トリプルレイ2nd

第5回「慰安旅行は大パニック」

間部瀬博士

1.
「…股下電器2,234円。参上電気2,015円…」
 地下室の中にレイコの声が響く。赤木リツコ博士は、眼鏡をぐっと押し上げ、キーボードを叩いてコンピューターを操作すると、マイクを掴んだ。大きなガラス窓を通して隣室が透けて見える。その部屋にリツコの声が響いた。
「やったわ、レイコ。新記録。距離1,000メートルを超えたわ」
 中には、私服姿のレイコ、レイナが頭に何本ものコードが付いた機器を載せて、椅子に座っていた。二人は目を閉じ、何かに集中しているが、それが何かは部外者には皆目検討もつかない。リツコは幾多の線と色彩が乱舞するモニターをにらみながら、キーを叩き続ける。
「鼬製作所1,655円…無事通……円……シャーク…………わからない」
「レイナはどう?」
「わかりません」
 リツコは即座にもう一つのマイクを掴んだ。モニターの中で点滅する光点に目を向ける。
「そこで止まって、レイカ。現在位置直線距離で1,065メートル。最高記録だわ」
『はい、博士』レイカの声がスピーカーから響いた。レイカははるか離れた戸外にいるようである。
「では、レイカ。株価の欄はもういいから、今度は何でも好きな言葉を送ってみて。レイコとレイナは集中してね」
 レイコもレイナも目をつぶり、内心の声にじっと耳を傾ける。しばらくして二人同時にふっと笑みを浮かべた。
すかさずリツコが問い掛ける。「何か伝わった?それはどんな言葉?」
「「碇君大好き」」
 キーボードを目まぐるしく叩いていたリツコの指が止まった。モニターから顔を上げて、楽しそうにレイカに問い掛ける。
「レイカ、聞こえた?それで正解?」
『はい、博士』
 博士は、やれやれと肩をすくめて、クリップボードに何か書き付け、時計を見上げた。
「そろそろ時間だわ。戻っていいわよレイカ。三人共おつかれさま。お茶にしましょう」

 二人のレイとリツコは、揃って階段を上がって行く。突き当たりのドアを開けると、そこは豪華な一軒家のホールだった。ここは、赤木リツコの私邸。今までいたのは、地下室を改造した博士の私的実験室だ。彼らは食堂へと入って行く。すこし経ってレイカが戻り、午後のお茶会が始まった。
リツコは眼鏡をはずし、コーヒーを一口啜って、三人揃ったレイに言った。
「最近の記録の伸びはすごいわ。まったく驚いたものね、あなた達は」
 三人のレイが持つテレパシー能力の研究が、ここ数年リツコの主要な研究テーマになっている。レイが複数いることはネルフ内部でも、ごく少数しか知るもののない機密なので、リツコの自宅地下室を改造して研究所としているのだ。しかし、この研究成果が日の目を見る可能性は今のところ、ない。
「そうですか」
「特にうれしくはないです」
「今のままで十分だから」
 三人のレイは紅茶を飲みながら、口々に言う。三人はそれぞれ違った服を着ている。服装を違えないと、博士にも見分けがつかなくなるので、ここでは必ずそうするようにしている。
「最後は『碇君大好き』か。それで、どう?彼とはうまくいってる?」
 リツコはほのかに笑みを浮かべて、三人に訊いた。それに対して三人共一様に沈んだ顔になった。
「それが、思わぬ邪魔が入っているんです」
「アスカが、割り込んで来たんです」
「ミサトさんが後にいて、いろいろアドバイスしているようです」
「知ってるわ」
 リツコがすまし顔で答え、三人はいっせいに声を上げた。
「「「どうして知ってるんですか?」」」
「この前、加持君が私のオフィスに来てね、洗いざらいいろんなことを教えてくれたわ」

 二日前。ネルフ本部内にある研究室で、リツコが端末に向かって一人仕事をしているところへ、急に訪ねてきた者がいた。おなじみの加持だ。
「よお、リッちゃん。ちょっといいかな?」
 リツコが椅子を回転させて加持に向き直る。
「なぁに。仕事の話かしら?それとも私用?」
 加持は書類の山を一つどけて、椅子を一脚引っ張り出し、腰掛けた。
「思いっきり私用さ。迷惑?」
「あら、あなたならいつでも大歓迎よ」
「うれしいねぇ。実は、他でもない、おたくの三人娘のことで話があってね」
 現ネルフ監察部長加持リョウジは、役職柄、三人レイの秘密を知る数少ない者のうちの一人だった。
「レイのことね?」
「そう。あの娘達とシンジ君のことは、知ってるよな?」
「勿論。これでも一応母親代わりのつもりですからね」
「じゃあ、リツコママとしては心配でならないだろう?シンジ君は相変わらず綾波レイは一人と思っている。その秘密を彼もいつかは知ることになる。その時、シンジ君は、レイはどうなるか?気が気でないんじゃないのかい?」
 じっと聞いていたリツコは眼鏡をはずし、眉間を揉んだ。
「その事は考えているわ。どうしたら全てが丸く収まるのか。他の男にしなさい、と言っても聞く子達じゃないし。あなたにいい考えはない?」
 加持は意味ありげににやりと笑った。
「シンジ君が他の娘を好きになったら?」
「それはあの子達が可哀想よ。それこそ中学の頃からシンジ君のことを想い続けているんですもの。最近になってやっと事態が好転したのよ。この頃のあの子達ったら、本当に幸せそうで…。よく笑うようになって…。できればこのまま幸せにしてやりたいわね」
 リツコの表情が真剣なものになった。嘘の上に組み上げられたシンジとレイの関係。これをいかに正常なものへ持っていくかがリツコの悩みなのだ。
 加持の返答は意外なものだった。
「それが、そうなるかもしれないんだよ。お相手は赤毛のお転婆娘」
「アスカが?アスカとは終わったんじゃなかったの?」
「ところがね、それが復活するかもしれないのさ」
「あなた達監察部はそんな事まで調査しているの?」
「まさか。こないだミサトが俺を訪ねて来てね………」
 加持はこれまでの経緯を手短に語った。酩酊促進剤のことは、リツコに気づかれぬよう巧みに避けておいた。
「……と、いうわけでシンジ君、今はどっちつかずなんだよ。どう転ぶかは皆目分らん」
昔から加持の行動には裏が多い。リツコの心中に警戒心が芽生えた。
「何故それを、わざわざ私に言いに来たの?あなたはミサトの側なんでしょうに」
「俺はあいつに頼まれたことをしてやっただけさ。彼らのことはどうなってもかまわん。俺は中立な観客でいたいと思っている。これを教えたのはね、リッちゃん、このままじゃ不公平だと思ったからだ」
「不公平?」
「そうさ。アスカ・ミサトコンビはなかなか強力だぜ。シンジ君の心を簡単に振り出しまで戻させたんだからな。このままではアスカの勝利は見えているよ。俺としちゃ、この勝負、長く楽しみたいんだがね」
「私がレイの味方に付けと?」
「その通り。レイへの同情もないわけじゃないがね」
 リツコはつと立ち上がり、コーヒーサーバーの方へ向かった。加持に「飲む?」と訊いたが、彼は辞退したので、自分の分だけカップに注ぐ。席に戻って一口啜った。その時にはもう考えが決まっていた。
「分ったわ。私はできる限りあの子達の力になりましょう。そうやってミサトと勝負するのも面白いわ。どちらが勝つか、あなたの興味も増したでしょ?」
 加持は満足げにうなずいて立ち上がり、右手を差し出した。
「ありがとう。さすがはリッちゃんだ。頑張ってくれよ」
 リツコも右手を出してがっちりと握手した。
「こちらこそありがとう。良く教えてくれたわ」
 じゃ、俺は行くよと帰りかけた加持の背中にリツコは声を掛けた。
「この前、持って行った薬品、ちゃんと伝票を出しなさいよ。うまく処理してあげるから」
 加持はぴたっと立ち止まり、振り返ると、にやりと笑った。
「恩に着るよ」
 そして、さっと手を上げて部屋を出て行った。

「…と、いうわけよ。どう、私も仲間に入れてくれるかしら?」
 三人のレイは大いに喜んだ。
「勿論、大歓迎です」
「博士がついてくれたら百人力ね」
「これでアスカとミサトに対抗できるわ」
 リツコを参謀に迎えることで、アスカとのシンジ争奪戦も互角に戦えるに違いない。口々に語り合うレイ達に対し、リツコは手を上げて制した。
「私が協力する前に、一言言っておくことがあります」
「なんですか」
「もし、シンジ君がめでたくあなた達『綾波レイ』を選んだとして、問題はその後にあるわ。シンジ君とはどうやっていくつもりなの?」
 レイカが言った。「今まで通り、ローテーションを組んで接していくつもりです」
 レイナが続けた。「三人の経験は三人共通のものです。そのことに不満はありません」
「あなた達はそれでいいかもしれない。でも、シンジ君はどうかしら?」
 リツコは厳しい眼差しで三人を見回した。レイ達は黙りこくってしまった。
「シンジ君がもし結婚を申し込んだら?三人まとめてお嫁に行く?」
 短い沈黙を挟んで、レイコが言った。
「その時は碇君に事情を話して分ってもらいます。そして、三人で碇君を愛します」
「そんな不道徳なことは許しません!」
 リツコが決然と言い放った。レイ達は、びくっとして固まってしまった。
「三対一の結婚生活…男には夢のような生活かも知れないけど、私は反対です。どうせ三人一遍にベッドに入るつもりなんでしょうが、そんな性生活は歪んでいると、私は思います。第一シンジ君の体が持ちません」
 レイカが、真剣な面持ちで、リツコに反論した。
「私達は体は三つでも、一人の綾波レイです。だから、結局碇君と結婚するのは、一人なのです」
「詭弁だわ。いいこと。もしそんな結婚をしたら、シンジ君もこの不自然な生活様式に引きずり込むことになるのよ。そのことをあなた達、考えてみた?」
 確かにそれは見過ごせない問題だった。シンジはその特異な生活に耐えられるだろうか。三人はうなだれて考えこんでしまった。思考は、どこまで行っても出口のない袋小路に迷い込んでしまう。
 リツコは、答えの出ない三人のレイを見渡して言った。
「ま、いいわ。結局、シンジ君がどうするか決めていない今の段階では、悩んでも仕方がないわ。今はどうやってシンジ君をあなた達に引き付けるか、そのことを考えましょう。この問題はあなた達の宿題、ということにします」
 こうしてリツコは議論を締め括った。レイカ、レイコ、レイナはお互いを見て頷きあった。

2.
「ふうん。デート休止宣言かぁ。シンジ君も思い切ったことをするわねぇ」
 ミサトがいかにもがっかり、といった口調で、アスカに言った。ここはミサトのマンション。 長期出張していたミサトがようやく戻り、二人は久しぶりにリビングに向かい合って座っている。アスカはやや憂鬱そうな顔をしている。
「ほんとにねぇ。バカシンジのくせにアタシを選ばないなんて、どういう了見かしら」
「レイにもいいところ沢山あるからねぇ。ま、あたしがシンジ君でも迷うわ。はっはっは」
 ミサトの大笑いに対して、アスカは笑い事じゃないわよとミサトを軽く睨む。
「ミサトぉ。真剣に考えてよぉ。デートできないんじゃ、ただ待ってるだけじゃない。そんなのイヤよ」
「大学でシンジ君に接する機会はあるでしょ。その時にアピールしたら?」
「勿論してるわ。ただし、レイと一緒にね」
 アスカは学内外での活動を語り始めた。
 朝、シンジが出掛けるころを見計らってアスカはシンジのアパートへ行く。すると、大抵そこにはレイが既に来ているのだ。しばし二人は睨み合う。シンジが出て来ると途端に二人は笑顔になり、「碇君、おはよう」「おはよう、シンジ」と挨拶する。「おはよう、二人共」とシンジは引きつった笑みを浮かべて挨拶を返す。
 シンジは二人の美女に挟まれて、大学までの道を歩く。ここでは口数の多いアスカが優位に立つ。だがシンジはレイを意識してか、「ああ」とか「うん」とか短い返事を返すことが多く、会話は弾まない。
 昼、シンジはこのところ学食のメニューを食べていない。勿論、二人の美女が提供する弁当を食べているのだ。アスカとレイが見守る中、シンジは黙々と双方の弁当に箸をつける。食べさせてもらうのは恥ずかしいので、どうにか止めてもらった。ここでもアスカが優位に立っていた。レイも料理の腕はかなり上達したのだが、アスカには秘密工作員洞木ヒカリが付いている。毎日ヒカリが作った極上の弁当をこっそりと受け取って、自分が作ったことにして食べさせているのだ。
 夕方、大学から帰るときも三人一緒のことが殆どだ。双方に気を使いつつ弾まない会話を交わし、アパートに辿り着いたシンジは、大抵すっかり疲れ果てているのだった。

「こんなんじゃ、なかなか差がつかないわ。ねぇ、参謀。何かいい考えはない?」
 アスカは縋るような目でミサトを見た。
「そうねぇ。デート休止ってことは、デートじゃなしに彼と一緒になればいいってことよ。そんな機会を作れば…」
 ミサトは思案に沈んだ。しばしの沈黙の後、にやりと笑った。
「あるわよ」
「えっ。なに何?」
「今度の慰安旅行よ」
「慰安旅行?」
「そう。軽井沢にね、うちの保養所があるんだけど、今度うちの有志で一泊旅行に行くわ。それにシンジ君を参加させるの。そこであなたが彼とうまく一夜を過ごせれば…」
 アスカが勢い込んで叫んだ。
「シンジは、アタシの虜になるってわけね!」
「そうよ。いい、この際なりふり構っていちゃだめよ。シンジ君の寝室に先に忍び込み、彼が来たところにしなだれかかれば、シンジ君の理性なんか吹き飛んじゃうから」
 アスカは立ち上がって力強く宣言した。
「そうよ。レイに勝つには手段を選んではいられないわ!アタシなんだってやってやるわよ!」
「その意気よ。それで、これはあたしの希望なんだけど」
「なに?希望って?」
「仮にうまくいったとしてよ。いよいよアレをするって時、あなたには生でしてほしいの」
「生ですって?」
 アスカは怪訝な表情を浮かべた。生ってことは、妊娠する可能性もあるってことじゃ…。 「その日が安全日ならいいけど。ま、そうでなくても対策はあるわ。勿論、あなたがすぐに母親になりたいんなら別に構わないけどね」
 アスカはさすがに困った。シンジとできるならこれほどの幸せはない。ただし、即妊娠となると踏み切り難い。まだ彼女は学生の身なのだ。すぐに母親になりたいとは思わない。
「アタシ、シンジの子供なら産んでもいいかな、とは思うけど、すぐに母親ってのはどうも…」
「それはまかすわ。あたしが言いたいのはね、生ですれば、『責任取って作戦』が使えるってことよ」
「何よそれ?」
「簡単よ。できちゃったことにすれば、あなたの勝利は確実になるってこと」
「そっかぁー!」

『シンジ、話があるの』
『どうしたの?アスカ』
『アタシね、もう二週間もアレが遅れてるの』
『えっ……』
『できちゃったみたい…』
『…………』
『アタシ、勿論産むわ。だって、シンジの赤ちゃんだもの』
『…………』
『責任取ってくれるわよね?』
『ももも勿論だよアスカぁ。はは、ははは。けけ結婚しよう!』
『うれしい。シンジぃ』抱きっ。
『アスカ、アスカぁ』ぶちゅうううう。

「でもさ、それもいずればれちゃうわよ?」
「なぁに。適当なとこで『アレ来ちゃった。遅れてただけみたい』とか『想像妊娠だったみたい』とか言えばいいのよ」
「それもそうね!」
 アスカとミサトはからからと朗らかに笑い合った。



『なぁに。適当なとこで『アレ来ちゃった。遅れてただけみたい』とか『想像妊娠だったみたい』とか言えばいいのよ』
『それもそうね!』………
 ヘッドホンを通してアスカとミサトの会話が、レイナの耳を打った。ここはミサトのマンションから、一町ほど離れたビルの屋上。レイナはサングラスに黒髪のショートカット、皮ジャンにジーンズ姿で細長い拳銃のような高性能マイクをミサトのマンションに向けている。それは、ガラス窓の振動を捉えて聞き取る高性能盗聴器だ。リツコに貸し与えられた戦略ツールだった。レイナはきっとした表情になってひとりごちた。
「これは大変なことになって来たわ。私達も対策を練らなくては」

3.
 それから一週間ほどして。一台のバスが山道を登って行く。そのバスのフロントガラスには『ネルフ御一行様』と書かれた札が貼られている。バスの最後尾の席に座っているのは碇シンジ、その両隣にはレイとアスカがしっかり脇を固めていた。
「はい、シンジ。あーんして」
 アスカがチョコボールを一つ摘んでシンジの口に入れた。シンジは嬉しそうにそれを齧る。
「碇君。はい」
 負けじとレイがキャンディを差し出し、シンジは律儀にそれを口にする。二人の食べ物攻勢に、最近のシンジは少々太りぎみだった。
 三人の前面にはずらりとネルフの職員が座っている。冬月現司令を始め、三人のオペレーター等、おなじみのメンバーが勢揃いしていた。冬月はさすがに年の功、泰然として『将棋世界』を眺めていたが、未だ独身を貫く日向マコトにとっては目の毒だ。
シンジ君、なんてうらやましいんだ。おれも一度でいいから、あんな経験してみたいよ。でもおれって結構顔もスタイルもいいのに、なんで女運がないんだろう。……
 マコトは隣に座る青葉シゲルに、同じ独身者としての共感を求める。
「なぁ、シゲル。ああも公然といちゃいちゃされちゃ、たまったもんじゃないよな」
「そうだなぁ」
 シゲルは苦笑いを浮かべて答えたが、内心別の思いがあった。マコトめ、うらやましいんだな。すまん。誰も気づいていないが、おれはお前とは違うんだ。……

 ところで、シンジ達の身分は一体どうなっているのだろうか。
彼らは、今だにネルフの職員だった。エヴァンゲリオンの操縦は加齢とともに出来なくなっていたが、最重要機密を山ほど知っている元チルドレンを野に放つわけにはいかなかった。秘密を知るものは組織内に取り込め、という訳だ。そうして与えられた肩書きが『アドバイザリー・スタッフ』。仕事といっても月に一度ほどネルフに出向いて専門的な話をするだけ。これで口止め料もとい給料を貰っているのだから優雅なものである。
ちなみに現ネルフの役割は、国連直属の紛争抑止力というもの。核をも超える兵器として、エヴァンゲリオンは恐怖の的なのである。そのために時折やる示威行動が現ネルフの主な業務なのだ。

 葛城ミサトはバスの中ほどから、いまいましげに最後尾の三人を見ていた。ちっ。レイちゃん、去年までは一回も来なかったのに、なんで今年に限って出て来んのよ。おかげでこっちの予定がくるっちゃうじゃないのさ。
 ミサトは、5日前のリツコのことを思い返した。
             :
『ミサト。今年の慰安旅行、私とレイも行くから』
『えぇー、急に何言い出すのよ』
『いいじゃない。突然行きたくなったの。うちの保養所なんだから、まだ間に合うでしょ?』
『そりゃ、そうだけど…』
『なら、いいでしょ。それとも、私達が行って何か困ることでもあるの?』
『え、い、いや、ないない。そうかぁ。リツコにレイちゃんも来るなら賑やかでいいわぁ。あはははは』

 リツコめ、これには絶対裏があるわ。レイの味方になったって訳ね。いいわ。あなたのお手並みとっくりと拝見しようじゃないの。ミサトは不敵な笑みを浮かべ、前列にいるリツコの金髪を見つめた。

4.
 バスは午後1時近く軽井沢にあるネルフ保養所「楓荘」に到着した。ちょっとしたホテルのような佇まいだ。バスを降りたシンジ達は目前に拡がる浅間山の雄大な山容に歓声を上げ、高原の涼しく、さわやかな空気を肺一杯に吸い込む。天気も良く、絶好の行楽日和だ。
 それぞれに割り当てられた部屋の鍵を受け取って、荷物を運ぼうとするシンジの前に、アスカが早速誘いに来た。
「シンジぃ。後でテニスやろうよぉ」
「テニスかい?下手なんだけどなぁ」
「いいから、いいから。アタシが教えてやるって」
 シンジはアスカに押し切られてテニスの約束をする。そこへ、この日の綾波レイ、レイカが立ちはだかった。
「碇君、テニスするのね。私もやるわ」
「むっ、ファーストぉ。アンタ、テニスなんかできんの?」
「大丈夫。碇君が教えてくれるもの」
 そう言ってレイは、微笑みを浮かべてシンジの顔を覗きこむ。シンジの顔がでれっと崩れた。
「うん。綾波もやろうよ。みんなでした方が楽しいよ。ね?」と言って、アスカの顔色を伺う。
 コノヤロー、あくまで張り合おうっていうのね。いいわ。コテンパンにしてやるから見てらっしゃい。
「分ったわ。じゃ、勝負しようじゃないの。アタシに負けてみじめに泣くがいいわ!」
「あら、私は初心者。まず碇君に教えてもらわないと勝負にならないわ。そうよね?碇君」
 レイカは思い描いた。『良くわからないわ。後に回って手首を掴んでやってみて』『ううん、しょうがないなぁ』碇君は私の背中に回ってぴったり、密着するのよ。碇君の体温が直に私に伝わって来て、頬と頬が接近して、碇君の吐く息が私の項に……
 勝手に頬を赤く染めるレイカを見て、アスカは即座にその意図を見抜いた。
「アンタ、そうやってシンジといちゃつこうってんでしょうが、そうはいかないわよ。そうだ。アタシの方がうまいんだから、アタシがアンタに教えてやるわよ」
「いらないわ」と、レイカは冷たく返した。
 アスカとレイは立ったままじっと睨みあった。またも始まりそうな女同士の争いにへきえきとしていたシンジだったが、そこへ救いの主が現れた。
「あなた達、そこに突っ立っていられると迷惑なんだけど」
 赤木リツコだった。アスカとレイカは互いにそっぽを向いた。
「アスカ。ここは、時間を半分ずつにしたら。シンジ君は前半はレイと、後半はアスカとテニスをする。シンジ君はどう思う?」
「あ、僕もそれがいいかと」
「そうよん、アスカ、シンジ君は一人きりなんだからさ、半分にすることはできないわ。ま、ここは妥協することね」
 後から口を挟んで来たのはミサトだった。アスカはまだ口をとんがらせている。
「じゃ、前半誰がアタシの相手をすんのよ」
「私じゃどう?これでも学生時代は選手だったのよ」
 リツコが静かに言った。アスカには不満だったが、ここはしぶしぶ従うことにする。
「ま、いいわ。博士の実力見せてもらおうじゃないの!」
「あのぅ、先輩。私も仲間に入れてもらえますか?」
リツコの腰巾着伊吹マヤが、目を輝かせて割り込んできた。
「あら、マヤちゃん。あなたゴルフには行かないの?」
「私、まだゴルフは下手だから…、先輩と一度テニスをしてみたかったんですぅ」

 一同はそれぞれの部屋へ荷物を置いて、ゴルフ組とテニス組に分かれて出かけていった。楓荘のロビーは閑散となったが、そこへ、ジーンズを穿いた若いポニーテールの娘が、ビールの箱を重そうに運んで来た。
「あ、鈴谷さん。それは地下室に運んでおいてね」
 この保養所の初老の管理人が娘に指図を出し、鈴谷と呼ばれた娘は「はい」と返事をして、ふうふう言いながら地下へ降りる階段を下って行く。
 階段を下りきってやや歩くと地下室のドアがある。娘がドアを開けて部屋に入ると、奥から呼びかける声があった。
「レイナ、ごくろうさまね」
「ひー、レイコ。重いのよ、これ。早く手伝ってよ!」

 臨時アルバイトの鈴谷として、二日前からレイナはこの宿にいる。この採用については、当然リツコが裏で関与していた。レイコは今朝早くレイナの手引きでここに潜入している。裸電球に照らされた室内には大型冷蔵庫があり、壁一杯に作りつけられた棚には工具類など雑多な物が置かれ、傍らにはいくつもの段ボール箱が積み上げられている。レイコはその中にパイプ椅子を置いて腰掛けていた。
「あなたはいいわね。ここでのんびり本でも読んでいられて、夜は夜で碇君といいことできるんだから」
「そうでもないわ。こんな狭いところでじっとしてるなんて退屈」
 三人の役回りはこうだ。レイカが表向きの綾波レイを担当し、アスカやミサトの視線を引き付け、レイナは変装して裏工作を担い、レイコがシンジのふところに飛び込む。完璧な布陣だ。
「それで、合鍵の準備はできたの?」と、レイコが訊いた。
「間に合ったわよ。ほら」
 レイナはポケットから一本の鍵を取り出して見せた。
「マスターキーの複製よ。これでどの部屋でも出入り自由というわけ」
「これで完璧ね!後は夜を待つだけ」
「頑張って、レイコ。何とかしてアスカを出し抜くのよ!」

5.
 午後7時になった。ゴルフとテニスで発散したネルフ一同は、大浴場で温泉に浸かり、今は皆浴衣に着替えて宴会場に勢揃いしている。和室の畳の上に座った50人ほどのネルフ職員の前にはずらりと酒肴が並べられているが、一同冬月司令の挨拶に内心早く終われよと思いながらじっと聞き入っている。
「……と、言うわけで、本日は日頃の憂さを忘れて多いに飲み、語り、明後日からの職務を元気に遂行できるようリフレッシュしていって頂きたい。簡単ですが挨拶とさせて頂きます」
 冬月の長広舌がようやく終り、続いて乾杯となって、やっと会場は活気づく。
 シンジは会場の端の方にいたが、その両隣は例によってアスカとレイが占めている。湯上りの火照った体を浴衣で包んだアスカとレイの姿は艶めかしい。その両手に花状態のシンジを見ないようにしている独身男が数多く混じっていた。中には、けっ、とばかりに憎らしげに睨むものもいる。
 シンジがコップに入ったビールを飲み干すと、たちまちアスカとレイの腕がビール瓶に伸びる。
「「はい(シンジ)(碇君)」」
「あら、綾波さん。アタシが注ぐからよろしくってよ」
「いいえ、惣流さん。気を使わないで結構よ。私が碇君に注ぐから」
 二人共ここでは周囲の目を気にして、猫をかぶっている。
「そ、それじゃさ、半分ずつ注いでよ。ね」
 シンジは苦笑いしながら彼女達に気を使う。うれしいのやら、迷惑なのやら。
 それやこれやで宴も半ばとなった時、アスカが立ち上がった。
「シンジ。ちょっと失礼」
 アスカが宴会場を出て行く。それを、丁度ビールを運んで来た、アルバイト嬢鈴谷ことレイナが見咎めた。まさかこんな早くから動くつもりじゃないでしょうね。万一ということもある。レイナはすぐさま後を尾けた。
 アスカは廊下を歩いて、まっすぐ女子トイレに入って行った。レイナは柱の陰からそれを見張った。どうやらただのトイレタイムみたいね。しばらくしてアスカがそこを出て宴会場へ帰り始め、レイナが安心しかけた時、アスカは通りがかったこの日の幹事日向マコトと行き会った。
「あ、悪い、アスカ君。これからビンゴゲームをやるんだ。ちょっと荷物を運ぶのを手伝ってくれないか」
「いいわよ。どこに置いてあんの?」
「階段を下りて行ったところにある地下室だよ。すぐそこさ」
 二人は早速階段に向かう。一方、レイナは青くなった。地下室にはレイコがいるじゃない!

6.
(レイコ!大変!アスカがそっちに行くわよ!)
(なんですってぇ!)
 レイコはあせった。悪いことに鬘もコンタクトもはずして寛いでいたのだ。ここを出るにしても変装は欠かせない。レイコは変装道具を入れたバッグに走り、中から、コンタクト、鬘に眼鏡をつかみ出す。
 あわてて上を向いてコンタクトを瞳に落とす。が、あせったせいか瞳からずれてしまい、もう一度やり直す。そうする間にもアスカ達が近づいて来る。二人分の足音がレイコの耳にも届いて来た。――

 アスカが地下室のドアを開けるのと、レイコが黒いショートカットの鬘をかぶるのとは、ほぼ同時だった。
「あれ、君、誰?」マコトが怪訝そうに訊ねた。
「あ、私、臨時のアルバイトです。今、ここで休んでいたところです。何か用ですか?」
「ふうん。そこの荷物を取りに来たんだ。アスカ君。それ持ってくれない?僕はこっちを持つから」
 アスカとマコトはそれぞれ段ボール箱を取った。アスカはレイコに背を向け立ち去ろうとする。レイコがほっとしかけたその時、アスカは立ち止まった。「ん?」
 アスカは荷物を持ったままゆっくりと振り返り、レイコの顔をしげしげと見つめた。
「あなた、桑原ユウコさんよね?」
 レイコは凍りついた。失敗した。今の変装はあの日の桑原ユウコと同じだったのだ。
「へぇ、アスカ君の知り合いかい?」
 何も知らないマコトがのんびりと訊いた。アスカはにやりと笑った。
「そうみたい。日向さん。悪いけど、アタシ、この人と話があるの。この荷物持って行ってくれない?」
レイコが叫んだ。「人違いです!」
「ああ言ってるけど?」
「それはこれから話を聞いて確かめるわ。お願い、早く行って」
 アスカは自分が持っていた段ボール箱をマコトの持つそれの上に置いた。マコトはしぶしぶ重そうにしながら、部屋を出て行った。
 アスカとレイコは地下の一室に二人だけで対峙した。
「桑原さん?桑原さんでしょ?アタシ、はっきり覚えているんだから」
「いいえ、私はそんな名前じゃありません。人違いです」
アスカは血相変えて叫んだ。「ごまかそうったって駄目よ!」 「ぜーったいアタシの記憶に間違いはないわ。アンタは桑原ユウコよ。何故ごまかそうとするの?なんでこんな所にいるの?」
 レイコはごくりと唾を飲み込んだ。この局面をどう打開するのか。数刻、唇を噛んでレイコは沈黙した。やがてふっと息を吐いて口を開いた。
「わかりました。私はあの日の桑原ユウコです。ですが本名は別にあります」
「何それ?どういうこと?」
「私はネルフ保安部諜報課所属のエージェントです。コードネームはダリア。これ以上は明かすことはできません」
「エージェントぉ?」
「そうです。任務は綾波レイの身辺警護。一日6時間以上は彼女の傍に、密かについているのです」
 アスカは開いた口がふさがらなかった。あまりにも意外な真相ではないか。
「だから、彼女と親しいのは事実です。この前も急にあんなことを頼まれて、つい引き受けてしまいました。ごめんなさい」
 レイコは深々と頭を下げた。アスカの頭は混乱しきっている。
「いやまぁ、それはいいんだけど、なんで今さら身辺警護なんかいるのよ?」
「ある筋から、綾波レイの身柄を狙う者がいるとの情報が入ったのです。それ以来、私達諜報課は警戒態勢を取っているのです」
「へぇー」
 アスカには聞いたこともない話だった。あまりにも出来すぎではないのか。
「なーんか信じられないわねぇ。大体保安部ったら黒服の男ばっかりだったし。アンタみたいな若い女性のエージェントなんて見たことないわよ。何か身分証明書はないの?」
「それは…、今は持っていません」
「ますます怪しいわねぇ」
 アスカは近寄ってじろじろとレイコを眺めた。レイコの額に汗が浮かんだ。早く来て、レイカ!
 その時、地下室に近づく足音が聞こえて来た。そしてドアを開く音。
「ダリアさん。これ差入れ……。アスカ、ここで何してるの?」
 浴衣姿のレイカだった。レイカはきょとんとしてアスカを見つめる。アスカも意外な人物の登場に驚いた。
「ファーストこそ何しにきたのよ」
「私はこの……人に差入れしてあげようと思って」
 レイカは手に様々な料理を乗せた皿を持っていた。レイコが声をかけた。
「ありがとう、レイちゃん。気を使ってもらって。それでね、ばれちゃった。この間のこと。私のことも」
「あ、そうなの?」
「そ、悪いところで会っちゃった」
 レイカはアスカに向かって頭を下げた。
「アスカ、ごめんなさい。この前はあなたを騙したりして。ダリアさん、あの日も私のガードに付いててくれていたの。で、アスカがあんまり怖い顔して待ち構えていたから、ダリアさんに頼もうってことにしたの。でもダリアさんを責めないで。私が無理言って聞いてもらっただけだから」
「ふぅん」
 レイはこの人のコードネームを知ってた…。て、ことはこの人の言ってることは本当なのかな。アスカの桑原ユウコに対する疑念は、レイが裏付けをしたことで消えていった。
「それとね、これは碇君も知らないことなの。あの日は碇君にトイレに隠れていてもらって、私とダリアさんだけで相談して決めたの。ダリアさんのことは碇君にも秘密のことだから。でね、アスカ。このこと碇君には絶対言わないで。機密を知る者は一人でも少ないほうがいいから」
「あー、分った、分った。ほんとにいいかげんにすんのよ!」
アスカは胸を反らし、手を振って出て行こうとする。レイコはそのアスカを追いかけて言った。
「このことはくれぐれも秘密に。決して他言しないで下さい。事は機密に属するのです」
「はいはい、分りました」
 アスカはもううんざりといった様子で地下室を出て行った。後に残された二人のレイは大きくため息をつくと、にこやかに笑い、抱き合った。この事態を打開するのに、二人の間を飛び交ったテレパシーが役立ったのは言うまでもない。

7.
「あーら、最上さん、元気だったぁ」
 ミサトは、管理人室の中に入り初老の管理人、最上に声をかけた。彼は1年前ネルフを定年退職し、ここの管理人として再就職した男だ。だから、ミサトとは気心知れた間柄だったのだ。
「おぉ、葛城さん。おかげさまで元気にやっとりますよ。毎日のんびりとしたもんです」
「うらやましいわねぇ。ちょっち座っていい?」
「どうぞ、どうぞ。狭いところですが」
 最上とミサトは事務机の前に向かい合って座った。ミサトはちらと横の壁に目を走らせた。そこには十数本の鍵がずらりと並んでいる。 「どうしたんです?急に。宴会の方はいいんですか?」
「ちょっち飲みすぎちゃってね。風に当りに出てきたの。そしたら最上さんの顔が見えたから、寄ってみたってわけ」
「へー。葛城さん、あんなに酒強かったじゃないですか」 「あたしも歳とったしねぇ」
 そこへ、向かい側の壁に掛かった電話が鳴った。最上は腰を上げて電話に出る。「はい管理人室」その瞬間、ミサトの手が飛鳥のように走った。一瞬後、ミサトの浴衣の袖に一本の鍵が吸い込まれた。

「…そうですか。分りました。どうもすいませーん」
『いえ、どういたしまして』
電話が切れ、最上の声はそれで終わった。アスカも電話を置いた。アスカが今いるのは、管理人からは死角になる廊下の隅。ミサトとの打ち合わせ通りに電話したわ。ミサト、うまくやってくれたかしら。

「えー宴も酣ではございますが、お時間も参りましたので、この場はこれにて〆(しめ)とさせていただきます。では最後の乾杯の音頭を加持監察部長にお願いします」
 マコトの声が響いた。加持はえーおれかよとぼやきながら、頭を掻いて立ち上がった。
「あーみんな、座ってて、座ってて。おれはもともとこういうのは得意じゃないんで、短めにやらせてもらうことにするよ。それじゃ、よいお年を」
 加持はコップを持った腕を前に突きだしたが、その場にいた一同、全員固まっていた。冷ややかな風が宴会場を吹き亘った。
「あ、やっぱりはずしたようだな。ははは。じゃ、普通に。乾杯!」
 乾杯。拍手。型通り宴会は終わった。全員立ち上がりぞろぞろと部屋を出て行く。シンジにアスカ、レイが行こうとするのをミサトが呼び止めた。
「シンちゃん。アスカ。レイちゃん。二次会はカラオケやろっ。楽しいわよぅ」
「そうだね。綾波、アスカも行こうよ」
 ミサトにとってはここが正念場だった。レイがここでどうするかで今後の動きが大きく変わってくる。
「うん。碇君、一緒に歌お」
 よっしゃあ。
「アタシ、いいわ…」
 意外なことにアスカが乗ってこない。シンジは不思議そうに顔を覗き込む。アスカは頭に手をやって顔を顰めていた。
「どうしたの、アスカ。体調でも悪いの?」
「ちょっと頭がね…。飲みすぎちゃったかな。大丈夫。部屋に戻って少し寝れば治ると思う。シンジはアタシに構わず楽しんでて」
「そうなの?薬でも貰って来ようか?」
 優しいのね、シンジ。「ううん。軽いものよ。あまり大げさにしないで」
「それじゃ、あたしとシンちゃんとレイちゃんで行こう。アスカも後で、良かったら合流しなさい」
 ミサトがシンジとレイの肩に手を置いて促した。廊下に出た三人は娯楽室の方へ去って行く。一人残ったアスカはつらそうにしていた顔を決意に満ちた表情に変えた。いよいよこれからよ。今夜こそシンジと結ばれてやるわ!

 アスカはシンジの今夜の部屋、311号室へ向かった。そこは最近増築された3階建ての新館で、現在いる本館とは渡り廊下でつながっている。一つの階に4室ずつ、計12室ある。全て一人用の部屋だ。途中、アルバイト嬢の鈴谷とすれ違ったが、アスカは気にも止めなかった。
 新館に入った。目指す311号室は廊下の一番奥にある。アスカは先刻密かにミサトから渡されたマスターキーを、懐の中でぎゅっと握り締めた。部屋の前に立った。念のため辺りを見回してから、キーを慎重に鍵穴に差込み、回した。錠は当然のようにはずれた。アスカは一つ深呼吸して、後刻シンジと愛の時を過ごすはずの部屋に忍び入った。

 アルバイト嬢鈴谷ことレイナは、柱の陰からそれをじっと見守っていた。
 嵌ったわね、アスカ。レイナは足音を忍ばせて、今アスカが入った部屋の前に立つと、ドアに付いた311と書かれたプレートに手を掛けた。と、それはやすやすと外れてしまったではないか。同じように4室全てのプレートをはずし、一番手前の部屋にさっきはずした311のプレートを嵌め込む。隣には312という具合に、すべてのドアのプレートを付け替える。つまり、アスカが入ったのは本来の311号室ではなくて、315号室(314は欠番)なのだ。アスカが来る直前、レイナはすべてのプレートを入れ替えておき、まんまとアスカを315号室に誘導した。その後それらを元の位置に戻しているのだ。昨日、仕事の合間に施しておいた下工作が今実った。

 作業を終えたレイナはすぐさまレイコの待つ地下室へ向かった。
(うまくいったわよ、レイコ。今そっちに行くから!)
(やったわね。えらいわ、レイナ)
 地下室のドアを開けると、そこにはもう一人のアルバイト嬢鈴谷がいた。勿論変装したレイコである。手間だが、地下室から311号室まで行く間、怪しまれないようにするためである。
「頑張って、レイコ。後はあなたに掛かっているわ」
「うん。レイナごめんね。私だけがいい思いをして。でもその分、頑張るから!」
 レイコはレイナに近づき、ぎゅっと抱き締めた。全く同じ姿の二人が一つに重なった。そしてレイコは、変装道具や当館の浴衣などが入ったバッグを掴み、早足で部屋を出て行った。

 レイコは311号室の前に立ち、先に手渡されたキーを使ってシンジの部屋へ入り込んだ。中は当然暗い。一瞬、蛍光灯を点けようかと思ったが、止めて豆電球だけにした。どこに目があるか分らないからだ。レイコは薄暗がりの中で鬘に眼鏡を取り、浴衣に着替えた。
目の前に一人用のベッドがある。そっとなでてみる。横たわってみた。心臓がどきどきした。

 早く来て。碇君。

8.
「……ぅおんなぁのぅおおおおぉ、ひぃとりぃたぁびぃいいいいぃぃぃ♪」
 ミサトのド演歌がカラオケルームにこだまする。小指を立ててマイクを握ったミサトが振りをつけてフィニッシュすると、シンジとレイカは一生懸命手を叩いた。
「ミサトさんの演歌は凄くいいなぁ」
「上手だわ」
「ふー。あんがと。いやぁ、やっぱりカラオケはいいわぁ。ストレス発散はこれに限るわね。レイちゃんもそう思わない?」
「そうですね。なんとなく分ります」
「そーか、そーか。良かった、良かった」
 ミサトはちらっと腕時計を見た。既に10時を過ぎている。そろそろ潮時ね。アスカが待ちくたびれる頃だわ。ミサトは大きくあくびをした。
「…ふわぁ。あたし眠くなって来たわ。そろそろ引き揚げて寝るわ。あんた達まだやる?」
「えーっ、まだ早いじゃないですかぁ」
 シンジの方はまだまだやる気まんまんである。
「ちょっち、このところ徹夜続きだったからねぇ。眠くってしょうがないのよ。レイちゃんは?」
「私ももう眠くなってきました。碇君ももう寝たら?」
 レイカの方にもこの場を早く終わらせたい事情がある。勿論、レイコの事だ。
「そう、二人共寝るっていうんならしょうがないですね。アスカも来ないし。じゃ、寝るとしますか」
 名残惜しそうにシンジは腰を上げた。すかさずレイカはレイコへテレパシーを飛ばした。
(レイコ、もうすぐ碇君が行くわよ!)

 レイコはベッドから起き上がって、豆電球を消し、クローゼットを開けた。内部は人一人十分入れるスペースがある。中に入ったレイコは内側からドアを閉めた。うふふ。碇君、びっくりするわよ。

「そうだ。私、急がなくちゃ!」
「どうしたの、綾波?」
「友達に電話して、今日の連続ドラマ、録画しておいてもらうの。もうすぐ始まっちゃうわ!」
 レイカはぱたぱたと音を立てて、廊下を走って行き、見えなくなった。シンジは呑気にそれを見守った。レイカは走りながら思う。これでいいわ。ここで離れておかないと先にレイが部屋にいるの、変に思われるものね。
「じゃあね、シンジ君。おやすみ」
 ミサトが廊下の曲がり角で、シンジに言った。彼女の部屋はこの先の方だ。さぁ、行きなさい、シンジ君。そしてアスカにたーっぷり優しくしてもらってね。
 リツコはロビーにあるソファから、この一部始終を眺め、ほくそ笑んだ。ミサトは自信たっぷりのようね。残念ながらあなたが書いた脚本通りにはいかないわよ!

9.
 レイコはクローゼットの中で、シンジの来るのを今か今かと待っていた。緊張が高まる。握った手に汗が滲む。もうすぐ、もうすぐよ、レイコ。
 ドアの錠がかちりと音を立てた。ドアの開く音。レイコの心臓が高鳴る。明かりのスイッチが入れられ、クローゼットの中にもほのかな光が差す。
『さ、マヤちゃん。遠慮しないで』
 えっ!
『シゲルったらぁ。別に今日じゃなくてもいいのにぃ』
 ええっ!
『いいじゃないか。せっかくだからホテル代、節約させてくれよ』
 青葉さんに伊吹さん?何故あの人達がここに?私、部屋間違ってないわよ。
『えへへっ。シンジ君達に当てられちゃったんでしょう?』
『それもあるかな。それよりは、マヤちゃんが素敵だからさ』
『うふん。シゲルったら上手なんだからぁ』
『マヤちゃん…』
『シゲルぅ…』
 部屋が静かになり、ちゅぱっと唾液が立てる音が響いた。しばらくその音が続き、さらに衣擦れの音がレイコの耳に届いた。そして、ばさりと床に着物が落ちる音が。あの人達、ここで始めるつもりなんだわ!ああ、どうしよう!

 話は夕方に遡る。
 大浴場を出て、着替えをしていたシンジの隣に青葉がいた。
「あーあ、隣はあの矢矧さんかぁ。いやになるなぁ」
「矢矧さんがどうかしたんですか?」
「あの人はいびきが凄くてさぁ、おまけに歯軋りときた。隣の部屋にいても聞こえるぐらいでね、先に寝ないとまず眠れないな。毎年被害者が出ているんだよ」
「矢矧さんは何時頃寝るんですか?」
「毎年12時頃には寝てるな」
 シンジはしばらく考えてから言った。
「良かったら、代わってあげましょうか?」
「えっ、いいのかい?」
「いいですよ。僕、早く寝るし、寝つきもいいほうだから」
「そりゃ助かるよ、シンジ君!」
 こうして、シンジの部屋には青葉が入ることになったのだ。  これが青葉にとって後の悲劇を招くことになろうとは、この時知る由もなかった。

『ああん。あせんないでよ、シゲルぅ』
『マヤちゃん…、マヤちゃん』
(レイカ、レイナ。早く何とかして)
(待っててレイコ。今対策を考えてるから)
(とにかくじっとしてて!)
『うっふぅん。ああ、いいわ。シゲル…』
『はぁはぁ、マヤちゃんも最高だよ』
『ああっ、ああっ、あっはぁぁん』

 同じ頃。アスカも暗がりの中、じっとシンジの帰りを待っていた。ドアの横に椅子を持って来て座り、開けた時に死角に入るようにしている。
 おっそいわねぇ、シンジ。早く来て。そして、アタシを食べて。
かちり。アスカが待ちに待った音。鍵が開いた。ゆっくりとドアが開き、人が中に入って来る。暗闇の中、長身の男の影がアスカの目の前にあった。アスカは素早く立ち上がり、男の背中にしがみついた。男は息を呑んだ。
「何も言わないで。あなたが好きなの。どうしようもないくらい。だからお願い。アタシを受け入れて」
 アスカは、男をぎゅっと抱きしめ、額を男の背に擦りつけた。男はそのまま凍りついたように動かなかったが、やがて感極まったように声を発した。
「そうだったのか!」
 アスカは愕然とした。それはシンジの声ではない。
 男が手を伸ばして、明かりを点けた。アスカは一歩引いて男を見た。男が振り返った。
「冬月司令!!」
 それは、長身、白髪のネルフ司令冬月コウゾウだった。冬月は興奮を隠さずにアスカを見つめた。
「分った。アスカ君、君の愛を受け入れるよ。私も内心密かに君のことを想っていたのだ。年の差がなんだ。そんなものは愛の力でたやすく乗り越えられるよ。さぁ、こっちへおいで」
 冬月は手を大きく広げてアスカを招いた。アスカはもうパニック状態だ。
「い、いえ、司令。こここれは間違いなんです。アアアタシ、部屋を間違えちゃって。あの、あの、司令にはほんっとうに申し訳ないんですけど、あの、その、アアアタシ、べべ別に好きな人がいるんです」
「なにを言うんだ、アスカ君。今さら照れることはない。さぁ、ベーゼをしよう」
 冬月が一歩アスカに近づいた。アスカは恐怖の表情を浮かべて後退さった。
「ひぃいいい。ち、違うのよー!!し、失礼しまーす!」
 アスカは冬月の腕の下を素早くすり抜け、ドアを開けると脱兎のごとく外へ飛び出し、廊下を駆けて行った。一人取り残された冬月は茫然として呟いた。
「私は夢でも見ているのか?」

10.
 その部屋から遠く離れた廊下に逃れたアスカは、壁に手をついて肩で大きく息をしていた。
 はぁはぁ、何よあれ。なんで司令があの部屋に来んのよ。司令もあの歳でよくやるもんだわよ!でも、アタシ、部屋の番号ちゃんと見たわよ。司令が間違えたのよね。確かめてみなくちゃ。
 アスカは渡り廊下まで戻り、恐る恐る先程までいた部屋の方を覗いた。廊下には誰もおらず、静まりかえっている。アスカは足音を忍ばせて、最前までいた部屋の前に戻った。
 愕然とした。そのドアに付いたプレートには315とあるではないか。
 嘘よ。アタシが来た時はゼッタイ311だったんだから!
 ありえないことが起こった。アスカの頭脳が目まぐるしく回転した。そうして出た結論は…
「あんのヤロー!」
 やられた。これはあの赤目、青髪の女の仕業に違いない。だとすると今頃シンジは……
 アスカは311号室の前にダッシュした。肩で息をしながら、そのドアをきっと睨んだ。

『あん、あん、あん、シゲルぅ。シゲルぅううう』
『はぁはぁ、凄いよ、マヤちゃん。吸い付くようだよぉ』
 クローゼットの中のレイコは外から聞こえて来るあられもない声に、自身も興奮してしまった。
 ああ、どんなことしてるのかしら。きっとあんなことやこんなこと…私もあんな声出すのかな…ああ、じれったい。レイカ、レイナ、博士。早く私をここから出して。

 アスカはそっとキーを差込み、なるべく音がしないよう慎重に回し、開錠した。ドアを細めに開けた。途端にアスカの耳に淫靡な男女の嬌声が飛び込んで来た。
「いい、いい、いいわぁ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 アスカの怒髪が天を突いた。しかし、そっとドアの細い隙間から部屋に忍びいるだけの理性は保っていた。
 部屋の照明は天井の豆電球一つだけ。薄暗がりの中、ベッドの上には重なりあい、律動する男女の姿がぼんやりと見える。部屋がもし仮に明るければ、そして、シゲルとマヤが今の営みにこれほど熱中していなければ、悲劇は起きなかったであろう。
 怒りに駆られたアスカは、無言で素早くベッドに近づくと、太腿も顕わに高々と足を上げ、垂直に振り下ろした。踵落し。アスカの右踵がもろにシゲルの後頭部に激突した。
「ぐわぁっ」
 シゲルは大声を上げ、顔をマヤの胸にぶち当てた。マヤは閉じていた目を大きく開いた。官能の頂点に達しつつあったマヤにすさまじい驚愕が襲った。
「きゃあああああああああああああああ!!!!」 
アスカは、ベッド上の男女に怒りに満ちたセリフを投げつけた。
「くぉのバカシンジぃいいい!!」
「シ、シゲル。どうしたの?ああああんた誰?いやぁああああああ!」
 シゲル?アスカの脳裏に疑念がきざした。わななく手を伸ばして天井の照明から伸びる紐を引いた。
 全てが白日の下にさらされた。ベッドの上に重なり合った裸の男女。上になっているのはロン毛の青葉シゲル、下にいるのは伊吹マヤ。シゲルは意識を失ったのか、ぴくりとも動かない。マヤの目から大粒の涙がこぼれた。
「アスカのバカアアアアア!!!」
 アスカには、目の前の現実がしばらく受け入れられなかった。なんでシンジじゃないの?レイじゃないの?どうして青葉さんとマヤさんなの?ここはどこ?アタシはだあれ?
「どうしたっ!」
 大声を上げて部屋に乱入して来たのは冬月だった。マヤがあれほどの大声を上げたのだ。当然何事かと駆けつけて来る。
「これは…」
 冬月は目前の光景にしばし茫然となった。ベッド上のあられもない姿のシゲルとマヤ。傍には何が何だかわからないといった風情で目を丸くしているアスカ。
「し、司令!いや、いや、いやぁああああああ…」
 マヤが再びパニックになった。
「アタシ、こここんなつもりじゃなかったの。こんなの…、こんなの…、うぇええええええええん」
 アスカもマヤに引きずられたのか、泣き出してしまった。
 女二人のけたたましく泣き、叫ぶ声に、冬月はしばしへきえきとしたが、そこは司令、冷静に何とかこの場を収拾しようとする。
「静かにしたまえっ。アスカ君。伊吹君も落ちつくんだ。とにかく静かにしなさいっ。みんなここに集まってきてもいいのかね?」
 脅しが効いた。アスカとマヤは涙を流しつつも、声を出すのを抑えた。
 冬月はまず目の毒とばかりに、毛布をシゲルの背中に掛けた。
「青葉君。青葉君。大丈夫か?」
 シゲルの肩を掴んで揺さぶった。シゲルはううんと唸って目を開けた。
「はっ、あれ、おれ、どうしたのかな?マヤちゃん…」  シゲルの目の前に真っ赤に泣き腫らしたマヤの顔がある。周囲の様子が違う。ふと横を見ると、そこには冬月司令の姿が。
「し、司令!!」
 シゲルはあわててマヤから離れて起き上がろうとした。だが、同時にマヤの器官に入ったその部分から激痛が走った。
「いってぇえええ」
「どうした?青葉君?早く離れなさい」
 冬月はシゲルのその様子を訝った。シゲルは相変わらず脂汗を浮かべて痛がっている。
「変です、司令。あの、何て言うか、マヤちゃんのその部分が、そのう締まりすぎちゃって…」
「何だと?」
 マヤが、この世の不幸が一気に襲い掛かって来たような表情で答えた。
「どうしよう。私…、膣ケイレンになっちゃったんじゃ!?」

11.
「膣ケイレン!?…なんたることだ…」
 冬月は激しく動揺したが、組織の長として、取り乱す訳にはいかなかった。落ち着け、落ち着け。ここは何とか穏便に事態を収拾しなければならん。伊吹君はまだ嫁入り前なのだ。事を公にしてはいかん。
 その時、激しくドアが叩かれた。
「おおい、何かあったのかぁ」
「シンジ君。どうかしたかぁ」
 まずい。マヤの絶叫を聞きつけたのだろう。外に人が既に集まって来ている。冬月は少し考えてから、戸口に立ち、中が見えないよう細くドアを開けた。
「やぁ、君達か」 「司令。何が起きたんですか?」
 年嵩の男が心配そうに訊ねた。背後には四人の男がいる。冬月はここぞとばかりに、いつもの落着きはらった態度を取った。
「いや、青葉君がな、転んで頭を打ってしまってなぁ、それで伊吹君が悲鳴を上げたという訳だ。何、大した事はない。本人はぴんぴんしとるよ。君らは心配せんでも大丈夫だ。私達に任せたまえ」
「そうですか。ならいいんですが。ところで『アスカのバカー』って声も聞こえましたけど」
 冬月は答えに詰まった。どうごまかしたら?
「ああ、あれか。あれはだなぁ…、あれは…」
 男が冬月の答えをじっと待っている。冬月はしばし間を置いて言った。
「あれは、バカとは言ってはおらん。丁度その場にアスカ君もいてな、ふとんのカバーを持っていた。青葉君が倒れる拍子にそのカバーを掴んでな、びりっと破いてしまったのだ。『アスカのカバー』と伊吹君は叫んだ。アスカのカバー、アスカのカバー、『アスカのバカー』と間違えて聞こえたのだろう」
「へぇ、そうですか。そうだったかなぁ」
「そういうことだよ。さ、ここはいいから君達は引き揚げたまえ。そうだ、使って悪いが、赤木君を呼んできてくれないか?」
「私ならここにおりますわ」
 赤木リツコが男達の後に歩み寄って来た。冬月は内心ほっとしてリツコを招いた。
「おお、赤木君。君なら医学の知識もある。ちょっと青葉君の傷を見てやってくれないか?」
「喜んで」
 リツコが冬月に続いて部屋に入り込んだ。途端にマヤが恥ずかしがって毛布を引き上げる。
「先輩っ。見ないでくださぁい」
「部長。すいません…」
 リツコは愛弟子のみじめな姿に唖然として見せる。
「マヤちゃん!青葉君!いったい何があったの?」
 演技であった。リツコはレイコからレイカへ飛んだテレパシーから、レイカの口を通して大体の情報を得ていたのだ。
 シゲル、マヤにアスカから事情を聞いたリツコは、一同を見回し、言った。
「分りました。微力ですが何とか努力してみましょう。では、アスカに司令は部屋に戻って下さい。これから到底人に見せられないものが見えるんですから」
 冬月とアスカは一も二もなく外へ出て行く。アスカはすまなそうにシゲルとマヤを見た。マヤはつんとそっぽを向いた。
 さーて、どうしようか。リツコはちらりとクローゼットを見た。待ってて、レイコ。今助けてあげる。マヤの方が問題ね。筋弛緩剤があれば一発なんだろうけど、そんなの持って来てないし。とにかくマッサージでもしてみるか。
「青葉君、マヤちゃん。体勢を入れ替えてみてくれる?」
 シゲルとマヤは苦労してようやく上下逆になった。
「それじゃ、マヤちゃん。毛布を上げるわよ」
「せんぱいぃいい」
「治療のためよ。我慢なさい」
 リツコは毛布の端を掴み、さっと引き上げて、マヤの頭の部分も覆い隠してしまった。マヤはひっと小さく声を上げた。
 リツコの目に映ったものは…、真に残念だが、これは到底筆者の力では描写できない。書きたい気持ちは多々あるのだが、できないものはできないのだ。とにかく筆舌に尽くし難いものだった。
 リツコはさすがに科学者、一瞬目をそらしたが、すぐに眼鏡を掛けて冷静にその部分を観察する。とりあえずこの辺りを揉んでみようかしら。リツコの指がマヤのムニャムニャに伸びた。その辺りを柔らかくマッサージしてみる。
マヤが情けない声を出す。「ああん、先輩。恥ずかしいですぅ」
 これ以上に恥ずかしい情況もまずあるまい。
「我慢しなさい。仕方ないでしょ。でも、あなた達がこんな仲だったとはねぇ。ちっとも気がつかなかったわ」
 リツコはマヤ達にきっかけは、とか、結婚はいつ、などと話し掛けて、少しでも彼らの気持ちを落ち着かせようする。
 もう一度クローゼットを見た。そろそろいい頃合ね。もうすぐよ、レイコ。
「ところで、青葉君。ここはもともとシンジ君の部屋なんでしょう?何故あなたがここにいるの?」
「シンジ君に代わってもらったんです。隣がいびきの凄い奴だったんで。あーあ、そんなことしなけりゃ」
「そう。もとのあなたの部屋は何号?」
「206号室です」
「ちょっとこのままで待っててね」
 リツコは頭隠して尻隠さず状態のシゲルとマヤをそのままにして立ち上がり、そっとドアを開けて廊下を覗き見た。誰もいない。チャンスだ。クローゼットの扉を慎重に開けた。
 レイコがほっとした表情を浮かべて立っていた。リツコは唇に人指指を当て、レイコの肩を掴んで外へ導く。レイコは感謝の眼差しをリツコに向け、ドアの隙間からそっと外へすべり出た。リツコは小さく手を振ってレイコを見送ると、静かに元の場所に戻った。
「お待たせ。誰かが覗いてるような気がして調べてみたんだけど、何でもなかったわ」

 レイコは今度こそと期待を胸に206号室へ急いだ。
 待ってて、碇君。もう寝てるかな。起きてたらなんて言おう。入れてくれるかな。少しこわい。ううん、大丈夫。碇君は優しいもの。きっと私を受け入れてくれる……。
 206号室の前に立った。
「碇君。碇君」
 シンジの名を呼んでみる。だが、返答はない。レイコは懐から合鍵を取り出し、開錠した。そっと部屋に滑り込む。闇の中、目が慣れるまでじっと佇んだ。目が闇に慣れて、部屋の様子がだんだんと分ってきたが、部屋にシンジのいる気配はない。ベッドに近寄り、手で探ってみたが、誰も寝ていない。
 どこに行ったの、碇君?レイコはベッドに上がり、座り込んだ。膝を抱えて、じっと動かなくなった。早く、早く来て、碇君。……

「ミサトぉ。アタシ、くやしい。レイのせいで、レイのせいで、ひどいことになっちゃった。うううううっ」
 ここはアスカの部屋。アスカはさっきからミサトの胸の中で悔し涙にくれている。
「可哀想ねぇ。でもレイもやるもんだわ。すっかり裏をかかれたってことね」
「チクショー、あの人形女め、後で必ずほえ面かかせてやるわ!」
 ミサトは優しくアスカの髪をなでてやった。
「その意気よ。元気出しなさい。あなたにまだチャンスはあるから」
「チャンス…。そうだ!シンジは今どこ?」
 アスカはミサトの胸から顔を離して、ミサトの顔を見つめた。ミサトは処置なし、といった顔で答えた。
「シンジ君はね、部屋にいないわ」
 騒ぎに気づいたミサトは、先程シンジを探しておいたのだ。
「えっ、こんなに遅い時間にどこへ?」
「マージャンよ」
「まぁじゃん!?」

「シンジ君。それローン!」娯楽室にマコトの嬉しそうな声が響いた。
「あ、あいたぁー」
 シンジの対面に座った加持があきれたように言った。
「シンジ君、それを切るのか…」
「混一、白、中、ドラドラ、バンバン。1,200万てーん!」
 マコトの華麗な手が場に晒されている。
「ひえぇえええっ」
 シンジは大袈裟な叫びを上げ、寂しくなった点棒箱から千点棒二本をマコトに差し出した。
「すいません。ハコテンです。1万点借りで…」
 ――この時から、90分程前。シンジは部屋に帰る途中の階段で、マコトに行き会った。
『おっ、シンジ君。丁度よかった。マージャンやらないか?』
『マージャンですか。下手なんだけどなぁ』
『メンツが揃わなくて困ってるんだよ。そう言わないで入ってくれよ。お願いだから』
 シンジは頼まれると断りにくい性分だ。あまり乗り気ではなかったが、今こうして卓を囲み、案の定散々やられているのである。

12.
 311号室から、スチール製のロッカーが密かに運び出された。持つのは、冬月に管理人の最上、リツコ、ミサトとアスカ、他に、冬月の腹心の部下長門だった。
「その台車に降ろして。ゆっくりとな」
 台車にロッカーが横に据えられ、一同は台車を押して階段へ向かう。そのロッカーの中は空ではない。中には勿論、シゲルとマヤの二人がぴったり密着して入っている。
 赤木博士の必死の治療にもかかわらず、マヤの膣ケイレンは治まらなかった。仕方なくこうして救急病院への搬送作戦が執り行われることになったのだ。人目を避けるためロッカーごと車に積み込み、病院へ送ろうという訳だ。
 エレベーターを使いたいところだが、残念ながらここには小型のものしかない。やむを得ず階段を行くことになった。
「青葉君に伊吹君。これから階段だ。揺れるが我慢したまえ」
 内部からはい、とくぐもった声が聞こえてきた。
「長門君と赤木君と葛城君はそっち。その他はこっちだ。では、行くぞ!」
 冬月の指揮でロッカーは持ち上げられた。うんしょ、うんしょと声を出しながら、一同重い荷物を運んで行く。年配の冬月などは既に玉の汗をかいていた。そろそろと、ロッカーは階段を下りて行く。踊り場をぐるっと回って二階に到達した。もう半分だ。
 一同は休まず一階への階段に入って行く。ここを下りきれば後は楽になるだろう。しかし、シゲルとマヤの不運はまだ終わってはいなかったのだ。この時、誰もが下を見てはいたのだが、その物体は丁度手すりの陰に隠れて、誰にも見つけられなかった。
 そこにバナナの皮が落ちているのを。
 一行の先頭は踊り場を過ぎ、階段を下り始めた。その時、ロッカーの一番後ろを持っていたアスカの踵が、不幸にもその皮に乗った。アスカの足が急激に滑った。
「きゃああああ!」
 バランスを失ったアスカの足は前に滑って跳ね上がり、前で降りかけていた最上の太ももをしこたま蹴った。「おわっ」最上が前につんのめり、先頭にいた冬月にぶつかった。「うおおっ」はずみで冬月は手を離してしまう。片側の持ち手が少なくなったロッカーはバランスが崩れ、ぐらりと傾いた。「おおおっ」「きゃあっ」皆必死に立て直そうとするが、奮闘むなしく、どしーんと音を立てて階段に落ちてしまった!
 がらがらがら…。『ぐわぁあああ……』『きゃあああ……』シゲルとマヤの悲鳴とともに、ロッカーは大音響を上げ階段を滑り落ちて行く。一同は茫然とそれを見守るしかない。ロッカーは一階に滑り降りたが、勢いのついたロッカーは反動で一回転し、ドアが破れてしまった!
 ごろごろごろ…。シゲルとマヤが抱き合ったまま外に転がり出た。二人を覆っていた毛布は、この間にはずれてしまった。
二人にさらなる不運が襲った。折悪しく、大浴場から上がってきた10人程の女性陣がこの場に差し掛かったのだ。彼女達の前に、大音響と共に転がったロッカーから飛び出したのは、上半身を浴衣で覆っているが、下半身は丸出しの男女ではないか!しかもその中心は……。
一瞬、静寂が辺りを包んだ。
「きゃあああ!」
 一人の若い女が最初の悲鳴を上げた。続いてその他の女性陣が一斉に悲鳴を上げ、われ先にと逃げ出した。
「何よあれぇ!」「変態!変態よ!」「は、早く警察を呼んで!」
パニックになったのはマヤも同じだった。
「いやぁあああああああ!!」
 マヤには一片の理性も残っていなかった。上になっていたマヤはシゲルに馬乗りになると、痛みもものかは、強引に立ち上がった。
 すぽーん。
 その場にいた全員がその音を耳にした。ナニから出た音かは説明するまでもないだろう。マヤはけたたましく叫び声を上げながら、廊下を全速力で駆け去って行く。後には冬月ら一行とシゲルが取り残された。シゲルはぴくりとも動かなかった。どうやら落ちる途中で意識を失ったらしい。剥き出しになった下半身には紫色に腫れ上がった一物が横たわっている。
 アスカはひいっと小さく叫んで両手で顔を覆った。ミサトとリツコはまじまじとその部分を見つめた。ミサトが隣にいるリツコにそっと囁いた。「いいモノ持ってるわね」「そうね」冬月はさすがに組織の長、いち早くショックから立ち直り、皆に言った。
「何をしている。早く青葉君を何とかしよう。葛城君は伊吹君を追え」
「は、はい」
 ミサトは早速ダッシュしてマヤを追いかけた。残る一行は冬月を先頭に階段を下りた。リツコはだらしなく横たわるシゲルに冷たい視線を向けた。
 では、決めゼリフをどうぞ。
「無様ね」

13.
 リツコがシゲルを治療し、ミサトがマヤをどうにか落ち着かせて寝かせ、冬月と長門があちこち回って、ようやく楓荘に平穏が戻った。  アスカにレイ、ミサトにリツコは冬月の部屋に集合していた。レイがいるのはアスカが冬月に強く要請したがらだ。冬月が口火を切った。
「では、どういうことか説明してもらおうか。まず、アスカ君」
「最初、アタシはシンジとお話でもしようと思ってぇ、311号室に来たんです。ドアのプレートは間違いなく311だったんです。鍵は開いてました。それでアタシ、中で待たせてもらうことしたんです」
 何が『お話』だ。冬月はいまいましく思ったが、自分のこっぱずかしい振る舞いのことがあるので、深く追求するのは止めにしておいた。
「それで、私が戻って来て、間違いに気づいたという訳だね。いや、驚いたよ。あの時は。はっはっは」
「アタシもホント、びっくりしました」
 アスカと冬月は阿吽の呼吸でその辺の話をぼかした。
「それからどうしたね?」
「それでアタシは部屋を出てぇ、何気なくドアのプレートを見たら、315になってるじゃないですか!アタシ、考えました。そして分ったんです。これは、レイの陰謀だって!」
 アスカはまるで犯人を名指しする名探偵のように、びしっとレイを指差した。レイ(レイカ)は目を丸くして驚いて見せた。
「アスカ!何を言うの?!」
 リツコがすかさずフォローに入った。
「アスカ。何を根拠にそんな事を言うの?これは名誉にかかわることよ!」
「アンタ、隙を見てプレートを入れ替えたでしょう。そうやってアタシを違う部屋に誘導したんだわ!その間にアンタはシンジとよろしくやろうとしたのよ!ところが部屋にいたのは青葉さんと伊吹さんだったって訳!どう、図星でしょう!」
「博士。アスカがあんなことを…」
 レイカは涙ぐんでリツコに寄り添った。リツコはレイカの肩に優しく手を置いた。
 冬月が落ち着きはらってアスカに質す。
「それで、怒りにまかせて部屋に乱入し、青葉君に蹴りを入れた、ということだね?」
「はい。申し訳ありませんでした」
 アスカは冬月に向かって神妙に頭を下げた。リツコがレイカに代わってアスカに迫った。
「レイがプレートを入れ替えたって言うけど、証拠はあるの?あなたの単なる勘違いでは?」
 アスカはにやりと笑った。ここまで黙って様子を見守ってきたミサトだったが、いやな予感を覚え、アスカに言った。
「アスカ、大丈夫?」
「大丈夫よ。証拠ならちゃんとあるわ。みんな廊下に出てちょうだい!」
 アスカは大股で廊下に出ていく。残りの一同も揃って廊下に出た。アスカは閉まったドアの前に立った。
「見て。このプレート、簡単に取れるようになってるはずよ!こうやって…」
 アスカの指がプレートに掛かった。レイカは一瞬目をつぶった。冬月もミサトもリツコも固唾を飲んで見守った。
「ん?」
 プレートはしっかりとドアに嵌っていた。慌てたアスカは両手を使ってつかみ出そうとした。しかし、プレートはびくともしない。
「あれ、こんなはずじゃ…」
「アスカ君、どきなさい。私がやってみよう」
 冬月が、入れ代わってプレートに手を掛けた。しばらく力を入れていたが、やがてあきらめた。
「しっかり嵌っているよ、アスカ君。これはどういう事かな?」
「そ、それは…、隣はどうかしら?」
 冬月は次々とドアを試していった。結局どの部屋も異常はなかった。
「やはり、単なる君の勘違いだったようだな。アスカ君、根拠もなしに人を中傷してはいかんよ」
「そんな、だってだって、アタシが見た時は確かに……」
 リツコが、割って入った。
「大体、レイにそんなことができるはずがないわ。思い出してみて。レイはずーっと私達のうちの誰かと一緒にいたのよ。レイにそんな事をする時間はあったかしら?」
 アスカはぐっと言葉に詰まった。確かにレイにそんな時間はなかった。桑原ユウコことダリアなら…、だが、彼女の事は固く口止めされているし、それこそ推測の域を出ない。
「あんたの負けよ、アスカ。ここは素直にあやまんなさい」
 ミサトがアスカを諭すように言った。アスカはぐっと唇を噛んだ。ク、クヤシー。しかし、この場はどうすることもできない。アスカはやむなくレイの方を向いて頭を下げた。
「ごめんなさい、レイ。変なこと言っちゃって」
「いいのよ、アスカ。勘違いはよくあることだわ」
 レイカは余裕を見せて微笑んだ。一方のアスカは腸が煮えくり返る思いだ。チクショー、いつか必ずこの仕返しをしてやる。
 冬月には、事の真相はおおよそ読めていた。冬月もレイの秘密を知っているからだ。しかし今はその事を公表する場面ではない。やりおるわ、綾波レイ。アスカ君、気の毒だがこの場は君にかぶってもらうよ。
「さぁ、みんなもう遅い。今日はこれで部屋に戻って寝なさい」
 冬月がそう締め括り、皆ぞろぞろとそれぞれの部屋へ戻って行く。
 ミサトは前を歩くレイの後姿を見ながら考えた。一体どうやったら、あんな離れ業ができるの?この前に続いて今日もだものね。絶対何か秘密を持っているわ!
 レイカにレイナからのテレパシーが届いた。
(どうだったの?レイカ)
(うまく収まったわ。あなたの工作はばれなかった)
(最後、瞬間接着剤で止めておいたのが良かったのね)
(そうよ。後はレイコがうまくやってくれれば…)
(でも碇君、まだ来ないって)
(何をしているのかしら、碇君……)

 明け方近く。シンジは朦朧としながら自分の部屋へ足を進めていた。マージャンの結果は散々だった。―63という重い負債。時に熱くなる男シンジが、もう半荘、もう半荘と粘った結果がこれだ。シンジは自分の博才のなさを、つくづく思い知らされた。(マージャン部屋は地階の奥まった場所だったので、シンジ達メンバーは一階の大騒ぎを知らなかった)
 鍵を開けて部屋に入った。隣室は意外と静かだ。中は既に薄明かりが差し込んできており、部屋の様子が分る。シンジは何気なくベッドを見た。唖然とした。既に誰かが寝ているではないか。すぐさま近寄って寝ている者の顔を見た。
 すやすやとくの字になって眠るレイの寝顔。
「あやなみ……」
 シンジは床に膝をついてレイのその顔に見入った。あどけない、天使のような顔。シンジは何故レイがここにいるのかと一瞬考えたが、その美しさに惹き込まれて、いつしかどうでもよくなった。綾波、なんてきれいなんだ……。
そうするうちに冴えていた頭がほぐれて、眠気が強まってきた。ベッドの端にくるまっていた毛布を広げ、そっとレイに掛けてやった。シンジはあくびを一つして立ち上がり、クローゼットから予備の毛布を取り出した。隅にあるソファに体を横たえ、毛布にくるまり、目をつむった。
「おやすみ。綾波」

 朝になった。シンジは周囲の騒音に、目を覚ました。ぼんやりとしながら部屋を見回した。ベッドは空になっている。綾波、行っちゃったのか。シンジは時計を見た。午前8時。起きなくてはまずい。重い体をようやく起こし、洗面台の方へ歩いた。
 鏡の中に自分の顔を見た時、シンジははっとした。
 右の頬に鮮やかに赤くキスマークが残っていた。



1 伊吹マヤはそのまま長期休暇に入り、一ヶ月後結局退職した。
  同じく休暇を取った青葉シゲルは一週間後ベトナム支部へ転勤が発令され、すぐさま新任地へ赴いた。
2 慰安旅行での事件は冬月の努力にもかかわらず、旅行の翌日には全ネルフ職員の知るところとなった。


(続く)

(第6回へ続く)



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