トリプルレイ2nd

第3回「恋人よ還れわが胸に」

間部瀬博士

1.
 シンジとレイは、昼ごはんをミサトのマンションで食べた後、それぞれの家へ帰った。午後4時、ミサトは一人お茶を飲みながら、本を読んでいる。そこへ玄関のチャイムの音。訊ねて来たのはアスカとヒカリだった。
「良く来たわね。アスカにヒカリちゃん」
「ミサトぉ、良くやってくれたわ。ありがとう!」
 携帯で昨日の成果を聞いていたアスカは、ミサトに抱きついて、嬉しそうに礼を言った。ミサトの方も満足そうだ。
「ま、あたしにかかればこんなもんよ。これであたしの実力が分ったでしょ」
「よかったね。アスカ」ヒカリの方も嬉しそうだ。
「さらにいいニュースよ。シンジ君は、まんまとあたしたちの計画に乗ったわ」
「じゃ、明日、シンジは加持さんの所に?」
「そうよ。夕方6時から焼肉パーティー。勿論レイ抜きでね。いよいよアスカ、あなたの出番よ!」
「やったぁ!うん、アタシ、頑張る!」
 アスカはぐっと拳を握りしめて、決意を表した。
「その意気よ。でも、意気込みだけでは成功はおぼつかないわ。それで、今日は明日の作戦を立てようって訳」
「で、ミサト。どんな作戦があるの?」
 ミサトは、二人を促して、リビングのソファに座らせた。アスカはちらりと部屋が意外ときれいだなと思った。実は、シンジとレイカが、泊めてくれたお礼に掃除をして行ったのだ。
「まず、涙よ」
「涙?」
「そうよ。男が、女にほだされるには、涙が一番効き目があるわ。明日はシンジ君の前で思いっきり泣いて見せるのよ!」
「要は、うそ泣きしろってこと?」
「ま、そうとも言うわね」
「うそ泣きかぁ…」
性格が真っ直ぐなアスカは、そういう姑息な手段にはあまり乗り気ではない。
「これは、レイに対抗するためでもあるのよ。あたしは、レイはこの技を既に体得していると見ているわ」
「レイが?」
「そうよ。あなたの話から推測してね」
 アスカは自分の目の前で、さめざめと泣いていたレイの姿を思い出した。確かにあんな風に泣かれたら、つらく当たることはしにくい。あれが演技だったとしたら、敵ながらあっぱれだわ。
「分った。アタシ、やって見る」
「じゃ、早速練習するのよ。まず、あたしが模範演技をして見せるから、良く見ててね」
 ミサトは立ち上り、じっと虚空を見据え、顔を悲しげに歪めた。
「私…、あなたにそんな事情があったなんて……、し、知らなかったのぉおおおおお…うぅううう」
 ミサトの目から、本当に涙が零れた。さらにミサトは両手に顔を埋め、肩を震わす。アスカとヒカリは、信じられないといった表情でそれを眺めていた。しばらくすると、ミサトは涙を拭い、にやっと笑った。
「どう、完璧な演技でしょ」
 アスカとヒカリは思わず拍手喝采した。
「うわぁ、すごかったぁー」
「上手いですねぇー」
「今度はアスカがやるのよ。いい。まず、悲しかったことを思い出して。それから、涙腺に力を込めて、感情移入。これを、繰り返しやるの。分ったわね。じゃ、やって見て」
「うん、やるわ」そう言ってアスカはきつく目をつぶった。
「アタシ、アンタにそんな事情があったなんて、知らなかったのよぉー。おいおい」
 ミサトは思わず苦笑いした。ヒカリはがっくりと肩を落とした。勿論アスカは、下手な泣きまねをして見せただけで、涙など出ているわけがない。
「うーん。そう簡単にはいかないか」
「アスカ、頑張って」
「できるまで何度でもやるわ!…アタシ、アンタにそんな事情があったなんて、知らなかったんだもーん。えええーん」



「アタシ、アンタにそんな事情があったなんて、知らなかったんだってば。うええーん」
「もっと、感情を込めて!肩は小刻みに!」
 ミサトの叱咤が飛んだ。アスカはもう小一時間、演技を続けているのだが、一向に涙は出てこない。涙は出なくとも、せめて演技にリアリティがあればいいのだが、どう見ても学芸会レベルでしかないのだ。
「アタシ、アンタにそんな事情があったなんて、知らなかったって言ってるでしょ。うわぁああーん」
 その様をずっと眺めていたヒカリは、なかなか上達しないアスカが可哀想になって来た。
「アスカったら、こんなに頑張ってるのに…、どうしても出来ないなんて…、な、なんて気の毒なのっ。うぅうううう」
 ヒカリがとうとう泣き出してしまった。それを見ていたミサトは、ぽんと膝を叩いて言った。
「おや、お連れさんの方が筋がいい」
「………『あくび指南』かい」


 そんな一幕がミサトの自室で繰り広げられているのを、遠くから覗き見ている者がいる。
 そこはミサトのマンションから一町ほど離れたビルの屋上だった。双眼鏡を下ろしたレイコは、悔しそうに呟いた。
「ミサトさんがアスカに付いた。これは、面倒なことになりそうね」

2.
 翌日、午後6時きっかりに、碇シンジは加持リョウジ邸へやって来た。加持は独身にも拘わらず、広い庭付きの一戸建住宅を構えていた。その庭の中心には、バーベキューの設備が施され、そのコンロの中には既に炭火が赤々と燃え盛っている。その傍には、数脚の椅子とテーブルが置かれ、上には美味そうな肉や野菜が用意されている。
 しきりとお愛想を言いながら、シンジは加持と並んで庭に入って来た。
「あら、いらっしゃい。シンちゃん」
高級そうなワンピースに見を包んだミサトが、シンジを迎えた。
「今晩は、ミサトさん。わぁ、きれいな服だなぁ。素敵ですね、それ」
「ありがとう。シンちゃん、お世辞も言うようになったのね」
「お世辞じゃないですよぅ」
「これ、シンジ君から差入れ」
加持が、えびちゅビールの樽を差し出した。
「えらい。シンちゃんも大人になったもんだわ」
 三人はにぎやかに話しながら、庭の中央のバーベキューコンロを囲んだ。加持はその上の鉄板に早速、各種の肉と野菜を大量に置いて行く。コンロから煙が上がり、香ばしい肉の焼ける匂いが庭を漂った。



 1時間後。既に陽は落ち、庭を灯りが煌々と照らしている。三人は大いに食べ、飲んで、盛り上がっていた。殊に、松坂牛のステーキは絶品で、シンジはご満悦だった。不思議なのは、これまでにかなりの量のビールが胃に入っているにも拘わらず、一昨日のようなひどい酔い方ではなく、むしろ心地良いことだった。
 玄関のチャイムが遠くから聞こえて来た。ミサトが加持に目配せを送り、加持は立ち上がった。「どうやら、もう一人のお客さんが来たようだ」そのまま、彼は家の中へ入って行った。
「まだ、誰か来るんですか。ミサトさん」
「そうよん、シンちゃん。あなたも良く知ってる人」
「僕の知り合い?誰かなぁ?」
「お待たせ」
 加持の声が聞こえた。シンジがそちらを振り向くと、そこにいるのは加持の他に一人の女。
「アスカ…」
 シンジは意外な人物の登場に、絶句してしまった。アスカは、つかつかと歩いて、シンジの向かいの席に座った。
「シンジ。久しぶり」アスカはかすかに微笑みながら、おとなしげに言った。
「あ、うん」シンジは急な事にどぎまぎしながら、曖昧に応えた。視線をアスカに真っ直ぐに合わせることができず、あちこちに彷徨わせた。
「ふふ、シンちゃん、びっくりした?」ミサトがいたずらっぽく、シンジの目を覗き込んだ。
「ごめんね。実はね、今日の事はアスカに頼まれて企画したことなの」
「…随分勝手なんですね」
 シンジは下を向いて、ぼそぼそと言った。かつてミサトと同居していた頃のシンジのようだった。
「ま、まあそう言わないで、話だけでも聞いてやって。ほら、アスカにしたらさぁ、分かれるにしてもちゃんと話をしてからじゃないと、すっきりしないでしょうが」
 加持がシンジの傍にしゃがみ込んで言った。
「俺からも頼むよ、シンジ君。アスカにも言いたいことを言う機会を与えてやってくれないか。その上で別れることになっても、そりゃあ仕方のないことだがね。お互いにわだかまりを残さない方が今後のためだよ」
「…分りました」
シンジも覚悟を決めざるを得なかった。この二人にこうまで言われては仕方がない。
「とーぜん、二人っきりがいいわよねぇ。あたしたちは退散するから、ゆっくり話し合ってね」
「それじゃ、後は頼むよ、シンジ君。頑張れよ、アスカ」
 加持はシンジの肩を叩き、アスカにはウィンクをして見せて、ミサトと共に家に入って行く。庭にいるのは、シンジとアスカの二人きりとなった。しばし沈黙の時が流れた。ほのかな風が庭を通り過ぎた。シンジは固い表情のまま、視線をテーブルの上に向けている。口火を切ったのはアスカだった。
「シンジ、アタシを見て」
 シンジはしかたなく視線を上げた。アスカの顔があった。シンジは軽い驚きを覚えた。
「アスカ……。髪切っちゃったんだ!」
 腰近くまで伸びていたアスカのツインテールは、肩の辺りからばっさり切られていた。いつもとは一味も二味も違う印象を与える。アスカはうんと頷いて小さく微笑んだ。
「これはね、アタシの決意表明のつもりなの。ほら、日本ではよくお詫びの印に丸坊主になることがあるでしょ。アタシは女だから、坊主にはさすがになれないんで、これで我慢してほしいの」
 これもミサトが授けた秘策だった。アスカは居住まいを正すと、真っ直ぐにシンジを見て、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。シンジ」
 シンジは予想とは違うアスカの出方に戸惑った。いつものように強引に迫ってくると思っていたのだ。こんなにしおらしいアスカを見るのは初めてのことだった。
「あ、ああ」
 シンジはとりあえず曖昧に答えておくしかなかった。アスカはまだ頭を下げたままでいる。
「もういいから、頭を上げなよ」
 アスカがようやく元の姿勢に戻った。視線と視線がぶつかった。
「本当にごめんね、シンジ。全てはアタシの誤解だったの。あの後、あの女から手紙をもらってやっと分ったわ。でも、なかなかシンジにあやまる気になれなくて、今日までずるずると…。お願い、シンジ。アタシのこと許して。本当に反省してるの」
 ここまで言われると、なかなか無慈悲な態度を取れるものではない。しかし、シンジは内心、簡単に許してしまってはせっかくのアスカの変身も長続きしないと思った。
「許してって言われてもねぇ。僕はおかげで一週間も通院するはめになったわけだし」
「悪かったわ。もうパンチはしない、ハイキックもしない、とび膝蹴りも、踵落しも、胴回し回転蹴りもやらないわ」

「シンちゃん、そんなことまでされてたのぉ」
 テレビに写し出されている画像を見ながら、ミサトはあきれたように言った。ミサトと加持はソファに座り、缶ビールを飲みながら、庭で繰り広げられている愛憎劇を見守っているのだ。こんな面白い見物を、黙って見過ごす二人ではない。庭の各所には、超小型のテレビカメラと集音マイクが密かに据え付けられていたのだ。加持が感想を洩らした。
「シンジ君、あっさり落ちるかと思ったが、結構粘るじゃないか」

「でも、アスカには、随分殴られ続けたからなぁ」
「ごめんなさい。お願いだから信じて。アタシは今日から優しい女に生まれ変わるわ」
 必死に訴えるアスカ。それに対するシンジの態度は冷たい。
「まぁ、あれは終わったことだし、もういいよ。分ったから。でも、僕らの関係のことは、また別の話さ」
「そんな……」
 アスカにとって、シンジの一言は、衝撃だった。もうこれで終りだなんて…。
「待って、シンジ。さよならなんていやよ。ねぇ、シンジ、思い出してみて、アタシ達とってもうまくやってたじゃない。二人共愛し合っていたじゃない。だからお願い。考え直して」
 シンジが沈黙に入った。アスカの願いに心動かされないでもなかった。熱が冷める前のアスカと過ごした日々が蘇った。二人で行ったハイキング、二人で見た映画、二人でした買い物。いつも大量に荷物を持たされたっけ…。しかし、彼がアスカとの仲直りに踏み切れないのは、一にも二にも今のレイとの関係があるからだった。既にレイとの仲は、契りを結ぶ寸前まで行っている。レイのことはどうしたらいいのだ。

「アスカ。頑張るのよ!」
 ミサトが拳を握りしめてテレビに向かって呼びかけた。

 シンジは下を向いたまま動かなかった。アスカには、それがシンジの拒絶の表明と受け止められた。彼女の内部で感情が爆発した。目の底が熱くなった。目尻から、一つの雫がつぅっと滴り落ちた。アタシ、泣いてる……。
「シンジぃ。もう駄目なの?……アタシ達終わりなの?……アタシ…どうすればいいの?…うぅうううう」
「アスカ……」
 シンジは初めてアスカが泣くのを目にした。そこにいるのは、いつもの勝気な、自身に溢れたアスカではない。弱く、救いを求める、哀れな一人の少女だった。

「その調子よ!アスカ!」

 シンジは立ち上り、アスカの傍に駆け寄った。右手を椅子に座ったアスカの肩に掛けた。
「アスカ、泣かないでよ。そんなアスカを見るのはいやだよ。ぼ、僕が悪かったよ」
 アスカは両手に顔を埋めて嗚咽している。シンジの内面は憐憫の情で一杯になった。
「さ、アスカ。涙を拭いて。ね、落ち着いて話合おうよ」

「そこで抱きつくのよっ!」

 そのミサトの声が聞こえたかのように、アスカはシンジの体にむしゃぶりついた。
「ヒンジぃいい。好きなのよぉ。うぇええええええええぇん」
 アスカの顔は涙でぐしゃぐしゃだ。シンジは暫く両腕を彷徨わせていたが、やがて膝をついてアスカの腰の辺りに巻き付けた。頬と頬が接した。二人はしばしその姿勢のまま動かなかった。アスカはシンジの体温を感じることで落ち着きを取り戻したか、号泣を止め、すすり上げるだけになっていった。
 シンジの感情は憐憫から、より優しい、甘やかなものへ変化していた。
「ごめんよ、アスカ。でも分ってほしい。僕には綾波もいるんだ。綾波のことも好きなんだ」
「も…?」

「ミュージック、スタート!」
 ミサトが加持に指示を飛ばした。加持は、リビングにあるステレオ装置のスイッチを入れた。ラフマニノフ作曲・ピア
ノ協奏曲第2番のサワリが大音量で流れ出した。

ラフマニノフの甘美な旋律が、庭の二人を包んでいる。
「うん。アスカも…好きだよ。大好きだよ」
「ああ、シンジ。嬉しい…」
 アスカの口から白い歯がこぼれた。シンジを抱きしめる腕に一層の力が入った。シンジも力を込めてアスカを抱き返した。
「ねぇ、アスカ。僕は今、どちらも捨てることはできないよ。僕にとっては…、君には不満だろうけど…、二人共大切な人なんだ。そこのところは分ってほしい。きっとそのうち、収まるところに収まると思う。だから、その時を待とうよ」
 アスカは、抱擁を緩めてシンジの顔を正面から見た。
「じゃ、またデートしてくれる?」
そう言ってシンジを見つめるアスカの顔は、むちゃくちゃ可愛かった。
「いいとも」
「……キスして」
 アスカは目を閉じて、唇を突き出した。シンジは迷った。レイの顔が頭をよぎった。一瞬、空白ができた。
 ちゅっ。
 アスカの額から、小さなキスの音が鳴り亘った。意表を衝かれたアスカが目を開いた。目の前にシンジの顔があった。
「今日はここまで。だって、いきなり元通りじゃ綾波に悪いじゃないか」

「いよっしゃああああ」
 ミサトが拳を突き上げてガッツポーズを出した。加持はテレビを見ながらにんまりした。
「徳俵から土俵中央まで押し戻したってとこだな」

 アスカはシンジの首を掴んで、頬へキスを返した。それからまた二人はしっかりと抱き合い、長い間動かなかった。ピアノ協奏曲は、クライマックスに差し掛かっていた。


(続く)

(第4回へ続く)



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