第六章 裏声

 綾波レイは華奢に見えるが結構力持ちだ。EVAの操縦はその本人の精神力や想像力など心の 力による物が多い。ゆえ心を鍛える事が重要に成る。心を鍛えるのに何が一番手っ取り早いかと 言うと身体を鍛える事だそうだ。ネルフでシンクロテストの他に持久力などを鍛えたりするトレー ニングを小さい時からやっていたし、格闘術のトレーニングもしていた。
 レイは食事で味覚を楽しむ事などは興味が無いし、甘い物にも興味は無い。ゆえネルフから支 給される味気ない完全栄養食品でもまったく支障は無い。それらを食べて毎日トレーニングをし ていた為、筋肉質と言っていい。力自慢の2-Aの男子生徒と腕相撲をやる羽目になり試合開始 早々に相手の拳を机に叩きつけて完勝してしまった事がある。

 そんな筋肉質のレイでもやはり20kgある荷物は重そうだ。それも仕方がないだろう。20 kgは彼女の体重の半分近くになる。肩にベルトをかけて軽合金のケースをぶら下げているレイ は傾きつつ歩いている。自分の部屋から苦労して屋上までその荷物を運ぶと、額に浮いた汗を手 で拭った。ジュラルミンのケースを屋上のコンクリートに置きその横に座る。暑いし汗でべとべ とするのでTシャツを脱いだ。ブラをしていない結構大きな胸が揺れた。

 ふと気が付いたように自分の胸を触ってみた。暫くそうしていた。

 「邪魔」

 呟くとケースに裸の背中をもたれた。温度自体は上がっていても軽合金のケースは放熱効果が いいのでひやりとする。気持ちがいい。目を瞑った。手は膝上で切ったジーンズパンツの股間の 上辺りに置いた。首から力を抜いて上を向き目を開くと満月が浮かんでいる。白い輝きは有史以 前から変わっていない。暫くそうしていたがやがて勢い良く立ち上がった。

 また胸が揺れた。

 ジュラルミンのケースを開けると中から反射望遠鏡とそれを乗せる三脚が見えた。その他にも 赤道儀やアイピースなども詰まっている。レイはまず三脚を取り出し足を伸ばした。三脚のテレ スコピック状の足の一段目の根元のレバーを捻るとそこから先が固定された。二段目の根元のレ バーも捻るとその足自体が固定される。三本についてそれを行った後足を開いて屋上に置いた。 屋上の排水用の小さな溝に一本の足の先端がはまってしまってがたぴしするので少しずらす。
 三脚の準備が終ったので今度は赤道儀をその上に取りつけた。天空の星ぼしは地球の自転軸を 延長した先にある天の北極南極を中心に回転する。その為望遠鏡でみていると星は少しずつ動い ていく。特に高倍率の望遠鏡は視野が狭いのでその傾向が顕著だ。それを防止するには望遠鏡を 地球の自転に合わせて、地球の自転に平行な軸に沿って反対方向に廻してやればいい。その為の 機械が赤道儀だ。三脚に赤道儀を乗せてネジでしっかり固定するとレイは屈んだ。ふと下を見る。 大きい胸が揺れて邪魔だ。暫くそうしていたが視線をケースの方へ飛ばした。開いたケースの縁 に手ぬぐいがかかっている。結構長い手ぬぐいだ。立ち上がると手ぬぐいを手に取り胸を覆って 後ろで結んだ。丸い胸はひしゃげたがこれで動き易く成った。
 レイはまた三脚の前まで来るとしゃがんだ。赤道儀の回転軸に埋め込まれた小型の望遠鏡を覗 き込む。セカンドインパクト以前の設定も出来るその望遠鏡を、1998年の北極星にゲージを 合わせるように赤道儀の調整ダイアルを回していく。大体合わせたところで身を起こす。今度は 赤道儀の上に直径10cm、長さ30cm程のコンパクトな反射型望遠鏡を取り付けた。アイピー スを差し込むと覗いて見る。たまたま真っ正面に有った星がボケて見えた。ピントつまみをいじ ると小さくなっていく。ピントを合わせると立ち上がり夜空を見上げる。もともとレイの赤い瞳 は視力は弱い。ぼんやりとしか見えない。昔はネルフ特製のコンタクトをつけていたが今はない。 しばらく夜空を見上げていたレイだがケースを椅子にして座り望遠鏡で観測を始めた。

「星は綺麗かい?」

 しばらくすると後ろから声がかかった。振り向くと、レイと同じ白髪で赤い瞳の少年が立って いた。手にグラスを持っている。レイに渡した。

「かもしれない」

 レイはカヲルから受け取ったグラスからお茶を啜った。冷えていないが仕方がないだろう。

「君は不思議だね。もうデーターは取れただろう。なんでそんな事を続けているのかな」
「判らない」

 レイはそう言うとお茶を啜った。カヲルは肩を竦めた。

「まあ僕は君につき合うよ。時間はたっぷりある。前みたいに永遠にある訳ではないけどね」

 そう言ってカヲルは階段に向かい歩いて行った。レイは暫くお茶を啜っていたが、ケースに座っ てまた空を見はじめた。










 レイが気が付いたのはどことも知らぬ街中の交差点だった。補完空間で特にやる事が無くなっ たので、カヲルと共に現世に戻る事にした。シンジやアスカに会ってみたくなったという事もあ る。

「ここどこ?」

 呟いてから首をひねった。無駄な事を呟く癖は無い筈だ。それに身体にも違和感がある。自分 の手足を見回してみたが特に異常はなさそうだ。いつもの様にと言うべきか第壱中の制服から出 ている手足は白かった。辺りを見回すと場所はすぐ判った。東京の調布にあるネルフの施設がす ぐ横にあった。昔は国立大学だったがセカンドインパクト後にネルフの研究施設に成っていた。 レイはそこで調整を受けた事がある。
 無人の街角にしばらく突っ立っていたレイだが、通りの向こうに目を向けた。声がしたからだ。

「久ぶりだね」

 通りの向うから一人の少年が歩いて来た。黒のズボンにシャツのその少年はやはり白髪と赤い 瞳を持っていた。

「さっきまで一緒にいた」
「そうだね。ただこの世界に来る時、時間が過ぎたかもしれない」

 カヲルは近づいてくると微笑みを浮かべた。以前の空虚な笑いと違い、妙に生々しさを感じた レイは少し下がってしまった。

「あれ?」

 そしてずり下がった自分を不思議に思い足が止った。

「どうしたんだい?」
「今、多分恐怖を感じた」
「そうかい。僕は君の味方さ」
「そう」

 レイはそう言うと何か安心して溜め息をついた。

「それより困った事がある。どうやら僕はATフィールドを張れないらしい。いつもはATフィー ルドで視力を調節していたけど、今はよく見えないようだ。君はどうなんだい?君もこの世界に 来た時何か変わってしまったかい?」
「身体に違和感がある」
「そうかい。ともかくここは何処か知っているかい?」
「知っている」

 レイは以前ここの施設にいた事を話した。

「そうかい。じゃ次は今がいつかという事だね」

 カヲルはそう言うと辺りを見回した。交差点から少し離れた所にコンビニの看板らしきものが 見えたのでレイの手を取り歩きはじめた。手を捕まれて一瞬びくりと震えたレイだが危害を加え られそうには思わなかったのでそのまま付いて行く事にした。

「何か君も僕も行動が変みたいだ」
「そう、ね」

 二人はコンビニに着くと手を離して物色しはじめた。新聞はレイが覚えている最後の日付けと 同じだった。店内にある時計のカレンダーはそれから五日経っている事を示している。

「とりあえずこの世界に送り出した人間は全部でどのくらいだったかな」
「覚えていない」
「僕もだ。お互いいい加減な神の使徒だね」
「そう」

 レイはカヲルを気にせずに、紙袋に食べ物や飲み物を入れて行く。少し考えてトイレットペー パーやタオルも入れた。

「君は不自由だね。食べ物を取るんだ」
「そうよ。カヲル君みたいに完全に使徒じゃない、なかったから」
「そうだったね」

 レイは自分に必要だと思える物を紙袋に詰めると、カヲルを気にせずコンビニを出た。カヲル も気にせずに付いて行く。レイは施設の広い敷地に入るとどんどん歩いて行く。一見して宿泊施 設に見える建物に入って行く。入り口もホテルのロビーに似ていた。もちろん誰もいない。カウ ンターのむこうに廻ると受け付けの端末に触れる。幸いな事に生きている。この建物の状態を調 べてみると、水や電気は貯えがある。二人だけなら相当持ちそうだ。レイは部屋のロックを全て 外した。これで自由に使える。
 レイは階段に向かって行く。カヲルも付いて行く。一つ一つとを開けて調べていくうちにベッ トメークしたある部屋があった。運良くというべきかツインの部屋だ。相当広いその部屋には隅 に机があり端末が乗っていた。ここは自炊をしていいのか簡単なキッチンまである。レイはベッ ドに荷物を置くとカヲルを気にせずに端末で調べ物をはじめた。暫くレイの頭を見ていたカヲル だが肩をすくめると服を脱ぎはじめた。素っ裸に成るとユニットバスでシャワーを浴びはじめた。




「どうやら僕は本当に変わってしまったようだ」

 後ろから声がしたのでレイが振り向くと、シャワーを浴びたカヲルが立っていた。部屋に備え つけのガウンを身に着けている。

「多分そうだと思うのだけど、空腹を感じているみたいだ」
「空腹?」
「今まで感じた事がない感覚が腹部にある。多分空腹だと思う。今まで物を食べた事がないから 判らない。水分さえ取っていれば良かった」
「そう」

 レイはベッドに手を伸ばすと紙袋から菓子パンを取り出した。カヲルに差し出す。

「まず食べてみたらいい。人と同じ内臓はある筈だから、空腹なら食べれば気持ちいい筈」
「ありがとう。そうしてみよう」

 カヲルは菓子パンを受け取るとビニールの袋を引き裂いた。クリームパンを手に取る。

「食べ方判る?」
「齧って咬んで飲み込めばいいのかい?」
「そう」

 カヲルはクリームパンを少し齧り取った。何度も租借する。そして飲み込む。

「美味しいという感触なのかな」

 カヲルはそう呟きクリームパンを暫く眺めたが、また食べはじめた。

「もう一ついいかい」

 端末で調査をしていたレイは後ろを振り向いた。カヲルがベッドに座り紙袋を見ている。

「全部いい。その代わりまた調達しておいて」

 レイはそう言うとまた調査を再開した。




「君は眠る習慣はあったのかい」
「あった」

 調査やとりあえず生き延びる為の資材調達をしていると夜に成った。やたら食欲がでてしまっ たカヲルが料理をした。と言ってもパンや肉を焼いたりしただけだ。レイはと言えばコンビニ弁 当を温めただけだ。今日の予定は終ったので寝る事にした。

「こうやっていると、シンジ君と泊った事を思いだすよ」
「そう」

 ベッドは二つあるのでもちろん別々に寝ている。普段なら面している甲州街道から車の音が聞 こえてくるが、今は静寂そのものだ。

「居場所が見つかってよかったね」
「そうね」

 シンジ達の居場所は簡単に見つかった。ネルフの施設で動いている物を検索した所すぐに割り 出せた。

「ところで君はいつから恐怖心を持つように成ったんだい?」
「恐怖心?」
「さっき肉の塊に齧り付いていた僕を見ていた君の様子は恐怖だと思うが違うかい?」
「かもしれない」

 夕食時に牛肉の塊を半ば手掴みで食べるカヲルを見てレイは自然と身を離してしまう自分を感 じていた。それを思い出したレイは横を向く。カヲルも見ているらしく、常夜燈の微かな光を反 射した瞳が紅く輝いている。

「もしかしたら、僕達は人間に成ったのかもしれない」
「ええ」
「実は今、僕は君を綺麗だと思っている。そしてセックスをしてみたいと思っている」
「えっ」

 レイはベッドで身を固くした。自分で恐怖の感情を感じているのが判った。レイの様子を知っ てか知らずかカヲルは身を起こした。レイはますます竦んでしまい身を小さくする。

「こういう時は頼めばしてくれるのかい?」
「駄目」

 レイは思わず目を瞑った。身体が震えているのが判る。自然に口から呻き声のような物が漏れ てしまう。目から自然に涙が流れ出す。

「嫌、嫌」

 そして今度ははっきりと泣き出してしまった。徐々に大きな声に成ってくる。そのうちレイは 大声で泣きはじめた。

「泣いているのかい?」

 先ほどまで勃起していたカヲルだがレイが泣き出したので、それどころではなくなったようだ。 慌てベッドを降り近寄っていく。もっとも逆効果だったようだ。カヲルの気配のせいでレイは騒 がしいほどの声で泣きはじめた。

「判った、離れる。近寄らない」

 カヲルが慌ててベッドに戻った。

「大丈夫だよ。君には手を触れない。一人で処理をしてみるから」

 カヲルはそう言うと、一人でユニットバスに向かった。レイはいつまでも泣いていた。




 泣き疲れて眠り込んだレイが目を覚ましたのは、翌朝美味しい匂いが鼻をくすぐったからだっ た。翌朝と言ってももう昼近い。あまり睡眠は取らないレイだが戻って来て以来体調が変だ。目 を開くと白い天井が見えた。
 何か音もする。レイは身体を起こすとキッチンの方を向く。カヲルの後ろ姿があった。料理を しているらしい。どこから探して来たのか料理の本を脇に置いて何かを炒めている。

「あつっ」

 油がハネたようだ。慌ててフライパンを脇に退けたカヲルは、蛇口を捻り手を流水に入れた。 何とはなしに後ろを見る。

「おはよう」

 レイが起きたのに気が付いたようだ。カヲルは微笑んだ。

「おはよう」

 レイはとりあえず挨拶を返したが無表情のままだ。じっとカヲルを見ている。

「昨日はすまなかったね」

 カヲルが言った途端だった。無表情だったレイの顔が歪んだ。どうやら昨日あった事を思い出 したようだ。ベッドの上で壁際まで下がり身体を固くした。そして瞳に涙が溜まってくる。口の 辺りが震え出した。

「大丈夫だ。少なくとも君を襲ったりはしないよ。処理の方法は判ったからね。とりあえず当分 1m以内に近づかない事にするよ。それでいいかい?」

 すでに涙が滴り始めたレイだがなんとか頷いた。




 部屋には結構大きな机がある。その両端にカヲルの作った朝食が置かれた。スクランブルエッ グのような物。炒め過ぎてしなしなに成ったモヤシとキャベツが皿に乗っている。あと少し焦げ てしまった食パンだ。牛乳のパックもある。

「料理というものは面白い物だね。リリンの産みだした文化の極みの一つだね」

 いつもの様に陽気なカヲルは反対側に座ったレイに微笑みかけた。距離があるので恐くないの か、レイは大人しく座っている。

「昨夜いろいろ考えてみた。食べながら聞いてくれないかい?」

 レイは頷いた。

「確かこういう時はいただきますと言う、違うかい?」
「いただきます」

 レイは呟くように言うとパンを齧り始めた。一口齧った後、バターを塗った。取り合えず皿に 置くと、今度はスクランブルエッグに箸を伸ばした。

「塩の入れ過ぎ」
「そうかい?僕はまだ味覚が整理されていないからね」

 カヲルはしょっぱいスクランブルエッグを何食わぬ顔で食べていく。

「多分こちらの世界に来る時、僕達は人間に成ってしまったのではないかな」
「人間?」

 俯き気味に箸を進めていたレイは顔を上げた。

「恐怖心、食欲、性欲、これらは生命を受け継ぎ存続させるため存在する。僕たちは使徒だった し、それらは必要なかった。この世界に舞い戻った時何かの具合で人間に成ったとしたら、僕達 はそれに慣れていないからもて余しても不思議では無いだろう」

 レイは暫くカヲルを見ていたがまた俯き気味になり箸を進めた。

「そうだとしたら困ったものだね。僕達は人間の個体としては貧弱だ。内臓の奇形も多いし、肌 も瞳も弱い。視力だって相当弱いしね」
「もて余しているの?」

 レイの声に微かに震えがある。

「何をだい?」
「性欲」
「とりあえずオナニーをやってみたから何とかなりそうだよ」
「そう」
「その事については安心していいよ」
「私達このまま碇君達の元へ行くと邪魔になる。私は恐怖心で能力が落ちている。カヲル君は私 以上に常識が欠如している」
「そうだね。じゃ少しここで暮す事にしよう。常識を教えてくれるかな」
「うん」

 レイは野菜炒めもどきに箸を伸ばした。口に運ぶ。

「炒める時、砂糖は入れない方がいい」




 その日から二人の生活が始まった。レイが調べた所、レイ達がいる施設もある程度の自立して 稼働出来るように成っている為、二人なら半年ぐらいは生きていけるようだ。今は二人とも視力 が低下しているので、夜は基本的に出歩かないように、昼物資の調達をする事にした。また一般 常識はカヲルが何かをやらかしたその都度レイが教えることに成った。

 そしてそれに気が付いたのは翌日の事だった。

 翌朝レイは何となく目が覚めた。昨夜から隣の部屋に寝ることにしている。身を起こす。しば らく寝ぼけまなこでそうしていた。目を擦ると布団を静かに剥いだ。ピンクのパジャマだ。静か に足を下ろすとスリッパを履きユニットバスに向かう。昨日のうちに用意してあった歯ブラシで 歯をこすりだした。

「見えない」

 昨日以上に視力が落ちている。以前の使徒の身体は何らかの視力を補正する能力があったよう だ。

「どうしよう」

 また視界が歪んで来た。何か変だ。手を目に持って行く。濡れている。

「また泣いている」

 呟くと何やら余計悲しく成って来た。レイは意味もなく泣きながら歯をこすり続けた。

 しばらくすると歯がさっぱりしたのでゆすぐと、今度は顔を洗う。手のひらが頬に触れると少 しざらざらしている。

「レイはいろいろな所に遺伝子欠陥があるわ。肌もその一つよ。処置無しで太陽にあたるのは自 殺行為よ」

 リツコの言葉を思い出した。

「私欠陥品」

 また泣けてきた。




 顔を洗い終わると少し気分も収まった。今日は長袖や手袋など紫外線対策の為の衣料を集める 事にした。とりあえずいつもの制服に着替えると部屋を出た。隣のカヲルを起こそうとも思った がその前に外の空気を浴びたくなり建物の外に出た。
 この施設は敷地の中に小さな林もある。そのせいで小鳥達の五月蝿いぐらいに囀っている。少 し曇っているが朝日がさしている。

 前の身体と何かが違う。薄皮一枚通して感じていたような空気やお日さまが、直に感じられる。
「人間に成った」

 また涙が溜まって来た。でも今回は涙が出ても拭く気が起きなかった。厳しいが世界が接して くれるのが嬉しかった。レイは暫く霞んでいる目で辺りを眺めた。

「あっ」

 思わず声を出した。唖然として元から丸い目を余計丸くする。慌てて建物に戻るとカヲルの部 屋をノックする。

「おはよう。なんだい」

 丁度着替えた後らしい。昨日と同じ服装のままのカヲルが出て来た。

「太陽が東から上がっている」
「そうかい。太陽はいいね」
「でなくて。太陽は西から上がるものよ」
「そう言えば、そうだったっけ?」

 カヲルはいつものアルカイックスマイルのまま、部屋を出た。レイについて建物を出る。

「あっちが東」

 レイが指差す方向に太陽が昇っていた。

「あれ?」

 レイは首をひねる。

「いい気がする」

 しばらく二人は立っていた。そして泣き声が聞こえだした。

「私壊れて行ってる、うううううう」

 そしてぺたりと地面に腰を落として派手に涙をまき散らしながらレイは泣き続けた。




 なだめるのには慣れていないカヲルはとりあえずレイをほおって置いたが、そのうち日差しが 強くなって来たので建物の中に引っ張っていく。直射日光は今の二人にとっては毒だ。とりあえ ず朝食を作る頃にはレイも落ち着いて来た。

「さっきの事だけど」
「なんだい」

 昨日より形が良くなったカヲルの卵料理をつついていたレイは顔を上げた。

「確かに太陽は東から上がる。けど少し方向が違う気がする」
「僕もそんな気がするよ。詳しくは判らないけどね」
「望遠鏡を探して星の動きを見てみる。太陽を観測するのは私達危険だから」
「そうだね。じゃ今日はそれを探そう」
「私EVの運転が出来る。そうすれば日に当たらなくてすむ」
「名案だね」

 カヲルは微笑んだ。だがすぐに困惑の表情を浮かべた。またレイが泣き出したからだ。

「どうしたんだい?」
「ごめんなさい、私の為にこんな手間をかけさせて」

 カヲルはしばらく泣いているレイを見ていた。

「どんな感じなんだい?」
「はい?」

 レイは顔を上げた。

「泣くという事さ。空腹も判った、性欲も感じた。ただ泣くという感覚は判らない。自分が不利 になったりした時泣くという事はどういう事なんだい?」
「どう?って」
「それが判らないから聞きたいのさ。泣いても事態は良くならないと思うけど」
「ごめんなさい。迷惑ね」

 また派手に表情が崩れてレイは大口を開けて泣き始めた。口の中に入っていた卵料理の切れ端 が落ちて汚い。カヲルはずっとそんなレイを見ていた。

「僕はもしかしたら羨ましいのかもしれない」

 カヲルは立ち上がるとテーブルの端に置いてあるタオルを取った。レイに近づくと荒っぽく顔 を拭いた。レイは変な声を出してやっと泣きやんだ。カヲルは机も拭いた後タオルを置くと、横 の椅子に座る。まだ瞳に涙を溜めたままのレイはカヲルの方を向いた。

「以前シンジ君と一晩話して人の感情という物を知ったよ。ただ悲しいという事だけは判らなかっ た。君は一足先に行ってしまったのだね」
「私は以前にも泣いた事があったから」
「そうかい」

 カヲルは手をゆっくりレイの顔に伸ばした。レイは視線で手を追う。カヲルはレイの頬にまた 垂れて来た涙を人差し指で掬った。

「綺麗な物だね」

 カヲルは指先の涙を見詰めた。

「僕達は人間に成っていいのだろうか?」
「判らない。使徒だった時は答えが自明だった気がするけど、今はもう判らない」
「そうだね。ところで僕達は何の使徒だったのだろう」
「神」
「会った事はあるかい?」
「覚えていない」
「ぼくもさ」

 カヲルは暫く指先の涙を眺めていたがやがて立ち上がった。

「ともかく、もう人間なら努力という物をしてみないかい?」
「そうね」

 レイは目の辺りを手で擦った。

 食事が終ると、出来るだけ長袖で太陽光に当たらない衣服に着替えると二人で駅に向かう。E Vもあるが出来るだけバッテリィーは使いたくない。駅前のビルの店舗でまず着る物を調達する 事にした。通気性はよいが、日に焼けない長袖のシャツやブラウス、ズボンもだ。日焼け防止に、 手首まで肘までの絹手袋も手に入れる。帽子にサングラスもだ。ショッピングカートに荷物を入 れビルの中を隈無くまわった。五回の子供用品売場の隅に天体望遠鏡のコーナーがあった。
 デパートの一コーナーにしては品揃えが充実していて、赤道儀式の望遠鏡もおいてある。大き なジュラルミンケースに一式丸ごとはいるタイプもあったので、それを持って行くことにした。

「僕が持とうかい?」
「自分で持つ」

 レイはそう言い右肩にそのケースのベルトを背負い左手でカートを引いてエレベーターに向かっ た。とりあえず付いていくことにしたカヲルだがエレベーター近くで慌ててレイに駆け寄った。 やはり無理があるのかレイがふらついて尻餅を付いてしまった。

「いたい」

 しかも尻餅を付いたついでにケースの角に後頭部をぶつけてしまった。

「いたい、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」

 レイはまた派手に泣き出してしまった。

「見せてごらん」

 カヲルがレイの剛毛をかき分けて見てみたが切れたりはしていないようだ。

「切れてはいない。少し待っていて」

 子供用品売場の子供用衣料の置き場から象やパンダの模様が入ったタオルを持ってくるとレイ に渡した。レイはしばらくタオルを顔に当てて泣いていた。

「やっぱり僕が持つことにするよ。君より力はあるからね」
「そうね」

 五分後やっと泣きやんだレイにカヲルが言うと今度は素直にレイは従うことにした。
 そんな事もあったのでその日は戻ることにした。

「で、望遠鏡で何が判るのかな?」
「星の動きを観測すれば正確な地球の自転軸の方向が判る」





 施設まで戻ってくるとレイは早速望遠鏡の組立をはじめた。以前天体好きのクラスメートに教 えて貰った事があるせいかスムーズに組み立ている。室内で一旦組み立てた後もう一度ケースに 戻した。

「夜に成ったら屋上で観測すればいい」
「そうかい」




「でどうだい?」
「よく判らない」

 夜屋上で望遠鏡を組み立てて二人は観測をした。もっともカヲルはあまり興味が無いらしく、 すぐに屋上に寝転んで腕枕で鼻歌を歌いはじめた。
 レイの方は探して来た携帯端末に望遠鏡からの観測結果を入力して、施設のデーターベースと 照合したりシミュレーションしたりしている。

「データーベースにあるセカンドインパクト以前の天体運行とほぼ同じだと言う事が判った。だ けど何か違う様に思える」
「そうかい」

 鼻歌を止めたカヲルは身を起こした。

「シンジ君達の所に行って一緒に調べた方が良くないかい?」
「今行けばきっと碇君達は混乱する。私達は碇君達にとって使徒でも人間でも何でもない。少な くとも私達自身が自分達を何か判るまではここにいる」
「それなら、つきあうよ。それにしても」

 カヲルはレイの顔を見あげた。レイの顔の横に満月が浮かんでいる。

「君は丸顔だね」
「……怒った方がいい気がする」

 カヲルの方を振り向いたレイは、また屋上に寝転がり鼻歌を歌いはじめたカヲルに溜め息をつ いた。ついてから何故付いたか判らず首をひねった。




 そんなこんなで二人は共同生活を始めた。レイは毎日夜に成ると観測をして、昼間はカヲルと 他の調査と生活物資の調達に当てた。変化は一週間後に訪れた。薄曇りのその日の朝レイは一人 で駅ビルまで出かけた。お目当ては化粧品売り場と婦人服の売り場だ。人間に成ったのなら人間 らしい事をした方がいいのではないかと二人で話し合った結果、カヲルは料理を覚えること、レ イは化粧や着こなしを身に付ける事をする事にした。化粧や着こなしと言っても何も判らないの で、施設のデーターベースから事例を探してそれを真似してみる事にした。
 化粧品のコーナーに着くと色とりどりの口紅やコンパクトなどがレイを迎えた。レイは目につ いた物をキャリアーにどんどん入れて行く。

「アスカが使ってた」

 ピンクの口紅を手に取るとしげしげと見た。昔シンクロテストが終った後洗面所でアスカが使っ ていた。興味深そうな顔をしていたのかアスカがレイを鏡の前に引っ張ってつけてくれた。「ア スカ様の次ぐらいには美人なんだから、口紅ぐらい付けなさいよ」とはその時の弁だ。

「あの時は」

 あの時は感謝の言葉は言わなかった。今度会ったらありがとうと言うつもりだ。

「アスカは綺麗だった」

 身近で同年代で綺麗な女性と言うとアスカ以外しらない。と言うより服をじっくり見た事があ るのはアスカぐらいだ。顔立ちもプロポーションも違うが参考にする事にした。
 しばらくするとキャリアーが化粧品だらけに成ったので帰る事にした。化粧品売り場は六階だ がまだエレベーターは使えるので、キャリアーいっぱいの化粧品もそれほど重くない。化粧の事 を考えて何となく嬉しく成ったレイは、一階の売り場を知らず知らずのうちに鼻歌交じりで通り 過ぎて行く。出口近くで鼻歌に気がつき、立ち止まった。

「うつった」

 出口のガラスに映っている自分の顔が微かに赤く成っているのが見える。

「恥ずかしい……のかな」

 呟くと外に出た。少し日が出てきたが相変わらず薄曇りで過ごしやすい。レイはキャリアーを 引っ張って施設の方に向かった。

 にゃぁ~~

 一つ目の交差点に差しかかった所で猫の声が聞こえて来た。横を向く。猫が三匹ゆっくりとレ イの方へ歩いて来た。レイは思わず後ずさった。表情が歪む。視力が落ちたレイの目でもはっき りとわかるほど、猫の目が底光りしていた。レイはキャリアーを放り出すと施設に向かって走り 出した。その辺りの思い切りのよさはチルドレン時の訓練の賜物だろう。施設で自動拳銃を見つ けたが、特に危険はないだろうと携帯していなかったし、ナイフ類も持っていない。走り出した レイだが次の交差点近くまで来ると慌てて止った。交差点の影から今度は八匹猫が現れた。八匹 より三匹の方がいいと振り向いた所で固まってしまった。どこから出てきたのか、十五匹に増え ていた。
 猫達はゆっくりと広がりつつレイに近づいて来た。レイは道の真ん中にいるので左右の店の入 り口まで8メートル程ある。レイはゆっくりと左手にある酒屋の店舗に向かって移動を開始した。 自動ドアでは無いので素早く入れそうだからだ。ゆっくりと移動したレイだが3m移動した所で ダッシュした。一匹の猫が走り出したせいで残りの全ての猫がレイに向かってきたからだ。レイ は酒屋の引き戸を開き飛び込んだ。但し慌ててしまいつんのめって転んだ。慌てて立ち上がった が二匹の猫がレイのジンーズパンツの両足に一匹ずつ噛みついて来た。激痛が足にはしったが、 ともかく引き戸を閉めた。その時猫が一匹頭を挟まれて頭骨が折れて痙攣した。そのせいで出来 た隙間に他の猫達も頭を潜り込ませようとして来た。

「ぎゃぁぁ」

 レイは悲鳴とも咆哮ともつかぬ声をあげて、潰れた猫の頭を蹴りだして完全に戸を閉めた。戸 は少し凹んでいる部分に入り込んだので猫では開けられないだろう。
 悲鳴を上げつつ今度は手近な棚にあったワインの瓶を両手にとり二匹の猫の頭に叩きつけた。 二匹ともふっ飛び、左足に噛みついていた猫は頭が潰れたらしく血まみれで床で痙攣した。だが 右足に噛みついていた猫は瓶が割れてしまって衝撃が弱まったのか、ワインと血まみれに成って はいたがまだ生きていた。よろめきつつ立ち上がると店の奥の方に向かって行こうとする。

「うぎゅぁぁ」

 レイは絶叫と共に走り寄り、割れたワインの瓶の尖った先を猫の胴体に振り下ろした。また鮮 血があたりに撒き散らされ、瓶は猫に突き刺さった。猫は凄い勢いでもがき、床をくるくるとま わり辺りを血だらけにする。レイは今度は固いウォッカの瓶を手に取り頭に向かっておもいきり 振り下ろした。今度は効いたようだ。頭骨がひしゃげて潰れた猫は一瞬凄い痙攣を起こして床で 動きを止めた。レイはその猫を蹴り飛ばすとよろめいて尻餅をついた。頭が会計カウンターの板 に当たって一瞬ぼやけた。がすぐに正気に戻った。

「うぁあああぅぅぅぅいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 絶叫をあげるとワインと血で濡れたまま大声で泣きはじめた。相変わらず入り口の戸に外の猫 が体当たりしてうるさかったが、腰が抜けて動けなかった。

「ひぃ」

 カウンターを揺らしたせいか、瓶が一つ落ちて大きな音を立て、その音に驚いてレイは身体を 竦めた。ジーンズパンツの股間がみるみるうちに湿って、右足の内側に沿って伸びて行き、足元 から小便が漏れて水たまりを作りはじめた。失禁が止まらなかった。

「ひやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 レイは顔を覆って泣き続けた。




 一時間ほど後に、なかなか戻らないレイを心配に成ったカヲルが探しに来てくれた。一時間経っ てもまだしつこく店の前で粘っていた猫をEVで蹴散らし、それでも様子をうかがう二匹を念の ため持って来た自動拳銃で射殺した。視力は落ちていたが二十二口径で十五発入るそれを乱射し た為、十発で何とか射殺出来た。

「大丈夫かい」

 店に入ると既に猫の死体は死臭を発して鼻が曲がりそうに臭かった。カウンターに寄り掛かっ ていたレイは泣き疲れたのかぐったりしていた。入ってきたカヲルを見て立とうと手を伸ばした がそのまま横に倒れた。カヲルは慌てて近づき抱き起こした。レイは気が抜けたのかそこで失神 した。頭や胸や腹に出血が無さそうなのを見て取ったカヲルは、レイの右頬をつねった。

「痛い」

 レイは目を覚まして、右頬に手をやった。また派手に涙があふれ出した。

「ひどい」
「まだ猫がいる可能性があるから、僕の両手は開けておきたい。自分で立ってくれないかい」

 カヲルは手を伸ばした。泣きながらカヲルを見ていたレイだが、カヲルの手にすがってどうに か立ち上がった。

「掴まるならシャツの背中の辺りを掴んでくれないかい」

 レイはその通りにした。床の死体は出来るだけ見ないようにして、カヲルに掴まり戸の近くま で来た。

「いないようだね。戸を開けたらすぐにEVに移るよ。いいね」
「うん」

 レイは涙声で答えた。

「じゃ一二の三」

 戸を開けるとすぐ側に止めたEVに走ったがもう猫は辺りにいなかった。レイは後部座席にカ ヲルは運転席に飛び込むと戸を閉めた。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん」

 安心して気が抜けたのか、レイはまた大声で泣きはじめた。

つづく

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