喜んだ。
(そら、よろしおまんなぁ!是非そうしたって下さい。わい、過去に戻ったら一 生懸命やりますさかい)
「ほんで、あのヒカリっちゅう娘と仲良うしようっちゅうわけやな」
 神は笑みを洩らされた。さすがは神、その辺の事情は全てご存知でおられた。
(へ?何の事でっか?わいはただ妹を助けてやりたい思うてまんねん)
「…さよか。ま、ええがな。ほな、いくでぇ。ええかぁ」
 神は片足をお上げになり、両腕をぐるんぐるんと振り回してポーズをお決めに なった。
「テケレッツのパ!」
 神の有難いお言葉が終わると同時にトウジの魂は消滅した。過去へ、この忌ま わしい現実の発端となった時点へ、旅立ったのである。
「ふぅ。一丁上がりや。さて、他に困っとる人はおらんかな」
 神はふわりとそこから浮き上がり、建物を突き抜けて上空へおいでになった。 ジオフロントの広大な空間が広がっている。神はしばらくその中を漂われた。
 ふと、遠くに蒼い髪の裸の少女が漂っているのをお見つけになった。神はおお い、とその少女をお呼びになり、傍に近づかれた。
「おおい、ねーちゃん。何しとんのや。裸やないけぇ。こら目の正月やなぁ。ど や、わいと天国でチョメチョメせぇへんか?」
 少女、綾波レイは表情一つ変えなかった。
「チョメチョメ…。それは何?あなた、誰?」
「わいか?わいは神や」
「かみ…。おしりを拭くもの…」
「せや。水洗便所じゃちゃんとトイレットペーパーつこうてな…って、そら、紙 やがなぁ!おもろいボケ方する娘ォやなぁ。わいは神や。えらいねんで。わいと 天国でええことせえへんかって、ゆうとるねん」
「ええこと…。駄目。碇君がいるもの」
「ほうか。碇シンジってのと結ばれたいんやな」
 そこで、レイは悲しげに表情を曇らせた。
「でも駄目。今さら碇君の元には行けない。こんな事になってしまっては」
「悲しそうやなぁ」
「できる事なら一からやり直したい…」
 それをお聞きになった神は、ぽんと胸をお叩きになった。
「よっしゃ、分った!おっちゃんがおまはんにやり直す機会を与えたる」
 レイは微かに驚きの表情を浮かべた。「そんな事ができるの?」
「できるでぇ。なんせわいは神やからなぁ。ほんで戻ったらなぁ、なんぼでもシ ンジと仲ようしたらええねん」
「ありがとう」レイはシンジ以外の者に初めて感謝の言葉を口にした。
「向こうに戻ったら頑張りやあ。ほな、そろそろ行くでぇ。…テケレッツのパ!」
 たちまち、レイはこの場から消え、時を遡って行った。
 神は次に、腹を撃たれた仕官服姿の女性の霊魂を見出された。
「おお、おまはん、撃たれたんかぁ。気の毒なこっちゃ。…良く見たらなかなか の別嬪やないけ。どや、わいの愛人587,321号にならへんか?」
「い、いや。そんな事よりどうなっちゃったの、これ?一体何が起きたの?」
「そら、わいにも良くわからんねん」
「あああ、あたしがしっかりしていれば、こんな事にはならなかったかも」
「ほな、おまはんも過去に戻りたいんか?」
「戻してっ!戻って何としてでも、こんな事を阻止しなければっ」
「よっしゃ、分ったでぇ。今から戻したる。…テケレッツのパ!」
 こうして、葛城ミサトの霊は過去へ帰って行った。
「ああ、ええ事して、気持ちええなぁ。他にも迷える子羊はいないかな。お、あ そこになんや金髪のおばはんがおるがな。おおい、どないしたんやぁ」
 ——神はこのようにして、次から次へと悩める魂を過去へお戻しになったのであ る。「パ!」「パ!」と叫ぶ神のお言葉が幾度もジオフロントに木霊した。その 数が数十に達した時、お疲れになった神は肩を揉んで独り言を洩らされた。
「うーん、今日はぎょうさんええ事したなぁ。そろそろええやろ。天国に戻って またねーちゃんコマしたろ」
 神ははるか高みを目指し、上昇を開始なさった。
「…♪天国よいとこ一度はおいで。酒はうまいし、ねーちゃんはきれいだ。ワー、 ワー、ワッワー♪…ってか」
 真に上機嫌な神は、はるか上空の雲間に差し掛かったかと思うと、それっきり 見えなくなってしまわれた。


 その頃、そこから遠く離れた海岸では、碇シンジが惣流・アスカ・ラングレー の首を締めていた。


シンジとアスカ以外全員逆行

 

間部瀬博士



 少年を乗せた列車が東海道線を走っている。乗客は少なく、少年の周りには人 がいない。その静けさは孤独を愛する少年には有難かった。少年は何をするでも なく、ぼんやりと車窓から見える外の景色を眺めていた。
『この列車は間もなく第三新東京に到着します。降り口は右側です』
 機械的なアナウンスが響き、少年は旅の終りが近いことを覚った。彼は立ち上 がり、頭上の網棚から自分のボストンバッグを下ろした。
 少年の名は碇シンジ。父ゲンドウから届いた、ただ「来い」とだけ書かれた手 紙によって、今こうして第三新東京市へやって来たのである。
 列車は減速し、駅の構内に入った。シューッとブレーキ音がして完全に列車は 静止し、既に移動していたシンジの目の前のドアが開いた。
 そこに、30近くになるかと思われる、美しい女が立っていた。
「碇シンジ君ね」
 いきなり声を掛けられたシンジはびくっとした。
「は、はい…」
「あたしは葛城ミサト。写真送っといたから、分るわね?」
 言われてみれば、『ココに注目』と書かれたふざけた写真の女性である。
「は、はい…」
「時間がないのっ。すぐに来て」
 ミサトはいきなりシンジのバッグをひったくり、駆け出した。
「ま、待って下さい」
 シンジは慌てて後を追う。切符を投げ込むように自動改札機に入れて、ばたば たと駅を出ると、そこにはトヨタカローラが駐車していた。
「急いで乗るのよっ」
 ミサトはその車に素早く乗り込み、ハンドルを握った。エンジンはかけっぱな しだった。シンジも何がなんだかわからぬまま、あたふたと助手席に乗り込む。
「飛ばすわよ。しっかり掴まってなさい」
 その言葉通り、がくんという衝撃と共にはでなホイールスピン音を立てて、カ ローラは発進した。ミサトはたちまちアクセルを全開にしてスピードを上げてい く。シンジは恐怖に駆られてシートベルトを締めると、そのベルトをしっかりと 握った。
 ミサトは歯を食いしばり、目を血走らせて運転に集中している。そんなミサト にシンジは声を掛ける気も起きず、ただ目前にある道路を見つめるのみだった。
 前方の信号が赤に変った。だが、ミサトは一向に減速する気配を見せない。
「葛城さんっ、赤ですっ!」
「大丈夫!車なんかめったに走っちゃいないわよ!」
 カローラはフルスピードのまま交差点に突っ込んだ。
「うわぁああああああああ」
 シンジは目をつぶり蹲った。しばらくそうしていたが、衝撃はこない。どうや らひとまず危機は去ったかとシンジは顔を上げた。カローラは相変わらず全速力 で突っ走っている。次の十字路に差し掛かった時、ミサトは急激にハンドルを 切った。後部が遠心力で振り回される。シンジは声にならない悲鳴を上げた。ミ サトはハンドルを逆に切り、かろうじて体勢を保つ。カローラはなんとかカーブ を回り切った。
 シンジは生きた心地がせず、小声でミサトに言った。
「あの、葛城さん。もう少し安全運転で」
「平気よ。ほら、道路スカスカでしょ」
 確かに不思議にも他に一台の車も走っていない。
「変だな。何かあるんですか?」
「そうよ。これから戦争が始まるの」
「戦争!?」
 シンジの背中に冷たいものが走った。

 その頃、第三新東京駅前の路上では、綾波レイのマボロシが地団駄を踏んでいた。

 ミサトは運転しながら、思いに耽っていた。
(ここまでは予定通り。かなり時間は稼いだ筈よ。なんとかしてNN地雷はやり過 ごさなきゃ。あたしのルノー、33回もローンが残っているのよ。前回の轍は踏 まないわ。ま、間に合わなくても、これ日向君に借りたやつだからあたしの懐は 痛まないけどね)
 ミサトはルノーが故障したと言って、日向のカローラを半ば無理やり借り出し たのである。
 シンジの横顔をちらりと見た。シンジはおびえ切った表情で目をつぶっている。
(シンジ君。前に初めて会った時と印象は変らないわね。あたしのように過去に 戻って来たわけじゃなさそう。シンジ君もそうなら、話は楽なんだけどな。すご い能力を持ったスーパーシンジ君とか、別人のように大人になったシンジ君とか ね。ま、そんな事あるわけないか)
 ミサトは自分の馬鹿げた空想が可笑しく、くすりと笑った。
(シンジ君、安心して。今回はこのあたしがあなたを、いえ、みんなを救って見 せるわ。あんな不幸な思いは絶対させない!あの髭おやじにゼーレ、見てらっ しゃい!目にもの見せてやるから!)

 ミサトの駆る車は疾走を続ける。そのはるか後方の山影から、巨大な生物が姿 を現した。第三使徒・サキエルである。

(ここは………?)
 綾波レイはいつものように夢のない眠りから忽然と醒めた。
 意識はまだぼんやりとしているが、回りを眺めるうちにだんだんと自分の立場 が分かってくる。まず視界が半分しかない。片方の目には包帯がかぶさってい る。見ると、左腕も包帯でぐるぐる巻きにされている。真上には見慣れた病室の 天井がある。
(私、怪我をしている。…この怪我は零号機とのテストの時に負ったもの。…する と今は……)
 レイの瞳が大きく見開かれた。自分の身に起きたことを完全に理解したのだ。 片腕で体を支えて上体を起こした。途端に鋭い痛みが走り、苦痛に顔が歪む。し かしレイはそれに耐え、大きく息をする。
(もうすぐここに碇君がやって来る。……碇君はまたあれに乗らなければならな い。……それは仕方のないこと?……いいえ。私が頑張れば少しでも碇君の苦痛を減 らすことが出来る。……だって私には代わりがいるもの)
「綾波さん!」レイの覚醒に気づいたか、看護婦が病室に入って来た。レイはそ の看護婦に目もくれずに言った。
「赤木博士を呼んで」

 シンジは、前方の上空を多くの戦闘機が飛んでいるのに気づいた。それらは低 空でこちらに向かってきたかと思うと、轟音を残して後方へ飛び去っていく。シ ンジは振り向いて後方を見た。
 そこに驚愕すべきものがいた。山のように巨大な錨肩の生物が、のっしのっし とこちらに向かって歩いて来るではないか。シンジはわっと叫んで恐怖に身を慄 かせる。この辺り、どう見ても従来型?のシンジである。
「葛城さん!あれはなんですか?」
「ミサトって呼んで。あれはね、シンジ君、私達人類の敵『使徒』と呼ばれるも のよ。」
「使徒…」
 ここでミサトは口を噤んで考えた。今この場で真相を教えてやろうか?だがミ サトはまだその時期ではない、と思い直した。シンジの場合、逃走する可能性も あると考えたのだ。今一番肝要なのは、とにかくシンジをネルフに連れて行き、 初号機に乗せることなのだ。そうしなければたちまち人類は破滅する。
 戦闘機は次々とミサイルを発射し、使徒を攻撃した。しかし、それらは使徒を 傷つけることすらできない。逆に使徒の眼が一瞬光るや、あっという間に戦闘機 は爆発した。眼から強力なビームを放っているのだ。そうして戦闘機は数を減ら していく。彼我の優劣は明白だった。

 その頃ネルフ発令所では、巨大スクリーンに映る戦闘の様子を、みな固唾を飲 んで眺めていた。
 ネルフのメンバーは碇司令に冬月副司令、日向、青葉、伊吹のオペレーター三 人組である。司令席に座った碇ゲンドウの後ろには二人の国連軍武官が控えている。
「ただ今、逃げ遅れた民間人がいるとの通報が入りました。小学生の女の子らし いです」
 日向が冬月に向かって報告を入れた。冬月の眉毛がぴくりと動いた。
「場所は?」
「B−4地区の兵装ビル付近。なにやら関西弁で凄い勢いでまくし立てているよ うです」
「関西弁か…」
 冬月の脳裏に黒ジャージ姿の少年の姿が浮かんだ。(帰って来たのは私だけ じゃないのか)
「至急救護班を向かわせろ」
「了解」
 日向の口元には仄かな笑みがあった。(良かったな。鈴原君)

 使徒は悠々と侵攻を続ける。と、使徒に群がっていた戦闘機が一斉に離れ去っ て行った。ミサトは横目でそれを確認し、その時が来たのを覚った。ここでミサ トは考えた。あれを見て、落ち着いているのは変だ。思い切り驚いて見せなくては。
「ま、まさか…、え、え、えぬつう地雷を!!たた大変だわぁあああ あぁっっ!!伏せて!シンジ君!」
 些かオーバーな演技だったが、シンジにそんな事を気にする余裕はない。シン ジは慌てて頭を抱えて丸まった。
 一瞬の閃光。次いで大爆発。轟音と衝撃波がミサトのカローラを襲った。カ ローラは後輪が浮き上がり、コントロールを失い滑走した。恐怖の数秒間が過ぎ た。やがて後輪は地に着き、カローラはグリップを取り戻した。道路が直線で助 かったのだ。頭を抱えていたシンジはおずおずと顔を上げた。
「助かった…」
 シンジはようやく生き返ったような心持がした。ほっと深いため息をついた。
「やったわ!シンジ君!車は無事よ!私達生きてるわよ!」
 ミサトも安堵して、うれしそうに叫んだ。何より自分の車を、日向の車を無傷 で守れたことがうれしかった。拳を握り締めて何度もガッツポーズをした。

「爆心地にエネルギー反応!」日向マコトの声が発令所に木霊した。
「なにっ!」二人の国連軍武官が驚きの声を上げた。
「映像回復します」伊吹マヤの緊張した声が告げた。
砂嵐状態だった前方上部に広がる巨大スクリーンに映像が入った。使徒が何事も なかったかのように立っている。
「我々の切り札が!」
「馬鹿なっ。街を一つ犠牲にしたんだぞっ」
「なんて奴だ!」
「化け物め!」
 そこへ掛かってくる一本の電話。それを取った武官の表情が変わった。
「…はっ、分かっております。しかし……、はいっ了解しました」
武官は茫然としていたが、その他のネルフスタッフ一同は当然のこととして受け 止めている。
「碇君、総司令部からの通達だよ。ただ今より本作戦の指揮権は君に移った。お 手並み拝見させてもらおう」
「我々国連軍の所有兵器が目標に対し無効であったことは認めよう。だが碇君! 君なら勝てるのかね?」
 司令の席に座ったゲンドウは、いつもの顔の前で手を組むポーズで答えを…。
「そ「そのためのネルフです」
 と答えたのは傍に立っている冬月だった。ゲンドウははっとして冬月の顔を見 た。サングラス越しに見えるその目は大きく見開かれている。冬月は口の端を歪 めて意味ありげにゲンドウを見た。
(ふっ。碇、今度は私も少しは目立つようにするよ)
(冬月、お前、私の台詞を盗るつもりか!)
 二人の国連軍武官は座席ごと下がって行き、退席した。発令所はようやくネル フスタッフのみで占められたが、迫り来る使徒戦に向けて緊張した空気が漂って いた。
 冬月がスクリーンを見て言った。「自己修復中のようだな。もっとも、その位で なくては、単独で侵攻などはできん。そうだな、碇?」
 ゲンドウはまたも自分が言おうと思ったことを冬月に言われて少なからず動揺し た。「そ、そうだな」
 使徒はじっと静止しながらカメラの方に視線を向け、目を光らせた。途端に画 面は元の砂嵐に戻った。

「本当に行く気なのね?」
 赤木リツコは注射器の針から薬液を迸らせながら、レイに尋ねた。
「はい博士。私が初号機で出ます」
 レイは深紅の瞳をリツコに向けて答えた。真っ直ぐにリツコを見つめるその瞳 には、梃子でも動かぬという強い意志が感じられる。
「おそらく司令は直に到着するサードチルドレンを使うつもりでいるわよ」
 リツコが握った注射器の針がレイの二の腕に突き刺さった。レイの眉根がほん の少し歪んだ。
「サードチルドレンがいきなりエヴァとシンクロできるとは思えません」
「あなたの意見は正しいと思うわ。でも最終的な判断をするのは碇司令。私達の 説得が通じるかどうか」
 リツコは注射器を引き上げ、注射の跡をアルコールで拭きながら考えた。
(レイ、今回はあなたが全ての使徒を引き受けようとでも思ってるの?ふん。随 分意欲的になったじゃないの。でも世の中そう甘くないのよ)

 シンジとミサトを乗せたカローラはカートレインに乗り、地下へ潜って行っ た。突然視界が開け、広大な地中空間に出る。はるか下に森や湖、ピラミッド型 の建造物が見え、そのスケールの大きさにシンジは歓声を上げた。やがてカート レインは、ジオフロントの底にあるネルフ本部に無事到着した。
 途中シンジは「ネルフ江ようこそ」と書かれた小冊子を渡されたが、その中身 は大して頭に入っていない。
 メインゲートから中に入ったミサトは真っ直ぐにシンジを連れて、エヴァが格 納されたケージへ急ぐ。
(ふっふっ。今度は迷わないわよ。リツコに怒られないもんねー)
 複雑な経路を辿り、二人は巨大なプールの端に着いた。内部は照明が落とさ れ、その全容は伺い知れない。舫ってあったゴムボートに乗り込み、二人はさら に奥へ進む。
(リツコ、いないわね。あたしだけで説明か。それからあの髭おやじの登場、 と。気が重いけどしょうがないわね)
 ボートはまもなく桟橋のような構造物、アンビリカブルブリッジに着いた。シン ジとミサトがその上に降り立った途端、劇的効果を計算した演出家の手によって 一斉に照明が点けられた。
 シンジは目の前にある巨大な物体に息を呑んだ。
 巨大な顔があった。それは紫を基調に塗装された超大型ロボットの頭部なのだ。 鼻に当たる部分には長い突起が生え、凶暴そうに吊り上った二つの目がシンジを 睨みすえている。ロボットは肩から上をプールから出している。その肩には翼の ような板が取り付けられている。
 驚愕したシンジは腰が引け、声もなくその巨大な顔に見入った。
「よく来たな、シンジ」
 ケージに突如響く低音の声。その声は上方の発令所から——ではなく、すぐ傍か ら聞こえてくる。ネルフ司令碇ゲンドウがすぐそこに来ているのだ。ゲンドウは ゆっくりと靴音を響かせシンジ達の方へ歩いて来る。ミサトは予期しない展開に あっけにとられた。
「父さん…」
「三年ぶりだな」
 長く離れ離れになっていた親子は、ついに再会を果たした。
ミサトは靴の踵を合わせて敬礼した。「司令、サードチルドレン到着しました」
「ご苦労。葛城一尉」
(なんか違うわよ。前は発令所から威圧的に見下ろしてたじゃない。早く来たせ いかな)
 シンジとゲンドウは手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。ミサトははら はらしながら二人の様子を見守る。次のゲンドウの言葉がミサトをさらに驚かせた。
「長い間、放っておいてすまなかったな、シンジ」
「父さん…」
(何人間的なこと言ってんの?)ミサトにはゲンドウが吐いた言葉が信じられな かった。
「分かってくれ、シンジ。私はネルフの責任者として忙しかったのだ。お前をあ んな風に扱ったのはすまないと思っている。許してくれ」
「…………………」
「これからは親子水いらずで暮らそう。そして失われた時間を取り戻そうじゃな いか」
 そう言うゲンドウの目は慈愛に満ちている。ミサトはそれを見て肌に鳥肌が 立った。
「父さん、僕はいらない子じゃなかったの?」シンジは狐につままれたような顔 つきでいる。
「何を言うんだ、シンジ!!」
 ゲンドウはきっぱりと否定し、シンジの両肩を掴んだ。
「お前はたった一人の肉親じゃないか!いらないわけがないだろう!分かってく れ。私とてつらかった。しかしこれを完成させるためには仕方なかったのだ」
「父さん…」
 シンジの目に涙があふれ始め、下を向いた。これまで心にわだかまっていた父 への憎しみが雪のように溶けていくのを感じていた。
(ふっ。ちょろいものだ)
 ゲンドウは顔面を優しそうに緩ませながら、内心では別のことを考えていた。 (もう一押し。後はエヴァに乗る気にさせることだ。大体前はレイがこの俺を土 壇場で裏切らなければ念願がかなっていたのだ。レイめ、こんなガキに心を寄せ おって。俺としたことが甘かった。だから、今回はこいつとレイを極力引き離し ておくのだ。学校もレイだけは遠く離れた第弐中学に転校させてやる。第五使徒 戦もあんなおいしい場面にはさせん。まず大事なのは今だ。前回はこいつ、傷だ らけのレイを抱いてやる気になりおった。この包帯フェチめ。だから今回は俺だ けでこいつを乗る気にさせねばならん。そのためにはどんなことでもするぞ)
 二人を見守るミサトはゲンドウの恐るべき豹変ぶりに当惑しきっていた。
(いったいどういうこと?何をたくらんでるの?前回とあまりに違いすぎる。 あっ、もしや司令も…)
 彼ら三人の様子を高みから見下ろす者がいた。冬月である。にんまりとほくそ 笑んでいた。
(やるなぁ、碇。頑張れよ。ユイさんと会える日を私も楽しみにしてるぞ。前回 よりはうまくやろうな)
 発令所のオペレーター三人組を初めとするスタッフ一同も、モニターを通して 碇親子のやりとりを固唾を飲んで見守っている。勿論、彼らも皆逆行者だった。
(何だよ。あんなの前はなかったぞ)
(ううっ。気持ち悪い)
(司令もよくやるよ)
 俯いたシンジの目から涙が滴り落ち、床を濡らしている。ゲンドウはそんなシ ンジの肩をぽんぽんと叩き、優しく言った。
「さぁ、シンジ。ではお前をここに呼んだわけを説明しよう。あれを見るがいい」
 ゲンドウは傍らの巨大ロボットを指した。
「究極の人型汎用決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。その初号機だ!我々人 類の最後の切り札だ!」
「エヴァンゲリオン…」
「そうだ。これからお前はこれに乗って使徒と戦うのだ」
「たたかうだって!使徒って…、あの化け物と?」シンジの表情が一変し、恐怖 がありありと見てとれた。
「そういうことだ。すまない。だが分かってくれ。これを操縦できるのは世界に 数人しかいない。その一人がお前なのだ」
「………………」
「お前が戦いに向いていないのは分かっている。しかしな、シンジ。あの使徒を 斃さなければ、人類は滅亡してしまう。みんな死ぬんだ!」
 下を向いて唇を噛んでいたシンジがようやく口を開いた。
「そんな、そんなのできっこないよ!いきなりやれって言ったってそんなの無理 だよ!」
「大丈夫。お前は座ってるだけでいい」
((((((そうだ、そうだ!))))))ミサトやその他全員、心の中でゲン ドウに賛同した。
「どうして?変だよ。そんなのありえないよ!」
 ゲンドウはなおもシンジに迫る。
「シンジ、お前がためらうのも分かる。だが時間がないのだ。ここは私を信じて あれに乗ってくれ。頼む」
 シンジの表情が急に険しくなった。
「そうか、分かったぞ。父さんが優しくするのは結局僕を利用するためなんだ。 どうも変だと思ったよ。心の中じゃ僕なんかどうでもいいと思っているんだ。利 用するだけ利用して後は捨てるつもりでいるんだ!」
(こやつは…!)
 ゲンドウは自分がこれだけ優しい態度をしてやっているのに乗って来ないシン ジに腹が立ち、額に青筋を立てた。そこで、これまで沈黙を守っていたミサトが フォローに入った。
「シンジ君、残念だけどお父さんの言う通りなの。あなたが出撃してくれない と、本当に人類は滅亡してしまうのよ」
「そんな事言ったって出来ないものは出来ないよ!乗れるのは僕だけじゃないん でしょう。その人に言ってよ!」
「シンジ。確かにもう二人適格者はいる。そのうちの一人はここネルフ本部にい る。だがその子は大怪我をして動けないでいるのだ。もう一人はドイツ支部だ。 今この場で頼れるのはお前しかいないんだ」
「そんな事言っても!」
 シンジはなおも首を振り、拒否の姿勢を貫く。人類の命運は風前の灯のようで ある。

 その頃、医務室では、リツコがベッドに座ったレイの腕に最後の注射を打って いた。
 レイの表情に一瞬苦痛の翳が差す。レイの腕と頭には幾重にも包帯が巻かれ、 痛々しい有様だ。レイは体にぴったりフィットした、白いいわゆるプラグスーツ を着込んでいる。
「レイ、本当にいいのね?」リツコはレイに念を押した。
「はい、博士。私が行きます」
 そう答えるレイの口調には強靭な意志が感じられる。
(もう碇君にはつらい思いをさせない。私がなにもかも引き受けて碇君を守るわ)
「じゃ、行くわよ」
 注射を打ち終わったリツコはレイの腕から伸びる点滴のパックを下げたスタン ドを持ち、ベッドを押し始めた。男の医師がそれに加わった。
(もうすぐまた碇君に逢える…)レイは緊張と同時に懐かしさのようなものを感 じていた。
 一方、リツコの方には別の思いがあった。
(ふっ。あなたはどうせ死んでも代りがいると思っているんでしょうね。甘いわ よ。今度は早々に事故に見せかけてダミープラントを破壊してやるの。そうして あなたがいなくなればゲン様は私しか見なくなるのよ。ゲン様の愛は私が独り占 め…)
 このようにして二人の思惑は一致し、リツコはレイに特別な治療を施してエ ヴァとシンジが待つケージへ向かって行く。

「そうだ。PS4を買ってやろう。ドラクエΧは面白いらしいぞう」
 なおも口を閉ざしたまま横を向いているシンジに対し、ゲンドウはモノで釣ろ うとしているようである。
「女の子を紹介してやってもいいぞ。可愛い女の子がより取り見取りだ」
「……………………」
「…年増が好みか。なんならあの葛城君でもいいぞ」
「お断りしますっ!」
 途端にミサトは大声を出した。さすがに言い過ぎたかと思ったゲンドウだった が、表情一つ変えない。
 シンジは相変わらず唇を噛み締めて目を合わそうとしない。ゲンドウはちらっ と時計を見た。まずい。使徒がもうじきここにやって来る。ゲンドウは遂に奥の 手を出すことにした。
「シンジいっ!!これでも父の言うことが聞けぬかぁあああっ!!!」
 と、叫ぶやゲンドウはその場にひれ伏したのだ。シンジは、いや、それを目撃 した全員、目を丸くして驚いた。
「頼むっシンジ!エヴァに乗ってくれえええっ!!人類のためなのだっ。頼むぅ うううっ!!」
 まさに前代未聞の光景である。あの常に人を威圧するゲンドウがあろうことか 土下座をしているのだ。
「父さん…」
 これにはさすがのシンジも心を動かされた。あの父がここまでしている。人と して、男として、これに応えないでいられようか。
(逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げ ちゃだめだ。逃げちゃだめだ。……)
「僕が乗ります」
 シンジは仕方なく言った。その瞳は落ち着きなく彷徨っている。
「おお、乗ってくれるか」
 ゲンドウは立ち上がり、この男としては最高の微笑を浮かべた。
(まったく手間を掛けさせおって。だが、これではまだ心もとない。ダメ押しを しなければ)
 ゲンドウはケージの奥に向かって密かに合図を送った。
 照明が落ち、辺りは暗くなった。と、ケージの高い天井にどこから映している のか、満天の星空が広がった。これにはミサトも意図がさっぱり分からず、驚き 呆れて見守るばかり。ゲンドウはシンジの肩を抱き、星空の真ん中辺りに最も明 るく輝く星をびしっと指さした。
「見ろ。中天に一際明るく輝くあの星を!あれはエヴァンゲリオンの星だ!お前 はあの星になるのだ!!」
 これを見聞きしたネルフ職員一同、全員目が点になったのは言うまでもない。
(お前、そんなことして恥ずかしくないのか!)これが何を意味するのか良く 知っている冬月は頭を抱えてしまった。
 だが、シンジの反応は違っていた。
 シンジの両の目じりから大粒の涙が滴り落ちた。(僕は今、猛烈に感動してい る!)
「父さん、僕は星になるよ!エヴァンゲリオンの星になるんだ!」
 シンジの口元にはさわやかな笑みがあった。とうとうここに親子の絆ができあ がったのだ。
「そうか、シンジ。良く言った」
 ゲンドウも満足げに微笑み、シンジの肩を叩いた。ミサトはシンジの目の中に 炎を見たような気がした。
(ふっ、他愛もない。しかしいい気分だ。前から一度やってみたかったからな。 シンジにはいずれシンクロ率養成ギブスを着けさせてやろう。しごきにしごき抜 いてやる)
 と、その時、通路の奥の方からがらがらと何かが近づく物音が。ゲンドウ、シ ンジにミサトは一斉にそちらを振り向いた。
 リツコともう一人の医師がベッドを押して現れた。その上にいるのは言わずと知 れた綾波レイその人である。
「碇司令、レイを連れて来ました」
(なにっ、呼びもしないのに)ゲンドウはレイが突然現れて、少なからず動揺し たが、勿論そんな素振りも見せない。
「なぜレイを連れて来たのかね、赤木君。パイロットならここにいる」そう言う ゲンドウの声には怒りが混じっている。
「その子をエヴァに乗せようというのは無茶です。レイでさえ満足にシンクロす るのに7ヶ月もかかったんですよ。いきなり乗せても動くはずはありません」
((((((それが動くんだよなー))))))それが口には出さねど、逆行し てきた者達全員の思いだった。
 レイがゆっくりと体を起こした。
「碇司令。私が行きます」
 レイの態度には強固な意志の強さが漲っている。レイの怪我は特別程度が良く なったわけではない。そこは痛み止めと意志の力でこうして起き上がっているのだ。
「だめだ。レイ。お前は休んでいろ」
 ゲンドウは一際威圧を込めてレイとリツコを睨んだ。だが、リツコはひるまず 続ける。
「なぜですか?司令の言葉とも思えません。レイはこの通り戦える状態です。海 のものとも山のものとも分からない子を乗せるより、レイを乗せるのが常識的な 判断ではありませんか?」
((((((エヴァに常識は通用しないんだよなー))))))逆行者一同、そ う思った。
「むぅ……」ゲンドウは困った。この先どうなるかは熟知している。しかし、それ を口に出すことはできない。自分が時を遡って来たなどと言えば、精神科に入院 させられるのが落ちだろう。
 レイはシンジを見つめた。シンジもレイを見つめた。
(碇君……)
(わぁ、目が赤いや。髪の毛も青い。変わってるなぁ。…でも可愛い…)
 ゲンドウはそんな二人の様子を見て、心の中で舌打ちをした。
(まずい。シナリオが狂ってしまう。なんとかしなければ)
 その時、大音響と共に、ケージに凄まじい振動が襲った。遂に使徒の攻撃がジ オフロントにまで達したのだ。
「奴め、ここに気づいたか!」
 振動はケージ上部の通路に打撃を与え、それはばりばりと音を立てて落下して 来た。その真下にはシンジがいる!恐怖にその場に蹲るシンジ。——だがシンジの 身に何の衝撃もやって来ない。
 奇蹟は起こった。動くはずのないエヴァの右腕がシンジの頭上にある。エヴァが 拘束具を破って落下物からシンジを守ったのだ。
(((((((うん、予定通り!)))))))
「きやぁっ」
 再び猛烈な振動が襲った。ベッドが傾き、前回同様レイは床に投げ出される。
「あっ、あの娘がっ」シンジはそれを見て放っておけなかった。おっとり刀で駆 けつけようとする。
(させるかぁっ!)
 ゲンドウも猛ダッシュした。シンジが着くより先にレイの下に到着し、レイを 抱き起こす。
「大丈夫か、レイ?」
(えっ?………)
 レイにとっては予想だにしない、がっかりする展開となった。
(碇君に抱いてもらうはずだったのに)
「駄目じゃないか。無理はするな」
 ゲンドウは密かにポケットから小型の注射器を取り出した。それを誰にも見ら れないようにレイの首筋に押し当てる。
 ちくり、とレイの首筋に針が刺さった。
(碇司令、あなたは何を?……)
 レイの意識は急速に遠くなり、闇に溶け込んで行った。がくっと首が落ちた。
「レイ、しっかりしろ、レイ。……駄目だ。気を失った」
(ふっ。こんなこともあろうかと麻酔を用意して来て良かった)
 それを見ていたリツコは歯噛みしていた。
(ちっ、結局前と同じか。まあいいわ。これからも機会はあるわね)
 ミサトが勢い込んで言った。
「エントリーもしていないのにエヴァは動いた。いけるわよ!リツコ」
「そうかもね」
 ゲンドウはレイの体を医師に任せ、シンジに近づき初号機を指差した。
「ファーストチルドレンはもう使えない。お前が行くのだ!」
「分かった!父さん!」
 シンジは意欲を漲らせて答えた。リツコが言った。
「早速こっちに来て。エヴァの操作方法を教えるわ」

 慌しくシンジはエントリープラグに乗せられ、LCLを注ぎ込まれて死ぬ思い をさせられ、操縦席でおびえながらその時を待っていた。
(ごめんね、シンジ君。あなたはこれからとんでもない目に遭うことになるわ。 でも私達には分かっていてもこうするしかないの)
 ミサトは内心のつらさを押し隠しながら、モニターに映るシンジを見つめた。 発令所のスタッフも、生贄の子羊を見る目でシンジを見守った。
「主電源接続」
「全回路動力伝達」
「第二次コンタクト開始」
「思考形態は日本語を基礎言語としてフィックス」
「A10神経接続異常なし」
「初期コンタクト全て異常なし」
「双方向回線開きます」
(おれ、せっかく逆行したけど)
(やってることって前と同じよね)
(帰って来た意味があるのかなぁ?)
「シンクロ率49.60%」
 マヤが機械的に読み上げた。発令所には当然といった空気が流れた。
「えええっ!そんなにいぃっ!!初めてでこんな数字が出るなんて、信じられな いわああっ!!」
 ミサトの驚き方は例によってオーバー気味だ。ミサトの演技につられるよう に、やっぱりここは驚くとこだよな、と発令所にわざとらしい嘆声が上がる。
「大したもんだなぁ」
「いきなりでこれだもんなー」
「すっごーい」
リツコもさも意外だとばかりに驚いて見せる。
「そんな…、訓練もプラグスーツもなしに、いきなりだなんてっ!……ありえない わっ!」
(ふっ、シナリオ通りだ…)司令の席に座ったゲンドウは前回と同じ進行に内心 ほっとしていたが、表情は微塵も変えなかった。

 地上への通路が全て開放され、遂にエヴァンゲリオン初号機は決戦の舞台へ射 出された。猛烈なGがシンジにかかり、シンジの顔が苦痛に歪む。やがて地上に 突き出たビルの一つに初号機は納まり、運命の扉が開く。
 前方はるか先に使徒が待ち構えている。
「最終安全装置解除!」
 伊吹の声と共に、初号機を繋いでいた器具がはずれ、とうとう初号機とシンジ は戦場の真っ只中に立たされた。
「シンジ君。まずは歩くことだけ考えて!」
 リツコがマイクに向かって叫んだ。シンジはそれに応えて歩くことをイメージ する。すぐさま初号機は確かに一歩目を踏み出した。しかし二歩目がうまくいか ず、初号機は前のめりに倒れてしまう。
(((((((やっぱりなぁー)))))))
 使徒がすかさず動いた。素早く初号機に近づき、左腕で初号機の頭を掴み、目 の高さまで吊るし上げる。右腕で初号機の左腕を握り、力一杯引っ張ると、初号 機の左腕はあっさりもぎ取られる。
「うわぁああああ!!」
 シンジは自らの左腕を押さえて悲鳴を上げた。初号機が受けたダメージはこの ようにパイロットにフィードバックされるのだ。
 使徒は続けて左手で掴んだ初号機の頭にむけて光のパイルを打ち込み出した。 二度、三度と打ち付けられ、頭部の装甲が破壊されていく。
「頭部装甲がもちません!」
 伊吹が非情な事実を告げる。この後どうなるか知っている一同だったが、さす がにこの光景は痛ましく、声もなく見守るばかりだ。
 やがてその時が来た。装甲が破れ、光のパイルがまともに初号機の頭部を貫 く。額と後頭部から前後に大量の血が迸り出る。初号機の目から光が消えた。同 時にシンジは肺から大量の泡を吐いて絶息した。
「エヴァ初号機活動停止」
「パイロットの生命反応微弱」
(((((((くるぞ、くるぞ)))))))
 使徒はぐったりした初号機を見て満足したか、腕を放した。初号機はうつ伏せ に横たわった。
(((((((もうすぐ、もうすぐ)))))))
 と、その時、初号機の目が再び光った。顎の装甲を破壊して一声喚くや、が ばっと立ち上がった!それを見ていた一同声を揃えて、「「「「「「「勝った な!」」」」」」」
 予定通り暴走モードに入った初号機の動きは凄まじい。強烈な前蹴りを使徒に 放つと、使徒はたまらず数百メートルもぶっ飛ばされる。なくなった左腕があれ よという間に生え出てくる。発令所の一同は経験済みとは言え、何度見ても凄ま じい光景だ。その間に体勢を立て直した使徒は目からビームを放った。街路に 沿って十字架型の炎が燃え上がる。だが初号機はそれをかわし、助走もなく飛び 上がるや、空中で一回転して使徒に襲い掛かった!大技空中回転式ダブルニース タンプが使徒に———決まらなかった。
 使徒はくるっと背を向けて後ろへ走り出したのである。初号機の両膝はむなし く道路に突き刺さった。使徒はそのまま猛烈なスピードでスタコラサッサと逃げ ていくのだ。怒った初号機も立ち上がり、使徒を上回る速さで追いかける。壮絶 な追いかけっこが始まった。速さに勝る初号機の伸ばした右腕が使徒の肩に掛か ろうとしたその時。
 すってーん、と普通サイズなら擬音をつけられるところだが、エヴァの重量は 半端ではない。どっかーんという轟音と共にもんどりうって背中から転んでし まった。アンビリカブルケーブルが伸び切って背中を引っ張ってしまったのだ。
 使徒はちらっとそれに一瞥をくれたが、そのまま方向を変えず走り去って行 く。初号機はしたたかに頭を打ったせいか、その場に大の字になって動かない。 使徒は走り続け、やがて廃墟が広がる海辺に到達し、そのまま潜り込んで行った。
「どうなってんの、これ?」
 ミサトが呆然としながら呟いた。冬月はゲンドウに耳打ちする。
「どうする、碇?こんなのはシナリオにないぞ」
「使徒は撃退した。問題ない」と答えるゲンドウの背中には冷たい汗が流れていた。
「エヴァが動きます!」
 日向の声が発令所に響きわたった。全員がスクリーンに見入った。初号機は頭 を押さえながら上体を起こしてきょろきょろと辺りを見回す。そこに使徒がいな いことが分かったのか、憤然として立ち上がった。いきなり、長く吼えたかと思 うと、横にあったビルを蹴りつけた。ビルはひとたまりもなく倒壊する。続いて 同じようにその横のビルも。次々とビルを破壊していき、もうもうと土煙が舞い 上がり、あちこちで爆発が起きる。街全体を破壊しかねない勢いである。
「エヴァ、怒ってますね」
「八つ当たりしてるんだわ」
「やむを得ん。外部電源パージ」
 ゲンドウがいつもの姿勢を崩さず命令した。初号機を繋いでいたケーブルが爆 音と共にはずれ、その場に落ちた。
「活動予想時間62秒」
 パネルに表示された活動時間が刻々数を減らして行く。その間も初号機の破壊 は続く。第三新東京市の市街地は今や猛火に包まれ、地獄の様相を呈している。
「……5、4、3、2、1。エヴァ活動限界」
 実際止まるだろうか?動きの予測がつかないのがエヴァだ。一同祈るようにス クリーンを見守ったが、やがて初号機はぴたりと動きを止め、どうと倒れ込ん だ。ほっとした空気が発令所に流れた。
「回収急いで。パイロットの生命維持最優先」ミサトの指示が飛んだ。
 息を詰めて戦闘を見守っていたネルフ全体が活発に動き出した。しかし、その 中の一部は不安に苛まれていた。なぜ予定のシナリオとこうも食い違うのか?と。

 一時間後。驚天動地の報告がネルフ発令所に届いた。
「相模湾に未確認生物!」
「なんだとっ!!」冬月が驚愕の叫びを上げた。
「真っ直ぐこちらに向かっています」
「光学映像入ります」
 スクリーンに使徒が映った。それは、先ほどまで暴れていた使徒・サキエルに 他ならない。
「パターン青。使徒です」
「それはもういいって」
「なんということだ…」
「うそでしょ」
「まずいですよ、これ…」
 発令所にいる全員の顔から血の気が引いた。なぜなら、シンジは既に回収し、 病院のベッドの上で意識不明だ。初号機は回収作業の最中で、未だ地上にある。 レイは使えないとなれば、現在使徒に対抗する手段はない。
「レイを起こせ。零号機で出撃させろ」
 ゲンドウはいつものポーズを崩さずに言ったが、その額には一滴の汗が浮かん でいた。冬月は早速病院の医師に指示を下した。
「しかし、零号機はこの前起動に失敗したばかりです」リツコは反論したが、ゲ ンドウは歯牙にもかけない。
「非常事態だ。他に我々が助かる道はない」
 冬月も額に汗を浮かべて提案した。「国連軍に再出動を要請しよう。少しでも 時間を稼がなければ」
「やりたまえ。反対する理由はない」
 冬月が早速電話に向かった。マヤが恐怖の混じった声を上げた。
「使徒のMAGIによる到達予想時刻…あと30分!」
 発令所は重い沈黙に包まれた。冬月の低い話し声だけが聞こえる。
(どうなってんの?前と全然違うじゃない)
(やばい。もしかしたらこのまま死ぬ?)
(いやよ。どうにかしてよ!)
(たぶんレイはだめね)
(くそ、こんなはずじゃなかったのに)
(ユイ………)
 冬月が疲れた表情で受話器を置いた。
「今さらなんだバカヤロー、だとさ」
 一同の恐怖の色がさらに濃くなる。ゲンドウの前にある電話が鳴った。
「私だ。……なんとしても起こせ。人類の未来がかかっているのだ!」
 ゲンドウは受話器を叩き付けた。
「レイがどうしても起きないそうだ」
 ゲンドウは悔やんだ。あそこで麻酔を使わなければ……。
 絶望感が発令所を包んだ。
((((((たったこれだけで終わり?))))))
(せっかく戻って来たのに)
(これじゃ前より悪いぞ)
(どこでどう狂ったのかしら?)
(もっと人生を楽しむはずだったのに)
(意味なかったなー)
(所詮こんなものか)
(ユイ………)
 そうこうするうちに使徒はジオフロント直上に到達した。

 彼らは考えていなかった。使徒もまた逆行しうるのだということを。

 使徒の目から放たれたビームが一瞬のうちにジオフロントを覆う全ての装甲板 を破った。使徒はやすやすとジオフロントめがけて身を躍らせた。
 ミサトが目を血走らせて叫んだ。「みんな聞いて!こんなことになった責任は 誰にあるのか。全部こいつが悪いのよ!!」ミサトはゲンドウを指指した。
「そもそもセカンドインパクトを起こしたのは、こいつとゼーレなのよ。こいつ らがあの大災害を引き起こした。訳の分からない人類補完計画のためにね。こい つのせいであたしも、加持も、みんなが!!チクショー!!」
 ミサトは腰のホルダーから銃を抜いた。青葉と日向があわてて抱きついて止め ようとする。
「葛城一尉!落ち着いて下さい!」
「そんな事しちゃ駄目だ!葛城さん!」
「放してっ。放しなさいっ!!」
 青葉と日向は苦労してミサトを壁に押し付けた。ミサトの手から銃が落ちる。
「おお、妙手を思いついたぞ!」
 冬月が叫んだ。一同期待を込めて冬月を見た。
「ここで5二金と打てば先手の勝ちだ!」冬月の目はきらきらと輝いている。
 天を仰ぐ者。ずっこける者。皆様々な仕方でがっかりする。
「イっちゃってるよ。このじいさん」
「誰かなんとかしてよ!」
「司令、何か言って下さい!」
 青葉がゲンドウに向かって叫んだが、ゲンドウはいつものポーズのまましきり と一人言を言っている。
 とうとうマヤが壊れた。オペレーター席から立ち上がると、ふらふらとリツコ に向かって近づいて行く。
「先輩。いえ、お姉さまと呼ばせて。私、お姉さまのことが好き。お願いですか ら私の愛を受け止めて」
 それに対して、リツコは怖気をふるった。
「何言ってんの!私にそっちの趣味はないのよ!ゲン様一筋なのっ!」
「そんなの不潔ですぅっ。お姉さまあああっ」
 マヤはリツコに飛びついて、揃って床に倒れこんだ。上になったマヤはしきり に頬と頬をこすり合わせる。
「お姉さまあン」
「いやっ、いやっ、この娘はっ。ゲン様、助けてえ!」
「5二金、同飛、3四歩、1五角……」
 マヤとリツコを見ていた日向の目が妖しく光った。何かを決意した日向は、取 り押さえているミサトに向かい情熱的に語りかける。
「葛城さん。いや、ミサトさん。僕とセックスして下さい!」
 死に臨んで遂に日向は狂ったのか。ミサトは当然そんな日向を拒絶する。「日向 君、あんた急に何言い出すのよ!」
「そうだ!マコト、何を言うんだ!」
 青葉も日向をしかりつけた。しかし、日向はなおもミサトを見据えて言いつのった。
「いいじゃないですか。みんな死ぬんだ。この世の思い出にやらせてくださいよ う。僕はミサトさんがずっと、ずっと前から好きだったんだ!!」
「いやよ!あたしは加持がいいんだから!」
「マコト……」青葉は日向の純情に打たれた。親友の恋を成就させてやりたいと 思った。
「葛城一尉、僕からもお願いします。マコトと一発やってやって下さい。それで 心置きなく死んでいけるんですから」
「青葉君、あんたまで…」
「マコト、次、おれな」
「4四香、2三飛、5五角成、1四玉……」
 リツコは非常手段として、マヤの髪を引っ張った。「ぎゃうっ」マヤの顔が苦 痛に歪み、体と体が少し離れた。その隙にリツコはマヤを振り切り、ゲンドウの 下に駆け寄る。
「ゲン様、ゲン様ってば、何とか言って」
 リツコはゲンドウの腕を握り、しきりに揺さぶった。ゲンドウは真っ直ぐ前を 向いてぶつぶつ言っていたが、やがてゆっくりとリツコの顔を見た。その目が歓 喜に輝いた。
「ユイじゃないか……」
 その言葉を聞いたリツコは、恐怖と怒りを同時に覚えた。
「あなた、それでもユイさんのことを…」
「ユイ、会いたかった」
 ゲンドウは立ち上がってリツコを抱こうとする。ぱっしーんとゲンドウの頬か ら派手な音が上がった。リツコの腰の入ったビンタが炸裂し、ゲンドウは机に 突っ伏してしまった。
「やっぱり私は馬鹿だったわ!!」
 床では、マヤが絶望に打ちひしがれて泣き叫んでいた。
「ああん、いやあ。死ぬのはいやよう。神様、神様。助けてぇ」
「わいのこと呼んだやろか?」
 神が突然姿を現された。相変わらず派手な服装をしておられた。
 ミサトを押し倒して上着を脱がせ、Tシャツに手を掛けていた日向は叫んだ。
「何だお前は!ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!!」
 同じくミサトの服を脱がすのを手伝っていた青葉も叫んだ。
「そうだ、そうだ!今取り込み中なんだ!早く出て行け!」
「ほうでっか。すんまへん。えらい邪魔しましたなぁ。ほなさいなら」
 そう言って神はふっと消えてしまわれた。
 日向と青葉はミサトの陵辱を続行しようとする。何もかもあきらめたように力 を抜いていたミサトはふと気づいた。
「今の、神様だったわ」
 日向と青葉もはっとして手を止めた。
「あれは確かに…」
「逆行させてくれた…」
「神様よ…」
 三人共がばっと立ち上がり声を限りに叫んだ。
「「「神様ああああぁっ、何とかしてぇええええっっっ!!」」」

 その時、使徒サキエルはネルフ本部の中心めがけてビームを放った。大音響と 共に天井が崩れ落ち、発令所は暗黒に包まれた。



 かくして、あっさりとサードインパクトは起こり、人類は滅亡した。



(終わり)



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