トリプルレイ2nd

最終回「大団円」

間部瀬博士



1.
目覚まし時計の単調な電子音がアスカの眠りを破った。アスカは目を瞑ったままその音を止め、やがてぼんやりと目を開けて天井を見上げた。朝の光が差し込んでいる。今日もいつものように一日が始まった。だが、それは同時に憂鬱の始まりでもあるのだ。
アスカはベッドを離れ、パジャマ姿のまま洗面所に入って行った。顔を洗ってすっきりしたアスカはリビングに戻り、いつもの簡単な朝食を作るために冷蔵庫を開ける。食パンや牛乳を取り出したりするのだが、朝だというのに表情は暗く沈んでいる。シンジがいなくなって今日が五日目。アスカはシンジへのすまなさと心配が心を占め、食パンをトースターに放り込む仕草にも元気がない。
携帯電話が軽快なメロディを鳴らした。ヒカリかな。アスカは何気なく充電器に立て掛けておいた携帯電話を取った。
「はい、惣流です」
『アスカ…。僕だよ』
 アスカの胸がさざめき立った。最も聞きたかったその声。話したくて仕方のなかった相手が電話の向こうにいる。
「シンジ、シンジなの!?」
『ごめん。心配しただろ?馬鹿なことしちゃって…。ほんとにごめん』
「良かった…。今どこにいるの?」
『第二の駅。もうすぐ電車に乗るんだ。昼には帰れるから』
「そうなの…」
 アスカの声が詰まった。感情がこみ上げてきて、目の端に一つ涙の雫が出来た。
『あの、アスカ。この前はほんとに僕、だらしなくて…、もう嫌になったよね?』
「そんな事ない!」アスカは大声で否定した。「あの時はアタシが悪かったの!ひどい事言っちゃって…。謝るのはアタシの方。ごめん、ごめんねシンジ」
『いや、僕の方こそ…。またやり直せるかな?』
「勿論よ!ねえ、二人でまた試そう。うまくいくまで何度でもやってみようよ」
『そう。はは、良かった。てっきりアスカに捨てられたんじゃないかって思ってたんだ』
「ううん。そんな事ない。今でも大好き」
『うれしいよ、アスカ。また大学で会おう』
「うん、アタシ、待ってる」
『じゃ、もうすぐ出発の時間だから』
 携帯の通話が切れた。アスカは喜びに打ち震え、天にも昇るような気分。ああん、良かったー。シンジとまた会えるんだわ。もう一度やり直すのよ。この前はあんな事になったけど、二人の愛の力でなんとかなるわよ。何度も挑戦していればいつかはうまくいくはず。…でもあの人形女は?…ううん、もう大丈夫。この前の件でアドバンテージはアタシにあるわ。なんたってあんなにアタシの体を見たんだから。
 気持ちががらっと変わってうきうき気分のアスカは、足取りも軽く皿やマグカップをテーブルに並べる。
 だがその時、悪魔は非情な最後の一手を打とうとしていたのだ。
 玄関の郵便受けからかたん、と乾いた音がしてきた。あら、今頃なんだろ。郵便の来る時間じゃないのに。アスカはいぶかしげに玄関の方へ歩いた。

 桜ルミコこと伊吹マヤは静かにドアを閉め、すぐさま奥にある盗聴機に向かった。徹夜明けにも関わらずその目はぎらぎらと光っている。ヘッドフォンを装着し隣室から聞こえる音に耳を澄ます。もうすぐアスカはマヤが放った致命的な爆弾を手に取るだろう。
 しばらくは何の物音も聞こえて来なかった。マヤは固唾を飲んで、いかなる物音も聞きのがすまいと集中する。やがてかさこそと紙の鳴る音が聞こえた。アスカが息を呑んだのが分かった。
『何これ…?』
 マヤの口元が歪み、白い歯が見えた。勝利の瞬間はもうすぐそこまでやって来ている。
 隣室からはしばらく何の物音も聞こえて来なかった。そしていきなり聞こえたのはシンジの声。アスカは封筒の中に入っていたメモリーを再生したのだ。
『(ピー)さん、僕、もう……』
『いいのよ、シンジ君。来て。来てぇ~』
『(ピー)さんっ!!』
『あっ、あっ、あぁ~~~~~』
そこで再生音は止まった。数瞬、隣室は静寂に包まれた。と、突然アスカの叫び声が。
『あんのバカア!!』
 続いてがらがっしゃんと食器の割れる大きな音が響いて来た。これなら盗聴機などなくとも聞こえてきただろう。
『バカシンジ!なんで、なんで………、うわぁぁあああああぁぁあああっっ!』
 アスカはとうとう声を上げて泣き出してしまったのだ。
「ぶははははははははははっ」
 一方のマヤは対照的に大笑いを始めた。腹の底から間断なく笑いがこみ上げてくる。盆と正月にクリスマスやらゴールデンウィークやらが一遍に来たような嬉しさだ。
「けーっけっけっけ。くかかか、むひゃ、ほっほっほ。うわっはっはっはっはぁー。げらげらげら……」
 腹を抱え、床を転げまわって笑いまくるマヤ。明暗はここにくっきりと別れた。マヤの復讐はほぼ達成されようとしている。

2.
『もしもし、綾波かい?』
「碇君!」
 レイカの持つ携帯から愛しいシンジの声が聞こえて来る。レイカはシンジの無事を確かめられた嬉しさに声が弾む。
「碇君。良かった。心配してたの。今どこ?」
『第三の駅。着いたばかりさ。その、ごめん、綾波。心配かけちゃったね』
「もう、突然いなくなるなんて。一体何があったの?」
『それはちょっと言いにくいな』
「あの猿が何かやったんでしょ?そうに違いないわ。そうに決まった」
『…確かにアスカに原因はあるんだけど。僕もいけなかったんだ。…喧嘩になっちゃってね。顔を合わせられなくなったんだ』
「よっぽどひどいことを言ったのね。私、文句を言ってやる!」
『よしてよ。もう済んだんだ。僕にも責任があるし』
「何があったか教えてくれないの?」
『今はまだ。そのうち落ち着いたら教えるよ。でさ、またみんなで楽しくやろうよ』
「碇君が言いたくないんなら仕方ないわ」
『ごめんよ。昼ごはん食べたら大学に行くよ。その時にまた』
「うん、待ってる」
 通話が切れた。レイカはともかくもシンジの声が聞けたことに口元が緩んだ。レイカが今いるのは大学の廊下。講義が終わって昼休みに入ったところだ。もうすぐ碇君に会える。嬉しさに足取りも軽く食堂に行こうとした時、背後から声が掛かった。
「おおい、レイ。待ってぇ」
 振り向くと、アスカが手を振ってこちらへやって来る。
「今の、シンジからでしょ?」アスカはにやりと笑って話しかけた。
「うん」
「良かったねー。シンジが帰って来て。これで元通りね」
「そうね」
 アスカはシンジが戻ったことを既に知っているようだ。と、するとシンジは先にアスカに報せたのか。嫉妬めいた感情がレイカの胸をよぎった。
 レイカはあの日何が起きたのかアスカに問い詰めたかった。しかし、シンジはそれを望んでいない。やむなくその問いをしまいこんでおくことにした。
「あ、それでさあ、アンタにあげるものがあるの」
「私に?」
 アスカはバッグの中からピンク色の封筒を取り出し、レイカに差し出した。他に中ぐらいの買物袋も持っている。
「はい、これ。中身はメモリースティックなんだけどさ。アンタの好きそうな音楽が入ってるから。後で聴いてみて」
「メモリー?どのアーチスト?」
「それは聴いてのお楽しみ。感激するわよう」
「ありがとう…」
 解せない。アスカが物をくれたことなど数えるほどしかないのに、この時になって急にくれるというのはどういう事だろう。
「こらこら、そんな怪訝そうな顔しないの。一応仲間なんだからさ、たまにはプレゼントぐらいするわよ」
「ご、ごめんなさい」
「それじゃ、アタシはあっち行くから。またねー」
 アスカはスカートを翻して駆け去っていく。レイカは封筒を持ってしばらくじっとその後姿を見守っていた。

3.
 レイカは食堂の前に立ち、ショーケースに並べられた今日の定食をチェックした。今日は碇君が帰って来たお祝いに高いもの食べようかな。気分上々のレイカは財布の紐もゆるくなる。そこへ背後からカヲルの声が掛かった。
「やあ、レイ。シンジ君が帰って来たね。良かったね」
「カヲル。あなたにも電話があったのね」
「ついさっきね。元気そうだった。ほっとしたよ」
 そこでレイカはカヲルの肩越しに、ヒカリの姿を認めた。こちらに向かって歩いてくる。意外なのはヒカリに寄り添うように歩く旧知の男がいることだ。
「あれ、鈴原君だわ!」
 ヒカリはここしばらく姿を見せていなかった。大阪に行ったらしいという話は聞いていた。だがトウジまでがこの土地に来ているとは予想外だ。
「鈴原君って、フォースかい?こんなところで会えるとは」カヲルは振り返ってヒカリとトウジを見た。ヒカリがこちらに気づいて手を振った。
「綾波さん、カヲルさん、久しぶり」
「おお、綾波かい。えらい久しぶりやな。元気やったか」
 トウジが快活に挨拶する。営業で走り回っていたせいか、日焼けが濃く、引き締まった体つきだ。ぱりっとしたスーツに身を包み、ネクタイを下げた姿はすっかり会社員である。
「お久しぶり、鈴原君」
「初めまして、鈴原さん。僕は渚カヲル。ドイツから来た留学生です」
「あ、どうも」
 ヒカリがトウジの耳に口を寄せて何事か囁いた。トウジが驚いた顔をする。
「へー、おたく、フィフスやったんですか。こら驚いたなぁ」
「そうです。あなたにお会いできて良かった」
 カヲルが右手を差し出した。トウジも応えて二人はがっしりと握手した。
「鈴原君、こっちには仕事で?」レイカが訊いた。トウジの背広姿を見て、休みではないと思ったのだ。
「いや、実はな、今日、面接に来たんや」
「面接?」
 ヒカリが口を挟んだ。「あのね、鈴原、こっちに来ることになったの」
「え、そうなの!」
 うん、と答えるヒカリの口元には幸せでたまらないといった感じの笑みが浮かんでいる。ヒカリとレイカは目と目で言葉にならない会話を交わした。レイカの胸にもなんとも言えない嬉しさがこみ上げてくる。トウジとヒカリの恋の危機は去ったのだ。洞木さん、鈴原君、おめでとう。
「ヒカリ、まだ決まったわけやないがな」
「殆ど決まりなんでしょ」
「まあな。実はな、綾波。うちの取引先の社長さんがわいのことえらい気に入ってくれてな。前から来んかって言うててくれてたんや。中堅の卸問屋やねんけど。叔父さんの義理もあるから、中々決心がつかなかったんやが、ヒカリが来て口説くもんやから。もてる男はつらいわ」
「カヲルさん、私たちね、付き合ってるの」
 ヒカリははにかみながらトウジの肘のあたりを握った。頬がぽっと赤くなった。カヲルはいかにも今初めて知ったというような口ぶりで言う。
「そうなんですか。ということは遠距離恋愛だったんですね。おめでとう、ヒカリさん。これからは一緒の時間が多くなりますね」
「ありがと、カヲルさん」
「ほう。渚はん、ヒカリと懇意にしてるようでんな」
「ええ、ヒカリさんにはよくべん」
 カヲルの言葉が詰まった。一瞬顔を顰める。レイカがカヲルの尻をトウジ達に見えないように思い切りつねったのだ。
「…べんきょうを教えてもらってまして」
「ほうでっか。ま、今後ともよろしく頼んます」
 レイカは内心胸をなでおろす。せっかくうまくいったのに、弁当の話など出したら、また話がややこしくなりかねないではないか。ヒカリも同じような気持ちだった。
トウジは周囲をきょろきょろと見回す。「シンジがおらへんな。惣流もや。挨拶していきたいんやけど」
「碇君、今日は遅く出てくるの」
「ほうか。そら残念やった。わいもあんましゆっくりしてられへんねん。ほんじゃ、よろしく言っといてんか」
「うん、分かった」
「ほんじゃな、綾波、渚はん。いつかみんなでパーッと騒ごやないか」
 トウジとヒカリは並んで出口の方へ去って行った。レイカは二人の後姿を見えなくなるまで見送った。彼らの間には強い絆があると、レイカは感じる。もうその絆が切れかけることはないだろう。レイカはそのことに深い満足を覚えると同時に、自分とシンジも早くそうなれたらいいのにと一抹の寂しさも感じるのである。

4.
 大地をしっかりと踏みしめて、大学へ向かう道をシンジは歩いている。アスカ、綾波、早く会いたいなぁ。待ってろよ二人とも。今日から碇シンジは一味も二味も違いますよう。早くもシンジはアスカとの一夜を夢想するのだ。まずアスカとリターンマッチだ。まずそれを果たすこと。それから綾波、君のことも忘れてないよ。ちゃんと平等に愛してあげるからねえ。マヤによって男になったばかりだというのに、あたかも自分がいっぱしの色事師であるかのような感覚でいる。
 シンジは腕時計を見た。既に午後の講義は始まっている。学生会館で時間をつぶして四時限目の講義から出ようとシンジは思った。校門が近づいて来た。

 大学の構内は授業中とあって、閑散としている。遠くからバンドの練習する音が聞こえてくる他はひっそりとしたものだ。学生会館に入ったシンジは雑誌でも立ち読みしようと真っ直ぐ書店に向かった。そこへいきなり横から声が掛かる。
「シンジ!」
「アスカァ!」
 アスカが駆け寄ってきた。今、この時間に会えるとは思っていなかったので、シンジには意外だった。
「や、やあ」
「シンジ、また会えて良かった」
「僕もだよ。あの、改めて、ごめん。突然いなくなったりして」
「もういいの。アタシの方こそ、ごめんなさい」
 アスカはしおらしく頭を下げる。口元にはうっすらと微笑が浮かんでいる。
「授業中じゃなかったの?」
「ううん、休講になったの。ね、あっちでゆっくり話さない?」アスカは喫茶コーナーを指した。シンジも異存なく、二人は喫茶コーナーの席に向かい合って座った。
注文したアイスコーヒーが二人の前にある。客はシンジとアスカの二人だけだ。
「それで?第二に行ってたの?」
「うん。ケンスケに会いたくなってね。でも旅行中でさ。がっかりだったよ。それで安宿に泊まってしばらくぶらぶらしてたんだ。で、どうにか気持ちの整理をつけてこっちに戻ったってわけ」
「向こうで誰かに会わなかった?」
「え。い、いや、誰にも会わなかったよ」
 いきなりの質問にシンジは動揺してしまった。アスカは意味ありげににやりと笑った。
「そう。でもシンジが帰って来てくれてほんとに良かった。それでさ、アタシ、おわびの印にこんなの買ったの」
 アスカは持参していた紙袋から箱を取り出し、シンジの前で包装を解いた。白い正方形の箱が現われ、蓋を取り払うと中ぐらいの大きさの丸いケーキが載っていた。白いクリームがたっぷりと載り、イチゴが表面を彩っている。
「うわあ、ケーキかい。こりゃ美味しそうだ」
「いいでしょ。アタシはいいから、シンジ、食べて」
「こんなの一人じゃ食べきれないよ」
「ま、そう言わず。これはお祝いも兼ねてるの」
「お祝い?」
「ところで、アタシ、今朝ある人からこんなもの頂いたの」
 アスカはバッグからピンク色の封筒を取り出した。さっきレイに渡したのと同じものだ。いったいなんだろう。シンジは訝しげにそれを見つめる。アスカの指先が封筒からつまみ出したのはメモリースティックだ。
「これにはね、ある人とある人の会話記録が入ってるの。アンタにあげる。例えばこんな言葉が入ってるわ。『うふ。おめでとう。シンジ君』『もう最高です』『えへ、私もよかったよ』『ピーさん、ありがとうございました』『ねえ、ごほうびにキスして』」
 アスカは芝居気たっぷりに再現してみせる。シンジは撞木で後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。
「ア、アスカ。そそ、それ……」
「おめでとう、シンジ。アンタも一人前の男になったわけね!!」
 いきなりアスカはケーキの土台を掴み、シンジの顔にそれをぶつけた。ふいを衝かれたシンジはまったくよけることが出来なかった。ケーキの塊がシンジの膝に落ちた。シンジの顔はクリームで真っ白だ。カウンターにいた従業員が悲鳴を上げた。
「あら、大変。クリームだらけね」
 アスカはアイスコーヒーのコップを掴み、シンジの頭の上から中身をぶちまけた。シンジのシャツはたちまちびしょ濡れになった。氷がからころと転がり落ちた。この間、シンジは一言も喋ることはなかった。
「ふん!悔しかったら、モエコにたっぷり慰めてもらいなさい!アタシじゃ駄目でも、モエコとなら出来るんでしょ!」
 モエコ?シンジの口と目が開き、白い顔に穴が三つできた。アスカは財布から一万円札を取り出し、シンジの前に叩きつけた。
「はい、服代やらここの迷惑代。アタシは行くから」
 アスカはメモリースティックの入った封筒をテーブルに置き、シンジを睨み付けて立ち上がった。
「さよなら、シンジ」
 シンジは固まったまま身動きもしなかった。アスカは振り向きもせず、つかつかと歩み去っていく。歩きながら目の端に溜まった雫を手の甲で拭い去った。
 目を丸くして呆然と見守っていた従業員のおばさんが、ようやくシンジのところに駆けつけて来た。手にバケツと雑巾を持っている。「うわあ、見事な振られ方だねえ。こんなのあたしゃ初めて見たよ」
シンジの顔からイチゴがぽとりと落ち、膝に当たり、床に転がった。

5.
 服が台無しになったシンジは取敢えず野球部に頼んでシャワーを使わせてもらい、人心地ついた。親切な生協の職員さんが替えの下着を用意してくれた上にジャージまで貸してくれて、どうにか格好をつけることができた。こうなってはもう授業どころではない。こんな日はとっとと帰って、一人寂しく涙にくれるに如くはない。シンジは鉛を呑み込んだような気分でキャンパスを歩く。おそらく明日には『シンジ、アスカに振られる』というニュースが学内に知れ渡っていることだろう。また雲隠れしようか、という思いがちらりと頭を掠めた。だが管弦楽部の演奏会はもう間近だ。今休んでは皆に迷惑をかけることになる。とにかく今は耐えるしかない、とシンジは思った。
 マヤさん、なんてことをしてくれたんだ。マヤさんがモエコだったなんて。裏切ったな。僕の思いを裏切ったんだ。
 シンジはあの時、マヤがまるで女神のように思えたものだ。しかし、あの行為の裏にこんな意図が隠されていたとは。何が動機で、とシンジは考える。あの保養所の出来事を思い返せば、アスカに対する復讐という線が浮かんでくる。マヤの天真爛漫な笑顔の裏にはどす黒い復讐の念が潜んでいたのだ。あの夜の献身的な態度は全てアスカに対する復讐を目論んでのことだったのだ。シンジはまた人間不信に陥ろうとしている。
 だが、振り返って思う。あの時、まんまとマヤの口車に乗った自分はどうなのかと。目の前に差し出された美味しい餌に噛り付いた自分の助平心はどうだ。気持ち良くなったのは事実なのだ。あれがアスカやレイに対する裏切りでなくてなんだろう。結局これは自業自得ではないのか。
 シンジは道端のベンチに座り、アスカがくれた封筒を改めてみた。その中にはメモリーの他に一通の手紙のコピーが同封されている。

 アスカちゃわーん。モエコよーん。
 今回はアスカちゃんに、ぜひぜひお知らせしたいことがあってお手紙書きました。
 えへへ、びっくりするわよー。
 なんと、ワタクシ、桃原モエコは碇シンジ君と遂にチョメチョメしてしまったのでありまーすw。
 ウソじゃないよー。証拠は同封したメモリーにバッチリ記録されておりまーす。
 耳の穴かっぽじって、よーく聞いてくださいねー。
 ああ、今思い出しても、アソコが濡れてきちゃうわ。彼ったら、もうすっごいの(はあと)。聞いてみたら分かると思うよー。
 アスカちゃんとは、うまくいかなかったみたいね。あたしとはちゃんとできるんだから、ふっしぎー。これはひとえに女の魅力の差かなー、なんて思ったりなんかしてw。
 あ、ちなみにこの録音があっちこっちに出回ったら困るんで、あたしの名前言ってるとこだけピーいれさしてもらってるから。いろいろ事情ってものがあるので悪しからず。
 アスカちゃんも早いとこシンジ以外の男見つけて幸せになってねー。シンジはもうあたしのものだからw。
 んじゃ、バイバーイ。

 何がいろいろな事情だ。シンジは怒りを込めて、手紙を細かく引きちぎる。自分の正体をばらしたくないだけじゃないか。これ以上細かくできないぐらいに引きちぎったシンジは、傍の屑籠にまとめて投げ込んだ。

 四時限目も既に始まっている。さぼりを決め込んだシンジは校門へ向かってとぼとぼと歩いている。
 ふと、レイのことが頭に浮かんだ。そうだ。落ち込むことないよ。僕にはまだ、綾波がいる。きっといろいろ詮索されるだろうけどさ。そこは知恵を絞って誤魔化しぬくんだ。知らぬが仏って諺もある。やっぱり綾波と僕は結ばれる運命だったのさ。
 ついこの前まではアスカと結ばれる運命だったのだが。

 レイカはシンジを捜し回っていた。シンジは今日、確かに登校すると言った。だが、三時限目も四時限目もシンジは予定の教室に現われていない。アスカの姿も見えない。変ね、何かあったのかしら。今日の授業は終わったので、帰った方がいいとレイカは思った。家から連絡を取ってみよう。校門に向かおうとしたその時、アスカがくれた封筒のことを思い出した。どうも不自然だわ。メモリーをくれるだけなら封筒に入れなくてもよさそう。中を調べたほうがいいわ。

 シンジは前方にレイの姿を認めた。声をかけようと足を速めた。その時、レイが立ち止まり、バッグから封筒を取り出したのをシンジは見た。足がぴたりと止まった。その封筒に見覚えがある。ピンク色の、アスカがシンジにくれたのと同じものだ。直ちにその意味を覚った。アスカ、君はなんてことを!ま、まずい。今レイと顔を合わしてはならない。じりじりと後ずさりし、レイが封筒から紙を取り出したところで、足早に駆け去った。

6.
 レイコはテーブルに置いた携帯音楽プレーヤーを止めた。そのプレーヤーは外部スピーカーに繋がれ、今までレイカとレイコは問題のメモリーを再生していたのだ。プレーヤーに並んでモエコからアスカに宛てた手紙のコピーが置かれている。二人とも視線を落とし、身じろぎもしない。レイたちのマンションは暗く沈んだ空気に包まれた。レイナは外出して留守だった。
「碇君、モエコとしちゃった……」
「信じられない……」
「どうしてモエコなんかと……」
「アスカならともかく、モエコだなんて……」
「味方かもしれないと思ってたのに……」
 レイカの頬を涙がつたわり落ちた。やや遅れてレイコの頬にも涙の筋ができる。悲しみにくれるレイたちの部屋には掛け時計が時を刻む音だけが静かに響いていた。

「シンジ君が…モエコと…」
 ミサトは驚きに堪えないといった口調で一人ごちた。ミサトの手にはモエコの手紙がある。ミサトの前にはアスカがいる。アスカは、一日の仕事を終えて帰宅したミサトの自宅に来ているのだ。
「そうよ。何なら音声も聴いてみる?やっらしいわよう」
「あは、遠慮しとくわ。アスカが聴いたんだから間違いないでしょ」
 アスカはソファに深々と掛けてぼんやりと天井を眺めた。ミサトはあまりの成り行きに声を失ってしまった。やがてアスカはぼつりと言った。
「アタシ、ドイツに帰ろうかな」
「えっ、急にどうしたのよ」ミサトは目を見張る。
「なんかねぇ。このまま日本にいてもしょうがないかなって思えてきた。育ての親ともずっと会ってないし」
「何言うの。大学、卒業しなくてもいいの?」
「アタシ、大学なんかとっくに卒業してるもん。向こうでね」
「コンサートはどうする?」
「はんっ。あんなのアタシがいてもいなくてもおんなじ。親が危篤になったとでも言うわ」
「もうシンジ君、嫌いになったの?」
「嫌いってのは違うかな。でも好きでもない。なんかどうでも良くなっちゃった」
「…そりゃ、あなたがそう言うんなら仕方ないけど」
「ごめんね、ミサト。今まで頑張ってくれたのにこんな事になって」
「あたしとしてはあなたにシンジ君と一緒になってほしかった」
「ご期待に添えませんで。でもシンジにはファーストがいるんだからいいじゃない」
 アスカは胸の中でぺろりと舌を出す。レイ、アンタも不幸を分かち合うのよ。アタシだけが損をするのなんていや。何だかんだ言って二人でシンジを共有してきたわけだから、結末も共有しなきゃね。
 ミサトは意気消沈し、大きくため息をついて頭を抱えた。「あーあ、えびちゅ一年分がパーか。それからLAS同盟も解散」
「ごめんね。アタシのためにあんなに働いてくれたのにさ。言っとくけどバカシンジのせいだからね」
「恋ってままならないものね」

 その頃、シンジは打ちひしがれて夜の道をとぼとぼと歩いている。目的地はカヲルの自宅だ。とてつもない打撃を与えられた今、誰かに慰めてほしくて仕方がなかった。一番最初に浮かんだのがカヲルだった。
 カヲル君なら僕に優しくしてくれるよ。『やっぱり男同士が一番だよ、シンジ君。さ、僕の胸に飛び込んでおいで』…なんてことにならないよな。僕の見たところカヲル君はホモじゃないよ。…たぶん。…おそらく。…止めたほうがいいかな。…いや、そんなことになったら断固お断りしよう。いくらカヲル君でも駄目なものは駄目。
 などと考えるうちにカヲルの下宿に入ったシンジは、カヲルの部屋の前に立った。「おーい、カヲル君」ドアをノックしてカヲルを呼んだが返事がない。ドアノブは少しも動かず、鍵が掛かっているようだ。
 留守なのか。シンジはやむを得ず向きを変えて下宿の出口へ向かった。
 下宿を出たシンジはまた酒でも飲んで寝てしまおうかと思いながら、家路を急いだ。この辺りの地理には詳しいので、近道をしようと公園に入った。夜の闇を裂くように、街灯がそこかしこで光を放っている。静寂に包まれた公園に人影はすでにない。
 広いグラウンドを歩くシンジはふと足を止めた。やや離れた林の傍に、街灯に照らされた背丈のある銀髪の男を目にしたのだ。その男は木の傍に一人佇んでいる。「カヲル君」あれはカヲルで間違いない。嬉しくなったシンジはそっちへ駆け寄ろうとした。が、すぐに足を止めてしまう。カヲルの前にある木の陰から、ワンピース姿の女が出て来たのに気づいたのだ。その髪の色は蒼。「綾波?」なんで綾波がここに?

「いちいち変装を解かなくてもいいのに」
「ごめんなさい。でも、こうさせて。こうしたいの」
「困った子だね。少しだけだよ」
「うん」
 カヲルとレイナはしかと抱き合い、お互いを見つめ、そしてキス。

 あやなみい……。シンジにこの日二回目の激震が訪れた。カヲルとレイが抱き合ってキスをしているのだ。そうか、そうなんだ。僕を振って早速カヲル君と…。カヲル君、やっぱりホモじゃなかったんだね。中々手が速いじゃないか、二人共。いや、これでいいんだ。僕にはもう資格はないんだ。いいさ、僕は一人で生きていくんだいっ!
 シンジは踵を返して走りだした。二人の邪魔をする気にはなれなかった。走りに走るシンジの両目から涙が溢れ、こめかみの方へ伝っていった。

7.
 それから数日間はシンジにとって地獄のような毎日だった。思った通り、シンジがアスカに振られたことはたちまちのうちに殆どの生徒の知るところとなり、好奇の視線が向けられるようになったのである。直接何があったか教えろと尋ねてくる者もいたし、中には「てめえ、アスカ様に何しやがった」などと因縁をつけてくる者までいた。これで俺にもチャンスが巡ってきたと色めき立つ者も少なくなかった。しかし彼らの望みは叶えられることはなかった。アスカの方はぷっつりと大学に出て来なくなったからである。
 ヒカリにも一度「不潔」と言われ、それ以来顔を合わすとぷいっとそっぽを向いて行ってしまう。カヲルの態度も素っ気なくなり、以前のような親密さは雲散霧消してしまった。カヲルに対してはシンジの方にも遠慮があった。
 変化はそれに止まらない。レイも登校して来なくなった。このことも様々な噂の種になった。つまるところ原因はシンジにあるに違いないということになり、綾波ファンの冷たい視線をも浴びることになった。
 そんな最悪な精神状態の中で管弦楽部の定期演奏会に出演したのだ。出来は最悪だった。入りは間違えるわ、音ははずすわで、途中、指揮の小沢教授に睨まれてしまった。客席には当然あるべきレイとアスカの姿はなかった。

 アスカの離日の朝がやって来た。アスカはボストンバッグを携え、隣室の桜ルミコ宅を訪ねた。
「今日は」
「あら、惣流さん。どーもー。あ、今日出発ですか?」
 ルミコの扮装をしたマヤが玄関にやって来た。うきうきとスキップでもしたい気分だったが、そこは堪えて名残惜しそうな顔をしてみせる。
「ええ、これから空港に向かいます。どうも長い間お世話になりました」
「いいええ。何のお役にも立ちませんで。寂しくなりますわ」
「こちらこそ。これ、ほんの気持ちですけど」
アスカは綺麗に包装された小さな箱を出した。マヤは目を丸くしてオーバーに反応する。
「んまっ。どうしましょう。餞別も差し上げてないのに」
「いえ、いいんです。大した物じゃありませんから」
「そうですかぁ。じゃ、遠慮なく」マヤは箱を受取った。内心では可笑しくてたまらない。うは。馬鹿丸出し。敵にプレゼントまでしてやんの。
「それじゃ、お元気で。さようなら」
「さようなら。惣流さん、向こうでも頑張ってね」
 アスカは微笑を浮かべて手を振り、廊下を歩いて行く。マヤは玄関先に立ってその後姿を見守った。アスカがエレベーターの中に姿を消すと同時にガッツポーズをした。「ぃよおおっし!」
 復讐はこれで完成ね。あぁ愉快、愉快。人生経験の差がものを言ったわね。あ、そだ。空港に行って見送ってやろ。勝利の喜びをまた味わってやる。あ、そだ、そだ!最後にちらっとモエコの姿を見せてやるのも面白いわね。うはぁ。私って天才ー。

 第三新東京国際空港にはアスカの顔なじみが大勢集まっていた。ヒカリとトウジは勿論、ミサト、リツコ、加持、さらに冬月といった面々が勢ぞろいしている。だが肝心のシンジとレイはこの場にいないのだ。アスカは発着ゲートの手前で皆と向かい合った。
「それじゃ、皆さん。元気でね」
「アスカ。こんなことになって…。早くいやな思い出は忘れて幸せになってね」
 ミサトがハンカチで目頭を押さえてアスカに言った。ヒカリは感極まったか、ぼろぼろ涙をこぼして何も言わずアスカを見つめた。
「何言ってんの。アタシは大丈夫。なんたってこの美貌なんだから。男なんかこれから先うじゃうじゃ寄ってくるわよ。シンジより素敵な男性なんか簡単に見つかるって。だからみんなも心配しないで。惣流・アスカ・ラングレーは必ず幸せになりまーす」
「それにしてもシンちゃんとレイがこの場にいないなんて…」ミサトは元チルドレンが揃っていないのが悔しくてならない。
「いいのよ。シンジはアタシと顔を合わせられないでしょ。レイもシンジが来るかもしれないと思って避けたのよ」
「シンちゃんとレイもあんな事になるなんてねえ」
 シンジとレイが分かれたことは既に周知の事実となっていた。
「二人に言っといて。世の中にはゴマンと異性がいるんだって。早く立ち直って新しい恋をしなきゃ。アタシを見習って積極的になりなさいって」
「アスカ、あんたいいこと言うわね。確かに伝えるから」
ヒカリがアスカの前に来た。「うう、アスカ、これでもう会えないってことないよね?また日本に来て」
 アスカは涙声のヒカリの肩を優しく叩いた。
「もっちろん!これから先何度も来るから。それまでちゃんと鈴原と幸せでいなさい。こら、鈴原。ヒカリを不幸にしたら承知しないからね!」
トウジはどんと胸を叩いて答えた。「わかっとるがな。わいに任しときぃ」
 発着ロビーに搭乗開始のアナウンスが流れた。アスカはぐるりと一通り見送りに来た人々を見回した。
「じゃ、みんなさよなら。auf Wiedersehn!」
冬月が渋みを漂わせながら、「元気でな。惣流君」
加持が笑みを湛え手を振る。「またな、アスカ」
リツコはやや寂しげに、「さよなら、アスカ。元気でね」
 一同、口々に別れの言葉を言った。アスカはにこやかに手を振り、ゲートをくぐった。皆名残を惜しんでアスカの去り行く姿を見つめていた。
アスカが角を曲がって姿が見えなくなった時、加持の傍に黒服の男がそっと近寄り、何事か耳打ちした。加持は頷いて男と共に素早くその場を離れた。

8.
 空港の駐車場に一台の黒塗りのバンが停まっている。両サイドの窓ガラスは黒いフィルムが張られていて、中の様子は見えない。加持は黒服の男に付いてその車に急いだ。加持が後部ドアから中を覗くと、両脇を黒服の男に固められたソバージュヘアの派手な化粧をした女が座っている。
「いたな。このいたずら者」
「あら、加持さん。お久しぶりー」
 マヤは悪びれず、にこやかに手を振った。加持はマヤの向かいの席に陣取った。
黒服の男の一人が加持に言った。「発着ロビーを見張っていたら部長の予想通りこの女が現われました。似顔絵にそっくりです。捕まえてこちらの身分を知らせたら、抵抗もせずに同行してくれました」
「ご苦労さん。悪いがちょっと外に出ててくれないか。二人だけで話がしたいんだ」
 男達は直ちに車の外へ出た。ドアが閉め切られ、加持とマヤは二人だけで相対した。
「ふふっ。マヤちゃん。大した腕前だったな。あのアスカを翻弄しきった。どうだい、最高の気分だろう?」
「そりゃもう!胸がすーっとしたわ。あのアスカの泣き声ときたら…。加持さんにも聞かせてやりたいくらい」
「遠慮しとく。しかしあきれたもんだ。盗聴に変装しての一人三役。うちの保安部の連中よりよっぽど優秀なスパイぶりだぜ」
「お褒めの言葉恐縮ですわ。と言うことは私のこと、大体知ってたんですね」
「見張りは付けさせてもらったし、盗聴もさせてもらった。怒るなよ。一切干渉しなかったんだから。元チルドレンの管理は俺の職務だからな」
「そんな事言ってえ。加持さんも楽しんだんでしょ。そういうの好きそうだもの」
「まあな。特に温泉ホテルの一件は傑作だったよ。ところで訊くが、シンジ君のことは可哀想だと思わないのか?」
「ああ、彼?いいじゃないですかぁ。シンジ君にはレイちゃんがいるんだから」
「ところがシンジ君とレイの仲も終わった。今や他人も同然の間柄だ」
「えっ、何かあったんですか?」
「アスカは君の手紙とメモリースティックをコピーしてレイとシンジ君に渡したんだ。それを聴いたレイはがっくり。もう何日も大学に行ってないらしい」
「あれま……」
「そこまで読めよ。アスカは自分一人だけ不幸に耐えるってタイプじゃない。道連れは多いほどいいってタイプだ」
「どうしよう。シンジ君に悪いことしちゃった……」
 マヤは表情を曇らせ、視線を落とした。加持は真剣な顔つきになり、背広の内ポケットから携帯電話を取り出した。
「俺がいい方法を提案しよう。これでレイと話せ」
「私が?レイと?」
「そうだ。洗いざらい真相をぶちまけろ。誠心誠意話せばレイもわかってくれるかもしれない。何とかしてシンジ君を救ってやってくれ」
 マヤは少しためらったが、やがて加持の目を見つめ、答えた。「そうします」
 加持は携帯を操作してレイの番号に繋ぎ、マヤに渡した。マヤは緊張しながら呼び出し音を聞く。そして遂にレイの声が聞こえた。『はい、綾波です』
「もしもし、レイちゃん?私、伊吹マヤ。久しぶり」

 マヤは通話を切って携帯を加持に返した。
「どんな感じだった?」加持が訊いた。
「最初は怒ったわね、さすがに。後は殆ど喋らなかったな。私が一方的に話して、レイちゃんは時々相槌を打つって感じで。でもね、なんか最後は明るい声だったような気がする」
「いや、頑張ってくれたよ。この先行きは神のみぞ知るだ。後、俺らに出来るのは祈ることだけだな。さぁてと。頑張ったマヤちゃんにはご褒美をあげよう」
「何ですか、それ?」
「答えは後に取っておこう。車を出さなくちゃ。外の連中を呼んでくるよ」

 加持たち一行を乗せたバンは第三新東京市内にある高級ホテル前に到着した。バンの後部ドアが開き、マヤ一人が降り立った。その顔は化粧を落とし、髪も鬘を取り、素のままのショートカットだ。マヤは急いでホテルの入り口へ駆けて行く。回転ドアを通り、大勢の人で賑わうロビーに入る。そこで立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回した。求める人の姿はなかなか見つからない。だがようやくロビーの片隅に、中庭を眺めるギターを背負った長髪の男を認めた。マヤは急ぎ足でその男に近づいて行く。その男の横顔がちらりと見えた。と思うと、涙が出てきて一気に男の輪郭はぼやけてしまった。だが、もう間違いない。愛する青葉シゲルの姿はとうに瞼に焼き付いているのだから。

「おお、やってる。やってる」
 加持は双眼鏡を覗きながら呟いた。道路沿いに停めたバンからホテルの中を覗いているのだ。二人の黒服も双眼鏡を構えて覗きに興じている。
「しっかり抱きあっってますねえ。伊吹さん、泣いてますよ。いいなあ。感動的だなあ」
「おい、唇読めたよな?」
「はい。『ごめんよ、マヤちゃん、遅くなって。俺、やっぱりマヤちゃんが忘れられなかったんだ。ネルフは辞めた。親父とも喧嘩して縁を切った。頼む。結婚してくれ』」
「ヒューヒュー!」
 加持は涙ぐんだマヤがシゲルを見つめ、しっかりと頷くのを見た。会心の笑みが口元に広がった。おめでとう、マヤちゃん。あのことは絶対秘密にしとくからな。
 青葉シゲルが加持の前に現われたのはつい三日前のこと。マヤの行方を尋ねるシゲルに、加持は快く協力を約束した。そして今日、この再会が実現したのだ。
「青葉さん!そこでキスでしょお!」
「そうだ!そうだ!回りの目なんか気にするな!」
 男達の目に期待通りの光景が映った。双眼鏡の向こうの二人は情熱的に唇と唇を合わせたのだ。
「「ヤッター!」」
 けたたましく二人の黒服は叫ぶ。加持は相変わらず双眼鏡を覗きながら、ぐっとこぶしを握った。

9.
 アスカが日本を去ってから五日後のことである。シンジはリツコ邸の玄関前に立った。昼下がり、約束の時間の五分前だ。シンジはインターホンのボタンに指を伸ばす。
 突然のリツコの呼び出しであった。『シンジ君。あなたにプレゼントするものがあるの。明日の1時に私の家に来れない?』『いいですけど、何ですか?プレゼントって?』『それは秘密。明日のお楽しみ』そうしてシンジは訳も分からぬままリツコ邸にやって来た。
「いらっしゃい。どうぞ入って」
 上機嫌のリツコがシンジを迎え入れた。吹き抜けになった玄関ホールを通って客間に案内される。
「実はね、今日呼んだのはあなただけじゃないの」
「えっ、誰ですか?」
「どうぞ。中で待ってるわ」
 リツコがドアを開け、客間の中が見えた。レイとカヲルの姿があった。
「綾波…、カヲル君…」
「やあ。シンジ君。待ってたよ」
「碇君、久しぶり…」
 シンジは入り口で止まってしまう。意外な展開であった。関係が冷え切った二人とこんな所で会うとは。
「まあ、そう驚いた顔をしないで。今日はね、君の誤解を解こうと思って来たんだ」
「誤解?」
「そうなの、碇君。どうしても話したいことがあるの」
 レイとカヲルはにこやかな顔をしながら立っている。シンジは戸惑いながらも部屋に入る。
「さあ、みんな座って。私はお茶を淹れてくるから」
 リツコが去り、シンジは部屋の中央にある応接セットの椅子に腰掛けた。レイとカヲルはシンジの向かい側に座った。
カヲルが切り出した。「シンジ君。君、僕とレイのことで何か勘違いをしてないかい?」
「勘違いって…、君たち、恋人同士なんだろ?キスしてたじゃないか。僕は見たんだ!」
「あの時、僕は君に気づいて追いかけたんだ。だけど追い付けなかった。それ以来、よそよそしくなってしまったね」
「そりゃ、あんなの見たら。…僕にも後ろめたいことがあるし」
「碇君、あれはね、私じゃないの」
 レイはしっかりとシンジを見つめて言った。シンジの表情は不審げなものに変わる。
「綾波じゃないって?じゃ、誰なのさ?」
「あれはね、シンジ君、ここにいるレイじゃないんだ」カヲルが言った。
 ますます訳が分からなくなるシンジ。そこへリツコがワゴンを押して入って来る。
「お待たせ。お腹すいてるでしょ?たくさん食べてね」
 リツコは中央のテーブルに海苔巻きの載った大皿を置き、お茶に小皿などを各自の前に置いていく。
「碇君、これね、さっき私が作ったの。早速食べて」
「そんなことより話の続きを…」
「碇君、いいから食べて」
 レイは気迫のこもった口調でシンジに言った。シンジはレイの迫力にどぎまぎしてしまい、仕方なく海苔巻きに手を伸ばす。「分かったよ」リツコはレイの後ろに立ってそれを見守っている。
 シンジは小皿に醤油を入れて、一口サイズの海苔巻きを漬け、口に入れた。二度三度と咀嚼する。途端に物凄い衝撃が鼻を通って脳天にまで突き抜けた。
「☆◎■◆\(◎o◎)/★○□▲!!」
 シンジは下を向いて海苔巻きを吐き出した。茶碗を掴み、お茶をぐびぐびと飲んで口中のものを流し込む。海苔巻きの中はわさびで一杯だったのだ。カヲルとリツコはぷっと吹き出した。
「ひどいよ。綾波。これ、わさびだらけじゃないか!」
 ようやく体勢を立て直したシンジはレイに向かって叫んだ。が、レイが手にするものを見た瞬間、息を呑んだ。
 それはアスカがくれたあの封筒だった。
「碇君、これは罰ゲームよ」
「………!」
 シンジはすぐにレイの真意を理解した。カヲル君とはなんでもない?だから僕を責めるの?レイがシンジを見る目は厳しい。その視線に気圧されたシンジは姿勢を改め、レイに向かって深々と頭を下げた。
「ごめん、綾波。申し訳ない。あれは僕の過ちだった。許して下さい」
「いいわ」
 レイの口元に優しげな笑みが浮かんだ。それはあたかも母が子に投げかける微笑みのようだった。
「今、あなたは罰を受けた。だから、もういいの。許してあげる」
「綾波…」
 シンジは顔を上げ、レイの顔を見た。微笑みを湛えたその美しい顔にシンジは安堵し、ほっとため息をついた。
「ありがとう。こんな僕を許してくれて」
「いいの。人は誰もが過ちを犯すもの。あなたもつらい思いをしたでしょう。碇君。人は絶えず誰かを傷つけながら生きている。でもね、いつまでもそれを根に持っていてはだめ。憎しみから生まれるものは不幸しかないわ。忘れる知恵、許す知恵を私たちは持っている。そうしてこそ私たちの人生に平安が訪れるの。人と人は支えあって生きていけるの」
「優しいね、綾波は」シンジの顔に笑顔が戻った。カヲルとリツコは楽しげに二人の様子を眺めている。
「それでね、碇君。私も罰を受けなければならないの」
「罰?」
「そう。私にはとても重い罪がある。だから、私もこれを食べるの」
 レイは海苔巻きをつまみ、一気に口に放り込んだ。たちまち顔を顰め、体を折り曲げて苦しげに咳き込んだ。
「綾波、大丈夫?」シンジは腰を浮かし、レイの傍に寄ろうとする。が、その時異変が起きて、驚いたシンジはそのまま固まってしまった。背後の左右からいつのまに現われたのか、蒼い髪の女たちがテーブルの皿に手を伸ばしたのだ。
「私も食べる」「私も」
 女たちは素早く海苔巻きを齧り、レイと同じように顔を顰める。
「これ効く……」「辛い……」
 その場に座り込んで苦しがる女たちをシンジはしげしげと見比べた。正面にいるレイと同じ髪、同じ目。二人とも綾波レイにそっくり。
「綾波が、さ、さんにん……」
 強烈な衝撃だった。綾波レイは三人いるのだ。涙目のレイが一斉にシンジを見た。シンジの脳裏にあの水槽を見た時の記憶が甦った。同時にシンジの意識はすぅっと遠くなった。

10.
 シンジは唐突に目を覚ました。目の前にカヲルの姿がある。リツコがその隣にいる。今シンジは客間のソファに横たわり、向かい側の椅子からリツコとカヲルがシンジを見守っているのだ。レイの姿はない。テーブルの上はすっかり片付けられていた。
「やあ、眼を覚ましたね、シンジ君」
「良かった。ちょっと心配したのよ。男の人が卒倒したのを見るなんて初めて」
 シンジはのろのろと体を起こし、ソファに座り直した。特に痛いところはない。腕時計を見ると、あれから20分程時が経ったようだ。何が起きたか頭の中で整理する。
「すみません、リツコさん、カヲル君、ご迷惑かけて…。僕、気を失ったんですね。あの、さ、さっき綾波、三人いましたよね?僕の見間違いじゃないですよね?」
 リツコとカヲルは顔を見合わせ、そしてリツコがシンジを真剣な眼差しで見つめて言った。
「シンジ君。そのことは私が説明するわ。長くなるけど、聞いて。とても大事な話だから…」

 ――時計の針は3時を回ろうとしている。リツコの話はまだ続いていた。
「――私はずっとあの子たちを何とかしたいと思ってたの。あの子たちを不自然な生活から解放してやりたかった。でもね、あの子たちの考えは違った。それはね、シンジ君、あなたがいるから。三日に一度『綾波レイ』としてあなたに会うこと、それを生きがいにしていたの。おそらくあなたは一人が三人になったという現実に耐えられないでしょう。あなたの心を繋ぎ止めるためには、『綾波レイ』は一人でなければならない。それがあの子たちの考え。それは私がどんなに言って聞かせても変わらなかった。方法はないわけじゃなかったのに」
「そうこうしているうちにこのカヲル君が生きているという話を聞いたわ。私は彼ならなんとかしてくれると思ったの。あなた一人に向いた心を一人でも解きほぐすこと、それができれば突破口が開けるんじゃないかって」
 カヲルが話を引き取った。「博士から話を聞いた僕はすぐに賛成したよ。僕にとっても彼女は気になる存在だったからね。それで僕は再びここに戻って来たんだ。多少強引なやり方だったけど。あ、勿論君のことも目的なんだけどね」
「僕は成功したんだ。三人のうちの一人、レイナと僕に愛が芽生えた。うっかり君に見られてしまったね。あれはレイナだったんだ。さっき僕らが言った言葉にはそういう意味があったんだよ」
「そうだったのか…」
 シンジは感に堪えないといった面持ちでいる。リツコがまた口を開いた。
「レイナは私に賛同してくれたわ。そして、私たち三人でレイカとレイコを説得したの。長い時間がかかったけど、二人はやっと納得してくれた。では、これから私の計画を話すわね」
「まず三人のために新しい戸籍を用意したの。これは加持君がやってくれたわ。身寄りのない三つ子の戸籍よ。三人は三つ子の姉妹ということになるの。ということわよ、『綾波レイ』はこの世から消えてなくなるの」
「綾波が消える!」
 シンジにはショックだった。慣れ親しんだ綾波が消えてしまうとは。
「最後まで聞いて。私ね、シンジ君。来年になったらネルフを辞めようと思うの」
「えっ!辞めるって…。それで、どうするつもりなんですか?」
「北海道大学から教授にならないかって声が掛かってるの。私はそうするつもり。第三にレイが三人いたら何かと不都合が多いから。来年、大学のある北海道の別海市に移住するのよ。レイナともう一人のレイを連れて。その子はね、私の娘にします」
「綾波がリツコさんの娘に!」
「そう。私ね、男はもうこりごり。でもね、たった一人でこんな広い家に住んでいるのが嫌になったの。家族の温もりがほしくなって…、祖母は死んだし、猫は人の代わりにならない。…やだ、ちょっと恥ずかしい」リツコは顔を赤くし、照れくさそうに笑った。「万一あなたがアスカと一緒になった場合は二人共養女にするつもりだったの」
「勿論、僕も一緒に行くことになる」カヲルが言った。「留学先を北海道大学に変えるんだ。君には悪いけど。そこでレイナと結婚するのさ。レイナは渚レイナになる」
シンジは悲しげに叫んだ。「そんな、寂しくなるよ!」
「大丈夫、君にはすてきな人を残しておくよ」
「そうよ、シンジ君。あなたにはレイがいる」
 リツコはシンジの目を正面から真剣な眼差しで見据えた。
「シンジ君、私からあの子の母親代わりとしてお願いします。レイたちはこれまでずっと、あなたに嘘を吐いて生きてきました。そのことは容認できることではありません。でもね、敢てレイたちを許してやってください。そして残ったレイをもらってください。お願いします」
 リツコは深々と頭を下げた。シンジは突然の言葉に動揺した。
「もらうって…、結婚ってことですか?」
「そうです」
 カヲルもシンジをじっと見つめて言った。「シンジ君、僕からもお願いするよ。一言『許す』と言ってほしい。そしてレイと結婚してやってほしい。そうすればこの茶番劇はハッピーエンドになり、僕たちはみんな家族になれるんだ!」
 『家族』この言葉がシンジを打った。久しく実感したことのないこの言葉。シンジが憬れて止まなかった家族がいるということ。しびれるような感動がシンジの胸に湧き上がった。
シンジの口から明るい声が弾け飛んだ。「僕は許します!レイたちばかりじゃない、みんなだ!みんながみんなを許して、そして家族になりましょう!」
 この時、部屋の外で歓声が爆発した。ドアがばたんと開いて三人のレイがなだれ込んできた。
「碇君!」「良かった!」「うれしい!」
 皆部屋の外で聞き耳を立てていたのだ。三人は争うようにシンジの前に集まった。同じ顔が三つ、口々に言った。
「ありがとう、碇君」「ごめんなさい、ずっとあなたを騙してきて」「私たちにはそうするしかなかった。本当にごめんなさい」
 シンジには既に心構えが出来ていた。引くこともなく、自然に三人を見回した。
「凄いや。綾波が三人だ。似てるなんてもんじゃないよ。これなら誰にも見破れないね」
「君たちも苦労してきたんだね。さっき博士の話を聞いていて、可哀想でたまらなかった。僕が早く気づいていたらとも思う。でも、もうこんな生活から解放されるんだ。良かった。本当に良かった」
「君たちが僕に隠し事をしてきたことは、もう何も言わない。さっき言ってたね。忘れる知恵、許す知恵を僕たちは持っているって。本当にそうだ。さっき、君たちは僕の過ちを許してくれた。だったら勿論僕も君たちを許すよ。このさい過去のことは一切忘れない?ただ前だけを、未来だけを向いて生きていこうよ!」
「「「うん!」」」三人は口を揃え、力強く答えた。
「えーと、それで僕と一緒になるのは誰?」
 三人は顔を見交わして頷きあい、揃ってドアの前に移動した。三人が並んで立つ。服装はそれぞればらばらだ。みな楽しさに自然と笑みが溢れてきている。
「それじゃ、まずレイナ。僕のところへおいで」カヲルが言った。
 三人のうち真ん中のレイが進もうとする。と、すぐに立ち止まり元に戻る。こうして何度かフェイントを繰り返してから、右端のレイがカヲルの横に座った。
「シンジ君、この子がレイナだよ」
「よろしく。碇君」
「よろしく。レイナ」
「次は私の娘になる子。こっちへいらっしゃい」
 とリツコが言い、残った二人はまた何度かフェイントをかけて、一人がリツコの横に立った。ただ一人のレイがドアの前に残った。それは服装から最初にシンジの前にいたレイだと分かる。そのレイが感動の面持ちでシンジの前に進んだ。

「碇君」

「あの、君、名前は?」

「レイカ」

「よろしく。レイカ」

「よろしく。碇君」

 レイカは感極まり、だっとシンジの傍に座り込んでシンジを掻き抱いた。レイカの熱い想いは言葉にならず、嗚咽が口をついて出た。その目からは涙が滂沱として流れている。遠い昔にシンジが教えてくれたことがあった。嬉しいときにも涙は出るのだと。レイカは初めてその言葉の真実を実感した。
 カヲルの横に座るレイナも、リツコの横に立つレイコも泣いていた。レイカをしっかり抱きしめるシンジの目からも一筋の涙が流れた。誰もが感動していた。

11.
 リツコは鼻にハンカチを当てながら、シンジに言った。
「おめでとう、レイカ。きっと幸せになってね。シンジ君、レイカのことくれぐれもよろしく」
 続けて傍らに立つレイコの腕を取った。「レイコ、結局あなただけが私の娘になるのね。いいのね?私を『お母さん』って呼んでくれるの?」
 レイコはリツコの前に座り込み、リツコの両手を握った。
「もちろんよ。お母さん」
「そう、うれしい。いい娘ね」
「お母さん」レイコは膝立ちになり、リツコをしっかり抱きしめた。リツコもレイコの体をぎゅっと抱き返した。
「レイコ、ありがとう、シンジ君を諦めてくれて。お礼にうんと大事にするから。何でも好きなもの買ってあげる。でもね、私に遠慮せず新しい恋をしていいのよ。いつか私の元を離れる日が来るでしょう。それも仕方ないと思う。そうなっても私のことを忘れないで」
「ううん、お母さん」レイコは指先で涙を拭ってリツコから体を離し、義母となる人を真っ直ぐに見つめた。「私ずっとお母さんと一緒にいる。約束する」
「どうして?まだ若いのに?」
「いいの。私、研究者になりたいから。お母さんの弟子になりたいの。いいでしょ。沢山、いろんな事を教えて」
「そうなの。分かった。うんと仕込んであげる」
 リツコはレイコをもう一度抱きしめ、放した。レイコは椅子を持ってきて、リツコの傍に座った。レイカは涙を拭きながら、シンジの隣にいる。レイナもやはり涙ぐみながら、カヲルに肩を抱かれている。リツコはレイカとレイナを交互に見た。
「レイカ、レイナ。お願い。できれば、あなたたちも私を『お母さん』と呼んでほしいの。その方が自然だから。だって三人共私が育ててきたようなものですからね」
「私、そう呼びます。『お母さん』って」先に言ったのはレイナだった。
「私もそうする。『お母さん』」レイカも続けて言った。
リツコの胸にじんとくるものがあった。涙が溢れて言葉に詰まったが、やがてにっこりと笑った。「うふふ。これで私、三人の娘の母親になるのね」
 リツコは深い満足感に浸った。長い長い助走の時はようやく終わりが来る。真の幸福へ飛び立つ時がすぐそこまで迫っているのだ。――私の『親類補完計画』は成功したんだわ。
 シンジがおずおずと言った。「あの、僕も『お母さん』と呼んだ方がいいでしょうか?」
「あ、それはイヤ」リツコの返答はにべもなかった。「あなたにそう言われると年寄りくさく感じるもの」
「はぁ…」シンジはがっくりと肩を落とす。まずカヲルがぷっと吹き出し、一座に笑いの輪が広がっていった。

 玄関ホールの方から来客を告げる電子音が響いてきた。リツコが洟を啜り上げ、立ち上がった。
「みんな、今日はね、他にもお客があるの。呼んで来るからちょっと待ってて」
 リツコは目頭を拭いながら部屋を出て行った。シンジに甘えかかるレイカが顔を上げ、言った。
「ねえ、碇君。私たちも、卒業したら別海へ行きましょう。そしてみんなで暮らすの。その方がきっと楽しいわ。カヲルもいるし。何より、ここは忌まわしい思い出が一杯。何もかも忘れて新しい土地で新しい生活を始めない?」
「うん、綾波。いい考えだね。絶対そうしよう!でも君、名前はどうする?」
「卒業までは綾波レイでいる。でも卒業したら…、その時は…、碇レイカがいい」
 レイカは頬を赤らめ、はにかむ。シンジの顔も真っ赤だ。
「そ、そうだね。はは。それまでレイカって呼べないね。残念だけど。人に変に思われるものね」
「そのくらい仕方がないわ。でも3年なんてあっという間のことよ」
「そうとも!ああ、早く卒業したいよ!」
 その時、ドアが開いて新しい訪問者が入って来た。リツコの後ろには加持。さらに後ろにも誰かいる。
「よお、シンジ君。レイカ、レイコ、レイナ、カヲル君。おめでとう」
「ううぅぅ、シンちゃんん、レイちゃんん。良かったわねえ」
 涙声で入って来たのはミサトだった。アスカに組して散々レイたちの邪魔をしてきたミサトが今日、この場にやって来たのだ。
「加持さん、ミサトさん。来てくれたんですね!」シンジの声は嬉しそうだ。
「ほんっと良かった。あたし、リツコから一昨日真相を聞いたの。この人たちってまったく水臭いんだからぁ」
「まあまあ。これも組織の宿命だよ。知ってる人間が少ないほど秘密は守りやすい。何度も言ったろ」
「あたしまで除け者にしなくたっていいと思わない?」と、ミサトは普段の調子に戻って言った。
レイコがミサトの前に進んだ。「ミサトさんも私たちのこと、祝ってくれるんですね」
「当たり前よう。そりゃ、あたしはアスカの手伝いをしたけどね、別にあんたたちのこと憎くてやったわけじゃないんだから。ごめんね。許して。この通り」ミサトは手を前で合わせて頭を下げた。
カヲルがミサトの前に立った。「葛城さん。この前は申し訳ありません。怖がらせて。実はこういうことだったんです」レイナがカヲルにくっついてきた。「ごめんなさい。名取トオルは私だったんです」
「あんたたち、うまく化けたわねぇ。でも、もう止めなさい。ATフィールドもなし。いいわね!」
「「「はい!」」」
 三人のレイが声を揃えて答えた。客間は朗らかな空気に包まれている。加持が全員を見回し言った。
「で、今日、俺たちが来たのはみんなを祝うためばかりじゃない。みんなに俺たちのことを祝ってほしくて来たのさ」
シンジがいぶかしげに訊く。「僕たちが?加持さんたちのことを?」
「ミサト、お前から言ってくれよ」
「え、あたしが?ちょっと恥ずかしいな」
「いいから、頼むよ」
「そうお…。じゃ、発表しまーす。えっへん。あたしと加持は来年結婚いたしまーす!」
「「「「「ええっ!」」」」」若者たちは一様に驚きの声を上げた。ミサトはにんまりして左手を挙げて見せた。その薬指にはきらきら光るダイヤの指輪が嵌っている。
「そうなんだって。私も驚いたわ。今頃になって結婚なんてどういうことかしら」
 リツコが不思議そうに言った。ミサトはリツコの方を向いてにっこり笑った。
「ま、ちょっとした心境の変化ってところですかしら」
「長い付き合いだったからな。いい加減、身を固めてもいい年齢になったってことだな」
 加持は言いながら、全然違うことを考えている。まさか、妊娠とはね。父なし子にするわけにはいかないし。ま、しゃーないな。
「でも心配だなぁ。ミサトさん、家事出来るんですか?」シンジが当然の疑問を口にした。
「そりゃ、これから猛特訓よ。そうだ、あたし、シンちゃんに弟子入りするから。よろしくお願いしますね、先生~」
「うわ、そりゃないですよお!」
 一同、笑いの渦に包まれる。そんな中レイコは以前にこの邸に泊まった夜のことをふと思い出した。
                :
「レイカ、いい考えが浮かんだわ」
「何?どんなの?」
「博士の提案はとても素晴らしいものだと思うの。でも一方で私たちは碇君のことを捨てきれない。そこがネックになっている」
「そうね」
「だったら、博士の計画に乗った上で、碇君とも関係を続ける。そんな方法を考えるのよ」
「具体的には?」
「どちらが碇君と結婚するか、それはいつものようにサイコロで決める。その前に密約を結ぶの」
「それは?」
「どちらが碇君と結婚しても、相手に愛人になる権利を認める!」
「…いいかも知れない。でもね、愛人になるって言っても、碇君、受け入れてくれるかな?」
「あら、碇君がいやだって言ったら、その時は入れ替わりをすればいいのよ!」
               :
 碇君。私はしばらくあなたと離れるけど、想いは変わらない。私とレイカであなたを愛してあげる。きっとあなたはそれが気に入るはず。だって、男ってそういうものでしょ?両手に花がいいのよね?だから、私のことを忘れないで。将来は三人で素敵な夢を見るのよ。

 リツコが賑やかに話し合う一同に向かって大声を張り上げた。「さあ、みんな。もう日が暮れたわ!食堂に移動して。今夜は夜を徹しての大宴会にしましょう!なんと言っても今日はみんなが家族になった記念日なんだから!」
「おおっ、リツコ、さすが気前がいい!」と、ミサトが陽気にはしゃぐ。
「ええ、ミサト。今日は好きなだけ飲んでいいわよ。あなたの限界を見せて頂戴」
「おおっし。やってやろうじゃないの!」
 と言いつつ、ミサトは密かに悩む。アルコールって、お腹の子に良くないんだっけ?…過ぎない程度にしなきゃ駄目よね。仕方ない。我慢、我慢。大丈夫よ、赤ちゃん。ママがちゃんと守ってあげるからね。
「碇君。調子に乗って飲みすぎちゃだめよ」
 レイカがシンジの袖を引っ張って言った。シンジは顔を赤くして、「大丈夫!この前はミサトさんが変な薬を飲ませたせいなんだから。ミサトさん、もう勘弁してくださいよ!」
 ミサトはおたおたしながら、「え。あはは、は。何のことかさっぱり分からないわぁ!」

 ――一同はかまびすしく笑いさざめきながら宴会場に移って行く。この日、赤木リツコの邸は深夜まで賑やかな笑い声が絶えることはなかった。


(終わり)





ONE MORE FINAL

(シンジの脳内某所)
『快感指数98。順調です』
『カウパー腺液分泌中。前立腺、圧力90』
 コンソールの前に座った制服の男たちが淡々と数字を読み上げる。司令は椅子に座り冷静に事態の推移を眺めている。
『精子の準備はいいか?』
『6個中隊が位置に付いています』
『砲身の強度は?』
『海綿体、硬度95。仰角85度。許容範囲内です』
『よし、いけるな』
 前面のスクリーンにはレイカの顔が大写しになっている。二人の睦言が発令所内に流れる。
『ああん、ああっ、はぁ、はぁ、はぁ……』
『レイカ…、素敵だよ…』
『シンジ…。あんっ。そこ、そこお…』
『前立腺、エネルギー充填120パーセント』
『ターゲットスコープオープン!』
『快感指数100、101……』
『そろそろだな』
『レイカ、もうそろそろ…』
 スクリーンの中のレイカがこちらをじっと見つめ、頷く。
『い、いいわ。来て。シンジ』
『行くよ』
『目標まで、20センチ、10センチ、5、4、3、2、1、タッチダウン!侵入します!深度1センチ、2センチ、3センチ』
 その時、レイカに異変が起きた。苦しげに顔を顰めたのだ。
『あっ、ああっ、痛い…』
『レイカ、我慢して』
『う、うん』
『侵入再開します!深度4センチ』
『ああっ、だめえぇぇ…』
シンジの声が切羽詰った。『大丈夫かい、レイカ?今日は止めようか?』
 発令所に動揺が走った。
『なんだとっ!』
『ここまで来て、中止するだなんて…』
『〔本能〕を呼べ!』
『い、いえ、いいの、シンジ。ごめんなさい。我慢するから。最後までして』
『分かった…』
『よおおおっし!』『行け、行くのだ!』『ゴー、ゴー!』
『侵入再開!深度5センチ!処女膜破砕!貫通しました!』
『『『ばんざーい!ばんざーい!』』』
『引き続きピストン運動に入ります』
 司令は立ち上がり、満足げにスクリーンを眺めた。その中のレイカは唇を噛み締め、きつく目を瞑っている。シンジが荒く息を吐く音だけが発令所に響いている。『やったな』
一人の男が司令に振り返って言った。『ですが、司令。射出口はフィルムで塞がれていますが?』
 顎鬚を蓄えた司令は色眼鏡の真ん中を中指で押し、冷静に答えた。
『ふっ。問題ない』
『前立腺、圧力最大!』
『レイカ、イ、イクよ…』
『来て、来てぇぇええぇぇっっ……』
 司令はスクリーンをはったと睨み、右手を振り上げ、勢いよく前方に伸ばし叫んだ。
『射(て)ぇええええっっ!!』


(終劇)




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