第三章 女の子

 EVAパイロットであるアスカは怪我の応急処置の訓練も受けている。それには当然骨折の治療も含まれる。アスカは先ほどからケンスケの左手の包帯を解いていた。ケンスケは猫に襲われて崖から落ちた時に、左手を手首から少し下の所で折ってしまった。プラスチックの大きな定規を添え木代わりにしてあり、その上を包帯でぐるぐる巻きにしてあった。包帯を解き湿布を剥がすと内出血で紫色に染まった肌が見えた。アスカが遠慮無しにケンスケの手を診察している為ケンスケは顔をしかめ続けている。どうやら骨折はしたが解放骨折や粉砕骨折にはなっていないようだ。折れた骨もきちんとはめてある。二週間もすれば治ってしまうだろう。ただ擦過傷があり少し膿んでいたので消毒用アルコールで綺麗にして滅菌ガーゼを張り付けた。医療室には他にも医療品があるが肝心の医療知識がある者がいない。仕方なくアスカが見ているのだが、自他ともに認める天才少女とはいえさすがに医療となると範囲外らしくいささかぎこちない。その為先ほどからケンスケは激痛で歯を食いしばっている。瞳には涙が浮かんでいる。

 医療室にはアスカとヒカリとケンスケともう一人いて、その子は十歳ぐらいの女の子だ。ショートカットの丸顔にニキビがいっぱいある女の子は心配そうにアスカとケンスケを見ていたが、携帯に何か打ち込むとアスカに見せた。

(ケンスケお兄ちゃんはアサミのせいで怪我をしたの。優しくしてあげて)

 泣きそうな顔でアサミが携帯を見せたのでアスカが答えようとしたが、その前にケンスケが右手をアサミの方に出して大丈夫だと身振りで返した。無理に微笑みを浮かべる。その様子を見てアサミは頷いた。このままいると邪魔になりそうなのでヒカリが連れ出していった。

 アサミがいなくなった途端ケンスケは顔中歪めて歯を食いしばって堪えだした。アスカが再度包帯と添え木をして治療は終わった。

(痛み止めとか判ればして上げたいけど、さすがに判らないわ。調べておくから)

 アスカが側の端末にそう打ち込むと、ケンスケは手振りで感謝の意を示した。

(それにしてもアサミちゃん、メガネにべた惚れじゃない。いざとなるとやるもんね)

 ケンスケは肩を竦めたがおかげで左手に力が掛かって顔をしかめた。アスカは思わず吹きだした。

(慣れない事するからよ。それにしても見直したわ)

 ケンスケも右手を端末に伸ばした。

(俺だって自分で驚いてるよ。まさか俺がピンチの女の子を助けるなんてバカやるなんて)

(本能的に助けてしまうって本当なのね)

(かもね)

 ケンスケは二日前に海岸の側で気が付いたらしい。アスカ達と違いメガネ以外は素っ裸だった為初めは狼狽えたが、すぐにまったく周囲に人気がないことに気が付き思い切って街まで出たそうだ。コンビニとスーパーで衣服を調達した後街を探索した。初めは徒歩だったがカーナビ付きのEVの鍵が開いていたのでそれで辺りを調べることにした。

「この町にも誰もいないのかな」

 独り言が続くのは仕方がないだろう。ケンスケは半日の間ひとりぼっちだった。山中サバイバルゲームで孤独感を楽しむのとは違い、まったく人がいない街は不気味でしかたがない。鍵が開いていたEVに乗り込んで海岸沿いに南下しているが、今まで誰にも出会っていない。またラジオを点けたのはいいが何故か人の声がよく判らない。聞こえているのだが意味が判らない。

「こんな変な事ネルフがらみだよなぁ」

 またも呟きゆっくりとEVを海岸に沿って南下させていく。車を運転するのははじめてだが、周りに走っている車もいなければ人もいないのであちらこちらに接触させながら運転しているうちにすぐ慣れた。今はネルフのC級職員で技術職の父が関係している研究施設が伊豆半島の先端辺りにあるのでそこに向かっている。偶然だがアスカ達がいる施設だ。EVAとは直接関係無い施設なのでケンスケが訪ねても何とか入れて貰えそうなのでカーナビを使って向かっている。もっともそのカーナビも少し調子がおかしい。すぐに衛星を見失ってしまう。

 海岸線に沿って南下していくケンスケは、駅ごとにEVを止めてはその周辺を調べてまわった。だが誰もいない。家々に入っていくと主が消えて困っている飼い犬などが寄ってくるが、動く物と言えばそれぐらいだ。アスカ達と同じように、鎖で繋がれ空腹で元気の無い犬や檻の中で寂しげに鳴いている小鳥達は放してやった。四つほど街を探索した後ケンスケは諦めた。駅前の大きなホテルの前にEVを止めると勝手に入っていく。もちろんだれも止める者はいない。ホテルはクーラーが効いて涼しい。電力が尽きるまで当分この温度のままだろう。ケンスケはホテルのフロントの囲いの向こう側に行くと、カードキーの置き場からポケットに詰めれるだけのカードキーを詰めてエレベーターに向かった。

 客室は三階から始まっているので、そこで降りるとカードキーを使い客室を調べはじめた。三つ目できちんとベッドメークされている部屋があったのでそこを使う事にした。

 ふと気が付くと、窓ガラスの向こうの空が赤かった。疲れていたらしくベッドに寝転がった途端眠り込んでしまったようだ。もう夕方らしく腹が減ったので食い物を探そうと立ち上がり部屋を出る。エレベーターで一階に降り正面玄関から出たところでそれに出くわした。

 なんと猫の群に少女が襲われていた。少女は駐車場の隅の管理室の建物の外壁に追い込まれていた。ケンスケより少し年下の丸顔にニキビの少女は恐怖で腰を抜かして座り込み、ひきつった表情で棒きれを振り回している。悲鳴を上げている様だが声は聞こえない。少女を追い込んでいる猫達はほとんどが家猫らしく首輪をしている。皆低い声で鳴き少女を見ている。いかに少女がまだ130cmぐらいしかない子供でも棒を振り回せば普通猫は逃げていく。それが主達が消えて半日しか経っていないのにもう野生が復活して来たのか、世界のバランスが狂っているのかは判らぬが、どう見ても猫達は少女を食料と見ている。

 ケンスケはその光景を見て立ちすくんだ。猫の一匹がケンスケの方を向いたがすぐに少女の方を向いた。ぽっちゃりとした少女の方が美味しそうだと思ったのかもしれない。次の瞬間ケンスケは自分でも思っても見なかった行動に出た。アウトドアショップで見付けた、アメリカのナイフメーカーであるバックの鉈兼用のフィールドナイフを腰のスキャバードから引き抜くと右手に握った。五十年ぐらい前のハードボイルド作家の作品に出てきたナイフファイトの方法通り人差し指を鍔の上に置き手首全体を柔らかく保ち手全体から力を抜いた。そして咆哮を上げて猫達の方につっ込んでいった。もっとも咆哮だと思っているのはケンスケだけで、もし誰かが聞いたら悲鳴に聞こえるだろう。

 それはともかく猫にはケンスケの声が聞こえるらしい。振り向くと一斉にケンスケの方に向かって走って来た。先頭を走るまだ小猫と言っていい黒ぶちの猫がケンスケの顔に向かって跳ねた。如何に猫にジャンプ力が有るといっても普通はそれ程は高く跳べはしない。自分の身長の何倍もある壁をよじ登る時は壁の途中に爪を引っかけつつ登っていく。ところがその小猫は一気にケンスケの目前まで飛び上がった。爪は完全に肉球から伸び出て、ヒゲはぴんと張り目は血走り、家猫というより猛獣といった感じだ。

 ケンスケはとっさにナイフを横に払った。狙った訳ではないのだがナイフの先端が小猫の左前足を根元から切断して、胸の辺りを抉った。肋骨にナイフが当たり引っかかってナイフの勢いに押された為、小猫は横の方にふっ飛び地面に落ちた。それでも小猫はどうにか着地してケンスケを睨みあげた。辺りには真っ赤な獣血が散らばり特有の生臭さが漂い出した。

 ケンスケは睨みあげた小猫の視線の強さに固まってしまった。結構重傷の小猫だが殺されると思った。

 だが幸運は有る物だ。ケンスケに殺到していた猫達は、方向を一斉に小猫の方に変えて群がった。一匹がその小猫の首筋に、一匹が後ろ足にと何匹かがその小猫を咥えると一斉に去って行った。地面に落っこちた小猫の右前脚も一匹が咥えて去って行った。残りの猫達も後を追い消えて行った。

「なんなんだよ」

 その光景を見送って唖然としていたケンスケはやっとの事で呟いた。未だに目の前にかかげているナイフをみると血がべっとり付いている。手入れをしようとしたが手が動かない。体全体が強ばってこのまま前のめりに倒れそうだ。首は動いたので少し振っていると体中の強ばりも徐々に解けだして来た。とりあえずナイフの刃をハンカチで拭った。獣血の生臭さがまたひとしきり辺りに漂う。気持ち悪かったのでハンカチは捨てた。ナイフを腰のスキャバードに収めると少女の方に向かって歩いていく。駆けて行かなかったのは未だに体中が強ばっている為と、走り寄って脅かさないようにする為だ。

「もう大丈夫だから」

 もっともその配慮もあまり役には立たなかった。棒を振り回すのを止め唖然としていた少女はケンスケが近寄ってくるのを見て、すぐ近くまで来たケンスケが屈んで手を伸ばそうとした時いきなりまた棒を振り回しはじめた。どうやら血がかかっているケンスケが恐かったようだ。バランスが崩れている上にまだ身体が強ばっていたケンスケは、尻餅をつく様に後ろに倒れた。悪い事にそこは駐車場の端で後ろは切り立った崖に成っていた。そのままケンスケは1m下の県道に落ちてしまった。しかも悪い事にそこにはバス停がありしっかりと据えつけられたベンチがあった。

 ベンチの縁に左手がかかり全体重がそこにかかった。無気味な音と共にケンスケの左手がへし折れた。もっともそのお蔭で頭から落ちる事は免れたが身体の左側面をしたたか打ってしまった。1m程の高さとは言え下はアスファルトの地面で固い。体中に激痛が走る。もっともへし折れた左手の方がもっと痛い。痛みでしゃきっとして跳び起きたが痛みでベンチに座り込んだ。涙で霞む目を開いて左手を見るとぶらぶらとしている。

「はめなきゃ」

 まずは骨をはめないと、と思い右手で左手首を持ったが、痛くて悲鳴を上げてしまった。それに引っ張るが力が入らない。悲鳴を上げつつ何度か試みたが変わらない。泣きながら繰り返していると気配を感じた。顔を上げると先ほどの少女がいた。もう棒は持っていない。怖々とケンスケを見ている。どうやら少し落ち着いた様だ。

「丁度いい、手伝って」

 この子のせいだが怒る気には成らなかった。他人に会えたことが何より嬉しかった。ともかく手を治すのが先決だ。

「骨が折れた。左手を持って引っ張って」

 怖々と見ている少女は口をぱくぱくと動かした。何も聞こえない。

「ごめん、大声で言って。痛くて耳がよく聞こえない」

 ケンスケは泣き声で言ったが相変わらず少女は口をぱくぱくと動かしているだけだ。もしかしたら耳が聞こえない子かと思い、家捜しして見付けた携帯を取り出した。右手だけで打ち込む。

(耳が聞こえないの?)

 そう打ち込むと少女に見せた。少女は怖々と近寄り覗き込んだ。やがて震える手で携帯を受け取り打ち込みケンスケに見せた。

(アサミは耳聞こえるよ。でもお兄ちゃんの声だけが聞こえない。大丈夫?)

 その文字をじっとみたケンスケは暫く考えたが、ネルフがらみだとすると考えても仕方がないのでともかく左手を何とかする事にした。

(耳が聞こえない理由は判らない。それより左手が折れちゃったから治したい。横に座って。恐くないから)

 また受け取った携帯に打ち込む。痛くて目が霞み何度か打ち損ねる。それを見た少女は暫く見ていたが頷いてベンチの隣に座った。

(僕の左手首をしっかり持っていて。合図するまで絶対離さないでね)

 少女が頷いたのを見て携帯をポケットに戻すとケンスケは立ち上がった。座っている少女に左手首をしっかり固定させた。ケンスケの左手に触った時無気味な感触があったのか少女の身体に震えが走ったが、その後は目を瞑ってしっかりと握った。

 ケンスケは体重をかけて左手を引っ張った。口から悲鳴が漏れる。涙も溢れる。少しちびる。それでも今度は上手く骨をはめられた。まだしっかりと目を瞑り手を持っている少女の肩を叩くと少女は目を開いた。右手でOKマークをすると手を放した。

 少女はその後何をしていいのか判らず両手を口元に持って来てケンスケを見あげている。

 体中痛かったが泣き顔の少女に下から見上げられて、ケンスケは心臓が高鳴った。可愛い。暫くぼけっと見ていたが携帯を取り出した。

(僕は相田ケンスケ。いろいろ聞きたいけどとにかくその前に左手を何とかしたいから薬局を探すのを手伝って)

 少女は頷いた。

 暫く二人で探すとコンビニで医薬品も売っている店があった。救急セットがあったのでそれをとる。さすがに少女が持つ事にした。他にも湿布と包帯と添え木代わりのプラスチックの定規、それに食料を手に入れた。もっともおかげで重くなったが、キャスター付きのキャリアバッグもあったのでそれに入れて運ぶ事にした。少女はお金を払わなくていいのかと心配していたが、ケンスケが頭を撫でてやるととりあえず納得したようだ。

 道々携帯を使って話したところによると、少女の名前は九十九アサミと言うらしい。小学校六年生だそうだ。気が付くと学校の校門前のバス停のベンチにぽつんと座っていたらしい。そのせいなのかその私立の小学校の制服のブレザーを着ている。学校に誰もいなかったし辺りに誰もいなかったので慌てて家に帰ろうと急いでいた途中猫達に追われたらしい。そこまで話すと急に瞳に涙が溜まった。大口を開けて泣き出した。どうやら謝っているらしい。大丈夫だよと頭を撫でたケンスケは俺って格好いいかもと少しだけ思った。

 ケンスケは左手の応急処置をしたらアサミの家を見に行こうとなんとか宥めすかした。もっともホテルの部屋に着いて応急処置が始まると今度はケンスケの方が泣き出した。痛みで涙が止らない。湿布を張って大きな定規で上下から挟んで包帯でぐるぐる巻きにして貰った。アサミは恩を感じているのか、熱心にケンスケの世話をした。額の汗を拭いて、コップに飲み物を入れ渡す。先ほどは恐怖で錯乱していたが元々はしっかりした子らしい。今すぐにでも自宅に行きたいところだろうがおくびにも出さない。ケンスケもそれは判っていたので休みもそこそこにアサミの自宅に向かった。また何かあるといけないのでEVを使った。

(たまたまいないだけかもしれないから。ね)

 ホテルからそれ程離れていないアサミの自宅はもぬけの殻だった。家の中をどたばた走り回るように探していたアサミは玄関近くの居間で休んでいたケンスケの元まで来るとぺたりと座り込んで泣き出してしまった。十分ほどで泣きやんだがアサミは座り込んだまま途方に暮れてしまった。もう外は日が落ちかかっている。ともかく一人は恐いからここに泊っていってと言われた。ケンスケは異存は無い。それにやはり左手が痛くてたまらないので動くのが面倒だという事もある。

 アサミは小六だが、母子家庭という事もあり家事一般は出来る様だ。ケンスケが居間にある端末で情報を探っているとありあわせの物で夕食を作って持って来た。どうやらこの異変についても認識している様で腐り易い物から料理したようだ。居間の小さなテーブルに並んで座ると片手が不自由なケンスケに夕食を食べさせてくれた。ケンスケとしては恥ずかしいが嬉しい。アサミはどうやら何かやっていないと不安で仕方がないようだ。

 夕食が終わり片づけ終わったアサミが戻ってくると、これからの作戦を立てる事にした。まず知り合いにメールをいれまくる事にした。誰か応答が有ればそこでまた作戦を考える。無ければ明日アサミの母親の勤め先に向かった後、ケンスケの父が関係している施設に向かって出発する事にした。

(お兄ちゃんアサミ恐い。一緒に寝ていい?)

 客間に泊る事に成ったケンスケは、まずは睡眠だととにかく眠る事にした。とは言え、腕の痛みとこれからの事が頭をぐるぐる廻って眠れなかった。しばらくすると客間の襖が開きピンクのパジャマ姿のアサミが入ってきた。先ほど水音がしたのでシャワーを浴びたらしく、廊下の明かりの逆光の中で髪がきらきらと輝く小六のアサミがゾクッとする程綺麗に見えた。

 アサミは携帯を見せるとケンスケの右手の方に潜り込んだ。左手に触れるのはケンスケが痛がる事を判っているらしい。もっともケンスケの右側はすぐ壁だったので必然的にケンスケに密着する事に成った。それどころかケンスケの右腕にしがみ付いて来た。今までは気付かなかったが、アサミは身長は低くても胸などは相当発育の良い方らしく胸の丸みがはっきりと判りケンスケは慌てた。身体の前面をぴったしくっつけてくるので大事なところの感触まで判る。石鹸のいい匂いと女の子の匂いがする。ケンスケはパンツ一丁なので素肌に触れてしまっている。もっともすぐにアサミの身体の震えが伝わって来たのでケンスケは落ち着いた。それにアサミの鼻をすすり上げる音が聞こえて来た。声とは違って聞こえる様だ。怯え切っているらしい。少し変な気分になりかかっていたケンスケは元に戻った。

 頼られるって気分がいいなといささか不謹慎な事を考えつつケンスケは眠りに着いた。

 翌日いい匂いがするのでケンスケは目を覚ました。右手にしがみ付いていたアサミの姿は無かった。左手はあいかわらず痛いが昨日よりはいい。上半身を起こし辺りを見ると、脱ぎ散らかしてあったシャツとズボンと靴下がきちんと畳んで揃えてある。タオルも置いてある。EVから持って来たケンスケ用の下着もあった。

「いい子なんだなぁ」

 呟いた後これはチャンスだなどとつい思ってしまい、俺って酷い奴と頭を軽くこずいた。しばらくぼけっとしていると部屋の襖を叩く音がした。襖が少し開き隙間から携帯が突き出されたので、慌てて立ち上がり近寄って読むと(着替え手伝いますか?)とあった。ケンスケは携帯をとると(何とかしてみる)と打ち込みアサミの手に戻した。アサミは可愛い足音を立ててキッチンに向かっていった。ケンスケは苦労しつつシャツとズボンを身に付けるとダイニングキッチンに向かった。大きなエプロンを付けたアサミが台に乗って流しで包丁を使っていた。足音が聞こえたのかアサミは振り向いて少しぎこちないが笑顔を浮かべ、座って待っていてと手振りをした。ケンスケはとりあえず椅子に座って待った。やる事も無いのでアサミの背中を見詰める。ジーンズパンツにシャツ姿のアサミの手の動きには淀みが無い。家事は慣れている様だ。

「綾波に似てるのか」

 何となく誰かに似ていると思ったら、髪型がヘルメットの様に丸くそれだけはレイに似ていた。もっともアルビノというところを除いてもどこかいびつで病的なレイと違いアサミは健康優良児そのものだ。そのせいもあってその事はすぐに頭の隅に消えた。サンドイッチを切って皿に盛りつけていたアサミは、皿を両手に持ち振り向くと台を降りた。後ろ姿をじっと見ていたケンスケが慌てて視線を逸らしたので少し動きが止ったが、すぐに気を取り直すとケンスケの前にサンドイッチの皿を置き、自分の分をテーブルの反対側に置く。コンロで弱火で煮たっていたホットミルクをコップに取り分けケンスケと自分の皿の横に置くと席に付いた。

(牛乳とか卵とか腐り易い物を先に料理したのは賢いね)

 席に着いたはいいがどうしたらいいか判らずモジモジしているアサミに、そう打込んだ携帯を見せると、アサミは嬉しそうに微笑んだ。

 ケンスケは携帯を置き片手拝みにいただきますと言うと、朝食を食べはじめた。骨折を治そうと身体が求めているのかやたら腹が減っている為がっついてしまい詰め込むように食べてしまう。またたく間に食べ終わり顔を上げるとアサミがびっくりしていた。ケンスケの体格から見ると異様な早食いに見えたのだろう。アサミはまだ半分残っている自分のサンドイッチの皿を差し出した。ケンスケが顔を真っ赤にして受け取ったので思わずアサミは笑いだした。声は聞こえないがとても嬉しそうな表情にケンスケもつられて笑いだした。しばらく二人で笑ったあと残りのサンドイッチを半分ずつ食べた。

(ケンスケさん昨日はごめんなさい)

 食べ終わるとアサミはそう携帯に打ち込んで見せて頭を下げた。ケンスケは手を伸ばしてアサミの手をつっついた。頭を上げたアサミに右手でOKマークをしてみせた。

(しょうがないよ。ともかく今はこの異常事態を乗り切らないとね。端末持ってきてくれる?)

 俺って格好いいなと思いつつ携帯を受け取り打込んで見せた。アサミは思い切り頷くと立ち上がり軽い足音と共に寝室に向かった。

 キッチンで端末を使い話した結果、ともかくアサミの母親に会いに行こうという事に成った。ただし、すぐに戻って来られないかもしれないので旅の支度をしていくことにした。準備が終わりEVの運転席に座ったケンスケは考え込んでしまった。クラクションでモールス信号を鳴らしながら行くつもりだったが片手ではやりにくい。困っている理由を聞いたアサミは躊躇せずにケンスケとハンドルの間に入り座った。座席位置が高いEVなのでアサミでも道路が見えた。

(アサミがハンドルを動かすから)

 携帯に打ち込んで見せられたケンスケだが、同年代の女の子に腕の中にすっぽり入られてはたまった物ではない。しかもそれなりに可愛い顔が目の前にある。ケンスケは思わず生唾を飲み込んでしまった。それでアサミも気付いたようだ。慌てて助手席に行こうとした。ケンスケの太股に手をかけて動こうとしたが、誤って大事な所に手をついてしまった。よけい慌てたのでケンスケの折れている左手を思いきり叩いてしまった。ケンスケは悲鳴を上げた。声は聞こえなくても苦痛の表情は見れば判る。その表情をみてアサミの瞳に涙が溜まり、そして大声で泣き出した。

(そのあとなんとか痛みを我慢して、アサミちゃんなだめすかしてさ、アサミちゃんのお母さんが勤める出版社に行ったけど)

(もぬけの殻?)

 ケンスケは頷いた。

(そうしたら魂が抜けたように成って家にずっといてお母さんを待つとか言いだしたんだ。でも一人は危ないから少し強引だったけど連れて来た。暴れるのを取り押さえるの片手だったから大変だったよ)

(幼児誘拐)

 アスカがワザと見下したように見た。ケンスケは肩を竦めた。

(一応、ここの住所と持っている携帯の番号を書いた紙を置いてきたから)

(ベストの判断ね。ともかく連れて来たんだから世話しなさいよ。されるのかしら)

 アスカは頬を歪めてイヤらしい笑いを見せた。

(惣流、ミサトさんに似て来たね)

(よしてよ、あんなグラマーじゃないわ)

 キーボードから手を放すとアスカは溜め息をついた。

(加持さんならベストだけど、ミサトでもリツコでも、マヤでもいい。だれかいて欲しいわ)

(惣流らしくないね)

 今度はアスカが肩を竦めた。その時テーブルに置いてあった携帯が震えた。手に取り覗き込む。シンジ達からのメールだった。

 ユウイチの家にはやはり誰もいなかった。また泣き出したユウイチを宥めすかすと、シンジ達の住所と携帯の番号を書いた紙を玄関横の下駄箱の上に置き、第三新東京市に向かい出発した。

 新熱海から第三新東京市はすぐだ、三十分ほどで着いたシンジ達は大口をあけて唖然として突っ立っていた。第三新東京市とジオフロントが有った場所には何も無かった。直径14km程にもわたる大穴が地面に開いていた。危険なのでそれ程近くまでは行かなかったがジオフロントの深さまで抉れている様だ。

 しばらく見ていたシンジ達だがその様子を写真にとるとアスカ達に連絡をいれた。

 相談した結果、ともかく一旦戻る事にした。

(まずは人を探そうと思うのよ)

 戻って来たシンジ達とアスカ達は皆で食堂に集まり今後の方針を決める事にした。ユウイチはアサミが隣室で見てくれている。

(アサミやユウイチみたいに助けを待っている子供や逆に大人がどこかにいるかもしれないわ)

 アスカ達はテーブルに端末を人数分用意してチャットの様に打ち合わせをはじめた。

(とりあえずはそうするとしてその後はどうするの?ここにもそうはいられないよ。いつかは発電所も止まるし)

(それなら、いいところがあるよ)

 端末に向かっていた皆の視線がケンスケに集まった。

(俺の親父はジオフロントの生態系のシミュレーターの設計が仕事なんだ。親父が設計主任をした中に植物動物をいれた閉鎖生態系の維持の実験の為の施設がこのそばにあるんだ)

(バイオスフェア?)

(当たり惣流)

(なんやそれ?)

(それはね)

 アスカが得意顔で説明を打ち込みはじめた。バイオスフェアは地球環境のミニチュアを作り出し、宇宙空間などで太陽光などのエネルギー源だけを補給して自給自足のコロニーを作り出したりするための実験設備だ。中に植物プラントや発電プラントなどがあり、動物である人間もいれて自給自足の閉鎖空間を作り出す。地表では強化ガラスなどで隔離された空間を使い、小さな家ほどの大きさから小都市ほどの大きさまでいろいろある。

 ケンスケの説明によると、伊豆半島の山の中のネルフの土地に百人程の人間が住めるバイオスフェアの施設があるそうだ。エネルギー源として太陽電池と付近の河川の小型水力発電があり、制御は多重化されたコンピューターを持ち自己復旧用の装置もある為耐久年数は一応二百年程になるそうだ。

(使えそうね。実際そこに住まなくても、その周辺に住んでいざという時利用する形にしてもいいし)

(そやな。その外で畑作って狩りをして夜はそこで寝てもええ)

(じゃ、本拠地をそこに移す調査と他の生き残りの調査を平行してやりましょう。いい?)

 アスカの提案に特に皆異論は無いらしく、その後細かい計画を立てはじめた。結局ケンスケとアスカでルナガーデン1を明日見に行く事になった。ルナガーデン1はそのバイオスフェアの名前だ。シンジとヒカリで海岸沿いを人を探してまわり、トウジは建物に残って子供達と留守番だ。これは拳銃を撃てる者を一人づつ置いた結果こうなった。トウジ達三人は研究所の通信設備を使いとにかく誰かに連絡がつくように頑張ってみる事にした。ユウイチも端末は打てるので、ネット上の有名な掲示板に書き込みを続ける予定だ。

 打ち合わせが終る頃には、外は夕日の赤で染まっていた。夕食は外の砂浜でバーベキューをする事にした。海からの悪臭が何故かおさまってきた事もあるし、卵や魚などは早めに食べた方がいいからだ。午前中に自動精密解析装置にかけていた海水の分析結果によると、いろいろな蛋白質やアミノ酸や脂肪、糖類などの混合物が海水に溶けた状態に成っていて、それを栄養として細菌やプランクトンが大発生して悪臭を発生していたらしい。悪臭が消えた理由は判らない。

 こんな状況でも海辺でバーベキューとなればそれなりに楽しい。アスカが運転するピックアップトラックで近くの商店街に行き材料の調達をした。よい子のアサミは店から材料を持ちだす度にいいのかという視線をケンスケに向けたが、その度に頭を撫でられていた。材料を集め終わると研究所近くの浜辺でさっそく始める。キャンプ用の薪を山積みにして火を点けた。日曜大工の店で買って来た長さ一メートル程の鉄棒を砂浜に二本突きたてて交差させ上十センチメートル程の所で針金でしっかりと結んだ。薪の山の反対側にも同じ様にして立てた。やはり一メートル程の長さの鉄棒に肉屋から持って来た十キログラムほどの牛肉の塊を突き刺して乗せた。

 薪に着火剤で火を点けるとゆっくり牛肉の塊を焙りはじめた。他にも鉄棒に野菜や肉の塊を刺して焚き火の側に立てた。他にもアルミホイルに魚とバターなどを入れて焚き火の側に置いた。

 アスカとシンジ、トウジとヒカリ、ケンスケとアサミが焚き火を囲んで座った。ユウイチはトウジとシンジの間に座った。

 シンジはアスカを見あげた。

 とりあえず焼く物を用意した後、アサミとユウイチ以外にアスカが缶ビールを配ったからだ。

(いいのよ。私達は大人に成らないといけない。責任も自由もよ。これは儀式よ)

 アスカは携帯にそう打込むとシンジに渡した。シンジは暫く見た後トウジに渡し皆は順番に見ていった。アサミまで行くと、アサミが携帯に何か打込んでアスカに渡した。

(アサミも大人に成る)

 渡された携帯をしばらく見ていたアスカはヒカリに見せた後打ち込んでアサミに返した。

(じゃケンスケにもらって)

 そしてアスカは自分の缶ビールを一気に飲み干しむせた。そんな親友を見ていたヒカリは缶ビールのプルトップを引いた。トウジ達が撮ってきた写真の第三新東京市の大穴を思い出した。ビールの缶が歪んで見えたので、左手で涙を拭く。

「ノゾミ、お姉ちゃん、お父さん、さようなら」

 そう呟くとビールを口に少しだけ含んで、隣のトウジに寄り掛かった。

つづく

■まっこう

■INDEX

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