トリプルレイ2nd

第4回「修羅場と毒薬」

間部瀬博士

1.
見事にシンジとの仲を修復するのに成功した次の日、アスカはその勢いで、シンジをデートに引張り出すのにも成功していた。日曜日の午後3時、最近評判のSF映画「ターミネーター対エイリアン」をシネコンで見終わった二人は、夏の暑い日差しが照り付ける繁華街の雑踏の中を、手を繋いで歩いている。
「結構面白かったね。シンジ」
「そうだね。特にあの主人公がかっこ良かったなぁ」
「ねぇ、アタシ、パフェが食べたいな。この先においしい所があるの。行かない?」
「そうだね。暑いから、涼しい所に行きたいや」
 そんな会話をしながら歩く二人の正面から、黒縁眼鏡にショートカットの女が歩いてくる。その女はアスカとシンジの顔を見ると、ぎょっとして立ち止まった。気づかれてはまずい。そこはたまたまデパートの前だったので、彼女はとっさにショーウィンドウの中を覗き込んだ。アスカとシンジは話に夢中で、その女の姿は目に入らなかった。女の背後をアスカとシンジが通り過ぎて行く。密かにシンジ達の様子を観察しているその女は、彼らからの距離が十分開いたとき、やおら携帯を取り出した。
「レイコ、私レイナ。大変よ。碇君たらアスカと一緒にいるのよ!」

アスカとシンジは、目的の喫茶店に到着した。中は広く、六割ほど客席が埋まっている。アスカ達は早速窓際の席に向かい合って座った。やや遅れてレイナが入って来た。レイナはアスカ達から5メートルくらい離れた内側の席に、彼らを良く観察できるように座った。
 ウェイトレスがアスカ達の席に注文を取りに来た。「アタシ、いちごパフェ」と、アスカは勢い良く注文した。シンジの方はバナナパフェ。
「でも、久しぶりねぇ。こうしてシンジと差し向かいでパフェ食べるなんて」
「そうだね。…またこうなれて嬉しいよ」
 シンジがへらへらと笑みを浮かべて相槌を打つのを、レイナは眼鏡の奥から、悔しげに見つめていた。向こうの二人は先程見た映画の話題で盛り上がっている。レイナはそれをただ黙って見守るしかない。早く来て、レイコ。このままじゃ碇君を取られちゃう。

 20分程時が経った。シンジ達は互いにスプーンを伸ばして相手に食べさせたりして、熱々ムードだ。レイナは歯噛みしながら、それを見守る。何よ、あれ。本来は私達がああいうのをやってるはずじゃないの。碇君、まさか私達のことを嫌いになったんじゃ…。
(レイナ、いるの?)突然テレパシーが、レイナの意識を打った。
(レイコ、来たのね。今どこ?)
(店の前よ。碇君とアスカを見たわ。あなたはどの辺りにいるの?)
(店の真中へんね。碇君が良く見えるわ)
(私が入ったら、すぐトイレに行くわ。あなたも来て。そこで作戦を練りましょう)
(了解)
 ほどなく、この日の『綾波レイ』、レイコが店に入った。(ちなみにレイカは、風邪を引いて自宅で休んでいる。)レイコは鍔広の帽子とサングラスで、レイと気づかれぬようにしている。レイコは席に座らず、真っ直ぐ店内にあるトイレを目指した。それを見ていたレイナも席を立って、トイレに向かった。

女子トイレの個室の中、レイコは憤りも顕わに言った。「何あれ、べたべたじゃない。碇君にも困ったものだわ。男ってみんなああなのかしら?あんなに『愛してる』って言ってくれたのに」
「どうする?あなたが出て行って文句を付ける?」
「それだけじゃ駄目よ。アスカはきっとこの後、どこかのホテルにでも連れ込むつもりでいるに違いないわ」
「もう、そこまで行くかしら?」
「向こうには、あのミサトがついているのよ。ミサトなら、押しの一手で行くと思わない?」
 確かに、ミサトなら速攻を仕掛けてくるだろう。アスカのあの色香で迫られたら、シンジならひとたまりもなく落ちてしまうに違いない。
「そうね、そうに違いないわ」

 実際、ミサトの策は、即ベッドインを仕掛けることだった。


…『いい、アスカ。ここは悠長に構えている場合じゃないわ。この前は、シンジ君、初体験寸前だったんだから。うかうかしてるとレイに先を越されるわよ。とにかく押しの一手!燃え上がっている今が勝負時なの。うんと色っぽく迫るのよ。大丈夫。シンジ君、二度も機会を失って、餓えているに違いないんだから』…

 アスカはそのミサトの言葉通りにするつもりでいる。シンジは昨日あんなこと言ってたけど、アタシの魅力に勝てるもんですか。一気に虜にしてあげるわ。
 その願いを実現するためか、今日のアスカの服装はセクシーだった。スカートは膝上15センチのミニ。しかも生足。タンクトップは胸元が大きく開き、Dカップのバストと中央の深い谷間がシンジの視線を吸い付けている。
 今日のアスカ、色っぽいなぁ。あの胸元、たまらんなぁ。…実際シンジの頭の中はピンク色の霧で包まれている。これで、アスカにナニを迫られたら、シンジは我慢できるだろうか。いや、できない。

「何とかしてこれ以上のデートを阻止しなきゃ」
「何か名案はあるの?」
「家からこんなものを持ってきたの」
 レイコは、バッグの中から、細身の小瓶を取り出して見せた。
「それ、下剤じゃないの!」
「そうよ。これをアスカが飲んでいる飲み物の中へ入れれば…」
「アスカはお腹ゴロゴロ、下痢ピーピーでデートどころじゃなくなるってわけね」
「おまけにおもらしでもすれば、碇君も幻滅よ」
 二人のレイはくくく、と忍び笑いをした。
「でもそれほど簡単じゃないわ。どうやって隙を作る?」
 レイナが当然の疑問を口にした。レイコは暫く思案する。
「まず、二人の内、どちらか一人がいなくなったときがチャンスね。そうだ!碇君の真後ろの席が開いているでしょ。あそこに私が座るわ。そして、声を掛けるタイミングを計る。実行役はあなた。碇君が後を向いている間に下剤を仕込むの。どう?」
「アスカが席を立たなかったら、何もできないわね」
「仕方ないわ。何もしないよりましよ。さ、行きましょう」

 二人のレイが動き出した。まず、レイコが目立たぬようにシンジ達のいる席に近づいて行く。ここで覚られたら計画はおじゃんになる。サングラスと帽子で頭部を隠しているとはいえ、緊張の一瞬だ。幸い、アスカは話に夢中で、シンジの顔ばかり見ている。レイコは無事、椅子を隔ててシンジと背中合わせに座ることができた。次にレイナが何食わぬ顔で自分のもといた席に戻った。
 パフェを食べ終わったアスカとシンジの前には、それぞれに同じアイスコーヒーのコップが置かれている。アスカはそれをストローで飲みながら、色っぽい流し目を送る。
「ねえん。今日はもっともっと楽しみたいわ。この後もどこかに行きましょうよん」
「そうだね。今日は僕たちが仲直りした記念日だから、うんと遊ぼうよ」
「そうだ、カラオケにしない?アタシ、新曲だいぶ仕入れたのよ」
「そりゃ是非聴いてみたいや」
 レイコは額に青筋立てて、その会話を聞いている。赤毛猿め、今に見てらっしゃい。碇君は絶対に渡さないわよ。それにしても碇君たら、どっちでもいいのかしら。困ったものね。それにしてもあの猿、早くトイレに行かないかな。
「アタシ、ちょっとお手洗いに行ってくる」
 アスカが席を立った。好機到来。
(今よ、レイナ。準備して)
 レイナが席を立ち、そっとアスカのいた席へ近づいた。左手には先程の小瓶に付属のスポイトを隠し持っている。シンジは下を向いてアイスコーヒーを飲んでいるので、レイナに気づいていない。今だ。レイコは帽子とサングラスを取り、後を振り向いた。
「碇君」
 シンジは、その聞き覚えのある声に驚愕し、思わず飲み物を吹出した。心臓が早鐘のように打つ。縮み上がりながらゆっくりと振り向いた。
「綾波……」
「これはどうゆうことか説明してもらえるわね?」
 レイナがアスカの席の真横に差し掛かった。
「ごめん……」
 シンジは、おどおどして目をそらそうとする。素早くレイコの手が動き、シンジの頬を押さえた。
「ちゃんとこっちを見て」
 レイナの左手がすっと伸び、アスカが飲んでいたアイスコーヒーのコップの上にスポイトをかざした。スポイトのゴムをぎゅっと摘んだ。毒薬が数滴、滴り落ち、アイスコーヒーの中に忍び込んだ。レイナはスポイトを握り込み、そのまま入口の方へ歩いて行く。すべて一瞬の出来事だった。
 レイナは入口の横にある公衆電話の所まで行き、受話器を取って電話を架ける振りをする。その時、アスカがトイレを出て、こちらへ歩いて来た。アスカは、シンジが話をしている女の姿を見て愕然とした。あれ、ファーストじゃないのお!
 アスカは、束の間立ち止まっていたが、やがて表情を引き締めて席に近づいた。
「あら、しばらく。こんな所で会うなんて意外だったわ」
 レイコが振り向いた。口元にはうっすらと笑みを浮かべている。
「こんにちは、アスカ。私のほうこそあなたが碇君と一緒にいるなんて驚きだったわ」
「いぃええ。アタシとシンジは長いこと付き合っているもの。こんなの当然だと思いますけど」
「そうかしら。普通、半殺しにした相手とお茶したりしないわ」
 アスカの額にピキッと音を立てて青筋が立った。
「あら、本当に心が通い合っていれば、そんなものは簡単に乗り越えられるのよ」
 表面上は穏やかに話す二人だったが、既に戦いは始まっている。間に入るシンジは、気まずく、とてもじゃないが居たたまれない心境だ。
「あ、あの二人共、とりあえず座ったらどうかな?」
 アスカはツンとそっぽを向いてから、シンジの隣に座った。レイコも自分が飲んでいたレモンスカッシュのコップを手にして立ち上がり、シンジの向かいへ移動した。目の前に、アスカが飲んでいた下剤入りのアイスコーヒーがある。レイコはそれをそっとアスカの前に押しやった。
 レイナも元の席に戻り、はらはらしながら彼らの様子を見守っている。頑張って、レイコ。あなたが『綾波レイ』代表よ。アスカに負けないで。
 レイコが切り出した。
「それで、碇君。アスカと随分楽しそうにしてたわね。この前私に言ったことと違うけど?」
「いや、それがそのう…、ははは、なんて言ったらいいのか…」
アスカが助け舟とばかりに口を挟む。
「なぁによ。シンジが前になんて言ったか知らないけど、肝心なのは、今どうか、でしょうが。過去は過去よ」
「そうね、過去は過去。それがどんなに血塗れのものであったとしてもね」
「いちいち絡むわねぇ。いい、アタシ、その事は誠心誠意シンジに謝ったの。こうして髪まで切ってね。シンジは心良くそれを受け入れたわ。だから、それはもうアタシ達の中では問題にならないの。分った?」
「碇君、優しいのね。でも、元々の原因は、あなたが碇君を信用していなかったからじゃなくて?それはあなたの碇君に対する愛が足りないからだと思うわ」
「ぬぁんですってぇ」
 アスカが気色ばんだ。シンジは必死に喧嘩を抑えようとする。
「まあまあ、二人共、ここは押さえて。ねぇ、僕らは死線を乗り越えて来た仲間じゃないか。穏便に話そうよ、ね」
 なんとかこの場をしのごうとするシンジ。僕はどうすりゃいいんだよう。
「碇君があなたを許したとしても、私はあなたを許しはしないわ。大事な碇君にあんなひどいことを…。可哀想でとても悲しかった…」
 レイコがぐすっと洟をすすり上げた。目は涙で潤んでいる。綾波、僕のために泣いてくれるんだね。シンジは感動を覚えた。一方、アスカは思った。コノヤロー、またその手かい。
「そ、そのことはもういいんだよ。アスカもすっかり反省したみたいだから。それに、今から思えば僕の方も隙があった訳で、アスカばっかり責められないよ」
「そうよ。二人はもう仲直りしたんだもんねー、シンジぃ」
 アスカがシンジの腕に両腕を絡めてぴったり密着し、シンジの肩に頬を擦り付けた。それを見たレイコの拳がぶるぶる震えた。
「ア、 アスカぁ、今はまずいよ」
「いいもーん。ファーストに見せつけるんだもーん」
「離れなさいっ」
 レイコが怒りに満ちた声を発した。アスカの方はどこ吹く風とばかりにシンジに甘えかかる。シンジはと言えば狼狽するばかりだ。
「碇君。私に恥をかかせようと言うのね?」
 レイコの紅い瞳が、底知れぬ冷たさをもってシンジを射抜いた。ま、まずい。シンジはこのままでは何が起きるか分らないので、とにかく引き離そうと、アスカの腕を掴む。
「アスカ、今は話し合いの最中なんだから、我慢しようね」
 シンジはアスカをなだめすかして、どうにか体を離した。アスカは不満そうだが、今度はレイコをじっと睨み据えた。
「ふんっ。アタシ達の仲の良さは見ての通りよ。アンタが入る余地なんかないの」
「それはどうかしら。今はあなたが、たまたま隣に座っているからそうやってくっつけるだけのこと。私と二人きりになったら、それはもう凄いのよ」
「凄いってなによ。言っときますが、あなたがシンジと何をやっていようと関係ないわ。アタシは前しか見ないの。これからアタシ達の愛は深まっていくんだもんねー、シンジぃ」
 シンジには返事のしようがない。ははは、と曖昧に笑ってごまかすのが関の山だ。
「大体、アンタみたいな貧相な体でシンジの彼女になろうってのが、おこがましいのよ。シンジにはアタシみたいなナイスバディがふさわしいの」
「ふっ。体の良し悪しで優劣をつけようなんて、猿の発想だわ。肝心なのは、こころ。碇君を優しく包む愛の深さ。暴力を振るうなんて問題外」
「あーら、体の魅力のなさを、心で補わなきゃいけないなんて、可哀想だこと」
「あなたは、勘違いをしているわ。碇君は私の体をとっても気にいっているのよ」
 そう言ってレイコは冷ややかに微笑んで見せた。シンジは、レイコの発言の大胆さに、あせった。「綾波、そ、そんな事、今言わなくても」思わず、アスカの顔を見る。アスカの顔はみるみるうちに真っ赤になった。しかし、アスカは意外に冷静な反応を見せた。
「へえええ。アンタ達、そこまで行ったってわけぇ。そーですか、そーですか。別にいいわよう。減るもんじゃなし。ま、アンタもいい経験が出来て良かったじゃないの。でも、知ってるもんねー。アンタがまだ処女だってこと」
 レイコは痛いところを衝かれ、声が少し小さくなった。「なんでそんなことが分るの?」
「ヒカリに聞いたわ。この前は、アンタ、あの日だったんでしょ。まさか、どっちの血だか分らなくなった、なんてことないわよねー」
 レイコはぐっと唇を噛んだ。やはりばれていたのね。こんなことになるなら、あの日、しておくんだった。(レイナがだけど)それにしても、アスカ、早くコーヒー飲みなさいよ。しかし、アスカはアイスコーヒーを見向きもしなかった。今の反応、レイが処女だってことはもう決まりね。シンジの童貞はこのアタシのものよ。
 シンジにはもはや言うべき言葉もなかった。視線を窓の外へ向け、ひたすら嵐が通りすぎるのを待つ姿勢だ。
「碇君」レイコはそんなシンジに冷たく呼びかけた。「はい」と、シンジは仕方なく向き直った。
「結局、最後はあなたがだれを選ぶか、という事に行き着くのよ。私とアスカ、どちらを選ぶの?」
「そうよ、シンジ。早いとこ、アスカを選ぶって言いなさい」
 来た。いずれは来ると分っていた問いかけだ。しかし、シンジは答えを用意していなかった。いや、できなかった。二人の美女の視線が集中する。シンジにとっては針のような視線だ。
「ぼ、僕、ちょっとトイレ」
 いたたまれなくなったシンジは、立ち上がった。アスカも仕方なく立ち上がって、道を開けた。シンジは店の奥にあるトイレにそそくさと入り込む。
 やっと一人になったシンジは、朝顔に向かいながら、ふーっと深くため息をついた。勘弁してよう。そんなの答えられるわけないじゃないか。どっちも好きなんだから。一人を選んだら、残る一人が可哀想じゃないか。この際、二人共恋人になってほしいよ。…3Pできないかな。『シンジぃ、アタシに早く頂戴』『駄目よアスカ、私が先よ』『ううん、いけずう。じゃお口を使ってぇ』『ああ、いいわ、いいわ。いかりくぅぅん』…無理に決まってるよね。あーあ、どうしたらいいのかなぁ。…などとえんえん考え続けるが、結論はでない。いつまでもトイレに粘るわけにもいかず、仕方なくシンジは席へ戻る。
 席では、悪口の応酬の真最中だった。
「ペチャパイ」
「わがまま女」
「人形女」
「赤毛猿」
「冷血動物」
「プラナリア」
「サナダ虫」
「便所虫」
「ヒメマルカツオブシ虫」
「チャバネゴキブリ」
「言ったわね。すっとこどっこい」
「あら、生き物シリーズは終り?このへちゃむくれ」
 この低次元な争いにシンジが割って入った。
「あ、あの他のお客さんに迷惑だから、その辺でやめようよ」
 シンジが席に座ろうとする。アスカは座る位置をずらして、窓際に移動し、廊下側を開けた。そこへ、シンジが座る。
 シンジは、緊張のせいか喉がからからに渇いていた。座るなり、目の前にあるアイスコーヒーに手を伸ばし、ストローを咥えて、一気に飲み干した。
 あっと、レイコは声を上げた。「それ、アスカのよ…」
「あーっ、間違えちゃった」
「あら、アタシと間接キッスね。直接でもいいのにぃ」
 レイコは目の前が真っ暗になった。どうしよう。碇君が下剤飲んじゃった!シンジの顔を痛ましそうに見た。シンジはそれを、間接キッスをいやがったものと受け取った。
「はは、おっちょこちょいだね、僕って」
「そこがまた可愛いのよねー」
 アスカはシンジの頬を人差指でつついて、一人盛り上がる。レイコの方は思わぬ事故に、罪の意識で一杯だ。ごめんなさい、ごめんなさい、碇君。
 そこへレイナのテレパシーが来た。
(厄介なことになったわね。レイコ)
(碇君に大変なことしちゃった)
(それでね、レイコ、さらに悪いことがあるの)
(なによそれ?)
(あれって、2、3滴が適量でしょう?私、スポイト押すとき、思いっきり押しちゃったの)
(それじゃ、あの中には…)
(適量の5倍は入ったと思うわ)
(ああ、どうしよう!)
 シンジは、まだ異常を感じていない。とにかくこの場を収めようと口を開いた。
「僕は正直、レイもアスカも同じぐらい大事に思っているんだ。だから、どちらかを選べって言われても、簡単にはできないよ。それから、僕のことで二人に争ってほしくないんだ。さっきも言ったけど、僕らは共に闘ってきた仲間だろう?だから僕ら三人はいつまでも友達同士でいたいと願ってる。とにかく喧嘩はしないでほしい。僕が今言えるのはそれだけだね」
 アスカは、シンジの煮え切らない態度が不満だ。
「まったくもう。相変わらず優柔不断なんだから。いいこと。アンタにはどっちか一人でも大当たりなのよ。いつまでも宙ぶらりんはいや。よーく考えてさっさと選んでほしいわ」
 レイコは、うんうんと頷くだけだった。シンジは苦しげに考え、再び口を開いた。
「そうだなぁ、アスカは明るくて、活発で、美人で、いつも僕をリードしてくれて、とても素敵な人だよ。それから、綾波はおとなしいけど、綺麗で、とても優しくて、僕を包んでくれるみたいで、やっぱり素敵な人だ。……だから……」
 シンジの額に油汗が浮かんだ。ぐっと唇を噛み、真剣な表情をする。
「……そのう……なんて言うか……ちょっと失礼」
 シンジがへっぴり腰で立ち上がり、驚くアスカに目もくれず、一目散にトイレに走って行く。
「なによ、あれ?」
 アスカは目を丸くして、シンジの後姿を追う。レイコとしては、ここはとぼけるしかない。
「なんだか変ね。どうしたのかしら?」
 降って湧いたようなシンジの異変に驚いたレイコとアスカは、暫く黙ってシンジを待っていた。10分程してシンジが戻って来たが、その顔は青ざめ、やつれたように見える。
「大丈夫。碇君」
「一体どうしたの?」
「いや、なんでもない。なんでもないんだ。えーと、どこまで言ったかな。そうそう、アスカも綾波も僕には勿体無いぐらい素敵な女性で、だから僕は…って、また来た!」
 シンジはさっと立ち上がり、再びトイレに向かうが、何故か途中で立ち止まり、壁に手をついてそろそろと歩いて行く。
「絶対何かあったのよ!」アスカが心配そうに言った。
レイコも疑いを掛けられぬよう、不安そうにして見せる。「もしかして下痢にでもなったのかしら」
「シンジ、さっきの映画館でホットドッグを食べてたけど、まさか、それが…?」
 しばらくしてシンジが戻って来たが、それは通常のシンジではなかった。顔は蒼白で汗びっしょり、時々手がぶるぶると震えている。
「ごめん。アスカ、綾波。僕、下痢になったみたいだ。すまないけど、今日はもうこれで帰らせてくれないか?」
「大変!じゃ、タクシー呼ぶわね!」
 アスカはすぐさま携帯を取り出し、タクシー会社に繋ぐ。
「大丈夫。碇君」レイコはさっと立ち上がって、シンジの体を支える。その心の内はすまなさで一杯だ。
 ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。…………………

2.
 その日の夜。レイコとアスカは共にシンジのアパートにいた。二人は今、キッチンでおかゆを作っているところだ。もう一人、洞木ヒカリもこの場にいる。こういう時の差配はヒカリに限ると、二人の意見は一致し、こうして来てもらったのだ。シンジは、寝室で休んでいる。
「そろそろガスを停めていいわね。綾波さん、器を取って。はい、これで出来上がり」
 ヒカリによって、あつあつのおかゆが、丼に盛られ、湯気が立ち上がった。こういう時のヒカリは本当に様になっている。横には既に出来ていたコンソメスープの皿が置いてある。
「じゃ、アタシ持ってく!」
 アスカが、さっと手を伸ばして丼をお盆に乗せようとした。レイコもとっさに丼を掴んだ。
「いいえ、私が持って行くわ」
「何よ。いいから、アンタは休んでなさいよ」
「アスカの方こそ休んでいて。これは私の仕事よ」
 二人は、おかゆを挟んで睨み合った。
「一人だけ点数を稼ごうたって、そうはいかないわよ!」
「それは、あなたにも同じことがいえるわ」
「あ、あの、病人がいるんだから」
 また喧嘩が始まるかとおろおろしたヒカリだったが、このままでは、埒が開かないと見て提案した。
「そうだ!料理は二品あるんだから、一品ずつ持っていけばいいんじゃない?」
 なおもじっと睨み合う二人だったが、やがて仕方ないと見たか、お互い妥協した。
「まぁ、いいわ。じゃ、アタシがおかゆを持ってくから、アンタはスープにしなさい」
「それでいいわ」
 二人はそれぞれお盆に料理を乗せて、シンジの寝室へ入って行った。
「シンジ、おかゆが出来たわよ」
「スープも出来たわよ」
 シンジの寝室は和室だ。シンジは布団の中から、現れた二人の美女に視線を向けた。「いつもすまないねぇ」アスカとレイコがシンジの枕元に座り、シンジの体を抱き起こす。シンジはげっそりとやつれ果てていた。
「こんな時、かあさんがいてくれたらなぁ」
「「(碇君)(シンジ)それは言わない約束でしょ」」
 などと、どこかで聞いたような会話をしてから、シンジは食事を始めた。
「はい、シンジ。あーんして」アスカが蓮華におかゆを乗せて、ふーふーしてからシンジに差し出す。シンジはそれをぱくっと飲み込む。
「うん、おいしい。これ、アスカが作ったの」
「そうよ。ヒカリにちょっと手伝ってもらったけど、大部分アタシがやったの」
 レイコはむっとして、アスカを睨んだ。実際はヒカリが殆ど作って、アスカのしたことと言えば、とき卵を落としたことぐらいだ。
「スープを飲んで」レイコも負けじとスープをスプーンですくって、冷ましてからシンジの口に運ぶ。
「どう?碇君。私が作ったのよ」
 こちらは、本当だった。もっともインスタントだったが。
「こっちもおいしいよ。…綾波って、こうして見ると、お母さんみたいな感じがする」
「何を言うのよ」
 ぽっと頬を染めるレイコ。アスカは一瞬悔しそうにしたが、無理やり笑顔を作ってまたおかゆをすくう。「はい、今度はおかゆよ」シンジは満足そうにほおばる。
 おかゆ、スープ、おかゆ、スープ……、シンジは二人の美女にかしずかれ、交互に口に入れてもらう。これほど幸せな病人もそうはいるまい。
 もう一人の美女、ヒカリはリビングの食事用テーブルの所に一人座って、手持ち無沙汰にしている。あーあ、私って一体なんだろ。便利屋みたいねぇ。鈴原だったらいいのに。うんと優しくしてあげるの。『はい、鈴原いっぱい食べてね』『済まんなぁ、委員長。こんなにしてもろうて』『いいのよ。私達の仲じゃないの』『委員長……』『鈴原……』なんてね。…鈴原、今度はいつ来てくれるのかしら。…寂しいな。……
 少し経って、食事が終わったのか、アスカとレイコが盆と食器を手に寝室を出てきた。その後からパジャマ姿のシンジも現れた。
「あら、碇君。大丈夫?」ヒカリが心配そうにシンジに尋ねる。シンジは弱々しい笑みを浮かべて答えた。
「いや、大分落ち着いたみたいだからね。これから話の続きをしようと思ったんだ」
「別に今日でなくてもいいのよ、シンジ。寝てたほうがいいんじゃない?」
「平気だよ、アスカ。綾波も心配しないで。こういうことは早いほうがいいよ。二人共座ってくれないか。委員長も聞いてほしい」
 シンジはアームチェアに深々と腰掛け、アスカとレイコは良く片付いたリビングのじゅうたんに座った。二人は、シンジの口から、どちらを選ぶか聞かされるものと考え、緊張の面持ちでいる。シンジが口を開いた。
「僕は布団に横になりながら、ようく考えてみたんだ。僕達はこれからどうしたらいいかをね。そこで、僕は一つの答えに辿り着いたんだ」
 アスカとレイコは、共にごくりと唾を飲み込んだ。
「僕は……あああっ、また来た!」
 シンジは、急にお尻を押さえて立ち上がり、トイレに向かって駆け出した。アスカはのけぞり、レイコは床に手をついて頭を垂れた。
 しばらくして、トイレの水を流す音が聞こえ、シンジが出てきた。ひょろひょろと歩いてアームチェアに向かう。
「大丈夫、碇君。寝てた方がいいんじゃない?」
レイコが心配そうに声を掛ける。それに対してシンジは疲れた表情をしながらも、答えた。
「いや、いいんだ。これでしばらく落ち着くと思うから。まぁ、みんな聞いてよ。ええと、どこまでいったっけ。…一つの答えに辿り着いた、までだったね」
アスカとレイコは、真剣な表情でシンジの口元を見つめた。シンジは、アスカとレイコの顔を見回し、切り出した。
「僕の答えは、僕は二人共好きだってことなんだ。さっきも言ったけど、どちらかを捨てることは、今の僕にはできない」
「そんなのイヤ」
 アスカが悲痛な顔をして、シンジに語りかけた。
「アタシはいやよ。そんな中途半端なのなんて。アタシはシンジのすべてがほしいの。でなければ何もないほうがいい」
 レイコも同じく悲しそうに言った。
「私もいや。私以外を向いている碇君がいるなんて、想像するのもつらい」
 それらの答えはシンジの予想していたものだった。シンジは黙って、もう一度自分の考えをまとめる。ヒカリは食卓から固唾を飲んで、彼ら三人の様子を見守った。
「君達の考えはようく分った。もっともなことだよね。いつかは決着をつけなくちゃいけないと、僕も思うよ。だから、約束する。いつの日か、どちらかを選ぶと」
「それはいつ?いつまで待てばいいの?」
アスカが、身を乗り出して、迫った。その目には涙が浮かんでいた。
「私を選んで。碇君」
レイコは胸に手を当てて、じっとシンジを見つめた。同じく、目に涙を溜めていた。
「ごめん。綾波。アスカ。今はなんとも言えない。おとなしく待っていてほしい。お願いだから」
 シンジは二人に向かって深々と頭を下げた。アスカもレイコも、それを見て何も言えなくなった。やがて、レイコはひっそりと言った。
「分ったわ。でも信じてる。私を選んでくれるって」
「アタシも信じて待ってるわ」
 アスカが目の涙を拭って言った。そのまま三人の間に沈黙が流れた。ヒカリには声の掛け様がなく、ただ黙って見守るだけだった。
 シンジは身を起こし、再びレイコとアスカの顔を見回した。
「もう一つお願いがあるんだ。僕のことで二人、憎み合うのは止めてほしい。勿論喧嘩はしないこと。これが守れなかったら、多分僕はその人を嫌いになる」
「……分った」
「必ず守るわ」
「それから、僕がどちらかとデートすれば、きっと君達お互いに不満になるだろう。だから、デートは当分しないことにする」
「「そんなぁ…」」
「今度僕がデートに誘うのは、僕が選んだ人ってことにしたいんだ」
 アスカとレイコは、シンジの思わぬ宣言にがっかりしてしまった。
 …なんでこんなことになっちゃたのかしら。私達、後一歩の所まで行ったのに。あの日、あんなことしないで素直に抱かれていれば…
 …あーあ、うまくいかないもんねぇ。もう一押しだったのに。あそこで、殴ったりしてなきゃ今ごろは…。でも、後悔してても始まらないわ。どうにかしてシンジの心をアタシに引き付けなくちゃ!
「二人共分ってくれたね。僕もなるべく早く結論を出すように努力するよ。おとなしく待っていて」
「分ったわ、シンジ。アンタは必ずアタシの元に戻って来るわ!アタシ、それを信じてるから!」
「分ったわ、碇君。あなたはきっと私を選んでくれる。それを固く信じているわ」
「ありがとう。こんな僕のわがままを聞いてくれて。二人にはほんとに感謝……、と、と、と、また来たぁ!」
 シンジはがばっと立ち上がり、へこへことした腰つきでトイレに歩いて行き、せっかくのシリアスなシーンを台無しにするのであった。


(続く)

(第5回へ続く)



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